島津重豪と薩摩の学問・文化 近世後期博物大名の視野と実践 (アジア遊学) [ 鈴木彰 ]

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時は風雲急を告げる幕末!!
西郷隆盛や大久保利通、大改革を担った逸材を生んだ薩摩藩の人材力!!
欧米列強と互角に渡り合った軍事力と外交力!!
あらゆる能力に抜きんでた薩摩藩は、江戸幕府の幕引きという大改革を成し遂げていきます。
どうしてそんなことができたのでしょうか?

鹿児島市にある照国神社・・・この神社は、薩摩藩の活躍を導いたある人物を祀るためにつくられました。
薩摩藩第11代藩主・島津斉彬公です。
その死後、孝明天皇により照国大明神という名をもらい、この地に祀られました。
国を照らすとまで言われた島津斉彬・・・
どんな人物だったのでしょうか?

島津斉彬は、江戸の薩摩藩邸で生まれました。
薩摩藩の未来の藩主として青年時代を送りました。
斉彬の人となりは・・・

”色が黒く、体格はお背が高く、横張りの頑丈なお方で、お正月のはじめなど
 「おめでとう」と、隅々まで通る大きな声で仰せられたものである。
 まことに威風堂々たるものであった”

人柄は穏やかで頭脳明晰、会えば雷に打たれたような印象を与えた斉彬・・・
斉彬が、日本の将来に強い危機感を抱く事件が中国で発生します。
アヘン戦争です。
イギリス軍の圧倒的な軍事力を前に、清が屈服したという知らせに、斉彬は衝撃を受けました。
斉彬自身がまとめた「清国阿片戦争 始末に関する聞書」では・・・
貿易を強引に要求し、相手国を植民地化する脅威を察知したことがわかります。

1851年、43歳で藩主となった斉彬は、すぐさま行動に出ます。
尚古集成館には、斉彬が取り組んだ大砲が再現されています。
それまでの大砲は、青銅で作られていました。
斉彬は、銅よりも安く強度の高い次世代の武器・・・鉄製の武器に取り掛かります。
そして、この鉄製の大砲が、飽くなき探求心の始まりでした。
青銅に比べて、鉄は高い温度で溶かさなければなりません。
青銅の大砲よりも高度な技術が必要でした。
オランダから反射炉を使った鉄の大砲づくりが導入されることとなります。
衝撃や熱に耐える良質の鉄を造ることができます。

佐賀藩の専門書を頼りに見たことのない反射炉の製作に取り掛かります。
失敗の連続の末に・・・5年の歳月をかけて反射炉が完成!!
斉彬は、溶鉱炉や鑚開台を作らせます。
大砲づくりのコンビナートを作ったのです。

斉彬の目標は、大砲だけでなく、西洋式の軍艦の建造。
貴重な情報源は、中浜万次郎・・・ジョン万次郎でした。
小型の様式帆船を建造し、それを発展させ、大砲を備えた日本初の大型軍艦「昇平丸」を作りました。

蒸気の力を動力とする蒸気機関は、当時の最新技術でした。
その開発に成功し、日本初の蒸気船を完成させます。
”薩摩の火だるま船”と、呼ばれ、ペリーの来た直後には完成していました。
斉彬が開発に成功したのは、ペリー来航からわずか2年後だったのです。
薩摩の技術力には驚かされるばかりです。

更に斉彬が取り組んだのが・・・「薩摩切子」・・・カットグラスです。
薩摩独自の産業にも力を入れた斉彬は、貿易による国力増強も考えていました。
軍備の強化だけではなく、人々の生活を豊かにする・・・富国強兵・殖産興業の先駆けだったのです。

未曽有の外圧を前に斉彬は・・・

「幕府も、諸大名も、これまでの一国一群単位の意識では、欧米の脅威から日本を守ることはできない。
 日本一致一体となって一応に高性能の軍備を備えて初めて、本当の防備が出来るというものだ」

西欧列強の脅威にオールジャパンで対対応していくことを提言した斉彬・・・そのキーワードが「日本一致一体」でした。
この後、どのようにこれを実現していくか・・・??薩摩藩の幕末は動き出したのでした。


16世紀後半のアジアの地図・・・
日本が曖昧な形の時代に、Cangoxina(鹿児島)が書かれています。
薩摩藩は、中世以来、交易の門戸を開き続けてきた海洋国家でした。
江戸時代を通じ、琉球王朝(沖縄)を統制下におき、鎖国の時代に、莫大な貿易の利益を得ていました。
鹿児島県日置市美山、薩摩焼の郷。
薩摩焼のルーツは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、島津家が優れた陶工を鹿児島に連れて帰ったことに始まります。
そこに、海洋国家薩摩藩の知られざる姿がありました。
他の藩も陶工を連れて来たものの日本人にしてしまいました。
しかし、薩摩藩は、朝鮮人技術者のみならず、彼らの言語を保護し、一カ所に住まわせ、朝鮮名を名乗らせ、朝鮮語を喋らせる・・・「リトルコリア」・・・保護区を作ったのです。
江戸時代を通じ、薩摩藩は鹿児島の朝鮮人陶工たちに髪型や朝鮮の言葉を使い続けることを許しました。
密貿易で薩摩にやってくる商人たちを、漂流民として扱い、幕府に報告していました。
そこに、海洋国家の薩摩のしたたかさがありました。
薩摩の人が船の修理のお代にもらった高麗人参は、富山の薬売りに高く売れました。
代わりに仕入れるのは、北海道産の昆布でした。
それを選別として朝鮮に渡し・・・彼らも地元に戻ってこの高級品を売りました。
広大な海の交易圏の中心に薩摩があったのです。
幕府に極秘に行われた密貿易・・・
それは、物資だけでなく、大陸からもたらされる最新の国際情勢や、技術、文化をいち早く入手することを可能にしました。
この海洋国家としてのDNAが、代々国際性豊かなリーダーを作り上げていくのです。

中でも・・・蘭癖大名・・・島津重豪。
ローマ字を書く重豪は、学問を重視し、天文館を設置、百科事典や辞書、世界地図を作成させ、文化力向上に努めました。
そんな重豪から将来を託されたのがひ孫の斉彬でした。
斉彬は18歳の時、重豪に連れられてオランダ商館付きの医師・シーボルトと面会・・・世界を見つめる目を茶しなっていきます。
斉彬もローマ字をマスターし、海の向こうの未知の文明を全身で学び取ろうとしました。
はるか中世から続く、海洋国家としてのDNA・・・それが、東アジアの小さな島国・日本の危機を見抜いた名君・島津斉彬をうんだのです。


寺島宗則(松木弘安)
鹿児島の中心・・・鹿児島中央駅前の銅像・・・タイトルは「若き薩摩の群像」
激動の時代に密かにイギリスに渡った薩摩の17人の留学生を顕彰しています。
メンバーの一人は、五代友厚・・・後に、大阪経済界を代表する実業家となります。
明治政府の初代文部大臣・森有礼。
なかでも名君・斉彬ととりわけ深いかかわりを持っていたのが、寺島宗則です。
明治の条約交渉で、日本外交に大きな功績を残した政治家でした。

元の名は、松木弘安。1832年に生まれ、優れた蘭方医の養父に育ちます。
語学力に優れた薩摩きっての秀才でした。
彼の力は藩も認め、医学の修行や最先端の蘭学にかかる費用は、全て藩が負担したといいます。
マルチな才能を持っていた松木弘安・・・蘭学、医学、文学、化学、物理学、天文学・・・語学の天才で、オランダ語が凄くできました。
期待したのは斉彬・・・。
オランダ語の翻訳から、反射炉の実験、蒸気機関の設計に至るまで、集成館に必要な技術の研究と実用化くぉ松木に一任しました。
期待に次々とこたえていく松木は、島津家別邸仙巌園では、庭園の石灯篭に石炭から精製したガスを使用しガス灯をともすことに成功・・・明治にガス灯が作られる15年も前の事です。

また、絹糸を巻いた電線を鶴丸城から庭園探勝円まで引き、550mの距離で電気通信に成功。
松木は日本の電気通信の父と称えられました。
写真術の研究にも没頭し、松木の飽くなき探求心に応え、斉彬は次々にミッションを与えていきます。
薩摩藩の近代化の夢に邁進していく二人がいました。
ところが・・・1858年7月16日島津斉彬死去。
大砲教練を視察した日に・・・50歳での突然の死でした。
藩主として7年・・・その悲報に、斉彬の薫陶を受けた者たちは涙しました。
松木は勉学を続けます。
開港したばかりの横浜で、外交文書の翻訳に従事しながら、斉彬の志を・・・西洋を研究していきます。
すると、その努力が認められ、幕府のヨーロッパ使節団の一員に選ばれます。
日本の未来を担う有能な存在を幕府がリストアップし、松木は海外諸国を歴訪する初めての薩摩藩士として参加します。
時に1861年、松木弘安30歳でした。
その中で松木を驚かせたのが、産業革命後高度な文明のイギリスでした。

「このヨーロッパ巡視の中で初めて知ったことがあります。
 オランダ国外に出れば、オランダ語を知る人は一人もおらず、
 イギリス、ドイツ、フランスに比べれば、百分の一以下の国でした。
 日本に戻ったのち、もはや蘭学を教える意味はないと思います。」by弘安

松木の視線は、オランダからイギリスに移っていきました。
斉彬の遺志を継ぎ、松木はヨーロッパを巡り、世界の中で日本の進む道を考える・・・
そして・・・それが、薩摩藩の窮地を救うこととなっていきます。


1862年松木がヨーロッパ視察から帰国・・・この年を境に、薩摩藩の藩の存亡の危機に・・・!!
この難局をいかにして乗り切っていくのでしょうか?
ピンチで発揮される薩摩イズムとは・・・??
斉彬の死後、その遺志を継いだのは弟・久光でした。
そこに、薩摩藩最大の危機・・・生麦事件が・・・!!
1862年8月21日生麦事件。
江戸から鹿児島へと帰還する島津久光の大名行列に、不用意にも近づいてしまったイギリス人一行を、薩摩藩の警護役が迷いなく斬りつけました。
一人のイギリス人青年が、死亡・・・するとこれが大事件に・・・。
イギリス側が、幕府と薩摩に賠償を要求。
犯人の処刑も求める強硬姿勢にでます。
その時、誤った情報が薩摩に伝わります。
「イギリスは、久光の首の差出を求めている・・・」
薩摩とイギリスとの激突は必至・・・!!
この時、イギリスとの交渉に薩摩が頼みの綱としたのが、語学力に長け、海外経験のある松木弘安と五代友厚でした。
1863年6月27日・・・イギリス艦隊が鹿児島湾に現れます。
その4日後・・・一向に動かない薩摩にしびれを切らし、薩摩藩の汽船3隻を捕らえようとします。
その1隻に松木と五代が・・・!!
薩摩の船を守るために、抗議する松木!!
しかし、船は拿捕され、二人はイギリス軍に拘留。
それをきっかけに、砲撃を開始する薩摩でしたが、イギリスとの火力の差は歴然!!
砲台や集成館が破壊され、鹿児島城下は火の海となりました。
薩英戦争です。
想定外の戦闘となってしまったイギリスは横浜に帰還。
松木と五代は捕虜として連行されてしまいました。
その後、薩摩とイギリスとの関係は・・・
そこには、もう一人の薩摩藩士の活躍がありました。
横浜で行われた薩英戦争の賠償交渉・・・英国代理公使・ニールと相対したのは、薩摩藩士・重野厚之丞。
重野も、斉彬の薫陶を受けた学者肌の藩士で、後に久光の庭方役をしていた切れ者でした。
イギリスとの難しい交渉に驚くべき提案をしています。
賠償をするので、その代わりにイギリスから軍艦を購入します。
さらには、軍艦操縦法を教わりたいので、若者を留学させたい・・・。と。
なんと、重野は、賠償問題だけにせず、両国の通商交渉へと変換させたのです。
思いもよらない提案に、虚を突かれたイギリスは、もともと望んでいたのでこの提案を受け入れます。
相手の本心をついて事態を打開する・・・これこそ、究極の薩摩イズムでした。

重野の功績で、薩摩とイギリスとの関係は急接近していきます。
この交渉の結果、留学生として再び海を渡ったのが、捕虜となっていた松木でした。
松木は五代友厚らと共に、1865年3月22日・・・イギリスへと向かいます。
この留学で松木はある任務を帯びていました。イギリスと薩摩との間で貿易協定を結ぶこと・・・でした。

最初に面会したのが、英国下院議員・オリファントでした。
来日経験もある知日派で、日本に同情的でした。
オリファントは、はるばる海を渡ってきた松木に言っています。

「我がイギリスが、貿易条約を結ぶ時、両国お互いに利益があるというのは、表向きの挨拶にすぎません。
 その本心は、あなたの国をむさぼり尽すことにあります。
 兵器を使って戦うのではなく、貿易による知略が、弾丸となることを知らなくてはなりません。」

オリファントから教わった、国際貿易の本質・・・松木に日本のあるべき姿が見え始めていました。

「我が国が諸外国と並立していくためには、国家最上の主君の目を覚まし、一人の新生児のようにならなくてはならない。
 天皇の指揮のもと、我国が一体となって他国と友好関係を築かなければ、独立は難しい・・・」

それは、斉彬が唱えた日本一致一体の発展形・・・天皇による中央集権国家への変革構想でした。
そして、松木は英国外相・クラレンドンとの会談に持ち込みます。
日本の条約批准権を幕府から天皇に移す構想を語り、その協力を求めました。
幕府の下に薩摩があるのではないのです。
イギリスから薩摩に戻ると、イギリス公使・パークスの鹿児島訪問に列席。
通訳をしながら、薩摩と日本がとるべき外交の道を探り続けます。
その時、松木は故郷に浮かぶ小島にちなみ、寺島宗則と改名・・・日本の未来のために尽くす外交官としての道を歩み始めます。
斉彬の唱えた日本一致一体を胸に、寺島宗則は、日本外交のパイオニアとなっていくのです。

薩摩の武士の伝統は、野太刀自顕流です。
一撃必殺で相手を倒すのが極意です。
維新の原動力となった多くの英傑も、この剣術のけいこに汗を流しました。
同じ志を持った先輩、後輩たちが同じ道を進んで行く・・・郷中教育です。
「郷中」という地域ごとに成立した集団教育で、西郷隆盛の郷中には、大久保利通、大山巌、東郷平八郎、黒木為楨がいました。
同じ郷中出身の者は、強い結束で結ばれていました。
そして、二才という15~25歳の元、6歳からの稚児たちが文武両道をたたき込まれていきます。
中でも特徴的なのが「詮議」と呼ばれるケーススタディ・ディスカッションです。
例えばお題は・・・
「目の前に、主君の敵と親の敵が同時に現れたら、どちらから成敗するか?」
不測の事態に陥った時、どうやって対処していくのか?
実践的な思考を養う伝統が、薩摩の英傑たちを生み出していきます。

薩英戦争の翌年、京都で大事件が起こります。
1864年7月、禁門の変です。
過激な攘夷論を掲げる長州と、それを暴挙と見なす薩摩、会津の幕府連合軍が御所の前で激突しました。
長州藩は、薩摩の軍事力の前に惨敗・・・御所に向かって発砲したことで、朝敵の汚名を着せられました。
この時、幕府側の陣頭指揮を執ったのが、西郷隆盛です。
生前の斉彬の遺志を継ぐ、薩摩きっての戦略家でした。

幕府は、西郷に命じ・・・第1次長州征討!!
かくして、西郷は、歴史の表舞台に躍り出ました。
日本に内乱の危機をもたらした長州を許すわけにはいかない・・・!!
無謀に攘夷を叫び、内乱の火種をまき散らす長州・・・そんな長州を断固討ち果たす覚悟でいました。
が!!そんな考えを一変させる情報が・・・!!
「幕府が忌み嫌っているのは、薩摩と長州の勢いです。
 幕府の真の狙いは、ここで薩長両藩を戦わせ、その力を消耗させようというもの。
 先鋒を務めれば、薩摩の災いとなるのは必至、徳川の思うつぼとなるでしょう。」
情報に接した西郷は・・・幕府の本当の狙いは、長州だけでなく、薩摩の力を削ぐことであると判断します。
そう悟ると、強硬路線から、急遽、長州との戦争回避策に方向転換します。

しかし・・・いきり立っている長州をどう説得するのか・・・??
すると西郷が放った探索方から突破口な情報が・・・!!
岩国藩主の吉川経幹が、長州の過激派に反対、幕府に恭順すべきだと内部分裂を起こしているというものでした。
一計を案じる西郷・・・
西郷の交渉術①穏便派を懐柔
吉川を取り込んで長州の過激派に揺さぶりをかければ、幕府との衝突を避けられるのでは・・・??
長州の分裂に乗じた一か八かの賭けでした。

1864年11月、西郷は岩国・吉川経幹と会談
幕府との戦いを避けたければ、禁門の変の首謀者である三家老の切腹など幕府と朝廷への謝罪の意を示すことを要求・・・
その代わり、西郷は捕虜となった藩士の開放や、朝敵となった長州の汚名返上に薩摩が力を尽くすことを誓います。
すると、吉川は過激派の説得に向かいます。
西郷にはもう一つの難問がありました。
幕府が提示した長州を許す条件に、過激派の本拠地・下関に匿われていた三条実美ら攘夷派の公家らの身柄開放がありました。
しかし、それに反対したのが、奇兵隊をはじめとする長州の民兵組織諸隊でした。
彼らにとって攘夷派の公家たちは、自分たちを正当化する存在・・・
むざむざと引き渡すわけにはいきませんでした。

西郷の交渉術②命を懸けた直談判
すると西郷は、自ら下関に赴き、諸隊との直談判に・・・!!
今、無防備に長州に乗り込めば、命の保証はない・・・!!
周囲の反対を押し切って、密談に・・・諸隊の説得に向かいます。
相手の意表をついて、懐に飛び込んで、自分の命を投げ出すことのできる人でした。
西郷以外にはあり得ないやり方でした。
長州藩の説得に成功!!
1864年12月27日、幕府軍撤兵!!
幕府は長州の恭順に兵を引いたのでした。
ここに、第1次長州征討は、未然に収束しました。
この時、西郷は、交渉の窓口となった吉川に驚くべき交渉をしていました。

「天皇を疎んじる幕府の非情の仕打ちは、許しがたい。
 西国の諸藩連合結成の折は、是非とも長州にも参上願いたい。」by西郷

後の薩長同盟の伏線でした。
内乱の危機を防いだ西郷・・・苦虫を噛み潰すように見ていたのは、一橋慶喜でした。

「幕府軍は、薩摩の芋焼酎にひどく酔わされ、してやられた!!
 その焼酎の銘柄は大島(西郷)とかいうらしい・・・」by慶喜

京都・・・幕末の薩摩藩の活躍は、この地を抜きには語れません。
薩摩藩の底力を支えたのは・・・まずは・・・京都南にある伏見。
薩摩藩伏見屋敷は、篤姫が江戸に向かう途中滞在したことでも有名です。
寺田屋から逃げて来た龍馬が助けを求めた場所でもあります。
江戸時代、伏見は人や物資、情報の一大集積地でした。
伏見は、参勤交代の重要地点で、薩摩は琉球使節団を連れてやってきました。
異国情緒漂う行列は、京都の人々の注目を集めたといいます。
上洛のチャンスに存在感を示す・・・したたかな戦略です。

二つ目は、洛中にありました。
薩摩藩にとって幕末の一大拠点となったのは・・・久光が政治的に立ち回りやすいように作った屋敷です。
現在の同志社大学の敷地にあった京都二本松薩摩藩邸。
造営されたのは1862年で、京都における薩摩藩の政治活動を支えました。
当時、この周辺は武家屋敷はなく、公家の屋敷が並んでいました。
そんな場所に、どうやって広大な屋敷を構えることができたのでしょうか?
大名の京都における政治の条件は、京都における公家との関係にあります。
近衛と島津・・・日本中世以来、関係の深い縁戚関係でした。
摂関家のTOPの公家・近衛家・・・この権威を朝廷工作に使ったのです。
近衛家の近くに藩邸があれば、極秘の任務にうってつけです。
これが、薩摩藩の政治活動に多くの利点をもたらします。
そして、周りにいる人にも威圧感を与えることができました。

御所の東には・・・薩摩の英傑のひとり・西郷隆盛の盟友・大久保利通が住んでいました。
大久保は、島津久光の側近で、当時の大久保の任務は朝廷工作でした。
薩摩藩への国政への影響力を強め、反幕府運動を展開する為に、公家との連携を深めていきます。
西郷隆盛も、大久保邸の近くに暮らしていました。
そして、薩摩藩邸の北西1キロほどのところに屋敷を構えたのが小松帯刀です。
諸説ありますが、近衛家の別邸・・・お花畑屋敷と言われていたこの場所に、薩摩の家老・小松が借りて住んでいたのです。
久光の名代として全権を任されていました。
この屋敷の治外法権・・・幕府の力の及ばないところを利用していました。
この小松邸で結ばれたのが、幕末最大の密約・・・1866年薩長同盟でした。
薩摩は長州との関係を急速に深め、反幕府体制を強めていきます。
小松はその誠実な人柄で幕府の人間にも信頼されており、過激な西郷や大久保を御しながら、新体制樹立を模索します。
西郷や大久保、小松・・・薩摩屈指の人材が集結した幕末の京都・・・ここから日本の大変革が始まるのです。

幕末の動乱は、最終局面へ・・・。
徳川慶喜に突き付けられる大政奉還、密かに進められる武力討幕・・・
電光石火の突破力がものをいいます。
幕末も押し迫った1867年5月・・・西郷が島津久光に送った3メートルに及ぶ建白書。
その中で西郷は、徳川も一大名となり、諸大名と共に天皇を補佐する体制をつくるべきだと進言します。
そのための政権返上の建白を行ってもらいたいと久光に訴えます。
島津斉彬が掲げた日本一致一体の理想・・・。
その西郷たちが、どうして徳川を排除した中央集権国家をつくることになっていくのでしょうか?

1866年6月、日本を再び内乱の危機が・・・
幕府に謝罪したはずの長州が、再び軍備を増強!!
この事をかぎつけた幕府が再び征討へ・・・しかし、一度謝罪した長州に出兵するなど不当な戦いだと薩摩藩は出兵を拒否。
薩摩の軍事力を失った幕府軍は惨敗し、権威を失墜します。
第2次長州征討失敗!!
その背景にあったのは、小松帯刀の采配でした。
幕府には極秘に薩摩名義でイギリスから大量の洋式銃を購入。
それを長州に流していたのです。
ところが、その半年後、西郷たちの前に巨大な壁が・・・!!
その政治手腕の高さから、家康の再来と言われた慶喜が、第15代将軍に・・・!!
慶喜は、失墜した幕府の権威回復に、次々と手を打ちます。
フランスからの支援の下、幕府の軍備の近代化を図ります。
薩摩と繋がるイギリスとの関係強化も画策します。
さらに、外交問題にも類まれな能力を発揮!!
当時、欧米列強との間での問題となっていた兵庫の開港。
慶喜は、外国との貿易利権に繋がる決断を、幕府の力のみで実現しようとします。
そして、1867年5月24日、誰もが不可能だと見ていた兵庫開港の勅許をえるのです。
将軍慶喜の名は、日本の新しい君主・大君として知れ渡り、指導者としての力量が高く認められることとなります。
時代の風向きが徳川に向き始める・・・??
焦燥感を抱き始める西郷たち・・・兵庫開港勅許の5日後の5月29日、薩摩藩邸で重臣会議を招集した小松帯刀。
形勢逆転に打って出ます。
徳川に政権返上を迫るために硬軟織り交ぜた計画でした。
この強硬策の大一手が、大政奉還。
黒船来航以来、幕府の政治力の衰退は明らか・・・
将軍慶喜に、朝廷に政権を返上するように求め、天皇のもと、諸大名が挙国一致で国政に当たる新体制の樹立を・・・!!というものでした。
その裏で、西郷と大久保は違う策を練っていました。
8月・・・長州との密談で明かした秘策・・・京都・大坂・江戸の三都同時挙兵計画でした。
京都藩邸の1000人を三手に分け、一手は天皇を確保、一手は会津邸、一手は幕府駐屯所を襲撃、国元からは3000人が出兵し、大坂城、大阪湾の軍艦を焼き払う!!
江戸にいる1000人は幕府軍の上京を阻止する!!
この時、西郷と大久保は、慶喜は大政奉還を拒否すると踏んでいました。
その時は、武力をもって政権返上を要求する!!
もし、失敗したら、薩摩藩の存在が危ぶまれる危険な策でした。

そんなこんなが水面下でうごめいていた頃、薩摩藩のリアリズムを象徴する暗殺事件が・・・
暗殺されたのは、イギリス兵学の専門家であった信州上田藩士・赤松小三郎でした。
京で私塾を開き、その評判から薩摩藩が兵学の師として登用していました。
西郷たちの武力蜂起計画を知るや否や、反対する赤松!!
しかし、西郷たちは止まることはなく・・・失意の赤松は上田に帰ることに・・・。
薩摩の出兵計画は、会津と二条城を襲うこと・・・赤松が薩摩から離れたときに、情報が漏れる可能性がある・・・。
回避するためには命を奪うほかない!!
薩摩藩だけではなく、会津、幕府とも通じていた赤松・・・いかに信頼できる人物であったとしても、内情を知るものを放ってはおけない・・・赤松が殺害されたのは、薩摩主催の送別会の帰りの事でした。
そこには、薩摩の冷徹なまでのリアリズムがそこにはありました。

ところが・・・驚天動地の事態が・・・!!
1867年10月14日、景気が大政奉還を表明!!
将軍自ら260年の幕藩体制に終止符を打って・・・政権返上をしたのです。
武力討伐の大義名分が無くなってしまいました。
しかし、慶喜の狙いはその先にありました。
幕府に代わる新体制がつくられたのち、自分もそこに加わり、日本の近代化政策に自らの政治手腕を発揮したい!!
西郷と大久保は、慶喜に対する警戒を強めます。
新政府が誕生しても、そこに慶喜が参加した場合、政治の主導権は、能力の高い慶喜に再びわたる可能性がありました。
一方、突然の政権返上に、公家たちは動揺するばかり・・・
諸大名からも慶喜の手腕に期待する声が・・・
その状況に西郷たちは、新体制から徳川を排除しなければ、本当に日本が生まれ変わることにはならない・・・

1867年12月9日、京都の薩摩藩邸から西郷率いる1,000人の兵士が、近衛邸を通って御所に侵入し、慶喜を排除した新政権の樹立が強引に宣言されました。王政復古のクーデターです。
その前日、西郷はこんな言葉を残しています。

「二百有余年の太平の旧習に、汚染仕り候人心・・・
 一度干戈を動かし候て 反て天下の耳目を一新・・・
 戦いを決し候て 死中活を得るの御着眼」

その後、時代は怒涛の中を突き進みます。
鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争・・・激しい衝突を経て明治の日本は産声をあげます。
幕末の大変革・・・それは、時代のうねりに挑み続けた西郷たちの執念の結晶でもあったのです。

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