【中古】 楠木正成と悪党 南北朝時代を読みなおす ちくま新書/海津一朗(著者) 【中古】afb

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鎌倉幕府の滅亡から南北朝時代に至る歴史を描いた軍記物「太平記」。
楠木正成の生涯は、ここに書かれた晩年の5年以外はほとんどわかっていません。
正成は鎌倉幕府を滅亡させ、後醍醐天皇の建武の新政を実現させる原動力となった人物でした。
その戦い方は型破りなものでした。
当時の常識からは考えられない戦いで、僅かな手勢で大軍を翻弄します。

「知謀を用いれば、幕府軍など恐るるに足らない。」

まさに、戦の天才でした。
しかし、本人がどのような思いを抱き、何のために戦っていたのか?それは謎です。
突然、歴史の表舞台に登場して活躍しますが、実像は何もわかっていません。

かくたる資料の残っていない楠木正成・・・どのような立場の人間だったのでしょうか?
かつて正成は悪党と呼ばれる鎌倉幕府と対立した武装集団だと考えられてきました。
しかし近年、鎌倉幕府に仕える御家人のひとりとされています。
それではどうして幕府を倒そうとしたのでしょうか?

正成は、鎌倉時代末期の1294年?に、河内国に生まれています。
正成とゆかりのある河内長野の観心寺・・・少年時代この建物で、学問を学んでいたといいます。

この頃、人々の暮らしは困窮していました。
きっかけは2度にわたる元寇・・・御家人たちは、重い負担に耐え戦ったにもかかわらず、ほとんど恩賞を得ることはできませんでした。
その影響が、社会全体に広がっていました。
鎌倉幕府の執権・北条孝時は、政治に興味がなく、田楽、闘犬に興味を持っていました。
鎌倉幕府は、東国の武士を中心とした武家政権です。
組織の末端にいて、正成は、恩恵を受けていなかったのでは??
西国の武士である正成は、東国中心の幕府に不満を持っていたのではないか??
正成は、武士であるとともに土地の利を生かして商売をしていたようです。
河内は川と川に挟まれ、交易が便利なところでした。
運送業の元締めをやっていたと思われます。
城を持ち、兵士がたくさんいる鎌倉武士とは全く違う武士だったのです。
この頃、交易は人々にとって重要な収入源となっていました。
しかし、鎌倉幕府は関所を設け、税金を取ろうとしました。
幕府に対する人々の不満は募っていきます。
そんな中、打倒鎌倉幕府と挙兵したのは後醍醐天皇でした。
1331年、正成38歳の時、建武の新政!!
天皇が直接国を支配する体制を復活させるのが狙いでした。
謎だった正成の生涯も、ここからの5年間は多くの資料が残されることとなります。
河内周辺で名が知れ渡っていた正成は、天皇に呼び出されます。
この時、正成は
「天下統一を目指すには、武力と知謀の2つが必要です。
 知謀を用いれば、武力に強いだけの幕府軍など遅るるに足らないでしょう。」と言ったとか。
正成は、地域に閉じこもらず、京都(六波羅探題)に頻繁に出入りしました。
その中で、天下の動静をいち早くわかっていたのです。
「鎌倉幕府はもう長くはない・・・」と。
鎌倉幕府から寝返り、後醍醐天皇にかけてもおかしくはありませんでした。

幕府への不満を自分だけでなく、畿内・西国の武士や民衆がもっている・・・
そういう人たちが、正当に評価される新しい社会を望んでいたのです。

後醍醐天皇が挙兵したのは京都にある笠置山。
鎌倉軍はこれを取り囲むように・・・正成はその背後をつくかのように、地元赤坂城で挙兵しました。
しかし、2週間後には後醍醐天皇のいた笠置山が陥落!!
大軍が赤坂城へ・・・!!
対する正成の手勢は僅か500!!
幕府方はつぶやきます。
「哀れな敵の有様や。
 こんなにわか作りの城では一日も持つまいよ。
 楠木の首をとって恩賞に預ろう。」
それでも正成の軍は奮闘、相手を寄せ付けません。
そこで幕府軍は、城を包囲し、兵糧攻めに・・・十分な食料を蓄えることができていなかった正成・・・ついに、自ら城に火を放ちます。
しかし、これも正成の計略でした。
自害したと見せかけ、再起するための時間を稼ごうとしたのです。
かつて、後醍醐天皇に正成はこう宣言していました。
「合戦の一時の勝ち負けを重視なさらず、たとえ負けてもこの正成が生きている限り、天皇の御運は必ず開くと思っていただきたい。」

1332年・・・赤坂城の戦いから1年・・・再び楠木正成が歴史の表舞台に・・・!!
そして、ありとあらゆる戦術で鎌倉幕府軍を翻弄し、戦の天才を見せつけます。

戦術①偽装工作
正成の最初の狙いは、赤坂城の奪還でした。
目をつけたのが兵糧部隊でした。
正成は兵糧部隊を襲うと、俵に武器を隠し、相手から奪った武具を味方につけさせ、城から見えるところで兵糧部隊が襲われているふりを演じさせました。
城にいた軍は、味方が襲われていると救援に・・・偽の兵糧部隊は城内に・・・
兵糧部隊は、隠してあった武具で城内をかく乱!!
正成はあっという間に赤坂城を奪い返しました。
その後、周辺地域を制圧した正成は、1333年鎌倉幕府の出先機関・六波羅探題のある京都へ・・・。
知らせを受けた鎌倉幕府は精鋭部隊500騎を出します。
正成軍2000・・・。
相手の数の少なさを知った部下たちは真っ向勝負を主張します。
しかし、正成は・・・
「わずかな軍勢で攻めて来るからには、生きて帰ろうとは思っていないはずだ。
 そんな相手と戦ったら、味方の大半は必ず討たれる・・・。」
正成はすぐさま撤退。

戦術②心理作戦
夜・・・幕府軍のいる山々に何万ものかがり火が・・・緊張が走ります。
「正成の大軍に取り囲まれている・・・」
しかし、せめては来ませんでした。
翌日の夜、またもや何万ものかがり火が・・・。
さらに次の夜も・・・眠ること出来ない幕府軍は、疲労がたまり撤退していきました。
このかがり火は、正成は地元の農民5000人を動員して演出したものでした。

「優れた武将は、戦わずして勝つ」

苛立ちを募らせた鎌倉幕府は、正成を討つために大軍を送り込んできました。
正成は、金剛山にある千早城に立て籠ることに・・・
攻め寄せる幕府軍2万5000!!
これに対し、正成軍は僅か1000!!
1333年、40歳の時、千早城の攻・・・。
ここで正成は、今までの常識とはかけ離れたゲリラ戦を展開します。

戦術③ゲリラ戦
これまでの戦いは、「我こそは・・・」と名乗りをあげて一騎打ちをするのが常でした。
が、正成は真っ向勝負をしようとはしませんでした。
敵が攻め寄せてくると、弓で大量の矢を浴びせかけます。
相手が城にのぼろうとすると、丸太、岩を落とします。
更には、煮立った油や糞尿までも浴びせました。

自分の戦力は素人の戦力・・・素人が一番強いのがゲリラ戦だとわかっていたのです。
ゲリラは山岳地帯・・・身を隠しながら、敵の動きを封じて叩く!!
複雑な地形や道を選び、そこに敵を誘い入れ叩く!!
相手が警戒して敵が近づかなくなると・・・

「それなら相手を騙して目を覚まさせてやる!!」

戦術④だまし討ち
正成は夜中に大量の藁人形を城の外に出します。
城内の兵が打って出たと思った幕府軍は、猛烈な勢いで襲い掛かります。
しかし、そこに・・・大量の岩が・・・。
幕府軍は、止む無く兵糧攻めにすることに・・・。
ところが、一向に効果が出ません。
正成は、兵糧攻めに対して、万全の準備をしていたのです。

戦術⑤兵糧攻めへの対応
まず、水は城内に300の水桶を用意し、金剛山の隠された水源から十分に確保していました。
食糧は、山の抜け道を利用し、周辺の村々から調達していました。
やがて驚くべき事態が・・・幕府軍の方が飢え始めます。
正成が近隣の住民たちに幕府軍の補給部隊を襲わせたのです。
幕府軍の兵士たちは、戦意を失い、戦場を離れる者もあらわれました。
千早城の攻防が始まってから3か月・・・幕府は大軍を送り込みながら、僅か1000人の城を落とせずにいました。
この噂は、諸国を駆け巡り、幕府の権威を一気に失墜させることに・・・。
そして、幕府の有力御家人だった足利尊氏が反旗を翻し、京都の六波羅探題に・・・。
同じく、有力御家人だった新田義貞が鎌倉を攻めます。
こうして、鎌倉幕府は滅亡したのです。

鎌倉幕府が滅亡したのち、後醍醐天皇による天皇主導による政治が復活しました。
建武の新政です。
しかし、まもなく共に鎌倉幕府を倒した足利尊氏が後醍醐天皇に反乱を起こします。
この時、楠木正成は後醍醐天皇側につき、足利尊氏と対峙することに・・・。
どうして正成は、尊氏と対立する道を・・・??
正成は、下級武士であったにもかかわらず、河内・摂津を授かりました。
さらに、新政権の中枢を担うという破格の待遇でした。

「こうしてめでたく幕府に勝てたのは、お前が私の味方として戦ってくれたからだ。
 心から礼を言う。」by後醍醐天皇

「我々の力ではなく、全て天皇の徳によるものでございます。」by楠木正成

正成は、戦いで亡くなった味方を弔うために、慰霊碑を立てたといわれています。
さらに、敵の兵を弔うための慰霊碑も・・・。
しかも、味方の慰霊碑よりも大きいものにしました。

1334年建武の新政が始まりました。
後醍醐天皇は、綸旨を次々とだし、社会の改革を進めようとします。
しかし・・・それは、人々の期待を裏切るものでした。
一刻も早く天皇の権威復活を目指す後醍醐天皇は、天皇の暮らす内裏を造営・・・
その費用を賄うために、農民に従来より重い年貢を課すことに・・・。

「幕府が滅亡して暮らしが楽になると喜んでいましたが、今は昔より重い年貢や労役に苦しんでいます。
 自分たちの暮らしはどうなるのでしょうか?」

討幕に加わった武士たちも不満を募らせていきます。
公家に対して恩賞が手厚かったのに対して、武士への恩賞は僅かでした。
そして、従来所有の土地に対しても新たに綸旨が必要ででした。
結局、武士たちは、綸旨を求め天皇の元へ殺到!!
政府は混乱し、一度認められた土地が没収されることも・・・。
こうした中、社会は乱れ、御所の近くに落首が立てられるほど・・・。

この頃都にハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨

後醍醐天皇自身が、手段は構わないので天皇の権威を再構築しようと綸旨を乱発し、結果的には綸旨の権威を失わせ・・・それは、天皇自身の政治的権威を失墜させることとなったのです。

1335年、正成42歳の時に、足利尊氏が、武士たちの不満を背景に後醍醐天皇に反旗を翻しました。
そして、京へと攻め上っていきます。
後醍醐天皇は、すぐに綸旨を出しました。

「足利尊氏たちが、反逆を企てているので、征伐されるべきである。」by後醍醐天皇

正成は、後醍醐天皇の言葉に従って、尊氏軍を迎え討つことに・・・!!
正成と一緒に戦った人たちは、家来ではなく仲間で、一方的に命令することはできません。
個人で判断できるなら、尊氏につくという選択もあったでしょうが、それは仲間を裏切る形となってしまうので、正成にはできませんでした。
尊氏は、与えられた時代の中で、自分の立場をよくわかっていました。
正成は、時代の中で何が自分に要求されているのか・・・社会との関係でものを考えるのではなく、自分との関係でものを考えていました。 
後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏、あくまで天皇の味方をする楠木正成・・・二人の戦いが始まりました。
そして、正成は尊氏を追いつめます。
正成はあえてとどめを刺しませんでした。
九州へ落ち延びていく尊氏・・・。

楠木正成最後の戦いとなった湊川の戦い・・・
足利尊氏軍35,000に対し、楠木正成軍700!!
それは、死ぬことを覚悟した戦いでした。
どうして死ぬことを選んだのでしょうか?
尊氏を撃退した時、正成は不思議な光景を見ます。
敗走する尊氏軍に味方が追従していたのです。
戦いに勝利した正成は、後醍醐天皇の一つの策を進言します。
正成と共に後醍醐天皇に従っていた新田義貞を討ち取ったうえで、足利尊氏を召し出し和睦せよというのです。

「尊氏は、西国の武士たちを味方につけ、一月後には京都へ攻め上がってくるでしょう。
 その時は、彼らの進撃を止めるすべはありません。
 天皇の武士でさえ、尊氏について行ってしまいました。
 これを見て、天皇の徳のなさを思い知って下さい。」by正成

正成は、天皇に武士から尊敬を集める尊氏を、是非味方につける必要があると訴えます。
正成は、足利尊氏を人間的に評価していました。
だから、足利と組めと・・・足利を呼び戻し政権にいれれば、なんとか持ちこたえて、崩壊を免れると考えていたのです。
しかし、正成の進言が受け入れられることはありませんでした。
正成の予測通り・・・
1336年、正成43歳の時に尊氏が西国の武士を味方につけて、再び挙兵!!
この時、新田義貞の軍が兵庫で尊氏を迎え討つことに・・・。
そして、正成にも新田軍と戦うことを命じられます。
それではk地目がないと感じた正成は、別の案を提案します。

「尊氏軍は、これまでにない雲霞のごとき大軍でありましょう。
 そのため、新田を京都へ呼び戻し、天皇は比叡山へお移り下さい。
 そして、尊氏軍を空の京都へ誘い込んで、兵糧攻めにし、南北から挟み撃ちにすれば、勝利出来ましょう。」

しかし、天皇の側近の一人が言い放ちます。

「戦いもせぬうちに都を捨てて、比叡山に逃れることは、天皇の権威失墜につながる。
 これまでのこちらは大軍を退けてきた。
 それは武士の戦略によるものではなく、ひとえに天皇の御運が天命にかなっているからである。」と。

正成は、最後にこう言い残しました。

「この上は、異論を申すまでもありません。
 天皇は大敵を打ち破る策を立て、勝ち戦に導くというお考えではなく、討ち死にせよとのご命令なのですね。」

正成は、討幕戦の主力でありながら、尊氏が兵を進める際には新田義貞が総大将・・・。
その点で、排除されているという孤立感がありました。

1336年5月25日、正成は、湊川で尊氏軍と激突!!
3万5000の尊氏軍に対し、正成軍は僅か700!!
圧倒的な兵力の差にも関わらず、6時間もの間戦い続けたといいます。
そして正成は、生き残った70名ほどの部下と共に、民家に逃げ込みました。
最期の時・・・正成は共に戦い続けてきた弟に尋ねます。

「生まれ変わったら、何を望む?」

「七度生まれ変わっても、同じ人間に生まれ、朝敵を滅ぼしたい。」

「その望みは同じだ。
 すぐさま生まれ変わって、この願いを遂げよう。」

二人は、お互いを刺し合い果てました。
正成、43歳でした。

楠木正成、最期の戦いとなった湊川の戦い・・・
その直前、正成は共に戦いたいという正行に、地元・河内に帰るように命じました。
桜井の別れです。

「一族の誰でも生き残っている間は、命を投げ出して戦い、後代に名誉を残しなさい。
 それが、お前にできる親孝行だ。」

正成の死後、後醍醐天皇は奈良の吉野に逃れました。
これに対し、尊氏は京都で別の天皇を擁立。
二人の天皇が並び立つ、南北朝時代が始まります。
対立が続く中・・・南朝の後醍醐天皇崩御(1339年)。
そこに現れ、南朝のために力を尽くした武将がいました。
正成の息子・正行でした。

武家と天皇の狭間で死んでいった楠木正成・・・
その後の時代の移り変わりを、どんな思いで見つめていたのでしょうか?


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