不屈の春雷(上) 十河信二とその時代 [ 牧久 ]

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新幹線の父・十河信二~技術立国への不屈の戦い~

2016年3月、遂に北の大地に新幹線が上陸しました。
これで北海道から九州まで、新幹線で一つに繋がりました。
最高時速320キロ、最先端テクノロジーによる安全性・・・技術立国日本の象徴の新幹線。
その原点は・・・??
1964年10月1日、東海道新幹線の開通でした。
敗戦国日本が、欧米と肩を並べるまでに復活した証でした。

十河信二・・・新幹線を構想し、実現させた男です。
国鉄総裁に就任したときは71歳でした。
熱血漢で怒鳴り散らす・・・典型的な明治気質の頑固おやじでした。
新幹線開通までの道のりは苦難の道程でした。

1955年5月20日、十河信二は第4代国鉄総裁に就任します。
それは、嵐の中の船出でした。
敗戦から10年・・・日本は力強く復興しようとしていました。
国鉄の輸送量は、旅客が戦前の3倍、貨物が2倍に達していました。
しかし、列車は、戦時中に作られ、罹災したものが多く使われていました。
このままでは膨張する経済を支え切れなくなる・・・
中でも、東海道線は、将来パンクすると考えられていました。
そんな中、大事故が相次いで起こります。
1951年横浜桜木町駅の近くで、列車火災が発生し、100人を超える人が犠牲となりました。
3年後の1954年、青函連絡船・洞爺丸が沈没・・・
翌年、国鉄宇高連絡船の紫雲丸が沈没・・・修学旅行生ら168人が亡くなりました。
国民の信頼を失った国鉄。。。

大事故の責任を取って、国鉄総裁が相次いで辞任します。
次の総裁には、国民の不信感を払しょくし、国鉄を再建する力量が求められました。

「国民から信頼されていない国鉄から総裁を選ぶことはない!!」by三木武夫運輸大臣

財界の大物たちが総裁の椅子を打診されますが・・・誰も首を縦に振りませんでした。
遂に、政府は前言撤回、国鉄OBにも声をかけ始めました。
そして・・・白羽の矢が立ったのは・・・十河信二・・・戦前、旧国鉄の経理局長、南満州鉄道理事などを歴任し、辣腕を振るった鉄道界の重鎮でした。

「国鉄は、45万人を抱える日本一の大組織・・・この再建こそが、日本を本当の意味での戦争から立ち直らせることになる!!」

嵐の中で、大組織のかじ取りを任された十河・・・その十河には、壮大なプロジェクトが秘められていました。
新幹線です。

「鉄道は、新進気鋭の自動車や飛行機の出現によって、斜陽産業のレッテルを貼られてしまった。
 いまや、第二産業革命の時代となって、新しい技術を取り入れて、生まれ変わらなくてはならない。」

十河の構想した新幹線・・・そのビジョンは・・・
従来の技術では、最速でも5時間半はかかる東京⇔大阪間を、時速200キロで2時間40分に短縮する!!というものでした。
地平線上を飛ぶ船舶・・・巨大な船を飛行機の速さで走らせようというのです。
時速200キロは、小型飛行機の速度に匹敵します。
おまけに、船のように、一度に1000人を運ぶことができる!!

これは、それまでの国鉄に根本的な変化を求めるものでした。
日本の既存のレール幅は狭軌(1067mm)・・・それに対し、欧米の殆どの国では広軌(1435mm)でした。
広軌の方が、大きな車両を乗せることができ、輸送量も大きいのです。
走行時も安定するので、スピードも出せます。
日本に鉄道が敷れたのは、明治5年・・・1872年の事。
イギリス人技師の元で、南アフリカなどの植民地で敷かれていた狭軌が採用されたのです。
高速列車を走らせるためには、狭軌を広軌に変えなければならない!!

「私は、東海道新幹線の建設を、最も緊急な重点政策であると決定した。
 東海道線が、輸送力の限界に達し、複線の要求せらる今日この際こそ、広軌改築の唯一の残された機会であって、この機を逃しては悔いを千年の後世に残すことになる。」

第一の壁・・・国鉄内部の抵抗

総裁就任から1年・・・十河は国鉄内に東海道新幹線増強調査会を立ち上げます。
限界に近付きつつある東海道線の輸送能力をどうするのか??
十河は新幹線の建設によってその問題を解決する覚悟で・・・幹部たちが賛同してくれることを望んでいました。
1957年1月23日 第4回東海道新幹線増強調査会
しかし、何度魏路を重ねても、幹部たちは新幹線に同意しませんでした。

狭軌のまま増強でもいいのでは??

最も強硬に反対したのは常務理事の藤井松太郎でした。
国鉄で土木工事のスペシャリスト・・・人望も厚く、後に第7代国鉄総裁となる人物です。
藤井は自らの考えを十河に断りなく新聞に発表しています。

「狭軌の線路を増設することで、現在8時間かかっている東京⇔大阪間を5時間半で走ることができる。
 複々線化で混雑が解消し、スピードアップを図れる。
 技術的にも、予算面でもこれが最も現実的だ!!」と主張しました。

鉄道に革命を!!スピードを求める十河に対し、行き過ぎた冒険としか思えない幹部たち・・・!!
何としても新幹線を実現させる!!

日清日露の戦争を経て、日本は中国に進出!!
南満州鉄道が設立されました。
1930年、十河は満鉄の理事となります。
十河には、満鉄経営を通して、新しい国づくりを進めるという夢がありました。
が・・・意に反して、日中戦争が泥沼化!!
和平を唱える十河と軍部との対立が深まっていきます。
54歳で失意の帰国・・・敗戦・・・祖国を破滅させてしまったという痛恨の思いだけが残りました。

国鉄を復興させ、日本を復興させるためには、在来の東海道線増強・・・その程度ではダメなんだという確信が・・・敗戦国日本をもう一度よみがえらせるには、非常に大きなモチベーションを持っていました。

第5回東海道線増強調査会で・・・広軌か、在来線の補強か・・・??
狭軌による在来線の補強に傾きかけたとき・・・9か月に渡った調査会を十河自らの手で打ち切ります。
新幹線による日本の復興は、失敗するわけにはいかない・・・。
追いつめられる十河・・・1957年5月、東京で講演会が開かれました。
「東京ー大阪間3時間への可能性」・・・この講演会が突破口となります。
十河は、就任以来、費用をつぎ込んで鉄道総合技術研究所を支援していました。
講演会を企画したのは、その企画者たちでした。
十河の情熱に応えようとしたのです。

5月30日講演会は、500人収容の会場は満席で外にも人が溢れていました。
技術研究所の篠原所長は呼びかけます。
「東京大阪間を3時間で走ることは、技術的に十分可能です。
 それを実現するべきかどうかは、それは、みなさん自身で考え、判断することなのです。」
当時、最速の特急でも、時速100キロに達していなかった・・・それが2倍の速さで、乗り心地も安全性も抜群・・・みんなが興奮しました。

講演は、新聞でも大きく取り上げられます。
世界一の超特急が、敗戦から20年も経たないうちに、日本でできる・・・??
しかし、この公園を聞いた国鉄幹部はほとんどいませんでした。
そこで、急遽国鉄本社で、幹部全員の出席のもと講演を再現させます。

国民が新幹線の実現を求めている・・・
幹部たちも、これ以上の抵抗はできませんでした。
新幹線計画が始まりましたが、国鉄が巨額の予算をかけ新しい事業をするためには、政府の承認が必要でした。
早速運輸省に、上申書を提出することに・・・
中心となったのは、技師長の島秀雄でした。
D51をはじめ、昭和を代表する蒸気機関車を手掛けた設計技師でした。
この上申書には、新幹線の工事費用の概算が記されていました。
その額は、ゆうに3000億円を超えていました。
3000億円は国の予算の1/4・・・。
数字を見ただけで、国会議員は狭軌複々線でやれと言うに違いない・・・。
半分で計画書を作るように、十河に言われます。

国家のためになるはずだ・・・

半分の予算で、本当に新幹線を作るつもりだったのか?
あるいは、予算を増額する場合打つ手を考えていたのか??

「十河信二という人は、えらいことをするものだ。
 大変な度胸だと思った。」by島秀雄

第二の壁・・・政治家の説得

技術研究所の講演から一月後・・・運輸省に上申書が提出されました。
幹線調査会が設立され、新幹線が政府レベルで動き始めました。
しかし、新幹線の実現までにはまだまだでした。
幹線調査会が結論を出すのに1年。
交通関係閣僚会議・・・閣議・・・決定と、計画が見直されることも十分にありました。

十河は手をこまねいているわけではなく・・・有力政治家に根回しをします。
満州時代から親交のあった岸信介、後輩で大蔵大臣の佐藤栄作、同じ四国出身の三木武夫など、政治要人、有力政治家の元を訪れて説得します。

しかし、十河の説得を受け付けない政治家がいました。
河野一郎です。
この頃、経済企画庁長官や、自民党の総務会長をしていました。
河野は道路の河野と言われ、新幹線のライバルの高速道路に力を入れていました。
戦後、欧米では鉄道が斜陽となり、自動車が台頭してきていました。
それは日本にも押し寄せ・・・1954年の第1回全日本自動車ショウには、50万人が押し寄せました。
国民の期待が高まっていました。
さらに、建設資金をめぐって、高速道路と鉄道が限られた財源を奪い合う事態が進行していました。
財政投融資です。
河野は新幹線に対抗心を燃やしていたのです。

国の全体的な財政投融資計画を増やさない限り、国鉄には融資できない・・・
おまけに、経済政策の面からも増やしてはいけないと・・・。
それでも、十河の河野一郎への働きかけは続いていました。

居留守・・・無言・・・しかし・・・

「老体に鞭打ち、朝駆けを繰り返す十河に根負けした、会おう。」

会談はすぐに行われるものの・・・強硬な河野一郎。

「党の政策として取り上げてくださるなら、何も申し上げることはございません。」

十河は、新幹線ができるなら、それは国鉄でなくてもいい・・・
国鉄の為ではなく、日本のために新幹線を・・・!!と訴えました。
河野はついに、新幹線建設に邪魔はしないというのでした。
その年の暮れ閣議決定、1959年4月20日、遂に東海道新幹線着工!!
しかし、最後の難題が残っていました。

第三の壁・・・世界銀行との交渉
着工の翌月・・・東京五輪開催が決定!!
日本の復興ぶりを見せつける絶好の機会でした。
それまでに東海道新幹線を・・・!!
問題は建設費でした。
申請し認められたのは、実際の予想額の半分・・・
用地買収や人件費、資材・・・いつ工事が頓挫するとも限らない。。。

アメリカワシントンに本拠を置く世界銀行。
戦後復興と開発途上国の経済発展を支援する為に、資金を低金利で貸し付ける国際金融機関です。
すでに日本は、関西電力の黒部第四ダム、八幡製鉄所・戸畑工場などで融資を受けていました。
十河は世界銀行に対し、1億ドル・・・当時の金額で360億円の借款を申し込むことにしました。
世界銀行がこれまでに日本に行った融資の最大規模です。
しかし、狙いはもう一つ・・・世界銀行の借款には、その政府が事業を完成させる責任を持つという条件がありました。
新幹線が、日本の世界に対する公約となるのです。
政府は補正予算を組んで補填しなければならなくなる。。。
半額予算で通しておいたものを、最後に補正予算を組ませるには、政府が完成を保証する世界銀行借款条約がなければ、補正予算は組めないのです。
だから、世界銀行借款はマスト、東海道新幹線を半額予算でスタートさせた以上、マストだったのです。
交渉は簡単ではありませんでした。

時速200キロは本当に出せるのか?
日本の経済発展に寄与するのか?
安全性は・・・??

最も懸念されたのは、安全性でした。
融資した側の責任も問われるからです。
新幹線は、安全性が実証された在来線の技術で作る。。。と、説明します。

世界銀行の主旨は、低開発国向けの融資になるので、最先端技術にお金を融資する主旨ではありません。
新幹線のシステムは、最先端ではなく、むしろ在来線ですでに完成された技術を組み合わせ、新しいシステムの鉄道を作るというところに大きな特徴があったのです。

在来線の技術の集積・・・
1959年10月・・・ローゼンが来日。
世界一の高速鉄道新幹線は本当に作れるのか??
十河に会って直接聞きたい!!
ローゼンにどう納得してもらうのか??最大の正念場でした。

「十河総裁、我々は発展途上国と戦災国の復興を援助する機関です。
 日本のように、強く経済発展を始めた国に、投資する機関ではないのです。」

「先進国では、鉄道が斜陽産業と言われているのはよくご存じのことと存じます。
 その斜陽産業に頼って経済発展をしようというのですから、ようは後進国以外の何物でもありません。」
 
ローゼンが確かめたかったのは、リーダーの信念と覚悟とでした。
新幹線は、日本の復興のシンボルとなる・・・新幹線が敗戦で失われたものを取り戻す・・・
十河の想いはローゼンに通じました。

1961年5月、世界銀行と国鉄、日本政府との間で・・・288億円の融資契約調印。
これで、新幹線を完成することが、日本の国際公約となったのです。
着工から5年と6か月、数々の困難を乗り越えて、驚くべきスピードで進んで行きます。
敗戦の焼け跡で、呆然と立ち尽くす人を見ながら、復興を誓った十河・・・その苦労が実を結ぼうとしていました。
1964年10月1日、東京駅は熱気に包まれていました。
ついに新幹線が動き出す!!
しかし、その晴れ舞台に十河信二の姿はありませんでした。
前年の5月・・・国鉄を去っていたのです。
建設費が用地買収で膨らみ、政府が1000億円の追加予算を決定した直後、さらに650億円の不足が判明・・・
総裁としてその責任をとったのです。

「これは国内外の鉄道史上、前例のない事であるから、当初から無理と知りつつ企画したので、その責任は一切、私が負うべきである。」

世界銀行からの借款は、1981年5月に返済終了。
十河はそれを見届けた5か月後・・・97歳でこの世を去っていきました。

十河の葬儀の後、四国から上京した関係者が遺影を抱いて新幹線で帰路につきました。
すると、車掌が遺影を窓の外から見えるようにしてほしいと頼んできました。

「十河さんが新幹線の生みの親です。
 沿線の国鉄マンに見送らせてください。」

途中、停車駅の全てで、ホームに駅員が並び、十河に最敬礼をしました。

今や日本の新幹線は世界に広がっています。

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