中村橋之助主演 大河ドラマ 毛利元就 完全版 第壱集 DVD-BOX 全7枚【NHKスクエア限定商品】

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深い山々に覆われた中国山地・・・
ここは、産地面積が7割を超える日本有数の山岳地域です。
備中松山城をはじめ、山城が点在する全国でも有数の山城地帯です。
鎌倉時代以来、山間の小さな領地を支配した毛利一族・・・
元就は、毛利家の次男として生を受けました。
当初、家督は長男が継ぎ、元就は支えるために分家を相続しました。
しかし、当主が僅か9歳で亡くなったために、1523年元就は27歳で毛利家の家督を継ぐことに・・・
元就は、若い頃から文学を好み、軍術奇計を嗜んでいたようです。

毛利の居城・郡山城・・・元就は、この小さな山城を拠点にした国人領主でした。
室町幕府の元、領国支配を担ったのが、守護大名で、その代理で現地に向かったのが守護代でした。
守護代の元、土地を治めていたのが、多くの国人領主でした。
この体制が大きく揺らいだのが戦国時代で、室町幕府の権威に頼らず、実力で領国経営の実権を勝ち取っていくのが戦国大名です。
一般的に戦国大名になるコースは3つあります。
①守護、守護大名が戦国大名にスライドする
②守護代が下剋上でのし上がる
③国人領主の国人一揆による戦国大名化です。
毛利元就は、典型的な③でした。
国人領主は、その他大勢のひとりでそこからのし上がっていくのは大変でした。
当時の中国地方は、守護大名から戦国大名となり北九州まで支配した大内、さらに守護代から下剋上を為した尼子、この二つが覇権を争っていました。
国人領主の毛利は、大国の狭間にある弱小勢力にすぎませんでした。
どちらかの勢力に組していなければ生き残れませんでした。
大内と尼子の争いが・・・狭間の国人領主たちは昨日は大内に人質を差し出し、今日は尼子に礼を尽くして心休まる暇がありませんでした。
それは、力を持たない国人領主たちの乱世を生きる術でもありました。
この頃、大内の宿敵・尼子は、備中美作を制圧、播磨や備後にもその勢力を拡大していました。
当時の当主は、尼子詮久。
詮久の隆盛ぶりは・・・”向かうところ敵はなし”と記されています。
元就は、尼子に従属しました。
かつて詮久とは、義兄弟の契りを交わした仲でした。
しかし、その後、尼子を見限り大内の傘下に・・・。
大内方から有利な条件を提示されたようです。
1539年、尼子詮久、毛利討伐を決定!!
裏切り者の元就に対する詮久の報復ともいえます。
しかし、この時叔父の久幸はこう諭しました。
「元就は名将である。
 尼子が攻めかかれば負けとなり、後代までの名折れとなる。
 思いとどまるべし。」と。
それに対し、血気に逸る詮久は臆病者とののしり、その意見を退けました。

1540年9月、尼子の大軍勢3万が国境を越え、元就の郡山城へ・・・!!
大軍の襲来に窮地に陥った国人領主の元就・・・いかに立ち向かう・・・??
合戦後の本人による詳細の記録「毛利元就郡山籠城日記」
その目的は元就自身の活躍を室町幕府に報告するものですが・・・によると・・・
元就が尼子の軍勢を3万としたのは誇張と考えられてきていましたが・・・誇張ではない??
謎の解明の手掛かりとなるのが、航空レーザー測量です。
結果から読み取れるのは・・・??
郡山城の尾根筋には、兵を収容するための曲輪があります。
尼子の城跡の近くにも同じような平たん地・切岸が・・・。
土橋、竪堀・・・尼子軍の城跡は、郡山城の西側に全長6キロに及ぶ山城群を築いていたことが分かりました。
尼子は、圧倒的な大軍で毛利の郡山城を攻めてきていたのです。

尼子の圧倒的な大軍勢に囲まれた元就・・・
この時、収穫時期で、元就は事前に収穫を終わらせ、新米を一粒残らず郡山城内に搬入させていました。
元就はどこに活路を見出すのでしょうか?
尼子につく??
それとも大内につく??
苦悩する元就・・・どうする??

1540年9月5日、尼子の軍勢は無数の山城を築き、郡山城を包囲しました。
この時、籠城する毛利方の兵数は2400と伝わっています。
ポルトガルの宣教師によると・・・
敵の包囲が始まると、貴人も賤民も、権力のある者もない者も、その妻子を連れてすべての人たちが城に身を寄せることになっている。
城下の領民たちも加わり、毛利軍は総勢8000になったといいます。

元就の籠城日記によると尼子勢は城下の村々を焼き払い・・・しかし領民はそれに怯むことなく・・・
言葉戦いを合図に開戦!!
領民と共に籠城した元就は、尼子勢との全面対決を明らかにしました。

おおよそ戦は、軍勢の数によるものではない。
皆が心を一にし、行動を一にすれば大軍勢と言えども畏れることはない。

開戦から7日後・・・再び尼子軍が郡山城下にせまります。
尼子軍は城下に火を放ちます。
それに対し、元就は出撃を命じましたが、多勢に無勢毛利軍は敗走・・・。
追撃に入った尼子軍は途中の多治比川を渡りました。
その時、尼子を毛利の伏兵が襲ったのです。
大混乱の尼子勢・・・毛利勢はこの時、敵の大将を討ち取る金星を挙げました。
どうして作戦が功を奏したのでしょうか?
一つは気象条件。
秋から冬にかけて、朝霧が多く、昼近くまで霧に覆われていることがあります。
郡山合戦にの際に、視界が悪いことが影響していたのではないか?と言われています。
この敗戦によって、尼子詮久が動きます。
本陣を郡山城の本陣の正面に移したのです。
元就と雌雄を決しようとする決意表明でした。

しかし、本陣を移した尼子は、総攻撃をする気配がりません。
毛利を撃退するという強い意志を持っていたのは、詮久の旗本衆や一部の軍勢で、尼子に付き従ってきた多くの国人領主たちは積極的に戦う気がなかったようです。
元就は、城に籠城することなく出撃を繰り返します。
籠城する領民たちの士気を下げさせないためのものでした。
合戦が始まって一月後・・・大内の援軍は来る気配がありません。
この状況を打破する為に、元就は賭けに出ます。
自ら兵を率いて出陣!!
敵本陣めがけて突撃します。
そこにはどんな思いが・・・??
大内に対して、自分たちはこんなに戦っている!!と、見せること。
この戦いの後、大内が動きます。
1540年12月3日、大内の援軍1万が、郡山城の南に・・・!!
元就は、大内の援軍と共に尼子を急襲、敵の軍勢を撃破!!
大打撃を受けた尼子は、この合戦以降凋落の一途をたどります。
4か月以上の戦いは、元就に勝利をもたらしただけでなく、大内の絶大な信頼を受けることに・・・!!
一介の国人領主・毛利元就が、戦国の世に大きな一歩を踏み出した瞬間でした。

郡山合戦の後、領内で大きな問題が・・・
戦いは、あくまでも防衛を目的としていたので、領地が書く出しいたわけではありませんでした。
十分な恩賞を与えることのできなかった毛利元就・・・
家臣からの信頼を失おうとしていました。
その打開策として・・・1546年嫡男隆元に家督を譲ります。
体制を刷新することで、毛利家の信頼を回復させようとします。
元就が三人の我が子に向けた教訓状には・・・
三人の間に少しでもかけ隔てが出来るようであれば、必ず三人とも滅亡すると思った方が良いとあります。
一族間の繋がりこそが肝心だという国人領主だった元就の知恵でした。

1551年9月、大内義隆、謀反により討ち滅ぼされます。
もとなりは、155年10月厳島合戦で、陶晴賢を討ち、大内の領国を奪取することに成功!!

1566年11月、70歳で尼子の居城・月山富田城の戦い!!開城させ、遂に、中国10か国の大大名となりました。
ところが、隆元に向けた元就の書状には・・・
「当家を良かれと思っている者は、他国は無論のこと、当国にも一人もあるまじく候」
誰からも信頼されていないことを自覚していなければ、人の真の信頼を得ることはできない!!
元就がこの世を去ったのは、1571年6月14日、享年75。
それは、国人領主を振り出しに、見事中国山地の覇者となった生涯でした。

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