信長・秀吉・家康 天下人の夢

新品価格
¥7,695から
(2018/6/27 22:55時点)



1582年・・・6月2日早朝・・・
京都で戦国の歴史を大きく変えた本能寺の変が起こります。
天下取りを目前にしていた織田信長が、明智光秀の謀反に会い自害したのです。
そんな主君の敵を討ったのは、ご存じ、豊臣秀吉です。

織田信長の死を一番最初に知ったのは、京都に近い大坂で四国攻めの準備中だった信長の三男・信孝と丹羽長秀でした。
信孝と丹羽長秀が信長の死を知ったのは、本能寺の変の当日6月2日でした。
どうして京都に向かえなかったのか??
彼等はかん口令を敷かなかったので、兵士たちがパニックを起こし、逃げ出してしまったので、仇討どころか守りを固めることで精いっぱいだったのです。

柴田勝家は京都から300キロのところにある越後で上杉攻めをしていました。
勝家が信長の死を知ったのは、数日たった6月5日~7日の間のことでした。
勝家はすぐに越前の北ノ庄城に戻り、明智光秀等夏の準備をしますが、出かけられません・・・
京都に戻る際に、上杉軍に追撃される恐れがあったからです。
明智光秀は、上杉景勝に、本能寺の変の計画を事前に伝えていたともいわれています。
信長が死ねば、勝家は戦どころでなくなる・・・と、追撃態勢を整えていたので、勝家は動くに動けなくなっていたのです。

滝川一益は、北条の治めていた関東をほぼ制圧しつつありましたが・・・変を知ったのは、6月7日~9日の間と言われています。
しかし、時を同じくして北条氏政も、信長死亡を知り、反撃してきたのです。
そのため、一益は、京都に行くことができませんでした。

羽柴秀吉の場合・・・
中国地方を制圧する為に、備中高松城を攻めていた秀吉は・・・。
信長の死を知ったのは、変の翌日、6月3日の夜でした。
京都から200キロ離れた土地で、どうしてそんなに早く知ることができたのでしょうか?
明智光秀は、この時、「信長を討ったので、和平交渉に応じるな」と、毛利に密書を送っていました。
その使いが、秀吉の陣営に迷い込み、捕らえられてしまったのです。
この時、秀吉は、毛利方清水宗治の居城・備中松山城を水攻めにし、落城寸前まで追い込んでいました。
城の周りを全長3キロ、高さ7メートルの堤で囲んで、近くの川を引き入れ、水滅させようとしていました。
警備も厳重・・・そこへ、光秀の密使が捕まってしまったのです。
城攻めの奇策のおかげで、信長の死をいち早く知ることができた秀吉ですが、草履取りから自分を取り立ててくれた信長を父のように慕っていた秀吉は、泣き崩れるばかり・・・。

そんな秀吉の目を覚まさせたのは・・・軍師・黒田官兵衛の・・・

「これは天のご加護 天下取りの好機でございます。」

の一言でした。

その言葉で冷静さを取り戻した秀吉は、主君の敵を討ち、天下とるという野望をたぎらせるのです。
そして、かん口令を敷きました。
当然、」毛利方にも、漏れないように、密使を斬ったうえで備前から備中への道を封鎖しました。
そして、交渉が始まっていた毛利との和睦を急ぎます。
信長の死を知ったその夜、毛利方の交渉人・安国寺恵瓊を呼び出し、それまでの条件を緩めます。
備中・美作・伯耆を割譲するように求めていたのを、美作だけで備中・伯耆は折半にします。
さらに、備中高松城主が切腹すれば、城に残っている5000人の兵士たちの命は保証するとしたのです。

こうして、毛利とのスピード講和が実現します。
秀吉が信長の死を知ってから数時間のことでした。
その日のうちに、清水宗治は備中高松城に浮かぶ船の上で自刃・・・
その見事な最期に「武士の鑑」と言ってほめたたえました。
その直後・・・毛利が信長の死を知ってしまいました。
毛利の追撃は・・・??
この時、毛利方の吉川元春と小早川隆景が、1万5000の兵を引き連れて援軍に駆け付けていました。
どうなる??

吉川は・・・「信長が死んだ以上、講和など破棄して秀吉を討つべきだ。」
小早川は・・・「誓いの書の墨が乾かぬうちに、講和を破棄するわけにはいかぬ。」

結局、小早川の主張が通り、毛利方が追撃することはありませんでした。
そして・・・和睦の1か月前・・・毛利輝元が家臣に宛てた手紙には・・・??

「こちらは、鉄砲は言うに及ばず、弾薬も底をついている。」

武器弾薬を使い果たしていたのなら、追撃どころではありません。
しかし、これもまた秀吉の策によるもので・・・瀬戸内海を支配する村上水軍を調略していたので、毛利伸樹の補給路をあらかじめ絶っていたのです。
もともと村上水軍は、因島村上家・村上吉充、来島村上家・来島通総、能島村上家・能島武吉・・・毛利方の水軍でした。
そのうちの来島村上家は毛利を裏切り信長についていましたが、秀吉はこの時、能島村上家を調略し手中に治めていました。

6月5日、吉川と小早川の軍勢は撤退を開始・・・  
それを見届けた秀吉は、翌日・・・京都への怒涛の行軍を始めるのでした。
秀吉は2万の軍勢を率い、備中高松城から京都を目指し、200キロの大移動を開始しました。
神業ともいわれる秀吉の中国大返しが始まりました。

6月6日(1日目)午後2時
備中高松城を後にした秀吉軍は、西国街道を通り、22キロ離れた備前・沼城へ・・・。
西国街道は、援軍として信長が来ることになっていたので、秀吉によって整備されていました。
向う沼上は、秀吉の家臣・宇喜多直家の居城でした。
待ち受ける宇喜多もぬかりありません。
秀吉たちが夜でも動きやすいようにとたいまつを焚き、城についたときに食事が出来るようにしていました。
順調なスタートを切りましたが・・・

6月7日早朝
沼城で仮眠をとった一行は、翌朝早くに出発し、70キロ先に姫路城を目指します。
その途中には、西国街道最大の難関・船坂峠がありました。
谷が深く、道幅が4メートルに満たないところもあり、2万の軍勢が重装備で多くの武器弾薬を運びながら進むのは困難を極めます。
姫路城までの行軍では、暴風雨にも見舞われていました。
道筋の河川が増水し・・・農民を雇って、人間の柵を作らせ、その方にすがって川を渡らせたといいます。

当時の甲冑などの装備は30kg~50kg・・・。
秀吉は大軍を率いてどうやって早く移動したのでしょうか?
秀吉は兵士の負担を減らすために・・・
海路を利用したのではないか?という説があります。
騎馬隊や足軽隊は走ったでしょうが、物資を運ぶ輜重部隊は海路を行ったと言われています。
言い伝えによると、牛窓から佐古志、片上津から赤穂岬・・・と言われています。
兵士たちを身軽にし、大軍勢の移動のスピードをあげた秀吉・・・

もう一つの説は・・・??
秀吉の書いた一通の手紙に秘密がありました。
本能寺の変を知った中川清秀の手紙に対する秀吉の返書です。
その文面の日付と内容・・・
6月5日に「今、野殿まできている」と書いています。
野殿は備中高松城から7キロのところです。
この書状が正しければ、出発日の定説が覆ることに・・・??
6日出発という説は小瀬甫庵の「太閤記」によるものです。
太閤記は、秀吉の活躍を書いたものなので、誇張表現なのではないのか?とも言われています。
中川清秀宛ての書状の6月5日に野殿にいるが注目され、6月5日の時点で備中高松城から野殿に向かって・・・という策が注目されています。
5日と言えば、毛利が撤退した日です。
この日に追撃の余裕がないと知って・・・しかし、追撃の可能性がゼロということではなく・・・この秀吉の判断はあっぱれでした。
この6月5日出発説・・・本体は微衷高松城に残り、秀吉と何人かは野殿へ向かったのではないか??
今後さらに検討が加えられることでしょう。

1582年6月2日本能寺の変・・・主君・織田信長の敵を討つために、備中高松城から京都まで200キロの道程を8日間で走破した羽柴秀吉の中国大返し、その成功のうらには秀吉の知略が・・・。

人心掌握術・・・
備中高松城を出発し姫路城まで2日で92キロを走ってきましたが、まだ道半ば・・・
京都まで100キロ以上残っていました。
疲弊している・・・逃げ出す者も出て来るのでは・・・??
そこで、姫路城につくと皆に信長の死を教えます。
この行軍は、信長の仇・明智光秀を討ち取るためであると皆の士気を上げます。
城にあった兵糧米・8万5000石と金・800枚、銀750貫文・・・現在の価値にして66億円相当を兵士たちに分け与えたのです。
そして、仲間・小者たちにも5斗・・・半年分の米を与えたのです。
翌日からの行軍に備え、一日ゆっくり休ませます。
そこへ一人の僧侶がやってきて・・・
「明日は、二度と帰ることができない悪日にございます。
 それゆえ、出陣は延期された方がよろしいかと・・・」
それを聞いた秀吉は、
「二度と帰ることができないには、むしろ吉日じゃ!!」
そう言って取り合わなかったといいます。
秀吉は、光秀を見事討ち取ることができれば、その先には天下人の道がある・・・
そうすれば、姫路城に戻ってくる必要はない!!
城などどこにでも作れる!!
だから、帰って来れないのはむしろ吉日!!
自分が勝って天下をっとるということだ!!と。

中国大返し成功のため、他にも策を講じていました。
姫路を出た秀吉軍は、100キロ先の富田を目指します。
しかし、その途中には摂津国が・・・!!
そこに居るのは茨木城主・中川清秀と高槻城主・高山右近でした。
かつて・・・織田信長に謀反した荒木村重の重臣たちでした。
秀吉は、「奴らが信長様の死を知ったら、反旗を翻すかもしれない・・・」と、書状を送っています。

「上様は難を逃れ・・・」

信長派生きているという嘘を伝えることで、中川清秀らが光秀に加勢するのを防ごうとしたのです。
この時光秀は、信長の遺体を見つけることが出来ずにいました。
もし、首を晒すことができていれば・・・でも、出来なかったので、その嘘を信じてしまったのです。
情報を操作することで、裏切りの目を摘んだ秀吉は、安心して行軍することができたのです。
秀吉は家臣たちにも恵まれていました。
事務管理能力に優れていた石田三成は、この時、後方支援を担当!!
食糧や武器、人出の手配・・・迅速かつ的確に行いました。
これによってスムーズな移動が可能に・・・!!
黒田官兵衛は、軍師としての才能を発揮!!
隊列の先頭に毛利家の旗を持たせ、毛利方が秀吉軍に加わったと思わせます。
この旗は、備中高松城で和議が成立し、秀吉軍が撤退する際に、小早川隆景の元を訪ね、毛利軍の旗を20本ほど借りています。
隆景はある程度察しがついていて・・・秀吉に協力しておいた方が、毛利家のためになると考えたのです。
旗を見て、毛利が味方に付いたと勘違いした武将たちが次々と秀吉軍に加わります。

6月11日、秀吉軍は尼崎に到着!!
秀吉は大坂城にいた織田信孝と丹羽長秀に尼崎まで来たことを伝えますが・・・信孝を光秀討伐の総大将とすることはありませんでした。
本来ならば信孝でしょうか・・・信孝にすれば、自分は駒になってしまう・・・おまけに信孝には当時、兵が4000人しかおらず、父・兄を殺されてしまっていました。
の舞台兄は、光秀を討つ気迫がなかったので、秀吉の上には立てなかったのです。
6月12日、富田に到着した秀吉は、池田恒興、中川清秀、高山右近らと共に、軍議を開きます。
明智光秀を討ち、天下人となるために・・・!!

その頃光秀は・・・
6月2日から4日までの間に坂本城に戻り、近江を平定。
6月5日には安土城と秀吉の長浜城を占拠、丹羽長秀の佐和山城も押さえていました。
娘のガラシャを嫁がせていた丹後宮津城主細川忠興や、大和郡山城の筒井順慶に参戦を呼び掛けています。
その一方で、朝廷工作を行って・・・
朝廷から京都の経営を任せると言われ、信長の後継者は自分であると思っていたようですが・・・??
8日、大返しの知らせを受けました。
しかし・・・光秀は、京都に献金するなどの朝廷工作に勤しんでいました。

秀吉軍は4万のふくらみ・・・しかし、明智光秀は、織田信長の謀反に成功するも、味方に付けようとしてた武将たちが味方に付かないという誤算に・・・。
細川忠興は、光秀のために動かなかっただけでなく正室に迎えていた娘・ガラシャを謀反人の娘として丹後の山中に幽閉してしまいました。
筒井順慶は一度は参戦に応じるも、秀吉側に寝返り、居城に籠ってしまいました。
結果、光秀の軍勢は1万5000!!秀吉の半分にも及びません。
決戦の地は、京都に近い天王山の麓・山崎でした。

6月13日・・・
劣勢で迎え撃つことになった光秀には策がありました。
天王山の地の利を生かします。
当時、川が迫る天王山には、馬がやっとすれ違えるだけの細い道しかなく、そこで秀吉の大軍をおびき寄せ、天王山に配置した兵に吸収させて撃破しようと考えていました。
しかし、この作戦は、もし秀吉に天王山を取られるようなことがあれば成功しません。

「先に天王山を押さえねば!!」by光秀

しかし、秀吉もそこのところはよくわかっていて・・・
そこで、地の利に明るい中川清秀に天王山の奪取を命じます。
中川は、敵に気付かれぬよう、松明なしに前日夜に天王山に分け入り、光秀軍より先に天王山を占拠したのです。
これで光秀軍は、勝機を失います。
そして遂に両軍が激突!!
僅か数時間で秀吉軍の圧勝に終わりました。
光秀は命からがら逃げだすも、落武者狩りの竹やりで重傷を負い・・・6月13日、明智光秀自害!!

三日天下と揶揄されることとなった光秀、一方、主君の敵討ちを見事に成し遂げた秀吉は、天下取りにぐっと近づきました。
中国大返し・・・その成功の秘訣は、情報操作など、優れた知略、巧みな人心掌握術、有能な家臣の存在、そして、大胆な行動力と決断力・・・そのスピードの速さでした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

<織田信長と本能寺の変>本能寺の変勃発! 織田家臣団が下した決断 (歴史群像デジタルアーカイブス)

30の戦いからよむ日本史〈下〉 (日経ビジネス人文庫)

新品価格
¥842から
(2018/6/27 22:56時点)