幕末維新と松平春嶽

中古価格
¥1,983から
(2018/10/17 23:23時点)



今からおよそ150年前、大改革が行われていました。
参勤交代は、全国の大名が二年に一度江戸へ赴き、軍役奉仕を行う江戸時代の基本制度です。
その費用は莫大で、藩財政を圧迫・・・幕末には多くの藩の財政を圧迫し、破たん寸前となっていました。
当時は異国船の来航・・・防衛力の強化と財政の立て直しが叫ばれていました。

「最早参勤交代をしている場合ではない!!」

そういったのは、越前福井藩主・松平春嶽です。
春嶽は、大胆な緩和を幕府に提案し、大名の負担軽減と防衛力の強化を叫びます。
しかし、参勤交代は主従関係を確認する幕藩体制の根幹・・・周囲は難色を示します。
国家存亡の危機を前にしても帰られないその制度とは・・・??!!

松平春嶽が、参勤交代の帰り道を書いた日記によると・・・
江戸を出て間もなく、農民たちの姿を目の当たりにして・・・

”裕福なら牛や今を使えるが、貧しいとそうはいかぬ
 もし百姓の苦労や実情を知らぬ大名がいたら、嘆かわしきこと”

一国の主たるもの、領民を慈しむ政治をしなくてはならない!!
その政治信条を培ったのが、幕末の財政難でした。
90万両もの借財があったと言われていて、自分の藩を見つめ直し、領民に対する見方を戒めたのです。
つもりに積もった福井藩の借金・・・90万両=450億円・・・。
そのしわ寄せが領民の年貢に・・・打ちこわしや一揆が頻発していました。
危機的な懐事情で・・・春嶽ですら一汁一菜でした。
粗食で耐え凌ぐ有様でした。
他の藩も同様の状況で苦しめられていました。

その最大の原因が、莫大な経費を必要とする参勤交代でした。
その旅路は宿代だけでもバカにならず、2000人のお供を連れていた加賀藩の場合、1泊で1000万以上・・・
江戸までの片道の宿泊費は総額2億円にもなりました。
少しでも宿泊日数を減らそうと、速足で駆け抜けるという涙ぐましい努力をする藩もありました。
さらに、江戸へ人質として置いていた妻や子の住む江戸藩邸の維持費も大きなものでした。
5000人もの藩士がいた加賀藩では、年間予算の半分・・・50億円を江戸で費やしていました。

それなら参勤交代の規模を縮小すれば・・・??
御用商人たちの武鑑には、各大名の名前、石高、武器の種類や数まで事細かく書かれていて・・・それが大名の格となっていました。
江戸に暮らす庶民は、この武鑑を大名行列のガイドブックとしていたので、大名たちは、お家の威信にかけて格を下げるようなことはできませんでした。
しかも、この行列は、幕府にとっても大名にとってもメリットがあり・・・
江戸に大名が来るというのは、幕府の権威を非常に高め政権が安定します。
大名同士の序列の中で、自分の家が他藩より高いか努力します。
参勤交代の道具を増やすことを幕府に嘆願し、幕府が許可する・・・
それは、幕府の恩恵を感じ、大名は同等だった大名たちに一歩先んじる努力をしたのです。

将軍との謁見でも、格に応じて畳の何枚目に座るかが決まっており、大名の努力次第で位置を変えることができ・・・参勤交代は、大名同士の格式をめぐるせめぎあいでもありました。
しかし、その制度の改革を迫る未曽有の危機が日本を襲います。

1853年ペリーが浦賀に来航。
どう対応するのか??幕閣は連日議論していました。
しかし、結論を出すことができません。
時の老中・阿部正弘は、全国の大名に意見を募ります。
幕府としては異例の試みでした。
そして、1通の建白書が幕府に届きます。
その差出人こそ、26歳の福井藩主・松平春嶽で、その内容は、幕府にとって衝撃的なものでした。

全国の大名は参勤交代で疲弊しきっております。
この国難に対峙するためには、江戸に散布する大名を帰国させ、挙国一致で軍備を整えるべきかと存じます。

春嶽は、異国に立ち向かうためには、財政をひっ迫させている参勤交代を緩和する必要があると幕府に訴えたのです。
しかし、将軍の忠誠を誓う証である参勤交代の改革を主張すれば、幕府から反逆を疑われ、処罰されてもおかしくありませんでした。
どうして春嶽は危険を省みず主張したのでしょうか??
春嶽は、本来は田安徳川家の出身で、将軍になったかもしれない立場でした。
なので、福井藩のことだけを考えてはいなかったのです。
春嶽が生まれた田安徳川家は、八代将軍吉宗に始まる家柄で、春嶽は11代将軍家斉の甥に当たり、12代将軍家慶のいとこにあたるサラブレッドだったのです。
これは譜代からは言えず・・・親藩大名の将軍に近い自分だからこそ言える!!自信と使命感に溢れていました。
しかし、幕府はこれを却下。

「幕府を人体に例えれば、大名の参勤は、骨の最大なるもの。
 骨を砕いてしまえば、取り返しがつかない。」by阿部正弘

納得がいかない春嶽は、当時最も英明と言われていた薩摩藩主・島津斉彬に自分の意見を解き、幕府説得の協力を求めます。
しかし、斉彬は春嶽に同意するものの・・・外様の自分に言えるわけがないと答え、幕府の前で突飛な言動は控えるようにとくぎを刺されてしまいます。
しかし、建白書を出し続ける春嶽。

諸大名の忠誠と服従を繋ぎ止めてきた参勤交代を緩和すれば、幕府の権威は一気に崩れ去るかもしれない・・・
そんな危機感が幕閣にはあったのです。
このまま何も変えなくていいのか・・・??
春嶽の前に大きな壁が立ちはだかっていました。

最早自分一人の力だけではどうすることもできない・・・春嶽は、行動に移します。
同じ志を抱く大名と党派を組んで幕府の政治を変えようというものでした。
春嶽は、水戸・徳川斉昭、薩摩・島津斉彬と共に、栄明と評判の高い一橋慶喜を次期将軍に推薦します。
さらに、1857年8月、江戸の藩邸に徳川家に近しい大名達と会談し、協力を要請します。
春嶽の意見を聞いた徳島藩主・蜂須賀斉裕は、神君家康公以来の法に触れるのは幕府に不審を抱かせると難色を示しました。
それでも春嶽は引き下がらない!!改革の意義を力説します。
その熱い想いにじっと耳を傾けていたのが鳥取藩主・池田慶徳です。
慶徳はその後も春嶽と会談を進め、大名の声が天下変革の響になるという春嶽の想いに共感し、幕府に建白書を提出します。
やがて春嶽達に同調するかのように幕府内からも参勤交代を見直すことが挙げられます。
特に海防を担当する海防掛大目付は改革の必要性を痛感。
「参勤交代の緩和が諸藩の出費を減らし、海防強化の一助になる」と、建白書を出しています。

春嶽が参勤交代の緩和を主張してから4年・・・改革の機運は高まりつつありました。
ところが・・・一人の男が立ちはだかります。
譜代最大の大名・井伊直弼です。
次期将軍に紀州の徳川慶福(のちの家茂)を推した直弼は、次期将軍をめぐっての主導権争いに勝利!!
そして・・・一橋派の一掃に乗り出しました。
世に言う安政の大獄です。
1858年7月、春嶽は隠居謹慎処分に・・・江戸藩邸で逼塞生活を送ることとなりました。
井伊直弼の強硬な姿勢に耐え忍ぶようにと、家臣たちを戒めます。
2年後、春嶽を謹慎に追い込んだ井伊直弼が桜田門外で暗殺されます。
幕府の権威は急速に傾き始めました。
しかし、春嶽の近親が解かれることはなく、4年にも及びました。
春嶽はどのような政治構想を持っていたのでしょうか。
虎豹変革備考・・・春嶽がイギリスの政治体制をもとに自らの政治構想を記しています。
上院と下院に分かれた議会で、幕府には行政のみを委ねる議会制度を構想していました。
上院には大名を、下院には武士や百姓町人を参加させるべきだと説いています。
春嶽は参勤交代の改革を突破口に、近代的な政治の導入を模索していたのです。

井伊直弼の暗殺から2年後・・・時代は大きく動きます。
1862年3月、島津久光が藩兵1000人を率いて上洛。
朝廷を後ろ盾にして、幕府に政治改革させようとしました。
それは、春嶽を大老に、慶喜を将軍後見役に就任させ、幕政の助けにするという要求でした。
これに慌てたのが老中たちです。
朝廷や外様大名の要求を受け入れ幕政改革が行われるような事態になれば、幕府の権威は地に落ちたも同然!!
1862年5月、春嶽は謹慎を解かれ江戸城へ登城!!
将軍家茂の元へ・・・!!
欧米列強の対応で亀裂の入っていた朝廷との関係を修復、公武合体の実現に向けての交渉役を依頼されます。
春嶽にとって、それは将軍の以来と引き換えに参勤交代の緩和の絶好のチャンス!!
しかし、幕府の権威が落ちた今、それを行うのは大きなリスクをはらんでいました。
どうする・・・??

参勤交代の緩和を今切り出すのか?それとも時期を見るのか・・・??

将軍を目の前にどう応えたのでしょうか?
春嶽は将軍自らが不退転の覚悟で幕政改革をすると約束しないならば、従うつもりはないと言い放ちました。
その上で、老中らに速やかに徳川優先の政治をやめ、大名を苦しめる参勤交代の緩和をはじめとする幕政改革を迫ったのです。

改革の時はいまを置いて他になし!!

1862年7月、将軍後見職に一橋慶喜、政事総裁職に松平春嶽を任命。

その一月後・・・幕府はついに参勤交代の緩和を布告しました。
この改正によって参勤は2年→3年となり、江戸の滞在日数を1年→100日としました。
江戸にいる間は幕府に積極的に政治的意見を具申するようにさせます。
大名妻子は帰国は自由とし、大名たちを最も苦しめていた江戸での経費削減を実施していきます。
効果は覿面!!
全国で藩政改革が進んで行きます。

大名達はこぞって軍艦や大砲を購入。
それまでできなかった軍事力の強化と産業の育成に励みます。

しかし・・・その先には、春嶽も予測できなかった時代のうねりが・・・。
それは、急速に発言力を持ちだした朝廷でした。
春嶽たちが幕政改革をし出した2か月後・・・大名に対し、帝のいる京都の治安を守るように京都警護を発令!!
幕府を通さず、天皇が直接大名たちに軍役奉仕を求めたのです。
強硬な公家・三条実美は将軍後見職の慶喜に対し、諸大名の参勤は江戸と京都で折半しようと持ちかけさえしました。
1863年2月、上洛のために家茂が江戸を出発。
開国を容認してもらうために・・・。
その交渉役を任された春嶽は、将軍上洛の数か月前から朝廷と開国容認の交渉を続けていました。
しかし、孝明天皇は認めず、攘夷実行尾を春嶽に迫ります。
交渉は暗礁に乗り上げていました。
幕府と朝廷との板挟みになる春嶽・・・

さらに盟友であった一橋慶喜との間で政治方針を巡って対立し始めました。
3月、春嶽は政事総裁職を辞任。
政治改革の道から離脱してしまうのです。
その後、日本は本格的な激動を迎えます。

1864年第一次長州征討
幕府は諸大名に出兵を命じます。
その1か月後、幕府は参勤交代の復旧を発令!!
幕府への統制力を強めようというのが狙いでした。
ところが大名たちは、国家の大事件だと困惑・・・。
春嶽にも問い合わせが来ます。

「幕命には従わなければならないが、そのまま様子を伺い、幕府から催促が来た場合には病気を口実に断ればよい」と。

春嶽から見ても、衰退は止めようがありませんでした。

1867年10月14日、大政奉還
仕える将軍がいなくなったことで、参勤交代制度は終焉を迎えます。

明治に入っていからの春嶽は、執筆活動に専念。
数々の著作を残しています。
井伊直弼のことは・・・
”徳川家の威光を盛んにせんとの志にて、決して私欲のためにやったことではない。
 彦根公の英断が今に至りては感すへし”
と書いています。

直弼の一連の決断は、幕府と徳川を思っての英断だったと振り返っています。

春嶽は、自分が行った改革を失敗だったと思っていたのでしょうか?
その真意が明かされることはなく、1890年6月、春嶽死去・・・63歳でした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

横井小楠と松平春嶽 (幕末維新の個性)

中古価格
¥2,847から
(2018/10/17 23:23時点)

カメラが撮らえた 最後の将軍と徳川一族 (ビジュアル選書)

中古価格
¥2,915から
(2018/10/17 23:24時点)