和宮様御留新装版 (講談社文庫) [ 有吉佐和子 ]

価格:864円
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世紀のロイヤルウエディング・・・それは、今から156年前の幕末・・・孝明天皇の妹・和宮と14代将軍徳川家茂の結婚でした。
華麗な花嫁行列は、注目の的となりました。

1861年10月20日、花嫁行列が、京から江戸へと出発!!
16歳で降嫁した和宮でした。
総勢2万5000、長さは50キロに及ぶ史上まれにみる豪華な花嫁行列で、江戸に入るまで25日かかりました。
幕府予算の2年分と言われる莫大な費用を投じた世紀のロイヤルウエディングでした。
しかし、花嫁・和宮の心は晴れやかではありませんでした。

住みなれし 都路出でて けふいくひ
           いそぐもつらき 東路のたび

見知らぬ江戸の大奥での暮らしは、苦難の連続でした。
14代将軍家茂の愛に包まれて頑なだった和宮は人を愛することに目覚め大人へと成長していきます。
が、突然の夫の死、幕府存続の危機・・・次々と歴史の荒波が襲い掛かります。
朝廷と徳川の板挟みに苦しむ和宮は、自らの手で運命を切り開いていきます。

「私も、徳川家の滅亡を見ながら生き残るわけにはいかないので、きっと覚悟を決めましょう。」

悲劇の皇女・和宮・・・その姿は、自らの運命に立ち向かった勇敢な女性でした。
気高くたくましく成長するプリンセス・和宮!!

1862年2月、江戸城内で和宮と徳川家茂の婚礼が行われました。
朝廷と幕府の期待を背負って江戸にやってきた和宮、行った先は大奥でした。
大奥では1000人以上の女性が働き、200年の伝統と細かいしきたりがありました。
そこに君臨していたのは、前将軍の正室・天璋院篤姫でした。
薩摩藩から嫁ぎ、夫亡き後も大奥に留まっていました。
和宮より11歳年上の姑でした。

和宮と篤姫は、共に朝廷と徳川のプライドをかけてたいりつすることになってしまいます。
どうして対立してしまったのでしょうか?

1846年孝明天皇の妹として生まれた和宮。
幼いころから皇族としての教育を受け、和歌を学ぶなど何不自由ない生活を送っていました。
損な和宮に家茂との結婚の要請が来たのは、1860年、和宮が15歳の時でした。
幕府と朝廷の政略結婚でした。
きっかけは、ペリー来航でした。外国嫌いの孝明天皇が反対しているにもかかわらず、幕府は圧力に屈し開国に同意してしまいます。
そのため、幕府への批判が日本中でおこります。
そこで、幕府が目をつけたのが、朝廷の権威でした。
天皇の妹・和宮と将軍。家茂を結婚させることで、政権の安定を図ろうとしたのです。
しかし、和宮にとっては受け入れがたい話でした。
それは・・・和宮が6歳の時に11歳年上の有栖川宮熾仁親王と婚約していたからです。
さらに、忌まれてから1回も京を出たことのなかった和宮に、江戸へ行くことは恐怖そのものでした。

”夷人が大勢おる関東へ参るなど、とても恐ろしくてできませぬ”

しかし、兄・孝明天皇は、幕府に外国船を打ち払わせるために、和宮に婚姻を勧めます。
それでも首を縦に振らない和宮・・・孝明天皇は、
「関東との縁談を断って、もし有栖川宮と婚姻しても、私が拒むから尼になるがよい。」by孝明天皇
和宮は、止む無く家茂との結婚を受け入れます。

「天下泰平のため まことにいやいやながら 仕方なくお受けするのでございます。」by和宮

1861年16歳の時、和宮江戸へ・・・!!
嫁ぐにあたって、条件を出していました。

”江戸城に入った後も、身の回りはすべて御所風を守ること”
江戸城に入った後も、和宮が慣れ親しんだ御所の習慣を通すと要求したのです。
大奥に入った後、女官は日記に書いています。
”御風違”と書いています。
そしてこのことが、和宮と篤姫が対立する原因となっていきます。

対立は些細なことから始まりました。
嫁入りの際、篤姫の元へ和宮から来た目録・・・そのあて名は”天璋院”・・・呼び捨てで書かれていました。
和宮からすれば、自分より身分の低い篤姫を呼び捨てにするのは当然です。
しかし、篤姫も大奥のしきたりに従わせようとします。
二人が初めて対面した時・・・和宮が座敷に来た時、篤姫は上座に座り敷物に座っていました。
それに対し、和宮は下座で畳の上に直に座らされたのです。
これを見た女官は、朝廷に訴えの手紙を送っています。

”和宮さまは、無念の思いに耐えられないご様子で、私共もお慰めする言葉も見つかりませんでした。”

二人の対立は、和宮の女官280人VS篤姫の女中260人を巻き込み、大奥を二分する戦いに発展します。
そのすさまじさは、大奥のみならず、江戸城内でも噂になります。
幕臣だった勝海舟は、後に語っています。

「和宮と天璋院は、はじめは大層仲が悪かった
 お付きのせいだよ
 あっちでもすればこっちでもするというふうに、競ってそれはひどかった」by海舟

結局、和宮と篤姫との交流は無くなってしまうのでした。
しかし、和宮も逃げ出すつもりはありません。

惜しましな 君(天皇)と民とのためならは 
               身は武蔵野(関東)の 露と消ゆとも

自らの命を惜しまず、天皇と民の為ならば、武蔵野の露と消えても構わない・・・と!!

不慣れな江戸で姑との交流もなく、孤独な生活を送る和宮・・・
そんな毎日に潤いを与えてくれたのは、不本意ながら結婚相手の家茂でした。
和宮と同じ年の若き将軍は、家臣に

「私は和宮を本当に大切に思いたい。
 そうすれば、幕府と朝廷も自然と上手くいくはず。
 表だけ飾るのではなく、心から親しい間柄でいたいのだ。」by家茂

家茂は、自分が将軍であるにもかかわらず、和宮を宮様と呼び、皇女として扱いました。
そんな家茂の気遣いや気さくな人柄は、次第に和宮の心を開いていきます。
結婚から2か月後・・・家茂の乗馬を見学し、そのまま一夜を共にします。
その翌日も、家茂は突然大奥に訪れます。
それは、金魚を和宮に見せるためでした。

和宮が和歌を送ると・・・自ら鼈甲のかんざしを持ってくる家茂。
こうしたやり取りが、二人の間で自然に繰り返されるようになって・・・。
そして、天璋院篤姫との関係も変わってきました。
浜離宮恩賜庭園で語られているのは・・・
和宮、篤姫、家茂が庭に降りようとすると、なぜか家茂の履物だけ踏み石の下に置かれていました。
それを見た和宮は、ぽんとおり、自分の履物を下ろして家茂の履物を石の上に起きました。
かつての和宮では考えられないことでした。
これ以降、篤姫と和宮のいざこざはピタリとやんだといいます。
大奥での暮らしになれ、周囲の人間とも交流し、大人の対応ができるようになってきた和宮・・・

1863年、京では反幕府勢力が台頭!!
家茂はそれを抑え込むため自ら京に向かいます。
和宮18歳の時でした。
以後も緊迫した事態が続いたので、家茂は頻繁に江戸と京を往復します。
無理を重ね、脚気を患ってしまいました。
和宮は家茂の無事を願ってお百度参りをします。
1865年、再び西に向かう前に、家茂は和宮にどんな京土産がいいか尋ねています。

「西陣の織物が欲しゅうございます」

和宮は家茂を送り出します。
しかし・・・1866年7月、和宮にもたらされたのは、家茂の訃報でした。
享年21歳。
夫の亡骸と共に届いたのは、土産に欲しいと頼んでいた西陣織でした。

空蝉の唐織ころも なにかせん
         綾も錦も 君ありてこそ

結婚して4年・・・そのうち夫婦が一緒に暮らすことができたのは、僅か2年余りでした。

最愛の夫を亡くした和宮・・・この時、21歳でした。
朝廷と幕府の結びつきを強めるためのこの結婚・・・いまやその意味を失い、和宮が江戸に留まる理由が無くなりました。

それからわずか1年後・・・大政奉還により幕府は消滅!!
朝敵となった徳川家は滅亡の危機にさらされます。
生まれ育った天皇家と嫁ぎ先の将軍家・・・両家の板挟みにあう和宮。
この時、江戸を離れて京に戻ることもできました。
しかし、和宮は江戸に残り、徳川家存続のために必死の奔走を始めたのです。
どうして徳川家のために命をかけたのでしょうか?

亡き家茂の跡を継いで将軍となったのは慶喜でした。
1867年京の二条城・・・ここで、慶喜は大政奉還を表明しました。
夫・家茂が命がけで守ろうとした徳川家は、あっけなくその幕を閉じたのです。
1868年、和宮23の時に、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を西郷率いる新政府軍が撃破!!
さらに錦の御旗を掲げて徳川を朝敵とし、江戸城へ進軍を始めました。
江戸へ逃げかえった慶喜は、新政府軍に恭順の意を示し、和宮を通じて和平を模索します。
しかし、何の相談もなしに幕府を終わらせ泣きついてきた慶喜に、和宮は憤慨し、面会を拒否します。
この時、和宮と慶喜を仲介したのが天璋院篤姫でした。

同じ大奥にいながら交流のなかった和宮と篤姫・・・。
しかし、家茂亡き後、二人の間は深まっていました。
篤姫もまた、結婚してすぐに夫を亡くすという経験をしていたからです。
和宮を保護しようという気持ちが高くなっていたのです。
和宮も、その気持ちが解るので、天璋院を頼るという心境になったのです。

江戸城にいた旧幕府上層部は、徹底抗戦と時代の流れを読めない者ばかり・・・。
慶喜から事態の解決を頼まれた和宮と篤姫・・・徳川の命運は、土壇場でこの二人に託されました。

この頃の和宮の日記には・・・
朝廷の味方をすれば徳川家から不義となり、徳川家のために義を通せば兄に対して不貞になる
本当にどうすればいいのか
それでも、後世まで清き名を残したい
と書かれています。

そこには、かつて江戸に嫌々嫁いできたか弱い皇女の姿はありませんでした。
自分の家族ともいうべき徳川家を守る母の姿でした。
和宮は新政府軍に謝罪し、寛大な処置を求めます。

何卒 私へのお慈悲とおぼし召され どうか徳川家をおとり潰しにならぬようお願い申し上げます。
徳川家が滅ぶようなことがあれば、私も生きていくわけには参りません。

しかし、新政府軍の進撃は止まらない・・・
江戸城総攻撃は3月15日に決まります。
100万人が暮らす江戸に、戦火の危機が迫りました。
すでに慶喜は江戸城を去り、ほとんどのものはなすすべなく・・・かろうじて勝海舟らが動いていました。
主なき城に取り残されたのは、数百人の大奥の女性たち・・・
城中に不安な空気が・・・そんな中、和宮は訴えます。

「朝廷から寛大な処置がもらえるよう謹んで行動するように
 万一、心得違いの者がいれば、徳川家もこれ限りになります」by和宮

3月11日、江戸城総攻撃まであと4日・・・
既に江戸は、新政府軍によって包囲されていました。
ここで、和宮と篤姫は最後の手に打って出ます。
篤姫は同じ薩摩出身の西郷隆盛に手紙を・・・和宮は新政府軍総督に直接手紙を書きます。

「どうか・・・私の心中をお察しください。
 江戸へ軍勢を進めるのは今しばらくご猶予くださるようお願い申し上げます。」by和宮

1868年4月11日、和宮の願いは届きます。
新政府軍との和平が成立・・・江戸は一切戦火に見舞われることなく新政府に明け渡されました。
そして、徳川宗家の存続も約束されたのです。

和宮の懸命の嘆願に寄って平和の訪れた江戸・・・一方徳川宗家は、静岡に移されました。
隠居した慶喜の跡を継いだのは、かつて家茂が跡継ぎに指名していた徳川家達6歳でした。
和宮は家達が静岡に引っ越すまで東京と言う名を変えた江戸で暮らし見守りました。
この時期の和宮の日記には、家達の名が頻繁に出てきています。
我が子同然だったようです。
24歳の和宮は、8年ぶりに京に戻ります。
京では聖護院に住み、泉涌寺や孝明天皇や光格天皇の墓所に・・・お墓参りをなさっていたようです。
祇園祭を見物し、嵐山で紅葉狩りをし、気ままに過ごします。
しかし、いつも気にかけていたのは家茂のことでした。

「京に住むことになれば安心ですが、来春の家茂さまの年季には、江戸に戻りたいと思っています。」by和宮

1874年29歳の時に再び東京へ・
そして、家茂のいる増上寺の見える場所を住まいとします。
この頃、和宮が読んだ歌が残っています。

玉敷の みやこもひなも へたてなき
         年を迎うる 御代のゆたけさ

都も田舎も隔てなく、年を迎えられる この時代の豊かさよ

1877年9月2日、和宮は療養中の箱根でその生涯を閉じます。
享年32歳でした。
亡骸は、和宮の遺言により、増上寺に眠る最愛の夫・家茂の隣に葬られました。
和宮の市からおよそ80年後の1958年、墓地の改装が行われることとなり、和宮の墓が掘り起こされました。
棺を開けると、和宮は一枚のガラス版を抱きかかえていました。
それは、生前の家茂を映した写真でした。
幕末の動乱の中、世紀のロイヤルウエディングをあげて波乱の生涯を閉じた和宮・・・
あれから150年余り・・・和宮と家茂は今も仲睦まじく、寄り添うように眠っています。

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