島津義弘の賭け (中公文庫) [ 山本博文 ]

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(2018/10/31 12:47時点)
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日本の近代化の始まりとなった明治維新・・・その大改革の位置役を担ったのが、西郷隆盛などを擁した薩摩藩です。
しかし彼らの活躍は、あの出来事がなければなかったかもしれません。
1600年9月15日、徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍併せて8万の大軍が激突した関ケ原の戦いです。
子の天下分け目の合戦で、西軍の敗戦が決しようとしたとき、よう軍の主力部隊に突き進む隊がありました。
薩摩の島津義久率いる島津軍!!これが、後世に名を残す島津の退き口です。

島津義弘は、室町時代後期の1535年に九州の名門・島津家の次男として生まれました。
義弘は、長男・義久に代わって島津軍を率いて多くの戦に出陣。
島津の旧習制覇に向けて、八面六臂の大活躍!!
猛将としてその名を全国に轟かせていました。

秀吉の九州征討によって、薩摩国・大隅国・日向国(一部)の62万石になってしまっていたのですが・・・
当時は兄の義久が、拠点である薩摩国を、弟・義弘が大隅国を治めていました。
秀吉の命で、義久が大隅を、義弘が薩摩を治めることになったのですが・・・
それは、義弘の活躍ぶりを秀吉が気に入り、島津の代表として秀吉が扱ったのだといいます。
弟・義弘が正統の当主となったわけではないのですが・・・この微妙な関係で、義弘に大きな試練が・・・!!

1600年、豊臣秀吉亡き後、虎視眈々と天下を狙う五大老筆頭の徳川家康と、秀吉の跡継ぎの石田三成との争いが激しくなります。
一触即発の中、天下分け目の決戦に向けた激動の日々が始まりました。
先に動いたのが、大坂城にいた家康でした。
家康は五大老のひとりである上杉景勝に謀反の疑いがあるとし、諸大名に出陣を要請!!
自ら会津の上杉討伐に向け、京都の伏見城に入りました。
しかし、会津に遠征することは、政の中心であった髪型を留守にすることになり、家康にとっては危険なことでした。
家康によって佐和山城に隠居させられていた石田三成が、家康が神永を留守にするのに乗じて挙兵するかも知れなかったからです。
そこで、上方の重要拠点である伏見城を奪われないように万全を喫します。
家康の重臣・鳥居元忠を城に残し、城の守りを依頼したのは島津義弘でした。
家康が義弘に依頼したのは、猛将としての腕を見込んでのことでした。
秀吉が行った朝鮮出兵での活躍は、聞きしに勝るものがありました。
当時日本は苦戦していましたが、義弘は、秀吉亡き後の泗川城の戦いで、5000の兵で数万の明と朝鮮の連合軍を打ち破ります。
これによって、日本軍の撤退が容易になったのです。

こうして家康から伏見城の守りを依頼をされた義弘ですが、これを受けると豊臣の世を守ろうとする三成を敵に回すことに・・・。
義弘の返答に島津の運命がかかっていました。

「家康殿の命とあらばお受けいたしたいが、家中の者と相談して正式にお答えしたい。」

と、即答を避けたものの、義弘には家康の頼みを断れない大きな借りがありました。
それは、前年の事件・・・
義弘の子・忠恒が、島津家の重臣で都城8万石の領主となっていた伊集院忠棟を茶席で手打ちにしてしまったのです。
それは、主君である島津をないがしろにした忠棟の行いに業を煮やしてのことでしたが、秀吉のお気に入りを殺してしまったことで三成が激怒!!
島津と伊集院との確執は収まらず、殺された忠棟の子が、都城で反乱を起こすという事態に発展してしまいました。
それによって、島津家は苦境に陥りましたが、その際、和睦を図ってくれたのが家康だったのです。
熟慮の末、家康のために、伏見城を守ることにした義弘。
家康は、1600年6月に会津に出陣!!
家康の出陣を待っていたかのように、石田三成が動きます。
7月半ば、家康のいなくなった大坂城に戻ると大軍を集め、打倒家康を掲げて蹶起しました。
そうして西軍が大坂で挙兵したころ、義弘は200の軍勢と共に京都にいました。
遅かれ早かれ西軍が伏見城に攻め込んでくるのは明白でした。
そこで義弘は、家康との約束を守るために、伏見城に入城を申し入れます。
ところが、鳥居元忠は、あろうことか義弘の入城を拒絶したのです。
鳥居はどうして義弘の入城を拒んだのでしょうか?

これは、家康と義弘とのあくまでも口約束であって、文章が存在していませんでした。
しかも、外様大名の義弘が裏切ることを恐れたからです。
聞いていなかった鳥居元忠によっては当然のことでした。
そして、この事態が義弘に危機的状況をもたらします。
周囲は伏見城を攻撃しようとする西軍で埋め尽くされていたのです。
戦おうにも兵は僅か200!!
そこで、義弘は生き残るために苦渋の決断をします。
一転して、西軍に組することでこの危機を脱しようとしたのです。
そして義弘は、戦うからには200の兵では島津の名が廃ると、国元に至急兵を送るように申し入れます。
ところが、薩摩からの援軍はなかなか到着しません。
家康を恐れた兄・義久が兵を出すことを拒んだのです。
兄から見放されてしまった義弘・・・そんな時に駆け付けてくれたのが、義久の甥・島津豊久でした。
こうして義弘を慕うものが次々と集まり、軍勢は1500ほどに・・・。
それでも兵は足りません。
天下分け目の関ケ原の戦いは、1か月後に迫っていました。

1600年8月11日、石田三成は東軍の進軍に備えるべく、6000の兵を美濃の大垣まで進めます。
1500の兵の島津義弘も三成に従い布陣しました。
そして、8月22日、三成の命を受けた島津軍は、最前線の墨俣につきます。
すると翌日、状況が一変!!
東海道を登ってきた東軍の先鋒隊が、岐阜城を急襲!!
たった1日で落城させてしまいました。
また、東軍の黒田長政、藤堂高虎の軍勢が長良川西岸に押し寄せ、西軍の先鋒隊を打ち破り進撃!!
大垣から進軍していた三成本体にも危機が迫ります。

そこで三成は、墨俣から少し離れた佐渡で軍議を開きます。
その内容は、義弘にとって思いもよらないものでした。
それは、大垣への撤退・・・しかも、義弘に・・・
「義弘殿が一緒だと心強い、ご同行願おう!!」by三成
逃げたら、最前線の墨俣にいる島津軍は置き去りとなり、東軍が攻撃してきたらひとたまりもありません。
納得のできない義弘は、三成を突っぱねます。
すると三成は、そのまま大垣へと戻ってしまいました。
義弘は、墨俣に布陣する島津軍を救い出すべく出陣!!
無事島津の兵を撤退させたのです。
その後三成は義弘に詫びますが、このことで確執が生じたともいわれています。
それから20日後の9月14日、家康をはじめとする東軍は関ケ原に進軍!!
一方三成は笹尾山に布陣!!
島津軍はその近くに軍を構えます。
両軍が布陣を終えたのは、15日早朝!!
いよいよ決戦の火ぶたが切られようとしていました。

1600年9月15日朝・・・深い霧が立ち込める中、美濃国関ケ原で東軍7万VS西軍8万の大軍が対峙しました。

島津義弘率いる島津軍も、石田三成の陣の近くに布陣します。
そして、午前8時・・・東軍・井伊直政軍が西軍・宇喜多秀家軍に向かって発砲!!
一気に戦闘が始まりました。
しかし、義弘の島津軍は動こうとしません。
まるで東軍と西軍との戦いを傍観しているかのようでした。
その後、松尾山に陣取った小早川軍が東軍に寝返り、大谷吉継軍を背後から急襲します。
この小早川の寝返りで西軍は劣勢となっていきますが、義弘の軍は動きません。
島津軍の出撃をを今か今かと待っていた三成は、義弘の元へ伝令を送ります。
しかし・・・義弘は出撃の命を出しません。
そのうちに小西行長軍、宇喜多秀家軍の敗走が始まりました。
逃げ惑う兵たちが右往左往、大混乱が・・・!!
にもかかわらず、島津軍は動きません。
そのうち、しびれを切らした三成自らやってきて、出撃を促します。
しかし、義弘に代わって甥の豊久は答えます。
「人のことなど構う暇はござらん!!」

どうして義弘は島津軍を出撃させなかったのでしょうか?
島津軍は数が少なく、二番備え・・・先陣の次に攻め入る軍勢だったので、戦機を見極めようとしていた義久・・・。
そして、戦機が訪れなかったというのが本音でしょう。
数の少ない島津軍は、むやみに出撃すれば命を落とすことは確実でした。
そこで、少しでも勝てる機会を待っていたのですが、とうとう来なかったのです。

義弘は後に語っています。

もし、島津軍に5000の兵があればあの戦、勝っていたものを・・・!!

東軍の優勢が明らかになると、出撃しなかった島津軍にも容赦なく攻撃が・・・!!
島津軍の前方には、見渡す限り東軍の兵!!
背後には伊吹山が立ちはだかっていました。
島津軍は絶体絶命の危機に陥ってしまいました。
義弘は家臣たちに告げます。

「老武者のわしには、伊吹山の泰山は越え難し。
 たとえ討たれると言えど、敵に向かって死すべし!!」by義弘

数々の危機を乗り越えてきた義弘も、この時は死を覚悟しました。
そんな義弘を甥の豊久は諫めます。
豊久の想いは、島津軍全員の思いでもありました。
なんとしても義弘を生きて薩摩に・・・!!

石田三成が配送を始めました。
東軍は、ここぞとばかりに西軍に襲い掛かり、島津軍も四方八方を囲まれ絶体絶命の危機に・・・!!
すると義弘は、
「皆の者、退却する・・・!!」
義弘は、関ケ原を抜け出し、国元・薩摩に戻ることを家臣たちに告げます。
しかし、退却すると言っても1500の島津軍が、東軍だらけの関ケ原でどうやって逃げるのか・・・??
伊吹山を背にした島津軍の退却ルートは4つ。
東海道を幾ルートは、薩摩とは反対方向なので却下。
中山道を西に進む?北国街道を北に進む?
伊勢街道を南に向かう??
義弘の退却路は、伊勢路から・・・!!
しかし、伊勢街道は、家康直臣の軍勢がいる最も難しいルートでした。

義弘はどうして伊勢街道を選んだのでしょうか?
中山道は小早川軍1万5000。北国街道は黒田・細川軍など2万。。。伊勢街道ルートは1万にも満たず、敵兵が少なかったと思われます。
合理的で冷静な判断でした。
しかし、精鋭ぞろいの家康の部隊を突破することは容易い事ではありません。
ここから、島津の退き口という歴史に残る壮絶な退却戦が始まるのです。
少数の島津軍はどんな戦法を使ったのでしょうか?

穿ち抜け・・・とは、島津軍が得意とする戦法で、錐で穴をあけるように敵の一点を集中攻撃をして突破する、至近攻撃です。
まず、島津軍に立ちはだかったのは猛将の福島軍!!
これを突破します。
”孫子”には、死に物狂いの兵には近寄るなとあります。
これが当時の常識だったので、福島軍が道をあける形になってしまったようです。
さらに、東軍を突き進んでいく島津軍。
その激闘を東軍の兵のひとりが書状に残しています。

まず少ない島津軍は、東軍に飲み込まれながらこれを突破!!

まさに必死の戦いで敵陣を進んだ島津軍は、進路を南にとります。
伊勢街道を目指します!!
すると、そこに敗走する三成を追う家康本隊と遭遇してしまいました。
しかし家康軍は、島津軍をやり過ごし、先頭は起きませんでした。
一説では、この時義弘は、家臣を家康に差し向けこんな口上を述べさせたといいます。

「島津兵庫入道義弘、こたび はからずも御敵となり、戦い利あらずして ただ今、御陣頭を過ぎて本国薩摩へと帰り申す。
 わが心事については、後日改めて言上つかまつるべし。」と。

本意ではない戦いではあった・・・と。

生き延びて、このまま薩摩に帰ったとしても、西軍として戦った島津家に未来はありません。
ひとまず家康に礼を尽くしておく・・・義弘のしたたかな作戦だったのかもしれません。
関ケ原の戦いで、西軍の敗色が濃厚になる中、薩摩に変えるために敵中突破し伊勢街道を突き進む島津軍!!
東軍も島津軍を逃してなるものか!!
と、徳川四天王・井伊直政、闘将・本多忠勝による追撃が始まりました。
その際、島津軍の繰り出した作戦は・・・??捨て扞でした。
殿の兵が残って、討ち死に覚悟で戦って他の兵を逃がすという決死の戦法です。
島津軍は、兵の命を犠牲にしながら、穿ち抜けを何度もしたと思われます。

「明良洪範」によると・・・東軍にも思わぬ被害が・・・
井伊直政が右肩に被弾し落馬、重傷を負いました。
島津軍も、甥・豊久が命を落とします。まだ31歳の若さでした。
島津軍は、多くの命を失いながら、かろうじて伊勢街道を逃げ延びます。
島津軍が関ケ原から20キロほどの駒野坂に達したのは、午後7時ごろのことでした。
この時、島津軍の兵の数は、100にも持たなかったといいます。
しかし、薩摩はまだはるか先・・・
鈴鹿峠を抜けるとき、東軍の追撃だけでなく落武者狩りにも遭ってしまいます。
さらに、困難を極めたのが、食料の調達でした。
足りなくなった時は、軍馬で飢えをしのいだといいます。
島津軍がなんとか大坂に到着したのは、5日後の9月20日。
兵の数はさらに減り、70人余りだったと言われています。
そして、大坂から薩摩へ・・・!!

東軍の勝利に終わった関ケ原・・・西軍として参戦した島津家の事情を聴くために、島津義弘の兄で実権を握る義久に出頭を命じます。
しかし、義久はこれを拒んで防御を固めます。
対決姿勢を崩さない島津家に家康は、9月30日、九州の諸大名に島津討伐軍の結成を命じます。
ところが、家康はいつまでたっても攻撃の命を出しませんでした。
実際、島津家と戦うことによって混乱し、反徳川が蹶起する可能性があったからです。
結局家康は、島津討伐を断念することに・・・。

驚くことに、島津家の本領安堵が決定!!
62万石のままになります。
同じく西軍として戦った毛利家は、121万石から37万石に、四国の長宗我部家に至っては、領地没収という憂き目に・・・。

家康は、島津家に対して異例にも寛大でした。
この時、重要な役割を担っていたのは、島津の退き口で負傷した井伊直政です。
関ケ原から半年、直政は島津家に書状を送り、和睦を成立させるために自分が働くことを伝えます。

井伊直政は、島津軍の強さを身に染みて知っていました。
なので、戦いたくはなかったのです。
おまけに、南九州まで行くということは、大変で、上杉や毛利とも和睦できていない今、何が起こるかわからなかったので、島津との和睦を進めました。
関ケ原の戦い前と変わらず本領安堵を認められた島津家・・・
さらに、義弘の助命を勝ち取っています。
これ以上ない和睦でした。
これによって、島津家は生き残り、雄藩として江戸時代を生きていく基礎となりました。

無謀と思われた島津の退き口は、結果として薩摩藩を本領安堵へと導きました。
しかし、家康にとって島津家を処分できなかったことは、大きな心残りだったともいわれています。
そして、その家康の心残りが後に災いをもたらします。
それは、関ケ原の戦いから267年後のこと・・・家康が築いた江戸幕府は、その家康が許した島津家の薩摩藩
ら討幕派によって終わりを迎えることになるのです。

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