習近平と永楽帝 中華帝国皇帝の野望 (新潮新書) [ 山本 秀也 ]

価格:820円
(2018/11/30 08:36時点)
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広大な国土におびただしい人が住む中国。
紫禁城は歴代の皇帝たちが、この国を治めるための決断をしてきた場所です。
ひとつの玉座をめぐる壮大な理想と欲望のドラマ・・・!!
世界の文明を見渡しても、皇帝一人が強大な権力をすう千年にわたって力を持っていたのは中国のみ・・・。
うごめく野望、秘められた苦悩・・・知られざる皇帝たちの素顔がよみがえります。

始皇帝以来、200人にもおよぶ中国の皇帝たち・・・
その中で極めて残酷と言われているのが、明王朝・第三代皇帝永楽帝(1360~1424)です。
今から650年前に起こった漢民族の王朝・明。
永楽帝は、甥の建文帝から皇帝の座を簒奪しました。
即位後も、敵対する人々を1万人以上殺害しました。

皮を剥ぎ わらに包んで 門にくくりつけ 見せしめとした

永楽帝の時代の皇帝の権力とは・・・??

黄崖関長城・・・現在知られる長城の殆どは、永楽帝が建設を始めたものです。
紫禁城も、天壇も、永楽帝が建設しました。

そのカギとなるのが鄭和です。
永楽帝の命を受けた鄭和は大船団を率いて世界をめぐります。
永楽帝の汚名払拭の一手とは・・・??

安徽省・鳳陽・・・1352年、この小さな農村から反乱の火の手が上がりました。
農民出身の朱元璋が、当時中国を支配していたモンゴル王朝・元に対して反旗を翻したのです。
戦火は瞬く間に全土に広まり、朱元璋の軍が勝利!!
新しい王朝・明が誕生しました。
朱元璋は初代皇帝に即位し、洪武帝を名乗ります。
王朝の新たな体制作りに力を尽くした洪武帝・・・あとをついだのは、病死した皇太子の子・・・皇太孫の建文帝でした。
これと激しく対立したのが、洪武帝の4男・・・後に永楽帝となる燕王・39歳です。
長江沿岸に広がる江蘇省・南京・・・建文帝はここに都をおいていました。
燕王は、屈強な軍隊を率いて南京を攻めます。
燕王は、武勇に優れ、モンゴルとの戦いでも功績をあげていました。
激しい戦いを続け、3年がかりで南京を攻略!!
遂に戦いに勝利した燕王は、建文帝から皇帝の座を簒奪しました。
1402年、第三代永楽帝として即位します。
しかし、戦いが終わってもその即位に激しく抵抗する人たちがいました。
明王朝を建国以来支えてきた官僚たちです。
厳しい科挙の試験を突破して、政治の実務を担ってきた官僚たち・・・彼らは、儒教の教えを心に刻み、主君への忠義や、上下関係の道理を大切にしていました。
方孝孺・・・初代・洪武帝の時代から明王朝に仕えてきた官僚です。
当時最も高名な儒学者でもありました。
即位に当たって永楽帝は、方孝孺に、自ら皇帝となったことを世に知らしめる詔勅を書くように命じます。
ところが、方孝孺はこれを拒否!!
”燕賊簒位”とだけ送り返してきました。
逆賊の燕王が力づくで行為を奪い取った・・・!!
永楽帝には正当性がなく、皇帝として認められないとしたのです。
激怒した永楽帝は、一族もろとも方孝孺を処刑しました。
直後に自らの即位に反発する官僚たちの粛正が始まります。
政府の要職にあった官僚たち・・・1万人以上・・・永楽帝は残虐という悪評が定まりました。

永楽帝は即位後、都を北京に移しました。
そして新しい宮殿を築きます。紫禁城です。
ここで永楽帝は皇帝としての新しい歩みを始めます。
紫禁城は、古くからの伝統に基づいて作られました。
が、永楽帝の玉座の上には奇妙なものが・・・天の使いの龍が玉を加えています。
もし、玉座に座るものが相応しくないなら、この玉を落とし、命を奪うという・・・軒轅鑑です。
道に背いて皇位を奪い、その残虐さが世に轟いていた永楽帝・・・玉座から見上げるたびに、自らの過去を思い出さずにはいられなかったかもしれません。
天に認められるようになる皇帝になるために、永楽帝はどんなことを行ったのでしょうか?

福建省・長楽・・・海の神をまつる長楽顕応宮・・・
1992年、この建物の地下から明時代の粘土の像が発見されました。
服には大蛇の文様が書かれています。
この文様は、位の高いものにしか身に付けられないものです。
民の高官??鄭和でないのか??
この鄭和こそが、永楽帝の汚名返上の鍵となる人物なのです。

永楽帝即位の3年後、1405年鄭和は大航海に乗り出します。
長さ100m超える巨大船で60隻以上、総勢200隻以上の大船団・・・!!
乗組員は、2万7800!!だいたいが兵士でした。
馬や資材を運ぶ馬船、大砲を乗せた戦船・・・鄭和はまさに海軍のような船団で世界を巡ったのです。

アフリカのケニア・・・明の時代には、イスラムの商人たちがここを拠点に盛んに貿易を行っていました。
永楽帝時代の銅銭が発見されています。
鄭和の航海が遠くケニアにまで及んでいたのです。
鄭和が訪れたのは30か国以上!!
大航海の目的とは・・・??
イラン・アルダビル廟にその答えがありました。
明に使節を送ること・・・??
朝貢・・・??
鄭和の大航海によって、はるか遠くの国々も永楽帝のもとに使節を送り、臣下の礼をとるようになりました。
それは、結果的には征服したのと同じことでした。

朝貢は国内の統治にも大きな影響を与えます。
外国の使節を見た官僚たちは、永楽帝の成果の前にひれ伏したのです。
鄭和の大航海は、汚名を背負った永楽帝の権威を高めることとなるのです。
江西省・景徳鎮・・・永楽帝は全国から名工を強制的に集め、ここで青花を作らせました。
永楽帝によって青花の品質は飛躍的にあがりました。
そして、永楽帝は、長江に訪れた異国のデザインをわざわざ取り入れて、国内に広めようとします。
諸外国の上に君臨する「優れた皇帝」というイメージを人々に見せることで、自らの正当性を確かなものにしようとしました。

永楽帝が日々の政務を行っていたのは紫禁城。
周囲の官僚は、皇位継承の正当性を重んじるエリートでした。
永楽帝は毎日が緊張の連続でした。
その中で永楽帝に忠誠を誓っていた鄭和。
紫禁城・乾清宮・・・永楽帝が寝起きしていた場所・・・それまでの皇帝とは違い、ここで政治的な決定をすることがよくありました。
ここで命令を受けたのは、官僚ではなく、永楽帝が信頼を置く特別な部下たちでした。
鄭和もその一人でした。

永楽帝の信頼の応え、はるかアフリカまで航海した鄭和。
鄭和とはどんな人物だったのでしょうか?
雲南省・昆陽・・・鄭和はこの地で裕福な家の次男として生まれました。
鄭和の祖先は、中央アジアから雲南に移住したと言われています。
鄭和も敬虔なイスラム教徒として育ちました。
その人生が大きく変わったのが12歳の時、明軍が雲南に侵攻したのです。
明軍はこの地を制圧し、数千人の少年が捕虜となり連れ去られ・・・鄭和もその一人でした。
鄭和は宦官として仕えました。
宦官は皇帝の私的な使用人でした。
皇帝の寵愛を受けても子孫がいないため、将来その一族が力を持つことがありません。
権力者にとっては、使い勝手のいい存在でした。

鄭和も少年の頃に宦官となり、永楽帝の身近に仕えました。
永楽帝は、若い頃から宦官である鄭和をいつも戦いに伴っていました。
皇位を奪い取るために建文帝との戦いでも、鄭和は大きな功績をあげました。
だから、鄭和に高い地位を与えたのです。
宦官が力を持つようになったのは、永楽帝の時代からです。
中国には、宦官は古くからいましたが、本来の役割は皇帝の身の回りの世話をすることでした。
しかし、永楽帝の時代になると、軍事、外交など、国の重要な部分も担うようになります。
紫禁城の東・・・ここに、かつて永楽帝が作った宦官の組織がありました。
東厰・・・東証の役割は、皇帝に反逆を企てる者や人々を惑わす者を監視し、逮捕することでした。
皇帝直属の秘密警察でした。
宦官の役割を、大きく変えた永楽帝・・・永楽帝を突き動かしていたのは、即位以来の官僚たちへの不信感でした。
永楽帝の権力を支えた鄭和・・・どんな気持ちで忠誠を誓っていたのでしょうか?
鄭和の記録はほどんど残っていません。
が・・・明後期の宦官の墓は立派なものです。
そこには、皇帝から勅命を受けたという文字が刻まれていました。
皇帝との絆こそがこの世に生きた証だった宦官たち・・・鄭和もまた、永楽帝に終生忠誠を誓いました。
永楽帝の命に従った航海は7度に及び、後半生の半分以上を航海で過ごしました。
いつどこで命を落としたのか??確かなことはわかっていません。

王朝の中で宦官の役割は・・・忠義という面においては、宦官の方が信頼できました。
官僚は、早くても20歳をすぎないと自分の家来にはならない・・・
しかし、宦官は自分が物心ついたときからいる面々で、家族的な側面を持っていたのかもしれません。
自分に危険を及ぼさない・・・自分の王権に反逆しない者として・・・!!

永楽帝の父・洪武帝の記録・・・起居注が残っています。
この記録は、皇帝の言行録なので、事実だけが書かれています。
洪武帝が誰を後継者にしようとしていたのか・・・??
聡明な第四子の燕王をぜひ皇太子に立てたいと望んでいたようです。
洪武帝の言葉に対し、重臣たちが激しく反発しました。
「陛下のご意見は一理ございます。
 しかし、燕王を立てれば、二人の兄の立場がございません。
 長男の家系を優先すべきです。」
家臣の言葉に洪武帝は、
「王位に哭し、思考してやむ」と、燕王に継がせることを諦めます。
このことは、燕王に伝わっていたと考えられます。
父からも皇帝に相応しいと認められていた燕王・・・
彼が道ならぬことと知りながら、皇帝の座を奪い取ろうとしたのはその7年後でした。
「逆取順守」・・・道理に背いた方法で天下をとったとしても、天下を取ってからは道理に従って守る・・・
皇帝になる方法が、たとえクーデターであれ、その後、良い政治をすれば取り返せると考えたのです。
ただ皇太子だから即位した人に比べて、政治への意気込みは永楽帝は人一倍強かったのです。

即位後の永楽帝は精力的に動きます。
ベトナムは、積極的に明との国境を侵していました。
即位して間もなく、80万の大軍を派遣!!
1406年ベトナム王朝を倒して、直轄地とします。
1410年モンゴルを50万の兵で遠征!!
大打撃を与えて西方に追いやります。
外敵の不安は無くなり、国は安定します。
国内では運河の改修に取り掛かります。
京杭大運河は北京から広州まで2500キロを結んでいました。
永楽帝は30万人を導入して運河を掘削し、南北を結ぶ大動脈が完成し、大量の物資の運搬が可能になります。
そして晩年・・・最後の大事業に取り掛かります。
天壇の建設です。
天壇は東京ドーム60個分の巨大建築です。
天壇の中心にある建物・祈年殿・・・かつて、皇帝しか入れない場所でした。
内側の金の装飾がある4本の柱は、四季をあらわしています。
更にその外側にある12本の赤い柱は、12か月・・・1年を表しています。
この空間は、天そのものを表しています。
天とは、中国特有の考え方で、万物を司る存在です。
永楽帝は家臣たちが居並ぶ中、一人で入って天に祈りを捧げました。
自らが天子であることを知らしめようとしたのです。
皇帝としての正当性を確かなものにしようとした永楽帝・・・。
永楽帝が最後に頼ったのが天だったのです。

物資が大量にある平和な時代が続き、鄭和が訪れた国々からは、朝貢の使節がやってきて、象やライオンなどが献上されます。
永楽帝に朝貢する国々は60に及び、人々は明の国の強大さを実感します。
永楽帝は、明の最盛期を実現したのです。
しかし、相次ぐ大事業は、永楽帝の心と体の負担となっていました。
60歳を超えた永楽帝は、虚脱感に襲われ何日も寝込むようになります。
理由もなく怒ることもあったとか・・・。
さらに、宮廷で思わぬ出来事が起こります。
宮廷の掟を犯した宮女を取り調べていたところ、その宮女が告白しました。
皇帝の暗殺まで企てていたのです。
その真偽はわからないものの、永楽帝は、関係者の多くを処刑します。
完成されたはずの支配体制のほころびでした。

永楽帝が62歳を迎えた初夏の夜・・・玉座に座る年月は19年を超えていました。
紫禁城の上空がにわかにかき曇り、大雨が降り始めました。
荒れ狂う空に閃光が走ります。
激しい轟音と共に雷が紫禁城を直撃しました。
一面は火の海となり、明け方まで燃え続けたといいます。
跡形もなく灰となりました。

永楽帝は、「自分の至らぬ点について意見を求めた」
これを機に、官僚たちが次々と上奏を行い、大事業が人々を苦しめたと批判しました。
官僚たちの不満を知った永楽帝は、翌年、思わぬ行動に出ます。
モンゴルへの親征・・・自ら50万の兵を率いての出陣でした。
ところが、この遠征は全く成果を得ることなく終わります。
モンゴル軍に遭遇することすらできず、2か月・・・砂漠を放浪するだけでした。
その後も、2度にわたってモンゴルに出陣しましたが、結果は同じでした。
永楽帝は、遠征の途中・・・モンゴルの平原で65歳の生涯を閉じるのです。
皇帝に相応しくあることに費やされた生涯でした。

永楽帝が、生涯にわたって力を注いだ建造物があります。
外敵を防ぐために北に作られた万里の長城です。
始皇帝が築いたことで知られる万里の長城ですが、明の時代には荒れ果てていました。
その再建を本格的に始めたのが永楽帝でした。
今知られる万里の長城の殆どは、明の時代に作られたものです。
永楽帝の目的は、北方に総延長6000キロに及ぶ防衛線を作ることでした。
そして、そこに兵を常駐させることでした。
中国では、皇帝の歴史的評価は、次の時代に書かれる正史で決まります。
明史では、永楽帝はこう評価されています。

”永楽帝の威光は、遠い国々まで及んだ
 四方の国は服属、その武力は光り輝いている
 しかし、甥を倒して皇位を奪ったことなど、背徳の行為は決して隠すことはできない”

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