オリンピックで大規模な開発が行われている東京・大手町・・・その一角に防護壁に守られた不思議な場所があります。
ここには史上類を見ない謀反を起こした男の首が祀られています。
平将門・・・939年12月、将門は朝廷に反旗を翻しました。
そして、当時坂東と言われていた関東八か国を制圧・・・新しい天皇・・・新皇を名乗ったのです。
しかし、朝廷が送った討伐軍の前にあえなく戦死、謀反は50日余りで終わり・・・首は都に運ばれ獄門に処されます。
首は無念を叫びながら飛び去り、東京大手町に埋葬されました。
以来、平将門は祟り神として祀られてきました。
関東大震災・・・首塚のあった場所に、大蔵省の官舎を建てようとすると時の大臣や関係者が次々と死亡・・・祟りを恐れた政府は、首塚を復活させたと言います。
さらに第二次世界大戦後、GHQがこの場所に駐車場を作ろうとするとブルドーザーが横転し、作業員が死亡したと言われています。
平将門は、どうしてGHQをも畏れる祟り神となったのでしょうか?
鋼の肉体を持ち、7人もの影武者を従えていたという平安時代最強の兵・・・平将門。
彼が抱えた無念に迫り、反逆者誕生の謎に迫ります。

1000年以上の伝統がある相馬野馬追・・・
将門の母は、相馬氏に繫がる家系の出だと言います。
この祭りの起こりは、幼いころから馬に親しみ、騎馬戦に無類の強さを誇った将門由来と伝えられています。
当時坂東と呼ばれていた坂東八か国・・・将門の本拠地は下総国。
利根川の支流と沼が複雑に入り組んだ湿地帯が広がっていました。
そこにある国王神社・・・その名前は、一時将門が新皇を名乗ったことに由来します。
神社の一角にある宝物蔵には、娘が将門の33回忌に併せて作らせた木像が眠っています。
坂東一の兵らしい威厳のある面構え・・・

将門の父・良持は、桓武天皇の孫にあたる高望王の三男です。
天皇の血をひく父の兄弟たちは、それぞれが坂東に所領を持つ豪族でした。
成長した将門は京都に向かいました。
痴呆の豪族にとって都との関係は欠かせません。
身内の誰かが出世を遂げ、官職を得れば、一族の繁栄につながるのです。
父の期待を背負った将門は、いとこの平貞盛と共に滝口の武士として働き始めました。
しかし、ここで人生初の挫折を経験します。
貞盛は、京都において人間関係をうまく泳げる官僚的資質を持っていました。
しかし、将門はその資質に欠けていたのです。
順調に出世をする貞盛に対し、官職につけない将門・・・
930年、そんな将門に驚きの報せが・・・
父・良持が急死したのです。
無位無官のまま戻った故郷で、難題にぶち当たります。
3人のおじたちが将門の前に立ちはだかったのです。
将門が父から譲り受けた所領を狙って攻撃をしかけてきたのです。

935年2月、おじたちの連合軍が大挙してなだれ込んできました。
しかし、戦は騎馬戦に長けた将門の完勝!!
将門はその争いの中で、おじひとりの命を奪ってしまいます。
それは都で出世を競い合った貞盛の父・国香でした。

「戦の事情を冷静に振り返れば、父の死は将門のせいではなく、叔父たちの欲が招いたものだ
 自分は復讐心を抱いていない
 共に手を携えて、平氏の名を広めていくべしと将門には和睦の手紙を送ろう」by貞盛

しかし、叔父たちのリーダー良兼は、貞盛に激しく迫ります。

「将門と和睦しようとは兵の道に背く行いだ
 我々と力を合わせ、父の仇将門を討つべきではないのか」

貞盛は、結局反将門軍に入ることを承諾しました。

935年6月、貞盛を加えた叔父たちの軍は数千の大軍で攻めてきました。
梅雨時の戦い・・・騎馬戦に自信のない連合軍は、足場の悪い川や湿地帯を回避して将門の陣地に迫ろうとしました。
しかし・・・将門軍はわずか100騎で連合軍の背後を急襲・・・叔父たちは不意を突かれて散り散りに敗走!!
再び将門の前に敗れ去りました。
その後叔父たちのリーダー良兼の死を境に、平氏の内乱は将門の勝利に終わりました。
いつしか将門は、坂東一帯の平和維持を求められる存在となったのです。



平安時代中期・・・都の貴族たちは律令制度のほころびからうまい具合に地方からの税が集まらないことにいら立っていました。
そこで、都から派遣し在地の役人と共に税の徴収に当たる国司の権限を強化。
一定の税を中央に納めさえすれば、あとは国司の蓄財に回せるという仕組みに変えていました。
武蔵国国府・・・この国富に赴任してきた新しい国司・興世王は、自らの蓄財を増やすべく、税の徴収を精力的に行おうとしましたが・・・在地の役人・武芝が抵抗・・・両者の対立が起きていました。
結果興世王は、言うことを聞かない武芝の倉を襲い、無理やり税を徴収していました。
国司と郡司の対立は、激しさを増していきます。
その仲裁に乗り出したのが、隣国の下総に所領を持つ将門でした。

将門は、兵を率いて武蔵国に乗り込みます。
将門は背酒の席を設け、興世王と武芝の間を取り持ち和解に持ち込みます。
相手は国が派遣してきた役人・・・穏便に一件落着を図ったのです。
ところが・・・戦に敗れて以来、復讐を狙っていた貞盛が目をつけます。
上京した貞盛は、京都時代に培った人脈を使って・・・
”将門は他国まで出向いて乱行を働いている”と、朝廷に訴えたのです。
それが功を奏して、将門に都にやってきて弁明するように通達が出されました。
将門の中に、坂東をの現実を直視しない朝廷への怒りが・・・!!

「本来ならお褒めの言葉を頂戴しても良きところ
 逆に貞盛の言葉を鵜呑みにこの将門を召喚するとは・・・
 まさに恥辱であり、面目を失うものです。」

そんな中、新しい問題が・・・!!
常陸国の豪族・藤原玄明が、国司から逃れて将門のもとへ逃げ込んできました。

「国司の息子がひどい奴で、父の権威を嵩に罪のないものを次々に陥れているのです」

武蔵国に続いて常陸国の争い・・・都から遠く、朝廷の権威が届かない坂東では、律令制度の矛盾が様々に噴き出していました。
それを解決するすべはなく・・・何かと将門が頼りにされました。
939年11月21日、事情を確かめようと将門は、兵を引き連れて常陸国に向かいました。
ところが・・・国司の息子が3000もの兵で襲い掛かってきたのです。
それを指揮するのは、将門を陥れようとした宿敵・貞盛でした。
将門の怒りは頂点に達しました。
「徹底的に打ち負かすのだ!!」by将門
貞盛は取り逃がしたものの、将門が奪った印と蔵の鍵・・・
この二つのものは、国司の権力を象徴するものでした。
国司の権力、徴税権、財産運用・・・その権力を手にしたのです。
印と蔵の鍵を奪ったことで、一線を越えてしまった将門・・・
その結果、彼は心の中に大きな葛藤を抱えることとなってしまいました。
興世王がささやきます。
「ここまでやってしまったんです。
 いっそ坂東全土を支配下に治め、朝廷の出方を伺ったらいかがですか?」
坂東を支配するか・・・??
それとも朝廷を和解する・・・??

939年12月11日、将門は兵を率いて下野国に向かい、国府を占領。
その後も、次々と国府を襲い、坂東八か国を支配下に置きました。
将門の実力を知っている各地の国司たちは、ほぼ無抵抗で印と蔵の鍵を差し出しました。
将門が選んだのは・・・坂東を支配するというものでした。

そして12月19日、将門は国司の任命式を行います。坂東は、将門の支配するところとなったのです。
その式典のさ中・・・八幡大菩薩の使いと称する皇子が表れこう告げます。

「我は八幡大菩薩の使いで、朕の位を将門公に授け奉る
 これは、左大臣菅原道真公の霊魂が認めたものである」

菅原道真は、藤原氏から京都を追い出され大宰府で無念の死を遂げた貴族・・・
その後、左遷に関わった貴族たちが雷に打たれるなど宮中では災い事が相次ぎます。
そのため、当時道真の呪いは最も恐れられていました。
その道真の霊魂に朕の位を認められたとして、ここに新しい天皇・・・新皇を宣言したと言われています。
道真を持ち出すことで、自分を正当化し、朝廷に対して妥協を求めたのです。
将門謀反の知らせが届いた都は、大混乱に陥り、翌年の正月行事はすべて中止となりました。
朝廷は各寺社に対し、兵乱調伏の祈祷を命じます。
将門を呪い殺そうとしたのです。

朝廷は現実的な対応も発表しています。
謀反を起こした将門を殺したものは、身分を問わず貴族にすることにしたのです。
まさになりふり構わずの将門討伐命令です。

将門も、弟からもっと慎重になるべきだったと諫められます。

「なぜ、力を持つ者が権力を奪い取って悪いのだ
 山を越えよ、岩をも破ろうとする私の信念は、誰にも負けるものではない」

その後、将門は不思議な決断を下しています。
将門軍の主力である農民たちを故郷に帰したのです。
農民にとって田起こしの時期が迫っていたのです。

その動きを密かにも守っていたのは・・・将門の宿敵・貞盛でした。
今回は単独では動かず、ある坂東の有力豪族を味方に引き入れようとしていました。
下野の豪族で藤原秀郷・・・田原藤太です。
坂東にあって将門と並んで評されていました。
将門を討てば貴族になれる!!と、討伐軍に加わります。

940年2月・・・貞盛、秀郷連合軍は、下総国に向かいます。
そして2月14日、将門の本拠地近くで両軍は向き合います。
討伐軍は2000!!
対する農民のいない将門軍はわずか400!!
圧倒的に不利な中、将門軍の奮闘が始まりました。

2000対400・・・5倍の兵力の座は如何ともしがたく・・・
将門は追いつめられていきます。
馬上の上で亡くなる将門は、矢を頭に受けています。
宿敵・貞盛が放った一本の矢・・・
それを受け、将門は絶命したのです。
秀郷の手で介錯された将門の首は、近くの木に晒されました。
新皇宣言から50日・・・将門の乱はこうして幕を閉じたのです。
その後、将門の首は討伐軍によって都に持ち帰られ、史上初めて獄門に晒された将門の首は、京の人々の前でこう叫び続けたと伝えられたと言われています。

「私の身体はどこへ行った・・・
 また一つになって戦おうぞ!!」

京都の町に晒された将門の首・・・体はどこへ行ったと叫び続けた首は、ある日空に舞い上がり坂東を目指しました。
そして大手町に不時着したと言われて・・・そこに首塚が祀られました。
江戸時代、その首塚に隣接していた小さな寺を、家康が江戸の鬼門に移設しました。
江戸総鎮守・神田明神です。
一説には神田とは・・・将門が叫んだ”身体”がなまったものだと言われています。
武士の先駆け将門に守られた江戸は、その後260年の長きにわたって続きました。
2020年の東京オリンピックに向かって再開発が進められる大手町・・・
その一等地にあるものの、将門の首塚には一切手が触れられていません。
しかも、工事中にビルから物が落ちてはいけないという配慮からか厚い防護壁で守られています。

今も将門の首塚には、多くの人が参っています。
一説には左遷されたサラリーマンも、ここに祈れば再びこの地に帰ることができるとか・・・。
最強の祟り神だった将門は、今は最強の守り神として人々の心のよりどころになっています。


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