厚い胸板、鏡の前でファイティングポーズ、アフリカでライオンのハンティング・・・20世紀を代表する小説家ヘミングウェー。
行動する作家・・・戦後、アメリカ社会のヒーローとなりました。
その生涯は死の恐怖との戦いの連続でした。
20世紀、アメリカのメディアに度々登場し、ワイルドで行動的な小説家アーネスト・ヘミングウェー。
彼の書く小説も、その外見そのものでした。
代表作の”老人と海”は、真カジキと勇敢に戦う老人の姿を描いて、後にノーベル文学賞を受賞。
戦場にも度々足を運びます。
「武器よさらば」「誰がために鐘は鳴る」・・・自らの体験を描いた作品はベストセラーとなり、20世紀の作品に大きな影響をああ得たと言います。
プライベートでも、真カジキと戦い、アフリカでハンティングに熱中・・・。
自らパパ・ヘミングウェーと名乗り、戦う男らしい男のシンボルになろうとしました。
しかし・・・

「人に聞いてもらうためにウソをついた」

周りが求める姿を演じるあまり、自分を押し殺す場面もありました。
真実とフィクションの間で揺れ動くヘミングウェー・・・その心に常にあったのは、死の恐怖でした。
スペイン内紛、第2次世界大戦に従軍記者として参加。
戦場で死を身近に感じることで対極にある生を強く感じることができました。

「人間は滅茶滅茶にやられるかもしれない
 でも、打ち負かされることはないのだ」(老人と海)

しかし、61歳の時・・・
「書けないのだ・・・もう言葉が出てこないのだ・・・」
最期は自分の手で人生を終わらせることを選びました。

ヘミングウェーは、何度も戦場に・・・戦場での実体験を小説にしました。
”行動する作家”だったのです。
その創作スタイルは、小説の新しいスタイルを切り開いたと言われています。
どうして戦場に向かったのか・・・??

1899年、アメリカ・シカゴ郊外のオークパーク・・・裕福な人々が暮らすこの町で生まれました。
母グレースは元オペラ歌手・・・厳格で格式を重んじ、良家の子女に音楽を教えていました。
ヘミングウェーも、母に無理やりチェロを教えられています。
父クラレンスは医者・・・収入はあったものの、母の1/20でした。
そのために、父は母に頭が上がりません。
母親が経済力が強く、権威主義でもあったので、母親が父親を支配する構図となり、それに対してヘミングウェーは父親を被害者だと思っており、母親を憎んでいました。
父は息苦しい家庭から逃れるように、しばしば大自然の中の別荘へ・・・!!
父から釣りや狩猟の手ほどきを受けることに・・・

祖父アンソン・・・南北戦争に参加したアンソンは、戦場での武勇伝を孫に語ります。
ヘミングウェーは、祖父の語る勇敢な兵士に憧れるように・・・。
そんな祖父がヘミングウェーの12歳の誕生日に贈ったのが、狩猟用の散弾銃でした。
1913年、ヘミングウェーは地元の高校に入学します。
この頃から小説を書き始め、高校の校内雑誌に3つの短編が掲載されています。
両親は医者になることを望みました。
しかし、ジャーナリスト志望のヘミングウェーは、大学に進もうとはしませんでした。
卒業後、ヘミングウェーが選んだ仕事は新聞記者でした。
新聞社の見習いになった年、ヨーロッパは第1次世界大戦真っ最中・・・
この年、アメリカもドイツに宣戦布告し参戦します。
アメリカ第28代大統領ウィルソンは、「戦争を終わらせるための聖なる戦争」と賛美します。
大統領の呼びかけで、戦意を高揚した若者たちは戦地へ向かいました。

ヘミングウェーも参加を熱望しますが、左目の視力が弱くて兵士としては不合格・・・戦場に行けません。
しかし、何としても戦場へ行きたかったのです。

「なんとかヨーロッパに行ってやる!!
 こんな大戦争に参加しないでいるなんて、とてもできない」

ヘミングウェーが見つけた仕事は車の運転手・・・赤十字の傷病兵運搬車の運転でした。
1918年・・・18歳でイタリアの戦場へ。
最前線に配属されて2週間後・・・敵の砲弾を受け、隣にいた兵士は即死、ヘミングウェーも両足に砲弾の破片を200カ所以上受ける瀕死の重傷を負います。
この直後に家族に宛てた手紙が残っています。

「この戦争には英雄など誰もいません。
 われわれはみな、自らの体を差し出し、そこでほんのわずかな人が選ばれるのです。
 死ぬことはいとも簡単なことです。
 僕は死というものを見、死とは何なのかが本当にわかっています。」

それまでは栄光や名誉を夢見ていた戦争の真の顔・・・初めて死と恐怖を身をもって知ったのです。

ヘミングウェーは、イタリア前線で負傷して帰国した最初のアメリカ人となりました。
地元に帰ったヘミングウェーは、英雄として迎えられ、公演を依頼されます。
この時、ヘミングウェーは戦争の実体を正直に話さず、自分を誇張しました。
その理由をにおわせる台詞が短編小説の中にあります。

「人に聞いてもらうためにウソをついた
 うそはたいしたものではなく、他の兵士が見たり、聞いたりしたことを自分のことのように話しただけだった」(兵士の故郷)

戦場での経験を自ら進んで話したヘミングウェー・・・しかし、”死の恐怖”だけは語らず・・・書くこともありませんでした。

第1次世界大戦で負傷したヘミングウェーは、戦場について様々なことを語りながら、その死への恐怖だけは晒すことはありませんでした。
その後、新進気鋭の作家となっても、戦争体験を小説にできないでいました。
しかし、負傷から10年経って、自分の壁をぶち破って「武器よさらば」を発表します。
どうして書けたのでしょうか?
イタリアから帰国し、新聞記者に戻ったヘミングウェーは、1921年、22歳で8歳年上のハドリーと結婚。
新婚生活の場所に選んだのは、フランスのパリでした。
1920年代のパリには、画家のピカソ、小説家のフィッツジェラルドをはじめ多くの芸術家が集まっていました。
パリに行くのが、小説家の近道だと考えたのです。
後の作品でこう語っています。

「もし、若い時にパリに住む幸運に巡り合えば、後の人生をどこで過ごそうともパリは君と共にある
 なぜならパリは移動する祝祭だから」(移動祝祭日)

パリで執筆を始めたヘミングウェーは、1923年、24歳で初めての作品集「三つの短編と十の詩」を出版。
新聞社の記者をやめて、小説家一本でやっていくと決めたのは24歳でした。
ハドリーは親から多くの財産を相続していたので、生活には困らなかったのです。
1926年、27歳で初の長編小説「日はまた昇る」出版。
物語の舞台は、第1次世界大戦後のパリ・・・戦争によってそれまでの価値観が崩壊してしまった若者たちが主人公でした。
不安の裏返しからその日の快楽を求める日々を送っていました。
やがて一人の女性と4人の男性はパリを離れスペインへ。
闘牛を観戦する旅で、女性をめぐり関係が複雑にこじれていきます。

戦後の退廃的な世相が簡潔な文体で書かれたリアルな描写は、若者を中心に大ヒット!!
ヘミングウェーは、一躍新進気鋭の作家となりました。
この文体は、新聞記者時代に培われたもので・・・事実をそのまま書くということが、小説にとっては斬新だったのです。
ヘミングウェーが勤めていた新聞社には、文体心得があり・・・
短い文を用いよ
肯定文で書け
修飾語はなるべく使うな
など、ヘミングウェーの文体の骨格をなしています。

「作家の仕事は真実を語ることである」

自分が見たり、聞いたりしたことをそのまま書くというのが一番の特徴でした。
しかし、大きな問題が・・・
この小説は、ヘミングウェーが実際に友人たちとスペイン旅行をしたときのことがリアルに描かれていました。
登場人物のモデルが誰だか仲間うちですぐにわかってしまったのです。
女性に節操がないのが誰なのか・・・??
プライバシーを暴かれ、怒った友人たちは次々とヘミングウェーの元を去っていきました。
しかし、ヘミングウェー自身はモデルの友人たちは喜んでいるはずと思い込んでいました。



パリで友人を失い、妻と離婚したヘミングウェーは、1928年、29歳の時にフロリダ州のリゾート地キーウェストに移住します。
そこでようやく、自分の戦争体験を小説に書き始めました。
戦場で負傷したあの時から10年の月日がたっていました。

「僕は、最初の戦争があまりにも恐ろしかったので、10年間もそれについて書けなかった
 戦闘は作者に及ぼす傷は、癒すのに非常に長い年月が必要だ」

1929年、30歳の時に「武器よさらば」出版。

第1次世界大戦のさ中、イタリア戦線に参加したアメリカ軍兵士と赤十字の看護師との恋を描いた物語・・・
戦場で負傷し、死を身近に感じた主人公は、脱走して恋人と生きることを選びます。
しかし、待っていた結末は、恋人の死でした。

「人は死ぬ。
 学ぶ時間も与えられず、死とは何かが理解できないうちに。」(武器よさらば)
 
アメリカではセンセーショナルに受け止められます。
それは、戦争に実際に行って、その体験を書いた初めての小説だったからです。
”聖戦”とうたっていたが、国家間の利害を求めた結果で、戦争は欺瞞であったことに国民が気付いたのです。
それは、「武器よさらば」から見えてくるのです。
戦争に実際に行って小説を書く・・・その方法があることに、世界中の作家が気付いたのです。

「武器よさらば」は、3か月の販売部数が7万部以上の大ヒットとなりました。
ヘミングウェーは、誰もが認める人気作家の地位を築いたのでした。

ヘミングウェーが10年かけて、死への恐怖を乗り越えようやく書けた「武器よさらば」。
しかし、完成直前に思わぬ知らせが・・・
父・クラレンスが自らの銃で命を絶ったのです。
ヘミングウェーは、父の自殺は母のせいと思い、母を許しませんでした。

「父は、ただ臆病だっただけで、誰だって手に入れることのできる運が最悪だったのだ
 もし、臆病でなかったら、好き放題に威張り散らしていたあの女(ひと)に、俄然と立ち向かっていただろう
 父が別の女性と結婚していたら、自分はどんな風になっていただろうか」(誰がために鐘は鳴る)

1930年代のアメリカでは、雑誌ジャーナリズムが大流行。
「武器よさらば」が大ヒットし、時代の寵児としてもてはやされるヘミングウェー。
自らパパ・ヘミングウェーと称し、狩猟や釣りの写真と共に、野性的で男らしいイメージをアピールしました。
そのたくましい姿は、メディアを通じて世界に発信され、いつしか”強いアメリカ”の象徴としてヒーロー的な扱いを受けました。

作家がマッチョなのは初めてのタイプ・・・自分で演じていたようです。
ヘミングウェーが好んで行い、小説の題材にしたのがハンティングや闘牛観戦、カジキ釣りでした。
人間よりも大きなものとの命のやり取りに魅せられたと言います。
特に闘牛はお気に入りで、何度もスペインを訪れています。

「私は書くことを学ぼうとしていて、最も単純なことから始めた
 最も単純なことで、最も基本的なことは、激烈な死である」(午後の死)

1936年、スペインで内戦が勃発。
1937年、37歳のヘミングウェーは、従軍記者としてスペイン内戦へ。
そこで、以前とは違う感覚に襲われます。

「スペイン内戦は、死の恐怖や他の諸々の恐怖、全てを完全に拭い去ってくれました。」

皮肉なことに、かつて戦場で植え込まれた死への恐怖が戦場に立つことで消えたといいます。
ヘミングウェーは、この体験をもとに・・・1940年「誰がために鐘は鳴る」出版
反乱軍から、自らが愛する国スペインを救うために内戦に身を投じたアメリカ人の物語・・・。
ゲリラ隊と合流した主人公は、そこで出会った娘と恋に落ちます。
そして、橋の爆破という作戦を遂行します。
が・・・

「この一年、私は信じることのために闘ってきた。
 もしここで勝利することができれば、どこでも勝利するであろう。
 この世は素晴らしいし、そのために闘う価値がある。」(誰がために鐘は鳴る) 

この作品では、これまでのスタンスが微妙に変化しています。
「武器よさらば」のように戦争への懐疑的な目線は薄れ、戦争のために自己犠牲をも厭わない主人公の美談になっていました。
「誰がために鐘は鳴る」は、爆発的な売れ行きを見せ、1年後には販売部数50万部の大ヒットとなります。
ところが・・・それ以降、ヘミングウェーは、文章を書くスピードが遅くなってしまいました。
昔のように書けなくなったのです。
次の作品の完成には10年が必要でした。

「誰がために鐘は鳴る」以降、筆の進まなくなったヘミングウェー・・・
スランプに苦しみながらも、10年後に「老人と海」を発表。
ヘミングウェーは、その後ノーベル文学賞を受賞。
小説家として頂点に立ちました。
しかし、7年後・・・突然自らの銃で命を絶ちました。
どうして死を選んだのでしょうか?
1940年、41歳の時、ヘミングウェーは3番目の妻とキューバに移住。
既にヨーロッパでは第2次世界大戦がはじまっていました。
この時、従軍記者としてヘミングウェーも参加。
その体験をもとに書いた短編小説「中庭に面した部屋」は、昨年死後57年を経て発表されました。
ドイツ軍の占領下からパリが解放された直後、兵士たちがホテルで自分の体験を語り合う物語です。
内容は、私設軍隊の戦闘体験でした。
これを読めば、ヘミングウェーは、従軍記者として戦地にいただけではなく、軍人として戦闘に参加した可能性が非常に高いのです。
ヘミングウェーは、戦場で私設軍隊を率いていたのでは??と、考えられています。
その私設軍隊を率いた体験がそのまま小説に書かれているので、生前に発表されるとまずいと・・・
「死んだら発表してもいい」と、コピーを妻に渡していました。
ハンティングや闘牛で死を見つめ続けたヘミングウェー・・・遂に人としての一線を踏み越えて、人間を殺していたのかもしれない・・・。
しかし、それほどの体験をしても執筆は進まず、悶々とする日々が続きました。
そんなヘミングウェーに転機が訪れたのは1948年・・・ある女性との出会いでした。
イタリア人のアドリアーナ・・・30歳以上年下の18歳の美少女でした。
ヘミングウェーは、アドリアーナに片思いしました。
そして・・・1950年、51歳の時に「河を渡って木立の中へ」出版。
中年男性と18歳の少女との恋を描きました。
アドリアーナは、ヘミングウェーを尊敬してはいましたが、二人は恋愛関係にはならず・・・ヘミングウェーの一方的な恋心でした。
アドリアーナは、当時を振り返りこう語っています。
「私は活気にあふれ、熱意がみなぎっていました。
 だからその熱意を、彼に注ぎ込みました。
 彼はそれまでの文章を書き終えると、別の小説に。
 私に言わせれば、はるかに優れた小説に取りかかったんです。」

その小説こそ・・・「老人と海」・・・本を出すとき、ヘミングウェーが出版社に直談判して表紙にはアドリアーナのデザインが使われました。
物語は実話をもとにヘミングウェーが脚色したものです。
ある年老いた漁師が不漁続きの中、ひとり小舟に乗って沖に・・・そして三日三晩の格闘の末に、遂に巨大な真カジキを仕留める・・・ところが港に帰る途中、船に括りつけた真カジキはサメに食われ、せっかくの苦労も水の泡になってしまう・・・それでも、

「「人間は打ち負かされえるように造られてはいないのだ」
 老人は声に出していった。
 「人間は滅茶滅茶にやられるかもしれない、でも、打ち負かされることはないのだ」(老人と海)

「老人と海」は大ヒットとなり、作家・ヘミングウェー復活!!
と思われた矢先・・・ヘミングウェーを乗せた飛行機がアフリカで墜落してしまいました。
頭がい骨骨折、脊椎損傷、内臓破裂、顔・腕・頭にヤケド・・・重症でした。
これ以降ヘミングウェーは、思うような活動ができなくなってしまいました。
事故から9か月後、ノーベル文学賞を受賞しますが、とても授賞式に出られる体ではありませんでした。

受賞の感想を求められ・・・
「最初に感じたのは喜びでした。
 その喜びは日がたつにつれ次第に大きくなりました。」
その後も健康状態が悪化し、気が滅入ることが多くなっていきます。
「老人と海」以降、作品を出さなくなってしまったヘミングウェー。
しかし、文章を書いていなかったわけではなく、あまりにも長くなり物語をまとめられなかったのです。

かつて極限まで装飾を削ぎ落し、簡潔な文章で名を馳せたヘミングウェー・・・その面影は最早ありませんでした。

「書けないのだ・・・もう言葉が出てこないのだ」

そして1961年7月2日・・・61歳・・・愛用の散弾銃で自らの人生に終止符を打ちました。 


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