平安時代末期、日本は大混乱にありました。
平家VS源氏・・・源平争乱です。

そして一人の英雄が登場・・・平家の世をひっくり返すのです。
その男の名は、木曾義仲!!
信州の山奥で挙兵し、平家軍に連戦連勝の天才武将です。
義仲の名を世に知らしめたのは倶利伽羅峠の戦い。
平家の大軍勢を奇想天外な戦法で壊滅させ、平家を都から追い出します。
痴呆の反乱軍が都を制圧するという歴史の転換点です。
上洛からわずか半年で非業の死を遂げることとなる義仲・・・義仲が起こした反乱とは何だったのでしょうか?

日本屈指の山々に囲まれた木曽地方・・・
木曾義仲はこの地で25年間息をひそめていました。
2歳の頃、父義賢が一族間の争いに敗れ殺され、義仲も命を狙われていたのです。
そんな義仲を匿い育てたのが・・・木曾の豪族・中原兼遠でした。
どうして兼遠は追われる義仲を匿ったのか・・・??
”(平家が牛耳る)この国が変わっていくには、この子を育てて世に出すこと”と、切に願っていました。
義仲は、源氏御曹司の中の一人で、孤児とはいえ将来源氏の頭領になってもおかしくない・・・地方豪族の兼遠は、権勢をふるう平家に危機感を抱き、源氏の復権を義仲に望んでいました。

平安末期・・・平家への不満は全国にありました。
平清盛が富と権力を掌握し、後白河法皇を幽閉し、院政を停止するまでになっていました。
1180年4月・・・法皇の三男・以仁王が、全国の源氏に対し、平家追討の命令を発します。
この命を受け、決起した一人が信濃の木曽谷に暮らす27歳の武将・義仲でした。
義仲は旗挙八幡宮で高らかに宣言します。

「そのために、あなたを今日まで育ててきたのです。」by兼遠

と、大いに喜びました。
しかし、この旗挙は、義仲にとって一か八かの賭けでした。
共に挙兵したのは兼遠の子で義仲を主と仰ぐ今井兼平、樋口兼光、巴御前らと数人・・・。
大軍を擁する平家にとっては取るに足りない人数でした。
ところが義仲はまさかの快進撃!!
挙兵から1か月後には上野に進出!!地元の豪族を味方につけ勢力を拡大し、北陸に向かいます。
1181年6月、横田河原の合戦・・・奇襲作戦で勝ってからは北陸の武士までもが義仲軍に加勢・・・雪だるま式に膨らんでいきます。
そんな義仲の快進撃を支えたのが・・・木曽馬と言われています。
険しい山間で育った木曽馬は胴長短足で安定感抜群!!
後ろ脚がX脚という珍しいラインで、悪路でも踏ん張りがきき、機動力に優れ、山岳戦では無類の強さでした。
雄馬は、相手をかみ殺すぐらいけんかっ早く、威圧感たっぷりでした。

挙兵から3年・・・義仲軍は、越中と加賀の国境まで勢力を伸ばし、北陸をほぼ手中に納めかけていました。
ところが・・・国境の倶利伽羅峠には、平家の大軍が待ち構えていました。
清盛の孫・維盛が膨れ上がる義仲軍を殲滅するため都からやってきたのです。
平家軍4万に対し、義仲軍5千!!
勢いだけではどうすることもできません・・・圧倒的な兵力の差でした。
それでも義仲は圧勝します。
一説には牛の角に松明をつけて突進させる火牛の計を使ったと言われていますが、4万の兵をいかにして壊滅させたのでしょうか?
平地では不利なので、倶利伽羅峠の地形を利用して兵を6隊に分け、平家軍を地獄谷に攻め落とす戦法です。
自身の軍で、敵を前方に引き付け、その間に残りの兵を分散・・・周囲から一斉に夜襲をかけることで、山の南側に広がる断崖・・・地獄谷に追い込むというものでした。
義仲軍に攻めたてられた兵士の侍が、なだれ込んでいきます。
当時の戦は、1対1や10対10で正面から戦うのが正攻法でした。
奇想天外な戦略だったのです。
この勝利によってそれまで平家に付き従っていた豪族や寺社勢力も義仲に味方するようになりました。
義仲の勢力の拡大は・・・信濃から上野・・・その後北陸へ進出し、倶利伽羅峠の頃には頼朝に匹敵する勢力となっていました。

しかし・・・どうしてここまで勢力を拡大できたのでしょうか?
そこには大飢饉の影響がありました。
当時は各地から京に物資を入れることで、京の生活が成り立っていました。
飢饉が起こり、京に物資が足りなくなると、税金や収穫物の取り立てが強化されていました。
それが京を支配する平家への反感の要因の一つとなっていました。

当時、西日本一帯は、干ばつによって農作物の収穫が激減(養和の大飢饉)・・・
痴呆からの年貢に頼っていた京は、食料が無くなり深刻な事態に陥っていました。
町は餓死者で溢れ、死人を食べるものまで出て来ました。
この大飢饉のしわ寄せが、干ばつを免れた北陸に年貢の取り立てとして押し寄せます。
自分達の食料まで取り上げられた地方武士たちの不満は、朝廷政治への怒りとなって義仲勢力の拡大へと繋がっていったのです。

更に勢いづかせたのが・・・越中宮崎城で起こります。
以仁王の第一皇子北陸宮が義仲に保護を求めてきたのです。
以仁王は義仲の挙兵直前に平家に討たれ、北陸宮にも身の危険が及んでいました。
都を脱出した北陸宮が頼ったのが、快進撃を続けていた義仲だったのです。
北陸王は、平家に最初に反旗を翻した以仁王の子です。
義仲の反乱を正当化する存在でした。
地方の一介の反乱軍だった義仲が、中央でやっていける存在だったのです。
飢饉をきっかけに中央への不満を爆発させた地方の反乱軍・・・
義仲は彼らを引き連れ、北陸宮という大義を掲げ、いよいよ都を目指すことに・・・!!
当時の海上交通は、太平洋側より日本海側が主要で、商品流通を抑える意味では北陸を拠点にするのは大正解でした。

1183年7月25日、迫りくる義仲軍を前に平家は安徳天皇を伴って西国に脱出・・・平家都落ちです。
義仲軍が都に入ったのはその3日後のこと。
人びとは傲慢な平家を追い出してくれたと歓迎し、平家を追い出した日の出のごとき義仲を”朝日将軍”と称えたといいます。
朝廷の公家たちも、義仲に強い期待を寄せました。
右大臣・九条兼実の日記「玉葉」には。。。
”義仲には一刻も早く都に入ってもらい、狼藉を働く武士たちを取り締まってほしい”
平家の軍勢がいなくなったことで、都の治安が悪化、略奪や放火が横行していました。
上洛の2日後・・・都の警備を一任されます。



1183年7月30日、京中守護に任命されます。
治安回復に乗り出す義仲・・・
しかし、ここで思わぬ事態が・・・
義仲軍までもが狼藉を・・・略奪を始めたのです。
大飢饉によって、都には戦を重ねてきた義仲軍を満足させるだけの食料も何も残っていませんでした。
その略奪のすさまじさは・・・”武士以外の者は一日として生きる術がない”とまで言われたほど。。。

平家物語には、治安回復を懇願する公家たちに対し、義仲が何も答えなかったとあります。
期待から一転・・・義仲は田舎人・・・けがらわしい・・・都の人々の評判を落とす結果になってしまいました。
どうやったら暴徒と化した武士たちをコントロールできるのか・・・??
そこで義仲は、朝廷に働きかけ官位を立て続けに手に入れます。
従五位下・左馬頭、越後守の官位を取得。
反乱軍の大将が朝廷の権威を得ることで、指揮権を強化しようとしたのです。
そしてその権威を用い、京周辺で狼藉を働く武士たちを取り締まろうとしました。
しかし、それでも治安が回復することはなく、義仲は軍に向けられた人々の怒りや侮蔑は強まる一方でした。
さらに義仲は新しい摩擦を引き起こしてしまいます。
以仁王の遺児・北陸宮を次の天皇に推挙したのです。
平家との戦いを宣言した以仁王の遺児・北陸王こそ、新時代の天皇に相応しい・・・
一介の武士が皇位に口を挟むのは、異例のことでした。
それに怒ったのが天皇家の主・後白河法皇です。
法皇は義仲に担がれた北陸宮の擁立に猛反対!!
高倉天皇の皇子・四宮を次期天皇に指名しました。
義仲と法皇の対立に朝廷は紛糾!!ふさわしいのは誰なのか・・・??
公家たちが議論の末に出した決着の方法は占いでした。
天が選んだ天皇ならば、異論の余地はない・・・そう考えた朝廷の高官たちは、義仲の推す北陸宮と後白河が推す四宮、さらに四宮の兄・三宮を加え、神祇官たちによる占いで決めようとしました。
結果は何と三宮!!
神祇官から占いの結果を聞いた後白河は、これを拒否!!
占いのやり直しを命じました。
忖度か偶然か・・・次は四宮に・・・!!
一部始終を知った義仲は憤慨するも四宮の即位を譲らない後白河・・・

北陸宮の即位を断念する??それとも北陸宮を次期天皇に推すか・・・??

次期天皇の占いから数日後の8月20日・・・
新しい帝が位につきました。
そこに現れたのは、まだ4歳だった四宮・・・後の後鳥羽天皇でした。
義仲は北陸宮の即位を断念したのです。
後白河法皇の意を汲んだ見え透いた占いで帝を決したことに憤ったものの・・・法皇に従いました。
朝廷との関係悪化を避けたい義仲は、その後後白河法皇の命により西国で勢力を回復しつつあった平家追討に出陣!!法皇への忠誠を健気に誓っていました。
しかし・・・戦場にいる義仲のもとに耳を疑う情報が・・・!!
それまで鎌倉で沈黙を守っていた源頼朝が大軍と共に弟義経を上洛させます!!
この上洛、後白河法皇の差し金でした。
義仲が瀬戸内で平家と戦っている間に、頼朝と通じ、義仲を追討しようと考えていたのです。
頼朝は、平次の乱の前、後白河院の近臣のひとりでした。
義仲より頼朝の方が昔の関係もあって期待していました。
平家の都落ちは、義仲ではなく頼朝の功績ととらえ、一時は第一の功労者を頼朝にしようと考えていました。
手を結ぶのは、義仲ではなく、あくまでも頼朝だったのです。
平家との苦戦が続く中、後白河法皇と結託し、都に迫りつつある頼朝勢力・・・
この時義仲は、滅亡の危機にあることを悟りました。

果たして、絶体絶命から脱する手立てはあるのか・・・??
命令に従って平家と戦う・・・??それとも後白河法皇から政権を奪う??それとも平家と結んで鎌倉を撃退する・・・??選ぶべき道は・・・??

鎌倉勢の上洛を聞いた義仲は、すぐさま行動を起こします。
後白河法皇の命に背いて平家との戦いを放棄、軍勢を引き連れて都に戻り、鎌倉勢との決戦を主張し、朝廷の高官や有力寺院に協力を依頼!!
しかし、都の治安回復すら実現できなかった義仲に協力する者はいませんでした。
さらに後白河法皇から義経軍の入京を認め、軍勢を引き連れて再び平家追討に向かえという義仲を都から遠ざけるような命令が度々届きました。

ならば・・・義仲は決断します。
1183年11月、義仲はついに実力行使に!!
後白河法皇と後鳥羽天皇が暮らす御所・法住寺に兵を率いて攻め入ったのです。
法住寺一帯はたちまち火の海となり、襲撃から4時間後決着・・・官軍の敗退・・・義仲は法皇を捕らえて幽閉します。
武士が自らの判断で上皇と天皇を襲撃するのは、日本史上義仲が初めてのことでした。
クーデターを成功させた義仲は、法皇の息のかかった公家や武士を朝廷から追放!!
自らは幽閉している後白河法皇に迫り、頼朝、義経を押さえる征東大将軍に・・・!!

しかし、朝廷に反旗を翻しておきながら、その権威だけは利用するというのは道理が通らない・・・
都の近隣の武士たちは鎌倉側に寝返り、北陸で加勢した軍勢も離散・・・
結局義仲に残されたのは、最初に木曾で作った僅かの手勢でした。
1184年1月・・・伊勢で都の政情を静観していた義経が、遂に動きます。
義仲軍は宇治川で義経軍2万5000を迎え討つもその軍勢はわずか300騎だったと言われています。
最早勝負は見えていました。
義仲軍は壊滅・・・義仲自身も僅かの兵と友に敗走・・・
本拠地北陸へ向かうために、都の北・長坂口を目指すはずでした。
ところが義仲は途中で踵を返し、鎌倉軍の待つ琵琶湖の南端・大津の打出浜に向かいます。
そこでは木曾時代からの家臣にして幼馴染だった今井兼平が義仲を逃がそうと戦っていました。
再会した義仲は、たった二騎で逃亡・・・しかし、追手が迫っていました。
最早逃げ切ることはできない・・・兼平は、義仲に名誉の自害を薦めた後、たった一騎で敵に向かっていきました。
義仲は琵琶湖畔の松原で自害を決意・・・ところが馬が泥沼にはまって身動きが取れません・・・
その一瞬・・・義仲の額に矢がつきたちました。
敵の歓声を聞いた兼平も、太刀の切っ先を口に含むと、そのまま馬を飛び降り命を絶ちました。
時に義仲31歳・・・最期まで付き従ったのは、故郷・木曽の仲間たちだけでした。

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