日本初の正史・・・公認の歴史書と言われる日本書紀・・・
681年3月、第40代天武天皇の命によって編纂が始まり、40年の長い歳月を費やして720年全30巻が完成しました。
そこには神々による国の創生と天皇家の歴史が書かれ、時代を越えて多くの人に読み継がれてきました。
しかし、日本書紀にはある疑惑が・・・。

1~2巻・・・神代紀・・・神々による日本の創生
3巻以降は、天照大神の子孫である初代神武天皇から天武天皇の妃・第41代持統天皇までの天皇家の歴史

「古事記」も天武天皇の命によって編纂されたもので、この二つを合わせて記紀と言います。
内容も非常に似ていますが違っているのは・・・古事記はすべて漢字で書かれているものの日本語を漢字で記したものです。
日本書紀は、完全な漢文・・・古代中国語で書かれています。
日本の歴史書なのに、どうして漢文で書かれていたのでしょうか?

日本書紀の編纂が始まったのは、681年3月・・・
天武天皇が6人の皇族と6人の役人に編纂を命じたと言われています。
そしておよそ40年後の720年、天武天皇の王子・舎人親王によって完成します。
時を同じくして古事記の編纂も行われていましたが、漢文と日本語・・・二つのモノが必要だった理由・・・それは、編纂が始まる18年前に始まった白村江の戦に関係していました。

660年、日本と友好関係を結んで仏教をもたらした百済が、唐・新羅の連合軍に敗れて滅亡・・・
3年後、日本は百済復興のために3万の水軍を派遣!!
白村江で唐・新羅の連合軍と激突!!
しかし、結果は惨敗!!
日本軍は、全面撤退を余儀なくされます。
この敗戦を機に、朝廷は国防を意識するようになり、時の女帝・斉明天皇の皇子・中大兄皇子は大宰府に水城や山城を建造、対馬と筑紫には防人をおきました。
さらに、中大兄皇子が第38代天智天皇に即位すると・・・国家として唐に劣らない政治体制を築くために近江令を制定、庚午年籍を作成します。
そうした国家の体制づくりを受け継いだ弟・天武天皇は日本書紀によって日本を守ろうとしたのです。

日本は、唐をはじめとするアジア諸国に対して、唐と匹敵する深い歴史や文化があることを、日本書紀によって示したのです。
だから、日本書紀は完全な漢文で書かれているのです。
つまり、日本書紀は国外向け、古事記は国内向けに作られているのです。

「日本」という国名が初めて使われたのはこの日本書紀が初めてです。
それまでは、中国によってつけられた倭と呼ばれていましたが、それを用いず日本を使うことで成熟した独立国家であるとしたのです。

しかし・・・歴史は権力者が作るものです。
権力者に都合のいい歴史が書かれる・・・特定の事件、人物に対して事実とは違うことが書かれています。
日本書紀には虚構の歴史が書かれているというのです。

1~2巻・・・神代紀には、天皇の誕生がこう記されています。
男神の伊邪那岐と女神の伊邪那美が愛し合って日本列島を生み、そこに天照大神の孫である邇邇芸命が降り立ちます。
この邇邇芸命の子孫が、初代神武天皇となったと。
7巻には、日本武尊が登場!!
女装で油断させ、ヤマト王権に抵抗する九州の熊襲を成敗します。
いずれも本当のことかどうか定かではありませんが、天皇家の権威を高まるために書かれたことには違いありません。

ところが・・・16巻に登場する25代武烈天皇は・・・悪行の限りを尽くした稀代の暴君として書かれています。
あろうことか妊婦の腹を裂き胎児を見たり、生爪をはいだものに素手で山芋を掘らせたり、木に登らせたものを射殺したり・・・やりたい放題・・・これほど悪く書かれている天皇は他にありません。
武烈天皇は、自らの悪行が祟ったのか跡継ぎを残せないまま崩御。
天皇家の正当な血統が絶たれてしまったために、10代前の応神天皇の5世孫・継体天皇を越前から呼び寄せて即位させたのです。
天皇を神格化して日本の統治者であることを正当化する為に作られた日本書紀に、どうして天皇家の不名誉な歴史が書かれているのでしょうか?

実際に武烈天皇がそうだったのではなく、中国の歴史書に倣って暴君にされてしまったようです。
中国は有史以来、数多くの王朝交代を繰り返してきていました。
そして王朝が滅び去るときには暴君の存在がありました。
日本書紀によって中国に匹敵する連綿とした歴史があることを主張したい日本でしたが、王朝の滅亡や暴君が登場したことはなく書けない・・・
そこで、跡継ぎを残さないまま亡くなった武烈天皇を暴君に仕立て上げ、血統の交代を中国の王朝交代のようにドラマチックなものにしたのでは・・・??と言われています。

日本書紀にはその編纂を命じた天武天皇に関することも書かれています。
それは、天皇に即位する前・・・大海人皇子の時に起きた大事件です。
672年に多くの皇族や豪族を巻き込んで起こった古代最大の内乱・・・壬申の乱です。
日本書紀28巻にはその経緯が書かれています。
天智天皇は、当初弟の大海人皇子(天武天皇)を次期天皇候補の筆頭にしていました。
ところが・・・第一皇子の大友皇子が成長すると・・・親子の情に流されて、朝廷の官職の最高位である太政大臣に任命。
次期天皇候補の序列を入れ替えてしまったのです。
それでも安心できない天智天皇は、病床に大海人皇子を呼んで揺さぶりをかけます。
「皇位をそちに譲る・・・」
この言葉にまんまと乗ってくるならば、謀反の意ありと討伐!!と考えたのです。
それを察した大海人皇子は出家して吉野の山へ・・・。
こうして天智天皇の子・大友皇子が第39代弘文天皇として即位。
疑心暗鬼の弘文天皇は、吉野の大海人皇子に食料が届かないというような妨害工作を働きかけます。
もともと皇位を奪うつもりなどなかった大海人皇子ですが・・・

「このままだと命を奪われてしまう・・・」

と考え身を守るために兵を集めて挙兵しました。
多くの皇族や豪族を巻き込んで両軍が激突し、これに勝利した大海人皇子が第40代天武天皇となったのです。
つまり、大海人皇子はやむを得ず弘文天皇を討ったというのです・・・が。
真相は全く違っていました。
当時は跡を継ぐのは長男で・・・次男である大海人皇子はそれを補佐する存在にならなければなりませんでした。
つまり、大海人皇子には後継継承権はなかったのです。
それにもかかわらず、地位と権力を奪い取った・・・その通りに書くわけにはいかなかったのです。
後継証券がない大海人皇子が天皇になりたくて起こした一方的な皇位の簒奪だったのです。

大海人皇子が託されたのは、”天智天皇の血を受け継いだ正当な後継者を生み出すこと”でした。
大海人皇子は天智天皇の娘4人を妻にしています。
我が子である大津皇子、草壁皇子などの後見人を期待されていたのです。
しかし、やはり息子たちの後見人では満足できない・・・天皇になりたいという野心がありました」。
おまけに、鵜野讃良皇女は天智天皇の娘でした。
夫である大海人皇子が平の皇族であっては困る・・・後見役で終わってしまっては困る・・・という切迫した思いがこの反乱を起こした一因だったともいわれています。

日本書紀の中で、自分の皇位継承を正当化する為に歴史を作り変えてしまった天武天皇・・・
しかし、編纂が始まってわずか5年後・・・686年10月崩御!!

その後、日本書紀の編纂に大きな影響を与えたのは・・・当時の最高権力者・藤原不比等でした。
朝廷に仕える役人のひとりに過ぎなかった不比等は、701年日本初の本格的な基本法・大宝律令の編纂において中心的な役割を果たしたことで、政治の表舞台に登場します。
さらに、娘・宮子が文武天皇に入内し、後の聖武天皇となる首皇子を出産すると、天皇家との関係を強くしたことで、絶大な権力を掌握!!
後に続く藤原家の隆盛の礎となりました。
そんな不比等もまた、史実の改ざんを行った可能性が高いのです。
父である中臣鎌足が大きく関与した歴史的事件・・・大化の改新の発端の真実とは・・・??

奈良明日香村にあるにある伝飛鳥板蓋宮跡・・・35代皇極天皇の宮殿があった場所です。
ここで645年大化の改新の発端とされる事件が起こりました。
乙巳の変です。
日本書紀24巻には、事の顛末がこう記されています。
ある日、皇極天皇の皇子・中大兄皇子が蹴鞠をしていると靴が脱げてしまい・・・その靴を役人のひとりである中臣鎌足が拾います。
これをきっかけに意気投合した二人は、絶大な権力を握り天皇を蔑ろにしていた蘇我氏をうち滅ぼそうと決意をします。
そして、飛鳥板蓋宮で、朝鮮の使節が天皇に貢物を捧げる儀式が執り行われている時・・・
二人は儀式に出席していた蘇我入鹿を襲撃し、斬殺!!
さらに中大兄皇子が入鹿の父・蝦夷の反撃に備えて兵を集めると、蘇我氏の最期を悟った蝦夷は自らの屋敷に火を放ち、自害した・・・。
つまり、乙巳の変は、天皇を蔑ろにする蘇我氏を二人が成敗する・・・正義の決起!!
本当にそうだったのでしょうか?
日本書紀によって大悪人とされている蘇我蝦夷・入鹿親子・・・の蘇我氏。
表舞台に登場したのは6世紀前半からで、入鹿の曽祖父稲目が朝廷の大臣に就任したことに始まります。
稲目の後は馬子・・・馬子は、日本に伝来したばかりの仏教を推進し、権力を拡大。
日本初の本格的仏教寺院・飛鳥寺を建立します。
33代推古天皇のもとでは、中心となって国政を司りました。
蝦夷・入鹿の時代になると、隆盛は極まり、朝廷の権力を掌握!!
そして、大きな事件を起こします。
乙巳の変の1年半ほど前の643年・・・蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を次期天皇にしたいと考えていた入鹿は、最大のライバルである山背大兄王を襲撃!!
一族もろとも自害に追い込みました。
日本書紀には、入鹿の単独行動による暴挙とされていますが・・・乙巳の変の原因となる事件とされていますが・・・。
入鹿は黒幕に命じられて、山背大兄王を襲撃したのではないのか??
黒幕とは・・・当時の天皇であった皇極天皇??
皇極天皇は、後の天智天皇、天武天皇の実の母親です。
中国の文化や思想に傾倒した天皇で、事件が起こった当初は自らが暮らす飛鳥を、唐の長安のようにしたいと・・・権力の象徴となる都にしたいと思っていました。
しかしこの時、斑鳩に新しい宮殿が築かれており、そこを拠点とする山背大兄王が次期天皇となれば、都が斑鳩に移ってしまう・・・。
そこで、腹心・入鹿に命じて山背大兄王を襲撃させたのでは・・・??
入鹿は皇極天皇の命に従って山背大兄王を襲撃したに過ぎない・・・。
日本書紀の入鹿の単独行動による暴挙はうそ??

入鹿が惨殺された理由は・・・??
日本書紀では中大兄皇子が入鹿を暗殺した際に、皇極天皇にこう訴えています。
「蘇我入鹿は天皇家を滅ぼそうとしていました。
 いるかなどによって、天皇家が滅びるようなことはあってはなりませぬ。」
朝廷をh牛耳っていた蘇我入鹿は天皇家を滅ぼし、その地位を乗っ取ろうとしていた・・・これを防ぐために、入鹿を討ったと言っているのですが・・・??
蘇我氏は当時、蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を天皇にしようとしていました。
決して自分達が取って代わろうとは思っていませんでした。
どうして「乙巳の変」は起こったのでしょうか?
そこで出てくるのが黒幕・皇極天皇です。
皇極天皇は山背大兄王暗殺の褒賞として、蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を次期天皇に内定しました。
が・・・これに不満を抱いたのは、次期天皇の座を虎視眈々と狙っていた皇極天皇の弟・軽皇子でした。
軽皇子は、天皇に次期天皇内定の取り消しを願い出ましたが、良い返事が返ってきません。
そこで・・・
「私を次の帝に指名していただければ、飛鳥京の築造に協力いたします。」
と申し入れ、ようやく納得させたのです。
そうなれば、あとは邪魔者を始末するのみ・・・。
邪魔者とは・・・古人大兄皇子を推す蘇我氏でした。
乙巳の変は、日本書紀に記されている正義の決起ではなく、軽皇子が起こしたライバル勢力の排除であり、そこには皇極天皇の心変わりがあったのです。
それは、天皇家や、それにかかわった中臣鎌足の子・不比等にとって知られたくない事実でした。
そのため、蘇我氏は日本書紀によって稀代の大悪人とされてしまったのです。



軽皇子は、乙巳の変2日後に即位し、孝徳天皇となります。
蘇我氏が持っていた公共事業の権利を天皇家が掌握することとなります。
これによって莫大な利権が自分の物となるのです。

中大兄皇子と藤原不比等は一刺客として乙巳の変に参加しました。
中大兄皇子は叔父が即位した方が、皇位が巡ってくる可能性が・・・
鎌足は、乙巳の変当時は軽皇子の腹心でした。
二人が英雄のように書かれている理由は・・・
編纂された当時の天皇の理想像は、一つは天智天皇の血統を受け継いでいる事、もう一つは藤原氏の血脈である事・・・それはまさに当時の皇太子。。。首皇子(聖武天皇)のことだったのです。
二つが結びついた事件が乙巳の変だったのです。
二人が一刺客ではなく主役であったと改ざんされることとなりました。

日本書紀には、天智天皇が自ら鎌足の病床を見舞う・・・そして、669年藤原姓を賜わるというエピソードがあります。
藤原氏が天皇家にとって特別な存在であるということを、知らしめなければならなかったのです。
不比等以降、藤原氏の黄金時代が続きます。
それは日本書紀によってつくられた藤原氏のイメージが根底にあったのです。

軽皇子が孝徳天皇となって始めた政治改革が大化の改新です。
教科書にも、天皇による中央集権化が進んだ重要な改革だったと書かれています。
日本書紀には、その大化の改新の政策方針として発令された「改新の詔」が次のように記されています。

・土地や人民の私有を禁じる公地公民制の施行
・首都の設置
・戸籍の作成
・新しい租税制度の制定

ところが・・・この改新の詔についても・・・1967年に発見された木簡により改ざんがあったことが明らかとなりました。
日本書紀の改新の詔には、”郡”という行政区画の単位は701年以降から使用されたとあります。
木簡から”郡”が使われだしたのは、701年以降であることが判明・・・つまり、改新の詔は本来のモノではなく、701年以降に不比等の時代に書き換えられたものなのです。
どうして書き替える必要性があったのでしょうか?
乙巳の変の正当化のため・・・大改革を目指して行われたとしなければ・・・
大化の改新をより際立ったものにするために、その発端となった乙巳の変の歴史的価値を高め、それを実行した中大兄皇子と中臣鎌足の名声をあげる・・・そのために、改新の詔を改ざんしたのでは・・・??

古代日本を語るうえで欠かせない聖徳太子・・・
日本書紀における聖徳太子についての記述は・・・厩戸皇子・・・。
聖徳太子は、生前の功績をたたえて後世に呼ばれた名前で、本来の名は厩戸皇子です。
日本書紀によると、第31代用明天皇の皇子として生まれました。
生まれてすぐに言葉を話し、青年後は一度に十人の話を聞くことができたという超人的な能力を持っていました。
叔母の推古天皇が第33代推古天皇として即位すると、皇太子として摂政として政治改革に邁進し、冠位十二階や十七条憲法を制定、遣隋使を派遣し大陸の文明や文化を吸収、法隆寺をはじめ、多くの寺院を建立。
仏教の普及に尽力しました。
まさに古代の英雄です。
のはずですが・・・その厩戸皇子に関する資料はほとんどなく、98年後に作られた「日本書紀」にだけ詳しく書かれています。
聖徳太子こと厩戸皇子は実在の人物ではなく日本書紀によって書かれた虚構の人物・・・??

厩戸皇子は実在するものの聖徳太子として広く知られている人物像は日本書紀によってつくられた可能性が高く、さらにその立場も・・・皇太子に立てられ摂政ということですが・・・
厩戸皇子の時代、皇太子や摂政という地位はありませんでした。
皇太子であり摂政であるというのはねつ造だと思われます。

厩戸皇子は、実際にどんな職務についていたのでしょうか?
605年政治の中心だった飛鳥を離れ、斑鳩に築いた宮殿に移ります。
このことから朝廷での職務は・・・??
斑鳩は、当時の国際玄関口である難波にアクセスしやすいところにありました。
期待された役割は外交・・・外務大臣であったのです。
遣隋使の派遣・・・むしろこれが本来の職務で十七条憲法作成には携わっていないばかりか十七条憲法自体、天武天皇の時代以降につくられた可能性が高いのです。
そうなると、厩戸皇子は天才政治家でもなかったことになります。
どうして日本書紀は厩戸皇子を超人的な皇太子に仕立て上げたのでしょうか?
そこには藤原不比等と首皇子(聖武天皇)の存在がありました。

日本書紀が完成される時期に皇太子となったのが首皇子でした。
日本に皇太子という制度が導入されたのは7世紀末・・・編纂された当時、皇太子ってなに?と、認識されていませんでした。
そこで、皇太子とはかくあるべきという皇太子の理想像としてつくられたのです。
頭脳明晰、人の話をよく聞く、仏教を重んじる・・・理想像を示すことで、それを手本に首皇子に学んでもらい、偉大な天皇となってほしい・・・そうなれば、天皇家と密接に結びついている藤原家も安泰・・・。
不比等はそう考えていたのかもしれません。
そんな野望が、聖徳太子こと厩戸皇子の虚構の人物像を作り上げたのです。
そしてそれを学んだ首皇子は、第45代聖武天皇となり、廬舎那仏・・・奈良の大仏建立に情熱を注ぐのです。
仏教によって国を守り安定させることで、天皇の権威を示そうとしました。
そして、そのそばには藤原氏の姿がありました。

日本初の正史・・・国歌公認の歴史書でありながら、時の権力者によって事実でない虚構が数多く記されている日本書紀・・・まさに、歴史は勝者によってつくられるのです。


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