2.26事件、阿部定事件と世間を震撼させる事件が続いた続いた昭和11年・・・
1枚のレコードが話題となりました。
「お伝地獄の唄」です。
愛する男のために罪を犯したその女性の名は・・・明治の初めに毒婦と言われた実在の人物・高橋お伝でした。
彼女は本当に毒婦だったのでしょうか?

明治9年8月26日夕刻・・・東京蔵前に会った旅館・丸竹に一組の男女がふらりと入ってきました。
身なりの立派な中年の男は古物商・後藤吉蔵、その隣にいた粗末な格好をした女が高橋お伝、この時26歳でした。
二人は2階の部屋にあがると夜の10時ごろまでお酒を飲んでいたといいます。
8月27日朝・・・二人がなかなか起きてこないので声をかけると・・・
「悪いモノを食べたようで、具合が悪いのでしばらくこのまま寝かせてくださいな。」
傍らには、明け方にお伝が殺した吉蔵が横たわっていました。
お伝は血にまみれた吉蔵の首を布団で隠し、部屋を出る支度をはじめます。
8月27日夕方・・・お伝は女中に、
「私はちょっと出かけてきます。
 主人はまだ調子が悪くて寝ていますので、決して起こさないように・・・」
そう言って、勘定の1円を先払いすると、出かけていきました。
8月28日朝・・・しかし、お伝は帰ってきません・・・
男も起きてこないので、女中が男のところに行くと・・・全く起きないので布団をめくってみると、首を切られ血まみれになった死体が・・・!!
女中は部屋から飛び出してすぐに警察に通報!!
しかし、二人は偽名で泊まっていたために身元がわからず・・・
余りにも凄惨な殺人現場・・・枕の下から書置きのようなものが・・・

”この者に5年前に姉を殺され無念の日々を暮らしてきましたが、ついに仇を討ちました
 姉の墓参りを済ませたら出頭します
 逃げも隠れもしません”

この殺害は仇討だった・・・??
しかし、これは巧妙な偽装工作だった・・・??

仇討と言えば、世間の同情もひき、捜査の手も緩むだろう・・・。
仇討は、江戸時代までは公認されていましたが、地方制度の整備によって、お伝の事件の3年前の明治6年に禁止令が発布されていました。
しかし・・・禁止令が出されても、お伝の事件はそれから間もなくのことだったので、仇討に同情的で・・・この前に土佐で起こった仇討は無罪になっていました。
墓参りが済めば出頭しているのではないか・・・??
警察も同情的で、出頭するのを待ち、捜査もろくにしませんでした。
しかし、数日後、事件は予想外の展開を見せます。
後藤吉蔵の妻から「夫が帰ってこない」と通報が入ったのです。
容貌や服装から、蔵前の遺体が吉蔵であることが判明・・・しかも、家を出る時に持って出ていた所持金11円がなくなっていることもわかりました。
事件は仇討から強盗殺人に切り替えられ、捜査を開始!!
人相書きを作り、お伝を探します。
すると。。。よく似た女が東京の新富町にいたという情報が入り・・・しらみつぶしに捜索が・・・
そして、明治9年9月9日、警察は知人宅に潜んでいたお伝を発見し、そのまま逮捕!!

お伝はどうして吉蔵を殺してしまったのでしょうか?
強盗殺人で捕まったお伝は、市谷監獄に収監されます。
当時は物的証拠よりも自白が重要視されていたので、取調べは厳しく拷問も当たり前でした。
しかし、お伝はなかなか自白しないばかりか・・・恋人に手紙を書いています。
仮釈放にしてもらえるように、権威のある人に力を貸してもらえるように恋人に頼んだのです。
さらに、新聞記事によれば・・・助かりたい一心で、供述をころころ変え、そのたびに供述書に拇印を押していたといいます。
そんな中で、一貫していたのは「姉の仇討」ということでした。
「私は旧沼田藩の家老・広瀬半右エ門の娘です。
 母・春が広瀬家に出入りいている際に、半右エ門の手がつき生まれたのが私でした。
 そして、半右エ門にはもう一人娘がいて・・・それが姉のかねです。
 そして、このかねの旦那こそが、にっくき後藤吉蔵なのです。
 吉蔵は5年ほど前、理由はわかりませんが、姉を刺し殺してしまったのです。」
 だから、その仇を討ったのだと言い張ります。
しかし、調べてみると沼田藩の広瀬家にはそんな事実はなく・・・
姉がいるというのも作り話でした。
お伝は確かに沼田藩・・・嘉永3年に上野国下牧村で生まれました。
父親は高橋勘左衛門という浪人でした。
母・春は嫁入り前に身籠っていて・・・それを承知で器量の良い春を娶っていました。
そして春はお伝の父親について決して話さなかったといいます。

春が身籠っているのを承知で娶った勘左衛門でしたが、お伝が生れてわずか2か月で春を離縁してしまいます。
このことを、取調べで勘左衛門は語っています。
「春はどうにも我儘が強くてね
 自分の気に適いませんでした。」
この母の性格をお伝は受け継いでいました。
お伝は子供のいなかった勘左衛門の兄・高橋九右衛門に養子に出されてしまいました。
九右衛門はたくさんの田畑を持ち、農業の傍ら造り酒屋を営んでいたので裕福でした。
実の子のようにかわいがられたお伝・・・14歳になった時、九右衛門の勧めで百姓の宮下要次郎を婿にとります。
ところが・・・甘やかされ我儘に育ったお伝は、真面目が取り柄の要次郎をどうしても好きになれず、夫を残して家を飛び出し、料理屋の住み込み女中となってしまいます。
九右衛門が連れ戻しに行っても、要次郎のいる家には帰らないと駄々をこねるばかり・・・
結局、九右衛門が根負けし、要次郎との離縁を受け入れました。
お伝の最初の結婚生活は、わずか2年半で終わりを告げたのでした。
我儘なお伝を造り酒屋に奉公に出した九右衛門・・・
しかし、九右衛門にとっては可愛い一人娘・・・20日ほどで許されて・・・17歳の時2人目の婿を取ります。
親類でもある高橋波之介でした。
働き者で色男・・・お伝にとっては理想の亭主でした。
義父からもらった田畑を共に耕しながらつつましく暮らしていました。
しかし、その幸せも長くは続きませんでした。
「1年半が過ぎた頃、夫がレプラになってしまいました。」
レプラとは、ハンセン病のことで、らい菌による慢性感染症のことで、主に皮膚と末梢神経に病変が生じます。
現在では治療法が確立していましたが、当時は不治の病で感染すると信じられていました。
それでもお伝は献身的に看病しました。
わが身をも省みずに看病するお伝でしたが、波之助の病状は良くならず・・・生活も困窮していきます。
田畑を担保に借金をして凌ぐ日々が続きます。
病気のせいで村人からも疎まれていた二人は、村を出る決意をします。
おでんは義父に「必死に働いてお金は返すつもり」と書置きをし、故郷を捨て、波之助と共に東京に向かいます。
二人は東京・馬喰町の旅館に落ち着き、お伝は雇い奉公をして生活を支え、波之助の治療法を必死に探します。
日本に最新の医療を持ち込んだヘボンの治療を受けようと、横浜に移り住んだこともありました。
お伝は治療費や生活費のために身を粉にして働きます。
時には娼婦として路上に立ったことも・・・。
波之助を助けたい一身でした。
惚れた男にはとことん尽くす・・・それがお伝でした。

運命とは残酷なもので・・・お伝の必死の看病もむなしく、波之助の病状は悪化の一途をたどり・・・
明治5年9月・・・遂に帰らぬ人になってしまいました。
深い悲しみに暮れるお伝・・・故郷には借金もあって帰れない・・・
しかし、身寄りのない都会で、女性が一人で生きていくのは容易なことではありませんでした。



お伝は、当時羽振りの良かった絹商人・小沢伊兵衛の愛人となり、なんとかしのいでいました。
そんな中・・・運命の人と出会うのです。

「麹町にいたところ、小川市太郎という男と知り合い、すぐに夫婦同然となって商いをはじめました。」

小川市太郎は尾張藩士の子弟でしたが、明治維新で失業し、お伝と出会ったことは遊び人に身を落としていました。
しかし、根はやさしく何よりも色男だったので、お伝は惚れこんでしまいました。
二人は一太郎が借りた金を資金に仲買業を始めました。
お伝は関東一円を飛び回ったといいます。とても仕事熱心でした。
今度こそ幸せを・・・と、働きますが、市太郎は遊び惚けてばかり・・・
なかなか軌道に乗らず、生活は困窮を極めていきます。
明治9年・・・二人は茶葉の取引に失敗し、大きな損失を出してしまいます。
住むところも失っていよいよ首が回らなくなった二人は、新富町に住む友人・穴倉佐太郎に同居を申し込みます。
とても人情深い男で、二人の食事まで用意してくれました。
うまくいかない事業・・・借金・・・お伝の人生は大きく狂っていきます。

高橋お伝はどうして人を殺めてしまったのか・・・??
働かない恋人の小川市太郎の代わりに、お伝は内職をして当座をしのいでいましたが、その傍らで街角に立ち体を売っていました。
それでも商売で作った借金は一向に減りませんでした。
心身ともに追いつめられたお伝は、商いの相手だったともいわれている古物商の後藤吉蔵を訪ねます。
羽振りの良かった吉蔵に、200円の借金を申し入れるお伝。
平均年収が160円ほどだった時代、200円は今の500万円に相当します。
なかなか首を縦に振らない吉蔵・・・。
しかし数日後・・・
明治9年8月26日、吉蔵は突然態度を変えます。
お伝に金を貸すようなそぶりを見せると・・・
「どこかで一泊しないか」
藁にもすがる思いでお伝は吉蔵の誘いを受けいれ・・・
蔵前の旅館・丸竹に・・・。

そして吉蔵に言われるがままに体を委ねるのです。
翌朝事件が起こります。
お伝は寝ていた吉蔵をおこし、もう一度借金を申し込みますが・・・
吉蔵は悪びれる様子もなく「貸せない」と、冷たく言い放ち、再び眠ってしまいました。財布を見てみると11円しかありません。
弱みに付け込まれ、もてあそばれただけ・・・悔しい!!
するとお伝は突発的に持っていたカミソリで吉蔵の喉を掻っ切ってしまいました。
この時、狂気となったカミソリ・・・事件の6日前に家から無くなっていたものでした。

吉蔵を殺した翌日、帰ってくると・・・
「いつものように横浜に行っていとこにあってきましたけど、思ったほど金策ができませんのよ。」
そしてその翌日、久し振りに丸髷を結って簪を差しおめかししていました。
これが最後の幸せな時間でした。

明治11年10月・・・お伝の自白は得られないまま、証拠は十分として取調べが終わりました。
お伝は、結審に当たって市太郎、九右衛門との面会が許されます。
涙ながらにこう言いました。
「自分は近いうちにお仕置になると思う
 お仕置の日は、もう一度会いに来てほしい」
そして明治12年1月・・・お伝に判決が下されます。
罪状は、色仕掛けで金を巻き上げようとしたがうまくいかなかったので殺した強盗殺人・・・
言い渡された刑は・・・「斬」・・・斬首刑でした。
極刑である斬首刑は、古代から死刑の一つとして認められてきました。
江戸時代になって8代将軍吉宗が定めた”公事方御定書”によって法制化されます。
斬首のみ・・・殺人
        10両以上の窃盗
        他人の妻との不義密通
        殺人犯逃亡の手助け
に課せられ
斬首+獄門(晒し首)・・・主殺し
               親殺し
               関所破り
               公儀に対する重い諜計

江戸幕府が消滅し、明治の時代になっても斬首刑は行われていました。
しかし、世の風潮は変わりつつありました。
明治時代になって刑法制度の改革が行われ、火あぶり、磔などの残虐な方法は廃止されるようになりましたが・・・
重罪には斬首刑は行われていましたが・・・
しかし、国際社会と歩調を合わせることが急務な当時の日本において、欧米諸国と足並みをそろえるためには古い制度をやめて新しい制度に代える必要がありました。

明治6年切腹廃止
   9年廃刀令発布
斬首刑もまた時代遅れの刑として廃止を求める声が高まっていました。
そんな中、お伝は最後の斬首刑に処せられることとなるのです。

明治になって急速に近代化が進むと、刑罰や処刑法も見直されました。
そんな中、人ひとりを殺し、11円を奪ったお伝は斬首刑という判決を受けます。
お伝の判決は妥当だったのでしょうか??
この時代、強盗殺人に対しては、死刑が言い渡されると決まっていました。
裁判では法律に基づいて死刑、斬首刑を言い渡したとなります。
もう少し、近代化が早かったなら、代わっていたのでは??

・市太郎との生活で借金が重なった
・吉蔵の言いなりにならざるを得なかった
・吉蔵は約束を反故にした
・カッとなって殺してしまった

これらは量刑を考えるうえで、斟酌すべき事情に当たると言えるでしょう。
近代刑法の制定後なら、斬首されることはなかったでしょう。

明治12年1月31日、市谷監獄でお伝の処刑が行われました。
「高橋お伝の断末魔は、誠に見苦しいとりみだしたものであった。」
結審後の面会で、市太郎は必ず最期の日には会いに来ると約束していましたが、来ませんでした。
激しく狂うお伝を、補佐役の役人が力づくで抑え込むと、処刑人が一気に刀を振り下ろしました。
しかし、刀は外れ、お伝の後頭部に・・・!!
お伝は観念したかのように念仏を唱え始めました。
そして・・・
明治12年1月31日、高橋お伝死去・・・この時お伝は29歳でした。

最愛の人、小川市太郎が市谷監獄を訪れたのはその翌日でした。
そしてお伝が処刑された翌年・・・明治政府は新しい刑法を指定し、お伝の処刑後は斬首刑は一度も行われなかったので、日本で最後に斬首刑になった人となったのでした。
人を殺め、嘘をつき、罪を最期まで逃れようとしたお伝の行為は確かに悪女と呼べるものかもしれません。
しかし、毒婦というのは・・・??
どうして??
処刑後、お伝の遺体は浅草にあった警察の病院に運ばれ解剖されることに・・・
名目は「犯罪者の体にある生理学上の特異性の調査」でした。
おでんの体は4日間に分けて細かく徹底的に調べられました。
その所見は・・・「局部の異常発達」
おでんの局部は切り取られ、サンプルとしてアルコール漬けにされます。
どうしてお伝の局部は標本にされたのでしょうか?
それは美人で男を取り込む要素を持つ女性・・・ということで、医者の興味本位で標本にされてしまったのです。
今から思うととてもひどいものですが、当時としては見せしめとして同情はほとんどなく・・・
局部の異常発達は、性欲が強いためと決め付けられ、異常性欲の殺人者のレッテルを貼られてしまったのです。
死後もお伝の悲劇は続きます。
処刑から3か月後には当時の戯作者仮名垣魯文がお伝をモデルにした「高橋阿伝夜叉譚」を発表。
その中でお伝は後藤吉蔵を殺しただけではなく、他に二人の男を毒殺しようとしたと書かれました。
そして毒婦であると印象付けるために、作品には毒という文字が21回も使われたのです。
その1か月後には歌舞伎も上映・・・人気役者で話題となりましたが、時代設定は江戸時代になっていましたが、ここでもお伝は各地を放浪しながら悪事を重ねた毒婦にされ、吉蔵から奪ったお金も200両と誇張されました。

その後もお伝は様々な作品のもモデルとなったことで、稀代の毒婦になってしまいました。
類まれな美人であったために、マスコミの餌食とされてしまったのです。
マスコミが作り上げた毒婦像だったのです。
お伝の遺体は・・・頭蓋骨は何者かによって持ち去られ、巡り巡って浅草に住む漢方医のもとへ・・・
そして、事件から10年が過ぎた明治22年3月・・・この漢方医のもとへ40歳代の男がやってきました。
それは僧侶となった小川市太郎でした。
お伝が最期まで名前を呼んで愛した最愛の人でした。
お伝の亡骸を見せてもらった市太郎は、涙に暮れていたといいます。
お伝は好きになった男にはとことん尽くした男でした。

嘘で固められてしまった人生・・・その中で唯一の真実・・・それは市太郎への思いだったのかもしれません。
まさに流転の人生でした。
東京台東区にある谷中霊園・・・ここにお伝の墓碑があります。
3回忌の際、お伝をモデルに小説を書いた魯文の発案で立てられたもので、出資者には演じた歌舞伎役者たちも名を連ねています。
この墓碑には古くから不思議な言い伝えがあり、お参りをすると三味線が上達すると言われていて・・・
今でも花を手向ける人が絶えません。
しかし、お伝が三味線を弾いたということはどこにもありません。

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