2019年4月1日、平成に続く新たな元号が発表されました。
「令和」です。
令和は万葉集の梅の花の歌の序文が出典で、史上初、日本の古典から引用されました。
その新しい元号「令和」には、”人々が美しく、心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ”という意味がこめられ、梅の花の歌の序文から選ばれた背景には、”梅の花のように咲き誇る花を咲かせる日本でありたい”という思いが込められています。
こうした元号が使われているのは、現在日本だけ・・・。
改元回数は、247回です。
その歴史は飛鳥時代にまで遡ります。

かつて元号は、中国、朝鮮、ベトナムでも使われていました。
しかし、現在では使われていません。
中国は、1911年辛亥革命で清王朝が倒れた時に元号が廃止されています。
現在、その元号は法律によって内閣が決めることになっています。
日本の最初の元号は、何のためにどうやって、誰が決めたのでしょうか?
元号の始まりは古代中国・・・紀元前140年ごろ、前漢の7代皇帝武帝によって年を記録する方法として考案されました。
皇帝が国だけでなく時間をも支配するという・・・皇帝が変わるたびに元号が改められました。
中国から倭国と呼ばれていた日本では・・・埼玉県の稲荷山古墳から出土した5世紀の鉄剣には、辛亥年という文字が刻まれています。
これは西暦471年のことで、十干と十二支を組み合わせて60組の漢字で年を記録する方法が使われていました。
そんな日本で最初の元号が登場します。
それは日本の正史「日本書紀」にこう書かれています。
”天豊財重日足姫(皇極)天皇の四年を改め大化元年とす”
すなわち、最初の元号は大化・・・皇極天皇から孝徳天皇に代わる年に新たな政治体制を目指すべく、当時の先進国・中国の唐に倣い元号制度を採り入れたのです。
しかし、大化と残っているのは日本書紀だけ・・・
未だに木簡などは出土しておらず、使っていた形跡がありません。
そのため、大化は後の世に作りだされたものという見方もあります。

どうして「大化」の元号が使用されなかったのでしょうか?
そこには孝徳天皇とその甥で大化の改新で重要な役割を果たしたという中大兄皇子との関係がありました。
大化の改新は、天皇を中心とする国家をつくるのが目的でした。
主導的に働いた中大兄皇子と孝徳天皇の仲が悪くなってしまうので、大化はあまりシンパシーがなかったのでは?
もう一つ、外交上の理由がありました。
独自の元号を使うということは、独立国であることの証・・・
しかし、当時の日本はまだ、唐の影響下にあったため、独自の元号を使うのを憚ったのでは?
日本が独自の元号を公に使うようになったのはいつ・・・??
それは、大化からおよそ半世紀後・・・
701年文武天皇「大宝」に改元した時でした。
文武天皇は日本独自の法典を作るという長年の懸案を実現し、大宝律令を制定・・・。
そこには国号を「日本」とすると書かれており、公文書にはすべて「元号」を用いることと定められています。
律令は、政治、行政、経済など、国家の基本となる重要な法典・・・
そこに元号の使用が明記されたことは、まさに日本が独立国であるという体制が整ったということなのです。

元号に用いられる漢字の頻度数

第1位・・・・・「永」29回
第2位・・・・・「元」「天」27回
第4位・・・・・「治」21回
第5位・・・・・「応」20回

ひとつの元号が使われたの平均は5年間です。
どうして次々と改元されてきたのでしょうか?
改元を行う理由の一つが・・・天皇が代わる際の「代始改元」です。
桓武天皇が即位した際は延暦でした。
平安時代末期の後白河天皇は即位した際は保元と代わっています。
現在は一世一元制で、この代始改元だけですが、天皇一代の間に何回も改元されてきました。

そのきっかけの一つが祥瑞改元です。
祥瑞・・・めでたい事を示す現象や動物・・・大宝四年文武天皇の時、5月10日、藤原京の西に珍しい雲が発見されたことから慶雲と代わりました。
祥瑞改元の中で多いのは、めでたいと言われる珍しい亀が献上されたとき・・・
聖武天皇の時、二度あり、養老7年9月に白い亀が発見され神亀と改元、神亀6年には背中に”天王喜平知百年”と読める亀が天皇に献上されたことから天平と改元されました。
中国は、「天人相関説」があり、天(自然現象)と人(皇帝)の人格、功績には相関関係があるとされています。
珍しい現象(祥瑞)は、皇帝が天に認められた証として改元するのです。
めでたい事があれば改元する一方で、悪いことが起こった時も、その悪いことが続かないように改元しました。
それが災異改元です。
平安時代、醍醐天皇が治めていた延喜23年(923年)には、大規模な干ばつと伝染病が起きたことで改元・・・天皇の御代がこれで終わらず長く続くこと・・・延長と代わりました。
天養2年(1145年)には、ハレー彗星が出現!!
そこで天災などが起こらず久しく安泰が続くことを願って久安に改元されています。
現暦2年(1185年)には、京都を中心に大地震が発生し、多くの被害や死者があったことから文治と改元されました。
平安時代の人々は、改元という行為に呪術的な世直しの力があると信じていました。
人びとの願いが込められていたのです。
ちなみに、平安時代の堀河天皇は7回、室町時代の後花園天皇は8回も改元を行っています。
改元の多さは、良しにつけ悪しきにつけ、世の中を良くしたいという天皇の気持ちの表れだったのです。

暦仁=略人ということで、元号自体が不吉だとわずか2か月で改元されました。
明和は明和9年は迷惑年となると・・・まさにその年、明和の大火(1772年)が起き、改元することとなりました。

新しい元号はどうやって決められていたのでしょうか?
改元の機運が高まると、文章博士(勧申者)が元号を提案します。
主に中国の歴史書「史記」「漢書」「後漢書」四書五経「論語」「大学」「中庸」「孟子」「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」から字を選びます。
提案された元号を、陣儀(上級貴族の会議)で審議(難陳)され、天皇が裁可し、詔書の発布となります。
新しい元号の決め手のポイントは、どれだけいい漢字か?組み合わせはどうか?
良い元号は、呪術的な力を持っているとされていました。
平安時代後期(1069~1185)には、延久~文治まで43もの元号が生れています。
およそ2年半ごとに改元・・・それだけ世の中が不安定で救いを求めていた時代だったのです。

天皇の大きな権限の一つだった改元は、それを行う際に、盛大な儀式を行ったために莫大な費用が要りました。
そうした費用は、奈良・平安時代は朝廷が工面しましたが、鎌倉幕府、室町幕府と武家政権が作られると、改元費用を幕府に頼るようになりました。
幕府は本来朝廷に奉仕するためにある・・・幕府が出すものだ・・・と、幕府が負担することに・・・。
幕府が改元に費用を出す・・・それは、天下人の証となりました。
戦国時代に入ると・・・改元の主導権を巡り武家の間で争いが始まります。
それが、足利義昭と織田信長の戦いです。
永禄11年(1568年)、足利将軍家の牽制が衰える中、義昭は京を目指す信長の後ろ盾を得て、室町幕府15代将軍に・・・!!幕府の再建を図ります。
足利義昭が将軍代始を理由に、幕府が費用を持つという条件で朝廷へ改元を申し入れます。
これに待ったをかけたのが信長でした。
義昭が将軍となったからと言って軽減されてしまうと、改元によって室町幕府の再興を目指そうという義昭の思惑通りになるのを信長が嫌ったのです。
将軍の権威が復活してしまう・・・!!
この時は、信長の意見が取り入れられ、改元は見送られますが・・・
永禄13年(1570年)、信長が越前の朝倉義景を討伐する為に出陣すると・・・
義昭はその隙を狙って改元の費用を増額する条件で改元を強行させ、元亀という元号を定めさせたのです。

これに不満を持っていた信長は、元亀3年(1572年)、信長自ら朝廷に対し改元を要請します。
破竹の勢いの信長の申し出に、朝廷は改元の準備に取り掛かりましたが、今度は義昭が抵抗!!
将軍として負担する改元の費用を一銭も払わないと拒否したのです。
怒り心頭の信長は、意見書を突き付けました。

「わずかな金も出さないとは、一体どういうことだ!!」

この改元をめぐる闘争を機に、信長と義昭の不仲は決定的となり・・・元亀4年(1573年)、信長は京都に進軍し、将軍義昭を追放・・・これによって、およそ240年続いた室町幕府は滅亡しました。
すると信長は、改めて改元の申し入れを行い、新たな元号・天正が定められたのです。
まさに織田政権の誕生の元号であり、「天下を正しくする」ということで、信長も気に入ったと言われています。
信長にとって天正への改元は、まさしく天下人の証となったのでした。
その後、信長は、天下統一の手前で本能寺の変で命を落としますが、曽部永の時代に定められた天正は改元されることなく20年使われることとなります。

信長の亡き後天下人となったのが豊臣秀吉です。
秀吉は豊臣政権を築いた後も、当初、改元には直接関わることはありませんでした。
しかし・・・改元を必要とする事態が起こります。
文禄5年(1596年)、四国の伊予、九州の豊後で大きな地震が発生!!
さらに、京都を中心に大地震が発生し、秀吉が完成させたばかりの伏見城が倒壊するなど甚大な被害が起こります。
これに驚いた秀吉が、改元を申し入れると「慶長」と改元されます。
改元に当たっては、秀吉が選んだともいわれ、その文字には喜びが長く続くように・・・豊臣が長く続くように・・・とも言われています。
しかし、その願いが叶わず、慶長3年(1598年)秀吉は病に倒れ、京都の伏見城でなくなってしまいました。

秀吉の死後権力を握ることとなったのが徳川家康です。
慶長5年(1600年)関ケ原の戦いで、豊臣政権の存続を願う西軍に勝利!!
自分も征夷大将軍の座につき、江戸幕府を開きます。
家康は幕府の権威を不動のものにするために改元を行いたかったのですが・・・実行できずにいました。
その障害となっていたのは秀吉の死後も大坂城にいた秀吉の嫡男・秀頼の存在でした。

秀頼がいる以上、自分の好き勝手には出来ない・・・
改元を目指す家康が、満を持して動きます。
慶長19年(1614年)大坂の陣・・・家康は二度にわたる戦いで、難攻不落と言われた大坂城の攻略に成功!!
豊臣秀頼を自害に追い込み、豊臣家は滅びました。
その直後、家康は京都に向かい改元を申し入れると、2か月後・・・元和に改元され、徳川が天下を掌握したことを世に知らしめたのです。
元和には、和の始まりという意味がこめられ、長く続いた混乱の世が終わり、平和な時代が到来したことを表明するものでした。
さらに、この改元にはもう一つ家康の狙いがありました。
慶長20年(1615年)、家康は朝廷や公家に対し「禁中並公家諸法度」を出します。
その中にはこんな一条が・・・
”改元に当たっては、歴代中国の元号も良いものがあれば採用するように”
元和は、すでに中国の唐で使われていたものでした。
家康は中国の古典から引用、未使用の元号を用いることを打ち破り、新しい選定方式を朝廷に押し付けたのです。
征夷大将軍としての権威を高めようとしました。

飛鳥時代から始まり、天皇の代替わりや国難に見舞われたときに元号の改元が行われてきました。
時がたち・・・時の天下人にとって権力の証となりました。
そうした元号と庶民たちとのかかわりは・・・??
平安や鎌倉は縁遠いものでしたが、室町以降・・・民衆にも広がり、江戸時代には完全に元号は庶民のものとなり、年貢の受取状、暦・・・元号を知っていて、語呂合わせすることもありました。
どうして全国津々浦々まで伝わったのでしょうか?
朝廷から京都所司代、幕府に知らされ、諸大名、直轄地代官→名主→領民と伝わっていきました。
伝達速度は、鹿児島や松前まで1か月ほどで伝わったといいます。

実際、改元するとなると幕府の許可がいるようになり、幕府の方で・・・幕府の教学を代々担う家・林大学頭が案を作って一つに絞って京都に送られてきます。
朝廷では形だけ「こちらが決めた」ということで、天皇が裁可することとなります。
江戸時代には、幕府が決めていたと言って過言ではありません。
太平の世が続いた江戸時代・・・
慶応3年(1867年)には大政奉還・・・
天皇を中心とする新政府が樹立され、明治へと改元されます。
新政府の議定であった岩倉具視は・・・
「これまで帝一代で何度も改元が行われてきたが、一世一元にしてはどうだろうか?」
一世一元とは、天皇一代に元号を一つというもので、天皇が代わる際の代始改元のみ行うということを意味しました。
こうして新しい天皇のもとで元号を決めることとなりました。
あくまで元号の最終決定は天皇にあるとして、3つほどの候補案から天皇が決めるということに・・・。
これを受け、議定である前福井藩主・松平春嶽が元号案を絞り込んで・・・その中から慶応4年(1868年)9月7日、夜・・・京都御所で天皇が選ぶこととなりました。
その驚きの方法とは・・・くじ引きでした。
朝廷では、大事なことを決める際、神の真意を問う意味でくじ引きが行われてきました。
それを踏襲したというのです。
明治を引き当て・・・慶応4年9月12日、全国へ改元の布告が行われました。
明治45年(1912年)7月・・・
明治天皇の様態が悪化・・・危篤状態に・・・
時の内閣総理大臣・西園寺公望は、密かに改元の準備を行いました。
この動きを察知して・・・新聞社が改元の取材合戦を繰り広げます。
そんな中、朝日新聞社の1年足らずの緒方竹虎は、枢密顧問官・三浦梧楼に狙いを定めます。
「三浦さん!!
 次の元号はもう決まっているんですよね?」
「お前だから教えるが・・・次の年号は「大正」だ」
これによって7月30日、明治天皇が法書した直後、新たな元号が大正であると一早く報道することができました。
この大スクープで名を馳せた緒方は、東京朝日新聞の主筆にまで上り詰め・・・昭和19年(1944年)政界に転じて福総理を歴任します。

新元号のスクープ合戦は激しさを増していきます。

大正15年(1926年)12月25日、大正天皇が崩御・・・
その頃、新元号選定の担当だった内閣内政審議室長の自宅前には、記者たちが深夜まで張り込み、熾烈な取材合戦を繰り広げていました。
そんな中、極秘情報を手に入れたのが、東京日日新聞でした。
「大スクープです!!
 新しい元号がわかりました。
 光る文と書いて光文です!!」
号外が発行され、世紀のスクープ!!
その数時間後・・・午前11時ごろ宮内省が発表したのは「光文」ではなく「昭和」だったのです。
公文のスクープは歴史的誤報となり、編集局トップが辞任する事態となりました。
一節には当時の宮内省が情報が漏洩したことで昭和に急遽変更したともいわれていますが・・・??
果たしてその真相とは・・・??

この時、元号案の選定は宮内省で行われていました。
その中で・・・第一「昭和」、第二「神化」、第三「元化」の3つ・・・一方、時の内閣総理大臣・岩槻礼次郎は内郭案として独自選考を行っていました。
「立成」「定業」「光文」「章明」「協中」・・・この中にあったのです。
宮内省案ではなく、内閣案の一つだったのです。
そして最終案「昭和」「元化」「同和」にも含まれていませんでした。
東京日日新聞は最終候補案の情報を掴むことができず、内閣案にあった元号を報道してしまったのです。

昭和という元号・・・書経の中の、”百姓昭明協和万邦”からきています。
明るく平和であることを願うという意味が込められていました。
昭和の”昭”の字は元号として使われるのは初めてのことでした。
なじみのない文字で、読めないのでは・・・??と、懸念されました。
昭和天皇が崩御されるまで64年続き、世界で最も長い元号となります。

しかし、途中で存続の危機となっていました。
昭和20年(1945年)太平洋戦争終結・・・
敗戦国となった日本は、戦前のあらゆる制度の変革に直面します。
翌年に公布された日本国憲法には、天皇は国の象徴として存続することは決まったものの、元号は・・・その法的根拠を失ってしまいました。
GHQは、元号の法制化に反対していました。
そんな中、これを機に元号を廃止するべきだという考えも出て来ました。
後に内閣総理大臣となった石橋湛山もその一人で、「元号を廃止し西暦に統一すべき」と主張。
また、憲政の神様と言われた衆議院議員の尾崎行雄は、「新日本か戦後に改元すべき」としていました。
国会では昭和は25年で元号廃止案を真剣に検討されました。
しかし・・・GHQが、撤退すると議論は立ち消えとなり、昭和は日本の元号として使われ続けることとなります。
昭和53年(1978年)元号法制化運動が起こります。
昭和54年(1979年)「元号法」が制定され、それ以後、この法律を元に内閣が元号の選考をおこなうことになったのです。
その元号法に基づき、初めて改元が行われたのが「平成」でした。
そして・・・令和はどのような時代として日本の歴史に刻まれることとなるのでしょうか?
梅の花が咲き誇るような、良い時代になってほしいものです。

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