万葉集・・・8世紀泥編纂された現存する日本最古の歌集です。
日本人の心のふるさとともいわれています。
全20巻に及ぶ歌集「万葉集」
そこに収録されている歌は、短歌:約4200首、長歌:約260首、旋頭歌:約60首・・・計4516首です。

タイトルの「万葉集」については諸説ありますが、万葉=万代(世)という意味があることからこの歌集が末永く伝わりますようにという願いが込められているといいます。
そんな万葉集の第1巻は、5世紀後半の日本を統治したという21代雄略天皇の長歌から始まります。

籠もよ
み籠持ち
ふくしもよ
みぶくし持ち
この岡に
菜摘ます児
家告らせ
名告らさね

から始まります。

これをわかりやすく読み砕くと・・・
「これは良いカゴを持ってらっしゃるし土を掘るヘラも良いものですね
 若菜摘みをしてらっしゃるお嬢さん方、家はどこです?お名前をおっしゃいなさいな」
しかし、当時名前を聞くのはプロポーズに当たり、答えないため・・・天皇は、

そらみつ
大和の国は
おしなべて
吾こそ居れ
しきなべて
吾こそいませ
吾こそは
告らめ
家をも名をも

この大和は私が君臨している国。
隅々まで私が治めているのですぞ。
それでも言わぬなら私から名乗りましょう。

なぜ万葉集はこの雄略天皇の歌から始まるのでしょうか?

雄略天皇は、国土統一の英雄とされています。
日本が雄略天皇によって統一されたと万葉集が編纂された8世紀の人々は考えていました。
歌集の価値を高める時に巻頭の歌は重要で、偉大な雄略天皇の歌を巻頭に置くことで、歌集としての価値を高めようとしたのです。

万葉集を編纂したのは、奈良時代の歌人で名門貴族の出である大伴家持が有力視されています。

新元号令和の由来は、万葉集・梅花歌三十二首の序文・・・
そしてその歌が詠まれた宴を開いたのが家持の父・大伴旅人でした。
家持は旅人の長男として奈良時代の初頭・・・718年頃平城京で生まれ育ちました。
そもそも大伴氏は大和政権の古参の名門氏族で、エリートでした。
家持は幼少のころから学問に勤しみ、十代半ばで歌を詠み始めたとされています。
そして20代後半・・・746年に国守(県知事)として越中国に赴任します。
雄大な風景に魅了されて、多くの歌を詠み始めます。

馬並めて
 いざ打ち行かな
       渋谿の
清き磯廻に
   寄する波見に

こうしてお気に入りの場所を歌に詠む一方で、

春の日に
  萌れる柳を
     取り持ちて
見れば都の
   大路し思ほゆ

これには裏の意味があるともいわれ・・・
柳は当時の都で流行っていた女性の細い眉の事・・・。
家持は柳を見ることで美しい都の女性たちを遠く越中の国から懐かしんでいたようなのです。

万葉集に収録されている家持の歌は473首。
4516首の一割以上をしめ最多!!
全20巻からなる万葉集は・・・
巻1、2、3は宮廷関係の歌
巻9は柿本人麻呂など有名家人の歌など特色がありますが・・・
巻17,18,19,20は家持の歌日記のような内容です。
さらに巻4大伴氏に関係する歌、巻5大友旅人の歌・・・と、家持の親族の歌が多く収められていることから、万葉集の編纂者ではないか?という説が古くからあるのです。

もしそうなら、本当に家持が多くの歌を編纂したのでしょうか?
万葉集は、多くの歌集を集めてきたものです。
万葉集以前にあった様々な歌集を集めて、最終的にまとめたのが大友家持だったと思われます。
天皇が歌を詠みなさいと呼びかけたときに歌が読めないと無作法に当たる・・・
そこで、宮廷社会を生き抜くために、常日頃から勉強し、スキルアップすることが必要なのです。

万葉集には防人たちの歌も数多くありますが、その歌を編纂したのも家持でした。
家持は754年兵部少輔に就任・・・防人たちを監督することになり、その際、防人たちから歌を集めたのです。
そうして集まった166首の中から厳選した防人の歌84首を万葉集に収録。
防人の妻が読んだ歌もあります。
当時、東国で徴兵された防人たちは、九州までの交通費は自費負担。
しかも任期は3年・・・それも延長されることが多く、力尽きて命を落とす者も少なくありませんでした。

万葉集には万葉仮名が使われています。
当時はまだカタカナもひらがなもなく、文字は中国から伝わった漢字のみでした。
そして日本語を表記する時もすべて漢字。
日本語の発音に漢字の読みを当てたのが万葉仮名です。
しかし、万葉集の中には皇族や貴族だけでなく、役人、兵士、農民、芸人、遊女などの歌もあります。
さらに名もなき人の歌も多く、およそ半数の2103首が「読み人知らず」です。
当時はまだ読み書きのできない人が多く、全ての人が万葉仮名を使いこなしていたとは考えにくいのですが・・・
実際は・・・??
詠った人と書いた人は別??全員が文字が書けたわけでもなく、役人たちは漢字を学んでいました。
文字が書けない人々の歌を、文字が書ける階級の人々が書き残した・・・それがいつしか万葉集として編纂されたのです。
万葉仮名はいつまで使われたのでしょうか?
平安時代以降には、万葉集はすでに読めなくなっていたと思われます。
少なくとも10世紀には読めなくなっていたので、それ以前にはすでに使われなくなっていたと思われます。
そのため、平安時代中期には万葉集の解読は困難だったようで、62代村上天皇は5人の家人に解読作業を命じています。
そして鎌倉時代中期には、万葉集の研究に全てを雪いだ学問僧・仙覚が全ての歌に読みをつけ、注釈を加えた「万葉集注釈」を完成。
これが現代の万葉集研究の基礎となっています。

万葉集に収録されたおよそ4500首・・・
その作品は主に4つの時代に区分されています。
第1期は、初期万葉時代(629~672年)・・・舒明天皇即位~壬申の乱
素朴でおおらかな歌が多いのが特徴です。
中大兄皇子と共に、大化の改新の立役者となった藤原鎌足の歌も収められています。
鎌足の歌は、采女を手に入れたと嬉しそうな歌です。
采女とは、天皇の日常の雑事に従事する女官のことで、地方豪族の娘の中から容姿端麗な者が選ばれていました。
そして天皇の妻となる可能性もある人・・・天皇以外の者が采女と恋仲になるのは厳禁・・・話しかけることもダメでした。
そんな中、天智天皇は功績のあった鎌足にあってはそれを許す・・・
それは、結婚を許すと同時に、特別な配慮を天皇から受けた・・・名誉を受けた歌となっています。

初期万葉時代を代表する歌人と言えば額田王。
後世に描かれた肖像画によって絶世の美女だったと言われています。
残された歌から宮廷歌人だったのでは?と思われますが、謎が多く、僅かな手掛かりは日本書紀の一文・・・
額田姫王・・・大海人皇子(のちの天武天皇)に嫁ぎ、皇女を一人産んだ
嫁いだ経緯は記されていないものの、宮廷詩人として仕えていた際に、大海人皇子に見初められたのでは?とされています。
そんな額田王の歌は・・・??

君待つと 
 我が恋ひ居れば
    我が屋戸の
 簾動かし
    秋の風吹く

あなたが来るかなあ・・・と待っていたら部屋のすだれが動いた・・・
と思って喜んだのに秋風が吹いただけだった。

当時は、通い婚でした。
この歌を素直に読めば、愛する夫を心待ちにしている額田王ですが、実は額田王は夫である大海人皇子ではありませんでした。

この歌は、夫である大海人皇子の実の兄・・・時の天皇となった天智天皇に向けて読まれた歌です。
つまり、禁断の恋・・・夫の兄が来るのを待っていたのです。

宮廷社会は天皇から寵愛を受ける・・・それはすべてに優先されていました。
当時の慣習としては一般的だったと思われます。
更に万葉集には続きが・・・天智天皇が近江国の蒲生野で、薬狩(山野に出て鹿の若角や薬草を取りに行く行事)に出かけたとき、これに同行していた額田王と大海人皇子はこんな歌を詠みます。

額田王が・・・

あかねさす
  紫野行き
   標野行き
野守は見ずや
  君が袖振る

これに対し大海人皇子は

紫草の
  にほえる妹を
    憎くあらば
人妻ゆえに
 我恋ひめやも

未練たらたら・・・大海人皇子は、額田王を諦めきれなかったのでしょうか?
この後、天智天皇は次期天皇の筆頭候補だった大海人皇子を差し置いて、実子である大友の皇子に皇位を譲渡。
これが原因で壬申の乱が勃発しました。
万葉集を知ると、額田王をめぐる大海人皇子と天智天皇の確執もあるのでは?と、考えられます。
が・・・実際のところはどうだったのでしょうか?

この歌のやり取りは、大海人皇子が40歳前後、額田王が30代半ばを過ぎた頃・・・
今風に言えば、若い頃のコイバナを自虐的に詠んで宴を盛り上げた!!ぐらいです。
二人が交わしたのは恋の歌ではなく、壬申の乱とも無関係と思われます。


第2期は、白鳳万葉時代(672~710年)・・・壬申の乱~平城京遷都の頃で、力強い歌が多いのが特徴です。
有名な歌人は柿本人麻呂です。
万葉集以外、古代の文献には一切登場しないため、謎の歌人と言われています。
生没年不詳・・・経歴も不明・・・しかし、持統天皇などに仕えた宮廷詩人でした。
天皇をほめたたえる歌や、皇族の死を惜しむ歌など、儀礼的な歌を数多く読んでいます。
しかし、その一方、妻への恋の歌も・・・。
人麻呂が創出したとされる枕詞には、「足走る」「あさもよし」「鶏が鳴く」などがあり、歌人の模範とされ平安時代には歌聖と称されるようになります。
さらに鎌倉時代には、歌の神として全国各地に祀られるようになりました。
歌の神・柿本人麻呂を祀る神社は、山陰地方を中心に北海道から熊本県まで、全国に200以上にのぼります。
人麻呂は、その名が「火とまる」「人うまれる」に似ていることから、火伏の神や安産の神として祀られました。
歌人として頂点を極めた人麻呂は、今なお人々の厚い信仰を集めているのです。

万葉集の中で、最も多いのが恋の歌です。
全体の7割・・・およそ3000種が恋の歌です。
どうしてこんなに恋の歌を詠んだのでしょうか?
市場、橋のたもと、山の中で男女が一緒に歌を掛け合う・・・
歌をどれだけうまく返せるのか?で、人柄や知識の有無を判断していたのです。
当時は歌の上手な人がモテ、結婚相手を探していたようです。


第3期は、平常万葉時代(710~730前後)平城京遷都~山上憶良没頃は個性的な歌が多くみられます。

第五巻に収録されている「貧窮問答歌」もその一つです。
当時の民衆の貧しさと苦しさを切々と詠んだもので、詠み人は、社会派詩人と言われる山上憶良でした。
歌の前半は、憶良が下級役人だったころのみじめな貧しい暮らしぶりを詠んだものです。
晩年こそ貴族となっていた憶良でしたが、家の格が低く、40歳を過ぎて遣唐使に任命されるまでは、無位無官でした。
歌の後半は、食べる者さえロクにない農民たちの貧しい過酷な現状が詠まれています。
当時、税としての米の取り立ては非常に厳しく、餓死者も出るほどでした。
万葉集に収録された「貧窮問答歌」は、当時の庶民の暮らしを今に伝えてくれる貴重な資料でもあります。


第4期は、天平万葉時代(730前後~759年)山上憶良没後~最終歌は、優美な歌が多くあります。
繊細で優美な歌が多いことから、万葉集の成熟期と言われています。
代表的な歌人は、万葉集の編纂者と言われる大伴家持。
万葉集の最後の一種・・・結びの歌は、この家持が詠んでいます。

新しき
  年の初めの
      初春の
今日振る雪の
    いやしけ吉事

759年の正月、国守として因幡邦で詠んだ歌です。
新年を迎え、希望に満ち溢れている家持ですが、この歌を最後に亡くなるまでの25年間、家持の歌は一首も残っていません。
家持自身が世の中に絶望し、歌を詠うことをやめてしまったという人もいます。
しかし、家持が役人生活をしている以上は詠んでいないということは考えられず、結びの歌以降も歌は詠み続けていたものの、万葉集に取り込まれなかったと考えるのが妥当です。
晩年に詠まれた歌は、世に出なかったからでは??
それではどうして世に出なかったのか?
当時の大伴氏が置かれていた状況にあります。
万葉集の結びの歌が詠まれた8世紀中ごろ・・・朝廷の中心にいたのは、大納言・藤原仲麻呂を筆頭とする藤原氏でした。
しかし、権勢を振り翳す仲麻呂に対し、古くから天皇に仕えてきた面々は、不満を抱いていました。
そうした者たちが、仲麻呂の暗殺を画策!!
757年橘奈良麻呂の乱です。
これに大伴氏の一族も加わったのですが、事前に計画が漏れてしまい、加担したものは、拷問死、もしくは流罪となってしまいます。
762年・・・今度は家持自身が、仲間と共に藤原仲麻呂の暗殺を画策!!
しかし、これも事前に計画が露呈・・・
仲間の一人が罪を被ったことで、家持は無罪となりましたが、翌年報復人事で薩摩国へ左遷されてしまいました。
これで出世の道は絶たれたと思われましたが、ほどなくして藤原仲麻呂が孝謙上皇と対立し、謀反を起こし殺害されてしまいます。
そののち、家持は大宰府の最高次官をへて都への復帰が叶い、中納言まで昇進!!
785年、60代後半でこの世を去りました。

ところが・・・死後の家持にまたもや悲劇が・・・!!
家持がこの世を去った20日ほど後・・・785年10月31日、大伴氏の一族が長岡京遷都の責任者だった藤原の種継を暗殺してしまいます。

実行犯たちは斬首刑に・・・そしてなんと、すでに亡くなっていた家持まで生前関わっていたと処罰を受けます。
その罰は、家持の遺体の埋葬禁止、官位の剥奪、領地の没収、無実の嫡男を隠岐へ追放・・・
そうした処罰の一環として、万葉集結びの歌以降に詠んだ歌が破棄された可能性があるのです。

だから・・・家持の晩年の歌が世に出なかった・・・??
恩赦が実施され、家持が名誉を回復したのは、それから21年後・・・806年のことでした。

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