大阪府堺市・・・巨大な古墳群・・・百舌鳥古墳群のなかでひときわ大きな古墳が仁徳天皇陵として知られる大山陵古墳です。
全長およそ486mの前報後円墳で、その面積は約47万㎡で、世界最大です。
クフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵に並ぶ世界三大墳墓です。
この百舌鳥古墳群と古市古墳群が世界遺産となることがほぼ内定しました。
日本国内に16万基以上ある古墳は、3世紀中ごろから7世紀末頃まで作られました。

何のために造られたのか?
誰の墓なのか・・・??

3世紀半ばから7世紀末ごろまで続いたと言われる古墳時代・・・
その幕開けと言われる古墳が奈良県桜井市の纏向遺跡にあります。
纏向遺跡は、初期大和政権発祥の地で、邪馬台国畿内説の候補地です。
その中にあるのが箸墓古墳です。
全長およそ280mの前方後円墳で、現在は孝霊天皇の娘・倭迹迹日百襲姫命が埋葬された陵墓とされ、宮内庁が管理しています。
この時代に作られた古墳の形は様々で・・・その多くは、前方後円墳、前報後方墳・円墳・方墳に分かれています。
中でも前方後円墳は、ヤマト政権の大王やその一族、ヤマト政権と関係を持つ地方豪族が築造を許されていました。
日本オリジナルの形だと言われています。
どうして前方後円墳と言われるようになったのか?
それは、寛政の三奇人と言われた、江戸時代後期の儒学者・蒲生君平です。
君平は、二度にわたって近畿・四国の天皇陵の調査をし、地元調査を丹念に行った結果、車塚と呼ばれていることが多いことに気付きました。
古墳は使者を運ぶ車をかたどったもの??と考え、宮車をかたどったもので前方後円としたのです。
これが現在まで使われているのです。
現在では、この独特な形になった理由として、機能説が有力ですが、前方部の役割に諸説あります。
後円部は使者を埋葬する場所ですが・・・
前方部は①祭壇説②通路説③主従埋葬説などがあります。
結局どうしてこの形なのかは、今でも謎のままです。

当初は、ヤマト政権発祥の地である奈良盆地の東で築造された大和・柳本古墳群(3世紀中ごろ~4世紀前半)、ところが4世紀後半以降になると・・・
奈良盆地の北・佐紀古墳群(4世紀後半~5世紀後半)、西・馬見古墳群(4世紀後半~5世紀後半)、大阪平野の古市古墳群(4世紀末~5世紀末)、百舌鳥古墳群(4世紀末~5世紀末)で作られるようになり、より大きな前方後円墳が登場します。

中でも群を抜いて大きいのが、百舌鳥古墳群にある大山陵古墳・・・
日本書紀などから4世紀末に崩御したと言われる仁徳天皇が眠っていると言われています。
ところが・・・2018年、宮内庁が外部機関となる堺市と共同発掘したところ・・・5世紀の特徴を持った円筒埴輪やそれらが並んでいた痕跡を発見!!
仁徳天皇が崩御した時期とは違うことから、古墳がいつ造られて誰が埋葬されているのか再検討が必要となりました。
宮内庁は学者による調査を認めていませんが、世界遺産登録を機に本格的な発掘調査が行われるかもしれません。

この巨大な前方後円墳には、強大な権力者が埋葬されていることは必至・・・まさに国家プロジェクトでした。
その作り方は・・・??
①立地の選定・・・木を切って土地を平たんにする
②古墳の形を地面に描く
③濠の掘削~盛り土を行う
少し離れた櫓から、責任者が指示を出していました。
④葺石を敷く・・・葺石の数・約536万5千個
6キロ離れた石津川から運ばれてきたと考えられています。
多くの労働力と時間をかけて運ばれてきた石は、太陽の光を反射してキラキラ輝いていたと言われています。
古墳を縁取るように深紅の埴輪が並んでいました。
壮麗で圧巻なことだったことでしょう。
⑤被葬者の埋葬・・・後円部の頂上に穴を掘り埋葬する石室を作ります。
竪穴式石室は古い時代の石室で、石を積み上げて壁を作りその中に棺を入れました。
大山陵古墳は、このような石室が前方部と後円部、それぞれに作られたようです。

大山陵古墳に携わった人数は1日2000人、期間は15年8か月、費用は796億7700万円のビッグプロジェクトでした。
しかし、どうしてそこまで巨大な古墳を作る必要があったのでしょうか?
①支配下に置くものへの力の誇示
可視的な政治権力を見せつける装置でした。
その時々の技術、労働力の限界を追求したものでした。

②現在大山陵古墳から大阪湾までの直線距離は4キロ・・・。
ところが、5世紀当時はもっと海が迫っていました。
大山陵古墳・反正天皇陵・履中天皇陵が海岸線沿いにあったのです。
古墳は海から見えるように巨大にしていました。
国際的・・・外国からくる人に見せつけるためでした。
朝鮮半島の有力者たち渡来人たち・・・国内外に大和政権の権威の大きさを前方後円墳の大きさで示すためでした。
前方後円墳は基本的に見せる墳墓だったのです。
ヤマト政権の大王が勢力を見せつけるための巨大装置として築造した前方後円墳・・・
それはやがて、全国の地で作られるようになります。
誰でも勝手に作れたものではなく、ヤマト政権の認可によって各地の首長が前方後円墳を作ったのです。
ヤマト政権の一員になったことの証でした。

どうして地方の国々は、ヤマト政権の支配下に入ったのでしょうか?
理由は鉄でした。
武器や農具の材料として優れていた鉄ですが、当時の日本ではまだつくることはできませんでした。
そこでヤマト政権は、朝鮮半島南部の伽耶や新羅から大量に入手・・・ヤマト政権の支配下に入れば、その鉄が分け与えられたのです。
ヤマト政権の政治同盟の根幹は、モノ「鉄」とヒト「技術者」の分配で成り立っていました。
地方の国々は、ヤマト政権とネットワークを築くことで「鉄」やそれを使える「技術者」などを手に入れたかったのです。
全国に広がった前方後円墳は、統一国家となった証でもありました。
現在知られているだけでも、岩手県から鹿児島県まで、およそ5200基!!
そうした前方後円墳の中には、装飾古墳もあります。
福岡県桂川町にある王塚古墳もその一つです。
6世紀中ごろに作られたと考えられている前方後円墳で、全長86mあったと考えられています。
古墳からは、100点を超える武器や馬具、銅鏡、装飾品などが出土していますが、中でも多かったのは馬具です。
国内でもトップクラスの豪華さと精密さを誇ります。
装飾古墳と言われる由縁は、石室にあります。
王塚古墳は、横穴式石室で、入り口→羨道→前室→玄室となっています。
その石室は、普段は劣化防止のために非公式です。
6世紀中ごろまでの装飾古墳の5色使われているのは王塚古墳だけです。
使われている色は「赤・黒・緑・白・黄」。描かれている方法は、石室全体をまず赤色に塗り、そこから文様を描くという技法です。
珠文・・・天体をかたどったもの
三角文、靫、太刀、盾などが壁一面に描かれています。
どうしてこのような文様が書かれたのでしょうか?
謎を解くカギは双脚輪状文にありました。
縄文時代、弥生時代の人々は、お守りとして貝のブレスレット(腕輪)を身につけていました。
その貝は、ゴホウラ、スイジガイなどの南でとれる大型の貝でした。
その貝を輪切りにして貝を断面にすると双脚輪状文のような文様に・・・。
魔よけの効果を期待したのでは??
古代の人々は、魔よけの文様を描くことで、被葬者を守っていたと考えられます。
ここに埋葬されたのはどんな人??
4人の人が眠っているとされていますが・・・
様々な見解がありますが、副葬品や装飾品から位の高い首長を祀っていると考えられます。

3世紀中ごろから作られてきた古墳・・・しかし、7世紀に入ると、ヤマト政権の命令によって全国で前方後円墳の築造が停止します。
それは、朝鮮半島で新羅が、隋・唐の力を得て、朝鮮半島の統一にかかります。
それに対する脅威もあって、これに対抗するための連合政権から政権を一つにまとめる中央集権化へ・・・
その中心となったのが、当時推古天皇の摂政だった厩戸皇子(聖徳太子)でした。
冠位十二階で豪族の世襲制を防ぎ、憲法十七条で天皇への服従を唱えさせるなどして、中央集権化を推進・・・政策によって統治する律令国家の誕生で、巨大古墳で力を誇示する必要性が無くなっていったのです。
しかし、巨大な前方後円墳の築造が無くなっただけで、墓としての古墳は作られ続けられます。
その中で位の高いのが方墳です。

奈良県明日香村・・・そこに最大級の方墳があります。
石舞台古墳です。
天井石の上面が広く平らで、まるで舞台のようであることから石舞台と呼ばれてきました。
古墳には大小およそ30個の花こう岩が使われており、一番大きな天井の石だけで77t・・・総重量は2300トンと推定されています。
この古墳・・・もともとは土を盛り上げて作った墳丘が覆っていたのですが、盛り土が失われて横穴式石室がむき出しになってしまっているのです。

遺体を安置した玄室の奥行きが7.6m、高さ4.7m、幅は3.5mとかなり大きなものです。
発掘調査によって、約50m四方の方墳で、濠と外濠が存在していました。
元々あった小さな古墳を壊してその上に築造されています。
築造は7世紀初めごろで、その頃にヤマト政権内で権勢をふるっていた蘇我馬子の庭園が近くにあったことから、この古墳は馬子を祀っているのではないか?と言われています。
どうして石室がむき出しになってしまったのでしょうか?
645年乙巳の変で、中大兄皇子は中臣鎌足たちによって殺害され、日本の歴史に悪人としてその名を刻む蘇我入鹿の祖父・・・。
そのため、多くの人から憎まれて墓を壊されてしまったのではないか?と言われてきました。
しかし、近年蘇我氏の再評価と共に異論も出てきています。
乙巳の変が起きたのは、隋が滅んで唐が建国された東アジアの状況に危機感を抱いた蘇我氏が、権力を集中して難局を乗り切ろうとした時の事でした。
そこで、近年では王族中心の国家にこだわる中大兄皇子が、中臣鎌足たちと共にそれを阻止しようとして蘇我氏を滅ぼし、それを隠蔽するために鎌足の子・不比等が日本書紀を編纂する為に蘇我氏を悪人に仕立てたのでは?とされています。
事実、蘇我氏は多くの人に支持されていたようで・・・
710年平城京遷都の際には、多くの人が蘇我氏の全盛期であった「飛鳥の都に戻りたい」「飛鳥の者が懐かしい」と、訴え続けていたといいます。
そんな思いを断ち切らせるために、為政者たちは人々が飛鳥京を懐かしまないように蘇我氏の権力の象徴だった石舞台古墳を破壊したのでは?と言われています。

645年の大化の改新後、古墳をめぐる状況は急展開します。
翌646年簿葬令の発布によって、
・身分によって墳墓の規模を制限
・王墓の築造にかける日数は7日以内
となりました。

そのため、古墳を築くことができるのは、一部の有力者の身になりました。
やがて古墳は小型化が進み、その代わりに古墳の内部を彩る極彩色壁画が施されるようになります。
その代表が高松塚古墳やキトラ古墳です。
王族を祀るために7世紀末から8世紀初め見かけて作られた終末期古墳です。
高松塚古墳の極彩色壁画には、方角を司る四神や女子群像などが色鮮やかに描かれ、キトラ古墳の石室天井には東アジア最古の天文図が・・・
どちらも当時の事を知る貴重な資料です。

そして古墳時代は終焉を迎えます。
カギを握るのは、天武・持統天皇陵です。
正八角形を形どった八角墳で、特別な存在である天皇だけに許された形でした。
二人が一緒に埋葬されているのは、持統天皇が夫である天武天皇と共に埋葬してほしいと願ったため・・・。
さらにその際、土倉ではなく仏教思想の火葬を望んだのです。

持統天皇は初めて火葬された天皇で、これ以降、その風習が広まっていったといいます。
それに伴って、古墳のような大きな墳墓は必要なくなっていきました。
こうして400年に渡った古墳時代は終わったのです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

天文で解ける箸墓古墳の謎 (奈良の古代文化) [ 豆板敏男 ]

価格:1,404円
(2019/6/19 23:49時点)
感想(1件)

馬子の墓 誰が石舞台古墳を暴いたのか

価格:4,104円
(2019/6/19 23:50時点)
感想(0件)