舞台は灼熱のアラビア半島・・・!!
迫りくる岩の裂け目の先に・・・突然現れてくるのが謎の砂漠都市ペトラ!!
2000年前、奇跡の繁栄をしながら歴史の表舞台から消え去った幻の都です。
ペトラは東西文明の十字路・・・あふれんばかりの富を生み出します。

砂漠が国土の8割を占めるヨルダン・・・かつてここに大国と渡り合った小国ナバテア王国がありました。
行く手を遮る用の現れる岩山・・・その奥にナバテア王国の都ペトラがあります。
一本道・・・狭い谷と呼ばれるシークを通って・・・現れたのは古代都市の玄関口でした。
この風景は、「インディー・ジョーンズ 最後の聖戦」のロケ地です。
聖なる秘法の隠された場所だったのです。

宝物殿・・・高さは40m。
部屋は岩盤をくりぬいて作られています。
最新の研究ではここで祭祀が行われていました。
宝物殿は、外側の柱、彫刻などが巨大な一つの岩をくりぬいてできています。
この方法は、当時のトルコやペルシャの影響を受けています。
彫刻にはギリシャ神話に登場する神や部族、エジプトに出てくるの神の姿(アマゾネス・ニケ・イシスなど)もあります。
ヘレニズム様式の傑作とされ、世界遺産に登録されています。
宝物殿の脇に、奥に道が延びています。都市の内部へ・・・!!
左右の岩に構造物が・・・多くは墓で、かつて人々は町を囲むように墓を作りました。
墓には文様が刻まれています。
古代メソポタミアから取り入れた階段状のモチーフや、劇場・・・4000人が収容できます。
劇場はローマ様式です。
ここにはペトラならでわの特徴が・・・多くのローマ様式の劇場は、切り出した岩を積み上げて作るので座席には切れ目が・・・しかし、ペトラでは、巨大な岩を掘りぬいて作られているので切れ目がありません。
2000年前、ここで大勢の人々が演説や音楽に聞き入ったのでしょうか?

町の中心部には、2万人~3万人が住んでいました。
発掘はこれからで、王宮も見つかっていませんが・・・。
大神殿が発見されています。
大神殿は、広さ7000㎡、ギリシャのパルテノン神殿のような大型な建物だとわかっています。
さらに、アメリカの研究機関によると・・・巨大プールがあり、人々が泳いでいたというのです。
大神殿の向かい側には噴水が・・・
各地の文明に加え、佐幕に大量の水まで集めていたペトラ・・・
2000年前、ここにはどんな人が住んでいたのでしょうか?

歴史書によるとペトラで暮らしていた人は、もとは砂漠の遊牧民だったといいます。
彼等はナバタイ人と呼ばれ、その国をナバテア王国といいました。
ナバタイ人はどうしてあれだけの都を築けたのでしょうか?
その手掛かりとなるのがペトラから北に100キロのところにある死海です。
湖からはれき青が・・・れき青は天然のアスファルトです。
熱を加えると80度ほどで溶けて、コーティングの材料となります。

エジプトでは、ミイラの腐敗を防ぐために塗られていました。
れき青は、船の防水加工にも欠かせない材料でした。

「汝 瀝青をもて その内外に塗るべし」旧約聖書
ノアの箱舟にも使われたといいます。

ナバタイ人は、希少な資源で価値の極めて高いれき青を、砂漠を越えて取引していきました。
ナバタイ人は、交易によって富を得ていったのです。
王国が豊かになると、ペトラには多くの商人たちが集まることに・・・
そこで、行き届いたもてなしで、人々を迎え入れます。
ワインも作られていました。
位の高い人の邸宅の居間には・・・床暖房がありました。
ナバタイの都・ペトラ・・・そこは富が溢れ、各地の文明のエッセンスが香り立つ、世界有数の交易都市だったのです。

紀元前1世紀ごろ、ナバテア王国に強大な国が立ちふさがりました。
古代ローマです。
小さな地方都市から始まったローマは、数百年のうちに成長をとげ、遂に古代オリエントに目を向けつつありました。
当時、ローマの権力を一手に握ろうとしていたのが、大将軍ポンペイウス・・・!!
20代のころから卓越した武勇で頭角を現した生粋の武人です。
巨大帝国を築いたアレクサンドロス大王に自らをなぞらえたポンペイウスは、紀元前66年、オリエントへの大掛かりな遠征を開始!!
10万近い大軍を率いて、現在のトルコ周辺の国々を屈服させていきます。
その頃、ナバテア王国も周辺に勢力を拡大していました。
地中海の貿易港・ガザの周辺や、交易の一大拠点・ダマスカスです。
当時のナバテア王はアレタス3世・・・開明的で、ギリシャの進んだ文明を積極的にとり入れ、影響力を強めていきます。
そのアレタスの軍勢は、さらにエルサレムを包囲!!
しかし、そこにローマのポンペイウスの大軍がやってきました。
すると、戦うことなくペトラに引き返すのです。
ポンペイウスの軍隊は、勢いそのままにペトラにやってきます。
ところが・・・??
「ペトラへの接近は困難だった」byユダヤ古代史
どうしてローマ軍は近づけなかったのでしょうか?
ペトラの中心は平たんですが、周りは高さ数百メートルの岩山に囲まれています。
シークへの進入路は、シークと呼ばれる一本道・・・シークは狭く、二頭立て馬車がすれ違えるほどの幅しかありません。
さらに、ぺトラの背後には、高さ200メートルの断崖絶壁がそびえていました。
裏から攻めることも難しい・・・
その上アレタスは、この岩山を使い、神出鬼没の戦略をとっていました。
ローマ軍は組織的な軍隊で、ゲリラ的に攻めてこられると弱いのです。
要害・ゲリラ戦をうまく使い、乾燥地帯での長期滞在はローマ人にとっては負担となっていました。

どうしてペトラはこのような独特な地形をしているのでしょうか?
それは、大地溝帯の上にあるからです。
大地溝帯は、アフリカから地中海を貫く地球の裂け目で、ペトラ周辺は、もとは大陸の一部でした。
それが、1000万年の間に、巨大な裂け目が作られていきます。
大地の営みは岩の山脈を作りました。
ナバタイ人はそうした場所に生き、都を作り、国を発展させていたのです。
そののち、王アレタスは銀300タラント(約9トン)を送り、ローマと講和。
岩と砂漠の要塞都市・・・それがローマと渡り合うことができたペトラの力の源でした。

生き残るための技術も持っていました。
貯水槽です。
家には水路がはりめぐらされ、台所、水洗トイレ、洗面所・・・水がふんだんに使われていました。
町にはダムが・・・ペトラでは、200を超える雨水の貯水施設が見つかっています。
砂漠の都ペトラは、冬の短い雨期にしか雨が降らず、年間降水量は150ミリ・・・日本の1/10以下です。
僅かな水も、無駄にできないのです。
しかし、ペトラの水の技術は貯水槽だけではなく・・・
ペトラから6キロ離れた山の上にあるモーセの泉・・・今も地元の人々の生活の欠かせない水です。
ナバタイ人は、雨水に加え、この小さな泉の水をペトラまで運んでいました。
山あり谷ありの起伏の激しい土地にどのようにして水を引いたのでしょうか?
砂岩は水をしみ込みやすいので、モルタルでコーティングした水の水路ルートです。
水道橋もあります。
水路は、山や谷の中をわずか4度の傾斜で保たれていました。
土器でできた水道管も使われていました。
ペトラでは、貯水槽や泉の水を集めることで、一人当たり約600ℓ/1日の水が供給されていました。
それは現在の東京都民のおよそ3倍です。
もしもローマの大軍が包囲しても、ペトラは長期的に耐えられる都だったのです。

紀元前44年、拡大を続けていたローマを揺るがす大事件が起こりました。
ポンペイウス亡き後権力を一手に掌握したユリウス・カエサルが暗殺されたのです。
時のナバテア王は、マリクス1世・・・カエサル暗殺によっておこる激動の波に、翻弄されることとなります。
ローマの動揺を見て動き出したのは、東の大国パルティアでした。
この機を逃さんと、ローマの領土だったシリアから死海の近くにまで一気に侵攻!!
そもそもパルティアは、強固な騎馬軍団を擁し300年にわたってローマと激突していたライバル国家でした。
直近の対戦ではローマの司令官が敗死。2万人以上が戦死・・・ローマは大敗北を喫しました。
ナバテア王マリクスは仕方なくパルティアにつき、当面は生き延びようとします。

しかし、そこに立ちはだかった国は・・・女王クレオパトラ率いるプトレマイオス朝エジプト!!
クレオパトラはナバテアの財源・れき青のとれる死海周辺に狙いを定めてきました。
死海周辺をめぐるナバテアとエジプトの関係は・・・??
エジプトにとっては交易のライバルでした。
豊かな物資の地域を確保したかったのです。

クレオパトラはローマの新たな権力者となったアントニウスに接近!!
アントニウスはクレオパトラの虜に・・・。
協力関係になっていきます。
アントニウスのローマ軍は、パルティアを押し戻し、死海の近海を影響下に置くことに成功します。
するとアントニウスは、ナバテア王国から死海周辺を取り上げてクレオパトラに与えます。
ナバテア王・マリクスは、死海周辺を失いたくないと訴えかけます。
結果、毎年銀200タラント(6トン相当)で、辛くも土地の使用権を取り戻したのです。
しかし、それもつかの間・・・ローマ国内では次の火種が・・・
当時、ローマでは二人の権力者がせめぎ合っていました。
一人はクレオパトラの恋人・アントニウスと暗殺されたカエサルの養子・オクタヴィアヌスです。
紀元前31年、二人の争いは戦争にまで発展します。
アクティウムの海戦です。
大国ローマの次なるリーダーを決める争い・・・
否応なくどちらにつくのか、選択に迫られ・・・アントニウス・クレオパトラ連合へ援軍を送ります。
しかし、海戦はオクタヴィア盗郡の勝利!!
するとナバテア王マリクスは驚くべき行動に・・・!!
味方のはずのクレオパトラ側の船を焼き打ちしたのです。
その成果を手土産に、マリクスはオクタヴィアヌスに許しを求めます。
そして死海周辺を取り戻すことに成功します。
こうしてナバテアは大国に振り回された存亡の危機を切り抜けていったのです。

ナバテアの危機・・・それは初代ローマ皇帝オクタヴィアヌスによってもたらされます。
オクタヴィアヌスが南アラビアへの遠征を決めたからです。
当時、南アラビアと地中海を結ぶ交易ルートは、ナバテア王国が独占していました。
ここで取引されていたのは、乳香・没薬などの香料で、ナバテアにとってはれき青と同じく重要な交易品でした。
乳香は、当時黄金と匹敵する価値があったとか・・・!!
古代地中海世界の宗教儀式には欠かせないもので、現在でもつかわれています。
イエスが生れたときにも三人の賢者から乳香と没薬が・・・最も神聖で高価なぜいたく品なのです。
ナバテア王国にとって莫大な富を生み出す香料は国家の柱・・・
その交易路は王国の生命線でした。
そこにオクタヴィアヌスが目をつけたのです。
ローマ皇帝は莫大なお金を乳香や没薬につぎ込んでいました。
そこで、彼らはその交易路を支配しようとしたのです。

ナバテア王国はどのように対応したのでしょうか?
ナバテア王国宰相・シュライオス!!
シュライオスはローマの動きに対して実質的なリーダーシップを執ったと考えられています。
シュライオスにはどんな選択肢があったのでしょうか?

抗戦する??
それとも恭順・・・??
シュライオスの取った行動・・・1000人の兵士を引き連れエジプトへ出発!!
ナバタイ人は、ローマ軍の遠征に、自ら進んで従軍したのです。
1万人のローマ軍に、1000人のナバテア兵士が参加しました。
宰相シュライオスが、自ら道案内を務めます。

つまり・・・シュライオスが選んだのは、恭順の道だったのです。
ところが、シュライオスの恭順は、ただの恭順ではなく・・・
当時の歴史家の記録によると・・・

行軍の大半は、人の住まぬ砂漠だった
安全なルートも解らず、悪路ばかり・・・
道のないところ回り道・・・どこもかしこも行き止まり

兵たちは、疲労、喉の渇きに苦しみます。
途中、戦闘では7名を失っただけでしたが、結局、水が不足したために撤退せざるを得ませんでした。
ローマ人は、アラビアが過酷な場所だと全く知らされずに必要以上に長い距離を歩かされたのです。
つまり、案内役のシュライオスが、失敗するように仕向けたのです。
危険な砂漠地帯を、十分な水も持たずに進み、病気やのどの渇きに耐えかねて、死んだ兵士もいました。
ローマに従うふりをしたナバテアの勝利です。

シュライオスの策略にしてやられたローマ軍・・・
ローマの将軍は帰りは別の道を帰りました。
すると、なぜか行きの1/3の日数しかかからなかったといいます。
こうしてシュライオスは、香料の交易路を渡すことなく、自らも罰せられることなく、王国の利益を守ることに成功したのです。

ローマとの危機を乗り越えたナバテア王国・・・
ナバテアの交易網は、壮大な発展を遂げていきます。
南アラビア、エジプト、ヨーロッパ、インド・・・調査では、スイスの遺跡からナバテアのコインが見つかり、スリランカではナバテアの土器が発見されました。
ペトラの名は、シルクロードにも・・・

ペトラは東西交易の十字路として世界の先端文明を吸収・・・
数々の巨大建築を誇る国際都市として、その後100年にわたって最大の繁栄を築いていくのです。

ペトラはその後どのような運命をたどったのでしょうか?
ペトラの最も奥に、ナバタイ人たちが神を祀っていた遺跡がります。
そこには山と太陽の神ドゥシャラが祀られてきました。
しかし、後にキリスト教の祈りを捧げる場となり修道院に・・・。
近くの岩場には、キリスト教の十字架まで・・・。

106年、ペトラにローマ帝国を史上最大にした皇帝トラヤヌスの軍隊が攻めてきました。
ナバテア王国は、遂にローマに併合されてしまったのです。
しかし、その時の詳しい記録は見つかっていません。
ペトラはローマに併合されたあとは、独自の宗教は奪われキリスト教の拠点都市となっていきました。
ペトラはその後廃れ、忘れ去られていきます。
どうしてあれだけ繁栄を誇った都市が、幻となってしまったのでしょうか?

ひとつの原因は地震・・・
4世紀、6世紀、8世紀と巨大地震に襲われ、大きな打撃を受けます。
さらに交易路が変化し、ペトラを通らなくなります。
そうしてペトラから人々が消え、幻の都となったと言われています。
しかし、それを覆す発見が・・・!!
ペトラから見つかった6世紀のパピルス・・・
その解読から、巨大地震に見舞われたあとのペトラの変化が見えてきました。
ペトラの人々は、町の中心部や教会の周辺に住み続けていたと思われます。
そして、町の周囲には麦やブドウの畑が・・・
ペトラの周辺には、今も、麦、イチジク、オリーブの畑が広がっています。
交易都市ペトラは、農耕が営まれる土地へと生まれ変わっていったのです。
砂漠を農地に変えたのは、古代ナバタイ人が築いた水の技術・・・
今も畑の水は、当時の水路から送られています。
雨季の前には水路の手入れを行い、雨の到来を待つ週間が今も残っています。
ペトラにはナバタイ人の言葉があちこちに残されています。
その中に、頻繁に登場する言葉・・・「サラーム」
サラームは、今もアラビアであいさつに使われます。
意味は、平和、平安です。
2000年前、大国の狭間を生き抜いたナバタイ人・・・その文化や願いは、今もここに生き続けています。

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