高知県土佐清水市にある足摺岬には、はるか太平洋を見つめる銅像が立っています。
その人は、中浜万次郎・・・ジョン万次郎です。
今からおよそ180年前、日本が外国に対し、固く扉を閉ざしていた江戸時代に、一人で海を渡ったジョン万次郎・・・それは波乱に満ちた人生でした。

万次郎は、今の高知県・・・1827年、土佐国中ノ浜で貧しい漁師の次男として生まれます。
9歳の時に父を亡くした万次郎は、兄の身体が弱かったこともあって、幼いころから家計を助けて働きました。

1841年1月5日、14歳で初めての漁へ。
地ね煮は、筆之丞(37歳)、重助(24歳)、五右衛門(15歳)の三兄弟に寅右衛門(25歳)、そして最年少の万次郎を入れた5人が乗り込みました。
万次郎たちは、当初、順調に漁を続けましたが・・・
3日目・・・突然の嵐が船を襲います。
万次郎たちは、みるみるうちに沖に流されていきます。
船をこぐのに必要な櫓も折れてしまい、食料も水もつき、生死の境をさまよい続け・・・6日・・・
1月13日、島を見つけ上陸します。
そこは、土佐から750キロ離れた伊豆諸島最南端の絶海の孤島・鳥島でした。

通常、土佐沖を流れる黒潮は、日本列島沿岸に沿って北東へ流れています。
この流れに乗ると、太平洋の北へと流されてしまいます。
万次郎たちが漂流したのは真冬・・・凍え死んでもおかしくありませんでした。
どうして北ではなく、伊豆諸島の南へ・・・??
黒潮は、風や海水の温度で、定期的に流れを変えることがあります。
その流れが鳥島に向かうことがあるのです。
たまたま大きく蛇行する黒潮の流れに乗ったことで、鳥島に流れ着いたのです。

万次郎たちの命を繋いだアホウドリ・・・
アホウドリが島にいたことも幸運でした。
毎年10月上旬になると、鳥島には繁殖のために飛来します。
冬の間、ここで子育てをします。
万次郎たちが漂着したのは、今の2月上旬で、ちょうどアホウドリを食料にすることができたのです。
しかし、それも長くは続きませんでした。
子育ての終わったアホウドリたちは島を離れていきました。
さらに、70日間、全く雨の降らないこともあり、飲み水が無くなります。
しかし、万次郎は絶対にあきらめない性格で、一人で海藻や木の実をみんなに配って元気づけます。

万次郎は、あきらめずに海の向こうを眺め続けます。
すると・・・一隻の大型船から小舟が2艘降りてきたのです。
1841年5月9日、万次郎、鳥島について約5か月で救助されます。
5人を助けてくれた大型船は、ジョン・ハウランド号・・・アメリカの捕鯨船でした。
36歳のウィリアム・ホイットフィールド船長をはじめ、34人の乗組員が、クジラを取るために世界の海を渡っていたのです。
日誌には、万次郎たちを助けた日のことが書かれていました。

”島にウミガメがいるかどうか探すため、午後1時に2艘のボートを降ろす
 島に遭難して疲れ果てた5人がいるのを発見し、本船に収容した
 飢えを訴えているほか、彼らから何事も理解することはできなかった”

船から2艘の船を出したのは、万次郎たちを助けるためではなく、食料となるウミガメの卵を探すためでした。
万次郎は、奇跡的に命を救われたのです。
外国人に助けられたからには、ここから先どうなるかはわからないけど、命を大切にしようと決めたといいます。
生きてさえいれば、いずれ日本に帰れる・・・??

1825年江戸幕府は「異国船打払令」を発布!!
外国船が日本に近づけば、容赦なく砲撃をしていました。
万次郎たちは、船長たちと共に捕鯨の旅に・・・!!

万次郎は、自ら英語を覚え、船乗りの仕事も覚えていきます。
万次郎たちを乗せた船は、1841年6月27日に鳥島を出発し、各地でクジラを取った後、1841年11月20日、ホノルルに寄港。
ホイットフィールド船長は、万次郎たちをホノルルで降ろしました。
ホノルルは、当時環太平洋地域における情報の中心的存在でした。
月に何十隻の捕鯨船が寄港し、水や食料を補給する吉でした。
ここで、中国行きの船に乗れば、日本に帰れるかもしれないと、考えてくれたのです。
しかし、船長は、万次郎にだけ・・・
「一緒にアメリカに来ないか??」と誘ったのです。
万次郎の人懐っこい性格を、船乗りたちは気に入り、彼に捕鯨の仕事を見せるようになっていました。
また、万次郎も、一生懸命学んでいたからです。
万次郎の好奇心と適応力に、アメリカの進んだ教育を受けさせたいと考えたのです。
外国に行くことは国禁を破る大罪でしたが、好奇心から誘いを承諾!!
ホノルルで、中国船を待つ4人と別れ、1841年12月1日、万次郎はホノルルを出発しました。

グアム、タヒチ・・・いろいろな島を回って捕鯨をし、およそ1年半・・・1843年5月6日にアメリカ・ニューベッドフォードに到着します。
そこは、各国から捕鯨船が集まる世界最大の捕鯨基地でした。
万次郎はついにアメリカ本土に降り立ちます。
それは、黒船来航の10年も前のことでした。

アメリカについた万次郎は、ニューベッドフォードの隣、フェアヘイブンで生活することになります。
船長の家がその町にあったからです。
しかし、帰ってみると船長の奥さんが亡くなっていたため、十分に面倒を見ることができないと、知人の家に寄宿させることにします。
そして、万次郎に小学校に通うように勧めます。
万次郎は、アメリカ留学生第1号に・・・!!
16歳ながら、小学生と共に英語を学ぶこととなった万次郎でしたが、英語を習得し、わずか1年で小学校を卒業します。

ABCの歌は、この時習ったと言われて・・・この歌を最初に日本に仕えたのが万次郎だと言われています。
万次郎は、航海士養成学校バートレットアカデミーで航海術や、測量術、高等数学を学びます。
この頃になると、船長が再婚し、万次郎も一緒に住むことに・・・
それでも母を想い、寂しかったようです。
心細くなったのには・・・敬虔なクリスチャンだった船長がある時教会に万次郎を連れて行くと、白人ではないからということで、出ていくように言われてしまいます。
当時のアメリカは、まだ奴隷制が敷かれていた時代でした。
差別は激しく、万次郎も差別を受けたのです。
しかし、船長は黙っていません!!
船長は、いろんな国を回り、いろんな船員を知っていました。
肌の色や国籍などによる差別は、意味がないということだと考えていたからです。

船長は、万次郎を受け入れてくれる教会を探します。
そして、人種差別のない宗派の教会に移ることに決めたのです。
自分のために、宗派まで変えてくれた船長の実直な人柄に、万次郎は深く感謝しました。
万次郎は、船長の深い愛に応えるように、1864年、19歳で養成学校を首席で卒業するのです。
船乗りとして捕鯨船に乗り込みました。
世界各地の捕鯨地を回る万次郎・・・

「ジョン・マン!!どうして日本人は困っている船乗りを助けない??
 困ったときはお互い様だろう・・・??」

と、船員たちに言われてしまいます。

日本が難破した船の救助をせずに、船員をまるで罪人のように扱っているというのです。
それは、日本が鎖国状態にあったためでした。
当時、外国船への水や燃料などの補給などは、一部で認められるようになってはいましたが、それも十分ではありませんでした。

アメリカは・・・日本人の私の命を助けてくれた上、様々なことを学ぶ機会を与えてくれた・・・
それなのに、アメリカと日本のために出来ることは・・・??

考えた末に、船長に手紙を送ります。

「私は努力して日本の港を開き、捕鯨船の補給ができるようにしたいと思います。」

帰国し、日本を開国させる・・・それは、とてつもなく大きな夢でした。

1849年9月23日、万次郎は3年4か月ぶりにニューベッドフォードに帰港します。
14歳で漂流した少年は、22歳の立派な船乗りになっていました。
万次郎は、改めて日本に帰国したいことを伝えると、そのためにカリフォルニアに行きたいと願い出ます。
当時、アメリカ西部はゴールドラッシュに沸いていました。
万次郎は無謀にも、その資金を自分で稼ごうとしたのです。
こうして万次郎は、サクラメントへ・・・!!
当然、日本人は万次郎一人、お金のためのならず者も多く・・・そこで万次郎は、ピストルを2つ携帯し、来る日も来る日も金を採掘し、70日で600ドルを稼ぎます。
これは、船乗りの給料3年分以上でした。

1850年9月、万次郎23歳の時にホノルルへ・・・!!
食糧やテント、日本上陸のボートを買うためです。
そのボートにはアドベンチャー号と名付けます。
ホノルルで別れていた4人と再会したのです。
結婚したものも2人・・・重助は病気で亡くなっていました。

寅右衛門は残留し、日本初のハワイ移民となりました。
万次郎は、伝蔵、五右衛門と共に、日本へ帰る策を練り始めました。
しかし、気がかりなのは・・・ホイットニー船長の事。
カリフォルニアに行くとは伝えていましたが、日本に帰るとは伝えていませんでした。
万次郎は、早速手紙を書きます。

「私を幼少のころより大人になるまで育ててくださったご慈愛は決して忘れることはございません。
 御恩返しもしないで、このまま帰国する不義理が許されることではありませんが、しかし、世の中は良い方向へ変わっていきつつあるので、私たちはいつかまたお会いできると信じております。」

1850年10月、万次郎は日本へ旅立ちます。
その作戦は。。。上海行きの船に乗せてもらい、琉球近くでアドベンチャー号で自分達で向かうということでした。
どうして土佐ではなく琉球・・・??
琉球は、薩摩藩に支配されていながらも、独立国で海外との貿易が活発に行われていました。
様々な外国船が来ていたので、鎖国をしていない琉球なら罪人としての扱いを受けないだろうと考えたのです。
ボートで上陸したのは、自力で帰ったところをアピールするためでした。

1851年1月3日、万次郎たちはついに摩文仁の浜に上陸。
万次郎24歳・・・漂流から10年がたっていました。
ようやく帰ってきた3人でしたが、ただただ怪しまれました。
洋装で海から現れ・・・日本語もうまく喋れなくなっていたからです。
万次郎たちは、那覇で8か月足止めされ、薩摩、長崎へ・・・
長崎奉行所では取調べが9か月に及びました。
幕府に伝えられた調書にはこのような一文が書かれていました。

「万次郎はすこぶる怜悧にして国家の用となるべき者なり」

長い取調べを受け、1852年7月11日、万次郎土佐に到着!!
土佐でも万次郎のことは話題になっていました。
再び取調べを受け、10月5日、中ノ浜に帰ります。
浜を出てから11年以上・・・万次郎は25歳になっていました。
母は、万次郎が亡くなったとお墓まで立てていたといいます。
万次郎は再び高知城下に呼び出されます。
藩主・山内容堂の命令でした。
容堂は外国を知る貴重な万次郎を藩校の教授に・・・
一説には、薩摩藩主・斉彬が万次郎を薩摩に譲り受けたいと言われていたこともあり、他藩に取られないように早々に取り込んだともいわれています。
さらに・・・福岡藩主・黒田長溥が1853年12月に幕府に建白書を提出。
万次郎に幕府の海軍を創設させようと進言しています。
万次郎が持つ知識と情報の価値は、いくつもの藩が認めていました。
万次郎は、容堂から武士の身分を与えられます。
犯行の教授として土佐藩の若い者を指導していくことに・・・。
その中には、後藤象二郎や岩崎弥太郎も・・・幕末や明治で活躍します。
しかし、唐の万次郎は悩んでいました。
日本を開国させるという船長との約束がまだだったからです。

そんな万次郎に大きなチャンスが・・・黒船来航です。
1853年6月3日、アメリカ海軍東インド艦隊司令長官ペリーが4隻の艦隊を率いて浦賀にやってきました。
ペリーは幕府にアメリカと国交を結ぶことを要求。
1年後に返事を聞きに来ると、一旦日本を去りました。
このアメリカの要求に頭を悩ませたのが、時の老中・阿部正弘でした。

万次郎にアメリカの事情を聴くのがいいのでは・・・??
阿部は早速、土佐藩に万次郎を江戸へよこすように・・・こうして万次郎は再び土佐を離れて江戸へ・・・。
日本の港を開くという夢の実現のために、アメリカの事情を思いを込めて説明します。
万次郎は、持てるすべてを語りました。
そして・・・アメリカはあくまで捕鯨船が難破した際に、船乗りをきちんと助けてほしいと言っているのです。
そのために、港を開かせ、国交を開こうとしています。
日本を乗っ取る事はないと考えます・・・!と。
アメリカのもう一つの目的は、水・食料・燃料の補給であることも伝えます。
そして、日本が今後どのように動くべきかという指針まで理路整然と述べたのです。
大いに感心した阿部は、万次郎を幕府直参に取り立てます。
そして、生まれ故郷の中ノ浜を取って「中濱」という姓を与えられたのです。

同じ幕臣の江川太郎左衛門に預けられた万次郎・・・。
江川は、幕府きっての開明派で、大砲などを開発、蒸気船の建造も担っていました。
万次郎もその聡明さに惹かれ、付き従うようになり、共に交渉準備に邁進します。
そして運命の時・・・
1854年1月16日、ペリーが再び浦賀に来航。
幕府から交渉を任せられた一人の江川は、万次郎を通訳にと考えます。
ところが思わぬ横やりが・・・前水戸藩主・徳川斉昭が・・・万次郎に難色を示します。さらに、万次郎には幕府の評議を知らせず、アメリカ人に直接あわせないようにと提言します。
どうして用に反対・・・??
斉昭は江川に手紙を送っています。

”本国を慕い、帰ってきたほどの者で感心ではあるが、万次郎も一命を救われた上、幼少から20歳までの恩義があるので、アメリカの不利になることは決して好まないだろう”

つまり、万次郎が相手に有利な条件で条約を結ぶことが考えられる・・・??
斉昭は、アメリカは漂流民に依頼して、日本の情勢を調査させるつもりかもしてれないと考えていました。
斉昭は万次郎がアメリカのスパイではないか??と疑っていたのかもしれません。

しかし、”万次郎が腐らないように十分報酬を与えること”とも書かれていました。

①日本の情報がアメリカに漏れることを恐れ
②万次郎をアメリカに連れ去られることを恐れていました。

結局、万次郎は通訳として参加することはできませんでした。
しかし、1854年3月3日、日米和親条約締結
それによって下田・箱館が開港され、アメリカの船が難破した際は、漂流民を保護して引き渡すという条約が盛り込まれました。
万次郎の夢が現実の者となりました。
その後、万次郎は結婚、子供も設け、明治の代を迎えます。
1870年、万次郎は明治政府の通訳として欧米へ・・・!!
その途中、アメリカで2日間の休暇をもらった万次郎は、ホイットフィールド船長に会いに行きます。
万次郎43歳、船長は65歳になっていました。
万次郎は、21年の時を経て、言い尽くせないほどの感謝の気持ちと、約束した開国の実現を伝えることができたのです。
1808年11月12日死去・・・71年の生涯・・・その人生は、まさに波乱に満ちた大航海でした。

20世紀になって、第30代アメリカ大統領カルヴィン・クーリッジは、こう言っています。

「ジョン・マンの日本への帰国は、アメリカ最初の隊士を日本に送ったことに等しい。
 なぜならば、ジョン・マンが我が国の本当の姿を当時の日本首脳部に理解させていたからこそ、我々の使節ペリーはあのような友好的な扱いを受けることができたのである。」

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