奈良盆地北部の広大な一角・・・かつてここに、唐の長安をモデルにした都・平城京がありました。
2010年に復元された第一次大極殿・・・天皇が牧歌的行事を執り行った巨大な建物は、1300年前の当時の栄華を今に伝えています。
奈良時代の人たちや平城京の様子を生き生きと伝える「万葉集」。
万葉集・・・飛鳥時代と奈良時代のおよそ130年間の和歌を中心に集めた日本最古の歌集です。
作者は天皇から読み人知らずまで4500以上、20巻に納められています。
この膨大な編纂に関わったのが、名門貴族にして歌人の大伴家持です。

令和ゆかりの地・福岡県太宰府市・・・玄界灘に面した博多湾からおよそ15キロ内陸に位置しています。
飛鳥時代にもうけられた政庁・大宰府は、九州一帯の統治と、大陸、朝鮮半島からの攻撃に備える重要なや役割りを担っていました。
奈良時代のはじめ・・・727年頃、大伴旅人は、大宰府の長官として奈良の都から赴任しました。
旅人が率いた大伴氏は、神話の時代から軍事を司る有力氏族として天皇に仕えていました。
唐・新羅との戦争を体験した古代日本にあって、国土防衛の最前線でした。
水城と呼ばれる全長1.2キロ、高さ13mにも及ぶ長大な土塁・・・。
更にその海側を、幅60mもの堀が守っていました。
大宰府は、百済から亡命してきた官人の指揮によって作られました。
当時、最新の都市設計でした。
大宰府は、大陸の技術や文化をいち早く摂取する国際色豊かな町でした。
大伴旅人の邸宅の後に建ったと言われている坂本八幡宮。
新元号・令和の出典となった宴は、旅人の屋敷で行われたものでした。

万葉集にその時の様子が残されています。

”初春の令月にして 気淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫す” 巻五

これは序文の一部で、当時の教養人の慣習に倣い、漢語で漢文で書かれました。
しかし、宴で詠まれた歌は、大和言葉の一音一音に漢字を充てた万葉仮名で書かれています。

730年1月・・・旅との邸宅に、九州各地を治める役人たちが集まりました。
中国・唐から輸入されたばかりの梅を愛でながら歌を詠む宴が催されたのです。
旅人が歌会の始まりを告げました。
名古屋かな宴には、当時筑前守で一流の知識人だった山上憶良の姿もありました。

春されば まづ咲く宿の 梅の花
       独り見つつや 春日暮さむ

憶良は一人で梅を見る寂しさに触れ、大人数の宴を張ってくれた旅人に感謝しました。
これに応えた旅人・・・

わが園に 梅の花散る
  ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも

監視を下敷きにした巧みな表現に感嘆の声が上がりました。
一同は、それぞれに趣向を凝らし、梅を読み、心を通わせていきます。
この時読まれた32首が、序文と共に万葉集に納められたのです。
中国の文学、和歌の伝統・・・それを読むのは、大宰府が大陸との玄関口で、朝鮮半島や中国から人が来ている・・・そこに花開いた文学なのです。
宴を開いた旅人の邸宅には、後に万葉集の編纂に関わる少年の姿がありました。
旅人の息子・大伴家持この時、13歳でした。


あおによし 寧楽の京師は 咲く花の
            薫ふがごとく 今盛りなり

平城京の朝は早い・・・日の出のおよそ20分前に、太鼓の音で目を覚まします。
やがて、朱雀大路に人々が行き交い始めます。
710年平城京遷都と共に造営された巨大な宮殿平城宮。
東西1.3キロ、南北1キロの広大な敷地の北に大極殿がそびえ、南の中心を朱雀門が構えました。
壮麗な朱雀門は、代々大伴氏が守ってきたことから大伴門ともいわれていました。

730年の暮れ・・・旅人と共に家持は朱雀門そびえる平城宮に戻ります。
しかし、わずか半年後に旅人はこの世を去ります。
家持は、大伴氏の命運を一心に担うこととなります。
成人した家持は、中舎人と呼ばれる天皇の警護役として聖武天皇の傍に仕えました。
聖武天皇は、藤原不比等の娘・宮子を母に、光明皇后を妻に持ち、藤原氏と深い姻戚関係にありました。
そこで、朝廷では武智麻呂や宇合などの藤原4兄弟が絶大な権力を担っていました。

正倉院には、光明皇后が聖武天皇の死を悼んで納めた数々の宝物が残されています。
唐から伝来したと言われる見事な螺鈿をあしらった琵琶・・・聖武天皇愛用の品と伝えられています。
大陸の技法を用いた美人画、数々の宝物は聖武天皇の遺品であるとともに、それを支えた藤原氏の栄華を物語るものです。
ところが、藤原氏中心の朝廷を揺るがす事件が・・・
737年、都で天然痘が流行し、4兄弟がわずか3か月の間に次々と亡くなったのです。
代わって政権を担ったのが、橘諸兄です。
皇族出身の諸兄は、聖武天皇を補佐して政治の混乱を治めようとします。
古くから天皇に仕えてきた大伴氏を率いる家持は、この諸兄と密接な関係を築きます。
橘諸兄の政権は、とても不安定なものでした。
大伴氏・・・家持と県警を結んでおくのは、とても重要なことで、父・旅人の亡くなった家持もこれから自分が大伴氏を背負っていくためには、諸兄との関係は有効だったのです。

738年秋・・・家持は橘諸兄の息子・奈良麻呂が開いた宴に参加します。
貴族の子弟が集う宴に、家持の弟・書持や、仲の良かった大伴池主が同席していました。
この時の家持の歌が万葉集に残っています。

黄葉の 過ぎまく惜しみ 思ふどち
         遊ぶ今夜は 明けずもあらぬか

この密接な関係は、後の家持を大いに左右することとなります。

745年、家持は、主に飛鳥時代から奈良時代にかけての歌を集めた歌集の編纂に携わることに・・・後の万葉集です。
家持は先人たちが集めた歌を引き継ぎ、それに同世代の歌を加えた一大プロジェクトに精魂込めていくことになります。

746年、家持は越中守に任じられます。
朝廷から大きな期待を背負っての赴任でした。
聖武天皇は、大仏建立を進めていました。
天然痘が流行り、うち続く飢饉に心を痛めた聖武天皇は、仏教の力で国を守ろうとしたのです。
越中には荘園も数多くあり、その管理に尽力することで、莫大な資財がかかる大仏建立を支えようとしました。
しかし、赴任早々、悲しい知らせが・・・弟・書持が都で急死したのです。
家持自身も重い病に・・・。
この時、心を慰めてくれたのは、一族の池主でした。
家持と同じく越中に赴任していた池主と歌の交換が始まります。
悲嘆にくれる家持を励ます家主。。。
この親交は、二人が都の戻ってからも続きます。

家持は、体調を回復させると、意欲的に歌を作ります。
捜索の刺激となったのは、奈良では見られない、越中の自然でした。

立山に 降り置ける雪を
    常夏に 見れども飽かず 神からならし

それまでの歌人がしないような表現、素材を歌います。
越中赴任から2年、748年、越中を巡回します。

雄神川 紅にほふ 少女らし
      葦附採ると 瀬に立たすらし

之乎路から 直越え来れば 羽咋の海
           朝凪ぎしたり 船梶もがも

自ら越中の自然と人々の暮らしに分け入り、家持は歌人として大きく成長したのです。
万葉集に残された家持の歌のうち、半数近く・・・220首余りが越中時代の5年間に詠まれた歌です。

飛鳥時代から九州沿岸の警備に当たった防人・・・
朝廷が設置した外敵の襲来に備える最前線です。
防人の多くは、はるばる東国から集められた農民たちでした。
食糧も武器も自己負担という過酷なもので、任期は3年に及び、中には故郷にたどり着けずに野垂れ死にするものも・・・。
越中での務めを終えた家持は、都に戻り、兵部省の役人として難波の港から防人を送り出す任につきました。
この時、家持は多くの防人の歌を採集し、そのうち84首を読み手の名前まで残しました。
家持は防人たちの歌だけでなく、詠み人知らずの歌も数多く記録しました。

749年7月、聖武天皇は、娘に譲位しました。
女帝・孝謙天皇の誕生です。
当時、朝廷で勢力を拡大していたのは、藤原仲麻呂でした。
天然痘で亡くなった武智麻呂の次男です。
仲麻呂は、叔母に当たる光明皇太后の後ろ盾で、異例の昇進を重ね、大納言に抜擢されていました。
光明皇太后は、自分が皇太后としての権力を維持するとともに、天皇のカリスマ性が十分にない孝謙天皇をサポートする意味で、仲麻呂に期待したのです。
751年、家持は少納言となり、政界の中枢へと近づいてきます。
その翌年・・・聖武天皇の彼岸だった大仏の開眼供養が盛大に催されました。
父・聖武、母・光明皇太后と共に、孝謙天皇も式典に参加します。
しかし、孝謙天皇は、式典後、宮中には帰らず、仲麻呂の邸宅に長く逗留しました。
この出来事は、仲麻呂の力を天下に示すこととなります。
政権トップにいた橘諸兄の地位は次第に脅かされ、家持をも危うくさせる状況が近づいていました。
万葉集の家持の歌にも・・・

うらうらに 照れる春日に 雲雀あがり
           情悲しも 独りしおもへば

橘諸兄の権力が空洞化し、仲麻呂の権力が増大していく・・・大伴氏の苦境、家持の政界での孤独を表しています。
756年、さらに家持の苦悩を深める事件が・・・大伴氏の長老のひとり古慈斐が朝廷を誹謗したとして出雲守を解任されたのです。
それは、仲麻呂の計略によるものでした。
一族の暴発を危惧した家持は、軽はずみな行動で大伴の名を汚さぬように自重を促す歌を詠みます。

磯城島の 大和の国に 明らけき
            名に負ふ伴の緒 心つとめよ

しかし、家持にとって、事態は悪化の一途をたどります。
765年、仲麻呂に対抗していた橘諸兄が死去・・・これを機に、仲麻呂は行動をエスカレートさせていきます。
前年に亡くなった聖武の遺言で決められていた皇太子・道祖王を廃し、自分の邸宅に匿っていた大炊王を新たな皇太子に立てたのです。
さらにに仲麻呂は、橘奈良麻呂を官職に追いやり、大伴氏の高官も左遷。
仲麻呂の横暴極まりない振る舞いに、大伴氏の怒りは頂点に・・・!!
橘奈良麻呂を中心に政変を起こし、仲麻呂を打倒しようと・・・
池主も首謀者の一人に加わりました。
政変の計画を知った家持・・・

皇位をぞんざいに扱い、朝廷を意のままに動かそうとする仲麻呂・・・このまま見過ごすわけには行けない・・・??
大伴の力を集めれば仲麻呂を倒すことができる・・・??

仲麻呂の背後には、孝謙天皇がいる・・・。
加担せず静観する・・・??
武門の士族・大伴の力は、天皇の恩義を守るためにあるのだ・・・!!
自らを訴えるために使ってはならない・・・??

苦悩する家持に猶予はありませんでした。

757年6月28日、仲麻呂打倒の計画は急展開を迎えます。
橘奈良麻呂が挙兵しようとしたことが、密告によって露見したのです。
厳しい取調べの結果、計画に関わったものは死罪、流罪に処せられました。
橘奈良麻呂だけでなく、大伴氏からも池主をはじめ家持に近い人が処せられたといいます。
共謀者とされたのは、433人に及んだと言われていますが、そこに家持の名はありませんでした。

家持は、事態を静観するという選択をしたのです。

万葉集の中に、この時の胸中を伺える内容があります。

咲く花は 移ろふ時あり 
   あしひきの 山菅の根し 長くはありけり

家持は、変わりゆく時勢に動揺することなく、大伴氏本来の役目を果たす覚悟でした。
家持の選択によって、集められてきた数々の歌は守られたのです。

橘奈良麻呂の変の翌年、家持は因幡国の赴任を命じられます。
759年正月・・・年の初めを寿ぐ歌を詠みます。

新たしき 年の始の 初春の
        今日降る雪の いや重け吉事

この静かな祈りの言葉が、4500首を超える万葉集を締めくくる歌となりました。

その後も家持は、謀反計画が発覚するとしばしば関与を疑われました。
因幡守以降、薩摩、相模、上総など地方の務めをすることが多くありました。
782年、60歳を過ぎた家持は鎮守将軍として奥州・陸奥国での勤務を命じられました。
武門の大伴氏の名に恥じぬように、朝廷に敵対する蝦夷と対峙し続けた家持・・・
785年8月28日、多賀城でその生涯を閉じたのでした。

家持が編纂の中心を担ったとされる万葉集・・・
その完成時期は定かではありません。
しかし、都が奈良から長岡京をへて平安京に移った時期に見いだされ、万葉集の名は後世まで長く人に知られるようになりました。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

越中万葉をたどる 60首で知る大伴家持がみた、越の国。 (高岡市万葉歴史館論集) [ 高岡市万葉歴史館 ]

価格:1,080円
(2019/8/11 21:17時点)
感想(0件)

大伴家持の暗号 編纂者が告発する大和朝廷の真相 [ 小林惠子(古代史) ]

価格:1,620円
(2019/8/11 21:17時点)
感想(0件)