1945年9月29日、日本国民を驚愕させた一枚の写真が新聞に掲載されました。

tennnou昭和天皇と、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーとのツーショット写真です。
この時、天皇44歳、マッカーサー65歳でした。
写真は、天皇がアメリカ大使館をたずね、マッカーサーと初めて会見した際に撮られたものでした。

この写真を見た作家・高見順は「古今未曽有」と、敗戦日記に記し、歌人・斎藤茂吉は「ウヌ!マックアーサーの野郎」と、憤りました。
現人神として崇められてきた天皇に対し、マッカーサーはノーネクタイに開襟シャツのカジュアルな服装で、両手を後ろに回し傲慢にさえ見える・・・
国民は、大きなショックと怒りを抱いたのです。
ところが、この後行われた二人の会談が、敗戦国となり、連合国の占領下に置かれた日本の行く末を握っていました。

その世紀の会見の中身とは・・・??

1945年8月30日、戦後日本の命運を握る男がやってきました。
ダグラス・マッカーサー、GHQ最高司令官です。
GHQとは、連合国最高司令官総司令部のことで、敗戦国日本を占領管理するため、米・英・中・ソ・仏などの戦勝国によって設置された機関です。
その最高権力者となったマッカーサーが、神奈川県厚木飛行場に降り立ちました。
午後2時5分・・・アメリカ軍の輸送機・バターン号で予定より1時間ほど早く到着。
濃いサングラスにノーネクタイ、コーンパイプをくわえたマッカーサーは、ゆっくりと辺りを見回しながら、タラップを悠々と降りてきました。
この時の印象的な登場は、マッカーサーが周到に計算した演出だったといいます。
戦争に勝利をおさめて、最高指揮官として一歩踏み出す・・・
サングラスにコーンパイプを片手に降りてきたのは、如何に自分を印象付けるかを考えた結果でした。
厚木飛行場を後にしたマッカーサーが向かったのは、東京入りするまでの狩りの宿舎となるホテルニューグランドでした。
現在も、マッカーサーが宿泊した部屋が残っています。
どうしてこのホテルだったのでしょうか?
進駐軍が、最初の滞留地を横浜としたのは、最高司令官の宿舎としてニューグランドが相応しかったからです。
ホテルニューグランドが、外国人向けに作られたホテルであった事、アメリカの攻撃対象から外されていたので、焼けずに残っていたのが大きな理由です。
マッカーサーは、横浜港に面したこの部屋を、とても気に入っていました。
しかし、その対応には苦労もあったようで・・・
マッカーサーは、朝食に卵を二つ注文しましたが、当時の日本は食糧難・・・その卵を一日中探し回って手に入れたのが1個だけでした。
それをきっかけに、マッカーサーは日本の食糧難を知り、進駐軍から日本に大量の食糧が届けられました。

1937年、マッカーサーがフィリピン軍事顧問だったころ、当時のケソン大統領の訪米にお供し、日本に立ち寄っていました。
一緒に来ていたジーン夫人は、二度目の結婚でした。
新婚旅行をしていなかったので、このニューグランドに泊まったことがありました。

1945年9月2日、日本の降伏調印が、東京湾上ミズーリ号で行われました。
その調印式の開会を述べるマッカーサー・・・

「私は連合国最高司令官として、
 私の代表する諸国の伝統に従って、
 正義と寛容を持って私の責任を果たし、
 降伏条件が、完全、迅速かつ誠実に遵守せられるよう、
 ありとあらゆる必要な措置をとる決意である」

日本側からは、外務大臣・重光葵が代表として調印・・・
ここに大日本国帝国は終焉します。

9月8日・・・
マッカーサーは東京に入ると、日本での住まいとなるアメリカ大使館へ・・・。
そして、皇居の迎えに立つ第一生命ビルを接収しGHQ本部としました。
最大で40万人となった米軍部隊も日本各地に上陸。
占領体制は着々と整備されていきました。

マッカーサーは土日も休まず、判で押したような生活をしました。
毎朝10時にアメリカ大使館を出て、GHQ本部に向かいます。
仕事をするのは、マッカーサールームと呼ばれた執務室。

敗戦からおよそ1月・・・GHQによる本格的な日本統治が始まりました。
実質的にはアメリカの単独占領・・・おのずとGHQのトップにいたマッカーサーの命令は、絶対でした。

「私は日本国民に対して、事実上無期限の権力を持っていた
 歴史上、いかなる植民地総督も、征服者も、総司令官も、私が日本国民に対して持ったほどの権力を持ったことがなかった
 私の権力は至上のものであった」

それでもマッカーサーは、調印式、第一生命ビルの接収では、支配者マッカーサーとして日本人に焼き付けるには不十分だと思っていました。

「早急に天皇と会見をする必要があるのだが・・・」

マッカーサーはGHQの幕僚たちから強く勧められていました。
「私たちの権力を示すために、天皇を総司令部に来させたらどうだ??」
敗戦の惨めさを思い知らせろとの声もあったのです。
しかし、マッカーサーは迷っていました。
そして考えた末・・・天皇を呼びつけるのではなく、天皇から会いに来るのを待つことにしました。
どうして天皇を呼びつけなかったのでしょうか?
それは、マッカーサーの経歴と深く関係していました。

1880年アメリカ合衆国アーカンソー州で生まれます。
陸軍士官学校を首席で卒業。
アメリカ軍に入隊し、フィリピン赴任を経て、陸軍参謀総長に史上最年少の50歳で就任。
エリート軍人でした。
太平洋戦争勃発後は、5回目となるフィリピンへ・・・
こうして長年でフィリピンで過ごしていたマッカーサーは、アジア通を自負していました。
アジア人の心理をよくわかっていたと言われています。

「幕僚たちが、権力を示すために天皇を招き寄せたらと、強く勧めたが、そんなことをすれば、日本の国民感情を踏みにじり、天皇を国民の目に殉教者に仕立て上げることになる」

マッカーサーは、日本は天皇崇拝のおかげで戦後も無政府状態にならず、粛々と敗戦を受け入れたのだと考えていました。
無理やり天皇を呼びつければ、日本国民の反感を買い、今後の占領がやりにくくなると考えたのです。

「私は待とう 
 そのうち天皇が自発的に私に会いに来るだろう
 西洋のようにせっかちにするより、東洋のように辛抱強く待つ方が、我々の目的に一番かなっている」

後に、副官であるバンカー大佐は・・・
「ゼネラルは、心理的な側面では天皇を通じて占領を極めて効果的に行った」と言っています。

GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサー・・・
この時、日本側もマッカーサーと早急に会いたいと思っていました。
日本がポツダム宣言を受諾した最大の理由は、国体が護持(=天皇制存続)されると思っていました。
しかし、同時にぽつ談宣言の中では、戦争責任を追及する軍事裁判を行うことも謳われていました。
天皇が糾弾される可能性もあったのです。
日本政府は、”天皇が軍事裁判で糾弾されるのか”をGHQから探りたかったのです。

実際、アメリカでは天皇を糾弾せよという機運が高まっていました。
そこで、宮内省関係者は日本統治の最高権力を有するマッカーサーの考えを探ろうと情報集めに奔走・・・。
しかし、何もつかめずにいました。
そのために、天皇とマッカーサーとの会見に踏み切れずにいたのです。

そんな中・・・9月20日。
昭和天皇の侍従長・藤田尚徳のもとへ電話が・・・時の外務大臣吉田茂でした。
マッカーサーとあってきた吉田・・・

「マッカーサー元帥に、もし天皇陛下が”あなたを訪問したい”と言われたらどうなさるかと質問したところ”喜んで歓迎申し上げる”との返事だった。」

吉田から電話がかかってくる直前に、藤田もマッカーサーと会っていました。
藤田が伝えた内容は・・・

「マッカーサー元帥は、開戦以来方々の戦場で戦われ、日本に進駐されたが、ご健康はどうであろうか
 炎熱の南方諸島で健康をそこなわれるようなことはなかったろうか
 また、日本の夏は、残暑が厳しいので、十分に健康にご注意ありたい」

すると、マッカーサーは・・・

「私のことをいろいろご心配下さって感謝に堪えない
 どうか天皇によろしくお伝え願いたい」

マッカーサーの丁寧な対応に、藤田侍従長は安堵したといいます。
吉田茂大臣からの連絡は、大変うれしいものでした。
マッカーサーの意向がわかったので、宮内省で計画し、天皇がアメリカ大使館にマッカーサーをの訪問することが決まります。

その運命の日は、9月27日でした。
昭和天皇は、数人のお付きのものと共に、赤坂にあるアメリカ大使館へ。
迎賓室の入り口で待っていたマッカーサーと、遂に対面します。
握手と簡単な挨拶を交わした後、天皇はなかに入ります。
この時、お付きとして許されたのは、通訳只一人・・・。
マッカーサーは天皇に、こちらにお立ち下さい・・・そう言って、天皇の右側に立つと・・・突如、マッカーサー付きのカメラマンがシャッターを切ったのです。
撮影に関して何も知らされていなかった天皇は、驚きを隠せず・・・姿勢を正すことができませんでした。
三枚目でようやく体制を整えることができました。
宮内省発表の記事と共に翌日28日の新聞に報じられる予定でしたが、内務大臣山崎巌がこれを不敬だとして掲載禁止とするのです。
これまで国民が見慣れた天皇の写真は、御真影と言われた陸海軍大元帥の礼装服か、白馬にまたがった陸軍改定式などの勇姿でした。
それが、平民と変わらないモーニングにネクタイという姿だったからです。
さらに、現人神である天皇が直立不動の体勢をとっているのに対し、マッカーサーはノーネクタイに開襟シャツという軽装・・・こうした理由から不敬とし、差し止めたのです。

しかし、新聞に写真が載っていないことを知ったGHQは激怒!!
依然として獣体制の考え方を持っている者がいると、言論に対する一切の制限令を撤廃したのです。

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こうして会見から2日後の29日、二人の写真が新聞に掲載されました。
これを見た国民の多くは、改めて日本が敗戦したことを思い知らされたといいます。

昭和天皇・マッカーサー 第1回会見
この写真を撮ったのち、第1回会見が始まりました。
会見の主な内容は、天皇が開戦を遺憾している事、ポツダム宣言の履行に対する確認でした。
マッカーサーは天皇のことをエンペラーと呼び、天皇に全てを訳し伝えよと強い口調で通訳に伝えると、10分にわたり話し続けたといいます。

後に、マッカーサーはこのことを振り返りこう言っています。

「私は天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴え始めるのではないかという不安を感じた」

天皇は命乞いをしに来たのでは??と考えていました。

「私がアメリカ製のタバコを差し出すと、天皇は礼を言って受け取られた
 そのタバコに火をつけて差し上げたとき、私は天皇の手が震えているのに気が付いた」

普段は吸わないタバコを手にした天皇・・・
その緊張がほぐれたのは、マッカーサーの思い出話でした。

「私は日本とは40年来の縁があるのです
 最初の日本訪問は、日露戦争の時
 父が従軍武官としてきた際に、その副官としてきたのです
 戦争後には、私は一度天皇の父君に拝謁したこともあるのですよ」

そんな話をするうちに、天皇の警戒心は薄らぎ、その場の空気も和らいできました。
すると天皇は・・・

「私は国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身、あなたの代表する諸国の採決に委ねるためお訪ねした」

戦争責任のすべてを追うというのです。

「死を伴うほどの責任・・・
 明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとするこの勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした
 私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても、日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである」

気付けば会見の予定より大幅にオーバーしていました。
昭和天皇とマッカーサーは、35分の会見で心を通わせたのです。
会見が終わると、天皇を大使館の玄関まで見送りました。
予定外のことでした。

天皇との信頼関係が築けたことは、日本国民の信頼も勝ち得たと判断したのでしょう。
この会見の成功が、敗戦国日本の歴史を大きく変えることとなります。

1946年5月3日、東京市ヶ谷の旧陸軍士官学校大講堂で極東国際軍事裁判・・・東京裁判が行われました。
ポツダム宣言に基づく戦争責任を追及するというものです。
注目されたのは、最大の責任アリとされた昭和天皇の処遇でした。
連合国側では、裁判にかけ、処刑追放するべきだという声が高まっていました。
マッカーサーは、天皇が日本の国際法違反に関与していないか、戦争責任はあるか、全ての証拠を収集せよと、アメリカ本国から命じられていました。

1946年1月25日、これに対しマッカーサーは、アイゼンハワー陸軍参謀総長に回答しています。
「天皇の犯罪行為について調査したが、過去10年間、天皇が日本の政治決定に関与した明白な証拠は見つからなかった
 天皇告発は、日本人に大きな衝撃を与え、天皇制の崩壊は日本を崩壊させる」
マッカーサーはこう考えていました。
日本は降伏しても、天皇制は存続すると信じたからポツダム宣言を受諾した。
そのため、これを裏切り天皇を裁けば、ゲリラ戦が各地で勃発するだろう。
それを制圧するためには、膨大な費用と人材を要する・・・
占領を容易に遂行するためにも天皇を裁判にかけるべきではない・・・!!

マッカーサーは様々なてを打ちます。
1946年1月1日、昭和天皇の発意として「新日本建設ニ関スル詔書」を出します。
天皇自ら現人神であることを否定した人間宣言です。
原案は、GHQによって作られました。
①「人間宣言により新たな天皇像を作り上げ、天皇の独裁者のイメージを払拭しようとしました。
そして、天皇制を存続させ、天皇が裁判で糾弾されないよう、東京裁判の為に来日したキーナン首席検事にその意向を伝えます。
これによってアメリカ政府も天皇に”戦争責任を問わない”となりました。
しかし、他にも問題が・・・
東京裁判で審判をする連合国の内ソ連とオーストラリア・・・未だ天皇の戦争責任を追及する構えでした。
②天皇を裁かないことを前提に、裁判を進めるよう他国を説得し、同意させます。
裁判が始まると、天皇を裁かないことに矛盾が生じてきます。

東京裁判を行う上で大きな課題となった昭和天皇の戦争責任・・・
この時、天皇を糾弾せよという声を制したのは、天皇との会見をしたGHQ最高司令官マッカーサーでした。
マッカーサーの働きかけによって、天皇を糾弾しないという方向で進んでいきます。
ところが・・・
開戦当時の総理だった第40代内閣総理大臣東条英機への検察尋問で状況が一変します。

「天皇が望んでいないのに、あなたは戦争を選択した。
 このことについてどう思うか?」と聞かれ・・・
「私は忠実な軍人で、陛下に背いたことはない!」

これは即ち天皇の命令で戦争を行ったということ・・・
これでは天皇の戦争責任を追及しなければならなくなる・・・!!
そこで、アメリカのキーナン主席検事は、検察尋問を打ち切り、法廷が正月休みの間に東条が親しい軍人や官僚を使い説得させたのです。
東条は渋りながらも、天皇を訴追させないためにこう証言します。

「陛下には責任なし
 全責任は自分にある」と。

こうしてなんとか天皇を出廷させずに済みました。

マッカーサーは日本の占領において、民主化にも力を入れます。
それは、日本を二度と戦争国家にしないためです。
民主化の名のもとに、日本の軍事主義を徹底的には甲斐、壊滅することが大命題でした。
武装解除を行い、背後にある財閥やそれを運用する人間の追放を徹底的に行いました。

憲法改正・・・
マッカーサーは、占領当初から時代遅れの古い憲法を改正すべきだと口にしていました。
民主的な憲法を作るべきだ・・・!!
これを受けて日本政府は新たな憲法草案を作りますが・・・明治憲法に変わらないと却下されます。
そこで、GHQ主導の下で新憲法の製作に・・・!!
別名「マッカーサー憲法」と呼ばれた日本国憲法の草案・・・
その最初に掲げられたのが、天皇の地位についてでした。

天皇は国家元首の地位にある
皇位は世襲される
天皇の職務および機能は憲法に基づく

憲法草案に関わったホイットニー局長は、「草案が守られれば天皇は安泰になるだろう」といったといいます。
マッカーサー・ノートに基づく三原則
①天皇の地位は国民主権に基づくものとする
②戦争の放棄
③封建制度の廃止
でした。
この草案に、当時の幣原内閣は驚きます。
自分達には考えも及ばない形で、日本や日本国民の権利か書かれていました。
新しい日本の憲法草案は、当時世界の中でも斬新的な民主憲法だったのです。

新憲法についても、マッカーサーと天皇は話し合いました。
1946年10月16日、第3回会見
2時間にわたった会見で天皇は・・・
「日本国民は、戦争放棄の実現を目指してその理想に忠実でありたいと思う」by昭和天皇
「戦争放棄を決意する日本国憲法は歴史的な意味を持つだけでなく、戦争を放棄したがゆえに道徳的な評価を受けていて、その面で国際社会のリーダーになりうる」byマッカーサー
日本国憲法は、その年の11月3日に公布され、翌5月3日に施行されました。

こうして天皇は、国民の象徴となったのです。
強い信頼関係で結ばれていた天皇とマッカーサー・・・その内容は、回を追うごとに深みを帯びていきます。
第4回会見以降、マッカーサーは天皇を陛下と呼んだのです。
二人の関係は信頼そのものとなり、マッカーサーは、天皇を当惑させたり、屈辱したりしないよう気を遣ったといいます。

マッカーサーはGHQ最高司令官を突如解任されます。
それは、朝鮮戦争の進め方について当時のトルーマン大統領と意見が対立したからです。
この突然の報せに、日本は驚きます。
1951年4月15日、昭和天皇はなっかーさーに別れのあいさつに向かいます。
11回目・・・これが最後の会見でした。
そして・・・翌日、マッカーサーはあわただしく日本を去っていきました。
羽田空港へと向かう沿道には、新聞発表で二十数万もの人々が星条旗と日の丸を手に一行を見送ったといいます。
しかし、どうして日本を占領しに来た司令官がこんなに人気があったのでしょうか?

アメリカの援助物資はじめ、マッカーサーの政策が、自分たちの為になっている有難さを、日本国民は身をもって知っていたからです。
こうしてマッカーサーは、日本の統治を大成功におさめたのでした。

「私はいつも、占領政策の背後にある色々な理由を、注意深く説明したが、天皇は倭代謝話し合ったほとんど、どの日本人よりも、民主的な考え方をしっかり身に着けていた
 天皇は日本の精神的復活に、大きい役割を演じ、占領の成功は、天皇の誠実な協力と影響力に負うところが極めて大きかった」

天皇は・・・
「東洋の思想にも通じているあのような人が日本に来たことは、日本の国のためにも良かった
 一度約束したことは必ず守る信義の厚い人だ
 元帥との会見はいまなお思い出深い」

昭和天皇とダグラス・マッカーサー・・・この会見がなければ、日本はいまとは違った形になっていたかもしれません。
まさに、日本の運命を決めた世紀の会見でした。


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