今からおよそ420年前の9月15日、日本中を巻き込んだ天下分け目の大決戦がありました。
関ケ原の戦いです。
その裏には、武将たちの数々の駆け引き、裏切り、決断がありました。
両軍合わせて10万という大スケールの戦い・・・
3人の人物を通してその実像に迫ります。

岐阜県の関ケ原・・・
東軍を率いる徳川家康、西軍を率いる石田三成・・・全国の大名が東西に分かれ、日本を二分する戦いでした。
勝った家康は、その後260年続く江戸幕府を開いて歴史を変えました。
しかし、その勝利は紙一重でした。

①もしも石田三成が大垣城で戦っていたら・・・??

関ケ原から東へ12キロの大垣市・・・西軍を率いた石田三成は、合戦の前日までここにいました。
水運に恵まれ。古くから栄えていた大垣・・・松尾芭蕉が「奥の細道」の旅を終えた地です。
川に囲まれた地形で、それが三成が大垣に拠点を置いた大きな理由です。

1560年、石田三成は現在の滋賀県長浜市で下級武士の子として生まれました。
三成は次男で家督を継がないため、幼いころから寺に預けられました。
勉強熱心だった三成は、15歳で豊臣秀吉と運命的な出会いをします。
鷹狩の途中で寺により、茶を所望した秀吉・・・
三成は、わざとぬるい茶を出しました。
喉の乾いていた秀吉が、一気に飲めるように考えたのです。
しかし、二杯目、三杯目になると、温度は熱く、量は少なめにしました。
この心遣いに感心した秀吉は、寺から家来として取り立てるのです。

算術も得意だった光秀は、領国経営にも力を発揮します。
秀吉が天下統一を果たすころには、全幅の信頼を得ました。
太閤検地、刀狩りの事業、朝鮮出兵では総奉行を務め、物資の補給に力を発揮しました。
ある大名は、三成のその仕事ぶりを・・・
「三成は豊臣政権の中心人物である」by毛利輝元
しかし、順調だった三成の人生に逆風が吹き荒れます。
1598年、主君・豊臣秀吉が死去
秀吉の意志を継ぎ、豊臣政権を発展させようと思っていた三成・・・しかし、ある武将が天下取りへの野心を露にしました。
徳川家康です。
「天地の格は定まりたることなきものなり」
天下は強い者の持ち回りというのが持論の家康・・・
有力大名と政略結婚を画策し、勢力拡大を図ります。
しかし、これは秀吉が生前禁じていた行為・・・
三成は、秀吉の禁止を破る家康に、強い警戒心を持つようになっていきます。
しかし、1599年3月、三成は思わぬ事件で足を救われます。
朝鮮出兵の温床に不満を持っていた武将たちが、三成を襲撃します。
恩賞を決めたのは秀吉でしたが、伝えたのが三成だったので、不満が三成への反発となったのです。
双方の仲介役となった家康は、この機に乗じて三成を政権中枢から外そうとします。

「秀頼公のため、世情を安定させる」by家康

三成は、混乱を招いた責任をとって、自らの居城である近江の佐和山城へ蟄居します。
佐和山城からほど近くの龍潭寺は、三成ゆかりの寺です。
ここに、三成の人柄を表す貴重なものが残されています。
三成の居城・佐和山城で使われていた板戸です。

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表は桜舞で非常に華やかですが、内側は質素に作られています。
表はお客が通るのでそれなりの絵ですが、自分たちの部屋側は、質素だったのです。

三成は蟄居している間も、大坂城の家康の動向を探っていました。
三成を追い出し、実権を握った家康は、独断で大名に領地を与えるなど、政権を意のままに操ろうとしました。
しかし、蟄居のみでは、三成はどうする事もできません。

ところが、1600年6月・・・三成に千載一遇のチャンスが・・・!!
会津の有力大名・上杉景勝に謀反の疑いありと、会津討伐のため家康は大坂城を離れます。
この時三成は、同志と共に全国の大名に書状「内府ちがひの条々」を送ります。
13か条にわたって、家康の罪を糾弾したのです。
三成はさらに、中国地方の大大名・毛利輝元を総大将にして家康討伐の軍を組織・・・9万を超える兵数を揃え西軍となります。

三成は、関東から引き返してくる家康を迎え撃つために、大坂から岐阜方面に進軍していきます。
一方、三成挙兵の知らせを聞いた家康は、会津討伐を中止し、急遽軍議を開いて諸将に自分につくように約束を取り付けます。
その数9万・・・家康率いる東軍が誕生しました。
三成は、岐阜城と大垣城を結ぶラインを防衛線としました。
そして、関ケ原の戦いの1か月前の8月11日・・・西軍は、大垣城に入城します。

三成はどうして大垣城を拠点としたのでしょうか?
家康が陣を置いたのが大垣城のおよそ4キロ先・・・岡山という小高い丘でした。
三成が西軍の拠点を大垣城としたのは、水の都ならではの守りの堅さがありました。
揖斐川、杭瀬川、水門川に挟まれている地形を利用して、城下町に川から水を引き込んで、何十にも堀を作ることができましいた。
守りに特化した城でした。
大垣城を拠点に、決戦の準備をする石田三成・・・
しかし、9月14日思わぬ知らせが・・・
東軍の陣地・岡山に、徳川家康が着陣したのです。
これは、西軍の予想よりもはるかに速い到着でした。
動揺が走ります。
そこで三成の重臣・島左近が、奇襲作戦を進言します。
「今、東軍をたたけば、味方の動揺を抑え、士気を高めることができる・・・!!」と。
島左近は、隊を囮部隊と伏兵部隊に分ける作戦をとりました。
囮部隊が、両軍の境にある杭瀬川を越えて、東軍陣地に入り敵を挑発・・・わざと敗走します。
追い打ちをかけようと川を渡ってきた東軍を、伏兵部隊が狙い、一網打尽にしました。
この手痛い敗走で、家康は大垣で戦えば不利だということを悟りました。
逆に三成は、この戦いで大きく士気を高めます。
勢いに乗る三成は、ここで一気に東軍をたたく秘策を用意していました。
三成が用意した必勝の策とは・・・??

南宮山・・・南宮山は、西軍・毛利秀元の陣がありました。
ここから大垣方面が一望できます。
毛利のいた南宮山は、三成が大垣城に、徳川が岡山にいれば家康の陣を狙える要の位置となります。
さらに城跡には、大垣城決戦を裏付けるものが・・・!!
南宮山には切岸が作られています。
切岸とは、敵が登れないように人工的に作った急斜面のことで、敵が攻めてこれないようになっていました。
もう一つ・・・竪堀も作られています。
竪堀は、山の斜面を横切れないように造られた堀のことです。
関ケ原方面には何もなく・・・
三成は、どんな戦術を考えていたのでしょうか?

後詰戦法です。
東軍が大垣城を囲んで攻撃しようと展開したタイミングで、毛利が南宮山をおりて背後から攻撃し、挟み撃ちにすること・・・三成の秘策は、南宮山からの後詰戦法だったと考えられます。
こうした山城を作り、1か月にわたって準備してきた西軍・・・しかし、大垣決戦は幻となってしまいます。

9月14日夜・・・
石田三成の元に思わぬ知らせが・・・家康が大垣城を攻めずに、西へ向かい佐和山城を、大坂城を攻めるというものでした。
これを聞いた三成は、急遽陣を移すことに・・・陣を敷くのは関ケ原!!
史実では、西軍は守備隊だけを大垣城に残し、関ケ原に異動。
決戦は関ケ原で行われました。

①もしも石田三成が大垣城で戦っていたら・・・??

西軍は大垣城、東軍は岡山・・・
そして南宮山には後詰の為に毛利勢が控えています。
徳川家康にとっては攻めるのは簡単ではない・・・!!
川と堀がはりめぐらされ、攻略の難しい大垣城・・・家康ならその豊富な水を浸かって、水攻めに・・・!!
大垣は、川の堤防より低い土地・・・
度々水害に見舞われています。
明治29年には、7月と9月に集中豪雨で各河川で堤防が決壊、大洪水に見舞われています。
岐阜市から大垣市まで船で往来できるほど浸水したといいます。
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水害当時も水に浮かぶ大垣城の写真も・・・
豊富な水は、大垣城の強さでもあり、弱点でもありました。
西軍は後詰!!
毛利が一気に南宮山をおりてきます。
大垣城に近づいてきて・・・西軍も大垣城から出てきて・・・!!
東軍に属している人たちは、豊臣恩顧の大名が多く、家康に対して忠誠心はなく・・・寝返るものも出るかも・・・??
しかし、人望がなく・・・西軍の勝利・・・??


②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

関ケ原の戦いで、その名を後世に残した小早川秀秋・・・
武将とは思えないほどの優しげな表情です。
この時、19歳!!
東軍7万4000、西軍8万4000が激突した関ケ原の戦い、ここに参加した小早川秀秋は、最年少の武将でした。
しかし、その手には、巨大な兵力を握っており、勝敗を左右する絶好の位置に陣取っていました。
そのため秀秋は、両陣営の裏工作のターゲットとされたのです。

家康に味方し、地位と領地を得るチャンスを掴むのか??
三成に味方し、豊臣家での出世を狙いのか・・・??
人生最大の決断を19歳で迎えてしまいました。
小早川秀秋に付きまとう裏切り者のイメージ・・・
それは、関ケ原でのどんな行動からだったのでしょうか?

9月15日午前6時・・・霧が立ち込める中、大垣から移動した両軍は、布陣を終え、戦いの時を待っていました。
霧のはれた午前8時、井伊直正の鉄砲隊が、突然発砲し、戦いの火ぶたが切られました。
西軍の小早川秀秋は、関ケ原すべての武将の中でも最大の兵力1万1000を持っていました。
そして、東西両軍を見下ろす松尾山に陣取っていました。
西軍の指揮を執る三成は、のろしを上げて、秀秋に攻撃を合図します。
しかし、秀秋は全く反応せず・・・
正午過ぎ・・・秀秋は満を持して動き出します。
攻め込んだ相手は、大谷吉継・・・なんと、西軍の有力武将でした。
小早川秀秋の裏切りです。
この情報は、たちまち戦場を駆け巡り、東軍に寝返るものが続々と現れます。
こうして、勝敗の行方を決定づけてしまいました。

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

三成は、秀頼の出陣に当たって、関ケ原の人々に陣取りの案内、陣地作成の協力を依頼した書状を残っています。
普通は、家を燃やしたり、青田刈りをしたりしますが、事前に手紙を出しているところに、三成の思いやりが出ています。
関ケ原の戦いは、地元の農民にも一大事でした。
大切なコメを作る水田が戦場となるのです。
おまけに米の収穫時期と重なっていました。
三成からのお達しを受けた農民たちは、例年より米を早く収穫。
そして、本体が移動してくると陣地設営に協力します。
戦いが始まってからは、山中に逃げ込んで、戦いを見物していたといいます。
農民たちが見た戦いとは・・・??

三成が陣を敷いた笹尾山からは、関ケ原が一望できます。
味方はもちろん、敵の動きも手に取るようにわかります。
しかし、笹尾山から家康の桃配山は見えません。
家康は、最前線から遠いここで戦況を見守っていたのです。
しかし、戦いが始まって3時間後・・・一進一退の戦いにしびれを切らした家康は、遂に本陣を前線に移していきます。
桃配山から前進してきた家康・・・三成の笹尾山まで800mのところに陣取りました。
家康が見える・・・!!
家康を攻める絶好のチャンスが到来しました。
三成は、松尾山の秀秋に狼煙の合図を送るものの、一向に動きません。
大鵬も用意していた三成・・・優位だったのは西軍でした。
カギを握っているのは、松尾山に陣取っている小早川秀秋・・・!!

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

小早川秀秋は、1582年、近江に生れます。
父親の名は、木下定家、叔母はおねでした。
そのため、幼いころに、子供の頃に子供のいない秀吉夫妻の養子となりました。
秀秋は、秀吉の世継ぎとして育てられ、おねからも、深い愛情をもって育てられます。
恵まれた環境の中、心優しく懸命な子に育った秀秋・・・

「貧しい武士や家がなくて困っている人を救いたい」と思っていました。

しかし、1593年、状況は一変します。
秀吉と淀殿の間に、実子・秀頼が生れたのです。
このため、秀秋が豊臣家の世継ぎとなることはなくなりました。
それどころか、秀頼の対抗馬とならないように、小早川家の養子に出されてしまいました。
その翌年、衝撃的な事件が起こります。
秀秋と同じく秀吉家の養子だった秀次が、謀反の罪をかけられ・・・死に追いやられてしまいました。
明日は我が身か・・・??酒におぼれ、手が付けられないようになります。
1598年に秀吉が亡くなり、秀秋の不安は消えました。
しかし、次は家康と光秀の戦いに巻き込まれてしまうのです。
有力武将でありながら、まだ十代の秀秋は、格好のターゲットでした。

石田三成の誘い
「秀頼殿が、15歳になるまで関白職をお願いしたい」
家康の調略
「我が方につくならば、上方の二国を約束する」
黒田長政からは秀秋の弱みを突く脅し文句が・・・
「西軍で戦えば、義母として愛育してくれた北政所様に累(災い)が及ぶことは必至」
東西両陣営から誘いの言葉をかけられた秀秋・・・
どのような思いでこの戦いに参加していたのでしょうか?

松尾山の陣は関ケ原の陣の中でもかなりの高所です。
そこからは、関ケ原が・・・三成の陣(松尾山)、家康の陣も見渡すことができます。

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郭が東西にのびていて、立派なお城です。
松尾山の巨大な山城に陣取った小早川秀秋・・・両軍が促すも、動かず・・・!!
しびれを切らした家康が、小早川の陣地に向かって発砲!!
東軍として、戦いに参加するように促したともいわれています。
秀秋はどんな思いで戦いを見つめていたのでしょうか・・・??

戦いが始まって4時間・・・それまで傍観を続けていた小早川秀秋がついに動き出しました。
この時、松尾山を駆け下りたルートは、西軍の大谷吉継の後方を突くものでした。
大谷吉継は、病を押して戦う西軍の精神的支柱ともいえる武将!!
兵力600の精鋭部隊でした。
しかし、秀秋率いる1万1000の大軍勢、さらにその攻撃を目の当たりにした付近の4武将たちが、東軍に寝返ります。
さすがの大谷軍も、抑えきれなくなり壊滅・・・!!
大谷吉継はその場で自害しました。
大谷軍の敗北により、戦況は一転、東軍は勢いづき宇喜田秀家を追いこんでいきます。
側面を突かれた西軍は一気に総崩れとなり、三成は山中に逃亡・・・
まさに、小早川秀秋の行動が勝敗を決した決断だったのです。
午後2時・・・わずか半日で天下分け目の関ケ原は決着したのです。
これが史実・・・

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??
西軍は山を背後に有利な状況・・・東軍を囲い込む陣形でした。
東軍が攻めて対峙する西軍・・・三成から狼煙があがった時、小早川秀秋が側面から東軍を突きます。
ここで一気に西軍に・・・
大垣城の後詰にいた西軍・・・南宮山の毛利勢が・・・中山道から、伊勢街道から家康軍を挟み、囲まれ・・・西軍の圧勝でしょう。

関ケ原合戦図屏風・・・
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有名人が117名描かれています。
しかし、その中で姿が絵が賀れていない人物が3人います。
その一人は、この戦いに勝利し江戸幕府を開いた徳川家康、二人目は、最も家康に叛逆した石田三成、そしてあと一人は・・・小早川秀秋です。
小早川秀秋のおかげで東軍は勝てたはずなのに、その秀秋の姿がないのです。
裏切り者として、評価が低すぎたので描かれなかった可能性が高いと思われます。
戦いに敗れ、山中に逃げた石田三成は、やがて捕らえられます。
そして京都市中引き回しの上・・・斬首!!
居城・佐和山城も火を放たれ、焼け落ちました。
この時、佐和山攻めの先陣を切ったのが、小早川秀秋でした。
合戦の二日後、家康に命じられてのことでした。
それから1週間後、秀秋は家康から手紙を受け取ります。

”今回の関ケ原でのご忠節にとても感悦しています
 以前からの約束は、間違いなく実現させます”
   
その言葉通り、秀秋は二国を与えられ、備前岡山城主となりました。
しかし、秀秋は関ケ原の戦いの後、以前にもまして酒浸りとなり・・・家臣を訳もなく切りつけるなど、肉体的にも精神的にも尋常な状況ではなかったといいます。
1602年、小早川秀秋死去・・・享年21歳・・・関ケ原の戦いからわずか2年後のことでした。


③もしも、黒田官兵衛が戦い続けていたら・・・??
天下分け目の戦い関ケ原・・・日本中を巻き込んだこの戦に、黒田官兵衛の姿はありませんでした。
この時官兵衛は、関ケ原から遠く離れた九州にいました。
九州の関ケ原という大合戦に身を投じていたのです。
関ケ原と同時に、九州で戦い始めた官兵衛は、その胸中に野心を秘めていたのでしょうか?

大分県中津市・・・黒田官兵衛は、関ケ原の戦いの13年前からこの土地に来て、城を築き始めていました。
九州の関ケ原では、中津を中心に活動した官兵衛・・・

1546年、黒田官兵衛は播磨国、姫路で生を受けました。
当時の播磨は小大名がひしめき鎬を削る時代でした。
1575年、29歳の官兵衛は、破竹の勢いで領土を拡大する織田信長に目通りしました。
その情報収集力、知略で、官兵衛は信長の部下・秀吉のもとで働き始めました。
この頃、秀吉から官兵衛に送られた手紙には・・・

”我が弟 同然に 信頼している”

と書かれています。
官兵衛は、秀吉から厚く信頼され、軍師として活躍していきます。
1582年、官兵衛に転機が訪れます。
それは、中国地方の難敵・毛利との戦いでした。
明智光秀の謀反により信長が落命・・・
それを聞いて、秀吉は呆然自失、泣き崩れます。
しかし、官兵衛は

”秀吉様、これはあなたが天下を取る好機となります”

官兵衛は、すぐに毛利との和睦をまとめ、秀吉は明智美津冷え討伐のため、200キロの道程を引き返します。
世に言う中国大返しです。
これにより秀吉は、光秀の討伐に成功・・・信長の後継者として全国を平定していきます。
1590年、秀吉は天下統一を成し遂げます。
そのそばには、いつも軍師官兵衛の活躍がありました。
しかし、官兵衛は、優秀されるがあまり秀吉に警戒されます。

ある時、秀吉は、自分の次に天下を取るのは誰かと、家臣たちに聞きました。
家臣たちは口々に徳川家康や前田利家など有力大名の名を口にします。
しかし、秀吉は・・・
”次は官兵衛が天下を取るだろう
 わしがはかりごとを迷っていると、官兵衛は的確な判断を下してくれる
 今の世に恐ろしいのは徳川と官兵衛だ
 しかし、徳川は温和な人である
 官兵衛はどうも心を許しがたい人間だ”
と言ったといいます。

官兵衛は、42歳の時に九州豊前に移り住みます。
秀吉に警戒心を抱かせないために、息子・長政に家督を譲り、自らは隠居しました。
そして秀吉がこの世を去り・・・次期政権は・・・関ケ原の戦いが始まります。
時を同じくして官兵衛も九州で挙兵!!
東軍の武将として西軍の領地を攻めたてます。
この時官兵衛は・・・
”関ケ原が長引けば、中国地方にも攻め入っていた”
と残しています。
官兵衛が居城としたのは、中津城・・・ここで、官兵衛の野心を垣間見えることができるのでしょうか?

官兵衛の石垣は、野面積みでも少し変わっています。
当時の石は自然石を使っていますが・・・官兵衛の石垣は、四角い石です。
川の上流5キロほどのところに7世紀の山城の跡があります。
そこの山城の石を川で運んで再利用したものです。

どうして官兵衛は、中津に城を築いたのでしょうか?
官兵衛が豊前に来た当初は、支配の中心となる城は西に在りました。
しかし、そこでは統治がしにくい・・・と、川と川の交わる交通の要衝・中津を拠点に置いたのです。
船が寄り付きやすいこと、そして海を使って情報を素早く得ていました。
当時は上方が中心なので、瀬戸内海に二カ所拠点を置いて、早舟でリレー形式で情報を掴んでいました。
その速さは、3日だったといいます。
九州での関ケ原に備えたのだといわれています。

中津には、京町、博多町と、現在でも官兵衛が作った町の名前が残っています。
中には官兵衛の故郷・・・姫路町もあります。
この姫路町は、中津城を作るときに姫路から連れてきた大工や石工を住まわせた場所でした。
様々な工夫を凝らして町を発展させ、莫大な富を築き、戦いの軍資金とします。
九州の関ケ原の際にも、その備蓄した金銀を出して、兵を集める・・・その資金で暴れるのです。

関ケ原の戦いが近づくと、息子・長政に大半の軍勢をつけて、家康の東軍に送ります。
自らは城の金庫を開け払い、身分の卑賤を問わず兵を集め、挙兵!!
9月13日、九州の関ケ原の火ぶたが切られました。
官兵衛は、かつて秀吉を天下人に押し上げた策略を駆使し、果敢に戦を展開し、西軍を破っていきます。
そんな中、家康にこんなことを願い出ています。

”清正と自分で切り取った九州の領土を拝領したい”

制圧した九州の領土を自分のものにしたいというのです。
隠居と言っても官兵衛はまだまだ野心に燃えていました。
官兵衛の野心は九州にはとどまらず・・・
山口県岩国市の吉川資料館には官兵衛の手紙が残っています。
10月4日に官兵衛が吉川広家に送ったその手紙の中には・・・
関ケ原の戦いが長引いていれば、中国地方に進軍して一花咲かせようと思っていたけれど、家康が早く戦いを終えてしまったので、戦いに姿を見せられなかったのが残念だと書かれています。

しかし、肝心の関ケ原の戦いは、官兵衛の予想に反してわずか半日で終わってしまいました。
それでも、官兵衛は戦をやめることなく、九州を制圧し続けます。
11月12日、九州の最大勢力・島津を攻める目前の官兵衛に、家康から停戦命令が出されます。
関ケ原合戦から2か月・・・官兵衛の戦いはついに終わりを告げるのでした。

③もしも、黒田官兵衛が戦い続けていたら・・・??
関ケ原の戦い当時、ほとんどの武将が戦いに参加していて留守でした。
九州の諸国は手薄・・・!!
関ケ原が長引いていれば、九州の武将たちは領国が危なくなると戻ってきます。
もともと加藤清正は東軍なので、戦うのは小早川秀秋、鍋島直茂、立花宗茂、小西行長・・・。
島津義弘は1500の兵しか連れて行っておらず、ほとんどの軍勢は島津義久のもと本国に温存されていました。
島津と戦うことは避けたい・・・??
周りを東軍に引き込んで、島津をけん制・・・戦わずして勝てるか・・・??
そして、吉川広家への手紙通りに中国地方に攻め入ります。
吉川を調略し、毛利へ・・・
西軍の総大将だった毛利輝元が東軍に寝返る・・・??
官兵衛は進軍を続け、大坂城に入って戦は終了
黒田官兵衛は、天下人ではなく、秀頼を擁立しナンバー2となったのでは・・・??
結果、家康の行動を止めることができたのでは・・・??

人生最後の戦いを終えた官兵衛・・・その後、息子・長政と共に福岡に移り余生を送ります。
ここでも官兵衛は、福岡城の築城に携わり、現在にも続く100万都市福岡の礎を築いていきました。

官兵衛は、晩年をどのようにして過ごしていたのでしょうか?
太宰府天満宮には官兵衛が奉納した歌が残っています。
「夢想之連歌」は、連歌の最初の句を官兵衛が夢の中で授かり詠んだものです。
そこには、
”松梅や 末長かれと 緑たつ
               山より続く 里は福岡”
と書かれています。
福岡が栄えるようにとの歌です。

この連歌には、黒田家の面々が出てきます。
家族で連歌を詠んでいるのは珍しく、」官兵衛は晩年は家族水入らずで送ったといいます。
戦乱の世の最後に、黒田家の安泰を想い、野心も満たされ、最期を迎えたのです。
福岡で穏やかな余生を過ごした官兵衛は、1604年、59歳でこの世を去りました。
官兵衛の跡を継いだ黒田長政は、こんな言葉を残しています。

「官兵衛が大坂方と通じれば、清正は喜んで味方になるはずだ
 九州の大名が結束して、官兵衛と清正が上れば、中国地方の軍勢も加わって十万騎になる
 これだけの大軍が、家康一人と戦うことは、卵に大きな石を投げ入れるようなものだ」

長政も同じように、関ケ原の戦いのシミュレーションを考えていたのです。

少しの違いで日本は変わったのかもしれない・・・

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