今からおよそ300年前の江戸時代前期・・・元禄14年3月14日・・・
江戸城松の廊下で後世まで語り継がれることとなる事件が起こります。
播州赤穂藩主・浅野内匠頭が高家筆頭・吉良上野介に殿中で斬りつけたのです。
内匠頭はこの事件からわずか7時間後に切腹処分・・・
それから1年9ヵ月後・・・
元禄15年12月14日・・・赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入って上野介を討ち、切腹に処されるまでの赤穂事件・・・。
これをもとに作られた芝居が忠臣蔵です。

「預置金銀請払帳」・・・吉良邸討ち入りまでにかかった経費を記した文書・・・忠臣蔵の決算書、かかった費用は現在の価値で8000万円以上!!
刃傷事件から討ち入りまで1年9か月・・・どのようにして使われたのでしょうか?

元禄14年3月14日、浅野内匠頭の切腹と共に赤穂浅野家のおとり潰しが決まりました。
そして国元の赤穂藩は、城を明け渡すことになりました。
これに際し、筆頭家老である大石内蔵助はいろいろな精算処理に迫られます。

一般的に、藩が取り潰しになると、領地・城・江戸屋敷は幕府に返上。
しかし、藩が蓄えてきたものは藩の財産です。
精算処理をする必要がありました。

換算レートは・・・
金一両=   12万円
金一分=    3万円
金一朱=   7,500円
銀一匁=   2,000円
銀一文=     30円

まずは、
①藩札の精算・・・
藩札とは、藩が独自に発行した紙幣で、商人たちに支払われたものですが、藩が消滅すればなくなってしまう・・・換金する必要がありました。
ただし、これが莫大で、赤穂浅野家の記録によると藩がこれまでに発行した藩札は銀900貫目=約18億円・・・藩の返還予算に匹敵する額でした。
藩札を持っていた商人たちは、刃傷事件から5日後には、銀に換えてほしいと札座に殺到します。
赤穂藩には替り銀と呼ばれる藩札に交換するための準備金・銀700貫目(約14億円)が用意されていました。
これを使えば、藩札の総額900貫目の大部分が生産でき、不足は200貫目となります。
内蔵助は残りの分を塩田に貸した運上銀で精算しようと考えていましたが、赤穂藩は大坂商人に借金をして財政の不足を補っていました。
運上銀を大坂商人への担保としていたために取り上げられてしまいました。

銀200貫目はいまの4億円・・・
内蔵助は浅野家の本家である広島藩などに借金の申し入れに走らせますが、どこもけんもほろろ・・・。
「藩札は6分替えで行う!!」
額面の6割で替えるというのです。
6割は540貫・・・これなら700貫目で賄えます。
商人たちも、踏み倒されるよりはましだと藩札を額面の6割で銀に交換しました。
こうして内蔵助は何とか切り抜けました。

しかし・・・
②最後の給料と退職手当
赤穂藩はおよそ300人の藩士を抱えていました。
藩が潰れると藩士たちは浪人となり、路頭に迷うことが目に見えていました。
そこで、倉から米を放出・・・この年の分を一括支給しました。
米1万7836石=現在の価値で16億5000万円!!
さらに割賦金という退職金も支給
金5,899両=現在の価値で7億1千万円!!
割賦金は、基本的に藩士の石高に応じて支給されるものです。
しかし、内蔵助は高い録を持っている者には支給割合を減らし、すぐに困窮するであろう小録の者に多く支給しています。
内蔵助自身は、割賦金の受け取りは辞退しています。
こうして赤穂藩は最後の給料と退職金をあわせて23億5000万円を藩士300人ほどに分配しました。
単純計算で1人780万円ほどの支給となりました。
しばらくは暮らしていける学でしたが、すぐに新しい生活の基盤を作らなければなりませんでした。
すべての残務処理を終えたのは、吉良邸討ち入りの1年6か月前のことでした。

この残務処理の際、赤穂藩が売ったものには・・・
船17艘・・・・・・・・・・・・銀17貫目=3400万円
具足・馬具・弓・槍・・・銀15貫目=3000万円
鉄砲150挺・大筒など

藩士たちもそれぞれ家財の整理を行い、赤穂城から立ち退いていきました。
4月19日・・・赤穂城は幕府に引き渡されます。

大石内蔵助の手元には残ったのは391両、浅野内匠頭の正室・瑤泉院の持参金の化粧料300両・・・691両・・・およそ8292万円が討ち入りの軍資金となります。

箱根町の箱根神社には、浅野内匠頭が書いた「預置金銀請払帳」が残されてます。
討ち入りまでの支出報告が記録されています。
最初に使った先は・・・金100両・・・紫野瑞光院への寄付です。
京都堀河にあった紫野瑞光院に亡き主君・浅野内匠頭の墓を立てることとなり、金100両を寄付したのです。
内蔵助は、内匠頭の菩提を弔うため、他にも複数の寺院に多額の祈祷料を支払っており、その総額は金127両3分・・・軍資金の2割近くになりました。
内蔵助はこの時点でお金を討ち入りに使おうとは思っていなかったようです。
第一に浅野内匠頭の仏事費用でした。
仏事費金127両3分=約1533万円

その後、内匠頭の弟で旗本となっていた浅野大学を当主とし、浅野家を再興させようと動いていました。

赤穂城を幕府に引き渡したのち、残務処理を終えた大石内蔵助は、親戚を頼り京都郊外の山科に移住します。
家族と暮らすための家と土地を購入し、全国各地に散らばった赤穂浪士たちと連絡を取りながら、浅野家の再興に紛争します。
お家再興には伝手が必要でした。
そのお金・・・交際費、工作費は65両1分(783万円)・・・このことから、内蔵助の願いはお家再興だったと思われます。
この時点での残高は、498両=5976万円でした。

他にもかなりの支出割合を占めているのが上方~江戸間の旅費でした。
上方の浪士たちが次々と江戸へ行っていました。
その費用金78両1分2朱と銀42匁=1000万円にも上りました。
金銀請払帳に、日付の記載はありませんが、元禄14年9月ごろ~11月ごろまでの支出と推測されます。
どうしてその時期に集中して行かなければならなかったのでしょうか?
その頃、赤穂浪士たちの中で意見が対立!!
あくまでも赤穂藩再興を目指す大石内蔵助ら穏健派と、堀部安兵衛達江戸詰めの急進派が主君の無念を晴らすのが家臣の務めであるとし、一刻も早く討ち入りすべしとしていたのです。

そんな中、元禄14年8月19日・・・討ち入りまで1年4か月・・・
吉良耕付之介が呉服橋門内から本所へ屋敷替えが行われました。
これに湧きたったのが、江戸の急進派です。

「江戸城から遠い屋敷に移したということは、幕府にも暗に仇討せよと言っているのではないか}
「上方は煮え切らぬ!上方へ行き、説得し、急ぎ討ち入りの算段をつけよう」

そうした江戸での動きを知った内蔵助は、急進派をなだめるために進藤源四郎や大高源吾をを江戸へ送ったのです。
その旅費の内訳は・・・
旅籠宿泊料・・・350文(1万円)
駕籠代・食費など(1日)・・・500文(約1万5000円)
大井川の川越し・・・約48文~100文(約1400円~3000円)
なので、山科から江戸までは14日かかるので、片道の旅費は一人当たり3両(約36万円)

当時の旅は、宿場宿場に泊まるので、それなりにお金がかかります。
元禄の世にしても1日3両で山科~江戸間を移動するのはお金に余裕のある旅でした。
ところが、旅費をかけて江戸に行った進藤たちは、急進派たちと意気投合・・・全く役に立ちませんでした。
江戸に送った使者が次々と急進派に取り込まれたため、何度も使者を送ることになりました。
そこで内蔵助は堀部らに文を送ります。

「まだるく思し召し候とも時節を御見合わせなさるべく候」

討ち入りするいい時期が来るまで待つようにと言います。
しかし、それでも不安な内蔵助はお供を連れて江戸に向かうのです。
その費用二人分で金23両3分、銀20匁・・・289万円でした。
残りは419両・・・5028万円となってしまいました。
吉良邸討ち入りまで1年1か月・・・!!
江戸急進派は内匠頭の一周忌までに討ち入りたいと思っていました。
内蔵助は討ち入りの期日を決める必要はないと考えていたのです。
安兵衛は期日が決まらないと決心が固まらないと主張したのです。
内蔵助は、翌年の春にもう一度相談しようと提案します。
江戸に集まると目立つので、京都の山科あたりで話し合おうと決定しました。
急進派は、内蔵助が討ち入りに同意したのだと考えて納得しました。

赤穂浪士たちに残された軍資金は、691両ありました。
しかし、内匠頭への弔い料、お家再興のための工作費、度重なる上方~江戸間の旅費に消えていきました。
さらに、急進派との会談を終えた内蔵助は、上方から江戸へ来た者たちの屋敷(アジト)を購入します。
金70両・・・江戸三田屋敷調え代
およそ840万円で屋敷を購入し、修繕してアジトにしようと考えていましたが、その矢先・・・付近で火事が発生し、屋敷は燃えなかったものの将軍の別邸が類焼し、修繕が必要になりました。
その間、内蔵助が大金を投じて手に入れた屋敷が幕府の御用地になることに・・・。
結局屋敷は使えず840万円はムダ金に・・・。
手元に残った軍資金は、360両・・・4320万円ほどになりました。
吉良邸討ち入りまでおよそ1年となりました。

帳面には、度々旧赤穂藩士たちへの援助金と出てきます。
旧藩士たちの身分は浪人・・・無職でした。
粗末な裏長屋に住むなど、貧しい生活を送っていました。

「母のことを忘れたり、妻子のことを思わないわけではないが、武士の義理に命を捨てる道は、それには及ばないものです。
 わずかながら残した金銀・家財を頼りに母を世話してほしい。
 もし御命が長く続き財産が尽きたら、ともに餓死なさってください。
 それも仕方のないことと思います。」by小野寺十内

こうしたため、命つなぎにと金10両を送っています。
すでに借金をして首が回らないもののいました。
其れなりの割賦金のあった中級藩士でも、1年で使ってしまうほどでした。
そのため、飢えや生活困窮の名で援助金が出されたのです。

こうして困窮する藩士たちのために132両1分=1587万円が出され・・残金は227両・2733万円となったのです。

元禄15年2月15日、山科の大石内蔵助邸で会合が開かれました。
この話し合いの後、内蔵助は嫡男・力を残し、17年間連れ添った妻・理玖と子供たちを妻の実家に帰します。
この時、理玖は7か月の子を身籠っていました。
その後、理玖たちに類が及ばないための苦渋の選択でした。
この頃から内蔵助は京都祇園の一力茶屋などで遊興にふけるようになります。
そうした費用は・・・??帳面にはそのお金は書かれていません。
吉良邸討ち入りまで6か月のことでした。

討ち入りまで5か月前の元禄15年7月18日、討ち入りまで5か月の時・・・
内匠頭の罪に連座し、閉門を命じられていた弟・浅野大学に対する幕府の処分が決定します。
松平安芸守へのお預け・・・
屋敷や領地を取り上げられ、本家の広島藩に引き取られました。
事実上の改易処分でした。
これで大学が当主として浅野家を継ぐことはできなくなりました。
内蔵助のお家再興の夢は砕け散りました。
内蔵助は遂に腹をくくります。
処分から10日後・・・吉良邸討ち入りを宣言するのです。
ちなみに19人が集まったこの会議は、食事は金一両(12万円部屋代+食事代)
この後、赤穂他、各地に住んでいる浪士たちに連絡するように大高源吾と貝賀弥左衛門に命じます。
二人を赤穂に遣わす旅費と雑費が金二両一分と銀五匁五分(28万円)。
大高は2回赤穂に遣わされたので、別に金一両一分と銀四匁二分が支給されました。
それでも滞在費が足りなくなったのか、金10両の援助をしています。

それ以外にも、
銀百三十六匁五分四厘
原惣右衛門書き出す方々
飛脚賃金 並びに路銀不測の面々遣わす

討ち入りのために江戸に下ることが決まったので、原惣右衛門が手紙を書いて同士にたちに送った飛脚代も・・・
この時、連絡係の大高源吾と貝賀弥左衛門に大事な封書を預けます。
以前誓った120人に神文を出させていましたが、神文の署名部分を切り取ってそれを封にいれ託しました。
そして、大高源吾らは、内蔵助の通りにこう告げます。

「内蔵助殿は当初の計画を取りやめ、妻子を養うために仕官することにしました。
 皆様も勝手次第にしてください。
 ですからこの神文はお返しします。」

内蔵助はそれでも仇討がしたいと怒ったものに対してだけ真実を告げ仲間に入れました。
意志の固いものを選抜する・・・むやみに大勢が下ると目立つので、それは避けたいと思っていたようです。
結果、残った浪士たちは50人・・・その一人一人に支度金金三両(36万円)が与えられました。
こうして内蔵助のもとに残ったのは、60両・・・720万円ほどになりました。

そして・・・元禄15年11月5日・・・討ち入りまで1か月・・・
討ち入りを決意した大石内蔵助は1か月かけて江戸に到着。
日本橋石町の隠れ家に入ります。
この時60両となっていた軍資金から借家暮らしの浪士の家賃を払い、さらに一人当たり1か月につき金2分の食費を出します。
残りは僅か数両に・・・これで、弓矢や槍、長刀などの討ち入りの装備の総てを買わなければなりません。

これをあわせた装備の総額は12両の144万円・・・残金は-7両1分・・・約-87万円となってしまいました。
金銀請払帳の末尾には・・・「金七両一分(約87万円)不足 自分より払」とあります。
最後は内蔵助が自分のお金を使ったことがわかります。

元禄15年11月29日、討ち入りまで15日・・・内蔵助は金銀請払帳を締めます。
軍資金の使い道は、最終的に・・・


仏事費・・・・・・・・・・・・・・・1533万円
お家再興工作費・・・・・・・・783万円
江戸屋敷購入費・・・・・・・・840万円
旅費・江戸滞在費・・・・・・2976万円
会議通信費・・・・・・・・・・・・132万円
生活援助費・・・・・・・・・・・1587万円
討ち入り装備費・・・・・・・・・144万円
その他・・・・・・・・・・・・・・・・379万円

合計8369万円・・・こうして赤穂浪士四十七士は12月14日、吉良邸に討ち入ることとなったのです。
内蔵助は同士たちが集まった時・・・
「それぞれの店賃やツケの代金は12日までにしっかりと始末をつけておけ
 不足の際は申すがよい」
お金のない者にはまた内蔵助が自腹を切るというのです。
討ち入りにあたって身辺を整理し、綺麗にしておけということでした。
13日の夜・・・残った僅かの金を持ち寄り今生の暇乞いと酒を酌み交わしたといいます。
いよいよ討ち入りです!!

江戸城松の廊下の刃傷事件から1年9か月後の元禄15年12月14日夜・・・
赤穂浪士四十七士は吉良上野介の屋敷に向かいました。
そして4時半ごろ・・・いざ討ち入りです!!
浪士たちは次々と吉良の家臣たちを討ち取り、遂には隠れていた上野介を見つけ、主君の仇討を果たしたのです。
12月14日、討ち入りの夜、大石内蔵助は瑤泉院に金銀請渡帳を届けています。
計画が露見してしまうのを畏れ、ギリギリまで手元に置いていました。
いくら主君の仇を討つとはいえ、瑤泉院の私財に手を付けてしまったため、使い道の報告と償いの意味もあったのです。
内蔵助が管理していた資金があったからこそ、討ち入りは成功したのでした。

吉良邸討ち入りまでかかった経費を綴った預置金銀請払帳・・・それをつぶさに見ていくと、討ち入りまでの1年9か月がどれほど大変だったのか・・・よくわかります。
忠臣蔵の決算書は数字ですが、そこからは様々な葛藤や苦労・・・様々な思いを感じることができました。

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