鎌倉で長い歴史を誇る鶴岡八幡宮・・・
この境内に、雄々しく凛とした社があります。
白旗神社・・・祀られているのは、鎌倉で日本初の武家政権・鎌倉幕府を開いた源頼朝です。
武家の頂点を極めた頼朝・・・その人生はまさに波乱万丈でした。
どうして流人から将軍になれたのでしょうか・・・??

流人から武士の頂点となった源頼朝・・・どうやってそこに至ったのでしょうか??

①1159年 平治の乱

1143年、頼朝は源氏を束ねる武家の棟梁源義朝の子として京の都で生まれたと言われています。
三男でしたが、嫡男として育てられます。
それは、母親の家が名門貴族の藤原家の血をひき、熱田神宮の宮司をしていたことで、二人の兄の母より家柄や地位が高かったからです。
血筋に恵まれたこと、父・義朝が後白河上皇の近臣・藤原信頼の信頼を得ていたこともあって、頼朝はわずか12歳で後白河上皇の姉・上西門院統子に仕えることになります。
その翌年の1159年、蔵人に就任・・・宮中の全ての事務、行事に関する職で、出世の登竜門でした。
そして、同じ年、頼朝は13歳で初陣を果たします。
それが平治の乱!!
父・義朝が、朝廷の実権を握ろうとした藤原信頼と共に起こした内乱です。
武家のライバル平清盛が熊野詣で京の都を留守にしていたすきに、後白河法皇の屋敷を襲撃・・・
上皇とその息子である二条天皇を幽閉したのです。
このクーデターにより、父・義朝は受領の最高峰の播磨守に・・・
初陣を飾った頼朝は、右兵衛権之佐になりました。
これは、源氏にとって大きな意味を持っていました。

右兵衛権佐は、朝廷の有力者の子弟が任命される地位で、官位が四位以上の者が命じられることが多かったのです。
当時まだ従五位下であった頼朝が命じられたことは、源氏の家柄が非常に上昇していたことを表しています。
父・義朝たちの目論見は、うまくいったはずでした。
ところが・・・クーデターを知った清盛が、急遽京の都に戻ってきました。
清盛の挙兵によって、後白河法皇と二条天皇が脱出・・・
これによって、義朝たちは一変・・・賊軍となってしまいました。
そして、清盛の武力の前に惨敗・・・父・義朝は敗走中に謀殺されます。
父とはぐれた頼朝は・・・??
平家方に捕らえられてしまいました。
元服していれば処刑される・・・頼朝も、その例にもれず処刑されるはずでした。

清盛の母である池禅尼が亡くした子供に似ているからと命乞いをしたと言われていますが、元服して戦に臨んだ敗軍の武士が処刑されることを武士の妻である池禅尼が理解できないはずはありません。
亡くした子供に似ているから・・・ではなく、頼朝の助命嘆願は圧力をかけられていたからです。
その圧力とは・・・上西門院統子と後白河法皇でした。
頼朝の母の一族に助命を懇願されたので、池禅尼に圧力をかけたのだと思われます。

1160年3月11日、頼朝は京の都を追われ、伊豆の伊東に流されます。
その身は、平家方の有力豪族・伊東祐親の監視下におかれるも、ある程度の自由は認められていました。
損なる人生活が十数年続いた頃・・・
頼朝は伊東祐親が上洛している間に、祐親の娘・八重姫と恋仲になり、男の子・千鶴丸を設けてしまったのです。
これを知った祐親は激怒!!
娘と頼朝を引き離したばかりか、なんと千鶴丸を殺害してしまったのです。
さらにその後、頼朝の暗殺まで計画・・・頼朝に再び命の危険が迫ります。

この危機にすくいの手を差し伸べたのが、祐親の次男で暗殺計画に反対していた伊東祐清です。
その祐清の手引きによって、頼朝は辛くも伊東から脱出。
蛭ヶ小島にうつるとその在庁官人だった北条時政の保護を受けることに・・・
その後、31歳になった頼朝は、時政の娘・政子と結婚。
1178年娘・大姫が生れました。
流人でありながら、おだやかな生活を手に入れたのです。
そんな中でも胸の奥には武士としての滾るものがありました。

「いつか・・・父の仇・清盛を討つ!!」by頼朝

しかし、”平家にあらずんば人にあらず”と言われるほど、清盛を中心とした勢いは増すばかり・・・
頼朝は、伊豆に流されてから20年を過ごすことになります。
流人である頼朝には、武力も何もなく、周囲も清盛が平家を攻撃するとは思っていませんでした。
本人も、平家との立場の違いに、仇討ちを諦めていたのです。

「もはや・・・平家を討つことはかなわぬのか・・・??」by頼朝

流された伊豆の地で、父の仇である平家を討つと誓いながらも、20年・・・勢力を増す平家に挙兵できていませんでした。
そんな中・・・
1180年4月、平家の権勢を良しとしない後白河法皇の皇子・以仁王が挙兵に動きます。
全国の武士に、平家を討つために立ち上がって欲しいと願ったのです。
その知らせは、伊豆にいる頼朝のもとにも届けられました。
遂に、平家に一矢報いることができる・・・!!はずでした。
ところが、以仁王の乱は、平家の知る処となって鎮圧・・・
平家の今後の出方と反平家の武士たちの動向を見極め、頼朝はどう動くのか??慎重に考えました。
頼朝は伊豆周辺の状況を見ながら、虎視眈々と味方集めをしていきます。
以仁王の乱の後、それまで源氏の一族が治めていた伊豆の国の知行国主の座に平時忠がつきます。
平家による支配が色濃くなったことで、北条氏を含む伊豆の武士たちは反発!!
頼朝はそんな彼らを味方に取り込んでいきました。
さらに・・・相模・上総は後白河法皇の知行国でした。
それが平家が知行するようになり、後白河法皇の知行国の武士たちは圧力を受けるようになったのです。
頼朝はそうした平家の圧力に不満を抱く、相模や上総の武士たちにも目をつけます。
すぐに相模に腹心を派遣し、味方に引き入れることに成功します。

「ついに・・・機は熟した!!」

②1180年 源頼朝挙兵

8月17日、頼朝は平家打倒の狼煙を上げます。
しかし・・・相模国の石橋山で、平家方の大庭景親軍と激突するも、圧倒的な兵力差で惨敗を喫してしまいます。

「まだ、兵が足りぬか・・・!!」

そこで頼朝は、更なる味方集めに奔走します。

「平家によって幽閉されている院(後白河法皇)を共に救おう!!」と。

後白河法皇のためという大義名分が功を奏したのか、上総、下総の有力武将が頼朝の味方に・・・
更には、平家に不満を持っていた関東各地の有力武将たちもが次々と合流・・・平家方の武将を倒していきました。
すると、その形勢に平家方の武将の中にも頼朝に下る者たちが現れます。
こうして頼朝は、流人ながらも強大な軍団を作り上げることに成功します。
10月6日、源氏ゆかりの地鎌倉に入り、本拠地とします。
石橋山での敗戦から、わずか1月後のことでした。
頼朝は、行きつく暇もなく、京から送り込まれている大軍を迎え撃つべく出陣!!
黄瀬川沿いに布陣し、富士川の近くに陣を構えた平家軍と対峙します。
富士川の合戦です。
両軍に走る緊張・・・ところが・・・
10月20日未明・・・一斉に飛び立った水鳥の羽音を、源氏軍の紀州と勘違いした平家軍が、慌てふためいて逃げて行ったのです。
戦わずして勝利した頼朝は、実質的に関東を支配することとなりました。
頼朝は、平家という共通の敵を作り、勝ったら平家の所領を与えることにしました。
そうやって武士たちを繋ぎとめていたのです。
この新恩給与を朝廷にも認めさせ、後の地頭という制度につなげていきます。
頼朝に従っていた武将たちは、やがて御家人となり、頼朝と御家人との間には、「御恩と奉公」という関係が生れ、これが鎌倉幕府を支える基本となっていきます。
20年間流人として生きてきた頼朝には、東国の武士たちが何を望んでいるのか・・・それを知っていたからできたことです。

この合戦後、運命的な出会いをすることとなります。
腹違いの弟・義経との初体面です。
平時の乱の混乱のさ中に生れた義経は、幼いころに京の鞍馬寺に預けられるも、打倒平家を胸に京の都を脱出、奥州・平泉へ・・・!!
藤原秀衡の庇護を受け、武士として立派な成長を遂げていました。
そして・・・義経は、兄の挙兵を聞きやってきたのです。
二人は涙しながら語り合ったと言います。
こうして頼朝と義経は、力を合わせて打倒平家に邁進することとなるのです。

③1181年 平清盛死去

関東の武士たちを味方につけ、富士川の合戦で平家軍に勝利した頼朝は、鎌倉を拠点に実質的に関東を支配することになりました。
しかし、頼朝は平治の乱で平家に敗れて以来、いまだ朝廷に弓を引いた謀反人のままでした。
そこで、上洛して後白河法皇に近づき、どうにかして謀反人の立場をといてもらおうと考えていました。
その策は・・・平家の打倒と後白河法皇の救援と建前として上洛することです。
ところがそんな頼朝のもとに衝撃的な報せが・・・!!
平家を率い、強大な権力を有していた平清盛が熱病で急死したのです。

「なんと!!あの清盛が死んだ・・・??」

清盛の死で、頼朝の策は破綻します。
大黒柱を失った平家が政権を返上したことで、後白河法皇の院政が復活!!
頼朝が上洛する理由が無くなってしまったのです。



そこで頼朝は驚くべき策を・・・!!
源氏と平家の和平です。
頼朝は後白河法皇に書状を送り、こう申し入れます。

❶院(後白河法皇)への敵意はない
❷これまでの行動は、院の救済が目的
❸院が平家の滅亡を望まない場合は、朝廷の支配のもとで源氏が東国、平家が西国の治安維持を担当する

後白河法皇は、この頼朝の案に興味を示しますが、平家は猛反発します。
亡き清盛の遺言があったからです。

「かならずや我が墓前に頼朝の首を供えよ・・・!!」

結局、和平は結ばれませんでした。
しかし、これはすべて頼朝の思惑通りでした。
頼朝も、平家と和睦できるとは思っていませんでした。
この案を出すことで、後白河法皇の信頼を得ようとしたのです。
後白河法皇や朝廷の信頼を得るために、実現しないであろう和平工作を上奏したのです。
実際法皇は、突っぱねた平家に不信感を抱き、頼朝に近づいていきます。
こうして上洛への道筋を作った頼朝・・・その最終目的は、謀反人の汚名を雪ぎ、朝廷を守る唯一の官軍になること・・・しかし、横やりが・・・!!

④1183年 木曽義仲 上洛

それは、同じ源氏・いとこの木曽義仲が先に上洛。
平家を都落ちさせてしまったのです。
おまけに義仲は後白河法皇に面会、平家追討の宣旨を受けました。
一説にはこの時義仲は、頼朝を謀反人のまま据え置くように働きかけたと言います。
こうして後白河方法の信任を得た義仲が、頼朝より官軍として平家追討軍を率いることに・・・!!
頼朝は、上洛の機会を逸してしまいました。
ところが、義仲軍の兵士たちが、京の都で乱暴狼藉を働いたことで、後白河法皇が激怒!!
これを知った頼朝は、すぐさま後白河方法に使者を送り、如何に自分が法皇のために力を注いでいるのかをアピール・・・その苦労が実ったのか・・・

1183年10月9日・・・
頼朝は朝廷から謀反人の立場をとかれ、従五位下に任じられます。
14歳で伊豆に流されてから23年・・・37歳でようやく少年時代の官位に返り咲きました。
そして、この5日後・・・朝廷に認めさせたのが・・・

❶東国にある荘園の年貢や税は、頼朝が徴収して、朝廷や荘園領主におさめる
❷これに違反する者がいれば、朝廷は頼朝に追討を命じることができる

これにより頼朝は、名実ともに関東の支配権を得ます。
京の都では、後白河法皇や朝廷の信頼を失った木曽義仲を追討のため、頼朝の上洛を期待する声が・・・!!
その声に応え、頼朝が今日に派遣したのが弟の源義経でした。

1184年1月・・・
義経は宇治川の合戦で義仲軍と激突!!
見事、義仲を討ち取りました。
これで、ライバルがいなくなり、頼朝が平家追討の旗頭となったのです。

⑤1185年 平家滅亡

頼朝は平家追討のために、弟の義経を西国に派遣。
兄の期待に応えるように、義経は一の谷の合戦や屋島の合戦で奮戦し、平家を追いつめていきます。
そして、1185年3月・・・壇ノ浦の合戦で平家軍に勝利!!
頼朝の挙兵から4年半・・・ついに源氏が平家を滅ぼしたのです。

平家を滅亡させた功労者となった義経・・・
父も兄もなくしていた頼朝にとって、義経の存在は心許す唯一の存在でした。
そんな義経を、頼朝は自分の子として迎え入れ、後継者にしようとしたほどでした。
ところが・・・頼朝は、次第に義経と対立を深めていきます。
1184年8月6日、義経は法皇から左衛門少尉を与えられ、検非違使の職を宣旨られます。
義経は、源氏の権威が上がったと、兄頼朝も喜んでくれると思いました。
しかし・・・平家追討に対する恩賞を誰に与えるのかは、自分が申請すると朝廷に申し出ていた頼朝は、自身の許可を得ず官職をもらった義経に激怒!!
これが、頼朝と義経の対立の原因だと吾妻鏡には書かれています。
しかし・・・頼朝は、義経が検非違使になった後も、後白河法皇との取次などを任せています。
むしろ、頼朝は義経を検非違使に推挙していた可能性もあるのです。

⑥1189年 源義経 追討

血を分けた兄弟である頼朝と義経・・・
二人はともに平家打倒の宿願を果たしましたが、その後激しく対立!!
頼朝は実の弟である義経を死に追い込んでいくこととなります。
どうして頼朝は弟の義経を追討したのでしょうか?

通説では、頼朝は自分の許可も得ずに検非違使の職をもらったことに激怒し、二人の対立の原因とされてきました。
義経の検非違使就任は頼朝も了承していた可能性があります。
問題だったのは、義経が検非違使の職にとどまり続けたことだったのでは・・・??

対立の理由
❶検非違使留任問題
頼朝は平家追討の勲功として義経に伊予守の官職を与えるように推挙していました。
京の都の治安を守る検非違使は、京に留まる必要があります。
しかし、伊予守などの受領は、必ずしも現地に行く必要がありません。
頼朝は義経を伊予守に就任させ鎌倉に呼び戻し、自分の近くに置いておこうと考えていました。
ところが、義経は、伊予守の職をもらった後も、辞任しなければならない検非違使に留任し、京の都に居続けたのです。
これに頼朝は腹を立て、二人の仲に決定的な亀裂が生じたのです。
頼朝は、自分の軍が朝廷を守る唯一の官軍になることを目指していました。
しかし、義経は検非違使として京に留まることで後白河法皇の直属軍になる可能性がありました。
義経の検非違使留任が、頼朝軍を唯一官軍にする大きな妨げとなったのです。

❷後継者問題
弟義経との初体面から2年・・・
1182年8月に頼朝の嫡男・頼家が誕生。
我が子を跡継ぎにしたい頼朝は、弟・義経の存在を疎ましく思うようになっていきます。
義経が源氏の後継者となり、よりいrが退けられることを頼朝は恐れていました。
下手をすれば、源氏が二つに分裂し、頼朝が築いた権力が消滅する危険性があったのです。
頼家を後継者にする弊害となり、源氏内の派閥闘争の火種となる義経を排除したかったのです。

1187年、義経が藤原秀衡を頼って平泉に到着。
一方、頼朝は義経追討の宣旨を受けます。
しかし、秀衡の強大な軍事力を前に、頼朝は手を出せずにいました。
ところが・・・10月29日、秀衡は病死。
頼朝は義経追討に動きます。秀衡の後継者である泰衡に圧力をかけ、義経と奥州藤原氏の分裂を画策。
泰衡は家を守るために義経を攻撃することに・・・!!
追いつめられた義経は・・・
1189年4月30日、義経自害!!
その後、頼朝は平泉に兵を送り込んで、強大な力を有していた奥州藤原氏を滅ぼすのです。
これで敵対する武家勢力は消滅・・・頼朝は遂に武家政権の頂点に立ったのです。

⑦1192年 頼朝 将軍就任

弟である義経や、奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、1190年11月7日、上洛。
一千騎の兵を従えて堂々たる行列で京の都に戻ってきました。
14歳で都を追われてから30年の月日が経っていました。
この時頼朝は武官の最高位・右近衛大将に任じられ、名実ともに武士の最高位に上り詰めるのですが・・・
わずか9日後に辞任して鎌倉に帰ってしまいました。

右近衛大将は、朝廷の政務、儀式への参加が主な仕事・・・京の都に絶えずいなければなりませんでした。
頼朝は拠点とする鎌倉で体制を盤石にすることを優先しました。
頼朝は、鎌倉にいても務まる権威ある官職を朝廷に求めます。
そうして2年後、朝廷から賜ったのが・・・
1192年、征夷大将軍・・・46歳でついに流人から将軍となりました。
その3年後、頼朝は再び上洛。
妻・政子、嫡男・頼家、娘・大姫らを引き連れてのことでした。
頼朝は、娘の大姫を、時の後鳥羽天皇の妃にしようと考えていました。
朝廷の有力者に大姫を紹介し、後鳥羽天皇との縁談を取り持ってもらおうと・・・
大姫を入内させ、男子が生れればそれは天皇・・・源氏は天皇の外戚となり、強大な権力を得ることができます。
大姫を嫁がせることで、源氏と北条氏の権威が上がると頼朝は考えていました。
源氏と北条氏が天皇の縁戚となり、高い権威を持つことで、幕府の安定を図ろうとしたのです。

ところが・・・入内を待たずに娘の大姫は入内を待たずに病死・・・。
20歳だったと言われています。
かなしみいえぬままに大姫の代わりとしてその妹の入内計画を始めますが・・・
最後の願いはかなわず・・・
1199年正月13日、源頼朝、53歳で病死。
志半ば・・・波乱に満ちた生涯でした。

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