かつての丹波国・・・京都市右京区にある慈眼寺・・・
ここには、とある戦国武将が祀られていますが・・・墨で塗りつぶされて真っ黒です。

mituhide
















その武将とは・・・??

本能寺の変で主君である織田信長を討った天下の謀反人・明智光秀です。
この木像は、光秀が創建した寺に安置されていました。
肩には明智の家紋、桔梗紋があります。
どうして黒く塗りつぶされたのか??それは、光秀が逆賊とされたからでした。
しかし、最近の研究では・・・??
本能寺の変は、明智光秀が織田信長という鬼を倒しただけ??
天下の謀反人ではなかったのか・・・??

残された資料が非常に少ない明智光秀・・・
信長に仕えるまでの前半生は、ほとんど解らず多くの謎に包まれています。
通説では、美濃国の源氏の名門・土岐氏の一族・・・明智の家に生れたといいます。
室町時代の明智氏は、京都に常駐し、将軍の直臣として高い地位にありましたが、光秀の父に関しては、”光綱・光隆・光国”などの名が上がり、特定に至っていません。
出生地もはっきりせず、現在の岐阜県可児市・恵那市・大垣市・山県市・・・など諸説ありますが、近年では明智城のあった可児市を有力とする声が多くなっています。
生年も謎・・・
光秀を主人公とする軍記物「明智軍記」には、光秀の辞世の句があり、そこに”五十五年の夢”とあることから、亡くなった1582年に数えで55歳・・・それから逆算すると1528年生まれとされてきました。
つまり、光秀は1534年生まれの信長より6歳上。
しかし、明智軍記は光秀の死後100年以上たっている、作者も不明のために信憑性が低いとされてきました。

そして近年別の説が・・・??
本能寺の変の時、55歳・・・それは絶妙な年齢です。
しかし、17世紀成立の歴史書「当代記」には、光秀は羽柴秀吉との山崎合戦に敗れた後、落ち武者狩りで殺された・・・この時の年齢が齢六十七と書かれています。
最近では、1516年生まれという研究者もいます。
1516年生まれならば、信長より18歳年上・・・本能寺の変の際は67歳ということになります。

当時の美濃国は、守護である土岐氏が京都に滞在することが多く、それを美濃に持ち帰っていたため文化風流に富んでいました。
また、学問を重んじる寺も多く、そこには兵法書などが豊富にありました。
美濃国に生れた光秀は、幼少のころから様々な文化に触れ、多くの知識と素養を身に着けたのだと思われます。
そんな文武両道の光秀の前に、大きな試練の日々が待っていました。

1552年頃、油売りから身を起こしたともいわれる斎藤道三が、守護の土岐頼芸を追放し、美濃国を掌握。
明智氏はこの道三に仕えることとなりましたが、1556年4月、道三とその長男・義龍による長良川の戦いが勃発し、道三が討死・・・すると義龍は、道三に仕えていた明智氏を敵とみなし、その年の9月、3000の兵で明智城に攻め入りました。
対する明智方の兵は870人・・・城代を務めていた光秀の叔父・明智光安は勝ち目はない・・・と、光秀に明智の家の再興を頼みます。
明智城を脱出した光秀・・・。

妻・熙子と共に美濃を後にした光秀は、明智軍記によると諸国を放浪・・・極貧の暮らしの中、各地で禅寺を間借りしながら伊達氏、毛利氏、宇喜多氏などの所領を転々とします。
そして、1557年頃・・・越前国へと流れつきます。
福井県にある称念寺・・・光秀はこちらの門前に小屋を建てて住むことを許され、間もなくして朝倉義景に仕官。
この後、出世を果たしたといわれていますが、その理由は・・・??

ある日のこと、義景の前で鉄砲の腕前を披露することとなった光秀は、45mほど離れた的を、次々と打ち抜き、100発中99発命中・・・その褒美として鉄砲隊100人を預けられたといわれています。
これが本当に出世の理由・・・??
諸芸に通じた光秀ならば、鉄砲も上手かったと思われます。
鉄砲の話は作り話の可能性が高く、そもそも光秀がすぐに朝倉義景に仕えたという話そのものが疑わしいと思われます。
越前国に身を置いた光秀が、寺子屋の師匠をしていたという伝承もあります。
お医者さんをしていたという説もあり・・・その素養の高さが目に留まったのではないかと思われます。

1566年9月、光秀が身を寄せていた越前国に、足利義昭が逃げてきました。
前年に兄である室町幕府13代将軍・足利義輝が暗殺され、義昭にも危険が迫っていたため、幕臣の細川藤孝と共に逃亡・・・足利家と関係の深かった朝倉義景を頼って、越前までやってきたのです。
その時・・・明智の名を見つけた細川は、
「将軍の直臣だった明智氏の者か??」と、声をかけたのでは・・・??
光秀の人生が、大きく動き始めた瞬間でした。

そんな中、義昭は朝倉義景に声をかけ、足利将軍家を復興する為に共に上洛してくれるように要請します。
しかし、長男の急死などで気落ちしていた義景は、なかなか腰を上げようとしませんでした。
業を煮やした義昭は、義景を見限り一人の武将に希望を託します。
それが尾張の織田信長でした。
当時の織田信長は、美濃を制圧、その名をとどろかせていました。
思案する義昭に光秀は・・・??
光秀は、細川藤孝に「信長の妻に縁がある」と告げます。
信長の妻とは、正室・帰蝶のことで、帰蝶は美濃の斎藤道三の娘で、一説では母・小見の方は光秀の叔母・・・つまり、帰蝶と光秀は従兄妹になります。
光秀は、その縁を頼りに橋渡し役を買って出たのですが・・・
それによって信長とも運命の出会いを果たすのです。
この頃、信長が細川藤孝に贈った書状にも、

「詳細は明智に申し含めました
 義昭さまによろしくお伝えください」

とあります。

織田信長は、天下布武というだけあって、上洛の機会をうかがっていました。
信長にとって義昭の護衛は渡りに船だったのです。

1568年9月7日、信長は足利義昭を奉じて上洛。
光秀も幕臣として同行したといわれています。
こうして光秀は、放浪の身から歴史の表舞台に出たのです。
この時、通説なら41歳、当代記説なら53歳・・・。
9月26日に京都に到着した信長は、義昭の兄・義輝を殺害した勢力を京都から追い払い、平定。
翌10月、義昭は室町幕府第15代将軍に就任するのです。
光秀の橋渡しによってすべてはうまく行きましたが、光秀自身は複雑な状況になります。
この頃は、幕臣として義昭に仕える一方、信長からも扶持を受けていました。
光秀は二人の主君に仕える両属だったのです。
当時は武士たちは有能な主君を自由に選ぶことができたのです。

1569年、信長は直臣である丹羽長秀、木下秀吉、中川重政らと共に、新参者の光秀を京都奉行に任命します。
そうすれば、足利義昭の監視役とき、教養のある光秀は使えると思われていたようです。
光秀は、信長の期待に見事応え、京都の治安維持や税の徴収などで辣腕を発揮!!
和歌や茶の湯を通じて朝廷との交渉役となり、武骨ものの多い織田家臣団の中でなくてはならない存在となっていきます。
そんな中、光秀のもう一人の主君である足利義昭は、将軍とは名ばかりで実権を信長に握られていることに腹を立て、諸国の戦国大名に信長に圧力をかけるように命じます。
すると・・・光秀は、義昭の監視役としてその動きを逐一信長に報告していました。

1570年1月・・・信長は義昭に対して五か条の条書を突き付けます。
そこには・・・”重要な政治や軍事は信長が執行する 将軍は口出しするな”と記されていて、信長の印と共に光秀の署名がありました。
中立的な立場にいた光秀が、信長側に立ったのです。
どうして信長を選んだのか??
将軍・義昭よりも、天下統一に邁進する信長の将来性に賭けたのです。

織田家臣団の中にあって知略に富んだ交渉人として貢献する明智光秀・・・
さらに武将としてもその力を見せつけていくこととなります。

信長から政治に口出しするなと言われた将軍・義昭は、それに従うことはなく水面下で動きます。
朝倉義景を味方に付けようと画策します。
義景がこれに応じたため、1570年4月20日、大軍を率いて朝倉攻めに出発します。
光秀もこれに参戦・・・光秀にとって義景は、根無し草だった自分を拾い上げてくれた恩人・・・しかし、主君と決めた信長のために迷いはありませんでした。

4月25日、越前国に入った織田軍は、圧倒的戦力で金ヶ崎城と天筒山城を落とします。
織田軍が取った朝倉郡の首は1300以上だったともいわれています。
勢いそのままに朝倉義景のもとに攻め入ろうとした信長に・・・とんでもない情報が・・・!!
信長と同盟を結んでいた北近江の浅井長政が突然反旗を翻したのです。
長政の正室は、信長の妹のお市の方でした。
浅井氏に絶対の信頼を寄せていた信長は、言葉を失うほど狼狽したと言われています。
このまま残れば朝倉軍と浅井軍に挟みうちされるのは必死!!
家臣たちに説得された信長は、止む無く撤退を決意します。
戦において最も難しいのが退却戦・・・
本体を無事に退却させるためには、最後尾の殿が身を盾にして敵の追撃を食い止めなければなりません。
この難役に名乗りを上げたのが木下秀吉でした。
秀吉は金ヶ崎城に残って朝倉軍の追撃を必死に食い止め、兵の大半を失ったものの時間を稼ぎ、無事に帰還しました。
金ヶ崎の退き口と呼ばれるこの退却は、秀吉の武功として広く知られていますが・・・??

資料には「金ヶ崎城に 木藤 明十 池筑 その外残し置かれ・・・」とあります。

木藤=木下秀吉
明十=明智光秀
池筑=池田勝正

のことです。

つまり、この三人の共同作戦でした。
しかも、勝正は、多くの鉄砲を用意して参陣しています。
つまり、池田勝正と明智光秀が主力だった可能性が高いのです。
にもかかわらず、秀吉一人の武功とされているのは、太閤記に秀吉の武功ばかりが書かれています。
謀反人となった光秀の武功など、無用だと意図的に書き残さなかった可能性があります。
秀吉やその家臣によってかき消された光秀の功績は他にもあったと思われます。

信長の危機を命がけで救い、益々信長の信頼を得た光秀ですが、その一方で・・・
ルイス・フロイスは・・・
「織田家にあって、光秀は余所者・・・
 ほとんどすべての者から快く思われていなかった節がある
 また、光秀は裏切りや、密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的。
 己を偽装するのに抜け目なく、戦においては謀略の達人であった」と言っています。
浮いた存在だったようです。

フロイスは、キリスト教の受け入れに批判的だった光秀を、快く思っていなかったようですが・・・。
しかし、主君のためならば、残忍なことも、汚いこともするという一面が、光秀にはあったようです。

織田信長と対立していた石山本願寺法主の顕如が、浅井長政や朝倉義景に反信長連合を呼びかけます。
これに呼応した浅井・朝倉連合軍は、京都へ向けて進軍を開始し、比叡山延暦寺に布陣します。
すると信長は延暦時に対し・・・
「我が方に味方するなら山門領を安堵しよう
 それが無理ならばせめて中立を守って欲しい」
と、申し入れ、さらに
「味方もしない、中立を守らないというのであれば、敵とみなして焼き払う」
と脅しをかけました。
しかし、延暦寺はこれを聞き入れずに、無視・・・!!

翌年・・・1571年9月・・・ついに信長は、比叡山焼き払うように光秀に命じます。
比叡山延暦寺は、平安時代から朝廷の鎮護の役目を担ってきた由緒ある寺院です。
焼き打ちなどすれば、朝廷、更には京都の人々からの非難を免れることはできません。
通説では、光秀はこれに強く反対した!!

光秀の反対を押し切って、信長が比叡山の焼き打ちを決行!!
執拗な焼き打ちは4日間にわたって行われ・・・男女合わせて3000人以上が落命しました。
しかし、その真相は・・・??

近年の研究によると、光秀は比叡山焼き打ちには反対していないようです。
むしろ、忠実に比叡山の焼き打ちを実行しました。
その大きな根拠は、比叡山山麓の土豪に宛てた光秀の書状です。
そこには・・・

・弾薬の補給
・抵抗する集落の皆殺し

焼き打ちを実行するための細かな指示が書かれていました。
つまり、比叡山の焼き打ちに反対せず、入念な下工作をして信長の命令通りに実行したのです。
やはり謀略の達人なのか・・・??

しかし、この焼き打ちは、近年の発掘調査によってちょっとした山火事程度だったという説も出てきています。

光秀は、信長に反対せずに焼き打ちを実行したものの・・・それは脅し程度のもので、虐殺ではなかった可能性が高いのです。
1571年12月、光秀は比叡山焼き打ちの褒美として近江国志賀郡5万石を与えられ、さらに琵琶湖の湖畔に城(坂本城)を築くことを許されました。
これによって、光秀は延暦寺の監視と、琵琶湖水運の権利獲得を任されたのです。
これは、一国一城の主になったということ・・・
この時点では、まだ織田家臣団で一国一城の主になったものはおらず、新参者の光秀が第一号だったのです。

光秀は築城の名人で・・・ルイス・フロイスも、
「築城について造詣が深く、優れた築城手腕の持ち主」と評し・・・坂本城については、
「安土城に次いで豪壮絢爛な城」と絶賛しいます。
坂本城は、特殊な構造で、城から直接琵琶湖に船で出ることのできる攻めの拠点の城でもありました。
天下統一に突き進む信長・・・光秀は、何を見て付き従っていたのでしょうか?

1573年、室町幕府15代将軍・足利義昭は、再び信長討伐を掲げますが、全く歯が立たずに降伏・・・
7月、義昭は信長によって京都から追われ、室町幕府は事実上滅亡しました。
これによって信長は畿内をほぼ制圧!!
残るのは丹波国のみとなります。
京都に近い丹波国には、朝廷や将軍の領地が多く、義昭を蔑ろにする信長に良い感情を持っていない土豪が多く、なかなか手が出せずにいました。
しかし、丹波国を攻略し、畿内全土を掌握しなければ、天下布武は実現できない!!
そこで、1575年信長は丹波国を攻めるべく兵を起こし、その総大将に光秀を任命しました。
光秀は、期待に応えるべく奮戦し、4年の月日を費やして、丹波の城を次々と制圧・・・
1579年丹波国平定。

信長は大いに喜び・・・
「丹波国での光秀の働きは、天下の面目を施した」と光秀を絶賛しました。
そして、その丹波一国が光秀に与えられるのです。
丹波一国は29万石に相当し、近江国の志賀郡と合わせると光秀の所領は34万石・・・まさに、大出世でした。
丹波国の領主となった光秀は、福知山城などを築き領地経営に着手。
自らが考える理想の国づくりをしていきます。

長引く戦で疲弊した農民のために年貢の引き下げ、商業地では地場産業を奨励、水害から町を守るために福地山城下を流れる由良川の堤防を造成しました。
ケガを負った家臣には手紙を書いたり薬を渡し心配りをし、敵対した相手でも降伏後は自分の家臣に組み込むことが多かったといいます。
光秀の優しさは志賀郡でも変わらず・・・
西教寺には・・・戦で命を落とした明智軍18名の供養米を供えた際の寄進場状が残されています。

本来は、温厚、温和な人物であったと思われます。
誰もが幸せに暮らせる国を築きたかったのです。
信長の天下統一は、この国を豊かにするに違いない・・・そのために、自分の粉骨砕身お仕えしなければ・・・と思っていた光秀は、本能寺の変の1年前、家中軍法を作っています。
戦場での雑談や抜け駆けを禁止するなど細かな規定が18か条にわたって記されていますが、その結びには光秀のこんな言葉が・・・

「落ちぶれた身から信長様に拾ってもらった私が、莫大な軍勢を任されたからには、明智家の法度が乱れていると
”武功がない人間だ”とか”国家の穀潰しで公務を怠っている”と嘲笑され迷惑をかけてしまう
 抜群の働きを見せれば、速やかに信長様のお耳に入ることだろう」

信長への感謝と兵を預かる責任感を家臣たちに表明したものです。
しかし、その一方で、天下の謀反人となる変を起こすのです。
明智光秀は謀反人なのか?名将なのか?
光秀は、名将になった故に謀反人になったのでは・・・??
天下統一を目前にした信長は、天皇を超える存在になろうとしていました。
信長が、社会を乱す鬼となってしまったと感じた光秀は、自分の最後の大仕事として鬼を退治しようとしたのでは・・・??
信長の最後の城・安土城は、天皇を迎え入れる際の御幸の御間より、信長の暮らす天守の方が高い位置にありました。
自分は天皇を超える存在であるという強烈な意思を示したのです。
また、晩年の信長は、敵将の生首を蹴飛ばしたり、それまで以上に傍若無人な振る舞いが目立つようになってきていました。
その鬼を退治したのが本能寺の変・・・
謀反の後、もし光秀の天下が続いていれば、どんな理想の国を築いていたのでしょうか?

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