映画の都・ハリウッド・・・スクリーンの魔術が、アメリカでもっとも華やかなビジネスを生み出しました。
スターが誕生します。
チャールズ・チャップリン、クラーク・ゲーブル、マリリン・モンローが、世界を虜にしました。
映画制作会社の大物が業界を牛耳り、スキャンダルも飛び交います。
思想をめぐる戦いも・・・しかし、戦時にも、平時にも、ハリウッドは適応と進化を繰り返します。
アメリカの夢の工場・・・ハリウッドの物語。

アメリカの映画産業は、ニュージャージー州で産声を上げました。
1893年発明家エジソンが、アメリカ初の映画スタジオを設立、スタジオはブラック・マライアと呼ばれました。
外見が真っ黒で、警察の護送車を思わせたからです。
しかし、まだ作品をスクリーンに映し出すことは出来ず、お客はキネトスコープと呼ばれる箱にコインを入れ、のぞき窓からフィルムを眺めます。
1894年制作の「くしゃみ」という5秒間の作品が残っています。
技術の進歩と共に、映画は多くの人が楽しめる娯楽となりました。
商店を改装したミニシアターがいくつも登場します。
このような映画館は、ニッケルオデオンと呼ばれました。
ニッケル・・・5セント硬貨でチケットが買えたからです。
1903年の映画「大列車強盗」は、上映時間12分、ストーリーもありました。
1907年には、週に200万人が映画に出かけたといわれます。
映画人気が高まるにつれ、東海岸に制作会社が続々と誕生します。
そこで、エジソンの会社を中心とする大手9社は、モーション・ピクチャー・・パテント・カンパニーを設立。
撮影と上映の技術を独占し、競争相手に圧力をかけて廃業に追い込みました。

1910年、映画監督のD.W.グリフィスは、矢が色気のため、西部カリフォルニア州に赴きました。
そしてたまたまある村に立ち寄ります。
なだらかの丘と果樹園の広がる人口5000人の村です。
村からロサンゼルスまで伸びる16キロほどの通りは、まだ世に知られていない子の小さな村の名をとって、ハリウッド大通りと呼ばれるようになります。
グリフィスの作品「In Old California」は、初めてハリウッドで撮影された映画です。

様々な地形に富み、一年を通じて晴れが多いカリフォルニア・・・しかも、エジソンが独占支配する東海岸からは、4000キロ離れています。
ビジネスチャンスにひかれ、独立系の制作者たちは西を目指しました。
1912年、東海岸で映画ビジネスをしていたカール・レムリがユニバーサルを設立します。
後にハリウッドの巨大企業となるこの会社は、28万坪と言う広大な敷地に世界最大の制作スタジオを造りました。
ユニバーサルは、数多の従業員を雇います。
レムりの成功を受け、業界の人々が次々と西海岸に拠点を移します。
プロデューサーのアドルフ・ズーカー、ジェシー・ラスキー、セシル・B・デミル、サミュエル・ゴールドウィンがパラマウントの前身となる会社を設立、もう一人のパイオニア、ウィリアム・フォックスはエジソンの独占は違法だと訴え、勝利します。
自由になった映画産業は、カリフォルニアを拠点に急速に成長しました。
ハリウッドの映画制作会社は、新しいビジネスモデルを生みました。
映画を作るだけではなく、劇場チェーンも所有していました。
そのため、一定数の観客を確保することが可能でした。

1914年、イギリス人の俳優・チャップリンの二本目の出演作「ヴェニスの子供自転車競走」で、トレードマークとなるキャラクター・放浪者チャーリーに扮し、一躍スターに・・・。
チャップリンは監督も務めました。
1916年映画会社が彼に支払った年俸は70万ドル・・・社長の給料の10倍近くに当たります。
時はまだ無声映画の時代・・・台詞抜きで楽しめるコメディーが人気を集めました。

大スターの一人・・・メアリー・ピックフォード。
1916年、パラマウントと結んだ専属契約は前代未聞の100万ドル・・・ピックフォードを頻繁に起用したのが、D.W.グリフィスです。
1915年、グリフィスは、新しい技法を駆使した「国民の創生」を発表。
南北戦争を舞台としたアメリカ初の壮大な人間ドラマです。
上映時間は3時間・・・1万8000人を雇い、制作費10万ドルを投じました。
興行収入は、現在の価値で2億5000万ドルにのぼったといわれています。
しかし、議論が巻き起こりました。
白人至上主義団体クー・クラックス・クランを正義として、アフリカ系アメリカ人を敵として描いていたからです。
上映禁止を求める抗議運動が起きました。
グリフィスは謝罪しませんでした。
1930年作品の再公開に当たり、こう弁明しています。

「当時、KKKは必要でした。
 社会維持に貢献していました。」

それでも独創的な新しい手法によって、グリフィスはハリウッド一の名監督の座を手にしました。
第一次世界大戦中、プロパガンダ映画を撮影するため、特別にフランスの塹壕への立ち入りも許されました。
戦争の資金集めに奔走したのが、ハリウッドのスターたちです。
ワシントンでメアリー・ピックフォード、チャールズ・チャップリン、ダグラス・フェアバンクスが、戦時公債を宣言します。
一行は各地を回り、スターに頼まれれば、市民たちは喜んでお金を出しました。
終戦までに集まった金額は、およそ170億ドル・・スターは今や、国民の恋人でした。

しかし、権力を握っていたのは制作会社です。
ユニバーサル、パラマウント、フォックスにワーナーブラザーズとコロンビアも加わりました。
会社は報酬や芸術表現の面で、俳優を厳しく管理しました。
自由を求めて反旗を翻した者もいます。
ピックフォード、チャップリン、フェアバンクスは、グリフィス監督と共に、1919年にユナイティッドアーティストを設立。
金儲けの手段ではなく、芸術としての映画に道を開く出来事でした。
しかし、大手スタジオには太刀打ちできません。
資金集めは難航し、制作は停滞します。
旗挙から5年間は、平均で年に5本の作品しか世に送り出せませんでした。
仕事上の同志だったフェアバンクスとピックフォードは、私生活でもパートナーになりました。
夫のいたピックフォードは、離婚によってキャリアを失うのでは??と心配します。
しかし、国民はフェアバンクスとの結婚を究極のハッピーエンドとして祝福。
ハリウッド発の大物カップルの誕生でした。
夫妻はビバリーヒルズに豪華な新居を構え、撮影隊を招集します。
一帯はすでに高級住宅街として有名でした。
ご近所さんはチャップリンでした。
通称ピックフェアと呼ばれた二人の邸宅には、ハリウッドのセレブ達が集うようになりました。

1920年には、世界の映画の大半がハリウッドで制作されました。
映画はアメリカ第4の産業となり、4万2000人以上を雇用していました。
映画産業に関わりたいという夢を持って、大勢がハリウッドに押し寄せました。
ロサンゼルスの人口は、1920年代に倍増し、アメリカ第5の都市へと成長します。
住宅地が広がっていきます。
1923年、大きな資材を丘の上に運ぶ人々・・・新興住宅地を宣伝する高さ15mの巨大看板を作るためです。
費用は2万1000ドル・・・現在の30万ドル相当でした。
4000個の電球が浮かび上がらせたのは、HOLLYWOOD LANDの文字・・・
一次的な広告の予定でしたが、1949年にLANDの4文字が取り払われ、今もこの地のシンボルであり続けています。
1920年代初頭、ハリウッドほど自由奔放な町はありませんでした。
スクリーンの中にも外にも怪しげな雰囲気が漂うようになりました。

そして1921年9月・・・事件が起きます。
大人気のコメディアン、ファッティー・アーバックルが、強姦殺人の罪で逮捕されたのです。
被害者は、女優ヴァージニア・ラッペでした。
アーバックルは、サンフランシスコの高級ホテルでのパーティーの後、犯行に及んだとされます。
ハリウッド初のセックススキャンダルを受け、業界はアメリカ映画制作配給業者協会を創設。
共和党の政治家ビル・ヘイズを初代会長として招きました。

ヘイズは、プロダクションコードと呼ばれる倫理規定を導入します。
しかし、実態は掛け声にとどまり、規定に従わせる権限は、ほとんどありませんでした。
ハリウッド流のパーティーは終わりませんでした。
映画は古いモラルを打ち破るための大胆な挑戦でもありました。
ラブシーンの撮影は、監督の腕の見せ所・・・セクシーな魅力を前面に押し出す俳優も登場します。
ルドルフ・ヴァレンチノ・・・別名、ラテンの女たらしと呼ばれたスターです。
ヴァレンチノは、1926年胃潰瘍が原因で31歳と言う若さで世を去ります。
ファンは悲しみにくれました。
遺体はニューヨークで3日間安置され、何千人もがスターの死を悼みました。
1927年には、1週間にアメリカ人の半数にあたる5700万人が映画館を訪れました。
需要に応え、各地に映画館が急増します。
ロサンゼルスのハリウッド大通りには、興行師シド・グローマンが200万ドルを投じたチャイニーズ・シアターが登場。
スターが劇場前の歩道に、手形足形をつける伝統は、この時始まりました。
第1号はダグラス・フェアバンクスと、メアリー・ピックフォードでした。
同じ年、フェアバンクスとピックフォードは、ハリウッドの伝統ある組織の立ち上げにも参加。・・・画芸術アカデミーです。
1929年から始まったアカデミー賞授賞式は、最も華やかな映画イベントとなり、受賞者に与えられるオスカー像と共に、世界に知られるようになります。
映画業界は、活気に満ち溢れていました。
さらにこの時、映画を根本から変える革命が起ころうとしていました。

1927年、ニューヨークのタイムズスクエア・・・
革命の瞬間に立ち会おうと、ワーナー劇場に詰めかける人々・・・世界初の長編トーキー映画「ジャズシンガー」のプレミア上映です。
アル・ジョンソンの記念すべき第一声に、観客は大興奮しました。
トーキーの登場で、映画の作り方はがらりと変わりました。
音声を拾うため、撮影場所は屋内の特設スタジオに変わりました。
かつて活躍した大掛かりなセットは、もはや使われることも無くなり、取り壊されました。
トーキー映画の名脇役は、サイレント時代からMGMのトレードマークだったレオ・ザ・ライオンです。
何頭ものライオンが、レオ役を務めてきましたが、最も有名なのはジャッキーでした。
1927年、ジャッキーは特別仕様の飛行機で、MGMの宣伝ツアーに出ました。
ところが、サンディエゴを飛び立った5時間後、飛行機はアリゾナの山中に墜落、パイロットは救助を求めに行き、ジャッキーは4日間残されたサンドイッチを食べて生き続けました。
MGM幹部が真っ先に聞いたのは、「ライオンは無事か?」と言う言葉でした。
事故は宣伝となり、ジャッキーは幸運のライオンと言われ大いに甘やかされます。
1928年、その声が初めて劇場に轟きます。
トーキー映画の象徴でした。
トーキーの到来と共に華麗な変身を遂げたのが、元コーラスガールのルシール・フェイ・ルスールです。
テキサス出身のルシールは、南部訛りを無くすため懸命に努力します。
彼女の名前の響きが気に入らなかったMGMは、雑誌で新しい名前を公募、賞金は1000ドルでした。
新しい名前は、ジョーン・クロフォード・・・MGMは、その貧しい生い立ちを隠して、新しいプロフィールを作ります。
1929年、彼女はダグラス・フェアバンクスの息子と結婚し、ハリウッドのセレブの仲間入りをしました。

MGMの幹部ルイス・B・メイヤーは、莫大な儲けを産むスターたちを徹底的に管理します。
1930年代には、60人以上のスターと契約し、MGMはハリウッドの中心的存在となりました。
映画会社は養成学校を作り、新たなスターの発掘に努めます。
授業の様子を撮影し、プロモーションにも利用しました。
俳優の卵たちが、カメラの前でトレーニングを受けます。
女性たちは完璧なレディーを演じるように求められます。
歩き方講座もありました。
キスの練習も・・・映画会社は自分達が求める俳優を育てます。
スターの生活は優雅でした。
俳優たちがニュース映画に登場する時は、常に映画会社が万全な体制をとっていました。
1937年、アメリカ人の平均所得は1800ドルでした。
映画スターはこの額をはるかに上回り、クラーク・ゲーブルの年収は28万ドル余り・・・しかし、アメリカで最も高額な報酬を手にしていたのは、MGMのボス、ルイス・B・メイヤーで、その額は110万ドルでした。

憧れの的ハリウッドは、その煌びやかさゆえに議論の的にもなります。
メイ・ウエスト主演の「妾(わたし)は天使ぢゃない」のプレミア上映が1933年にありました。
ウエストは、悪名高き女優でした。
舞台での過激な演技でわいせつ罪で逮捕され、禁固10日の刑を受けました。
保守的な宗教団体は、ウエストの映画の性描写に拒否反応を示し、セックスと暴力を賛美する映画界の傾向を非難します。
ハリウッドはこの批判をかわそうとしました。

倫理規定の適用を最初に受けたのが1934年の「ターザンの復讐」でした。
ジョニー・ワイズミュラーとモーリン・オサリバンの代役が及ぶシーンは裸が問題となりカットされました。
検閲の時代が、この後30年続きます。
業界は方向転換をし、もっと無邪気で愛らしいスターを求めることにしました。

わずか5歳のシャーリー・テンプルです。
映画「歓呼の嵐」で歌とダンスを披露し、アメリカ人の心をつかみました。
フランクリン・ルーズベルト大統領は、この少女が大恐慌で落ち込んだ人々を元気づけるのを見てこう言いました。
「この国にシャーリー・テンプルがいる限り、私たちは大丈夫だ」
映画スターとして初めて大統領の誕生日に歌も歌いました。

1939年には、365本の映画が公開され、週に8000万枚のチケットが売れました。
そのほとんどが、映画史上空前の大ヒット、「風と共に去りぬ」のチケットでした。
プロデューサーのデイヴィッド・セルズニックは、キャスティングに2年を費やします。
ポーレット・ゴダードを含む32人がスカーレット・オハラ役の候補にあがりました。
最終的にこの大役を射止めたのは、イギリス人のビビアン・リーでした。
レット・バトラー役にはクラーク・ゲーブル、アシュレー役にはレスリー・ハワードが決まりました。
ビビアン・リーと、オリビア・デ・ハビランドがセルズニックと共にアトランタに姿を現すと市民は熱狂。
しかし、最も大きな歓声を浴びたのは、ハリウッドのKing・・・クラーク・ゲーブルでした。
ジョージア州知事は、ワールドプレミアの日を市の休日とし、100万人以上がお祭りに加わります。
スターのパレードを見ようと、30万人が通りを埋め尽くしました。
しかしこの作品も、「国民の創生」と同じく人種の問題を浮き彫りにします。
プレミア会場には、奴隷のマミー役ハティ・マクダニエルをはじめ黒人俳優の姿はありませんでした。
劇場には白人しか入ることが許されなかったのです。
人種差別は、アメリカ全土におよんでいました。
アカデミー賞授賞式では、セルズニックが頼み込み、やっとハティ・マクダニエルの出席が許されます。
しかし、彼女は何処にも写っていません。
他の候補者との同席は許されず、遠く離れた席があてがわれていたのです。

風と共に去りぬは、過去最多の8部門を受賞、ハティ・マクダニエルは助演女優賞に輝きました。
アフリカ系アメリカ人として初めてのことです。
人種差別は、この後何十年もハリウッドに残り続けます。
さらに、ハリウッド自体にアメリカへの忠誠度が問われる時代がやってきます。

第二次世界大戦さ中の1942年、ハリウッドスターは国民へ戦争への参加を呼びかけました。
ジェームズ・スチュアートもその一人です。
当初は痩せすぎのため合格ラインにたらず、スパゲティとステーキとミルクセーキで体重を増やしました。
まだ基準より数十グラム軽かったものの、軍医を説き伏せて合格。
陸軍航空軍の爆撃機パイロットになり、国民の入隊を呼びかけます。
徴兵の年齢を超えていたクラーク・ゲーブルも、妻を飛行機事故で亡くしたことをきっかけに入隊します。
名監督ジョン・フォードも、戦争を後方支援しました。
海軍への入隊が夢だった彼は、1941年、映画製作スタッフを集め独自に海軍予備隊を結成します。
政府の要請を受け、連合軍に従軍してドキュメンタリー映画や訓練用の映画を撮影しました。
1942年、ミッドウェー島のアメリカ軍基地の撮影に赴きます。
日本軍の攻撃で負傷しながらも、フォードは撮影を続行!!
海兵隊の兵士たちが祈るようにアメリカ国旗を掲げる様子を捕らえ、アカデミー賞のドキュメンタリー部門で受賞しました。

本国でもハリウッドのスターたちが一役買います。
メアリー・ピックフォードは、ピックフェアと言われた自宅を軍人に開放、町にはハリウッドキャンティーンをオープンします。
ベティ・デイビスとジョン・ガーフィールドが1942年に開いた伝説の店で、連合国の軍人なら誰でも利用できました。
軍服が入場券替わりで、店内のものはすべて無料でした。
リンダ・ダーネルなど、有名俳優を含む3000人のボランティアが食事を出し、客をもてなしました。
スターとダンスもできました。
ハリウッドで初めて成功したドイツ人俳優マレーネ・ディートリッヒの姿も・・・。
ナチスからの帰国要請を拒否して、1939年アメリカの市民権を得ていました。

このキャンティーンは、1945年までに300万人の兵士をもてなし、コーヒー900万杯とタバコ300万箱を提供しました。
しかし、まもなくハリウッドの愛国心に、疑いの目が向けられるようになります。
冷戦時代、アメリカは内部の敵に怯えていました。
1947年、アメリカ下院の非米活動委員会が国内の共産主義者の調査と摘発に乗り出しました。
ハリウッドは、赤の温床と見なされ、標的にされます。
委員会はワシントンで9日間にわたる公聴会を開き、ハリウッドの映画人40人以上に証言を求めました。
映画俳優組合の代表だったロナルド・レーガンは、ハリウッドの潔白を断言します。
委員会は、共産主義との関係が疑われる人の名を上げるように迫りましたが、一部の脚本家と映画監督は、憲法上の権利の侵害だとして協力を拒みます。

委員会に逆らった10人の映画人は、ハリウッド10と呼ばれ、大きな代償を払います。
業界のブラックリストに乗せられ、1年の禁固刑まで受けました。
ハリウッド10への冷遇に反発する俳優もいました。
ハンフリー・ボガートやローレン・バコール・・・俳優たちがワシントンに集まり抗議の声をあげました。
ハリウッドを代表するスター、チャールズ・チャップリンも憂き目を見ます。
非米活動委員会は、アメリカの市民権を取得しようとしないチャップリンの国外追放を求めたのです。
チャップリンは委員会に電報を送りました。

”私は共産主義者ではない
 平和の使徒だ”

委員会は引き下がったものの、FBIは捜査を続けました。
1952年、63歳のチャップリンは、映画「ライム・ライト」のプレミア上映のため、21年ぶりにイギリスに向かいます。
大歓迎の祖国とは対照的に、第二の祖国アメリカは、チャップリンの再入国を阻もうとします。
これに傷ついた俳優は、この後、20年間アメリカに戻ることはありませんでした。
ひとつの時代の終わりでした。

そして、ハリウッドは新しい脅威に直面します。
強力なライバルの登場です。
1948年、連邦最高裁は、パラマウントをはじめ多くの映画制作会社に映画館の所有を禁じる判決を下しました。
市場の独占が崩れました。
制作会社はこれまで頼りにしていた手堅い集客手段を失い、競争にさらされます。

新興勢力であるテレビ業界には、絶好のチャンスでした。
ベビーブーム世代が結婚し、郊外に移ると、お金と時間のかかる映画館からは足が遠のきます。
1950年代の半ばには、アメリカ人の半数がテレビを所有、逆に映画館の客入りは戦時中に比べ半減します。
映画制作会社は勝ち目のない競争よりも、流れに乗ることを選びました。
ニュースよりも娯楽番組が増えるにつれ、ハリウッド製の作品がテレビにあふれるようになります。
俳優たちもテレビに進出します。
大ヒットドラマ「アイ・ラブ・ルーシー」には、毎週4000万人がチャンネルをあわせました。

映画の復権には、新たな客層の開拓が必要でした。
お金を落とすようになったティーンエイジャーをターゲットに、ハリウッドは新世代の俳優を生み出します。
マーロン・ブランド、ジェームズ・ディーン・・・
ディーンは、スクリーンの中でも外でも異端児でした。
クリーンなイメージを保ちたいワーナーブラザーズは、安全運転を呼び掛ける公共CMに彼を出演させます。
数週間後、彼は事故に遭い24歳で亡くなります。

ハリウッドは、海の向こうにも売り込みます。
セックスシンボルとして一世を風靡したマリリン・モンローは、アメリカの象徴となり人気を博します。
1956年にはプレミア上映会のためにロンドンを訪れ、ハリウッドの女王と即位して間もないエリザメス女王が対面しました。
1962年、J.F.ケネディ大統領の誕生日を独特の歌声で祝いました。

煌びやかなスターを生み出すハリウッドの力は健在でした。
観客の争奪戦が続く中、映画にも付加価値が求められるようになります。
1952年、映画「これがシネラマだ」のプレミアム上映にスターが顔を揃えます。
ジョーン・クロフォード、ロック・ハドソン、ジョン・ウェインも最先端のワイドスクリーン・・・シネラマを体感しました。
湾曲した横長のスクリーンに、三台の映写機で映します。
観客はまるで実際にジェットコースターに乗っているような臨場感を味わいます。

一方、はじめてシネマスコープで撮影されたのが、1953年の「100万長者と結婚する方法」です。
1代の映写機で、ワイドスクリーンへの投影が可能になりました。
こうした技術を駆使して、ハリウッドはテレビに真似のできない映画ならではの作品作りを目指します。
「国民の創生」や「風と共に去りぬ」の流れをくんだ巨額の制作費をかけた壮大な作品が人気を呼びます。
「十戒」は、エジプトで撮影されました。
セットの建設に1600人が動員され、エキストラの数は1万2000人、1300万ドルという空前の制作費が投じられましたがその甲斐はありました。
興行収入は制作費の10倍にあたる1億2200万ドル以上、パラマウントの作品で最高を記録したのです。
ニューヨークでのプレミア上映には、スターが勢ぞろい・・・ハリウッドを象徴する華やかさに溢れていました。
夢の工場ハリウッドは、サイレントからトーキーへ、戦時から平時へと時代に適応して生き延びてきました。
その魔法がとけない限り、これからもアメリカ文化の中心にあり続けることでしょう。


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