アメリカの物語・・・
1920年代は繁栄の時代でした。
しかし、そこには黒い影が・・・
伝説を作ったアル・カポネ、ラッキー・ルチアーノ、フランク・コステロ、マフィアが悪の帝国を築き上げ、勇気ある者が反撃に出ました。
組織犯罪に歯止めがかかりません・・・。
アメリカ社会の善と悪がぶつかり合う時代が続きました。
アメリカの暗黒街の物語です。

オハイオ州・シンシナティのレッドランドフィールド・・・
1919年10月1日、ワールドシリーズが開幕しました。
シンシナティ・レッズ対シカゴ・ホワイトソックス・・・先に5勝した方がチャンピオンです。
ホワイトソックスの監督は、自信満々、ナックルボールで最多勝を獲得したエディ・シーコットに先発を任せます。
レフトを守るシュ―レス・ジョー・ジャクソンらスター選手の揃ったホワイトソックス側が圧倒的に有利とみられていました。
賭博は違法ですが、闇のオッズは7対5でソックス有利、しかし、試合開始数時間前になって、レッズの掛け金が一気に流れ込みます。
ニューヨークのタイムズスクエアでは、特製のスコア・ボードが用意され、電報で逐一伝わるボールの動きが瞬時に表示されます。
ソックスのFanは、エースのシーコットが4回に滅多打ちにあい愕然・・・
シンシナティ・レッズは、初戦を9対1で楽々と勝利・・・番狂わせは続き、5勝3敗でレッズはシリーズ優勝を果たしました。
スポーツライターのヒュー・フラートンは、不振を抱き、新聞にホワイトソックスの選手がワールドシリーズで八百長した疑いがあると告発記事を掲載・・・大きな反響を呼びました。
シューレス・ジョー・ジャクソンら選手8人が一人5000ドルでシリーズの勝利を売ったと非難されました。
シカゴの大陪審で撮影が初めて許され、1920年9月、尋問された8人の内3人が八百長を認めました。
8人全員が、大衆をだました詐欺の罪で告発されます。
裁判では供述書が無くなるという不可解な事件も起こり、陪審は無罪の評決を下しました。
しかし、MLBコミッショナーのケネソー・マウンテン・ランディスは、大目に見ることはなく、8人全員を野球界から永久追放。
事件はアメリカの新たな犯罪組織が世界のどこにでも救うことを知らしめました。

ニューヨークのロウアー・イーストサイド・・・移民が密集して暮らしていました。
市場は一獲千金を目論む若者で溢れています。
アメリカン・ドリームを手っ取り早く手に入れる手段の一つが犯罪でした。
イタリア系移民から大物ギャングになったのは、チャールズ”ラッキー”ルチアーノ・・・そしてフランク・コステロです。
2人はニューヨークを拠点として、一般社会の裏側に暗黒街を築き上げました。
1920年代のアメリカは、犯罪史にとってチャンスに満ちた国でした。
禁酒法の裏をかいて、密造酒をあらゆる階層に供給すれば、容易く荒稼ぎできました。
お酒は、海のルートを使って運ばれました。
ウイスキーひと箱の仕入れ値は、海の上で65ドル・・・陸では400ドルで売れます。
積み荷を満載し、逃走すると沿岸警備隊が追いかけます。
船足で勝る密輸船が振り切るのです。
アメリカ本土で人々への酒への欲望が、尽きることはありません。

連邦政府は、酒類取締局を設置しましたが、問題は慢性的な人で不足です。
わずか1500人で、アメリカ全土のお酒の流れは止められません。
ニューヨーク、パークアベニューでの強制捜査が派手に宣伝されますが、人々は法の目を簡単にかいくぐれることを知っています。
捕まるのは氷山の一角で、密輸人が検問を何事もなくすり抜けていました。

1925年、違法の酒を振るまうナイトクラブが賑わいを見せていました。
法を軽視する風潮が全米に広がります。
特に顕著だったのが、ニューヨークです。
丁度、市長選の時、洒落物者の州上院議員で地元ティンパンバレー出身の音楽家ジミー・ウォーカーが市長に立候補します。
肩ひじ張らない彼のスタイルは、カリフォルニア州知事との記者対応でも本領を発揮します。
禁酒法反対を強く唱えるウォーカーは、マフィアが好むタイプの政治家でした。
1925年11月の市長選挙で圧勝・・・
しかし、市役所の堅苦しい雰囲気が合わず、夜の市長と呼ばれるようになります。
彼は公的資金を使って、セントラルパークのカジノというナイトクラブを改装、違法なシャンパンを開けぬなら、ニューヨーク市政を指揮しました。

休みの日にウォーカーがよく現れたのが52番街の21クラブです。
建物には複雑な仕掛けが施されました。
壁の奥に隠されたのは秘密のワインセラー・・・マフィアの大物アーノルド・ロススタインの資金で買い集めたお酒が保管されていました。
ウォーカー市長の時代、マフィアの事件が新聞の一面を飾るようになります。
1928年にはロススタインが賭けをめぐるもめ事で市街ののホテルで撃たれました。
ロススタインはマフィアの沈黙の掟を守り、撃った犯人の名を明かさぬまま2日後に死亡・・・
ただ一人証言したのはホテルの客室係ブリジット・ファリーでした。
他の証人が現れなかったので、容疑者は保釈されました。
この沈黙の掟がマフィアの隆盛を支えます。

1927年「暗黒街」・・・
マフィアの悪名は、ハリウッド映画に新しいジャンルを生み出しました。
ギャング映画です。
魅力的なギャングのボスとその恋人は、違法なバーに頻繁に出入りし、やがて警官隊と銃撃戦を展開します。
映画の中のギャングは、富とカッコよさとスリルで観客を魅了しました。

悪名は彼等の使った武器でさらに高まります。
トミーガン・・・機関銃です。
速射のできるマシンガンはマフィアのお気に入りとなります。
1934年までは、町の店頭でも買うことができました。
トミーガンで武装したグループは勢力を拡大し、さらにその名をとどろかせます。
1920年代にシカゴで頭角を現したアル・スカーフェイス・カポネ・・・彼は最初の三丁のトミーガンを金物店で買いました。
この銃は、シカゴの至る所で使われたため、シカゴ・タイプライターというあだ名がつきました。
カポネのグループは1929年、バレンタインデーの虐殺という抗争事件を起こし、全米にニュースが轟きます。
アメリカ社会は、一般市民の平穏な日常生活にも脅威が迫っているとみるようになります。
ニューヨークでは連邦下院議員フィオレロ・ラガーディアらが街の浄化かを掲げ、1929年の市長選でウォーカーに挑戦します。
ラガーディアは怒りを訴えます。
ウォーカーはタレント然とした態度で応じます。
投票の結果は、ウォーカー1万4849票、ラガーディア3635票・・・
ウォーカー市長の再選でした。
ウォーカーの再選は、汚職の勝利を示したかに見えました。

しかし、ギャングの隆盛にも逆風が吹き始めます。
1931年8月、5歳の少年、マイケル・ベンガリの葬列を数万人が見送り、その様子がニュースカメラに収められました。
東107番街にあるギャングのたまり場の近くで遊んでいたマイケルは、抗争事件の流れ弾に当たって死亡・・・
他にも4人の子が巻き込まれました。
容疑者は良く知られたギャングのリーダー、ヴィンセント”マッドドッグ”コール。
しかし、誰も証言しようとしません・・・
事件は暗黒街への世間の味方が変わる転換期におきました。
組織犯罪は全米に拡大し、殺人発生率は過去最悪となっていました。
ロマンと共に語られたギャング像は否定され、マフィアは世間の敵となったのです。

1931年、フロリダ州マイアミ・・・裕福なアメリカ人に人気のリゾートになっていました。
温暖なフロリダは、北部の寒い冬を逃れる理想的な場所です。
1キロ半ほど先のパーム島にある豪華な別荘では、秘密の集まりが行われていました。
オーナーはアル・カポネです。
ラッキー・ルチアーノ、ジロ・アーティョーク・キング・テラノバ、フランク・コステロ・・・
ニューヨーク出身のこの4人が、暗黒街の大物にのし上がる一方で、多くの人々は大恐慌に苦しんでいました。

1932年、大統領候補のフランクリン・ルーズベルトは、不況対策と禁酒法廃止を掲げます。
ルーズベルトは、組織犯罪や汚職への世論の反発を感じていました。
ニューヨークで州知事を務めていた1930年9月には、ニューヨーク市の汚職を調査する委員会を立ち上げていました。
ウォーカー市長は、市の発注事業で利益を得たとして非難されます。
1932年、ウォーカーは不名誉な形で辞職・・・
ショーガールの愛人と共にヨーロッパに渡り、3年間暮らしました。

連邦の捜査当局は、シカゴの取り締まりに着手します。
シカゴでは1928年に全米一498件の殺人が起きますが、ボスのカポネが罪に問われたことは皆無・・・
その年の彼の収入は、推定で1億500万ドル・・・今の値で14億ドルですが、税金は申告も納付もしていません。
当局はこれを突破口に、1931年カポネを法廷に引っ張り出します。
税務当局の捜査官フランク・ウィルソンは、巨額の現金がカポネに支払われたことを示す秘密の帳簿を発見・・・脱税の証拠を押さえます。
1932年5月、カポネは11年の実刑判決を受けアトランタとアルカトラズの刑務所に服役します。
押収されたカポネの車は一般に公開されます。
彼が逮捕を逃れた秘密の一端が明かされます。
車には警察と同じタイプのサイレンが・・・そのサイレンを逃走に利用していました。
最新鋭車は警察無線も傍受できました。
敵の攻撃にも耐えうる仕組みでした。
車両の窓は、すべて防弾ガラスです。



1932年11月、ルーズベルトは大統領選に勝利、公約通り禁酒法を廃止します。
貴重な収入源を失ったマフィアは、ギャンブル事業に一層の力を入れます。
ニューヨークのハーレム地区では、黒人ギャング団が、ナンバー賭博を広めました。
手ごろな値段で毎日売られる数当て式の宝くじは、違法でしたが、あらゆる階層に人気となります。
選ぶのは3つの数字、当選番号は新聞紙面から無作為に当てられます。
胴元が999対1で有利となるオッズでした。
ハーレムの街頭で売られるナンバー賭博の売り上げは、年間2000万ドルに達しました。
犯罪は相変らず白昼堂々行われていたのです。

フィオレロ・ラガーディアは、ニューヨーク市を浄化するのは自分しかいないと確信し、1933年の市長選に再び立候補しました。
今回は有権者もラガーディアを支持し大勝・・・政治の世界から暗黒街への反撃が始まります。
ラガーディアは早速、ニューヨークに氾濫する違法賭博の撲滅に乗り出します。
最大の標的は、フランク・コステロや、ラッキー・ルチアーノが経営するスロットマシン事業でした。

コステロは、潜り酒場や町の商店などに2万5000台ものスロットマシンをおいていて、その売り上げは1931年には2500万ドルに達しました。
スロットマシン一掃をアピールしようとラガーディアは押収した大量のマシンに自らハンマーを振り下ろしました。
壊したものはイースト川に廃棄します。
押収された大量の銃器類もイースト川へ・・・。
環境問題を当時の人々は意識していませんでした。
一斉摘発は、コステロやルチアーノの事業の大規模さを白昼のもとに暴きました。
しかし、商売道具の押収だけでは不十分です。
市長はボスたちの逮捕を目指します。

抜擢されたのは、腕利きの検察官トマス・デューイでした。
問題は、ルチアーノについて密告するメンバーが一人もいないことでした。
そこで、デューイはルチアーノが経営する売春宿の娼婦数人に、司法取引による証言を持ちかけます。
1936年、ルチアーノは、強制売春の容疑で逮捕されました。
裁判でルチアーノは2万ドル程度の微々たる所得額を主張しましたが、実際には不正な商売で1000万ドル以上稼いでいたことが明らかになりました。
禁固30年から50年の刑が宣告されます。
しかし、ラガーディアの取り締まりも、マフィアに致命的な打撃を与えるに至りませんでした。
ニューヨークでは逮捕者が相次ぎましたが、アメリカはチャンスが無限に広がる国です。
ニューヨークから遠く離れた場所で、組織犯罪が新たな黄金期を迎えていました。

1938年6月、1艘のスピードボートがカリフォルニア州サンタモニカ沖の国際水域に入ります。
乗客が乗り移ったのはかつて漁船だったレックス号です。
今はすっかり姿を変え、海に浮かぶカジノです。
運営するのは避けの密輸業から転じた”トニー・ザ・ハット”コルネロ・・・別名提督です。
20万ドルを投じ、非課税のギャンブル天国を陸地からスピードボートで12分の海の上に作りました。
船は2000人の客と、350人のスタッフを収納可能でした。
ルーレットやカードゲームの隣にスロットマシンがずらりと並びます。
カジノは24時間無休・・・金持ちが詰めかけました。

レックス号が営業を開始して1年後、州政府は法律を変更し、取り締まり可能な海域を沖合に伸ばしました。
コルネロは当局と鼬ごっこを繰り返しますが、岸から余り離れると客を失ってしまいます。
最後は沿岸警備隊の手に落ちました。ギャンブル用の設備が、太平洋に沈められていきます。
組織犯罪の資金源は、東海岸の都市に限らないことがよくわかります。
ルイジアナ州のニューオーリンズでも、マフィアが1940年代には勢力を確立していました。
その機会を提供したのが、上院議員の”キングフィッシュ”ロングでした。
大統領への野望と汚職にまみれていました。
しかし、ロングは1935年に射殺されます。
ニューオーリンズの顔役は、酒の密輸からレストラン経営に転じた”ダイヤモンド”ジム・モランでした。
あだ名の由来は簡単・・・ダイヤモンドが大好きだったのです。
25万ドルの宝石をよくつけていました。
モランは暗黒街のメンバーに煩わしい日常を逃れて羽を伸ばす機会を提供していました。
ゲストはスピードボートでミシシッピ川を登ってやってきます。
ルイジアナ州でのマフィアの休暇に欠かせないものは銃を使った魚釣り・・・そして食事・・・世間の目が届かないところで満喫します。
ニューオーリンズでは、多くの人間がマフィアブームの分け前に預りました。
しかし、こうした時代はまもなく終わりを迎えます。

シャバのパーティーには欠席続きでもチャールズ”ラッキー”ルチアーノは刑務所の中から引き続き犯罪組織を指揮していました。
ルチアーノは、1946年収監されてわずか10年で釈放されます。
第2次世界大戦中、アメリカ軍のイタリア侵攻作戦にシチリア生まれのルチアーノが協力したという噂が流れました。
釈放の条件は強制送還でした。
イタリア・ローマに到着します。
しかし、ルチアーノは犯罪の帝国を手放すつもりはありませんでした。
1947年、アメリカに戻ろうと試みますが、キューバで身柄を拘束され、再びイタリアへ送還されます。
イタリアで、ルチアーノはカメラに追われます。
アメリカでも犯罪仲間への圧力が高まっていました。
議会上院が公聴会を開き、マフィア幹部を追求する様子を全米にテレビ放送したのです。

マフィアの隠された実態が暴かれ始めました。
1950年春、ハリー・トルーマン大統領の人気は、大戦後の景気後退と歩調を合わせるように下がっていました。
2人のマフィアメンバーの遺体が、ミズーリ州の民主党の関連会社で見つかるという大統領に追い打ちをかけます。
現場の壁に掲げられていたのは、地元が生んだ英雄・トルーマンの写真・・・
政治家と犯罪組織が癒着しているという印象を社会に与えました。
非難の声を受け、議会は組織犯罪に関する初の本格的調査に乗り出します。
テネシー州選出の上院議員エステス・キーフォーヴァ―は、全米へのアピールを画策、公聴会はアメリカではじめての一大テレビイベントとなります。
1951年3月、視聴者の数は3000万人余りに達しました。
マフィアに関係すると思われる人物を、数百人規模で召喚・・・
見たこともない光景に、アメリカ国民はくぎ付けになりました。
クリーブランドの”アウル”ポリッツィは、地下人脈について質問を受けます。
公聴会の目玉は、フランク・コステロの召喚でした。
違法な賭博から合法な不動産業まで、全米で様々な事業に絡み、テレビ局2社にも出資しています。
資産総額は計り知れず・・・
コステロは、口をつぐんだまま何も語りません。
委員会は最後に自らの正当性を訴えるように促しました。

「税金を払った
 上院に対し敬意を抱いているが、これ以上質問に答える気はない」

証人席を離れて退出・・・
ギャングの高慢さの象徴として、社会に記憶されました。

次の証人はアラバマ州出身のヴァージニア”ザ・フラミンゴ”ヒル。
もとは、アル・カポネお気に入りのウェイトレスで、シカゴとメキシコを結ぶ麻薬取り締まりのブレーンにまでのし上がった女性です。
5000ドルのミンクのコートに身を包み、莫大な資産は競馬で稼いだと言い放ちます。
自分で不利になる証言はうまく免れました。
しかし、注目されることを嫌いました。
税務調査から逃れるようにヨーロッパに渡り、15年後オーストリアで亡くなりました。

フランク・エリクソンや、ジョー・アドニスといったマフィアの大物は、憲法修正15条を盾に、自分の不利な証言を拒否しました。
修正第5条に基づいてが常套句となりました。
1年間の公聴会で、600人を呼んだキーフォーヴァー議員は、憂慮すべき結論を発表します。

「犯罪組織は州を超えて、全米規模で連携しています
 我々の想像以上に大規模で悪質な活動です
 その壊滅的な悪影響は、我が国の経済や社会規範、政治や政府に及んでいます」

まもなく、コステロの天下に終わりを告げます。
公聴会での勝手な退席により侮辱罪で有罪となり、その後5年間刑務所を出たり入ったりします。
1957年5月2日には、暗殺を試みた男に頭部を撃たれますが、生き延びました。
容疑者はヴィンセント・ジガンテ・・・コステロの宿敵ヴィト・ジェノヴェーゼ配下の男でした。
コステロがマフィアの沈黙の掟を守り、証言を拒否したため、ジガンテは無罪釈放となります。
1962年1月、ラッキー・ルチアーノが心臓発作で亡くなりました。
ナポリでの葬儀は一大イベントととなり、世界各国の報道陣が集まりました。
弔問客の多くが、その筋定番の服装・・・ルチアーノは、秘密を墓場まで持って行きました。
しかし、翌1963年、沈黙の掟が破られる衝撃的な事件が起こります。
ヴィト・ジェノヴェーゼの組織の末端メンバーのジョセフ・バラキという男が服役中に殺人を起こします。
死刑を逃れるために、バラキは司法取引に応じ、終身刑への減刑の代わりに沈黙の掟を破ったのです。

犯罪組織の秘密の名前が初めて公に明かされます。

「イタリア語でコーザ・ノストラ
 ”我らのもの””我が家族”といった意味です」

組織犯罪の実体が暴露されます。

「一度入ったら抜けられず、逃げることは不可能です
 必ず捕まります」

マフィアはバラキの首に10万ドルの懸賞金をかけましたが、誰も手にできませんでした。
バラキは、1971年に獄中で自然死を遂げます。
2年後、フランク・コステロが死亡、ニューヨークのクイーンズに埋葬されました。

バラキの証言をきっかけに、マフィアに対する取り締まりは一層厳しいものとなります。
大物が次々と法廷に引きずり出されます。
20世紀が終わるころ、捜査当局はマフィアの屋台骨の解体に成功、暗黒街の黄金期は幕を閉じたのです。
 
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