明治26年、ある新作歌舞伎がお披露目されました。
「遠山桜天保日記」・・・ご存じ、遠山の金さんです。
実はこの金さんのモデルは実在の人物です。
江戸・北町奉行・遠山金四郎です。

1840年、遠山金四郎は、48歳で北町奉行に就任します。
江戸の町奉行所は北と南に別れ、この2カ所で広大な江戸全体を管轄していました。
町奉行の仕事は、裁判、行政、警察、消防などに及び、江戸町方全般を取り仕切る重要な役割でした。
12代将軍・家慶が、遠山の裁判を見学し、こう語っています。

「吟味の儀際立ち、奉行たるべきものさもこれあるべきことに候」

家慶の厚い信任を受けて、遠山金四郎はこの後名奉行ぶりを発揮していきます。
遠山が町奉行を務めた天保の時代、江戸幕府は未曽有の危機に瀕していました。
内憂外患です。
1837年、浦賀の沖合にアメリカ船・モリソン号が姿を現しました。
目的は通商・・・開国を迫ります。
ペリー来航のわずか16年前のことです。
幕府の砲撃により、モリソン号は退去しますが、それ以後も日本は西洋列強の脅威にさらされることとなります。
国内では天保の大飢饉にに見舞われ、長引く大雨や冷害で餓死者は30万人にも上りました。
これによって、幕府領の年貢収入が減り、天保2年には142万9000石でしたが、天保7年には103万9000石にまで・・・3割の減収となりました。
さらに、飢饉のため米や諸物価が高騰・・・幕府は慢性的な財政赤字に陥っていました。
この内憂外患に取り組んだのが水野忠邦です。
水野は大坂城代、京都所司代など幕府の要職を歴任し、それを将軍に評価され、1839年老中首座に就任します。
かくして、水野は天保の改革に乗り出します。

この時、遠山は北町奉行として幕府評定所のメンバーでした。
評定所は、老中首座を筆頭に、老中、町奉行、勘定奉行、寺社奉行などが重要な政策を議論決定する幕府の審議機関でした。
遠山は、水野忠邦をトップとする天保の改革のメンバーだったのです。
水野は新しい改革を次々と打ち出していきます。

①奢侈取締り
1841年5月、江戸市中に御触れが出ます。
水野は贅沢の禁止を命じます。
禁制の対象は華美な着物、贅沢な料理や菓子、装飾を施した櫛や簪、初鰹まで・・・
水野は贅沢を禁じ、江戸の町人たちに質素倹約の生活を強いました。
奢侈の取り締まりは、日に日に厳しさを増していきます。
奢侈禁止のお触れが出てから2か月後・・・
町奉行遠山は江戸の現状を調査した報告書に目を疑います。
贅沢禁止令により、江戸は深刻な不景気に見舞われていたのです。
江戸を代表する呉服屋が、買い控えにより軒並み前年同月比で大きく落ち込みます。
越後屋本店40%、白木屋73%の売り上げ減。

ある幕臣はこんな意見書を出しています。

「米屋、薬などの必需品を扱う商売以外はすべて不景気となり、両国や浅草などの盛り場はさびれている
 2.3年も経てば貧民は生活できなくなる」

老中首座・水野の政策をこのまま実行すべきか、それとも江戸の町人の生活を守るべく、町奉行として進言すべきか・・・??

かくして遠山は決意します。

1841年9月、南町奉行矢部定謙と共に伺書を水野に提出。

身分不相応の奢侈はいけないが、江戸の繁栄を維持する為に配所は大事であり、江戸が寂れることは幕府のご仁政の趣意に反故する

極端に贅沢を禁止するのではなく、暮らしにあった程度には良しとすること・・・
そして何より、江戸は繁栄していなければならない・・・。
遠山たちは、水野の政策に待ったをかけたのです。

これに水野は激怒・・・たとえ、江戸市中が衰退しても・・・商人、職人が離散しても、頓着しないぐらいの激しい姿勢で改革を行わなければいけない・・・!!

改革を行うためには、江戸が衰退しても構わない!!
ここに、水野の天保の改革に対する基本的な考え方が集約されていました。

基本的に世の中は、武士と農民・・・この二者の関係によって社会の根幹は出来ていました。
商工・・・商人は武士の生活や農民の生活に必要な最小限程度あればいい・・・
つまり、商工業者は、最小化されなければならない・・・!!
それ以上は、社会的に望ましいものではなく、現在の秩序を壊していくものだ!!

改革を断行する水野忠邦と、江戸の繁栄を第一に考える北町奉行・遠山金四郎・・・
2人の対立は激化していきます。

②寄席取の全廃
1841年、江戸の寄席の数は233軒大いに繁栄していました。
演目は、落語にとどまらず手品、声帯模写、女浄瑠璃、小唄など・・・様々な芸が披露されていました。
料金はおよそ50文。
現在にして1600円もあれば楽しめました。
主な客は、職人や奉公人など・・・庶民のささやかな娯楽でした。
ところが・・・寄席の全廃の方針を打ち出します。
理由は、見物人を集め、金銀を費やさせることは贅沢につながるというものでした。
遠山は反論します。

「寄席は、毎日の労働の疲れをいやす場であり、町人の日々のささやかな楽しみを奪ってはならない」

この遠山の訴えにより全廃は免れたものの、233軒から24軒に激減します。
さらに、江戸町人文化の華・歌舞伎に規制を加えました。
歌舞伎小屋三座の所替を命じたのです。
歌舞伎小屋は、日本橋と銀座から、当時江戸のはずれだった浅草裏の猿若町へと移転を余儀なくされました。
絶大な人気を誇った五代目市川海老蔵を奢侈禁止令に触れたとして江戸十里四方処払いとしました。
次々と引き締め政策を行った水野は、満を持して大胆な構造改革に乗り出しました。

③株仲間の解散
当時、米や酒、油などの産品は、全国から大坂に集められ、その後江戸へと海路で運ばれていました。
産品ごとに株仲間という組合が結成され、彼らは幕府に冥加金を払うことで、産品の流通販売を独占していました。
どうして水野が株仲間の解散を考えていたのでしょうか?
株仲間が作られた時期には、市場を管理していくとか、商品流通をシステマチックに動かすという意味がありました。
しかし、時代が経ていくと特権化して硬直化した市場体制になっていました。
価格操作とか、新規商人の加入を認めないなど、負の価値が強くなってきていました。
それをどのように解決していくのか??という問題がありました。

水野は120年続いたこの株仲間に、解散を命じました。
理由は、「問屋共不正」です。
株仲間は市場の独占を利用し、商品の家格を不当に吊り上げているという者でした。
そして、「素人直売買勝手次第」・・・誰でもが市場に参入できるように規制を緩和し、自由競争による物価の低下を狙ったのです。
しかし、この改革は、市場に混乱をもたらすこととなります。

解散に伴い株仲間の商売を保証していた株札が無効になってしまったことが原因でした。
当時において、”株”が一番の重要な担保でした。
資金の融通を受ける際に差し出す担保・・・これが、当時は株だったのです。
株仲間が解散を命じられたことによって、株の価値が無くなってしまう・・・
すると、担保として差し出すものがないので、お金を借りられない・・・!!
いざという時に、資金の融通を受けられない・・・商家は現金を手元にためておこうとします。
お金を使わない・・・景気は回らなくなってしまう・・・!!
遠山と南町奉行の矢部は、株仲間の解散に反対したといいます。
しかし、水野は株仲間の解散を強硬・・・!!
結果、市場の混乱を招いただけで、さして物価も下がらず、10年後の1851年株仲間が再興されます。
この株仲間の解散を巡って、遠山は大きな痛手を被ることとなります。

1841年12月、南町奉行・矢部定謙、罷免。
5年前に起きた与力の不正事件を矢部がもみ消したというのが理由でした。
現在の研究では、水野の謀略による冤罪というのが通説となっています。
将軍・家慶の信任が厚い遠山の代わりに、矢部がターゲットとなったのです。
矢部は永預けとなり禁固され、旗本矢部家は改易処分となりました。
この処分に矢部は納得せず、抗議の絶食の果てに死亡したといわれています。
盟友・矢部の無念の死・・・
この後、遠山は厳しい選択を迫られていきます。

盟友・矢部の無念の死を悼む暇もなく、遠山は水野から新しい改革の実施案を求められます。
それは、天保の改革でも重要な政策でもある人返しの法でした。
人返しの法・・・農村から江戸に出てきた者たちを強制的に農村に帰らせるというもの。
この頃、江戸の町人の人口は、55万3200人・・・そのうち、農村などから来た他国生まれは16万5000人いました。
30%にも達していたのです。
農民が江戸に流入り、農村の人口が減ったことで田畑は荒廃し、農作物の収穫が低下していました。
さらに水野が問題視したのが、農村からの流入者の殆どが、「其日稼の者」・・・低所得者層でした。
遡ることおよそ50年前の1787年、天明の大飢饉により米価が高騰、天明の打ちこわしがありました。
暴徒の多くが其日稼の者でした。
再び凶作が起きると、この者たちを中心とした打ちこわしが起こりかねない・・・と、危惧していたのです。

水野の言うことも一理ある・・・しかし・・・??

遠山は、江戸巡検を行うことにしました。
一日の巡検が30キロに及ぶこともありました。
遠山自身が巡検することで、江戸の町人の実体を目の当たりにできました。
町人たちがどういうことを楽しんで、どう云うことで苦しんでいたのかを感じ取っていました。
江戸市中をくまなく回り、庶民の生活をつぶさに見ることで、遠山は実感します。

其日稼の者でも、一旦証人となれば、稼ぎも安定し、妻子もできる
故郷に帰りたいという気持ちも無くなり、江戸に住み着くことになる
江戸でなんとか安定した生活を手に入れたら、其日稼の者に強制的に農村に帰れと命じるのは無理がありました。
このまま強行していいものか??
現実にあった策はないのか・・・??

❶人返しの法を実施
❷町人第一の政策を貫く

遠山は水野に1842年5月、「人返しの法」に対する上申書を提出します。
そこには、強制的に村に返さず、かつ飢饉の際の打ちこわしを防止する策が記されていました。

「お救い米百万石に増やすべし」

遠山が提言したのは、七分積金の活用でした。
七分積金とは、およそ50年前の寛政の改革で行われた政策で、町の収入の一部を使いもみなどを購入し備蓄、飢饉の際にこれをお救い米として放出するという江戸のセーフティーネットです。
七分積み金は、連綿と受け継がれていましたが、天保の飢饉で放出し、激減していました。
そこで、遠山はもみを百万石に増やせば、飢饉が起きても其日稼の者たちの生活を支えられると提案し、あくまでも町人第一の政策を貫くことを選択しました。
遠山の進言が大きく影響し、人返しの法は、”最近になって江戸にやってきてまだ妻子もいない者”にだけ適用されました。

救民対策のために七分積金を増やして手当てするのは、町奉行の提案としては至極もっともな提案でした。
一方、年の窮民は少なくなったの方がいいので、国元にできるだけ帰ってもらおうとしますが、強制力を持って帰すわけにはいきません。
非常に整合性のある現実性のある政策が展開されたと思われます。

1843年、遠山、大目付に就任。
栄転ですが、天保の改革からは外れることとなりました。
同じ年、御簾納忠邦は上知令を発令。
当時、江戸と大坂の周辺には、幕府領以外に大名や旗本の領地も混在していました。
これら、大名・旗本の領地を幕府に返上させ、かわりに替地を与えることとしたのです。
年貢の取れ高が多い大名・旗本の土地を、取れ高の少ない幕府領と取り換えて、幕府の財政を補強するのが目的でした。
これこそ、幕府の赤字を解消する最後の切り札でした。
しかし、この強引なやり方に、大名・旗本から猛反対が起きました。
その筆頭は、御三家・紀州藩、老中・土井利位なども加わり、幕府内に反水野が形成されました。

1843年9月、上知令撤回の幕令が下され、水野は老中免職・・・!!
天保の改革は、2年余りでほとんど成果を上げず幕を閉じたのです。

しかし、天保の改革の時代、諸藩でも改革が行われ赤字財政を画期的に克服した藩がありました。
例えば、薩摩藩です。
1835年には負債総額500万両・・・現在の2000億円です。
そこで薩摩藩は、特産品の黒砂糖の自由取引を禁じ、生産から流通販売まで薩摩藩が市場を独占することで莫大な利益を得、財政を回復させます。
長州藩や土佐藩も、同様に赤字財政を克服・・・西南雄藩は、明治維新へと突き進んでいくこととなります。

一方、遠山の晩年は・・・??
1845年、南町奉行に就任します。
彼は晩年、遠山の金さんと呼ばれ慕われていました。
60歳まで南町奉行務めた遠山は、1855年逝去・・・63年の生涯でした。

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