日本の政治の中枢・国会議事堂・・・現在の建物は、1936年帝国議会議事堂として完成しました。
参議院本会議場・・・戦前は、皇族や華族で形成された貴族院として使用されていました。
現在参議院の定数は245ですが、460席あるのは貴族院の議場だった名残です。
天井は唐草模様を配したステンドグラスがはめ込まれ、当時の面影を残しています。
この参議院議場の最大の特徴とされるのが、議長席の後ろにもうけられた・・・開会式の際の天皇陛下の席です。
日本で初めて議会が開かれたのは1890年の第1回帝国議会です。
それに先立って作られたのが、大日本帝国憲法でした。

明治維新から22年の1889年・・・
近代国家を目指して制定された日本初の憲法が、大日本帝国憲法です。
その憲法制定に16年を費やし、中心的な役割を担ったのが伊藤博文でした。
伊藤は1841年、長州藩の貧しい農家に生れました。
その後、下級藩士の養子となり、吉田松陰が開いた松下村塾で学んだことで、運命が大きく変わることになります。
20代の始めに藩の留学生としてイギリスに渡り、西洋文明と英語を学びます。
そして明治維新後、その英語力を買われ、新政府に仕えることとなったのですが、士族出身者が多い政府の中で、伊藤は立場が弱い農民出身。。。
どうしてそんな伊藤が、後に憲法制定の中心人物となったのでしょうか?

1871年、岩倉具視を全権大使とする岩倉使節団でした。
30歳になっていた伊藤は、明治維新の英傑・大久保利通や木戸孝允たちと共に海を渡ります。
この時の使節団の目的は、幕末、日本が西洋列強に言われるがまま結んでしまった不平等条約改正の予備交渉と、西洋文明の視察でした。
一行は、アメリカに到着後、サンフランシスコ、ワシントン等に滞在、その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、パリ、ベルリンなどの都市を視察、そこで西洋列強の工業力や軍事力のすごさをまざまざと見せつけられ、強い衝撃を受けます。
そして、その中で、その国力の背後にある「あるもの」が日本の近代化には必要だと気付きます。

「あるもの」とは・・・??
国力を高めないと西洋諸国から認められない・・・
そのうちの一つとして憲法に注目します。
ヨーロッパの多くの国は憲法を持っており、指導者と国民が一つに繋がっている・・・そのような国の形を支えている憲法というものが重要だと・・・!!
この時の日本は、廃藩置県で「藩」が廃止、日本という国を一つにまとめるための憲法はありませんでした。
そうした中で、使節団一行は、欧米諸国と肩を並べるには憲法成立が不可欠だと知ったのです。
中でもそれを強く感じたのが、大久保利通と木戸孝允で、しかし、自分たちの生きている間には実現しないだろうと考えていました。
そこで、2人はイギリス留学を経験し、西洋列強のことをよく知る若き伊藤にこの大事業を託すことにしました。
こうして伊藤は、明治政府の重鎮・木戸孝允と大久保利通の後押しがあったから憲法制定の大事業を担うことになったのです。
しかし、そんな伊藤の前に、いくつもの壁が立ちふさがることに・・・!!

憲法制定の壁①板垣退助の自由民権運動
帰国した伊藤は、1873年11月、政府から憲法制定に向けての調査を正式に命じられます。
しかし、日本の国内事情はそれどころではありませんでした。
政府内では、朝鮮への派兵をめぐる征韓論争が起き、その結果、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らが辞職・・・
さらに、士族の反乱が勃発、緊迫した情勢にありました。
そうした中、下野した板垣退助が1874年、日本初の政党・愛国公党を設立。
自由民権運動の口火となる建白書を政府に提出しました。

「今の政府は一部の藩閥政治家が支配している
 これを改めるには、選挙で選ばれた民撰議員を設置すべきである」by板垣

これにより、不平士族を中心に、自由民権運動が盛り上がりを見せます。
藩閥政治を批判し、早期国会開設とそれに伴う憲法制定を政府に要求、五日市憲法草案(自由民権運動家・千葉卓三郎によって起草された私擬憲法)など、自分達で憲法草案を起草する者も出てきました。
憲法制定を急ぐ急進派を前に、伊藤は困惑します。

「憲法は時間をかけなくてはいいものは出来ない」

選挙による議会開設は時期尚早・・・ましてやそれに伴う憲法制定については時間をかけるべきだと考えていました。

しかし、自由民権運動は、農民層にまで広がりを見せ、過激さを増していきます。
これに対して明治政府が動きます。
次々と条例を出すなどの徹底的な言論弾圧を行っていきます。
憲法改正、議会開設を急ぐ動きは、一時収束・・・
伊藤はようやく腰を落ち着けて憲法を制定していくことができる・・・
そう思っていたのです。

1873年、伊藤博文が32歳で明治政府の住職である参議・工部卿に就任。
しかし、その4年後・・・1877年、後ろ盾だった木戸孝允病死・・・
翌年には、大久保利通が暗殺されます。
伊藤は、木戸と大久保から託された憲法制定への想いを強くします。
2人の遺志を受け継ぎ、自ら政府をを先導していくと決意を新たにするのです。
ところが・・・

憲法制定の壁②大隈重信の裏切り
1881年3月、憲法制定に関する一通の意見書が、明治天皇に近い有栖川宮熾仁親王に秘密裏に提出されます。
意見書を出したのは、伊藤と同じ参議の大隈重信です。
そこにはこうありました。

「議会で多数派となった政党が、行政の重責を担うイギリス型の議院内閣制度を採用すべし
 できるだけ早急に憲法を発布し、二年後の明治十六年初めには議会を開くこと」

大隈は、時間をかけて憲法を制定するという政府の方針に真っ向から反対する意見書を出したのです。
それは、政府がいち早く憲法を制定することで、根強い自由民権派の政府批判を打ち消そうと考えてのことでした。
しかし、伊藤にとっては寝耳に水の話・・・
盟友・大隈の裏切りとも取れる行動に、腹を立てた伊藤は、政府の重鎮だった岩倉具視に宛ててこんな手紙を書きます。

「大隈さんの意見書を読んだところ、実に意外な急進論であり到底従うことはできません
 このような方針が取られるのであれば、自分は辞職させていただきたい」

その怒りの裏には、大隈の意見書が具体的な内容だったことへの恐れもありました。

”このままでは大隈重信に憲法制定の主導権を握られる・・・!!”

先を越された焦り・・・大隈という新たな壁を前に、伊藤はただ悶々としていました。
すると、ある事件が起こります。
北海道の開発を担う開拓使の廃止に伴い、鉱山や工場などの官有物を旧薩摩藩関係の民間企業などに格安で払い下げることが検討されていたのですが・・・
その払い下げ計画が、新聞にすっぱ抜かれ、政府と薩摩閥の癒着だと叩かれたのです。
さらに、新聞社に情報をもらした人物が、払い下げに反対していた大隈では??と疑われたため、大騒動に・・・!!

世に言う”開拓使官有物払い下げ事件”です。

明治政府は、騒動の責任を取らせ大隈を政府から追放。
これにより、伊藤が懸念していた大隈による早急な憲法制定と、議会開設は阻止されたのです。
ただし、一件落着とはいきませんでした。
こうした問題が起きるのは、薩摩・長州藩出身の政治家たちがいまだ権力を握っているからだと、自由民権派が「藩閥政治」を批判。
選挙で選ばれた人たちで健全な政治が行えるよう議会の早急な開設を求める声が、再び起こったのです。
政府は止む無く”国会開設の勅諭”を出し、9年後の1890年に国会開設をすることを表明。
これに先立つ憲法制定も急ぐこととなってしまったのです。

1881年10月12日、勅諭が下されたことで、9年後の国会開設が約束されました。
そして、これに伴い急ぐこととなった憲法の起草作業・・・
40歳になっていた伊藤博文は、その中心で奔走していました。
ところが、またもその立場を脅かす人物が現れます。
岩倉具視のブレーン・・・井上毅です。
伊藤は一体、井上の何を恐れたのでしょうか?
司法省の官僚として海外視察を経験していた井上毅は、西洋諸国の法律に精通した政府随一の法制度の専門家でした。
岩倉のために、すでに憲法意見書を作成していました。

・天皇が制定する憲法であること
・急激ではなく段階的に行うこと

「ヨーロッパの憲法を参考にする際は、君主の権限が強いドイツの憲法が適している」by井上毅

当時ドイツでは、ドイツ皇帝・ヴィルヘルム1世が強い権限を持つ憲法が用いられていました。
かねてから井上は、議会を重んじるイギリス型の議院内閣制度では安定した政府運営ができないと反対していました。
ドイツ型の憲法こそ、天皇を尊ぶ日本の国情に合う憲法だと考えていたのです。
井上の意見書を目にした伊藤は、自分には明確な憲法のビジョンがなかったことに気付き、大きな危機感を覚えます。

”井上毅に憲法制定の主導権を握られる・・・!!”

法制度に精通する井上毅に憲法制定の主導権を奪われることを恐れたのです。
木戸や大久保から託されたという伊藤のプライドが、傷つけられたのでした。

伊藤の親友で外務卿だった井上馨は、この頃の伊藤についてこう語っています。

「近頃、伊藤も大いに心痛の極みにて、神経症が起こり毎夜眠れず
 酒一升を飲んで ようやく寝ることができるという状態である」

完全に自信を喪失し、苦悩する伊藤・・・すると政府内から声が・・・

「よかったら、静養もかねて欧州へ憲法調査に行かれたら如何でしょうか」

渡りに船とばかりに、伊藤はこの提案を受け入れ、1882年3月、伊藤博文ヨーロッパへ旅立ちます。
その伊藤に、井上毅はこんな手紙を送りました。

「立憲作業はもう最終段階、海の向こうで静養でもしながら私が研究した成果を参考にして、草案を仕上げてきてください」

それは、伊藤は無用、立憲作業のお飾りに過ぎないとでもいわんばかりの屈辱的な内容でした。
しかし、伊藤はこれを、巻き返すチャンスだと信じて疑いませんでした。

1882年5月、ドイツ・ベルリンに到着。
議会開設まであと8年・・・ドイツのような立憲君主国の憲法とは??
議会と内閣の関係とは?選挙は・・・??
具体的な仕組みの調査を目的としていた伊藤・・・
しかし、かの地で漢方調査は思うようにうまくいきませんでした。

ドイツに到着した伊藤がまず頼ったのが、ベルリン大学の憲法学者のルドルフ・フォン・グナイストでした。
ところが、こう言われてしまいます。

「遠方からドイツを目標においで下さったのは感謝の至りだが、憲法は法文でない
 精神である
 日本の事情に無知な自分がお役に立てるかは自信がない」

グナイストは、憲法や法律は国家が勝手に決めるものではなくて、その国の歴史に根ざして作られて行く物という考え方を持っていました。
=「日本の歴史を知らないから助言する立場にない」となるのです。
伊藤の憲法調査は、頓挫してしまいました。
さらに、議会の開設についても、謁見したドイツ皇帝ヴィルヘルム1世から日本では到底無理だろうといわれてしまうのです。

行き詰まり、苦悶する伊藤でしたが、救いの手を差し伸べる人物が現れます。
オーストリア・ウィーン大学教授のローレンツ・フォン・シュタインです。
以前から日本に関心を持っていたシュタインは、懇切丁寧に国家の全体像についての講義をしてくれました。

国家というものは、独立したひとつの人格に例えられる
そして、それぞれ自立した3つの要素を備えている
国家の自己意識を具現化する機関としての君主
国家の意思を形成する議会(立法)
国家の好意を司る内閣(行政)
そして、最も重要なのは、憲法そのものではなく、それを支える制度や組織です

伊藤は、国家の全体像について理解するようになっていきます。
そのことが、自分こそが憲法を作るのだという自信を回復することに繋がっていきます。
そして、「立憲カリスマ」として日本に帰ってくることになるのです。

伊藤は、岩倉に宛てた手紙にこう書いています。

「私はドイツにて国家組織の大体を理解した」

およそ1年半に及ぶヨーロッパでの憲法調査で、自身を回復した伊藤は、立憲政治において誰からも一目置かれるカリスマへと生まれ変わったのです。
そして、1883年8月・・・井上毅と対等に議論できる知識を得、帰国した伊藤は、憲法制定へのリーダーシップをとっていきます。
まず着手したのが憲法を制定し、議会を開くための受け皿となる国家組織の改革です。
自立した行政を行うため、近代的な内閣制度を作りました。
そして、44歳になった伊藤は・・・1885年12月、初代内閣総理大臣に就任。

1887年、伊藤博文は、横浜・東屋旅館で参事院議官の井上毅、伊藤の秘書官の伊藤巳代治、同じく秘書官の金子堅太郎と共に、憲法の起草作業を始めました。
順調に事は運んでいました。
ところが・・・東屋旅館に宿泊していた伊藤巳代治と金子堅太郎が、ことのほか起草作業が進んでいることに木を良くし、ある晩宴会を開き、酔いつぶれてしまいました。
すると運悪くそこに怪しい侵入者が・・・目覚めた二人は青ざめます。
憲法草案の入った大事なカバンを盗まれてしまいました。
もしかして、妨害しようとした自由民権派の仕業では・・・??
しかし、幸いカバンは近所の畑に捨てられていて、草案は無事でした。
金品目当ての泥棒だったのです。

草案は無事だったものの、慎重を期し、伊藤は横須賀・夏島にあった自身の別荘に作業場を移します。
そして、密かに作業を続ける中で、三人に言いました。

「私の言うことが間違っていたら、それは間違いだと徹底的に追及してくれ
 君らの言うことが分からなければ、私も君らを徹底的に攻撃する互いに攻撃し、議論するのは憲法を完全なものにするためである
 長官だの秘書官だのという意識は一切かなぐり捨てて、討論議論を極めて、完全なる憲法を作ろうではないか」

こうして、数か月にわたる激しい議論を交わしながら作り上げていったのが、大日本帝国憲法の原案となる”夏島草案”です。

第一条には・・・
大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
この天皇の権限こそ、草案作成の中で最も論争となった点でした。
伊藤たちは、天皇は国を一つにまとめる重要な存在と認めながらも、独裁になってはならないと考えます。
そこで盛り込んだのが

第四条
天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ 此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ

実際には、天皇の主権は憲法の規定に従って行うということも明記されています。
完全な意味での独裁ではなく、君主(天皇)の権限は制限されていました。
草案はその後も検討され、徐々に完成へと近づいていきました。
そんな中、最後の壁となったのが明治天皇でした。

憲法制定の壁③明治天皇の反発
明治天皇は、政治的実権はすべて自分にあると考えていました。
そのため、伊藤は憲法で主権を制限されることに天皇が難色を示すのではないかと危惧したのです。

「何としても陛下を説得しなければ・・・!!」

伊藤はいかにして明治天皇を説得したのでしょうか??

陛下には、シュタイン博士の憲法の根幹を学んでいただき、君主の役割を理解していただく必要がある・・・
伊藤は、まずは天皇が厚い信頼を寄せる人物に憲法を学ばせ、その人物に天皇に講義をしてもらおうと考えます。
伊藤がその大役に選んだのが、侍従の藤波言忠です。
藤波は、シュタインの教えを学ぶため、ウィーンへと旅立ちます。
そして、シュタインから憲法だけでなく、教育、宗教、産業など立憲国家の君主が心得るべきことの全てを学びます。

こうして1887年11月・・・
帰国した藤波は、明治天皇に講義を行いました。
その時間は、合計33時間に及んだといいます。
これにより、新しい憲法における自らの立場を理解した天皇は、その制定を見守ることに・・・
天皇が全幅の信頼を寄せる侍従に、憲法を学ばせて、天皇に講義を行うことで説得しました。

そして、その翌年の4月・・・46歳の伊藤は、天皇に意見を求める機関として新設された枢密院の議長に就任。
そこで、天皇列席のもと、2か月に及ぶ憲法の審議を行うのです。
これを受けて伊藤たちは、さらに議論を重ね、およそ半年後、全ての条文を作り上げるのです。
言論の自由、臣民の権利が、法律の範囲で保証されることが約束され、帝国議会については貴族院は皇族・華族からなり、衆議院は当選された議員から定められることとなりました。

1889年2月11日、ついに伊藤にとって念願の日を向かえます。
憲法発布の日です。
式典が、この年新しくなった皇居・明治宮殿で行われました。
伊藤が起草を手掛けた大日本帝国憲法は、天皇が黒田清隆首相に手渡しする形で、無事に発布されました。
これにより、日本は東アジアで初めて近代憲法を持つ立憲君主国となったのです。
各地でちょうちん行列が催され、民衆は憲法発布に沸き立ち、万歳三唱を繰り返しました。
その様子を、当時お雇い外国人として日本に来ていた医師のエルヴィン・フォン・ベルツは、こう記しています。

「東京全市は十一日の憲法発布に対し 言語に絶した騒ぎを演じている
 だが滑稽なことに だれも憲法の内容をご存知ないのだ」

ベルツが言うように、民衆の殆どが大日本帝国憲法の中身を知りませんでした。
憲法発布によって、日本が文明国の仲間入りをしたことにただただ喜んだのです。
そんな状況もあってか、憲法発布後、伊藤は各地で公演を行い、憲法の理解を求めて生きました。

この後、三度にわたり内閣総理大臣を務める伊藤は、大日本帝国憲法の精神と立憲政治の定着に邁進・・・
それこそが、自らの使命と信じて。。。

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