1873年、明治政府は崩壊の危機にありました。
際ぢの実力者・西郷隆盛が対外戦争につながりかねない朝鮮への使節派遣を主張・・・
これに対し、盟友大久保利通は内治優先を主張して激しく対立!!
政府は真っ二つに割れました。
いわゆる征韓論危機です。
従来この問題は、西郷・大久保の対立を軸に行われてきました。
しかし、事はそう単純ではありませんでした。
近代化をめぐる岩倉使節団と留守政府の対立、薩摩・長州と土佐・肥前の主導権争い・・・
様々な要因が危機の背後にありました。
そして近年の研究によってキーパーソンとしてクローズアップされてきたのが・・・伊藤博文です。
当時伊藤は、一官僚に過ぎない・・・その彼が、明治日本を左右する政変のキーパーソン??

1857年、足軽の子・伊藤博文は17歳で松下村塾に入門しました。
吉田松陰のもと、幕末に活躍する多くの若者と共に学んだことで、長州藩の若手で注目の存在となります。
この頃の伊藤を評して松陰はこう書いています。

「才能は劣り、学問も未熟、だが性格は素直で、私はとても伊藤のことを愛している
 かなりの周旋家になりそうな」

1863年、23歳の伊藤は、その後の人生を大きく変える決断・・・仲間四人とイギリスに留学をします。
髷を切り、洋装に身を固めた一行の写真が残されています。
伊藤たちは英語を学ぶ傍ら、海軍の使節や造船所などを精力的に見学しました。
巨大な機械が稼働する工場や、煙を吐いて走る蒸気機関車を目の当たりにした伊藤は、西洋文明を導入しなければ日本は生き残れないと悟ります。

しかし、留学はわずか半年で終わりを告げました。
長州が窮地に陥っていたのです。
当時、長州藩は外国勢力の打ち払いいを掲げ、列強の船を次々と攻撃していました。
1864年英米仏蘭4か国艦隊を下関で砲撃、その報復のために4艦隊が下関に襲来・・・
圧倒的な軍事力を前に、長州の砲台は次々と占拠され、破壊されてしまいます。
この危機を前に、帰国した伊藤は通訳としてイギリスとの和平交渉に臨み、賠償金を幕府に肩代わりさせることに成功します。

そんな伊藤の交渉力に目をつけた桂小五郎・・・後の木戸孝允・・・
その頃、長州は幕府との対立を深めており、武器の補給が急務でした。
しかし、幕府は長崎の取引を厳しく監視しており、表立って海外から武器を購入することは困難でした。
木戸は伊藤に、それまで対立関係にあった薩摩藩名義での武器購入を命じます。
この困難な任務を伊藤はやってのけます。
こうして長州の外交を担う存在となった伊藤は、イギリスの外交官アーネスト・サトウたちとの交流を通じ、将来の日本の在り方について交流を深めていきました。
公儀公論の政治体制を目指し、幕府との対決姿勢を深めていきます。

1868年1月、薩摩や徴収を中心とする新政府軍と旧幕府軍とが京都郊外の鳥羽・伏見で激突!!鳥羽・伏見の戦いです。
新政府軍の勝利によって、明治という新時代が始まりました。
薩摩の西郷隆盛や、大久保利通、長州の木戸孝允といった倒幕の中心人物が新政府の政治を実質的に動かすこととなります。

1869年、伊藤は木戸の引き立てで大蔵少輔に就任します。
この時伊藤が立案したのが、大蔵省が中心となって産業を興すというプランです。
伊藤は、中央集権制の下で、強力に近代化を推進することを目指しました。
ところが、その前に立ちはだかったのが、大蔵卿・・・大久保利通でした。
旧薩摩藩との関係の深い大久保にとって、伊藤の改革案は保守的なをはじめ諸藩には到底受け入れられない過激なものに映ったのです。

この年の9月、伊藤は大蔵省から工部省へ・・・
伊藤はいつしか、大久保に西洋文明を理解させなくては日本の近代化は難しいと考えるようになっていきます。
絶好の機会がやってきました。

1871年、不平等条約改正のための使節団派遣が決定します。
使節団の中心は、外務卿・岩倉具視。
そこで伊藤は、政府の中からも・・・と、木戸・大久保の参加を推薦します。
そして実現したのが、薩摩と長州の主導者が共に洋行するという岩倉使節団です。
欧米を見れば、彼等も近代化の必要性を理解するはず・・・果たして伊藤の思惑は的中しました。
舗装された道路沿いに立ち並ぶ石造りの近代建築、電信や鉄道などの最新技術・・・
木戸はその衝撃を次のように書き残しています。
「今の日本が目指す開化と称する者の多くは、皮膚上のものに過ぎない」

大久保も・・・
「英米仏などの開化は、日本とは段違いではるかに及ばない」

帰国後にまとめられた使節団の報告書・「米欧回覧実記」によると、

「議会は必ず上下両院を分かつこと、一つの議会のみで一方局としている国はない」

大久保がたどり着いた結論・・・それは議会制でした。
西洋の進歩の源は、国民の力の結集にあると悟ったのです。
伊藤と大久保は、使節団を通じて急速に接近します。
2人は近代化に向け、方向性を共有したのです。

1873年9月、伊藤は2年近い視察を終え欧米より帰国しました。
待ち受けていたのは思わぬ事態でした。
長州の政治力が、大きく後退していたのです。
使節団不在の中、政権を握ったのが留守政府・・・
太政大臣・三条実美
参議・・・・・西郷隆盛(薩摩)
       板垣退助(土佐)
       後藤象二郎
       大隈重信(肥前)
       江藤新平
       大木喬任
でした。
しかも後藤象二郎・江藤新平・大木喬任の三人は、使節団外遊中に無断で参議に登用されていました。
使節団は、留守政府との間で約定書を交わしていました。

”内地の事務は大使帰国の上 
 大いに改正する目的なれば
 なるたけ新規の改正を要すべからず”

ところが、留守政府はその約束に反して、徴兵令の施行、学制の制定、全国への裁判所設置など大規模な改革を次々と打ち出していきます。
これらをすべて実行すれば、国の財政は破綻する・・・
長州出身の大蔵卿・井上馨は、江藤らの政争に敗れて辞任していました。
さらに、陸軍太輔・山形有朋は汚職事件に巻き込まれてしまい失脚・・・
長州の政治力は一気に低下してしまいました。
そのタイミングで勃発したのが”征韓論問題”です。
きっかけは国交を求める日本の現地高官に朝鮮側が張り出した掲示でした。

”近年日本人は、制度や衣服、風俗を西洋風に改め、昔からの法を変えようとしている
 さながら無法の国というべきである”

1873年8月、この問題を巡って、留守政府で閣議が開かれます。
閣議を主導したのは、参議・西郷隆盛でした。

「まず朝鮮に使節を派遣して談判すべきだ
 その任には、自ら当たる所存である」

これに、板垣、江藤ら土佐・肥前出身の参議が賛同・・・
閣議は西郷に大きく傾いて行きます

8月17日、三条実美は、岩倉達帰国後に再び評議することを条件に、西郷の朝鮮派遣を閣議決定。

一見、平和的に見える使節派遣・・・
しかし、後に西郷が提出した文書から、極めて危険な計画だったことが読み取れます。

”朝鮮側が暴挙に出た場合、初めてその罪を問うべきである”

緊張状態にある朝鮮に乗り込んだ西郷が殺されれば、開戦の絶好の口実になる・・・
使節派遣は対外戦争をも視野に入れた計画だったのです。
ひとたび開戦となれば、膨大な戦費がかさみ、国内の近代化どころではなくなってしまう・・・!!
伊藤は状況を打開する為に、密かに動き出しました。

”明治六年征韓論一件”にはこう書かれています。
明治6年9月27日の岩倉具視宛の手紙には・・・

「朝鮮問題の解決は、大久保さんでなければ成功は難しい・・・
 参議就任のこと、今一度ぐらいではなく百度でも御説諭すべきです」

征韓論阻止のためには、大久保を参議にして戦ってもらうしかない・・・伊藤はそのために岩倉を動かそうとしました。
2日後、岩倉は伊藤にこう返信しています。

「今朝、大久保のところに出向き、百方懇願した」

2人の策は功を奏し、岩倉に対し大久保はついにこう表明します。

「命がけで参議就任をお引き受けする」

岩倉、大久保、そして伊藤・・・西郷の派遣阻止に向け、三人の戦いが始まりました。

1873年10月14日・・・
岩倉使節団帰国後、初めての閣議が開かれました。
メンバーは、太政大臣・三条と右大臣・岩倉、留守政府側の参議には西郷を筆頭に土佐の板垣、後藤、肥前の江藤、大隈らが顔を連ねます。
使節団側の参議は大久保一人・・・木戸は帰国後体調がすぐれず欠席していました。
閣議の様子は・・・

岩倉と三条が、朝鮮の西郷を派遣するのは延期すべきだと主張。
ほとんどの参議は、これに同意しました。
8月の閣議で、西郷を派遣を決めた三条でしたが、岩倉に説得され考えを変えていました。
三条が意見を翻したことで、留守政府の参議も派遣延期で妥協しようとしましたが・・・
西郷が納得しません。
決まったことだとあくまで即時派遣に固執し、強硬に反論しました。
先の閣議で派遣を認めた手前、留守政府の参議も延期論を捨てざるを得ない・・・

10月15日、閣議が再び開かれ、そこで決着がつきます。
三条実美が、またもや考えを変え、西郷の即時派遣を決定。
この決定を受け、岩倉と大久保、木戸は辞意を表明。
慌てた三条は、西郷に派遣の撤回を求めるものの、西郷は、頑として受け入れませんでした。
板挟みとなって追いつめられた三条は、極度のストレスで卒倒し、一時意識不明に・・・!!

この間、閣議に参加できない伊藤は、この政局を不安と共に見守っていました。
留守政府と共に近代化??それとも岩倉と大久保を支える・・・??
このまま留守政府側が進める西郷の朝鮮の派遣を認めるのか?
それとも岩倉・大久保と共に、逆転への賭けに打って出るのか??

伊藤の選択は、あくまで岩倉と大久保を支えることでした。
しかし、そのためには既に、使節派遣の閣議決定を覆さなければなりません。
果たして、伊藤はどうする・・・??

「大久保利通日記」によると・・・
三条が倒れた2日後の10月19日には、
”他に挽回の策なしと言えど、ただ一の秘策あり”と書かれています。

ただ一の秘策とは・・・??
三条の倒れた今、岩倉が太政大臣の正式な代理となって太政大臣としての実権を握り、その権限で使節派遣をやめさせるというのです。

10月20日、明治天皇が岩倉邸を訪れ、岩倉に直々にこう伝えます。

”太政大臣に代わり朕が天職を輔けよ”

岩倉を太政大臣内裏にするという秘策・・・伊藤博文が動いていた・・・??
その根拠の一つが大久保の”一の秘策”の前日の日記です。
この日、大久保宅を訪問した伊藤は、さらにその後、岩倉邸にも回っています。
両者の間で秘策の根回しを行っていたのです。

10月23日、岩倉は、使節派遣、派遣延期、二案を上奏します。
天皇の答えは、既に決まっていました。

「国政を整え、民力を養い、つとめて成功を永遠に期すべし
 汝 具視が奏上 朕 これを嘉納す」

西郷の派遣は中止され、それを受けて征韓派の参議5人は辞職しました。
征韓論をめぐる対立は、使節団側の勝利に終わったのです。

政変後・・・
1873年10月25日、伊藤は工部卿に就任します。
産業を興し、民力を育てることに手腕を発揮します。
その一つが生野銀山です。
当時、生野銀山は、採掘技術の限界から産出量が激減していましたが、伊藤率いる工部省は、静養の技術を導入することで増産を図りました。
ここで、日本初の産業道路ができています。

政変から12年後の1885年、伊藤博文は初代内閣総理大臣に就任。
1890年には第1回帝国議会開会。
そこでは貴族院と衆議院という二院制が取られ、近代国家の枠組みが整えられました。

1900年には立憲政友会を結成。
国民の声を政治に反映させることに力を注ぎます。
岩倉使節団で育んだ夢を、伊藤は終生追い続けたのです。

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