時は戦国の世・・・1578年3月9日!!
越後の龍と恐れられた上杉謙信が、突然倒れ、そのまま目を覚ますことなく4日後に亡くなりました。
生涯独身を貫いた謙信には、実子がなく、いたのはふたりの養子・・・景虎と景勝でした。
後継者を明言しないまま急死・・・!!

越後国の戦国大名・上杉謙信の養子で義兄弟だった上杉景虎と景勝・・・
兄にあたる景虎は、1554年相模国を治める北条氏康の七男として生まれたといわれています。
元の名は、北条三郎。
その頃の北条は、上杉の宿敵・甲斐の武田と同盟を組んでいたこともあり、上杉とは敵対関係にありました。
ところが、1568年・・・北条氏康は、外交政策の大転換を図り、武田との同盟を破棄、上杉と同盟を結ぶことにします。
その2年後・・・謙信は同盟の証として北条から差し出された養子を迎え入れます。
それが、当時17歳の三郎でした。
三郎が謙信の養子に選ばれたのは・・・??
当時は、四代当主・氏政の次男を送ろうとしていました。
しかし、幼く、他国に遣わすのには心苦しい・・・そして見直されたのが三郎でした。
三郎と同じ年頃の姪のいた謙信・・・2人を結婚させれば同盟がより強固となると考えたのです。
こうして三郎を越後に迎えた謙信は、姪の清円院と祝言をあげさせます。
そして、自身の若い頃の名である景虎を与えて上杉景虎を名乗らせます。
景虎は、謙信の居城だった春日山城の三ノ丸に住むこととなりました。
結婚の翌年には、道満丸が生まれ、謙信は初孫の誕生をとても喜んだといいます。
景虎が、後継者候補の筆頭であることは誰の目にも明らかでした。

謙信が、景勝をもう一人の候補にした理由は・・・??
それは、景虎の実家である北条氏にありました。
景虎が謙信の養子となった翌年の1571年、景虎の実父である氏康が死去・・・
すでに家督を継いでいた次男の氏政(景虎の実兄)が、全権を握ります。
氏政は、上杉と同盟を結んでいながら、水面下で武田家との関係回復を試み、再び同盟を結ぶのです。
そこにはこんな狙いがありました。
武田と改めて同盟を結ぶのは、上杉と喧嘩をしたいのではなく・・・
氏康は、北条・武田・上杉の三国同盟を考えていたのです。
しかし、北条と手を組んで武田を討つつもりでいた謙信にとっては、裏切り以外の何物でもありませんでした。
すぐに手切れの書状を送り、北条との同盟を破棄!!
これに、誰より驚き、嘆いたのが他ならない景虎でした。

「同盟の証だった自分は、もはや不要か・・・」

裏切り者の北条の血をひく自分は、殺されても仕方がない・・・少なくとも追放はされるだろうと諦めました。
ところが、謙信は、景虎を養子という立場のまま越後国に留め置いたのです。
謙信は、節義を重んじる武将・・・
被害者である景虎をさらに追い込むようなことはしたくはなかったのです。
その時には、道満丸が生れていて、引き裂くのは良くないのでは・・・??
この謙信の情愛に感謝した景虎は、それまで使っていた北条一門の花押から謙信に倣った花押に変えています。

「自分は上杉家の後継である」という自負の表れでした。

しかし、北条家出身の景虎が後継者候補であり続けることに不安を感じる家臣も少なからずいました。

「景虎さまが当主となれば、再び北条と手を結び、北条に刃を向けた我らに厳しい制裁を加えるかもしれぬ・・・!!」

こうした家臣たちの声に謙信は、

「景虎が後継のままでは何かと不都合が生じるやもしれぬな」

そんな中、1574年、景虎の運命を決定づける事件が起こります。
上杉と北条が争奪戦を繰り広げていた関宿城が、北条の手に落ちたのです。
関宿城は戦略的に重要で、利根川の水運の要所でもあり、経済的にも軍事的にも非常に重要でした。
北条氏康も重要視しており、
「この城を獲ることは一国を獲ることに等しい」と主張していました。
これを奪われてしまった・・・
関宿城が北条の手に落ちたことで、謙信は大きな戦略転換を余儀なくされます。
それが、景勝を迎え入れることでした。

1555年に生まれた景勝は、景虎より1歳年下でした。
元の名を顕景(喜平次)といい、父は越後国・長尾政景・母は謙信の姉でした。
顕景10歳の時に、実父の政景が湖で溺死・・・
叔父である謙信に引き取られ、我が子のようにかわいがられました。
十代後半で実家に戻り、上杉家の主力部隊・上田衆の長として軍事活動に従事、1575年21歳で再び謙信の養子となりました。
謙信は顕景に上杉姓を与え、上杉景勝を名乗らせ、自身の官職である弾正少弼を譲ります。
さらに、春日山城である謙信の尊称・御実城様によく似た御中城様という呼び名を与え、その御中城様を筆頭においた家臣団の名簿を新たに編纂しました。
これまた破格の厚遇でした。

謙信は、家臣たちの不安を払拭し、反北条の士気を高めるために、戦の経験豊富な景勝をもう一人の後継者候補にしたのです。
しかし、どちらが後継者候補の筆頭なのか?明言はしませんでした。
こうして二人の養子を得た謙信は、1577年、北陸方面をほぼ平定。
さらには、手取川の戦いで織田信長軍を撃退!!
越後の龍ここにありと、その名をとどろかせ、関東平定に乗り出そうとしていました。
ところが・・・1578年3月9日、突如倒れます。
通説では脳卒中で、そのまま一度も目を覚ますことなく、4日後に息を引き取ったといわれています。
そのため謙信は、後継者の名を言い残すことが出来ませんでした。
そのため、景虎と景勝による御館の乱が勃発したといわれてきました。

謙信は、家督を誰に譲るつもりだったのでしょうか?
景虎と景勝に分割譲渡するはずだった?
後継者を決めていなかった?
江戸時代から多くの意見が交わされてきました。
後継者を自分の言葉で伝え残したのでは・・・??
辞世の句も残っているので、脳卒中でそのまま・・・というのは考えにくいのでは??

”景勝が後継者で・・・しかしそれは中継ぎで、後々は道満丸に・・・”

景虎にしても景勝にしても、上杉家が分裂する可能性は高く、道満丸ならばどちらも納得のいく選択だったのでは・・・??

新潟県阿賀町・・・平等時薬師堂は、重要文化財にも指定されている県内最古の木造建築の一つです。
興味深いのは、非公開となっている堂内です。
戦国時代から江戸時代に書かれたといわれている落書きが、今もそのまま残されています。
中でも注目すべきは、御館の乱が起こった頃の兵士の落書きです。

”謙信様の御頓死で三郎殿(景虎)と喜平次殿(景勝)が御名代を争い、越後中が大混乱となった”

御名代=幼い当主に代わって政務を行う後見人のことです。
つまり、景虎と景勝は、道満丸が成長するまでの後見人を争って兄弟げんかをしていたというのです。
景勝軍が、景虎の屋敷を鉄砲で撃ったとよく言われますが、発砲した痕跡は何も残っていません。
謙信が亡くなった直後の書状にも、景虎と景勝の争いは一切書かれていません。
謙信の死後すぐには争っていないのでは・・・??
どうして御館の乱は起こったのでしょうか?
そのきっかけを作ったのは、会津の戦国大名・蘆名盛氏です。
盛氏は非常に好戦的で、謙信の死後上杉家に弔問の使者を送りつつ、その裏で越後侵略の準備を進めていました。
この盛氏の動きに一早く気付いたのが、上杉家の古参の重臣・神余親綱です。
親綱は三条城で厳戒態勢を敷き戦に備えますが、急を要する事態だったため、景勝には未報告でした。
すると、景勝はこの親綱の単独行動に不信感を抱きます。

「弔問の使者まで奇越してくれた蘆名殿が、侵略など考えるものか・・・
 親綱め・・・何か謀か?」

景勝は、家督を相続したばかりでナーバスになっていました。
あらぬ疑いをかけられてしまった親綱は、謀などもってのほかと弁明・・・
しかし、景勝は聞く耳を持たず、さらに強気に出ます。

「ならば、中世の証である誓詞を差し出すのじゃ」

長年上杉家に忠誠を尽くして来た親綱にとって、これほど屈辱的な命令はありませんでした。
憤慨した親綱は、自分に全く非はないと強く主張し、誓詞の提出を拒否!!
すると、そうこうしているうちに蘆名盛氏が、越後に攻め込んできたのです。
近くにいた上杉軍が、すぐに応戦し蘆名軍を撤退させましたが、これで親綱の判断が正しかったことが証明され、景勝の面目は丸つぶれ・・・家臣たちの信望を、一気に失ってしまいました。
重臣たちは口々にこう言いました。

「景勝さまではダメだ」

とはいえ、当主と重臣が仲たがいしたままではダメだ・・・と、謙信の義理の父上杉憲政らが二人の仲介役を買って出ますが、どちらも一歩も引かず・・・5月1日、神余親綱が景勝から離反!!
仲介役を務めた憲政らも、あまりにも頭の固い景勝を見限り、代わりの当主を立てようと動き出しました。
代わりの当主・・・それは、外ならぬ景虎でした。
織田と対立している今、東国とはあまり対立したくない・・・
ところが、景勝は強硬派・・・そう考えると、景虎だと北条は味方になってくれるかもしれない・・・武田も、味方になってくれる・・・その時、上杉家の当主は景勝ではない方がいい・・・!!
しかし、ことは簡単ではありませんでした。

「新たな当主として名乗りを上げれば、景勝との争いは必至
 御実城様(謙信)の遺言に背くことにもなる
 だが、家臣たちの信頼を失くした景勝が、当主として相応しくないのも誠のこと」

思い悩んだ末、景虎は、景勝に代わって当主になることを決意しました。
こうして戦国最大の兄弟げんか・御館の乱が勃発することとなったのです。

中継ぎ投手の座を巡って、ついに争うこととなった景虎と景勝!!
景虎方には、景勝と決裂した神余親綱・謙信の義理の父である上杉憲政・本庄秀綱・多くの上杉一門衆
景勝方には、直江信綱・斎藤朝信・河田長親・謙信以来の側近や旗本
がつきました。
両軍の戦力はほぼ互角!!
まさに越後を二分した内乱でした。
そして、謙信の死から2か月後・・・1578年5月!!
春日山城の一口にある大場で、両陣営が激突!!
景勝方は、春日山城の本丸から三ノ丸へ攻撃!!
すると、5月13日ごろ、景虎は長男の道満丸と数十人の家臣をつれ、春日山城から4キロほど離れた御館に移ります。
御館は、謙信が義理の父の上杉憲政のために立てた屋敷で、単なる邸宅ではなく堀などを備えた城塞だったといわれています。
ここを本拠とした景虎は、16日、桃井義孝を大将とするおよそ6000の大軍で春日山城を襲撃!!
桃井たちは、本丸めがけて一気に突き進みますが・・・道幅の狭い門の手前で猛攻を受けると、進も退くもできずに大混乱!!
桃井をはじめ、多くの兵を失ってしまいます。
景虎は、すぐに体制を立て直し、再び春日山城を攻めましたが、結果は同じ・・・景虎方の惨敗でした。

長期戦しかない・・・が、自分に軍事力があるわけではない=北条に助けを求めました。
しかし、景虎の実兄・北条氏政は、北関東で対抗勢力と交戦中・・・援軍を送ることが出来ません。
そこで氏政は、同盟を結んでいた武田勝頼(妹を嫁がせているので義兄弟)に景虎の援軍を要請します。
これに応えた勝頼は、2万の大軍と共に越後国へ向けて出陣!!
援軍来たれりという知らせを受けて景虎は息を吹き返し、さらに5月29日、会津の蘆名盛氏と軍事提携を結びます。
これで、兵力の上では景虎の圧倒的優位となりました。
しかし・・・景勝が秘策に打って出ます。

6月初旬、景勝は武田勝頼のもとへ使者を派遣します。
すると、使者の言葉を聞いた勝頼は侵攻を停止します。
自分は謙信の跡継ぎとして持っているものがある・・・勝頼への金銭と領土の割譲で手を打ちました。
手伝い戦で乗り気ではない勝頼に、金銭と土地を与えて戦闘を回避したのです。
景勝は、これに失敗したら終わりという危機感がありました。
これが上手くいかなければ、御館の乱で負けたのは景勝だったでしょう。

北条にも顔をたつように、勝頼はふたりを和睦させます。
勝頼の仲介によって一度は和睦した景虎と景勝・・・
勝頼が甲斐国に戻ってしまうとすぐに破綻!!
再び刃を交えます。
そして、同じ年の9月、北関東での戦いを終えた北条氏政は、景虎の援軍として2人の弟を越後国に派遣!!
北条軍は、景勝側の城を立て続けに落とし、春日山城の支城である坂戸城にも攻めかかります。
景勝方も必死に交戦し、双方多数の死傷者を出す激戦となりました。

春日山城の支城である坂戸城を景虎の援軍である北条軍に攻め込まれていた景勝は・・・待っていました。
それは雪!!

「相模と越後を結ぶ三国峠は雪深い地
 雪が降れば、北条は退路を断たれる前に必ず兵を退くはず・・・!!」

その読み通り、10月、雪が降り始めると、北条軍は坂戸城を落とせぬまま無念の撤退!!
まもなく越後国は深い雪に閉ざされました。
景虎と景勝は、自らの勢力だけで戦うこととなります。
こうなると、磁力に勝る景勝方が有利!!
景虎方から景勝側に転じる武将も多く現れました。
そして迎えた1579年1月・・・

「御館を討ち果たす!!」

そう宣言した景勝は、二度にわたる御館への総攻撃で景虎方の武将を次々に討ち果たし、遂には御館の周辺に放火!!
一面焼け野原となりました。
景虎方についていた上杉憲政は、景虎の長男・道満丸をつれて御館を脱出!!
景勝との和議を求めて春日山城へと向かうのですが、その道中、景勝の直臣によって二人とも斬殺されたといいます。
道満丸は、まだ9歳でした。
この時、景勝は武田勝頼の妹・菊姫との結婚が決まっていました。
道満丸がいることで再び争いになる・・・!!

一方、景虎も多くの家臣と共に御館を脱出!!
鮫ヶ尾城に逃げ込んだものの、すぐに取り囲まれてしまいました。

「もはやこれまで!!」

1579年3月24日、上杉景虎自刃・・・謙信の死からおよそ1年後のことでした。

そして景虎の死を知った兼勝は・・・

「去年以来の鬱憤を散じ候
 定めて大慶となすべし」

しかし、景虎の首を見て涙したといわれています。

こうして義理の兄に勝利し、名実ともに上杉の当主となった景勝
反景勝派の抵抗は、その後1年近く続きました。
この戦いで双方多くの兵を失い、その軍事力は著しく低下していました。
織田信長などの軍事侵攻に苦しめられることとなります。
また、恩賞の配分を巡っても景勝が自身の腹心をあからさまに優遇したことで不満が続出!!
終には、恩賞の配分を不服とした乱が勃発!!
平定するまでにおよそ7年を擁し、国力をさらに低下させてしまいました。
越後の龍・上杉謙信が築き上げた上杉家の勢力と威信は、謙信が後継者とした二人の兄弟げんかによって失われてしまったのです。
さらに、御館の乱は、戦国の勢力図を大きく塗り替えてしまいました。
武田勝頼が景虎の援軍という北条氏政の依頼を反故にしたため武田と北条の同盟が破たん!!
まもなくして北条が織田・徳川軍と手を結んだことで武田は三方を敵に囲まれてしまいます。
勝頼が頼れる相手は景勝だけでしたが、上杉に武田を助ける力はすでになく・・・

1582年武田氏滅亡。

織田・徳川・北条の甲州征伐によって・・・!!
上杉・武田の脅威がなくなったことで、戦国の世に新たな風が吹くこととなったのです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

<上杉家と戦国時代>景勝VS景虎 血で血を洗う上杉家の家督争い (歴史群像デジタルアーカイブス)

新品価格
¥105から
(2020/6/8 14:44時点)

越後激震、御館の乱: 上杉謙信の後継者をめぐる内戦 (歴史ソウゾウ文庫)

新品価格
¥99から
(2020/6/8 14:45時点)