大阪高槻市に、今、注目の古墳があります。
今城塚古墳・・・二重の堀を含めた全長350mという巨大な前方後円墳です。
堀の外には、長さ50メートルにわたって、様々な埴輪が並びます。
武人、力士、巫女などおよそ200体・・・葬られた人物の権力の大きさを物語っています。
この古墳の主を多くの研究者は継体天皇と考えています。
6世紀初めの天皇で、聖徳太子の曽祖父に当たります。
継体天皇は、極めて異色の天皇でした。
出身は、権力の中心・大和からほど遠い北陸・・・先代天皇との血縁も薄かったのに、大和の豪族たちに即位を求められたのです。
一体どうして地方の王族が天皇になれたのか??
いかなる人物だったのでしょうか??

まだ日本が倭国と呼ばれていた506年・・・大和政権は、大きな危機の中にありました。
日本書紀にはこう記されています。

”武烈天皇が崩御した
 ところが、天皇には息子も身近な親類もおらず、後継者候補がいなくなってしまった”

政権の中枢である天皇になる人がいない・・・まさに、大和政権崩壊の危機でした。
そんな危機が起きた理由は、武烈天皇の4代前、雄略天皇の時代にありました。

日本書紀には・・・

”雄略天皇は、誤って人を殺すことが多かった
 人々は、大悪の天皇であるといった”

雄略天皇は、自らが天皇になるためにライバルを次々と殺していきました。
その為、後継者候補は極端に少なくなり、武烈天皇の代で遂に跡継ぎがいなくなってしまったのです。
大和政権を支える有力豪族・・・大伴金村、物部麁鹿火は、後継者探しに奔走します。
そこで、ある人物の名前が上がります。
2人が白羽の矢を立てたのは男大迹王・・・亡くなった武烈天皇とははるかに遠縁の人物でした。
武烈天皇の5世代前の応神天皇の代に別れた家系の五代目・・・
さらに、男大迹王は、そのプロフィールも異色でした。
生れたのは、大和から離れた近江の北部、父の死後、母の故郷・越前に移り、その地を治めていました。
年齢は57歳、当時としては高齢でした。
どうしてこんな異例の男大迹王が後継者に選ばれたのでしょうか?

琵琶湖の西岸に位置する滋賀県高島市・・・男大迹王の故郷に当たるこの地の調査では、男大迹王の父・彦主人王の墓(田中王塚古墳)が発見されています。
5世紀後半の築造とされています。
大きさは直径58m・・・この地域で最大級の大きさで、高島の中で突出して規模が大きいのです。
高島では100年間に70基もの古墳が相次いで造られました。
その中で、田中王塚古墳は最大で、長年にわたって地域を治める、近江の有力豪族だったことが分かります。

日本書紀によると、近江で生まれた男大迹王は、その後、母親の故郷・越前を治めたといいます。
近江と越前の豪族を従える王に成長していたことが伺えます。
さらに、男大迹王を支えていたとされるのが、尾張の大豪族・尾張連です。
当時、尾張では東海地域最大級の断夫山古墳を始め、巨大な古墳が数多く作られていました。
その尾張の大豪族の娘を男大迹王は妃にしていたのです。
近江、越前、尾張・・・広大な地域の豪族たちに支えられていたことこそ、男大迹王が大和政権の新たな主に選ばれた理由でした。
男大迹王の力の源はそれだけではありませんでした。
故郷高島にある鴨稲荷山古墳には、男大迹王の親族が葬られた石の棺の中から金で出来た靴や冠が出土しています。
これらは朝鮮半島からもたらされたものと思われます。
伽耶、百済の王墓から出てくる物に非常に近いのです。
この朝鮮半島とのつながりも、後継者に選ばれた要因の一つではないかと思われます。
5世紀以降、越前、近江、若狭といった日本側沿岸地域は、朝鮮半島との交流が非常に活発でした。
継体天皇の基盤には「対外交渉」朝鮮半島とのつながりがあったのではないか?と思われます。

朝鮮半島には、男大迹王と密接な関係を持った人物がいました。
朝鮮半島西側の国・百済の武寧王です。
武寧王は、北の強国・高句麗の攻撃を撃退し、20年以上にわたって王として君臨した古代朝鮮の実力者です。
その武寧王が、男大迹王に送ったとされる品が残っています。
和歌山県・墨田八幡神社に伝わる国宝・人物画像鏡です。
この鏡の背面に、興味深い銘文が刻まれています。
送り主の名は斯麻=武寧王、男大迹王の長寿を祝ってこの銅鏡を送るとあります。
送った年は503年・・・男大迹王が後継者に選ばれる前です。
つまり、男大迹王は即位前から百済の武寧王とつながりを持っていたと考えれます。
日本書紀には、地方にいた王族とだけ記されている男大迹王・・・しかし、その実像は、各地の豪族と朝鮮半島の百済に支えられる大実力者だったのです。

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遠く離れた越前の地から武烈天皇の後継者に選ばれた継体天皇・・・
507年に即位します。
しかしなぜか、政権の本拠地に入ることはありませんでした。
最初に宮を築いたのは・・・507年樟葉宮・・・琵琶湖から流れる淀川のほとりでした。
継体天皇はここで即位し、およそ5年過ごすことになります。
その後も・・・511年筒城宮、518年弟国宮・・・と相次いで宮を築きますが、いずれも大和ではありませんでした。

日本書紀にはこう書かれています。

”継体天皇は、内心、自分が選ばれたことに疑いを持っていた”

これは、即位に反対する勢力がいると考えていたと読み取れます。
この頃、大和の豪族たちは大きく東西の二つの勢力に分かれていました。
継体天皇を推挙した大伴・物部など大和盆地の東に基盤を持っていました。
西側には、彼らと一線を画す葛城氏の拠点となっていました。
全長200m近い大型の古墳が連なる馬見古墳群・・・これらは、葛城氏が築いたものとされています。
継体天皇の10代前、仁徳天皇の頃から天皇の后を出し続けており、彼らが新参者の即位に反対し、継体天皇の大和入りを阻んでいたとも考えられます。

それとも、敢えて大和に入らなかった・・・??
大阪府交野市には森遺跡があります。
そこからは、継体天皇が即位したころの鍛冶工房跡が見つかっています。鉄を加工する鍛冶炉・・・炉に風を送る鞴の一部も見つかっています。
この辺りは、古墳時代の鉄器を加工していた遺跡が東西2キロ、南北500mの範囲で見つかっています。
6世紀に入って、鉄器加工を集中的に行っていた場所です。
当時、倭国に製鉄技術はなく、朝鮮半島から輸入した鉄の地金を加工して使っていました。
戦略物資である鉄器生産の中心地が、継体天皇最初の地・樟葉宮の近くにあったのです。
その後、継体天皇は拠点を移し二つの宮を築きましたが、いずれも淀川水系にありました。
淀川は、大阪湾にそそいでおり、そこから瀬戸内海を通じ九州から朝鮮半島につながる・・・
南部の伽耶は、倭国が輸入する鉄の産地でした。
継体天皇は、戦略物資である鉄の輸入ルートと加工の場を共に手中に収めていたのです。

526年、継体天皇はようやく奈良に入り、奈良盆地南東部に磐余玉穂宮を置いて、名実ともに大和の大王となりました。
即位から20年近くも後のことです。

ようやく大和入りした継体天皇・・・
倭国の王として混乱する国の立て直しを行うこととなります。
しかし、その前には大きな問題が立ちはだかっていました。
舞台は九州・・・!!
北部九州最大の岩戸山古墳・・・墳丘の長さは138m、高さ20m・・・6世紀前半の古墳としては、全国有数の規模を誇ります。
この古墳の主は筑紫君磐井・・・継体天皇と同じ時代、北部九州一帯に勢力を誇ったとされる豪族です。
磐井の本拠地は、現在の福岡県八女市・・・八女古墳群と呼ばれる300もの古墳が点在し、岩戸山古墳はその中心に位置しています。
磐井の力を示すのは古墳の大きさだけではなく・・・古墳の周りの埴輪・・・岩戸山古墳は埴輪ではなく石で作られた”石人石馬”と呼ばれるもので、古墳の周りに配置されていました。
岩戸山古墳からは、石製品が100点以上も見つかっています。
石工・・・石製品を作る職人集団を九州中から集めていました。
北部九州を掌握していた磐井は、大量の石人石馬を並べ、自らの威厳を誇示するようになっていました。
そんな磐井の勢力は、九州だけにとどまりませんでした。
朝鮮半島とも結びついていたのです。
岩戸山古墳にほど近い古墳では伽耶系の耳飾りが、磐井と関係の深かった久留米の古墳では新羅系の土器が見つかっています。
百済、新羅、伽耶・・・様々な社会と複数のパイプを持つ有力者・・・
衰えた大和政権の立て直しを図る継体天皇・・・
九州で自立の動きをする磐井にどう向き合うべきか・・・??

磐井と手を組む・・・??
それとも、見せしめとして磐井を滅ぼす・・・??
どうする・・・??

継体天皇が葬られたとみられる今城塚古墳・・・
墳丘の長さは、磐井の墓の1.4倍、当時最大級の古墳です。
ここで彼の選択にまつわるものが発見されました。
それは、今城塚古墳から大量に出土した円筒埴輪・・・船の絵が意識的に書かれています。
三日月形の船体に2本マストが立っています。
これは、大型輸送船をモチーフに書いていると思われます。
古代最大の兵員輸送・・・6万人の兵を送り届ける!!
継体天皇の選択は、磐井を滅ぼすでした。

527年~528年、磐井の乱。
6万人もの兵を導入して、磐井との戦いに乗り出しました。
大将軍・物部麁鹿火率いる軍勢が、磐井の軍と筑紫三井郡で激突!!
結果は大和軍の圧勝でした。

”天皇の命に従わず、無礼であった磐井を物部らは殺した
 官軍の怒りは収まらず、石人の手を打ち折り、石馬の頭を打ち落とした”

今城塚古墳からは、戦いの後、継体天皇の力が全国に及んでいたことを示すものが発見されています。
阿蘇ピンク石は九州で採掘され・・・赤い顔料(水銀朱)がついていて、神聖な色でしばしば石棺に塗布されています。
はるか遠くにある石をどうして使ったのか・・・??
阿蘇ピンク石の産地である熊本県宇土市・・・馬門石と呼ばれています。
自分の権力や財力を、いかにして見せつけるのか・・・??

「我々は、あんな遠い勢力とつながりがある
 重いものを運んでくれる
 それほど自分達には力がある」

と、誇示したかったのです。

運ぶことによって、40~50カ所の豪族が受け入れる・・・王権の一翼を担っていると認識できます。
九州全体が自分になびいていくきっかけにもなります。
継体天皇にとって、大事な契機となりました。

磐井を倒し、大和政権の立て直しに成功した継体天皇・・・
日本書紀では磐井を倒して3年後の531年に崩御。

今城塚古墳では、発掘の結果200体もの埴輪が50mにわたって並んでいたことが分かっています。
強大な権力を手にした大王を送る厳かな儀式のありさまを伝えています。

地方からスカウトされ、衰えた大和の力を復活させた継体天皇・・・
今、その実像に新たな光が当てられています。


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