昭和17年に、一人の若者が書いた詩・・・

ぼくも戦に征くのだけれど

街はいくさがたりであふれ
どこへいっても征くはなし
勝ったはなし
三ヶ月もたてば
ぼくも征くのだけれど
だけど
こうしてぼんやりしている

ぼくがいくさに征ったなら
一体ぼくはなにするだろう
てがらたてるかな

だれもかれも
おとこならみんな征く
ぼくも征くのだけれど
征くのだけれど

なんにもできず
蝶をとったり
子供とあそんだり
うっかりしていて戦死するかしら

そんなまぬけなぼくなので
どうか人なみにいくさができますよう
成田山に願かけた

作者は竹内浩三・・・太平洋戦争の激戦地・フィリピンで戦死しました。
23歳の若さでした。
彼は、その短い生涯の中で、たくさんの詩を書き残しました。
戦後、遺族によって作品集が生まれ、多くの人に読まれるようになりました。

ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死 (中公文庫) [ 稲泉連 ]

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銭湯へ行く
麦畑をとおる
オムレツ形の月
大きな暈をきて
ひとりぼっち
熟れた麦
強くにおう
かのおなごのにおい
チイチイと胸に鳴く
かのおなごは
いってしまった
あきらめておくれと
いってしまった
麦の穂を噛み噛み
チイチイと胸に鳴く


戦時下にあってもみずみずしい言葉に満ちた言葉・・・
それは、どこから生まれたのでしょうか??

竹内浩三は、三重県から出てきて高円寺に下宿していました。
彼が通っていた日本大学専門部映画科は、当時映画制作を学ぶことができる唯一の学校でした。
その頃の日本は、中国大陸でいつ終わるかもわからない戦争を続けていました。
若者たちは、次々と戦地に送られていたのです。
しかし、学生である浩三は、実家からの送金で映画を見たり、音楽を聴いたり、芸術三昧の生活を送っていました。

学生時代、浩三は4歳違いの姉・こうに宛てて頻繁に手紙を書き送りました。
すでに結婚していた姉・・・思春期に相次いで両親を亡くした浩三にとって、たった一人の肉親でした。
レポート用紙や原稿用紙に綴られた手紙は、時に日記替わりであり、時に作品発表の場でした。
そして、いつも金の無心で結ばれていました。

手紙には恋の話もよく書かれていました。
恋の話と言えば聞こえはいいものの、その実、すべて失恋話でした。


あきらめろと云うが

かの女を人は
あきらめろと云うが
おんなを 人は
かの女だけでないと云うが

おれには遠くの田螺の鳴き声まで
かの女の歌声に聞こえ
遠くの汽車の汽笛まで
かの女の溜息にきこえる

それでも
かの女を 人は あきらめろと云う


竹内浩三は、大正10年、三重県宇治山田市・・・今の伊勢市に生まれました。
実家は豪商として知られた呉服店・・・天文学が好きだった父と映画好きの母との間で伸び伸びと育ちました。
浩三が中学時代に熱中していたのが、漫画でした。
普通に書くだけでは飽き足らず、左手で書いたり、口で書いたり、足で書いたり・・・
浩三の漫画は、同級生の間で大人気!!
手書きの漫画回覧誌を一人で発行していました。
有名人の似顔絵シリーズ、四面楚歌をもじった「四面軍歌」、浩三は思ったこと、感じたことを、時に風刺を聞かせて描きました。

浩三は、軍事訓練が大の苦手でした。

昭和15年、浩三は1年の浪人を経て日大専門部映画科に入学・・・
学生生活をスタートさせます。
毎日映画を見、そのシナリオを研究し、自らオリジナルの脚本を書いていました。
そして、恋をしてはふられていたのです。

昭和15年9月、日独伊三国同盟調印・・・
アメリカ、イギリスとの対立を深めていきます。
学生たちが参加する野外連合演習も本格的なものになっていきました。
浩三の学校でも、軍事演習が行われました。

昭和16年10月・・・政府は専門学校生を繰り上げ卒業させることを決定。
浩三たちは、一年後には兵隊になることが決まりました。
その2か月後・・・昭和16年12月8日、真珠湾攻撃!!
太平洋戦争に突入します。


冬に死す

蛾が
静かに障子の桟からおちたよ
死んだんだね

なにもしなかったぼくは
こうして
なにもせずに
死んでゆくよ
ひとりで

生殖もしなかったの
寒くってね

なんにもしたくなかったの
死んで行くよ
ひとりで

なんにもしなかったから
ひとは すぐぼくのことを
忘れてしまうだろう

いいの ぼくは
死んでゆくよ
ひとりで

こごえた蛾みたいに

昭和17年5月・・・浩三は伊勢に帰郷しました。
徴兵検査を受けるためです。
結果は「甲種合格」・・・
入営は5か月後の10月1日と決まりました。
自由に暮らせるのもあと5ヶ月・・・

徴兵検査から戻った浩三は、1か月もたたないうちに新しいことを始めました。
昭和17年6月1日、友人たちと同人誌「伊勢文学」を創刊したのです。
発行部数十数冊の手作り文芸誌は、詩や随筆を掲載、第3号までは浩三が編集し、毎月発行しました。
同人は、中学時代の仲間たちです。
浩三は創刊号のあとがきにこう記しました。

見た通りこの雑誌は貧弱なものである
ぼくたちは、もっともっと勉強してこの伊勢文学をますますいい雑誌にしよう
ぼくたちは、若いんだから何でもできる

第2号に掲載された鈍走記・・・
この作品は、浩三の中に湧き上がる気持ちを短く綴ったものです。

生れてきたから、死ぬまで生きてやるのだ。ただそれだけだ。
日本語は正確に発音しやう。白ければシロイと。
もし軍人が、ゴウマンでなかったら、自殺する。
✕✕は、✕の豪華版である。
✕✕しなくとも、✕✕はできる。

敢えて伏字にしたこの部分・・・
後に発見された草稿に書かれていたのは、
戦争は悪の豪華版である。
戦争しなくとも、建設はできる。
でした。

そして、またしても失恋・・・

メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルト

若草山や
そよ風の服
大和の野 かすみ かすみ
そよ風の吹く

おなごの髪や
そよ風の吹く
おなごの髪や
枯草のかかれるを
手をのばし とってやる

おなごのスカアトや
つぎあとのはげしさ
おなごの目や
雲の映れる
そよ風の映れる

二人は いつまで と
その言葉や
その言葉や
そよ風の吹く

内地勤務になるよう挨拶に行って欲しいという姉・こうさんの頼み・・・
浩三は、こんな手紙を送ります。

”別の手紙で書いたように、青木さんに会いました
 一生のお願いだそうですが、こんな他愛もないことに一生のお願いでは人間が安っぽく見えていけません
 一生のお願いは、一生に一度のものだと思いますが、あんたは前にも何かでこのお願いをやらかしたような気がします
 衣料切符のように大切に使って下され
 学校へ出てますから、ご安心下され
 大映の京都の助監督の口があったが、兵隊前なのでダメでした
 僕は、芸術の子です”

昭和17年7月・・・

ぼくも戦に征くのだけれど

街はいくさがたりであふれ
どこへいっても征くはなし
勝ったはなし
三ヶ月もたてば
ぼくも征くのだけれど
だけど
こうしてぼんやりしている

ぼくがいくさに征ったなら
一体ぼくはなにするだろう
てがらたてるかな

だれもかれも
おとこならみんな征く
ぼくも征くのだけれど
征くのだけれど

なんにもできず
蝶をとったり
子供とあそんだり
うっかりしていて戦死するかしら

そんなまぬけなぼくなので
どうか人なみにいくさができますよう
成田山に願かけた

この詩は、愛読していた萩原朔太郎の詩集の余白に書きつけられていました。
伊勢文学には発表できなくても、書かずにはいられなかった素直な思い・・・


昭和17年7月頃の詩・・・

よく生きてきたと思う
よく生かしてくれたと思う
ボクのような人間を
よく生かしてくれたと思う

きびしい世の中で
あまえさしてくれない世の中で
よわむしのボクが
とにかく生きてきた

とほうもなくさびしくなり
とほうもなくかなしくなり
自分がいやになり
なにかにあまえたい

ボクという人間は
大きなケッカンをもっている
かくすことのできない
人間としてのケッカン

その大きな弱点をつかまえて
ボクをいじめるな
ボクだってその弱点は
よく知っってるんだ

昭和17年8月・・・入営まであと2か月・・・
浩三は自分が戦地に行って死ぬことを、より強く意識するようになります。

昭和17年8月

骨のうた

戦死やあわれ
兵隊の死ぬるやあはれ
とほい他国でひょんと死ぬる
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬる
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまふや
その心や

苔いじらしや
あわれや兵隊の死ぬるや
こらえきれないさびしさや
なかず 咆えず ひたすら銃を持つ

白い箱にて 故国をながめる
音もなく なにもない 骨

帰っては きましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や
女のみだしなみが大切で
骨を愛する人もなし

骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨は骨 骨は聞きたかった
絶大な愛情のひびきを 聞きたかった
それはなかった

がらがらどんどん
事務と常識が流れていた
骨は骨として崇められた
骨はチンチン音を立てて粉になった

ああ 戦死やあわれ
故国の風は 骨を吹きとばした
故国は発展にいそがしかった
女は化粧にいそがしかった

なんにもないところで
骨はなんにもなしになった


そして9月・・・入営の日まで1か月を切りました。

みんなして酒をのんだ
新宿は、雨であった
雨にきづかないふりして
ぼくたちはのみあるいた

やがて、飲むのもお終いになった
街角にくるたびに
なかまがへっていった

ぼくたちは
すぐ いくさに行くので
いまわかれたら
今度あうのはいつのことか
雨の中へ、
ひとりずつ消えてゆくなかま
おい、
もう一度、顔みせてくれ
雨の中でわらっていた
そして、みえなくなった

昭和17年9月30日・・・浩三は入営のため、伊勢に帰郷します。
入営の朝、揺れ続ける思いに自分なりに区切りのつけた浩三の姿を、姉のこうさんは忘れることが出来ません。

昭和18年10月1日、浩三は陸軍二等兵として三重県久居町の門をくぐりました。
今は、陸上自衛隊の久居駐屯地となっています。

浩三は、入営の日の朝、自分の机に一枚の書置きを残していました。

入営の日の書き置き

十月一日、すきとおった空に、
ぼくは、高々と、日の丸をかかげげます。
ぼくの日の丸は日にかがやいて、
ぱたぱた鳴りましょう。
十月一日、ぼくは〇〇聯隊に入営します。
ぼくの日の丸は、
たぶんいくさ場に立つでしょう。
ぼくの日の丸は、
どんな風にも雨にもまけませぬ。
ちぎれてとびちるまで、
ぱたぱた鳴りましょう。

ぼくは、今までみなさんに
いろいろめいわくをおかけしました。
みなさんは、ぼくに対して、
じつに親切でした。
ただ、ありがたく思っています。

ありがとうございました。
死ぬるまで、
ひたぶる、たたかって、きます。

軍服姿で写る兵士の写真・・・その中で、ひとり浩三だけが横を向いていました。

浩三が入営して1年半後の昭和19年、戦況の悪化は、国民生活にも影響を及ぼしていました。
空襲に備える訓練、日常の全てが戦争一色でした。
その頃、こうさんのもとに茨城県の筑波から小包が届きます。
送り主は浩三でした。
愛読していた宮沢賢治の作品集・・・
その中がくりぬかれていて・・・中には、手帳が・・・!!
それは、浩三の日記でした。
昭和19年の1月1日から始まり、1日も欠かすことなく書き続けられていました。

この日記は、19年の元旦から始まる
しかしながら、ぼくがこの筑波へ来たのは18年の9月20日であったから、約3か月の記録が抜けているわけである。
といって、いまさらその日々のことをかくこともできない。
ざっとかく。
20日の朝、この部隊へきた。
兵舎が建っているだけで何にもなかった。
毎日、飛行機が飛んでいた。
毎日、いろんな設備ができていった。
西風が吹き始めて、冬であった。

浩三の移動先は、西筑波飛行場に兵制された滑空部隊でした。
木と布で作ったグライダーで、最前線に送られる部隊・・・
ひとたび出撃すれば、生きて帰れる見込みが薄かったといいます。
浩三は、周囲の目を盗み、便所の中で日記を書き続けました。

1月7日
朝から演習であった。
泥路に臥して防毒マスクから梢の日当たりを見ていた。
あ・・・雀が一羽飛び立った。
昼のカレーライスがうまかった。
昼からもまた演習であった。
枯草の上に寝て、煙草の煙を空へふかしていた。
この青空のように自由でありたい。

昼夜を問わず行われる演習・・・
抜き打ちの身体検査、一兵卒が日記を書き続けるのは容易なことではありませんでした。

1月16日
午前中、特火点攻撃・・・これまたひどい風であった。
そしてまたその寒さったらなかった。
干しておいたじばんが凍っていた。
夜、饅頭があがった。
二つの饅頭を食ってしまうと、言うに言われない寂しさがやってきた。

2月4日
ぼくはこの日記を大事にしようという気が益々強くなってきた。
この日記をつけるためだけで、かなり大きな支障が日々の務めの上にきたす。
それほど暇がない。
しかし、この日記はおろそかにはすまい。

2月16日
土屋から手紙がきていた。
土屋も中井も予備学生に合格したことがかいてあった。
めでたいと返事したけれども、なんとなく淋しい気がして、気がふさいだ。

3月6日
野村からたより。
野村も幹候をとおる。
あしたからまた中隊当番とはげっそりする。

かつての伊勢文学の仲間たちは、将校に昇進する機会をつかんでいきます。
浩三は、一兵卒のままでした。

3月16日
星の飛行場が海のよう
便所の中でこっそりとこの手帳を開いて、別に読むでもなく、友達に会ったように慰めて・・・そんなことをよくする。
この日記に書いていることが実に情けないような気がする。
こんなものしか書けない。
それで精一杯。
それが情けない。
もっと心の余裕が欲しい。
中井や土屋のことを思う。
余裕のある生活をして本も読めるだろうし、豊かな心で軍隊を生活し、いい詩やいい歌を作っているだろうなと思う。
貧しい言葉しか持たない。
だんだんと言葉が貧しくなるよう。

昭和19年4月、少年兵の受け入れ係になった浩三は、舞台から離れた小学校に寝泊まりすることとなりました。

4月13日
しょうかしつへ行って、オルガンを鳴らしていたら、子供がどっさり集まってきた。
空の新兵をひいたら、みんなそれを知っていて、声を揃えて歌い出した。
自分も歌って極めていい気持になった。

4月14日
飯がすむと子供のところへあそびに行った。
みんなあつまってこいや。
ぼくは、わけもなくただにこにこして、ものもいわずただにこにこしていた。
やすおくん、たかしくん、ちえこくん、としこくん、エヘヘと笑って他愛もない。


ぼくのねがいは戦争へ行くこと。
ぼくのねがいは戦争を書くこと。
戦争を描くこと。
ぼくが見て、ぼくの手で、戦争を書きたい。
その為なら、銃身の重みが脛骨を砕くまで歩みもしようし、死ぬる事さえいといはせん。
一片の紙と鉛筆を与えよ。
ぼくはぼくの手で、戦争をぼくの戦争が書きたい。


浩三から届いた日記は2冊・・・
昭和19年1月1日に始まり7月27日で終わっていました。

このまずしき記録をわがやさしい姉におくる

昭和22年6月
こうさんの元へ浩三の死亡告知書が届きました。

陸軍兵長竹内浩三 昭和20年4月9日 時刻不明 比島バギオ北方1052高地に於いて戦死

私のすきな三ツ星さん
私はいつも元気です
いつでも私を見て下さい
私は諸君に見られても
はずかしくない生活を
力一ぱいやりまする
私のすきなカシオペヤ
私は諸君が大すきだ
いつでも三人きっちりと
ならんですすむ星さんよ
生きることはたのしいね
ほんとに私は生きている

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