京都の夏を彩る祇園祭、豪華な仮面をつけたイタリアの人々が行き交うベネチアカーニバル・・・
この二つの祭り、同じ起源を持っています。
共に伝染病を追い払い、悲惨な光景を後世に伝える儀式・・・
人類を太古の昔から、苦しめてきた見えない悪魔・・・細菌やウイルスは、今も私たちの生活を脅かしています。
今からおよそ120年前、科学を武器に伝染病に挑んだ日本人がいました。

医学者・北里柴三郎です。

未知の病を解明し、多くの命を救った北里・・・
しかし、その道のりは平たんなものではありませんでした。
2024年から1000円札の新しい顔となる北里柴三郎・・・明治の日本で、世界に認められる研究を成し遂げ、予防医学の礎を築きました。
1886年、北里は、医学先進国だったドイツに留学、ひたすら研究に明け暮れる日々を送りました。

「人に熱と誠があれば何事でも達成する」by北里柴三郎

その努力が実を結び、破傷風などの道の病を解明・・・治療法を確立し、医学の進歩に貢献しました。
明治の半ばごろには、北里の名はヨーロッパに広まり、日本人初のノーベル賞候補に・・・!!
しかし、帰国した北里を待っていたのは、苦難の連続でした。
己の信念を貫く余り、国の方針と対立!!
研究と治療の場を失い、孤立した北里を救ったのは、日本を代表する教育者でした。

”国民の衛生状態を向上させたい!!”

日本細菌学の父とされる北里柴三郎・・・ところが、少年時代に憧れたのは、軍人でした。
そればかりか・・・

「医者は一人前の人間がすることではない」by北里柴三郎

そんな少年が、どうして医学者になったのでしょうか?

1853年、北里は、小さな村の9人兄弟の長男として熊本で誕生
庄屋の息子だった北里は、ガキ大将で、肥後もっこすそのもので、一度言い出したら聞かない頑固者でした。
その頃の日本は、西洋の技術や制度を積極的に採用し、近代化を図っていました。
ところが、同時に厄介なものももたらされます。
コレラや赤痢といった未知の伝染病です。
100万人以上暮らす江戸では、コレラだけで10万人の犠牲者が出たと言われています。
北里は、5歳の時に弟と妹を疫病で失いました。
当時の医者には、手立てがなく、隔離したり看取ることしかできませんでした。

「医者と坊主は一人前の人間がすることではない」by北里

北里は18歳になると将来の夢を抱きます。
それは、職業軍人になることでした。
その為、陸軍学校に進もうと考えていました。
ところが、両親は猛反対・・・医者になることを望んだ父親は、地元にできた医学校(現在の熊本大学医学部)への進学を強く勧めました。
心ならずも地元の医学校に入学した北里・・・しかし、ここでの出会いが、北里を医学の道へと誘いました。

オランダ人講師のマンスフェルトです。
北里が、授業で唯一興味を持ったのは、軍人になっても役立つ語学でした。
マンスフェルトは、北里を気に入り、やがて授業以外でも個人的に教えるようになります。
そんなある日、北里はマンスフェルトに聞かれます。

「君は本当に医者になるつもりがあるのか?」byマンスフェルト

「両親に言われて、そのように装っていますが、実はここで語学だけを学び、将来は軍人になりたいのです」by北里

「ならば、今日一日も無駄にしてはいけない
 だがな、医学も決して無用な学問ではないぞ」byマンスフェルト

それからしばらくすると、マンスフェルトは北里にある物を見せました。
当時、日本ではまだ珍しかった顕微鏡です。
見えたのは、無数の細菌でした。
肉眼では見えないミクロの世界に、北里は異常な興奮を覚えました。

「医学もまた学ぶに足りる!!」by北里

1874年、21歳でマンスフェルトの勧めで東京医学校(後の東京大学医学部)に入学します。
学生寮に入り、学費を稼ぐために牛乳の販売会社でアルバイトにも励みます。
北里は、実にバンカラな学生生活を送りました。
肥後もっこすの性格そのままに、頑固で正義感が強かった北里・・・学生のリーダーとして、演説会や討論会を開き、時にはストライキをして暴れ回ったといいます。
校長は、やりたい放題の寮生を抑え込もうと、2人の屈強な男を監督として送り込みます。

「諸君の乱暴は、真に甚だしい
 今後、学生の本文に背いたものは、少しも容赦しない」

「貴君は、今日、就任したばかりではないですか
 生徒の行動が不良とどのように知ったのですか?」by北里

「校長などから聞いておる」

「他人の話だけで、人間を判断するのか」by北里

そう畳みかけると、男は二度と口を出しませんでした。

もちろん、医学も熱心に学びます。
しかし、北里は、疑問を感じるようになっていました。
当時、日本の医学では、病にかかった患者を治す治療医学がほとんどでした。

1878年、25歳の時に書いた「医道論」・・・演説の原稿には、北里がどんな医学を目指したいのかが記されています。
”人民に健康法を説いて、身体の大切さを知らせ、病を未然に防ぐ
 これが、医道の基本である”

当時、伝染病の原因がわかりませんでした。 
ただ、人にうつるということが、わかっているだけ・・・
伝染病の感染拡大を防ぐには、自分たちの命を一番に考えて、摂生保健=日々の生活の中で健康に気を配ることで病を未然に防ぎましょう・・・これが、医道論でした。

小説 北里柴三郎: ドンネルの男

新品価格
¥2,420から
(2020/11/9 20:30時点)



1883年30歳で東大医学部を卒業・・・
卒業と同時に、バイト先の社長の姪・乕(とら)と結婚しました。
社長が、北里の人間性に惚れ込んですすめたと言われています。
二人は仲睦まじく、後に4男3女を設けました。
同級生のほとんどは、地方病院の院長など、人もうらやむ高給取りになります。
しかし、北里が進んだのは、内務省の衛生局でした。
地方病院の院長210円
内務省衛生局  70円・・・
給料は、同級生のわずか1/3でした。

衛生局は、全国の病院や衛生環境を調査でき、さらに、ヨーロッパへの留学も可能でした。
北里に迷いはありませんでした。

「学術を研究し、国民の衛生状態を向上させたい・・・!!」

2年後、32歳の北里は、医学先進国・ドイツに留学を命じられます。

ドイツに来た時、北里は東洋の片隅からやってきた無名の留学生にすぎませんでした。
しかし、ここで画期的な研究論文を次々と発表し、第1回ノーベル賞の最終候補にまでなります。
どうしてそんなことが出来たのでしょうか??

1886年、32歳の時、ベルリン大学(現フンボルト大学)の衛生研究室に留学しました。
研究室を率いていたのは、ローベルト・コッホ・・・伝染病の原因となる細菌を次々と発見し、細菌学の世界的権威として知られていました。
コッホの元には、世界中から優秀な研究者が集まっており、新入りの北里は、特に目立つ存在ではありませんでした。

「私はその時、ドイツ語の上手い日本人が来たという印象しかなかった」byコッホ

しかし、北里は、自分の評判など気にしなかったといいます。
とにかく熱心に研究に取り組みました。
留学して最初の1年間は、下宿と研究室の間の道しか知らないほどでした。
ある時、コッホは部下から報告を受けます。

「北里は珍しい男です
 我々ドイツ人にも、彼ほどの勉強家は見当たらない」

コッホに目をかけられるようになった北里は、やがて重要な研究を任され、中心メンバーとなります。
ところが、思いもよらないことが・・・
内務省から突然、ドイツの他の研究室へと移動を命じられたのです。
北里は、この一方的な移動にカチンときました。

「細菌学は最新の学問で、1年2年では学びえないことだけはお分かりでしょう
 細菌学研究に関しては、私に一任していただきたい」by北里

しかし、どうあっても国の方針は変えられないという・・・
この時、北里を救ったのはコッホでした。
コッホは、内務省の担当者に直接会って、北里が必要な人材であることを伝えました。
おかげで北里は、研究室に留まることが出来たのです。
その後、北里は、世界的な研究を成し遂げます。

それが、破傷風の解明です。
破傷風とは、伝染病の一種で、傷口から体内に破傷風菌が入ると、筋肉がこわばり、最後にはけいれんし、身体が反り返ってしまう・・・現在でも感染者の半数が死に至る恐ろしい病です。
破傷風菌・・・北里が研究したのは、特定の金だけを取り出して培養する純粋培養でした。
当時、破傷風菌だけを増やすのは、出来なかったのです。
多くの研究者が、純粋培養に挑みましたが、成功者はいませんでした。
しかし、北里は、何度失敗しても諦めませんでした。

「人に熱と誠があれば何事でも達成する」by北里

研究を始めて1年後、北里ははしょうふう菌のある特徴に気付きました。
他の菌とは違い、破傷風菌はどんな時も空気から遠いところに集まっていたのです。

破傷風菌は酸素を嫌っているのか??
なんとか酸素がない状況を作れないものか??

そこで北里は、亀の子シャーレを開発します。
破傷風菌をシャーレの中に入れます。
そしてそこに水素を送り込み、空気中の酸素を追い出します。
最後にシャーレの口を閉じ、酸素がない状況を保ちます。
そうすると、破傷風菌は見る見るうちに増殖しました。

1889年、36歳の時、北里は、世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功しました。
このことは、新聞でも報道され、北里の名は、ヨーロッパじゅうに轟きました。
さらに北里は、これに満足せず、破傷風の治療法の確立に取り掛かります。
実験に使ったのは、破傷風菌そのものではなく破傷風菌が出す毒素・・・
北里は、動物の体内に、この毒素を少しずつ注入していきます。
すると、同じグループの中で、致死量の毒素を入れても病気を発症せずに生きる個体がいました。
これは、動物の体内の血液中に、毒素を消す抗体が生まれ、免疫の役目をはたしていたためです。
この抗体を含む血清を、破傷風の患者に注射すると、たちまち症状が回復しました。
これは、血清療法と呼ばれ、北里が世界で初めて確立した治療法です。
伝染病に対する治療法がほとんどなかった当時は画期的なものでした。
この治療法は、同じコッホ研究室のベーリングとの共同論文として発表され、大きな話題を呼びました。
これによって北里は、11年後の1901年、第1回ノーベル医学生理学賞最終候補に選ばれます。
しかし、その栄冠に輝くのは、共同開発者のエミール・フォン・ベーリングでした。
彼は後にこう語っています。

「私が短期間で研究を改正できたのは、北里の感嘆すべき破傷風の研究結果と彼の協力があったからである」

北里は、1901年に日本に帰国していて、コレラ・赤痢に対する対策に非常に忙しくしていました。
あまりノーベル賞については頓着していなかったのでは??といわれています。
この研究によって北里は、世界の医学者と肩を並べる存在となりました。
欧米中の研究機関から、好待遇のオファーが次々と舞い込みます。
しかし、北里はこれらの誘いを丁重に断ります。

「学び得た全ての術で我が同胞の苦しみを救いたい」by北里

北里は、6年の留学を終え、39歳で日本に帰国しました。

世界的な功績を挙げたことで、内務省では北里を中心に伝染病の研究所を計画する話が持ち上がります。
しかし、これに横やりを入れてきたのが、文部省でした。
東京帝国大学内に、伝染病研究室を開設するべきだと国に提案します。
北里潰しとも取れる行為でした。
これは、北里と帝大の間でもたらされていた確執が、原因の一つでした。
確執の始まりは、数年前の脚気論争・・・
脚気とは、ビタミンB1の欠乏によって下半身のしびれや心不全を起こす疾患です。
ビタミンの概念のない当時は、伝染病の一つとして考えられていました。
1885年、帝大の教授・緒方正規が、脚気の原因は脚気菌という細菌によるものだという論文を発表しました。
しかし、北里は、脚気の原因は菌ではないと強く否定したのです。
北里の反論に、帝大側は激怒!!
何故ならその教授は、留学前の北里を指導していた恩師だったからです。
しかし、北里には関係ありませんでした。

「その説に非があるとすれば、たとえ親子兄弟師弟といえども、批判すべきなのが学者の一大義務と考える」by北里

当然帝大は、北里の行動を恩知らずと非難・・・
内務省と文部省の綱引きで計画は進まず、北里は研究の場すら持てずにいました。
そんな北里に救いの手を差し伸べた人物がいました。
慶應義塾の創設者・福沢諭吉です。

「すぐれた学者がいるのに、それを無駄にするのは国の恥である」by諭吉

福沢は、自らの土地と私財を投じ、北里のために私立伝染病研究所を設立します。
ここで北里は、日本で初めて血清療法を行います。
子供の死因の一つだった感染症・ジフテリア治療は、成功率90%でした。
恩師コッホのように伝染病研究所の所長となった北里は、しかし、若手の指導では肥後もっこすを貫きます。
しかし、怒った後は、からっとしていてわだかまりを残すことはありませんでした。
所員達は北里を、敬愛を込めてこう呼びました。
”ドンネル”・・・ドイツ語で雷の事です。

「北里先生のところに行きますと、なんだか威圧された、おっかぶせられた感じが致しました
 しかし、どういうものか甘えてみたいという気分も致しました」

北里のもとでは、黄熱病の研究で知られる野口英世や赤痢菌を発見した志賀潔など、優秀な研究者が育っていきました。
志賀は、赤痢菌を発見した当時のことをこう振り返っています。

「私は大学を出たばかりの若僧だったから、先生の研究助手というのが本当であった
 しかるに論文を発表するに当たり、先生は私一人の名前で書くように言われた
 赤痢菌発見の手柄を、若僧の助手一人に譲った宣誓を、私はまことにありがたきものと思うのである」志賀

1894年、41歳の時、北里のもとに衝撃的なニュースが舞い込みます。
香港で、ペストが猛威を振るっているという・・・
皮膚が黒ずむ症状から黒死病とも呼ばれたペスト・・・
中世のヨーロッパで大流行し、全人口の1/3を奪ったといいます。
極めて危険な伝染病でした。
当時すでに、香港と日本の間で盛んに貿易船が行き来していました。
船を経由してペストが上陸してくるのは時間の問題・・・!!
強い危機感を抱いた明治政府は、北里をリーダーに6人の調査団を香港に派遣しました。
命の保証などありませんでした。
香港に到着した北里たちの目には、病院から溢れんばかりの人が・・・その致死率は、9割近くにのぼっていました。
北里たちは、ペスト患者たちがいる病院の物置を即席の研究室としました。
そこに遺体を運んでペストの原因を探ります。
棺の蓋が、解剖台の代わりでした。
締め切られた部屋の温度は、40度近くに達しました。
死と隣り合わせの作業・・・この調査で、2面の研究者がペストに感染しましたが、なんとか一命はとりとめました。
研究開始から5日目・・・
北里は、日本に1本の電報を打ちました。

”今回、黒死病の病原を発見せり”

北里は、数百年にわたって人類を苦しめてきた伝染病の原因・・・ペスト菌を世界で初めて発見したのです。
この偉業は、世界中で報道され、称賛を集めました。
帰国した北里が行ったのは、ペストの予防対策でした。
全国から医師を集め、講演会を実施。
感染予防や消毒の方法などを説いて回りました。
同時に、ペスト治療のための血清の開発も進めました。
さらに、自ら内務省衛生局のTOPの掛け合い、伝染病対策の指針となる法律の制定に着手します。
こうして、1897年、43歳の時に伝染病予防法制定。
ペストは、国の伝染病に指定され、以下のような予防策が決められました。
感染者の隔離、上下水道の整備、外国船の検疫・・・
この法律は、1997年に改正されるまで、100年近くにわたって施行されることになります。
北里の功績を認め、1899年、46歳の時に内務省管轄の国立伝染病研究所となりました。

「学問や知識は、人々に普及させなけれ世のためにならない
 ことに、医学衛生においては、学問と生活を結びつけるのが学者の責務である」by北里

研究所が国立となった年、ついにペストが日本に上陸します。
しかし、北里たちの尽力で、大規模な感染に至ることはありませんでした。

国立伝染病研究所は、ドイツのコッホ研究所、フランスのパスツール研究所と共に、世界三大研究所と呼ばれました。
ところが北里は、61歳の時に研究所を退職し、私財を投じて新たな研究所を作ります。

1914年10月、北里は突然文部省から呼び出されます。
それは、伝染病研究所の管轄が、内務省から文部省へと移る通達でした。
伝染病研究所は研究機関なので、文部省が監督すべきであるという理由です。
また、更なる発展のため、研究所は帝大の傘下に入れるということでした。
これは、北里にとっては受け入れがたいことでした。
内務省が所管している研究機関であれば、自分たちの研究結果はすぐに実践できる・・・
しかし、文部省だと教育研究の現場なので、人々に向けての保健衛生的な段取りができなくなるのです。
自分達がやっている伝染病の封じ込めに、大きな支障になるのではないか??
このままでは、予防医学の実践ができなくなるかもしれない・・・
しかも、確執のあった帝大の傘下に入れば、研究所が嫌がらせを受ける可能性もある・・・

6日後・・・1914年10月20日、北里は、研究所の全員を集めてこう告げました。

「私は昨日、きっぱりとこの職を辞した
 しかし、諸君らにはまだ開かれた未来がある
 一路研究に励み、国家のため、学問のために、ますます奮励されることを望む」by北里

ところが、
「北里先生が去られて、我々だけが留まるわけにはいきません」

志賀潔をはじめとする北里の直弟子の研究者35名も辞表を提出・・・
さらに、守衛や事務員、女性職員に至るまで、ほぼ全員が研究所をやめました。

「私を慕ってくれる気持ちは嬉しい・・・しかし、彼等の生活をどうやって守るのか・・・??」by北里

新たに研究所を作って、彼らを雇うしかない・・・
北里は、妻と子を集めてこう切り出しました。

「今度、自分は伝研をやめ、若い者に意志を継がせたいと再三話したが、どうしても行動を共にすると言って聞き入れてくれない・・・
 皆の熱意を無視するのも忍びないので、それに伴う資金に貯金の大部分を当てたいが・・・」by北里

「どうぞ、役立てていただきましょう」by乕

翌1915年、北里は、私財を投じて北里研究所を設立・・・
その額は30万円、現在の価値でおよそ3億円でした。
この研究所で、北里が取り組んだのは、スペイン風邪と結核の対策でした。

1918年、65歳の時、第1次世界大戦のさ中、ヨーロッパでスペイン風邪が大流行・・・
同じ年、日本にも上陸し、およそ38万人もの死者を出しました。
スペイン風邪は、ウイルス性のインフルエンザ・・・ウイルスが小さすぎて、当時の顕微鏡では見ることが出来ず、解明は出来ていませんでした。
北里研究所では、スペイン風邪の重症化を防ぐ治療薬を開発します。
期待した効果はありませんでしたが、それでも蔓延を防ごうと懸命に取り組みました。

もう一つ・・・北里が力を入れたのが、当時は不治の病とされた結核の対策でした。
「結核退治絵解」 

etoki
















現在では当たり前となった公衆衛生の基本を説いています。

1931年、北里柴三郎はもう一決に倒れ、その生涯に幕を下ろしました。
78歳でした。

その後、北里研究所は、大学や病院を抱える一大研究機関として今も活躍しています。

2015年、北里研究所の大村智さんが、ノーベル医学生理学賞を受賞・・・授賞理由は、”線虫感染症の新しい治療法の発見”でした。
北里が、第1回ノーベル賞候補に選ばれてから100年以上経っての栄誉でした。

「第1回ノーベル賞の受賞は、本来なら北里先生も入るか、単独で貰うべきだったと(先輩の)北里の門下生は言う
 私が首相したら、その先輩が本当に涙を流してくれました
 これが、北里研究所の職員たちの思いだったんだなっていうことを思いました
 北里先生の求められたものって、深くて幅が広いんですね
 私の生涯、一生頑張っても到達できない
 若手を美優文に育成して、北里先生の求めたるところを求めてもらう
 これが、私のこれからの希望です」by大村智

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

北里柴三郎(上)-雷と呼ばれた男 新装版 (中公文庫 (や32-5))

新品価格
¥902から
(2020/11/9 20:30時点)

北里柴三郎(下)-雷と呼ばれた男 新装版 (中公文庫 (や32-6))

新品価格
¥1,034から
(2020/11/9 20:31時点)