薪を背負って歩きながら本を読む少年・・・二宮金次郎!!
2019年には、金次郎の映画が作られ、その勤勉さはもとより数々の偉業を成し遂げた波乱の生涯に注目が集まりました。
大人になった金次郎は、どんな偉業を成し遂げたのでしょうか??

江戸時代後期の1787年、二宮金次郎は相模国小田原藩内の栢山村で、農家の長男として生まれました。
当時の二宮家は、2町3反・・・6900坪の土地を持つ裕福な農家でした。
大黒柱の父・利右エ門は、働き者で、栢山の善人と呼ばれるほどのお人好しでした。
頼まれると誰にでもお金を貸していたといいます。
そんな父の背中を見て育った金次郎は、心の優しい子に成長・・・そして、学問好きとなったのも、父の影響だったと言われています。
父が学問好きで、書物もたくさんあり、儒学の本のある環境でした。
恵まれた環境で、勉学に励むことができた日々・・・
ところが、金次郎5歳の時、人生が一変します。

1791年、関東地方を襲った暴風雨によって、近くを流れる酒匂川の堤防が決壊!!
川の水は、二宮家の床上まで達し、広大な田畑はみな、流されてきた流木や土砂で壊滅状態・・・。
これでは作物など作りようもなく、生活は一気に困窮・・・!!
それでも利右エ門はあきらめずに田畑を元に戻していましたが、金次郎が12歳の時、無理がたたって倒れてしまいました。
その為、長男の金次郎が家族を支えていくことになります。

堤防の普請には、各家から人手を出さなければなりませんでした。
金次郎が代わりに出ます。
しかし、一人前の仕事ができない・・・
そこで、家に戻った夜に草鞋を作って昼間持っていき、村人たちに配りました。
知恵を絞って、父の代わりを務める金次郎でしたが、その父が闘病の末に帰らぬ人になってしまいました。
しかし、立ち留まってはいられません。

懸命に田畑を耕し、箱根山から冷たい風の吹く季節には、山で薪を集めて小田原城下へと売りに行きました。
そんな中でも学問をしたいという思いは薄れることはなく、金次郎は儒学の本などを持ち歩き、一休みする際に読んでいました。
身を粉にして働く金次郎・・・それでも生活は一向に楽にならず、極貧の中、母・よしが死去・・・。
悲しみに暮れた金次郎でしたが、残された弟たちのために奮起!!
農作業に精を出しました。
しかし・・・運命とは残酷!!
植えた苗が根付いた頃、大雨によってふたたび氾濫した酒匂川が、金次郎の田畑を飲み込みました。
見かねた親戚たちが集まって、相談した結果、金次郎は父の兄・二宮万兵衛家に、2人の弟は母の実家に引き取られることになりました。
そして、住む人の無くなった生家は売り払われてしまうのです。

何もかも失ってしまった金次郎・・・16歳でした。

「必ず二宮家を再興させて、2人を呼び戻す!!」by金次郎

金次郎が身を寄せることになった伯父・万兵衛の家も農家で、金次郎は農作業を手伝い懸命に働きました。
一方、勉学も続けていましたが・・・その方法が独特で、米をつきながらうすを一周するたびに書物を1行ずつ読んだといいます。
これを見た村の人々がつけたあだ名が、「ぐるりいっぺん」でした。
そして日が暮れると行燈の明かりで夜遅くまで書物を読みふけりました。
しかし・・・伯父の万兵衛は、

「百姓に学問など不要、早く寝て、明日の仕事に備えよ
 何より、油がもったいないではないか」

一見厳しい言葉ですが、それは金次郎を一人前の農民にするための伯父の優しさでした。
金次郎もわかっていたのですが・・・学問をしたいという気持ちを抑えることができませんでした。
しかし、居候の身。
そこで金次郎は、夜の読書をするために驚きの策を講じるのです。

まずは知り合いの家をたずねて油の原料となる菜種を5勺ほど分けてもらいます。
これを荒れ地に巻きました。
すると、100日ほどで菜の花に育ち、蒔いた時の100倍以上の菜種が収穫できたのです。
そしてこれを油屋に持っていき、菜種油と交換してもらいました。

荒れ地でも植物が実ると知った金次郎は、ある時、あぜ道に捨てられていた苗を見つけ、これも荒れ地に植えてみました。
すると、一俵分の米が実ったのです。
しかも、当時、荒れ地にできた米は数年間年貢を免除されていました。
全て自分のものにできたのです。
小を積んで大と為す・・・積小為大・・・この言葉を大事にしていました。

18歳になった金次郎は、伯父のもとを出て、独り立ちすることになります。
この頃、身長は182センチほどあったと言われています。
体重は94キロ、足の大きさ28センチ・・・当時としてはかなり大柄です。
伯父の家を出ることにした金次郎には、成し遂げなければならないこと・・・二宮家の再興が待っていました。

2人の弟を呼び戻すために二宮家再興に向けて走り出します。
近所の名主の家で住み込み奉公を始めます。
その傍らで、荒れ地を開墾し、米を作り日雇い仕事をし、働きに働き、お金を貯めました。
そしてわずか2年で生家の跡に小さな小屋を建て、およそ1反・・・300坪ほどの土地を、買い戻しました。
生活の拠点を得た金次郎は、一層仕事に励み、丹精込めた野菜を小田原城下で販売・・・そうしてお金が手に入ると、今度は人に貸して利息収入を得て、それを資金に土地を買い広げていきました。

「もう少しで、弟たちを呼び戻すことができる・・・!!」

しかし、その願いはかないませんでした。
3男・富次郎が病にかかりわずか9歳で死去、次男・友吉は母の実家の大事な働き手となっていました。
それでも金次郎は二宮家の再興をあきらめず、懸命に働き続け、24歳で1町4反(約4200坪)の土地を所有するまでになりました。
これは、村でも指折りの大地主でした。

「体が大きな働き者で、学問があり、金勘定もできる 二宮金次郎という男がいるそうだ」

そして思いがけない声がかかります。

「そのような男ならば、ぜひ召し抱えたい」

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1811年、こうして金次郎は、小田原藩家老・服部十郎兵衛・・・服部家で住み込み奉公をすることになります。
仕事は、三人の子供の世話係です。
・漢学塾への送迎
・復讐の補助
というものでしたが、学問好きの金次郎には願ってもないことでした。
奉公人なので、一緒に勉強はできません。
しかし、教室の外で、儒学の講義などを聞いていました。
そんな中、村でも有数の大地主である金次郎は、奉公人たちから借金を相談されることもありました。
奉公人たちは服部家から十分な給金をもらっておらず、四苦八苦だったのです。
金次郎は、お金を貸した上で、返済プランも立て、うまくやりくりをさせました。
やみくもにお金を貸しても返済の見込みは薄い・・・それを知っていた金次郎は、相手に希望と責任感を持たせました。
さらに金次郎は、五常講と呼ばれる相互扶助の金融制度も考案します。
奉公人たちが少しずつお金を出し合って積み立て、お金に困った人はその積立金から無利息で借りられる仕組みです・
五常とは、儒教の5つの徳(仁・義・礼・智・信)の事です。
ゆとりのある者は仁の心でお金を貸し、借りた者は義と礼の心をもってこれにこたえ、返済するために智を尽くし、信頼を失わないようにする・・・道徳心が借金の担保で、借用者が返済できないときには出資者が少しづつ負担しあいました。
現代の信用組合や協同組合に通じるものがあります。
利息ではなく、お礼として借りた金額以上の額を返金しました。

その才覚に目をつけたのが、服部家当主の十郎兵衛でした。
1818年十郎兵衛は、金次郎に服部家の財政再建を依頼します。
というのも、当時の服部家は200両(2000万)以上の借金があったのです。
「何かわけがあるはず・・・」
すぐに服部家の帳簿を調べてみると・・・
収入が減ってもなおぜいたくな暮らしを続けていたことがわかりました。
当主の十郎兵衛に、こう告げます。

「人にも家にも”分”というものがあり、それに相応しい生活を送らなければなりません
 これを”分度”といいます
 私に一切を任せ、分度に従っていただければ、借金は完済できます」

そう言って、服部家に課したのが、徹底した倹約生活でした。
食事は飯と汁だけ、着物は安くて丈夫な木綿のみ、無駄な買い物や遊興は禁止、油代節約のために行燈の火も暮れ六つ半消灯・・・
こうして服部家の財政再建に懸命に取り組む中、金次郎にうれしい知らせが・・・
特に心がけの良い領民の一人として小田原藩主の大久保忠真に表彰されることになったのです。
この時、金次郎32歳、酒匂川の河川敷で行われた表彰式で、こう表彰されました。

”かねがね農業に精を出し、心がけがよいと聞いた
 その方の働きは、自分のためはもちろん、村のためにもなっている”

金次郎は、それまではお家の再建を考えてきました。
それはあくまで自分の事・・・しかし、殿様から言われたことでハッとして、これからは社会のためにも働いて行こうという意識に変わっていきます。
そして、金次郎が財政再建に取り組んだ服部家は、年数はかかったものの無事に借金を完済することができたといいます。

1820年、金次郎は34歳で、服部家で奉公をしていた16歳のなみと結婚します。
翌年には嫡男・弥太郎が誕生し、家族3人平穏な日々を送っていました。
そんな中、金次郎に思わぬ依頼が・・・
小田原藩主・大久保忠真から下野国・桜町領の復興を命じられたのです。
どうして遠く離れた町の復興を、金次郎が任されることになったのでしょうか??
当時の小田原藩も、また莫大な借金を抱え、深刻な財政難に陥っていました。
そんな状況を打破するために、大久保が出した秘策が金次郎の登用だったのです。

「あの男なら、我が藩を立て直せるかもしれぬ」

大久保は、服部家での金次郎の働きぶりなどからその能力を高く買っていたのです。
しかし・・・
「百姓に藩の政を任せるなどもってのほか!!」と、家臣が猛反対!!
そこで、大久保はひとまず分家筋である宇津家に与えていた桜町領の復興をさせてみることにしたのです。
それが成功した暁には、小田原藩の財政再建を任せよう・・・と、実績を作らせようとしたのです。

しかし、当時の桜町領は、簡単に復興できるような状況で張りませんでした。
領内には3つの村がありましたが、天命の大飢饉以降、収穫量が激減・・・4000俵ほど納めていた年貢米も1005俵が限界で、飢えと貧困にあえぐ領民たちは、すっかりやる気を失っていたのです。
その為金次郎は、自分には荷が重いと固辞しますが、大久保は諦めてくれません。
そこで、桜町領まで何度も足を運んで調査をしたうえで、大久保に提案しました。

一、向こう十年はどんなに豊作でも年貢の上限は千五俵とし、余剰分は復興資金として金次郎が管理する
一、再建費用は小田原藩から与えられる米二百俵と金五十両で賄い、それ以上の補助金はいらない
一、十年間は、報告を求めず、小田原に呼び戻すこともしない

つまり、10年間は口を出さず、すべて自分にまかせてくれるのであれば引き受けるというのです。
藩主に対してなんとも強気な物言いですが・・・
金次郎としてもこの仕事は生半可な気持ちではできないと考えていたのです。
大久保はこの提案を受け入れると、金次郎に「名主役格」で登用します。
そして金次郎は1823年に家と土地を売却、妻のなみと息子・弥太郎と共に桜町領に移住します。

①「生活改善」

桜町領に赴任した金次郎が始めたのが、村の巡回でした。
毎日朝早くから、村の中を見て回り、食べる物がない者には米やお金を与え、家が壊れている者には修理を援助、道の整備や橋の改修も行いました。
村の再建は、生活環境の改善からと考えたのです。

②「意識改革」
金次郎は、懸命に働く者には褒美を与え、褒め称えました。
鍬や鎌などが中心でしたが、時には小屋を建てて与えたり、一年間年貢を免除したりもしました。
頑張れば報われるのだという農民たちのやる気を促したのです。
他にも用水路の造成による荒れ地の開墾、借金の返済資金の融資、他藩からの農民の招致をしました。
しかし、そんな金次郎に反発する者が現れます。
金次郎は、桜町領の全権を委任されたわけではありませんでした。
他の役人もいたのです。
さらに、村人の中にも、村のためにはなるとしても今までの自分たちの生活を変えることは受け入れられない人がいたのです。
反対派の者たちは、金次郎を困らせようと仕事をさぼったり、領内でわざともめ事を起こしたりしました。
それでも金次郎は、嫌がらせに屈することなく桜町領の立て直しに心血を注いでいましたが・・・

桜町領に赴任して7年目の1829年正月・・・

「江戸の藩邸に用がある」

そう言って、家を出たまま1月も行方知れずとなりました。
復興半ば・・・まさかの失踪でした。

この時、金次郎は成田山新勝寺の方に行っていました。
金次郎は、成田山の門前の1軒の宿屋に行き、主人に対して
「自分は小田原藩の侍である
 お不動様に願掛けをしたい」と宿屋に泊まります。
桜町領の復興の成功祈願をしていたようです。
その為に21日間断食して、不動明王に祈りを捧げ続けたのです。
断食が終わった中で、金次郎自身悟ったことは・・・一円観・・・
敵対する人も味方をする人も桜町領という一つの円の中にいるので、どちらも切り捨てることはできない
ということでした。

失踪騒ぎから3か月以上が経った4月8日、成田山を出た金次郎はおよそ80キロ離れた桜町領まで1日で戻ったといいます。
するとウソのように金次郎に対する不満の声が消えていました。
金次郎に反発していた役人たちが、みな交代していなくなり、否定的だった領民たちも金次郎がいなくなって初めてその偉大さに気付いたのです。

金次郎のお戻り願いの書が残されています。
これまでのことを深く詫び、態度を改めるので帰ってきてほしいと書かれています。
こうして桜町領の再建は順調に進み、領民たちの意識も高まって、米の収穫量は年々増加。
赴任から9年目の1831年には年貢米は1894俵となり、9年前の1005俵の倍近くとなりました。
これに喜んだ大久保は、金次郎と対面・・・
どのように桜町領をよみがえらせたのか、たずねます。
すると金次郎は・・・
「荒れ地には荒れ地の良さがあります
 人にもそれぞれよさや取り柄があります
 それを活かして村を復興させました」
これを聞いた大久保は、
「汝のやり方は、論語にある『以徳報徳』であるな」
以徳報徳とは、得を以て特に報いるということで、全てのものには取り柄(徳)があるというものです。
その徳を尊重しあって活用していくということです。
以後、この報徳が、金次郎の人生にとっての重要な思想となるのです。

荒れ果てていた桜町領を復興させた二宮金次郎・・・
それだけにとどまらず、領民たちを飢饉から救ったともいわれています。
1833年、夏のはじめ・・・金次郎はたまたま立ち寄った農家で食べた茄子の味がいつもと違うことに気付きました。

「この時の茄子にしては種になるところが多く、秋ナスのような味がする
 ということは、暦の上では初夏でも、秋のような涼しさになっているということ・・・
 冷害の前触れじゃ・・・!!」

そして、金次郎は、桜町領の名主たちにこう命じました。

「どの家も、畑一反に飢饉に強いヒエを植えよ
 畑一反分の年貢は今年は納めなくてよい
 耕せるところは何処でも耕して、豆や芋も植えておけ」

村人たちは、いくら二宮先生でも冷害までは予見できないのでは・・・と疑いながら、ヒエや豆を植えました。
すると、金次郎の予感は見事に的中!!
関東や東北は雨の日が続いて気温が上がらず、大凶作となったのです。
世に言う天保の大飢饉です。
各地の被害は甚大で、多くの死者が出ましたが、金次郎のおかげで桜町領では一人の餓死者も出なかったといいます。

さらに、金次郎は蓄えていた救済米を近隣各地に贈り、多くの人々を救いました。
これによって金次郎の名声は高まり、”下野に聖人あり”と称えられるまでになったのです。
そんな金次郎の元には、評判を聞きつけた藩や村からの復興依頼が殺到します。
その中の一つ・・・常陸国・青木村の復興を手掛けた際に、村人たちに言いました。

「一人一人が勤労と倹約によって余財を生み出し、それを人々のために使えば、どんなに貧しい村でも必ず復興できる」by二宮金次郎

金次郎の農村復興は、”勤労・倹約・推譲”が核となっていました。

1836年、50歳になった二宮金次郎は、遂に故郷・小田原藩の財政復興を任されることとなります。
金次郎の登用に反発していた小田原藩士たちも、桜町領での金次郎の働きぶりを知り、さらに、天保の大飢饉の対応がままならず、藩内が疲弊していたことで、しぶしぶ認めることにしました。
小田原藩主・大久保忠真は、満を持して金次郎にこう依頼します。

「飢饉に苦しむ小田原の領民たちを助け、我が藩を救ってほしい」

そして、翌年、15年ぶりの帰郷・・・
大久保から託された千両(1億円)、米蔵の米を領内にある307の村に分配します。
これによって小田原藩は、ほとんど餓死者が出ませんでした。
しかし、金次郎が藩の財政再建に本腰を入れようとしたその矢先・・・大久保忠真が急死・・・1837年。
後ろ盾を失くした金次郎の立場はたちまち弱くなり・・・不満の声が再び上がったのです。

それでも金次郎は、貧困に苦しむ農民たちのために、財政再建に取り組み、小田原藩内の多くの村を救済します。
そんな中、1842年、金次郎は幕府によって呼び出され、幕臣に取り立てられることとなりました。
金次郎の評判は、幕府にまで届いていたのです。
この時、56歳・・・これを機に、翌年名を改め、二宮尊徳・・・本来は”たかのり”と読みますが、いつからか尊敬の念を込めて”そんとく”と呼ばれるようになります。

1844年、尊徳は幕府から日光神領の復興計画書の作成を命じられます。
2万石という小藩並みの領地を有する日光神領には、91もの村がありましたが、その1/4が荒れ地となっていたのです。
大仕事に喜んだ尊徳は、これを良い機会とマニュアル式の復興計画書を作成することにしました。
これさえあれば、どこでも復興できるという農村復興の手引書です。
当時の尊徳には、多くの弟子がいたため、2年以上かけて全84巻の「仕法雛形」が完成します。
そしてこれを幕府に提出しましたが、日本神領の復興事業は始まりませんでした。

幕府の役人たちが、尊徳が提出した膨大な計画書の処理に戸惑い、なかなか許しを出せずにいたのです。
その間、尊徳は、相馬藩、烏山藩、下館藩など、多くの藩の財政再建や村の復興を弟子たちと共に手がけました。
ようやく幕府の許しが出たのは、計画書の完成から7年後の1853年。
67歳になっていた尊徳は、大病を患っていましたが、それでも日光に入り、村を巡回する際に、弟子に駕籠に乗るよう勧められても、「それでは村の様子が分からぬ」と、つえを突き、歩いて村々を回ったといいます。
病床に臥せってからも、気力を振り絞り、弟子たちに指示を出していましたが、
1856年10月20日・・・この世を去ります。
土と共に生きた70年の生涯でした。

生涯で600以上の村を復興させた二宮尊徳・・・
尊徳が亡くなった時、尊徳が所有している田畑は一坪ばかり・・・
私有財産は、人々のために使ったといいます。

「我が道は、人々の心の荒れ地を開くことを本意とする
 心の荒れ地が開けたならば、土地の荒廃は何万歩あろうと、心配することはないからだ」

人々に寄り添いながら成し遂げた尊徳の偉業は、弟子によって書き残され、その書を読んだ明治天皇は、これほどの農民がいたのか・・・と心を打たれ、皇居の中に金次郎の像を作らせました。
そして現在、二宮金次郎・尊徳の像は、多くの学校の校庭に立ち、子供たちを見守り続けています。
小さなことをコツコツと積み上げていけば、大きなことを成し遂げられるお手本として・・・。

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