日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: 英雄たちの選択

およそ100年前・・・第1次世界大戦終結に湧く世界の足元で、未知の感染症が猛威を振るっていました。
スペイン・インフルエンザ・・・世界で5億人が感染し、5000万人もの命を奪ったと言われる史上最悪のパンデミックです。
日本では、スペイン風邪と呼ばれ、国民のおよそ半数が感染・・・50万人が亡くなったとされます。
この恐るべき感染症に、日本人はどう戦い、どう生き抜いたのか・・・??

第1次世界大戦末期の1918年春・・・
ヨーロッパ戦線に集結した各国の軍隊の間で、謎の感染症が流行していました。
発端は、アメリカのファンストン軍事基地で死亡した48人の肺炎患者だと言われ、感染は4か月で世界に広がりました。
しかし、戦時かにあった各国は、感染情報を隠蔽・・・
中立国スペインの発表だけが知れ渡り、いつの間にかスペイン・インフルエンザと呼ばれるようになりました。
第1次世界大戦による人の移動がパンデミックを引き起こしたのです。

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いまだと毎年のようにインフルエンザが流行りますが、当時、田舎で生まれ育った人たちは一生で一度もインフルエンザに罹ったことのない人がいたと思われます。
そんな人たちが、ヨーロッパに一堂に会して兵舎で暮らしたりすると、3密状態・・・
免疫がない状態に、一気に感染が広まってしまう・・・。
戦争が終わり、母国に帰り、水際を通り越して市中感染に繋がったのです。
グローバル化の象徴的な出来事でした。

1918年9月・・・日本にも上陸、スペイン風邪と呼ばれるようになりました。
病原体は、神戸や門司、大阪などの湾港から貨物や乗客と共に上陸。
その後、鉄道に乗って地方都市へと運ばれていきました。

おりしも、第1次世界大戦の軍需景気の真っただ中・・・農村から来た労働者らが、炭坑や製糸工場のような過密空間で働くことで、次々とクラスターが発生しました。
都市部の病院には、患者たちが殺到し、医師や看護婦にも感染・・・医療崩壊が起こっていました。
一方、当時農村地帯だった栃木県矢板市では、一人の医師が厳しい医療の現実を克明に記録していました。
それが、「世界的流行性感冒の見聞録」・・・開業医・五味淵伊次郎の手記です。
医師自身が記したスペイン風邪の記録としては、現存する唯一の物です。

10月下旬、地元の農林学校の生徒が、東京への遠足から帰ってくると続々と発病者が現れます。
体温は、38度から39度
頭痛やのどの痛みを訴え、患者たちの顔は、みな赤黒い色をしている

2日後には、矢板駅の駅員も倒れ、駅の利用者や、その家族から村全体に瞬く間に感染が広がっていきました。
自転車で十数キロ離れた村々を往診しますが・・・間に合わずに遺体と対面することもしばしばでした。
医師の欠乏・・・
大正期から昭和の初期は、農村と都市部の医療格差が大きくなった時代でした。
農村では、現金収入がないから医療費を払えない・・・
医者は、「農村では食えない」と、都市部に流れるのです。
当時は、国民皆保険ではないので、悪くなるまで医者を呼ばない・・・そうなると、家族が看病し、その家族が倒れたときは親戚が応援に来るので、親戚にまで広がってしまうという悪循環を起こします。

そして、五味淵の家で働いていた15歳の少女も感染し、危篤状態に陥ってしまいます。
五味淵は、当時はやっていたジフテリアと、スペイン風邪の症状が似ていることに気付き、一か八かジフテリアの血清療法を試そうとしました。

「しかし・・・動物試験のような注射を、人の子供に打つことなど、どうしてもできなかった・・・
 しかし、今は、試みなかったことを憾む・・・」

結成の投与をためらう五味淵を前に、少女は翌朝息を引き取りました。
その4日後には、五味淵の妹もスペイン風邪に侵され、血痰を吐き、呼吸困難に陥ります。
五味淵は、妹を救いたいという一心で、ジフテリア血清の注射を決意します。
手記には、注射後に、妹の呼吸や脈拍、体温が落ち着いて行く様子がつぶさに記録されています。
妹の命がかかった治療の記録を、全国の医師たちにも役立ててほしいと書き留めたのです。
五味淵は、自分自身にも血清を試したうえで、効果を確信し、村人たち99人に241回ジフテリア血清を注射しました。
しかし、現在の価値で数万円にもなる高価な費用を貧しかった農民たちを払うことが出来たのでしょうか?
五味淵の生活・・・
請求したものが全て医療費としてもらえる方が少なくて、お野菜、お米と交換したり、質素に暮らしていたのではないのかと思われます。
1919年3月・・・スペイン風邪第一波終息・・・死者25万人!!
つかの間の平穏が訪れていました。

1919年秋・・・スペイン風邪第二派到来!!
死亡率は、第一波の五倍に相当していました。
社会全体に不安が立ち込める中、医学界を代表する二つの権威がワクチン開発を巡ってしのぎを削りました。
一早く動いたのは、北里柴三郎率いる民間の北里研究所・・・
細菌の研究で、世界にその名をとどろかせていました。
北里研究所は、スペイン風邪の病原体は、インフルエンザ菌という細菌だと断定。
これを用いたワクチンの開発に乗り出そうとしていました。
それを真っ向から否定したのが、東京帝国大学医学部教授・長与又郎が率いる国立伝染病研究所です。
長与たちは、インフルエンザ菌以外の未知の病原体が作用しているのではないかと考えました。
しかし、その存在を説明するすべがなく、病原体は不明という立場をとりました。

そもそも、インフルエンザの真の病原体が、最近よりもさらに1/100ほど小さなウィルスと判明するのは、この時から14年後のこと。
当時使われていた光学顕微鏡では細菌は観察できても、ウィルスの姿を見ることは不可能でした。
しかし、北里たちは、ペスト菌や赤痢菌など細菌の発見によって医学を進歩させてきたという自負がありました。
その使命感から、1919年11月、インフルエンザワクチンを用いたワクチン製造に踏み切りました。
北里側にすれば、自分たちは細菌学の最先端の技術、最先端の知識でやっている・・・
北里研究所の人たちは、成功の連続でした。
成功体験を、人間は変更することは難しかったのです。
自分達の最近の発見のその先に、インフルエンザ菌が存在するように考えていました。
北里研究所のワクチンが、世間で熱狂的に受け入れられる中、国の威信がかかる伝染病研究所の長与たちも苦渋の決断をします。
北里たちから遅れること1か月・・・病原は依然として不明としながらも、北里研究所が主張したインフルエンザワクチンに肺炎の予防ワクチンを加えた混合ワクチンの製造を始めたのです。
伝染病研究所は、「よくわからない」と言いながら、北里側がワクチンブランドとして高名になっていく・・・
伝染病研究所は、完全に後れをとって、「国は何をやってるんだ」と言われながら、追いつくためにインフルエンザ菌や他の肺炎球菌を使いながら作っていく・・・どうしても対抗上、そうせざるを得ませんでした。

二つの研究所が、成分の異なるワクチンを製造した問題は、やがて国会へと波及・・・
専門知識がない政治家たちも、ワクチンに口を挟みだしました。

「北里研究所では、病原を確定してワクチン製造を行っているが、政府の伝染病研究所では、病原を不明としたまま混合ワクチンを出した
 政府はどちらの予防ワクチンを認めるのか、明らかにしてほしい!!」by土屋清三郎議員

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世論に押された政治家たちは、医学者への要求を日に日に高めていきました。
そもそも、現代医学の知見からは、二つの研究所のワクチンは細菌をもとに作られたもので、インフルエンザの予防効果は疑わしいとされています。
しかし、当時の人々は、ワクチンに大きな期待を寄せました。
民間の製薬会社も開発に乗り出し、全国およそ20カ所でワクチンが量産される一大ブームが巻き起こります。

とにかく薬を作らなければいけない、是非とも薬を作ってほしいという要請にこたえるために、一生懸命してしまったのです。
北里研究所がワクチンを作った時に、伝染病研究所も「何をしているのか?」と言われないように、ワクチンwの作る方向に流れてしまったのです。
世の中の流れの強さ、流行のようなものを誰も止めることが出来なかったのです。
当時からワクチンの効果を疑問視する声も上がっていました。
しかし、最終的には500万人以上がワクチンの接種を受けたと言われています。
1921年夏を最後に、スペイン風邪の流行は終息します。
それと共に、世論や政治にあおられたワクチン開発競争は次第に忘れられていきました。

スペイン風邪が日本を襲った当時、政治の民主化を求める国民の声が高まり、全国で労働運動や普通選挙運動が盛り上がりを見せました。
大正デモクラシーです。
平民宰相と呼ばれた原敬が率いる政府は、スペイン風邪の対応に当たります。
しかし、国民への強制的な介入は避け、各自の予防自覚を促すことを優先しました。
明治時代のコレラやチフスのように、警察が強引に感染者の隔離や、商店の閉鎖を行えば、国民の激しい反発は避けられない・・・!!
政府は、衛生行政の転換を迫られていました。

当時の政府の取り組みを記した資料が残されています。
「流行性感冒」・・・内務省衛生局がまとめたスペイン風邪の報告書です。
行政の対応や、全国の感染データなどが、500ページにわたって克明に書かれています。
中でも政府の方針を端的に示すのが、スペイン風邪予防のポスターです。

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病原体をユニークな姿で書いたもの・・・
見えないはずのウィルスの感染経路を赤い点線で記し、咳エチケットを促すポスターも・・・!!

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帰宅後のうがいやマスクの着用など、衛生習慣はスペイン風邪をきっかけに、日本に定借したと言われています。

日本では、イラストやキャッチコピーを多用することで、高圧的な印象を与えないように工夫をしていました。

それまでは、国民・住民というのは、命令する対象・取締りの対象と考えていましたが、住民が理解して、行動しなければ問題の対策にならない・・・ということ・・・行動の変容を訴える形に変わっていきました。


さらに、注目すべきは、全国の自治体独自の対策です。
報告書の1/5を占めていました。
埼玉県では、陸軍飛行場から飛行機を飛ばし、飛行機から感染対策のビラを撒きました。
北海道では、女学生たちにマスクづくりの協力を要請・・・出来上がったマスクを劇場や寄席の入り口で無料配布しました。

東京では、ワクチンの接所を受けられない低所得者のためや缶無料注射所を作り、医療格差の是正に取り組んでいました。
紂王の人でも気づかなかったような地方独自の政策を、拾い上げ、記録していくことで新しい公衆衛生の糧にしていこうという意識が、内務省衛生局の人にもあったのではないのか??

国や警察による一方的な介入ではなく、地域が率先して感染対策に取り組む動きが、昭和の保健所の誕生にもつながっていきます。
全国に設置された保健所は、地域の住民を守る公衆衛生の最前線となったのです。

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歴史上、日本を襲った数々の感染症・・・天然痘・コレラ・赤痢・インフルエンザ・・・
幕末から明治にかけて感染症の克服に尽力した3人とは・・・??
彼等の志は、現代の危機に何を問いかけるのか・・・??

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①蘭方医・緒方洪庵・・・挑んだのは、江戸時代多くの人命を奪った天然痘です。
洪庵は、西洋伝来の予防法を広めようとしますが理解されず、誹謗中傷に晒されます。

「新しい知識で人々の命を救いたい!!」

洪庵を支えた信念とは・・・??

江戸時代、経済の発展と共に、都市に大勢の人が集まりました。
18世紀前半には、江戸の人口は100万に達したと言われ、大坂や京都でも過密化が進みました。
そうした中、ある疫病が毎年のように流行し、人々の命を脅かすようになっていました。
天然痘(疱瘡)です。
当時、放送と言われたこの病は、子供を中心に流行しました。
体のあちこちに水泡ができ、数日のうちに化膿・・・その後、水泡が内臓にまで広がり肺を損傷・・・10人のうち3人が死に至る恐ろしい病でした。
江戸時代の人々は、天然痘にどのように対処していたのでしょうか?
天然痘が出た家には、赤いものを送る風習がありました。
一体どうして・・・??
みんなが天然痘にかかる・・・しかも、子供のうちにかかる・・・もう生まれながらにして天然痘の毒を内蔵に抱えているんだろう。
だから、毒をうまく引き出すためには赤色(痘)は、赤色を好むだろうから赤をうまく引き出そうとしたのです。
赤い絵には体の中の毒を外に出す力がある・・・人々は、病除けのまじないにすがるしかなかったのです。
そんな天然痘への対策に、革命を起こす人物が現れました。
大坂・適塾!!
日本随一の蘭学塾として知られ、西洋の先進的な学問を学ぼうと各地から若者たちが集まりました。
大村益次郎、橋本佐内、福沢諭吉・・・日本の近代化を導く逸材たちが巣立っていきました。
この適塾を開いたのが、緒方洪庵です。
蘭学者であり、有名な町医者でもありました。
ある日洪庵は、オランダの医学書の翻訳を読み、西洋に天然痘の効果的な予防法があることを知ります。
牛痘の接種です。
牛痘は、牛に感染する病気ですが、人にも感染し、軽い症状を起こすことがあります。
そのウィルスが天然痘のウィルスとよく似ているため、予め牛痘を接種すると天然痘に対する予防ができました。
世界初のワクチンでした。
牛痘の接種は、ヨーロッパやアメリカで広がっていたものの、日本には伝わっていませんでした。
牛痘の海に含まれるウィルスが、長い船旅の間に感染力を失ってしまうからでした。

1849年、ついに、牛痘の輸入に成功したという知らせが・・・!!
洪庵はすぐに牛痘を手に入れた福井藩の医師・笠原良策に面会、人命を救うために牛痘を分けてほしいと頼みました。
しかし、笠原は、「藩に持ち帰るための物だから渡せぬ」と断ってしまいました。
日本全土から放送を根絶しなければという発想がなかったのです。
洪庵の考えは違いました。
”命を救う治療法は、全ての人に施されるべき”
洪庵の必死の頼みに笠原も折れ、牛痘を分けました。
洪庵は、この牛痘を全国に広める決意をします。

まず大阪に除痘館を作り、牛痘接種・種痘をはじめます。
しかし、大坂市中に噂が広がります。

”牛痘を接種すると子供たちが牛の体になる
 洪庵のもとで治療を受けれはいけない”

当時の庶民にとって、西洋医学は得体のしれない妖術のようなものでした。
結果、だれも洪庵の種痘所に寄り付かなくなってしまいます。
おまけに洪庵を悩ませたのは、牛痘の保存でした。
感染力を保ったまま、牛痘を維持していくことは、当時の医療技術では難しいことでした。
当時は、子供から子供へうつしていくしか、長期に維持していくやり方がなかったのです。
子供に牛痘を植えて、4日~1週間で膿が出てきたときに、その膿の中にウイルスがたくさんいるので、それを取り出して別の子どもに植えていくしかありませんでした。
うまく次の子に行かなかったということも時々起こり、維持がそこで絶えてしまうのです。

洪庵は、生活に困っている人々に米や金を与え、牛痘の維持に協力してくれる子供たちを募りました。
しかし、それが3年も続くと資金は底をつき、仲間たちも彼のもとを去っていきました。
それでも洪庵は諦めませんでした。
やがてその苦労が報われる時が訪れます。
洪庵が牛痘を打った子供は、天然痘にかからない・・・牛痘の予防効果が人々の間で知られ始めたのです。
徐々に種痘をしてほしいという人が除痘館に集まってきました。
洪庵は、どんな思いで種痘に挑んだのでしょうか??

「この事業は、医の仁術としての役割を旨とするのみ
 世のために 新しい種痘法を広めることが目的のため、利益を得ることがあっても己の物とせず、さらに仁術を行う資金とする」by洪庵

洪庵は、その誓いを貫きます。
1858年、除痘館は日本初の幕府公認の種痘所となります。
洪庵は牛痘を各地の医師に分け与え、普及に努めました。
それは全国200か所近くにのぼり、天然痘から人々の命を守る拠点となっていきました。


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②長与専斎・・・肥前国大村藩の生まれ
16歳の時、医者だった祖父の勧めで適塾に入門します。
緒方洪庵の薫陶を受けながら、当時最先端の蘭学や医学を学びました。
明治維新後は、文部省に入省・・・岩倉使節団に加わり海外視察の任務にあたります。
欧米諸国の医学制度を学ぶことが目的でした。
しかし、現地で専斎はあることに気付き、強い衝撃を受けます。
自伝の中で彼はこう語っています。

「諸外国には国民一般の健康保護を担当する特殊な行政組織があることを発見した」

国が土地を清潔に保ち、食べ物や薬の品質を管理し、貧しい人の救済をする・・・
医者だけでなく、行政も国民の健康を守るというのです。
それは、当時の日本にはない考えでした。
江戸時代から行われていた養生という取り組みはありました。
養生は、住民自身が自分で健康管理を行うところが特徴で、行政が幕府の責任で住民の健康を管理する行いはありませんでした。
日本が近代国家になるためには、この仕組みを作らなければならないと、日本に導入しようとします。

帰国した専斎は、ある法令をまとめています。
現代の医学制度の原点と言われている「医制」です。
この医制の中に、専斎は日本の行政支城画期的な言葉を記しました。
”衛生”・・・新たな健康保護事業を衛生と名付けたのです。
そして1875年、内務省衛生局創設。
専斎は、その初代局長となりました。

1877年7月・・・専斎に大きな試練が・・・!!

”清国の厦門でコレラが流行している
 船に乗って日本にやってくるかもしれない” 

コレラは、当時日本人が最も恐れた感染症でした。
コレラは観戦すると激しい下痢症状に襲われ、2.3日でバタバタとひとが死んでいきます。
三日コロリともよばれた恐怖の疫病でした。
もし、再び日本で流行すれば、とんでもない事態となります。



専斎は、早速対策に着手します。

まずおこなったのは、コレラへの予防対策の徹底・・・
その中で専斎は、開港検疫の規則を定めました。
水際で、コレラの流行を食い止めようとしたのです。
しかし、ことは思うように進みません。
外国船が検疫を拒否・・・
幕末に、欧米列強と結んだ不平等条約があったため、日本には外国船を取り締まる権限がなかったのです。
そんな中、9月5日、海の玄関口・横浜で最初のコレラ患者が・・・!!
翌6日には、長崎で患者が発生!!
おりしもその時、九州では西南戦争が行われていました。
勝利した官軍の兵士たちが、鹿児島から神戸へと帰還する船の中でも新たなコレラ患者が見つかります。
神戸につくと、兵士たちは検疫官の制止を振り切り、次々と上陸します。
9月には82人だった大阪・兵庫の感染者は、10月には2223人に膨れ上がりました。
専斎は、各市町村に患者と死亡者の数を届けるよう求めていました。
統計をとることで、流行地域を把握し、拡大を防ごうとしました。
さらに、避病院という隔離病院を設け、感染した患者を隔離しました。
患者の出た家には、「コレラ伝染病あり」と書いた紙を門戸に貼り、近所の人に注意を促しました。
しかし・・・この対策に人々は反発します。

衛生の知識というのは、住民に浸透することが非常に重要ですが、なかなか浸透しません。
隔離される意味が住民には伝わらないので、自分達が患者を出した家であると知られたくないために隠蔽行動に出たりしていました。

町や村では警察を動員して隔離を徹底しようとしましたが、人々は抵抗し、警察所を襲うこともありました。
わずか3か月で流行は広がり、この年のコレラ感染者数13,816人、死者8,027人に及びました。
コレラ蔓延を防ぐために、衛生意識を高めるためにはどうすればいいのか??

流行の後も、コレラは日本を襲い続けます。
特に1879年の流行は、甚大な被害を出し、死者は10万人にも及びました。
衛生局がこれらの対策を練っても、人々は隔離を恐れ、患者を隠蔽してしまう・・・
どうすればいいのか・・・??
専斎は、一つの結論に達します。

「人民の側に立ち、その裏側に入り、懇ろに理義を説き諭すことが必要だ」

庶民の事情にも耳を傾け、じっくり話し合い、粘り強く国民の衛生意識を高める必要があると考えたのです。
1883年、専斎は、大日本私立衛生会設立。
政府要人や衛生局の官僚に加えて、民間からは医者や学者、実業家らが参加しました。
最盛期には会員は総勢6500人に達し、衛生をめぐる活発な議論が行われました。
その成果を社会に還元していくことも重要な務めでした。
毎月発行された会の機関誌には、日本の衛生に関する様々な意見や主張が掲載されました。
食事や運動、衣服の選び方まで新しい時代の衛生的な暮らしを官と民が一緒になって議論しました。
様々な方法で衛生意識の普及がなされました。

専斎は、衛生の知識をわかりやすく人々に伝えました。
国が強制するのではなく、民衆が理解し、自ら実践する自治衛生を目指したのです。
議論の中で特に大きく取り上げられたテーマは・・・飲料水の問題でした。
当時、都市部の人口増加に伴い、飲み水となる井戸水の汚染が大きな問題となっていました。
一方、その頃コレラ菌が発見され、コレラ流行の主な原因が汚染された水だとわかってきました。

近代的な上下水道を作ることが急務でした。
しかし、工事には莫大な予算がかかるため、反対意見も多かったのです。
そこで専斎は、ある物を作りました。
それは今も東京・神田の地下に眠っています。
神田下水・・・専斎は、全長4キロの小さな下水道を作り、その効果を目に見える形で示したのです。
雨水や生活排水を下水に流すことで、飲料水の汚染を減らすことが出来ると証明しました。
さらに専斎は、粘り強く政府と交渉し、東京の上水道施設計画を作り上げました。
すると他でも賛同され、水道工事が全国に広まっていきました。
それぞれ完成した水道は、地元の住民たちの協力によって維持され守られました。
行政と民間が連携して実現する自治衛生・・・それは、専斎はがこれらとの戦いの中から生み出したものでした。

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③後藤新平・・・もともと福島の医学校を卒業し医師として働いていました。
その能力を専斎に見いだされた後藤は、内務省衛生局に入り、局長・専斎の懐刀として活躍しました。
やがて後藤は最大の感染症危機に挑むこととなります。

1895年、前年に始まった中国との日清戦争は日本の勝利で終わろうとしていました。
相次ぐ戦勝に湧く一方、衛生環境の悪い戦地では日本兵が次々と感染症に倒れていました。
戦争が終わり、20万もの兵士が一斉に帰還すれば、未曽有の感染症流行の恐れがありました。
そのことに気付いた政府は、急遽水際での大規模な検疫計画を決定します。
その陣頭指揮を任されたのが後藤新平でした。
しかし、これほど大規模な検疫を日本は経験したことが無い・・・

後藤が任務に就いたのは、4月1日・・・大陸から兵士たちが帰還するまでわずか3か月・・・時間がありませんでした。
瀬戸内海とその近隣の島で検疫を行うことが決定され、検疫所の建設に取り掛かりました。
しかし、2週間後、後藤を追い込む事態が起きます。
4月17日、清との間に講和条約が結ばれ、兵士たちの帰還がさらに1か月早まることとなったのです。
余りにも時間がない・・・しかし・・・

「予定を繰り上げ6月1日に検疫を開始する!!」

兵士たちを1か月待たせてその港で大きな感染が広まってしまうことを恐れたのです。
感染拡大を食い止めることに努力するか、放置してそのまま蔓延を招いてしまうか・・・??
後藤新平自身、それをよくわかっての突貫工事でした。

1か月後・・・似島検疫所・・・出来た建物は401棟・・・そこに、電気、電話の設備を引き、検疫に使う全ての備品を運び込みました。
6月1日、次々と兵士たちを乗せた帰還船がやってきました。
実際の検疫に当たって後藤は綿密な計画を立てていました。
まず沖に停泊させた船に検査を担う検疫兵が入り、患者の有無を確認します。
患者が居れば、すぐに病院に搬送し、隔離します。
症状なしと確認された兵士は陸に上がり消毒されます。

荷物も預け、荷物が液体消毒されます。
脱衣所と浴室で消毒液の入った風呂に浸かり、身体から菌を取り去ります。
彼等が休憩する間に、大量の服は巨大蒸気消毒缶で消毒します。
消毒された衣服は、入れた場所と反対側の方向から出てきます。
注目すべきはルート・・・
後藤は、消毒されているものとされていないものとを決して一緒にならないように計算してこの建物を設計させていました。
患者と接触した可能性のある兵士は停留・・・毎日診察を受けさせました。
最大、9日間止まらせることが可能でした。
完璧に思われた計画・・・しかし、実際に検疫が始まると次々に予想を超えた事態が押し寄せました。

6月29日に帰ってきた白山丸は、航海中に72人のコレラ患者となっていました。
上陸後、なんとか患者を隔離したものの、症状のなかった乗組員たちもあとから次々と発症・・・
検疫所は大混乱となりました。
想像を絶する日々の中、検疫兵も無事では済まされません。
感染し、死んでいった者・・・53人・・・。

後藤は43日間寝床に入らず、検疫の指揮を執ったともいわれています。
上司に出した手紙に、その覚悟を語っています。

「検疫は一つの戦争です
 戦争で銃弾に倒れる者よりも、疫病に倒れる者の方が多いのが明らかです
 検疫兵にはすべて戦地同様の給与待遇を与えることをお願い申し上げます」

そして、遂に検疫は終了しました。
4か月で23万もの帰還兵を検疫・・・コレラ、赤痢、腸チフス、天然痘、あわせて996人の患者を隔離しました。
もし、兵士たちが十分な検疫なしに日本に入っていたら大惨事となっていたでしょう。
この大規模な検疫の成功は、海外にも伝えられ各国を驚かせます。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はこんな言葉を送ったといいます。

「検疫では我が国は世界一だと思っていたが日本の権益には負けた」

この4年後、幕末以来の不平等条約が一部解消され、開港検疫法に基づき、日本が外国船を検疫することが正式に認められました。
日本は衛生国家として大きな一歩を踏み出したのです。


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感想(10件)

幕末の英雄・勝海舟は、この男をこう評しました。

”一奇士なり”と。

奇士とは、並外れた男子を意味する言葉です。
その男の名は、土方歳三!!
新選組副長です。
死後、150年以上たった今なお、土方の生きざまは人々を魅了してやまない!!
幕末動乱の時代、盟友・近藤勇と共に、新選組を結成!!
天下にその名をとどろかせました。
その行状、残忍・酷烈!!
鉄の掟で強力な組織を作り上げた土方を、人々はこう畏れました。
”鬼の副長”と!!
しかし、近藤の死後、土方の印象は真逆に転じます。

鬼か、仏か??

そして・・・1年半に渡る戊辰戦争で、新政府軍に負けた旧幕府軍・・・そんな中、旧幕府軍の一大転機となった戦いがありました。
宇都宮城の戦いです。
この時土方は新政府軍の宇都宮城をわずか6時間で攻め落としました。
土方の挑んだ難攻不落の巨大城郭!!
この後、北を目指した土方の心中とは・・・!!

暗殺、人斬り・・・テロの嵐が吹き荒れた幕末の京都・・・
こうした尊皇攘夷の過激派に対抗して刀で制したのが新選組でした。
局長・近藤勇、そして近藤を支えた副長・土方歳三・・・
注目すべきは、土方が作り上げた新選組の組織編制です。
副長は、局長を補佐するとともに、実務を請け負う実質的トップとなります。
副長の補佐役として隊士たちを統括するのが副長助勤です。
夭折の天才剣士・沖田総司、新選組最強といわれる永倉新八、そして孤高の剣士・斎藤一など、一騎当千の剣士たちが名を連ね、副長助勤として土方を支えていました。
近藤勇は直接、副長助勤に命令しない・・・副長である自分がキーになる組織でした。
即断即決を可能にする新選組の組織編制こそ、土方の考えを反映していました。

将軍家御典医の松本良純が、新選組屯所をたずね、あまりの不衛生さに改善策をアドバイスしました。
その数時間後・・・なんと土方が松本の指示通りに病室はおろか、浴場も見事に整備していたのです。
余りの手際の良さに松も余が驚くと・・・

「兵は拙速を貴ぶとはこのことなるべし」

土方はそう言って笑ったといいます。

また、新選組の戦闘方法にも土方独自の発想がありました。
1867年11月18日に起きた油小路事件・・・
かつての同志・伊東甲子太郎を暗殺した土方たちは、遺体を油小路に遺棄・・・
駆けつけてくる伊東の仲間を一網打尽にする囮として利用しました。
この時駆けつけたのは7人・・・
それに対し、新選組は3、40人で迎え討ったといいます。

こうした戦い方を、武士として卑怯なのではないか??
という見方もあります。
しかし、新選組は当時、京都の治安を守るべき存在でした。
徳川幕府を支えなければいけない存在だったのです。
それは、当然の任務の遂行でした。
どんな手段を使おうが、必ず勝つ!!
それこそが、土方の戦闘哲学でした。

ところが・・・1867年12月9日・・・王政復古の大号令が発せられ、江戸幕府は消滅・・・土方たち新選組の屋台骨が崩れました。
その僅か1か月後・・・旧幕府軍と新政府軍による戦いが・・・
1868年1月3日、鳥羽伏見の戦いが幕を開けました。
新選組を率いて戦いに臨んだ土方は、

「砲戦では勝負がつかん、斬り込め!!」

と、隊士たちを指揮したといいます。
しかし・・・近代兵器に勝る新政府軍の前に、剣に生きる新選組はなすすべなく敗れ去ったのです。
戦えば必ず勝つ!!
これまでの土方の戦闘方法は、鳥羽伏見の大敗によって大きく変わりました。
事実、土方はこう語ったと言われています。

「もはや武器は大砲でなくてはならない
 僕は剣を取り、槍で戦った
 全く無益なことであった」と。

江戸に帰還した土方は、この頃彼は洋装に転じたと言われています。
剣から銃へ・・・鳥羽伏見の敗戦を契機に、土方は新たな戦闘へと大きく踏み出していくのです。

鳥羽伏見の敗戦から2か月後・・・3月6日、甲州勝沼の戦い・・・
江戸に帰った旧幕府軍はここでも新政府軍と戦い新選組は手痛い敗北を喫しました。
連戦連敗の新選組・・・以降、隊士たちは、それぞれの道を歩むこととなります。

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4月25日・・・新選組局長・近藤勇、新政府軍に捕らえられ板橋で斬首・・・享年35。
この頃、土方にも大きな変化がありました。
洋装に身を包んだ土方は、独自の行動に出ました。
近藤の死の14日前・・・4月11日、土方は僅か6人の隊士を連れ旧幕府軍に合流します。
その主力は、勝海舟が決断した江戸無血開城に反対する勢力です。
およそ2500の兵を統率する元歩兵奉行・大鳥圭介!!
大鳥率いる旧幕府軍の中には、伝習隊の姿もありました。
当時珍しい、フランス仕込みの洋式軍隊です。
洋式軍隊の難しさは、当時の階級制度にあります。
戊辰戦争期は、各藩兵力動員を大規模にして銃を持たせていました。
指揮官になる者は、洋学を勉強したものでないとなれませんでした。
江戸時代、洋学を勉強した人たちは下級武士でした。
ところが、身分が上の侍たちは、動員されるが指揮能力がない・・・
近代戦の指揮命令系統と武士階級の格式が逆転してしまいます。
なので、近代戦法に結びつきませんでした。
近代戦法は、身分に関係なく、指揮官のもと兵を自在に動かす指揮命令系統の確立にある!!
それは、土方が組織した新選組にも通じています。
新選組は剣士の集団ではありましたが、近代化する側面を持っていたのかもしれません。

旧幕府軍に合流した土方は、この時全軍の参謀に任じられます。
その理由は・・・
”土方歳三は、元新選組副長であり、機智勇略を兼ね備えた人物である”
新選組の名は、全国に轟き、旧幕府軍にとって守護神ともいえる存在でした。
旧幕府軍は二手に別れ、日光を目指します。
日光にある東照宮は、江戸幕府の開祖・徳川家康を祀る聖地・・・
大鳥たちは、日光で新政府軍に対峙し、東国諸藩を糾合しようと考えていました。
そして・・・日光に至るには、宇都宮城を通過しなければならない・・・
関東屈指の名城・宇都宮城・・・江戸幕府にとって、東国の外様大名に対する北の守りの一大拠点です。
宇都宮城は、近世城郭では珍しく、石垣ではなく土塁に囲まれた城でした。
宇都宮城は、北向きに作られたというのが特徴で、北を防御するようになっていました。
それが、皮肉なことに、戊辰戦争では南東の方向から攻められることになります。
この城をめぐる攻防戦こそ、鳥羽伏見の戦い以降、旧幕府軍初めての勝利となります。
しかも、土方のその後の運命を大きく帰る戦いでもありました。

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4月18日、土方率いるおよそ1000人の隊は、大鳥軍に先立ち宇都宮城の近くに迫りました。
その時、宇都宮城が新政府軍の支配下にあることを知ります。
宇都宮城を制していたのは香川敬三・・・この香川こそ、近藤勇を捕らえた人物です。
当時描かれた宇都宮城の絵図が残されています。
宇都宮城は、南北900m、東西850mに及ぶ巨大城郭でした。
香川率いる城兵は、僅か400。
しかし、籠城に徹すれば、その鉄壁の守りは固く、攻め手にとって厳しくなるはずでした。

4月19日、土方ら宇都宮城に進軍。
ところが、新政府軍が奇妙な行動に出ます。
宇都宮城の外へ出撃したのです。
どうして籠城策を取らなかったのか・・・??
後の元帥・陸軍大将・山県有朋は、当時をこう振り返っています。

「各藩にはそれぞれの指揮役がいて、こうした指揮役を統一し、命令し、兵を動かすことなど新政府をもってしてもできなかった」

実は、新政府軍は、各藩の寄せ集めの軍隊で、指揮命令系統が混乱していました。

土方たちは、それを見逃しませんでした。
新選組隊士の日記にこうあります。

「はじめ敵は防御していたが、鉄砲を散々に打ちかけると次第に崩れ、やがて城の中へ逃げ込んだ」

この時、土方たちは、軍を分けました。
精鋭部隊の伝習隊は北の大手門へ・・・土方率いる新選組や桑名藩兵は東南方向へ向かいました。
土方の狙いとは何か・・・??
宇都宮城は、北に向かい防御施設を固めた城です。
そこで近代兵器による攻撃を仕掛け、北側に敵兵力を集中させ、その隙をつき土方隊が城内に白兵戦を仕掛ける・・・
川を防衛ラインとした東南側は、土塁も低く、ウィークポイントでした。
この時土方は、激しい戦場から逃げようとした味方の兵を容赦なく切り捨てたといいます。
戦に臨む土方は、鬼とかしました。
さらに、土方たちの猛攻は続きます。
旧幕府軍が誇る最新式の大砲が威力を発揮!!
砲弾は城内の建物を粉砕!!
敵にとどめを刺したのです。
結果、敵は狼狽して城を捨て、逃げ去った・・・
関東屈指の名城・宇都宮城・・・陥落!!
わずか6時間ほどの戦いだったといいます。
土方にとって、洋装に徹して実力を初めて示すことが出来たのが、宇都宮城の戦いでした。

この戦い以降、土方の名声はさらに高まります。

”土方は、奥羽の各所で勇ましく戦い、衆目を驚かせた
 とりわけ宇都宮城の攻撃は、新政府軍を心底恐れさせた”

戦術家としてその名を天下にとどろかせた土方歳三・・・
更なる戦いを求め、北へ向かったのです。

宇都宮城の戦いの後、土方歳三は北へ向かいました。
戦いの火の手は、東北地方に拡大・・・その震源地となったのが、会津藩と庄内藩です。
東北諸藩は、朝敵となった会津・庄内の斜面を求め、奥羽越列藩同盟を結成・・・
その盟主となったのが、東北の大藩・米沢と仙台です。
この同盟に合流したのが、旧幕府海軍を率いた榎本武揚です。
榎本は、当時、最強と呼ばれた最新鋭の軍艦・開陽など、8隻の艦隊で江戸を脱走。
土方も榎本にあわせるように仙台に向かいました。

1868年9月3日、合流した土方と榎本は、仙台城で開かれた同盟の軍議に参加しました。
軍議の席上、榎本はこう発言したといいます。

「そもそも奥羽の軍勢が弱いのは、誰もが主となり戦をするものがいない故である
 今これを挽回するためには、全軍を指揮する惣督を選ぶべきである
 惣督に相応しいの人は、私が同行した土方歳三をおいては他にいないと思う」

奥羽列列藩同盟の惣督に、土方を推挙したのです。
これを受け土方は言います。

「全軍も惣督として、指揮するためには、軍令を厳しくせねばならぬ
 もしこれを破るようなものがあるときは、大藩の家老と言えどもこの歳三が切り捨てねばならん
 去れば生殺与奪の権利をくださるのなら、全軍の惣督を引き受けますが、その辺りはいかがでしょうか」
 
つまり、土方は、全ての者の命を自分に預けるように要求したのです。
土方のこの言葉に、軍議は紛糾!!
この時、土方は何を思っていたのでしょうか?

奥羽にとどまり戦を続けるために、東北諸藩が一丸とならねばならない
この地で、命がけで戦えば、戦は長引く・・・
されば勝機はある!!
会津は籠城したがために今や劣勢にあれば、庄内は連戦連勝を続けているではないか!!

既に北越戦争で長岡藩は降伏・・・会津藩は、籠城戦を余儀なくされていました。
しかし、最新鋭の武器を配備した庄内藩は、藩外での戦いを続け、連戦連勝の気炎をあげていたのです。

奥羽の足並みがそろわなければ、さすがの庄内も孤立し、いずれは破れる・・・
ならば、旧幕府海軍と共に新天地に向かう??
新たな体制のもと、新政府軍に対抗するという手もあるが・・・

この頃、旧幕府海軍率いる榎本は、先々の計画を立てていたと考えられます。
蝦夷地に渡り新政府軍に対抗しようというものです。
我が方には、最新鋭の軍艦、開陽がある!!
最強の海軍と陸軍が手を結べば、新政府など恐るるに足らず
我らは必ず勝てる!!

奥羽にとどまり戦いを続けるべきか、それとも榎本と共に新天地へと向かうべきか・・・
土方に選択の時が近づいていました。

奥羽越列藩同盟は米沢藩を皮切りに、次々と新政府軍に降伏・・・同盟は瓦解しました。
そして、会津鶴ヶ城も落城・・・!!
土方が、全軍の惣督として指揮を振るうことはありませんでした。

明治と改元した・・・1868年11月5日、土方歳三の姿は、蝦夷地・松前にありました。
土方は、榎本と共に新天地、蝦夷地を目指したのです。
しかし、蝦夷地を治める松前は、新政府にすでに恭順・・・
土方たちの行動を、許すわけはありませんでした。
ここに、松前城をめぐる攻防が始まりました。
土方にとって、宇都宮城以来の城攻めです。

”土方惣督は、陸軍隊・新選組を率いて城の裏へと回り込み、梯子で城壁を登り、城内に突入!!
 敵は気付かず我が軍は、敵に一斉射撃!!
 敵、これ大いに驚き、防御もできず場外へ走り去り、支柱に放火しながら逃走した”

戦略家、土方の面目躍如・・・
土方は1日もかからず城を攻め落とすことに成功しました。
ところが・・・この時、陸軍の援軍として着ていた海軍の開陽が、岩礁に乗り上げ沈没してしまったのです。
土方たち箱館政権の五稜郭は、日本でめずらしい西洋式の城郭・・・
しかし、函館湾から近く、制海権を失えば敵の艦砲射撃の的となります。
以後、土方は五稜郭に寄らず、もっぱら場外での戦闘に従事しました。

この頃、土方の印象は、鬼の副長と呼ばれた京都時代から大きく様変わりしていました。
新選組隊士の日記にこうあります。

”土方は、常に下々に気を遣い、戦の時には先陣をきって進むので、従う兵たちも雄を振るって進軍する
 故に、戦いに敗れることはなかった”

そして、1869年5月11日、海陸を新政府に包囲され太激戦のさ中・・・土方は銃弾を受け戦死。。。
享年35・・・戦場にいた新選組隊士たちに衝撃が走りました。
この時、砲台の守備に就いていた新選組の者たちは、土方の死んだことを聞き、まるで赤子が慈母を失うがごとく、皆悲嘆してやまなかった・・・ああ・・・惜しむべき将なり・・・と。

土方歳三のふるさと東京日野市・・・土方の死から19年後、地元の人々や松本良純の手により、顕彰碑の建立の話が持ち上がりました。

”殉節両雄之碑”と名付けられた石碑は、近藤と土方の偉業を讃えたものです。
はじめ、文字を依頼されたのは、将軍・徳川慶喜でした。
しかし、慶喜はただ涙を流すばかりで返答しませんでした。
結局、その文字は、かつて新選組を庇護した元会津藩主・松平容保の手によるものです。
京での新選組の華々しい戦いが語り継がれる中で、その後の新選組の物語は、史実に埋もれて行ったのです。


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日本を代表する歌舞伎に、今、変化が訪れています。
大名跡・市川團十郎の復活が予定されています。
襲名興行で予定されているのは平成の天覧歌舞伎で12代目も演じた歌舞伎十八番「勧進帳」。
能をモデルに作られた勧進帳は、松羽目物と呼ばれ、格調の高い舞台が特徴です。
しかし、団十郎家を代表するこの勧進帳を作った男はそれを作ったがゆえに舞台から追われてしまったと言われています。

七代目が選定した歌舞伎十八番・・・勧進帳はその中の一つとして彼が考案した演目です。
しかし、世の中は一気に暗転します。
天保の時代に入ると、天候不順から凶作が続き、各地で一揆が頻発します。
それに対して有効な手立てを打てない幕府は、贅沢禁止を旗印に、庶民の暮らしを締め上げました。
水野忠邦が推し進める天保の改革です。

そして、やり玉にあげられたのが、七代目市川團十郎でした。
彼は、贅沢を助長されていると批判され、江戸所払の処罰を受け、舞台から追放されてしまいました。
その背景には、低い身分に置かれていた歌舞伎役者に対する差別が隠されていました。
天保の改革の直前に、能の「安宅」を歌舞伎化して「勧進帳」を造った七代目・・・
当時の能は、幕府の儀式芸能で、特別な存在でした。
能狂言の役者の身分は、武士の身分に殉じていました。
そこで、武士の恨みを買ってしまったのです。

七代目は所払いにもかかわらず、市川團十郎という大名跡は安泰でした。
七代目の長男が八代目・市川團十郎を引き継ぎ、その重責を担っていきます。
イケメンだった八代目・・・その風貌と粋な演技は江戸の女性たちを虜にします。
しかし、人気絶頂の32歳の時に八代目は自ら命を絶ってしまいます。
直接の原因は今も謎ですが、團十郎という名の重圧が、神経質な彼を苦しめた結果だと言われています。

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そして浮上したのが九代目團十郎の継承問題でした。
多くの愛人を抱えていた七代目には、七人の息子がいました。
しかし、次男、三男は役者を志すも大成せず、四男は夭折していました。
結果、白羽の矢が立ったのは、五男の権十郎。
しかし、権十郎には問題がありました。
実は権三郎は、生まれて間もなく河原崎家に養子に出されていたのです。
河原崎家は代々芝居小屋を営んでいました。
團十郎家と太いつながりを結べば、家業の隆盛に繋がると考えた河原崎家は、生後間もない権十郎をもらい受け、役者として大切に育て上げていたのです。
兄八代目の突然の死により運命を大きく変えることとなった河原崎権十郎。

まさに、時代は大きく動きました。
戊辰戦争を経て、文明開化の時代になります。
権十郎は、明治7年に正式に九代目市川團十郎を襲名します。
37歳・・・しかし、兄のような華やかさに恵まれていない彼には、これと言った当たり役はなく地味な感じの役者でした。

しかし、そんな九代目に目をつけたのが、新富座・守田勘弥。
相応しい役さえ与えれば・・・九代目は必ず光る!!
そう確信していた勘弥に、絶好の機会が訪れます。
明治10年に勃発した西南戦争・・・情報を入手した勘弥は、その舞台裏を描く本を書かせます。
そして主役西郷に、九代目團十郎を起用・・・大当たりをとったのです。

直前の出来事をその服装で演じるということは、それまでにないことでした。
疎実そのままを演じてみせる生々しさ・・・
名優への階段を一歩登った九代目・・・彼はまた、歌舞伎役者の身分にも変化をもたらします。
明治20年3月・・・九代目團十郎は、時の伊藤内閣で外相を務める井上馨に呼び出されます。
井上は、鳥居坂にある自宅に天皇を招き、茶会を開く計画があることを打ち明け、その余興として歌舞伎を披露してくれないかと依頼してきたのです。
父の追放も経験・・・蔑まれてきた歌舞伎役者の地位を高めたいと考えていた九代目にとって願ってもない申し出でした。
一方、明治政府にとっては、差し迫った理由が存在しました。
当時、最大の懸案事項であった不平等条約の改正を図るための国際会議を間近に控えており、日本が西洋に負けない文明国であることを証明する必要があったのです。

日本と西洋の文化の一番の違いは、演劇の役割です。
西洋では外国の賓客を招くときに、素敵なシアターに連れて行き素晴らしい劇を見せる・・・
これが、最高級のおもてなしです。
それに対して、日本の歌舞伎は庶民の娯楽でした。
武士などが観に行くのは、禁止されていました。
演劇の位置づけの違いが、そのまま西洋から見ると日本の文化文明の低さに関わる・・・!!
歌舞伎を底上げして、日本の文化文明の評価を高めようとしたのです。
4日間の予定で組まれた天覧歌舞伎・・・3日目には、諸外国の公使も招かれていました。
井上馨の私邸に天皇がやってきました。
この時、九代目が真っ先に披露した演目が、父が考案した「勧進帳」でした。
能由来の格調高い舞台で、明治天皇をもてなしました。
結果、天皇からは珍しきものを見て満足だったというお褒めの言葉を受けます。
緊張の余り、4日間で体重が6キロ以上落ちたという九代目・・・
歌舞伎役者が背負ってきた負の歴史に終止符を打った彼は、それ以来、新しい時代の歌舞伎を造ることに邁進します。
天皇には勧進帳を披露した九代目、しかし、当時彼がもっぱら力を入れていたのが十八番と呼ばれた伝統演劇ではなく、活歴と呼ばれていた新作歌舞伎でした。
旧来の歌舞伎は、歴史上の事件を扱う時は・・・
鎌倉時代の人が江戸時代の衣装を着ていたり・・・”嘘”の部分がたくさんありました。
本当にそうであった装束を着たり、建物を再現する・・・できるだけ史実に即した形の”歴史劇”を活歴と呼びました。
自分が生きた明治時代ならではの新しい歌舞伎を創ろうとしたのです。
自ら取材にも赴いたという九代目・・・彼はその著書の中で活歴をこう述べています。

「芝居をする一大用心は、自分がする役の当時の精神を飲み込むことが大切なり」

しかし、史実に即して描くだけに展開は地味・・・
細やかな心理描写の多い活歴は、これまで歌舞伎を支えてきた庶民からは難解とされ、九代目がメインを張る新富座の経営は傾いていきます。



一方で、明治20年代後半・・・施錠は混迷していました。
西南戦争の戦費を補うためのデフレ政策の結果、各地で騒乱が・・・
当時盛んだった自由民権運動は、さらに盛り上がっていきました。

そんな中、ユニークなヒーローが西から登場!!
軽快な「オッペケペー」節を引っさげて、大坂の寄席に登場した川上音二郎。
やがて音二郎は、書生芝居と題した演劇活動も開始。
上京すると、江戸時代以来歌舞伎の牙城と知られた中村座に登場しました。
そして、自由民権運動の闘士・板垣退助が暴漢に襲われた事件を下敷きにした「板垣君遭難実記」を大ヒットさせたのです。
それを九代目團十郎が見学にやって決ました。
場内は意外な人物の登場に騒然となりました。
しかし、研究熱心な九代目にとっては、当然の行動・・・
どうして音二郎は受けるのか・・・??
それをじかに感じたいと足を運んだのです。
芝居が始まる前、九代目は音二郎を楽屋に尋ねています。

「今日はお前さんの芝居を見て勉強させてもらうぜ」by九代目

「九代目、こんな機会をいただいて、音二郎、感激でございます
 是非、あなたの弟子にしてくれませんか?」

歌舞伎好きで九代目に憧れていた音二郎・・・
そんな音二郎に対して自らの信じる道を進むように激励しました。
しかし、舞台が始まると九代目の表情から余裕が消えました。
音二郎一座の熱演に、心から驚いたのです。

暴漢と板垣が刃物を間にして取っ組み合いになる・・・
格闘する・・・役者同士が本気で戦っていました。
やがて2人は政治的な議論を始めました。
取っ組み合いをしながらお互いの意見を戦わしていました。
それがお客さんには迫力がすごいと人気が出たのです。

何という荒っぽい芝居だ・・・!!
しかし、客の受けは想像以上に熱く、この熱気は正直羨ましくもある・・・
だが、荒唐無稽な芝居は、我が芝居の目指すところではない・・・!!
自分は我が道を行こう!!
九代目は、当時彼がホームグラウンドとしていた歌舞伎座で、粛々と自分が信じる新しい時代の歌舞伎・活歴に取り組みました。
明治22年に完成した歌舞伎座・・・堂々たる西洋建築のこの劇場は、誕生以来経営が傾いた新富座に代わって歌舞伎の殿堂となっていました。
しかし、九代目が取り組む活歴は、相変らずの不人気で、客席には閑古鳥が鳴いていました。
明治27年7月、日清戦争勃発・・・
九代目の激励を受け、さらに自信を深めた音二郎は、明治政府初の対外戦争も即座に舞台化しました。
浅草座にかけた「壮絶快絶 日清戦争」です。
音二郎扮する日本人記者が大活躍する芝居も大当たり!!
ロングランを記録しました。
その人気ぶりに、天下の歌舞伎座も動きました。
なんと、翌明治28年の5月興行・・・予定していた九代目の出演をキャンセル・・・代わりに音二郎一座を招へいすると発表したのです。

歌舞伎座に音二郎があがる・・・!!

その衝撃的な知らせを受けた九代目は激しく動揺しました。

活歴の新作を続けるべきか??
既存の演目に回帰する・・・??

九代目團十郎に選択が迫られました。

明治28年4月、日本は日清戦争に勝利しました。
しかし、その後に起きた三国干渉の結果、日本が遼東半島の領有権を放棄させられると、日清戦争劇のブームは急速にしぼんでいきました。
そこで歌舞伎座幹部は、再び九代目に出演をオファーします。
それに対し九代目は、こう答えました。

「書生芝居が上がった舞台に、立ちたくはない
 カンナできれいさっぱり削り直してくれ」

間に入った人がなんとかとりなし、舞台を綺麗に拭くことでしぶしぶ了承。
明治28年11月、九代目は歌舞伎座に戻りました。
しかし、歌舞伎座の舞台に立った九代目が演じ始めたのは活歴ではありませんでした。
九代目が下した選択・・・それは、既存の演目に回帰・・・歌舞伎十八番の「暫」では團十郎家伝統の荒事を久し振りに披露して喝采を浴びています。

活歴を一通りやって、自分がかつて排斥したものの魅力、価値を・・・
”嘘”でもって真実を表現することに行きつきました。
團十郎は回り道をして、最後に古典の世界に戻ってきたのです。

続く明治29年の4月興行・・・九代目の人気に気を良くした歌舞伎座幹部は、十八番の一つ「助六」をやってほしいとオファーします。
しかし、九代目は頑として首を縦に振りませんでした。
すでに59歳・・・流石に助六は無理だと断ったのです。
華やかな吉原を舞台に粋で鯔背な江戸っ子が、仇討や恋に火花を散らす助六・・・
代々の團十郎が伝えてきた世話物の代表作を老いた自分が演じ、その価値を損ねてはいけないと九代目は考えたのです。

困った歌舞伎座幹部が説得を依頼した男は、傾いた新富座の経営から身を引き当時歌舞伎座のアドバイザーだった守田勘弥です。

「芸に 年は関係ないんじゃないか 
 また 今、お前さんがしないとお手本がなくなっちまうぜ
 もちろん お前さんの代で助六はやめるというなら話は別だが
 もしもこの先も続けてほしいなら やったほうがいい」by勘弥

自分を世に送り出した男の言葉に動かされた九代目は、助六を演じます。
そして59歳には決して見えない若々しい演技を披露したのです。
守田勘弥の息子で後に人間国宝となる七代目・坂東三津五郎は、この時に見た助六の感想をこう述べています。

「九代目の助六というものは、たいしたものでした
 形 科 調子と 
 実に申し分のない助六でした」by三津五郎

色気、風情、勇ましさにあふれたその芝居は、33日間、連続大入り満員という大当たりをとりました。
こうして歌舞伎史上最高の名優が誕生したのです。

九代目は晩年、神奈川県茅ケ崎に立てた別荘で、ほとんどの時間を過ごしました。
そこで良きライバルであった五代目尾上菊五郎の息子をはじめ、次代を担う後身の指導に当たりました。
明治35年、その別荘の近くに居を構えた男がいます。
妻・禎奴と共にパリ万博で活躍し、凱旋帰国した川上音二郎です。
九代目の別荘を訪れた音二郎・・・音二郎は九代目を尊敬し、九代目は音二郎を認めていたのです。

多くの人に慕われ続けた九代目市川團十郎・・・
浅草浅草寺には、九代目を顕彰した「暫」の像が立っています。
大正8年に建立されたこの像は、戦争中、金属の不足を補うために供出されてしまいました。
戦後、この像を復元させたのは、12代目市川團十郎です。
そして、その息子が今、13代目市川團十郎です。

歌舞伎とは、何事かに打ち込むことを表す歌舞く精神から来たものです。
新時代の歌舞伎を模索し、打ち込む新しい團十郎に、今、期待が高まっています。

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八代目市川團十郎 気高く咲いた江戸の花 [ 木村 涼 ]

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幕末、・・・日本は未曽有の国難に直面していました。
攘夷か、開国か!!
国論は、真っ二つに別れ、遂には武力による討伐・・・明治維新へと突き進みます。
そんな幕末動乱の時代に、危機に立ち向かった先陣の英知とは・・・??

①老中首座・阿部正弘
200年以上守ってきた鎖国の危機に、阿部は人々の納得を取り付けながらシステムを変えるという最も困難な仕事に取り組みました。
1853年、ペリー浦賀に来航!!
その中には、最新鋭の蒸気軍艦二隻の姿もありました。
逆風をものともせず進む巨大な黒船・・・
これまで目にしたこともない黒船の異形に人々はパニックに陥りました。
当時の瓦版に書かれたペリーの姿は、同じ人間とも思えない風貌・・・黒船打ち払うべしという攘夷の声は、日本全土へと広がっていきます。
しかし、備えはまったくと言っていいほどなされていませんでした。
阿部が老中になる前年・・・1842年イギリスがアヘン戦争に勝利・・・清に領土を割譲させたという知らせは日本にも届いていました。
ところが、当時の幕府財政は火の車・・・海岸を守るための軍艦や砲台に回す資金はありませんでした。
ペリーはさらに、江戸湾内に船を進めます。
そこには驚くべき意図が・・・!!
ペリーが本国に提出した江戸湾の測量図があります。
ペリーは、江戸湾を測量し、どこまで陸地に近づけるかを調べていました。
国土への直接攻撃をにおわせる示威行動でした。
その上でアメリカは、船舶の補給基地として港を開くことと、交易の開始を要求します。
余りにも強引な開国要求でした。
ペリーの圧力に屈して鎖国を捨てれば幕府の威信は地に落ちる・・・
高まる攘夷の中、阿部は前代未聞の方法に踏み切ります。
それまで幕府政治への参加を許されなかった御三家や外様大名・旗本に、国書を開示し、意見を聴収します。
それは、挙国一致で当たるという幕府始まって以来の方針転換でした。

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挙国一致の課題は、大きな大名との協調政策です。
国の一番重要な政策について意見を聞きます。
有力大名の半数が、鎖国を守るためには戦争も仕方ないと主張!!
その代表が、水戸藩の徳川斉昭!!
御三家として大きな影響力を持っていました。

「刀や槍の戦いでは我が国に分がある
 電光石火のごとく戦えば、かの夷族を鏖にすることは掌のうちにある」by斉昭

圧倒的な攘夷派を前に、選択を迫られた阿部・・・!!

黒船に積まれていた最新式のペキサンス砲・・・その特徴は、爆弾を的に対して水平に発射できること!!
命中率が高く、破壊力も大きい!!
ペリー艦隊の攻撃によって、海岸沿いの下町は完全に火の海になる恐れがありました。
御城下が灰になるほどの事態になれば、幕府の威信は地に落ちてしまう・・・??

「外寇への備えは、交易の利潤をもって当てる」by勝海舟
勝は、通商を行って、利益を得ることが、国防の強化につながると説いていました。
しかし、通商を認めることは鎖国を捨て去ること・・・
国法を曲げては、幕府は弱腰であると、大名からの声が沸き起こるであろう!!

ハッキリとは回答しない・・・??
回答延引策は、薩摩藩主・島津斉彬たちが唱えていました。

「交渉は出来る限り引き延ばす・・・3年ほど待てば、軍備も整うのでその後に打ち払う」by斉彬

攘夷か?開国か?それとも回答延引策?
いずれを選んでも困難な道でした。
先の来航から半年経った1854年1月・・・ペリーは再び江戸湾に現れました。
果たして、阿部の選択は・・・??
それは、”ぶらかす”・・・回答延引策でした。
1853年6月、将軍・家慶死去・・・
阿部はそのことを口実に、交渉延期を申し入れます。
しかし、ペリーはこれを黙殺!!

「将軍の死は公務を遅らせる理由にはならない」byペリー

引き延ばしはもはや通用しない!!
阿部は、諸大名と共に撮るべき方策を協議しました。
実際の交渉にあたる役人は、通商まで譲歩しなければまとまらないと主張!!
しかし、阿部はあくまで慎重でした。
打ち出したのは、「開港容認・通商拒絶」でした。
1854年2月10日・・・
圧倒的な武力を持つアメリカに対する綱渡りのような交渉が始まります。
阿部の意を受けた役人は、頑なに通商を拒みます。
日本海国という名誉を祖国アメリカにもたらすことを重視していたペリーは、次第に焦り始めました。

「このまま通商に固執することは得策なのか・・・??」byペリー

交渉開始から1か月・・・日米和親条約締結。
開港を許したのは、大都会から離れた下田と箱館。
そこでは、航海に必要な物資の補給だけを認めました。
通商に関する要求は、完全に退けたのです。
阿部はいかにしてこの結果を手にしたのでしょうか?
近年、広島県福山でその資料が発見されました。
阿部の腹心である軍学者・江木鰐水の手記によると・・・
交渉のさ中、黒船に乗り込んだ江木は、事細かく書いています。
ペリーが話すときの声は温和・・・
交渉相手のことを事細かく調べたうえでの交渉に臨むことで、阿部は薄氷の勝利を得ました。
しかし、阿部は、自らが用意した日本の未来を見ることはできませんでした。
未曽有の国内に対処してきた重荷が、その肉体を確実にむしばんでいました。
1857年、阿部正弘死去・・・享年39歳でした。

②長州藩・高杉晋作
1864年・・・それは、長州藩が国内外の危機に直面し、がけっぷちに立たされた運命の年でした。
国政の主導権を握ろうとする長州に対し、薩摩藩と会津藩が反撃!!
世に言う禁門の変が勃発します。
7月19日、薩摩・会津の連合軍と衝突した長州軍は、僅か1日で惨敗・・・
御所に向かって発砲した長州藩は、時の帝・孝明天皇によって朝敵の烙印を押されてしまいました。
状況はさらに深刻化・・・
それは、武力によって外国船を打ち払おうとする祖国・長州藩の暴走でした。
8月5日、下関戦争・・・
長州は、関門海峡を航行する外国商船を砲撃!!
激怒した欧米列強によって報復攻撃を受けます。
関門海峡の殆どの砲台が列強連合軍により占領!!
植民地化という最悪の危機が予想されました。
追いつめられた長州は、停戦交渉を要請・・・
そしてその難しい立場での交渉に登場した男こそ、高杉晋作でした。
8月8日・・・交渉の席上、列強側は300万ドルという巨額の賠償金を要求。
晋作は啖呵を切ります。

「もし、戦争を続けるというのなら、長州は最後の一人になるまで戦うつもりだ」by高杉晋作

晋作たちの強硬な姿勢に、列強側は態度を一変・・・
関門海峡の砲台撤去、水・食糧・燃料補給のため下関上陸を求めてきました。
晋作たちは、本来は幕府の権限であるはずの下関の開港を独断で受け入れます。
下関を開港し、貿易を行えば、富国強兵を推し進めることが出来る・・・
晋作たちは、交渉の土壇場で、未来の実利につながる決断をしました。

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1864年7月・・・第一次長州征伐・・・幕府は朝敵の長州を攻め滅ぼすべく13万の大軍を大坂に・・・!! 
その一報を受け、長州藩の上層部が真っ二つに分かれます。
抗戦派・・・大義名分のため幕府に抵抗
恭順派・・・藩存続のため幕府に謝罪
この対立です。
11月12日、恭順派によって長州藩の三家老が切腹・・・幕府への徹底恭順の証とされました。
抗戦派に組していた晋作は、身の危険を感じ、九州・筑前藩に亡命!!
再起の時を伺っていました。
この時、晋作にはどのような選択があったのでしょうか?

内乱挙兵の決起策か??
藩士以外の武士や、庶民で編成された奇兵隊を!!
最新式の銃を装備し、西洋式の戦術を学んだ長州の軍です。
それとも冷静に交渉の道を選び、藩の大義名分を取り戻す・・・??
朝敵の汚名をどうしたらいいのか・・・??

晋作の決断は・・・決起策でした。
反乱の兵をあげ、武力によって藩の方針を覆す道を選びました。

11月25日、高杉晋作、長州に帰還!!
奇兵隊をはじめとする諸隊に反乱の決起参加を要求します。
しかし、諸隊幹部は無謀な戦いだと消極的な態度に・・・!!
その姿勢に晋作は叫びます。

「僕は、毛利家300年来の家臣だ
 たとえこの身が討ち倒れようと長州に殉じる!!」by晋作

ここに、反乱軍は挙兵します。
晋作たちは長州藩の経済の要・下関の会所を制圧!!
さらに、藩の軍艦を強奪することに成功!!
最初は消極的だった奇兵隊たちが動き出しました。
反乱軍は、800人の大軍勢に膨れ上がります。

1865年1月7日、大田絵堂の戦い・・・
恭順派率いる軍の正規軍と激突します。
野戦戦術と、最新式のミニエー銃を使うことを学んだ奇兵隊は、藩の正規軍を圧倒!!
そして、晋作決起からおよそ40日後・・・
藩主・毛利敬親によって、徹底恭順は撤回!!
もし攻撃を受ければ、最期の一兵まで戦い抜くこと・・・武備恭順を藩の方針とさだめました。
晋作の決起が導いた奇跡の勝利・・・次なる幕府との戦争が始まる中、晋作はまったく独自の構想を抱いていました。
長州の将来について晋作が記した意見書・・・回復私儀・・・
そこには、晋作が最も力を入れている方策があります。
それが、「大割拠」でした。
徳川一強の時代は終わった・・・

「今こそ、我が長州藩の下関を世界に向けて開こう
 そして、欧米列強の力にも十分に対抗できる国力を身につけるのだ
 世界五大陸にこの長州藩を押し出して、長州の大割拠、独立を成し遂げるのだ」by晋作

しかし、その夢が実現することはありませんでした。
1867年4月14日、高杉晋作病没・・・享年29歳でした。
あまりにも早すぎる突然の死でした。

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③薩摩藩家老・小松帯刀

小松帯刀・・・薩摩で島津家に次ぐ名門の家に生まれ、28歳の若さで家老に就任。
当時、権力の座にあった国父・島津久光の抜擢によるものでした。
帯刀は久光のもと、富国強兵を推し進めました。
綿・・・当時、綿花はアメリカで始まった南北戦争の影響で世界的に品薄となっていました。
帯刀は、西国諸藩から綿花を調達し、ヨーロッパへ輸出・・・
その利益で5隻もの蒸気船を購入、海軍の創設に力を注ぎました。

1863年、帯刀は、久光から京都での政治工作を任されます。
目的は、雄藩連合です。
これまで幕府では、一部の譜代大名が政治や外交を独占・・・
外様藩である薩摩や長州は蚊帳の外に置かれていました。
薩摩は有力大名が手を組んで政治に参加する雄藩連合を構想し、実現に向けて動き出しました。
このことが、幕府側との対立を引き起こすこととなりました。
御所を警護する一橋慶喜、京都守護職・会津藩松平容保、京都所司代・桑名藩松平定敬ら一会桑勢力です。
1964年7月、慶喜は朝敵・長州を討つべく、15万の大軍を大坂に集結させました。
第一次長州征伐の発動です。
ところが、これに対し薩摩は思いもよらない行動に出ます。
10月、小松帯刀、慶喜に征伐中止を進言!!
その要因は、京都政局のパワーバランスでした。
一会桑は、有力な藩を国政運営に加えたくありませんでした。
薩摩としては、長州を敵に回さない方が得・・・恩を売るという考えがありました。
薩摩の行動は素早く・・・長州に対して禁門の変を主導した三家老を処刑し、幕府に謝罪するように打診します。
長州がこの条件を受諾したことで、第一次長州征伐中止・・・!!

薩摩への警戒を強める慶喜・・・
再起へ虎視眈々の長州・・・
幕末の風雲はいよいよ急を告げます。
1865年、幕府側の巻き返しが始まりました。
15万の大軍が、大坂へ・・・第二次長州征伐です。
幕府は諸外国に対し、長州に武器を売らないように要請!!
長州は、絶体絶命の窮地に陥りました。
この時、帯刀は驚くべき決断をします。
薩摩名義で7300丁もの銃を購入、長州へあっせんしたのです。
長州の使者に対し帯刀はこう答えています。

「幕府の嫌疑等意に介してはいない・・・ 如何なることでも尽力する」by帯刀

薩長両藩は、1866年1月・・・長州から木戸孝允が上京します。
帯刀のもとで交渉を担当したのは西郷隆盛!!
幕府側に対する武力行使も辞さない強硬派です。
ところが、西郷が発したのは思いもよらない一言でした。

「ここはまず、幕府の処分をあまんじて受け入れよ」by隆盛

この時点で、幕府は長州に藩主親子の引退、領地10万石削減などを通告する見通しとなっていました。
過酷な処分を受け入れよという西郷・・・実は背景には国父・島津久光の意向がありました。
注目すべき資料は、島津久光に宛てた伊達宗城の書簡です。

「近頃西郷はしきりに暴論を主張している 久光公は依然として持重」

久光にとっては幕府に対する武装蜂起など思いもよらない・・・
急遽京都藩邸に使者を送り、藩士全員に厳しく自重を命じました。
西郷と帯刀は、朝敵の汚名を晴らす政治工作は動けても、幕府への武力行使には協力できない状況に追い込まれていました。
しかし、長州は既に臨戦態勢にありました。
更なる処分を受け入れるはずもありませんでした。
交渉は平行線をたどり、木戸はついに帰国を口にしました。
このままでは薩長提携に向けて動いたことは、すべて水泡に帰す・・・
帯刀は交渉を続けるか否かの決断に迫られました。

交渉は打ち切るしかないのか??
このままいけば、幕朝開戦の可能性が極めて高い・・・久光公の本意は、幕府と事を構えることにないのは明らか・・・家老として、その御意志を越えてまで、長州との提携を進めることが許されるのだろうか??
しかし、久光の方針に従えば、薩長提携の道は閉ざされてしまう・・・!!
それは目指す雄藩連合からの後退を意味していました。

ここで長州を孤立させていいのだろうか・・・??
雄藩連合が頓挫してしまう・・・
久光公を説得して、同盟締結に持っていけないだろうか・・・??

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小松帯刀の選択は、薩長同盟締結でした。
幕府との対決にひた走る長州との同盟を、帯刀は独断で締結したのです。
薩長同盟には、両藩の公式文書は存在しません。
唯一その内容を伝える木戸孝允の書簡・・・そこからは、政治家・小松帯刀の周到な計算が読み取れます。
そこには巧妙なロジックが隠されていました。
戦うとしたら一会桑・・・と書かれています。
つまり、幕府とは言っていないのです。
一会桑との対立は、そう遠くはない・・・久光サイドも理解できていました。
薩摩が生き残るためには、長州を絶対に滅ぼしてはならない・・・帯刀は久光の許容範囲すれすれで同盟を結び、事後承諾を勝ち取ったのです。
新たな時代・・・明治を切り開いた薩長同盟・・・その意義とは・・・??

久光主導から、小松、西郷、大久保による主導に転換していきつつあるきっかけになりました。
両藩の間での正式の合意文書がない・・・第5条の決戦条項を久光には見せられなかったのでしょう。
それは、久光の初期の方針を逸脱したものだったからです。

全て自分が責任を負う・・・それが、歴史の方向を決定づけました。
阿部正弘、高杉晋作、小松帯刀・・・身分は違えど、三人に共通するのは、新たな時代は自分が作るという責任感でした。

老中・阿部正弘は、死の1年前、幕府の路線を大きく変更しました。

「交易互市の利益をもって富国強兵の基本とする」by阿部正弘

開国通商に舵を切ると宣言したのです。

その志は確かに受け継がれます。
鹿児島のとある釜元・・・薩摩焼は帯刀の進言で輸出用に作られたものです。
ヨーロッパで上流階級に珍重され、注文が殺到しました。
小松帯刀は病のため36歳で亡くなりました。
しかし、彼は最後まで来るべき時代の輝かしい日本の未来を夢見ていたのです。


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