日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: 英雄たちの選択

津軽10万石の城下町だった青森県弘前市・・・2016年ある発見が話題を呼びました。
町中にある一軒の古民家が、忍者屋敷であることがわかったのです。
弘前藩の忍者集団”早道之者”が諜報活動のために使ったとされています。
忍者屋敷がそのまま残されているのは、全国でも極めて珍しい。
藩主、家老から命令を受けて、作戦会議をする場所だったと思われています。

忍者・・・影のヒーロー??そのほとんどは、創作の産物です。
しかし、実在の忍者が一度だけ歴史の表舞台で活躍した戦いがありました。
敵は、織田信長!!天正伊賀の乱です。

戦国時代最強を誇った織田軍が、忍びの郷・伊賀に向けて出兵しました。
ところが・・・攻め込んだ先で、兵士たちは次々とうち取られていきます。
織田軍大敗北!!ついには撤退!!
果たして伊賀の忍び達はどんな手段で織田軍を撃退したのでしょうか?

群雄割拠の戦国時代、歴戦の武将の影には不思議な呼び名を持つ者たちがいました。
上杉謙信に伏齅・北条氏康に乱波・武田信玄に透波・・・彼らは戦国時代に活躍した忍び達です。
ある時は敵地に潜入し諜報活動、ある時は敵の不意を突き夜襲攻撃、凡人には出来ない危険な任務を行う特殊部隊でした。
そんな忍びを数多く輩出したのが伊賀・・・忍びの里と呼ばれたこの地には、どんな秘密があったのでしょうか?

伊賀には屋敷を取り囲む不自然なほど高い土塁がたくさんあります。
防御を備えた館城があり、土塁だけではなく堀もあったようです。
確認された城跡はおよそ650以上・・・全国有数の密度です。
どうしてこれほどまでに多く築かれたのでしょうか?
伊賀は中世以来、限られた土地をめぐり争いの絶えない地域でした。
各地で自ら館城を築いた地侍たちは、大名の直接支配を受けることなく自治独立の国だったのです。
戦国時代の伊賀衆について・・・
毎日夜明け前から昼頃までは士農工商それぞれの仕事に励み、それから日暮れまでは武芸を磨く・・・
そして密謀の通力を伝える風習があった・・・と記述されています。
密謀の通力がいわゆる忍びの術なのです。

常に危険と背中合わせだった伊賀では、武芸だけでなく敵を陥れる技も鍛える必要があったのです。
そんな伊賀を疎ましく思っていた男がいました。
織田信長です。
当時、信長は近畿一帯に勢力を伸ばしていましたが、伊賀には手を出せずにいました。
そして隣国にはもう一つの忍者の里・甲賀があり、同じく自治独立を守っていました。
伊賀と甲賀が連携して信長の進出を阻んでいたのです。
険しい山々に囲まれ、進入路さえ分かりにくい土地・・・信長は現地の情報を集めながら、じっくり攻め入る予定でした。
しかし・・・その意図を汲まずに伊賀を狙っていたのが信長の次男・信雄でした。
1579年伊勢にいた信雄は、信長に無断で伊賀へ出兵。
1万を超える大軍勢でした。
山を越え、伊賀領内に侵入しようとしたその時・・・突然山道に地侍たちが現れ、一斉に襲い掛かってきました。
山の中で待ち伏せしていた伊賀衆でした。
その奮闘ぶりは・・・
地の利はよく心得ている
ところどころに砦を築いて弓矢や鉄砲を放ち、槍を併せ、息つく間もなく攻撃し、山の崖へ追いつめていきました。
総崩れとなった織田軍の戦死者は、数千人に及んだといいます。
そして、織田方重臣・柘植三郎右衛門が討死!!
信雄は、命からがら伊勢に逃げていきました。
伊賀の完全勝利でした。

織田軍敗北の報せは、すぐさま信長に知らされました。
言語道断!!
息子・信勝が安易に出兵したことに激怒したといいます。
見事な結束で独立を守った伊賀衆・・・
しかし、彼らにとって本当の試練はこれからでした。

1581年、織田信長は伊賀討伐を命じます。
その軍勢なんと、4万以上・・・汚名返上に燃える信雄を総大将に、織田の名だたる武将・・・筒井順慶、蒲生氏郷、丹羽長秀が先陣に加わります。
しかも、今回は多方面からの一斉攻撃!!
迎え討つ伊賀は、それぞれ敵の情報を正確につかんで連携する必要がありました。
そのために使ったとされるのが、狼煙による情報伝達です。
伊賀ではのろし台の跡がいくつか確認されています。
いずれも集落から見えやすい位置にあり、南北15キロ以上に警報を伝えることができたと言われています。
さらに・・・忍びの狼煙には、特殊能力がありました。

江戸時代の忍術書「万川集海」・・・そこに狼煙の材料が記されていました。
最初に掲げられているのがオオカミの糞・・・手に入りにくいものの代表的な材料でした。
すぐに煙が立ち上がり、煙から強烈なにおいが発せられます。
狼煙が嗅覚にうったえていた可能性があるのです。
その悪臭は、1~2キロ位は伝わる可能性がありました。
悪天候で煙が目視できないときでも使えた可能性があるのです。



織田軍に対してあらゆる防御を備えていた伊賀衆・・・
しかし、4万という大軍勢を前に、彼らの心は揺れていました。
信長に内通するもの(福地伊与)まで現れます。
福地は険しい進入路の道案内を行い、織田軍を伊賀領内に導いたといいます。
どうして仲間を裏切ったのか??
伊賀北東部にある福地城・・・ここは、織田軍が最大の軍をおいた地域でした。
福地の集落は、真っ先に攻撃を受ける場所だったのです。
福地は福地で、集落を守ろうとしたのです。

内通者を得た織田軍は、伊賀領内に侵入!!
その攻撃は苛烈を極めます。
一軒残らず焼き払い、男女問わずに殺害した・・・
伊賀衆は、わずか数週間で、最後の拠点柏原城まで追いつめられます。
籠城したのは1600人・・・城には女子供達も逃げ込んだといいます。
各方面から侵入した織田軍は終結し、およそ4万で柏原城を取り囲みました。
絶体絶命の中、協議に望んだ伊賀衆・・・
徹底抗戦する??それとも降伏・・・??
補給路も援軍もない・・・今更降伏しても命の保証はない・・・どれだけの仲間が殺されたのか??
信長は伊賀を殲滅したいのか??
袋小路に陥った伊賀衆・・・意外な意見も・・・
敵を欺いて、せめて女子供だけでも城から脱出する??
城からの脱出路・・・すでに柏原城を包囲される前に、この作戦を実行した者たちがいました。
西部の比自山城に籠城した伊賀衆です。
織田軍が城に突入すると、そこは一夜にしてもぬけの殻になっていたといいます。
伊賀衆は、城中に松明を炊き、城にいるかのように見せて織田軍を欺き、密かに脱出に成功していたのです。
しかし、すでに小田野全軍が、城の周りに・・・本当に脱出することなどできるのか??
宿敵・信長に対し徹底抗戦か??それとも降伏か??それとも脱出か??

伊賀衆が出した結論は”脱出”でした。
およそ4万で包囲する織田軍から、どのように逃れるのか??
籠城から10日以上たった夜、柏原城から数人の伊賀衆が抜け出しました。
彼等は周辺に隠れていた百姓たちを動員して、織田軍の背後の山に、可能な限り多くの松明を灯させます。
それを見た織田軍は、数千に及ぶ伊賀の援軍あらわる!!そう思い込み、大混乱となりました。
これこそ、伊賀衆の狙いでした。
この隙に、柏原城から女子供を逃がす手はずだったのです。
ところが・・・この計略を見破った男がいました。
織田の名将・丹羽長秀・・・10代のころから信長に仕えた重臣でした。
比自山城での伊賀衆の計略を見ていた長秀は、援軍を偽物と見抜き、混乱を速やかに収束させてしまいました。
脱出作戦・・・失敗!!

もはやこれまで・・・1581年10月28日柏原城開城・・・
伊賀の自治独立は、ここに消滅しました。
信長の容赦ない処分が・・・
各地の城は焼き払われ、神社仏閣は破壊されました。
そして男女の差別なく、多くが処刑されました。
運よく他国に逃げ延びたものの・・・半数の伊賀衆が犠牲になったといいます。
それから数日後、見聞のために織田信長が伊賀に入りました。
山の上から伊賀の国を見下ろしていた・・・その時、事件は起こりました。
数発の銃弾が信長に向けて放たれたのです。
伊賀の忍の残党でした。
しかし、弾はいずれも外れ、忍びは姿を消したといいます。
伊賀の執念は、最後まで信長を脅かしたのです。

その後も伊賀への警戒を緩めなかった信長・・・
その城が、信長が伊賀支配のために築いた滝川氏城・・・。
巨大な本丸跡は、伊賀のそれまでにはないものでした。
その一方、形は伊賀の館城と同じ・・・そこに信長の心境が表れています。
当時の織田のお城の作り方とは全く離れていますが・・・伊賀の城に織田の城が合わせにいっています。
伊賀の人に分かりやすい館城のお化けのような巨大なお城が作られたのです。
自らの力を誇示しつつ、慎重に支配を進めた信長・・・
伊賀を織田の直轄地とし、地侍たちが再び力をつけないように統制を図ります。

しかし・・・1582年6月2日、本能寺の変・・・信長は、突然この世を去ります。
天正伊賀の乱から8か月後のことでした。

信長の死後、天下人は秀吉から家康へと移り、戦国乱世の終焉を迎えます。
他国へ落ち延びていた伊賀衆の中には故郷に帰る者もいました。
しかし、伊賀がかつての自治独立を取り戻すことはありませんでした。
そんな伊賀の忍び達に目をつけたのが、徳川家康でした。
服部半蔵のもとにまとめられた伊賀者たちは、江戸時代、将軍家の隠密や江戸城の警備などを務めます。
伊賀者たちの評判は、全国に知れ渡り、諸藩の大名達にも雇われるようになります。
ある者は諜報活動を行い、ある者は藩主の身辺警護を務めたりしました。

伊勢の関宿にある江戸時代から370年続く老舗の和菓子屋・・・
そこには、忍者の末裔が住んでいました。
服部家には、まだ世に出ていない資料がたくさん眠っています。
関宿は、東海道五十三次の宿場町です。
多くの人が行き交い、各地の情報を得るにはうってつけでした。
店のその目の前には、将軍家の宿泊所である御茶屋御殿がありました。
家康はじめ、将軍が上洛する際に、宿泊した場所だったのです。

服部家の資料は、多くのご先祖が忍びの経歴があったことを伝えています。
もしかしたらこの和菓子屋で、代々徳川家を支えるために、忍者の仕事をしていたのかもしれません。

戦国から江戸時代へ・・・幾多の試練を生き抜いた忍者たち・・・故郷で培った忍びの術は、形を変えてその暮らしを支え続けたのです。

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明治天皇は在位中、北は北海道から南は鹿児島まで全国巡幸を繰り返しました。
学校や工場など訪れたところで多くの人々と接した天皇・・・そのわけは、新政府を率いた大久保利通たちの戦略でした。
幕末動乱のさ中、14歳で即位となった明治天皇・・・その存在は、まだ全国に知られていませんでした。
無名の青年君主を、新しい日本を導く天皇としてあまねく知らしめる・・・
巡幸は、人々の心にどのように印象付けたのでしょうか?
そしてどのように受け入れられていったのでしょうか?

幕末の動乱・・・明治維新・・・天皇は大きな時代の流れに飲み込まれていきます。
1868年鳥羽伏見の戦いで旧幕府勢力に勝利した新政府は、新しい国づくりに着手します。
この時、大久保、西郷、木戸らが構想したのは、天皇を中心とした国家でした。
しかし、そこには乗り越えなければならない壁がありました。
当時、多くの国民にとって、天皇は遠い存在だったからです。

京都では、行事もあり、御所もあるので天皇の存在は当然でしたが・・・
普通の人々に天皇の存在は知られていません。
かなり茫漠としたもの・・・江戸では天皇は神様のような存在だったのです。

江戸時代、天皇は御所の外にはほとんど出ませんでした。
民衆の抱く天皇には、多くのばらつきがありました。
そこで、天皇の存在を知ってもらう必要がると感じた大久保は・・・

”天皇が玉廉の中にいて、公卿にしか会えないのでは、民の父母であるという天から授かった職掌を達成できない
 外国においても、帝王は国中を歩き、万民を慈しむものである”

新しい時代の天皇は、人々に姿を見せる西洋の君主になるようにと、大久保は考えました。
1868年、大久保たちは、天皇を御所の外に出すことから始めました。
3月大坂行幸、7月東京行幸を計画します。
天皇はその求めに応じ、9月20日、京都から東京へ出発。
道中、民衆とのふれあいを楽しみます。
そして20日後の10月13日、江戸城へ到着。
東京では大勢の人々が天皇を祝福。山車が繰り出され、2日間にわたるお祭り騒ぎ・・・
ひとまず新政府は、京都以外の人々に天皇をアピールすることに成功しました。
そして、東京は西洋諸国に倣って文明開化!!
そして、天皇自身が新時代にふさわしい天皇になることを求め始めます。

天皇のイメージチェンジ・・・
明治神宮には、明治天皇が明治5年に着用した燕尾服と帽子がが残されています。
帽子には鳳凰の刺繍、ボタン掛けの上着は、菊唐草紋の刺繍で覆いつくされています。
金の糸をふんだんに使った豪勢な作り・・・

tennou

天皇の軍服は、主に儀式などで使われたと思われます。
黒羅紗の地に金モール・・・天皇は20歳の時、この軍服を身にまとい、カメラの前に・・・

明治天皇の代表的な肖像写真です。

白粉やお歯黒を落とし、ひげを蓄え、威風動堂な姿・・・
江戸時代の天皇とは全く違う天皇が誕生したのでした。



明治天皇は、全国巡幸で訪れた先々で、花瓶や茶碗などを下賜しました。
それらは、大切に保管され、人々は後々まで天皇のことを語り継いでいきます。

権威や徳の大きさを印象付けるだけが巡幸の目的ではありませんでした。
群馬県では新町の中心にあった工場を視察しています。
巡幸の前年に作られた工場に、明治天皇は1時間滞在しています。
この工場、明治10年にできたときは屑糸紡績所でした。
この紡績所で屑糸をリサイクルし、生糸を作っていたのです。
ここは、大久保や岩倉らが新たな外貨獲得を目的として建設した政府肝いりの工場でした。
もともと群馬には、フランスの技術を導入し、輸出用の生糸を生産していた富岡製紙工場がありました。
この製糸場に近く、屑糸が手に入りやすいため、屑糸紡績所を作ったのです。

明治天皇は全国巡幸で、工場をはじめ近代化の象徴とされる施設を多数訪問しました。
学校、地方行政を担う庁舎、天皇ができたばかりの施設を視察することで、文明開化や殖産興業を図ったのです。



巡幸は、人々が明治天皇を広く知ることだけではなく、天皇自身が為政者としての自覚を促すきっかけになったといいます。
天皇に日本の隅々までご覧いただきたい・・・日本はこれだけ広くて、これだけいろんな地方がある・・・
豊かなところもあれば、そうでないところもある・・・それも含めて日本だ・・・ということを、新しい時代の天皇として知っていただきたい・・・。
巡幸を通じて、君主としての自覚が生れてきたのです。
巡幸なくして、意識の変革はなかったのです。

1878年・・・明治11年5月、事件が発生!!
大久保利通暗殺!!
赤坂上御所に向かう途中、紀尾井坂でのことでした。
実行犯たちは斬奸状を起草して、明治政府を糾弾!!

現在の法律は天皇の御威光でもなく、人民の意見を取り入れて作られたものでもない。
要職にいる一部の官吏の独断によるものである。

この事件を契機に、宮中で天皇の在り方を変えようとしていた勢力が動き出しました。
中心となったのが、熊本藩出身の儒学者・元田永孚や土佐藩出身で新政府の参議も務めた佐佐木高行・・・侍補と呼ばれる側近たちでした。
侍補は明治10年に天皇の補佐・指導を目的として宮内省に置かれた役職で、天皇の傍に仕えながら、政治や道徳を教え、相談を受ける役割を担っていました。
天皇が主に学んだのは、元田の意向を反映した書経や詩経・・・儒学の古典でした。
侍補たちは、天皇を「徳」を備えた聖人君子にしようとしたのです。
大久保が暗殺された直後、侍補たちは、かねてからの構想を実行に移しました。
大臣・参議による専制を批判し、天皇が政治の実権を握る天皇親政を進めるべきだと言ったのです。

薩摩・長州の一部の人間が牛耳り、陛下の意向を無視して進められている・・・
このままだと天下の人心に不平が起こり、政府要人を狙った暗殺事件が再び起きるかもしれない・・・
今こそ、古代中国の聖人君子のように徳を備えた聖人君子となり、天皇親政を実現しなければっ!!

明治天皇は涙を浮かべて奏上を聞き、侍補たちに同調しました。
自ら政治に介入する動きに出ます。
当時空席となっていた工部卿に佐佐木高行を推薦。
しかし、それは天皇親政を恐れた太政大臣・三条実美らに認められず、実現できませんでした。
天皇親政運動の結果としては「天皇の政治的意思は内閣が担う。もう侍補は要らない」となったのです。

政府の外でも動きが・・・地方の士族や豪農を中心とする自由民権運動です。
国民の自由や権利の拡大を目指した政治運動で、国会開設と憲法制定を要求しました。
国民主体の政治を目指しました。
運動の過激化を防ごうとした政府は、明治14年、9年後の国会開設と憲法制定を表明します。
憲法の制定作業に本格的に取り組むことなります。
この動きの中心となったのが、大久保亡き後政権の中枢にいた伊藤博文でした。
当時、政府よりも早く民間では様々な憲法案が発表されていました。
議会優越、天皇大権・・・天皇の廃位を求めるモノまで・・・天皇を憲法の中でどこに位置付けるのか??
憲法制定の中核を担った伊藤は頭を悩ませていました。

そんな中、明治15年3月、伊藤は憲法調査のためにヨーロッパへ。
そしてウィーンで重要な人物と出会います。
ウィーン大学の法学者ローレンツ・フォン・シュタイン教授です。
伊藤はこの講義を受け、感銘を受けます。
シュタインの教えは、君主に一定の統治権を認めつつ、行政を中心に据えることで君主や議会の横暴を止めるというもの。
当時ヨーロッパの新興国だったドイツ・プロイセンの考え方・・・立憲君主制でした。

明治16年8月、構想を固めて伊藤博文帰国。
政治に復帰した伊藤は宮中改革を進めますが・・・
そこに直面したのは、自らの意思を反映できずに政治への意欲を失った天皇の姿でした。
たまりかねた伊藤は、明治18年8月、三条実美に書簡を認めます。
政務に熱心でない明治天皇への嘆きが率直に書かれています。

天皇の知らないところで、大臣たちが全てを決めているという現状・・・。
明治天皇に立憲君主としての在り方をどう理解してもらうのか??
伊藤の苦悩は深かったのです。

明治天皇にどのようにして憲法を学んでもらうか・・・伊藤には秘策がありました。
「澳国スタイン博士講和録」・・・伊藤と同じくシュタイン博士の講義を受けた人の記録です。
侍従の藤波言忠は幼いころから宮中に出入りし、天皇の信頼も厚い学友でした。
伊藤は当時ヨーロッパで滞在していた藤波に目をつけ、ヨーロッパでシュタインのもとで憲法を学び、帰国後明治天皇に進講することを要請します。
藤波はおよそ1年にわたりシュタインの憲法を徹底的にたたき込まれ、天皇の立憲君主としての心構えまで学んで帰国しました。
明治20年に始まった進講は30回以上、4か月に及んだといいます。
憲法を熱心に学ぶ明治天皇・・・。

藤波は、立憲君主の仕組みを工夫を凝らして説明し、天皇を助けます。
何から何まで自分が統治するのではない・・・法律の中にあるのが天皇である!!
明治21年春まで続いた進講によって、明治天皇は憲法の中に規定されている自らの役割を理解し、理解を深めていきました。
伊藤の目論見通り、天皇は新しい立件国家に相応しい君主へと成長したのです。

明治21年6月、憲法草案について最後の審議が行われました。
天皇の諮問機関として設けられた枢密院・・・1か月にわたり伊藤を議長とし、皇族や大臣が参列する中、激しい議論が行われます。
憲法の制定に深い関心を示す天皇の姿・・・明治天皇は一度も欠かすことなくご臨席されます。
夏の暑い時に、長時間の難しい議論もじっと聞いていられる・・・根気のいることでした。
明治22年2月11日、大日本帝国憲法発布。
新築された宮殿で、天皇御隣席のもと、盛大な式典が催されました。
憲法で天皇はどう位置付けられたのか??
第1条・・・萬世一系の天皇これを統治す・・・天皇家が日本の統治権を担うことを宣言。
その一方、第4条で天皇の統治権は憲法の条規により・・・憲法の従うことが明記されました。
立憲君主として憲法の制約を受ける天皇の役割を明確に規定した憲法となりました。

皇居前広場・・・憲法発布の前に式典公開のために整地された敷地です。
宮殿での発布式を終えた明治天皇と皇后は、馬車に乗ってパレードを行いました。
皇居前広場は、多くの民衆で溢れ、憲法発布を祝いました。
喜びの声は、東京から各地へと広がります。
幕末維新の動乱のさ中に即位した明治天皇・・・
それから22年・・・近代日本の立憲君主として国民の前にその姿をようやく定着したのでした。


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大阪市中央区にある純白の大聖堂・・・カトリック大阪大司教区・大阪カテドラル聖マリア大聖堂・・・
荘厳な大聖堂の正面には、生母マリアが日本画壇の重鎮・堂本印象によって描かれています。
マリアの前に跪く女性は、戦国時代きっての美女とうたわれた細川ガラシャ。
ガラシャは、織田信長を本能寺で討った明智光秀の娘で、乱世を生き抜いた細川忠興の妻です。
豊臣秀吉、徳川家康の天下取りに翻弄され、悲劇的な死を遂げたガラシャ・・・。

世は大航海時代・・・南蛮渡来の先進文化が日本にも押し寄せ、宣教師たちがもたらしたキリスト教は庶民にまで広がっていました。
そして、キリスト教に入信したガラシャには、過酷な運命が待っていました。

1574年正月、織田信長の居城・安土城のこと・・・天下統一に邁進する信長は、重臣・明智光秀の娘・玉を細川藤孝の息子に嫁がせるように命じました。
信長は、政権基盤確立のために、家臣たちに婚姻でむすびつけ、強大な結束を結ぼうとしていました。
光秀の娘・玉子・・・後のガラシャ12歳は、夫・忠興も同じ年でした。
信長の命令から4年後、16歳になった玉子は細川忠興のもとへ輿入れしました。
玉子が嫁いだのは、京都・・・長岡京市にある勝竜寺城・・・陸の交通と水運の要衝に位置したこの城は、今は公園となっています。
城内には、玉子が嫁いだころからの井戸が残っています。
玉子はどんな女性だったのでしょうか?

結婚から間もなく一男一女をもうけた玉子と忠興夫妻・・・
戦での功績も目覚ましく、細川家は信長から丹後国を与えられます。
はれて12万石の城持ち大名となった細川家・・・玉子の未来も限りはありませんでした。
ところが・・・玉子の人生を一変させる事件が起こります。
1582年6月2日・・・本能寺の変・・・父・明智光秀が突然織田信長を襲います。
光秀は、娘・玉子の嫁ぎ先の細川家に援軍を求めます。
羽柴秀吉らに対抗する為に・・・!!
しかし、細川藤孝・忠興親子はこれを拒絶!!
藤孝は出家し、信長を弔う姿勢を見せます。
忠興は怒りのあまり、光秀の使者を斬り殺さんばかりでした。
援軍を得られないまま秀吉との決戦に敗れた光秀・・・。
その他の明智一族も、玉子を除いてほとんどが命を落としました。
細川家の嫁でありながら、謀反人の娘となってしまった玉子・・・人生最初の選択に迫られます。

明智の娘であるから、謀反人の娘として生き恥をさらすなら自害すべき??
この時、玉子は3人目の子を身籠っていました。
「御身の父光秀は、主君の敵なれば同室叶ふへからす」by忠興
忠興は、玉子を離縁して、三戸野に幽閉しました。
要害の地で切ない日々を過ごす玉子・・・。



細川家は、形勢が逆転し、明智の味方が増えたなら・・・
玉子を生かしておくことで、両天秤にかけたのです。
男たちの思惑によって、子供たちと離れてしまった玉子・・・。

身をかくす 里は吉野の奥ながら 花なき峰に 呼子鳥なく

「謀叛人の娘」というレッテルを貼られたものの、子供に細川家を継がせることで、明智の血を後世まで残すこと・・・
明智家からついてきた侍女や家臣も守らなければいけない・・・
そのためにも、自分が今、命を絶つわけにはいかない・・・
幽閉の翌年、水戸野で男児を出産した玉子・・・数え21歳でした。

幽閉から2年・・・信長のあと天下の実権を握った秀吉は、大坂に大きな城を築きつつありました。
党第一の実力者となった秀吉から、玉子との復縁を許された忠興・・・
父・光秀を討った秀吉の許しで、玉子は大坂城下の細川邸に正室として返り咲きました。
秀吉が美貌で噂の玉子との面会を望んだ時・・・

「秀吉は父の仇・・・殺されても出ていくことはありません。
 それでも強いてということなら、懐剣で刺し殺し、復讐を果たします。」by玉子

気丈に振る舞う玉子でしたが、忠興は厳しく監視します。
それは、嫉妬とも旧織田勢から守るためだったともいわれています。
謀反人の娘というレッテルを貼られた世間の目に苦しんで、精神の変調をきたす玉子。。。
細川家の正室としての態度をしっかりとしながらも、閉じ込められた苦しさ、悩み、ストレス・・・
その葛藤が気鬱となって現れます。

この頃、世界は激動の時代を迎えていました。
航海技術の発達によって、スペインとポルトガルがアジアやアメリカに進出していました。
新たな交易ルートの開拓や、領土獲得を目的とした大航海時代の到来です。
スペインとの覇権争いの中、ポルトガルが日本に・・・
南蛮船との交易で、利を得ようと大名たちは自領の港を開きました。
南蛮船によって、イエズス会の宣教師も来日・・・宣教師たちは有力大名たちに領内での布教を認めさせていきます。
大名の中にも自らキリスト教に入信する者も相次ぎます。

大阪府高槻市・・・かつてここは、キリシタン大名として知られる高山右近の領地でした。
領内からは、キリシタンゆかりの品が見つかり、キリスト教が広く普及していたことを伺わせます。
キリスト教は、広く人々に受け入れられます。
大坂城築城と同時期に、キリスト教に入信する大名が増加します。
その多くが、黒田官兵衛ら大坂に直接地縁のない武将たちでした。
天下統一に向け各地から来た彼等は、キリスト教で団結を図ったとも考えられます。
キリスト教に興味を持った人の中に、気鬱になっていた玉子もいました。

1587年秀吉の命令で、忠興は九州へ出兵!!
忠興の留守中、玉子は屋敷近くの教会へ向かいます。
これをきっかけにキリスト教に傾倒していく玉子・・・。
キリシタンの考え方は、基本的に一夫一婦制。
自分の疑問に・・・心の葛藤を解決してくれるのは一体何なのか??
それは、儒教的考えや仏教的教訓ではないと考えるようになります。
キリシタンの教えを勉強するようになります。

抑えがたい衝動にかられた玉子は、キリスト教への入信を決意し、洗礼名をガラシャに・・・。
それは、ラテン語で恩恵を意味するグラティアを意味していました。
キリシタン細川ガラシャの誕生でした。

西洋の文物は、土豪出身の戦国大名の権力を高める文化になりました。
おまけに実利がある・・・。

1587年6月、九州を平定した秀吉は驚くべき法令・・・伴天連追放令を出します。
それは、キリスト教を邪法をし、バテレンは20日以内に国外退去せよというものでした。
領内でキリスト教に深く帰依している大名たちに危機感を抱いたからです。
見せしめに南蛮寺と言われた教会が、京都をはじめ50カ所以上破壊されました。
宣教師たちの多くは、一旦長崎に逃れ、潜伏を余儀なくされます。
ガラシャは心を痛め、苦悶の日々を送ることとなります。

伴天連追放令から11年後・・・秀吉の死によって新しい展開が・・・
秀吉亡き後、天下取りに動いた徳川家康!!
これに対抗したのが石田三成!!
ガラシャの夫・細川忠興は、家康に味方しました。
家康は会津征伐のために、伏見城から京を出ました。
忠興も軍を率いてこれに従います。
忠興は、出陣に際しこう言い残します。

「ことが起きれば恥を着せられぬよう振る舞え」

これが、ガラシャの人生を大きく変えることに・・・
忠興らの出陣から間もなく、大坂で噂が立ちます。
家康に従い関東に出陣している諸大名の妻を石田方が人質として大坂城に取り入れるというのです。
時を置かず、細川邸に石田方から密かに使者が・・・

「内々に大坂城へご登城されたい」

ガラシャを人質に出し出せとの要請でした。
ガラシャは毅然と言い放ちます。

「夫・忠興のためにはどのようなことがあっても同意できません」

しかし、彼女は大きな問題を抱えていました。
登城を拒否し続けていれば、いずれ力づくで拘束に来る・・・
その時は、夫の言いつけを守り命を絶たなければならない・・・
しかし、キリスト教は自殺を神に対する罪としている!!
忠興の出陣から3週間・・・石田方は正式な使いを差し向けガラシャに登城を迫ります。
家臣たちはガラシャを守るために、細川家の重臣たちは、細川の本拠地丹波に逃がそうと考えていました。
事ここに及んでは人質になるしかないのか・・・??
それとも身をかくすのがいいのか・・・??
それとも自害する・・・??
自害を禁じているキリスト教・・・その時は、神が決めるのだ・・・!!
神はどこまで私に試練を与えるのか・・・??

1600年7月17日、石田方に取り囲まれた細川邸から火の手が・・・
ガラシャは屋敷に火を放たせ自害を選びました。

最後を見届けた侍女が後に語っています。
細川家の重臣たちが相談し、いざという時に表門で石田方を防いでいる間に、自害する手はずになっていました。
その日の夜・・・敵が門まで迫ってきたとき・・・守備隊の寝返りもあって「もはやこれまで」と、重臣に長刀で介錯させ、ガラシャは自害しました。
そしてこの様子を侍女に忠興さまに伝えるようにと逃がすのでした・・・。

潜伏していたイエズス会の神父が、焼け跡にガラシャの骨を拾いにやらせ葬儀を行ったと言われています。
イエズス会の記録にガラシャの死はこう書かれています。

”ガラシャはその死を受け入れ、強い勇気をもって主の御旨に従い、その手にあるものとして亡くなった”

キリシタンであったけれども、最期は家に殉じた自害でした。

ガラシャはその生涯を終えるにあたり、辞世の句を書いています。

”ちりぬへき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ”

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細川ガラシャ―散りぬべき時知りてこそ (ミネルヴァ日本評伝選)

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朱なる十字架

1465年9月13日、巨大な流星が京都上空に飛来しました。
人びとはこれを”天狗流星”と呼び、不吉の前兆とおののきました。
その2年後、京を焼き尽くす戦乱が勃発!!
11年にわたる応仁の乱です。
武士による空前の長期戦は、将軍継嗣問題、有力大名の家督争い、貿易権益の奪い合い、幕府内の権力闘争など、多くの利害が入り乱れ、京を戦乱の世に変えました。

乱の始まりは畠山義就と畠山政長の家督争いでした。
ここに足利義政・正室日野子と足利義視・義尚親子の将軍継承問題。
山名宗全と細川勝元の権力闘争が絡んできます。

乱の発端となった畠山氏の抗争とは・・・??
京都・観光客でにぎわう神社仏閣の多くが、応仁の乱で被害を受けました。
清水寺も例外ではありません。
清水の舞台へと続く轟門・・・2014年の保存修理工事の際に、門の礎石周辺から焼けた土の層が発見されました。
その年代から応仁の乱の戦火を被ったとされます。
祇園祭で知られる八坂神社にも資料が残っています。
1466年と1477年の地検帳・・・当時の市民の生業や家の大きさがわかる住民台帳ともいえます。
残されていたのは京都の中心部、室町通りと西洞院通の下京2ブロック分です。
二つの帳面を比較すると、乱の後は154軒から60軒と・・・住民や商店が激しく減り、空き地が増えています。
一方で両方に書かれている残った家もありました。
応仁の乱からの復興を生き生きと描いた”上杉本洛中洛外図屏風”には、将軍が暮らし政務を執った室町殿は花の御所と呼ばれ、その壮麗さを誇りました。
市民たちの姿も細密に書かれています。

畠山氏惣領は、持国に子供がおらず、弟・持冨に家督を譲ることになっていました。
しかし、持国は家督継承者を庶子の義就に変え、時の将軍・足利義政もこれを認めました。
これに不満を持ったのは、持冨の子・弥三郎でした。
弥三郎は義就達に戦を挑み勝利!!
将軍・義政はこれに態度を変え、弥三郎を継承者と認めます。
これにより持国は隠居、義就は京を去ることになりました。

畠山家の争いの背後にいたのは、管領の細川勝元と有力大名の山名宗全。
彼等は内紛を煽り、弱体化させることで自分達の権力強化を企んでいました。
それを知った将軍・義政は、幕政の主導権を握らせまいと、勝元の家臣を処罰し、宗全を隠居させました。
さらに、弥三郎に家督を許した4か月後、義就を再び家督に据えます。
この措置に弥三郎は没落、弟・政長に後を託してこの世を去りました。
しかし、義政は、義就が意にそぐわない行動をとるので、政長を家督としました。
細川勝元は、政長に管領を譲り恩を売って後ろにつき、強大な権力を得ます。



室町幕府の中央政府は・・・
将軍の補佐役の管領が大きな力を持っており、細川・畠山・斯波の足利一族のうちの一つだけが就くことができます。
侍所の長官は所司と呼ばれ、侍所所司を務めるのは山名・赤松・京極・一色の家に限られていました。
これらを三管四職といい、彼らを中心に諸大名が連合政権的に室町幕府は運営されていました。
大名達の力をと弱めないと、将軍は上に立つことができませんでした。
細川勝元は、畠山氏の分裂を煽って、政治の主導権を握ろうと考えました。

将軍・足利義政は、正室・日野富子との間に嫡子がいなかったので、後継者として僧侶になっていた弟を還俗させ義視としました。
しかし、1年後・・・義政と富子の間に義尚が誕生。
義政はまず弟・義視に将軍を譲り、息子の成長を待って義尚を将軍にするつもりでした。
義政の真意は、将軍を退いた幕政に影響力を残すことでした。
これに細川勝元も異論はなく、富子も妹が義視の妻で良かったのですが・・・山名宗全はそうではありませんでした。
宗全の考えは、義政の政界からの完全引退でした。
義視が正真正銘の将軍にと思っていたのです。
それでは管領は・・・??
山名宗全は、斯波義廉に娘を嫁がせていました。
斯波家は管領になれる・・・ということで、娘婿を管領にしたかったのです。
そして実権は自分に・・・!!

1466年12月、都を不穏な空気が私費足ました。
家督を奪われ京を離れていた畠山義就が山名宗全の求めに応じて数千の兵を従えて上洛したのです。
幕府の実権を細川勝元と畠山政長に握られた宗全は、これに対抗すべく畠山義就に接近していました。
宗全は勝元とたもとを分かち、政権奪取に・・・!!
義就の軍事力を目の当たりにした将軍・義政は、早々に義就の家督を認めます。
政長は家督を取り上げられたばかりか管領も罷免され、幕府内に居場所を失いました。
新しい管領には宗全の娘婿・斯波義廉がつき、剛腕フィクサー宗全のクーデターは成功しました。

これは終わりではなく・・・11年に及ぶ戦乱の始まりでした。

京都市上京区にある御霊神社・・・管領の座を追われ、京を離れるかと思っていた畠山政長はここに陣を敷いて義就に決戦を挑みます。
将軍・義政はあくまでも畠山氏の騒動として諸大名が加勢することを禁じます。
1467年1月18日、両畠山軍は激突!!
戦は義就の圧勝!!
しかし、敗走する政長軍に山名宗全の配下が追い打ちをかけます。
武士のメンツをつぶされた勝元はおさまらず、各地の軍勢に声をかけて宗全との対立が表面化していきます。

1467年5月26日、細川勝元軍は、花の御所・室町殿の向かいにある山名方の屋敷を襲い占拠。
山名方も宗全の娘婿・斯波義廉らの軍勢が応戦し、戦はみるみる上京一帯に・・・!!
ついに応仁の乱は、本格的な戦闘に突入しました。
翌日の夕暮れまで続いた激戦で、多くの寺院や家屋が焼失しました。

海鮮から二日後、将軍・義政は両軍に停戦を命じます。
これによって一旦戦闘はやんだものの、細川勝元は宗全との戦いを有利にするために、義政に将軍旗を求めました。
これまで中立を保とうとしていた義政を自分の方に引きずり込もうというのです。
圧力に押された義政は、勝元に将軍旗を与えました。
幕府は細川側に組することとなったのです。
かくして室町殿の西に陣取る山名方は西軍、東に陣取る細川方は東軍となります。
義政は弟・義視を東軍総大将にし、応仁の乱は泥沼化していきます。

応仁の乱による混乱で、京では商売が停滞し、食べ物にも不自由する状況に陥っていました。
しかし室町時代は商品経済が発展し、商店や行商による取引が盛んにおこなわれた時代でした。
女性も財産を持つことを認められ、経済活動で重要な地位をしめました。
時代の変化により、女性の社会進出が進んだ時代でした。

更に拡大する戦・・・
山陰から北九州を領国としていた大内政弘が・・・!!
大内は莫大な利益を得る日明貿易や瀬戸内海の制海権を巡って細川勝元と対立関係にありました。
勝元が幕府の覇権を握ることは、大内には見逃せないことでした。
東軍にとっても大軍をもって京に上ってくる大内は脅威でした。
東軍総大将・足利義視は大内の上洛前に西軍に内通する者を粛正しました。
しかし・・・1467年8月23日、遂に大内政弘が3万の軍勢を引き連れて京に現れました。
この時、東軍で思いもよらない事件が起こります。
大内の参戦に恐れをなした足利義視が、室町殿から姿をくらましたのです。
総大将がいなくなってしまった!??
大内の援軍を得た西軍は、室町殿、細川邸を取り囲み、一触即発の事態に至ります。
そして10月2日、室町殿の東、相国寺で大合戦が行われます!!
相国寺に陣を張っていた東軍に、西軍の畠山義就、大内政弘らが攻撃を仕掛けます。
3代将軍・足利義満が建立した大伽藍は、3日にわたり燃え続けたといいます。
その後、西軍は東軍の反撃を受け、寺の蓮池に足を取られて600人もが討たれたといいます。

壮絶な相国寺合戦以降、応仁の乱は小康状態に・・・。
1468年9月・・・きっかけは伊勢に逃れていた足利義視が将軍・義政の要請にこたえて上洛しました。
義視は復帰の条件として、幕府内で自分と対立する勢力の一掃を要求します。
が、義政に聞き入れられず、義視はまたもや出奔。
そしてあろうことか敵方・・・西軍に身を投じました。
奇怪な行動を見せる義視・・・その真意とは・・・??

足軽・・・応仁の乱で存在感を高めた戦力で、東西両軍とも彼らを雇って戦闘を繰り広げました。
略奪や放火によって敵を疲弊させるのが彼らの目的で・・・しかし、それは京都の町や人々に大きな被害をもたらしたのでした。

1469年・・・応仁の乱3年目・・・元号は文明に。
長引く戦乱を避け、公家や僧侶などの知識層は、洛中から逃れていきました。
これが連歌や茶の湯が各地に伝播することとなり、小京都という都市ができていきます。

幕府の中枢を担う斯波家の領国・越前・・・
斯波家は西軍山名宗全の娘婿・斯波義廉と、東軍・斯波義敏に分かれて家督を争っていました。
戦闘の末、越前を平定したのは、東軍の義敏でした。
敗れた西軍の義廉は、猛将として知られた西軍の足利孝景をむかわせ領国奪還に・・・!!
東軍はかねてからこの朝倉に目をつけていました。
西軍主力の朝倉に調略をしかけ、寝返りを誘っていたのです。
朝倉の条件は、自らを主君の領国・越前の守護とすること・・・勝元はこれを認め、朝倉は東軍に寝返ります。

越前を失ったことは、山陰に領国を持つ山名や大内にとって大きな痛手となりました。
それは西軍が日本海側からの補給路を断たれたことを意味していました。

1472年・・・応仁の乱6年目・・・
東軍・細川勝元と西軍・山名宗全は和平交渉に入りました。
しかし、東軍優勢の中の和睦に、畠山義就、大内政弘、足利義視は強く反対し、交渉は頓挫!!

1473年の暮れ・・・応仁の乱から7年目・・・
大きな転機が訪れます。
足利義政が将軍の座を息子の義尚に譲ったのです。
これで長年政権の行方を左右してきた将軍継嗣問題は一応の決着を見ます。
この年の3月18日、西軍を率いて幕府に反旗を翻して来た山名宗全が死去。
その2か月後の5月11日、東軍の総帥・細川勝元も死去。
細川・山名の後継者は和睦交渉を再開し、翌年山名が幕府に帰参することでおさまりました。
しかし、西軍の畠山義就と大内政弘はこの和睦を認めず、徹底抗戦の構えを崩しませんでした。

義政の正室・富子は義視の義理の姉でもあります。
富子は夫・義政と義視の間を取り持ち、1476年・・・応仁の乱10年目で両者の和解を取り付けます。
富子は西軍の好戦派・大内政弘と幕府との交渉を進めます。
その結果、大内は領国4か国の守護職を安堵され、官位も上がるという厚遇を得て和睦。
最後まで矛を収めなかったのは、乱の発端となった畠山義就でした。
しかし、大内が撤退することとなり、孤立した義就も京を去らざるを得なくなりました。
1477年、応仁の乱は11年目にして収束したのでした。

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水郷の町として知られる福岡県柳川市・・・
江戸時代、柳川藩10万9000石の城下町として栄えました。
城跡には、明治時代に旧藩主が立てた洋館や、江戸時代の壮麗な大名庭園があります。
ここの旅館を経営しているのは・・・柳川藩主・立花家の子孫です。
戦国大名に連なる家が、今も城内の屋敷を守り続けているのは全国でも珍しい・・・。

柳川藩の礎を築いたのは、立花宗茂・・・当今無双の勇士と秀吉に称えられ、西国一の猛将と言われていました。
宗茂の戦歴はすさまじく・・・秀吉の天下統一戦争にことごとく参陣、江戸時代には大坂の陣、島原の乱で活躍し、その武勇を轟かせました。
そんな宗茂の生涯で最大の試練となったのは、関ケ原の戦いでした。
東西両軍の決戦は、わずか半日で終了・・・
宗茂のいる西軍の大敗北に終わりました。
決戦に参加することもできず、宗茂は敗者となりました。
しかし・・・宗茂には秘策が・・・??

福岡県柳川市・・・その中心に水堀に囲まれた広大な敷地に柳川城址があります。
資料館には・・・関ケ原合戦時の立花宗茂愛用の甲冑が残されていました。
その甲冑は、戦いの神・摩利支天を模し、鉄の地金が厚く、実践向きです。
体格は非常に大きく・・・身長175cmから180cmの間ではないかと言われています。
天下無双と呼ばれた武将・・・立花宗茂・・・その武勇は、二人の父親から譲り受けたものでした。
宗茂は、1567年、九州筑前の武将・高橋紹運の長男として生まれました。
宗茂が紹運から譲り受けた刀・・・鎌倉時代の名工長光の剣・・・宗茂が15歳で養子に出されるとき、敵味方に分かれたらこの剣で父を討ち取るようにと言われたという・・・
紹運からは、武将としての覚悟をたたき込まれました。
もう一人の父・養父・立花道雪。
道雪は勇猛果敢で知られているが、彼が与えた刀は、道雪が雷神を一刀両断にしたという名刀・雷切丸。
切っ先が変色しているのは、雷神を切り裂いた証だといいます。
道雪の猛々しさをよく伝えています。
二振りの刀を常に戦場に持ち、武勇に長けた宗茂・・・
道雪から家督を譲り受け立花家を継ぎます。
主は、紹運や道雪が仕えた大友宗麟。
九州北部・6か国を治める大名でした。
海外の文化をいち早く取り入れたキリシタン大名としても知られています。

九州は動乱の時期を迎えていました。
島津が急速に版図を拡大し、大友に迫ってきていました。
同じころ、中央では豊臣秀吉が台頭し、瞬く間に畿内や中国地方を制圧し、四国まで勢力圏を広げていました。
島津の圧迫に・・・1586年4月、大友宗麟、秀吉に救援を求めます。
大友が服属したことで、宗茂も秀吉の配下となりました。
5万の大軍勢を率いて大友領に侵攻した島津軍は、九州の要・筑前に狙いを定めました。
この時、宗茂に任されたのは、北の玄関口・博多湾を押さえる立花山城。
実父・紹運はその先の要衝・岩屋城で南から迫る島津の大軍勢を待ち構えました。
島津軍の猛攻に、紹運はわずか70余りの兵と共に徹底抗戦!!
しかし・・・兵力の差は大きく、7月27日岩屋城は陥落、紹運は自刃し、籠城兵はことごとく討死という非業の死を遂げました。
島津の次の狙いは立花山城・・・大小7つの峰に砦が築かれた山城です。
若干20歳の宗茂は、兵1700と共に籠城しました。
8月、立花山城を囲んだ島津軍は、宗茂に降伏を呼びかけました。
宗茂はこう答えます。
「関白秀吉公のご命令を守るのみ!!
 関白殿を捨ておき、島津に降伏するなど武士のすることではない!!
 実父・紹運はこの義を固く守り、見事に切腹して果てたというのに、自分だけ生き長らえて汚名を天下に伝えるなど、思いもよらぬことである。」と。
宗茂も戦死した父と同じく徹底抗戦を宣言したのです。

大軍勢の島津にどう立ち向かうべきか・・・!!

宗茂には勝算がありました。
籠城から1か月後、総勢20万に及ぶ秀吉の第一陣が九州に迫りました。
秀吉の九州征伐です。
この時を宗茂は待っていたのです。
秀吉軍の到来を聞いた島津軍は、8月25日撤退を開始!!
宗茂はこの機を逃しませんでした。
兵力わずか1500で場外へ出陣!!
撤退するしまずの大軍勢を果敢に追撃!!
宗茂の逆襲は、島津軍には思いもよらないことで、散々に蹴散らされたと言われています。
この時、父の守っていた岩屋城の奪還にも成功しています。
後の秀吉は、宗茂を「真に九州の一物」と、称え、大友の家臣から10万石の大名に取り立てました。
領地は築後の柳川・・・ここに、戦国大名・立花宗茂が誕生したのです。

しかし・・・1588年8月18日、豊臣秀吉死去。
豊臣政権を受け継いだのは、政務を司る五大老と実務を行う五奉行でした。
やがて五大老の筆頭・徳川家康と五奉行の筆頭石田三成の対立があらわに・・・
家康につくのか??三成につくのか・・・??

宗茂に宛てた三成の書状が残っています。
朝鮮出兵での宗茂の功績をたたえたものです。
三成は、宗茂を頼りにしていました。
1600年、家康は謀反の疑いありと五大老のひとり・上杉景勝討伐に動きます。
3万の軍勢を率いて会津に向かいました。
その隙をつき、石田三成は同じ五大老の毛利輝元を総大将に担ぎ出し、反家康の兵を挙げます。
宗茂は迷うことなく三成に味方しました。
「戦いの勝敗如何を問わず。
 ただ、秀吉公の恩義に報いるのみ!!」
宗茂は三成に求められた兵を越える4000の兵を率いて8月に上洛。
8月22日、宗茂達西軍は、美濃大垣に進出。
上杉討伐から取って返してくる東軍の大軍勢を待ち受けるためでした。
ところが西軍の大津城主・京極高次の裏切りが発覚!!
宗茂は三成の要請に従い、大津城攻略に矛先を変えることとなります。
琵琶湖の南に位置し、古くから交通の要所として栄えた大津・・・平地に築かれた大津城は、琵琶湖に突き出た湖上の城・・・。
攻め手の攻撃を阻む三十の堀に囲まれた守りの固い要塞でした。
9月7日、宗茂たちの大津城攻めが始まりました。
これに対し、籠城する京極勢は、夜討ちで対抗しようとしました。
しかし・・・
「立花は西国第一の猛将・・・
 世に知られた武勇の達人
 夜討ちの油断をするわけがない」
京極勢は、宗茂を恐れ、守りに徹したのです。

大津城をいかに攻略するか・・・
宗茂たちが注目したのは城の背後の長等山でした。
日本史上大筒を使用した攻城戦は、大津城の戦いが初めてです。
西軍は、長等山から大津城を攻撃!! 
前代未聞の攻撃に、城内は阿鼻叫喚となりました。
9月15日、大津城は陥落・・・京極高次は降伏し、城を明け渡しました。
宗茂達西軍の完勝でした。
同じ日・・・美濃では東西両軍が関ケ原へ転進。
東軍7万5000、西軍8万が激突!!
天下分け目の合戦・・・関ケ原の戦いの始まりでした。
緒戦は一進一退の攻防が続きます。

しかし・・・西軍に組しながら戦いを傍観していた小早川軍・1万5000が突然西軍に襲い掛かりました。
小早川秀秋の裏切りでした。
結果、西軍は総崩れ・・・戦いはわずか半日で東軍の勝利となりました。
大津城にいた宗茂は、まだこの事実を知りませんでした。

1600年9月15日、関ケ原の戦いに敗れた西軍の武将たちは、戦死する者、敗走する者が後を絶ちませんでした。
宗茂の一代記「立斎旧聞記」には、その後の宗茂の動向が記されています。
翌16日、大津城にいた宗茂に西軍敗北の報せが届きます。
東軍が石田三成の居城・佐和山城を攻めているという情報が入ります。

関ケ原のこと・・・事実であるに違いない・・・
ここは覚悟を決めなければならない・・・

17日早朝、宗茂は大津城を引き払い西へと向かいます。
当時、大坂城には秀吉の遺児・豊臣秀頼と西軍総大将・毛利輝元が対陣していました。
西軍が破れた今、どう行動すべきか・・・??
難攻不落の大坂城に籠城して迎え討つ・・・??
大坂城は北と東に川に守られ、南を低湿地が守る天然の要害・・・
秀吉はここに三重の堀を構え、当時最大の城を築きました。

2003年、現在の追手門近くで巨大な堀跡が発見されました。
幅22m、深さ6mの障子堀です。
障子堀は、秀吉を悩ませた関東の雄・北条氏の築城術です。
侵入してきた敵は、細かく仕切られた堀に手間取り、矢や鉄砲の攻撃にさらされます。
堀に落ちた者には逆茂木が待っていました。
大阪城の主要な出入り口3カ所にこのような堀が作られていたとされています。
秀吉が無くなる寸前に作っていました。
秀頼のことが心配で、城をより強固なものにするために掘られたのです。



大坂城を守る??それとも九州へ帰還??
関ケ原の戦いで毛利は動かず、小早川が裏切ったため、西軍は敗北した。
いくら難攻不落の大坂城とはいえ・・・心が一つでなければ籠城戦は出来ない・・・。
九州に帰還しても、宗茂には勝機がありました。
同じ西軍で、武勇の誉れ高い薩摩の島津義弘と手を組むという方法です。
前年、宗茂と義弘は起請文を交わしていました。

「この度の談合について、心の底から残らず互いに語り合ったことは、一切他言しないこと」

島津家は、そもそも立花宗茂にとっては実父・高橋紹運の敵でした。
しかし、秀吉の九州平定後は、親密な間柄になってきていました。

大坂城に籠城する??
それとも、九州に帰還する・・・??

1600年9月17日、宗茂は大坂城に向かいます。
籠城戦に打って出ることを選択したのです。
早速総大将・毛利輝元のもとに使者を派遣。
しかし、輝元は決断できませんでした。

「これから評議を尽くしてご返答申し上げる」

宗茂はあきれ返りました。

「今から評議するなどとは、ことのほか浅き知恵である
 総大将がそうであれば、とても籠城などできまい」

宗茂は軍勢を連れて九州へ帰還することに・・・!!
これにより、大坂城での決戦は幻に終わりました。

10月、急ぎ領国・柳川に戻った宗茂・・・しかし、新たな苦難に直面・・・
東軍の軍勢・4万に、柳川を包囲されたのです。
東軍の武将・加藤清正が降伏を勧めます。

「兵たちの命は、城主が切腹して助けるというのが武将の大法である」

宗茂は自らの命で城兵を守ろうとしたのです。
しかし、清正は宗茂を生かし、全ての兵を助けることを約束。
宗茂はこれに応じ、城を明け渡しました。

1601年3月、立花家改易。

宗茂は一介の牢人となりました。
しかし、宗茂は諦めません。
自ら上洛し、家康との接触を図り、旧領柳川の復活を目指したのです。
何が宗茂を突き動かしたのか・・・??

宗茂は、養子として立花家(戸次家)に入ってきたのでアウェーでした。
なので、家臣に対して心配りができる武将になっていたのです。
家臣の大半は、その後清正に召し抱えられましたが、二十数人は牢人の宗茂に付き従いました。
この家臣たちを路頭に迷わせないためにも、旧領の回復が必要だったのです。
そんな宗茂を乞うっておかなかったのが家康でした。
敵でありながら、宗茂の武勇と人徳を認めていたのです。

1606年、家康の計らいによって陸奥棚倉・3万石を拝領します。
宗茂は大名への復帰を果たしたのです。
その後、大坂の陣で活躍、1617年将軍・秀忠の御咄衆となります。
徳川家の絶大な信頼を勝ち取っていきます。

1620年11月、宗茂、旧領・柳川に復帰。
関ケ原の戦いから20年の歳月が経っていました。
関ケ原で西軍に属して改易された大名は88家。
立花宗茂だけは、旧領に戻れたのです。

敗軍の将から奇跡の復活を遂げた宗茂は、1643年11月25日、76歳の生涯を閉じました。
江戸から明治、そして現代・・・激動の時代を乗り越え、立花家は今も柳川城の中に生き続けています。

立花家に代々受け継がれてきた宗茂の言葉があります。

「領民の幸せこそ 第一の義とせよ」

その思いは、今も受け継がれています。

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