日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: 英雄たちの選択

今から200年前、江戸は人口100万を超え、錦絵、読み本、芝居に落語が大人気。
空前の繁栄を誇っていました。
手軽な食事として天ぷらや寿司が流行。
今、私たちが時代劇で見る光景は、まさにこの頃のことです。
しかし、この江戸の最盛期に君臨した将軍は??

11代将軍・徳川家斉です。

しかし、教科書に乗る家斉は、大奥が代名詞。
40人を超える側室を持ち、産ませた子供は53人・・・小作りばかりに励む放蕩将軍・・・
家斉は、子供の多くを、主だった大名たちに跡継ぎや正妻として送り込んでいます。
その数、21家、640万石です。
まるで日本中の主だった大名を自分の血筋で埋め尽くし、一大ファミリー化を図っているように見えます。

徳川家斉は、1773年、八代将軍の孫である一橋治済の長男として生まれます。
7歳の時、10代将軍・家治の跡継ぎが急死したことによって次期将軍への道を歩み始めます。
治済は、なんとかして家斉を次期将軍にしようとして時の老中・田沼意次に接近。
他の候補者を退き、家斉を将軍候補にさせました。
そして1786年、将軍・家治が病死し、家斉は15歳で11代将軍に就任します。
同時に父・治済の工作で田沼意次が失脚、老中となった松平定信のもとで、寛政の改革が始まりました。
しかし、家斉は、翌年定信を退け、自ら政治を行い始めます。

徳川実紀によると。。。
家斉は早朝から日が高くなるまで怠けることなく政務をこなし、真剣に政治に取り組んでいました。
しかしやがて、遊び好きの本性が表れ始めます。
趣味は鷹狩り・・・関東中の狩場に足しげく通い、鴨を捕らえるだけでは飽き足らず、猪や鹿狩りまでやっています。
江戸湾に巨大な鯨が現れたときは、目の前で見たいと浜御殿の池に引き入れさせ、泳ぐ姿を見て楽しんだという逸話も残っています。
そんな家斉を最も特徴づけるのが、色好みです。
15歳から大奥通いを始め、次々と手を付け40人を超える側室を持ったともいわれています。
最初の子が生まれたのが17歳の時、生涯で53人もの子供をもうけ、大奥に入り浸っていたと言われています。
さらに家斉は、生まれた子供たちを全国の大名家に世継ぎや正室として送り込んでいます。
その結果、全国の主だった大名の多くが、家斉の息子や娘婿となっていきました。
その方法は、大名たちの弱みに付け込む実に巧みなものでした。

その一つが”金”・・・
将軍家から迎えるといろいろなメリットがあります。
若君をもらうと支度金、お姫さまだと化粧料、たくさんの女中を連れてくるので1万両、2万両。
迎える側が幕府から借金をしている場合、免除してもらう。
当座は財政難が救われたのです。
当時の大名たちは、参勤交代やお手伝い普請などで借金を抱え、どの藩も借金に喘いでいました。
それが、家斉の子どもを受け入れることで借金が免除され、金銭的に支援を受けるなどの恩恵を受けられました。
その金額は莫大なものでした。
例えば、水戸徳川家は、家斉の娘を正室に迎えたことで、幕府に借りていた19万2000両の借金が免除されることに・・・今の金額で、200億円の借金免除でした。
100万石の加賀前田家も、家斉の娘を正室に迎えました。
その時に作られた門が、東京大学の赤門です。
将軍の娘を迎えることで出費がかさみましたが、それに対して毎年1万8000両(18億円)の化粧料を前だけに行っています。
中には世継ぎがいるにもかかわらず廃嫡し、家斉の息子を世継ぎに迎えた藩も・・・明石・松平家です。
これによって2万石を加増されています。
家族化かの波は、外様にまで・・・
徳島藩蜂須賀家では・・・家斉の23男を後継ぎに迎え入れ、長州藩・毛利家、仙台藩・伊達家も家斉の娘を正室として迎えています。
こうして将軍・家斉のファミリーとなったのは、21家に及びます。

こうした縁組にかかる莫大な費用を、家斉はどのように工面したのでしょうか?
その秘密は、貨幣の改鋳という錬金術でした。
それまで流通していた小判・4819万両を回収、金の含有量の少ない小判に作り直させたのです。
浮いた金の分が、幕府の利益になりました。
家斉の貨幣改鋳は、小判以外の貨幣にも及び、15年間で1550万両の利益があったと言われています。
強引に作った潤沢なお金によって子供たちを大名家に送り込んでいたのです。

江戸幕府の1年間を、100万両前後で予算を組んでいました。
かなりの貨幣鋳造をして財政を豊かにしました。
それだけ湯水のように使って、徳川家の血が各大名家に浸透していくということに使ったのです。
さらに・・・家斉が利用したのが「家格」
子供を受け入れた大名たちを優遇し、家格を上げたのです。
江戸城ではこの家格によってすべてが区別されていました。
特に、大名が控える部屋は、家格によって七カ所に分かれていました。
最上位とされるのが、松之大廊下に面した大廊下の一室・・・御三家に御下問、そして加賀前田家のみが使用できました。
主な譜代大名には黒書院溜之間と帝鑑之間が用意され、10万石以上の外様大名や官位の高い大名は大広間が控の間となりました。
それ以外の大名は155家には3つの部屋が与えられています。
家格が低ければ、将軍に謁見する場合も集団で平伏、立ったままの将軍に目通りする事しか許されていません。
家格の違いは歴然でした。
そんな下位の部屋から大出世をしたのが、わずか6万石の舘林・松平家です。
家斉の20番目の息子を養子とすることに成功します。
すると、大部屋から帝鑑之間、大広間を経由して大廊下へと三段跳びの大出世・・・
家紋も、三つ葉葵の使用を許されるという破格の扱いとなりました。
封建社会の平和な時代、他に人間の望みがない時代・・・格が上がること、人より上に行くということは、一番の望みでした。
金と家格を使った巧みな大名支配と子供送り込み・・・家斉はただの贅沢将軍だったのでしょうか??

18世紀末から19世紀・・・家斉が統治した時代には、日本を取り巻く環境が大きく変わろうとしていました。
外国船が日本近海に現れるようになっていたのです。
1792年、ロシアの使節・ラックスマンが根室に来航、通商を求めます。
1808年イギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入。
外圧が高まっていました。
当然家斉の耳にも入ります。
通商を求めるロシア船に頭を悩ませ、外国船の対策に旅谷議論しています。
しかし、外国船対策の一元化は当時の幕藩体制は適していませんでした。
それぞれの地域を支配しているのは大名で、中には外国と密貿易を行っている場合もあり、足並みをそろえることはできませんでした。
そんな中、家斉の子供達でファミリー化すれば・・・将軍の意に沿うのでは・・・??
幕府を中心にものを考えるとなれば、幕府に協力すると海岸線の防備をしようと言われれば喜んで手をあげる・・・殿様は、将軍家のために尽くそう・・・そういう思いがあったのです。

もう一つの問題が・・・徳川一門の結束です。
幕府が開かれてから190年・・・ゆるみが出てきていました。
家斉が特に注目したのが尾張徳川家・・・
尾張藩は御三家筆頭の62万石。
徳川家康の9男・義直を初代藩主にいただく名門です。
尾張藩が位置するのは西国で反乱が起きた場合に、幕府を守る楯になる重要拠点です。
そんな尾張徳川家・・・すっかり血縁が薄くなってきていました。
さらに、8代将軍の座を尾張藩を差し置いて紀州藩の吉宗が勝ち取ったことで不仲となり、七代藩主となった宗春は吉宗と対立。
宗春は蟄居・謹慎させられ、その後、将軍家と終わりの間には緊張が続いていました。
そこで家斉が考えたのが娘を送り込むことでした。
尾張徳川家に娘を嫁がせ跡取りが生れれば、その子は家斉の孫・・・
家斉は、5歳になったばかりの長女・淑姫を尾張の世継ぎと婚約させます。
しかし、同じ年、その世継ぎが病死し、家斉の目論見は潰えてしまいました。

1796年、空いていた尾張の世継ぎに生れたばかりの4男・敬之助を養子として送り込みます。
しかし、その4男は、わずか1年で病死・・・
家斉は諦めません。
1年後、弟の子を尾張藩主の世継ぎとして送り込み、自分の10歳になった長女を嫁がせ、ファミリー化しようとします。
家斉は、養子に入った弟の子に斉朝という名前を与えています。
そして翌年斉朝は、尾張藩10代藩主徳川斉朝となり、ついに家斉の尾張ファミリー化は成功します。
度重なる子供送り込み工作・・・尾張藩も、最初は歓迎していたといいます。
将軍家との血のつなが生じ、姫との間に子供が生まれて次の当主になれば、確固とした血のつながりの再現となりります。
官位も上がり、経済的にもある程度のメリットが生じます。
相対的に尾張にとってはいいことです。
しかし、順風満帆は続きません。三人目に送り込んだ斉朝は、尾張藩を統治するものの淑姫との間に世継ぎは生まれませんでした。
1822年、家斉は夫婦の養子として19男斉温を養子に据えます。
この時、家斉50歳・・・あくまでも尾張家をファミリーにしたかったのです。
斉朝を継いで藩主となった斉温は、江戸城西ノ丸が大火で焼失した時、父家斉のために見舞金として9万両もの大金と大量の木曽ヒノキを献上したといいます。
家長である家斉を、大名家を継いだ子供たちが助けてくれる・・・
それこそが、家斉の目指すファミリーでした。
4回にわたって跡継ぎや正妻を送り込まれ、家斉のファミリーとなっていた尾張藩・・・11代藩主となった斉温かは、1836年近衛家の姫・福君と結婚。
この婚儀は、尾張藩に莫大な費用を強いることとなりました。
福君の婚礼調度品は、210点にも及び、贅を尽くした調度品でした。
当然、福君の出立の準備も尾張藩が行いました。
京都から江戸へ下向する行列は千人を超え、これにもまた巨額の費用が掛かったと言われています。
ところが、婚儀から3年後斉温は21歳で死去・・・1839年。
跡継ぎがいなかったことで、尾張藩は混乱します。
藩士たちは度重なる家斉の子の受け入れが藩の財政を圧迫したとし、次こそは尾張家初代の分家から次の藩主を・・・と期待するようになっていきます。
この時家老に出された意見書には、

”度重なる世継ぎ受け入れは、天下の嘲りを受け、将軍家の乗っ取りに怨念を持つ者や、お国の恥と嘆く家臣が大勢いる”と書かれています。

急進過激派・・・我々はどんな政治的圧力にも屈しない・・・
金や鉄のような固い意志を持つ・・・ということで、金鉄党と名付け、派閥を作りました。
将軍家による尾張家の乗っ取りではないのか・・・??

この時、家斉67歳・・・空席となった尾張藩主の座をどうするのか・・・??
用紙に送り込める子や孫はいない・・・尾張藩の中から不平不満が出ている今、手綱を緩めることはできない・・・

どうする・・・??
男子を将軍家に戻し、尾張徳川家に送る??
夫と死別し出戻った永姫か、婚約しているもののまだ13歳の泰姫を・・・女子を尾張徳川家に送る??
しかし、それまでには何年もかかってしまう・・・!!
忠誠を誓わせて誰も送らない・・・??

どうする・・・??

1839年3月26日、家斉は決断を下します。
御三卿の一つ田安家当主・斉荘(家斉12男)を、亡くなった藩主・斉温の末期養子として尾張藩12藩主を継がせたのです。
これに尾張藩主の不満が爆発!!
押し付け養子であると批判の声が上がります。
家斉は、尾張藩をなだめるために当時日本有数の商業地で10万石相当であった近江八幡を加増します。
さらに、吉宗と対立して蟄居させられていた尾張藩七代藩主宗春の罪を赦し、官位を元に戻します。
家斉は、いかなる代償を払ってでも、尾張藩を身内に止めようと考えていました。
斉荘が藩主になった事を見届けると・・・2年後・・・
1841年徳川家斉死去・・・69歳でした。

しかし、尾張の問題は終わりませんでした。
家斉の死から4年後・・・斉荘が病死・・・再び尾張藩主の座が空席となってしまいます。
家斉の息子の12代将軍家慶は、なおも親しい身内を尾張藩主とすることにこだわり家斉の弟の子供・慶臧を13代藩主として送り込んでいます。

尾張藩士たちは、「またか!!」尾張藩と将軍家の戦になるようなことまで、平気で言う過激状態になってきていました。

新藩主となった慶臧に、兄である越前福井藩主・松平春嶽は手紙を送り、尾張内をなだめるように指示しています。
手紙には、家臣から気に入らないことを言われても、決して咎めだてしないこと、仁心を持って接することと書かれています。
しかし、その4年後、慶臧は14歳で亡くなってしまいます。
跡を継ぎ、14代藩主となったのは、初代藩主義直の流れをくむ美濃高須藩松平家の徳川義勝でした。
遂に尾張藩は、家斉ファミリーではなくなりました。

1868年・・・鳥羽伏見の戦いが起こります。
この時、新政府軍の中心となっていた長州・毛利家は、かつて家斉の娘を正室に迎えましたが子供は生まれず、家斉の血筋とはなりませんでした。
家斉の子供を送り込まれた21家の中で、家斉の血筋が当主となっていたのは、加賀藩・前田家、鳥取・池田家、姫路・酒井家、徳島・蜂須賀家・・・4家のみ・・・
しかし、この4家が、旧幕府側につくことはありませんでした。
鳥羽伏見の戦い以降、新政府軍に味方します。
そして尾張藩藩主となっていた徳川義勝は、新政府の要職につき、江戸無血開城の受け取り役を務めています。

家斉が50年かけて行った大名ファミリー化計画・・・
それが幕府を支えることはありませんでした。


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昭和の選択です~~!!

明治38年日本海軍連合艦隊が世界を驚愕させました。
当時世界最強と謳われたロシア・バルチック艦隊を完膚なきまでに撃破したのです。
日露戦争の体勢を決したのです。
この時、連合艦隊の巡洋艦・日進に乗り込んでいたのが、海軍兵学校を卒業したばかりの山本五十六です。
未来の連合艦隊司令長官は21歳の若さでした。
完璧な勝利をおさめた日本海海戦でしたが、山本は戦闘中の事故で大けがを負います。
山本は左手の指2本を失っていました。
明治・大正・激動の昭和を軍人として生きた山本は、戦争回避を信念とするに至ります。
しかし、連合艦隊司令長官となった山本は、作戦立案を迫られます。
親友に宛てた手紙には、対米戦争の悲痛な思いが綴られていました。
山本をアメリカとの戦争に向かわせたものは何だったのでしょうか??
その葛藤と選択は・・・??

日本海海戦からおよそ15年後、35歳の山本五十六はアメリカ駐在を命じられます。
そののちは大使館付武官として合計3年を過ごします。
山本が目の当たりにしたのは、アメリカの豊かな石油資源と大量生産システムによる工業先進国の姿でした。
中でも山本の興味を引いたのは、航空機の発達でした。
第一次世界大戦で新兵器として登場した飛行機は、その後も研究されていました。
第一次世界大戦後、各国は平和を求め戦艦など主力艦などの保有量のを制限する軍縮会議を開きました。
山本の兵学校時代からの親友・堀悌吉は、この会議に随行していました。
日本はイギリス5:アメリカ5:日本3.5の保有を主張しましたが、日本3(6割)に抑えられます。
日米の国力差を知る全権・加藤友三郎海軍大臣は、堀悌吉にこう言って条約に調印しました。

「平たく言えば金がなければ戦争は出来ぬということなり
 結論として日米戦争は不可能ということ」

加藤や堀の考え・・・国力でいったら、過大な比率をもらっていると考えたのです。
しかし、日本3を単純に数字が低いというところに引っかかる人も多かったのです。

ワシントン会議集結8年後のロンドン海軍軍縮会議で、巡洋艦、駆逐艦などの補助艦が制約を受けることとなります。
度重なる軍縮は、海軍内に大きな軋轢を生んでいきます。
国際的な軍縮条約を順守しようとする条約派と、反対する艦隊派とに分かれます。
艦隊派は巨大戦艦で大砲を撃ち合う大艦巨砲主義を中心に置きます。
艦隊派を支持していたのは、軍令部のTOP伏見宮博恭王・・・艦隊派は、伏見宮の力を背景に、条約派の軍人を次々に引退させていました。
堀悌吉は、条約派の中心にいました。
堀の処遇に危機感を抱いた山本は、伏見宮と直談判に及びます。
山本はこの時の発言を書き残しています。

「堀たちは、事実とすこぶる異なる悪評を立てられております
 人事が汚れなく、神聖公明に行われることが、海軍結束の唯一の道であります」

しかし3か月後、堀も予備役に編入され、現役を去ります。
その翌年、山本は海軍航空本部長となり、国産航空機の開発に尽力します。
これがのちにアメリカを震撼させる零戦の誕生へと繋がっていきます。
アメリカでの経験から、山本は今後、航空機が戦争の主力となることを見通していたのです。

昭和11年、山本は海軍次官として海軍省への出所を命じられます。
海軍次官は、海軍大臣を補佐しながら軍を政治面から動かす重要な役職でした。
翌年、山本と旧知の間柄の米内光正が海軍大臣として就任。
米内とのコンビで、山本は国政に参画していくこととなります。

山本が海軍次官を務めていた昭和12年7月・・・北京郊外盧溝橋での衝突がきっかけで、日中両国は全面戦争に突入しました。
この戦争で、山本が育てた海軍航空部隊は都市部への爆撃を展開します。

日中戦争がはじまった翌年、日本はドイツ・イタリアと軍事同盟を結ぶという動きに出ました。
日本陸軍は、ドイツ、イタリアの力を頼りに、中国を支援するイギリス・アメリカをけん制しようと考えたのです。
しかし、海軍はこの同盟締結に断固反対でした。
三国同盟を結ぶと、即座にアメリカが日本を敵視とする・・・
アメリカと大変な衝突関係になってしまう・・・!!
戦力物資の輸出が止まってしまうどころか、戦争になる可能性があると思う海軍の軍人はたくさんいました。
日本の石油の殆どは輸入に依存し、そのほとんど・・・8割がアメリカからでした。
米内海軍大臣や、古賀軍令部次長ら海軍上層部は、一丸となって反対しました。
アメリカの国力を知る海軍次官・山本は、反対の急先鋒でした。
強硬に反対する山本には、同盟推進派による暗殺まで計画されました。
身辺に危険を感じた山本は、この時覚悟のような遺書を残しています。

”勇戦奮闘
 戦場の華と散らむは易し
 誰かし至減一貫 俗欲を排し斃れて後 巳むの難きを知らむ
 此身滅すへし 此志奮ふ可からず”

昭和14年8月・・・
三国同盟締結に山本らが反対を貫いていた時、ドイツは突然ソ連と”独ソ不可侵条約”を結びます。
ドイツと共にソ連を挟み撃ちにしようと考えていた同盟推進派の目論見は外れ、三国同盟は立ち消えとなります。
ヨーロッパ情勢を見誤った内閣は退陣・・・山本も海軍省から転出することになりました。
新たなポストは、海軍の花形・・・連合艦隊の司令長官という重職でした。
山本の就任直後、ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発。
軍政を離れ艦隊に復帰した山本は、この後、激動する世界情勢の中で苦悩することとなります。

瀬戸内海の小島・柱島・・・
標高およそ280mの山頂にレンガ積みの建物が残されています。
海軍が建設した海軍見張り所の跡です。
ここで何をしていたのか・・・??
柱島は、呉の海軍工廠に近く、大艦隊が停泊するには十分な位置にありました。
山本が指揮する連合艦隊は、この柱島の南2キロに停泊することを常としていました。
山本が司令長官に就任した直後に始まった第二次世界大戦・・・
ドイツは破竹の勢いで勝ち進みます。
わずか1年足らずの間に、オランダ、フランスなどがドイツの軍門に下ります。
日本ではドイツの勢いを受け、再び日独伊三国同盟締結への機運が高まります。
アジアのオランダ領、フランス領の資源を確保しようという動きでした。
アメリカはこれに反発し、航空機用ガソリンや、鉄くずの対日輸出を禁止するという強硬な態度に出ました。
抜き差しならない状況で、山本は海軍首脳部が集められた席上で、三国同盟締結への賛同を求められました。
伏見宮王らがリードして、海軍も同盟を承認する動きに出ていたのです。
アメリカとの戦争に反対の山本は、連合艦隊司令長官として不満を表しました。

”重油は何処よりとるや
 鉄は何処より入るや”

核心を突いた問いかけでしたが、黙殺され、海軍は同盟締結に賛成しました。

昭和15年9月27日、日独伊三国同盟締結。
いよいよ対米戦争が現実味を帯びてきました。
山本は、首相・近衛文麿に呼ばれ、対米戦の展望を問われました。

「ぜひやれと言われれば、初めの半年か一年は、随分暴れて御覧に入れる
 しかしながら、2年3年となれば、全く確信は持てません
 三国同盟ができたのは致し方ないが、こうなったうえは日米戦を回避するよう、極力ご努力願いたい」

アメリカとの戦争を回避したい山本・・・
しかし、司令長官として連合艦隊を率いなければいけない職責が重くのしかかります。

もはや、アメリカとの戦いは避けられないのか・・・??
しかし、国力の差を考えると、勝てる見込みはない・・・
発展目覚ましいアメリカには、豊かな石油資源まであるのだ。
例え戦争になったとしても、なんとか早期に講和へと持ち込まなくてはならない・・・!!
戦いが長引けば、苦しい戦況に陥ることは間違いない・・・

今まで育ててきた航空兵力を用いて奇襲攻撃を立案するしかないか・・・??
緒戦で大きな打撃を与えれば、アメリカの戦意を喪失させることができるかもしれない。
そのためには、奇襲作戦しかない・・・??
いや・・・アメリカと戦争をしてはいけない・・・!!
国が兵を養っているのは、戦うためではなく平和を守るためなのだ・・・!!
かつて三国同盟締結を阻止したように、軍と国政を動かすことができないだろうか・・・??
戦争回避を願うものは、海軍内にもたくさんいる。
既に退役されている米内大将に復帰していただき、伏見宮殿下に代わって軍令部総長についてもらって海軍の方針を変える・・・??
大軍大臣も務めた米内大将なら、海軍内の意見をまとめて戦争を回避することができる・・・??

海軍が動かねば、アメリカとの戦争は不可能なのだ・・・!!
対米戦争回避への道は残されているのか・・・??

昭和16年1月7日付の山本直筆の文書には・・・
厳秘と書かれた文書は、前年11月に海軍大臣に提示した山本の考えの覚書です。
従来の作戦で、机上の演習を繰り返しても、日本海軍はアメリカの勝つことは出来ず、このまま戦ってはじり貧に陥ってしまいます。
そこでまず遂行すべきなのは、開戦後真っ先に敵の主力艦隊を猛烈に攻撃してアメリカ海軍と国民の士気を失わせることです。
そのため、敵主力艦隊がハワイ真珠湾に停泊している場合、航空部隊で徹底的に撃破いたします。
月明かりの夜か、夜明けを狙い、全航空兵力を使って全滅覚悟で強襲・奇襲をかけるのです。

山本は、アメリカ太平洋艦隊の基地・ハワイ真珠湾を全力で攻撃する奇襲作戦を立案しました。
しかし、この文章の末尾にはこう書かれています。
”堂々の大作戦を指揮すべき大連合艦隊司令長官は、他にその人ありと確信する次第なり
 大臣にはその名前を告げ、伏見宮総長にも申し上げた”
山本は第二艦隊司令長官となっていた古賀峯一にその名を明かしています。

「此上は一日も早く 米内氏を使用の外なし」と。

さらにアメリカとの戦争回避のため、米内の軍令部総長への起用も進言していました。
山本は、奇襲作戦を立てながらも、戦争回避の人事工作を画策していたのでした。
この相反する考えは・・・??
軍人として「やったら負ける」とは言えない・・・
常識的に考えて出来ない作戦を要求して、出来ないといわれたら
「それじゃあ今はできません」と言いたかったのか・・・??

山本が望んだ人事が実現されることもなく、最後の望みを天皇の決断にゆだねるほかはありませんでした。
その苦しい進駐を堀に送っています。

「最後の聖断のみ残されておるも、個人としての意見と正確に正反対の意見を固め、その方向に一途邁進の外なき現在の立場は、真にへんなものなり。
 之も命というものか・・・。」

昭和16年11月、山本はまだ戦争回避の望みを捨てていませんでした。
ハワイ攻撃を準備する艦隊首脳陣に、日米交渉が今も続けられていると告げました。
交渉妥結の場合は、12月7日午前1時までに引き上げを命じると付け加えました。
山本のギリギリにして苦渋の選択でした。

しかし・・・山本はその時を柱島沖の連合艦隊旗艦長門で迎えました。
昭和16年12月8日未明・・・山本が放った奇襲部隊は作戦を成功させました。
真珠湾に停泊中の戦艦4隻を撃沈し、航空機200機以上を破壊するという戦果を上げたのです。
国内はこれに湧きます。
ところが・・・アメリカ太平洋艦隊の空母3隻は真珠湾にはおらず、決定的な打撃は与えていませんでした。
アメリカとの航空兵力の差を知る山本は、不安を募らせていました。

”現在の航空にては 今春伊吾 心細き限り”

山本の想像通り、アメリカは迅速に巻き返しを図ります。
これ以後日米海軍は、太平洋上で熾烈な戦いを繰り広げます。
昭和18年4月18日、山本はラバウルから最前線の視察のために飛び立ちました。
之を事前に察知したアメリカ軍は、パプアニューギニア・ブーゲンビル島の上空で待ち伏せし、山本の搭乗機を撃墜しました。
わずか4分ほどの交戦だったといいます。
翌日、墜落機の座席で山本の遺骸が発見されます。
かつて日本海海戦で二本の指を失った左手に軍刀を握り右手を添えていたといいます。

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先ごろ、ローマ教皇が38年ぶりに日本を訪問・・・広島や長崎を訪れました。
人々が平和に暮らせる世界を願い、祈りを捧げました。
日本に初めてキリスト教が伝わったのは、今から遡ることおよそ470年前。。。
この国は戦乱に明け暮れる戦国時代の真っただ中でした。
キリスト教は救いを求める人々に瞬く間に広がり、大名の中には自ら洗礼を受けるものまで現れました。
その中でも、戦国最大のキリシタン大名であったのが、九州6か国をおさめた大大名・大友宗麟です。
イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルと出会って、その布教活動を手厚く保護・・・宗麟の領国・豊後では、最盛期にはキリシタン3万人を超えたといわれています。
当時、ヨーロッパで作られた日本地図には、九州をBVNGOとし、JAPANと並ぶ一つの国とみられていました。
ルイス・フロイスは、宗麟のことを「日本にある王侯中、もっとも思慮あり、聡明叡智の人」と称えています。
近年の発掘では、南蛮貿易で手にした莫大な富と力を示した品々が伺えます。
ところが、その繁栄を揺るがしかねない選択が宗麟を待ち受けていました。

sourinn
フランドル絵画の巨匠Anthony van Dyckの描いた絵・・・
左側がフランシスコ・ザビエルで、右側がなんと大友宗麟です。
ヨーロッパではこんな風にイメージされていました。

実際の肖像画はこちら!!

sourinn2












大友宗麟は、キリスト教をヨーロッパの文化や文明と一緒に丸ごと受け入れました。

大分県大分市・・・大伴家の最盛を築いた大友宗麟の拠点です。
市の中心部では、大規模な発掘調査が行われています。
それは、全国でも類を見ないほどの館でした。
歴代当主が暮らした大友館・・・広大な敷地に行けや庭園まである全国でも屈指の規模の館だったと思われます。
館を中心に、道が整然と格子状に敷かれ、45もの町が形成されていたといい、およそ5000軒の町屋が並んでいたといいます。
当時の国際貿易都市の堺、博多と匹敵する規模の町があったのです。
発掘調査では当時の繁栄を物語る品がたくさん出土しています。
当時、この館の当主である大友宗麟が、南蛮貿易を積極的に推し進め、たくさんの東南アジアと西洋に関する文物が輸入されていました。
ベトナムやタイの陶磁器、ヨーロッパのベネチアングラスも見つかっています。
南蛮貿易で莫大な財を得ていた証です。
大伴義鎮・・・後の宗麟は、1530年に大友家の長男として生れました。
鎌倉以来、400年にわたって豊後国を治める名家だった大友家・・・宗麟はその嫡男として誕生したものの、当主の座につくまでの道は順風満帆ではありませんでした。
弟・塩市丸を当主にという派閥に、父の義鑑が結託・・・宗麟派の粛正を画策するものの、弟は殺害され、父も巻き込まれて死亡する事件が勃発しました。
そんな肉親同士の骨肉の争いを経て、1550年大友家21代当主になります。
時に21歳・・・不安定な領国統治のために目をつけたのが南蛮貿易でした。
1543年、種子島の鉄砲伝来以来、日本とポルトガルとの交易が始まりました。
豊後・府内はポルトガル船に港を開放し、一大貿易拠点として発展していきます。
ポルトガルから商人が行き交い、町は大いににぎわったといいます。
カンボジアから宗麟に象が贈られたとの記録もあります。

世界史的にみると、大航海時代が日本にやって来ていました。
それに対応する九州の大名は、陸上だけでなく海上勢力とも立ち会わなければならない・・・
そこに活路を見出した・・・一番最先端をいった大名が大友宗麟でした。
宗麟の領国経営を支えた南蛮貿易・・・その成功の裏には、ある人物がいました。
1551年、宗麟はそのイエズス会宣教師を自らの屋敷に招きます。
イエズス会宣教師、フランシスコ・ザビエルです。
日本にキリスト教を最初に伝えた人物です。
その時の宗麟の様子がイエズス会側の記録に残っています。

「彼は司祭に対して敬意を表し、愛情をこめて歓迎した」

はるばる日本まで布教に来たイエズス会の活動の背景には、この頃のヨーロッパでの歴史のうねりがありました。
15世紀末・・・大航海時代を切り開いた大国スペインとぽrとがると出の海外領土分割条約・・・それは、独自に引いた線から東はポルトガル、西はスペインが植民地として支配する、世界を二分するというものでした。
アジアへの進出を目論むポルトガルの援助を受け、一体となって進出したのがカトリック教団のイエズス会でした。

大航海時代、ポルトガルとスペインは、海外に植民地を獲得するため進出しました。
カトリック教会が、この枠組みに乗って、海外布教を実現させました。
国家は植民地獲得のために、教会は不況のために・・・
相互に癒着しながら、海外に進出していました。
日本に進出したイエズス会は、キリスト教の布教・保護を領主に求めます。
その見返りとして領主にはポルトガルとの貿易の便宜を図りました。
宗麟はザビエルの求めに応じて、豊後での布教を許可し、多くの土地を提供します。
府内には、教会や育児院などの施設が・・・病院では治療が無料で行われたといいます。
さらに音楽や演劇など西洋の文化が積極的に取り入れられ、府内は異国情緒あふれる町となっていきました。
府内で集中して出土するメダイ・・・この素材は南蛮貿易で輸入したタイの鉛でした。
これと同じ鉛を使って作っていたのは火縄銃の鉄砲玉です。
キリスト教を保護することによって南蛮貿易の恩恵・・・それは富だけではなく、軍事的なメリットもありました。
大友宗麟がキリスト教を受け入れたのも、信仰的な理由も大きいが、戦国時代の中でヨーロッパの進んだ武器を手に入れるということは当然でした。
さらに、重要な貿易品が火薬の原料となる硝石でした。
南蛮の良質な硝石を確保することは、戦国大名の大きな課題でした。
宗麟は九州への進出を企てる毛利氏との戦いの中、ポルトガル側に書状を送っています。

「山口の王(毛利氏)への硝石の輸出を取りやめて、私だけに良質の硝石を輸出してほしい
 そうすれば、山口の暴君は領国を失い、キリスト教は今後も私の国で一緒にいられるだろう」

宗麟は、さらにポルトガルから大砲(国崩)まで入手していました。
領国の強化を図る宗麟と、アジアでの布教拡大を目指すイエズス会・・・両方の思いが合致して、大友家は繁栄を迎えていきます。

豊後から九州全土へと勢力を広げていく大友宗麟・・・
1559年には九州6か国を領有し、室町幕府から九州探題に任じられます。
その間も宗麟の領国では、キリスト教の布教を一貫して保護し続けました。
日本全国でも布教は実を結び、信徒はおよそ10万人に・・・!!

肥前のキリシタン大名・大村純忠の領国に残る記録には、キリシタンが数多くの神社仏閣を破壊し、僧侶を殺害したと書かれています。
キリスト教徒と既存宗教との確執は・・・??
イエズス会では神社仏閣の破壊は日本人のキリシタンが勝手に行ったものであると主張しています。
実際にはイエズス会の宣教師が、日本人のキリシタンに神社仏閣への放火などをそそのかしたのでは・・・??
ヨーロッパ人の宣教師にとって見れば、日本の宗教や信仰というものは偶像崇拝に当たります。
本来容認できるものではありませんでした。
一方仏教徒も・・・キリシタンの住む町に放火、教会は焼け落ち、宣教師は国外に避難する事態となりました。
こうした宗教間の軋轢に、宗麟も悩んでいたといいます。
イエズス会の記録によれば、キリシタンになることを勧めた宣教師に対して、宗麟はこう答えたといいます。

「私がキリシタンになろうとすれば、家臣たちは私を国守と認めなくなるだけでなく、それ以前に殺されてしまう」

大友家は代々禅宗とのかかわりが深く、豊後は仏教信仰に厚い土地柄でした。
1562年、33歳の時、キリスト教の保護をしながら、宗麟は出家し法名を名乗ります。
この時より宗麟の法名を名乗ります。
キリスト教に偏っていたわけではなく、仏教・禅宗への信仰心を維持していました。
宗教受容の多様性・・・その姿勢は、西国大名の場合は根本的に持っていました。

宗麟が目指したものは何だったのか・・・??
この頃、宗麟は本拠地を府内から臼杵に移しています。
出家をしながらも、キリスト教色の濃い町づくりをしています。
町づくりで特徴的なのが、城から教会へとのびる大通り・・・
イエズス会師の教育施設も建てられ、臼杵はキリスト教布教の一大拠点となりました。
近年の発掘調査では、国内最大規模のキリシタン墓地・・・棺桶を埋める穴や、墓標となる石材が66個も発見されています。
さらにこの墓地からは、十字架が建てられた広場や、礼拝堂と思われる建物の跡も発見されています。
臼杵では、キリシタンたちが平和に暮らしていた時代があったのです。
臼杵での宗麟は・・・??
自分は平和のうちにどうやったら領国が統治できるか苦慮していました。
そのために、キリスト教が最もふさわしい教えではないか??
自分の領国を平和のうちに統一して運営できるために、キリスト教を導入したいと思っていました。
キリスト教と既存の宗教が共存できる領国統治を目指した大友宗麟・・・
しかし、その繁栄を大きく揺るがしかねない選択が迫っていました。

日向国を巡って、宗麟は大友家の命運を左右する選択を迫られます。
当時、日向の大半を治めていたのは伊東氏でした。
南の薩摩・大隅を治めていたのは武門の名門・島津氏でした。
1576年、島津氏が日向の伊東領内に侵攻。
領地を奪われた伊東は、姻戚関係のある宗麟に援軍を求めてきました。

この当時、大友と島津の間に大問題が発生していました。
発端は、南蛮貿易を行う大友の船が、島津領で行方不明になったのです。
大友側は、船と積荷が島津に横領されたと疑っていたのです。
さらに日向は、大友家の南蛮貿易にとって重要な寄港地でした。
大友、島津にとって、南蛮貿易の利権をかけた戦いの側面を持っていました。
日向に出兵し、島津と戦うか??否か・・・??

①出兵を回避する??
島津と戦えば、毛利、龍造寺に攻め込まれるかもしれない・・・。
家督は嫡男に譲ったばかり、領国の安定を図るべきではないか??
当時、大友家の重臣たちは、出兵に反対するものが多かったといいます。
相手は勇猛果敢な島津軍・・・戦いは激戦が予想されました。
さらに、家督を譲った中利の義統はまだ21歳。

”義統は国主にそぐわない無能な人間であるとして罷免すべきか家臣の間で協議された”

ともいわれています。
義統は、家臣からの信頼が薄く、当主の資格さえ疑われていたといいます。

②日向に出兵する??
宗麟は、日向を手に入れたのちの構想を、イエズス会の宣教師に語ったと記録しています。

「日向に築く町は、従来の日本のものとは違う新しい法律と制度によって統治されねばならない
 日向の土地に住む者たちは、みながキリシタンとなって愛と兄弟的な一致をもって生きねばならない」

宗麟は、大友家が持つ領地とは別に、日向の地に争いのないキリシタンだけが住む理想郷を作ろうとしていたのです。
領国の統治は義統に任せ、自分は新しい国を造るのだ・・・。
ポルトガルや、東南アジアの協力を得ながら、キリスト教のもとで民と心を合わせ国を統治するのだ・・・!!

日向に出兵する??それとも出兵を回避する・・・??

宗麟の取った選択は・・・??日向へ出陣・・・!!
宗麟は日向に出兵する道を選びました。
この時宗麟は、これまでの自分を振り切る重大な選択をしていました。
洗礼をしてキリシタンとなったのです。
洗礼名は、ドン・フランシスコ。
キリスト教との出会いをもたらしたフランシスコ・ザビエルの名をもらったものです。
日向に向け、4万もの大友軍が進撃を開始。
宗麟の船には、十字軍さながらに深紅の十字の旗が掲げられたといいます。
宮崎県延岡市無鹿町・・・宗麟が本陣を置いた場所です。
この時つけられた無鹿という名前は、ポルトガル語で音楽・・・MUSICAのことです。
宗麟はここに宣教師たちの宿舎や教会を建設します。
その一方で、周辺の神社仏閣を破壊したといいます。
宗麟の挙兵に対し、迎え撃つ島津軍が日向に進出!!
1578年11月、戦いの火ぶたが切られます。
しかし、大友軍はもともと出兵に反対するものも多く、武将の意見がまとまらず一枚岩ではありませんでした。
島津軍は、陽動や待ち伏せを行い大友軍を翻弄します。
結果、戦いは島津軍の圧勝に終わりました。
敗戦の報を受けた宗麟は、急いで臼杵に撤退・・・命からがらの逃避行でした。
この戦いの後、勢いに乗った島津軍は九州北部に侵攻し、大友領にも殺到します。
苦境に立たされる宗麟・・・
領国や命を預かるキリシタンを守るにはどうすればいいのか・・・??

追いつめられた宗麟は、起死回生の一手に打って出ます。
全国統一を目指す秀吉のもとに自ら出向いて援軍を求めたのです。
1586年、宗麟の直訴により秀吉軍が20万軍で九州へ侵攻、翌年島津を降伏させます。
結果、九州全域は秀吉のもとに落ち、大友家は秀吉配下の一大名となりました。
しかし、島津攻略の直後、宗麟は病に倒れその生涯に幕を閉じます。

1587年、大友宗麟死去・・・享年58歳でした。
宣教師やキリシタンの身内に看取られた静かな最期でした。

九州を制圧した秀吉は、宗麟の死から1か月後、突如宣教師たちの国外追放を命じました。
世にいう伴天連追放令です。
この後、秀吉、家康と続く天下の中で、キリスト教徒たちは厳しい迫害の時代を迎えます。
かつてヨーロッパまで轟いた大友宗麟の名も、その輝きを失っていくのです。


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政治に不正がはびこれば、名もなき民でも黙っていない・・・
いまからおよそ180年前、大事件が大坂で起きました。
腐敗した幕府の政治に大坂の民が物申す!!300人もの農民たちが、幕府側と対立!!
天下の台所は火の海と化しました。
事件を知った幕府の上層部は驚愕します。
その首謀者の名は、大塩平八郎!!
かつては江戸にもその名を知られた大坂の元与力でした。
時は未曽有の飢饉が起こった天保の時代・・・
庶民の命と生活が脅かされる一方・・・大坂では役人たちの不正が横行・・・!!
幕府の信頼は、地に落ちようとしていました。
大塩は立ち上がります。
私利私欲に目がくらんだ役人たちを誅伐し、商人たちから金や米を奪って人々を救済せよ・・・!!
この救民の思いが、大坂炎上の大波乱へと掻き立てました。

天保8年・・・1837年2月19日早朝・・・大坂の町に大砲の轟音が響きました。
大塩平八郎の乱です。
大塩たちは、商人たちの蔵屋敷に次々と火を放ち、大坂城下の1/5を焼け野原にしました。
それは、島原の乱から200年の時を経て、太平の時代に起きた一大事件でした。
しかし、大坂城代の鉄砲隊の攻撃により、軍勢はもろくも崩壊・・・
大塩の反乱劇は、わずか半日で鎮圧されたのです。

大塩の乱はどうして起きたのでしょうか??
大塩平八郎の「檄文」・・・
決起の直前に大坂近郊の村々に撒かれたという声明文です。
2000字を超える長文の中には、大塩の政治に対する激しい怒りが込められていました。
この檄分の中に、大塩の乱勃発の直接の引き金となった出来事が書かれています。
それは、江戸への買い米です。
大坂の蔵屋敷に合った大量の米を幕府の役人が江戸に送ってしまったというものでした。
当時日本は、天保の大飢饉で都市部は混乱、農村では餓死者が後を絶たない極限状態が襲っていました。
飢饉の被害が深刻になった天保7年、幕府は将軍の代替わりの式典を理由に大坂の米を江戸に移すように指示。。。
町奉行は幕府の命令を受け入れ、大量の米を江戸に送ってしまうのです。
大坂支柱にも餓死者が出ているのに、米を分け与えずに江戸に送るのか・・・??
大塩は、為政者にあるまじき行いだと強い想いを抱いたのです。
激しい怒りはそれだけではなく・・・
江戸時代、天下の台所といわれた大坂は、全国の大名から米が一堂に集まり、それを売り買いする商人たちの活気で溢れる大坂は、日本経済の中心でした。
米の取引がもたらす大坂の富は、鴻池、住友などの豪商を生み、その利益に預ろうと全国から商人たちが集まりました。
しかし、金のあるところに不正がはびこるのは世の常・・・
儲けたい商人たちは、幕府役人と結託し、賄賂や口利きが横行していました。
役人も賄賂を受け取り、不正を隠蔽・・・水面下で横行していた腐敗の構造を、大塩は現役与力の時代に知ってしまうのです。
役人たちは民を救うことには目もくれず、私利私欲に不正に手を染めていきます。

天下りの城代、東町奉行、西町奉行、幕閣の人々・・・
幕閣中枢の人々は、大坂に下ってきて賄賂をもらい、江戸で勘定奉行などの役職についていました。
大坂での賄賂で江戸で出世の道が開けるのです。
政治の公正さ、公私に対する怒り・・・
当時、上級役人は、大坂で数年勤めあげた後、江戸に戻れば出世が約束されていました。
商人と結託して手に入れた賄賂は、出世のための政治資金・・・
その不正の闇を、大塩は与力の職を離れた後も、許せなかったのです。

幕府への反旗を掲げ、決起した大塩平八郎・・・その大塩に命を捧げ立ち上がったのが陽明学を学んだ大塩のもとで陽明学を学んだ私塾の門人たちでした。
大坂天満に私塾「洗心洞」がありました。
江戸でも一目置かれる陽明学者であった大塩の教えを乞おうと城下の若い与力、同心やその子息たちが集まったといいます。
大塩の教えを学んだのは武士だけではなく、大坂周辺の農民たちも参加しました。
中でも村を取り仕切る豪農の若者たちが、大塩と一緒に寝食を共にし、陽明学を学ぶ日々を送っていました。
この大塩の門人となった農民たちが武装蜂起に大きな役割を果たすのです。

どうして農民たちは大塩の乱に加わったのでしょうか?
大塩の門人となった門真のある農民・茨田郡士が残した記録には・・・
茨田の結婚に当たってはお祝いを、父親が亡くなった時には香典をとあります。
大塩と門人の間で冠婚葬祭の報告があり、大塩は家族同然の付き合いを求めていたといいます。
結果、大塩の乱へと発展していくのです。
大塩は、門人を受け入れる際に、いくつかの約束を交わしています。
その一つが、たとえ私生活であっても問題があれば、大塩に相談するようにとしていました。
日ごろから付き合いのあった農民たちから惨状を知ることになったのでしょう。
天保の大飢饉は、門真の農村にもかつてない窮乏をもたらしました。
指導者的立場にあった茨田たち豪農は、農民たちに無償で米を分け与え、なんとか村を支えようとしたが、村は、崩壊の危機に瀕しました。
しかし、幕府はそんな農村を救うどころか、将軍の式典に必要だからという理由で江戸へ大量の米を送っていたのです。
この時、茨田たち豪農も借財を背負い、身動き取れませんでした。
一体誰が村の窮状を救えるのか・・・??
そして、大塩のもとで学んだ者たちが立ち上がるのです。

農民たちは大塩の檄文を農村に撒き、騒動が起こるので生活に困窮しているものは城下に集まるように触れ回りました。
檄文には、決起に参加しなければ、金持ちたちから金や米を取り損ねることになると急き立てるような言葉もありました。
大坂近隣の農民は、庄屋・年寄・小前百姓まで立ち上がれ!!
ここに、幕府に対して名もなき民衆が立ち上がることとなったのです。
しかし・・・門人と農民たちが決起した戦いは、幕府方の一撃で瓦解・・・。
わずか半日での敗北となるものの、大塩の行動は全国の民衆たちの心を強く突き動かしていきます。

民衆のために立ち上がった大塩・・・近年資料が発見されました。
その資料は、決起直前に江戸の幕閣に送ったといわれる極秘文書です。
「大塩平八郎建議書」・・・
これは、当時の韮山代官が書き記した極秘文書の写しです。
そこには、恐るべき幕府の不正の実態が記されていたのです。

不正無尽と呼ばれた金銭詐欺の取調書・・・
庶民がお金を出し合うシステムを利用した巨額の詐欺行為の告発でした。
不正無尽とは、胴元と呼ばれる元締めが町人から金を集め、くじ引きによってその金を配当。
その際に、胴元が不正に高い手数料をせしめているというものです。
仮に大名が不正無尽に関わっていれば、改易も免れないというものです。

その不正無尽になんと老中をはじめとする老中など幕府中枢が大阪商人と結託し、手を染めている・・・!!
大塩はその驚愕の不正実態を告発したのです。
大塩は、与力の頃から丹念に調査を進め、不正に手を染めた幕閣たちの手口も暴露しました。
その手口の一つが大久保出雲守忠真・・・
大久保は、大坂の証人を世話人にし、90人3組、合計270人もの参加者を集めた不正無尽を主催。
3年がかりで9回のくじ引き配当をを行い、その結果、大久保のもとに不当な利益が舞い込むことになりました。
大塩の調査によると・・・716両設けています。
現在の価値にして1億円という巨額なものでした。
こうした不正無尽に大久保以外にも4人の幕閣が手を染めていることを言及・・・
その中には、後に天保の改革を行う水野忠邦の弟も名を連ねていました。
さらに、京都の公家、寺社仏閣も大坂での不正にかかわっていたことを非難しました。

しかし、大塩の建議書は、数奇な運命をたどります。
決起前日に江戸に送りますが、江戸に届いた時点では、幕府は大塩反乱の一方で大混乱に陥っており、建議書を大坂の奉行所へ送り返してしまいます。
飛脚で大阪に戻る途中に盗賊に遭い、建議書は伊豆の山中に捨てられました。
それを通りがかりの村人が発見!!
韮山代官・江川英龍に届けられると、中身を知った江川は驚愕し、急いで写しを取り再び江戸に送りました。
一度は大塩の建議書の受け取り拒否をした幕府・・・大塩の告発は、幕閣たちを思わぬ窮地に追い込みました。

おそらく江戸の幕閣は建議書の中身を見ている・・・
しかし、見て見ぬふりをしていたと思われます。
長年封印され続けてきた大塩の告発・・・
幕府中枢の不正を暴いた密書を、どうして決起直前に江戸に送ったのでしょうか?
その直後、大坂を火の海にした真の目的とは・・・??

救民の旗を掲げ、大坂城下を火の海にし、一方で建議書を提出し、幕政の改革を訴えた大塩平八郎・・・
幕府方の攻撃によって総崩れとなった大塩は、その後意外な行動に出ます。
それは逃亡です。
息子とともに、忽然と逃亡・・・
大塩逃亡の一報を受け、幕府は全国に人相書きを配布
建議書を写し取った江川のもとにも届けられました。
幕府の威信をかけ大捜索が行われました。
その間、反乱に参加した門人や農民が次々と捕縛され、大塩は姿をくらまし続けます。
どうして逃亡を続けたのでしょうか?
一説には、江戸の幕閣が建議書によって政治改革に動き出すか、自分の目と耳で確かめたかったからだ・・・とも言われますが、定かではありません。
そして1か月のち天保8年3月27日・・・大坂城下に潜伏していることが判明・・・
隠れ家を囲まれると、大塩は持っていた大量の火薬に火を点け、息子と共に爆死・・・
壮絶な最期でした。

天下の台所・・・大坂を焼いた大塩平八郎の乱。
それは江戸時代の日本に大きな衝撃を与えていきます。
大坂では大塩の乱をきっかけに大規模な農民一揆が勃発!!
大塩の行動に共鳴した民衆たちが民を救おうとしない幕府に対し、各地で武力蜂起!!
不穏な気運を払拭したい幕府は、事件の4か月後には捜査を開始。
大塩の門人、農民ら750人余りを取調べ、翌年裁決します。
その評決文の中で、幕閣は大塩を貶めるために、スキャンダラスな情報を載せます。
それが、大坂の一部の与力の反発を買いました。
与力をはじめとする役人たちからも幕府に対する違和感がふつふつと生じ始めていました。
大塩の乱の後、水野忠邦が天保の改革を行いますが、失敗・・・
幕府が終焉の時を迎えるのは、大塩平八郎の決起から30年後のことです。


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昭和の時代はお札の顔として親しまれ、”和を以て貴しとなす”で知られる憲法十七条、そして色で役人の身分を区別した冠位十二階など、日本の礎となる功績を数々残した聖徳太子・・・まさに、古代史最大の英雄です。
しかし、近年その聖徳太子を巡って様々な議論が巻き起こりました。
2017年、中学校では聖徳太子ではなく厩戸皇子の表記が優先されるとなりました。
聖徳太子がいなかったという虚構説まで・・・!!
私たちのよく知っている聖徳太子とは一体何だったのでしょうか?

飛鳥時代、古代日本の最大の転換点を生きた聖徳太子・・・その実像とは・・・??
聖徳太子に新しい光を当てる研究とは・・・??

太子について書かれている書物は、奈良時代に編纂された日本書紀など少ししか残っていません。
太子について書かれた書物・・・資料が極めて少ないために、謎に包まれています。
近年話題となったのが、聖徳太子虚構説です。
ひとりの有力な王族「厩戸王」はいたが、聖徳太子の功績は後世に作られたものだという説です。

憲法十七条も、奈良時代に日本書紀が編纂されたときに創作されつけ加えられたとされます。
しかし、それはありえない・・・??

第一条の和を以て貴しと為し・・・”以和爲貴、無忤爲宗”の無忤は、聖徳太子が生きた時代に近い中国南北朝時代の伝記が多いことがわかります。この文献を参考にして作られたものではないか??
南北朝時代の成実諭師・・・当時流行した「成実論」を勉強した人が良く使う単語なのです。
成実論は、中国の南北朝時代(5~6世紀)に流行した仏教書で・・・しかし、7世紀、唐の時代になった頃には否定され、重視されなくなっていました。
つまり、その後、奈良時代になって否定された文献を用いて憲法十七条を作ったとは考えにくいのです。
唐の時代には、批判されて、使われなくなった表現を使うというということは、虚構説の根拠の一部が崩れるのではないか・・・??

奈良県明日香村・・・
飛鳥時代に建立された日本最古の寺院・飛鳥寺があります。
南北300m、東西200mの敷地に立ち並ぶ、壮麗な伽藍・・・
当時は朝鮮半島から最先端の技術を持つ工人を招いて作られた巨大な寺院でした。
飛鳥寺を建てたのは、蘇我馬子。
大臣として50年以上、4代の天皇に仕え、蘇我氏の黄金時代を築いた大豪族です。
馬子は聖徳太子と共に、仏教で国を治めることを目指しました。
その足掛かりとして飛鳥寺を建立したのです。
昭和32年、飛鳥寺の軒丸瓦が発見されました。
中央に5つの点があり、その周りには花伝が九つあるという特徴を持つ・・・これは、百済から来日した瓦職人のデザインです。
これと同じ文様の瓦は、聖徳太子が607年に建立したとされる斑鳩寺でも使われていたことがわかっています。
この二つの瓦は、同じ木型を使ったもので、文様が一致しています。
この文様が一致しているお云うことは、飛鳥寺と斑鳩寺が同じ職人たちの手によって作られていることを意味しています。
火災で一度消失し、今の法隆寺となった斑鳩寺・・・
建立された当時も、飛鳥寺に匹敵する寺院であったと推測できます。
斑鳩寺を造営した聖徳太子の非常に強い権力が表れています。
記録は、権力者の意向で改ざんされる余地がありますが、瓦は単なる建築材なので、権力者が改ざんする余地がないのです。
その時代の真実を証明する資料でした。

飛鳥時代、聖徳太子が政治の表舞台に立ったのは、二十歳を迎えようとしている頃でした。
592年、聖徳太子の叔母である推古天皇が即位。
その翌年、聖徳太子は推古天皇のもとで実務を行う皇太子となっています。
太子は、蘇我馬子と共に大和朝廷の中核を担い、新たな国づくりに着手することとなりました。

594年仏教興隆の詔・・・三宝(仏・法・僧)の功徳を広めようとしました。
飛鳥寺に倣い、大阪の難波に、自ら寺を・・・四天王寺を建立します。
聖徳太子の出発点は、馬子と協調して当時倭国と呼ばれた日本を仏教の力で治めようという新しい政治でした。
しかし、ちょうどその頃大陸では動乱の時代が始まろうとしていました。
581年、隋という王朝が誕生・・・
589年には南朝の陳を制圧し、中国に300年ぶりの統一王朝を樹立します。
隋の初代皇帝となったのは文帝でした。
文帝は律令を整備するなど統一王朝に相応しい中央集権化を推し進めていきます。
現在の中国の西安に大興城を築き、東西10キロ、南北9キロに及ぶ巨大な登城は、城内に54に区画された街並みが整然と広がり、かつてない威容を誇っていました。

文帝は、都の中に、国立寺院・大興善寺を築き、ここを仏教興隆の中心とし、多くの僧侶を集めました。
さらに、国内100カ所以上に釈迦の遺骨を納めたといわれる舎利塔を建立。
仏教の精神を隋全土に広めようとしたのです。
巨大帝国隋の存在に脅威を抱いた百済、新羅などの周辺諸国は、使節を送って外交関係を築こうとしました。
倭国は、中国と100年近く交流が途絶えていたので、この様子を静観していました。
こうした中、598年、高句麗が動き出します。
隋と高句麗は、国境線を巡って衝突!!
文帝は、陸海30万の軍勢で高句麗を反撃を開始。
この出来事が、倭国に大きな影響を与えました。
隋と高句麗の戦いのような「外圧」を感じる事件は、5世紀、6世紀にはなかったことでした。
外圧・・・それに押されるように、ついに600年、およそ100年ぶりとなる使者を送りました。
第1回遣隋使派遣!!
こうして巨大王朝隋との外交が始まることとなりました。

隋書によれば・・・
大興城に赴いた大使は、皇帝・文帝に謁見し、倭国の風習をこのように述べたといいます。

”天を以て兄と為し 日を以て弟と為す
 天未だ明けざる時 出でて政を聴き 跏趺して坐す”

倭国では、政を行うのは夜・・・そして日が上がれば政をせず休むというものでした。

”此れ太だ義理無し 是に於いて訓へて之を改め令む”

大変道理に合わないやりかただ
 こんなやり方は改めるべきだ

どの程度文明化されているのか?で、中国は諸国をランク分けしていました。
倭国は隋にかなり低いランクにされ・・・屈辱的、大きな間違いをしてしまったのです。

屈辱的な結果に終わった遣隋使外交・・・しかし、これが倭国の改革の原動力となっていくのです。

中国には「華夷秩序」という考え方があります。
中国を世界の中心=「中華」とし、他国を野蛮国=「夷狄」とする考え方です。
7世紀初めの時点で、隋は世界最強の国家でした。
そんな国と「何らかの関係を結ばなければ・・・」と、倭国も感じていました。

その後の倭国は・・・??
奈良時代の小墾田宮と考えられる遺跡で見つかった墨書土器には、墨で小墾(治)田宮と書かれています。
小墾田宮とは、推古天皇の603年、聖徳太子と蘇我馬子の政の拠点でした。
奈良時代には離宮として使われました。
小墾田宮の復元図によると、天皇の住居だけでなく、朝庭という庭が設けられていました。
これは、外国からの使節を迎える場として利用されました。

当時中国でも多く採用された構造で、それを意識して造られたと考えられます。
それまでの宮殿は、天皇の住まいとしての要素だけでした。
政治・儀式の場を兼ね備えた場所に変わって行ったのです。
都市計画のスタートラインに立った瞬間でした。
これを契機に聖徳太子は新しい政策を打ち出していきます。
603年12月 冠位十二階を制定
役人の服や冠を色分けし、十二の位階で区別したものです。
家柄重視から能力重視の身分制度へと変化したのです。
冠位十二階は、外交政策にも深くかかわっていました。
外交の場は一番の見せ場です。
どう中国に認知されているのか・・・??最重要事項でした。
中国の道徳律を理解しているという表明を削なければならなかったのです。
それが冠位十二階なのです。

色だけではなく、服装に着目すると・・・
この時取り入れられたのは、スカート型です。
これは、昔の中国の役人が朝廷に出仕する時の正装でした。
朝鮮半島ではズボン式が主流でした。
外構の場で倭国はスカートを着用することで、中国の文化を理解しているとアピールできたのです。
完璧な形で中国に対しなければいけない・・・朝鮮半島にも完璧な形で優越する立場でなければならない・・・!!
冠位十二階は、その目的が非常に大きかったのです。

605年斑鳩宮に移住
607年斑鳩寺を建立
斑鳩宮は、飛鳥の中心部から20キロ離れており、大和川流域付近で陸路だけでなく、船でも行きかうことができました。
どうして続けて宮を建てたのでしょうか?
交通の要衝に、二つの都をおき、使節に対する供応・滞留を目的とした・・・中国における洛陽や長安を意識したのではないか・・・??
聖徳太子は、二つの都を大河で結んだ中国に倣って土地開発をしたのでは・・・??と思われるのです。
更に太子は、二つの宮を結ぶ道を整備しました。
それは、太子道として現在も残されています。
この太子道にも聖徳太子のち密な計算が合ったと思われます。
太子道には正方位に対し22度西に傾くという特徴があります。
22度の傾斜とは、小墾田宮と斑鳩宮を最短距離の直線で結んだ角度でした。
他にも、22度に傾いた遺構がたくさんあります。
このことから、斑鳩宮を中心に、整然とした土地整備が行われていたのではないかと考えられます。
太子道によって最短距離で結ばれた二つの宮・・・
斑鳩宮は、難波まで大和川や陸路でつながり、港と飛鳥の中継地点にありました。
聖徳太子の土地開発に狙いは・・・外国からの使節、物資、情報をいち早く都へ届けるという外交政策だったのです。
1回目の遣隋使の時からこの計画はスタートし、中国の先進的なものに倣い、二つの都城を結ぶ道を作っているのです。
中国を意識した改革を、次々と推し進めた聖徳太子・・・
いよいよ満を持して2度目の遣隋使派遣に臨むこととなります。

第1回遣隋使の失敗から改革を進めた聖徳太子は、607年、2度目の遣唐使派遣に踏み切ります。
隋へ向かったのは、小野妹子を筆頭にし、僧侶数十人を伴った使節団でした。
妹子らは、文帝の跡を継いだ隋・第2代皇帝・煬帝と対面することになります。

隋書にその時の様子が詳しく書かれています。
煬帝に謁見した妹子らは、一つの書簡を手渡しました。
それはあの有名な一節から始まります。

”日亥出づる処の天子 書を日没する処の天子に致す”

その文言を見た煬帝は・・・

「蛮夷の書 無礼なる有らば 復た以て聞する勿れ」

煬帝は、役人に対し、野蛮国が書いた書いたこんな無礼な書簡を二度と私に奏上するなといったのです。

煬帝は中国皇帝を表す”天子”を小国の倭国が用いたことに不快感を示したとされます。
この書簡から第2回遣隋使が倭国が隋に対等の関係を迫る対等外交・・・挑戦的な外交として知られてきました。

しかし、隋書をよく読むと、違う読み方が見えてきます。
「日出づる処の天子」の部分だけが注目されてきましたが、「隋書」には、使者の発言も記録されています。
使者が煬帝に向けた発言には・・・

「海西の菩薩天子 重ねて仏法を興すと聞く」・・・これは、妹子らが書簡を渡すときに煬帝に語った言葉です。
菩薩とは・・・釈迦の智慧を広め、悟りに向かい努力する聖人のことです。
妹子らは、煬帝を菩薩天子と称賛したのです。

「中国皇帝 煬帝は、菩薩のように素晴らしい天子であり、重ねて仏教を復興させている素晴らしい君主だ。
 そのために倭国は、その君主を拝むために使者を派遣して参りました。」と。

それから対等に・・・というのはかなり無理があるように感じられます。

使者が語った「重ねて仏法を興す」という言葉は、煬帝の父・文帝の時代に編纂された中国の書物に数多く書かれています。
倭国の使者の発言には、都に大寺院を建立し、隋全土に舎利塔を作り、仏教を国の礎にしようとした皇帝への畏敬の念が伺えます。

書簡の文言では不快にさせたものの、隋の国柄をきちんと学んできたことを倭国は最大限にアピールしました。
それが功を奏したのか・・・倭国に関心を示しました。
翌608年、隋が裴世清を倭国へ送ります。
倭国は大国隋からの使節を歓迎しました。
裴世清たちは、倭国の玄関口・難波の港に入り、太鼓、笛の演奏でもてなされました。
その後、斑鳩宮を通り、小墾田宮まで至ったと考えられます。
そして、煬帝からの国書が手渡されました。

「遠くの国から朝貢しに来たその真心をうれしく思い 裴世清を送る
 そして贈り物を授ける」

煬帝は遠路はるばるやってきた遣隋使の忠誠心を褒め称えました。
倭国が大国・隋から認められた時でした。
屈辱の第1回遣隋使から8年・・・聖徳太子の努力はようやくここに結んだのです。
その後も遣隋使は続き、618年、隋から唐に王朝が変わった後も、遣唐使へと引き継がれました。
飛鳥時代から奈良時代へ・・・
古代日本の礎となった中国との交流・・・遣隋使は、その扉を開いたのです。

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