日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: 英雄たちの選択

明治26年、ある新作歌舞伎がお披露目されました。
「遠山桜天保日記」・・・ご存じ、遠山の金さんです。
実はこの金さんのモデルは実在の人物です。
江戸・北町奉行・遠山金四郎です。

1840年、遠山金四郎は、48歳で北町奉行に就任します。
江戸の町奉行所は北と南に別れ、この2カ所で広大な江戸全体を管轄していました。
町奉行の仕事は、裁判、行政、警察、消防などに及び、江戸町方全般を取り仕切る重要な役割でした。
12代将軍・家慶が、遠山の裁判を見学し、こう語っています。

「吟味の儀際立ち、奉行たるべきものさもこれあるべきことに候」

家慶の厚い信任を受けて、遠山金四郎はこの後名奉行ぶりを発揮していきます。
遠山が町奉行を務めた天保の時代、江戸幕府は未曽有の危機に瀕していました。
内憂外患です。
1837年、浦賀の沖合にアメリカ船・モリソン号が姿を現しました。
目的は通商・・・開国を迫ります。
ペリー来航のわずか16年前のことです。
幕府の砲撃により、モリソン号は退去しますが、それ以後も日本は西洋列強の脅威にさらされることとなります。
国内では天保の大飢饉にに見舞われ、長引く大雨や冷害で餓死者は30万人にも上りました。
これによって、幕府領の年貢収入が減り、天保2年には142万9000石でしたが、天保7年には103万9000石にまで・・・3割の減収となりました。
さらに、飢饉のため米や諸物価が高騰・・・幕府は慢性的な財政赤字に陥っていました。
この内憂外患に取り組んだのが水野忠邦です。
水野は大坂城代、京都所司代など幕府の要職を歴任し、それを将軍に評価され、1839年老中首座に就任します。
かくして、水野は天保の改革に乗り出します。

この時、遠山は北町奉行として幕府評定所のメンバーでした。
評定所は、老中首座を筆頭に、老中、町奉行、勘定奉行、寺社奉行などが重要な政策を議論決定する幕府の審議機関でした。
遠山は、水野忠邦をトップとする天保の改革のメンバーだったのです。
水野は新しい改革を次々と打ち出していきます。

①奢侈取締り
1841年5月、江戸市中に御触れが出ます。
水野は贅沢の禁止を命じます。
禁制の対象は華美な着物、贅沢な料理や菓子、装飾を施した櫛や簪、初鰹まで・・・
水野は贅沢を禁じ、江戸の町人たちに質素倹約の生活を強いました。
奢侈の取り締まりは、日に日に厳しさを増していきます。
奢侈禁止のお触れが出てから2か月後・・・
町奉行遠山は江戸の現状を調査した報告書に目を疑います。
贅沢禁止令により、江戸は深刻な不景気に見舞われていたのです。
江戸を代表する呉服屋が、買い控えにより軒並み前年同月比で大きく落ち込みます。
越後屋本店40%、白木屋73%の売り上げ減。

ある幕臣はこんな意見書を出しています。

「米屋、薬などの必需品を扱う商売以外はすべて不景気となり、両国や浅草などの盛り場はさびれている
 2.3年も経てば貧民は生活できなくなる」

老中首座・水野の政策をこのまま実行すべきか、それとも江戸の町人の生活を守るべく、町奉行として進言すべきか・・・??

かくして遠山は決意します。

1841年9月、南町奉行矢部定謙と共に伺書を水野に提出。

身分不相応の奢侈はいけないが、江戸の繁栄を維持する為に配所は大事であり、江戸が寂れることは幕府のご仁政の趣意に反故する

極端に贅沢を禁止するのではなく、暮らしにあった程度には良しとすること・・・
そして何より、江戸は繁栄していなければならない・・・。
遠山たちは、水野の政策に待ったをかけたのです。

これに水野は激怒・・・たとえ、江戸市中が衰退しても・・・商人、職人が離散しても、頓着しないぐらいの激しい姿勢で改革を行わなければいけない・・・!!

改革を行うためには、江戸が衰退しても構わない!!
ここに、水野の天保の改革に対する基本的な考え方が集約されていました。

基本的に世の中は、武士と農民・・・この二者の関係によって社会の根幹は出来ていました。
商工・・・商人は武士の生活や農民の生活に必要な最小限程度あればいい・・・
つまり、商工業者は、最小化されなければならない・・・!!
それ以上は、社会的に望ましいものではなく、現在の秩序を壊していくものだ!!

改革を断行する水野忠邦と、江戸の繁栄を第一に考える北町奉行・遠山金四郎・・・
2人の対立は激化していきます。

②寄席取の全廃
1841年、江戸の寄席の数は233軒大いに繁栄していました。
演目は、落語にとどまらず手品、声帯模写、女浄瑠璃、小唄など・・・様々な芸が披露されていました。
料金はおよそ50文。
現在にして1600円もあれば楽しめました。
主な客は、職人や奉公人など・・・庶民のささやかな娯楽でした。
ところが・・・寄席の全廃の方針を打ち出します。
理由は、見物人を集め、金銀を費やさせることは贅沢につながるというものでした。
遠山は反論します。

「寄席は、毎日の労働の疲れをいやす場であり、町人の日々のささやかな楽しみを奪ってはならない」

この遠山の訴えにより全廃は免れたものの、233軒から24軒に激減します。
さらに、江戸町人文化の華・歌舞伎に規制を加えました。
歌舞伎小屋三座の所替を命じたのです。
歌舞伎小屋は、日本橋と銀座から、当時江戸のはずれだった浅草裏の猿若町へと移転を余儀なくされました。
絶大な人気を誇った五代目市川海老蔵を奢侈禁止令に触れたとして江戸十里四方処払いとしました。
次々と引き締め政策を行った水野は、満を持して大胆な構造改革に乗り出しました。

③株仲間の解散
当時、米や酒、油などの産品は、全国から大坂に集められ、その後江戸へと海路で運ばれていました。
産品ごとに株仲間という組合が結成され、彼らは幕府に冥加金を払うことで、産品の流通販売を独占していました。
どうして水野が株仲間の解散を考えていたのでしょうか?
株仲間が作られた時期には、市場を管理していくとか、商品流通をシステマチックに動かすという意味がありました。
しかし、時代が経ていくと特権化して硬直化した市場体制になっていました。
価格操作とか、新規商人の加入を認めないなど、負の価値が強くなってきていました。
それをどのように解決していくのか??という問題がありました。

水野は120年続いたこの株仲間に、解散を命じました。
理由は、「問屋共不正」です。
株仲間は市場の独占を利用し、商品の家格を不当に吊り上げているという者でした。
そして、「素人直売買勝手次第」・・・誰でもが市場に参入できるように規制を緩和し、自由競争による物価の低下を狙ったのです。
しかし、この改革は、市場に混乱をもたらすこととなります。

解散に伴い株仲間の商売を保証していた株札が無効になってしまったことが原因でした。
当時において、”株”が一番の重要な担保でした。
資金の融通を受ける際に差し出す担保・・・これが、当時は株だったのです。
株仲間が解散を命じられたことによって、株の価値が無くなってしまう・・・
すると、担保として差し出すものがないので、お金を借りられない・・・!!
いざという時に、資金の融通を受けられない・・・商家は現金を手元にためておこうとします。
お金を使わない・・・景気は回らなくなってしまう・・・!!
遠山と南町奉行の矢部は、株仲間の解散に反対したといいます。
しかし、水野は株仲間の解散を強硬・・・!!
結果、市場の混乱を招いただけで、さして物価も下がらず、10年後の1851年株仲間が再興されます。
この株仲間の解散を巡って、遠山は大きな痛手を被ることとなります。

1841年12月、南町奉行・矢部定謙、罷免。
5年前に起きた与力の不正事件を矢部がもみ消したというのが理由でした。
現在の研究では、水野の謀略による冤罪というのが通説となっています。
将軍・家慶の信任が厚い遠山の代わりに、矢部がターゲットとなったのです。
矢部は永預けとなり禁固され、旗本矢部家は改易処分となりました。
この処分に矢部は納得せず、抗議の絶食の果てに死亡したといわれています。
盟友・矢部の無念の死・・・
この後、遠山は厳しい選択を迫られていきます。

盟友・矢部の無念の死を悼む暇もなく、遠山は水野から新しい改革の実施案を求められます。
それは、天保の改革でも重要な政策でもある人返しの法でした。
人返しの法・・・農村から江戸に出てきた者たちを強制的に農村に帰らせるというもの。
この頃、江戸の町人の人口は、55万3200人・・・そのうち、農村などから来た他国生まれは16万5000人いました。
30%にも達していたのです。
農民が江戸に流入り、農村の人口が減ったことで田畑は荒廃し、農作物の収穫が低下していました。
さらに水野が問題視したのが、農村からの流入者の殆どが、「其日稼の者」・・・低所得者層でした。
遡ることおよそ50年前の1787年、天明の大飢饉により米価が高騰、天明の打ちこわしがありました。
暴徒の多くが其日稼の者でした。
再び凶作が起きると、この者たちを中心とした打ちこわしが起こりかねない・・・と、危惧していたのです。

水野の言うことも一理ある・・・しかし・・・??

遠山は、江戸巡検を行うことにしました。
一日の巡検が30キロに及ぶこともありました。
遠山自身が巡検することで、江戸の町人の実体を目の当たりにできました。
町人たちがどういうことを楽しんで、どう云うことで苦しんでいたのかを感じ取っていました。
江戸市中をくまなく回り、庶民の生活をつぶさに見ることで、遠山は実感します。

其日稼の者でも、一旦証人となれば、稼ぎも安定し、妻子もできる
故郷に帰りたいという気持ちも無くなり、江戸に住み着くことになる
江戸でなんとか安定した生活を手に入れたら、其日稼の者に強制的に農村に帰れと命じるのは無理がありました。
このまま強行していいものか??
現実にあった策はないのか・・・??

❶人返しの法を実施
❷町人第一の政策を貫く

遠山は水野に1842年5月、「人返しの法」に対する上申書を提出します。
そこには、強制的に村に返さず、かつ飢饉の際の打ちこわしを防止する策が記されていました。

「お救い米百万石に増やすべし」

遠山が提言したのは、七分積金の活用でした。
七分積金とは、およそ50年前の寛政の改革で行われた政策で、町の収入の一部を使いもみなどを購入し備蓄、飢饉の際にこれをお救い米として放出するという江戸のセーフティーネットです。
七分積み金は、連綿と受け継がれていましたが、天保の飢饉で放出し、激減していました。
そこで、遠山はもみを百万石に増やせば、飢饉が起きても其日稼の者たちの生活を支えられると提案し、あくまでも町人第一の政策を貫くことを選択しました。
遠山の進言が大きく影響し、人返しの法は、”最近になって江戸にやってきてまだ妻子もいない者”にだけ適用されました。

救民対策のために七分積金を増やして手当てするのは、町奉行の提案としては至極もっともな提案でした。
一方、年の窮民は少なくなったの方がいいので、国元にできるだけ帰ってもらおうとしますが、強制力を持って帰すわけにはいきません。
非常に整合性のある現実性のある政策が展開されたと思われます。

1843年、遠山、大目付に就任。
栄転ですが、天保の改革からは外れることとなりました。
同じ年、御簾納忠邦は上知令を発令。
当時、江戸と大坂の周辺には、幕府領以外に大名や旗本の領地も混在していました。
これら、大名・旗本の領地を幕府に返上させ、かわりに替地を与えることとしたのです。
年貢の取れ高が多い大名・旗本の土地を、取れ高の少ない幕府領と取り換えて、幕府の財政を補強するのが目的でした。
これこそ、幕府の赤字を解消する最後の切り札でした。
しかし、この強引なやり方に、大名・旗本から猛反対が起きました。
その筆頭は、御三家・紀州藩、老中・土井利位なども加わり、幕府内に反水野が形成されました。

1843年9月、上知令撤回の幕令が下され、水野は老中免職・・・!!
天保の改革は、2年余りでほとんど成果を上げず幕を閉じたのです。

しかし、天保の改革の時代、諸藩でも改革が行われ赤字財政を画期的に克服した藩がありました。
例えば、薩摩藩です。
1835年には負債総額500万両・・・現在の2000億円です。
そこで薩摩藩は、特産品の黒砂糖の自由取引を禁じ、生産から流通販売まで薩摩藩が市場を独占することで莫大な利益を得、財政を回復させます。
長州藩や土佐藩も、同様に赤字財政を克服・・・西南雄藩は、明治維新へと突き進んでいくこととなります。

一方、遠山の晩年は・・・??
1845年、南町奉行に就任します。
彼は晩年、遠山の金さんと呼ばれ慕われていました。
60歳まで南町奉行務めた遠山は、1855年逝去・・・63年の生涯でした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング 

遠山金四郎の時代【電子書籍】[ 藤田覚 ]

価格:935円
(2020/3/19 08:17時点)
感想(0件)

【中古】 遠山金四郎 物語と史蹟をたずねて 成美文庫/童門冬二(著者) 【中古】afb

価格:110円
(2020/3/19 08:19時点)
感想(0件)

琵琶湖の北に位置する余呉湖・・・そこは天女が舞い降りた羽衣伝説が残る美しい湖です。
かつてこのおだやかな湖の周辺で、血で血を洗う決戦がありました。
戦いの主役は後の天下人・羽柴秀吉と鬼柴田と呼ばれた猛将・柴田勝家です。
本能寺の変の直後、二人の重臣が天下争奪をかけて激突!!
賤ケ岳の戦いです。
しかし、戦国合戦の多くが、後世に編纂された史料に基づいているのでその実像は明らかではありません。
ところが・・・戦いのさ中に書かれた秀吉の書状に軍事機密が書かれていたのです。
その戦略とは・・・??
そして勝家の山城に隠された知られざる戦いの真相とは・・・??

戦国の覇王・信長のもと、全国で死闘を繰り広げた織田家の武将たち・・・
中でも優れた家臣たちを評した言葉にこうあります。

木綿藤吉
米五郎左
かかれ柴田に
のき佐久間

木綿藤吉とは羽柴秀吉のことで、秀吉は木綿のように貴重な存在だという意味です。
かかれ柴田は柴田勝家を指し、かかれとは、突撃の大音声のこと・・・戦上手な勝家を評した言葉です。
下賤の身ながら知恵と才覚で出世を果たした秀吉、対する勝家は信長の父の代から織田家に仕える筆頭家老。
二人の差は歴然としていました。
ところが・・・1582年6月2日未明、本能寺の変・・・二人の運命を変える大事件が起こりました。
明智光秀の謀反によって織田信長が討たれたのです。
その時織田軍は、それぞれの方面軍に分かれ全国に展開、毛利と対峙していた秀吉、勝家は北陸で上杉と死闘を繰り広げていました。
そこで本能寺の変が勃発、逆臣・明智光秀を討つべく京へ戻ることが武将たちの急務となりました。

この時抜きんでたのが秀吉でした。
毛利との講和に成功した秀吉は、すぐさま上洛の途につき京に・・・
世に言う中国大返しです。

6月13日、山崎の戦い・・・秀吉軍は、京都郊外で光秀軍を撃破。
本能寺の変からわずか11日後のことでした。
弔い合戦に見事勝利した秀吉・・・これまでの序列が崩れます。
秀吉と勝家の対立は、一気に深まっていきます。

6月27日、信長ゆかりの清洲城に織田家の重臣が集まって後継者問題、領地配分を行う清須会議が行われました。
結果、光秀を討ち果たした秀吉は領地を拡大・・・従来の播磨に加え畿内を中心に新しく三か国を手にしました。
一方勝家は、越前加賀の外秀吉の長浜城を獲得、それに配下の武将の領地を入れればようやく秀吉の勢力に拮抗する勢力となります。
琵琶湖の北に位置する勝家の玄蕃尾城・・・ここから秀吉に対抗する勝家の並々ならぬ思いが読み取れます。
玄蕃尾城の本丸は、堀がすごく、これほど巨大な堀をめぐらし、大規模な土塁をめぐらしている城は他にはありません。
その土塁も、物凄い高さで囲っていました。
注目されるのは、柱を支えていた建物の基礎の礎石が残っています。
砦と言うよりは、居城・・・常に置いておくような城・・・念入りな工事をしていたことがよくわかります。
玄蕃尾城は、北陸から近江に向かう玄関口・・・
そこは秀吉に対する勝家の攻めの拠点でもありました。
清須会議以降、秀吉をいかに撃退するか、勝家にとっては非常に大きな課題でした。
この玄蕃尾城を築くことで、北国街道の難所である峠を押さえて、いつでも近江へ進出できるルートを確保しておく・・・これが、秀吉に対して強い圧力をかけることとなるのです。
この後、二人の対立は、全国の大名を巻き込んで拡大していきます。

勝家は信長の妹・お市の方と婚姻関係を結びます。
織田家の一門衆に名を連ねたのです。
それに対し、秀吉が仕掛けます。
10月15日、京・大徳寺で信長の葬儀を挙行します。
参列者は3000人、見物する人は貴賤雲霞の如し!!
織田家の家臣としては、主君の葬儀に参列しないわけにはいかない・・・
これにより秀吉は丹羽長秀、池田恒興ら織田家の有力武将たちを味方につけることに成功します。
勝家を大きく上回る勢力圏を形成します。
秀吉はさらに勢力拡大を図り、周辺の大名たちに書状を送り、信長の次男・信雄を織田家の後継者と為します。
勝家の背後の上杉や、一向一揆の総本山・本願寺を引き込むことに成功します。
本願寺に宛てた秀吉の手紙にこうあります。

”勝家の加賀で一揆を起こし目覚ましい働きをすれば、加賀一国を本願寺に与えるであろう”と。

一方勝家は、信長の三男・信孝をはじめ、織田家重臣・滝川一益や周辺大名に書状を送り、反秀吉勢力の結集を画策します。
勝家は、将軍・足利義昭にも接触を図ります。
もともと義昭は、主君・信長が追放した宿敵でした。
毛利に宛てた義昭の書状には・・・

”勝家と手を結び、秀吉軍を挟み撃ちにすることを急ぐべきである”

そして12月初旬・・・
近江への道は雪に閉ざされ、北ノ庄城にいる勝家は、兵を動かすことができなくなります。
秀吉に好機が到来したのです。
秀吉は、5万の大軍勢で勝家方の城・長浜城を包囲、続いて信長の三男・信孝の岐阜城も包囲、どちらも秀吉の前にあっけなく降伏・・・。
さらに秀吉は、勝家に組する滝川一益の北伊勢に侵攻・・・

いよいよ雪解けの季節が到来しました。
それは勝家軍の襲来を意味していました。
決戦の地は琵琶湖の北の賤ケ岳周辺・・・いよいよ天下分け目の戦いが始まろうとしていました。

sizugatake















滋賀県長浜市・・・長浜城歴史博物館には秀吉の書状が残されています。
天正11年4月3日付の弟・羽柴秀長に宛てた書状です。
賤ケ岳合戦の前にどのように戦うべきか、柴田軍と対峙すべきかを命令した文書です。
秀吉の指示が事細かく書かれています。
普通は細かいことは紙には書きません。
敵に情報が洩れるとまずいからです。

3月9日、勝家、北ノ庄城を出陣。
急ぎ南下し、近江に進出します。
総勢2万と言われています。
勝家は頑張尾城に本陣を構え、別所山などに部隊を展開。
前線の拠点となる行市山には勝家の甥・佐久間盛政が陣を構え秀吉に対峙します。
一方秀吉が前線に到着したのが、勝家から遅れること5日後の3月17日・・・木之本に到着。
秀吉軍、およそ5万と言われています。
北の勝家軍に対し、南の秀吉軍の布陣は、東の山・堂木山を先頭に周辺の山々に砦を築きました。秀吉は木之本に本陣をおきました。
勝家の配下・前田利家が布陣した別所山砦・・・勝家側の戦略が顕著に読み解ける砦跡です。
秀吉の軍勢のいる南の方角には堀をめぐらしていません。
土塁の高まりも非常に低いのです。
別所山砦は、四角形に築かれた曲輪に、周囲に堀を築いただけのシンプルな構造です。
一体どうして・・・??
別所山砦は、実際にここで戦うという者ではなく、非常に簡素な造りでした。
ここで戦うよりは、一時の陣・・・相手に見せかければいいというものでした。

一方秀吉軍は、勝家軍とは全く異なる戦略の砦を作っていました。
東野山城は・・・至る所で城壁を屈曲させています。
敵が攻めてきても絶対にやっつける気満々です。
横矢掛けもあります。
勝家軍の砦とは違い、秀吉軍の築いた砦軍は、いくつもの曲輪に守られた堅固な軍事要塞でした。
この違いは何を意味しているのでしょうか?
秀吉軍は、強固に作り、最先端の築城技術を惜しみなく注いで造っています。
非常に守りの強い砦群でした。
秀吉の戦略は、専守防衛・・・いかにして敵の進撃を食い止めるか?防衛に徹した戦い方をしていました。
勝家は、周囲を秀吉に組した大名たちに囲まれています。
勝家が近江に進出するためには、琵琶湖の東側を南下せざるを得ません。
一方秀吉軍は、その南下を食い止めるのがこの合戦における両軍の基本戦略と考えられます。
さらに、秀吉の書状には、勝敗を左右する重要な言葉が記されていました。
”惣構え”の文字です。

”惣構えの堀から外へ鉄砲を放つことは言うに及ばず、草刈りの者に至るまで、一人も惣構えの外へ出してはならない”

この”惣構え”とは、何を意味しているのでしょうか?
高さ1mほどの土塁は、昭和30年代までこの地に残されていました。
東山砦から堂木山まで尾根伝いにずっと続いていたのです。
秀吉が築いた惣構えとは、東の山から堂木山を縦断し、街道を遮断した東西500mに及ぶ大規模な土塁の長城であったと考えられます。
惣構えを設けてシャットアウトし、柴田軍を南下させないことが目的でした。
惣構えも、賤ケ岳合戦の中で重要な意味を持っていたのです。
惣構えで、鉄壁の防御ラインを築いた秀吉軍・・・勝家軍は、その突破を試みるも果たせず・・・およそ1か月にわたるにらみ合いが続きました。
ところが、思わぬ方向から敵が出現しました。
北伊勢の滝川一益が、秀吉軍の背後・美濃に進出!!
すでに、降伏したはずの信孝もこれに呼応します。
このままでは、秀吉軍は、連合軍に挟撃されてしまう・・・!!
秀吉に危機が迫っていました。

①防御に徹する・・・??
秀吉の書状にもこう書いています。
”惣構えから先へ、一人の足軽も出さず、守りに徹しさえすれば、敵は動きが取れなくなるであろう”
秀吉軍にとって、防御に徹することが最善の策ではないか?
下手に動くと両軍の均衡は崩れ、惣構えを突破される可能性もあります。

”もし敵が、5日、10日と攻めかけてきたとしても、相手の様子を伺いながら、ゆうゆうと合戦に及ぶべきである”

防御に徹していれば、勝家軍も攻めあぐね、長期の対陣となり兵糧も枯渇・・・
いずれ勝家軍は、北陸に撤退せざるを得なくなる・・・!!

②軍を二手に分け、敵を各個撃破する!!
秀吉の書状には・・・
”秀吉自ら兵を率いて播州へ向かう 
 その間、前線の秀長より注進が来れば、姫路から引き返そうと思うが、日数がかかるであろう
 だが、秀吉が姫路に滞在する間は、決して出撃してはならぬ”

4月3日の段階で、姫路の方に出るといっているのは、毛利が攻めてくるのでは??
毛利軍の県政のために、中国地方に出陣するという意図があったのです。
秀吉は、勝家だけでなく、周囲を敵(毛利・長宗我部・雑賀衆・徳川)に囲まれていました。
敵の動向に気を配り、それに対応しなければならなかったのです。
あくまでも防御に徹するべきか、それとも軍を二手に分けてそれぞれの軍を討伐すべきなのか・・・??
秀吉に選択の時が近づいていました。

4月の中頃・・・秀吉は軍を二手に分けます。
信孝・一馬氏連合軍を討つために岐阜へ向かいました。
秀吉不在の前線は、弟・秀長が担いました。
ところが・・・大雨によって揖斐川が氾濫、岐阜城への道は閉ざされていたのです。
秀吉は、岐阜城からおよそ20キロ離れた大垣城にとどまり、敵の出方を伺いました。
その4日後の4月20日・・・秀吉の不在を知った勝家軍が、突如動き始めました。
勝家方の猛将・佐久間盛政が、惣構えを避け、密かに尾根伝いを伝い、秀吉軍の中ほどにある大岩山砦に突如攻撃を開始、中入りという戦術でした。
思わぬ敵の奇襲攻撃に、奮戦する秀吉軍・・・しかし、この時、秀吉方の有力大名・中川清秀が討ち死に・・・記録には、清秀の外に六百余人が戦死とあります。
秀吉軍にとって大打撃でした。
勢いに乗った盛政軍は、岩崎山砦も陥落させます。
勝家本隊は前進、惣構えに一気に猛攻をかけます。
惣構えを突破しようと攻めたてる勝家、秀吉軍が崩れるのは、もはや時間の問題でした。
しかし、秀吉は、この不測の事態に備えていました。
前線の秀長より注進が来れば、すぐに引き返す・・・秀吉が戻るまでは、勝手に出撃してはならない・・・
揖斐川の氾濫により、岐阜城の敵もまた秀吉軍を追撃することは不可能です。
秀長から注進を受けた秀吉は、作戦通り、すぐさま兵をまとめ前線の木之本を目指します。
大垣からおよそ52キロ・・・その道のりをわずか5時間で駆け抜けたといいます。
木之本へたどり着いた秀吉・・・勝家軍は、未だ惣構えを突破できずにいました。
秀吉は、敵襲で孤立した盛政軍を追撃、その時・・・勝家方の武将・前田利家が、突然陣地を放棄したのです。
秀吉に諜落されていた武将たちが、勝家に見切りをつけた瞬間でした。
これによって、勝家全軍は崩壊・・・戦いは、秀吉の大勝利となりました。

4月23日、秀吉軍、北ノ庄城を包囲。
4月24日、勝家は、お市の方と共に自刃!!
勝敗は決したのです。

戦い直後に書かれた毛利宛の書状で、秀吉はこう豪語しています。

「東は北条、北は上杉まですでに秀吉に従っている
 毛利が秀吉に従うことになれば、日本は源頼朝公以来、一つにまとまる事であろう」

猛将・柴田勝家を下したことで、天下人の後継者となった秀吉・・・賤ケ岳の戦いこそ、まさに秀吉にとっての天下分け目の決戦でした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

賤ヶ岳合戦図・小牧長久手合戦図

中古価格
¥2,072から
(2020/2/28 22:43時点)

賎ケ岳の戦い―「秀吉vs勝家」覇権獲得への死闘 (歴史群像シリーズ 15)

中古価格
¥455から
(2020/2/28 22:45時点)

令和元年11月27日・・・即位の礼と大嘗祭を終えた天皇皇后両陛下が京都を訪問されました。
令和という新たな時代・・・その代替わりを160年前の激動の時代の一人の天皇に報告するためです。
その天皇とは、明治天皇の父・孝明天皇・・・江戸時代最後の天皇です。

攘夷派が台頭し、京を舞台に相次ぐテロを実行・・・暴力を武器に時代を動かしていました。
1963年、攘夷派は天皇を巻き込んだある計画を企てます。
”大和国行幸”です。

大和行幸は、表向きは天皇が奈良にある神武陵などを参拝し攘夷を祈願するというものです。
しかし、そこには恐ろしい計画が隠されていました。
それは、行幸先の大和で軍議を開き、攘夷を天皇が指揮することを表明するというものでした。
天皇の決断次第では、幕府を敵に回す可能性も・・・
欧米列強との戦争、幕府との内戦・・・かつてない危機が迫っていました。
江戸から明治へのターニングポイントで、苦悩の選択を迫られた孝明天皇・・・その知られざる実像とは・・・??

孝明天皇が皇位を継いだのは1863年・・・父・仁孝天皇が突然崩御し、16歳で皇位を継ぎました。
時あたかも時代の激変がこの国を飲み込もうとしていました。
1840年、アヘン戦争が勃発!!
隣国清が、イギリスの圧倒的な軍事力の前に敗北、港や領土の割譲を強いられていました。
列強の触手は、日本にも伸び始めていました。
孝明天皇が皇位を継いだ年、英仏の軍艦が琉球に来航・・・
さらに、浦賀や長崎など日本本土の港にも相次いで姿を現しました。
報告を受けた若き天皇は、朝廷は外交には口を出さないという慣例を破ってまで幕府に命令を下します。

異国船来航があまりに頻繁なので心配である。
海防を強化し、清国の瑕瑾とならぬよう処置するように。

攘夷を命じたのです。

ところが、幕府の対応は、天皇の意に反するものでした。

1853年ペリーが浦賀に来航。
圧倒的な軍事力を前に、幕府は和親条約を締結。
下田と箱館で水と燃料を供給することを認めたこの条約を天皇は事後承認するほかありませんでした。
それから1月ほど後、事件が起きました。

1854年4月6日、突然黒い煙が京の町に・・・!!
天皇が住む御所が炎上したのです。
その場に居合わせた公家の日記によると・・・

贅を尽くした大和絵の絵や調度が燃え上がる中、公家たちは口々に天皇に避難を促しました
5,6人がかりで板輿に乗せられた天皇は、炎に追われるように御所の外に逃れ出ました
この時天皇は、生れてはじめて民衆の姿を目の当たりにしました。
はだしのまま供をしていた公家に草履を与える者、手桶に水を汲んで焼け出された女官に飲ませる者・・・人々の情けを受けながら、一行はようやく避難所の下賀茂神社にたどり着きました。

この頃に詠まれた孝明天皇の歌に・・・

あさふゆに 民安かれと 思ふ身の 
             こころにかかる 異国の船

とあります。

この国土に住む民衆を、自分が天皇として守らなければならない・・・!!
この時、孝明天皇は伊勢神宮など畿内22社、畿外11社に異国船退去の祈祷を繰り返し命じます。
神々の力で攘夷を実現せんと願ったのです。
しかし、開国への流れはさらに加速していきます。

1857年、ハリスが日米通商条約締結を要求。
外国人が日本に滞在し、通商を行うという”開国”を求める内容でした。
武力を背景にしたハリスの主張の前に、幕府は条約締結しかないと判断。
1858年2月、老中・堀田正睦が京に赴き、朝廷に条約締結への許可を求めます。

「もし、条約を拒んで戦となっても勝ち目はない・・・」

しかし、堀田に対して孝明天皇はこれを拒絶。

「私の代より開国することになっては後々までの恥の恥である」

代々守ってきた鎖国を、自分の代で放棄するのは、断じて許せないことだったのです。
ところが、この年の4月、井伊直弼が大老に就任するや、事態は急変・・・
天皇の許しのないまま・・・1858年6月、日米修好通商条約調印に踏み切ったのです。
さらに、井伊は反対勢力への大弾圧・安政の大獄を断行します。
それは朝廷にまで及び、公家たちは震え上がりました。
一方これと並行して井伊は、老中を京に派遣、孝明天皇に対してこう弁明させます。

「開港 貿易を好むものは、幕府重役に一人もおりませぬ
 軍事力が整えば以前の国法(鎖国)に引き戻す」

いずれ鎖国に戻すという約束に、天皇は次のように返答。

「以前の通りに戻されるとの事、条約締結のやむ終えざる事情については疑念は氷解した」

攘夷を実行しない幕府にいら立ちながらも、井伊の強権政治をまえに、天皇は妥協せざるを得なかったのです。

1860年3月・・・
開国を推し進めていた井伊直弼が水戸藩浪士らの手によって暗殺されました。
世に言う桜田門外の変です。
時の最高指導者が、江戸城の目と鼻の先で暗殺されたことで、幕府の威信は地に落ちました。
失地回復を図るために幕府が打ち出したのが公武合体でした。
そのために幕府は、孝明天皇の妹・和宮の将軍・家茂への輿入れを要請します。
1861年和宮は江戸に下り、朝廷と幕府が手を携える体制が確立しました。

ところが、これに反発したのが、尊王攘夷派でした。
急進的な浪士たちが次々と京に集結します。
幕府の出先機関の襲撃や、要人の暗殺など倒幕に向けた武装蜂起をし動き出しました。
京に不穏な空気が立ち込める中、孝明天皇に接近する勢力が・・・薩摩藩!!
1862年、島津久光は、1000人もの軍隊を率いて上洛。
朝廷に取り入り、その権威を背景に幕府政治に参画しようとしました。
一方、この接近は、天皇にとっても渡りに船でした。
上洛した久光に対し、孝明天皇は命じます。

「今日に滞在し、浪士共の蜂起を抑えるように」

攘夷の実現を目指す浪士たちを取り締まろうとした理由は・・・??
孝明天皇は、基本的に秩序を守る、維持するという立場でした。
そこに浪士たちがやってくるのは孝明天皇にとっては有難迷惑なことでした。
そこに、1000人の藩兵を連れてやってきた久光・・・頼りになる存在でした。
久光はすぐに行動を移します。
1862年4月、寺田屋事件
久光は、伏見寺田屋で、尊王攘夷派を粛正させました。
京での武装蜂起は未然に防がれ、孝明天皇は安堵しました。
ところが・・・その年の8月、予期せぬ事件が起こります。
久光の行列を横切ったイギリス人を、薩摩藩士が切り捨てた生麦事件です。
イギリスの報復に備えるため、久光は急遽薩摩へと帰国。
そして薩摩不在の京では、尊王攘夷派が再び勢いを取り戻します。
公武合体のために働いた公家の家臣から京都奉行所の与力までを標的に、テロの嵐が吹き荒れます。
この情勢の中、急速に朝廷に接近したのが藩を挙げて攘夷を掲げる長州藩でした。
久坂玄瑞、桂小五郎と言った弁舌に秀でた藩士が、三条実美ら公家を次々と取り込んでいきます。
朝廷の主導権は、完全に長州藩に握られました。

1862年11月、三条実美が、勅使として江戸へ・・・幕府にこう通告します。

「攘夷期限を決めて朝廷に報告すべし」

対応を迫られた幕府は、1863年3月、将軍・徳川家茂上洛。
実に229年ぶりの将軍の上洛でした。
これに合わせて天皇の周囲では、ある計画が進められていました。
京都市北区上賀茂神社・・・3月11日、孝明天皇加茂行幸。
孝明天皇は、楼門から中門に輿に乗り進み、中で攘夷祈願をされました。
天皇自ら神社に赴き攘夷祈願を行うのは、極めて異例のことです。
この行幸で、人々はさらに前代未聞の状況を目にしました。

孝明天皇が乗る鳳輦・・・その前後を将軍・家茂をはじめ武士たちが警護しながら神社に向けて進んでいきます。
天皇が将軍を従えて行幸し、攘夷を祈願する・・・これは、他ならない長州藩によって仕組まれたことでした。
さらに家茂は、尊攘派に押し切られるかのように5月10日をもって攘夷の実行を約束します。
猶予は3週間足らずでした。
孝明天皇が望む攘夷へ・・・時代は急速に旋回していきました。

攘夷決行の期日とされた1863年5月10日、長州藩は下関海峡でアメリカ船を砲撃!!
ついに攘夷の火ぶたが切られました。
しかし、列強との軍事力の差は歴然でした。
砲撃から20日後・・・6月にはアメリカ軍艦が聴衆に報復!!
長州の軍艦や砲台に壊滅的な打撃を与えました。
この時、長州にとって計算外だったのは・・・長州以外にどの藩も攘夷を行わなかったのです。
孤立した窮状を打開するため、長州は朝廷を動かし、ある秘策を打ち出します。
大和行幸です。
孝明天皇が、攘夷祈願のために大和の神武天皇陵などに行幸し、そこで軍議を開くという計画でした。
天皇が先頭に立って攘夷を行う・・・
天皇の権威によって、攘夷実行を各藩に強制していく・・・!!
極めて巧妙な秘策でした。

1863年8月13日、大和行幸の詔発布。

出発は1か月後・・・。
大和行幸を実行する??
この時、大和行幸を阻止するべく動き始めていたのが薩摩藩でした。
早くから異国の脅威にさらされてきた薩摩藩は、攘夷の危険性を痛感していました。
島津久光は、京都藩邸に使者を送り、工作を開始。
行幸の詔の出た8月13日、薩摩藩士高崎正風は、会津藩邸を訪問し、連携を図ります。
尊攘派から主導権を奪うため、京都守護職を務める会津藩900人の兵力を当てにしたのです。
御所を舞台にした大胆不敵な政変計画。
会津藩の回答は・・・??
”中川宮が決意されたのであれば如何様にでもご尽力する”
中川宮朝彦親王は、孝明天皇が兄とも慕う皇族です。
公武合体派の重鎮で、この時薩摩と共に政変計画に動いていました。
8月15日、高崎は、中川宮に政変計画を説明。
中川宮ら同志が参内したのち、御所の全ての門の出入りを厳重に差し止め、過激派公卿を退職、逼塞せしめる・・・御所封所計画です。
これに賛同した中川宮は、孝明天皇のもとに参内、天皇の判断を仰ぎました。

政変計画を承認して大和行幸を中止??

薩摩の島津久光に宛てた孝明天皇の宸翰には・・・
朕の存意はいささかも貫徹せず・・・尊攘派が牛耳る朝廷では、天皇の意見は何一つ通らないというのです。
尊王攘夷派の勢いに任せて、大和行幸を行うのか?
政変計画を認めて行幸を取りやめるのか・・・??
孝明天皇に選択の時が迫っていました。

1863年8月16日、孝明天皇は中川宮に密勅を下しました。
”会津中将に命じて処理せしむるのほかない
 よろしく命令して処分せよ”
天皇は、薩摩会津の政変計画を承認しました。
これによって、八月十八日の政変の幕が切って落とされたのです。
8月18日午前1時、中川宮をはじめとする政変の中心人物が密かに参内。
早朝4時ごろには、会津藩兵を中心とする兵力が御所の門を固めました。
公家たちは、正論、暴論の2つのグループに分けられ、暴論・・・長州と結託した尊攘派公家は、一歩たりとも御所に入れない警護が敷かれました。
次いで中川宮を中心に協議が行われ、尊攘派には過酷な処分が下されました。
三条実美ら尊攘派公家の官位剥奪、長州藩は御所の警備から外され追放!!
ともに長州に落ち延びていきました。
尊攘派は都から一掃されたのです。
この政変は、幕末の大きな転換点となりました。
長州藩はこれを機に武力闘争に舵を切り、1864年、京都で会津・薩摩と激突!!
禁門の変です。
長州が御所に向けて発砲したことに孝明天皇は激怒、以後2度にわたる長州征討を幕府に命じました。
ところが、1866年、第二次長州征討において、最新兵器を装備した長州に幕府が敗北。
その権威は地に落ちました。
一方、政変の筋書きを描いた薩摩の存在感は増大!!
幕末政治のキープレイヤーにのし上がっていきます。

1867年12月9日、御所を舞台に王政復古のクーデター
王政復古の大号令が行われ、天皇中心の中央集権国家が誕生しました。
孝明天皇の選択に端を発した一連の動きが、明治維新の道筋を決めたのです。
しかし、孝明天皇自身は、新たな時代を見ることなく1866年12月、36歳で崩御。
公式発表は、天然痘による病死・・・しかし、政治の渦中にいた天皇の早過ぎる死は、当時から噂がささやかれていました。
イギリス外交官アーネスト・サトウは、こう記しています。
天皇は毒殺された・・・??

「天脈拝診日記」・・・孝明天皇の侍医が残した日記をもとに子孫が発表したものです。
これによれば、天然痘の患者は発熱、発疹など五段階を経て快方に向かいます。
孝明天皇もその通りに順調に回復していました。
ところが・・・突然のたうち回って・・・手のつけようもなく・・・
”御九穴から御脱血”と書かれているものの、それが天然痘の症状とは思えない・・・。
図らずも江戸時代最後の天皇となった孝明天皇・・・
その死の真相については、論争は今も決着していません。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

誰も知らなかった日本史 切紙神示と共に甦る孝明天皇の遺勅(予言) [ 出口恒 ]

価格:2,200円
(2020/2/6 06:30時点)
感想(0件)

フルベッキ写真の正体 孝明天皇すり替え説の真相 (二見文庫) [ 斎藤 充功 ]

価格:990円
(2020/2/6 06:31時点)
感想(0件)

今から200年前、江戸は人口100万を超え、錦絵、読み本、芝居に落語が大人気。
空前の繁栄を誇っていました。
手軽な食事として天ぷらや寿司が流行。
今、私たちが時代劇で見る光景は、まさにこの頃のことです。
しかし、この江戸の最盛期に君臨した将軍は??

11代将軍・徳川家斉です。

しかし、教科書に乗る家斉は、大奥が代名詞。
40人を超える側室を持ち、産ませた子供は53人・・・小作りばかりに励む放蕩将軍・・・
家斉は、子供の多くを、主だった大名たちに跡継ぎや正妻として送り込んでいます。
その数、21家、640万石です。
まるで日本中の主だった大名を自分の血筋で埋め尽くし、一大ファミリー化を図っているように見えます。

徳川家斉は、1773年、八代将軍の孫である一橋治済の長男として生まれます。
7歳の時、10代将軍・家治の跡継ぎが急死したことによって次期将軍への道を歩み始めます。
治済は、なんとかして家斉を次期将軍にしようとして時の老中・田沼意次に接近。
他の候補者を退き、家斉を将軍候補にさせました。
そして1786年、将軍・家治が病死し、家斉は15歳で11代将軍に就任します。
同時に父・治済の工作で田沼意次が失脚、老中となった松平定信のもとで、寛政の改革が始まりました。
しかし、家斉は、翌年定信を退け、自ら政治を行い始めます。

徳川実紀によると。。。
家斉は早朝から日が高くなるまで怠けることなく政務をこなし、真剣に政治に取り組んでいました。
しかしやがて、遊び好きの本性が表れ始めます。
趣味は鷹狩り・・・関東中の狩場に足しげく通い、鴨を捕らえるだけでは飽き足らず、猪や鹿狩りまでやっています。
江戸湾に巨大な鯨が現れたときは、目の前で見たいと浜御殿の池に引き入れさせ、泳ぐ姿を見て楽しんだという逸話も残っています。
そんな家斉を最も特徴づけるのが、色好みです。
15歳から大奥通いを始め、次々と手を付け40人を超える側室を持ったともいわれています。
最初の子が生まれたのが17歳の時、生涯で53人もの子供をもうけ、大奥に入り浸っていたと言われています。
さらに家斉は、生まれた子供たちを全国の大名家に世継ぎや正室として送り込んでいます。
その結果、全国の主だった大名の多くが、家斉の息子や娘婿となっていきました。
その方法は、大名たちの弱みに付け込む実に巧みなものでした。

その一つが”金”・・・
将軍家から迎えるといろいろなメリットがあります。
若君をもらうと支度金、お姫さまだと化粧料、たくさんの女中を連れてくるので1万両、2万両。
迎える側が幕府から借金をしている場合、免除してもらう。
当座は財政難が救われたのです。
当時の大名たちは、参勤交代やお手伝い普請などで借金を抱え、どの藩も借金に喘いでいました。
それが、家斉の子どもを受け入れることで借金が免除され、金銭的に支援を受けるなどの恩恵を受けられました。
その金額は莫大なものでした。
例えば、水戸徳川家は、家斉の娘を正室に迎えたことで、幕府に借りていた19万2000両の借金が免除されることに・・・今の金額で、200億円の借金免除でした。
100万石の加賀前田家も、家斉の娘を正室に迎えました。
その時に作られた門が、東京大学の赤門です。
将軍の娘を迎えることで出費がかさみましたが、それに対して毎年1万8000両(18億円)の化粧料を前だけに行っています。
中には世継ぎがいるにもかかわらず廃嫡し、家斉の息子を世継ぎに迎えた藩も・・・明石・松平家です。
これによって2万石を加増されています。
家族化かの波は、外様にまで・・・
徳島藩蜂須賀家では・・・家斉の23男を後継ぎに迎え入れ、長州藩・毛利家、仙台藩・伊達家も家斉の娘を正室として迎えています。
こうして将軍・家斉のファミリーとなったのは、21家に及びます。

こうした縁組にかかる莫大な費用を、家斉はどのように工面したのでしょうか?
その秘密は、貨幣の改鋳という錬金術でした。
それまで流通していた小判・4819万両を回収、金の含有量の少ない小判に作り直させたのです。
浮いた金の分が、幕府の利益になりました。
家斉の貨幣改鋳は、小判以外の貨幣にも及び、15年間で1550万両の利益があったと言われています。
強引に作った潤沢なお金によって子供たちを大名家に送り込んでいたのです。

江戸幕府の1年間を、100万両前後で予算を組んでいました。
かなりの貨幣鋳造をして財政を豊かにしました。
それだけ湯水のように使って、徳川家の血が各大名家に浸透していくということに使ったのです。
さらに・・・家斉が利用したのが「家格」
子供を受け入れた大名たちを優遇し、家格を上げたのです。
江戸城ではこの家格によってすべてが区別されていました。
特に、大名が控える部屋は、家格によって七カ所に分かれていました。
最上位とされるのが、松之大廊下に面した大廊下の一室・・・御三家に御下問、そして加賀前田家のみが使用できました。
主な譜代大名には黒書院溜之間と帝鑑之間が用意され、10万石以上の外様大名や官位の高い大名は大広間が控の間となりました。
それ以外の大名は155家には3つの部屋が与えられています。
家格が低ければ、将軍に謁見する場合も集団で平伏、立ったままの将軍に目通りする事しか許されていません。
家格の違いは歴然でした。
そんな下位の部屋から大出世をしたのが、わずか6万石の舘林・松平家です。
家斉の20番目の息子を養子とすることに成功します。
すると、大部屋から帝鑑之間、大広間を経由して大廊下へと三段跳びの大出世・・・
家紋も、三つ葉葵の使用を許されるという破格の扱いとなりました。
封建社会の平和な時代、他に人間の望みがない時代・・・格が上がること、人より上に行くということは、一番の望みでした。
金と家格を使った巧みな大名支配と子供送り込み・・・家斉はただの贅沢将軍だったのでしょうか??

18世紀末から19世紀・・・家斉が統治した時代には、日本を取り巻く環境が大きく変わろうとしていました。
外国船が日本近海に現れるようになっていたのです。
1792年、ロシアの使節・ラックスマンが根室に来航、通商を求めます。
1808年イギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入。
外圧が高まっていました。
当然家斉の耳にも入ります。
通商を求めるロシア船に頭を悩ませ、外国船の対策に旅谷議論しています。
しかし、外国船対策の一元化は当時の幕藩体制は適していませんでした。
それぞれの地域を支配しているのは大名で、中には外国と密貿易を行っている場合もあり、足並みをそろえることはできませんでした。
そんな中、家斉の子供達でファミリー化すれば・・・将軍の意に沿うのでは・・・??
幕府を中心にものを考えるとなれば、幕府に協力すると海岸線の防備をしようと言われれば喜んで手をあげる・・・殿様は、将軍家のために尽くそう・・・そういう思いがあったのです。

もう一つの問題が・・・徳川一門の結束です。
幕府が開かれてから190年・・・ゆるみが出てきていました。
家斉が特に注目したのが尾張徳川家・・・
尾張藩は御三家筆頭の62万石。
徳川家康の9男・義直を初代藩主にいただく名門です。
尾張藩が位置するのは西国で反乱が起きた場合に、幕府を守る楯になる重要拠点です。
そんな尾張徳川家・・・すっかり血縁が薄くなってきていました。
さらに、8代将軍の座を尾張藩を差し置いて紀州藩の吉宗が勝ち取ったことで不仲となり、七代藩主となった宗春は吉宗と対立。
宗春は蟄居・謹慎させられ、その後、将軍家と終わりの間には緊張が続いていました。
そこで家斉が考えたのが娘を送り込むことでした。
尾張徳川家に娘を嫁がせ跡取りが生れれば、その子は家斉の孫・・・
家斉は、5歳になったばかりの長女・淑姫を尾張の世継ぎと婚約させます。
しかし、同じ年、その世継ぎが病死し、家斉の目論見は潰えてしまいました。

1796年、空いていた尾張の世継ぎに生れたばかりの4男・敬之助を養子として送り込みます。
しかし、その4男は、わずか1年で病死・・・
家斉は諦めません。
1年後、弟の子を尾張藩主の世継ぎとして送り込み、自分の10歳になった長女を嫁がせ、ファミリー化しようとします。
家斉は、養子に入った弟の子に斉朝という名前を与えています。
そして翌年斉朝は、尾張藩10代藩主徳川斉朝となり、ついに家斉の尾張ファミリー化は成功します。
度重なる子供送り込み工作・・・尾張藩も、最初は歓迎していたといいます。
将軍家との血のつなが生じ、姫との間に子供が生まれて次の当主になれば、確固とした血のつながりの再現となりります。
官位も上がり、経済的にもある程度のメリットが生じます。
相対的に尾張にとってはいいことです。
しかし、順風満帆は続きません。三人目に送り込んだ斉朝は、尾張藩を統治するものの淑姫との間に世継ぎは生まれませんでした。
1822年、家斉は夫婦の養子として19男斉温を養子に据えます。
この時、家斉50歳・・・あくまでも尾張家をファミリーにしたかったのです。
斉朝を継いで藩主となった斉温は、江戸城西ノ丸が大火で焼失した時、父家斉のために見舞金として9万両もの大金と大量の木曽ヒノキを献上したといいます。
家長である家斉を、大名家を継いだ子供たちが助けてくれる・・・
それこそが、家斉の目指すファミリーでした。
4回にわたって跡継ぎや正妻を送り込まれ、家斉のファミリーとなっていた尾張藩・・・11代藩主となった斉温かは、1836年近衛家の姫・福君と結婚。
この婚儀は、尾張藩に莫大な費用を強いることとなりました。
福君の婚礼調度品は、210点にも及び、贅を尽くした調度品でした。
当然、福君の出立の準備も尾張藩が行いました。
京都から江戸へ下向する行列は千人を超え、これにもまた巨額の費用が掛かったと言われています。
ところが、婚儀から3年後斉温は21歳で死去・・・1839年。
跡継ぎがいなかったことで、尾張藩は混乱します。
藩士たちは度重なる家斉の子の受け入れが藩の財政を圧迫したとし、次こそは尾張家初代の分家から次の藩主を・・・と期待するようになっていきます。
この時家老に出された意見書には、

”度重なる世継ぎ受け入れは、天下の嘲りを受け、将軍家の乗っ取りに怨念を持つ者や、お国の恥と嘆く家臣が大勢いる”と書かれています。

急進過激派・・・我々はどんな政治的圧力にも屈しない・・・
金や鉄のような固い意志を持つ・・・ということで、金鉄党と名付け、派閥を作りました。
将軍家による尾張家の乗っ取りではないのか・・・??

この時、家斉67歳・・・空席となった尾張藩主の座をどうするのか・・・??
用紙に送り込める子や孫はいない・・・尾張藩の中から不平不満が出ている今、手綱を緩めることはできない・・・

どうする・・・??
男子を将軍家に戻し、尾張徳川家に送る??
夫と死別し出戻った永姫か、婚約しているもののまだ13歳の泰姫を・・・女子を尾張徳川家に送る??
しかし、それまでには何年もかかってしまう・・・!!
忠誠を誓わせて誰も送らない・・・??

どうする・・・??

1839年3月26日、家斉は決断を下します。
御三卿の一つ田安家当主・斉荘(家斉12男)を、亡くなった藩主・斉温の末期養子として尾張藩12藩主を継がせたのです。
これに尾張藩主の不満が爆発!!
押し付け養子であると批判の声が上がります。
家斉は、尾張藩をなだめるために当時日本有数の商業地で10万石相当であった近江八幡を加増します。
さらに、吉宗と対立して蟄居させられていた尾張藩七代藩主宗春の罪を赦し、官位を元に戻します。
家斉は、いかなる代償を払ってでも、尾張藩を身内に止めようと考えていました。
斉荘が藩主になった事を見届けると・・・2年後・・・
1841年徳川家斉死去・・・69歳でした。

しかし、尾張の問題は終わりませんでした。
家斉の死から4年後・・・斉荘が病死・・・再び尾張藩主の座が空席となってしまいます。
家斉の息子の12代将軍家慶は、なおも親しい身内を尾張藩主とすることにこだわり家斉の弟の子供・慶臧を13代藩主として送り込んでいます。

尾張藩士たちは、「またか!!」尾張藩と将軍家の戦になるようなことまで、平気で言う過激状態になってきていました。

新藩主となった慶臧に、兄である越前福井藩主・松平春嶽は手紙を送り、尾張内をなだめるように指示しています。
手紙には、家臣から気に入らないことを言われても、決して咎めだてしないこと、仁心を持って接することと書かれています。
しかし、その4年後、慶臧は14歳で亡くなってしまいます。
跡を継ぎ、14代藩主となったのは、初代藩主義直の流れをくむ美濃高須藩松平家の徳川義勝でした。
遂に尾張藩は、家斉ファミリーではなくなりました。

1868年・・・鳥羽伏見の戦いが起こります。
この時、新政府軍の中心となっていた長州・毛利家は、かつて家斉の娘を正室に迎えましたが子供は生まれず、家斉の血筋とはなりませんでした。
家斉の子供を送り込まれた21家の中で、家斉の血筋が当主となっていたのは、加賀藩・前田家、鳥取・池田家、姫路・酒井家、徳島・蜂須賀家・・・4家のみ・・・
しかし、この4家が、旧幕府側につくことはありませんでした。
鳥羽伏見の戦い以降、新政府軍に味方します。
そして尾張藩藩主となっていた徳川義勝は、新政府の要職につき、江戸無血開城の受け取り役を務めています。

家斉が50年かけて行った大名ファミリー化計画・・・
それが幕府を支えることはありませんでした。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

十五万両の代償 十一代将軍家斉の生涯 (講談社文庫)

骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと

新品価格
¥5,500から
(2020/1/8 10:40時点)

昭和の選択です~~!!

明治38年日本海軍連合艦隊が世界を驚愕させました。
当時世界最強と謳われたロシア・バルチック艦隊を完膚なきまでに撃破したのです。
日露戦争の体勢を決したのです。
この時、連合艦隊の巡洋艦・日進に乗り込んでいたのが、海軍兵学校を卒業したばかりの山本五十六です。
未来の連合艦隊司令長官は21歳の若さでした。
完璧な勝利をおさめた日本海海戦でしたが、山本は戦闘中の事故で大けがを負います。
山本は左手の指2本を失っていました。
明治・大正・激動の昭和を軍人として生きた山本は、戦争回避を信念とするに至ります。
しかし、連合艦隊司令長官となった山本は、作戦立案を迫られます。
親友に宛てた手紙には、対米戦争の悲痛な思いが綴られていました。
山本をアメリカとの戦争に向かわせたものは何だったのでしょうか??
その葛藤と選択は・・・??

日本海海戦からおよそ15年後、35歳の山本五十六はアメリカ駐在を命じられます。
そののちは大使館付武官として合計3年を過ごします。
山本が目の当たりにしたのは、アメリカの豊かな石油資源と大量生産システムによる工業先進国の姿でした。
中でも山本の興味を引いたのは、航空機の発達でした。
第一次世界大戦で新兵器として登場した飛行機は、その後も研究されていました。
第一次世界大戦後、各国は平和を求め戦艦など主力艦などの保有量のを制限する軍縮会議を開きました。
山本の兵学校時代からの親友・堀悌吉は、この会議に随行していました。
日本はイギリス5:アメリカ5:日本3.5の保有を主張しましたが、日本3(6割)に抑えられます。
日米の国力差を知る全権・加藤友三郎海軍大臣は、堀悌吉にこう言って条約に調印しました。

「平たく言えば金がなければ戦争は出来ぬということなり
 結論として日米戦争は不可能ということ」

加藤や堀の考え・・・国力でいったら、過大な比率をもらっていると考えたのです。
しかし、日本3を単純に数字が低いというところに引っかかる人も多かったのです。

ワシントン会議集結8年後のロンドン海軍軍縮会議で、巡洋艦、駆逐艦などの補助艦が制約を受けることとなります。
度重なる軍縮は、海軍内に大きな軋轢を生んでいきます。
国際的な軍縮条約を順守しようとする条約派と、反対する艦隊派とに分かれます。
艦隊派は巨大戦艦で大砲を撃ち合う大艦巨砲主義を中心に置きます。
艦隊派を支持していたのは、軍令部のTOP伏見宮博恭王・・・艦隊派は、伏見宮の力を背景に、条約派の軍人を次々に引退させていました。
堀悌吉は、条約派の中心にいました。
堀の処遇に危機感を抱いた山本は、伏見宮と直談判に及びます。
山本はこの時の発言を書き残しています。

「堀たちは、事実とすこぶる異なる悪評を立てられております
 人事が汚れなく、神聖公明に行われることが、海軍結束の唯一の道であります」

しかし3か月後、堀も予備役に編入され、現役を去ります。
その翌年、山本は海軍航空本部長となり、国産航空機の開発に尽力します。
これがのちにアメリカを震撼させる零戦の誕生へと繋がっていきます。
アメリカでの経験から、山本は今後、航空機が戦争の主力となることを見通していたのです。

昭和11年、山本は海軍次官として海軍省への出所を命じられます。
海軍次官は、海軍大臣を補佐しながら軍を政治面から動かす重要な役職でした。
翌年、山本と旧知の間柄の米内光正が海軍大臣として就任。
米内とのコンビで、山本は国政に参画していくこととなります。

山本が海軍次官を務めていた昭和12年7月・・・北京郊外盧溝橋での衝突がきっかけで、日中両国は全面戦争に突入しました。
この戦争で、山本が育てた海軍航空部隊は都市部への爆撃を展開します。

日中戦争がはじまった翌年、日本はドイツ・イタリアと軍事同盟を結ぶという動きに出ました。
日本陸軍は、ドイツ、イタリアの力を頼りに、中国を支援するイギリス・アメリカをけん制しようと考えたのです。
しかし、海軍はこの同盟締結に断固反対でした。
三国同盟を結ぶと、即座にアメリカが日本を敵視とする・・・
アメリカと大変な衝突関係になってしまう・・・!!
戦力物資の輸出が止まってしまうどころか、戦争になる可能性があると思う海軍の軍人はたくさんいました。
日本の石油の殆どは輸入に依存し、そのほとんど・・・8割がアメリカからでした。
米内海軍大臣や、古賀軍令部次長ら海軍上層部は、一丸となって反対しました。
アメリカの国力を知る海軍次官・山本は、反対の急先鋒でした。
強硬に反対する山本には、同盟推進派による暗殺まで計画されました。
身辺に危険を感じた山本は、この時覚悟のような遺書を残しています。

”勇戦奮闘
 戦場の華と散らむは易し
 誰かし至減一貫 俗欲を排し斃れて後 巳むの難きを知らむ
 此身滅すへし 此志奮ふ可からず”

昭和14年8月・・・
三国同盟締結に山本らが反対を貫いていた時、ドイツは突然ソ連と”独ソ不可侵条約”を結びます。
ドイツと共にソ連を挟み撃ちにしようと考えていた同盟推進派の目論見は外れ、三国同盟は立ち消えとなります。
ヨーロッパ情勢を見誤った内閣は退陣・・・山本も海軍省から転出することになりました。
新たなポストは、海軍の花形・・・連合艦隊の司令長官という重職でした。
山本の就任直後、ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発。
軍政を離れ艦隊に復帰した山本は、この後、激動する世界情勢の中で苦悩することとなります。

瀬戸内海の小島・柱島・・・
標高およそ280mの山頂にレンガ積みの建物が残されています。
海軍が建設した海軍見張り所の跡です。
ここで何をしていたのか・・・??
柱島は、呉の海軍工廠に近く、大艦隊が停泊するには十分な位置にありました。
山本が指揮する連合艦隊は、この柱島の南2キロに停泊することを常としていました。
山本が司令長官に就任した直後に始まった第二次世界大戦・・・
ドイツは破竹の勢いで勝ち進みます。
わずか1年足らずの間に、オランダ、フランスなどがドイツの軍門に下ります。
日本ではドイツの勢いを受け、再び日独伊三国同盟締結への機運が高まります。
アジアのオランダ領、フランス領の資源を確保しようという動きでした。
アメリカはこれに反発し、航空機用ガソリンや、鉄くずの対日輸出を禁止するという強硬な態度に出ました。
抜き差しならない状況で、山本は海軍首脳部が集められた席上で、三国同盟締結への賛同を求められました。
伏見宮王らがリードして、海軍も同盟を承認する動きに出ていたのです。
アメリカとの戦争に反対の山本は、連合艦隊司令長官として不満を表しました。

”重油は何処よりとるや
 鉄は何処より入るや”

核心を突いた問いかけでしたが、黙殺され、海軍は同盟締結に賛成しました。

昭和15年9月27日、日独伊三国同盟締結。
いよいよ対米戦争が現実味を帯びてきました。
山本は、首相・近衛文麿に呼ばれ、対米戦の展望を問われました。

「ぜひやれと言われれば、初めの半年か一年は、随分暴れて御覧に入れる
 しかしながら、2年3年となれば、全く確信は持てません
 三国同盟ができたのは致し方ないが、こうなったうえは日米戦を回避するよう、極力ご努力願いたい」

アメリカとの戦争を回避したい山本・・・
しかし、司令長官として連合艦隊を率いなければいけない職責が重くのしかかります。

もはや、アメリカとの戦いは避けられないのか・・・??
しかし、国力の差を考えると、勝てる見込みはない・・・
発展目覚ましいアメリカには、豊かな石油資源まであるのだ。
例え戦争になったとしても、なんとか早期に講和へと持ち込まなくてはならない・・・!!
戦いが長引けば、苦しい戦況に陥ることは間違いない・・・

今まで育ててきた航空兵力を用いて奇襲攻撃を立案するしかないか・・・??
緒戦で大きな打撃を与えれば、アメリカの戦意を喪失させることができるかもしれない。
そのためには、奇襲作戦しかない・・・??
いや・・・アメリカと戦争をしてはいけない・・・!!
国が兵を養っているのは、戦うためではなく平和を守るためなのだ・・・!!
かつて三国同盟締結を阻止したように、軍と国政を動かすことができないだろうか・・・??
戦争回避を願うものは、海軍内にもたくさんいる。
既に退役されている米内大将に復帰していただき、伏見宮殿下に代わって軍令部総長についてもらって海軍の方針を変える・・・??
大軍大臣も務めた米内大将なら、海軍内の意見をまとめて戦争を回避することができる・・・??

海軍が動かねば、アメリカとの戦争は不可能なのだ・・・!!
対米戦争回避への道は残されているのか・・・??

昭和16年1月7日付の山本直筆の文書には・・・
厳秘と書かれた文書は、前年11月に海軍大臣に提示した山本の考えの覚書です。
従来の作戦で、机上の演習を繰り返しても、日本海軍はアメリカの勝つことは出来ず、このまま戦ってはじり貧に陥ってしまいます。
そこでまず遂行すべきなのは、開戦後真っ先に敵の主力艦隊を猛烈に攻撃してアメリカ海軍と国民の士気を失わせることです。
そのため、敵主力艦隊がハワイ真珠湾に停泊している場合、航空部隊で徹底的に撃破いたします。
月明かりの夜か、夜明けを狙い、全航空兵力を使って全滅覚悟で強襲・奇襲をかけるのです。

山本は、アメリカ太平洋艦隊の基地・ハワイ真珠湾を全力で攻撃する奇襲作戦を立案しました。
しかし、この文章の末尾にはこう書かれています。
”堂々の大作戦を指揮すべき大連合艦隊司令長官は、他にその人ありと確信する次第なり
 大臣にはその名前を告げ、伏見宮総長にも申し上げた”
山本は第二艦隊司令長官となっていた古賀峯一にその名を明かしています。

「此上は一日も早く 米内氏を使用の外なし」と。

さらにアメリカとの戦争回避のため、米内の軍令部総長への起用も進言していました。
山本は、奇襲作戦を立てながらも、戦争回避の人事工作を画策していたのでした。
この相反する考えは・・・??
軍人として「やったら負ける」とは言えない・・・
常識的に考えて出来ない作戦を要求して、出来ないといわれたら
「それじゃあ今はできません」と言いたかったのか・・・??

山本が望んだ人事が実現されることもなく、最後の望みを天皇の決断にゆだねるほかはありませんでした。
その苦しい進駐を堀に送っています。

「最後の聖断のみ残されておるも、個人としての意見と正確に正反対の意見を固め、その方向に一途邁進の外なき現在の立場は、真にへんなものなり。
 之も命というものか・・・。」

昭和16年11月、山本はまだ戦争回避の望みを捨てていませんでした。
ハワイ攻撃を準備する艦隊首脳陣に、日米交渉が今も続けられていると告げました。
交渉妥結の場合は、12月7日午前1時までに引き上げを命じると付け加えました。
山本のギリギリにして苦渋の選択でした。

しかし・・・山本はその時を柱島沖の連合艦隊旗艦長門で迎えました。
昭和16年12月8日未明・・・山本が放った奇襲部隊は作戦を成功させました。
真珠湾に停泊中の戦艦4隻を撃沈し、航空機200機以上を破壊するという戦果を上げたのです。
国内はこれに湧きます。
ところが・・・アメリカ太平洋艦隊の空母3隻は真珠湾にはおらず、決定的な打撃は与えていませんでした。
アメリカとの航空兵力の差を知る山本は、不安を募らせていました。

”現在の航空にては 今春伊吾 心細き限り”

山本の想像通り、アメリカは迅速に巻き返しを図ります。
これ以後日米海軍は、太平洋上で熾烈な戦いを繰り広げます。
昭和18年4月18日、山本はラバウルから最前線の視察のために飛び立ちました。
之を事前に察知したアメリカ軍は、パプアニューギニア・ブーゲンビル島の上空で待ち伏せし、山本の搭乗機を撃墜しました。
わずか4分ほどの交戦だったといいます。
翌日、墜落機の座席で山本の遺骸が発見されます。
かつて日本海海戦で二本の指を失った左手に軍刀を握り右手を添えていたといいます。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実ー【Blu-ray】 [ 役所広司 ]

価格:4,194円
(2019/12/19 20:06時点)
感想(6件)

父 山本五十六【電子書籍】[ 山本義正 ]

価格:561円
(2019/12/19 20:07時点)
感想(0件)

このページのトップヘ