日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: 英雄たちの選択

川路利良・・・幕末・薩摩藩出身!!初代警視総監であり、警察の父と呼ばれる人物です。
幕末動乱の時代、薩摩は長州と共に倒幕に突き進んでいました。
武士より身分の低い与力の出身だった川路、数多の戦いに参加したものの、一兵卒にすぎませんでした。
そんな川路がどのようにして栄達のきっかけを掴んだのでしょうか?

鹿児島・・・城下からおよそ北に12キロのところにある皆与志町比志島地区・・・
1834年5月、川路利良は「与力」の家に生れます。
後に大警視にまで上り詰める川路が、最下層の身分与力の子として生まれたのです。
大久保利通や、西郷隆盛らよりも身分が低く、武士と見なされませんでした。
比志島地区は今も農村地帯で、川路は農業で生計を立てなから、毎日遠い城下まで通い、藩の務めを果たしていました。
14歳の時、後の薩摩藩主・島津斉彬のお供で江戸へ。
藩の情報を伝える飛脚として活躍します。
薩摩と江戸を何度も往復しました。

川路にはもう一つ誰にも負けないと自負するものが・・・剣術です。
高杉晋作も江戸に剣術修行に行っていますが・・・
川路のことを「志ある者なり」と評しています。
川路は飛脚で培った情報収集力と剣術で、徐々に藩内で知られるように・・・
そして、幕末維新の動乱が、川路を表舞台へと押し上げていきます。

1864年7月・・・きっかけは禁門の変です。
前年に起きた政変によって京都を追われた長州が、主導権を取り戻すために御所を攻撃した事件です。
御所を守るのは、薩摩藩と会津藩!!
31歳の川路は一兵卒として参加していました。
序盤は長州が有利でした。
長州勢は守りを蹴散らし蛤御門へ!!
そこに援軍として駆けつけたのが川路達薩摩勢でした。
川路は長州勢を率いる大将を狙えば勝てると仲間の兵を鼓舞します。
薩摩兵がその大将を狙撃、重傷を負わせ、長州勢の進撃を食い止めました。
川路の機転は、戦局の変わるきっかけとなり、薩摩、会津の勝利でこの戦は終わりました。
勇猛果敢な一人の男・・・これに目を留めたのが薩摩藩の軍事指導・西郷隆盛でした。
西郷は川路を取りたて、やがて大隊長に・・・。

4年後の1864年1月・・・鳥羽。伏見の戦いが勃発
薩摩・長州の新政府軍と旧幕府軍とが京都郊外で戦い新政府軍が勝利します。
この時の川路の活躍は・・・??
「世の中に戦ほど面白きものはなし!!」
その後、川路は西郷に従い戊辰戦争を会津まで転戦!!
新政府軍の勝利に貢献します。
そして明治維新後、新しく首都となった東京で、川路は活躍の場を広げることとなります。

1871年、川路は新政府の参議だった西郷隆盛から重要な任務を任されます。
それは、首都・東京の治安維持でした。
江戸時代、町奉行が管轄していた職務を近代的な組織に変える必要性に迫られていました。
新政府は士族3000人を雇用。
そのうち1000人は薩摩藩士で、川路自ら鹿児島で集めたといいます。
彼等は邏卒と名付けられました。
現在の警察官の前身です。
1872年、川路は邏卒総長に就任。
薩摩藩士の中で、江戸の町を一番熟知していたのは川路でした。
川路はこの時から、日本の警察制度を確立する為に将来を捧げることとなります。

明治維新後、政府は早急に解決しなければならない問題青抱えていました。
威信の功労者たちが、次々と各地で暗殺・・・または暗殺未遂に会っていました。
新政府では、一連の事件を機に、これからの治安維持には犯罪の捜査だけではなく、犯罪を未然に防ぐ近代的な警察組織が必要だとなりました。

8月邏卒は、司法省警保寮の管轄となり、川路はそのNo,2警保助となりました。
そんな川路にヨーロッパ警察の視察の命が・・・!!
9月、川路達司法省の視察団が横浜を出発!!
フランス、ドイツ、ベルギー、オランダ、ロシアなどを1年かけて回りました。
川路がとりわけ感銘を受けたのは、フランスの警察制度でした。
当時、フランスはプロイセンとの戦争に敗れ、戦後も労働者の革命自治政府パリ・コミューンが樹立されるなど混乱が続いていました。
しかし、7000人を超える警察官によって、パリの治安は守られていました。
当時のパリは、維新後の日本と同じだったのです。
激動の時期、日常にどう戻していくのか??
戦乱、武士の力、軍事力ではなく、日常的に秩序を作り上げていくためには・・・??

1873年9月帰国・・・
そして、すぐさま政府に建議書を書きます。
新しい警察組織の創設を訴えたものです。

警察は国家平常の治療なり・・・
ヨーロッパでは、邏卒に軍人を用いるのは通例
日本にも士族がいるので、これを使わないのは失政の極みである

川路はフランスでの視察を盛り込んで、建議しました。

これに目をつけたのが、西郷と共に政府の実力者だった大久保利通でした。
大久保は、警察から地方行政まで全般を担う内務省を創設を準備していました。
川路は大久保の後ろ盾のもと、新しい警察組織の創設に邁進します。
ところが・・・建議書提出の翌月、新政府を揺るがす大事件が起こります。
西郷隆盛が新政府を離れ、鹿児島に戻ってしまいました。
朝鮮との外交方針を巡って、大久保らと意見が対立、論争に敗れたのが原因でした(明治6年の政変)。
西郷下野!!
その影響は大きく、薩摩藩士の多くは離脱・・・100人以上の邏卒が西郷を追って鹿児島へ帰ってしまいました。
川路もまた薩摩人として岐路に立たされます。

西郷を追って鹿児島へ・・・??
それとも警察の創設に邁進する・・・??

1873年11月10日、西郷が新政府を去ってわずか数日後、大久保利通肝いりの内務省が設置されました。
TOPである内務卿には大久保が就任、この内務省誕生は川路の選択に大きな影響を与えることとなります。
自らを取り立ててくれた西郷の恩・・・しかし、もっと国に尽くしたいという思い・・・!!

国家の安定、市民を守る警察行政制度の更なる拡充が頭の中にありました。
刻下の行政は一日たりとも揺るがせにできない・・・。
しかし、西郷への恩義は感じており、市場においては忍びないが・・・と言っています。

1874年1月15日、内務省の管轄下に警視庁が誕生しました。
当時の警視庁は、首都東京の治安維持だけでなく、国家全体にかかわる事件を地方警察に代わり担当していました。
川路は大警視・・・現在の警視総監の地位にある警視庁のTOPにつきます。
そして、日本の警察制度を一から作り上げていくことになります。

邏卒から警察官に変わったことで、新しく導入されたのが警察手帳です。
警視庁創設当時、警察官は約5300人でした。
この警察官の実力が試される時が・・・!!
各地で士族の反乱が起きます。
明治政府に不満のある士族たちが各地で反乱を起こしたのです。
士族たちは刀を持つことを禁じた廃刀令や、家禄廃止に反感を抱いていました。
警察官たちは次々に現地派遣され、軍の後方支援などで活躍、乱の鎮圧に貢献します。
そんな中・・・最も警戒していたのは鹿児島の西郷・・・
大久保や川路は、西郷の私学校の士族たちが能初することを恐れ、対策に講じます。
鹿児島に巡査を密偵として派遣!!
さらに・・・警察官の増員計画・・・目をつけたのが、戊辰戦争で敗者となった会津藩や仙台藩などの士族たちでした。
中でも旧会津藩主は、北寒の青森に移住して、斗南藩で苦難の生活を送っていました。
斗南藩も無くなり、路頭に迷うものも多くいました。
川路は、会津藩で家老を務め、鬼官兵衛として官軍に恐れられていた佐川官兵衛と接触します。
会津戦争の時に、徹底抗戦を貫いた官兵衛は、部下からの信頼も厚かったのです。
川路は、佐川に旧藩士を連れて警察官になるように要請します。
佐川はかつての部下たちのことを想い、決断します。

「皆、衣食に窮し 飢餓に迫る 之を養ふは我分なり」

佐川は、旧会津藩士300人を従えて警察官となりました。
川路と西郷の対決が、刻一刻と迫っていました。

1877年、川路と西郷の対決が・・・!!
薩摩では、士族を蔑ろにし、中央集権化を進める新政府への不満が爆発寸前でした。
そこに、川路が密偵を派遣していたことが露見!!
私学校の士族たちの怒りに火をつけることとなりました。
2月・・・武装した1万数千人が鹿児島で蹶起!!東京を目指して出発します。
九州各地で、薩摩と行動を共にする士族が現れ、西郷軍に加わります。
西南戦争の始まりです。
西郷軍を阻止する為に、警察は陸軍と共に各地で奮戦します。
今回は、後方支援にとどまらず、およそ1万3000人の警察官が武装して従軍しました。

川路は、陸軍少将兼大警視として西南戦争に参戦。
当時、熊本城にいた政府軍は、西郷軍に包囲され孤立していました。
八代に上陸した川路は、熊本城の救出に向かいます。
しかし、その登城、川路軍は西郷軍の奇襲を受けます。

部下の死を聞いた川路は激怒!!

「いざ、弔い合戦せん!!」

部下たちを叱咤激励します。
兵を率いて反撃に転じ、西郷軍を蹴散らします。
川路の勝利を知った西郷は、こう語ったといいます。

「川路は、兵の機をよく把握している
 敵ながら天晴なり」

やがて陸軍の増援部隊が加わり勢いづいた政府軍は、西郷軍を敗退させ、落城寸前の熊本城を救いました。
その後、火力と兵力に勝る政府軍は、鹿児島県との県境まで押し戻すことに成功!!
しかし、6月・・・川路は陸軍少将及び別働第三旅団長を辞任し、終戦を待たずに東京へ・・・。
その理由は・・・??

西郷にとどめを刺すというのは、私情において・・・と、ここに私情が出てくるのです。
本来、巡査隊の仕事ではない・・・ほかにやるべきことがある・・・という建前です。
最後・・・周りが避けさせたのではいか・・・??
開戦から7か月たった9月24日、鹿児島の城山に追い込まれた西郷は自害・・・西南戦争は終結しました。

大恩ある西郷を裏切ったともいわれた川路・・・。
当時の心情は・・・??

敗色濃厚の中で、鹿児島に戻った西郷が士族たちに最期の決起を呼び掛けた回文・・・。
死の20日ほど前にかいた絶筆です。
川路はこの手紙を手に入れ、西郷の直筆であると自ら書き加えたといいます。
絶筆と言える回文を自分のところに大事に保管したかったのでは・・・??

1879年10月、病のために46歳で亡くなります。
大警視の地位にあったのはわずか5年でした。
川路が眠る墓は、鹿児島ではなく東京にあります。
西南戦争のあと、川路は鹿児の地に足を踏み入れることはありませんでした。
墓には桜島の溶岩が・・・

大義の前に私情を投げ打ったという川路・・・。
しかし、鹿児島、西郷を思う心は、終生変わらなかったのかもしれない。

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天正10年6月2日・・・この日、歴史が変わりました。
天下統一目前だった織田信長が、家臣・明智光秀の謀反により非業の死を遂げる・・・本能寺の変です。
光秀はどうして謀反を起こしたのか?
今なお多くの謎に包まれた本能寺の変ですが・・・
今回の視点は”どうして信長は本能寺に泊まったのか?”です。
この時、信長には京都において定宿が三カ所ありました。
その中で、信長が本能寺を選んだのはなぜか??

戦国最大の事件本能寺の変・・・この時明智光秀は、主君・織田信長だけでなく信長の跡継ぎ・信忠をも討ち果たしました。
この信忠の死により、織田政権は実質的に崩壊したのです。
信忠とは・・・??
26歳で亡くなっていますが、非常に活躍した有能な息子でした。
偉大な父・信長の影に隠れ、歴史に埋もれてしまった信忠・・・。
1557年、信長の長男として誕生します。
信長のもうけた息子は、信忠・信雄・信孝など11人・・・。
しかし、信忠以外は幼くして養子に出されています。
攻めようとしている伊勢などに、養子に送ったりしています。
しかし、それは織田家に限らず、戦国大名のいろんな家がしてきている事・・・。
嫡男以外の男子を戦略的に周辺の領主に養子に入れるので、余程能力に問題がない限りは、後継者は嫡男でした。
生れながらにして信長の後継者として育った信忠・・・
その帝王学は厳しく・・・織田家の家臣が信忠を褒めると・・・信長は、
「家臣に手の内を読まれるなど、信忠は大将の器ではない
 そうであれば、信忠を我が後継者とするわけにはいかない」と。
他にも、信忠が自ら能を舞うのが好きな能数寄だとわかると、それに対し、
「武将たるものが能にうつつを抜かすなど何事か」と怒り、能に使う道具を取り上げたといいます。

信長から後継者としての資質を疑われた信忠・・・いかにして信頼を勝ち得たのでしょうか?

1575年5月、織田・徳川連合軍が戦国最強とうたわれた武田軍と激突!!
世に言う長篠の戦いです。
結果、織田・徳川連合軍は、武田軍に完勝!!
この機に乗じ、織田軍は武田領の東美濃を攻略。
その総大将に抜擢されたのが、わずか19歳の信忠でした。

岐阜県恵那市岩村町・・・武田の東美濃の拠点となった岩村城は、標高717メートルの巨大な山城です。
信忠軍が包囲する岩村城は、自然の地形を利用した難攻不落の要塞でした。
その秘密が井戸にあります。
兵糧攻めでは、水の手をたつということが行われます。
しかし、この城は、豊富な水が城内に湧いているので、城を落とすことができませんでした。
信忠が攻めたときも、半年間ここに籠っていました。

事実、信忠は5か月間岩村城を落とせず・・・

そこに、長篠の戦いの敗戦から息を吹き返した援軍が迫ってきます。
岩村城に籠城していた武田勢は、援軍を待たずして出撃!!
信忠の陣を逆に攻めたてます。
この時信忠は、自ら先陣として出陣!!
敵を返り討ちにしたばかりか、大将格21人を討ち取りました。
これによって岩村城は落城!!
11月、信長は信忠に茶器などの名物を褒美として与えたばかりか、尾張・美濃の二国を与ます。
さらに織田家の家督を譲りました。
信忠は、自らの武勇を示すことで織田家当主の座を勝ち取ったのです。
そして、天下人の後継者としての地位を盤石にしたのが・・・1582年2月武田征伐!!
総大将・信忠率いる織田軍は、怒涛のように武田領を席巻!!
最大の激戦となった高遠城攻めでは、自ら前線に赴き、采配を振るいました。
信忠は武田が誇る高遠城を、わずか1日で落城させたのです。

戦国最強の武田軍を相手に、自ら先陣を切る信忠に、信長は苦言を呈しています。
武田を弱敵と侮ってはならぬ・・・
しかし、そんな信長の心配を余所に、信忠は快進撃を続け、遂に武田家は滅亡!!
信忠が武田領に侵攻してわずか1月でした。
武田滅亡によって東の憂いは無くなりました。
信長は宣言します。

「信忠に天下を譲る!!」

織田家の家督だけでなく、天下人の座も継ぐことになった信忠・・・
本能寺の変3か月前の出来事でした。

本能寺の変2日前・・・1582年5月29日。
信長は安土を出立!!
二、三十人のお供を連れて上洛。
信長が少人数で上洛したのはなぜか?
「信長公記」によると・・・

直ちに中国へ出陣しなければならないので、安土に残るものは戦の準備をして待機させ、命令次第出陣するというので、この度小姓衆以外は随行しなかった。

当時織田軍は、関東・北陸・中国・四国と各地に展開。
中国方面軍羽柴秀吉は、備中高松城で中国の覇者・毛利と対峙。
信長に援軍の要請をしていたのです。
大規模な軍事遠征を間近に控え、上洛した信長・・・
その宿所となったのが本能寺でした。

戦国時代の京は、応仁の乱の被害があって、かなり荒廃した様子でした。
現在の本能寺は、豊臣秀吉の時代に移されたもので、元の本能寺は別のところにあります。
信長が宿所とした本能寺は、南西におよそ1キロ離れたところ。
戦国時代の京都を克明に記しているのが「国宝 上杉本洛中洛外屏風」です。
本能寺の周辺には、水堀などの防御施設が描かれています。
本能寺周辺で行われた発掘調査では、寺の周囲に幅およそ4メートル以上、深さ1メートル以上の堀などが設けられていたことがわかっています。
戦国時代の京都は、応仁の乱で焼け野原になって以降も戦乱で・・・その結果・・・上京と下京に分断され・・・それぞれの町は、総構えと呼ばれる濠などの防御施設に守られていました。
しかし、本能寺はその総構えの外に位置していました。
市街地のいちばんの外側・・・攻めやすかったのです。
信長自身は、本能寺はそれほどたくさん泊まっていません。
当時、信長が上洛した際に宿としていたのは、主に本能寺・二条御新造・妙覚寺でした。
記録によれば、二条御新造には14回、妙覚寺には20回、本能寺には4回・・・。
本能寺の北東に位置した妙覚寺は、一番多く泊まった宿です。
寺の周りに土塀や堀を巡らせた防御機能のある寺です。
本能寺の変の時には、信長の嫡男・信忠がここにいました。

1582年5月21日・・・信長が上洛する8日前・・・
信忠は兵500を率いて上洛!!妙覚寺に宿泊していたのです。
本来、妙覚寺は信長が京都へ上洛した時、頻繁に寄宿していた場所です。
信忠も妙覚寺へ泊るようになり・・・信長は本能寺に移り、信忠が妙覚寺にいるようになったのです。
妙覚寺と向かい合っていたのは、二条御新造。
信長の宿所として築いた屋敷です。
しかし、2年後には、時の皇太子に当たる誠仁親王に渡しています。
信長は、一旦妙覚寺に来て、その後、本能寺に移っていくのです。
妙覚寺には長男・信忠、二条御新造には皇太子・誠仁親王が・・・信長は本能寺に宿泊せざるを得なかったのです。

では、信長と信忠はどうして同時に上洛していたのか?
朝廷に対し、信長はこう申し立てています。
「我が顕職は信忠に譲与したい」と。
当時、信長の官位は右大臣・右大将(右近衛大将)・・・武士の頭領を意味します。
信長は、朝廷の許しを得て、自分の官位を信忠に譲ろうとしていたのです。
戦国武将は、いずれも成り上がりの者が多く、公家・帰属に比べると家柄も悪い・・・
権威付けという意味で、官職は重要な意味を持っていました。
これは、明治維新まで官職が人の序列を定める一番の根幹部分でした。
当時信忠の官位は従三位・左中将(右近衛中将)・・・信長は信忠の官位を武家の頭領である右大将に引き上げようとしていたのです。
今回の上洛で、信長は普段と異なる行動をとっています。
それまで信長は公家宗徒の対面を断ることが多かったのです。
その理由は「くたびれ云々」・・・面倒くさいということです。
しかし、今回の上洛では、信長は公家衆40人と数刻にわたり雑談に応じ、自慢の茶道具まで披露。

当時、信長が京都に来るときは、なにか京都に用事がある時・・・
信忠がいるということは、信長は官職を辞めた後、息子・信忠に高い位をつけてほしいと朝廷に働きかけていたのです。
その答えを聞くため・・・信忠が妙覚寺にいて、信長が本能寺にという可能性が高いのです。

後継者の豚だの地位を盤石にするために、本能寺に泊まった信長・・・
しかし、この時、明智光秀の大軍勢が本能寺を目指して進軍していました。

1582年6月2日早朝・・・
明智軍1万3000が信長のいる本能寺を襲撃!!
記録には、この時信長はこう叫んだといいます。
「信忠の別心(謀反)か!!」と。
近くにいる軍勢は信忠の身と思い込んでいた信長・・・それほど明智軍の襲撃は想定外だったのです。
本能寺から信忠の妙覚寺まで600m・・・明智軍の時の声は信忠の宿所にも届いていました。
信長のいる本能寺が明智軍に攻められている・・・信忠はどうするべきなのか・・・??

①信長の救援に向かう・・・??
②それとも、安土へ撤退する・・・??

ルイス・フロイスの記録によると・・・
信長は、安土から宮子までの陸路におよそ6mの道幅の道路を作らせたとあります。
道は平たんで真っすぐであった。
およそ50キロ・・・整備された道・・・
伊勢には次男信雄、大坂には三男・信孝集結・・・京都脱出に成功すれば、弟たちと合流することもできる・・・。
信長の弟・織田長益など、名のある武将も脱出しています。
信忠なきあと、後継者候補は信雄と信孝・・・二人はそれぞれ信雄=北畠・信孝=神戸に養子に出ています。
家督相続をめぐり、骨肉の争いは必至!!

③光秀を迎え討つ??
戦わずに退くなど、武士の一分が立たん!!

明智軍の本能寺への攻撃はわずか1時間余り・・・光秀の次なる標的は、妙覚寺にいる信忠・・・!!
その頃信忠は、妙覚寺を後にしていました。
向かった先は、隣の「二条御新造」
妙覚寺より守りが堅かったからです。
この時、信忠の側近は、「安土に移り、光秀を退治しては?」と進言します。
信忠は・・・
「これほどの謀反を企てた光秀が、洛中のあらゆる退き口に手をまわしていないはずがなかろう。
 途中で相果てることこそ、無念である。
 いたずらにここをひくべきではない!!」
信忠は、二条御新造に籠り、光秀と戦う道を選びました。
信忠は追手門を開門させ、敵をそこへ集中させます。
敵が怯むと打って出て、押し寄せる大軍勢を3度にわたって押し返したといいます。
信忠は、新陰流の免許皆伝で、剣の達人でした。
自ら剣をふるい、敵17人を切り伏せたといいます。
しかし・・・多勢に無勢・・・獅子奮迅の働きをしたのち、家臣にこう命じました。

「縁側の板をはがし、遺体を床下へ入れて隠せ!!」と。

そして、燃え盛る炎の中、信忠は切腹!!
壮絶な最期を遂げたのでした。
信忠死去・・・享年26歳でした。

明智軍は、信長同様、信忠の首も見つけることができませんでした。
この時、光秀は都の出入り口を押さえていたわけではありませんでした。
もし、この時信忠が逃げていれば、生き残れる可能性は十分にあったのです。

信忠亡き後の織田家は、弟達の家督争いで力を失い、天下は秀吉・家康のものとなっていくのです。

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舞台は灼熱のアラビア半島・・・!!
迫りくる岩の裂け目の先に・・・突然現れてくるのが謎の砂漠都市ペトラ!!
2000年前、奇跡の繁栄をしながら歴史の表舞台から消え去った幻の都です。
ペトラは東西文明の十字路・・・あふれんばかりの富を生み出します。

砂漠が国土の8割を占めるヨルダン・・・かつてここに大国と渡り合った小国ナバテア王国がありました。
行く手を遮る用の現れる岩山・・・その奥にナバテア王国の都ペトラがあります。
一本道・・・狭い谷と呼ばれるシークを通って・・・現れたのは古代都市の玄関口でした。
この風景は、「インディー・ジョーンズ 最後の聖戦」のロケ地です。
聖なる秘法の隠された場所だったのです。

宝物殿・・・高さは40m。
部屋は岩盤をくりぬいて作られています。
最新の研究ではここで祭祀が行われていました。
宝物殿は、外側の柱、彫刻などが巨大な一つの岩をくりぬいてできています。
この方法は、当時のトルコやペルシャの影響を受けています。
彫刻にはギリシャ神話に登場する神や部族、エジプトに出てくるの神の姿(アマゾネス・ニケ・イシスなど)もあります。
ヘレニズム様式の傑作とされ、世界遺産に登録されています。
宝物殿の脇に、奥に道が延びています。都市の内部へ・・・!!
左右の岩に構造物が・・・多くは墓で、かつて人々は町を囲むように墓を作りました。
墓には文様が刻まれています。
古代メソポタミアから取り入れた階段状のモチーフや、劇場・・・4000人が収容できます。
劇場はローマ様式です。
ここにはペトラならでわの特徴が・・・多くのローマ様式の劇場は、切り出した岩を積み上げて作るので座席には切れ目が・・・しかし、ペトラでは、巨大な岩を掘りぬいて作られているので切れ目がありません。
2000年前、ここで大勢の人々が演説や音楽に聞き入ったのでしょうか?

町の中心部には、2万人~3万人が住んでいました。
発掘はこれからで、王宮も見つかっていませんが・・・。
大神殿が発見されています。
大神殿は、広さ7000㎡、ギリシャのパルテノン神殿のような大型な建物だとわかっています。
さらに、アメリカの研究機関によると・・・巨大プールがあり、人々が泳いでいたというのです。
大神殿の向かい側には噴水が・・・
各地の文明に加え、佐幕に大量の水まで集めていたペトラ・・・
2000年前、ここにはどんな人が住んでいたのでしょうか?

歴史書によるとペトラで暮らしていた人は、もとは砂漠の遊牧民だったといいます。
彼等はナバタイ人と呼ばれ、その国をナバテア王国といいました。
ナバタイ人はどうしてあれだけの都を築けたのでしょうか?
その手掛かりとなるのがペトラから北に100キロのところにある死海です。
湖からはれき青が・・・れき青は天然のアスファルトです。
熱を加えると80度ほどで溶けて、コーティングの材料となります。

エジプトでは、ミイラの腐敗を防ぐために塗られていました。
れき青は、船の防水加工にも欠かせない材料でした。

「汝 瀝青をもて その内外に塗るべし」旧約聖書
ノアの箱舟にも使われたといいます。

ナバタイ人は、希少な資源で価値の極めて高いれき青を、砂漠を越えて取引していきました。
ナバタイ人は、交易によって富を得ていったのです。
王国が豊かになると、ペトラには多くの商人たちが集まることに・・・
そこで、行き届いたもてなしで、人々を迎え入れます。
ワインも作られていました。
位の高い人の邸宅の居間には・・・床暖房がありました。
ナバタイの都・ペトラ・・・そこは富が溢れ、各地の文明のエッセンスが香り立つ、世界有数の交易都市だったのです。

紀元前1世紀ごろ、ナバテア王国に強大な国が立ちふさがりました。
古代ローマです。
小さな地方都市から始まったローマは、数百年のうちに成長をとげ、遂に古代オリエントに目を向けつつありました。
当時、ローマの権力を一手に握ろうとしていたのが、大将軍ポンペイウス・・・!!
20代のころから卓越した武勇で頭角を現した生粋の武人です。
巨大帝国を築いたアレクサンドロス大王に自らをなぞらえたポンペイウスは、紀元前66年、オリエントへの大掛かりな遠征を開始!!
10万近い大軍を率いて、現在のトルコ周辺の国々を屈服させていきます。
その頃、ナバテア王国も周辺に勢力を拡大していました。
地中海の貿易港・ガザの周辺や、交易の一大拠点・ダマスカスです。
当時のナバテア王はアレタス3世・・・開明的で、ギリシャの進んだ文明を積極的にとり入れ、影響力を強めていきます。
そのアレタスの軍勢は、さらにエルサレムを包囲!!
しかし、そこにローマのポンペイウスの大軍がやってきました。
すると、戦うことなくペトラに引き返すのです。
ポンペイウスの軍隊は、勢いそのままにペトラにやってきます。
ところが・・・??
「ペトラへの接近は困難だった」byユダヤ古代史
どうしてローマ軍は近づけなかったのでしょうか?
ペトラの中心は平たんですが、周りは高さ数百メートルの岩山に囲まれています。
シークへの進入路は、シークと呼ばれる一本道・・・シークは狭く、二頭立て馬車がすれ違えるほどの幅しかありません。
さらに、ぺトラの背後には、高さ200メートルの断崖絶壁がそびえていました。
裏から攻めることも難しい・・・
その上アレタスは、この岩山を使い、神出鬼没の戦略をとっていました。
ローマ軍は組織的な軍隊で、ゲリラ的に攻めてこられると弱いのです。
要害・ゲリラ戦をうまく使い、乾燥地帯での長期滞在はローマ人にとっては負担となっていました。

どうしてペトラはこのような独特な地形をしているのでしょうか?
それは、大地溝帯の上にあるからです。
大地溝帯は、アフリカから地中海を貫く地球の裂け目で、ペトラ周辺は、もとは大陸の一部でした。
それが、1000万年の間に、巨大な裂け目が作られていきます。
大地の営みは岩の山脈を作りました。
ナバタイ人はそうした場所に生き、都を作り、国を発展させていたのです。
そののち、王アレタスは銀300タラント(約9トン)を送り、ローマと講和。
岩と砂漠の要塞都市・・・それがローマと渡り合うことができたペトラの力の源でした。

生き残るための技術も持っていました。
貯水槽です。
家には水路がはりめぐらされ、台所、水洗トイレ、洗面所・・・水がふんだんに使われていました。
町にはダムが・・・ペトラでは、200を超える雨水の貯水施設が見つかっています。
砂漠の都ペトラは、冬の短い雨期にしか雨が降らず、年間降水量は150ミリ・・・日本の1/10以下です。
僅かな水も、無駄にできないのです。
しかし、ペトラの水の技術は貯水槽だけではなく・・・
ペトラから6キロ離れた山の上にあるモーセの泉・・・今も地元の人々の生活の欠かせない水です。
ナバタイ人は、雨水に加え、この小さな泉の水をペトラまで運んでいました。
山あり谷ありの起伏の激しい土地にどのようにして水を引いたのでしょうか?
砂岩は水をしみ込みやすいので、モルタルでコーティングした水の水路ルートです。
水道橋もあります。
水路は、山や谷の中をわずか4度の傾斜で保たれていました。
土器でできた水道管も使われていました。
ペトラでは、貯水槽や泉の水を集めることで、一人当たり約600ℓ/1日の水が供給されていました。
それは現在の東京都民のおよそ3倍です。
もしもローマの大軍が包囲しても、ペトラは長期的に耐えられる都だったのです。

紀元前44年、拡大を続けていたローマを揺るがす大事件が起こりました。
ポンペイウス亡き後権力を一手に掌握したユリウス・カエサルが暗殺されたのです。
時のナバテア王は、マリクス1世・・・カエサル暗殺によっておこる激動の波に、翻弄されることとなります。
ローマの動揺を見て動き出したのは、東の大国パルティアでした。
この機を逃さんと、ローマの領土だったシリアから死海の近くにまで一気に侵攻!!
そもそもパルティアは、強固な騎馬軍団を擁し300年にわたってローマと激突していたライバル国家でした。
直近の対戦ではローマの司令官が敗死。2万人以上が戦死・・・ローマは大敗北を喫しました。
ナバテア王マリクスは仕方なくパルティアにつき、当面は生き延びようとします。

しかし、そこに立ちはだかった国は・・・女王クレオパトラ率いるプトレマイオス朝エジプト!!
クレオパトラはナバテアの財源・れき青のとれる死海周辺に狙いを定めてきました。
死海周辺をめぐるナバテアとエジプトの関係は・・・??
エジプトにとっては交易のライバルでした。
豊かな物資の地域を確保したかったのです。

クレオパトラはローマの新たな権力者となったアントニウスに接近!!
アントニウスはクレオパトラの虜に・・・。
協力関係になっていきます。
アントニウスのローマ軍は、パルティアを押し戻し、死海の近海を影響下に置くことに成功します。
するとアントニウスは、ナバテア王国から死海周辺を取り上げてクレオパトラに与えます。
ナバテア王・マリクスは、死海周辺を失いたくないと訴えかけます。
結果、毎年銀200タラント(6トン相当)で、辛くも土地の使用権を取り戻したのです。
しかし、それもつかの間・・・ローマ国内では次の火種が・・・
当時、ローマでは二人の権力者がせめぎ合っていました。
一人はクレオパトラの恋人・アントニウスと暗殺されたカエサルの養子・オクタヴィアヌスです。
紀元前31年、二人の争いは戦争にまで発展します。
アクティウムの海戦です。
大国ローマの次なるリーダーを決める争い・・・
否応なくどちらにつくのか、選択に迫られ・・・アントニウス・クレオパトラ連合へ援軍を送ります。
しかし、海戦はオクタヴィア盗郡の勝利!!
するとナバテア王マリクスは驚くべき行動に・・・!!
味方のはずのクレオパトラ側の船を焼き打ちしたのです。
その成果を手土産に、マリクスはオクタヴィアヌスに許しを求めます。
そして死海周辺を取り戻すことに成功します。
こうしてナバテアは大国に振り回された存亡の危機を切り抜けていったのです。

ナバテアの危機・・・それは初代ローマ皇帝オクタヴィアヌスによってもたらされます。
オクタヴィアヌスが南アラビアへの遠征を決めたからです。
当時、南アラビアと地中海を結ぶ交易ルートは、ナバテア王国が独占していました。
ここで取引されていたのは、乳香・没薬などの香料で、ナバテアにとってはれき青と同じく重要な交易品でした。
乳香は、当時黄金と匹敵する価値があったとか・・・!!
古代地中海世界の宗教儀式には欠かせないもので、現在でもつかわれています。
イエスが生れたときにも三人の賢者から乳香と没薬が・・・最も神聖で高価なぜいたく品なのです。
ナバテア王国にとって莫大な富を生み出す香料は国家の柱・・・
その交易路は王国の生命線でした。
そこにオクタヴィアヌスが目をつけたのです。
ローマ皇帝は莫大なお金を乳香や没薬につぎ込んでいました。
そこで、彼らはその交易路を支配しようとしたのです。

ナバテア王国はどのように対応したのでしょうか?
ナバテア王国宰相・シュライオス!!
シュライオスはローマの動きに対して実質的なリーダーシップを執ったと考えられています。
シュライオスにはどんな選択肢があったのでしょうか?

抗戦する??
それとも恭順・・・??
シュライオスの取った行動・・・1000人の兵士を引き連れエジプトへ出発!!
ナバタイ人は、ローマ軍の遠征に、自ら進んで従軍したのです。
1万人のローマ軍に、1000人のナバテア兵士が参加しました。
宰相シュライオスが、自ら道案内を務めます。

つまり・・・シュライオスが選んだのは、恭順の道だったのです。
ところが、シュライオスの恭順は、ただの恭順ではなく・・・
当時の歴史家の記録によると・・・

行軍の大半は、人の住まぬ砂漠だった
安全なルートも解らず、悪路ばかり・・・
道のないところ回り道・・・どこもかしこも行き止まり

兵たちは、疲労、喉の渇きに苦しみます。
途中、戦闘では7名を失っただけでしたが、結局、水が不足したために撤退せざるを得ませんでした。
ローマ人は、アラビアが過酷な場所だと全く知らされずに必要以上に長い距離を歩かされたのです。
つまり、案内役のシュライオスが、失敗するように仕向けたのです。
危険な砂漠地帯を、十分な水も持たずに進み、病気やのどの渇きに耐えかねて、死んだ兵士もいました。
ローマに従うふりをしたナバテアの勝利です。

シュライオスの策略にしてやられたローマ軍・・・
ローマの将軍は帰りは別の道を帰りました。
すると、なぜか行きの1/3の日数しかかからなかったといいます。
こうしてシュライオスは、香料の交易路を渡すことなく、自らも罰せられることなく、王国の利益を守ることに成功したのです。

ローマとの危機を乗り越えたナバテア王国・・・
ナバテアの交易網は、壮大な発展を遂げていきます。
南アラビア、エジプト、ヨーロッパ、インド・・・調査では、スイスの遺跡からナバテアのコインが見つかり、スリランカではナバテアの土器が発見されました。
ペトラの名は、シルクロードにも・・・

ペトラは東西交易の十字路として世界の先端文明を吸収・・・
数々の巨大建築を誇る国際都市として、その後100年にわたって最大の繁栄を築いていくのです。

ペトラはその後どのような運命をたどったのでしょうか?
ペトラの最も奥に、ナバタイ人たちが神を祀っていた遺跡がります。
そこには山と太陽の神ドゥシャラが祀られてきました。
しかし、後にキリスト教の祈りを捧げる場となり修道院に・・・。
近くの岩場には、キリスト教の十字架まで・・・。

106年、ペトラにローマ帝国を史上最大にした皇帝トラヤヌスの軍隊が攻めてきました。
ナバテア王国は、遂にローマに併合されてしまったのです。
しかし、その時の詳しい記録は見つかっていません。
ペトラはローマに併合されたあとは、独自の宗教は奪われキリスト教の拠点都市となっていきました。
ペトラはその後廃れ、忘れ去られていきます。
どうしてあれだけ繁栄を誇った都市が、幻となってしまったのでしょうか?

ひとつの原因は地震・・・
4世紀、6世紀、8世紀と巨大地震に襲われ、大きな打撃を受けます。
さらに交易路が変化し、ペトラを通らなくなります。
そうしてペトラから人々が消え、幻の都となったと言われています。
しかし、それを覆す発見が・・・!!
ペトラから見つかった6世紀のパピルス・・・
その解読から、巨大地震に見舞われたあとのペトラの変化が見えてきました。
ペトラの人々は、町の中心部や教会の周辺に住み続けていたと思われます。
そして、町の周囲には麦やブドウの畑が・・・
ペトラの周辺には、今も、麦、イチジク、オリーブの畑が広がっています。
交易都市ペトラは、農耕が営まれる土地へと生まれ変わっていったのです。
砂漠を農地に変えたのは、古代ナバタイ人が築いた水の技術・・・
今も畑の水は、当時の水路から送られています。
雨季の前には水路の手入れを行い、雨の到来を待つ週間が今も残っています。
ペトラにはナバタイ人の言葉があちこちに残されています。
その中に、頻繁に登場する言葉・・・「サラーム」
サラームは、今もアラビアであいさつに使われます。
意味は、平和、平安です。
2000年前、大国の狭間を生き抜いたナバタイ人・・・その文化や願いは、今もここに生き続けています。

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千年の都・・・京都・・・由緒ある寺・・・東寺(教王護国寺)。
11年にわたり、京都が戦火にまみれた応仁の乱(1467~1477)。
きっかけは嘉吉元年(1441年)に起きた二つの事件でした。
室町幕府6代将軍足利義教が、酒の席で暗殺された嘉吉の変・・・。
その2か月後・・・京都が占拠された空前の大一揆・・・
まさに前代未聞の事件でした。
追いつめられる細川持之・・・!!

応仁の乱勃発の26年前・・・1441年6月24日!!
信じがたい事件が起きました。
室町幕府6代将軍足利義教が酒の席で斬殺されました。
これが、混迷の時代の幕開けでした。
関東の反幕府勢力を討伐した義教は、連日家臣宅で先勝祝いに明け暮れていました。
夕闇が辺りを包み始めた頃・・・
突然義教の後ろの障子が破られ、甲冑姿の男たちが乱入!!
彼等は義教を押さえつけると、一瞬で首を落としました。
世に言う嘉吉の変です。
事件の知らせを受けたある公家は・・・「前代未聞の珍事」「言語道断の次第」と表現しました。
殺害された義教は、大名争いの家督争いに次々と介入して自分の意に沿うものを跡継ぎに据えました。
そのやり方は、万人恐怖と呼ばれていました。
将軍殺害の首謀者は、守護大名・赤松満祐・・・幕府の重臣たちが、次々と失脚させられていく中、実力者は赤松だけになっていました。
次は自分が狙われるのでは??と、凶行に及んだのでした。
現場にいた幕府のNo,2細川持之は、本来であればだれよりも将軍を守らなければならない立場にありました。
しかし、持之は慌てふためいてその場を逃げ出していました。
持之の意気地なさは、京都の人々に嘲笑されたといいます。
しかし、この持之の判断が、幕府と都の運命を大きく左右していくこととなります。

持之は、事態の収拾に動きました。
まず、足利将軍家にゆかりのある者を確保。
赤松に幕府の主導権を握られないための工作でした。
続いて義教の長男、後の7代将軍足利義勝を擁立を決めます。
そしてまだ8歳の義勝を補佐する為に、管領の自分が政の主導権を握ることを周知させました。
続いて持之は、播磨の自領に戻った赤松を討伐する為に、幕府軍を編制します。
司令官には山名持豊!!
しかし・・・山名はなかなか出陣しません。
持之の人望は地に落ちていたのです。

持之は山名達幕府軍を動員する為に、朝廷の権威を借ります。
後花園天皇から赤松討伐の綸旨を出してもらうように働きかけます。
綸旨を武士の争いに利用することは、権威を失墜させることになりかねない・・・
しかし、持之にはこの方法しかありませんでした。
こして、ようやく赤松討伐軍は動き出しました。
事態は収束するかに見えましたが・・・
しかし、将軍暗殺という前代未聞の事件で幕を開けた混乱は、守護大名たちの思惑が渦巻き、更なるカオスになだれ込んでいくのでした。

京都の南東部に位置する東福寺。
将軍暗殺の2か月後、寺を揺るがす大事件が起こります。
古来、東福寺は室町幕府によって制定された京都五山の一つとして偉央を誇り、幕府の権威を宗教的側面から支えていました。
広大な敷地は中世以来、多くの禅僧たちの修行の場でありました。
嘉吉元年9月3日・・・1000人を超える一揆勢が寺を占拠したのです。
この一揆は、当時の庶民階級が起こしたために土一揆とされています。
一揆は幕府軍が赤松討伐のために京都をするにしたすきを突き、隣国近江からなだれ込んできました。

国宝・東福寺三門・・・当時の姿を今もとどめています。
三文の楼上の須弥壇に置かれた宝冠釈迦如来・・・そのわきを固めるのは、十六羅漢像。
三門内部は全面極彩色で彩られ、天井には極楽浄土の世界に住むという迦陵頻伽が描かれています。
修行僧たちの厳粛な空間に、土一揆が押し寄せてきたのです。

時の管領・細川持之にとって、これは予期せぬ出来事でした。
9月3日に東福寺を占拠した一揆勢は、その数3万に膨れ上がり、3日間ほどで主要な寺社など16カ所を占拠します。
同時に一揆勢は、京都七口・・・武士の流通経路を遮断して、完全に都を包囲したのです。
学問の神様・菅原道真を祀る北野天満宮・・・この神社も一揆勢の攻撃を受けていました。

四代将軍足利義持は、北野天満宮ゆかりの西の京神人にだけ、酒麹を作る特権を認めていました。
彼ら以外に酒麹を作った者がいれば取り締まり、代々北野天満宮を庇護してきました。
北野天満宮をはじめ多くの寺社は、幕府の庇護で特権や荘園を持ち、富を蓄えていました。
軒並みこれらの寺社を標的にしていたのです。
京都の主な寺社を占拠し、流通経路を押さえた一揆・・・彼らが持之率いる幕府に要求したのは徳政令でした。

借金帳消しに・・・質入れしたものを借入金額の1/11で取り戻すことができる・・・。
困窮した農民たちを助けています。
この木札が発見された大嶋神社・奥津嶋神社・・・神社の周辺は、比叡山延暦寺が荘園として管理していた土地でした。
この時代、各地の荘園で農民たちは、領主の貴族や寺院に年貢を納めていました。
木札からは、荘園領主・延暦寺がこの土地に暮らす農民たちに特製を認めていることが読み取れます。

当初、一部の延暦寺の農民たちに許された徳政令・・・
ところが、これを契機に農民たちは武器を手に京都へ・・・!!
一揆の背景には、切迫した要因がありました。
室町時代の日本は、異常気象に見舞われていました。
1441年嘉吉元年は、気温が低く、降水量が多い・・・稲の成長に悪影響を及ぼした年でした。
長雨・・・水害・・・飢饉・・・
天候不順による飢饉に土民たちは追いつめられていました。
多くは過酷な年貢に苦しみ、酒屋や土倉など当時の金融業者からの借金で食いつないでいました。
生き残るために、どうしても大規模な徳政令が必要だったのです。

9月5日、三万人に膨れ上がった一揆はついに京都最古の寺・東寺を占拠しました。
2000人もの土民が詰めかけたのです。
彼等は徳政令の申し入れが受け入れなければ、伽藍に火をかけると幕府を脅します。
まさに、前代未聞の事でした。
寺側の一揆勢への対応が残っています。
一揆勢に酒を振る舞い枝豆をつまみに付け合わせ急場をしのごうとします。
京都最古の寺・東寺に火を放つと息まく一揆勢・・・
それは、細川持之にとっても驚愕の事件でした。

一揆の主力は困窮した農民でしたが、他にも台頭してきていた人々が・・・
馬借・・・馬を使って農産物を都市に運ぶ馬借は、室町時代、流通の発達に伴って重要な職業となっていました。
馬借は物を運びます。
飢饉、凶作となれば、彼らの仕事が無くなるからです。
馬借は、行き来をするので、情報をもたらしてくれます。
室町時代の変革期に登場した馬借・・・新興勢力が、時代の歯車を大きく動かしていくこととなります。

徳政令を要求した土一揆が京都を包囲してから一週間・・・寺社を占拠した一揆勢は勢いを増し、土倉や酒屋への襲撃をはじめていました。
幕政を預かる管領・細川持之にもはや一刻の猶予もありませんでした。
どうする・・・??

9月12日、持之はついに、一揆勢の要求を受け入れ、徳政令を発令しました。
寺社の占拠は解かれ、危機は去りました。
人びとは土倉に詰めかけ、借金の帳消しを求めました。
徳政令発令という持之の選択は、赤松討伐で京都を留守にしていたための苦渋の選択でした。
赤松討伐にも大きなっ出来事が・・・
徳政令発令の直前、山名率いる幕府軍に攻め込まれた赤松満祐が、自害したのです。

ところが、討伐後も山名持豊は京都には戻りません。
そのまま居座り、旧赤松領を手に入れようという魂胆です。
結局細川持之は、持豊の要求を受け入れ、播磨の守護に任命します。
激動の年が明けた嘉吉2年8月、細川持之病死・・・。

激動の嘉吉元年が終わり、人々は応仁の乱の破局へと進んでいきます。
播磨を手に入れた山名持豊は、後に山名宗全となを変え、応仁の乱で西軍を率いて幕府に対抗するほどの力を手に入れます。
畠山持国は、細川持之の後を継いで管領となり、しかし、跡継ぎに恵まれず家督争いが応仁の乱の直接の引き金となるのです。
そして持之の死後跡を継いだ細川勝元は、応仁の乱で東軍のリーダーとして山名宗全たちと相まみえることとなるのです。
日本の歴史を大きく揺るがす応仁の乱勃発は、26年後の事でした。

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4月30日、先の天皇陛下は退位され、令和時代を担う新しい天皇が即位されました。
天皇の生前退位は、江戸時代以来実に200年ぶりのことです。
最も近い先例となった天皇は・・・??
光格天皇です。

時は江戸後期・天明年間・・・
度重なる天変地異や飢饉に民衆が苦しみ、江戸や大坂で打ちこわしが・・・京では5万人もの人々が御所を取り囲み、天皇に救いを求めました。”御所千度参り”です。
光格天皇は窮状を幕府に訴え、お救米を出させることに成功します。
天皇が政治に口を出すのは、幕府始まって以来、前例のないことでした。
天皇は幕府に物申すだけではなく、譲位式を描いた絵図は、さながら平安絵巻のような行列です。
公家、武家だけでなく、町衆も繰り出して見物しました。
古式にのっとって儀式を復活させ、朝廷の威光を高めていったのです。
朝廷の権威に生涯を捧げた光格天皇・・・その知られざる戦いとは・・・??

鳥取県倉吉市・・・光格天皇に関わる興味深い資料が残っています。
天皇の母が記した手紙です。
「どのような因縁でこのような恐れ多いこととなったのかと我ながら不思議に思います。」
実は、光格天皇の生母・磐代は、倉吉の庶民の娘でした。
京都で光格天皇の父・閑院宮典仁親王の屋敷に奉公し、親王との間に祐宮・・・後の光格天皇を産みました。
典仁親王は東山天皇の孫にあたる皇族で、庶民出身の母との間に生まれた祐宮は本来天皇位とは縁遠いはずでした。
ところが、後桃園天皇が亡くなり・・・残されたのは、生後10か月の皇女だけ・・・
皇統断絶の危機を乗り越えるため、次期天皇の白羽の矢が立ったのです。
1779年、9歳で皇位を継ぎます。
後にこう語っています。

「皇統の末端にいた私が天皇となったのは思いがけない天運だった。」

その出自もあって、光格天皇は生涯本来ある天皇の姿を追い求めたといいます。
中でも力を注いだのが、廃れていた朝廷儀式の復興でした。
新嘗祭・・・しかし、戦国時代以降は、長い間御所の外で公家が代行するようになっていました。
光格天皇は、1786年途絶えていた新嘗祭を再興。
他にも大嘗会、朔旦冬至旬、新宮旬・・・などを復活させ、かつての天皇の権威を取り戻そうと努めました。
しかし、それが儀式の枠を超え、政治に及んだ時、為政者である徳川幕府との衝突を生み出したのです。
きっかけは、1783年の浅間山の噴火でした。
大量の火山灰による天候不順は、東北を中心に数年にわたる飢饉(天明の大飢饉)を引き起こしました。
影響は大都市にも及びます。
1787年江戸や大坂で打ちこわしが起こります。
そして京都でも一大事件を引き起こします。
”御所千度参り”です。
貧窮に苦しむ人々が御所を取り囲み、天皇に向かってお参りを繰り返したのです。
その数、1日に5万人になることもありました。
現場に居合わせた男は・・・

「京だけでなく、大坂や近江からも人が集まり、まるで伊勢参りのような人の集まりだ
 御所では人々が厳しい熱さを避けられるよう、周囲の溝を掃き清め、湧水を流してくれている
 リンゴも三万個も配られていたが、昼過ぎにはなくなってしまった
 京の町衆は、奉行所に何度も訴えたが、何一つしてくれないので天皇に直接訴えることにしたのだ
 あまりにも大規模なお参りが続くので、幕府でも対応を協議し始めたようだ」

この背後で、民衆の窮状に心を痛めた17歳の光格天皇が動いていました。
幕府とのやり取りで・・・
「この頃、飢えて困窮した人々が、御所の築地塀を回って拝礼している
 幕府が米を出して救済するようにすることはできないだろうか」
と訴えています。

朝廷が政治のことに口を出すのは、徳川幕府が始まって以来前代未聞のこと・・・対応を巡って幕閣は紛糾します。
申し入れからおよそ1月・・・
1787年幕府1500石の御救米を京に放出します。
天皇の思いが、幕府を動かしたのです。

天皇としてなさねばならないことがある・・・将軍に意見を言うことを・・・!!
自分がやりたいことをやれば、結果として世の中が少しは良くなるのだ
人を助けるという実感を得たのです。

光格天皇の直筆の書簡には・・・
「自身を後にし、天下万民を先とする」
若き天皇は、幕府との関係を変える大きな一歩を踏み出したのです。

1788年1月30日、思わぬ事態が京都を襲います。
応仁の乱の大火を上回る大火・・・天明の大火で、市中の8割が焼失・・・
火の手は御所にも及び、禁裏御所をはじめ、全てを焼き尽くしたのです。
御所からほど近い聖護院・・・難を逃れてきた光格天皇が仮住まいをした部屋が今も残っています。
18歳の光格天皇は、この仮御所で、焼失した御所の再建という難題に取り組むこととなったのです。
光格天皇は、江戸時代に入って規模が縮小されていた御所を平安様式で再建しようとしました。
しかし、それは容易いことではありませんでした。
江戸時代を通じて朝廷の支出をすべて負担してきた幕府を説得する必要があったのです。

その頃、うち続く不作や飢饉の対策を余儀なくされ、幕府財政も深刻な打撃を受けていました。
再建を担ったのが、8代将軍吉宗の孫で、名君として知られた老中・松平定信でした。
寛政の改革で・・・定信は、徹底的な緊縮財政を行い、あらゆる支出の見直しを進めました。
そんな定信にとって巨額な平安様式の御所の再建など、到底認められるものではありませんでした。
1788年5月、御所造営奉行に任じられた定信は、自ら京に乗り込み、天皇の意を汲んだ関白との交渉に臨みました。
定信の主張は・・・
”費用が巨額となれば、負担を転嫁される下々が困窮する
 元の通りの再建でよい”
天皇の意向はこれと真っ向から対立し・・・
”御所全体というのではなく、紫宸殿と清涼殿を平安時代の様式で再建し、儀式の意味を整えたい
 材木についてえり好みはしない・・・”

半年に及んだ交渉・・・その結果は??
現在の京都御所・・・光格天皇の望み通り、平安様式で再建されたものが今に受け継がれています。
焼失前に比べ敷地面積が1800坪増加、紫宸殿は格式の高い入母屋造りとされ、儀式を滞りなく行えるように建坪が増やされました。
清涼殿は、武家様式の書院造から平安様式の寝殿造りに代わっています。
注目すべきは紫宸殿と南門との間の回廊・・・それまではなかったが、復元されました。
幕府が費用の面から一番難色を示した部分です。

どうして回廊が認められたのでしょうか?
幕府側の資料によると・・・他の個所で減らした部分があり、今回は天皇の考え通りに造営すると書かれています。
定信は光格天皇の強い想いに屈し、他の建物の坪数を少なくすることで帳尻を合わせたのです。
今後の朝廷への対応について定信は・・・
「復古と言っても程がある
 以後、新たな要求については固くお断り申し上げるべし」としています。
御所債権を目論み通り実現させた光格天皇・・・しかし、幕府との間に争いの火種が燻り始めたのです。



1791年12月、21歳となった光格天皇・・・幕府との対決は、新たな局面を迎えました。
この都市の12月、天皇は41人もの公家を御所に招集し、意見を求めました。

「父・典仁親王に太上天皇の尊号を贈りたい」

典仁親王は、閑院宮家の当主で皇位についたことはありません。
従って、天皇の譲位後の尊号である太上天皇号を贈るというのは極めて異例のことでした。
背景には、宮中における序列の問題がありました。
「禁中並公家諸法度」には、””三公下親王”とあります。
三公とは、太政大臣・左大臣・右大臣のことで、典仁天皇は、天皇の父であるにもかかわらず、臣下のしもに座ることを強いられていました。
光格天皇は太上天皇の尊号を贈ることで、序列を変えようと図ったのです。
しかし、それには幕府の承認が必要でした。
天皇は殆どの公家が賛成同したことを力にして、幕府との交渉を間を取り持つ武家伝奏に交渉を命じました。

光格天皇の主張は・・・
閑院宮典仁親王に太上天皇号を贈るのは、かねてからの願いである。
わが父も老齢・・・何としても叶えたい
これまでに、鎌倉時代の後高倉院、室町時代の後崇光院のように、皇位につかずに太上天皇になった先例もある
朝廷の大多数が賛成している中、幕府が認めないようならこちらにも考えがある

事態はすぐに江戸に急報されました。

これ以上、新規の要望は認められない・・・定信は幕閣に対し、断固たる方針を表明します。

松平定信の主張
先例といっても、各々状況が異なるので、従う必要はない
天皇が持ち出したのは、政治の混乱期の特例である
私情により、皇位についていないのに太上天皇号を贈るのは、道理に合わない
それでも尊号を贈るというならば、責任者の公家を処罰し、閑院宮御自身に尊号を辞退していただくまで

定信は、断固として尊号の拒否を主張・・・しかし、天皇も引き下がる気は毛頭ない!!
1792年8月・・・朝廷は幕府にこう通告しました。
”新嘗祭までに尊号を贈れなければ、御心は穏やかではない
 天皇は11月上旬、尊号を贈ることをお決めになられた”
天皇側からの一方的な通告・・・定信も反撃に出ます。
”皇位とはそのように軽々しいものではない
 尊号を贈ることは決してご無用”

真っ向からぶつかった両者の主張・・・勝利するのは・・・??

1792年10月、光格天皇のもとに、幕府から驚くべき報せが・・・
”武家伝奏・正親町公明、議奏・中山愛親、広橋伊光、異常3名の公卿は江戸へ下向すべし”
武家伝奏や議奏は、本来朝廷と幕府の関係を円滑にするための公家です。
定信は、彼等こそが朝廷を強硬姿勢に傾かせた黒幕を説断じます。
あくる1月・・・正親町と中山は江戸へ下向・・・老中・松平定信直々の厳しい取調べを受けました。
下された処分は、正親町公明=逼塞・中山愛親=閉門・広橋伊光=差控というもので、幕府が皇位の公家を直接処罰するのは、前代未聞のことでした。

定信はその理由を・・・
朝廷が内々に天皇の意思を幕府に伝え、幕府がそれを承認した上で、表立って交渉するものだ

朝廷は幕府に図ることなく一方的に尊号を贈ることを強行しようとした・・・
これまでの手続きに従わず、幕府を蔑ろにしたことを定信は許せなかったのです。
一旦は抵抗するも、幕府の強硬な姿勢に屈し、尊号を贈ることを断念し、公家たちの処罰を受け入れました。
この件は、天皇にとって手痛い敗北となったのです。
しかし・・・光格天皇の心から朝廷の権威回復の意欲が失われたわけではありませんでした。

「桜町殿行幸図」・・・1817年、47歳を迎えた光格天皇は譲位し上皇となります。
これまで住んでいた禁裏御所から仙洞御所に移る様子を描いたものです。
行列を先導するのは、華麗な装飾の牛車・・・その後に正装に身を固めた公家が付き従います。
平安絵巻さながらの行列が繰り広げられました。
この行列の中に、鈴鎰(れいいつ)は鈴などを入れた櫃、大刀契・太刀などを入れた櫃などが行列にあります。
大刀とは、古代・律令制下の将軍が遠征時に天皇から与えられた節刀と割符、鈴鎰は国司が持参する駅鈴と赴任先の倉の鍵が入っています。
南北朝時代以降記録から消えていたこれらの品々を復活させ、譲位の儀式に用いたのです。
地方に国司を派遣、将軍を派遣・・・これは空間的な統治を表象するものです。
天皇は血統が一連につながっている・・・そして、国家国民全体に心を向けていることを示しています。

絵巻にはもう一つ興味深い光景が・・・
桟敷に陣取って行幸を見物する人々・・・公家武士に混じって庶民の姿も・・・当時殆ど外出することのなかった天皇が禁裏御所を出るというので、多くの人が拝観しました。
さらに絵巻に描かれたことで、その壮麗さは後世に残りました。
譲位はあらゆる人々に、朝廷の威光を思い起こさせる結果となったのです。
当時の幕府も例外ではなく、定信が老中を辞して20年以上・・・
時の将軍・11代徳川家斉は、その権威を確固たるすべく、朝廷に接近。
自らを従一位左大臣に、世子・家慶を正二位内大臣に異例の官位昇進を願い出ました。
譲位後も朝廷内で大きな力を持っていた光格上皇は、この要求に応じました。
見返りとして得た物は大きく・・・聖護院に秘蔵されています。
光格上皇が修学院離宮に行かれたときにお乗りになった網代輿・・・
江戸時代初め、後水尾天皇が造営した修学院への御幸は90年以上途絶えていました。
将軍家の官位昇進への返礼として幕府はこの行事を復活させたのです(1824年)。
庭園や建物は修復され、道具類も新規に整えられました。
500両にのぼる道具の費用、上皇の外出に伴う1000両の支出はすべて幕府が負担しました。
光格上皇の修学院御幸は14回に及び、そのための莫大な支度金が幕府から朝廷に支払われました。
幕府はいつしか天皇の権威に寄りかかり、自らを権威づけることに必死になっていたのです。

1840年光格天皇は70年の波乱の生涯を閉じました。
尊王攘夷が全国に広がっていく幕末の到来はその僅か十数年のことでした。


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