日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: 英雄たちの選択

1573年9月・・・戦国最強と謳われた巨大山城が落城しました。
城の名は小谷城・・・城主・浅井長政は、織田信長の妹・お市を妻にして、信長と同盟関係を結んでいました。
小谷城を落としたのは、身内のはずの信長でした。
長政の裏切りをきっかけに、血で血を洗う戦いが始まったのです。
しかし、城の守りは固く、落城までは3年の月日が必要でした。
小谷城を信長はこう評しています。

”高く険しい要害の地、攻め上がること困難なり”

小谷城とはどのような山城だったのでしょうか?
織田信長が、天下統一への第一歩となった小谷城落城・・・この攻防が現代に残す教訓とは・・・??

滋賀県北東部の長浜市・・・琵琶湖を見下ろす山に、巨大な山城・小谷城がありました。
標高495m・・・今は木々に覆われた山は、かつて巨大な山城として近江国にそびえたっていました。
自然の地形を生かしながら、巨大な要塞として構築された小谷城です。

曲輪には兵を配置し、尾根筋を進んでくる敵を鉄砲や弓矢で攻撃する拠点となります。
曲輪の外側には、敵の攻撃を防ぐ工夫があります。
切岸です。
急斜面を作り、下からの敵の侵入を防いでいるのです。

尾根沿いの道は、曲輪に横を過ぎると曲がっています。
これも側面から敵を倒す工夫です。
何の変哲もない山道も、綿密に設計された敵を倒す防御システムだったのです。

尾根沿いの道を避け、斜面から攻めようとすると・・・竪堀があります。
竪堀を掘っておくことで、敵が山の斜面を横移動して城内の中心部に入ることを防ぐ防御施設です。
竪堀の先は、数多くの曲輪があり、敵を皆殺しにするためのワナです。
竪堀に足止めされたところを曲輪から攻撃されます。
斜面からは攻め込めません。

本丸を目指す・・・その先には、今まで以上に強力な曲輪が待ち構えていました。
防御のための土塁を全周回していています。
鉄砲を撃ちかけることもできます。
仮に銃撃をかいくぐることができても、その先に侵入することも難しい・・・
見事な守りの城です。

本丸の出入り口・・・
石段の上には見事な黒鉄門という鉄ばりの城門がありました。
門の中には、小谷城最大の曲輪がありました。
大広間といい、幅35m、奥行き85mあります。
政治の中心地でした。
城主・長政が暮らしたこの空間からは、壺や皿などの日常生活や宴会に使用されたとみられる遺物が3万点以上発見されています。
大広間と本丸の背後には、尾根を断ち切った深さ9mの大堀切が作られています。

大堀切の奥には、城主・浅井長政の大切な人が暮らす曲輪が連なっています。
地元北近江の守護だった京極氏を住まわせる京極丸、長政の父・久正が入る小丸、本丸よりも高いところに置かれています。
しかし、小谷城はまだまだあります。
そこから急な坂道を登る事50分・・・
標高495mの山頂に、巨大な防衛陣地が作られていました。
大嶽城です。

たどり着くことさえ困難な山頂に、三重の土塁が張り巡らされています。
小谷城を背後から攻撃しようとする敵に備えたものだと考えられます。
さらに、大嶽城から南にのびる尾根筋にも、砦がいくつも配置され、西側からの攻撃に備えていました。
小谷城は、あらゆる方向からの敵に備えた難攻不落の要塞でした。
南国屈指の巨大山城・小谷城・・・
木々の下に隠れていたのは、戦国乱世が行きついた究極の城の姿でした。

浅井長政の居城・・・北近江の巨大山城・小谷城・・・。
長政は、小谷城の他にも、領内各地にいくつもの小さな城を配置していました。
こうした城は、どのような役割を持っていたのでしょうか?

横山城には、重要な意味がありました。
横山城は、小谷城の南にある軍事拠点で、街道が三角形に集まってくる真ん中にある城でした。
主要な街道を監視し、南、東の動きを把握することができ、即座に対応することができました。
浅井氏の支城は、色々な役割を担っていました。
小谷城の西の山本山城・・・琵琶湖の脇を日本海側に抜ける街道は、この山本山城と小谷城の間を通っていました。
二つの城で街道を囲んでいる・・・経済のポイントを山本山城が押さえていました。
私情を築くことで、地域を守るだけでなく、街道・・・流通そのものを把握していくことにつながりました。

小谷城の麓を通る街道・・・浅井氏は、この街道を小谷城の城下町まで引き込んでいました。
小谷城自体が、流通を支配する!!
重要な幹線道路を浅井氏が遮断している・・・きちんと管理していました。
小谷城の城下町は、川で琵琶湖ともつながっていました。
川を下ると姉川に合流し、姉川からすぐに琵琶湖で下。
琵琶湖の湖上交通という大きな物流の大動脈につながったのです。

浅井氏は、城下に川湊を作り、琵琶湖の物流と直接つなげていたのです。
北陸の米などを京都に運ぶ琵琶湖の大規模の水運は、物流の幹線ルートとして重要な意味を持っていました。
このルートを掌握する役割を持たせていたのが佐和山城です。
佐和山城は湖の入り江に接していました。
浅井氏は、湖に接する城を通じて、琵琶湖の水運にもにらみを利かせていました。
北陸から朝井領を通る琵琶湖の物流ルートには、隣国の大名も注目していました。
越前の朝倉氏は、早くから朝井氏と同盟を結んでいます。
天下統一に向かう織田信長も、妹・お市を長政に嫁がせ、緊密な関係を築いていました。

1570年4月、信長は、浅井氏と同盟関係にあった朝倉氏を攻撃!!
これを機に、長政は信長から離反します。
長政の裏切りを知った信長は、朝倉攻めを断念し、命からがら京に逃げ帰るのです。

長政の裏切りから2か月後・・・
1579年6月、信長は浅井領に侵攻します。
兵を向けたのは、小谷城ではなくその南の支城・横山城でした。
横山城を包囲した信長に、長政も出陣!!
姉川の戦いです。
戦は信長の勝利に終わり、長政は横山城を失います。
その頃、浅井長政、朝倉義景、武田信玄、石山本願寺、三好三人衆・・・信長包囲網が築かれようとしていました。
信長は大ピンチだったのです。
それでも信長は、浅井への攻撃を続けます。
狙ったのは、南の橋の佐和山城!!
佐和山城は、全体の戦局を左右する要の場所でした。
佐和山城は8か月にわたる籠城戦の末、信長の手に落ちました。
要となる城を奪われた長政・・・厳しい選択を強いられます。

佐和山城、横山城を落とされ、小谷城に来るのは時間の問題・・・和睦を願い出る・・・??
信長が、裏切ったものを許すはずがない・・・鉄壁の小谷城で戦いに打って出る・・・??

1571年5月、長政は、奪われた支城の奪還に打って出ました。
あくまで信長と戦う道を選んだのです。
しかし、強力な信長軍を前に敗戦が続きます。
勢いづく信長は、小谷城に近づき・・・小谷城から500mのところに虎御前山城を築きます。
目の前に大規模な陣を構え、長政を物理的にも精神的にも追いつめていきます。
信長は、新しい戦略をとっていきます。
信長は、幅6mの軍用道を5km作ったとされています。
高い塀で目隠しをし、浅井側に見えない徹底ぶりでした。

じわじわと小谷城を締め上げる織田軍・・・
一方の長政は、味方を次々と失っていきます。
比叡山延暦寺は焼き打ち、武田信玄は病死・・・

1573年8月、小谷城のすぐそばの支城・山本山城が信長に降伏・・・。
羽柴秀吉の巧みな調略によるものでした。
山本山城が陥落することによって、小谷城の裏に回れる・・・!!
山本山城降伏からわずか4日後・・・信長は勝負に出ます。
振りしきる雨をものともせずに、自ら手勢を率いて小谷城背後の要・大嶽城に攻め上ります。

8月27日、信長は総攻撃を命じます。
羽柴秀吉率いる軍勢は城下町を突破、谷から急斜面を駆け上がります。
京極丸の辺りに乱入!!
長政の父・久正の籠る小丸を攻めたて自刃に追い込みます。
滅亡を悟った長政は、妻・おとに三人の娘たちを信長の元へ送り出します。
そして自らは、最後まで残った家臣たちと共に本丸で打って出ます。
総攻撃開始から3日後・・・
1573年9月1日、小谷城城主・浅井長政は自決・・・28年の生涯を閉じました。
落城した小谷城は、秀吉に預けられましたが、琵琶湖湖畔にある長浜に新たな城が築かれると廃城が決まります。
この後、再び巨大山城が築かれることはありませんでした。
山城に立て籠れば守り切れるという戦国の常識が崩れた瞬間でした。
中世的な山城から近世の平城に・・・この転換を武将に決断させた大きなきっかけが小谷城の戦いでした。

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山城・・・それは、時として戦国武将の命運を左右する悲劇の城でした。
山陰地方の要となった巨大山城・月山富田城・・・
戦国時代、月山富田城に、三人の名将たちが挑みました。
名門守護大名・大内義隆、中国地方の覇者となる毛利元就、悲劇の忠臣・山中鹿之助・・・
しかし、如何に名だたる戦国武将と言えど、力でこの山城を落とすことができませんでした。
その攻略方法とは・・・??

室町時代に勃発した応仁の乱、京都を中心に11年間続いた権力闘争は、やがて全国に拡大・・・
群雄割拠の戦国時代に・・・!!
戦乱の火種は、山陰地方にも飛び火しました。
そこで急速に版図を広げたのは、守護代から台頭した尼子氏です。
出雲を拠点に最盛期には近隣諸国8か国の守護に任ぜられた尼子氏・・・
その隆盛を支えたのが、海の道です。
古来、朝鮮半島や中国に近い出雲は、日本海海運の要所でした。
さらに、山陰地方には石見銀山があり、尼子氏の経済基盤となっていました。
当時、世界の1/3の産出量をしめたといわれる日本の銀・・・中でも石見銀山は、ポルトガル人が書いた日本地図にも明記されているほどです。
こうした莫大な富を背景に領土を拡大した尼子氏・・・その拠点となったのが、月山富田城でした。

一見すると木々に覆われたただの山・・・

todajyou
















山全体が城になっています。
全国でも、屈指の大きさを持っていた山城でした。
総面積およそ70万平方キロメートル、東京ドーム15個分・・・日本代々級の城郭です。
山間部に至るまで500もの曲輪が築かれ、兵を配置し、守りを固めています。
軍事的な拠点でもあり、年の一部であり、政治の中心でした。

城の麓には城下町が形成され、商業施設もあったといわれます。
城下町を守る川は、軍事的な利用だけでなく、日本海海運の航路としても利用されていました。
いろいろな陶磁器・・・日本のものから海外のモノ(中国・タイ・ベトナム)まで、高級な青磁がたくさん出てきて、財力的にも強大でした。

1543年、第一次月山富田城の戦い!!
月山富田城に挑んだのは、中国地方を含め7か国の名門守護大名・大内義隆・・・!!
山陰の中心・月山富田城の攻略は、中国地方の覇者となり、天下への足掛かりとなる大事な戦いでした。
大内義隆は、1万5000の大軍勢で、月山富田城に迫りました。
尼子と決戦を挑もうとしたのです。
それに異を唱えたのが、当時大内の配下にいた毛利元就でした。
元就は・・・
「力攻めなど無理である
 たとえ日本全土の軍勢をもってしても、この城を容易く落とすことなど出来ぬであろう」
しかし、義隆は、元就の意見など聞かずに総攻撃をかけます。
大内軍は、城下町を焼き払うと、手勢を菅谷口・御子守口・塩谷口に分け城を攻撃!!
敵の猛攻を待ち受けていたのが、月山富田城に作られていた防御システムの土塁でした。
その一部が月山富田城内に今も残されています。
高さ6m、長さ130mの巨大な土塁・・・このような土塁が、城のあちこちに作られていたと思われます。
土塁の外側には深さ6m、幅10mの堀がありました。
外側に堀をセットにすることで、より高さを増して、敵を突破できないようにしていました。
戦国時代の土塁としては、最大級のものです。

このような土塁を突破したとしても、城内にはいろいろな仕掛けがあります。
花の壇と呼ばれる曲輪には・・・尾根筋を断ち、敵の接近を阻止する堀切りがあります。
本丸に向かおうとする敵は、屈曲した道に翻弄され、行ったり来たりを繰り返さざるを得ません。
花の壇を突破しても・・・上から攻撃されるようになっています。
月山富田城の進入路は三つ・・・その行き着く先は、山中御殿と呼ばれる膨大な曲輪です。
どの道を通っても、この曲輪に来るように仕掛けられています。
一気に撃退される・・・恐るべき守りの工夫です。
ここを突破しても、絶壁、七曲りを突破しなければなりません。
実際の戦いでは、城の堅い守りを前に、大内軍は城内に入る事すらできませんでした。
力攻めを諦めた義隆は、月山富田城を包囲!!

しかし・・・籠城側に降伏する気配はありません・・・
籠城に耐えうる月山富田城の秘密とは・・・??
月山富田城の周りには、いくつも味方の城がありました。
月山富田城を守るため、尼子は城郭ネットワークを築いていました。
これを、尼子十旗と言います。
月山富田城が攻められても、他の山城軍によって兵站線が確保され、援軍としての後詰を担ったのです。
そして開戦から数か月後・・・事態は急転・・・!!
1543年4月30日、大内配下の武将たちが、次々と尼子に寝返ります。
5月7日、味方が動揺する中、大内軍全軍撤退!!
撤退する大内軍は、それを追撃する尼子軍に多くを失いました。
尼子軍の圧倒的勝利でした。

大内軍の猛攻を、完全にはねのけた月山富田城・・・次にこの城に挑んだのが、後に中国地方の覇者となる毛利元就でした。
第二次月山富田城の戦いが迫っていました。
大内の大軍勢をはねのけた名城・月山富田城・・・月山富田城の戦いに敗れた大内義隆は、勢力がおとろえ8年後、家臣の謀反に遭い自害することになります。(1551年)
大内に代わって台頭したのが毛利元就です。
1555年10月1日、大内を滅亡に追い込んだ陶春賢を奇襲攻撃で撃破!!・・・厳島合戦です。
主君の弔い合戦で勝利した元就は、大内の領地を継承・・・一気に戦国大名に変貌を遂げました。
これによって領国を接した尼子と毛利・・・中国地方の覇権争いはもはや避けられませんでした。

両者の戦いを決定づける事件が・・・1561年12月、尼子晴久死去。
家督を継いだのは、わずか21歳の尼子義久・・・元就にとって好機の到来でした。
しかし、大内軍の配下として参陣した前回の轍を踏めば月山富田城は攻略できません。
難攻不落の城を攻めるために元就が狙たのが、当時尼子の支配下にあった石見銀山でした。
1562年、元就は石見銀山を奪取。
尼子の経済基盤を奪取することに成功します。
続いて・・・月山富田城の防衛網・尼子十旗を崩壊させること・・・!!
尼子十旗が無くなれば、月山富田城は孤立・・・!!
籠城戦の援軍は望めなくなります。
出雲の南を守る赤穴城を皮切りに、1年がかりで次々と撃破・・・!!
残るは白鹿城のみ・・・!!
その矢先、元就を不測の事態が襲います。
1562年8月、元就の嫡男・毛利隆元死去・・・!!
この時、隆元は毛利家の当主でした。
この時元就、67歳・・・当時の平均寿命を大きく超える高齢でした。
跡継ぎとなる孫・輝元はわずか11歳・・・他の子どもたちは養子に出してしまっていました。
すぐ領国へ引き返し、内政を固めなければ毛利家が崩壊する危険性もありました。
ところが・・・元就は、諸将を集め、こう宣言します。

「隆元の供養は、尼子を退治する外にない・・・!!」

弔い合戦を大義名分として尼子との戦いを優先したのです。
最大の敵・尼子を倒してこそ毛利家は安泰となる・・・
1563年10月、白鹿城陥落

1565年4月、元就、3万5000の兵を率いて、月山富田城へ迫ります。
難攻不落の大要塞・・・いかに攻略すべきか・・・??

力攻め・・・??
しかし、守りに秀でた月山富田城には、山中鹿之助などの武勇に秀でた猛将たちがいます。
元就にとっても手ごわい相手・・・!!
力攻めで負け戦が重なれば、従軍していた家臣たちに離反者が出る可能性も高い・・・
前回の戦いのときも元就はこう言っていました。

「力攻めなどは無理である
 日本全土の軍勢をもってしても、この城を容易く落とすことなどできぬ・・・!!」と。

兵糧攻め・・・??
敵の兵站線をたたき、直接の戦闘を避け、自滅するのを待つ・・・!!
しかし、月山富田城には、長期戦に耐えられる工夫がなされていました。
井戸に水が湧き出ています。
山城を作る場所で、水が得られるというのは、大変重要な要素でした。
兵糧攻めに耐え、長期の籠城戦に耐えうる月山富田城・・・!!
戦が長引き、高齢の元就が亡くなれば、毛利は崩壊必至・・・!!

力攻めか、兵糧攻めか・・・??

1565年4月17日、元就、3万の大軍勢で月山富田城の総攻めを開始!!
力攻めで城を陥落させようとしました。
籠城している尼子軍は1万!!
城の三法の登城口で激戦が繰り広げられること10日以上・・・
しかし、終始尼子軍は3倍の敵に対して勝利を得、さしたる大敗もなかったといいます。
毛利軍には犠牲者が続出し、大損害を被ります。

総攻めの愚を悟った元就は、城を包囲し徹底した兵糧攻めに転じます。
月山富田城を包囲する為に川を挟んだ山頂に布陣した毛利軍・・・
勝山城にはこの時の元就の覚悟の痕跡が残っています。
畝状空堀群・・・侵入する敵の動きを限定し、上から攻撃をしやすくする防御の工夫です。
勝山城を築いた元就の狙いとは・・・??
月山富田城を見下ろす本格的な陣城・・・これほどまで備えなければ、毛利元就であっても月山富田城を攻めることができなかったのです。
尼子氏の月山富田城がいかに強い城であったのかがわかります。
周囲に要塞を築き、完全に月山富田城を包囲した元就・・・
城内では、次第に兵糧の不足が深刻化していました。
その隙を浮いて、城内の離反を狙い調略します。
それが功を奏したのか、事件が起こります。
1566年、当主・義久が、謀反の疑いで重臣・宇山久兼を斬殺!!
これを機に、尼子の家臣たちは、次々と毛利方にくだりります。

そして1566年11月・・・尼子義久降伏・・・!!

毛利の総攻めから1年7か月・・・戦国時代まれにみる籠城戦でした。
この時、毛利の重臣たちは禍根を残さぬように義久の命を絶つことを主張しました。
しかし、元就は助けてやるのが武士たるものの法として義久を許したのです。
尼子滅亡・・・
しかし、戦国一の知将・毛利元就ですら月山富田城を武力で落とすことは、遂にできませんでした。

山陰の雄・尼子氏を滅ぼし、中国地方の覇者となった毛利元就。。。
毛利の城となった月山富田城・・・しかし、ここで三度の合戦が起こります。
尼子との死闘から3年後・・・
1569年6月・・・沖から軍船に乗り込んだ尼子再興軍、毛利領内に上陸・・・!!
尼子家の再興に燃える山中鹿之助・・・武勇誉れ高い尼子の武将です。
鹿之助の元には、尼子の旧臣たちが続々とやって来て6000人に及んだといいます。
この時、毛利本体は、九州・大伴氏との戦いに駆り出されていました。
月山富田城に残された毛利軍はわずか300・・・!!
対する鹿之助の尼子再興軍は6000・・・月山富田城に精通した尼子の旧臣たちでした。
毛利軍は、軍勢のはるかに勝る尼子方に降伏を申し入れました。
それを受け、尼子の旧臣を月山富田城に迎え入れます。
その時・・・入城した尼子軍に、毛利勢は一斉射撃を加え、だまし討ちで撃退したのです。
以来、月山富田城は、鹿之助たちの猛撃を寄せ付けず、戦いは翌年までもつれ込みます。
やがて毛利の援軍が到着・・・
1570年、山中鹿之助ら毛利領から撤退・・・!!
月山富田城の奪還に失敗した鹿之助はその後も毛利との死闘を繰り広げます。
しかし、尼子家の再興叶わず・・・1578年7月、山中鹿之助死去。
月山富田城の一角には、悲願を果たせなかった山中鹿之助の銅像がひっそりとたたずんでいます。
名門守護大名・大内義隆、中国知能の覇者・毛利元就、そして忠義の武士・山中鹿之助・・・
名だたる武将の前に立ちはだかり、彼らの夢を打ち砕いた月山富田城・・・そこは兵どもの悲劇の舞台となったのです。


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週刊ビジュアル日本の合戦 No.33 山中鹿介と月山と富田城・上月城の戦い (2006/2/28号)

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今からおよそ1100年前・・・京都御所清涼殿を落雷が襲いました。
ある者は胸を焼かれ、ある者は顔を焼かれ・・・一瞬にして都を恐怖のどん底に陥れた雷神・・・
人々はこの雷神の正体は、あのお方に違いないと噂しました。
菅原道真です。
平安時代のはじめ、類まれな学問の才能を発揮し、右大臣にまで上り詰めた男です。
しかし、突然・・・無実の罪で、九州の大宰府に左遷させられ、非業の死を遂げることとなります。
当時都で起こった災いは、怨霊の仕業だと人々は恐れおののきました。
ところがその後、一転、天神様として崇められるようになります。
今や、道真を祀る天神社や天満宮は、全国で2000を数え、毎年催される天神祭りは大勢の人々でにぎわいます。
その信仰は、1000年の時を刻み、日本人に定着していきました。

どうして道真は怨霊となり、天神様となったのか・・・??
神となって今も生き続ける菅原道真・・・不世出の英雄の実像とは・・・??

平安時代に都がおかれた京都・・・845年、御所の南で道真は生まれました。
菅原家は代々学問で朝廷に仕える中級貴族でした。
祖父、父はともに貴族の教育機関の大学寮の学者として名高く、文章博士を歴任しました。
文章博士の定員は2名・・・漢文学のエキスパートとして、その学識を元に天皇の諮問に応える重要な役割を担っていました。
道真も、儒学、漢文学を極めようと勉学に励みます。
道真の使った国宝・青白磁円硯が残っています。
この硯を肌身離さず持ち、書や詩を認めては、帝や貴族に献上したといいます。
家の名に恥じない学識をもって、朝廷に奉仕する・・・道真の文人官僚としての気概が伝わってきます。
そして33歳の時、努力は実を結び、道真は文章博士に抜擢されます。
ところが、喜びもつかの間・・・父親が道真の前途を心配し始めます。

「菅家文草」には・・・
「お前がこれから頼る相手もない孤独な存在になることが悲しい
 文章博士は高官ゆえに、人はお前を妬み、嫉むだろう」
そして、文章博士となって間もなく、父の言った通り、私を誹謗中傷する声が周囲から聞こえてくるようになった
とあります。

しかし、道真は、周囲の誹謗中傷にもめげず、朝廷の政治を支えていきます。
そんな道真の才能が発揮される事件が起こります。
887年、宇多天皇が21歳で即位
当時の朝廷は、地方財政が破たんし、税収が破たんしていました。
宇多天皇は問題山積の打開のために、政治改革に情熱を燃やしていました。
頼りにしたのが、朝廷一の実力者であった太政大臣・藤原基経です。
ところが、この基経に対する天皇の詔が大問題となるのです。

そこにはこう書かれていました。
”宜しく阿衡の任を以て卿の任と為すべし”と。
どうか、阿衡の約束について私を手助けしてほしい

基経は、この阿衡という役職に異議を唱えます。
中国の古典では、阿衡は政治権限のない名誉職に当たるとして政務をボイコットし、出仕しなかったのです。
即位早々、宇多天皇は追いつめられてしまいます。
学者たちは、基経に迎合するばかりで、政務の停滞は1年に及びます。
ところが・・・基経に宛てた道真からの書簡が、事態を収束に向かわせます。

”文章を作る場合、必ずしも古典の言葉の意味を正確に引くのではなく、そのときそのときの状況のあわせて用いるのが常です
 それをこのように咎められ、罰せられることが先例となったら、これから先、我々のような文章を作る者は、みな罪を免れないことになるでしょう”

身分が上であっても、臆すことなく意見した道真・・・基経は1年ぶりに政務に復帰します。
事件を解決に導いた道真は、宇多天皇から厚い信頼を寄せられるようになり、更なる出世への足掛かりとなります。
しかし、それが道真を窮地に追い込むことになろうとは、知る由もありませんでした。

道真が47歳を迎えた891年、朝廷に君臨した藤原基経が死去・・・
宇多天皇は自ら主導権を握って、政治改革をしようとします。
この時、天皇がブレーンとして重用したのが道真でした。
道真自身も、帝のためならばと、堂々と諫言を行い、政務に励みます。
当時、懸案だったのが、遣唐使派遣でした。
894年、宇多天皇は、遣唐使派遣を決定。
およそ60年ぶりの事でした。
大国・唐との交流を復活させることで、朝廷の威信を復活させることが狙いでした。
道真を遣唐大使に任命しました。
ところが道真は、唐の政治情勢が混乱を極めているという情報を得ていて、
「今は帝のご意思であろうと、唐に使節を派遣すべきではない」と宇多天皇に進言します。

”国の大事、独り身のためにあらず”

すると天皇は、道真の意見に従い、一大事業だった遣唐使の派遣を中止したのです。
なぜ、宇多天皇はこれほどまでに道真に信頼を寄せたのでしょうか?

宇多天皇が、もともと父・光孝天皇が位についたときに、一旦源性を賜わって、臣籍となっているということもあって、近臣という人たちを持ちませんでした。
宇多天皇にとって、自分を本当に支えてくれる人というのを求めていたのです。
信頼のおける、能力もある、しかし、欲望はない・・・
道真は、上司から見ると、最高の部下だったのです。
その後も、道真は、宇多天皇の側近として活躍、朝廷を支えていきます。

ところが、不穏な事態が起き始めました。
897年、道真の後ろ盾だった宇多天皇が、息子・醍醐天皇に譲位・・・
自らは上皇となります。
宇多上皇は、まだ若い醍醐天皇の補佐役に、道真と藤原時平を任命します。
時平は、道真よりも26歳も若かったが、無くなった基経の嫡男として重んじられます。
当時、朝廷の中枢に関わる参議以上の貴族は、公卿と呼ばれ、学者、文人がその地位につくのはまれでした。
道真は、この時すでに権大納言に昇進、大納言・時平に次ぐ地位でした。
宇多上皇が若い醍醐天皇に政治の心得として贈った”寛平御遺誡”・・・そこには、時平と道真に頼るようにと書かれています。

”時平は、功臣の子孫であり、若くして政務に熟している 頼りにせよ”
”私は道真を特に登用し、的確な助言を得た
 道真は、私にとっての忠臣であるだけでなく、そなたにとっても功臣であることを忘れてはならない”

宇多上皇は、時平に配慮しつつも、道真を重用するようにとのメッセージを醍醐天皇に送ったのです。
譲位から2年後、宇多上皇は法皇となりました。
そして、平安京西北の郊外に広大な敷地を持つ仁和寺を建立・・・ここに移り住むようになります。
御室御所ともよばれたこの場所で、表向きは政治から身を引きつつも、依然として大きな影響力を与え続けました。

学者でありながら、藤原氏と並ぶほど昇進を重ねた道真・・・
時平に対し、自らの無欲を訴えるかのような詩を詠んでいます。

”私はすでに上皇と天皇から無限の恩をいただいており、己の分をわきまえることを知っております。
 この上、渇望することなど、何もございません”

しかし、899年、道真と時平に官位昇進の宣命を発しました。
道真を右大臣に、時平を左大臣に・・・
道真は、遂に朝廷のNo,2にまで上り詰めたのです。
これに対し、身分不相応だと、周囲の反感は最高潮に達し、誹謗中傷の嵐が道真を襲います。
学者としては異例の栄誉・・・右大臣就任を受諾するのか?固辞すべきか・・・??
道真は厳しい選択を迫られていました。

醍醐天皇から道真に言い渡された右大臣への任官・・・平安時代の貴族社会では、天皇から昇進の宣命を受けても、2度3度、断るのが習わしでした。
道真も、三度にわたって辞表を提出・・・そこには、悩みぬいた切実な思いが吐露されています。

”右大臣昇進の銘を受け、私は夜も眠れず、食事も喉を通りません
 私が栄華を手にすれば、骨をもとかすような誹謗中傷の嵐が私を襲うことでしょう”

しかし、辞表は受け入れられず、899年、道真は右大臣に・・・この時55歳でした。
道真はどんな思いで右大臣の座にいたのか・・・
就任から1年経った頃、宴会の席で醍醐天皇の前でこんな詩を作っています。

丞相年を度りて 幾たびか楽しび思える

私が右大臣となり1年がたちました
悲しい思いをしたことなど、幾たびあったでしょう
そんな時は、ほとんどありませんでした

するとその翌月、道真の元に同じ文人官僚から辞任勧告場が届きました。

”来年は革命の年である
 ただの学者から大臣にまで上り詰めたあなたは、命を奪われる危険が最も高いので、大臣をやめて隠居すべきだ”

そしてその僅か3か月後・・・901年、大宰府に左遷との詔が、突然醍醐天皇から発せられました。

”学者の家から大臣にまで昇進しながら、分をわきまえず、権力をわがものにしようとし、宇多上皇を欺き惑わせた”

道真は、謀反の罪に問われたのです。
右大臣就任から2年・・・急転直下の天皇の詔・・・いったい何が起こったのでしょうか?
平安王朝最大のミステリーです。
道真はどうして左遷させられたのか?首謀者は誰なのか?
謎を解く手がかりは、道真の波乱の生涯を描いた”北野天神縁起絵巻”に描かれているといいます。
藤原時平が左遷への一番の中心人物だとされています。

首謀者は藤原時平・・・??
道真の躍進を恐れた時平が、道真を排斥する為に罪状を天皇に進言・・・
それが大宰府への左遷につながったといいます。

もう一つの説は・・・??醍醐天皇だった・・・??
宇多上皇と道真はつながっていて、それが不安材料だったというのです。
醍醐天皇の不安・・・それは、皇位継承をめぐる宇多上皇との確執にありました。
醍醐天皇の異母弟・斉世親王と、道真の娘が結婚していました。
醍醐天皇に皇子が生れない状態が続いたならば・・・宇多上皇が斉世親王を立てると言い出すかもしれない・・・!!
政治に影響力を持つ宇多方法が、道真と組んで斉世親王を皇位につかせるかもしれない・・・!!
そんな醍醐天皇の不安が左遷の引き金になったのでは・・・??

道真を大宰府へと追いやったのは誰なのか・・・??

東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花
            主なしとて 春を忘るな

左遷の命を受け道真が詠んだ歌です。
もう、二度と都の土を踏むことはない・・・悲哀と覚悟が伺えます。
北野天神縁起絵巻の中に・・・大宰府に船で向かう道真とその従者たちの場面が描かれています。
船の舳先の周辺には、得体のしれないh市議な怪しい魚の姿がいくつも描かれています。
非常に苦しい生活、悲しい生活を暗示しています。

大宰府での暮らしぶりは・・・
粗末なあばら家で、無念そうな従者たちを前に、醍醐天皇から賜った衣に涙する道真・・・
道真は、自らの運命を嘆き、こんな詩を詠んでいます。

”恩賜の御衣は 今此に在り
    捧げ持ちて毎日 余香を拝す”

ちょうど一年前、宴の席で帝が授けてくださったお着物は、今こうして配所にも携えてきております
毎日、このお着物に薫きしめられた残り香に、帝を偲び、帝をお慕い申し上げているのです

大宰府に左遷されて2年後の903年・・・深い絶望と孤独の中、道真は死去・・・59年の生涯を閉じました。
その後、怪事件が次々と都を襲います。
道真の死から6年後、醍醐天皇に重用され権勢をほしいままにしていた藤原時平病死、天皇の皇子たちも次々と亡くなっていきました。

貴族たちを震撼させた死の連鎖・・・
台風、洪水、疫病・・・災いがおさまることはありませんでした。
まことしやかに囁かれたのが道長の祟りでした。
慌てた醍醐天皇は、道真を右大臣に復帰させ、大宰府左遷の詔を焼却、道真の霊を慰めようとしました。
しかし、災厄は続きました。

930年、清涼殿落雷事件・・・醍醐天皇のいる内裏の清涼殿を、突如落雷が襲います。
雷神となった道真の怨霊とされました。
稲妻を浴び、身体を焼かれ命を落としたのは、道真の左遷を見て見ぬふりをした公卿たちでした。
その三か月後、心身に異常をきたした醍醐天皇が崩御・・・
道真の霊を慰めなければ、都に安泰が訪れることはない・・・
そこで、平安京の北西に、道真を祀る社が建立されます。
北野天満宮です。
御霊信仰・・・疫病をもたらす怖い神様・・・
しかし、きちんとお祭りをすれば御利益のある神様になる。。。
怨霊から天神様へとなって行ったのです。

今では道真を天神様として祀る天満宮・天神社は、全国に1万2000社あるといわれています。
学問の神様としてだけでなく、五穀豊穣、開運招福・・・いろいろな御利益のある神様として多くの信仰を集めています。
誠の神、書道の神、詩歌の神・・・いろいろな神となっています。
道真は、実際に平安時代の中ごろにかけてこの世に出現した人間が、1万2000社になって行ったのは、庶民の信仰そのものだったのです。

毎月25日、道真の命日に北野天満宮で天神市が開かれ、大勢の参拝客でにぎわいます。
道真が非業の死を遂げてから千年以上・・・今も、道真を畏れ、敬う気持ちは人々の心に生き続けています。

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1905年、日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を撃破しました。
その時の司令長官・東郷平八郎は、戦後、「仁義礼智信」の文字をある幕臣の子孫に送りました。
あて先は、小栗・・・書を送るにあたり、東郷はこう述べました。

「小栗上野介殿による横須賀製鉄所建造が、日本海海戦の完全な勝利にどれほど役立ったかしれません。」

横須賀製鉄所は1865年、徳川幕府によって建造が始まった日本初の近代的造船所です。
横須賀アメリカ海軍基地に、その一部が残っています。
1号ドライドック・・・日本海海戦の勝利には、ここで建造、整備された艦艇が大きな役割を果たしました。
その建設を手掛けたのが、小栗上野介です。

群馬県高崎市にある東善寺・・・
小栗を象徴する品が残されています。
何の変哲もない一本のネジ・・・
アメリカのワシントン海軍造船所を見学した時に、ひと箱もらってきたものです。
蒸気機関を用いて、大量に作っている工業ネジ、みんな規格が同じ・・・。
アメリカの近代工学、文明のシンボルです。
日本もこういうものを作りたい・・・!!

日本の近代化をネジに託して持ち帰った小栗・・・
その先見性はどのようにして生まれたのでしょうか?
1827年、小栗上野介は旗本の嫡男として生まれます。
幼い小栗は、エリート教育を受けます。
小栗は僅か7歳で、漢学者・安積艮斎の塾に入門しています。
艮斎は、非常に開明的な人で、著書「洋外紀略」には次のような一節があります。

「国を守るには大船や大砲を数多く作るしかない
 諸外国は、その費用を交易で賄っている」と。

まさに時代は変革期にありました。
1853年黒船来航。
圧倒的な武力を前に、日本は、1854年日米和親条約の締結に踏み切ります。
艮斎から学んだことが、小栗の目の前に・・・!!

1859年、33歳を向かえた小栗は歴史の表舞台に・・・!!
日米修好通商条約批准の使節に抜擢されたのです。
役職は、使節一行を監督する目付・・・。
その才能を認めた井伊直弼直々の抜擢だったといいます。
使節を乗せたアメリカの軍艦ポーハタン号は、太平洋を横断し、サンフランシスコを経由して東海岸へ・・・およそ2か月の航海の後、首都ワシントンへ・・・!!
大統領に国書を奉呈します。
現地の新聞はその様子を大々的に報じています。
しかし、果たすべき仕事はまだあります。
小栗は出発前に、井伊大老から使命を帯びていました。

「我が国にとって海軍創設は急務。
 海軍工廠を見学したい。」と。

条約批准の8日後・・・1860年4月5日、ワシントン海軍造船所を見学。
最新の造船技術は、小栗の目にどのように映ったのでしょうか?

”銅や鉄製の部品が、すべて蒸気機関を用いて作られている”

とりわけ小栗たちを驚かせたのが、巨大なスチームハンマーでした。
そこではおよそ3トンものハンマーが、蒸気の力で持ち上がり、巨大な鉄の棒をひと打ちで切断していました。
1860年5月13日、ニューヨークを出港。
日本への帰路につきました。
日本を外国から守るため、近代的な造船所を建設する・・・小栗の中に、確かな目標ができました。

しかし、帰国した小栗を待ち受けていたのは、驚くべき報せでした。
1860年3月3日に起きていました。
大老井伊直弼が、尊皇攘夷を掲げる薩摩や水戸の浪士たちによって暗殺されたのです。
桜田門外の変です。
自らをアメリカへ派遣した大老の死・・・夢を描いて帰国した小栗・・・その行く手は突如暗転しました。

アメリカから帰国して一月・・・外国奉行に抜擢されます。
処が翌年事件が起きます。
1861年2月、ロシア軍艦対馬を占拠。
小栗はすぐに現場に急行します。
しかし、ロシア船の船長は、幕府を交渉相手と認めず、対馬藩を交渉相手と直接交渉を主張します。
交渉は行き詰まり、江戸に戻る小栗・・・
一説には、この時小栗は、対馬を幕府領としてロシアと交渉することを考えていたといいます。
しかし、幕閣はこの案を却下。
東アジアに大きな勢力を持っていたイギリスに、対馬に軍艦を派遣してもらい、ロシア軍艦を退去させたのです。
この外交の裏側には、外国通として知られた勝海舟がいたと言われています。

「日本が正面から単独で、ロシアと談判したものなら、なかなかうんとは承知しなかっただろう」by勝海舟

1861年7月、小栗は責任をとって外国奉行を辞任
軍事力無くして国家は成り立たないことを痛感することとなりました。
しかし、幕閣はその才能を放ってはおきませんでした。
1862年、勘定奉行に就任。
これを機に造船所建設を推し進めようとした小栗・・・
しかし、その道は平たんではありませんでした。
当時、幕府内では莫大な金のかかる造船所建設に疑問の声が上がっていました。

「船は外国から買えば良い」

というのです。

「海軍を運用する人材育成に、イギリスは300年かかっている
 日本では500年かかる
 造船所建設よりそちらを優先すべきである」by勝海舟

「我が国はすでに、外国から購入した船を何隻も保有している
 破損すれば修理する場所が必要ではないか?」by小栗

短期的な目で見れば、外国から船を買った方が早い・・・
しかし、メンテナンスせず、ずっと動くかと言ったらそうではない。
外洋を走る船には貝殻が付き、船体が腐らないように塗装をするのです。
そのためには、船を造るだけではなく、実際に毎日修理できる場所が必要なのです。

1864年、幕府は造船所建設に動きます。
しかし、大きな課題が残っていました。
高度な技術と莫大な資金です。
当時の日本に単独での建設は不可能でした。
幕府には、当初アメリカに援助を求める計画がありました。
ところが・・・1861年南北戦争勃発!!
小栗は新たなパートナーを探す必要が出てきました。
虎視眈々と日本を狙う列強・・・!!
もし選択を誤れば、植民地化につながる恐れがあります。

イギリスにする・・・??
海軍に置いてイギリスは世界に冠たる国で、一早く蒸気機関を実用化し、最先端の造船技術は他国の追随を許さない・・・。
しかし、イギリスのアジア進出は、極めて暴力的!!
立ち寄った香港では道の真ん中はイギリス人が歩き、清国人は端に追いやられていた・・・。
造船所建設には多額の費用が要る・・・もし、支払いが滞れば、イギリスに国の富を根こそぎ奪われる事態になりかねない・・・。
そして、イギリスは最近薩摩と接近している・・・!!
この頃薩摩藩は、幕府政治の改革に動き出していました。
政治工作でそれを実現しようとしたが果たせず、方針を転換・・・
イギリスから最新式の武器を購入し、軍隊の近代化を進めていました。
イギリスがその後押しをしているとすれば・・・幕府の要請にこたえてくれるだろうか・・・??

オランダは・・・??
古くから付き合いがあり、海軍建設(長崎海軍伝習所)にあたり頼っていた国だ。
教官はオランダから派遣された士官が勤めていました。
オランダに、技術者肥田浜五郎を派遣してもいます。
目的は、造船の機会の注文と造船所建造方法伝習です。
幕府の一部では、オランダでの造船所建設が具体的に上がっていました。
しかし、近年その国力は衰えていると聞く・・・。
造船所建設という大プロジェクトの全面的援助が可能だろうか・・・??

フランスは・・・??
あまり付き合いのないフランス・
その頃、日本とフランスの関係は転機を迎えていました。
新たな公使レオン・ロッシュが来日、イギリスの植民地政策を非難、幕閣の好意を得ていました。
フランスは正義の国だと宣伝していました。
ロッシュには、日本で手に入れたいものがありました。
それは・・・蚕。
当時、絹織物は、フランスの輸出産業の主力で、伝染病の大流行で蚕が絶滅に瀕していました。
ロッシュは幕府の許しを得て、種紙を購入し本国に送っています。

「日本政府は我が国に皇位を持っています。
 毎日私は、フランスが日本政府に与えた幸福な影響を確認しています。」byロッシュ

友好的な関係を築きつつあるフランスとなら植民地の危険性はないかもしれない・・・。
それにフランスは、イギリスに負けじと造船技術の近代化に努めていると聞く・・・
そこにかけてみる価値はあるのでは・・・??
イギリスか?オランダか?フランスか・・・??

小栗が選んだのはフランスでした。
何が決め手となったのでしょうか?

”小栗上野介がフランス公使ロッシュに要請した造船所建設担当者について回答があった
 ヴェルニーという者が適任だという”

ヴェルニーは、清国で造船所建設の経験もある、フランス海軍きっての技術者です。
そのヴェルニーを日本に派遣し、工事の指揮を執らせると、ロッシュが確約したのです。
ヴェルニーは、契約を待たずに来日し、測量しました。
大型船でも侵入可能な横須賀に白羽の矢を立て設計に取り掛かりました。

ドックから備品の工場まで・・・小栗がアメリカで目の当たりにした造船所が日本で実現しようとしていました。

小栗が勘定奉行として直面していたのが、建設費年間100万ドルです。
ひっ迫する幕府財政の中、何を財源とすべきか・・・??
目をつけたのは生糸でした。
フランスとの契約との何か月も前から、根回しに動く小栗・・・そこで、生糸に気付きます。
生糸の安定供給・・・輸出によって外貨を得、造船所のための機材を買うことができる・・・!!
そしてその、生糸を現物で納めさせ、幕府が海外で売れば、大きな利益が得られるのです。
幕府は動き始めます。

”幕府の改印のない生糸や種紙の売買は一切許さない”

小栗は、幕府による生糸独占に舵を切ったのです。
さらにこの年、幕閣に組合商法の設立を提案しています。
計画は・・・??
幕府が改印制度を使って日本中の生糸を独占します。
さらに、日本とフランスで大商人に組合を作らせ、独占して生糸貿易を行います。
日本とフランスで生糸貿易を独占し、その費用を造船所建設に使おうと考えたのです。
造船所の建設は順調に・・・
しかし、国内情勢は悪化の一途をたどり始めました。

1866年第二次長州征伐
薩摩の仲介でイギリスから最新兵器を購入した長州を相手に、幕府軍は大敗北を喫します。
幕府の威信は充足に低下していきます。
この時、長州との講和講習に臨む勝海舟に対して小栗は・・・
「幕府の下に郡県制度を立てようと思う」
すべての藩を廃止し、将軍が任命した知事が地方を治める中央集権制です。
小栗は、徳川中心の近代国家を構想していました。
明治維新の2年前でした。

1868年鳥羽・伏見の戦い
薩摩長州の新政府軍と旧幕府軍との間に戦いが勃発!!
旧幕府軍は敗北を喫します。
登城した小栗上野介は慶喜に、徹底抗戦を訴えます。
慶喜の袖をとってまで秘策を・・・!!
”東海道を上ってくる新政府軍を幕府陸軍で迎撃
 孤立した敵を、幕府の誇る最新鋭の軍艦で海から砲撃する”

新政府軍の参謀・大村益次郎は・・・
「あの策を用いられれば我が軍は全滅していたかもしれない」と言っています。
しかし、すでに恭順を決めていた慶喜は、小栗の策を却下し、勘定奉行から罷免します。
そして恭順派の勝が・・・江戸城無血開城をするのです。
徳川中心の近代化の夢はついえたのです。

1868年3月1日、小栗は、知行地・権田村に退去
移住から間もなく、この地に屋敷の普請を始めます。
敷地の一角には・・・お茶の苗木を江戸から運んで植えています。
当時お茶は、生糸と並んで重要な輸出品目でした。
この地でも、国をとませる方法を考えていたのです。

国の基本は国民、国民が豊かになって落ち着いた暮らしができるということが大事なのです。
しかし、4月22日、新政府軍から付近の諸藩に一通の命令書が届きます。
小栗上野介は権田村に陣屋を厳重に構え、砲台を築いている・・・反逆の謀略は明らか・・・
手に余るようであれば、誅滅すべし!!

4月5日、小栗は逮捕され、翌日付近の河原で斬首されます。
享年41歳でした。

小栗が手掛けた造船所建設は新政府に受け継がれ、1871年横須賀製鉄所完成!!
製鉄所とは当時の用語で造船所を含む海軍工廠を指します。
後の日本海海戦でバルチック艦隊を沈めた駆逐艦や、魚雷艇の多くがこのドックで建造補習されたといいます。
小栗が造船所建設にあたって同僚に語った言葉が残されています。

「この造船所ができれば たとえ幕府を売り出すとしても、 土蔵付き売り家の栄誉が残る」by小栗上野介

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時代は幕末から明治へ・・・
戊辰戦争、破竹の勢いで進軍する新政府軍に立ちはだかった男がいました。
越後長岡藩士・河合継之助です。
最新兵器ガトリング砲や近代兵器を使って徹底抗戦し、新政府を苦しめました。
郷土を荒廃してまで戦った河合継之助・・・どうしてなのか・・・??
越後の蒼龍と恐れられた男、河合は新政府軍との戦いの先に、何を見ていたのでしょうか?

江戸時代、越後長岡藩7万4000石の城下町として栄えた新潟県長岡市。
1827年、河合継之助は代々藩の勘定方を務めた中級藩士の家に生れました。
河合は若くして勉学に精進します。
藩校での音読中心の勉学では飽き足らず、感銘を受けた書物は一文字一文字写して体得することを心掛けました。
中でも心酔したのは王陽明の陽明学でした。
その思想は、学問を実際の行動に生かす知行合一です。
当時、陽明学の実践者として世に知られたのは、幕臣の大塩平八郎・・・貧民救済のための反乱を起こしたのは、河合が11歳の時でした。
17歳になった河合は誓いを立てます。
”十七 天に誓いて 輔国に擬す”
国のために力を尽くして働く・・・と。
陽明学が、長岡藩のためになると思っていたようです。

17歳の河合が誓いを立てた年、長岡藩を揺るがす大事件が・・・
藩が管理し、日本海海運の要として栄えていた新潟湊・・・各地からの物資に紛れ、中国からの密貿易が発覚!!
そのため長岡藩は、政府に新潟湊を没収されてしまったのです。
湊での商取引から税をとってた長岡藩は、収入減を失います。
河合の誓いは、何の行く末に対する強い危機感からでした。
案の定長岡藩は、6年後には23万両の赤字をだし、財政危機に陥ってしまいます。
藩の再建を一途に考え続けた河合・・・この後、時代の大きなうねりが彼を表舞台へと押し出していきます。

1853年6月、ペリーが黒船を率いて浦賀に現れ日本に開国を求めます。
この時、長岡藩主牧野忠雅は、譜代大名として老中を務めていました。
牧野は未曽有の国難に対する対応策を若手藩士たちに求めます。
河合も意見書を提出・・・これが藩主の目に留まり、初めて藩で役職をもらうこととなります。
藩の重役会議に列席し、意見を述べる機会を与えられた河合・・・。
ところが、席上・・・面と向かって重役たちを批判し激怒させてしまいます。
さらに、藩主の跡継ぎ勉強を教える役に任じられると・・・教えるために学問を学んでいたのではないと断ってしまいました。

1858年、旧態依然とした長岡藩を離れ、遊学の旅に出ることを決心します。
西国にどうしても会いたい人物がいたのです。
天空の城・松山城で知られる備中松山藩・・・石高は5万石でしたが、実高は2万石の小さな藩でした。
慢性的な財政年に陥り、一時は10万両もの借金に苦しみました。
これを立て直したのが、松山藩参与陽明学者の山田方谷でした。
河合は方谷から、藩政改革の極意を学びたいと願いました。
河合の旅日記「塵壺」・・・方谷に面会した日、書留がありました。

封建の世、人に使われること出来ざるは ツマラヌ物

能力があっても藩に使われなくては意味がない・・・
方谷は、藩士としての心得を伝えます。
方谷が藩政改革で力を注いだのは”備中鍬””松山きざみ”など、特産品の生産を領民たちに奨励することでした。
これを藩が買い上げ、領民たちが潤います。
松山藩では、この特産品を江戸に運び、商人を介さず、藩士が自ら販売して大きな利益を上げていました。
方谷は生産性をあげ、武士が自ら経済活動を担うことで、藩全体が豊かになるシステムを作りました。
そして藩の再建を成し遂げたのです。

民は国の本
吏は民の雇い

民衆は国の基礎であり、役人である武士はその雇われ人に過ぎない

江戸時代の身分意識にとらわれない画期的な考え方でした。
方谷から、財政立て直しの秘訣を学んだ河合・・・
長岡に戻り、いよいよ藩政改革に腕を振るうこととなります。

1860年3月、河合が方谷のもとで研鑚を積んでいた頃、幕末の政局を動乱に巻き込む大事件が起こりました。
桜田門外の変です。
開国に反対する攘夷派を弾圧した大老・井伊直弼が暗殺されたのです。
これによって幕府の権威は失墜・・・以後各地でテロ事件が頻発します。
京都では朝廷と結びついて政治の実権を握ろうとする薩摩藩や長州藩が暗躍し、時代は大きく動こうとしていました。
河合は藩主にその行動力を認められ、郡奉行に抜擢されます。
いよいよ藩政改革の重責を担うこととなります。
目をつけたのが、領内を流れる信濃川・・・流域で水害が頻発し、耕作地に甚大な被害がでていました。
河合は治水工事を完工し、米の増産に成功します。
さらに、藩内の流通にも大胆な手を打ちます。
重要な財源だった信濃川の通行税を廃止します。
人や物の往来を促進し、商業が発展するという考え方です。
独占していた商売を開放し、藩への届け出だけで新規参入できるようにしました。
生産性をあげ、流通を促進し、経済を活性化する・・・方谷に学んだ河合の改革によって、わずか2年で10万両を蓄えるようになります。
河合の藩政改革が実り始めていた頃、中央は激動の時代となっていました。

1867年10月14日、大政奉還
     12月9日、王政復古の大号令

新政府は天皇を中心とする新政府樹立を宣言します。
新政府と幕府の対立は強まり、一触即発の状態に・・・!!

内乱の危機を察した河合は京都に向かいます。
長岡藩として朝廷に意見書を提出するためでした。
河合直筆の草稿が残されています。
そこには、内乱を防ぎたいという強い想いが認められていました。
譜代藩の立場から、河合は徳川の政権復帰を提案します。
しかし、朝廷はこれを黙殺・・・
そして、1868年1月、鳥羽・伏見の戦い勃発
近代兵器を豊富にそろえた新政府軍を前に、旧幕府軍は歯が立ちませんでした。
江戸に戻った河合は、長岡藩邸に会った美術品や茶器を売り払い、その金で横浜の外国商人から近代兵器を購入します。
なかでもアメリカ製のガトリング砲は、1台で歩兵100人分に匹敵するという割れた機関銃でした。
河合はこれを2台購入し、戦乱に備えます。

鳥羽・伏見で圧勝した新政府軍は、三手に分かれ、錦の御旗で諸藩を恭順させながら東へ進軍・・・
江戸の旧幕府勢力を一掃し、会津、東北諸藩と戦端を開こうとしていました。
その途中、北陸道を進む新政府軍は、長岡藩に恭順を求めます。
新政府軍に参加するか、軍資金3万両を供出せよというものでした。
長岡藩の重役たちの意見は割れます。
恭順か抗戦か・・・議会は紛糾し、返答は先延ばしに・・・。
業を煮やした新政府軍は、長岡に向けて侵攻開始・・・
4月27日、長岡藩に隣接する小千谷に進駐・・・長岡城までわずか17キロ・・・!!

この日、河合は家老上席・軍事総督に任命され、名実ともに長岡藩の全権を預かりました。
そして藩士たちに、交戦でも恭順でもない新たな考えを伝えました。

「勤王佐幕の論外に立ち 封土を鎮撫し 十万の民を治め以て 上は朝廷および徳川氏に対し忠実を尽くし 下諸侯たる責めを全うする外なし」

それは、新政府にも旧幕府にもつかず、武装したまま中立を保つという宣言でした。

1868年5月2日、新政府軍と直接交渉する為に、小千谷の慈眼寺を訪れた河合・・・
その時に使われた部屋が残っています。
新政府軍幹部と対峙した河合・・・
自分が必ず東北諸藩を説得すると時間の猶予を乞い、新政府首脳部に向けた嘆願書を差し出しました。
そこには、河合の目指す理想の国家像が書かれていました。

10万もの領民が安心して仕事に励み、藩全体が豊かになるよう努めることが、私の天職です。
長岡のような小さな藩でも、倹約に努め、産業を起こせば海軍を持てるようになるでしょう。
それなのに、戦争によって領民を苦しめ、農業を妨げ、国を疲弊させるのは、かなしむべきことです。
今こそ、日本国中で協力し、世界へ恥じない強国を作るべきです。

河合が訴えようとしたことは、長岡藩の中立だけではなく、全ての藩が富国強兵に努め、国全体を豊かにするというものでした。
しかし、新政府側は、軍備を整えるための時間稼ぎだと決めつけ、わずか30分で立ち去りました。
河合の信念を込めた嘆願書は、受け取ることさえ拒否されたのです。
窮地に立たされた河合・・・

新政府に恭順し、会津討伐に加われば、長岡が戦場になることはない・・・
それとも・・・強引な新政府軍に徹底抗戦する・・・??
ガトリング砲を始め、最新兵器をもってすれば、数か月は持ちこたえることができるはず・・・
雪の季節まで持ちこたえることができれば、勝機も見えてくる・・・??
諸藩も味方に付くかも・・・??
それまでに長岡が戦場となれば、多くの領民が犠牲になってしまう・・・。
中立する・・・??
徳川譜代の長岡藩が、核版図の調停役を買って出れば、新政府にとっても悪いことではないはず!!
どうにかして嘆願書を新政府首脳部に・・・!!

交渉が決裂した翌日の5月3日・・・河合は新政府軍本陣をたずね、再交渉を願い出ました。
中立を貫くことを選んだのです。
しかし、河合の懇願が取り次がれることはありませんでした。
諦めきれない河合は、他藩に仲介を頼みましたが、結果は同じでした。
河合は心を決めます。

此上は君国の為に一藩を挙げて奸賊を防ぐの外途なし

最早、新政府軍と戦うしかない・・・!!
しかし、長岡藩邸1300人に対し、新政府軍はおよそ3倍の4000人!!
兵力の差は歴然でした。
河合は新政府軍と対立する東北諸藩と軍事同盟を結びます。
5月10日、両軍が衝突・・・北越戦争が始まりました。
新政府軍は信濃川の対岸から大砲を撃ちかけ、長岡城下に突入!!
長岡城に陣取った河合は、自らガトリング砲を操りこれに応戦!!
しかし翌日、河合の奮戦虚しく、新政府軍によって長岡城は落城します。
最新兵器をもってしても、新政府軍の物量攻撃には抗いきれませんでした。
しかし、河合は諦めず、地の利を生かしたゲリラ戦を展開!!
領内各地で新政府軍を苦しめます。

7月24日、深夜・・・河合は長岡城奪還の奇襲作戦を試みます。
城の裏手に広がる沼地を胸にまでつかりながら6時間行軍し、早朝・・・
攻撃を開始します。
不意を突かれた新政府軍は大混乱に陥り敗走!!
この時、城を守っていた新政府軍の兵2500に対し、河合の兵はわずか700でした。
河合は兵力差をものともせずに、長岡城の奪還に成功したのです。

しかし、この戦いには大きな犠牲が伴っていました。
河合が左足に銃撃を受けたのです。
河合重傷の報せに長岡藩兵の士気は一気に低下・・・
かたや新政府軍は時を置かず猛反撃!!
新政府軍は、各地からの援軍を加えて3万に膨れ上がっていました。
4日後・・・城は再び新政府軍の手に落ちました。
3か月に及んだ北越戦争で、長岡の町は焼け野原となってしまいました。

河合は長岡藩兵の残兵と会津を目指します。
自力で歩けないために、担架で運ばれながら、80里越えという国境の険しい峠を超えました。
道中、日に日に傷が悪化した河合は、会津の塩沢村に身を寄せます。
今もこの地に河合が最期を迎えた座敷が大切に残されています。

1868年8月16日、この部屋で河合は42年の生涯を閉じました。
塩沢村の人々は、河合の死を悼み、墓を立て弔います。
しかし、墓石に河合の名はありません。
追撃してくる新政府軍に墓を暴かれないためでした。
賊軍の罪人・・・河合は日本の未来を見据えた構想を抱きながら、賊軍の将として世を去りました。
敗走ちゅうの峠で句を詠んだといます。

八十里 こしぬけ武士の 越す峠

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