日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: 英雄たちの選択

オリンピックで日本人初のメダリストが誕生したのは、1928年8月2日、アムステルダムオリンピック女子800mでした。
世界はこの類まれな身体能力に驚き、東洋の明星と呼びました。
その名は人見絹枝。
64年後の1992年8月2日、バルセロナオリンピックで同郷・岡山県出身の有森裕子が銀メダルを獲得しました。
人見絹枝以来女子陸上競技二人目の快挙でした。

しかし、人見絹枝のオリンピックへの道程は、決して容易なものではありませんでした。
近年、生家から人見絹枝の17歳の日記が発見されました。
そこに綴られていた悲痛な思い・・・女が足を露にすることさえ憚られる時代、心無い言葉が投げつけられました。
日本人女性初のメダリスト・人見絹枝・・・メダル獲得までの苦悩の洗濯とは・・・??

人見絹枝の故郷は、岡山県岡山市・・・
1907年農家の次女として生まれた人見はここで伸び伸びと育ちました。
体格にも恵まれた人見・・・十代で身長は169cm、足のサイズは27cm。
日本女性の平均身長が150cmだった時代、人見は目を引く存在でした。
1920年、高等女学校に入学、スポーツの出発点は、袴でもできる庭球でした。
そんな人見に陸上競技会出場の話が舞い込みます。
大正末期、男子だけで行われていた陸上競技が女子にも普及し始めていました。
女子だけの陸上競技会も開催され、その広がりは全国的なものになってきていました。
岡山県大会に出場した人見は、走り幅跳びでいきなり日本新記録をたたき出します。
人見の能力を伸ばそうと女学校の校長は、東京の学校を薦めます。

1924年、日本女子体育大学の前身・・・二階堂体操塾に入学します。
高等女学校の体育教師を育成する創立間もない学校でした。
創設者は、二階堂トクヨ・・・私財を投げ打ち、荒れ地を開墾し、後に日本女子体育の母とされた人物です。
人見は二階堂の信念に心を打たれます。

「先生は教育家である一方に、又立派な事業家であります。
 あの五千坪ちかい運動場や体育館、それが全部、先生の手で成ったものなのです。」

人見絹枝は時代を切り開く、自立した女性の姿に憧れました。
そして袴を脱ぎ、体操着を着た人見絹枝は、二階堂体操塾でその才能を開花させていきます。
入学からわずか半年・・・17歳で三段跳びの世界新記録を樹立。
記録を出す喜びに目覚めた人見は、指導者ではなく競技者の道を選び、塾を巣立ちます。

時は大正デモクラシー・・・都会ではモダンガールが闊歩していました。
1926年、大阪の新聞社に入社。
当時、スポーツ記事で販路拡大を目指していた新聞社にスカウトされたのです。
新聞記者として記事を書きながら、競技も続ける・・・人見にとって自立の第一歩でした。
入社から4か月・・・転機が訪れます。
1926年8月、万国女子オリンピック・・・スェーデン・イエーテボリで行われる国際大会に出場することになったのです。
女子だけの陸上競技の世界大会です。
欧米を中心に10か国から92人の女子が集まりました。
人見絹枝は、東洋から参加したたった一人の選手でした。
初めての海外での大会・・・外国人と競う未知の世界・・・
この大舞台で、人見は驚くべき活躍を見せるのです。
100ヤード走3位、円盤投げ2位、立ち幅跳び・走り幅跳び金メダル、走り幅跳びは世界新記録でした。
東洋からやってきたヒロインに、ヨーロッパの観客は湧きました。
人見は総合優勝という活躍をし、オールラウンダー・・・万能選手として尊敬を集めました。
彼女の価値は、記録だけではありません。
1896年に始まった近代オリンピックは、あくまでも男性のものでした。
女性が参加できたのは、テニスやアーチェリーなど、男性が女性らしいと認めた競技のみでした。
男たちは、女性には陸上競技は過酷すぎると参加を認めなかったのです。

そこに異議を唱えたのは、女性の権利向上のために活動していたフランス人、アリス・ミリアでした。
ミリアは国際オリンピック委員会に、陸上競技に女性の参加を認めるように働きかけていました。
そんなミリアにとって、人見絹枝は女性でも立派に競技ができるという証でした。
この万国オリンピックを開いた理由・・・それは、女性たちが国際大会で競技する場がなかったからです。
スポーツは過激すぎると男性たちに言われる・・・
女性たちが、スポーツは自分達にも出来ると証明する駆け引きのツールでした。
IOCに見せて訴えたのです。

男たちもようやく重い腰をあげました。
第8回国際陸上競技連盟総会の議論の記録が残されています。
2年後のアムステルダムオリンピックでの女子陸上の採用は・・・??
欧米17か国の代表が意見を交わします。
強硬な反対派はフィンランド代表・・・
「女性が笑い者になる・・・男性の持久力は先祖から受け継いだものだが、女性はそうはいかない・・・」
これにノルウェー代表が反論します。
「男性にとって良いことは、人類の半分の女性にも良いことだ」
「一回だけでも試験的に女子種目を実施する??」
人見絹枝の活躍・・・それは、男性たちの懸念を払う見事なものでした。
この成果で、オリンピックに女子陸上が参加が決定的となります。
人見絹枝は、アムステルダムオリンピックへと歩み始めました。

1928年7月28日、オランダ・・・アムステルダムオリンピック!!
初めて女子陸上競技が開催される記念すべきオリンピックが開幕しました。
しかし、あくまで試験的・・・今後の継続は、このオリンピックでの女子の結果次第でした。
開会式に臨む日本選手団・・・人見絹枝は、たった一人の女子選手として行進していました。
当初、日本の女子はチームで参加する予定でした。
人見の活躍もあり、女子陸上は全国に広がり、世界レベルの記録を出す少女たちが現れました。
三段跳びと短距離走の天才少女・橋本静子。
100メートル走のスプリンター姉妹・・・双子の寺尾正・文。
彼女たちは人見絹枝にできた初めての仲間でした。
しかし・・・少女たちは好奇の目にさらされます。
寺尾姉妹をモデルにした恋愛小説が発表されました。
それは、陸上選手の美しい姉妹が一人の青年を奪い合うというものでした。
年端も行かない娘たちが見世物にされたとこを両親は激怒!!
姉妹を強引に引退させてしまいました。
橋本静子は記録が振るわず予選会で落選・・・オリンピック代表は、またしても人見絹枝ひとりになってしまいました。
オリンピックににひとりで出場・・・
「女だてらにオリンピックか!!」という批判もありました。
そんな中、今度のオリンピックで金メダルを取れるだろうとの期待感・・・
批判と期待の狭間に立った、その苦しみは大変でした。

人見が照準を定めたのは100m!!
人見は世界記録を出しており、メダルの期待が高まっていました。
準決勝2位までが決勝に進める・・・!!
結果は4位・・・まさかの準決勝敗退でした。

この時の気持ちを後に、
「もう目の前は真っ黒になって、奈落の底に落ちたような気持であった」と。

絶望の淵に突き落とされた人見絹枝・・・。

100m一本に絞ってやってきた・・・負けを受け止め帰国して再出発するのか??
このままでは帰れない・・・わずかな可能性・800mにかける・・・??
今まで1回も出たことがないのに・・・??
そうすれば女子スポーツの道が開かれる・・・??
しかし、800mは、陸上の格闘技と呼ばれていました。
集団内での駆け引き、足やひじのぶつかり合い、男性でも過酷な競技でした。
周りから見れば、勝てる可能性はゼロでした。

1928年8月2日・・・女子800m決勝!!
そのスタートラインに人見絹枝の姿がありました。
人見の挑戦が始まりました。

スタートダッシュ・・・100mで鍛えた体でトップに躍り出ます。
2位以下を引き離す・・・しかし、スタミナは続かない・・・。
200mを過ぎてから、一気に失速・・・。
追い抜かれ順位をさげます。
TOP集団を行くのは、800mの記録保持者ドイツのリナ・ラトケ。
差はどんどん開いていきます。
ラスト一周・・・人見が腕を多きく振り始めました。
ラトケとの差が縮まる・・・3位に上がった人見・・・遂に2位を捕らえました。
目の前にはラトケのみ・・!!
人見絹枝、2位でゴール!!
1位のラトケとの差はわずか2m、記録は2分17秒6!!
世界記録を上回るタイムでした。
しかし、ゴール直後、人見は意識を失っていました。
後続の選手も次々と倒れ、女子800mは、死のレースといわれました。
人見が我に返った時・・・ポールには日の丸がはためいていました。
人見絹枝が銀メダル獲得を実感した瞬間でした。

アムステルダムから帰国後、人見絹枝は全国の女学校を回り、自ら競技する姿を女学生たち見せ、訴えます。

”狭い国内ばかり見ないでください
 世界は広いのです
 海外に出なければ、物事の本当の姿は見えてきません”

自分が選手として行ってメダルを取っただけではなく、自分は何をしなければいけないのか・・・
ありとあらゆるスポーツのマネジメント、指導者、選手・・・すべてをこなしました。
オリンピックをへて、人見に芽生えた夢は、次の世界大会で日本女子選手団を率いて出場することでした。
人見は莫大な遠征費を調達する為に、執筆活動で得た印税を投入!!
年に200回に及ぶ講演会をこなし、陸上競技の魅力を伝えます。
さらに、全国の女学校を回って寄付金を募ります。
そして人見絹枝の元に、5人の才能あふれる少女が集まりました。
10代の女学生たちです。

1930年9月6日、第3回万国女子オリンピック大会プラハ大会開幕!!
人見絹枝を先頭に、6人の選手たちが堂々と更新していました。
しかし、初めての国際大会で記録のふるわない選手たち・・・
このままではいけない・・・人見絹枝は自分の記録より、日本チームとして結果を残すことにこだわります。
世界記録を持っていた200mを棄権し、チーム競技である400mリレーにかけたのです。
結果は見事4位入賞!!
人見絹枝の夢がかないました。

しかし・・・この時、身体は限界を迎えていました。
プラハ大会の翌年・・・過労により肺炎を併発した人見絹枝は・・・
1931年8月2日・・・静かに息を引き取りました。

人見絹枝の母校に、彼女の最期が残されています。
デスマスクです。
亡くなられた直後に作られたものです。
享年24歳・・・女子スポーツの行方に、一筋の光が差した矢先の、早すぎる死でした。
命日は8月2日・・・奇しくも3年前、アムステルダムオリンピックで銀メダリストに輝いた日でした。

同じく8月2日、有森裕子が銀メダルを獲得しました。
バルセロナオリンピックから帰国した有森は、人見の墓前に足を運びました。
人見の思いは64年の時を経て、再びつながれました。
人見絹枝が日本女子選手団として活躍したプラハ・・・
国の英雄たちが眠る国立墓地の一角に、人見絹枝の記念碑が残されています。
彼女の死を悼んだ現地の女子陸上委員会は、東洋の明星・人見絹枝を称えています。

”愛の心を持って 世界を輝かせた女性に 感謝の念を捧ぐ”

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新紙幣・・・1万円の顔となった渋沢栄一・・・
明治時代、日本最初の銀行や、製造業、鉄道、ホテルなど500の会社を設立、日本資本主義の父と呼ばれた人物です。
次々に会社を興した経済人としてのイメージが強い渋沢ですが、別の顔があります。
日本の社会福祉事業の創始者です。
完成して間もない鹿鳴館でチャリティーバザーを開催、貧しいに人々の救済に奔走します。
貧民は経済発展の邪魔だといわれる中、悪戦苦闘します。

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こちらは、渋沢栄一の風刺画です。
まるで千手観音のように色々なものに手を出していたというものです。
実業家としての渋沢栄一ではなく、福祉事業家としての渋沢栄一とは・・・??

1867年、一隻の大型汽船が日本からフランスへと向かっていました。
15代将軍慶喜の義弟・徳川昭武を長とするパリ万博使節団一行です。
その中に、28歳の渋沢栄一の姿がありました。
渋沢は、武蔵国の豪農の息子でしたが、その才覚を認められ、幕臣として随行を許されたのです。
到着したパリは、万博を契機に大きな経済発展を遂げていました。
日本が足元にも及ばないこの発展は、どのようにしてできたのでしょうか?
渋沢は、その源泉をパリで出会った一人の銀行家から学びます。
フリュリ・エラールは、渋沢を銀行や株式取引所に案内し、資本主義のシステムを教えます。
銀行や株式会社は、人々から集めたお金で投資、そこで得たもうけを人々に還元する・・・
この資本主義の仕組みを使えば、巨額の資金を調達でき、フランスの発展の原動力となっていたのです。
渋沢は、パリで髷を切り、決意します。

「銀行や株式会社などの資本主義のシステムを日本に作ろう」

渋沢がパリにいた頃・・・
1868年1月、鳥羽・伏見の戦いが勃発!!
これに勝利した薩長を中心に明治政府が樹立しました。
帰国した渋沢は、1873年民間人の立場で日本人で初めて銀行(第一国立銀行)を設立。
国立とあるが、国の法律にのっとるというもので、あくまで民間の銀行でした。
かくして、渋沢は日本の資本主義の父として第一歩を歩み出したのでした。

一方、渋沢にはもう一つの顔がありました。
東京都板橋区の一角に建てられた銅像・・・渋沢栄一の銅像です。
こここそ、社会福祉事業家・渋沢栄一の原点でした。
渋沢が終生関わった東京養育院という福祉施設のあった場所です。

1872年鉄道開設。
東京は文明開化を迎え、大きく変貌を遂げようとしていました。
しかし、その一方で、繁栄から取り残され住む家を失った人々も街にあふれていました。

江戸幕府の瓦解により、100万都市といわれていた人口が50万人に・・・。
その6割以上が貧民とされ、日々の食事や寝るところにも困窮していました。
渋沢は、この現状を目の当たりにして、何とか方法はないか??助けることはできないか??と、強い問題意識を抱いていました。

1874年、渋沢にとって好機が・・・!!
東京府知事大久保一翁から依頼を受けます。
「七分積金の運用を引き受けてくれないか?」と。
七分積金とは90年前、松平定信の寛政の改革にさかのぼります。
その際に行われた政策の一つで、江戸の町内会の積立金の七分に相当する米やもみを徴収し、備蓄していたのです。
飢饉や災害が起こった時に御救い米として放出し、江戸庶民のセーフティーネットとなっていました。
さらに、松平定信は人足寄場を作っています。
浮浪人に大工やわらじづくりなど手に職をつけさせ社会復帰させる更生施設です。
江戸幕府が瓦解すると、七分積金は、そのまま東京都に引き継がれました。
この時七分積金の総額は、170万両・・・今の金額で170億円でした。
この江戸幕府の遺産に目をつけたのが、財政のひっ迫していた明治政府でした。
文明開化の時代、橋や道路の補修、連歌外建設・・・インフラ整備に流用しました。
元幕臣だった大久保東京府知事は、「七分積み金を困窮者の救済のために使ってくれ」と、渋沢に要請。
渋沢は早速、行動を起こします。
彼は、東京養育院という生活困窮者の救済施設を訪れます。
そこで愕然・・・子供も老人も、病人も一緒に収容され、100畳ほどの部屋に100人以上が詰め込まれていました。

「頗る乱雑を極めている
 その実情を見て、全く情けなく感じた
 いかに無料で収容しているにしても、これではあまりにも気の毒だと考えた」

ホームレスのような人々を、収容するだけの施設・・・
「その人たちをどうするのか?」という目標もなければ、施設自体をどのように維持させていくのかも考えていませんでした。
「社会全体で事業として確立させなければいけない」と、福祉という活動に非常に強くのめり込んでいきます。
渋沢は、七分積み金を使って、養育院の改革に乗り出します。
近代的な診療施設を設置、職業訓練所を設け、草鞋つくりなどの技術を学ばせ手に職をつける職業訓練所を作り社会復帰を支援、子供達には学問所で学ばせ知識をつけさせます。
渋沢は、七分積み金の生みの親である松平定信を生涯進行していました。
松平が行った構成システムにあるべき社会の姿を見ていました。

渋沢の談話集「論語と算盤」・・・渋沢は、論語と算盤を結び付けて理想の社会を説こうとしました。
”論語と算盤は、はなはだ不釣り合いで大変にかけ離れたものであるけれども、富をなす根源は何かといえば、仁義、道徳。
 論語と算数というかけ離れたものを一致せしめることが、非常に重要だ”

日本初の銀行設立を皮切りに、渋沢は、近代化に必要な基幹産業を次々と立ち上げ、日本資本主義の父として華々しい活躍をしていきます。
その頃、その手腕を見込んでオファーが・・・
主演の席に招かれた渋沢栄一、招待したのは三菱の創業者岩崎弥太郎でした。
当時、岩崎は日本の流通業である海運業を独占し、経済界の大立者として権勢をふるっていました。

「君と僕が堅く手を握り合って、事業を経営すれば、日本の実業界を思う通に動かすことができる
 これから二人で大いに大いにやろうではないか」by弥太郎

「いや・・・独占事業は、欲に目のくらんだ利己主義だ」by栄一

市場の独占を狙う岩崎弥太郎、多くの株式会社が自由に市場に参入することが資本主義社会の原則だと思っていた渋沢。
渋沢は、岩崎の申し入れを断って席を立ちました。

1881年、東京府庁・・・渋沢は寝耳に水の知らせを受けます。
東京養育院の廃止案が東京府議会に提案されたのです。
1879年から養育院は、東京府の税金で運営されていました。

「貧民を救うために、多額の税金を使うことは止めろ」
「渋沢は、惰民製造の本尊だ
 渋沢が余計なおせっかいをするから惰民が増加する!!
 養育院にいる惰民はみな、一時に追い出せ」by田口卯吉

渋沢は、真っ向反対します。

「一国の首府にして、これ位な設備を置いて窮民を救助すると云うことは、絶対に必要である
 顧みざるはこれぞ暴涙の政になる」

渋沢は、議会に廃止案の撤回を働きかけますが、多くの議員は支持しました。
この頃、明治政府は富国強兵をスローガンに、産業の近代化を推し進めていました。
紡績や造船などの工業を発展させ、西欧列強に対抗する国にしようというのです。
富国強兵論者からすれば、東京養育院の維持費は無駄・・・それは弱者の切り捨てにつながりました。

「もしこの施設を欠けば、餓死者が道路に横たわる惨状となるだろう
 将来を遂行すれば、廃止すべきものではない」

渋沢にとって養育院の廃止は、あり得ないことでした。
養育院の人々の命と生活を守り、そこからどう抜け出せばいいのか・・・??
困窮者を惰民と決め付ける議会と真っ向対決する渋沢・・・!!

①養育院を税金で維持??
社会福祉事業は、政府・自治体のバックアップが必要だ・・・
之を失うわけにはいかない・・・
幸い府議会には、懇意にしている議員がたくさんいる。
彼等に味方になってもらおう!!
しかし、養育院の人たちを惰民という人たちは、理解してくれるだろうか・・・??

②民間資金で運営継続
養育院はかけがえのない場所・・・
経済界で築き上げたネットワークを駆使し、民間企業から出資者を募るのはどうか・・・??
500もの企業に携わってきた私だ・・・必ず協力者がいるはずだ・・・!!
しかし、株式会社は営利が第一目的・・・利益の出ない養育院に理解を示してくれる人はいるだろうか・・・??

渋沢栄一の必死の訴えにもかかわらず、1884年には東京養育院の廃止が決定。
そこで渋沢は、こう啖呵を斬ります。
「府會がそれほどまでに無情であるならば、今後は養育院を独立せしめて経営するの策を、取らなければならぬ」

渋沢は、養育院の所属は東京府のまま、自分が運営する委任経営を申し出ます。
民間資金で運営継続を選んだのです。

しかし、運営資金はどのように捻出するのでしょうか?
ここから渋沢の挑戦が始まりました。
まず、渋沢が目をつけたのは、完成したばかりの鹿鳴館です。
西洋流の社交の場として舞踏会などが催されていました。
そこで、渋沢は政府高官や財界の婦人たちに働きかけ、1884年日本初のチャリティーバザーを開催。
手袋、足袋、人形、絵画など・・・身の回りのもの3000もの品をオークションに出品。
売り上げは3日間で7500円・・・今の6800万円にも上ったと言われています。
さらに渋沢は、財界の篤志家を一人一人たずね、多くの経済人から寄付を仰ぎました。
寄付者の名簿の最初には、渋沢栄一の名が・・・
次に三井財閥の幹部、大倉財閥の設立者が名を連ねます。

渋沢は、寄付を集める時、必ず大きな袋を持ち歩き、それを差し出しました。
実業界の大物・渋沢に促されると、誰も寄付を断れません。
人々は陰でこのかばんを”泥棒袋”と呼んでいました。
中には、冗談交じりにボヤく人も・・・
「渋沢さんが、寄付金を集めに来ると、ついつい出してしまう
 渋沢さんに長生きされては、こちらの身代がもたないよ・・・」

福祉事業・慈善事業は、事業自体を長く永続させ、社会に定着させるためには、福祉事業を維持させるための資金を活用する集める方法を自分達で考えなければならない・・・
こうして集めた寄付金を、公債や銀行預金に運用し、資金を増やしていきます。

東京養育院の資金・・・
1885年には3万5031円(2億9800万円)だったのが、1890年には11万8104円(8億8500万円)とまで増え、寄付の文化のなじみの浅い日本で、渋沢は社会福祉事業の資金を着実に増やしていったのです。
その後、養育院は拡大し、収容者も増えていき、東洋一の福祉施設となりました。

そして渋沢は、福祉活動の対象を困窮者だけでなく、災害にあって困っている人や、病気で苦しむ人たちにも広げ、医療や学術研究の施設の設立や運営に協力していきます。
さらに、当時はほとんどなかった保育所の構想も練っていきます。

”母親が安心してこの子を委託し、日が暮れるころには仕事が終わり、子を連れに来て伴って帰るというようなよいしっくみを作ったなら、非常に良いと思います”

ここには、一般の人々の普通の生活も福祉で支えようという思いが伺えます。
1909年70歳となった渋沢は、経済界から引退します。
しかし、社会福祉活動は、終生つづけました。

1929年、世界大恐慌・・・
日本でも失業者が続出し、東北地方では農村が深刻な飢饉に見舞われます。
国会では、貧困者を救う救護法が制定。
救護法とは、貧困者を救護することを国や自治体に初めて義務化したもので、後の生活保護法につながります。
しかし、法が制定されても、政府は予算がないことを理由に実施を延期します。
このまま貧困者の窮状を見逃してもいいのか・・・??
福祉活動家たちは、最後の頼みとして渋沢を頼ります。
救護法実現のための協力を仰ぎます。
この時、渋沢は91歳・・・病気と闘っていました。
活動家たちの話を聞くと・・・
「私はもうどれだけ生きられるかわからない
 私の命をみんなに与えていくのは本望だ」

そして、医師の制止を振り切り、羽織袴に着替え、大蔵大臣にこう訴えかけます。
「私たちが一生懸命働いて来て、日本の経済をこのようにしたのは、この時にこそみなさんに役立てていただきたいからでありました
 渋沢の最後のお願いです
 救護法を実施してください」

2年後の1932年、大蔵大臣は、予算を工面してようやく救護法を実施。
24万人もの人々が救護されました。
しかし、救護法実施を見ることなく、前年の1931年渋沢栄一逝去・・・92年の生涯でした。

東京都板橋区の一角にある銅像・・・
その隣にそびえたつ巨大な東京都健康長寿医療センター・・・
ここは、かつて渋沢が終生関わった東京養育院のあった場所です。
現在はお年寄りの医療や、リハビリで最先端の取り組みを行っています。
渋沢の思想を受け継いで・・・その場所は、日本有数の医療施設として人生100年の老後を支えています。

渋沢は晩年、各地で公演を活発に行い、日本の資本主義の在り方を訴えました。
それをまとめたのが、「論語と算盤」です。

「世の中がだんだん進歩するにしたがって、社会の事物もますます発展する
 ただし、それに伴って、肝要なる道徳仁義というものが、共に進歩していくかというと、残念ながら”否”と答えざるを得ぬ
 仁義道徳と、生産殖利とは、元来ともに進むべきものであります」


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奈良盆地北部の広大な一角・・・かつてここに、唐の長安をモデルにした都・平城京がありました。
2010年に復元された第一次大極殿・・・天皇が牧歌的行事を執り行った巨大な建物は、1300年前の当時の栄華を今に伝えています。
奈良時代の人たちや平城京の様子を生き生きと伝える「万葉集」。
万葉集・・・飛鳥時代と奈良時代のおよそ130年間の和歌を中心に集めた日本最古の歌集です。
作者は天皇から読み人知らずまで4500以上、20巻に納められています。
この膨大な編纂に関わったのが、名門貴族にして歌人の大伴家持です。

令和ゆかりの地・福岡県太宰府市・・・玄界灘に面した博多湾からおよそ15キロ内陸に位置しています。
飛鳥時代にもうけられた政庁・大宰府は、九州一帯の統治と、大陸、朝鮮半島からの攻撃に備える重要なや役割りを担っていました。
奈良時代のはじめ・・・727年頃、大伴旅人は、大宰府の長官として奈良の都から赴任しました。
旅人が率いた大伴氏は、神話の時代から軍事を司る有力氏族として天皇に仕えていました。
唐・新羅との戦争を体験した古代日本にあって、国土防衛の最前線でした。
水城と呼ばれる全長1.2キロ、高さ13mにも及ぶ長大な土塁・・・。
更にその海側を、幅60mもの堀が守っていました。
大宰府は、百済から亡命してきた官人の指揮によって作られました。
当時、最新の都市設計でした。
大宰府は、大陸の技術や文化をいち早く摂取する国際色豊かな町でした。
大伴旅人の邸宅の後に建ったと言われている坂本八幡宮。
新元号・令和の出典となった宴は、旅人の屋敷で行われたものでした。

万葉集にその時の様子が残されています。

”初春の令月にして 気淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫す” 巻五

これは序文の一部で、当時の教養人の慣習に倣い、漢語で漢文で書かれました。
しかし、宴で詠まれた歌は、大和言葉の一音一音に漢字を充てた万葉仮名で書かれています。

730年1月・・・旅との邸宅に、九州各地を治める役人たちが集まりました。
中国・唐から輸入されたばかりの梅を愛でながら歌を詠む宴が催されたのです。
旅人が歌会の始まりを告げました。
名古屋かな宴には、当時筑前守で一流の知識人だった山上憶良の姿もありました。

春されば まづ咲く宿の 梅の花
       独り見つつや 春日暮さむ

憶良は一人で梅を見る寂しさに触れ、大人数の宴を張ってくれた旅人に感謝しました。
これに応えた旅人・・・

わが園に 梅の花散る
  ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも

監視を下敷きにした巧みな表現に感嘆の声が上がりました。
一同は、それぞれに趣向を凝らし、梅を読み、心を通わせていきます。
この時読まれた32首が、序文と共に万葉集に納められたのです。
中国の文学、和歌の伝統・・・それを読むのは、大宰府が大陸との玄関口で、朝鮮半島や中国から人が来ている・・・そこに花開いた文学なのです。
宴を開いた旅人の邸宅には、後に万葉集の編纂に関わる少年の姿がありました。
旅人の息子・大伴家持この時、13歳でした。


あおによし 寧楽の京師は 咲く花の
            薫ふがごとく 今盛りなり

平城京の朝は早い・・・日の出のおよそ20分前に、太鼓の音で目を覚まします。
やがて、朱雀大路に人々が行き交い始めます。
710年平城京遷都と共に造営された巨大な宮殿平城宮。
東西1.3キロ、南北1キロの広大な敷地の北に大極殿がそびえ、南の中心を朱雀門が構えました。
壮麗な朱雀門は、代々大伴氏が守ってきたことから大伴門ともいわれていました。

730年の暮れ・・・旅人と共に家持は朱雀門そびえる平城宮に戻ります。
しかし、わずか半年後に旅人はこの世を去ります。
家持は、大伴氏の命運を一心に担うこととなります。
成人した家持は、中舎人と呼ばれる天皇の警護役として聖武天皇の傍に仕えました。
聖武天皇は、藤原不比等の娘・宮子を母に、光明皇后を妻に持ち、藤原氏と深い姻戚関係にありました。
そこで、朝廷では武智麻呂や宇合などの藤原4兄弟が絶大な権力を担っていました。

正倉院には、光明皇后が聖武天皇の死を悼んで納めた数々の宝物が残されています。
唐から伝来したと言われる見事な螺鈿をあしらった琵琶・・・聖武天皇愛用の品と伝えられています。
大陸の技法を用いた美人画、数々の宝物は聖武天皇の遺品であるとともに、それを支えた藤原氏の栄華を物語るものです。
ところが、藤原氏中心の朝廷を揺るがす事件が・・・
737年、都で天然痘が流行し、4兄弟がわずか3か月の間に次々と亡くなったのです。
代わって政権を担ったのが、橘諸兄です。
皇族出身の諸兄は、聖武天皇を補佐して政治の混乱を治めようとします。
古くから天皇に仕えてきた大伴氏を率いる家持は、この諸兄と密接な関係を築きます。
橘諸兄の政権は、とても不安定なものでした。
大伴氏・・・家持と県警を結んでおくのは、とても重要なことで、父・旅人の亡くなった家持もこれから自分が大伴氏を背負っていくためには、諸兄との関係は有効だったのです。

738年秋・・・家持は橘諸兄の息子・奈良麻呂が開いた宴に参加します。
貴族の子弟が集う宴に、家持の弟・書持や、仲の良かった大伴池主が同席していました。
この時の家持の歌が万葉集に残っています。

黄葉の 過ぎまく惜しみ 思ふどち
         遊ぶ今夜は 明けずもあらぬか

この密接な関係は、後の家持を大いに左右することとなります。

745年、家持は、主に飛鳥時代から奈良時代にかけての歌を集めた歌集の編纂に携わることに・・・後の万葉集です。
家持は先人たちが集めた歌を引き継ぎ、それに同世代の歌を加えた一大プロジェクトに精魂込めていくことになります。

746年、家持は越中守に任じられます。
朝廷から大きな期待を背負っての赴任でした。
聖武天皇は、大仏建立を進めていました。
天然痘が流行り、うち続く飢饉に心を痛めた聖武天皇は、仏教の力で国を守ろうとしたのです。
越中には荘園も数多くあり、その管理に尽力することで、莫大な資財がかかる大仏建立を支えようとしました。
しかし、赴任早々、悲しい知らせが・・・弟・書持が都で急死したのです。
家持自身も重い病に・・・。
この時、心を慰めてくれたのは、一族の池主でした。
家持と同じく越中に赴任していた池主と歌の交換が始まります。
悲嘆にくれる家持を励ます家主。。。
この親交は、二人が都の戻ってからも続きます。

家持は、体調を回復させると、意欲的に歌を作ります。
捜索の刺激となったのは、奈良では見られない、越中の自然でした。

立山に 降り置ける雪を
    常夏に 見れども飽かず 神からならし

それまでの歌人がしないような表現、素材を歌います。
越中赴任から2年、748年、越中を巡回します。

雄神川 紅にほふ 少女らし
      葦附採ると 瀬に立たすらし

之乎路から 直越え来れば 羽咋の海
           朝凪ぎしたり 船梶もがも

自ら越中の自然と人々の暮らしに分け入り、家持は歌人として大きく成長したのです。
万葉集に残された家持の歌のうち、半数近く・・・220首余りが越中時代の5年間に詠まれた歌です。

飛鳥時代から九州沿岸の警備に当たった防人・・・
朝廷が設置した外敵の襲来に備える最前線です。
防人の多くは、はるばる東国から集められた農民たちでした。
食糧も武器も自己負担という過酷なもので、任期は3年に及び、中には故郷にたどり着けずに野垂れ死にするものも・・・。
越中での務めを終えた家持は、都に戻り、兵部省の役人として難波の港から防人を送り出す任につきました。
この時、家持は多くの防人の歌を採集し、そのうち84首を読み手の名前まで残しました。
家持は防人たちの歌だけでなく、詠み人知らずの歌も数多く記録しました。

749年7月、聖武天皇は、娘に譲位しました。
女帝・孝謙天皇の誕生です。
当時、朝廷で勢力を拡大していたのは、藤原仲麻呂でした。
天然痘で亡くなった武智麻呂の次男です。
仲麻呂は、叔母に当たる光明皇太后の後ろ盾で、異例の昇進を重ね、大納言に抜擢されていました。
光明皇太后は、自分が皇太后としての権力を維持するとともに、天皇のカリスマ性が十分にない孝謙天皇をサポートする意味で、仲麻呂に期待したのです。
751年、家持は少納言となり、政界の中枢へと近づいてきます。
その翌年・・・聖武天皇の彼岸だった大仏の開眼供養が盛大に催されました。
父・聖武、母・光明皇太后と共に、孝謙天皇も式典に参加します。
しかし、孝謙天皇は、式典後、宮中には帰らず、仲麻呂の邸宅に長く逗留しました。
この出来事は、仲麻呂の力を天下に示すこととなります。
政権トップにいた橘諸兄の地位は次第に脅かされ、家持をも危うくさせる状況が近づいていました。
万葉集の家持の歌にも・・・

うらうらに 照れる春日に 雲雀あがり
           情悲しも 独りしおもへば

橘諸兄の権力が空洞化し、仲麻呂の権力が増大していく・・・大伴氏の苦境、家持の政界での孤独を表しています。
756年、さらに家持の苦悩を深める事件が・・・大伴氏の長老のひとり古慈斐が朝廷を誹謗したとして出雲守を解任されたのです。
それは、仲麻呂の計略によるものでした。
一族の暴発を危惧した家持は、軽はずみな行動で大伴の名を汚さぬように自重を促す歌を詠みます。

磯城島の 大和の国に 明らけき
            名に負ふ伴の緒 心つとめよ

しかし、家持にとって、事態は悪化の一途をたどります。
765年、仲麻呂に対抗していた橘諸兄が死去・・・これを機に、仲麻呂は行動をエスカレートさせていきます。
前年に亡くなった聖武の遺言で決められていた皇太子・道祖王を廃し、自分の邸宅に匿っていた大炊王を新たな皇太子に立てたのです。
さらにに仲麻呂は、橘奈良麻呂を官職に追いやり、大伴氏の高官も左遷。
仲麻呂の横暴極まりない振る舞いに、大伴氏の怒りは頂点に・・・!!
橘奈良麻呂を中心に政変を起こし、仲麻呂を打倒しようと・・・
池主も首謀者の一人に加わりました。
政変の計画を知った家持・・・

皇位をぞんざいに扱い、朝廷を意のままに動かそうとする仲麻呂・・・このまま見過ごすわけには行けない・・・??
大伴の力を集めれば仲麻呂を倒すことができる・・・??

仲麻呂の背後には、孝謙天皇がいる・・・。
加担せず静観する・・・??
武門の士族・大伴の力は、天皇の恩義を守るためにあるのだ・・・!!
自らを訴えるために使ってはならない・・・??

苦悩する家持に猶予はありませんでした。

757年6月28日、仲麻呂打倒の計画は急展開を迎えます。
橘奈良麻呂が挙兵しようとしたことが、密告によって露見したのです。
厳しい取調べの結果、計画に関わったものは死罪、流罪に処せられました。
橘奈良麻呂だけでなく、大伴氏からも池主をはじめ家持に近い人が処せられたといいます。
共謀者とされたのは、433人に及んだと言われていますが、そこに家持の名はありませんでした。

家持は、事態を静観するという選択をしたのです。

万葉集の中に、この時の胸中を伺える内容があります。

咲く花は 移ろふ時あり 
   あしひきの 山菅の根し 長くはありけり

家持は、変わりゆく時勢に動揺することなく、大伴氏本来の役目を果たす覚悟でした。
家持の選択によって、集められてきた数々の歌は守られたのです。

橘奈良麻呂の変の翌年、家持は因幡国の赴任を命じられます。
759年正月・・・年の初めを寿ぐ歌を詠みます。

新たしき 年の始の 初春の
        今日降る雪の いや重け吉事

この静かな祈りの言葉が、4500首を超える万葉集を締めくくる歌となりました。

その後も家持は、謀反計画が発覚するとしばしば関与を疑われました。
因幡守以降、薩摩、相模、上総など地方の務めをすることが多くありました。
782年、60歳を過ぎた家持は鎮守将軍として奥州・陸奥国での勤務を命じられました。
武門の大伴氏の名に恥じぬように、朝廷に敵対する蝦夷と対峙し続けた家持・・・
785年8月28日、多賀城でその生涯を閉じたのでした。

家持が編纂の中心を担ったとされる万葉集・・・
その完成時期は定かではありません。
しかし、都が奈良から長岡京をへて平安京に移った時期に見いだされ、万葉集の名は後世まで長く人に知られるようになりました。

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川路利良・・・幕末・薩摩藩出身!!初代警視総監であり、警察の父と呼ばれる人物です。
幕末動乱の時代、薩摩は長州と共に倒幕に突き進んでいました。
武士より身分の低い与力の出身だった川路、数多の戦いに参加したものの、一兵卒にすぎませんでした。
そんな川路がどのようにして栄達のきっかけを掴んだのでしょうか?

鹿児島・・・城下からおよそ北に12キロのところにある皆与志町比志島地区・・・
1834年5月、川路利良は「与力」の家に生れます。
後に大警視にまで上り詰める川路が、最下層の身分与力の子として生まれたのです。
大久保利通や、西郷隆盛らよりも身分が低く、武士と見なされませんでした。
比志島地区は今も農村地帯で、川路は農業で生計を立てなから、毎日遠い城下まで通い、藩の務めを果たしていました。
14歳の時、後の薩摩藩主・島津斉彬のお供で江戸へ。
藩の情報を伝える飛脚として活躍します。
薩摩と江戸を何度も往復しました。

川路にはもう一つ誰にも負けないと自負するものが・・・剣術です。
高杉晋作も江戸に剣術修行に行っていますが・・・
川路のことを「志ある者なり」と評しています。
川路は飛脚で培った情報収集力と剣術で、徐々に藩内で知られるように・・・
そして、幕末維新の動乱が、川路を表舞台へと押し上げていきます。

1864年7月・・・きっかけは禁門の変です。
前年に起きた政変によって京都を追われた長州が、主導権を取り戻すために御所を攻撃した事件です。
御所を守るのは、薩摩藩と会津藩!!
31歳の川路は一兵卒として参加していました。
序盤は長州が有利でした。
長州勢は守りを蹴散らし蛤御門へ!!
そこに援軍として駆けつけたのが川路達薩摩勢でした。
川路は長州勢を率いる大将を狙えば勝てると仲間の兵を鼓舞します。
薩摩兵がその大将を狙撃、重傷を負わせ、長州勢の進撃を食い止めました。
川路の機転は、戦局の変わるきっかけとなり、薩摩、会津の勝利でこの戦は終わりました。
勇猛果敢な一人の男・・・これに目を留めたのが薩摩藩の軍事指導・西郷隆盛でした。
西郷は川路を取りたて、やがて大隊長に・・・。

4年後の1864年1月・・・鳥羽。伏見の戦いが勃発
薩摩・長州の新政府軍と旧幕府軍とが京都郊外で戦い新政府軍が勝利します。
この時の川路の活躍は・・・??
「世の中に戦ほど面白きものはなし!!」
その後、川路は西郷に従い戊辰戦争を会津まで転戦!!
新政府軍の勝利に貢献します。
そして明治維新後、新しく首都となった東京で、川路は活躍の場を広げることとなります。

1871年、川路は新政府の参議だった西郷隆盛から重要な任務を任されます。
それは、首都・東京の治安維持でした。
江戸時代、町奉行が管轄していた職務を近代的な組織に変える必要性に迫られていました。
新政府は士族3000人を雇用。
そのうち1000人は薩摩藩士で、川路自ら鹿児島で集めたといいます。
彼等は邏卒と名付けられました。
現在の警察官の前身です。
1872年、川路は邏卒総長に就任。
薩摩藩士の中で、江戸の町を一番熟知していたのは川路でした。
川路はこの時から、日本の警察制度を確立する為に将来を捧げることとなります。

明治維新後、政府は早急に解決しなければならない問題青抱えていました。
威信の功労者たちが、次々と各地で暗殺・・・または暗殺未遂に会っていました。
新政府では、一連の事件を機に、これからの治安維持には犯罪の捜査だけではなく、犯罪を未然に防ぐ近代的な警察組織が必要だとなりました。

8月邏卒は、司法省警保寮の管轄となり、川路はそのNo,2警保助となりました。
そんな川路にヨーロッパ警察の視察の命が・・・!!
9月、川路達司法省の視察団が横浜を出発!!
フランス、ドイツ、ベルギー、オランダ、ロシアなどを1年かけて回りました。
川路がとりわけ感銘を受けたのは、フランスの警察制度でした。
当時、フランスはプロイセンとの戦争に敗れ、戦後も労働者の革命自治政府パリ・コミューンが樹立されるなど混乱が続いていました。
しかし、7000人を超える警察官によって、パリの治安は守られていました。
当時のパリは、維新後の日本と同じだったのです。
激動の時期、日常にどう戻していくのか??
戦乱、武士の力、軍事力ではなく、日常的に秩序を作り上げていくためには・・・??

1873年9月帰国・・・
そして、すぐさま政府に建議書を書きます。
新しい警察組織の創設を訴えたものです。

警察は国家平常の治療なり・・・
ヨーロッパでは、邏卒に軍人を用いるのは通例
日本にも士族がいるので、これを使わないのは失政の極みである

川路はフランスでの視察を盛り込んで、建議しました。

これに目をつけたのが、西郷と共に政府の実力者だった大久保利通でした。
大久保は、警察から地方行政まで全般を担う内務省を創設を準備していました。
川路は大久保の後ろ盾のもと、新しい警察組織の創設に邁進します。
ところが・・・建議書提出の翌月、新政府を揺るがす大事件が起こります。
西郷隆盛が新政府を離れ、鹿児島に戻ってしまいました。
朝鮮との外交方針を巡って、大久保らと意見が対立、論争に敗れたのが原因でした(明治6年の政変)。
西郷下野!!
その影響は大きく、薩摩藩士の多くは離脱・・・100人以上の邏卒が西郷を追って鹿児島へ帰ってしまいました。
川路もまた薩摩人として岐路に立たされます。

西郷を追って鹿児島へ・・・??
それとも警察の創設に邁進する・・・??

1873年11月10日、西郷が新政府を去ってわずか数日後、大久保利通肝いりの内務省が設置されました。
TOPである内務卿には大久保が就任、この内務省誕生は川路の選択に大きな影響を与えることとなります。
自らを取り立ててくれた西郷の恩・・・しかし、もっと国に尽くしたいという思い・・・!!

国家の安定、市民を守る警察行政制度の更なる拡充が頭の中にありました。
刻下の行政は一日たりとも揺るがせにできない・・・。
しかし、西郷への恩義は感じており、市場においては忍びないが・・・と言っています。

1874年1月15日、内務省の管轄下に警視庁が誕生しました。
当時の警視庁は、首都東京の治安維持だけでなく、国家全体にかかわる事件を地方警察に代わり担当していました。
川路は大警視・・・現在の警視総監の地位にある警視庁のTOPにつきます。
そして、日本の警察制度を一から作り上げていくことになります。

邏卒から警察官に変わったことで、新しく導入されたのが警察手帳です。
警視庁創設当時、警察官は約5300人でした。
この警察官の実力が試される時が・・・!!
各地で士族の反乱が起きます。
明治政府に不満のある士族たちが各地で反乱を起こしたのです。
士族たちは刀を持つことを禁じた廃刀令や、家禄廃止に反感を抱いていました。
警察官たちは次々に現地派遣され、軍の後方支援などで活躍、乱の鎮圧に貢献します。
そんな中・・・最も警戒していたのは鹿児島の西郷・・・
大久保や川路は、西郷の私学校の士族たちが能初することを恐れ、対策に講じます。
鹿児島に巡査を密偵として派遣!!
さらに・・・警察官の増員計画・・・目をつけたのが、戊辰戦争で敗者となった会津藩や仙台藩などの士族たちでした。
中でも旧会津藩主は、北寒の青森に移住して、斗南藩で苦難の生活を送っていました。
斗南藩も無くなり、路頭に迷うものも多くいました。
川路は、会津藩で家老を務め、鬼官兵衛として官軍に恐れられていた佐川官兵衛と接触します。
会津戦争の時に、徹底抗戦を貫いた官兵衛は、部下からの信頼も厚かったのです。
川路は、佐川に旧藩士を連れて警察官になるように要請します。
佐川はかつての部下たちのことを想い、決断します。

「皆、衣食に窮し 飢餓に迫る 之を養ふは我分なり」

佐川は、旧会津藩士300人を従えて警察官となりました。
川路と西郷の対決が、刻一刻と迫っていました。

1877年、川路と西郷の対決が・・・!!
薩摩では、士族を蔑ろにし、中央集権化を進める新政府への不満が爆発寸前でした。
そこに、川路が密偵を派遣していたことが露見!!
私学校の士族たちの怒りに火をつけることとなりました。
2月・・・武装した1万数千人が鹿児島で蹶起!!東京を目指して出発します。
九州各地で、薩摩と行動を共にする士族が現れ、西郷軍に加わります。
西南戦争の始まりです。
西郷軍を阻止する為に、警察は陸軍と共に各地で奮戦します。
今回は、後方支援にとどまらず、およそ1万3000人の警察官が武装して従軍しました。

川路は、陸軍少将兼大警視として西南戦争に参戦。
当時、熊本城にいた政府軍は、西郷軍に包囲され孤立していました。
八代に上陸した川路は、熊本城の救出に向かいます。
しかし、その登城、川路軍は西郷軍の奇襲を受けます。

部下の死を聞いた川路は激怒!!

「いざ、弔い合戦せん!!」

部下たちを叱咤激励します。
兵を率いて反撃に転じ、西郷軍を蹴散らします。
川路の勝利を知った西郷は、こう語ったといいます。

「川路は、兵の機をよく把握している
 敵ながら天晴なり」

やがて陸軍の増援部隊が加わり勢いづいた政府軍は、西郷軍を敗退させ、落城寸前の熊本城を救いました。
その後、火力と兵力に勝る政府軍は、鹿児島県との県境まで押し戻すことに成功!!
しかし、6月・・・川路は陸軍少将及び別働第三旅団長を辞任し、終戦を待たずに東京へ・・・。
その理由は・・・??

西郷にとどめを刺すというのは、私情において・・・と、ここに私情が出てくるのです。
本来、巡査隊の仕事ではない・・・ほかにやるべきことがある・・・という建前です。
最後・・・周りが避けさせたのではいか・・・??
開戦から7か月たった9月24日、鹿児島の城山に追い込まれた西郷は自害・・・西南戦争は終結しました。

大恩ある西郷を裏切ったともいわれた川路・・・。
当時の心情は・・・??

敗色濃厚の中で、鹿児島に戻った西郷が士族たちに最期の決起を呼び掛けた回文・・・。
死の20日ほど前にかいた絶筆です。
川路はこの手紙を手に入れ、西郷の直筆であると自ら書き加えたといいます。
絶筆と言える回文を自分のところに大事に保管したかったのでは・・・??

1879年10月、病のために46歳で亡くなります。
大警視の地位にあったのはわずか5年でした。
川路が眠る墓は、鹿児島ではなく東京にあります。
西南戦争のあと、川路は鹿児の地に足を踏み入れることはありませんでした。
墓には桜島の溶岩が・・・

大義の前に私情を投げ打ったという川路・・・。
しかし、鹿児島、西郷を思う心は、終生変わらなかったのかもしれない。

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天正10年6月2日・・・この日、歴史が変わりました。
天下統一目前だった織田信長が、家臣・明智光秀の謀反により非業の死を遂げる・・・本能寺の変です。
光秀はどうして謀反を起こしたのか?
今なお多くの謎に包まれた本能寺の変ですが・・・
今回の視点は”どうして信長は本能寺に泊まったのか?”です。
この時、信長には京都において定宿が三カ所ありました。
その中で、信長が本能寺を選んだのはなぜか??

戦国最大の事件本能寺の変・・・この時明智光秀は、主君・織田信長だけでなく信長の跡継ぎ・信忠をも討ち果たしました。
この信忠の死により、織田政権は実質的に崩壊したのです。
信忠とは・・・??
26歳で亡くなっていますが、非常に活躍した有能な息子でした。
偉大な父・信長の影に隠れ、歴史に埋もれてしまった信忠・・・。
1557年、信長の長男として誕生します。
信長のもうけた息子は、信忠・信雄・信孝など11人・・・。
しかし、信忠以外は幼くして養子に出されています。
攻めようとしている伊勢などに、養子に送ったりしています。
しかし、それは織田家に限らず、戦国大名のいろんな家がしてきている事・・・。
嫡男以外の男子を戦略的に周辺の領主に養子に入れるので、余程能力に問題がない限りは、後継者は嫡男でした。
生れながらにして信長の後継者として育った信忠・・・
その帝王学は厳しく・・・織田家の家臣が信忠を褒めると・・・信長は、
「家臣に手の内を読まれるなど、信忠は大将の器ではない
 そうであれば、信忠を我が後継者とするわけにはいかない」と。
他にも、信忠が自ら能を舞うのが好きな能数寄だとわかると、それに対し、
「武将たるものが能にうつつを抜かすなど何事か」と怒り、能に使う道具を取り上げたといいます。

信長から後継者としての資質を疑われた信忠・・・いかにして信頼を勝ち得たのでしょうか?

1575年5月、織田・徳川連合軍が戦国最強とうたわれた武田軍と激突!!
世に言う長篠の戦いです。
結果、織田・徳川連合軍は、武田軍に完勝!!
この機に乗じ、織田軍は武田領の東美濃を攻略。
その総大将に抜擢されたのが、わずか19歳の信忠でした。

岐阜県恵那市岩村町・・・武田の東美濃の拠点となった岩村城は、標高717メートルの巨大な山城です。
信忠軍が包囲する岩村城は、自然の地形を利用した難攻不落の要塞でした。
その秘密が井戸にあります。
兵糧攻めでは、水の手をたつということが行われます。
しかし、この城は、豊富な水が城内に湧いているので、城を落とすことができませんでした。
信忠が攻めたときも、半年間ここに籠っていました。

事実、信忠は5か月間岩村城を落とせず・・・

そこに、長篠の戦いの敗戦から息を吹き返した援軍が迫ってきます。
岩村城に籠城していた武田勢は、援軍を待たずして出撃!!
信忠の陣を逆に攻めたてます。
この時信忠は、自ら先陣として出陣!!
敵を返り討ちにしたばかりか、大将格21人を討ち取りました。
これによって岩村城は落城!!
11月、信長は信忠に茶器などの名物を褒美として与えたばかりか、尾張・美濃の二国を与ます。
さらに織田家の家督を譲りました。
信忠は、自らの武勇を示すことで織田家当主の座を勝ち取ったのです。
そして、天下人の後継者としての地位を盤石にしたのが・・・1582年2月武田征伐!!
総大将・信忠率いる織田軍は、怒涛のように武田領を席巻!!
最大の激戦となった高遠城攻めでは、自ら前線に赴き、采配を振るいました。
信忠は武田が誇る高遠城を、わずか1日で落城させたのです。

戦国最強の武田軍を相手に、自ら先陣を切る信忠に、信長は苦言を呈しています。
武田を弱敵と侮ってはならぬ・・・
しかし、そんな信長の心配を余所に、信忠は快進撃を続け、遂に武田家は滅亡!!
信忠が武田領に侵攻してわずか1月でした。
武田滅亡によって東の憂いは無くなりました。
信長は宣言します。

「信忠に天下を譲る!!」

織田家の家督だけでなく、天下人の座も継ぐことになった信忠・・・
本能寺の変3か月前の出来事でした。

本能寺の変2日前・・・1582年5月29日。
信長は安土を出立!!
二、三十人のお供を連れて上洛。
信長が少人数で上洛したのはなぜか?
「信長公記」によると・・・

直ちに中国へ出陣しなければならないので、安土に残るものは戦の準備をして待機させ、命令次第出陣するというので、この度小姓衆以外は随行しなかった。

当時織田軍は、関東・北陸・中国・四国と各地に展開。
中国方面軍羽柴秀吉は、備中高松城で中国の覇者・毛利と対峙。
信長に援軍の要請をしていたのです。
大規模な軍事遠征を間近に控え、上洛した信長・・・
その宿所となったのが本能寺でした。

戦国時代の京は、応仁の乱の被害があって、かなり荒廃した様子でした。
現在の本能寺は、豊臣秀吉の時代に移されたもので、元の本能寺は別のところにあります。
信長が宿所とした本能寺は、南西におよそ1キロ離れたところ。
戦国時代の京都を克明に記しているのが「国宝 上杉本洛中洛外屏風」です。
本能寺の周辺には、水堀などの防御施設が描かれています。
本能寺周辺で行われた発掘調査では、寺の周囲に幅およそ4メートル以上、深さ1メートル以上の堀などが設けられていたことがわかっています。
戦国時代の京都は、応仁の乱で焼け野原になって以降も戦乱で・・・その結果・・・上京と下京に分断され・・・それぞれの町は、総構えと呼ばれる濠などの防御施設に守られていました。
しかし、本能寺はその総構えの外に位置していました。
市街地のいちばんの外側・・・攻めやすかったのです。
信長自身は、本能寺はそれほどたくさん泊まっていません。
当時、信長が上洛した際に宿としていたのは、主に本能寺・二条御新造・妙覚寺でした。
記録によれば、二条御新造には14回、妙覚寺には20回、本能寺には4回・・・。
本能寺の北東に位置した妙覚寺は、一番多く泊まった宿です。
寺の周りに土塀や堀を巡らせた防御機能のある寺です。
本能寺の変の時には、信長の嫡男・信忠がここにいました。

1582年5月21日・・・信長が上洛する8日前・・・
信忠は兵500を率いて上洛!!妙覚寺に宿泊していたのです。
本来、妙覚寺は信長が京都へ上洛した時、頻繁に寄宿していた場所です。
信忠も妙覚寺へ泊るようになり・・・信長は本能寺に移り、信忠が妙覚寺にいるようになったのです。
妙覚寺と向かい合っていたのは、二条御新造。
信長の宿所として築いた屋敷です。
しかし、2年後には、時の皇太子に当たる誠仁親王に渡しています。
信長は、一旦妙覚寺に来て、その後、本能寺に移っていくのです。
妙覚寺には長男・信忠、二条御新造には皇太子・誠仁親王が・・・信長は本能寺に宿泊せざるを得なかったのです。

では、信長と信忠はどうして同時に上洛していたのか?
朝廷に対し、信長はこう申し立てています。
「我が顕職は信忠に譲与したい」と。
当時、信長の官位は右大臣・右大将(右近衛大将)・・・武士の頭領を意味します。
信長は、朝廷の許しを得て、自分の官位を信忠に譲ろうとしていたのです。
戦国武将は、いずれも成り上がりの者が多く、公家・帰属に比べると家柄も悪い・・・
権威付けという意味で、官職は重要な意味を持っていました。
これは、明治維新まで官職が人の序列を定める一番の根幹部分でした。
当時信忠の官位は従三位・左中将(右近衛中将)・・・信長は信忠の官位を武家の頭領である右大将に引き上げようとしていたのです。
今回の上洛で、信長は普段と異なる行動をとっています。
それまで信長は公家宗徒の対面を断ることが多かったのです。
その理由は「くたびれ云々」・・・面倒くさいということです。
しかし、今回の上洛では、信長は公家衆40人と数刻にわたり雑談に応じ、自慢の茶道具まで披露。

当時、信長が京都に来るときは、なにか京都に用事がある時・・・
信忠がいるということは、信長は官職を辞めた後、息子・信忠に高い位をつけてほしいと朝廷に働きかけていたのです。
その答えを聞くため・・・信忠が妙覚寺にいて、信長が本能寺にという可能性が高いのです。

後継者の豚だの地位を盤石にするために、本能寺に泊まった信長・・・
しかし、この時、明智光秀の大軍勢が本能寺を目指して進軍していました。

1582年6月2日早朝・・・
明智軍1万3000が信長のいる本能寺を襲撃!!
記録には、この時信長はこう叫んだといいます。
「信忠の別心(謀反)か!!」と。
近くにいる軍勢は信忠の身と思い込んでいた信長・・・それほど明智軍の襲撃は想定外だったのです。
本能寺から信忠の妙覚寺まで600m・・・明智軍の時の声は信忠の宿所にも届いていました。
信長のいる本能寺が明智軍に攻められている・・・信忠はどうするべきなのか・・・??

①信長の救援に向かう・・・??
②それとも、安土へ撤退する・・・??

ルイス・フロイスの記録によると・・・
信長は、安土から宮子までの陸路におよそ6mの道幅の道路を作らせたとあります。
道は平たんで真っすぐであった。
およそ50キロ・・・整備された道・・・
伊勢には次男信雄、大坂には三男・信孝集結・・・京都脱出に成功すれば、弟たちと合流することもできる・・・。
信長の弟・織田長益など、名のある武将も脱出しています。
信忠なきあと、後継者候補は信雄と信孝・・・二人はそれぞれ信雄=北畠・信孝=神戸に養子に出ています。
家督相続をめぐり、骨肉の争いは必至!!

③光秀を迎え討つ??
戦わずに退くなど、武士の一分が立たん!!

明智軍の本能寺への攻撃はわずか1時間余り・・・光秀の次なる標的は、妙覚寺にいる信忠・・・!!
その頃信忠は、妙覚寺を後にしていました。
向かった先は、隣の「二条御新造」
妙覚寺より守りが堅かったからです。
この時、信忠の側近は、「安土に移り、光秀を退治しては?」と進言します。
信忠は・・・
「これほどの謀反を企てた光秀が、洛中のあらゆる退き口に手をまわしていないはずがなかろう。
 途中で相果てることこそ、無念である。
 いたずらにここをひくべきではない!!」
信忠は、二条御新造に籠り、光秀と戦う道を選びました。
信忠は追手門を開門させ、敵をそこへ集中させます。
敵が怯むと打って出て、押し寄せる大軍勢を3度にわたって押し返したといいます。
信忠は、新陰流の免許皆伝で、剣の達人でした。
自ら剣をふるい、敵17人を切り伏せたといいます。
しかし・・・多勢に無勢・・・獅子奮迅の働きをしたのち、家臣にこう命じました。

「縁側の板をはがし、遺体を床下へ入れて隠せ!!」と。

そして、燃え盛る炎の中、信忠は切腹!!
壮絶な最期を遂げたのでした。
信忠死去・・・享年26歳でした。

明智軍は、信長同様、信忠の首も見つけることができませんでした。
この時、光秀は都の出入り口を押さえていたわけではありませんでした。
もし、この時信忠が逃げていれば、生き残れる可能性は十分にあったのです。

信忠亡き後の織田家は、弟達の家督争いで力を失い、天下は秀吉・家康のものとなっていくのです。

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