日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: 英雄たちの選択

1582年6月2日、この日、時代を揺るがす大事件が勃発!!
明智光秀が謀反を起こし、主君・織田信長を討ち取った本能寺の変です。
この時、羽柴秀吉・・・豊臣秀吉が奇跡を起こします。
備中高松城から姫路城まで100キロを、わずか2日で駆け抜けた・・・??
秀吉軍、2万5000の高速代移動・・・中国大返しです。
この奇跡の行軍により、秀吉は京郊外・山崎で光秀を討つことに成功!!
その後、天下人への道を切り開いたのです。
秀吉は、どのような方法で長距離移動を可能にしたのでしょうか?
戦国の軌跡・中国大返し・・・秀吉は天下への道程をいかにして切り開いたのか・・・??

1582年5月26日、本能寺の変5日前・・・近江の居城・坂本を出発した光秀は、丹波・亀山城に入城しました。
その3日後、安土城を出発した信長も、光秀同様、上洛を果たしています。
信長と光秀・・・両者の行く先は、実は同じ場所にありました。
史料には・・・”中国への御出陣”とあります。
中国方面軍・羽柴秀吉の援軍のため、2人は西へ移動したのです。
この時秀吉は、備中高松城を水攻めで包囲、中国地方の覇者・毛利軍と対峙していました。
ところが・・・6月2日、前代未聞の大事件・本能寺の変が勃発します。
光秀が謀反を起こし、信長を殺害!!
これにより、秀吉の戦況は一変します。

6月3日、秀吉に事件の一報が届きます。
6月4日、毛利と講和を締結・・・停戦協定を結びます。
信長亡き今、秀吉はすぐさま敵の勢力圏から離脱し、100キロ先の姫路城まで撤退・・・不測の事態に備えなければなりません。
秀吉はいつ撤退したのでしょうか??
史料によると、6月5日・・・秀吉が撤退したのは、本能寺の変から3日後のことでした。
いよいよ中国大返しの始まりです。

撤退は、実際どのように行われたのでしょうか?
そのほとんどが平装でした。
移動には、武者押しと平押しがあって、武者押しはのぼり旗を押し立てて全員が武装して美々しく軍事行動をします。
それに対して、現場に向かう時には平押し・・・平常の衣服のまま、甲冑などはすべて荷駄として後方から運ぶというものです。
そして敵地に近づいてきて警戒しなければとなると、武装するのです。
兵や馬の消耗を防ぐため、甲冑は戦場に近づいたときに着用するのが戦国の世の習わしでした。

では、当時の道路事情は・・・??
道幅6~8m、綺麗に平らにして人工的な道を作っていました。
これは、記録に残る軍道と呼ばれるもので、このような道を作っておくことで即座に軍勢が大勢を維持しながら進むことが出来る・・・退却することが出来るのです。

信長は、早くから道路政策に力を注いでいました。
信長はこう命じています。

「険しい道を平らげ岩を砕き、道を広げよ 道幅は三間半とする」

三間半とは、およそ6.3mのことです。
当時としては道幅の広い道路でした。
道路を整備することで、補給路を確保、日本各地での戦闘を展開した織田軍・・・
迅速な行軍こそ、織田軍をして常勝軍たらしめたのです。
秀吉の中国大返しでも、こうした軍道が利用されたと推測されます。

6月5日、沼城まで撤退。
しかし、秀吉の行く手を待ち受けるのは、居城・姫路城までのおよそ78キロの道程・・・
秀吉はどのような方法で、中国大返しを実行したのでしょうか?

謎多き中国大返し・・・
その手掛かりが、中国大返しのルートで新たに発見されました。
兵庫県神戸市・兵庫城跡・・・近年の発掘調査で、兵庫城は信長時代の特徴を持つ城郭であったことが明らかになりました。
兵庫城の石垣は、石垣の下に木材を敷き、朕かを防ぐ胴木組と呼ばれる築城技術・・・当時の最新技術が取り入れられていました。
当時、畿内の先進的な技術を握った信長と家臣たちは、こういう石垣を築いていました。
さらに、城の中心部本丸に入るための出入り口が2カ所もあります。
城の守りを固める入り口がたくさんあるのはそれだけ守りが弱くなります。
通常ではこのようなことはしません。
しかし、わざわざ正面に2つの入り口を作った兵庫城は、城の使い方が大きく変わるきっかけがありました。

洛中洛外図屏風の格式高い大名の屋敷には、正門と脇門があります。
高貴な人とそれ以外の人を分ける出入り口です。
兵庫城がこのような形に改修されたのは、本能寺の変の2年前のことでした。
同じ頃、秀吉の書状にある言葉が頻繁に出てきます。

”御座所”・・・織田家の武将にとっての高貴な存在・・・信長のことです。
兵庫城の改修は、信長の”御座所”にするために、2つの入り口を持っている城としたのです。
中国大返しのルート上にある兵庫城の御座所跡・・・食料などを備蓄していたと考えられています。
秀吉の中国大返しでは、御座所を利用することで高速の長距離移動が実現できたのでは・・・??

御座所の痕跡は、兵庫県加西市にある小谷城にもあります。
室町時代に築かれたとされる山城です。
小谷城は、東西南北すべてに通じたまさに交通の要衝に築かれた城で、信長時代に改修されたところがたくさん発見されています。
秀吉が、この地の領主に宛てた書状では、小谷城の改修が見受けられます。
書かれたのは、本能寺の変の数年前とされていて、信長の御座所、信長の西国政策・毛利攻めを前提とした城を造っていたのではないか?
信長が中国の毛利と決戦する時に、ここへ入っていただく城としても造っていたのです。

歴史上、これとは全く違う戦場においても、信長のための御座所が築かれた実例があります。
本能寺の変の2か月前、織田家滅亡後・・・甲府市にある右左口宿・・・武田攻めを担った徳川家康が、この地に信長の宿所を築いたとされています。

驚くべきは、信長が甲府に入る時、すでに息子・信忠が躑躅ヶ崎に立派な御殿を造っていました。
さらに、駿河を通って帰る際に、家康が立派な御座所を造って・・・それは、かなり金銀をちりばめた豪華なものでした。
信長の移動には、織田・徳川両氏はかなり気を遣っていました。
信長が中国に来る際にも、上様の御座所を要所要所に整備しておくのは必要不可欠のことでした。
信長のために整備した街道を走り、信長のために造った御座所を活用する・・・それこそが、秀吉が中国大返しを成功させた秘策だったのでは・・・??

秀吉軍は、整備された道を行軍し、途中食料を備蓄した御座所を休憩所し、1日78キロを移動したとみられます。
そして・・・次に秀吉の前に立ちはだかるのが明智光秀。
秀吉対光秀・・・決戦の時が近づいていました。

1582年6月6日・・・本能寺の変から4日後、秀吉は信長のために用意した街道を駆け抜け、沼城から居城・姫路城までおよそ78キロの道程をわずか1日で走破することに成功!!
次に秀吉の前に立ちはだかるのは明智光秀!!
さらに、この時大阪近海の淡路島で異変が起こっていました。
瀬戸内の海賊・菅達長が本能寺の変をきっかけに洲本城を奪取、光秀に組したのです。
こうした不穏な情勢の中、いかに光秀と戦うべきか・・・!?

即時決戦を挑む??
当時、織田家の武将たちは全国各地で戦っていました。
本能寺の変の情報伝達には時差がありました。
北陸の柴田勝家には6月6日、関東の滝川一益には6月9日・・・この時点で、どの織田軍武将よりも一歩先んじていました。
光秀は信長様の三男・信孝さまを討とうと大坂へ向かったと聞く・・・
我が軍も大坂に向かい、この弔い合戦に勝利すれば、織田家中での発言力が増すことは必定・・・
信長様の後継者となるのももはや夢ではない!!
信孝はこの時、四国に攻め入るべく、軍を率い大阪に配陣していました。
ところが・・・信孝を切腹させたという風聞が・・・!!

もはや亡き者に・・・??情報を冷静に見極めるべきか??

当時秀吉は、本領・長浜をほぼ明智に押さえられてしまっていました。

1582年6月9日、秀吉は居城・姫路城を出陣!!
明石に到達しました。
およそ35キロの道程です。
秀吉は、光秀を討つべく即時決戦を挑みました。
秀吉の書状には・・・
”反旗を翻した菅達長には海と陸から軍勢を派遣し、攻め崩し、悉く討ち果たした”
とあります。
秀吉は、僅かの日にちで大坂への道を切り開いたのです。
さらに秀吉は、明石を出立、尼崎まで進出しました。
およそ45キロの行軍・・・大坂まで残すところあと10キロの距離です。

一方光秀は、この頃京に対陣。
光秀が大坂を包囲したというのは噂話に過ぎなかったのです。
しかし、秀吉の素早い進軍は、予想以上の結果をもたらすことになります。
秀吉が急速に兵を進めたことで、大坂の信孝、摂津の武将たちはもちろん、光秀の配下に属していた細川藤孝、筒井順慶、高山右近、中川清秀・・・秀吉に味方したのです。

6月13日、京の郊外で山崎の戦い・・・両軍が激突します。
軍勢の勝る秀吉は、わずか半日の戦いで光秀軍に勝利しました。
備中高松城を発した秀吉の中国大返し・・・光秀との決戦の地・山崎まで総距離230キロ・・・この長距離移動が勝敗を決したのです。

光秀との決戦に勝利した秀吉は、天下人への道を切り開いていきます。
山崎の戦いから4か月後、天下への野心を表した秀吉の書状にこうあります。
27里を一昼夜で姫路城まで帰陣することができた。
27里とはおよそ108キロのことです。
備中高松城から姫路城まで2日がかりで走破した中国大返し、それがわずか1日のことに改ざんされています。
秀吉が書き換えた中国大返し・・・
秀吉自身の手により、戦国の軌跡と称えられる伝説がここに誕生したのです。

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本能寺の変に謎はあるのか?: 史料から読み解く、光秀・謀反の真相

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学校では教えてくれない戦国史の授業 秀吉・家康天下統一の謎

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1333年、100年以上続いた武家政権鎌倉幕府が滅亡しました。
幕府を倒したのは、北関東を拠点にしていた武士・新田義貞でした。
義貞の倒幕で、時代は大きく転換します。
倒幕後、政治の実権を握った後醍醐天皇は、建武の新政という天皇親政を実現します。
これが、南北朝時代といわれる日本史上まれにみる動乱の時代を呼び込むこととなるのです。

太平記・・・太平記の中で、新田義貞は後に室町幕府を開く足利尊氏のライバルとして熾烈な戦いを繰り広げています。
しかし・・・当時の義貞の立場に疑問が・・・??
実力の時代を切り開いた新田義貞の真の姿とは・・・??

新田氏が治めたのは、現在の群馬県太田市。
かつて新田荘と呼ばれたこの地には、井の文字が多く使われ、たくさんの水源があったことが分かります。
今も市内で湧き出す地下水・・・多くの水源は、新田荘を潤し、豊かな実りをもたらしました。
これにより新田氏は、北関東で大いに力を蓄えていきました。

新田義貞が生れたのは、今からおよそ700年前の1300年頃といわれています。
当時、鎌倉幕府の実権を握っていた北条氏の権力はゆるぎないものに見えました。
ところが・・・近畿地方で異変が起こります。
1331年、後醍醐天皇が政の実権を幕府から取り戻そうと河内の土豪・楠木正成らを動かし倒幕の狼煙をあげたのです。
義貞は、幕府軍の一員として制圧に向かいました。
しかし、ゲリラ戦を展開する楠木達後醍醐方に苦戦を強いられ、戦いは長期を呈しました。
戦のさ中、義貞は新田荘に帰郷します。
一説には、この時後醍醐方から倒幕の指令を受けていたともいわれています。

一方、畿内で苦戦する幕府は、戦費調達のため裕福な新田荘に臨時の税を課し、2人の使者を取り立てに向かわせます。
この時、事件が起こりました。
義貞は、なんと幕府の使者の一人を斬首・・・もう一人を拘束してしまいました。

鎌倉幕府は、盤石で最盛期を迎えていました。
強い鎌倉幕府に対して、新田義貞は戦争をしかけていくのです。
これは、非常に大きな選択でした。
戦が続く畿内でも、大きな衝撃でした。
幕府方の有力者・足利高氏が後醍醐方に寝返り、鎌倉幕府の京都監視機関・六波羅探題を攻め落としたのです。
新田荘の義貞も、これに呼応するかのように反幕府で挙兵!!
挙兵の地とされるのが、旧新田荘・生品神社・・・
古くから地元の信仰を集めてきたこの神社には、義貞が挙兵の際に幟を立てたといわれる巨木が保存されています。
この時、神社に集まった義貞軍は、わずか150騎・・・義貞はこの少数で鎌倉幕府に戦いを挑もうというのか・・・??

義貞は幕府本拠地・鎌倉への進軍を開始しました。
途中、鎌倉を脱出した足利高氏の息子・千壽王も合流。
大軍勢となった義貞率いる反幕府軍は、鎌倉で北条方と激突します。
義貞は、一族に犠牲を出しながらも奮戦し、北条氏の多くを自刃に追い込みます。
1333年5月・・・鎌倉幕府は、義貞の攻撃によって滅亡しました。
これまで無名の存在だった新田義貞は、この勝利で足利高氏とならぶ、倒幕の功労者として都でその名を知られることとなります。

義貞や高氏の働きで鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、幕府も院政も否定し、天皇自身への権限集中を実行しました。
1334年、年号が建武に変更されたことからこの政治体制は建武の新政といわれています。
義貞は、倒幕の恩賞として播磨の国司に就任し、新田一族の多くが都の警察に相当する武者所の要職につきました。
さらに新田氏は、北陸地方、越前・越後の国司などにも任命され、後醍醐政権の中枢を担うこととなります。

もう一人の倒幕の功労者・足利高氏は、更なる地位を築いていました。
武蔵・常陸・下総など東国の国司に任じられただけでなく、天皇の諱・尊治から”尊”の字をもらい尊氏へと名を改めます。
全国の武士への指揮権も与えられた尊氏は、後醍醐政権の侍大将ともいうべき地位に登りました。

鎌倉幕府滅亡の2年後、東国で北条氏残党による反乱がおこり、尊氏は鎮圧に向かいます。
ところが、乱の終息後も、尊氏は鎌倉を動こうとしない・・・
天皇の上洛命令にも従わないという不可解な行動に出ます。
その背景にはったのは、倒幕の恩賞への不満とも、征夷大将軍や幕府をめぐる考えの相違ともいわれています。
後醍醐天皇は尊氏の行動を反抗と受け取り、討伐を決意します。
その大将に指名されたのは義貞でした。
義貞の負けられない戦いが始まります。

太平記では、義貞も尊氏も、源氏の嫡流とされ、2人で武家の棟梁を争ったと書かれています。
しかし、近年の研究では、同格のライバル関係ではなかったという説が提唱されています。
足利家は格が高く、幕府でも重要視されていました。
新田は無位無官・・・同じ一族の上下縦の関係でした。
新田にとって足利を打倒する・・・それは下克上的な状況でした。
後醍醐につくのか、足利につくのか・・・大きな分かれ目でした。

義貞は、鎌倉に向かって出陣しました。
しかし、尊氏の反撃に撤退を余儀なくされ、逆に京都を奪われてしまいます。
後醍醐天皇は京都を逃れ、比叡山山麓の東坂本・・・現在の滋賀県大津市の日吉大社に籠りました。
義貞らは、東北からの援軍を受け反撃!!
尊氏を九州に追い落とすことに成功します。
しかし、わずか3か月後・・・
1336年5月、西国の武士たちを引き連れて大軍勢で攻め上ってきた尊氏に、義貞は惨敗・・・。
再び尊氏に京都を奪われ、またもや後醍醐天皇と共に比叡山に撤退することとなりました。

琵琶湖を望む比叡山東山麓・・・京都を尊氏に追われた後醍醐天皇は、ここ近江国・東坂本の日吉大社に籠ったと伝わっています。
古来、天皇家の崇拝を受けてきた日吉大社は、比叡山延暦寺と共通の境内を所有していました。
織田信長、明智光秀に延暦寺が焼き払われたとき、日吉大社も灰塵に帰しました。
義貞、尊氏は、共に散発的な戦いを繰り返しますが、双方戦局を打開できずにいました。
季節は秋から冬に向かおうとしていました。
膠着状態を打開しようと尊氏は一計を案じます。
密かに後醍醐天皇に使者を送り、和睦を持ちかけたのです。

後醍醐天皇は、尊氏からの申し出を誰に諮ることもなく、受け入れることに決めました。
後醍醐方の指揮官でありながら、義貞はこの謀を知らされることはありませんでした。
新田一族の武将・堀口貞満は、鎌倉討伐戦以来、義貞と戦い続けてきていました。
不穏なうわさを聞きつけて、天皇のもとに向かいました。
そこで目にしたのは、今まさに京都に向かおうとしている後醍醐天皇でした。
堀口は、涙ながらに義貞始め新田一族の忠誠を訴えます。
そこに、3千余りの兵を率いて義貞も駆け付けます。
尊氏との和睦を決めた後醍醐天皇・・・
一族の想いを語る堀口・・・
両者の間で義貞は、厳しい選択を強いられます。

堀口の言い分は至極最も・・・帝が尊氏と和睦するのは命がけで忠誠を尽くして来た我らに対する裏切りに他ならない・・・このままでは、一族の結束が保たれない・・・
あくまでも、武家の棟梁を勝ち取るために、尊氏と戦い続けなくてはいけない・・・鎌倉倒幕以来の決戦で、新田は多くの命を失ってきたが、ここは残った者たちを戦い続ける・・・??

しかし、このまま帝が尊氏方に行けば、我らは朝敵・・・賊軍となってしまう・・・。
帝と一緒に山を下り、尊氏に服従を誓う・・・??

義貞が鎌倉討伐のために、ふるさと新田荘を出てから3年が経とうとしていました。
後醍醐天皇は、独断で尊氏との和睦を決めていました。
多くの兵を従えた義貞に気おされたのか、口を開いたのは後醍醐天皇でした。

「義貞よ・・・尊氏と和睦するのは一時の謀にすぎず、巻き返す時が来るのを待つつもりなのだ
 事前に知らせなかったのは、事情が漏れることを恐れたに過ぎない・・・
 だが、堀口の恨みを聞いて、自分が誤っていたことに気が付いた
 義貞を朝敵にするつもりはない・・・
 こうなったからには、皇太子に位を譲るので、共に北陸へ向かい、体制を整えて再び朝廷のために働いて欲しい」

義貞は、これを聞き、覚悟を決めました。
後醍醐とはなれ、北陸に・・・尊氏と戦い続けることを選んだのです。
義貞は、北を目指しました。
冬がすぐそこまで来ていました。

一旦、尊氏方に下った後醍醐も、その年の暮れには、京都から吉野に脱出!!
京都と吉野、それぞれに朝廷が立ちました。
南北朝の始まりです。
皇太子を立てて北陸へ向かった義貞は、尊氏方の激しい追撃を受け苦戦していました。

1337年3月・・・越前国・敦賀の戦で、皇太子を尊氏側に奪い取られ苦境に陥った義貞・・・
しかし、義貞は戦いをやめませんでした。
尊氏方の追撃をかわしながらも、各地の兵を糾合し、地盤を固めようとしていました。
どうして義貞は、南朝の後醍醐と合流しなかったのでしょうか?
それは、北陸を拠点にして北関東・北陸で地盤を固め、後醍醐の吉野方、あるいは足利軍団に対抗する勢力を形成しようとしたのではないか・・・??
実力があれば交渉ができる・・・!!
北陸を固めることが、新田にとっては一番重要だったのです。

1338年7月2日・・・義貞が北陸に下って2年近く・・・尊氏からの執拗な攻撃は続いていました。
義貞は、尊氏方が立てこもる城の視察に50騎の兵を連れて向かいました。
しかし、その途中、敵方300騎と遭遇・・・攻めたてられた義貞は、泥田に落とされ、あえなく命を落としました。
義貞が最期を迎えたといわれる地は、現在では公園として整備され、その一角にはささやかな祠が建てられています。
新田義貞は、新田荘を出て以来、清らかな水に満たされたふるさとの地を一度も踏むことなく、その生涯を終えました。

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戦国最強と謳われ数々のライバルを打ち負かした猛将・武田信玄。
しかし、領国・甲斐の統治は一筋縄ではいきませんでした。
四方を山に囲まれた甲斐の国は急流河川が幾重にも流れる日本屈指に洪水多発地帯でした。
独立心の強い豪族が、河川の流域に割拠し、信玄の支配をも脅かしていました。
治水のような広域にわたる協力体制が必要な事業を行うには、国内がバラバラのままでは実現性が高くありません。
信玄が戦国大名として豪族たちを束ねる上に立つ存在として治水工事を行うことで、甲斐国の人々の支持を得ていく・・・自らの求心力を高めていったのです。

治水を通して国をまとめ上げた信玄・・・その原点が、甲府盆地に築いた信玄堤でした。
信玄堤は、南アルプスから流れ来る急流河川から、甲府盆地を守るために作られたおよそ3キロに及ぶ堤防です。
戦国時代に信玄が作った本土手と呼ばれる堤防が、その原型と呼ばれています。
信玄堤は現在、釜無川と御勅使川を受け止める甲府盆地の治水の要です。
しかし、信玄の時代は今と異なり川が縦横無尽に盆地に流れ込み、信玄堤だけでは対処できなかったのでは?と言われています。
江戸時代に書かれた「甲斐国史」には、信玄堤の他にも治水工事が甲府盆地に存在したと記されています。
その一つが、信玄堤から7キロ離れた御勅使川上流に残っていました。
石積出と呼ばれ、高さ7m、幅15m、奥行き80mにも及ぶ城壁のような大きな石垣です。
当時、いくつもの流路を持つ御勅使川が釜無川にぶつかることで、広範囲の洪水が起きていると考えられ・・・洪水が起こりやすい川の合流点を一カ所にまとめるため、この石積出を築いたともいわれています。
暴れる一番根元を押さえるのがポイントでした。
石積出によって向きを変えられた川は、高岩と呼ばれる断崖に激突!!
一旦勢いを弱めた川を、下流の信玄堤が受け止め、甲府盆地への浸水を防いでいたのです。
信玄堤が途切れる釜無川の下流域にも工夫が凝らされます。
ここでは霞堤と呼ばれる隙間の空いた堤防が活躍しました。
今も、霞堤の跡を見ることができます。
洪水時には、隙間からゆっくり水があふれだすことで、水の勢いを逃がし、堤防の決壊を防ぎました。
そして洪水が治まれば自然と水が川へと戻っていく仕組みになっていました。
信玄の時代の人は、治水施設の能力を超える洪水が毎年来て溢れていました。
それに対して人々の生活は、洪水と共存する・・・洪水に勝つのではなく負けないようにする工夫が霞堤の極意でした。
水をもって水を制す・・・ユニークな信玄流治水術・・・川と人々との共存を支えていたのは、建造物だけにとどまりません。
信玄が堤防脇に新たな開拓地を作ろうと人々を集めました。
信玄堤の傍に家を建てれば、税金を一切免除する
その代わり、住民に堤防の修理や洪水への対応を義務付ける・・・治水ニュータウンを作り上げました。
この時出来た地区・竜王河原宿には、今も信玄堤へと続く細長い区画が残されています。
信玄は、平安時代に起源をもつ祭・御幸祭に莫大な費用をそそぎ、甲府盆地を巻き込む一大治水パレードへと発展させます。
水害に対する庶民の力と公の力をミックスさせ、水害を防ごうとしたのです。
川を治めるものが国を治める・・・治水を通して甲斐国を強国へとした信玄が、今も山梨を守っています。


岡山市の中心部に、津田永忠が生涯をかけて作ったものが残されてています。
普段はあまり水が流れていない百間川・・・全長13キロの人工河川が、一昨年、岡山市街を洪水から守りました。
西日本豪雨・・・岡山の平野部を三日間にわたる集中豪雨が襲い、平成最大規模の水害をもたらしました。
市街地を流れる旭川は水位が急激に上昇・・・下流部では氾濫も危ぶまれる事態となりました。
この時、市の中心部から北で、旭川から分流する百間川が放水路として機能しました。
水を海に流すことで、市街地のおよそ3300戸が浸水被害を免れたのです。
江戸時代前期に開削された百間川・・・その築造を指揮した岡山藩士・津田永忠は、城下のインフラを一気に引き受けた土木の名人でした。

1654年の備前洪水・・・局地的な豪雨によって、城下1455軒が家屋流失し、156人が犠牲となりました。
前代未聞の水害に、岡山藩主・池田光政は「我ら一代の大難」と嘆いたといわれています。
甚大な被害を招いた原因は、岡山城の造りにありました。
旭川を堀として利用していたために、激流があふれ出し、大洪水となって藩士や領民の暮らす城下を襲ったのです。
旭川の氾濫から城下を守るために作られたのが、百間川でした。
どのようにして旭川の水を百間川に導いたのでしょうか?
その要となる仕掛けが、分流部にあります。
洪水の取り入れ口として、旭川の堤防を切り下げて作られたのが、百間川の入り口です。
その左右に作られた丸みのある石積みが巻石です。
強度の高い岡山さんの花こう岩が使われ、永忠が作った当時の姿で受け継がれています。
西日本豪雨の時も、改修工事を終えたばかりの巻石が活躍しました。
百間川に流れた最大で毎秒1500トンの濁流に耐え抜き、市街地の浸水被害は軽減されたといいます。
三百数十年前に、永忠がこれを築造してから、岡山の町を守っているのです。

津田永忠は、洪水から人々を守るだけでなく、その先も見据えていました。
洪水によって田畑を失った農民たちは困窮し、飢饉が・・・およそ8万人が飢えに苦しみます。
永忠は、農村を復興し、藩と領民をすくうために大規模な新田開発が必要だと痛感します。
そこで、当時広大な干潟が広がっていた百間川下流域を干拓し、水田に変えるという大胆な計画を打ち立てます。
ところが、そんな大事業は不可能だと藩重臣たちの反対にあいます。
開発に要する工事費用は、半額までしか出せないと突き放しました。
それでも永忠は、残りの資金・銀500貫目(およそ10億円)にもなる大金を、大坂や京都の豪商から自分の名義で借り、工事費用を調達しました。
永忠は、私利私欲のために新田開発を行おうとしている・・・そんな周囲からの誹謗中傷に、こう反論しました。

「名誉が欲しいなら、新田開発には挑まない
 天道天下へのご奉公と思うだけである」

難事業だった新田開発・・・永忠は、巧みな技術を使って成功に導きます。
干拓のため、海水の侵入を防ぐ必要がありました。
そこで築いたのが、干潟を囲むおよそ12キロの堤防でした。
しかし、海より低い干拓地を堤防で囲ってしまうと、百間川から流れてきた水や水田を潤した農業用水を海へ排水することができない・・・
そのため永忠は、巻石でも使われた強固な花崗岩で水門を作り、海と接する百間川の河口一帯に並べました。
木製の板によって開け閉めのできる樋門・・・海の水位が河口より高い満潮には門を閉めて、海水が水田に侵入しないようにし、海の水位が下がる干潮に合わせて門を開き、たまった水を排水しました。
樋門を通して水を管理することで、新田開発が可能となりました。
百間川の治水を、農地の拡大に結びつけたのです。
こうして、江戸時代最大規模の沖新田が生れ、岡山藩と領民を窮地から救いました。
今も、開閉式の門のシステムは継承され、百間川水域の水田地帯を守り続けています。
300年以上岡山の人々を守ってきた百間川・・・その静かなたたずまいの中に、信念を貫いた武士・津田永忠の記憶が刻まれています。


実業家・金原明善・・・
明治から大正にかけ、天竜川の治水に尽力した実業家です。
江戸時代、暴れ天龍と恐れられた天竜川・・・全長213キロ、長野県の諏訪湖から静岡県の浜松平野に流れる急流河川です。
天竜川流域は、江戸後期の100年だけでも50回近くの洪水に見舞われ、その度に多くの命が失われました。
溺死者の魂を弔う慰霊塔が川沿いの至る所にあります。
1832年、浜松の名主の家に金原明善が生れました。
幼いころから村が水に沈むさまを幾度となく目の当たりにしてきました。
明善が洪水から人々をかくまったという屋根裏部屋・・・
洪水から村人たちを救いたいと、明治時代の幕開けと共に明善は動き出しました。

1874年、天竜川の治水を目的に、治河協力社を結成。
そして、自らの財産を元手に大規模な堤防工事を行いたいと明治政府に訴え出ました。
金原家の全財産を売り払い、工事費に充てるという明善に、国内行政を管轄した内務卿・大久保利通も困惑しました。
しかし・・・当時持っていた全財産、ガラスのコップ1個まで全部売って寄付をし・・・その覚悟が大久保を動かします。
明善の熱意に討たれた大久保は、以後、天竜川の治水事業を明善に一任し、政府から支援金を出すとまで約束します。
早速明善は、最新式の測量機器を買いそろえ、欧米の建築技術を取り入れた近代てきな堤防工事を計画します。
ところが・・・明善の治水計画に反発の声が上がり始めます。
公共事業は地域全体で話し合って行うべきだと流域の村々が治河協力社への参加を要求したのです。
しかし、明善は村々の加入を頑なに拒み続け、ついに治河協力社を解散させてしまいます。
天竜川を使って生計を立てている人にとって、漁業権が失われたり、天竜川の水運だったり・・・自分達の仕事を奪ってしまう事業だと考えた人がたくさんいたのです。
そんな人たちが、治河協力社に増えると、思惑が絡み合って合意形成が難しくなる・・・
明善は、多数決の原理を恐れたのです。
村々の協力を拒んだ明善は、地域から孤立・・・
政府からの支援金も絶たれ、近代的な堤防を建設する夢は絶たれてしまいます。
しかし、明善は全く別の角度から治水に迫ることを思い立ちます。
目をつけたのは山!!

森が討伐、青い山がはげ山へと変わっていっている・・・
雨が降れば土砂が流れて川にたまり、堤防が決壊しやすくなってしまう。
治水と植林とは方法は異なるが、その目的な同じではないか・・・??

治水から治山へ・・・
明善は、山の木々や水を貯える力で天竜川を鎮めようとしたのです。
見よう見まねで杉やヒノキなどの植林を始めた明善・・・
しかし、還暦間近のその行動を、初めは多くの人があざ笑いました。

かつては流域の人々との連携を拒んだ明善・・・
今回は、地域が一丸となって治山、治水を実現すると心に決めていました。
明善はまず山間に住む貧しい人々に賃金を支払い植林という新たな仕事を与えました。
さらに、丸太を運ぶ運輸会社、木材を加工する製材所、資金を回すための銀行を設立。
林業を中心に、新たな事業と雇用を生み出していったのです。
こうして流域の人々の心を掴んだ明善は、17年で680万本を植林します。
東京ドーム450倍の森林が生れ、後に天竜美林と呼ばれるようになりました。

明善が植林を始めてから40年近くたった大正11年6月・・・
歩くこともままならなくなった91歳の明善は、最後にもう一度山を見たいと仲間たちに頼みます。
明善が植えた杉やヒノキは、見違えるほど大きく育ち、人々を見下ろしていました。
明善を笑うものなど、もうどこにもいませんでした。

大正から昭和へ・・・山々に緑が戻ると同時に天竜川の洪水も次第に減少していきます。
明善が夢見たダムなどの近代的な治水施設にも支えられ、昭和20年を最後に浜松では天竜川の大規模な氾濫は無くなりました。
明善は、今も天竜川のほとりで人々の暮らしを静かに見守っています。

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1873年、明治政府は崩壊の危機にありました。
際ぢの実力者・西郷隆盛が対外戦争につながりかねない朝鮮への使節派遣を主張・・・
これに対し、盟友大久保利通は内治優先を主張して激しく対立!!
政府は真っ二つに割れました。
いわゆる征韓論危機です。
従来この問題は、西郷・大久保の対立を軸に行われてきました。
しかし、事はそう単純ではありませんでした。
近代化をめぐる岩倉使節団と留守政府の対立、薩摩・長州と土佐・肥前の主導権争い・・・
様々な要因が危機の背後にありました。
そして近年の研究によってキーパーソンとしてクローズアップされてきたのが・・・伊藤博文です。
当時伊藤は、一官僚に過ぎない・・・その彼が、明治日本を左右する政変のキーパーソン??

1857年、足軽の子・伊藤博文は17歳で松下村塾に入門しました。
吉田松陰のもと、幕末に活躍する多くの若者と共に学んだことで、長州藩の若手で注目の存在となります。
この頃の伊藤を評して松陰はこう書いています。

「才能は劣り、学問も未熟、だが性格は素直で、私はとても伊藤のことを愛している
 かなりの周旋家になりそうな」

1863年、23歳の伊藤は、その後の人生を大きく変える決断・・・仲間四人とイギリスに留学をします。
髷を切り、洋装に身を固めた一行の写真が残されています。
伊藤たちは英語を学ぶ傍ら、海軍の使節や造船所などを精力的に見学しました。
巨大な機械が稼働する工場や、煙を吐いて走る蒸気機関車を目の当たりにした伊藤は、西洋文明を導入しなければ日本は生き残れないと悟ります。

しかし、留学はわずか半年で終わりを告げました。
長州が窮地に陥っていたのです。
当時、長州藩は外国勢力の打ち払いいを掲げ、列強の船を次々と攻撃していました。
1864年英米仏蘭4か国艦隊を下関で砲撃、その報復のために4艦隊が下関に襲来・・・
圧倒的な軍事力を前に、長州の砲台は次々と占拠され、破壊されてしまいます。
この危機を前に、帰国した伊藤は通訳としてイギリスとの和平交渉に臨み、賠償金を幕府に肩代わりさせることに成功します。

そんな伊藤の交渉力に目をつけた桂小五郎・・・後の木戸孝允・・・
その頃、長州は幕府との対立を深めており、武器の補給が急務でした。
しかし、幕府は長崎の取引を厳しく監視しており、表立って海外から武器を購入することは困難でした。
木戸は伊藤に、それまで対立関係にあった薩摩藩名義での武器購入を命じます。
この困難な任務を伊藤はやってのけます。
こうして長州の外交を担う存在となった伊藤は、イギリスの外交官アーネスト・サトウたちとの交流を通じ、将来の日本の在り方について交流を深めていきました。
公儀公論の政治体制を目指し、幕府との対決姿勢を深めていきます。

1868年1月、薩摩や徴収を中心とする新政府軍と旧幕府軍とが京都郊外の鳥羽・伏見で激突!!鳥羽・伏見の戦いです。
新政府軍の勝利によって、明治という新時代が始まりました。
薩摩の西郷隆盛や、大久保利通、長州の木戸孝允といった倒幕の中心人物が新政府の政治を実質的に動かすこととなります。

1869年、伊藤は木戸の引き立てで大蔵少輔に就任します。
この時伊藤が立案したのが、大蔵省が中心となって産業を興すというプランです。
伊藤は、中央集権制の下で、強力に近代化を推進することを目指しました。
ところが、その前に立ちはだかったのが、大蔵卿・・・大久保利通でした。
旧薩摩藩との関係の深い大久保にとって、伊藤の改革案は保守的なをはじめ諸藩には到底受け入れられない過激なものに映ったのです。

この年の9月、伊藤は大蔵省から工部省へ・・・
伊藤はいつしか、大久保に西洋文明を理解させなくては日本の近代化は難しいと考えるようになっていきます。
絶好の機会がやってきました。

1871年、不平等条約改正のための使節団派遣が決定します。
使節団の中心は、外務卿・岩倉具視。
そこで伊藤は、政府の中からも・・・と、木戸・大久保の参加を推薦します。
そして実現したのが、薩摩と長州の主導者が共に洋行するという岩倉使節団です。
欧米を見れば、彼等も近代化の必要性を理解するはず・・・果たして伊藤の思惑は的中しました。
舗装された道路沿いに立ち並ぶ石造りの近代建築、電信や鉄道などの最新技術・・・
木戸はその衝撃を次のように書き残しています。
「今の日本が目指す開化と称する者の多くは、皮膚上のものに過ぎない」

大久保も・・・
「英米仏などの開化は、日本とは段違いではるかに及ばない」

帰国後にまとめられた使節団の報告書・「米欧回覧実記」によると、

「議会は必ず上下両院を分かつこと、一つの議会のみで一方局としている国はない」

大久保がたどり着いた結論・・・それは議会制でした。
西洋の進歩の源は、国民の力の結集にあると悟ったのです。
伊藤と大久保は、使節団を通じて急速に接近します。
2人は近代化に向け、方向性を共有したのです。

1873年9月、伊藤は2年近い視察を終え欧米より帰国しました。
待ち受けていたのは思わぬ事態でした。
長州の政治力が、大きく後退していたのです。
使節団不在の中、政権を握ったのが留守政府・・・
太政大臣・三条実美
参議・・・・・西郷隆盛(薩摩)
       板垣退助(土佐)
       後藤象二郎
       大隈重信(肥前)
       江藤新平
       大木喬任
でした。
しかも後藤象二郎・江藤新平・大木喬任の三人は、使節団外遊中に無断で参議に登用されていました。
使節団は、留守政府との間で約定書を交わしていました。

”内地の事務は大使帰国の上 
 大いに改正する目的なれば
 なるたけ新規の改正を要すべからず”

ところが、留守政府はその約束に反して、徴兵令の施行、学制の制定、全国への裁判所設置など大規模な改革を次々と打ち出していきます。
これらをすべて実行すれば、国の財政は破綻する・・・
長州出身の大蔵卿・井上馨は、江藤らの政争に敗れて辞任していました。
さらに、陸軍太輔・山形有朋は汚職事件に巻き込まれてしまい失脚・・・
長州の政治力は一気に低下してしまいました。
そのタイミングで勃発したのが”征韓論問題”です。
きっかけは国交を求める日本の現地高官に朝鮮側が張り出した掲示でした。

”近年日本人は、制度や衣服、風俗を西洋風に改め、昔からの法を変えようとしている
 さながら無法の国というべきである”

1873年8月、この問題を巡って、留守政府で閣議が開かれます。
閣議を主導したのは、参議・西郷隆盛でした。

「まず朝鮮に使節を派遣して談判すべきだ
 その任には、自ら当たる所存である」

これに、板垣、江藤ら土佐・肥前出身の参議が賛同・・・
閣議は西郷に大きく傾いて行きます

8月17日、三条実美は、岩倉達帰国後に再び評議することを条件に、西郷の朝鮮派遣を閣議決定。

一見、平和的に見える使節派遣・・・
しかし、後に西郷が提出した文書から、極めて危険な計画だったことが読み取れます。

”朝鮮側が暴挙に出た場合、初めてその罪を問うべきである”

緊張状態にある朝鮮に乗り込んだ西郷が殺されれば、開戦の絶好の口実になる・・・
使節派遣は対外戦争をも視野に入れた計画だったのです。
ひとたび開戦となれば、膨大な戦費がかさみ、国内の近代化どころではなくなってしまう・・・!!
伊藤は状況を打開する為に、密かに動き出しました。

”明治六年征韓論一件”にはこう書かれています。
明治6年9月27日の岩倉具視宛の手紙には・・・

「朝鮮問題の解決は、大久保さんでなければ成功は難しい・・・
 参議就任のこと、今一度ぐらいではなく百度でも御説諭すべきです」

征韓論阻止のためには、大久保を参議にして戦ってもらうしかない・・・伊藤はそのために岩倉を動かそうとしました。
2日後、岩倉は伊藤にこう返信しています。

「今朝、大久保のところに出向き、百方懇願した」

2人の策は功を奏し、岩倉に対し大久保はついにこう表明します。

「命がけで参議就任をお引き受けする」

岩倉、大久保、そして伊藤・・・西郷の派遣阻止に向け、三人の戦いが始まりました。

1873年10月14日・・・
岩倉使節団帰国後、初めての閣議が開かれました。
メンバーは、太政大臣・三条と右大臣・岩倉、留守政府側の参議には西郷を筆頭に土佐の板垣、後藤、肥前の江藤、大隈らが顔を連ねます。
使節団側の参議は大久保一人・・・木戸は帰国後体調がすぐれず欠席していました。
閣議の様子は・・・

岩倉と三条が、朝鮮の西郷を派遣するのは延期すべきだと主張。
ほとんどの参議は、これに同意しました。
8月の閣議で、西郷を派遣を決めた三条でしたが、岩倉に説得され考えを変えていました。
三条が意見を翻したことで、留守政府の参議も派遣延期で妥協しようとしましたが・・・
西郷が納得しません。
決まったことだとあくまで即時派遣に固執し、強硬に反論しました。
先の閣議で派遣を認めた手前、留守政府の参議も延期論を捨てざるを得ない・・・

10月15日、閣議が再び開かれ、そこで決着がつきます。
三条実美が、またもや考えを変え、西郷の即時派遣を決定。
この決定を受け、岩倉と大久保、木戸は辞意を表明。
慌てた三条は、西郷に派遣の撤回を求めるものの、西郷は、頑として受け入れませんでした。
板挟みとなって追いつめられた三条は、極度のストレスで卒倒し、一時意識不明に・・・!!

この間、閣議に参加できない伊藤は、この政局を不安と共に見守っていました。
留守政府と共に近代化??それとも岩倉と大久保を支える・・・??
このまま留守政府側が進める西郷の朝鮮の派遣を認めるのか?
それとも岩倉・大久保と共に、逆転への賭けに打って出るのか??

伊藤の選択は、あくまで岩倉と大久保を支えることでした。
しかし、そのためには既に、使節派遣の閣議決定を覆さなければなりません。
果たして、伊藤はどうする・・・??

「大久保利通日記」によると・・・
三条が倒れた2日後の10月19日には、
”他に挽回の策なしと言えど、ただ一の秘策あり”と書かれています。

ただ一の秘策とは・・・??
三条の倒れた今、岩倉が太政大臣の正式な代理となって太政大臣としての実権を握り、その権限で使節派遣をやめさせるというのです。

10月20日、明治天皇が岩倉邸を訪れ、岩倉に直々にこう伝えます。

”太政大臣に代わり朕が天職を輔けよ”

岩倉を太政大臣内裏にするという秘策・・・伊藤博文が動いていた・・・??
その根拠の一つが大久保の”一の秘策”の前日の日記です。
この日、大久保宅を訪問した伊藤は、さらにその後、岩倉邸にも回っています。
両者の間で秘策の根回しを行っていたのです。

10月23日、岩倉は、使節派遣、派遣延期、二案を上奏します。
天皇の答えは、既に決まっていました。

「国政を整え、民力を養い、つとめて成功を永遠に期すべし
 汝 具視が奏上 朕 これを嘉納す」

西郷の派遣は中止され、それを受けて征韓派の参議5人は辞職しました。
征韓論をめぐる対立は、使節団側の勝利に終わったのです。

政変後・・・
1873年10月25日、伊藤は工部卿に就任します。
産業を興し、民力を育てることに手腕を発揮します。
その一つが生野銀山です。
当時、生野銀山は、採掘技術の限界から産出量が激減していましたが、伊藤率いる工部省は、静養の技術を導入することで増産を図りました。
ここで、日本初の産業道路ができています。

政変から12年後の1885年、伊藤博文は初代内閣総理大臣に就任。
1890年には第1回帝国議会開会。
そこでは貴族院と衆議院という二院制が取られ、近代国家の枠組みが整えられました。

1900年には立憲政友会を結成。
国民の声を政治に反映させることに力を注ぎます。
岩倉使節団で育んだ夢を、伊藤は終生追い続けたのです。

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群雄割拠の戦国時代・・・各地の大名が覇権を争い戦を繰り広げていました。
そんな中、一介の油売りから身を興し、美濃国の国主にまで成り上がったといわれる戦国時代の下克上を象徴する男・・・美濃の蝮と恐れられた斎藤道三です。
織田信長や明智光秀に影響を及ぼしたともいわれていますが・・・
彼自体について残された史料は極めて少ない・・・。
信長の一代記”信長公記”には、裏切りや暗殺を繰り返し、君主を追放した卑劣な男として描かれ、牛裂き、釜茹でなど残酷な刑を好んだとも記録されています。
しかし、近年の研究によって、新たな人物像が・・・・。

岐阜城の麓にある常在寺・・・斎藤道三は晩年にこの寺で出家・・・道三と名乗ったとされています。
謎に包まれた戦国大名・斎藤道三・・・
これまで彼は、一介の油売りでありながら、美濃国で実権を掌握し、国主にまで成り上がったとされてきました。
しかし、近年発見された史料によって、その通説が覆り、道三の人物像が一変したといいます。

近江国の守護大名六角氏の書状「六角承禎条書写」
ここに、斎藤道三の真実が隠されています。
この書状は、永禄三年七月二十一日に近江の六角承禎が息子の家臣たちに宛てて出した書状です。
斎藤道三の息子・義龍について書かれたこの書状・・・
斉藤家の先祖は、京都妙覚寺の僧侶だったとあります。
そこから西村と称し、美濃国で侍となり、その後出世し、長井と名を変えました。

そこに・・・祖父新左衛門尉と書かれています。
斉藤義龍の祖父ということは、道三の父・・・
道三が一人で国盗りをしたんのではなく、道を整備していったのは新左衛門尉だったのです。

かつての研究では、道三が一人で美濃の国主になりあがったとされていました。
しかし、この書状によって、親子二代による国盗りだったことが分かります。
まず道三の父は、京都で法華宗の僧侶をしていました。
江戸時代に書かれた美濃の記録には、寺を出たのち、美濃で油を売る商人になったとされています。
この油売りの経験こそが、その後の出世の謎を解くカギになります。
京都にある大山崎町・・・ここは、かつて明かりをともす油・・・えごま油の生産地として知られていました。
製造と販売を担っていたのが、神社に仕える神人と呼ばれる人たち・・・彼等は、各地を行き来する特権を得ていました。
西日本の各地でえごまが栽培されているので、えごまを優先的に買い付けに行ける特権を持っていたのです。
関所、淀川の水運、瀬戸内海の港の利用料を支払う必要がありましたが、山﨑の油売りは免除されていました。
広範囲を自由に行き来できた当時の油売り・・・かつて僧侶だった道三の父は、法華宗の商人のネットワークの中で商売を行っていたと考えられています。
油を売り歩く中で、彼が目をつけた場所・・・それが美濃国でした。

司馬遼太郎が斎藤道三を描いた小説「国盗り物語」でこの地を公表しています。

”美濃を制する者は天下を制す”

美濃は、京と関東の間にあり、多くの街道が通じる交通の要衝・・・
豊かな穀倉地帯である濃尾平野や長良川などの河川が流れる肥沃な土地でもありました。道三の父は、美濃の守護代・斉藤家に出入りするようになります。
すると、行商で得た各地の知識が重宝され、斎藤氏の家臣である長井家の武士に取り立てられます。
この頃、名を西村勘九郎と改名します。
さらに、戦で多くの武功をあげたことで、長井の姓を与えられ、長井新左衛門尉と改名。
道三の父は、名前を変えながら着々と美濃での地位を上げていきました。

どうして彼がそのような出世をすることができたのでしょうか?
美濃は、昔から上質な和紙の産地として知られる場所・・・
道三の父は、この美濃の経済的拠点を押さえ、紙の流通を支配することで多額の利益を得ていたとみられます。
次第に美濃での力を強めて行った道三の父・・・
事実、当時美濃で買わされた文書には、長井新左衛門尉の名が、いくつも見受けられます。
しかし、ある時を境にその名が記録から一切見られなくなるのです。
そこには、長井新九郎規秀と書かれていました。
これこそが、道三・・・??
この書状が書かれた前後に、道三の父は亡くなったとされています。
当時の美濃は、代々守護を務める土岐氏が家督争いをする不安定な状態でした。
土岐氏に続いて権力を持っていたのが、守護代の斎藤氏・・・
その重臣であったのが、長井氏であり、道三は父から長井のナンバー2の地位を引き継いでいました。
そこから彼は、美濃での地位を上げるために暗躍をはじめます。
六角氏の書状には、こう記されています。

”惣領を討ち殺し諸職を奪い取り”

長井家の当主を殺害、自らが惣領となり家を乗っ取ったのです。
さらに、土岐頼芸と結託し、家督争いをしていた土岐頼純を追放、頼芸を美濃の守護に押し上げます。
道三は、頼芸から守護代である斎藤の姓を使う承認を得て、斎藤利政と名を変えました。
父の死からわずか4年ほどで、道三は美濃の守護代・ナンバー2にまで上り詰めたのです。

岐阜県山県市・・・かつてここに、大桑城という山城がありました。
斎藤道三の主君・土岐頼芸の居城です。
道三によって美濃の守護に擁立された頼芸・・・
しかし、国主の座を狙う道三との関係は、次第に悪化していきます。
頼芸は道三からの攻撃に備え、居城の大桑城を全面的に整理しました。
そこには当時最大級ののぼりの工夫がなされていました。
城に作られた防御施設からは、当時の土岐頼芸の強い警戒心が感じられます。
土岐氏は、斎藤氏を非常に恐れていたことを示しています。

更に山麓には、土岐氏が周辺勢力と協力して築いた防御システムが残されています。
道三側の侵入を防ぐ深さ5メートル~8メートルの四国堀・・・越前の朝倉氏や近江の六角氏など4つの国の加勢により築かれたといわれています。
土岐氏と朝倉氏は友好関係を結んでいたので、土岐氏のバックアップを・・・
斎藤道三は、戦国下克上!!元の権力を否定して力をつけてきていました。
簡単に土岐が道三に負けてもらっては、朝倉氏としても困るのです。
朝倉など旧来勢力にとって、急速に力をつける道三は、看過できない存在でした。

一方、道三はどのような城を作っていたのでしょうか?
岐阜城・・・かつては稲葉山城と呼ばれ、斎藤道三が居城として整備しました。
後に織田信長によって、全面的に改修されたと考えられています。
しかし、近年の調査でこの城についての新しい説が浮上しました。
一部の石垣が道三時代のものであり、それを信長が使用したのではないか?というものです。
道三は、高い築城技術を持っており、稲葉山城という歴史があって初めて織田信長の岐阜城が生まれたのではないのか??
信長への影響は城郭だけではなく、道三は山麓に大規模な城下町を建築し、城からのびる百曲という道に大桑城から町人を移住させました。
城からのびる主要な道を中心に、町が形成されるタテ町型城下町・・・これは後の信長や秀吉の時代に多くみられるものです。
町の外側に、道三は市場を建設、そこでは信長の楽市楽座に先立って自由な商取引が行われていました。
信長が経済を重視し、流通を重視し、城下町政策、経済政策をしていく・・・
このお手本となったのが斎藤道三だったのです。
稲葉山城を拠点に、美濃の実効支配を進める斎藤道三・・・
しかし、彼に対抗意識を持つ周辺勢力が牙をむく時が訪れます。

1544年、尾張の織田と、越前の朝倉が、土岐氏の復権を名目に、斎藤氏の稲葉山城に攻め込んできたのです。
この時、織田軍を率いていたのが織田信秀・・・信長の父です。
織田軍は村に火を放ちながら侵攻・・・その軍勢は、2万以上でした。
城下にまで押し寄せる織田軍・・・しかし、道三は城に籠って動こうとしません。
攻めあぐねた織田軍は、日没とともに攻撃を中断・・・兵を引き上げかけたその時!!
道三が潜ませていた軍が一斉に奇襲をかけたのです。
不意を突かれた織田軍は狼狽・・・逃走します。
追撃した道三の軍は5000もの兵を討ち取ったとされています。
織田と朝倉の侵攻を防いだ斎藤道三・・・しかし、周辺勢力の脅威は見過ごせないほどの状況になっていました。

美濃での支配力を強める斎藤道三・・・しかし、周辺には多くの脅威を抱えていました。
南には尾張・織田信秀、北には土岐氏と手を組む越前・朝倉、西には近江の浅井や六角、東には東海の雄・今川氏と強敵が四方にひしめいていました。
そんな中、道三に思わぬ話が舞い込みます。
織田からの和睦の提案です。
当時、尾張国内の敵対勢力と対抗することを強いられていた織田信秀・・・さらに東には、今川氏が三河の西部にまで進出・・・
国内外の脅威により窮地に陥っていました。
この逆境を打開する為に、道三に和睦を申し入れてきたのです。
しかし、織田側から和睦の証として両国間の縁組が持ちかけられました。
信秀の息子である信長のもとに、道三の娘・帰蝶を嫁がせることを求めてきたのです。
美濃の国盗りを前に、大きな選択を迫られた道三・・・どうする??

織田と和睦する??
四方を囲む強敵に対抗するため、織田との和睦は道三にとっても好都合でした。
国外の敵が減れば、土岐頼芸から国主の座を奪うことに専念できる・・・!!
しかし、道三にとって気がかりだったのは、娘の縁組の相手・信長の存在でした。
当時、信長の評判は極めて悪く、”信長公記”にさえ信長公を大うつけという人ばかりと書かれています。
信長は言わずと知れたうつけもの・・・織田家に先はない・・・??

織田家ではなく今川と手を組む・・・??
今川氏は、代々駿河に君臨する名家中の名家。
足利将軍家の祖である足利高氏は・・・

”御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ
 吉良が絶えなば今川が継ぐ”

と、書き残したとされる家柄でした。
その今川氏は、当時織田家への侵攻を計画、道三が今川と手を組めば、織田を急撃し、尾張の地を奪うことも可能・・・!!
織田か、今川か・・・どちらと手を組むべきか・・・??

織田からの提案を受け、帰蝶と信長との婚姻が成立・・・道三は、織田との和睦を選んだのです。
後に道三は、娘婿となった信長と対面し、その時こう述べッと伝わっています。

「自分の子は将来、信長の門前に馬を繋ぐことになる」

うつけと呼ばれていた信長ですが、道三はその器量を見抜いたとされています。
一方信長は、その翌年今川方を攻める際に、自分が留守にする城の守りを道三に依頼、両者の関係は強固なものとなっていきます。
1548年、道三と織田との和睦と時を同じくして、土岐氏を支援していた越前の朝倉孝景が急死。
千載一遇の機会を手にした道三は、土岐頼芸を近江に追放・・・
名実ともに美濃の国主となり、親子二代にわたる国盗りがここに完成します。

その後の1554年、家督を息子・義龍に譲ります。
親から続いた道三の国盗り物語は、次の代に継承されたかに見えました。
しかし、親子の関係は次第に悪化、道三は実の息子・義龍を信長程高く評価していなかったとされています。
対立を深めた末に、1556年、親子の間で合戦が勃発・・・長良川の戦いです。
義龍が1万7000の兵を集めたのに対し、道三のもとにはせ参じた兵はわずか2000余りだったといいます。
結果、長良川での戦いで、道三は討死・・・
その戦の前日に、道三が書いたとされる遺言状が残されています。

”終には織田上総介の存分に任ずべき”

道三は、美濃国を息子の義龍ではなく信長に譲り渡すとしているのです。
それから11年後の1567年、道三が亡くなって以来斎藤氏との関係を悪化させていた信長が、稲葉山城の攻略に成功・・・
道三の遺言通り、美濃国は信長の治めるところとなりました。
父から受けついだ国盗りに道程・・・それは、娘婿である織田信長の天下取りへの道へと引き継がれていったのです。

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