日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: にっぽん!歴史鑑定

今日富上京区にある観世稲荷社・・・室町時代、この辺りにあったのは、観世家の屋敷です。
観世とは、今に続く能の流派の一つ観世流を受け継ぐ家・・・
その始まりは、700年ほど前まで遡ります。
観世座という芸能一座を率いた観阿弥です。
そして観阿弥の意志を継いで大成させたのが、息子の世阿弥です。
2人は能に、様々な革新を起こしました。

世界最古の舞台芸術としてユネスコの無形文化遺産に登録されている能・・・
謡とお囃子を伴奏に、舞踊的な所作で物語を展開させていく幽玄な歌舞劇です。
その始まりは、中国伝来の散楽と呼ばれる曲芸に、歌舞などの日本古来の芸能が融合された猿楽・・・
当初は、滑稽で人を楽しませる芸術でした。
そんな猿楽の一座を率いていたのが観阿弥でした。
鎌倉幕府が滅亡した1333年に、大和国の猿楽師であった父のもとに生れました。
やがて自ら観世座という猿楽一座を率いる観世太夫となります。

当時の猿楽師の在り方は、乞食の所行と呼ばれていました。
地位は低いものでしたが、観阿弥はスター役者でした。
猿楽の地位を上げようと奮闘し、革新をもたらしていきます。
観阿弥は、猿楽に当時の流行歌謡である曲舞を取り入れ、メロディー中心だった猿楽に、曲舞の拍子の面白さを加え、新しい謡を編み出しました。
現代で言えば、ラップに近い面白さがありました。
猿楽に別ジャンルの要素を取り入れ、革新を遂げた観阿弥の一座は、頭角を現し、京で勧進能を催すまでになります。
そんな中、観阿弥に待望の跡継ぎが誕生!!
1368年世阿弥が生れます。

時は二つの調停が並び立つ南北朝時代!!
北朝方の室町幕府の力は盤石ではなく、各地で反乱がおこる中、1367年、室町幕府2代将軍足利義詮が病死。
家督を継いだのは、僅か11歳の義満でした。
1368年、3代将軍に就任!!
ここから観阿弥・世阿弥親子の運命が大きく動くのです。

義満の時代~「蜜月」

1375年、観阿弥43歳の時、猿楽の地位を向上させる最大のチャンスが訪れます。
京都新熊野神社での観世座猿楽興業に、将軍・義満が見学に来るというのです。
”将軍という最高のパトロンを得られるかどうか?”観阿弥にとっては勝負の時でした。
そこで、観阿弥は一計を案じます。
興業の冒頭で、必ず演じられていた翁猿楽の翁役を自ら演じることにするのです。
通常は一座の長老が行うのが習わし・・・異例のことでした。

「翁」は、役者が最初は面をつけずに素顔で演じる演目です。
翁を演じる役者が年寄りだと、義満が興ざめする恐れがありました。
観世座の中心役者である自分が、最初に出てくることで義満の興味を引けると考えたのです。

観阿弥の狙いは敵中~~!!
見事、義満の目を引きます。
さらに、義満が目を奪われたものは・・・美少年と言われた世阿弥の姿です。
一説には、世阿弥はこの時13歳、義満は18歳だったといいます。
美少年好きの義満は、世阿弥を常に自分の傍に置き、可愛がりました。
祇園祭見学の際には、同じ席に世阿弥を上げ、杯を交わすほどだったといいます。
しかし・・・義満が世阿弥を寵愛したのは、義満が美少年だったから・・・だけではありませんでした。

当時の幕府は、武力によって地方を押さえ、政治を行っていました。
しかし、すべてを承認する権限は、朝廷にあったため、自由に物事を進めることが出来なかったのです。
そこで、義満は公家社会に入り込むことで、朝廷を思い通りに動かそうと考えます。
しかし、朝廷では、多くの儀式が古いしきたりのもとで行われており、武士である義満が、容易に入っていける世界ではありませんでした。
そこで、まずは摂関家・二条良基に朝廷の儀礼や作法を学びます。
これが認められ、義満は1378年、武家にとって最も名誉な右近衛大将に任じられ、その3年後の1381年には武家として異例の内大臣に昇進、朝廷内での発言力を強めていきます。
しかし、義満は・・・京の高い公家文化にコンプレックスを持っていたと考えられます。
その為、義満は京の高い文化に対抗できるものが自分にもほしいと考えました。
観阿弥率いる観世座は、新しい猿楽の在り方を実現させていました。
義満が、新しい文化を掴んでいることを内外に示す意味があったのです。
そして、観世座の猿楽が、義満の政治・文化ラインに沿うようなものになっていったのです。
義満は、観世座の猿楽を、広告塔として使うようになりました。
観阿弥は、世阿弥に将軍や幕府の中枢にいる武士や公家と対等に付き合えるように、和歌や蹴鞠なども習わせていました。
全ては、猿楽を都で認めさせるためでした。

こうして、将軍という強力なパトロンを得た観阿弥でしたが、1384年5月、52歳・・・巡業先の駿河で急死します。
跡を継ぎ一座のTOP・観世太夫となったのは22歳の世阿弥でした。
父の遺志を継ぎ、観世座を守り、盛り立てて行こうと精進していきます。
そんな世阿弥に最初の試練が・・・ライバルの出現です。
大和と並んで猿楽の盛んな近江の猿楽師・犬王です。
天女の舞を躍らせたなら、右に出る者はいないと高い評判を得ていました。
義満も、そんな犬王をいたく気に入ったようで、犬王が将軍お気に入りの役者の筆頭に躍り出ます。
世阿弥は、犬王の存在を強く意識します。
自分にはない優美さがあったことも、大きな理由でした。

足を細かく使ったり、地面を踏んだりする力強い鬼の演技を得意とする世阿弥は、自分にはなかった犬王の幽玄で美しい舞を貪欲に取り込み、鍛錬を積んでいきます。
パトロンである義満の好みに近づくために・・・!!
時代の風を詠み、新たな要素を取り込んで芸を高めていく・・・
それは、一座の蝶として観世座を守るための世阿弥の生き残る術・・・戦略でした。
一座の長としての重責を担い、ジレンマと戦いながらも自らの芸を磨いて行った世阿弥・・・
将軍・義満のご贔屓も取り戻します。

大衆芸能だった猿楽を、名実ともに京文化の中心に引き上げた観阿弥・世阿弥親子・・・
2人の名についている阿弥というのは、芸名です。
世阿弥がこの名を名乗るようになったのは、40歳になるころでした。
それまでは、元清とか、三郎などと名乗っていました。
しかし、将軍周辺で、これからは出家した際につける法名の一つ阿弥号で呼ぼうということになりました。
父親である観阿弥が、観世を名乗っており、世阿弥も当時、そう呼ばれていたようで・・・そこから世という文字が使われ、将軍・義満の一言で”ぜあみ”と呼ぶようになりました。
ちなみに阿弥は、当時の文化人のステイタスシンボルでした。
義満によって、文化人に相応しい名前を得た世阿弥・・・しかし、蜜月はついに終わりを告げます。

1408年、世阿弥のパトロンだった室町幕府3代将軍足利義満死去・・・
幕府の実権は、4代将軍・義持に移りました。
これによって、世阿弥の人生は、またも大きなうねりを見せます。

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義持の時代~「苦難と革新」

将軍・義持には、贔屓にしている役者がいたのです。
農耕行事から生まれた芸能・田楽出身の増阿弥です。
その演技に世阿弥自身も魅了されます。
淡々とした中にも深い味わいを持つ舞の美しさ・・・新たなライバルの出現に、世阿弥は奮い立ちます。
追求したのは花・・・

「花と面白きと珍しきと これ三つは 同じ心なり」by世阿弥

花の意味とは・・・??
花は、観客にとっての新鮮さ、面白さであって、世阿弥は如何に観客を面白がらせ、舞台に感動の花を咲かせるかを追求していました。
新しき花を、珍しき花を、生み出すことを追求していった世阿弥・・・
そんな彼が挑んだのは、新しい能の作品を作ることでした。

「能の本を書くこと この道の命なり」by世阿弥

世阿弥は、能の本を書く・・・新たな作品を作ることで、最大の革新を起こしていきます。
その中で、強く影響を受けたのが禅です。
世阿弥は50歳を過ぎてから座禅修行を行う仏教宗派・禅宗に深く帰依していました。
世阿弥は、禅画や枯山水のような「余白の美」で表現できる美しさを能の中に取り入れようとしたのです。
余白の美を能に取り入れようとした世阿弥は、「動十分心 動七分身」といっています。
思っているよりも、身体の動きを抑えることで、敢えて心情が伝わり趣が生れる・・・と。
心を平穏にして、リラックスして、新しいものを作ろうというニーズが高まっていたのです。
静かで美しい動きの中に表す心の機微・・・感情の奥深さで、見る者たちの心を鎮めようと考えた世阿弥・・・。
こうして生み出された新たな能のスタイルが、夢幻能です。
それまで演じられていたのは、現在能・・・現実の世界で起こる事件や出来事を題材とした能です。
これに対し、夢幻能は、神や幽霊、聖霊など現存しない者たちがシテと呼ばれる主役となり描かれます。
物語が大きく前半と後半に別れているのが特徴・・・
その構成は、物語の脇役である旅の僧侶などが、源氏物語や伊勢物語など当時の貴族が好んだ物語や和歌に詠まれた土地にやってきます。
すると、そこで主人公に出会います。
主人公は、この土地ゆかりの出来事や人物についてまるで見てきたかのように語り出し、最後に私こそがそのゆかりの者だと名乗って消えてしまいます。
そして物語は後半へ・・・
旅の僧侶の夢の中に、主人公の亡霊が当時の姿で現れ昔の出来事を再現・・・
その苦悩を舞って見せます。
やがて夜が明け、僧が夢から覚めるとともに霊は消え、物語は終わるのです。
このような構成のため、夢幻能は、この世に未練を残し死んでいった者たちが主人公となる悲劇が多いのが特徴です。
世阿弥が編み出したこの夢幻能・・・「能」はもともと鎮魂の芸術、レクイエム・・・亡者供養の世界です。
非業の最期を遂げた人間や、地獄に落ちた人間の人生で一番輝いた一瞬を舞台で再現する・・・これが亡者供養に繋がるのです。
また、夢幻能は、日本のあらゆる古典文学や昔話を能の中に取り入れることが出来る画期的な仕組みでした。
世阿弥は、夢幻能という新しい演劇の編集装置を使い、次々と作品を生み出していきました。
伊勢物語を軸とし、平安時代の歌人在原業平を待ち続ける妻の令を主人公にした幻想的な「井筒」。
兄・源頼朝によって死に追いやられた義経の亡霊を主人公にし、屋島の戦いでの活躍を描いた「八島」。
世阿弥は天賦の才で、能を洗練された舞台芸術へと高めていきます。
世阿弥の手による作品は、わかっているだけでも50くらいはあるのでは??と、考えられています。
また、猿楽が能と呼ばれ始めるようになったのも、世阿弥の頃だといわれています。
そしてその能の演目は、ほぼ変わらず上演され続けています。

主に大衆を喜ばせ笑わせていた芸能・猿楽を、能という高度な洗練された舞台芸術へと高めていった世阿弥・・・
様々な革新によって大成された能は、700年近くたった今も、連綿と受け継がれています。

「住する所なきを まづ花と知るべし」by世阿弥

同じ芸や得意な芸ばかりやらず、常にその先にある新しい芸を求め続けよ・・・

「秘すれば花なり」

世阿弥は、能を理論的に綴った日本初の演劇論「風姿花伝」の中のことばです。

世阿弥は風姿花伝をはじめとした高度な能楽論をおよそ20も執筆しています。
「花鏡」もその一つで、中には有名な言葉が・・・

「初心忘るべからず」

単に初々しい時の心を忘れてはいけないという教えだけでなく、如何に己が未熟であるかということを忘れてはいけないという教えが込められています。
多くの教えを書き残すことで、後進の育成に力を注いだ世阿弥・・・
しかし、自身の後継者というと・・・妻・寿椿との間になかなか子を授かりませんでした。
そこで、弟の嫡男・三郎元重を養子とし、跡を継がせることにしましたが・・・
その後、2人の男子(十郎元雅・七郎元能)を授かります。
これで候補者は3人となってしまいました。
当初の予定通り養子にするか、実子のどちらかにするか・・・??
1422年実施である十郎元雅を観世太夫にします。
世阿弥は、「花伝第六花修」に”能の本を書くことこの道の命なり”と書いています。
能本を書く才能を非常に重視していました。
その才能を十郎元雅は持っている・・・実子であったことも大きな理由ですが、十郎元雅が優れた劇作家だったために選んだのです。
しかし、この決断が、世阿弥のこの後の人生を大きく揺るがすこととなります。

1423年、世阿弥が60歳を超えた頃、幕府は後継者問題で揺れます。
4代将軍・足利義持が息子である義量に将軍職を譲るも、その2年後に義量が19歳で亡くなってしまいます。
その為、出家していた義持が将軍代行に就いたのですが・・・
1428年、跡継ぎを決めないまま義持死去・・・。
そこで、次の将軍は”くじ引き”で決めることに!!
結果・・・義持の弟義教が6代将軍に就任しました。
これが、問題でした。

義教の時代~「絶望」

義教の治世は、恐怖政治と恐れられました。
その性格にも難があったといいます。
意に沿わない者は、厳罰に処し、死罪をも辞さないという横暴ぶりです。
人々は震え上がりました。
その矛先は観世座にも・・・!!
後小松上皇の仙洞御所で催されるはずだった世阿弥・・・元雅親子による猿楽の公演が、突如将軍・義教によって中止されたのです。
弾圧とも迫害ともいえる義教の横暴は続き、舞台から遠ざけられていきます。
どうして義教は、強く当たったのでしょうか??

義教は無類の猿楽好きでした。
将軍になる前からお気に入りの能楽者がいました。
それが、世阿弥の養子・三郎元重だったのです。
義教は、異常なほど三郎元重に肩入れをしていました。
観世座を告げなかった元重は、観世座の中で別グループを率いていました。
そんな元重を、義教は将軍になる前から贔屓していて、世阿弥親子が演じるはずだった仙洞御所での猿楽公演にも元重を抜擢したのです。

その後も、興業の機会が奪われるなど、観世座に暗雲が立ち込める中、世阿弥に追い打ちをかける出来事が起こります。
次男の七郎元能が能の道を捨て出家・・・さらに跡を継いだ十郎元雅が巡業先の伊勢で急死。
世阿弥の悲しみは深く・・・

「私は元雅に能の神髄をすべて書いて残してやりました
 しかし、その元雅が若くして逝ってしまった今、すべて無駄になってしまったのです
 ああ・・・すでに埋もれ木となったこの歳になって
 花盛りの元雅のその花の跡を先に見るとは・・・」

まさに、絶望の淵にいました。
そんな中、1433年、将軍義教の庇護のもと養子の三郎元重が観世太夫となります。
そして、京都・糺河原で3日間に及ぶ盛大な襲名披露の猿楽公演を行いました。
将軍義教の支援のもとで・・・!!

1434年、世阿弥が突然佐渡へ配流!!

佐渡には数々の世阿弥の伝説が残されています。
例えば、大干ばつに見舞われた際には、世阿弥の雨乞いの舞で大粒の雨が降り出し、島民をすくったと伝えられています。
そんな佐渡に世阿弥が流されたのは、70歳を過ぎてのことでした。
どうして配流となったのか・・・??
書物には

”世阿弥が娘婿である金春禅竹をあまりに寵愛したため、我が子(養子の三郎元重)と仲違えをし、将軍の機嫌を損ねて佐渡へ島流しにされた”

とあります。

これは江戸時代ごろに作られた創作だと思われます。
世阿弥の島流しには、長男・十郎元雅との立場が関係していたともいわれています。
十郎元雅は、藩幕府勢力とのつながりを持っていたのではないか?といわれています。
長男の十郎元雅が、藩幕府勢力と繋がっていたことで、連帯責任をとらされた可能性があるのです。
しかし、それを裏付ける正式な資料はなく、真相は今も闇の中です。
ただ、世阿弥が佐渡に流されたのは事実・・・
そこでの暮らしを伝える生活を金春禅竹に宛てた手紙が残っています。

「おいてきた妻が心配でなりません
 そんな妻と私への援助に感謝してもしきれません
 佐渡では支障なく暮らしております」

そして、鬼の能について質問してきた禅竹に、こう答えるのです。

「ただ荒々しいだけの芸をしてはならない」

世阿弥は佐渡で、「金島書」を書いています。
最後まで能への情熱は消えていなかったのです。

その後、1441年、観世太夫・・・元重の能を見物中に義教は暗殺されます。
一説にはその義教が亡くなったことで、世阿弥は流罪を許されたとされています。
しかし、京都に戻って来られたのか?そのまま佐渡にいたのか・・・??いつ亡くなったのか・・・??
それは、わかっていません。
そんな不遇な晩年を送った世阿弥・・・しかし、最期まで理想とする花を、能を追い求め、伝えることを諦めませんでした。
その気持ちは、今も世界に誇る伝統芸能・能の中に生き続けています。

「命には終わりあり
 能には果てあるべからず」by世阿弥


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今から400年ほど前、大坂城で天下統一の総仕上げを目論む徳川家康と、豊臣秀吉の後継者・秀頼の間で一大決戦が行われました。
大坂の陣です。

天下をかけた男たちのその戦いの裏で、激しくも悲しい三人の戦国の女たちの運命が交錯していました。
浅井三姉妹・・・長女・淀の方こと茶々、次女・初、三女・お江です。
三姉妹の父は、北近江の戦国武将・浅井長政、母は織田信長の妹で戦国一の美女と言われたお市でした。
しかし、三女のお江が生れたその年・・・
1573年小谷城の戦いで、浅井家は伯父である信長の怒りにふれ、小谷城が落城・・・滅亡に追い込まれます。
その後、三姉妹はお市の再婚相手となった柴田勝家が治める越前に移るも・・・
1588年賤ケ岳の戦いで、勝家が羽柴秀吉に敗れ、居城・北庄城が落城・・・母のお市は、勝家と共に自害してしまいます。
三姉妹が次に庇護を受けることとなったのは、母を死に追いやった豊臣秀吉でした。
まさに、波乱の人生・・・中でも長女・茶々は、そのにっくき仇・秀吉の寵愛を一身に受ける側室となりました。

1614年11月、豊臣方が籠城する大坂城を、総勢20万の徳川軍が包囲しました。
大坂冬の陣の始まりです。
この時、大坂城には、長女・茶々と、徳川方との交渉役を務めていた初が・・・三女・お江は、徳川軍を指揮する二代将軍・秀忠の正室となっていたため、遠く江戸城にいました。
望まずして敵味方となった姉妹たち・・・そのきっかけとなったのが、あの豊臣秀吉でした。

長女・茶々が秀吉の側室になったのは、賤ケ岳の戦いで北庄城が落城したのち、秀吉のもとに身を寄せてから5年ほどたったころと言われています。
この時茶々は20歳前後・・・しかし、茶々にとって秀吉は、小谷城の戦いの際、織田方の先方を率い、父・浅井長政を自害に追い込み、賤ケ岳の戦いでは母・お市を自害に追い込んだにっくき親の仇です。
どうして茶々はそんな秀吉の側室になったのでしょうか?
何不自由ない暮らしの中で、秀吉への憎しみが薄らいでいき、側室になることを受け入れたのでは??と言われています。
さらに、母・お市に託された言葉・・・北庄城落城寸前・・・

「茶々、妹たちと生き延びで、浅井の血を残し、私の代わりに浅井家の菩提を弔うのです」

茶々は、父・浅井長政と母・お市の方の供養を行うことを第一に考えていました。
秀吉の側室になれば、両親の菩提を堂々と弔うことが出来ると考えたのです。
こうして、秀吉の側室となった茶々は、やがて淀の方と呼ばれるようになり、秀吉との間に跡継ぎとなる男子・秀頼を生むと、二人目の正室として存在感を高めていきました。
すると、淀の方は、それまで内に秘めていた思いを秀吉に伝えます。

「お願いがございます
 浅井の菩提寺を建てることをお許し願えないでしょうか?」

「好きにするがよい」

こうして秀吉の許しを得た淀の方は、1594年に京都に父・長政を供養する菩提寺・養源院を建立。
浅井家の菩提を弔うようにという母・お市との最後の約束を守ったのです。
その4年後の1598年、秀吉が病の床に臥します。
そして、嫡男・秀頼のことを、豊臣政権を支えていた五大老(徳川家康・前田利家・上杉景勝・宇喜田秀家・毛利輝元)に託し・・・この世を去るのです。
翌年、淀の方は、まだ8歳だった秀頼と共に淀城から大坂城西ノ丸に移ります。
そして、秀頼が成人するまでの後見人として、豊臣家の実権を握ることとなるのです。

次女・初は、18さいで近江の戦国武将・京極高次にのもとへ嫁ぎます。
京極家は名門でありながら、当時はその力を失っていました。
初との結婚で運が開けていきます。
京極高次は、小田原征伐などで出世し、近江国大津城・6万石を擁する大名となります。
初は、夫の出世を喜ぶとともに、夫婦力を合わせて興廃していた村と城を立て直すことに力を尽くしています。

三女・お江は・・・この時、3度目の結婚をしていました。
1度目は、12歳の若さで尾張大野城主・佐治一成・・・佐治が秀吉の怒りを買いすぐに離縁。
2度目は太閤秀吉の甥・羽柴秀勝・・・しかし、秀勝は秀吉の朝鮮出兵に参陣し、病死してしまいます。
この時、お江のお腹の中には秀勝の子がいました。
お江はやがて女の子・・・完子を産みますが、23歳の時秀吉から3度目の結婚を命じられます。
相手は、徳川家康の三男・秀忠でした。
この結婚のため、お江は娘を姉の淀の方に託します。
戦国の荒波に耐えてきた終いの絆が伺えます。

次女・初が嫁いだ近江の戦国武将・京極高次は、姉妹である竜子が秀吉の側室であったため、秀吉から全幅の信頼を寄せられていました。
ところが、秀吉亡き後天下を狙う徳川家康と石田三成の対立が表面化・・・
1600年7月、石田三成挙兵。
三成方の西軍についていた京極高次は、突然家康方の東軍に寝返ります。
これを知った西軍は、総勢1万5000もの軍勢で高次がいる大津城を包囲、一方籠城する京極軍は3000・・・!!
城内には高次の妻の初もいました。
西軍の総攻撃が始まると、瞬く間に三ノ丸、二ノ丸が落とされ、残すは本丸のみになってしまいました。
高次は、討死する覚悟を固め、西軍の猛攻にたえ続けました。
この状況を伝え聞いた淀の方は、

「このままでは初の命が危ない・・・」

淀の方は使者を送り、西軍に降伏するように高次を説得、姉の気持ちをうれしく思いながらも初は・・・

「我が身がどうなろうと、高次さまが決めたことに従います」

すでに、死を覚悟していました。
しかし、高次は結局、淀の方の説得を聞き入れ、城を明け渡すことを決断・・・
初は、淀の方の妹だったこともあり、命はすくわれたのです。
高次が降伏し、城を明け渡したのは9月15日早朝のことでした。
それは、奇しくも家康方の東軍が、三成方の西軍に関ケ原で勝利した日・・・。
この後、高次は関ケ原の戦いに参戦していないにもかかわらず、家康から褒美として若狭一国、8万5000石を拝領することになります。

1万5000という大軍を、近江にくぎ付けにして関ケ原に向かわせなかったこと・・・
関ケ原の戦いは、どちらに転ぶかわからない接戦でした。
しかも、1万5000のうちほとんどが、立花宗茂・筑紫広門などの九州精鋭部隊でした。
その大軍を引き付けたことが、高次の功績で、家康が評価したのです。

高次が家康から信頼を得たことで、妻である初は後に大坂の陣で大きな役割を果たすことになるのですが・・・それは14年後のこと。

三女・お江・・・徳川家康の三男・秀忠の正室となっていたお江は、秀忠との間に千姫をはじめ4人の姫を授かり、江戸城でおだやかに過ごしていました。
そんな中、1603年5月・・・お江は、長女・千姫を伴い京都・伏見城に入ります。
千姫を豊臣家の跡取り・秀頼のもとに輿入れさせるためです。
この縁組は、淀の方とお江の間でようやく実現したものでした。
そこには二人の願いが込められていました。
秀頼と千姫の縁組は、亡き秀吉が家康に託した遺言でした。
その裏には、徳川が臣下にある証として千姫を人質にすると言う狙いもありました。
しかし、関ケ原の戦いによって豊臣家の状況は一変・・・領地を減らされ、実質的な政権は徳川に移っていたのです。
家康は、ならばみすみす孫娘である千姫を人質にする必要はないと考えていました。
そのため、縁組は進まず・・・しかも、豊臣と徳川の関係はますます悪化・・・
そこで動いたのが、お江と淀の方でした。
2人は千姫が秀頼に嫁ぐことで、再び豊臣と徳川の関係を強めようとしたのです。
どうして家康はそれを認めたのでしょうか?
家康はこの年・・・1603年2月に征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開きましたが、この頃の家康はまだ淀の方に対して気を遣い、刺激しないようにしていました。
秀頼と千姫の縁組を認めたのは、家康を警戒する淀の方への懐柔策でした。

7月・・・千姫は秀頼のいる大坂城に船で向かい輿入れすることになります。
この時、秀頼11歳、千姫7歳でした。
こうして豊臣と徳川の関係修復に骨を折った二人でしたが、そんな2人の想いを家康が踏みにじるのです。
1605年、家康は息子・秀忠に将軍職を譲ります。
淀の方にとって想定外のことでした。
徳川の将軍職は、家康一代限りのもので、秀頼が成人したら政権は豊臣家に帰ると考えていたからです。
しかし、家康が自分の息子に将軍職を譲ったということは、政権を豊臣に返す気がないということ・・・
怒りに打ち震える淀の方のもとに、さらにこんな話が伝わります。

新将軍へのあいさつに秀頼が上洛する・・・??

秀頼が上洛すれば、豊臣が徳川の臣下に下ったことを認めることとなります。
豊臣家を守る淀の方にはとうてい受け入れがたいことでした。
淀の方の猛反対を知り、この時は家康が諦め事なきを得ます。
まさに、命を懸け家康と真っ向対峙する淀の方・・・豊臣の威信を取り戻すために力を尽くしていました。
朝廷に働きかけ、徳川秀忠が将軍に任じられる4日前・・・
1605年4月13日に秀頼を右大臣に昇進させます。
右大臣は、左大臣に次ぐ朝廷で実質的No,2の官職です。
秀忠の征夷大将軍よりも上だったため、豊臣家の復権を目指す淀の方は、ホッと胸をなでおろしたことでしょう。

この頃、お江は秀忠との間に長男・竹千代を出産。
その後、次男・国松、五女・和子をもうけるなど、2男5女に恵まれます。

そして初は・・・40歳の時、夫・京極高次を亡くします。
夫の死後、初は落飾し仏門に入り、常高院と号しました。
それぞれの運命の中で懸命に生きる浅井三姉妹・・・しかし、時代は三姉妹を激流の中へと投げ込むのです。

1614年、豊臣家ゆかりの方広寺で新たに造った鐘の銘文が波乱を巻き起こします。
世に言う方広寺鐘銘事件です。
問題となったのは、鐘に刻まれた中の国家安康という文字・・・徳川家は、家康の名を二つに分断する不吉な文字であると言いがかりをつけ、事態を治めたいならば、秀頼が大坂城を出て国替えに応じよといってきたのです。
この徳川の横暴ぶりに激怒した豊臣側は、兵を募り決戦の準備を始めます。
しかし、これこそが家康の願いでした。
1614年10月・・・豊臣家を武力討伐する口実を得た家康は、諸大名に大坂への出陣を命じるのです。
迫りくる家康の脅威に対し、淀の方はかつて秀吉の恩を受けた大名たちに手紙を送ります。
秀頼が家康と戦うといえば、大名たちは立ち上がり、共に戦ってくれる!!と信じていたのです。
ところが、生前秀吉が最も頼りにしていた加賀・前田家は返事もよこさず、秀吉が可愛がっていた安芸・福島正則は話すことはないと、使者を追い返したのです。
結局、大坂城に集まったのは、関ケ原の戦いの後、世にあふれていた浪人たち・・・忠義心からではなく、皆、単なる恩賞目当てでした。
こうして、大坂冬の陣は始まったのです。

1614年11月、身を着るような寒さの中、総勢20万の徳川の軍勢が大坂城を包囲、対する豊臣方は9万でした。
しかし、豊臣方が籠城する大坂城は、およそ2キロ四方の広大な惣堀の中に、三ノ丸・二ノ丸・本丸が置かれ、それぞれの間に堀がめぐらされた三重構造・・・戦を知り尽くした豊臣秀吉の難攻不落の城でした。
なので、徳川方の猛攻にも耐え抜きます。
淀の方も奮戦します。
大坂の陣について記した資料によれば、
”お袋様は女ながらに武具をつけ、城内を見回り、浪人たちを叱咤激励している”
一方、すぐに決着がつくだろうと考えていた家康は、いら立っていました。
そこで徳川方が放ったのは、ヨーロッパの最新式の大砲・・・大阪城本丸に撃ち放たれたその砲弾は、淀の方の櫓に命中!!
傍にいた数人の女房が命を落としました。
これにはさすがの淀の方も怖気づき、まだ戦おうと躍起になっていた秀頼に停戦を進言します。
こうして、和睦を結ぶための交渉が行われることになります。
豊臣方の代表として交渉に選ばれたのは常高院と号していた初でした。

どうして常高院が選ばれたのでしょうか?
関ケ原の戦いの前哨戦・大津城の戦い以降、京極家は家康から高く評価されていました。
京極高次の正室ということで家康から信頼されていたのです。
さらに、常高院が選ばれた理由としては、豊臣方と徳川方に姉妹がいたということが挙げられます。
そしてもう一つは、すでに彼女が出家していたということが挙げられます。
戦国時代、和平交渉の使者には出家して俗世と無縁である僧侶がよくたてられました。
そのために、出家していた常高院はうってつけだったのです。

徳川方は、家康の側室・阿茶局でした。
阿茶局は、側室といっても家康に最も信頼されていました。
女性が戦の和平交渉の場に立つのは極めて珍しいものでした。

1614年12月18日、和睦交渉は、徳川方の京極忠高の陣地で行われました。
豊臣方の代表は、常高院と淀の方の乳母である大蔵卿局、対する徳川方は阿茶局と本田正純。

「淀の方は秀頼さまのお命に差しさわりがないのであれば、和睦について考えても良いと申しております」by常高院

「秀頼さまのこと承知いたしました
 和睦が成立した場合、秀頼さまが大坂に住みたいのであればそのままに、
 他の土地に移りたいのであればそのようにしていただいて結構です」by阿茶局

「和睦するのであれば、大坂城の惣堀を埋めるというのが条件ですな」by本田正純

「惣堀を埋めると・・・わかりました
 それも伝えましょう」by常高院

こうして、交渉を終えた常高院は、淀の方がいる大坂城に戻り、徳川方から提示された条件を伝えます。

「秀頼さまのお命と豊臣の領地は安堵するとのことです」by常高院
 
「まことですか?それは良かった」by淀の方

「ただ・・・城の惣堀を埋めるのが和睦の条件との事
 いかがいたしましょう?」by常高院

「惣堀を埋めるとな・・・よいでしょう
 長い惣堀を埋めるには数年はかかるでしょうから、その間に家康が亡くなるかもしれぬ
 あの古狸がいない徳川など、恐るるに足らずじゃ」by淀の方

当時、すでに70歳を超えていた家康の老い先は短い・・・それまで時間を稼げれば、状況が変わる・・・と淀の方は考えていました。
こうして和睦が成立。
その翌日から、徳川が総動員であっという間に惣堀を埋めてしまい、続いて三ノ丸、二ノ丸の堀まで勝手に埋め始めたのです。
豊臣家の重臣たちは、徳川方に抗議しましたがあとの祭り・・・
惣堀、三の丸の堀、更には二ノ丸の堀の一部まで埋め立てられ、大坂城は本丸を残すのみとなってしまいました。

秀頼と千姫の間には子供はいませんでしたが、秀頼は側室との間に国松という男の子を設けていました。
淀の方はこれを憚り、徳川に悟られないように極秘に妹である常高院に預けていたようです。
大坂城での和睦交渉の際、国松を常高院の長持ちの中に入れ荷物と偽って大坂城内に運び込んだといわれています。
和睦が成立したので、そのまま国松は淀の方と同じ部屋で過ごしたといわれています。
この時、国松まだ7歳だったそう・・・
和平に尽力した常高院も、またそのまま大坂城にとどまりました。
しかし、徳川と豊臣の間に訪れた平穏な時間は、つかの間のことだったのです。

大坂冬の陣の和睦が成ってから3か月・・・
京の都にこんな噂が・・・
「豊臣の兵が埋められた堀を戻し、再び戦の準備をしているらしい」
実は、大坂城には依然、浪人を含む5万の兵が残っていたので、まだ戦うのだと要らぬ噂が立ちました。
家康は、豊臣方に釈明を求めました。
この時、豊臣方の使者として常高院が二条城にいた家康と会います。
すると家康は・・・
「本当に戦う気がないのなら、秀頼殿が国替えに応じるか、浪人たちを追放するかどちらかを選ばれよ!!」
どちらの条件も、豊臣方が飲めないことは承知の上・・・
これは、家康の事実上の宣戦布告でした。

常高院は、家康の要求を伝えるために大坂城に戻りますが、豊臣方の総大将・秀頼は家康の要求など聞かぬと常高院と会うことを拒絶!!

なんとか戦を避けようと常高院はすがりますが、その思い空しく、豊臣と徳川は観戦に決裂!!
こうして1615年、大坂夏の陣が勃発!!
豊臣方の武将たちは、場外に出て奮戦するも、翌日には本丸に退却・・・
陥落は時間の問題となりました。
常高院は、姉である淀の方を説得します。

「私は母上のように誇り高い死を選ぶつもりです」by淀の方

固い決意を知った常高院は、姉に最後の別れを告げると大坂城を脱出するのです。
この時、徳川方として京極忠高が城の外に布陣していました。
そのためいつまでも自分が城の中にとどまっていれば、京極家の将来に差しさわりがあると、止む無く脱出したのです。
城に残った淀の方は、秀頼と千姫と共に、糒櫓に立てこもると、最後の賭けに出ます。
妹・お江の娘・千姫に、家康と秀忠に助命嘆願を託すのです。
千姫は大坂城を出て、家康と秀忠の本陣に向かいますが、千姫からの返事が来ることはありませんでした。
もはやこれまでと覚悟を決めた淀の方は、糒櫓に火をかけさせ、その業火の中秀頼と共に自刃・・・
秀頼23歳、淀の方47歳でした。
秀頼の子・国松は、大坂城外に逃れたものの、徳川方に捕まり、まだ8歳だったにも関わらず、市中引き回しの上斬首・・・ここに豊臣家は滅亡しました。

一方、大坂城を脱出した常高院は、家康のもとに連れていかれることとなり、侍女たちにこう言いました。

「たとえ女の身であっても、我々は大坂城中におった者・・・
 どのような沙汰があるかわからないので覚悟するように」

しかし、おとがめはありませんでした。
その後、常高院は、妹・お江のいる江戸城に移り、久々の再会を果たします。
しかし、最後まで戦い自害した姉を思うと手放しで喜ぶことなどできず・・・
豊臣家を滅ぼした徳川家の一員であるお江も、

「姉上は私を恨んでいるのではないか」

と、憂い、その後の供養を欠かしませんでした。

1年後、お江は姉・淀の方が建立した浅井家の菩提寺・養源院で大坂夏の陣の戦没者供養の法要を行いました。
そして時は過ぎ・・・大坂夏の陣の終結から8年・・・お江の産んだ家光が、三代将軍となりました。
さらに、娘の和子が後水尾天皇に嫁ぎ、興子内親王を設けます。
後の女帝・明正天皇です。
これによって、織田家、浅井家の血が幕府と朝廷・・・両方に受け継がれたことになりました。
浅井の血を絶やさぬように・・・その言い残し死んでいった母・お市の願いを、娘たちはともに助けあい、見えない絆で結ばれながら見事叶えたのです。

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常識にとらわれない大胆な発想で、戦国の世に君臨した革命児・織田信長・・・その破天荒な人生を陰で支えた女性たちがいました。
その一人が、下剋上で大名となった斎藤道三の娘として生まれ、信長の正室となった濃姫です。
信長には、正室と8人の側室がいたといわれています。
濃姫は、信長をどう支え、どう生きたのでしょうか?

1535年、濃姫は美濃国で生まれたと伝わっています。
父は、美濃の蝮と恐れられた斎藤道三・・・母は、美濃の名門・明智家の出身で道三の正室だった小見の方といわれています。
濃姫の本名はわかっていませんが、帰蝶と名付けられたともいわれています。
その名の通り、美しく育った娘は、信長に嫁ぐことになるのですが・・・
どうして、信長に嫁ぐことになったのでしょうか?

濃姫にとって信長は、二度目の結婚相手でした。
最初の夫は土岐頼純・・・土岐家は美濃を治めてきた守護大名です。
濃姫の父・道三は、一説には油売りの商人から調略を重ね、仕えていた主人を裏切ることで武将になりあがったとされる人物です。
そうして土岐家の重臣にまで上り詰め、稲葉山城を手に入れたのです。
さらに、守護職を務めていた土岐頼芸を美濃から追い出すことに成功し、実質的な美濃の支配者となりました。
そして、1546年、頼芸の甥である土岐頼純が新たに守護職に就くと、娘の濃姫を頼純に嫁がせ、自らの立場を盤石なものにしようとしたのです。
この時、濃姫13歳、最初の政略結婚でした。
ところが・・・結婚の翌年・・・夫・頼純が24歳の若さで病により亡くなってしまいました。
濃姫は、道三の元へと戻ります。

その矢先・・・道三にピンチが・・・!!
越前の朝倉家と尾張の織田家が南北から美濃に侵攻してきました。
道三は、両軍相手に戦うことは難しいと判断・・・織田家と和睦することに決めました。
そして、その証として、濃姫を織田家の嫡男・信長に嫁がせることにしたのです。
しかし・・・この頃の信長は、派手な湯帷子をまとい、髪を茶筅髷にし、人目もはばからず闊歩するという・・・相次ぐ奇行に”大うつけ”と、家臣や一族たちから疎まれていました。
そんな信長と濃姫の縁組をどうしても実現させたかったのが、信長の傅役・平手政秀でした。
信長は、母・土田御前に嫌われていました。
織田家の後継者として家中で疑問を持たれていたので、平手は信長に家を継がせるためには、斎藤道三という後ろ盾を借りようと縁組を勧めたのです。

織田家と和睦したい父・道三の思惑と、道三を信長の後ろ盾にしたい平手政秀の思惑が重なり、濃姫は織田家に嫁ぐこととなりました。
二度目となる濃姫の政略結婚・・・
嫁ぐ前に、濃姫は父・道三から一本の懐刀を渡され、こう告げられます。

「信長が本当のうつけものだったら、この刀で刺し殺せ」by道三
「わかっておりまする
 でも、もしかしたら、この刀は父上を刺す刀になるやもしれませぬ」by濃姫
「よく申した。それでこそ我が娘よ・・・!!」by道三

隙あらば、尾張を乗っ取ろうと思っていた道三の狙いを理解しながらも、信長が有利と見るや父を裏切るかも・・・
濃姫はまさに、蝮の道三の娘でした。

1549年、濃姫は、尾張の織田家へと嫁ぎます。
濃姫15歳、信長16歳でした。
最初に濃姫と呼んだのは、信長だったといいます。
美濃から来た姫・・・という意味です。

濃姫は、うつけものと呼ばれた夫・信長の奇行に悩まされます。
1552年、信長の父・織田信秀が死去。
その葬儀の際、信長は、遅刻してきたばかりか、いつものように茶筅髷で袴もつけず、そしてずかずかと霊前に向かうと抹香をつかみ、父・信秀の位牌に投げつけたのです。
父とは確執があったといわれる信長ですが、それは憎しみだったのか?それとも悲しみだったのか・・・??
しかし、この奇行によって、信長はまたもや評判を落とします。

夫・織田信長のうつけぶりに悩まされる濃姫に、また悩みが・・・。
今度は、信長が夜な夜な出ていき、明け方戻るようになったのです。
不審に思った濃姫は・・・

「上様が、夜ごと出掛けるのは、どこか別のおなごのところへ通っているからなのでしょうか?」

「なに・・・そのようなことではない。
 実は、美濃の家老で、わしに内通する者がおるのじゃ
 そやつに、舅の道三を殺したら、狼煙をあげよと言ってあっての
 毎夜、その狼煙が上がってないか、見に行っておるのじゃ
 狼煙が上がれば、美濃に攻め込む!!」

これを聞いた濃姫は、父・斎藤道三に密書を送り、危険を知らせました。
知らせを聞いた道三は、すぐさま信長と通じているという家老たちを見つけ、切り殺すのです。
しかし、実はこれは信長の策略で、濃姫が美濃側のスパイとして必ず情報を伝えると見抜いていた信長は、それを逆手に取り、嘘の情報を濃姫に伝え、美濃の内紛を画策したというのです。
この逸話の真相とは・・・??

他家に嫁いだ姫が、折に触れて嫁ぎ先の様子を実家に報告することはよくありました。
が・・・これは創作??
その理由は、この時期の信長の居城が那古野城なので、那古野城から稲葉山城の狼煙は見ることが出来ないことがあげられます。
もう一つは、この時点で斎藤道三の家老が殺された事実がないことが挙げられます。
もちろん、道三と信長が対立する理由もありませんでした。

道三と信長は、強い信頼関係を築いていました。
きっかけとなったのは、濃姫が信長に嫁いだ4年後・・・1553年。
道三は、信長が本当にうつけものかどうか知るために、直接会って確かめることにしました。
会見の場所となったのは、美濃と尾張の国境の寺院・・・
しかし、道三は、会見の前に信長を見定めようと道沿いの小屋に潜んで信長を待っていました。
やがて行列を率いてやってきた信長は、相変らずの茶筅髷・派手な衣装・奇抜な虎皮の袴をつけていました。

「噂通りのうつけよな・・・
 これなら、尾張を我が物にする日も近いのぉ」by道三

ところが、会見の場所で相対した信長は、いつの間にか髪を結い直し、正装に着替えていたのです。
道三は、このたった一回の会見で、信長が只物ではないと見抜きました。
美濃を手に入れるためには手段を選ばなかった道三と、うつけといわれても自らのスタイルを崩さなかった信長・・・2人とも、当時としては常識外れでした。
既成の秩序を壊し、新しいものを作り上げる改革者・・・似た者同士の2人が認め合うのは必然のことでした。
たがいに持つたぎる野心を感じながら、認め合った道三と信長・・・

そんな二人の強い信頼関係が分かる事件が起こります。
1554年、駿河の今川義元が尾張に侵攻・・・緒川城の近くに村木砦を築きます。
しかし、村木砦の攻略に兵を出せば、信長の居城・那古野城ががら空きになってしまう!!
困った信長は、美濃の戦国大名となっていた濃姫の父・道三に援軍を頼みました。
すると、道三はすぐに尾張に1000の兵を派遣!!
信長の居城・那古野城の傍に陣取ると、防備を固めたのです。
戦国時代・・・本拠地を他国の者に守らせるというのは異例のことでした。
道三と信長の関係が、濃姫を通じて固く結ばれていたことを示しています。

これにより、背後を固めた信長は、熱田から海を渡り緒川城に入城。
当時としてはまだ珍しかった鉄砲を用いて砦を攻略し、今川方を降伏させることに成功しました。
この後、道三は家督を嫡男・義龍に譲り出家します。
そして、鷺山城で余生をゆっくりと始めようとしたのですが・・・
その矢先、義龍が実の弟たちを殺害するという暴挙にでたのです。
道三に可愛がられていた弟たちが、自分にとって代わるのではないか?と、恐れたためでした。
これに激怒した道三は挙兵、鶴山付近に陣を置き、息子・義龍と相対します。
しかし、美濃を強引に乗っ取った道三に、不満を抱えていた家臣団が義龍を支持。
義龍軍1万2000に対し道三軍は2000・・・の兵しか集まりませんでした。

道三は、死を覚悟したのか、書状を書き残します。

「もし、わしが死んだら、濃姫の婿・信長へ美濃一国を譲る」

道三の危機を知った信長は、すぐに挙兵します。
信長は美濃の大良河原まで進軍しましたが、義龍軍に行く手を阻まれてしまいました。
そのため、道三は劣勢を跳ね返すことが出来ず、首を落とされ、この世を去ったのです。
父・道三の非業の死を知った濃姫は、悲しみにくれました。
百ヵ日法要の際には道三の肖像画を描かせ、美濃にある斉藤家の菩提寺に寄進したといわれています。

そんな道三の死から4年・・・
1560年、27歳となった信長は、桶狭間の戦いで駿河の今川義元を討ち取り、三河の徳川家康と同盟を結んで背後を万全にすると、いよいよ美濃攻めに乗り出します。
この時美濃は、斉藤義龍の病死によって、息子の龍興が治めていました。
信長は、まず斉藤家の重臣たちの一部を、調略によって味方につけると、1567年、稲葉山城を攻め落とし、念願の美濃を手に入れたのです。
稲葉山城に入った信長は、城の名を岐阜城に改め、ここを天下取りの拠点とします。

岐阜城の麓で、2008年、瓦の破片が見つかりました。
表面に緊迫が施された直径28センチもある飾り瓦でした。
そんな豪華な瓦を用いた建物とは・・・??
ルイス・フロイスの「日本史」によると・・・
”庭園を見た後、信長の妻・濃姫の金で彩られた部屋を見た”と書かれています。
贅を尽くした信長らしい豪華なものだったようです。
普段はこのような屋敷に住んでいた妻も、一旦戦乱となると妻たちも天守に籠り戦いました。
その妻たちの役目とは・・・??

信長の出陣中、濃姫は夫の無事を神仏に祈ります。
しかし、それだけではありません。
合戦で夫たちが城を出ていくと、当然夫が城でやっていた仕事をしなければなりません。
その一つが火の用心です。
女性たちが集まり、台所と中居は火事の火元になりやすいところでした。
また、籠城戦になると、男たちと共に鉄砲玉の製造を行いました。
さらに、女性たちが任されたのが、首化粧・・・。
天守に集められた敵将の首を、水で洗い、その首に誰々が誰々を討ち取ったと記した札をつけていきます。
これは後に褒美を与える論功行賞の際に、誰の手柄化をハッキリさせるためでした。
この時、その首にお歯黒を塗ったといいます。
戦国時代後期になると、戦は熾烈を極め、女子供を含め城中皆殺しとする例が増えていきます。
そうなれば、自ら身を守らねばならず、日ごろから長刀などの訓練を行っていました。
戦国の女性たちは、常に嫁いだ家と運命を共にする覚悟をもって、生きていたのです。

信長と正室・濃姫の間には子供はおらず・・・
そこで信長は、側室を持つことにします。
生涯8人の側室がいたといわれますが、信長から最も寵愛を受けたのが、生駒吉乃でした。
吉乃は、1528年、尾張国・生駒家の娘に生れます。
成長した吉乃は、一説には信長の母の甥の弥平次と結婚、しかし、29歳の時、夫が戦死してしまったのです。
未亡人となり実家に戻っていた吉乃を見初めたのが信長でした。
信長より6歳年下の吉乃は色白で、優しく、控えめな性格だったといいます。
側室となった翌年、1557年に、信忠を出産。
この時信長は、子ができない濃姫をはばかり、城の外でひっそりと産ませたといいます。
信長の寵愛を受けた吉乃は、信雄、徳姫を設けますが、産後の肥立ちが悪く、床に臥せってしまいます。
これを知った信長は、生駒家にこう命じます。

「吉乃を新しい城の御台所として御殿に移すように」

信長は、吉乃を完成したばかりの小牧山城の奥を取り仕切る御台所・・・正室の待遇を与えることにしたのです。
病を押し、なんとか小牧山城に移った吉乃・・・
御台所となってわずか2年・・・1565年、死去・・・39歳でした。

1576年信忠が織田家の家督を譲られ、岐阜城主となります。

織田信長と交流のあった公家・山科言継の「言継日記」によると・・・
信長の美濃攻略から2年後の逸話が記されています。

1569年、信長は斎藤道三の息子・義龍の未亡人に所持する銘品の壺を差し出すように命じました。
すると義龍の未亡人は・・・??

「戦乱のさ中、壺は紛失してしまいました。
 それでもなお差し出せとおっしゃるなら、もはや、自害して果てるしかありません。」

これを知った信長の本妻と呼ばれる女性が擁護します。

「もし、義龍の妻を自害させるのなら、わたくしも自害いたします。」

さらに、斉藤家の重臣たちもこれに繋がり抵抗。
大事件に発展してしまいました。
流石の信長も、本妻の意見を聞き入れて、未亡人の意見を聞き入れたといいます。
この日記に書かれている”信長本妻”とは・・・??
義龍は、濃姫にとっては母違いの兄・・・この時期、織田家のなかで義龍の未亡人をかばうことが出来たのは、濃姫以外にはいません。
つまり、信長が美濃を手に入れた2年後の1569年までは、濃姫は存命で、信長の正室のままだったと思われます。

織田信長の配下には、美濃出身の武将が多く仕えていました。
明智光秀もその一人です。
濃姫の母・小見の方は光秀の叔母に当たり、濃姫と光秀は従兄妹同士だったといわれています。
こうした縁もあってか、光秀は信長に気に入られ様々な任務を任されるようになり、信長の躍進に貢献しました。
しかし・・・1582年6月2日・・・
光秀が京都本能寺に滞在していた信長を襲撃・・・信長は49歳で命を落としました。
信長の家臣・太田牛一の「安土日記(信長公記)」によると、本能寺の変の際、信長が

「女どもは苦しからず 急ぎ罷りいでよ」

そういって女性たちを逃がしたといわれています。
このことから、本能寺には信長の世話をしていた女性たちがおり、その中には濃姫もいて、本能寺で信長と戦い亡くなったといわれています。
岐阜市にある”濃姫遺髪塚”・・・本能寺の変で亡くなった濃姫の遺髪を家臣が持ち帰り、この地に埋めたといわれています。
では、濃姫が本能寺で死んだというのは本当なのでしょうか?

戦国時代の女性が戦場で男並みの働きをした者もいます。
しかし、濃姫の場合は、資料的な裏付けがなく、後世の創作だと思われます。
後世の人々は、濃姫に勇敢な女性像をあてはめたかったのでは・・・??と思われます。

濃姫が本能寺の変で亡くなっていないならば、いつまで生きていたのでしょうか?
それを知る手がかりの一つが信長の家臣・蒲生氏郷の「氏郷記」です。
そこには本能寺の変の際、御台所を安土城から近江の日野谷へ避難させたとあります。
安土の摠見寺にあるとされる織田家の過去帳には、信長の正室が1612年に78歳で亡くなったと記されています。
これが事実ならば、濃姫は本能寺の変の後、30年ほども長生きしたということになります。
しかし・・・御台所としか書かれていないので、濃姫であるという確証はありません。

濃姫は、1573年には亡くなっていたと思われています。
その根拠となるのが、濃姫の実家である斎藤家とゆかりの深い、快川紹喜の「快川和尚法語」です。
そこには、濃姫とみられる女性(雪渓宗梅大禅定尼=濃姫)が側室・吉乃の死から8年後の1573年に亡くなったと記されているのです。
つまり、本能寺の変の9年前に、濃姫はすでに亡くなっていた・・・
では、本能寺の変の際に登場する御台所とは・・・??お鍋の方であった可能性が高いと思われます。
信長の葬儀の際に、秀吉から信長の位牌を受け取ったのもお鍋の方と言われています。
岐阜の崇福寺には、信長の位牌場をこの場所にするようにという指示を出したお鍋の方の書状が残されています。
これらのことから、正室・濃姫が亡くなった後、お鍋の方が織田家を取り仕切る御台所となっていたことが推測されます。

戦国の乱世、蝮の道三の娘として生まれ、織田信長に嫁いだ濃姫・・・
夫の最期をみとることはできなかったかもしれません。
しかし、若き信長が天下人へと駆け上がっていく、最も大切な時期を身近で支えた女性であったことは確かなのです。

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「新説 本能寺の変 明智光秀 帰蝶の物語」

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天正10年6月2日早朝・京都・・・
戦国の歴史を大きく変えた本能寺の変が起こりました。
天下取りを目前にしていた織田信長が、家臣・明智光秀の謀反にあい自害したのです。
そんな主君の敵を討ったのは、ご存知豊臣秀吉!!
しかし、神業ともいわれる中国大返しには、今なお多くの謎が・・・!!

織田信長の死を一番早く知ったのは、京都に近い大坂で四国攻めの戦の準備中だった織田信孝と丹羽永時ででした。
本能寺の変が起こったその日に信長の死を伝え聞いていました。
にも関わらず、京都に向かわなかったのは何故なのか・・・?
この時、織田信孝、丹羽長秀は、箝口令を敷かなかったので、兵士たちがパニックを起こしました。
信長の死を知った兵士たちがパニックを起こして逃げ出したのです。
2人は、仇討に向かうところではなくて、守りを固めるのが精いっぱいだったのです。

柴田勝家は、京都からおよそ300キロ離れた越後で上杉攻めを行っていました。
勝家が信長の死を知ったのは6月5日から7日の間です。
勝家はすぐに北ノ庄城に戻り、明智光秀討伐の準備を始めますが、出陣できずにいました。
京都の戻る際に、上杉軍に追撃される恐れがあったためです。
明智光秀は、上杉景勝に本能寺の変の計画を事前に伝えていたともいわれています。
信長が死ねば、勝家は戦どころではなくなるとわかっていたのか、上杉軍が追撃の体勢を整えていたため、勝家は動けずにいました。

北条氏が治める関東をほぼ制圧しつつあった滝川一益が、本能寺の変を知ったのは、6月7日から9日の間です。
しかし、時を同じくして北条氏も信長が死んだという情報を入手、反撃してきたのです。
そのため一益は、京都に敵討ちに行くことが出来ませんでした。

中国地方を制圧するため毛利方の備中高松城を攻めていた羽柴秀吉は・・・??
信長の死を知ったのは、本能寺の変の翌日、6月3日の夜でした。
京都から200キロも離れた場所で、どうしてそんなに早く知ることが出来たのでしょうか?
本能寺の変が起こることを知っていたのでは??とも言われていますが、それはないでしょう。
明智光秀はこの時、織田信長を討ったから和平交渉に応じるなという内容の密書を毛利に送っていました。
その密書を持った使いの物が、秀吉の陣営に迷い込み、捕らえられてしまったのです。
つまり、毛利より、秀吉の方に情報が早くっ伝わってしまったのです。
この時秀吉は、毛利方の清水宗治の居城・備中高松城を水攻めにし、落城寸前にまで追い込んでいました。
作戦は、城の周りに全長3キロ、高さ7キロの堤を築きました。
その中に、近くの川の水を引き入れ、城を水没してしまおうというものです。
さらに、城を完全に孤立させるために、周辺の警備も厳重に警備します。
すると、光秀が毛利方に送った密使が祖の警備網に引っかかってしまったのです。
城攻めの秘策のおかげで思いもよらず、信長の死を早く知った秀吉ですが、草履取りから取り立ててくれた信長を父のように慕っていた秀吉は、我も忘れて只々泣くばかり・・・
そんな秀吉の目を覚まさせたのは、軍師官兵衛の一言でした。

「これは天の御加護・・・天下取りの好機でございます」

その言葉で冷静さを取り戻した秀吉は、主君の敵・明智光秀を討ち、天下を取るという野望を滾らせるのです。
そして、すぐさま箝口令を敷きます。
事件を知った一部の家臣たちに口止めをし、信長の死は極秘事項に・・・
当然、毛利方にも情報が漏れないように密使を斬ったうえで、備前から備中への道を封鎖しました。
そして、交渉がまとまりかけていた毛利との和睦を急ぎます。
信長の死を知ったその夜、毛利方の交渉人・安国寺恵瓊を呼び出し、それまでの条件を緩める旨を伝えます。

①備中・美作・伯耆の三国の割譲を求めていましたが、割譲するのは美作、備中・伯耆は領土折半と譲歩
②備中高松城主・清水宗治が切腹すれば、城に籠っている5000人の兵士たちの命は保証

暗礁に乗り上げていた講和、秀吉からの譲歩で毛利側は喜んで応じてきました。
清水宗治の死もやむなし!!
こうして、毛利との講和が実現!!
秀吉が信長の死を知ってから数時間後のことでした。

その日のうちに、水上の船の上で、備中高松城主・清水宗治自刃。
その見事な最期に秀吉は”武士の鑑”と褒め称えたといいます。
しかし、その直後・・・秀吉のウソがばれ、毛利側が信長の死を知ってしまいました。
秀吉が恐れたのは、毛利方の追撃でした。
この時、毛利方の吉川元春・小早川隆景が、1万5000の兵を引き連れて援軍に向かっていました。

「信長が死んだ以上、講和など破棄して秀吉を討つべきだ」by吉川元春

しかし・・・
「誓いの書の墨が乾かぬうちに、講和を破棄するわけにはいかぬ」by小早川隆景

結局、小早川の主張が通り、軍勢は秀吉を追撃することはありませんでした。
さらに、毛利軍が追撃しなかった理由には・・・
和睦の1か月ほど前の事、毛利輝元が家臣に宛てた書状には・・・
「こちらは鉄砲は言うに及ばず、弾薬も底をついている」
武器弾薬を使い果たしていたのでは、追撃などできません。
ところが、これも秀吉の策によるものでした。

秀吉は、瀬戸内海を支配する村上水軍を調略していました。
つまり、毛利の補給路を断っていたのです。
もともと村上水軍は毛利方の水軍で、因島、来島、能島の三家に分かれていました。
そのうちの来島村上家は、既に毛利を裏切り信長側についていましたが、秀吉はこの時、能島村上家を調略・・・手中に収めていたのです。

6月5日、吉川元春と小早川隆景の軍勢は撤退を開始、それを見届けた秀吉は、翌6日、2万の軍勢を率い京都へ・・・8日間、200キロの怒涛の行軍が始まりました。
秀吉の神業ともいわれる中国大返しが始まりました。

1日目・6月6日午後2時・・・
備中高松城を後にした秀吉軍は西国街道を通り、22キロ離れた沼城へ。
西国街道は、援軍として来るはずだった信長のために、秀吉が事前に整備していたため行軍は比較的楽でした。
向かう備前・沼城は、秀吉の家臣・宇喜多直家の居城・・・待ち受けていた宇喜多もまた抜かりなく。
秀吉たちが夜でも移動しやすいように、街道沿いに松明をたき、城についたときにすぐに食事ができる用に整えておきました。
こうして順調なスタートを切った秀吉軍でしたが、この先が大変でした。

2日目・6月7日早朝
沼城で仮眠をとった一行は、翌朝早くに出発します。
向かうは、およそ70キロ先にある姫路城です。
その途中には、西国街道最大の難所・船坂峠が待ち受けていました。
谷が深く、道幅が4メートルに満たないところもあり、2万もの軍勢が重装備でしかも、多くの武器弾薬、食料を運びながら超えるのは、かなりの困難を極めました。
さらに、姫路城の行軍では、暴風雨に見舞われてしまいます。
道筋の川も増水し、農民を雇って人間の鎖を作らせ、その肩にすがって川を渡らせたといいます。
姫路城に着いたのは、翌日8日の早朝・・・24時間で70キロの行軍でした。
鎧などの装備の重さは30~50kg・・・本当にそんなことが出来たのでしょうか?

秀吉は、兵士の負担を少しでも軽くするため、ある策を講じていました。
海路を利用したのでは??という説があります。
秀吉は、村上水軍を味方につけていました。
騎馬隊・足軽隊は、陸路を駆け抜けたと思われますが、物資を運ぶ輜重部隊(小荷駄隊)は海路を使ったといわれています。
言い伝えによると、牛窓からから佐古志、あるいは片上津から赤穂御崎まで海路で行ったという資料が残っています。
重い武具や物資を船で運ぶことで、兵士たちを身軽にし、大軍勢のスピードを上げた秀吉・・・。
さらに、近年中国大返し成功の謎を解く新しい説が浮上しています。
注目されたのは、秀吉が書いた一通の手紙でした。
本能寺の変を知った織田家家臣・中川清秀への返書です。
問題は日付と内容・・・
秀吉は、6月5日に野殿まで来ていると書いています。
野殿とは、備中高松城から7キロの場所・・・
これが正しければ、出発日の定説が覆されることに・・・!!
6日出発という通説は、小瀬甫庵が書いた「太閤記」という豊臣秀吉の生涯を綴った伝記によるものです。
しかし、太閤記の内容は誇張表現では・・・??と考える人もいました。
近年、中川清秀宛ての書状が注目され、5日に野殿まで退却し、沼城へ向かったのでは・・・??という新説が出てきています。
毛利の追撃の可能性はゼロではない・・・天晴な秀吉です。
この6月5日出発説は、本隊は備中高松城に残り、秀吉と何人かは野殿へ向かったのでは・・・??という可能性もあります。

中国大返し・・・この成功の裏には、秀吉のこんな知略が・・・!!
①人心掌握術
備中高松城を出発し姫路城まで・・・2日で92キロを走破した兵士たちでしたが、まだ道半ば・・・京都までは100キロ以上残っていました。
秀吉に、ある懸念がよぎります。

「こやつらも、随分疲弊している・・・
 そろそろ逃げ出す者も現れるのではないか・・・??」

そこで秀吉は、姫路城に着くと皆に信長の死を知らせ、この行軍は、信長の仇である明智光秀を討ち取るためであると兵士たちの士気をあげたのです。
さらに、城にあった兵糧米8万5000石と金800枚、銀750貫文・・・現在の価値にしておよそ66億円相当をすべて兵士たちに分け与えたのです。
また、現存する秀吉の書状によると、”163人いる中間や小者らに一人五斗あたえよ””とあります。
中間、小者は、武器や荷物を運ぶ者です。
そうした者たちにまで、一人五斗・・・つまり、半年分の米に当たる高い報酬を与えたのです。
そして、翌日からの行軍に備えて、ここで1日ゆっくりと休ませることに・・・。
すると、そこへ一人の僧侶がやってきてこう言うのです。

「明日は二度と帰ることが出来ない悪日にあたります
 それゆえに、出陣は延期された方がよろしいかと・・・」

それを聞いた秀吉は・・・

「そうか、二度と帰ることが出来ないのはむしろ吉日じゃ」

そういって取り合わなかったといいます。

その意味は・・・??
秀吉は、光秀を見事討つことが出来れば、天下人の道がある・・・そうなれば、姫路城に帰ってくる必要はない・・・城などどこにでも作れる!!だから、帰って来られないのはむしろ吉日!!
自分が勝って、天下を取るということだというのです。

みなぎる自信と天下取りの野望・・・

秀吉は富田に向かいます。その際、摂津国を通ることとなります。
そこにいるのは、茨城城主・中川清秀、高槻城主・高山右近でした。
かつて織田信長に対して、謀反を興した武将・荒木村重の重臣でした。

「やつらが信長様の死を知ったら、反旗を翻すかもしれない・・・」

そこで秀吉は、彼らにこんな書状を送ります。

”上様は難を逃れ、無事である” 

信長が生きているという嘘を伝えることで、中川清秀らが光秀に加勢するのを防ごうとしました。
この時光秀は、信長の遺体を見つけることが出来ずにいました。
もし、信長の首を晒すことが出来ていれば、嘘がすぐにばれていました。
情報を操作することで、裏切りの芽を摘んだ秀吉は、安心して進軍することが出来たのです。

②家臣の働き
秀吉は、家臣にも家ぐまれていました。
事務管理能力に優れていた石田三成は、この時後方支援を担当。
食糧や武器などの物資を調達、人の手配を迅速に的確に行いました。
これによってスムーズな移動が可能に・・・。
また、黒田官兵衛は、軍師として優れた才能を発揮。
それが・・・毛利家の旗。
兵庫を過ぎたあたりから、隊列の先頭にこの旗を持たせ、毛利方が秀吉軍に加わったと思わせたのです。
官兵衛は、備中高松城での和議が成立し撤退する際に、小早川隆景の素をたずね、毛利軍の旗を20本ほど借りたいと申し出ていました。
隆景は、ある程度の察しはついており、秀吉に協力しておいた方が毛利家のためになると考えました。
幡を見て、毛利が味方に着いたと勘違いした武将たちが、次々と秀吉方に加わったといいます。

こうした家臣たちの働きもあり、6月11日、秀吉軍は尼崎に到着。
秀吉は、大坂城にいた信長の三男・信孝と丹羽長秀に、尼崎まで来たと伝えますが、信孝を光秀討伐の総大将には立てませんでした。
本来なら、息子の信孝が総大将となって仇を討つのですが、信孝を総大将にすれば自分はその下の駒でしかない・・・
こでまでと何ら変わりないと考えました。
当時、信孝には兵が4000ほどしかいませんでした。
おまけに光秀は、本能寺の変で信長の嫡男・信忠も討っていました。
どうしたらいいのかわからない信孝は、光秀を討つ気迫が無かったので秀吉の上には立てなかったのです。

6月12日、富田に到着した秀吉は、池田恒興、中川清秀、高山右近らと軍議を開きます。
明智光秀を討ち、天下人となるために・・・!!

一方の光秀は・・・??
本能寺の変を起こした6月2日から4日までの間に居城の坂本城に入って近江を平定。
6月5日には信長の居城・安土城と秀吉の居城・長浜城を占拠。
さらに、丹羽長秀の佐和山城も押さえています。
光秀も、味方の結束を強めていました。
娘のガラシャを嫁がせていた丹後宮津城の細川忠興や、大和郡山城・筒井順慶に参戦を呼び掛けています。
一方、朝廷を味方に付けようと調停工作も行います。
朝廷から京都の経営を任せるといわれ、信長の後継者は自分に認められたと思っていたようですが・・・
8日、秀吉の大返しの知らせを受けるのです。
しかし、光秀は、調停工作に励みます。
調停工作を第一に考えていたのか?
秀吉はまだ帰ってこないと思っていたのか・・・??

秀吉の軍勢は、4万に膨らんでいました。
一方、明智光秀は織田信長の謀反に成功するも、細川忠興や筒井順慶らが参戦しないという誤算に見舞われます。
細川忠興は、光秀のために動かなかっただけでなく、娘の細川ガラシャを謀反人の娘として丹後の山中に幽閉、筒井順慶は一度は参戦に応じるも、秀吉側に寝返り、居城に籠ってしまいました。
結果、光秀の軍勢は1万5千!!
秀吉の軍勢の半分にも及びませんでした。
決戦の地は、京都に近い天王山の麓・山崎!!

6月13日

劣勢で迎え撃つこととなった光秀には策がりました。
それは、天王山の地の利を生かす作戦です。
川が迫る天王山の麓には、当時、馬がやっとすれ違えるほどの細い道しかなく、光秀はそこに秀吉の大軍をおびき寄せて、天王山に配置した兵に急襲させて撃破しようと考えていました。
しかし、この作戦は、逆に秀吉に天王山を取られるようなことがあれば成功しません。

「先に天王山を押さえねば!!」

しかし、秀吉もまた天王山が勝負の分かれ目になるとわかっていました。
そこで、このあたりの地理に詳しい中川清秀に天王山の奪取を命じます。
中川は敵に気付かれぬように松明をつけづに前日の夜に山に分け入り、光秀軍より先に天王山を押さえたのです。
これで、光秀軍は勝機を失いました。
そして遂に、両軍が激突!!
山崎の合戦です。
わずか数時間で秀吉軍の圧勝に終わりました。
光秀は、命からがら逃げだすも、落ち武者狩りの竹やりで重傷を負い、その後・・・自刃。

3日天下と揶揄されることとなった明智光秀。
その一方、主君・信長の敵討ちを見事遂げた秀吉は、天下取りにぐっと近づきました。
全ては、中国大返しという神業をやってのけたことにありました。
その成功の秘訣は、情報操作など、優れた知略、巧みな人心掌握術、有能な家臣の存在、そして大胆な行動力と決断力、何をするにもスピードに驚かされました。
秀吉、天下取りとなるべき人物だったというのがよくわかります。


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本能寺の変に謎はあるのか?: 史料から読み解く、光秀・謀反の真相

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学校では教えてくれない戦国史の授業 秀吉・家康天下統一の謎

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時は戦国の世・・・1578年3月9日!!
越後の龍と恐れられた上杉謙信が、突然倒れ、そのまま目を覚ますことなく4日後に亡くなりました。
生涯独身を貫いた謙信には、実子がなく、いたのはふたりの養子・・・景虎と景勝でした。
後継者を明言しないまま急死・・・!!

越後国の戦国大名・上杉謙信の養子で義兄弟だった上杉景虎と景勝・・・
兄にあたる景虎は、1554年相模国を治める北条氏康の七男として生まれたといわれています。
元の名は、北条三郎。
その頃の北条は、上杉の宿敵・甲斐の武田と同盟を組んでいたこともあり、上杉とは敵対関係にありました。
ところが、1568年・・・北条氏康は、外交政策の大転換を図り、武田との同盟を破棄、上杉と同盟を結ぶことにします。
その2年後・・・謙信は同盟の証として北条から差し出された養子を迎え入れます。
それが、当時17歳の三郎でした。
三郎が謙信の養子に選ばれたのは・・・??
当時は、四代当主・氏政の次男を送ろうとしていました。
しかし、幼く、他国に遣わすのには心苦しい・・・そして見直されたのが三郎でした。
三郎と同じ年頃の姪のいた謙信・・・2人を結婚させれば同盟がより強固となると考えたのです。
こうして三郎を越後に迎えた謙信は、姪の清円院と祝言をあげさせます。
そして、自身の若い頃の名である景虎を与えて上杉景虎を名乗らせます。
景虎は、謙信の居城だった春日山城の三ノ丸に住むこととなりました。
結婚の翌年には、道満丸が生まれ、謙信は初孫の誕生をとても喜んだといいます。
景虎が、後継者候補の筆頭であることは誰の目にも明らかでした。

謙信が、景勝をもう一人の候補にした理由は・・・??
それは、景虎の実家である北条氏にありました。
景虎が謙信の養子となった翌年の1571年、景虎の実父である氏康が死去・・・
すでに家督を継いでいた次男の氏政(景虎の実兄)が、全権を握ります。
氏政は、上杉と同盟を結んでいながら、水面下で武田家との関係回復を試み、再び同盟を結ぶのです。
そこにはこんな狙いがありました。
武田と改めて同盟を結ぶのは、上杉と喧嘩をしたいのではなく・・・
氏康は、北条・武田・上杉の三国同盟を考えていたのです。
しかし、北条と手を組んで武田を討つつもりでいた謙信にとっては、裏切り以外の何物でもありませんでした。
すぐに手切れの書状を送り、北条との同盟を破棄!!
これに、誰より驚き、嘆いたのが他ならない景虎でした。

「同盟の証だった自分は、もはや不要か・・・」

裏切り者の北条の血をひく自分は、殺されても仕方がない・・・少なくとも追放はされるだろうと諦めました。
ところが、謙信は、景虎を養子という立場のまま越後国に留め置いたのです。
謙信は、節義を重んじる武将・・・
被害者である景虎をさらに追い込むようなことはしたくはなかったのです。
その時には、道満丸が生れていて、引き裂くのは良くないのでは・・・??
この謙信の情愛に感謝した景虎は、それまで使っていた北条一門の花押から謙信に倣った花押に変えています。

「自分は上杉家の後継である」という自負の表れでした。

しかし、北条家出身の景虎が後継者候補であり続けることに不安を感じる家臣も少なからずいました。

「景虎さまが当主となれば、再び北条と手を結び、北条に刃を向けた我らに厳しい制裁を加えるかもしれぬ・・・!!」

こうした家臣たちの声に謙信は、

「景虎が後継のままでは何かと不都合が生じるやもしれぬな」

そんな中、1574年、景虎の運命を決定づける事件が起こります。
上杉と北条が争奪戦を繰り広げていた関宿城が、北条の手に落ちたのです。
関宿城は戦略的に重要で、利根川の水運の要所でもあり、経済的にも軍事的にも非常に重要でした。
北条氏康も重要視しており、
「この城を獲ることは一国を獲ることに等しい」と主張していました。
これを奪われてしまった・・・
関宿城が北条の手に落ちたことで、謙信は大きな戦略転換を余儀なくされます。
それが、景勝を迎え入れることでした。

1555年に生まれた景勝は、景虎より1歳年下でした。
元の名を顕景(喜平次)といい、父は越後国・長尾政景・母は謙信の姉でした。
顕景10歳の時に、実父の政景が湖で溺死・・・
叔父である謙信に引き取られ、我が子のようにかわいがられました。
十代後半で実家に戻り、上杉家の主力部隊・上田衆の長として軍事活動に従事、1575年21歳で再び謙信の養子となりました。
謙信は顕景に上杉姓を与え、上杉景勝を名乗らせ、自身の官職である弾正少弼を譲ります。
さらに、春日山城である謙信の尊称・御実城様によく似た御中城様という呼び名を与え、その御中城様を筆頭においた家臣団の名簿を新たに編纂しました。
これまた破格の厚遇でした。

謙信は、家臣たちの不安を払拭し、反北条の士気を高めるために、戦の経験豊富な景勝をもう一人の後継者候補にしたのです。
しかし、どちらが後継者候補の筆頭なのか?明言はしませんでした。
こうして二人の養子を得た謙信は、1577年、北陸方面をほぼ平定。
さらには、手取川の戦いで織田信長軍を撃退!!
越後の龍ここにありと、その名をとどろかせ、関東平定に乗り出そうとしていました。
ところが・・・1578年3月9日、突如倒れます。
通説では脳卒中で、そのまま一度も目を覚ますことなく、4日後に息を引き取ったといわれています。
そのため謙信は、後継者の名を言い残すことが出来ませんでした。
そのため、景虎と景勝による御館の乱が勃発したといわれてきました。

謙信は、家督を誰に譲るつもりだったのでしょうか?
景虎と景勝に分割譲渡するはずだった?
後継者を決めていなかった?
江戸時代から多くの意見が交わされてきました。
後継者を自分の言葉で伝え残したのでは・・・??
辞世の句も残っているので、脳卒中でそのまま・・・というのは考えにくいのでは??

”景勝が後継者で・・・しかしそれは中継ぎで、後々は道満丸に・・・”

景虎にしても景勝にしても、上杉家が分裂する可能性は高く、道満丸ならばどちらも納得のいく選択だったのでは・・・??

新潟県阿賀町・・・平等時薬師堂は、重要文化財にも指定されている県内最古の木造建築の一つです。
興味深いのは、非公開となっている堂内です。
戦国時代から江戸時代に書かれたといわれている落書きが、今もそのまま残されています。
中でも注目すべきは、御館の乱が起こった頃の兵士の落書きです。

”謙信様の御頓死で三郎殿(景虎)と喜平次殿(景勝)が御名代を争い、越後中が大混乱となった”

御名代=幼い当主に代わって政務を行う後見人のことです。
つまり、景虎と景勝は、道満丸が成長するまでの後見人を争って兄弟げんかをしていたというのです。
景勝軍が、景虎の屋敷を鉄砲で撃ったとよく言われますが、発砲した痕跡は何も残っていません。
謙信が亡くなった直後の書状にも、景虎と景勝の争いは一切書かれていません。
謙信の死後すぐには争っていないのでは・・・??
どうして御館の乱は起こったのでしょうか?
そのきっかけを作ったのは、会津の戦国大名・蘆名盛氏です。
盛氏は非常に好戦的で、謙信の死後上杉家に弔問の使者を送りつつ、その裏で越後侵略の準備を進めていました。
この盛氏の動きに一早く気付いたのが、上杉家の古参の重臣・神余親綱です。
親綱は三条城で厳戒態勢を敷き戦に備えますが、急を要する事態だったため、景勝には未報告でした。
すると、景勝はこの親綱の単独行動に不信感を抱きます。

「弔問の使者まで奇越してくれた蘆名殿が、侵略など考えるものか・・・
 親綱め・・・何か謀か?」

景勝は、家督を相続したばかりでナーバスになっていました。
あらぬ疑いをかけられてしまった親綱は、謀などもってのほかと弁明・・・
しかし、景勝は聞く耳を持たず、さらに強気に出ます。

「ならば、中世の証である誓詞を差し出すのじゃ」

長年上杉家に忠誠を尽くして来た親綱にとって、これほど屈辱的な命令はありませんでした。
憤慨した親綱は、自分に全く非はないと強く主張し、誓詞の提出を拒否!!
すると、そうこうしているうちに蘆名盛氏が、越後に攻め込んできたのです。
近くにいた上杉軍が、すぐに応戦し蘆名軍を撤退させましたが、これで親綱の判断が正しかったことが証明され、景勝の面目は丸つぶれ・・・家臣たちの信望を、一気に失ってしまいました。
重臣たちは口々にこう言いました。

「景勝さまではダメだ」

とはいえ、当主と重臣が仲たがいしたままではダメだ・・・と、謙信の義理の父上杉憲政らが二人の仲介役を買って出ますが、どちらも一歩も引かず・・・5月1日、神余親綱が景勝から離反!!
仲介役を務めた憲政らも、あまりにも頭の固い景勝を見限り、代わりの当主を立てようと動き出しました。
代わりの当主・・・それは、外ならぬ景虎でした。
織田と対立している今、東国とはあまり対立したくない・・・
ところが、景勝は強硬派・・・そう考えると、景虎だと北条は味方になってくれるかもしれない・・・武田も、味方になってくれる・・・その時、上杉家の当主は景勝ではない方がいい・・・!!
しかし、ことは簡単ではありませんでした。

「新たな当主として名乗りを上げれば、景勝との争いは必至
 御実城様(謙信)の遺言に背くことにもなる
 だが、家臣たちの信頼を失くした景勝が、当主として相応しくないのも誠のこと」

思い悩んだ末、景虎は、景勝に代わって当主になることを決意しました。
こうして戦国最大の兄弟げんか・御館の乱が勃発することとなったのです。

中継ぎ投手の座を巡って、ついに争うこととなった景虎と景勝!!
景虎方には、景勝と決裂した神余親綱・謙信の義理の父である上杉憲政・本庄秀綱・多くの上杉一門衆
景勝方には、直江信綱・斎藤朝信・河田長親・謙信以来の側近や旗本
がつきました。
両軍の戦力はほぼ互角!!
まさに越後を二分した内乱でした。
そして、謙信の死から2か月後・・・1578年5月!!
春日山城の一口にある大場で、両陣営が激突!!
景勝方は、春日山城の本丸から三ノ丸へ攻撃!!
すると、5月13日ごろ、景虎は長男の道満丸と数十人の家臣をつれ、春日山城から4キロほど離れた御館に移ります。
御館は、謙信が義理の父の上杉憲政のために立てた屋敷で、単なる邸宅ではなく堀などを備えた城塞だったといわれています。
ここを本拠とした景虎は、16日、桃井義孝を大将とするおよそ6000の大軍で春日山城を襲撃!!
桃井たちは、本丸めがけて一気に突き進みますが・・・道幅の狭い門の手前で猛攻を受けると、進も退くもできずに大混乱!!
桃井をはじめ、多くの兵を失ってしまいます。
景虎は、すぐに体制を立て直し、再び春日山城を攻めましたが、結果は同じ・・・景虎方の惨敗でした。

長期戦しかない・・・が、自分に軍事力があるわけではない=北条に助けを求めました。
しかし、景虎の実兄・北条氏政は、北関東で対抗勢力と交戦中・・・援軍を送ることが出来ません。
そこで氏政は、同盟を結んでいた武田勝頼(妹を嫁がせているので義兄弟)に景虎の援軍を要請します。
これに応えた勝頼は、2万の大軍と共に越後国へ向けて出陣!!
援軍来たれりという知らせを受けて景虎は息を吹き返し、さらに5月29日、会津の蘆名盛氏と軍事提携を結びます。
これで、兵力の上では景虎の圧倒的優位となりました。
しかし・・・景勝が秘策に打って出ます。

6月初旬、景勝は武田勝頼のもとへ使者を派遣します。
すると、使者の言葉を聞いた勝頼は侵攻を停止します。
自分は謙信の跡継ぎとして持っているものがある・・・勝頼への金銭と領土の割譲で手を打ちました。
手伝い戦で乗り気ではない勝頼に、金銭と土地を与えて戦闘を回避したのです。
景勝は、これに失敗したら終わりという危機感がありました。
これが上手くいかなければ、御館の乱で負けたのは景勝だったでしょう。

北条にも顔をたつように、勝頼はふたりを和睦させます。
勝頼の仲介によって一度は和睦した景虎と景勝・・・
勝頼が甲斐国に戻ってしまうとすぐに破綻!!
再び刃を交えます。
そして、同じ年の9月、北関東での戦いを終えた北条氏政は、景虎の援軍として2人の弟を越後国に派遣!!
北条軍は、景勝側の城を立て続けに落とし、春日山城の支城である坂戸城にも攻めかかります。
景勝方も必死に交戦し、双方多数の死傷者を出す激戦となりました。

春日山城の支城である坂戸城を景虎の援軍である北条軍に攻め込まれていた景勝は・・・待っていました。
それは雪!!

「相模と越後を結ぶ三国峠は雪深い地
 雪が降れば、北条は退路を断たれる前に必ず兵を退くはず・・・!!」

その読み通り、10月、雪が降り始めると、北条軍は坂戸城を落とせぬまま無念の撤退!!
まもなく越後国は深い雪に閉ざされました。
景虎と景勝は、自らの勢力だけで戦うこととなります。
こうなると、磁力に勝る景勝方が有利!!
景虎方から景勝側に転じる武将も多く現れました。
そして迎えた1579年1月・・・

「御館を討ち果たす!!」

そう宣言した景勝は、二度にわたる御館への総攻撃で景虎方の武将を次々に討ち果たし、遂には御館の周辺に放火!!
一面焼け野原となりました。
景虎方についていた上杉憲政は、景虎の長男・道満丸をつれて御館を脱出!!
景勝との和議を求めて春日山城へと向かうのですが、その道中、景勝の直臣によって二人とも斬殺されたといいます。
道満丸は、まだ9歳でした。
この時、景勝は武田勝頼の妹・菊姫との結婚が決まっていました。
道満丸がいることで再び争いになる・・・!!

一方、景虎も多くの家臣と共に御館を脱出!!
鮫ヶ尾城に逃げ込んだものの、すぐに取り囲まれてしまいました。

「もはやこれまで!!」

1579年3月24日、上杉景虎自刃・・・謙信の死からおよそ1年後のことでした。

そして景虎の死を知った兼勝は・・・

「去年以来の鬱憤を散じ候
 定めて大慶となすべし」

しかし、景虎の首を見て涙したといわれています。

こうして義理の兄に勝利し、名実ともに上杉の当主となった景勝
反景勝派の抵抗は、その後1年近く続きました。
この戦いで双方多くの兵を失い、その軍事力は著しく低下していました。
織田信長などの軍事侵攻に苦しめられることとなります。
また、恩賞の配分を巡っても景勝が自身の腹心をあからさまに優遇したことで不満が続出!!
終には、恩賞の配分を不服とした乱が勃発!!
平定するまでにおよそ7年を擁し、国力をさらに低下させてしまいました。
越後の龍・上杉謙信が築き上げた上杉家の勢力と威信は、謙信が後継者とした二人の兄弟げんかによって失われてしまったのです。
さらに、御館の乱は、戦国の勢力図を大きく塗り替えてしまいました。
武田勝頼が景虎の援軍という北条氏政の依頼を反故にしたため武田と北条の同盟が破たん!!
まもなくして北条が織田・徳川軍と手を結んだことで武田は三方を敵に囲まれてしまいます。
勝頼が頼れる相手は景勝だけでしたが、上杉に武田を助ける力はすでになく・・・

1582年武田氏滅亡。

織田・徳川・北条の甲州征伐によって・・・!!
上杉・武田の脅威がなくなったことで、戦国の世に新たな風が吹くこととなったのです。

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