日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: にっぽん!歴史鑑定

江戸時代、幕末動乱の京都・・・町では無差別に人が斬られ、放火や恫喝が横行・・・
そんな京の町の治安を守ろうと結成されたのが、局長・近藤勇が率いた幕末最強の剣客集団とも称される新選組です。
そんな新選組が一躍有名となったのが・・・1864年6月5日、池田屋事件です。
発端は、江戸幕府と対立する長州藩などの尊王攘夷派の志士たちが京都の町を大混乱に陥れ、とんでもない計画を企んでいることが発覚したことでした。
京都の町を震撼させた池田屋事件!!その一日とは・・・??

当時江戸幕府は、欧米列強の開国要求に屈したことで、諸藩からの信頼を失い、急速に弱体化・・・
そこで、朝廷に近づき、共に政治を行うことでなんとか幕藩体制の再強化を図ろうとしていました(公武合体)。
14歳将軍・徳川家茂と、孝明天皇の妹・和宮の婚礼を推し進めたのもその為でした。
この公武合体に激しく反発したのが長州藩を中心とした尊王攘夷派でした。
すぐさま外国勢を打ち払い、時の天皇・孝明天皇を中心に政治を行うべきだと主張します。
そうした尊王攘夷派の一部の志士たちは、天誅と称して対立する幕府側の要人や、その家族を襲撃するなど過激な行動に出ていました。
そこで、悪化の一途をたどる供与の治安を守るために結成されたのが、新選組でした。
京都守護職を務める会津藩主・松平容保の配下におかれ、新選組は市中の警備を任されます。

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池田屋事件当時、新選組の隊士は40名ほど・・・
局長・近藤勇、副長・土方歳三、そして沖田総司、斎藤一、永倉新八、原田左之助、島田魁などがいました。
隊士のほとんどは農民や町民の出身でしたが、剣術道場で研鑚を積んでいました。
腕の立つ強者ぞろいだったのです。
斬捨御免の特権が与えられていたこともあり、尊皇の志士たちからは鬼神のごとく恐れられていたといいます。
対する尊王攘夷派の主なメンバーは、長州藩・桂小五郎・・・後の木戸孝允です。
長州藩から京都留守居役を命じられた桂は、京都にある長州藩の屋敷に滞在し、密かに尊王攘夷派の志士たちと連絡を取り諜報活動を行っていました。

そんな中、事態が動き始めます。
池田屋事件の4日前・・・6月1日。
この頃、新選組はある男の行方を血眼になって探していました。
桂小五郎と並ぶ尊王攘夷派の肥後藩・宮部鼎蔵です。
幕府や新選組は宮部を危険人物としてマークしていたのです。
宮部は、同じ尊皇思想である吉田松陰と親友でした。
処刑された吉田松陰の志を継ぐべく、京都での尊王攘夷運動に参加します。
さらに、宮部には長州藩と共に企んでいる噂が・・・

”御所に火を放ち、会津の容保公と中川宮の首を狙っている”

この時、長州藩は前の年に起こった政変によって朝廷から締め出され、京都の町からも追放されるという憂き目にあっていました。
その政変の首謀者だった会津藩・松平容保と宮家・中川宮二人の命を宮部が狙っているというのです。
当然そのたくらみを阻止したい新選組・・・しかし、なかなか宮部の行方がつかめません・・・。

この日も、手掛かりを求め、宮部がかつて定宿にしていた南禅寺塔頭の前で張り込んでいました。
すると、宮部の下で働く小間使いの忠蔵がやってきたのです。
忠蔵をすぐにとらえた新選組は宮部の行方を厳しく追及しますが、なかなか口を割りません。
そこで、作戦を変更し、忠蔵を利用することに・・・。
南禅寺の山門に忠蔵をくくりつけ晒し者にしたところ・・・仲間が救出に来ました。
新選組は気付かれないように忠蔵の後をつけたのです。
忠蔵の向かった先は、市場にある桝屋という店でした。
新選組はにわかに色めき立ちます。
何故なら、この桝屋、幕府側が尊王攘夷派と関係があるかもしれないと目をつけていたからです。

”表向きは、薪や炭などを扱う店だが、下働きの男2人を召し抱えている以外、家族もなく、町内の付き合いも致さず、不審である”

新選組局長・近藤勇は、すぐに桝屋を調べるように指示・・・
張り込みや聞き込みを続けました。
その結果、桝屋の主人・古高俊太郎と尊王攘夷派の志士たちの深いつながりがわかってきたのです。
果たして桝屋主人・古高俊太郎と尊王攘夷派の関係は・・・??
近江出身の古高は、儒学者で尊王攘夷派の指導者・梅田雲浜の弟子でした。
しかし・・・1859年、雲浜は安政の大獄で投獄中に病死していました。
古高は、その志を継ぎ、京都での尊王攘夷運動に参加します。
その後、縁あって、桝屋に養子に入り”桝屋喜右衛門”を名乗りました。
古高は、商人という隠れ蓑を利用し、諜報活動に没頭・・・
いつしか桝屋は、尊王攘夷派の活動拠点となっていきます。
実は桝屋、筑前藩御用達であったため、武士である尊王攘夷派の志士たちが出入りしても、目立たなかったので、重用されていました。
そして、新選組が行方を追っていた宮部鼎蔵も桝屋に仮住まいし、活動拠点にしていたのです。
さらに、古高は長州藩からある重要任務を任されていました。
それは、長州藩に朝廷の情報を提供する連絡役だったのです。
当時、朝廷内の重職は、幕府派で占められていましたが、有栖川宮は数少ない長州派でした。
有栖川宮は、幕府の介入によって孝明天皇の妹・和宮との婚約を破棄されていました。
和宮は、結局14代将軍・家茂に嫁いでいます。
長州藩は、有栖川宮熾仁親王を足掛かりに、朝廷での復権を目論んでいました。
しかし、古高と有栖川宮とのつながりは・・・??
古高は、父親の代から山科にある毘沙門堂の門跡に仕えていました。
その門跡が、有栖川宮の叔父であったため、古高は有栖川宮との交流があったのです。
長州藩にとって、古高はまさに好都合な人物だったのです。
古高俊太郎は、長州藩と朝廷を繋ぐ重要な連絡係であり、尊王攘夷派の志士たちの強力な支援者だったのです。

近藤勇は、桝屋の摘発を命じます。
1864年6月5日、池田屋事件当日早朝・・・
緊張の面持ちで、四条にある桝屋へと向かう新選組の隊士たち・・・
この時、尊王攘夷派の志士たちが潜伏しているというとの情報を得ていました。
ところが、いざ桝屋へ乗り込んでみると、中にいたのは主人の古高俊太郎ただ一人・・・!!
実は、京都に残ることを許された長州藩士たちが、忠蔵が捕まったと聞き危険を感じて、宮部鼎蔵ら尊皇攘夷派の志士たちを藩の屋敷に匿っていたのです。
してやられた新選組の面々・・・
しかし、このまま手ぶらで帰るわけにはいきません。

「徹底的に調べ上げろ!!」

すると、奥にあった蔵の中から、刀や鉄砲など大量の武器と甲冑が出てきたのです。
それは、古高が来るべき時に備え、買いそろえていたものでした。
さらに、志士たちが書いた命を懸けて戦うとの血盟書や長州藩との書簡も出てきました。
そこには・・・
”御所に火を放ち、会津藩主・松平容保、宮家の中川宮を襲撃する”
と・・・襲撃をほのめかす内容が書かれていたのです。

尊王攘夷派が企む過激な計画の確かな証拠をつかんだ新選組は、古高を連行し、意気揚々と壬生の屯所に引き上げていきました。
そしてこの日の夜、池田屋事件が起きるのです。

6月5日、池田屋事件当日・午前・・・
古高を三部の屯所に連れ帰った新選組は、さらに厳しい尋問を行いました。
担当したのは、鬼の副長・土方歳三でした。
土方は、古高を逆さづりにし、拷問にかけます。
五寸釘を古高の足の甲に打ち込み、貫通させた上でそのくぎにロウソクを立てました。
火を点け、暫くすると熱いロウが古高の傷口に滴り落ちていきます。
たまらず、大きなうめき声をあげる古高・・・
それでも、もだえ苦しみながら耐え忍んでいましたが、30分ほどで観念・・・
一説には古高はこう白状したといいます。

「6月22日ごろ、風が強ければ御所を焼き打ちし、帝を奪い去り、山口城へと連れ去る謀反を企んでいる
 その為、大勢の長州人が京都に潜伏している」

松平容保や中川宮を襲撃するどころか、孝明天皇を長州藩の山口へと連れ去ろうとしているというのです。
天皇が連れ去られるなど、前代未聞・・・!!
これは一大事です。
当然、市中の取り締まりを任せられていた新選組の面目も丸つぶれに・・・
なんとかしなければ・・・!!

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古高俊太郎の自白によると、御所襲撃計画の実行は6月22日ごろ・・・
この時は6月5日でしたが、近藤勇は焦っていました。

「我々が古高を捕らえたことで、やつらは慌てて事を起こすかもしれん!!
 ・・・!!
 今日は宵々山か・・・!!」by近藤勇

この日は、祇園祭の直前に行われる祭り・宵々山の日でした。
毎年、町には大勢の見物客が訪れます。
近藤はその混乱に乗じ、尊王攘夷派の志士たちが仕掛けてくると、考えたのです。
すぐに、京都守護職で新選組を統括する会津藩主・松平容保に事態を報告!!
そして、潜伏する志士たちを摘発する為に支援を要請しました。
これに対し、会津藩は・・・

”一橋様 桑名様 町奉行と相談の上 人を差し出そう
 夜五つ時 祇園会所前で待つよう”

この時、京都の警備にあたっていたのは容保の会津藩の外、禁裏御守衛総督・一橋慶喜、容保の弟で京都所司代の松平定敬の桑名藩、そして京都町奉行所などでした。
会津藩は、それぞれに根回しして援軍を送るので、夜5つ時・・・9時ごろに八坂神社近くにある祇園会所前で合流しようというのです。

その頃、尊王攘夷派の志士たちは・・・
古高が捕縛されたと聞き、長州藩の屋敷に次々と集まってきていました。
重要な協力社を奪われ、今後どうするのかを激論を交わします。
一説に、その席には尊王攘夷派のリーダー・宮部鼎蔵や、長州藩主の吉田稔麿などもいたといいます。
吉田は、松下村塾出身で、高杉晋作、久坂玄瑞と共に”三秀”に数えられ、将来を嘱望された若者でした。
そして、宮部と吉田の二人は、この夜起こる池田屋事件に巻き込まれることになるのです。

池田屋事件当日昼過ぎ・・・
新選組は、夜の摘発に向けて早くも動き出しました。
局長・近藤勇は、病に伏していた一部の者を屯所に残して34人で出動することにします。
潜伏する尊王の志士たちに気付かれないよう、数人に別れ分散して出動させました。
さらには、武器や甲冑などをまとめて大八車に乗せ隠しながら運びました。
慎重に事を進めたのです。

池田屋事件当日8時ごろ・・・
準備を整えた新選組は、まだ会津藩との約束前でしたが、それを待たずに動き出します。
近藤は、隊を自分が率いる組(10人)と、土方歳三が率いる(24人)二つに分けます。
土方率いる24人に祇園界隈の捜索をはじめませます。
この時近藤は、潜伏先を祇園と三条周辺にある茶屋や旅籠など二十数カ所に絞っていました。
茶屋は、会員制で不審なものが入ってくることはなく、芸妓の口が固かったので、情報が漏れにくかったのです。
旅籠は、様々な場所からいろいろな身分の人が宿泊したので、志士たちは紛れ込みやすかったのです。

そして会津藩との約束の9時・・・
約束の時間になっても、援軍はやってきませんでした。
どうして幕府の援軍は来なかったのでしょうか??

援軍は、来るには来たのですが、かなり遅れてやってきました。
遅刻した理由は、色々説がありますが・・・
①会津藩が根回しに時間がかかってしまった
②新選組とは違う作戦で摘発するつもりだった
夜9時ごろの集合時間はあくまで目安で、会津藩は指示を出すまで配下の新選組は動かないと思っていたのです。
援軍が期待できない中、近藤率いる10人も動き始めました。
しかし、尊王攘夷派の志士たちの潜伏先はいまだ不明・・・目星をつけていた個所を探していくほかありません。
祇園周辺と三条周辺の二手に分かれて捜索する新選組・・・
先に土方歳三率いる24人が祇園周辺を調べていましたが、なかなか見つかりません。
一方、近藤が率いる10人は、四条通から木屋町通りを北上し三条へと向かいます。
この辺りには多くの旅籠は軒を連ねていたからです。

池田屋事件当日夜10時ごろ・・・
そんな中、新選組は三条にある旅籠・池田屋で長州藩と尊王の志士たちが密会をしていることを突き止めます。
尊王攘夷派の志士たちはどうして池田屋にいたのでしょうか?
当時、長州藩京都留守居役だった桂小五郎は、この時のことを後にこう書き残しています。

”かつて古高と同盟していた者を三人選んで古高救出に加わることを許し、他の者が門を出ることを禁じた
 私もこの夜、池田やで会合する約束をしていた“

古高が長州藩と朝廷の一部との窓口になっていたので、新選組に捕縛された古高俊太郎をいかにして奪還するか相談するための会合でした。
”すぐに奪還すべき”という過激派と、”慎重に状況を見極めるべき”という慎重派に分かれていました。
一説に、宮部鼎蔵や吉田稔麿は、過激派を思いとどまらせようと池田屋にやってきたともいわれています。

近藤勇は、近隣の者から池田屋の間取りを聞き出します。
建物には、三条通側にある表口の外に、裏手にも出入り口があることが分かり、近藤はそれぞれに3人の隊士を配置、そして、近藤・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4人で中へ踏み込みます。

夜10時30分頃・・・
近藤は、怯むことなく踏み込んでいきました。
すると、奥から旅籠の主人が出てきました。

「今宵、御用改めである」by近藤勇

驚いた主人は、急いでおくに・・・2階に向かって

「御用改めでございます!!
 御用改めでございます!!」by池田屋主人

そう叫びます。
池田屋は、元々長州藩の定宿で、何かと尊王攘夷派の志士たちに融通をきかせていました。
近藤は、主人を殴り飛ばし、奥の階段から沖田と共に二階へ上がります。
するとそこでは・・・十数人の志士たちが、密会していたのです。

「手向かい致せば容赦なく切り捨てる!!」by近藤勇

志士の一人が斬りかかってきました。
沖田はそれをかわし、すかさず切り捨てたのです。
すると、尊王攘夷派の志士たちの大半が、吹き抜けになっていた中庭や裏庭に飛び降りたため、近藤は急いで1階に向かいます。
その直前、沖田総司が突然倒れてしまうのです。
今までは、持病の結核で喀血し倒れたと言われていましたが、喀血なら医学的にそれ以後4年も生きられないのではないのか??と言われています。
最近の説では、暑さにやられて熱中症だったのではないか?と言われています。
いずれにしても、剣の達人の沖田の離脱は、新選組にとっては大きな痛手でした。
近藤、永倉、藤堂のわずか3人で戦うこととなった新選組・・・
そこで近藤は、永倉には表口付近の台所で、藤堂には中庭付近で戦うように指示・・・自分は奥の間で敵を迎え討ちました。
すると・・・まず、永倉が表口に逃げようとする敵を続けざまに後ろから仕留めました。
一方、中庭付近にいた藤堂は、敵に額を切られてしまいます。永倉が助太刀し、命だけは助かりましたが、出血が激しく、藤堂も離脱・・・残るは、近藤と永倉の二人だけ!!
絶体絶命のピンチ!!
しかも、近藤は大勢を相手に苦戦!!
その時のことを、永倉は晩年、こう振り返っています。

「近藤は、2、3度斬られそうになっていた」

その窮地を救ったのが、新選組最強の一人に数えられていた永倉その人だったのです。
永倉の余りの強さにおののき、一部の尊王攘夷派の志士が降伏・・・
丁度その頃・・・一報を聞いた土方歳三率いる一団が、ようやく祇園から駆けつけました。
一気に形勢は逆転、土方や、島田魁などの活躍により、新選組は池田屋にいた尊王の志士たちを見事鎮圧したのです。
踏み込んでから、1時間半ほどが経っていました。

6月6日、深夜0時半ごろ・・・
会津藩や、桑名藩など幕府の援軍が到着しました。
新選組は、援軍と共に潜伏する残党をも一網打尽にしたのです。
近藤勇によると、池田屋とその周辺を含め、新選組は7人を斬殺、4人を手負いにし、23人を召し捕ったといいます。

しかし、この時亡くなった長州藩や尊王攘夷派の志士たちの身元についての詳しい記録は残っていません。
一説に、尊王の志士たちのリーダー格だった宮部鼎蔵は池田屋で自刃、長州藩士の吉田稔麿は、援軍を呼ぼうと長州藩邸に戻る途中に討ち取られたと言われています。

幕末最強の剣客集団・新選組が、京都三条にあった旅籠・池田屋で密会する尊王攘夷派を襲撃した池田屋事件・・・
この池田屋での会合に、長州藩京都留守居役の桂小五郎も出席する約束を交わしていましたが、難を逃れています。
後年、桂はこう記しています。

「約束の刻限に池田屋に行ったが、まだ誰も来ておらず、一度池田屋を後にし、対馬藩の屋敷で待たせてもらっていた
 その後、新選組が池田屋を襲撃した」

なんと、桂は、新選組とニアミスしていました。
そして、すんでのところで難を逃れていたのです。

一方、事前に尊王の志士たちの過激な計画を阻止し、京都を混乱から守った新選組は、幕府から総額600両、の報奨金が与えられ、新選組の名を天下に知らしめたのです。
しかし、この時、多くの同志を殺された長州藩から大きな恨みを買ったことで、やがて新選組の運命は一転・・・
時代の波に飲み込まれていくことになります。

池田屋事件から3年・・・長州藩が、薩摩藩と手を組み倒幕を叫ぶと、15代将軍・徳川慶喜は、あっさりと政権を返上。
しかし、江戸幕府が終わりを告げても、なお、徳川に忠義を尽くし続けた新選組は、逆賊となってしまうのです。
局長・近藤勇や、土方歳三は、旧幕府軍と共に最後まで抵抗を続け、無念の死を遂げていきます。
池田屋事件での新選組の活躍は、長州藩をはじめとする尊王攘夷派に、大きな打撃を与え、明治維新が1年遅れたともいわれています。
しかし、時代の波には逆らうことが出来なかったのです。
そう思うと、池田屋事件は、幕末最強の剣客集団と畏れられた新選組のハイライト・・・最後の花道だったのかもしれません。

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新選組・池田屋事件顛末記

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JR岐阜駅北口駅前広場・・・ここで圧倒的な存在感を放っているのが、黄金に輝く織田信長像です。
岐阜市の市政120周年を記念して建てられたものす。

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乱世を生き抜き、天下統一に大手をかけた戦国のカリスマ・織田信長・・・
しかし、戦上手だったかというとそうではありません。

武田信玄・・・54勝6敗22分
上杉謙信・・・64勝8敗36分
織田信長・・・151勝42敗9分

戦歴を比べてみても、負け戦がダントツに多く、およそ5回に1回は負けています。
では、信長はいかにして勝ち残っていったのでしょうか??

常識破り成功術①「合理主義」
1570年、信長率いる織田軍は、朝倉義景討伐のために越前国へ侵攻・・・
しかし、同盟を結んでいた北近江の浅井長政に裏切られます。
前方から朝倉軍、後方から浅井軍に攻められるという窮地に立たされます。
そんな時、当時の武士たちは、一か八かの大勝負に出て、負ければ自刃するというのが一般的でした。
醜態をさらすぐらいなら、潔く死を選ぶべし!!
これが、武士道だったのです。
ところが、この時信長は、木下(豊臣)秀吉・明智光秀らを殿にして戦場に残し、自らは京都に逃げ帰ってしまいました。

「天下の統一は命あっての物種じゃ」

信長は、武士としての誇りなどあっさり捨て、天下統一という野望を実現する為に生き残ることを選んだのです。
信長は、当時の武将にしては珍しく、合理主義者でした。
なんの役にも立たない武士道の観念にとらわれることはなかったのです。
武士のプライドにとらわれず、いざとなれば恥も外聞も捨てて、生き残りを図ったのです。
これこそが、信長の強みでした。

1573年8月・・・朝倉・浅井連合軍と対峙していた信長は、朝倉義景が越前に退去したとの報を受けるや否や、家臣団の出撃準備が整う前に、僅かな兵のみで先陣を切って追撃を開始しています。
大将が真っ先に駆け出すなど、通常ではありえません。
命知らず??信長には、この時勝機が見えていました。
実際、信長は朝倉の本拠地・一乗谷城を占拠して、朝倉義景を自刃に追い込んでいます。
勝てると踏んだら迷わず突き進む!!
これも、他の武将にはない信長の強みでした。

そして信長は戦以外の道でも天下取りに進んでいきます。
それは、経済力です。

常識破りの成功術②「マネーパワー」

1568年9月、信長は室町幕府の再興を図る足利義昭を擁して上洛します。
義昭の兄で13代将軍足利義輝を殺害した勢力を京都から追放します。
こうして、第15代将軍となった足利義昭は、信長に深く感謝し、褒美を取らせることに・・・

「此度の礼として管領に任ぜよう」by義昭

管領とは、将軍を補佐して幕政を統括する役職です。
まだ、尾張と美濃を擁するだけの信長にとってはこの上えない大出世です。
「身に余ること・・・」と、辞退しました。
信長が喜ぶと思っていた義昭は、困惑し、

「ならば、副将軍ではどうじゃ?」by義昭

それでも信長は、首を縦に振りません。

「では、一体何が良いのじゃ!?」by義昭

「堺・大津・草津に代官を置かせていただきたい」by信長

代官を置くとは、直轄地にするということでした。
では、どうして副将軍の座より、3つの直轄地を選んだのでしょうか?
信長は、3つの街を手に入れることが、天下統一への一番の近道だと考えていました。
大阪湾に面した堺は、日本最大級の貿易港で、物流の拠点でした。
日明貿易、南蛮貿易の外国船も数多く入港し、国際商業都市として大いに栄えていました。
それは、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが
「日本の殆どの富が、ここに集まっている」と、評したほど。
一方、琵琶湖に面する大津と草津は、琵琶湖水運の港町でした。
当時、京都と日本海側を行き来する際には、琵琶湖水運を利用して船を使うのが一般的でした。
その為、大津と草津には、常に多くの人や物が出入りしていたのです。
信長が将軍に所望した町は、物流の拠点となる港町だったのです。
そして、当時の港では、船の積み荷に関税を課すのが慣例となっていて・・・
例えば、越後国の上杉謙信は、柏崎港と直江津港からの関税収入で、年間およそ4万貫・・・約60億円を得ていたといわれています。
堺や大津はそれらよりはるかに大きな港・・・信長はそこから得る莫大な関税収入に目をつけたのです。
信長は武力ではなくて、他の武将たちを圧倒する経済力によって、天下統一を成し遂げようと考えていました。

経済力を強化する為に、信長は様々な財政政策を行っています。
楽市楽座・・・商売の自由化もその一つです。
信長は、それまで商人たちが公家や寺社に納めていた店の場所代と売上税を廃止、どこでも、だれでも、自由に商売ができるようにしました。
商人たちは大いに喜び、経済が発展、城下町がにぎわいます。
信長は、もう買った商人たちからそれまでよりも安い売上税だけを徴収しました。
WIN-WINの関係を築き上げたのです。
商人たちを味方につけたのです。

「物資の流通を担う商人と手を組めば、得るものは大きい」

当時、それに気付いている武士はいませんでした。
そして信長は、手に入れた強大な経済力をもとに、戦国の世に嵐を巻き起こしていきます。



常識破りの成功術③交通インフラの整備
勢力拡大を目指し、戦に明け暮れていた戦国時代・・・
その為、戦国大名たちは領国への侵入防止のために、周辺の道をあえて悪路とし、川に橋をかけることもほとんどありませんでした。
しかし、その中で信長は、1574年にこんな命令を下しています。

”入り江や川には橋をかけ、石を取り除いて悪路をならせ
 
 本街道の道幅は3間2尺とし、街路樹として松と柳を植えよ

 街道周辺の民は、道の清掃と街路樹の手入れをせよ”

当時の道幅は1間ほどでした。
3倍以上の幅広で、平らにならし、街路樹を植え、川には船を並べた橋まで架けました。
信長が整備した道は、見通しもよく真っすぐで、山賊に襲われる心配が少なく、安心して通行することが出来ました。
また信長は、バイパスも作っています。
岐阜から京都に向かう途中、磨針峠という難所がありました。
その為、米原経由で行かなければなりませんでした。
信長は、およそ3万人を動員して磨針峠を開削、バイパスを通しておよそ12キロもショートカットしたのです。
どうして信長は、交通インフラを整備したのでしょうか?
商品流通を活性化し、商人たちをさらにもうけさせ、税収upをしようとしたのです。
経済政策を推し進める信長ならではの戦略でした。

しかし、広くて真っ直ぐな道では、敵に攻め込まれやすい・・・
信長は、デメリットを承知の上でした。
経済力があれば、兵や武器を十分に備えられると考えたのです。
攻め込まれても、負けることはない!!

そして、その圧倒的な経済力によって、信長が充実させた武器が、舶来の最新兵器・鉄砲でした。

常識破りの成功術④「鉄砲の大量導入」

1543年、種子島に漂着したポルトガル人によってもたらされたといわれる鉄砲・・・
弓よりも飛距離があって、殺傷力も高いため、鉄砲の登場が戦国時代の合戦スタイルを一変することになりました。
しかし、伝来後、すぐに普及したわけではありませんでした。
原因の一つは値段の高さです。
鉄砲1挺=1丁30金(約50万円)でした。
非常に高価だったので、おいそれと買いそろえることが出来なかったのです。
さらに、致命的だったのが、連射が出来ないことでした。
引き金を引けば次々と出る近代の銃とは違い、火縄銃は、一発撃つごとに準備が必要で、結構時間がかかりました。
これでは、弾込めの間に攻め込まれてしまう!!
命中精度もそれほど高くなかったため、多くの武将たちは鉄砲の導入に消極的で、使ってもせいぜい威嚇用だったのです。
しかし、信長は・・・連射が出来ないという欠点を克服し、織田軍の主力武器にしたのです。
日本の合戦史上初の大規模な銃撃戦・・・1575年長篠・設楽原の戦い・・・
武田勝頼率いる戦国最強の武田騎馬軍団と対峙することとなった信長は、現在の15億円相当という大金を投じて3000挺ともいわれる鉄砲を購入それを足軽たちに持たせて三列に並ばせ、最前列が撃つ間に後方に準備をさせ、狙撃手を後退しながら撃たせた・・・とか、
3人一組となって、射撃と弾込めを分担し鉄砲を交換しながら撃つ・・・とか、新たな戦法を生み出すことで、連射が出来ない弱点を克服しました。
また、騎馬軍団の侵入を防ぐ馬防柵も鉄砲の弱点を補うのに利用しました。
当時の鉄砲は、非常に重く、銃口も長い・・・狙いを定めにくかったのです。
そこで信長は、馬防柵の横木に銃口を乗せて撃たせました。
これによって命中率が上がったと言われています。
信長は創意工夫によって鉄砲を主力武器に変え、長年の宿敵だった武田軍を撃破!!
天下統一の実現に、大きく近づくとともに、戦国の世に新たな戦い方をもたらしたのです。

また、槍の使い方にも革命をもたらしています。
戦国時代に使われていた槍の長さは、2間~2間半(3.6m~4.5m)・・・しかし、信長が兵たちに持たせた槍は、3間半・・・6.3mもありました。
槍は、刀よりも遠くから攻撃できるのが特徴です。
しかし、さすがに長くて使いづらいのでは・・・??
長槍を持った兵たちを横一列に並べ、そのまま槍を前方に90度に傾けて、敵の最前線に一斉に攻撃させたのです。
”槍ぶすま”・・・これなら、槍が長い方が断然有利です。
敵も驚いたことでしょう。

力こそが正義だった戦国時代・・・
武士の評価を決めたのは、何と言っても戦場での槍働きでした。
有能に戦ったものや、敵の首を取ったものが高く評価され出世していきます。
その為、槍働きが苦手なものは、出世が出来ず役立たずと見なされました。
しかし、織田信長は、この常識をも覆します。

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常識破りの成功術⑤「人事革命」

信長が行った人事革命の最たる例が、木下藤吉郎の大出世です。
後の豊臣秀吉です。
農民の出と言われ、身長154cmほどと体格にも恵まれなかった秀吉は、槍働きはさほど得意ではなかったといいます。
しかし、信長のもとでめきめきと頭角を現し大出世・・・
信長は。秀吉の何を評価したのでしょうか??
それは、人たらしの才能でした。
秀吉は、相手を説得したり、誘惑したりすることが抜群に上手だったのです。

その最たる例が、美濃攻略での暗躍です。
1564年、美濃国の攻略を目論んでいた信長は、戦国大名・斎藤龍興に与する武将たちを寝返らせるため、秀吉に懐柔作戦を命じます。
すると秀吉は、尾張と美濃の国境に立つ松倉城の城主を言葉巧みに寝返らせ、信長の侵攻に抵抗していた鵜沼城の城主も説得し、戦わずして降伏させました。
これによって斎藤氏の居城・稲葉山城は孤立無援となってしまい・・・そこを信長に攻め込まれ、1567年陥落・・・。
秀吉の人たらしの才能によって、信長は最小限の戦力で美濃を手中に収めることが出来たのです。
家臣の才能を見抜き、それを最大限に活用する・・・これもまた、信長成功の秘密でした。
常識にとらわれない信長のもとでなければ、秀吉の奇跡の大出世もなかったことでしょう。

そんな信長に、武力以外の能力を買われた武将といえば、明智光秀もその一人です。
信長に仕えたのは、40歳を越えてからと遅かった光秀ですが、足利将軍家に仕える幕臣だったこと、教養豊かで諸芸に通じる文化人だったことが信長の目に留まり、家臣となってわずか1年で京都奉行に抜擢されます。
朝廷との交渉役や、幕府の監視役を見込まれての大抜擢だったと思われます。
信長は、家臣のキャリアにもこだわらず、新参者でも役に立つとみなせば、引き立てたのです。
さらに、信長には・・・宣教師に連れられて来日したアフリカ出身の弥助という家臣もいました。
初めて弥助に出会った時、信長は弥助が肌に墨を塗っているのだと思い、服を脱がせ、肌をこすってみたといいます。
しかし、本物だとわかると弥助を気に入り、家臣として召し抱えました。
弥助を傍においておけば、いつでも異国の話が聞ける・・・
また、身の丈6尺・・・180cm以上と、身体も大きかったので、護衛役には最適だと考えていたのです。
実際、弥助はかなり信長から重用され、信長公記にはこうあります。

”弥助は城下町に従者付きの住居を与えられ、身分に相応しい衣服と武具を与えられた”

さらに、信長が天下を統一した暁には、弥助は大名に取り立てられるだろうという噂まで流れていたといいます。

宣教師たちと交流し、異国の知識を取り入れるなど、常に新しいことに目を向けていた織田信長・・・
趣味も多く、中でも一番のめり込んだのが、当時の最先端の文化・・・茶の湯でした。
信長が茶の湯に傾倒するようになったのは、足利義昭を擁して上洛を果たした1568年頃。。。
大和国の戦国大名・松永久秀、堺の豪商・今井宗久から名物茶器を献上され、その魅力にとりつかれたといいます。
欲しい茶器があれば、誰彼構わず買い上げる名物狩りも行っています。
名物狩りの噂が広まると、信長の気を引くために進んで献上する者も現れ、茶器の数はどんどん増加・・・
信長は、度々茶会を開いて集めた茶器を、家臣や商人たちに披露していました。
そして、この茶の湯で、戦国の常識を打ち破ります。

常識破りの成功術⑥「恩賞革命」

当時、主君が家臣に与える恩賞は、土地というのが基本でした。
しかし、信長は土地の代わりに自慢の茶器や茶会を開く権利を与えました。
どうして茶の湯を恩賞に利用したのでしょうか?
土地を与えれば、家臣の力が増すことになります。
しかし、恩賞が茶器ならば、家臣の勢力が拡大することはなく、謀反が起こらないのです。
家臣たちは、茶器で満足したのでしょうか?
土地には限りがあり、天下統一を果たさなければ手が入らない・・・恩賞が不足すれば、家臣たちの統制が乱れる・・・
それを見越して、信長は土地に代わる恩賞として茶の湯を利用したのです。
茶の湯の価値を高めるために、茶会を開催できるのは信長が認めた家臣だけという制限をかけました。
茶会の開催は、信長に認められた証、最高の栄誉だったのです。
実際に家臣たちは喜び、秀吉は、初めて茶会の開催を許されたとき、ようやく信長に認められたと大いに喜んだと言われています。
滝川一益は、武田家を滅ぼした功績で、関東地方の広大な土地を与えられましたが、
「土地ではなく茶器が欲しかった」と嘆いたこともあるとか・・・。

経済力を重視し、鉄砲を大量に導入、能力本位の人材登用に新たな恩賞の創生・・・
と、様々な常識を打ち破り勝ち残ってきた織田信長・・・
疎の居城もまた、乱世の常識を大きく打ち破るものでした。

常識破りの成功術⑦「居城戦略」

信長が、生涯で移り住んだ居城は・・・
那古野城、清洲城、小牧山城、岐阜城、安土城と5つ・・・これは、当時においては異例のことでした。
一生懸命・・・もともとは、一所懸命でした。
一所・・・旧制の武士たちが、主君から与えられた土地を守るために、懸命に戦っていたのです。
武士にとっては、自分の土地は、何物にも代えがたい一番大事な財産でした。
その為、自ら慣れ親しんだ土地を離れる武士はいません。
あの武田信玄や上杉謙信も生涯、居城は一度も移していません。
そんな中、信長は4度も居城を移しているのです。

1555年、22歳の時、父から譲り受けた那古野城から清須城に移転したのは、清州が尾張国の中心にあったからです。
8年後の1563年、清洲城から小牧山城に・・・理由は、次の攻略目標である、美濃に近いためです。
そして美濃を攻略すると、斎藤氏の居城だった稲葉山城に移り名を岐阜城に変えたのです。
信長は、勢力の拡大に伴って居城を移しています。
本拠地である居城を固定するよりも、目的に合わせて移動した方が効率がいいと考えていました。
そしてそれは、最後の城となる安土城も同じです。

1576年1月、琵琶湖の東岸にある標高200mほどの安土山で築城が始まりました。
信長が安土山を選んだ理由・・・それは、本拠地である岐阜と京都のちょうど中間に位置し、中京の経済圏と畿内の経済圏を共に視野に入れることが出来たからです。
船に乗れば半日足らずで京都に行けたこと、中山道と八風街道が近くを通る商品流通の要所だったことが挙げられます。
安土城の建築と並行して、信長は城下町を反映させるための政策を打ち出しました。

・城下町を楽市楽座とする
・往来する商人は、必ず安土に立ち寄らなければならない
・他所からの転入者も在住者と同じ恩恵が受けられる
・馬の流通は安土で独占する

城下町を発展することで、税収を増やし、天下取りの基盤となる経済力をさらに強化するのが目的でした。

そして着工からおよそ5年・・・1581年、安土城完成!!
地上6階、地下1階という壮大、かつ絢爛豪華な天守を誇る高さは30mをゆうに超えていたといいます。
派手好きな信長らしく、全面に緊迫が施され、屋根には金のしゃちほこが・・・
5階は鮮やかな朱色が目を引きます。
贅を尽くしたしつらえ・・・鮮やかな襖絵を手掛けたのは、日本美術史上最高の絵師の一人と称される狩野永徳とその弟子たちでした。
当時の技術の粋を集めた安土城は、空前絶後のスケールを誇る天下無双の城でした。
見るものすべてを圧倒し、言葉を失わせました。
安土城そのものが革命だったのです。
どうして、空前絶後のスケールで安土城を築いたのでしょうか?

安土城が完成した年の7月・・・
信長は盂蘭盆会と言われる仏教行事の際に、安土城を幻想的にライトアップしました。
誰も真似することのできない圧倒的な景色を見せつけることで、自らの偉大さを知らしめたのです。
信長は、安土を京都や堺と並ぶ大都市に完成させる・・・天下統一を成し遂げた暁には、安土に遷都しようと考えていたのかもしれません。
そして、天皇を越える存在となって、斬新な発想で理想の国家を建設するつもりだったのかもしれません。
安土城は、信長が天下人となった際の、権威の象徴とするため空前絶後のスケールで築かれたのです。

しかし・・・その夢が実現することはありませんでした。
1582年6月2日・・・本能寺の変・・・
信長は無念の死を遂げ、安土城もその13日後、原因不明の火災によって完成後わずか1年ほどで姿を消したのです。

「臆病者の目には敵は常に大軍に見える」

怯えていては、何も始まらない・・・天下を恐れず挑戦してこそ、新たな道は開かれる・・・それを実践し、天下統一に多くをかけた織田信長はまさに戦国の革命児、カリスマでした。
時には常識を破ってみる・・・簡単ではありませんが、やってみる価値はありそうです。


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8月15日は日本人にとっとて忘れてはならない終戦の日です。
アメリカをはじめとする連合軍と4年近くにもわたって日本が戦いを繰り広げた太平洋戦争・・・
軍部が中心となり、国全体が無謀な戦いを挑んだ結果、およそ310万人もの人々が命を落とし、日本は焦土と化しました。
しかし、軍部の中には、日本の敗戦を予測していた人物もいました。

「もし、戦争が始まったとしたら、東京は三度も四度も丸焼けになる」

その人物こそ、大日本帝国海軍連合艦隊司令長官・山本五十六でした。
日本海軍史上、最高の名提督ともいわれています。
現役軍人が、日本の敗戦を予測していたことも驚きですが、山本は、直前までアメリカと戦うべきではないと・・・日米開戦を回避しようと尽力していました。
それにもかかわらず、山本は自ら指揮を執り、太平洋戦争の口火を切った真珠湾攻撃へと突き進むことになります。

山本五十六は、1884年、元長岡藩士の高野貞吉の六男として生まれました。
五十六の名の由来は、父が56歳の時の子だったからで、この時の姓は高野でした。
性格は、根っからの負けず嫌いで、友人の母に・・・

「なんでもよく食べるけど、さすがに鉛筆は無理ね」

といわれると、手に持っていた鉛筆をバリバリと食べてしまうほどでした。

海軍を目指すことになったきっかけは、10歳の時に勃発した日清戦争(1894年)でした。
この時、叔父の野村貞が、軍艦「高千穂」の艦長として活躍・・・そのことが、五十六少年の心を大きく動かしたのです。
こうして1901年、17歳の時、広島県江田島にある海軍兵学校に入学します。
卒業した翌年、五十六は早くも実戦を体験します。
1905年、21歳の時に、日露戦争の日本海海戦に参戦します。
少尉候補生としてロシアのバルチック艦隊と激戦を繰り広げました。
しかし、この時・・・重傷を負い、左手の指2本を失っていまいました。
現実の戦争の厳しさを我が身に刻んだ五十六・・・
それでも持ち前の負けん気で、海軍大学校へ進学。
在学中に、縁あって、旧長岡藩の筆頭家老だった山本家の名跡を継ぐことになりました。
その後、2度のアメリカ駐在や、ロンドン海軍軍縮会議に参加するなど、海外での経験を積みながら、航空母艦「赤城」の艦長や、第一航空戦隊司令官や航空本部長などを歴任。
そして、山本は、52歳の時に海軍省のNo,2である海軍次官に上り詰めます。



山本五十六には、数々の名言があります。

苦しいこともあるだろう
云い度いこともあるだろう
不満なこともあるだろう
腹の立つこともあるだろう
泣き度いこともあるだろう
これらをじっとこらえていくのが
男の修行である

賭け事をするときの必勝法は・・・??
一、私利私欲を捨てること
一、科学的、数学的根拠の基づく判断をすること
一、勝機が来るのを待つ忍耐

でした。

1936年二・二六事件・・・陸軍の青年将校によるクーデター未遂事件・・・
大蔵大臣の高橋是清と内大臣の斎藤実が暗殺され、総理の岡田啓介まで襲撃されたこの事件以降、陸軍は政治に介入するようになっていきます。
クーデターの再発をちらつかせることで、政治家たちを脅し、組閣人事に口を挟んだり、軍備拡大を強引に行い、陸軍の力を拡大していきました。

その頃、海軍省のNo,2の海軍次官だった山本五十六は、そんな状況に危機感を抱いていました。
そこで、当時、海軍連合艦隊司令長官の米内光政を海軍大臣に推挙することで、陸軍に対抗しようとしていました。
当時の軍部(海軍・陸軍)大臣は、現役の大将と中将の中から軍部の推薦によって任用される軍部大臣現役武官制でした。
米内光政は、山本の海軍の3期上の先輩で、砲術学校教官時代の同僚でした。
まさに、旧知の仲でした。
信頼できる米内が、海軍大臣に就任すれば、陸軍に対抗できると考えたのです。

1937年7月7日、満州国の領土拡大を目論み、南下した日本軍と蒋介石率いる国民革命軍が、盧溝橋で激突し、やがて日中戦争へと発展・・・戦況は泥沼化の様相を呈していきました。
そんな中、ヒトラー率いるナチス・ドイツが日本に対し、ファシストのムッソリーニ率いるイタリアとの軍事同盟・・・日独伊三国同盟の締結を提案します。
三国同盟締結を推し進めたい陸軍大臣・板垣征四郎は、平沼騏一郎内閣に強く働きかけます。
平沼総理は、板垣と海軍大臣の米内らを呼び会議を開きますが、同意を求める板垣に対し、米内は断固としてそれを拒否・・・
実に8か月にもわたり、平行線が続いたのです。

どうして、海軍は日独伊三国同盟に反対したのでしょうか??
陸軍が、三国同盟の締結を強く求めたのは、膠着状態にある日中戦争の局面打開のためでした。
領土拡大をたくらみ、いつ南下してくるかわからないソ連軍を、ドイツにヨーロッパ側からけん制してもらうと同時に、ドイツと手を組むことで、蒋介石の国民革命軍を支援していたアメリカに脅威を与えるためです。
しかし、海軍の米内と山本らは、ヨーロッパ情勢が不安定な中で、特定の国と軍事同盟を組むことは、危険だと感じていました。
この時、ナチスドイツは、オーストリア、チェコスロバキアに侵攻し、さらにはポーランドへの侵攻も狙い、明らかにヨーロッパ制覇を目論んでたのです。
それを何とか食い止めようとしていたのが、イギリスでした。
そして、イギリスを敵に回すことは、その同胞であるアメリカをも敵に回すことを意味していたのです。
山本は、そのアメリカと敵対関係になることを最も恐れていたといいます。

山本は、アメリカに2回、計5年間駐在しています。
いろんなアメリカの姿を見て・・・特にテキサスの油田に注目し、産出量の多さに驚きました。
丁度、軍艦の燃料が石炭から重油に変わっていった時代でした。
その燃料である重油を多く持っている国が海戦を制覇すると言われた時代でした。
デトロイトの自動車工場も回り、アメリカの工業力の高さを評価していました。
アメリカの工業力と資源の豊富さを考えると、日本は勝てないと考えたのです。

日中戦争のさ中・・・1937年パナイ号事件
海軍の航空隊が、誤って揚子江に停泊していたアメリカの砲艦を撃沈させてしまいました。
報告を受けた山本は、すぐにアメリカに対しひたすら頭を下げて陳謝しました。
アメリカと戦うことを避けたい山本は、アメリカの敵ではないと印象付けるように素早く対応したのです。
海軍は、ドイツと軍事同盟を組むと、アメリカと戦争になる危険性があると日独伊三国同盟締結に反対していたのです。

ドイツとイタリアとの軍事同盟・・・日独伊三国同盟を推し進めたい陸軍に対し、海軍次官の山本五十六は反対を表明!!
すると・・・陸軍などの三国同盟締結派が、「弱虫海軍」「腰抜け山本次官」と、揶揄し、あの手この手で海軍に圧力をかけてきました。
やがて、立場上表立って発言できない大臣・米内に代わって、海軍の意見を表明してきた山本が祖の標的に・・・!!
毎日のように、海軍省に見知らぬ男たちが山本に面会を求めやってきて、三国同盟に賛成しろと恫喝したといいます。

1939年7月・・・
東京でダイナマイトを所持していた男が逮捕され、山本をはじめとする三国同盟締結に反対する要人を暗殺する計画まで明らかになりました。
当時日本では、浜口雄幸、犬養毅・・・と、歴代の首相が暗殺される、襲撃される時代でした。
親しい友人には・・・
「自分が殺されても、そのことで国民が少しでも考え直してくれればいい」と言っていたとか・・・。

山本は、次官室に掛け軸をかけていました。

”百戦百勝  不如一忍”

百回戦って百回勝つよりも、じっと耐えて戦わない方が最善の道だという意味です。
敢えて戦うのではなく、戦わない道を選べというのです。

1939年8月・・・思いもよらないニュースが日本に・・・。
ドイツとソ連が不可侵条約を締結したのです。
陸軍の幹部は、大きな衝撃を受けます。
日独伊三国同盟を締結すれば、ドイツがヨーロッパ側からソ連をけん制してくれると散々主張してきた陸軍の面目が丸つぶれとなったからです。
山本五十六は、これでしばらく陸軍はおとなしくなるだろうと胸をなでおろしました。
実は、この時、安堵していた人物がもう一人いました。
昭和天皇です。

「海軍のおかげで国が救われたと思う
 今度のことが契機で、陸軍が目覚めることとなれば、かえって仕合せと言うべきであろう」by昭和天皇

天皇もまた、日独伊三国同盟締結を案じ、陸軍の暴走を危惧していたのです。
しかし、陸軍は、そう簡単には諦めませんでした。
独ソ不可侵条約締結を受け、平沼内閣が総辞職・・・米内も海軍大臣を辞職。
その際、米内は山本に、
「お前は海軍次官をやめ、連合艦隊司令長官になれ」
それには、米内の思いがありました。
米内は、日独伊三国同盟締結に反対し、命を狙われていた山本を救うために、連合艦隊司令長官を命じたのです。

久々の海上勤務を命じられた山本でしたが、一説には、そのまま次官の席に留まることを望んでいたともいわれています。
丁度その頃、ポーランドへ侵攻したドイツに対し、イギリスとフランスが宣戦布告!!
第2次世界大戦がはじまりました。
そして、日本も大混乱に陥っていきます。
日中戦争で、不当に中華民国に侵略していると諸外国から批判され、国際社会から孤立・・・アメリカからは、日米通商航海条約破棄を通告されていました。
当時、日本は原油や重油の82%、鉄鋼の49%をアメリカからの輸入に頼っていました。
それを、大幅に制限されたことで、一気に国内の物価が上昇・・・生活物資が不足し、国民の不安や不満が募るばかり・・・
そん中、日独伊三国同盟締結の機運がフラフラ亡霊のように浮かび上がってきました。
ナチス・ドイツが、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクに侵攻し、遂にはフランスまでも降伏させ、勢いづいていました。
そして、1940年7月、第2次近衛文麿内閣が発足すると、陸軍大臣・東條英機が就任。
一方、海軍大臣には三国同盟反対派の吉田善吾が就いたのですが・・・海軍内部の三国同盟締結派から突き上げを食らい、辞任に追い込まれてしまいます。

すると、近衛総理が・・・

「後任には、陸軍と協調できる人物を頼みますよ」

海軍は、その要望を受け入れ、新たな海軍大臣に、及川古志郎を推薦・・・
もはや、海軍には三国同盟締結を推し進める陸軍に対抗できる勢力は残っていませんでした。

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大臣就任後、及川は、日独伊三国同盟締結案を可決すべく、海軍首脳会議を開き、連合艦隊司令長官だった山本五十六も招集されます。
次官をやめおよそ1年・・・山本の意見は、変わっていませんでした。
多くの幹部は賛成を口にする中、山本はこう発言します。

「昨年8月までの物資動員計画によれば、その8割までが英米勢力圏の資材で賄われることになっていたが、今回、三国同盟を結ぶとすれば、必然的にこれを失うはず。
 その不足をどう補うつもりなのか?
 お考えをお聞かせいただきたい」by山本五十六

しかし、及川は、山本の質問に答えることなく、日独伊三国同盟締結の賛成を可決したのです。

こうして海軍首脳会議が開かれた12日後、1940年9月27日日独伊三国同盟調印。
即ち、アメリカをはじめとする国々と戦う道を選びます。
この頃、近衛総理は、山本を自宅に呼び寄せ、

「日米開戦となった場合、海軍に見通しは如何なものか?」by近衛文麿
「初めの半年や一年は、随分暴れて御覧に入れます
 しかし、二年、三年となっては、全く確信持てません
 かくなった上は、日米戦争の回避に極力ご努力願いたいと思います」by山本五十六

しかし、山本五十六は、日米開戦を避けたいと思いながら、同時に開戦の準備を進めなければなりませんでした。
山本五十六が考えていたアメリカとの戦い方とは・・・??
この頃の日本の海軍の中では、艦隊で攻めてきた敵には艦隊で戦うことが主流でした。
しかし、長らく航空関連の現場を経験してきた山本五十六は、飛行機が秘めている可能性に注目していたのです。
この頃、日米開戦を想定し、頻繁に行っていたのが雷撃という訓練でした。
飛行機に魚雷を搭載し、それを軍艦を狙って投下するというものでした。
山本は、この飛行機を主力とする攻撃方法で、アメリカ軍の軍艦を撃沈させようと考えていたのです。
雷撃に手ごたえを感じていた山本は、こうつぶやいたといいます。

「飛行機でハワイを叩けないものか」

このころ、アメリカ軍の太平洋艦隊の本拠地が、カリフォルニアのサンディエゴからハワイの真珠湾へと移されるというニュースが日本に届いていました。
山本は、その真珠湾を奇襲する作戦で勝機を見出そうとしたのです。
この作戦を、海軍大臣・及川古志郎に提案した上で、山本は、
・海軍が保有するすべての飛行機と航空母艦を投入すると
・作戦は宣戦布告した開戦初日に実行する
べきであると強く主張しました。
宣戦布告後、すぐに真珠湾を攻撃しなければ、アメリカ太平洋艦隊が日本に押し寄せる危険がありました。
艦隊同士の戦いに持ち込むと、長期戦になり、燃料に限りのある日本は不利な状況に追い込まれると考えたのです。
そこで、飛行機を使って、アメリカの太平洋艦隊に大打撃を与えて、短期決戦に持ち込むそこに、活路を見出そうと考えていました。

しかし、作戦を決定する軍令部は、山本の提案を一蹴・・・
失敗すれば、全ての航空母艦や飛行機を失い、ほぼ日本の敗戦が決定してしまう危険があったからです。
この時、軍令部は、燃料の確保を最優先し、フランス領インドシナ南部・・・現在のベトナム周辺への侵攻を第一に考えていました。
この軍令部の案に、山本は猛反対します。

「南方へ進駐している間に、日本本土がアメリカの空襲を受けたらどうするつもりだ
 資源が手に入れば、東京や大阪が焦土となってもよいというのか」

山本は、日本の本土が攻撃を受け、国民が犠牲になることを危惧していました。
南方より、真珠湾攻撃を先にすべきだと主張したのです。

1941年7月・・・日本がフランス領インドシナ南部へと進駐すると、アメリカが猛抗議し、即時撤退を要求しました。
対して日本は、アメリカとの外交交渉を行うも、失敗に終わります。
近衛文麿首相が辞意を表明。
すると、陸軍大臣の東條英機が総理大臣を兼任する軍人内閣が誕生しました。
日米開戦は、いよいよ秒読み段階に入りました。
山本五十六は、真珠湾攻撃を認めない海軍軍令部を説得するため、部下で主席参謀の黒島亀人を派遣。
真珠湾攻撃に反対し続ける軍令部の幹部を前に、黒島は迫ります。

「山本長官は、もしこの案が、どうしても採用できないというのでしたら、連合艦隊司令長官の職をご辞退すると申しておられます」

これを聞いた軍令部の幹部は、それほど自信があるなら・・・と、山本が立案した真珠湾攻撃をようやく正式な作戦計画として採用・・・
日米開戦のおよそ2か月前のことでした。

山本は、大打撃を与えられ、士気を失ったアメリカから講和を持ち掛けさせようと考えていました。
そうなれば、短期間で戦争が終わり、本土が攻撃を受ける心配もなくなるのです。
真珠湾攻撃は、山本が、早期に戦争を終わらせるための策だったのです。

1941年12月2日・・・
大日本帝国海軍の連合艦隊・真珠湾攻撃の機動部隊は、北海道の択捉島を出発し、アメリカ太平洋艦隊の本拠地・ハワイを目指し、北回りで航行していました。
この時、連合艦隊司令長官の山本五十六は、まだ東京で日米開戦を何とか避けようと元総理の岡田啓介らのもとを訪ね、ギリギリまで奔走。
しかし、努力の甲斐なく、ついに開戦日が決定してしまいました。
そして、この日の午後5時30分・・・
機動部隊に向けて暗号電報が発信されました。

「ニイタカヤマノボレ
 ヒトフタマルハチ(1208)」

開戦日は12月8日・・・

決戦当日、山本は、瀬戸内海に浮かぶ戦艦「長門」の作戦室にいました。
山本の作戦の運命は、ハワイにいる機動部隊の責任者南雲忠一に託されたのです。
ハワイの現地時間・・・12月7日6時30分・・・
ハワイ沖を航行中の航空母艦から次々と戦闘機が発進、第一攻撃隊183機が朝焼けに染まる空へと飛び立ち、遂に作戦が決行されたのです。
午前7時30分・・・オアフ島北端に達した第一攻撃隊は西側を迂回し、真珠湾に侵入。
午前7時49分、全軍に攻撃命令が下ると、ほいらー航空基地とヒッカム航空基地に爆弾を投下。
駐機中のアメリカ軍の飛行機が次々に吹き飛びました。
一方真珠湾では、停泊するアメリカ軍の軍艦めがけて雷撃機が急降下し、次々に魚雷を投下!!
たちまち真珠湾は火の海となりました。

日本にいた「長門」の作戦室にも、ハワイからの電報が届きます。

「トラトラトラ
 我 奇襲に成功せり」

その直後には、

「真珠湾奇襲さる
 演習にあらず」

という慌てふためいたアメリカ軍の電報も受信・・・日本軍は、わずか2時間足らずで
戦艦など7隻沈没・座礁 10隻損傷
航空機は231機破壊
周囲が小躍りする中、山本五十六はただ黙って聞いていたといいます。

現場責任者だった南雲は、攻撃を終え戻ってきた航空隊総隊長と話しました。

「追撃する必要はあると思うか?」
「修理工場や燃料タンクなどはまだ手つかずです
 追撃を出す必要があると思います」

しかし、南雲は撤退を命じました。

軍令部から、日本の空母を1隻もアメリカに撃沈されないよう言明されていました。
南雲は、追撃せずに撤退を選んだのです。

真珠湾を攻撃した際、そこにいるはずだったアメリカ軍の4隻の空母が1隻も見当たりませんでした。
一説には、南雲は、追撃を行うとどこから戻ってきたアメリカの空母から反撃され、日本側に被害が出るのではないかと畏れ、撤退したともいわれています。
日本にいた海軍の幹部たちも、南雲に追撃を命じるように山本に進言しましたが・・・

「ここは現場に任せよう
 まあ・・・南雲はまっすぐ帰るだろうが」

山本は、南雲の判断に任せたのです。
しかし、その後、アメリカ軍は、修理工場と燃料タンクに被害がなかったことで、復旧作業を急ピッチで進め、更に、4か月後・・・このとき襲撃を免れた航空母艦から飛び立った爆撃機が東京を空襲。
山本の懸念が現実のものとなってしまいました。

もう一つ、山本が懸念していたのが、国際ルールにのっとり、アメリカに宣戦布告した上で攻撃を開始する予定でしたが・・・
その胸を、軍部に外務省と申し合わせておくように厳命していましたが・・・ふたを開けてみると、中米日本大使館の不手際で、アメリカへの宣戦布告が大幅に遅れ、真珠湾攻撃の1時間後にアメリカに宣戦布告していたことが判明しました。
アメリカ国民と政府は、宣戦布告を行わずして開戦したと激怒し、
「リメンバー・パールハーバー」と、復讐を強く誓うこととなったのです。
アメリカへの宣戦布告する前に攻撃したため、”だまし討ち”の形になってしまいました。
おまけに、航空母艦を一隻も撃沈することが出来なかった・・・
アメリカに講和を持ち出させるほどの大打撃を与えることはできなかったのです。

山本にとっては、成功とはいいがたいものでした。
その後、日本海軍は、各地でアメリカ軍の反撃にあい大敗・・・
次第に日本の敗戦が濃厚になってゆく中・・・
1943年、南方戦線にいた山本は、最前線で戦う兵士たちを激励しようと飛行機に乗って向かう途中・・・ブーゲンビル島(現在のパプアニューギニア)上空でアメリカ軍に撃墜され死去・・・帰らぬ人となってしまいました。

まだ・・・59歳・・・日本敗戦の2年前のことでした。

連合艦隊司令長官という立場にいながら、戦争を避けようと最後の最後まで尽力した山本五十六・・・その生きざまは、今の日本人に呼びかけてきます。
誰が、何のために戦争へと導くのか・・・戦争をしたとき、誰がその犠牲者となるのか・・・と。

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山本五十六のことば [ 稲川明雄 ]

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感想(8件)

山本五十六戦後70年の真実 (NHK出版新書) [ 日本放送協会 ]

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感想(1件)

杉原千畝は、明治33年1月1日、岐阜県八百津町に生れます。
幼いころから成績優秀で、父親からは将来、医者になるように言われていました。
ところが、杉原が興味を持ったのは外国でした。
英語の教師になりたいと思うようになります。
そして18歳になった杉原は・・・
1918年早稲田大学高等師範学校(現教育学部)英語科に入学します。
本格的に英語の勉強しし始めましたが、父の意向に背いての上京だったため、仕送りが無く、たちまち生活費に困ってしまいました。
そんな時、偶然目にした新聞に、外務省の官費留学生募集の広告を見つけます。
それは、3年間の学費と、留学先への渡航費が支給されるというものでした。
学費は最高で年2500円、当時、大学卒の初任給が40円だった時代に、破格の条件でした。
しかし、問題がありました。
中国語・モンゴル語・ロシア語・スペイン語・タイ語・オランダ語・ポルトガル語・トルコ語・・・
募集の中に英語専攻がありませんでした。
それでも、学費が必要な杉原は、諦め切れずに当時人気のスペイン語を選択、猛勉強の末、見事合格しました。
ところが・・・せっかく勉強したスペイン語ではなく、ロシア語を選ばされることに・・・。
この年は、たまたまスペイン語を希望する人が多く、反面、ロシアは革命の混乱などもあってロシア語を選択する者が極端に少なかったのです。
そのため、外務省の担当官は、スペイン語の定員からあぶれた者に、ロシア語を選択するように勧めたのです。

こうして、官費留学生として、ハルビンの日露協会学校に入学。
気持ちを切り替え、ロシア語の専門家になる決意をし、一から必死に学んでいきました。
そこで杉原は、人生の指針となる教えを受けます。
それは、この学校の創設者で、外務大臣などを務めた後藤新平の言葉で、学校のモットーにもなっています。

”人のお世話にならぬよう
 人のお世話をするよう
 そして報いを求めぬよう”

日露協会学校を卒業した杉原は、大正13年、24歳の時に外務省に正式に採用されます。
ハルビン日本総領事館のロシア係として赴任、そこで、ソビエト政権に反対し、亡命してきていた白系ロシア人と交流し、独自の情報網を作り上げていきます。
そんな中、満州事変が起こり、昭和7年、満州国建国。
杉原は、ロシア語の能力を買われ、満州国外交部に引き抜かれます。
その満州国には、懸案事項がありました。
当時、満州国がソ連と共同経営していた北満州鉄道をめぐる問題です。
この鉄道は、両国の紛争の種になっていたこともあって、満州国がソ連の持つ経営権を買い取る方向で交渉が始まりました。
ソ連が提示した譲渡価格は・・・当時の日本円で6億2500万円!!
対して満州国が示した金額が5000万円でした。
交渉は平行線をたどりました。

その状況を打破したのが、満州国側の一員として交渉に参加していた杉原でした。
杉原は、交流を深めていた白系ロシア人からある重大な情報を手に入れます。
ソ連側が交渉のさ中にも関わらず、北満州鉄道の車両を密かにソ連内に運び出していたのです。
ソ連の行為は不当だとして杉原は、それを盾に交渉します。
譲渡金を1億4000万円まで値下げさせたことで、譲渡協定は結ばれました。
この功績により、杉原の外交官としての名声は国内外に一気に広まることになります。

同じ頃、ヨーロッパでは戦争の機運が高まりつつありました。
ドイツではヒトラーが総統となり、全権を掌握し再軍備へと進みます。
ロシア革命後のソ連では、鋼鉄の人と呼ばれたスターリンが独裁体制を固め、ドイツの動きを警戒していました。
そんな中、杉原の新たな赴任先は・・・ヨーロッパのバルト三国の一つリトアニアです。
どうして杉原は、リトアニアに派遣されたのでしょうか?
当時の日本は、モンゴルと満州の国境付近でノモンハン事件と呼ばれるソ連との武力衝突のさ中でした。
杉原が、ソ連に近いリトアニアに派遣されたのは、ノモンハン事件を外交的に解決するための情報を集める目的だったと言われています。
こうして、昭和14年8月28日、家族と共にリトアニアのカウナスに着任・・・39歳でした。

リトアニア着任から9か月たった昭和15年6月・・・
ソ連がリトアニアへの強引な進駐を開始。
カウナスにあった各国の大使館や領事館に対し、8月25日をめどに閉鎖することを求めてきました。
その準備に追われていた7月18日の朝の事・・・窓の外を見た杉原は驚きました。
領事館の鉄柵の向こうに、大勢の人が押し寄せてきていたのです。
杉原はすぐにその中の代表者を呼び、話しを聞くことにしました。
すると・・・

「我々は、ポーランドから逃げてきたユダヤ人です
 どうか日本の通過ビザを交付していただきたい」

当時、ヨーロッパにいたユダヤ人は、ナチスドイツから迫害されていました。
ユダヤ人迫害の歴史は古く、ユダヤ教徒がイエス・キリストを救世主として認めなかったことに端を発します。
それ以来、ユダヤ人はキリスト教を冒涜する存在としてヨーロッパのキリスト教徒から疎まれるようになり、ヒトラーは、その反ユダヤ主義を利用し、明確な敵をつくることによってドイツ国民を一つにしようとユダヤ人を迫害します。
迫害はドイツ国内にとどまらず、占領したポーランドでも行われていました。
そして、ユダヤ人にとって逃げ込んだリトアニアも安全とは言えませんでした。
進駐してきたスターリンも彼らを敵視していたからです。

「一刻も早く遠くに逃げたい!!」
 
そんなユダヤ難民たちに最初に手を差し伸べたのは、カウナスにいたオランダ名誉領事のヤン・ズヴァルテンディクでした。
ズヴァルテンディクは、南米にあるオランダ領のキュラソーやスリナムならビザが無くても入国できる・・・そう考え、独断での入国許可の証明書をユダヤ人たちに与えました。
逃げる先が決まったユダヤ人たちでしたが、問題はそこまでどうやって行くかでした。
ヨーロッパを抜けていくルートはナチスドイツの脅威があって使えません。
残された方法は、シベリア鉄道を使って東から行くルートです。
ただし、シベリア鉄道の終点・ウラジオストクからは日本の通過ビザがないと海を渡ることが出来ません。
その為、多くのユダヤ難民が、カウナスの日本領事館に押し寄せてきたのです。

杉原は、急いで日本の外務省に通過ビザ発給の許可の電報を打ちます。
帰ってきた答えは・・・

「渡航先の入国許可や、渡航費用を持たない者には通過ビザを発給してはならない」

ビザ、発給の規定を厳守するようにというのです。
ユダヤ難民の中には、キュラソーやスリナム以外を希望する者もいて、彼らの多くは入国許可を持っていませんでした。
それに、命からがら逃げてきたユダヤ人たちが、十分な渡航費用を持っているわけもなく・・・
杉原は悩みます。

「少量のビザ発行なら何とかすることもできるが、これだけ大量になると自分の裁量を越えている・・・
 問題が起これば服務規程違反で首になるかもしれない・・・」

そんな時、連日のように領事館の前にたたずむのを見た幼い長男が・・・

「あの人たちは何をしに来たの?
 パパが助けてあげるの??」

杉原は、腹をくくりました。
そして妻・幸子にこう言うのです。

「私は外務省の指示に背いた 
 領事の権限でビザを出すことにしようと思うがいいだろうか
 職務規定違反で外務省も辞めさせられるかもしれない
 それでも、私はやるべきなのだろうか」

「あとで私たちはどうなるかわかりませんけど、ぜひそうしてあげてください」


リトアニアのカウナスに赴任した年の暮れ、杉原はひとりのユダヤ人少年ソリー・ガノールと出会います。
当時11歳だったソリ―は、ユダヤ今日のお祭りで貰った小遣いをポーランドから逃れてきた難民共催のためにすべて寄付しました。
ところが、見たかった映画のお金を残さなかったことをその後後悔していたのです。
杉原は、たまたま訪れたソリ―の叔母の店でその話を聞きました。
そして、僅かな銀貨を差し出し、ソリーに言いました。

「これで映画を見なさい
 私のことを君のおじさんだと思ってくれればいいから・・・」と。

それ以来、ソリー一家と家族ぐるみの付き合いが始まったのです。
この時、ソリーの家にはポーランドから逃げてきたユダヤ人が匿われていました。
そして彼らは杉原にこんな身の上話をしました。

ワルシャワでナチスドイツによる空襲を受け、妻と長女の命をうばわれた
私は命からがらなんとか次女と逃れてきたんだ

そうした厳しい状況を聞き、胸を打たれた杉原は、自分に何かできないかとずっと考えていました。
だから、職を失う覚悟で決めたのです。
ただ・・・その一心で・・・!!

昭和15年7月末・・・
杉原千畝は、リトアニア・カンザスの日本領事館に押し寄せるユダヤ難民を助けるため、独断で日本の通過ビザの発給を始めました。
しかし、日本領事館閉鎖まで1か月・・・時間はあまりありませんでした。

「一人でも多く助けたい!!」

そう考えていた杉原は、朝食を食べ終わるとすぐに執務室に入り、行列を成すユダヤ人一人一人と面会・・・
ビザを発給していきました。
多い日には、1日250通を超えるビザを・・・
愛用の万年筆が折れるまで書き続けました。
やがて、手だけではなく体中が痛み出したといいます。
それでも杉原は休みませんでした。

そんな中、杉原からビザを受け取った最初のユダヤ人たちが日本に着きます。
すると・・・8月16日、外務省から1通の電報が届くのです。
そこには・・・

”カウナス領事館で発給された通過ビザを持参しているものの中には、行先国の入国手続きが済んでいない者がいて上陸を許可できないので、対応に苦慮している
 行先国の入国手続きを完了し、十分な旅費を持っている者でなければ通過ビザを与えないように”

しかし、外務省からの指示通りに発給規定を厳守すれば、助けられないユダヤ人たちが大勢出てしまいます。
そこで杉原は、このままビザの発給を続けるためある策を講じます。
その策とは・・・??
それは、発給規定の厳守を命じた電報を一旦無視するというものでした。
外務省への返事を後回しにし、ビザを発給し続けたのです。
そしてそこに、こんな発給条件を記したスタンプを押していきます。

”本ビザは、ウラジオストク乗船までに本邦以遠の行先国入国許可取り付け並びに乗船券予約を完了すべきことを了知する旨申告せしめ交付せり”

リトアニアを出る時には行先国の入国手続きは済んでいないが、日本に入るまでには入国許可を得させ、行先国までの船の予約を済ませるという条件付きで特別にビザを発給したと・・・。

これもまた、外務省からの電報に対する杉原の対応策の一つでした。
こうして杉原は、領事館を閉鎖するまでの12日間、条件付きビザを発給し続けます。

昭和15年8月分28日、カウナスの日本領事館を閉鎖。
その後、ようやく外務省へ返事を送ります。

”ウラジオストクで日本行きの船に乗るまでに行先国の入国許可を取り付けること、また、日本からの目的地までの乗船券の予約を済ませること、以上の実行を条件にビザの発給をしています”

条件付きでビザを発給したことを伝える杉原の電報が外務省に送られたのが、初めにもらったユダヤ人たちが日本に渡ろうとするとき・・・そのビザが偽造ではなく、杉原がだした正式なものだと証明する事にもなりました。
そして、この電報の最大のポイントは・・・”ビザを発給しています”と、現在進行形で書いたことです。
昭和15年9月3日に外務省から杉原に宛てた電報には・・・

”貴殿の如き取り扱いをなしたる避難民の後始末に窮しておる実状につき
 以後は、往電22号の通り厳重取扱いありたし”

とあります。
以後は厳守してビザを発給するようにと書かれていたのです。
この電報が届いたのは9月3日・・・すでに、8月28日には領事館を閉鎖しているので、これ以後は・・・ということは、杉原がそれまでに発給したビザはすべて有効となった事を意味するのです。

もう一つ大事なことは、当時の日本の規則では、ビザ発給に当たっては十分な旅費を持っていることが必要とされていました。
しかし、具体的な金額を示す基準がありませんでした。
この曖昧さも、杉原に有利に働きました。
杉原の発給したビザの数は、記録によると2140人分・・・通説では、杉原が救ったユダヤ人は6000人ともいわれています。
ビザは、当時は家族全員で1つのパスポートなことも見受けられます。
1通のビザが複数の人を救っていたのです。
リストを見ると、領事館を閉鎖する日が近づくにつれ、1日当たりのビザ発給数が極端に少なくなっています。
これは、ビザを求める人が増えたため、ビザ発給に専念し、数の記録をとることが出来なかったからだと思われます。
こうしたことから、リストに載っている数よりも、杉原が実際に助けたユダヤ人の数が多いと言われているのです。
この時、杉原がユダヤ人を助けていることは、ナチス・ドイツに伝わっていました。
近年の研究で、領事館の事務員グッチェが、ナチスのスパイだったことが分かっており、そこから伝わったのではと考えられています。
まさに、命を狙われてもおかしくない状況で、ユダヤ難民を救った杉原千畝・・・彼は後に、こう語っています。

「全世界に隠然たる勢力を擁するユダヤ民族から永遠の恨みを買ってまで、ビザを拒否しても構わないのか。
 それが果たして国益に叶うことだというのか」

ユダヤ人を救うことは、必ず将来の日本のためになる・・・命のビザは、そういう強い信念のもと発給されたのです。



わかっているだけでも、2140という膨大なビザを一か月にわたって休むことなく発給し続けた杉原千畝・・・
昭和15年8月28日、リトアニア・カウナスの領事館を閉鎖。
ベルリンに向かうことになっていました。
その汽車を待つ間、市内にあるホテルメトロポリスに宿泊していたのですが、ユダヤ人たちがビザを求めてここにもやってきたのです。
しかし、ビザの発給に必要な公印は、すでにベルリンに送ってしまっていました。
そこで杉原は、ビザに準じる日本への渡航許可証を書くことに・・・
公印はなくても、自分のサインだけで書くことが出来たからです。
ホテルをたつその日まで、渡航許可証を発行します。
しかし、とうとうリトアニアを立つ日がやってきました。
すると、杉原を追って駅にまでユダヤ人たちがやってきました。
ドイツのベルリンに向かう汽車に乗った杉原は、その窓から身を乗り出すように手渡されたパスポートに次々と渡航許可証を署名し続けたといいます。
発車の汽笛が鳴ると・・・

「ゆるしてください
 もうこれ以上書くことはできません
 皆さんのご無事を祈っています」by杉原千畝

この言葉を聞いたユダヤ人の一人は・・・

「スギハラ!私たちはあなたを忘れません!
 いつか必ず再会しましょう!!」

そこにいる全てのユダヤ人が、杉原に深く感謝していました。

杉原千畝が発給したビザにより、ユダヤ人たちはウラジオストクから日本の敦賀に上陸できました。
ところが、想定外の問題が発生します。
オランダ領のキュラソーや、スリナム以外のアルゼンチンなどの中南米諸国が、ユダヤ人の入国を拒否するようになっていたのです。
これを受け、外務省はウラジオストク総領事館に対し、渡航先が中南米諸国の場合、日本に向かう船に乗せる許可を出さないように指示しました。
乗船許可を得られなければ、ユダヤ人たちはソ連によって拘束されてしまいます。
そうなれば、命の保証はありません。

ユダヤ人たちが、命の危険にさらされるのをわかって追い返すことなどできない・・・
そういって、外務省の方針に異を唱えた人物がいました。
ウラジオストク総領事代理・根井三郎です。
根井も、杉原と同じ日露協会学校でロシア語を学んだ外交官でした。
根井にとって杉原は、外務省では先輩であり、学校では同窓生でした。
当然、根井も、あの教えを大事にしていました。

”人のお世話にならぬよう
 人のお世話をするよう
 そして報いを求めぬよう”

根井は、杉原からのバトンを受け継ぎ、命のビザを繋ぐため、外務省に電報で抗議します。

「日本の領事が出したビザを行先国が中南米になっているというだけの理由で、一律に船に乗る許可を与えないのは日本が発行したビザの威信をそこなうことになり、面白くない」

根井は、外務省の指示に従わず、ビザを持つすべてのユダヤ人を受け入れ、敦賀港に向かわせたのです。

リトアニアのカウナスからドイツのベルリンについた杉原は、ドイツ大使だった来栖三郎からチェコスロバキアのプラハにある日本総領事館の領事代理を務めるよう命じられました。
外務省外交史料館には、そのプラハで杉原が発給したビザのリストが2通保管されています。
そこには、合計120人の名前が記されており、そのほとんどがユダヤ人でした。
杉原がいたプラハはこの時、ドイツの占領下にあり、ユダヤ人への弾圧が強まっていました。
その現状を見た杉原は、ユダヤ人たちを救いたいと、ここでもビザを発給していたのです。

その時、杉原にビザを発給してもらったジョン・ステシンジャーは、

「プラハの日本総領事館は、すでに長蛇の列ができていた
 中に入ると杉原に、”君は日本語が話せますか”と聞かれました
 その時私はたまたま”ハイ”という日本語を知っていたのでそう答えると、杉原は微笑みながら
 ”よろしい ビザを出しましょう”と、発給してくれました」

と言っています。
きっと杉原は、わかっていたのでしょう。
ジョンが、ハイ以外の日本語を話せないということを・・・。

プラハで発給したビザには、条件を満たしていない者も多く含まれていただろうと言われています。
この時は、杉原はリストにある80人以上の他にも多くの人を救っていたと考えられます。
ジョン・ステシンジャ―一家がプラハをたった後、プラハ郊外にゲットーが築かれ、終戦までにおよそ14万人ものユダヤ人が収容されたと言われています。
そして、そこで働けなくなった者は、アウシュビッツ強制収容所に移送。毒ガスなどで命を失いました。
もし、杉原がプラハにいなければ、ジョンは命を落としていたかもしれません。

昭和20年、第二次世界大戦が、同盟を結んだドイツ、イタリア、日本の敗戦で終結・・・
ルーマニアのブカレストで終戦を迎えた杉原は、その2年後、家族と共にシベリア鉄道で帰国。
外務省を退職すると、商社に勤め、再び海外生活を送ることとなります。
そんな杉原を探している人がいました。
杉原が発給したビザによって命を助けられたユダヤの人々です。
ところが、どんなに探しても、杉原を探し出すことはできません。
一説には、杉原は外国人が発音しやすいように”チウネ”を”センポ”と呼ばせていたといわれています。
ユダヤ人たちは”センポ・スギハラ”を探していたため見つからなかったというのです。

時は過ぎ、昭和43年、68歳になっていた杉原も、また、ユダヤ難民たちの消息が気になり調べ始めていました。
そんな中、日本にあるイスラエル大使館から連絡が入りました。
訪ねて行くと・・・そこには、杉原によって救われたユダヤ人が・・・!!
リトアニア・カウナスの日本領事館で、ビザを求める嘆願をしに来たユダヤ人たちの代表・ニシェリでした。
彼は、イスラエル大使館の参事官となっていたのです。
28年ぶりの再会に、2人は手を取り合い喜んだといいます。
それから17年が経ち、昭和60年・・・イスラエル政府は、杉原の功績をたたえ、日本人で唯一となる「諸国民の中の正義の人」として、イスラエル政府から表彰されます。

そして、その翌年、昭和61年7月31日永眠・・・86年の人生でした。

杉原は、生前こんなことを言っています。

「私のしたことは、外交官として間違った事だったかもしれない
 しかし、私には頼ってきた何千人もの人々を見殺しにすることはできなかった
 大したことをしたわけではない
 当然のことをしただけです」

そして杉原は、それが国益になると考えていました。
その通り、2011年の大震災の際、イスラエルの人々は多大な支援を日本の対して行ってくれました。
当時のイスラエル大使はこう言っています。

「これは恩返しなのです
 我々は、杉原千畝の恩を、決して忘れることはありません」

杉原が、自らの命を懸け、繋いでくれた国と国、人と人との絆・・・これもまた杉原の言っていた国益なのかもしれません。
命のビザを発給し続けた杉原千畝・・・信念を貫き、国も、人種もこえ、まさに正義のために生きた人でした。



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今日富上京区にある観世稲荷社・・・室町時代、この辺りにあったのは、観世家の屋敷です。
観世とは、今に続く能の流派の一つ観世流を受け継ぐ家・・・
その始まりは、700年ほど前まで遡ります。
観世座という芸能一座を率いた観阿弥です。
そして観阿弥の意志を継いで大成させたのが、息子の世阿弥です。
2人は能に、様々な革新を起こしました。

世界最古の舞台芸術としてユネスコの無形文化遺産に登録されている能・・・
謡とお囃子を伴奏に、舞踊的な所作で物語を展開させていく幽玄な歌舞劇です。
その始まりは、中国伝来の散楽と呼ばれる曲芸に、歌舞などの日本古来の芸能が融合された猿楽・・・
当初は、滑稽で人を楽しませる芸術でした。
そんな猿楽の一座を率いていたのが観阿弥でした。
鎌倉幕府が滅亡した1333年に、大和国の猿楽師であった父のもとに生れました。
やがて自ら観世座という猿楽一座を率いる観世太夫となります。

当時の猿楽師の在り方は、乞食の所行と呼ばれていました。
地位は低いものでしたが、観阿弥はスター役者でした。
猿楽の地位を上げようと奮闘し、革新をもたらしていきます。
観阿弥は、猿楽に当時の流行歌謡である曲舞を取り入れ、メロディー中心だった猿楽に、曲舞の拍子の面白さを加え、新しい謡を編み出しました。
現代で言えば、ラップに近い面白さがありました。
猿楽に別ジャンルの要素を取り入れ、革新を遂げた観阿弥の一座は、頭角を現し、京で勧進能を催すまでになります。
そんな中、観阿弥に待望の跡継ぎが誕生!!
1368年世阿弥が生れます。

時は二つの調停が並び立つ南北朝時代!!
北朝方の室町幕府の力は盤石ではなく、各地で反乱がおこる中、1367年、室町幕府2代将軍足利義詮が病死。
家督を継いだのは、僅か11歳の義満でした。
1368年、3代将軍に就任!!
ここから観阿弥・世阿弥親子の運命が大きく動くのです。

義満の時代~「蜜月」

1375年、観阿弥43歳の時、猿楽の地位を向上させる最大のチャンスが訪れます。
京都新熊野神社での観世座猿楽興業に、将軍・義満が見学に来るというのです。
”将軍という最高のパトロンを得られるかどうか?”観阿弥にとっては勝負の時でした。
そこで、観阿弥は一計を案じます。
興業の冒頭で、必ず演じられていた翁猿楽の翁役を自ら演じることにするのです。
通常は一座の長老が行うのが習わし・・・異例のことでした。

「翁」は、役者が最初は面をつけずに素顔で演じる演目です。
翁を演じる役者が年寄りだと、義満が興ざめする恐れがありました。
観世座の中心役者である自分が、最初に出てくることで義満の興味を引けると考えたのです。

観阿弥の狙いは敵中~~!!
見事、義満の目を引きます。
さらに、義満が目を奪われたものは・・・美少年と言われた世阿弥の姿です。
一説には、世阿弥はこの時13歳、義満は18歳だったといいます。
美少年好きの義満は、世阿弥を常に自分の傍に置き、可愛がりました。
祇園祭見学の際には、同じ席に世阿弥を上げ、杯を交わすほどだったといいます。
しかし・・・義満が世阿弥を寵愛したのは、義満が美少年だったから・・・だけではありませんでした。

当時の幕府は、武力によって地方を押さえ、政治を行っていました。
しかし、すべてを承認する権限は、朝廷にあったため、自由に物事を進めることが出来なかったのです。
そこで、義満は公家社会に入り込むことで、朝廷を思い通りに動かそうと考えます。
しかし、朝廷では、多くの儀式が古いしきたりのもとで行われており、武士である義満が、容易に入っていける世界ではありませんでした。
そこで、まずは摂関家・二条良基に朝廷の儀礼や作法を学びます。
これが認められ、義満は1378年、武家にとって最も名誉な右近衛大将に任じられ、その3年後の1381年には武家として異例の内大臣に昇進、朝廷内での発言力を強めていきます。
しかし、義満は・・・京の高い公家文化にコンプレックスを持っていたと考えられます。
その為、義満は京の高い文化に対抗できるものが自分にもほしいと考えました。
観阿弥率いる観世座は、新しい猿楽の在り方を実現させていました。
義満が、新しい文化を掴んでいることを内外に示す意味があったのです。
そして、観世座の猿楽が、義満の政治・文化ラインに沿うようなものになっていったのです。
義満は、観世座の猿楽を、広告塔として使うようになりました。
観阿弥は、世阿弥に将軍や幕府の中枢にいる武士や公家と対等に付き合えるように、和歌や蹴鞠なども習わせていました。
全ては、猿楽を都で認めさせるためでした。

こうして、将軍という強力なパトロンを得た観阿弥でしたが、1384年5月、52歳・・・巡業先の駿河で急死します。
跡を継ぎ一座のTOP・観世太夫となったのは22歳の世阿弥でした。
父の遺志を継ぎ、観世座を守り、盛り立てて行こうと精進していきます。
そんな世阿弥に最初の試練が・・・ライバルの出現です。
大和と並んで猿楽の盛んな近江の猿楽師・犬王です。
天女の舞を躍らせたなら、右に出る者はいないと高い評判を得ていました。
義満も、そんな犬王をいたく気に入ったようで、犬王が将軍お気に入りの役者の筆頭に躍り出ます。
世阿弥は、犬王の存在を強く意識します。
自分にはない優美さがあったことも、大きな理由でした。

足を細かく使ったり、地面を踏んだりする力強い鬼の演技を得意とする世阿弥は、自分にはなかった犬王の幽玄で美しい舞を貪欲に取り込み、鍛錬を積んでいきます。
パトロンである義満の好みに近づくために・・・!!
時代の風を詠み、新たな要素を取り込んで芸を高めていく・・・
それは、一座の蝶として観世座を守るための世阿弥の生き残る術・・・戦略でした。
一座の長としての重責を担い、ジレンマと戦いながらも自らの芸を磨いて行った世阿弥・・・
将軍・義満のご贔屓も取り戻します。

大衆芸能だった猿楽を、名実ともに京文化の中心に引き上げた観阿弥・世阿弥親子・・・
2人の名についている阿弥というのは、芸名です。
世阿弥がこの名を名乗るようになったのは、40歳になるころでした。
それまでは、元清とか、三郎などと名乗っていました。
しかし、将軍周辺で、これからは出家した際につける法名の一つ阿弥号で呼ぼうということになりました。
父親である観阿弥が、観世を名乗っており、世阿弥も当時、そう呼ばれていたようで・・・そこから世という文字が使われ、将軍・義満の一言で”ぜあみ”と呼ぶようになりました。
ちなみに阿弥は、当時の文化人のステイタスシンボルでした。
義満によって、文化人に相応しい名前を得た世阿弥・・・しかし、蜜月はついに終わりを告げます。

1408年、世阿弥のパトロンだった室町幕府3代将軍足利義満死去・・・
幕府の実権は、4代将軍・義持に移りました。
これによって、世阿弥の人生は、またも大きなうねりを見せます。

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義持の時代~「苦難と革新」

将軍・義持には、贔屓にしている役者がいたのです。
農耕行事から生まれた芸能・田楽出身の増阿弥です。
その演技に世阿弥自身も魅了されます。
淡々とした中にも深い味わいを持つ舞の美しさ・・・新たなライバルの出現に、世阿弥は奮い立ちます。
追求したのは花・・・

「花と面白きと珍しきと これ三つは 同じ心なり」by世阿弥

花の意味とは・・・??
花は、観客にとっての新鮮さ、面白さであって、世阿弥は如何に観客を面白がらせ、舞台に感動の花を咲かせるかを追求していました。
新しき花を、珍しき花を、生み出すことを追求していった世阿弥・・・
そんな彼が挑んだのは、新しい能の作品を作ることでした。

「能の本を書くこと この道の命なり」by世阿弥

世阿弥は、能の本を書く・・・新たな作品を作ることで、最大の革新を起こしていきます。
その中で、強く影響を受けたのが禅です。
世阿弥は50歳を過ぎてから座禅修行を行う仏教宗派・禅宗に深く帰依していました。
世阿弥は、禅画や枯山水のような「余白の美」で表現できる美しさを能の中に取り入れようとしたのです。
余白の美を能に取り入れようとした世阿弥は、「動十分心 動七分身」といっています。
思っているよりも、身体の動きを抑えることで、敢えて心情が伝わり趣が生れる・・・と。
心を平穏にして、リラックスして、新しいものを作ろうというニーズが高まっていたのです。
静かで美しい動きの中に表す心の機微・・・感情の奥深さで、見る者たちの心を鎮めようと考えた世阿弥・・・。
こうして生み出された新たな能のスタイルが、夢幻能です。
それまで演じられていたのは、現在能・・・現実の世界で起こる事件や出来事を題材とした能です。
これに対し、夢幻能は、神や幽霊、聖霊など現存しない者たちがシテと呼ばれる主役となり描かれます。
物語が大きく前半と後半に別れているのが特徴・・・
その構成は、物語の脇役である旅の僧侶などが、源氏物語や伊勢物語など当時の貴族が好んだ物語や和歌に詠まれた土地にやってきます。
すると、そこで主人公に出会います。
主人公は、この土地ゆかりの出来事や人物についてまるで見てきたかのように語り出し、最後に私こそがそのゆかりの者だと名乗って消えてしまいます。
そして物語は後半へ・・・
旅の僧侶の夢の中に、主人公の亡霊が当時の姿で現れ昔の出来事を再現・・・
その苦悩を舞って見せます。
やがて夜が明け、僧が夢から覚めるとともに霊は消え、物語は終わるのです。
このような構成のため、夢幻能は、この世に未練を残し死んでいった者たちが主人公となる悲劇が多いのが特徴です。
世阿弥が編み出したこの夢幻能・・・「能」はもともと鎮魂の芸術、レクイエム・・・亡者供養の世界です。
非業の最期を遂げた人間や、地獄に落ちた人間の人生で一番輝いた一瞬を舞台で再現する・・・これが亡者供養に繋がるのです。
また、夢幻能は、日本のあらゆる古典文学や昔話を能の中に取り入れることが出来る画期的な仕組みでした。
世阿弥は、夢幻能という新しい演劇の編集装置を使い、次々と作品を生み出していきました。
伊勢物語を軸とし、平安時代の歌人在原業平を待ち続ける妻の令を主人公にした幻想的な「井筒」。
兄・源頼朝によって死に追いやられた義経の亡霊を主人公にし、屋島の戦いでの活躍を描いた「八島」。
世阿弥は天賦の才で、能を洗練された舞台芸術へと高めていきます。
世阿弥の手による作品は、わかっているだけでも50くらいはあるのでは??と、考えられています。
また、猿楽が能と呼ばれ始めるようになったのも、世阿弥の頃だといわれています。
そしてその能の演目は、ほぼ変わらず上演され続けています。

主に大衆を喜ばせ笑わせていた芸能・猿楽を、能という高度な洗練された舞台芸術へと高めていった世阿弥・・・
様々な革新によって大成された能は、700年近くたった今も、連綿と受け継がれています。

「住する所なきを まづ花と知るべし」by世阿弥

同じ芸や得意な芸ばかりやらず、常にその先にある新しい芸を求め続けよ・・・

「秘すれば花なり」

世阿弥は、能を理論的に綴った日本初の演劇論「風姿花伝」の中のことばです。

世阿弥は風姿花伝をはじめとした高度な能楽論をおよそ20も執筆しています。
「花鏡」もその一つで、中には有名な言葉が・・・

「初心忘るべからず」

単に初々しい時の心を忘れてはいけないという教えだけでなく、如何に己が未熟であるかということを忘れてはいけないという教えが込められています。
多くの教えを書き残すことで、後進の育成に力を注いだ世阿弥・・・
しかし、自身の後継者というと・・・妻・寿椿との間になかなか子を授かりませんでした。
そこで、弟の嫡男・三郎元重を養子とし、跡を継がせることにしましたが・・・
その後、2人の男子(十郎元雅・七郎元能)を授かります。
これで候補者は3人となってしまいました。
当初の予定通り養子にするか、実子のどちらかにするか・・・??
1422年実施である十郎元雅を観世太夫にします。
世阿弥は、「花伝第六花修」に”能の本を書くことこの道の命なり”と書いています。
能本を書く才能を非常に重視していました。
その才能を十郎元雅は持っている・・・実子であったことも大きな理由ですが、十郎元雅が優れた劇作家だったために選んだのです。
しかし、この決断が、世阿弥のこの後の人生を大きく揺るがすこととなります。

1423年、世阿弥が60歳を超えた頃、幕府は後継者問題で揺れます。
4代将軍・足利義持が息子である義量に将軍職を譲るも、その2年後に義量が19歳で亡くなってしまいます。
その為、出家していた義持が将軍代行に就いたのですが・・・
1428年、跡継ぎを決めないまま義持死去・・・。
そこで、次の将軍は”くじ引き”で決めることに!!
結果・・・義持の弟義教が6代将軍に就任しました。
これが、問題でした。

義教の時代~「絶望」

義教の治世は、恐怖政治と恐れられました。
その性格にも難があったといいます。
意に沿わない者は、厳罰に処し、死罪をも辞さないという横暴ぶりです。
人々は震え上がりました。
その矛先は観世座にも・・・!!
後小松上皇の仙洞御所で催されるはずだった世阿弥・・・元雅親子による猿楽の公演が、突如将軍・義教によって中止されたのです。
弾圧とも迫害ともいえる義教の横暴は続き、舞台から遠ざけられていきます。
どうして義教は、強く当たったのでしょうか??

義教は無類の猿楽好きでした。
将軍になる前からお気に入りの能楽者がいました。
それが、世阿弥の養子・三郎元重だったのです。
義教は、異常なほど三郎元重に肩入れをしていました。
観世座を告げなかった元重は、観世座の中で別グループを率いていました。
そんな元重を、義教は将軍になる前から贔屓していて、世阿弥親子が演じるはずだった仙洞御所での猿楽公演にも元重を抜擢したのです。

その後も、興業の機会が奪われるなど、観世座に暗雲が立ち込める中、世阿弥に追い打ちをかける出来事が起こります。
次男の七郎元能が能の道を捨て出家・・・さらに跡を継いだ十郎元雅が巡業先の伊勢で急死。
世阿弥の悲しみは深く・・・

「私は元雅に能の神髄をすべて書いて残してやりました
 しかし、その元雅が若くして逝ってしまった今、すべて無駄になってしまったのです
 ああ・・・すでに埋もれ木となったこの歳になって
 花盛りの元雅のその花の跡を先に見るとは・・・」

まさに、絶望の淵にいました。
そんな中、1433年、将軍義教の庇護のもと養子の三郎元重が観世太夫となります。
そして、京都・糺河原で3日間に及ぶ盛大な襲名披露の猿楽公演を行いました。
将軍義教の支援のもとで・・・!!

1434年、世阿弥が突然佐渡へ配流!!

佐渡には数々の世阿弥の伝説が残されています。
例えば、大干ばつに見舞われた際には、世阿弥の雨乞いの舞で大粒の雨が降り出し、島民をすくったと伝えられています。
そんな佐渡に世阿弥が流されたのは、70歳を過ぎてのことでした。
どうして配流となったのか・・・??
書物には

”世阿弥が娘婿である金春禅竹をあまりに寵愛したため、我が子(養子の三郎元重)と仲違えをし、将軍の機嫌を損ねて佐渡へ島流しにされた”

とあります。

これは江戸時代ごろに作られた創作だと思われます。
世阿弥の島流しには、長男・十郎元雅との立場が関係していたともいわれています。
十郎元雅は、藩幕府勢力とのつながりを持っていたのではないか?といわれています。
長男の十郎元雅が、藩幕府勢力と繋がっていたことで、連帯責任をとらされた可能性があるのです。
しかし、それを裏付ける正式な資料はなく、真相は今も闇の中です。
ただ、世阿弥が佐渡に流されたのは事実・・・
そこでの暮らしを伝える生活を金春禅竹に宛てた手紙が残っています。

「おいてきた妻が心配でなりません
 そんな妻と私への援助に感謝してもしきれません
 佐渡では支障なく暮らしております」

そして、鬼の能について質問してきた禅竹に、こう答えるのです。

「ただ荒々しいだけの芸をしてはならない」

世阿弥は佐渡で、「金島書」を書いています。
最後まで能への情熱は消えていなかったのです。

その後、1441年、観世太夫・・・元重の能を見物中に義教は暗殺されます。
一説にはその義教が亡くなったことで、世阿弥は流罪を許されたとされています。
しかし、京都に戻って来られたのか?そのまま佐渡にいたのか・・・??いつ亡くなったのか・・・??
それは、わかっていません。
そんな不遇な晩年を送った世阿弥・・・しかし、最期まで理想とする花を、能を追い求め、伝えることを諦めませんでした。
その気持ちは、今も世界に誇る伝統芸能・能の中に生き続けています。

「命には終わりあり
 能には果てあるべからず」by世阿弥


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