日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: にっぽん!歴史鑑定

昭和20年8月12日・・・太平洋戦争が苦境になる中、国民はまだ日本が勝つと信じていました。
ところが、首相官邸の一室では、ある文書の草案が秘密裏に作られていたのです。
3日間・・・ほぼ徹夜で・・・!!
”終戦の詔書”です。
アメリカなど連合国から降伏を迫られポツダム宣言を受諾し、3年8か月に及んだ戦争を終わらせる決断をしていたのです。
しかし・・・すべての者が納得していたわけではありませんでした。

「神国日本に敗戦などない!!」

徹底抗戦を叫び、終戦を国民に知らせる玉音放送を阻止しようと、クーデターを起こした将校たちがいたのです。
その最後の24時間とは・・・??

昭和20年8月14日午前11時55分・・・
玉音放送のおよそ24時間前、アメリカ軍の爆撃機B29が山口県岩国市に焼夷弾の雨を降らせました。
さらに、光市にあった海軍工場も爆撃!!
併せて死者1200人以上!!の尊い命が奪われました。
その時皇居では、天皇が列席する御前会議が行われていました。
日本の運命を決める御聖断がなされたのです。
皇居の防空施設・御文庫付属庫・・・御前会議はこの中にあった会議室で行われていました。

「私は世界の現状と国内の事情を十分検討した結果、これ以上戦争を継続することは無理だと考える
 自分は如何になろうとも、万民の生命を救いたい
 この際、耐えがたきを絶え、忍び難きを忍び、一致協力、将来の回復に立ち直りたいと思う
 私として為すべきことがあれば、何でもいとわない
 国民に呼びかけることが良ければ、私はいつでもマイクの前に立つ」

天皇の涙ながらのお言葉に、みな、涙していたといいます。
時の総理大臣・・・第42代内閣総理大臣鈴木貫太郎は、御聖断を煩わせたことを天皇に詫び、日本の再建を誓いました。
こうして日本のポツダム宣言の受諾、日本の無条件降伏が決まったのです。

8月14日午後0時30分
御前会議の終了からおよそ30分、陸軍大臣・阿南惟幾陸軍大将が陸軍省に戻ると、すぐに青年将校たちが駆け寄ってきました。

「即時終戦の御聖断が下った
 力及ばず 諸君の信頼に添えなかったことを詫びる」

これに将校たちは激怒、大臣に激しく詰め寄ります。
激怒したその理由は・・・
阿南はポツダム宣言は受諾しない、日本はそのまま戦争を継続すると言っていたのです。
青年将校たちは阿南陸軍大臣が戦争を続行させてくれると思っていました。
しかし、阿南陸軍大臣もポツダム宣言を容認したからです。
裏切られた・・・騙されたという思いがあったのです。

阿南陸軍大臣が、当初ポツダム宣言の受諾に反対していたのには理由がありました。
それは”国体護持”です。
国の在り方を変えずに護る・・・つまり、天皇制の存続が理由です。
天皇を現人神と考えていた当時の人々にとっては、絶対にゆすれない条件でしたが、日本に無条件降伏を迫ったポツダム宣言には明記されていなかったので、阿南は受諾を反対していたのです。
しかし・・・

「陛下は『苦しいだろうが我慢してくれ』と涙を流して申された
 自分としては、もはやこれ以上反対を申し上げることは出来ぬ
 それでも納得できぬのなら、まずはこの阿南を斬れ!!阿南を斬ってからやれ!!」

天皇のお言葉に打たれた阿南は、ポツダム宣言受諾をしないわけにはいかないと思ったのです。
そして、天皇の想いに応えるために戦争を継続しようと望む青年将校たちを命がけで止めようとしました。
すると・・・一人の将校が絶叫にも似た声で泣き始めました。
畑中健二少佐・・・33歳です。
その泣きわめくさまは、周りの者が怯えるほどだったといいます。
普段温厚な男でも絶叫するほど、無条件降伏は受け入れがたいものだったのです。

8月14日午後1時・・・
首相官邸において前大臣出席のもと閣議が行われました。
議題は3日間徹夜で作られた終戦の詔書の審議です。
どのような言葉で国民に終戦を継げるべきか・・・そしてその玉王放送についてです。
日本の敗戦を知れば、国民は激しく混乱する・・・
それを少しでも抑えるために、天皇の声で伝えることにしたのです。
生放送という案も出ましたが、天皇に東京・内幸町にある日本放送協会・東京放送会館まで足を運ばせたうえ、放送時間にマイクの前に立ってもらうのは余りにも恐れ多い・・・と、録音放送になりました。
そして終戦の詔書は、14日中に宮内省で録音されることになりました。
日本放送協会の会長に「録音班を連れて宮内省に出頭せよ」という命が下りました。

8月14日午後3時・・・
閣議を中座して陸軍省に戻った阿南大臣は、庁舎にいた全員を会議室に集め、御聖断に従って陸軍が無条件降伏を受け入れたことを報告しました。

「これは決定事項である
 如何なる背反も許さない」

と、強く言い聞かせこう告げます。

「諸官においては、もはや玉砕は任務を解決する道ではない
 泥を食い野に臥しても、最後まで皇国護持のため、奮闘せられたい」

しかし、そこに大臣室で号泣していた畑中健二少佐の姿はありませんでした。
畑中は、無条件降伏をどうしても受け入れられず、同志である椎崎二郎中佐と共に、戦争を継続するためのクーデターを計画していたのです。

それは・・・
皇居を占拠せよ!!玉音放送の阻止!!でした。

日本政府は、日本が劣勢という情報を一切流していませんでした。
畑中たちにすれば、この段階で玉音放送を阻止すれば、国民が敗戦を知ることはないため、戦争を継続できると考えたのです。
彼等エリート軍人は最前線で戦った経験もないし、負け戦の現状も知りませんでした。
神国日本が負けるはずがないと考えていました。
敗戦間際の東京周辺の軍事施設には、戦闘機や戦車などがまだ多く残されていました。
絶対に負けないと思っていたのです。

現在の東京国立近代美術館工芸館・・・現在重要文化財に指定されているこの場所は、現在の近衛師団司令部の庁舎でした。
近衛師団とは、天皇と皇居を護る陸軍の精鋭部隊です。
畑中健二少佐は陸軍省勤務でどの隊にも配属されていなかったので、戦況をあまり把握できていませんでした。

8月14日午後2時・・・
畑中少佐は椎崎中佐と共に近衛第一師団参謀の古賀秀正少佐と面会・・・戦争継続の正当性を訴え、クーデターの下工作を依頼します。

8月14日午後3時・・・
近衛師団の司令部を後にした畑中はしい開かれ、日比谷にある東部軍管区司令部に向かいます。
東日本を統括する東部軍にもクーデター協力の依頼にやってきたのです。
しかし、司令官室に入るなり、田中静壱大将は畑中を一喝します。

「帰れ!!」

畑中は顔面蒼白となり・・・一礼して逃げるように帰ります。
東部軍は、関東一帯を統括している実働部隊でした。
各地の戦況をよく理解していたのです。
日本の悲惨な戦況をよく知る田中司令官は、やみくもに戦争を継続を叫ぶ畑中に腹を立てたのだと思われます。
終戦を決めた日本・・・それに強硬に反対する青年将校たち・・・
しかし、そんな軍部の状況を一般家庭は知る由もなく・・・。

配給が乏しい・・・いつまで続くのか・・・??
みな、必死に耐えて生きていました。
必ず日本が勝つと信じて・・・!!

8月14日午後9時・・・
ラジオのニュース番組がこう告げます。

「明日15日正午に、重大なラジオ放送があります。
 国民は皆、謹んで聞くように・・・」

この時、国民のだれもがこの放送が何なのか・・・知る由もありませんでした。

8月14日午後10時30分・・・
ラジオから玉音放送の予告が出た1時間半後・・・。

クーデターを目論む畑中、椎崎は陸軍の先輩将校である井田中佐のもとを訪ねています。
畑中は就寝中の井田を無理やり起こし、クーデターの下工作が進んでいることを説明!!
近衛師団全体を動かすために、近衛第一師団長の森師団長の同意が欲しいと訴えました。
畑中の真剣なまなざしに心打たれた井田は、
「ダメなときは本当に諦めるのだな」
と、念を押し、畑中が頷くと覚悟を決めます。
「やれるだけやってみよう」

8月14日午後11時・・・
首相官邸で続けられていた閣議がようやく終わり、終戦の詔書の文案が完成。
鈴木内閣の閣僚が署名し、天皇の裁可を受けました。
続けてアメリカなどの連合国に、中立国であるスイスを通じてポツダム宣言の受諾を通告。
対外的な日本の敗戦が、この時決まりました。

そして・・・11時30分・・・
宮内省の2階にある御政務室で、宮内大臣や天皇の側近である侍従長の立会いのもと、終戦の詔書の録音が始まりました。
マイクの前に立った天皇は
「声はどの程度でよろしいか」
と、お聞きになり、「普通で結構です」と答えると、静かに朗読をはじめました。

昭和天皇の肉声・玉音が公式に録音されたのは、この時が初めてでした。
朗読は一回およそ5分、天皇の希望もあって、二回行われました。
二組の録音盤に別々に録音されました。
出来上がった玉音版は、日本放送協会の担当者によって、丸い缶の中に納められ蓋が空かないように木綿の袋に入れられました。
天皇が皇居の防空施設に帰られたのは、日付の変わった頃だったといいます。
玉音放送まで12時間・・・

同じころ、国民たちも眠れぬ夜を送っていました。
マリアナ基地を飛び立った250機のB29が、爆音を響かせ、上空を飛んでいたからです。
すでに、無条件降伏を伝えているはずでしたが・・・最前線の戦場にはまだ届いていなかったのでしょうか?
秋田県秋田市・・・死者250人以上
群馬県伊勢崎市・・・死者40人
神奈川県小田原市・・・死者12人・・・
埼玉県熊谷市では1万8000発もの爆弾が投下され、市街地の殆どが焦土と化し、およそ250人の尊い命が失われました。
あと半日・・・あと半日で戦争が終わったというのに・・・!!

8月15日午前0時・・・
この時、近衛師団司令部を訪れていた陸軍将校・畑中、椎崎、井田の三人は、いら立ちを募らせていました。
クーデター実行のために近衛兵を動かしてもらおうと森師団長を訪れていたものの、先客がいたために1時間以上待たされていたのです。
ようやく部屋に通されたのは、午前0時30分頃でした。
畑中は、別件があってその場を離れていたので、説得は井田が行うことに・・・。
既に軍服を脱ぎくつろいでいた森師団長は、
「陛下のご意思に反する行動は許さぬ」と、反対したものの・・・汗をびっしょりかきながら戦争継続の正当性を訴える井田に心打たれたのか、
「諸君の意図は十分理解した
 率直に言って感服した
 今、直ちに明治神宮の神前に額づき 最後の決断を授かろうと思う」
井田は戦後この時のことを手記に残しています。
「この言葉を聞いたときほど、嬉しかったことはなかった」

更に井田は、森師団長から自分の右腕である参謀長にも意見を聞くようにといわれ退出・・・
そこへ畑中が戻ってきました。
この時、午前1時30分・・・師団長室へ・・・
「ところが、それから10分も経ったであろうか
 突如として師団長室が騒がしくなったような気がした」
そして・・・何事かと井田が師団長室に戻ると、拳銃を握りしめた畑中が、顔面蒼白で出てきました。
「時間がなくてやりました
 仕方なかったんです」
井田が師団長室に飛び込むと・・・すでにこと切れた師団長が無残にも横たわっていました。

畑中少佐はどうして森師団長を殺害してしまったのでしょうか??
畑中は、森師団長が嘘をついていると感じたようです。
森師団長が逃げるのではないか・・・??と、判断したようです。
近衛師団の協力が遅ければ、クーデターは失敗すると考えていました。
一刻でも早く近衛師団を動かすため、協力する気のない森師団長を見限ったのです。

しかし、森師団長の命令がなければ近衛兵たちは動きません。
そこで、畑中たちは大胆な手に出ます。
森師団長の机から印鑑を取り出すと、予め作っていた偽の命令書に押印!!
この偽の師団長命令を各連隊に発令したのです。
そこにはこう書かれていました。

”皇居と放送局を占拠せよ”

8月15日午前2時・・・
師団長命令が偽物と知る由もない近衛兵は、すぐに動き始めました。
皇居のすべての門を封鎖、日本放送協会東京放送会館に一中隊を送って占拠。

近衛兵たちは、玉音版が保管されている宮内省を占拠、玉音版を探し始めます。
しかし、玉音盤はどこにもありません。
宮内省の職員や侍従を脅してみても、みな、知らないと答えるばかり・・・結局見つけられませんでした。
玉音盤は、どうして見つからなかったのでしょうか?
天皇による終戦の詔書が録音され、玉音盤が完成したのち、包装までどこで保管するべきか検討されました。宮内省側は「放送局が預かるべき」、日本放送協会は「持ち帰るのが畏れ多い」と・・・結局、天皇の常に傍にいる侍従が・・・となり、中堅侍従の徳川義寛侍従が預かることに・・・。
気軽に預かった徳川侍従は、小さな金庫にしまい・・・大胆にもその金庫をいつも仕事をしている事務室の戸棚の上に、無造作に置いておいたというのです。
徳川侍従は、玉音盤のありかを誰にも話さず、近衛兵に捕まった際にも決して口を割りませんでした。
また、宮内大臣たち要人を宮内省の地下にある隠し部屋に匿ったことも功を奏しました。
さらに・・・自分の事務室の入り口に「女官寝室」という張り紙をしました。
玉音盤を託された徳川侍従が保管場所を誰にも話さず、機転を利かせたために兵隊たちから守ることができたのです。

玉音盤を見つけられなければ放送を阻止することができない・・・!!
クーデターは失敗です。
井田は畑中を説得します。
「畑中・・・もういかんよ・・・。
 夜が明ける前に兵を引け・・・
 そして、我々だけで責任を取ろう。
 世の人々は、真夏の夜の夢を見たと笑って済ませてくれるだろう」
しかし、井田の言葉は畑中の心を変えることはできませんでした。
畑中は近衛兵たちに占拠されている放送会館に向かったのです。

8月15日午前4時30分・・・
東京放送会館に乗り込んだ畑中は、報道部室に押し入ると、そこにいた副部長に拳銃を押しつけて・・・
「5時からのニュースに自分を出せ!!」と、迫ります。
しかし、副部長はこれを拒否!!
「全国同時放送なので、各局と連絡を取ってからでないと出来ない」
すると畑中は、ニューススタジオに入り、現行の下読みをしていた館野守男アナウンサーに銃口を向けます。
自分に放送させろという畑中の左手には、クーデターの主旨を綴った原稿がありました。

そんなもの・・・放送させてなるものか・・・

そう思った館野アナウンサーは、とっさにこんな嘘をつきます。

「現在、警戒警報が発令中です。
 警報発令中に放送するには、東部軍の許可が必要です。」

東部軍の田中司令官には昨日、一喝されたばかり・・・
畑中は、銃口を降ろすしかありませんでした。
ちょうど同じころ、近衛兵に占拠されていた皇居に、一人の男が駆けつけていました。
田中静壱司令官その人です。
田中は近衛師団の連隊長たちに、命令が偽物であったことを告げ、即時解散するように命令します。

失敗に終わったクーデター・・・畑中たちの選んだ終戦とは・・・??

8月15日午前5時30分・・・
国民に敗戦を告げる運命の日の朝・・・玉音法を撃を前に一人の男が自ら命を絶ちました。
陸軍大臣・阿南惟幾大将です。
その遺書には・・・
「一死を以て 大罪を謝し奉る」
とありました。

その命を以て、敗戦の責任を取ったのです。

8月15日午前7時21分・・・
突然ラジオから玉音放送の予告アナウンスが・・・このアナウンスは、午前5時に行うはずでした。
しかし、畑中少佐の襲撃の影響で、大幅に遅れたのです。

8月15日午前10時・・・
宮内省から二組の玉音盤が運び出されました。
一組は、警視庁の車で東京放送会館の会長室へ、もう一つは宮内省の車で第一生命館の地下にある予備スタジオへ。
不測の事態を想定し、万全の体制が取られていました。

8月15日午前11時・・・
当日は戦闘機がバンバン飛んで・・・しかし、11時になるとパタッと音がやみました。
玉音放送が行われる東京放送会館は、すでに多くの人が集まっていました。
まもなく訪れる終戦の時を前に得も言われぬ緊張感の中・・・

「終戦の放送などさせてたまるか!!
 全員、たたっ切ってやる!!」

と、憲兵が乱入!!
畑中とは関係のない憲兵が、スタジオに乱入しようとします。
すぐに取り押さえられ事なきを得ましたが、スタジオ内は騒然となりました。

8月15日午前11時・・・あと30分!!
皇居前に広がる芝生広場では、クーデターに失敗した畑中と椎崎がいました。
玉音放送を止められなかった・・・日本が負けた・・・その悔しさと共に、自ら命を絶ちました。

8月15日午前11時59分・・・
この時の東京の天気は晴れ・・・気温はすでに29度を超えていました。
最新の戦況を伝えていたラジオから正午の時報が・・・

ただ今より、重大なる放送があります
全国の聴視者の皆様、ご起立願います。

君が代が流れた後、天皇の声が聞こえてきました。

朕(ちん)深ク世界ノ大勢ト
帝国ノ現状トニ鑑(かんが)ミ 
非常ノ措置ヲ以テ
時局ヲ収拾セムト欲シ
茲(ここ)ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民(しんみん)ニ告ク(ぐ)

人々の心の中は、戦争が終わった安堵感と、焼け野原になったこの日本で、これからどう生きていくのか?という不安が入り乱れていました。

3年8か月に及ん太平洋戦争が終わりました。
300万人以上の日本人が亡くなったと推定されています。
戦争孤児は12万人・・・戦争が終わっても、国民の生きるための戦いは終わったわけではありませんでした。
人間を凶器に変える戦争・・・一度始まってしまうと簡単には止めることができません。
そして戦後70年を過ぎ、戦争を体験した人々の高齢化が進み、体験談を聞く機会も減ってきています。
だからこそ、もっと耳を傾け、私たちが後世に伝えて行かなければなりません。


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高知県土佐清水市にある足摺岬には、はるか太平洋を見つめる銅像が立っています。
その人は、中浜万次郎・・・ジョン万次郎です。
今からおよそ180年前、日本が外国に対し、固く扉を閉ざしていた江戸時代に、一人で海を渡ったジョン万次郎・・・それは波乱に満ちた人生でした。

万次郎は、今の高知県・・・1827年、土佐国中ノ浜で貧しい漁師の次男として生まれます。
9歳の時に父を亡くした万次郎は、兄の身体が弱かったこともあって、幼いころから家計を助けて働きました。

1841年1月5日、14歳で初めての漁へ。
地ね煮は、筆之丞(37歳)、重助(24歳)、五右衛門(15歳)の三兄弟に寅右衛門(25歳)、そして最年少の万次郎を入れた5人が乗り込みました。
万次郎たちは、当初、順調に漁を続けましたが・・・
3日目・・・突然の嵐が船を襲います。
万次郎たちは、みるみるうちに沖に流されていきます。
船をこぐのに必要な櫓も折れてしまい、食料も水もつき、生死の境をさまよい続け・・・6日・・・
1月13日、島を見つけ上陸します。
そこは、土佐から750キロ離れた伊豆諸島最南端の絶海の孤島・鳥島でした。

通常、土佐沖を流れる黒潮は、日本列島沿岸に沿って北東へ流れています。
この流れに乗ると、太平洋の北へと流されてしまいます。
万次郎たちが漂流したのは真冬・・・凍え死んでもおかしくありませんでした。
どうして北ではなく、伊豆諸島の南へ・・・??
黒潮は、風や海水の温度で、定期的に流れを変えることがあります。
その流れが鳥島に向かうことがあるのです。
たまたま大きく蛇行する黒潮の流れに乗ったことで、鳥島に流れ着いたのです。

万次郎たちの命を繋いだアホウドリ・・・
アホウドリが島にいたことも幸運でした。
毎年10月上旬になると、鳥島には繁殖のために飛来します。
冬の間、ここで子育てをします。
万次郎たちが漂着したのは、今の2月上旬で、ちょうどアホウドリを食料にすることができたのです。
しかし、それも長くは続きませんでした。
子育ての終わったアホウドリたちは島を離れていきました。
さらに、70日間、全く雨の降らないこともあり、飲み水が無くなります。
しかし、万次郎は絶対にあきらめない性格で、一人で海藻や木の実をみんなに配って元気づけます。

万次郎は、あきらめずに海の向こうを眺め続けます。
すると・・・一隻の大型船から小舟が2艘降りてきたのです。
1841年5月9日、万次郎、鳥島について約5か月で救助されます。
5人を助けてくれた大型船は、ジョン・ハウランド号・・・アメリカの捕鯨船でした。
36歳のウィリアム・ホイットフィールド船長をはじめ、34人の乗組員が、クジラを取るために世界の海を渡っていたのです。
日誌には、万次郎たちを助けた日のことが書かれていました。

”島にウミガメがいるかどうか探すため、午後1時に2艘のボートを降ろす
 島に遭難して疲れ果てた5人がいるのを発見し、本船に収容した
 飢えを訴えているほか、彼らから何事も理解することはできなかった”

船から2艘の船を出したのは、万次郎たちを助けるためではなく、食料となるウミガメの卵を探すためでした。
万次郎は、奇跡的に命を救われたのです。
外国人に助けられたからには、ここから先どうなるかはわからないけど、命を大切にしようと決めたといいます。
生きてさえいれば、いずれ日本に帰れる・・・??

1825年江戸幕府は「異国船打払令」を発布!!
外国船が日本に近づけば、容赦なく砲撃をしていました。
万次郎たちは、船長たちと共に捕鯨の旅に・・・!!

万次郎は、自ら英語を覚え、船乗りの仕事も覚えていきます。
万次郎たちを乗せた船は、1841年6月27日に鳥島を出発し、各地でクジラを取った後、1841年11月20日、ホノルルに寄港。
ホイットフィールド船長は、万次郎たちをホノルルで降ろしました。
ホノルルは、当時環太平洋地域における情報の中心的存在でした。
月に何十隻の捕鯨船が寄港し、水や食料を補給する吉でした。
ここで、中国行きの船に乗れば、日本に帰れるかもしれないと、考えてくれたのです。
しかし、船長は、万次郎にだけ・・・
「一緒にアメリカに来ないか??」と誘ったのです。
万次郎の人懐っこい性格を、船乗りたちは気に入り、彼に捕鯨の仕事を見せるようになっていました。
また、万次郎も、一生懸命学んでいたからです。
万次郎の好奇心と適応力に、アメリカの進んだ教育を受けさせたいと考えたのです。
外国に行くことは国禁を破る大罪でしたが、好奇心から誘いを承諾!!
ホノルルで、中国船を待つ4人と別れ、1841年12月1日、万次郎はホノルルを出発しました。

グアム、タヒチ・・・いろいろな島を回って捕鯨をし、およそ1年半・・・1843年5月6日にアメリカ・ニューベッドフォードに到着します。
そこは、各国から捕鯨船が集まる世界最大の捕鯨基地でした。
万次郎はついにアメリカ本土に降り立ちます。
それは、黒船来航の10年も前のことでした。

アメリカについた万次郎は、ニューベッドフォードの隣、フェアヘイブンで生活することになります。
船長の家がその町にあったからです。
しかし、帰ってみると船長の奥さんが亡くなっていたため、十分に面倒を見ることができないと、知人の家に寄宿させることにします。
そして、万次郎に小学校に通うように勧めます。
万次郎は、アメリカ留学生第1号に・・・!!
16歳ながら、小学生と共に英語を学ぶこととなった万次郎でしたが、英語を習得し、わずか1年で小学校を卒業します。

ABCの歌は、この時習ったと言われて・・・この歌を最初に日本に仕えたのが万次郎だと言われています。
万次郎は、航海士養成学校バートレットアカデミーで航海術や、測量術、高等数学を学びます。
この頃になると、船長が再婚し、万次郎も一緒に住むことに・・・
それでも母を想い、寂しかったようです。
心細くなったのには・・・敬虔なクリスチャンだった船長がある時教会に万次郎を連れて行くと、白人ではないからということで、出ていくように言われてしまいます。
当時のアメリカは、まだ奴隷制が敷かれていた時代でした。
差別は激しく、万次郎も差別を受けたのです。
しかし、船長は黙っていません!!
船長は、いろんな国を回り、いろんな船員を知っていました。
肌の色や国籍などによる差別は、意味がないということだと考えていたからです。

船長は、万次郎を受け入れてくれる教会を探します。
そして、人種差別のない宗派の教会に移ることに決めたのです。
自分のために、宗派まで変えてくれた船長の実直な人柄に、万次郎は深く感謝しました。
万次郎は、船長の深い愛に応えるように、1864年、19歳で養成学校を首席で卒業するのです。
船乗りとして捕鯨船に乗り込みました。
世界各地の捕鯨地を回る万次郎・・・

「ジョン・マン!!どうして日本人は困っている船乗りを助けない??
 困ったときはお互い様だろう・・・??」

と、船員たちに言われてしまいます。

日本が難破した船の救助をせずに、船員をまるで罪人のように扱っているというのです。
それは、日本が鎖国状態にあったためでした。
当時、外国船への水や燃料などの補給などは、一部で認められるようになってはいましたが、それも十分ではありませんでした。

アメリカは・・・日本人の私の命を助けてくれた上、様々なことを学ぶ機会を与えてくれた・・・
それなのに、アメリカと日本のために出来ることは・・・??

考えた末に、船長に手紙を送ります。

「私は努力して日本の港を開き、捕鯨船の補給ができるようにしたいと思います。」

帰国し、日本を開国させる・・・それは、とてつもなく大きな夢でした。

1849年9月23日、万次郎は3年4か月ぶりにニューベッドフォードに帰港します。
14歳で漂流した少年は、22歳の立派な船乗りになっていました。
万次郎は、改めて日本に帰国したいことを伝えると、そのためにカリフォルニアに行きたいと願い出ます。
当時、アメリカ西部はゴールドラッシュに沸いていました。
万次郎は無謀にも、その資金を自分で稼ごうとしたのです。
こうして万次郎は、サクラメントへ・・・!!
当然、日本人は万次郎一人、お金のためのならず者も多く・・・そこで万次郎は、ピストルを2つ携帯し、来る日も来る日も金を採掘し、70日で600ドルを稼ぎます。
これは、船乗りの給料3年分以上でした。

1850年9月、万次郎23歳の時にホノルルへ・・・!!
食糧やテント、日本上陸のボートを買うためです。
そのボートにはアドベンチャー号と名付けます。
ホノルルで別れていた4人と再会したのです。
結婚したものも2人・・・重助は病気で亡くなっていました。

寅右衛門は残留し、日本初のハワイ移民となりました。
万次郎は、伝蔵、五右衛門と共に、日本へ帰る策を練り始めました。
しかし、気がかりなのは・・・ホイットニー船長の事。
カリフォルニアに行くとは伝えていましたが、日本に帰るとは伝えていませんでした。
万次郎は、早速手紙を書きます。

「私を幼少のころより大人になるまで育ててくださったご慈愛は決して忘れることはございません。
 御恩返しもしないで、このまま帰国する不義理が許されることではありませんが、しかし、世の中は良い方向へ変わっていきつつあるので、私たちはいつかまたお会いできると信じております。」

1850年10月、万次郎は日本へ旅立ちます。
その作戦は。。。上海行きの船に乗せてもらい、琉球近くでアドベンチャー号で自分達で向かうということでした。
どうして土佐ではなく琉球・・・??
琉球は、薩摩藩に支配されていながらも、独立国で海外との貿易が活発に行われていました。
様々な外国船が来ていたので、鎖国をしていない琉球なら罪人としての扱いを受けないだろうと考えたのです。
ボートで上陸したのは、自力で帰ったところをアピールするためでした。

1851年1月3日、万次郎たちはついに摩文仁の浜に上陸。
万次郎24歳・・・漂流から10年がたっていました。
ようやく帰ってきた3人でしたが、ただただ怪しまれました。
洋装で海から現れ・・・日本語もうまく喋れなくなっていたからです。
万次郎たちは、那覇で8か月足止めされ、薩摩、長崎へ・・・
長崎奉行所では取調べが9か月に及びました。
幕府に伝えられた調書にはこのような一文が書かれていました。

「万次郎はすこぶる怜悧にして国家の用となるべき者なり」

長い取調べを受け、1852年7月11日、万次郎土佐に到着!!
土佐でも万次郎のことは話題になっていました。
再び取調べを受け、10月5日、中ノ浜に帰ります。
浜を出てから11年以上・・・万次郎は25歳になっていました。
母は、万次郎が亡くなったとお墓まで立てていたといいます。
万次郎は再び高知城下に呼び出されます。
藩主・山内容堂の命令でした。
容堂は外国を知る貴重な万次郎を藩校の教授に・・・
一説には、薩摩藩主・斉彬が万次郎を薩摩に譲り受けたいと言われていたこともあり、他藩に取られないように早々に取り込んだともいわれています。
さらに・・・福岡藩主・黒田長溥が1853年12月に幕府に建白書を提出。
万次郎に幕府の海軍を創設させようと進言しています。
万次郎が持つ知識と情報の価値は、いくつもの藩が認めていました。
万次郎は、容堂から武士の身分を与えられます。
犯行の教授として土佐藩の若い者を指導していくことに・・・。
その中には、後藤象二郎や岩崎弥太郎も・・・幕末や明治で活躍します。
しかし、唐の万次郎は悩んでいました。
日本を開国させるという船長との約束がまだだったからです。

そんな万次郎に大きなチャンスが・・・黒船来航です。
1853年6月3日、アメリカ海軍東インド艦隊司令長官ペリーが4隻の艦隊を率いて浦賀にやってきました。
ペリーは幕府にアメリカと国交を結ぶことを要求。
1年後に返事を聞きに来ると、一旦日本を去りました。
このアメリカの要求に頭を悩ませたのが、時の老中・阿部正弘でした。

万次郎にアメリカの事情を聴くのがいいのでは・・・??
阿部は早速、土佐藩に万次郎を江戸へよこすように・・・こうして万次郎は再び土佐を離れて江戸へ・・・。
日本の港を開くという夢の実現のために、アメリカの事情を思いを込めて説明します。
万次郎は、持てるすべてを語りました。
そして・・・アメリカはあくまで捕鯨船が難破した際に、船乗りをきちんと助けてほしいと言っているのです。
そのために、港を開かせ、国交を開こうとしています。
日本を乗っ取る事はないと考えます・・・!と。
アメリカのもう一つの目的は、水・食料・燃料の補給であることも伝えます。
そして、日本が今後どのように動くべきかという指針まで理路整然と述べたのです。
大いに感心した阿部は、万次郎を幕府直参に取り立てます。
そして、生まれ故郷の中ノ浜を取って「中濱」という姓を与えられたのです。

同じ幕臣の江川太郎左衛門に預けられた万次郎・・・。
江川は、幕府きっての開明派で、大砲などを開発、蒸気船の建造も担っていました。
万次郎もその聡明さに惹かれ、付き従うようになり、共に交渉準備に邁進します。
そして運命の時・・・
1854年1月16日、ペリーが再び浦賀に来航。
幕府から交渉を任せられた一人の江川は、万次郎を通訳にと考えます。
ところが思わぬ横やりが・・・前水戸藩主・徳川斉昭が・・・万次郎に難色を示します。さらに、万次郎には幕府の評議を知らせず、アメリカ人に直接あわせないようにと提言します。
どうして用に反対・・・??
斉昭は江川に手紙を送っています。

”本国を慕い、帰ってきたほどの者で感心ではあるが、万次郎も一命を救われた上、幼少から20歳までの恩義があるので、アメリカの不利になることは決して好まないだろう”

つまり、万次郎が相手に有利な条件で条約を結ぶことが考えられる・・・??
斉昭は、アメリカは漂流民に依頼して、日本の情勢を調査させるつもりかもしてれないと考えていました。
斉昭は万次郎がアメリカのスパイではないか??と疑っていたのかもしれません。

しかし、”万次郎が腐らないように十分報酬を与えること”とも書かれていました。

①日本の情報がアメリカに漏れることを恐れ
②万次郎をアメリカに連れ去られることを恐れていました。

結局、万次郎は通訳として参加することはできませんでした。
しかし、1854年3月3日、日米和親条約締結
それによって下田・箱館が開港され、アメリカの船が難破した際は、漂流民を保護して引き渡すという条約が盛り込まれました。
万次郎の夢が現実の者となりました。
その後、万次郎は結婚、子供も設け、明治の代を迎えます。
1870年、万次郎は明治政府の通訳として欧米へ・・・!!
その途中、アメリカで2日間の休暇をもらった万次郎は、ホイットフィールド船長に会いに行きます。
万次郎43歳、船長は65歳になっていました。
万次郎は、21年の時を経て、言い尽くせないほどの感謝の気持ちと、約束した開国の実現を伝えることができたのです。
1808年11月12日死去・・・71年の生涯・・・その人生は、まさに波乱に満ちた大航海でした。

20世紀になって、第30代アメリカ大統領カルヴィン・クーリッジは、こう言っています。

「ジョン・マンの日本への帰国は、アメリカ最初の隊士を日本に送ったことに等しい。
 なぜならば、ジョン・マンが我が国の本当の姿を当時の日本首脳部に理解させていたからこそ、我々の使節ペリーはあのような友好的な扱いを受けることができたのである。」

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およそ260年続いた江戸幕府・・・世界でも類を見ない長期安定政権が実現したのは、その礎を三代将軍・家光と会津藩主・保科正之が築いたからです。
二人は異母兄弟・・・ともに持つ、政治家としてのぶれない意志・・・その支えとなったのが、兄弟の絆でした。

徳川家康が関ケ原の戦いに勝利し、江戸に幕府をひらいた翌年・・・1604年。
二代将軍秀忠と正室お江の間に世継ぎが生れました。
竹千代・・・後の三代将軍家光です。
それから7年後の1611年、江戸神田の牢人の家で、幸松・・・後の保科正之が生れました。
父は、竹千代と同じ二代将軍秀忠でしたが、幸松の母・静は、江戸城に奉公に上がっていた奥女中でした。
美しかった静は、すぐに秀忠の子を身籠ります。
将軍の子・・・本来ならば、喜ばしいことですが・・・秀忠の正室お江は、とても気位が高く、嫉妬深かったのです。
夫が側室を持つことを許しませんでした。
子ができたとなると、何をするかわからない・・・
そこで、実家へ帰された静は、お江から恨みを買わないように子をおろします。
しかし、静は、秀忠によって大奥に戻され、またもや子を身籠ってしまうのです。
そんな静に家族は・・・
「上様の子を二度も堕ろしては天罰を受ける」
とし、静はお江に見つからないように、親類の浪人宅で出産しました。
秀忠は、この事実を伝え聞きますが、お江に気を遣い、幸松を実子とは認めませんでした。

将軍の子であることを隠して生きることとなった幸松は、母・静が慕っていた武田家の侍女・見性院に預け育てられます。
そして、幸松7歳の時、見性院は然るべき武家に幸松を預けようと考え、ある大名に白羽の矢を立てます。
高遠藩藩主・保科正光です。
保科家は、もともと武田信玄の家臣で、さらに、正光の父・正直の後妻は家康の妹で、武田家は徳川家と姻戚関係にあったからだと言われますが・・・この養子縁組の裏には秀忠の存在があったといいます。
幸松の養育を、見性院に依頼したのは秀頼側だったともいわれています。
さらに、保科家に養子に行った時に、高遠藩に5000石の加増をしています。
幸松の養育費であると考えられます。
父・秀忠の計らいで、保科家の養子となった幸松は、大切に育てられます。

二代将軍秀忠には、この時3人の息子がいました。
竹千代・国松は、共に母親が正室のお江・・・そしてお静の子・幸松です。
そして、幸松の存在を知らずに幼少期を過ごす竹千代・・・。
その出会いとは・・・??

1632年秀忠死去・・・。
家康が、長子相続を説き、竹千代が家光として20歳で三代将軍となります。
家康が、理想とした幕府を実現していきます。
大名たちを江戸城に呼びつけます。
居並ぶのは伊達政宗ら、歴戦のつわものたち・・・
彼らを前に、家光は、こう宣言します。

「余は生まれながらの将軍である
 貴殿らに対し、遠慮するものはない
 今後みな、家臣同様として扱う・・・そのように心得よ
 もし不承知ものがいるならば、戦の準備を致せ」と。

家光が、挑発的な態度に出たのは理由がありました。
戦争を知らない家光・・・下剋上の思想を断ち切るために、強気に出たのです。
家光は徳川政権を盤石にするために、様々な政策を打ち出していきます。

①幕府の組織づくり
大名たちの謀反を防ぐために、監察官として柳生宗矩ら4人を「そう目付」に任命します。
そして、将軍を補佐する大老、老中の設置。
将軍を頂点とする幕府のシステムを確立、政治の安定化を図ります。


②諸制度の確立
1635年、武家諸法度を改定
参勤交代を制度化します。
江戸での滞在期間、交代の時期を明確に定めました。
これによって大名たちは、旅費などの莫大な出費を余儀なくされ、財力が低下。
その結果、戦を構えることもできなくなり、幕府は優位に立つことになりました。

③大名の改易
家光は、反旗を翻しそうな危険分子を取り除くなど、政権の安定を図ろうと、改易にも取り掛かります。
その数は、歴代の将軍が行った改易の中で最も多い数でした。
武断政治(武力や厳しい刑罰で統治する政治手法)です。

その頃の幸松・・・後の保科正之は、養父である保科正光が選んだ優秀な家臣から英才教育を受け、幕府に奉公するための心得を徹底させられていました。
保科正光は、もしかすると幸松が将軍となる可能性があると考えていました。
もしそうなった場合、保科家も発展していくだろう・・・と、教育したのです。
幸松もまた、自分が将軍の子だと知るようになっていきます。
そして養子となって14年目・・・養父・正光がこの世を去ります。
家督をついだ幸松は、正之となり、高遠藩を継ぐのでした。
この時、21歳!!

家光が保科正之の存在を知ったのは、目黒に鷹狩りに行った時のこと・・・
鷹狩りの中、家光は、身分を隠し、ある寺で休息することに・・・。
そのお寺は、正之の母・静が、正之の無事な成長を祈願していた寺でした。
そこの住職がこんな話をしてきました。

「高遠藩の保科殿を知っていますかね?
 保科殿は、将軍様の弟君であるのに、それに相応しい扱いを受けていないんですよ
 それが、不憫でしてねエ・・・」

家光は、自分に会ったことのない弟がいて、高遠藩主になっていることを知ったのです。

「余に・・・顔も知らぬ弟・・・それは一体どんな男なのだ・・・??」

異母兄弟・・・弟の存在を知った家光は、ある儀式のために江戸城にやってきた正之を一目見ようと大広間のふすまの陰に潜みました。
すると・・・部屋に入ってきた正之は、末席に座ったのです。
保科正之は、3万石の小大名のため、末席だったのです。
礼儀をわきまえる正之・・・

「自分は将軍の弟だという横柄な態度を見せず、謙虚に末席に控えるとは・・・なんと殊勝な男よ」

この一件以来、家光は正之を取り立てるようになります。
正幸は、高遠藩3万石から山形藩20万石の大名に抜擢されます。
片腕として重用するようになった正之に・・・「忌諱を憚ること勿れ」と言いました。
更に家光は、苗字を松平に改め、葵の紋を使うことを勧めましたが、正之は・・・

「今の自分があるのは、養父・保科正光のおかげです。」

保科家への恩義から辞退したと言われています。
その控えめな態度に感心した家光は、その信頼を厚くするのです。

しかし、家光が、正之を取り立てたのにはもう一つ理由がありました。
それは、もう一人の弟・忠長の存在です。
同じ母・お江から生まれた忠長は、兄弟というより同じ将軍の座を争うライバルでした。
家光は生まれつき体が弱く、言葉に不自由なところがあったため、両親の愛情はいつからか弟・忠長に注がれるようになります。
すると家臣たちも、
「次期将軍は兄気味ではなく弟君がふさわしい」と・・・。
両親ノア異名を受けずに将軍の器でないとささやかれた家光は、12歳の時悲しみのあまり自殺しようとしたともいわれています。
父・秀忠の愛情を受けずに育った正之に、共感を抱いたのです。
家光の弟・忠長は・・・駿府藩55万石の大名となり・・・しかし、それでも満足せずに加増しろとか、大坂城の城主になりたいとか・・・。
甘やかされて育てられていた忠長は、将軍への夢が忘れられず、兄・家光に憎悪を抱いていました。
その後、忠長は精神的に追い詰められ、奇行が目立つようになり、理不尽に家臣を手打ちにしたりしています。
怒った家光は、忠長を幽閉し、最後は自害に追い込んでいます。
正之は弟として兄を支えるというよりも、それは家臣として将軍を支える・・・自分をわきまえた人でした。

保科正之が山形藩の藩主となった翌年の1637年、九州で大事件が・・・!!
島原の乱です。
キリスト教勢力の拡大を恐れた家光が、キリシタン改めを全国の大名に命じたことに始まる厳しい弾圧が原因でした。
この江戸幕府始まって以来の一揆の鎮圧には、家光の最も信頼する正之が当たるものだと誰もが思っていました。
しかし、その大役に選ばれたのは、老中・松平信綱でした。
正之は家光から領地である山形藩に戻るように命じられたのです。
家臣たちは皆首をかしげましたが、正之には、家光の意図がわかっていました。

「西国に異変ある時は、東国に注意せよということであるな」

家康の遺訓に従って、東国の反乱に備えたのです。

1638年山形藩の隣にある幕府直轄地の白岩郷で・・・
百姓一揆が起こります。
その鎮圧を任された正之は、一揆の首謀者36人全員を処刑します。
控えめで優しい性格の正之の非情な決断でした。
無秩序状態にさせないため、厳しい処罰を下したのです。
しかも、幕府の直轄地での出来事・・・
家光の威光が低下する可能性があったのです。
正之は、兄であり将軍である家光の名を汚さないために、鬼となったのです。

「一揆が起きてからでは遅い
 一揆が起きないような政をすることが大切なんだ」

1643年、保科正之が33歳の時に、山形藩20万石から会津藩23万石への転封を命じられます。
これは、水戸藩25万石と肩を並べるほどの厚遇でした。
ところが、その会津藩は大きな問題を抱えていました。
前の藩主の悪政と飢饉で領民は疲弊・・・よその藩へ逃げ出す者が続出していました。
領民のための改革を行うこととなった正之

①社倉制
藩の資金で米を買い上げて備蓄しておき、凶作になったら領民に米を貸し出し救済する制度のことです。
2割という当時安い利息で米を借りることができました。
しかし、正之は利息で得た資金で、新しく米を買って社倉の備蓄を増やしていきます。
これ以降、会津藩では飢饉での死者は出なかったと言われています。

②人命尊重
正之の母・静は一度は堕胎し、正之も命が危ぶまれていました。
「宿った命は生きることを辞めさせるべきではない」そう命の大切さを説き、間引きを禁止。
さらに、領内で行き倒れになった人は医者に連れて行くという政令を出し、その人がお金を持っていない場合は、藩が支払いました。

③老養扶持
高齢者の保護です。
90歳以上の者、全てに1日5合分の米を毎年支給しました。
ある年は該当者が150人にも及びましたが、分け隔てなく支給され、大いに喜ばれました。

農民を豊かにすることは政治を安定させる
政治の安定は農民の豊かさにつながる・・・正之は、勧農意識・・・主として農業振興奨励し、実行しようとする考えがありました。
それをすることが一揆の撲滅につながると・・・

そのさなか、家光が病に倒れます。
死を悟った家光・・・1651年のこと。
愛用の萌黄色の直垂と烏帽子を与え、こう言い渡します。
「今後、保科家は代々、萌黄色の直垂を使ってよい」
それは、正之が将軍と同格であるという意味でした。
さらに・・・家光の嫡男・家綱はまだ11歳でした。
正之に、幼い家綱の後見人を任せるつもりだったのです。
幕閣たちから一段上げて、補佐にしよう・・・と!!

それから間もなくして家光の病状は悪化・・・
有力大名が次々と寝所に呼ばれる中、最後に呼ばれたのは家光が最も信頼する保科正之でした。

「跡を継ぐ家綱はまだ幼い・・・
 汝に家綱の補佐を託す」

「身命を投げ打って御奉公いたします故、ご心配あそばされますな」

これが、兄・家光との最後の別れとなりました。
1652年4月20日、徳川家光48歳で死去・・・。

正之は、この後、ほとんど会津に帰ることなく、身命を投げ打って幕府に・・・!!
しかし、この時、幕府は大きな問題を抱えていました。

正之は、武断政治の否定・脱却をはじめました。

①大名証人制度の廃止
大名証人制度とは、大名の妻子などを人質として江戸に住まわせることです。
これは、戦国時代、大名同士が同盟を結んだ場合に裏切らないように行っていたことを踏襲したものです。
しかし、幕藩体制が整ったこの時代においては無用と、廃止。

②殉死の禁止
江戸時代初期、主君の死を受けての殉死は美徳とされていました。
実際、家光が亡くなった際も、家臣が後を追い自害しています。
しかし、これでは有能な人材が失われてしまうと、殉死を禁止したのです。

③末期養子の禁 緩和
大名は生前に跡取りを決め、幕府に届ける必要がありました。
死の間際に養子をもらって跡取りにする末期養子は禁じられていました。
そのため、跡取りのいない藩主が急死すると、その藩は取り潰しになっていたのです。
正之はこの禁を緩和・・・50歳以下の大名の末期養子を認め、藩の取り潰しをへらします。

正之は、家光の行った武断政治を次々と否定するかのように、それまでの制度を廃止していきました。
家光時代の幕府は、敵対しそうな大名を改易していたので、巷では浪人が溢れ、幕府に不満を抱くものが急増していました。
正之は、彼らの暴発を危惧し、これ以上浪人を増やさない政治・・・文治政治へと変換していったのです。
戦の絶えた時代を生き抜くための政治だったのです。
大名を上手に取り込むことは、国家統合につながる・・・徳川の平和につながる・・・徳川ファーストを関bが得ていました。

1657年1月18日、江戸を未曽有の火災が襲います。
明暦の大火です。
江戸の町の6割が焼き尽くされ、死者は10万人を超えたともいわれています。
火の手は風にあおられて、江戸城へも・・・!!
天守をはじめ、本丸、二の丸、三の丸まで焼け落ち・・・この時正之は、家綱を守り西ノ丸へ避難するも、火の手はそこまで迫っていました。
すると幕閣たちは・・・
「上様を場外に避難させましょう!!」
「上様が逃げるなど言語道断!!
 西ノ丸が焼けたら、本丸の焼け跡に陣屋を立てればよい!!」by正之
幕府の長たる将軍が、火事ごときで城を逃げ出すなど・・・!!
非常時だからこそ、将軍が中心となって強い態度で対処すべきだと説いたのです。
火事発生から2日後やっと鎮火・・・
正之は民のために動き出しました。
被災者のためのおかゆの炊き出し。
二種類の炊き出しを用意させ、老人や体の弱ったものには塩分の少ないものを・・・それ以外の人には濃いものを配るという配所を怠りません。
幕府の16万両と言われる幕府の貯蔵金を町の復興に宛てようとします。
「そのようなことをすれば、金蔵が空になってしまいます!!」
「なにより、このような時のために、金を蓄えておるのに、今使わずしていつ使うのだ・・・!!」
この正之の判断と采配によって、焦土と化した江戸の町は復興していくのです。

現場の最前線で陣頭指揮を執った正之でしたが、この時、嫡男・政頼が、避難先で病に侵され亡くなっていました。
しかし、正之は深い悲しみの中にあって、私情を廃し、我が子を弔うことより街の復興を優先させたのです。
その後、江戸城の本丸、二の丸、三の丸は再建されましたが、天守は再建されませんでした。
保科正之が天守の再建に反対したからです。

「天守は戦乱の世が終わった今、ただ遠くを見るだけのもの。
 無用の長物をこのような時にお金をかけてまで再建すべきではない・・・!!」

兄・家光に誓った将軍への忠誠を守り続ける保科正之・・・その正之が最期に徳川家のために下した決断とは・・・??
正之が、常に大事にしていたのは「仁」
慈しみ思いやることです。
そんな正之が自らの政治理念を後世に伝えるべく定めたのが「会津家訓十五か条」です。
人としての心得を説く中で、最初に伝えたかったのは・・・

大君の儀一心大切に忠勤に存ずべし
若し二心を懐かば 即ち我が子孫に非ず
面々決して従うべからず

「将軍に対しては一心に忠義に励むべきである
 もし、将軍に反く藩主が会津に現れたなら、私の子孫ではないから、決して従ってはならない」

兄に誓った将軍への忠誠を、子々孫々に守らせようとしたのです。
そんな正之も、晩年は病に倒れ、病状が悪化すると幕府に隠居を申し入れます。
そして息子の正経に家督を譲ると、驚きの行動に出ます。

なんと、屋敷の裏庭で書類を焼き始めたのです。
それは、幕政への意見書、様々な政策の記録などの重要書類でした。
正之の政策が残ってしまえば、自分がしたことがわかってしまう・・・。
政を将軍・家綱の功績にするために、書類を燃やしたのではないか?と言われています。
正之は、最期まで幕府と将軍のことを想い動いた私利私欲のない男でした。
1659年12月18日、保科正之は三田に会った会津藩邸で息を引き取ります。
62歳の生涯でした。
磐梯山を望む福島県猪苗代町・・・将軍の子として産まれながら、一家臣の子として生きることを選んだ信念の男は、ここで眠っています。

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岩手県北上川の中流に位置するのが平泉・・・ここに、平安時代後期、黄金の国ジパングのいわれとなる大都市がありました。
その繁栄を築いたのが、奥州藤原氏です。

1124年上棟の中尊寺金色堂・・・繊細で美しい螺鈿や透かし彫りの金具に蒔絵・・・平安時代後期の技の粋を集めた国宝建造物第一号です。
そんな金色堂を含む中尊寺を建立したのが奥州藤原氏初代・藤原清衡です。
最盛期には、10万人の人が暮らし、京の都に迫る大都市でした。
その礎を築いたのが初代・清衡です。
清衡が国づくりを始めたことで、奥州藤原氏と呼ばれることとなりました。

奥州藤原氏は、いかにして誕生したのでしょうか?

1056年、清衡は、陸奥国に生れました。
家は、藤原鎌足の流れをくむ藤原北家・・・の地方豪族でした。
京では、藤原道長の子で平等院鳳凰堂を造営した頼道が摂関政治を行っており、朝廷は全国を支配する為に全国に国司を派遣、国司は国府と呼ばれる行政機関で政や軍事を執り行っていました。
そんな国司に仕える地方官僚だったのが清衡の父・経清・・・陸奥にあった多賀城に努める国府でしたが・・・
1051年、陸奥国で前九年合戦が起こります。
事の欲店は、今の岩手県奥六郡の安倍頼時が義務だった税を滞納し、さらに勢力拡大を画策したことでした。
危機を感じた朝廷は、武家で河内源氏を束ねていた源頼義を陸奥国司として派遣!!
これでおとなしくなった安倍氏でしたが・・・しばらくすると反旗を翻すのです。
清衡の父・経清は、国府の在庁官人だったので、国府軍につきますが、国府頼義に普請を抱いたことで、突如安倍頼時に寝返ります。
それには、経清の妻が頼時の娘で、清衡の父だったことも大きな理由です。
こうして経清の加わった安倍軍は優勢に・・・。
ところが、国府軍が山北三郡を支配していた清原氏を援軍につけたことで戦況は一変!!
1062年9月、厨川柵の戦いで安倍氏が滅亡。

安倍氏の味方に付いていた経清は、裏切り者への恨みからか、わざと錆びた刀で苦痛を与えられながら斬首・・・。
この時、清衡はまだ7歳でした。
清衡も処刑されることろでしたが、母が敵将の清原武則の嫡男・武貞の後妻に迎えられたことで養子となりその命を救われたのです。
この時、清原家には真衡という長男がいました。
さらにこの後、母が清衡の弟となる家衡を産みます。
清衡は、父の仇でもある清原の性を名乗りながら、血のつながらない兄、父の違う弟という複雑な過程で大きくなるのです。
そんな中、清衡は新しい大きな波にのまれることに・・・。

1083年、清衡28歳の時、再び奥州で戦乱が起こります。
清原家の当主となっていた真衡と、長老・吉彦秀武との間で内部抗争が勃発!!
後三年合戦です。
争いは、清原真衡の急死により、いったんおさまったかに見えましたが、今度は、清衡の義父弟である家衡が、真衡の所領分配に不満を示し、清衡の暗殺を計画!!
屋敷を襲撃し、清衡の妻・子・一族郎党を皆殺しにしてしまうのです。
暗殺何とか免れた清衡は、新たに派遣された陸奥国司源義家に家衡討伐を訴え、共に挙兵!!
1087年金沢柵で家衡を討ち取るのです。
ここに、清衡の育った清原氏が滅亡!!
これにより、欧州で権力をふるった安倍氏、清原氏が滅亡!!安倍氏と清原氏の縁者であった清衡が、支配地を継承したことで、奥州藤原氏となったのです。
国づくりを始めた清衡は、44歳の時に豊田館から30キロ南にある平泉に自らの拠点を移します。
そこで行ったのが、仏教に基づいた仏教立国でした。
どうして仏教だったのでしょうか?

その理由の一つが度重なる戦乱で亡くなった敵味方の区別なく、更には皆平等に浄土に導きたい・・・。
誰もが極楽浄土に行ける国を造りたかったのです。
さらに、もう一つの理由は・・・仏教は当時の最先端の文化でした。
陸奥国司と対立しないための、清衡の戦略でした。
陸奥国司との戦の末に、母方の安倍氏が滅んだ歴史を踏まえ、国司との対立を避けるために、仏教を重んじる平和な国をアピールしようとしました。
そして清衡は、その晩年をその平和都市建設に注いでいきます。
手始めに行ったのが、関山での中尊寺造営でした。
40基もの仏塔をはじめ、最盛期には300を超えたと言われる一大伽藍を20年もの歳月をかけて整備します。
中でも、二階大堂は、巨大な阿弥陀像が9体も納められる当時の日本では類を見ない壮大な建築物でした。
さらに清衡は、中尊寺の傍に阿弥陀堂(のちの金色堂)を作ります。

1128年、清衡はこの金色堂の中で、「百日後に入滅する」と、自らの死を予言したのです。
そして念仏を唱えながら、予言通りに100日後に無くなったのです。
73歳でした。
清衡の遺体は、金色の木棺に納められ、金色堂の須弥壇の真下に安置されました。
奇跡的な往生を遂げた清衡を、平泉の守護神とあがめるようになっていきます。
1950年に清衡のミイラを調査された結果、脳疾患による半身不随だったのでは?と言われています。
指揮を悟っていたのかもしれません。

その後を継いだのが、清衡の子・2代基衡でした。
岩手県平泉にある毛越寺。
その多くの伽藍を造営したのが、二代基衡でした。
本尊は、本堂に安置されている薬師如来像。
現在の高さはおよそ1.4mですが、基衡が当時造らせたものは、2.4mあったと言われています。
しかし、その制作から安置するまでには多くの困難が・・・
朝廷の時の権力者・鳥羽法皇が大反対したのです。

基衡は、薬師如来像の制作を京都の仏師・雲慶に依頼。
しかし、プライドの高い都の仏師に像を作ってもらうのは、容易なことではありませんでした。
野蛮な民とされていた奥州からの依頼・・・
そこで基衡は、贈り物をします。
奥州は砂金の産地でした。
特に、奥州藤原氏の支配地には、多くの採取場所があり、そこからたくさんの砂金が取れたのです。
そして、馬の産地でした。
蝦夷地との交易も盛んで、矢羽根(鷲の尾羽)、馬の鞍(アザラシの皮)などが容易に手に入りました。
北上川の水運を利用して中国とも交易していたため、宋の最新の文物まで手に入りました。
そんな品々を、完成までの3年間に大量に雲慶のもとに・・・。
その甲斐あってか、雲慶が仕上げた薬師如来像は素晴らしいものでした。
たちまち都の評判に・・・噂は鳥羽法皇のもとへ届き、実物をその目で見た法皇は、
「これほどの仏像、決して都から持ち出してはならぬ!!」と、仏像の差し止めをしたのです。
基衡は・・・あまりのショックにお堂に籠り、差し止めの撤回を7日7晩祈り続けました。
その後、関白に法皇へのとりなしを依頼。
王首藤原氏は、初代清衡の時代から摂政・関白(藤原北家)などにも献上品を送っていて、時乃関白とも深いパイプがありました。
その関白のとりなしの結果、やっと都から出すことを許されます。
基衡は、奥州藤原氏の財力を生かした贈り物作戦を行ったのです。

基衡は安堵したのか、その後1157年に急死。
跡を継いだのは、基衡の子・秀衡です。
秀衡は36歳で後を継ぐと、無量光院の造営に力を注ぐなど、清衡・基衡の遺志を継ぎ、平和な国づくりを推し進めていきます。
柳之御所遺跡は政庁で、その名は平泉館といいました。
最大の特徴は、巨大な空堀です。
本来の空堀の目的は、馬の侵入を防ぐものです。
しかし、秀衡は、戦の為ではなく、権力を見せつけるために造ったのだと言われています。
そして車宿・・・牛車の車庫の跡もあります。
当時、牛車に乗ることができたのは貴族の中でも位が上の者や高僧でした。
平泉には、たくさんの貴族や高僧がいたことがわかります。

平泉は壮大な都市計画に基づいて作られていました。
平泉の町の中心に位置する金鶏山。
金鶏山の山頂には、奥州藤原氏によって大規模な経塚が営まれ、信仰の山とされてきました。
秀衡は、この金鶏山を中心に都市計画を立てます。
無量光院を金鶏山を西に望む場所に建立・・・年に2回、彼岸の時期に金鶏山に沈む夕日が中堂の真上に来るようにしました。
西の山に沈む夕日は、浄土から来迎する阿弥陀仏の姿・・・
その夕日を拝めば、仏のお導きで必ず極楽浄土に行けるに違いないと考えていました。
平泉の都市全体で、仏教の浄土思想を具現化しようとしたのです。
こうして平和都市平泉は、三代秀衡によって完成・・・奥州藤原氏は、最盛期を迎えます。

しかし・・・遠く離れた京の都で、時代は大きく変わろうとしていました。
この世の極楽浄土とも言うべき平和都市・平泉を作った奥州藤原氏・・・最盛期を迎えた三代秀衡の時代・・・
京の都では、武家の覇権争いで源氏に勝利した平清盛を中心とする平家政権が全盛を極め、その勢力は西日本を中心に拡大の一途をたどっていました。
そこで秀衡は奥州を守るために、平清盛に中国・宋との貿易で必要な金を献納します。
すぐさま、平家との良好な関係を築きます。
その甲斐あってか、1170年、三代秀衡は、朝廷から陸奥国司の次に当たる鎮守府将軍に任ぜられます。
鎮守府将軍は、通常都から派遣された貴族や武士が努めました。
現地の地方豪族が務めたのは、過去に一例でした。
奥州藤原氏の存在が、都の人々に大きなものとして認識されたのです。

しかし、1180年、時代が大きく動きます。
清盛によって伊豆に流されていた源頼朝が平家打倒と挙兵!!
その討伐に、戦力として清盛が期待したのが、関東を支配した頼朝に対抗できる勢力を有していた秀衡だったのです。
頻繁に平泉に使者を送っては、平家が都を動かし源氏追討を要請します。
これに対し秀衡は、慎重でした。
返事はしても、実際には動かなかったのです。
動けなかった・・・??
朝廷からの命令でも、頼朝と戦う見通しがつきませんでした。
うかつには動けなかったのです。
秀衡の助けを得られないまま、清盛は病死・・・
一族の大黒柱を失った平家は、急速に力を失い1185年3月・・・兄・源頼朝、弟・義経の活躍によって滅亡するのです。

ところが、共に手を取り合っていた頼朝と義経の間に亀裂が・・・
義経が無断で朝廷から官位を受けたことで、兄・頼朝が激怒!!
時の後白河法皇に、義経追討令を出すように申し入れたのです。

頼朝から秀衡に直々の書状が・・・
「秀衡殿は奥六郡の主で、私は東海道を統括する惣官。
 お互い水と魚の用事、親密な関係を築くべきでしょう。
 よってぜひとも今年からは、朝廷に献上する馬や金を、私に取り仕切らせていただきたい。」

なんと・・・頼朝は、これまで奥州藤原氏が直接朝廷に献上していた貢物を代わって送り届けると言ってきたのです。
秀衡よりも、頼朝の方が立場が上だということをアピールするためです。
平家亡き後、強大な勢力は奥州藤原氏・・・頼朝にとっては目障りな存在でした。
奥州藤原氏の持つ経済力は、頼朝にとって脅威的なものでした。
1184年に東大寺大仏の再建工事の際、頼朝は黄金千両を寄進しましたが、秀衡は五千両も寄進しています。
その資金力を以て朝廷を取り込まれてしまったら・・・??
秀衡は頼朝の手紙に対し・・・悩んだ挙句に要求を受け入れます。
秀衡の選択は、名を捨てて実を取る・・・頼朝の要求を受け入れることで、頼朝の奥州への侵入を防ごうとしたのです。

1187年2月・・・奥州藤原氏三代秀衡のもとに、源頼朝に追われ朝敵となっていた頼朝の弟・義経が現れます。
義経は、若い頃平家から逃れるために、常盤御前のつてを頼って平泉で生活していたことがありました。
そして、再び奥州藤原氏に助けを求めてきたのです。
しかし、義経はお尋ね者・・・匿えば、秀衡にも罪が・・・
それでも秀衡は義経を受け入れました。
しかし、10月・・・秀衡は病に倒れてしまいました。
指揮を悟った秀衡は、息子の泰衡に・・・
「わしが死んだ後は、義経公を大将軍にして政務をまかせよ」
当時の奥州では、奥州藤原氏の力をもってしても、一つにまとめるのは大変でした。
一枚岩にして対抗するためにも、都の貴族の血をひく義経を金看板にすることが必要だったのです。
義経を中心に、泰衡ら奥州の武士が一致団結しなければ、頼朝から欧州を守ることはできないと秀衡は考えていたのです。
秀衡は、自らの役目を終えたかのように1187年、永遠の眠りにつくのでした。

奥州藤原氏は、四代泰衡に託されました。
泰衡は、頼朝との決戦に備え、義経を中心とする平泉幕府を作ります。
国見峠付近には、3.2キロにも及ぶ長大な防塁を構築し、守りを固めました。
そんな中、泰衡のもとに宣旨が・・・
”義経の身柄を差し出すならば、恩賞を与えよう”
泰衡は、あいまいな返事を送り、時間を稼ごうとしますが・・・
これを知った頼朝が、義経と共に奥州藤原氏の追悼令を出すように朝廷に圧力をかけてきます。
泰衡は、父の遺言に背き、義経の首を差し出すことに・・・!!

「義経を討つ!!」

1189年4月30日、泰衡は義経の館を数百騎で奇襲!!
周囲を囲まれた義経は、館の中にあった持仏堂に入り自刃!!

「これで我が家も安泰じゃ・・・!!」

そう安堵したのもつかの間・・・泰衡の目論見は大きく外れます。
この時すでに頼朝は、奥州攻略の順見を整えていました。義経の首が差し出されても、差し出されなくても、攻め入る構えでした。
4か月後、頼朝率いる1万数千騎の軍勢が、奥州に現れます。
対する奥州藤原氏は、阿津賀志山に防塁を築き迎え討とうとするも、頼朝軍に堀を埋められ、あっけなく突破されてしまいます。
その報告を受けた泰衡は、平泉の舘に火を放ち逃げ出します。
一説にはこれによって、平泉の町が火の海に包まれたといいます。
吾妻鏡には、この時の泰衡の様子を書いています。

”阿津賀志山で大敗したと聞き、あわてふためき、我を忘れ、一時の命を惜しんで、隠れること鼠のごとく”

平泉を捨て鼠のように逃げただけではなく、秀衡の遺言に背いて義経を裏切ったことから、奥州藤原氏の滅亡を招いた無能な武将と言われてきました。
本当に泰衡は無能だったのでしょうか?

無能説
①泰衡が平泉を焼き払って逃亡した
この時、平泉の町全体が炎上したと言われていますが、泰衡が焼いたのは平泉館だけでした。
負けた武将は自ら焼くという作法でした。
②泰衡が父の遺言に背いて義経を裏切った
泰衡は臆病者、無能としているのは、あくまで鎌倉幕府の一方的な評価です。
当時としては、朝廷の命令を実行しただけ・・・当時は朝廷の命令は絶対です。
義経を裏切ったのは、奥州を守るための常識的な判断でした。

決して無能ではなかったのです。
平泉を離れた泰衡は、北に向かい、腹心の家臣だった河田次郎を頼ります。
しかし、頼朝軍に寝返っていた河田次郎によって・・・
1189年・・・奥州藤原氏滅亡。
泰衡の首は、鎌倉へと届けられました。

頼朝が平泉に入ったのは、泰衡が火を放って逃げた翌日でした。
すっかり焼け落ちた邸宅の後に残ったのは倉庫だけ・・・
その中に積み上げられていた莫大な財宝に、頼朝はひどく驚いたといいます。
その後、藤原氏が建立し、整備した平泉の寺を巡礼した頼朝は、その仏教文化のすばらしさに感銘を受け、家臣の御家人・葛西清重に平泉の安全を保つように命じました。
こうして、初代清衡が立てた中尊寺金色堂は破壊を免れ、今もその姿をとどめています。

2011年、平泉の理想世界は、他に類を見ない浄土を表す建築・庭園・および考古学的遺跡群として世界文化遺産に登録されたのです。
奥州藤原氏が守り通した平和への願いと共に・・・!!


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尾張国・清須城・・・1582年6月27日、ここで本能寺の変で命を落とした信長亡き後の織田家の跡継ぎを決める重要な会議がありました。
清須会議です。
顔をそろえたのは、柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興・・・そして、羽柴秀吉・・・4人の織田家家臣と言われています。
そんな清須会議・・・詳しいことはわかっていません。

1582年6月2日・・・天下統一目前の織田信長が、京都・本能寺で家臣の明智光秀の謀反に遭い自害しました。
その後、同じく信長の長男・織田信忠も明智軍に攻められ命を絶ちます。
強大な影響力を持っていた信長と、家督を譲られ織田家当主となっていた信忠の死・・・。
織田家存亡の危機に一早く駆けつけたのが、備中高松からおよそ200キロの道程を2万もの軍勢を率い、わずか8日間で駆け戻った中国大返しを果たした羽柴秀吉・・・。

6月13日、山城国山崎で光秀と対峙。
見事主君・信長の仇を討ったのです。
それから14日後・・・
1582年6月27日、清須会議が行われます。

その議題は二つ・・・
①織田家の家督相続者を決めること
②織田家の所領の配分を決めること
旧明智領を含む560万石の所領の分配です。

清須城には誰が参加していたのでしょうか?
「川角太閤記」によると・・・参加したのは、
・織田家の古参で家臣の筆頭である柴田勝家
・同じく宿老の丹羽長秀
・信長の仇を討った功労者・羽柴秀吉
・秀吉と同じく山崎の戦いに参加していた池田恒興
この4人が通説となっています。

しかし・・・参加者はもっといた・・・??
「多門院日記」によると・・・4人に堀秀政が加わり5人だったとされています。
秀政は、織田軍の中国方面軍に参陣し、秀吉の配下として活躍した武将です。
本能寺の変の後、秀吉軍と共に中国大返しで信長・信忠の弔い合戦に駆け付け貢献しています。
秀政が会議に参加した可能性は・・・??
清須会議の時点では、秀政は織田軍団でのランクは他の4人よりもかなり下でした。
そのため、織田軍団の重役会議に同席しているとは考えにくいと思われます。
また、「多門院日記」は、尾張の出来事を、奈良の僧が伝え聞いて書いています。
若干史実とは受け止め難いと思われます。

また、7人いたという資料も・・・山鹿素行の「武家事紀」です。
そこには、通説の4人の他に、滝川一益、信長の次男・信雄、三男・信孝が書かれています。
滝川一益は、勝家、長秀、明智光秀と共に織田四天王と呼ばれていました。
織田家の行く末を決める会議に参加していてもおかしくないのですが・・・。
織田軍団の重要メンバーでしたが、滝川一益は会議に参加していません。
どうして・・・??
一益は、会議への参加を自ら辞退したと言われています。
織田軍団の関東方面軍司令官と思われるポジションでしたが、本能寺の変の直後、上野国で起こった神流川の戦いで、北条の大軍に乾杯しています。
そのみじめな敗戦を恥じて、清須会議への参加を辞退したのです。
また、単に北条氏との戦が長引いて、会議に間に合わなかったともいわれています。

信雄と信孝は会議に参加していたのでしょうか?
清須城にいたとは言われていますが、家督継承の当事者であり、会議に参加していないと思われます。
出席を止められていた可能性もあります。

こうしたことから、「川角太閤記」に書かれた柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の4人が参加者と考えられます。

その中で、清須城での会議開催を呼び掛けたのが柴田勝家でした。
しかし、どうして清須城だったのでしょうか?
勝家が指定した清須城には、信忠の忘れ形見の三法師がいました。
そのために、清須城ですることを決めたのです。

6月27日・・・顔を合わせた4人・・・張り詰めた空気の中、話し合いの口火を切ったのは柴田勝家でした。

「上様親子を突然に失ったのはまことに口惜しいことだが、新しい天下人を定め、上様と仰ぎ奉るがよかろう」

こうして、織田家の後継者選びから話し合うことになりました。
ところが・・・誰一人口を開きません。
相手を伺っているようでした。
そこにはそれぞれの思惑がありました。

この時後継者候補となり得たのは、信長の次男・織田信雄、信長の三男・織田信孝、信長の孫(信忠の嫡男)・三法師でした。

①織田信雄
この時、25歳!!
信長の長男の信忠と同じ母から生まれた嫡流の子でした。
しかし、信長の伊勢攻略に利用されます。
伊勢国・北畠具教を取り込むために.、養子に・・・。
それ以後、信雄は北畠を名乗りながらも信長・信忠と共に戦に参加。
戦歴だけは重ねるものの・・・今一つ。
信長の死後、安土城に入ります。
安土城は五層七重の天主閣を持つ当時最大の城です。
信長が天下取りの夢を馳せた居城でした。
ところがこの城が、信雄が入った直後に炎上し、灰になってしまいました。
ルイス・フロイスの報告やイエズス会日本年報に書かれている「信雄が放火した」という説が現在では有力視されています。
そんなこともあってか、信雄は家臣団からの評判も悪く、清須会議の前には後継者争いから外されていました。
織田家の後継候補は、信長の三男・信孝と、孫・三法師の二人に絞られていました。

②織田信孝
信孝は、信雄とは異母兄弟でこの時25歳。
母親の身分が低く、信長から冷遇されていたせいか、記録は殆どありません。
歴史上、その存在が顕著になるのは信長が伊勢攻略の際、抵抗の大きかった有力豪族・神戸具盛のもとに養子に・・・。
その後、武功をあげるも信長の扱いは変わらず、信孝は不満を募らせていきました。
それを知ってか、信長は信孝を四国派遣軍の総大将に抜擢!!
大坂に入った信孝は、そのチャンスをものにしようと準備に精を出していました。
そこに本能寺の変の報せが・・・。
信孝はすぐに備中高松から戻った秀吉と合流し、山﨑の戦いで明智光秀を破り、見事、父と兄の仇を討つのです。
当時の人々も、父と兄の仇を討った信孝が後継者に相応しいと考えていました。
来日していた宣教師たちも、キリスト教に理解のある信孝を後継者に望んでいました。

③三法師
信長の長男で織田家当主となっていた信忠の嫡男です。
血筋的には最も有力でしたが、この時まだ3歳でした。

信孝か三法師か・・・??

・・・??張り詰める空気の中、遂に勝家が・・・

「信孝様こそお年頃といい、その利発さといい、まことに天下人として適任この上ない人物と存ずる」

信孝を、織田家の後継に挙げたのです。
しかし、それは表向きの理由・・・勝家には思惑がありました。
勝家が清須会議の開催を呼びかけたのは、信長の敵討ちで秀吉に後れを取ってしまった汚名を返上するためです。
会議をリードすることで、織田家家臣筆頭という立場を周囲に示そうと考えたのです。
そしてその立場を盤石にするためには信孝を後継者にする必要がありました。
勝家は、信孝の成人の際の烏帽子親で、信孝とのつながりが強かったのです。
勝家は、信孝を織田家の後継者にし、自分が中心となって織田家を支えていこうと考えていました。

事実上天下を掌握するのは誰・・・??

「勝家殿の意見はごもっともだが、ここは筋目から言ってもご嫡男を擁立するのが道理・・・
 信忠さまにれっきとした若君がおられる以上は三法師様をお取り立てるのが当然かと存ずる」

秀吉は、勝家が信孝の後ろ盾として前面に出てくることを避けようと考えていました。
勝家に対抗する候補を擁立しようといました。
何よりも血筋を重んじる時代だったので、信忠の後継者を決める会議となると、信忠の血をひく三法師がいる限り、家督相続者は三法師以外ありえませんでした。

宿老の勝家に対し、強気の秀吉・・・
秀吉には、明智勢討伐の実績があったからです。
光秀討伐の功績に伴う発言力は大きいものでした。
秀吉の思惑は・・・??
成人した信雄、信孝が織田家を継ぐと、その家臣として仕えなければなりません。
幼少の三法師であれば、自身の傀儡にすることができると考えたのです。

自分よりも各下で足軽からの成り上がり者の秀吉の態度に、勝家は顔に出さないもののはらわたが煮えくり返っていました。
武将として優秀な信孝を推す勝家に対し、筋目を理由に三法師を推す秀吉・・・。
真っ向から対立する二人を前に、会議は膠着状態に・・・
勝頼と同じく織田家古参で秀吉を嫌っていた丹羽長秀が・・・
「そうじゃな・・・秀吉の申すことは正論。
 三歳とはいえ三法師様が後を継がれるのが筋目であろうな。」

どうして長秀は秀吉に味方したのでしょうか?

秀吉の器量を認める長秀・・・。
丹羽家を守るためには、勝家と秀吉のどちらに味方した方が良いかを見極め、秀吉を選んだのです。
長秀の援護射撃で、会議は一気に秀吉に傾きます。
ところがとうの秀吉は・・・席を立ってしまいました。
これも秀吉の作戦で、秀吉が立った間に長秀、恒興も勝家を説得・・・。
「弔い合戦に間に合わなかったお前の出る幕はない」という勝家への直言を秀吉がすると角が立つからです。
わざと退席し、長秀に言わせたのです。
こうして三法師が後を継ぐこととなります。
清須会議の前、秀吉は信長の妹で浅井長政に嫁いでいたお市と勝家の再婚話を進めていました。
高嶺の花であるお市との縁談を持ちかけることで、会議前に勝家に恩を売っていたのです。

また違う見方も・・・
それは、そもそも「川角太閤記」は、秀吉の天下人への台頭を前提とした歴史観によって書かれたものだからです。
三法師が後継者に選ばれたのは、秀吉が擁立鹿からではなく、会議の前から決まっていたという説です。
血筋が重要視されていた当時ならば、三法師がすんなりと跡継ぎになっていたはず・・・。
そのために、会議では後継者はすぐに決着。
別のことが議題に・・・・
信雄・信孝は、織田家当主の座を争っていたのではなく、どちらが三法師の名代になるかを争っていたのです。
議論は紛糾・・・
次男の信雄を名代とすれば、血筋は大事にされるものの・・・
信長と信忠の仇討の功績のある信孝は・・・??
信孝のもとで活躍した家臣たちも不満が・・・。
信孝を名代とすれば、血筋が軽んじられる・・・となると、三法師を血筋で選んだことにも異議が生じます。
どちらを選んでも、不都合が生じることに・・・
そこで4人が出した答えは・・・三法師様に家督は継承させるが、信雄様、信孝様のどちらも名代にはしない・・・でした。
その代わりとして、三法師の世話役の傅役を置くことに・・・。
その傅役は、三法師が治める直轄領の代官に就任した堀秀政でした。
そして三法師は、居城である安土城が修理の間、信長の三男・信孝の居城である岐阜城に・・・信孝が後見人となったのです。

謀反人・明智光秀の所領を含む560万石の遺領分配は・・・??
織田家の血縁者たち・・・光景に決まった三法師は、近江の国一郡と安土城を。
次男・信雄は本領の南伊勢に加え尾張国と清須城を。
信雄は、織田家の父祖の地である尾張国と信長ゆかりの清須城を与えられたことで、あっさり受け入れます。
信孝には、本領の伊勢神戸に加えて、美濃国と岐阜城を分配することに・・・。
信孝はこれを不満に思うも、父信長の天下布武の根拠であった岐阜城を譲り受けること、自身が三法師の後見人となったことで、しぶしぶ承知しました。

会議に参加した織田家家臣4人は・・・??
池田恒興は、摂津国池田・有岡に加え、同じ摂津国の尼崎・兵庫・大坂を。
丹羽長秀には、若狭国に加えて近江国二郡と坂本城を。
羽柴秀吉には、播磨国に加えて丹波国・山城国・河内国を。
ただし、本領だった近江国三郡を手放すことになります。
その近江国三郡を本領の越前国に加えて手に入れたのが柴田勝家です。
これによって、秀吉の居城・長浜城も勝家のものとなりました。
どうして秀吉は、長浜城を勝家に譲ったのでしょうか?
勝家が所望したのか?秀吉から譲ったのかははっきりとはしていません。
しかし、家督問題で主導権を秀吉に握られ、信雄擁立に失敗した勝家にとっては、せめて遺領配分の県は自分の言い分を通したと考えます。
秀吉は、これ以上勝家を刺激しないように、自分の本拠地の割譲と、居城の譲渡という大幅な譲歩をし、プライドの高い勝家のメンツを立てたのです。
長浜城を手放すことになった秀吉の居城は、播磨国の姫路城となりました。
秀吉は、山崎の戦いの戦場にもなった天王山に山崎城を築城することにしていました。

そして、三法師が織田家当主となったこと、山城国を押さえ京都を手中にしたことで、天下を手中に収めるという構想が出来上がっていました。
長浜城を手放すことぐらい、痛くもかゆくもなかったのです。
この時、山城国を押さえて京都を手中にしたことが、後の天下統一への足がかりとなったのは、歴史が証明しています。

ところが・・・半年後、秀吉が長浜城を攻めます。
勝家の養子柴田勝豊が守っていましたが、あっけなく降伏・・・
もともと秀吉の城・・・攻め方はわかっていたでしょう。
そして季節は冬に・・・越前に帰っていた勝家が、すぐには動けないことをわかっていたのです。
1583年、秀吉と勝家は賤ケ岳の戦いで戦います。
敗北した柴田勝家は、その二日後に自害・・・!!
秀吉は1590年、天下を統一します。

清須会議の後織田家はどうなったのでしょうか?
武将として器量なしと言われていた信雄は、秀吉についたり、家康についたりと日和見で・・・。
しかし、最後は幕府をひらいた徳川家から、大和国宇陀松山藩2万8000石を与えられ、大名となり血を繋ぎます。
対照的な信孝・・・
秀吉と敵対し、勝家と共に賤ケ岳の戦いに臨みます。
しかし、敗れて降伏・・・切腹を命じられます。
信孝辞世の句は・・・

昔より
  主をうつみの
      野間なれば

報いを待てや
      羽柴筑前

信孝は秀吉への凄まじい怨念を抱いたまま切腹!!

織田家当主となった三法師は、元服して秀信となります。
その後、美濃国を与えられますが、秀吉の身内の扱いを受け、天下分け目の関ケ原では秀吉の西軍についたことで敗北・・・
家康によって改易となり、高野山に追放されます。
再び歴史の表舞台に出てくることはありませんでした。
1605年、26歳の時、静かにこの世を去ります。

天下を決めた清須会議の結末でした。

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