日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: にっぽん!歴史鑑定

大阪府大東市と四条畷市にまたがる飯盛山・・・
2019年6月、この地で今までの戦国史を覆す大発見がありました。
大東市と四条畷市の3年に及ぶ調査の結果、50カ所で石垣が発見されたのです。
それは、戦国時代その山に築かれた飯盛城の石垣でした。
城全体に石垣を施した初期の城として織田信長の小牧山城が知られていますが、その信長より前に、城に巨大な石垣を作り上げていた戦国武将のいることがわかりました。
三好長慶です。

最近、長慶はこう呼ばれています。
「戦国初の天下人 戦国の革命児」・・・それは織田信長のことでは・・・??
しかし、三好長慶のことです。

江戸時代に歴史家・頼山陽が書いた「日本外史」には・・・
織田信長のことを”世に優れた才能である”と、高く評価している一方、
長慶は”まだ若いのに病の老人のように政を家臣の松永久秀に任せきり”と全く評価していません。
長慶は、信長の影に隠れて忘れ去られてしまったのかもしれません。

そんな三好長慶とは・・・??
1522年、武士たちが覇権を争う真っただ中、三好長慶は阿波国の武将・三善元長の嫡男として生まれました。
長慶の父・元長は、阿波国守護・細川晴元の重臣でした。
当時、細川氏は、細川晴元と細川本家室町幕府No,2の管領・細川高国が勢力争いをしていました。
その内紛で功績を挙げたのが、長慶の父・元長でした。
管領の高国を討ち、主君・晴元に細川家の実権を握らせたのです。

これで三好家も安泰・・・と思っていた1532年、元長に悲劇が起こります。
元長の力を警戒した晴元が、排除すべく大坂の本願寺と手を組んで、一向一揆を起こさせたのです。
それによって、10万の一揆勢が、堺にいた元長を襲います。
追いつめられた元長は、顕本寺で自害・・・。
一説に、元長は腹を掻っ捌き、内臓を引き出し、天井に投げ出したといいます。
壮絶な最期、無念の死でした。
この時、父と共にいた長慶は、辛くも逃がされ、阿波国に帰ったことで命を救われます。
わずか11歳で家督を継ぐことに・・・しかし、一揆勢の為に多くの重臣を失い、三好家は危機的状況にありました。

「三好の家を守るには、どうすれば・・・?」

考えた末に、長慶の決断は・・・??
1533年、再び機内にわたると、父の仇である細川晴元に服従を示しました。
弱体化した三好家を滅亡させないためには、晴元に従うしかなかったのです。

細川で実験を握った晴元は、1537年12代将軍足利義晴の時に管領に就任。
幕政を取り仕切るほどの力を持つようになります。
長慶は、そんな晴元の家臣として戦歴を重ねます。
18歳の時、力が認められ・・・1539年摂津国の越水城主となり、守護の代わりに守護代に任命されます。

「いつの日か、父の仇を・・・!!」

耐え忍ぶこと、晴元に仕えること15年・・・1548年、仇を討つ好機が・・・!!
摂津国の池田城主・池田信正は、ある戦で晴元を裏切ったと疑われ自害します。
すると、晴元の側近・三善政長が、池田家の財産や領地を没収しようとしました。
子の横暴な振る舞いに、四国の武士たちは、強い不信の念を抱くことになります。
長慶は、これを好機ととらえました。
兵を挙げ、各地の武士に訴えます。

「我こそが、武士の利益を守るものである」

すると、晴元に不満を持つ武士たちが、長慶のもとへ・・・!!
1549年1月、長慶は晴元側の軍勢と激突!!
そして6月24日、大坂・江口で800人の軍勢を破り、見事勝利するのです。
これを知った晴元は、すぐさま京都に退散・・・
さらに、家慶の追撃を恐れ、12代将軍だった義晴、13代将軍になった義輝親子を連れて、近江に逃げるのです。 
主君と袂を分かった長慶は、細川氏内で晴元と対立していた細川氏綱(高国の養子)に付きます。
そして新たに主君となった氏綱と京都に入ると、本拠地・阿波を始め、淡路、讃岐摂津を支配下に・・・!!

フランスの地理学者シャトランの描いた「歴史地図帳」、日本の統治者の変遷の図に・・・
そこには、天皇の内裏、将軍の公方と一緒に、三好殿とあります。
天下をとった三好家は、日本の統治者であったと海の向こうまで知れ渡っていたのです。

1550年、京都から逃げていた12代将軍足利義晴が病で死去・・・
これによってまだ15歳の13代将軍足利義輝が、名実ともに将軍家の指揮を執るようになります。
すると義輝は、京都奪還を目指して兵を挙げ、幾度となく三好家と激突します。

1551年3月7日・・・
長慶が京都の寺で酒宴に興じていると、そこへ忍び込んだ子供が寺に火をつけようとしました。
その7日後には、酒宴に乱入してきた男が、長慶に刀で斬りかかる事件が発生しました。
この2度にわたる暗殺未遂事件で、長慶は一時京都をでます。
全ては、将軍義輝の差し金・・・

すると翌年、将軍義輝と和睦します。
京都に迎え入れたのです。
長慶の残した言葉の中に「理世安民」という言葉があります。
長慶は、道理の通った民が安心して過ごせるような平和な世の中にしたいと考えていたのです。
そもそも、16世紀初めの戦いの原因は・・・
応仁の乱以降、足利家が分裂し、それが一番の原因だったのです。
長慶は、個人的な恨みは捨て、世の中の平和を生み出そうとしました。
長慶は、義輝が都に不在であることも内紛の原因だと思っていました。
義輝を京都に戻し、将軍の権威を復活させることで、争いを無くそうとしたのです。
長慶はその約束の際、自身を将軍の直臣にすることを条件としました。
そのため、和睦後は細川氏を離れ、将軍の臣下となったのです。
ところが・・・和睦した将軍義輝が、再び長慶にかかってきました。
さすがの長慶にも、もう、和睦の選択はありませんでした。

1553年、長慶は2万5000の兵を率いて上洛し、将軍義輝の軍勢が守る霊山城を襲い、圧勝します。霊山城の戦い
義輝は、長慶と一戦も交えることなく敗走!!
再び近江へと逃げていきました。
長慶は、この時も義輝を追いませんでしたが、義輝に付き従っていた者たちに言い放ちます。

「将軍に従う者の領地をすべて没収する」

すると、多くのものが京都に戻り、義輝のもとに残ったのはわずか40人ほどでした。
そして長慶は決意を固めます。

「これからは、この三好長慶が都の泰平を守る」

長慶は、義輝に代わる新たな足利将軍を擁立せずに京都を支配します。
戦国時代、京都から将軍を追放したものは長慶以外にもいました。
しかし、足利家から他の将軍を擁立するのが当時の常識でしたが・・・長慶は、足利将軍を擁立せずに、京都を支配したのです。
これは戦国乱世の中でも初めてのことでした。
足利将軍家の代わりに京都を支配した長慶は、その後次々と畿内五か国を手に入れていきます。
戦国初の天下人の誕生でした。
天下とは、鎌倉時代は首都・京都を指していました。
そして、戦国時代は、天下は京都の周辺五か国(山城・大和・摂津・河内・和泉)を指していました。
長慶は確かに天下人でした。
公家や農民も、実力のある三好長慶の政治を求めるようになってきていました。
長慶は、結果的に天下人となったのです。

江戸時代初期の戦国武将の逸話集「武辺咄聞書」によると・・・
「信長は長慶の家臣になって働きたかった」とあります。
戦国の覇者となって世の中を次々と変えていった革命児である織田信長。。。
三好長慶の家臣になりたがっていたといわれるのは、信長が長慶に畏敬の念を抱いていたからかもしれません。
なぜなら、長慶は信長に先んじて常識破りの政策を行っていたからです。
信長が、足軽だった秀吉を重用しましたが・・・
戦国時代、このような画期的な人材登用は長慶の方が先でした。
武家では、代々仕える家臣を大事にするのが常でしたが、長慶はその常識を破り、身分や家格に関係なく、才能や実力を評価しました。

①人材を登用
その一人が摂津国の土豪出身とされる松永久秀です。
久秀は、長慶の右筆に抜擢されると、持ち前の知恵で、将軍や大名との交渉に力を発揮、三好家の重臣となります。
京都郊外の西九条の荘園の代官だった石成友通は、長慶の元で奉行で頭角を現し、三好家の中核となります。
長慶は自らの弟たちも上手に差配・・・
次男・実休、三男・冬康、四男・一存を敵に備えて重要な場所に置きます。
越水城主となった際、次男・実休を本拠地・阿波に、三男・冬康を淡路(安宅家の養子)に、四男・讃岐(十河家の養子)に出しました。
こうして長慶は、自身が治める畿内の周辺を兄弟で固めることで三好家を守ったのです。

②鉄砲の導入
長慶は、堺、尼崎、兵庫津など京都の物流拠点の大阪湾の主要港を支配することが重要だと考えていました。
そこで、港を拠点に活動していた法華宗の寺院や、その信者である有力な商人たちを保護、これによって流通ネットワークを掌握します。
日本国内のみならず、東アジアの貿易に関与します。
長慶の元には、明などから貴重な品が届くようになります。
その一つが、当時の最新鋭の武器・・・鉄砲です。
1550年、足利義晴方の記録に残っています。
三好長慶は、大量の鉄砲を持っていたことになり、これは信長の長篠の戦いの25年前になります。

③キリスト教の保護
1564年長慶は、領内でのキリスト教の布教を許可し、保護します。
南蛮貿易がもたらす経済効果を早くから熟知していたようで、宣教師からの最新の情報や、西欧の新しい技術を取り入れることが目的だったと考えられています。

④居城の移転
長慶は天下人となった際に、越水城から同じ摂津国でも京都に誓い芥川山城に居城を移します。
これにより、芥川山城は、幕府に代わり政治の中心となるのですが、1560年に嫡男・義興に譲ります。
自らは河内国の飯盛城に移るのです。
越水城は阪神間を、芥川山城は京を、飯盛城は河内、大和、伊勢、紀伊に拡大していく・・・
長慶は、政策課題に応じて、臨機応変に居城を移していくのが特徴で、他の戦国大名には見られません。
これは、織田信長につながっていく政策なのです。
織田信長も、那古野城→清洲城→小牧山城→岐阜城→安土城と、京都に近づいて行きながら戦国の覇者となっていきます。

⑤城の造り
大阪府大東市と四条畷市にまたがる飯盛山・・・
ここに、長慶最期の居城・飯盛城がありました。
長慶は、ここを新たな居城と定めると、大規模な工事を行い、南北700m、東西400mの山城を築きます。
山城は、山を削って、掘って盛り固めることで、堀や土塁なⅮ歩の防御システムを築き、それを囲った曲輪でつくられた構造となっています。
そんな当時は。。。石垣が施されるのは、土台が弱い一部のみ、補強でした。
石垣に適した花崗岩がなかなか手に入らなかったからです。
そのため、山城である飯盛城も石垣は一部だと考えられてきました。
大東市と四条畷市が3年間かけて発掘調査をしたところ、驚くべき事実がわかったのです。
千畳敷曲輪で・・・飯盛城の中でも最大級の石垣が発見されました。
その大きさは、長さ30m、高さ4mと推定され、石も大きなものが使われていて、一番大きなものは1.6mの花こう岩が使われていることがわかりました。
さらに、千畳敷曲輪を含めた50カ所で石垣が発見されました。
石垣が見つかったことで、飯盛城の全域に石垣が取り入れられていた可能性が高まったのです。
代全体に石垣を使った武将として有名なのが織田信長です。
1563年に築城した小牧山城をはじめ、岐阜城、安土城と総石垣にしています。
城を強固にするためだけでなく、貴重な花崗岩をふんだんに使うことで、その経済力を見せつけ、他を圧倒するためだったといわれています。
しかし、長慶の方が早く総石垣の城を作っていたという可能性が高まったのです。

大阪府堺市にある南宗寺・・・
ここは三好長慶が、非業の死を遂げた父・元長の菩提を弔うために、建てたといわれています。
その境内には天下人となった長慶の銅像があります。
そこには桐紋が・・・1561年、将軍足利義輝から、桐紋の使用を許可されていました。
名門の出ではない長慶が、桐紋を許されるのは、極めて異例なことでした。
この家紋のしようが許されたということは、三好家の家格が足利一門並みに上昇したことを意味しています。
長慶は、天皇からも大きな信頼を寄せられていました。
1558年、正親町天皇践祚(三種の神器を先帝から受け継ぐこと)のため、永禄の改元が行われたとき・・・
当時改元は、朝廷を代表する天皇から幕府を代表する将軍に相談や連絡があり、双方の合意により行われるのが通例でした。
しかし、正親町天皇は、将軍義輝を無視し、三好長慶に相談・連絡をしてきたのです。
これは、長慶が武家の代表者だと、天皇から認められたということでした。
名実ともに天下人となった三好長慶・・・
しかし、これから次々と悲劇に見舞われます。

1561年、和泉国を任せていた弟・・・四男の十河一存が病死、その翌年の1562年には次男の実休が戦死、そしてその翌年の1563年には長慶の嫡男・義興が22歳の若さでこの世を去ります。

「このままでは三好の家が・・・!!」

身を奮い立たせ、後継者選びに奮闘します。
候補となったのは、弟の中でまだ存命だった安宅冬康、亡き弟・実休の嫡男・長治、一存の嫡男・義継でした。
血縁の序列で言えば、弟・冬康ですが、長慶が選んだのは序列で一番下の義継でした。
長慶は、先の関白・九条植通の養女を母とする義継を選んだのです。
家格も天下人に相応しいようにと選んだのです。

「これで三好の家も安泰じゃ・・・」

しかし、1546年5月9日、弟・安宅冬康を飯盛城に呼び寄せると・・・殺してしまいました。
どうして・・・??
軍記物語などでは、長慶の家臣・松永久秀が三好家を乗っ取るために冬康を陥れるために画策・・・
「冬康殿が上様に謀反を起こそうとしております」
と、長慶にウソを吹き込んで殺害させたと書かれていますが・・・
松永久秀の讒言はなく・・・まだ幼少の三好義継が長慶の後継者となった事で、家臣団が義継と冬康に分かれてしまった事を恐れていました。
三好家の内紛で、世の中が乱れないように、内紛の火種になる弟・安宅冬康を殺害したのです。
内紛によって、衰退の一途をたどっていった足利将軍家や細川氏を目の当たりにしてきた長慶・・・三好家が同じ道を歩まないように、弟・冬康を殺害するという苦渋の結さんをしたのです。
実の弟を殺める・・・長慶は、病に伏してしまいます。
わずか2か月後・・・1564年7月4日、三好長慶、43歳で死去・・・。
この時、新たに当主となった義継はまだ15歳にも満たなかったため、混乱を避けるために長慶の死はふせられました。

家督を継いだ義継は、翌年の1565年、三好を陥れようとしたとして、将軍足利義輝を討ち取ります。
長慶の晩年より、将軍家との関係が急速に悪化していました。
そこを継いだ義継は、将軍義輝を討つことで、三好家を率いていくという姿勢を示したかったのです。
しかし、その後、長慶が憂いでいたことが起きます。

重臣・松永久秀と、三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、石成友通)が対立!!
義継は、家臣たちをまとめきれずに、結局三好家は分裂・・・。
そんな中、1573年、天下布武を掲げて躍進していた織田信長の軍勢に攻められ、義継が自刃・・・
三好家の天下はここに潰えたのです。
長慶が亡くなってから、わずか9年後のことでした。

織田信長より先んじていた戦国の革命児・三好長慶・・・
戦乱の世を終わらせ、平和を築くことを願い、天下を掌握した男でした。
しかし、その天下は、皮肉にも、あとを追ってきた戦国の風雲児・織田信長によって奪われてしまうのです。
まさに乱世の因縁・・・長慶の死から4年後・・・
1568年、京都を目指して進軍していた信長は、芥川山城を攻め、10日余り滞在しています。
芥川山城は、長慶の本拠地、京都に代わる政治の中心地でした。
そこを攻め落とすことで、三好家の時代は終わったのだと、世間にアピールする狙いがあったのだとされています。
信長にそうまでさせる三好長慶は、大きな存在だったのです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

飯盛山城と三好長慶 [ 仁木宏 ]

価格:2,640円
(2019/10/5 23:41時点)
感想(0件)

三好長慶 室町幕府に代わる中央政権を目指した織田信長の先駆者 三好長慶四百五十年遠忌記念論文集

価格:3,850円
(2019/10/5 23:42時点)
感想(0件)

1945年9月29日、日本国民を驚愕させた一枚の写真が新聞に掲載されました。

tennnou昭和天皇と、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーとのツーショット写真です。
この時、天皇44歳、マッカーサー65歳でした。
写真は、天皇がアメリカ大使館をたずね、マッカーサーと初めて会見した際に撮られたものでした。

この写真を見た作家・高見順は「古今未曽有」と、敗戦日記に記し、歌人・斎藤茂吉は「ウヌ!マックアーサーの野郎」と、憤りました。
現人神として崇められてきた天皇に対し、マッカーサーはノーネクタイに開襟シャツのカジュアルな服装で、両手を後ろに回し傲慢にさえ見える・・・
国民は、大きなショックと怒りを抱いたのです。
ところが、この後行われた二人の会談が、敗戦国となり、連合国の占領下に置かれた日本の行く末を握っていました。

その世紀の会見の中身とは・・・??

1945年8月30日、戦後日本の命運を握る男がやってきました。
ダグラス・マッカーサー、GHQ最高司令官です。
GHQとは、連合国最高司令官総司令部のことで、敗戦国日本を占領管理するため、米・英・中・ソ・仏などの戦勝国によって設置された機関です。
その最高権力者となったマッカーサーが、神奈川県厚木飛行場に降り立ちました。
午後2時5分・・・アメリカ軍の輸送機・バターン号で予定より1時間ほど早く到着。
濃いサングラスにノーネクタイ、コーンパイプをくわえたマッカーサーは、ゆっくりと辺りを見回しながら、タラップを悠々と降りてきました。
この時の印象的な登場は、マッカーサーが周到に計算した演出だったといいます。
戦争に勝利をおさめて、最高指揮官として一歩踏み出す・・・
サングラスにコーンパイプを片手に降りてきたのは、如何に自分を印象付けるかを考えた結果でした。
厚木飛行場を後にしたマッカーサーが向かったのは、東京入りするまでの狩りの宿舎となるホテルニューグランドでした。
現在も、マッカーサーが宿泊した部屋が残っています。
どうしてこのホテルだったのでしょうか?
進駐軍が、最初の滞留地を横浜としたのは、最高司令官の宿舎としてニューグランドが相応しかったからです。
ホテルニューグランドが、外国人向けに作られたホテルであった事、アメリカの攻撃対象から外されていたので、焼けずに残っていたのが大きな理由です。
マッカーサーは、横浜港に面したこの部屋を、とても気に入っていました。
しかし、その対応には苦労もあったようで・・・
マッカーサーは、朝食に卵を二つ注文しましたが、当時の日本は食糧難・・・その卵を一日中探し回って手に入れたのが1個だけでした。
それをきっかけに、マッカーサーは日本の食糧難を知り、進駐軍から日本に大量の食糧が届けられました。

1937年、マッカーサーがフィリピン軍事顧問だったころ、当時のケソン大統領の訪米にお供し、日本に立ち寄っていました。
一緒に来ていたジーン夫人は、二度目の結婚でした。
新婚旅行をしていなかったので、このニューグランドに泊まったことがありました。

1945年9月2日、日本の降伏調印が、東京湾上ミズーリ号で行われました。
その調印式の開会を述べるマッカーサー・・・

「私は連合国最高司令官として、
 私の代表する諸国の伝統に従って、
 正義と寛容を持って私の責任を果たし、
 降伏条件が、完全、迅速かつ誠実に遵守せられるよう、
 ありとあらゆる必要な措置をとる決意である」

日本側からは、外務大臣・重光葵が代表として調印・・・
ここに大日本国帝国は終焉します。

9月8日・・・
マッカーサーは東京に入ると、日本での住まいとなるアメリカ大使館へ・・・。
そして、皇居の迎えに立つ第一生命ビルを接収しGHQ本部としました。
最大で40万人となった米軍部隊も日本各地に上陸。
占領体制は着々と整備されていきました。

マッカーサーは土日も休まず、判で押したような生活をしました。
毎朝10時にアメリカ大使館を出て、GHQ本部に向かいます。
仕事をするのは、マッカーサールームと呼ばれた執務室。

敗戦からおよそ1月・・・GHQによる本格的な日本統治が始まりました。
実質的にはアメリカの単独占領・・・おのずとGHQのトップにいたマッカーサーの命令は、絶対でした。

「私は日本国民に対して、事実上無期限の権力を持っていた
 歴史上、いかなる植民地総督も、征服者も、総司令官も、私が日本国民に対して持ったほどの権力を持ったことがなかった
 私の権力は至上のものであった」

それでもマッカーサーは、調印式、第一生命ビルの接収では、支配者マッカーサーとして日本人に焼き付けるには不十分だと思っていました。

「早急に天皇と会見をする必要があるのだが・・・」

マッカーサーはGHQの幕僚たちから強く勧められていました。
「私たちの権力を示すために、天皇を総司令部に来させたらどうだ??」
敗戦の惨めさを思い知らせろとの声もあったのです。
しかし、マッカーサーは迷っていました。
そして考えた末・・・天皇を呼びつけるのではなく、天皇から会いに来るのを待つことにしました。
どうして天皇を呼びつけなかったのでしょうか?
それは、マッカーサーの経歴と深く関係していました。

1880年アメリカ合衆国アーカンソー州で生まれます。
陸軍士官学校を首席で卒業。
アメリカ軍に入隊し、フィリピン赴任を経て、陸軍参謀総長に史上最年少の50歳で就任。
エリート軍人でした。
太平洋戦争勃発後は、5回目となるフィリピンへ・・・
こうして長年でフィリピンで過ごしていたマッカーサーは、アジア通を自負していました。
アジア人の心理をよくわかっていたと言われています。

「幕僚たちが、権力を示すために天皇を招き寄せたらと、強く勧めたが、そんなことをすれば、日本の国民感情を踏みにじり、天皇を国民の目に殉教者に仕立て上げることになる」

マッカーサーは、日本は天皇崇拝のおかげで戦後も無政府状態にならず、粛々と敗戦を受け入れたのだと考えていました。
無理やり天皇を呼びつければ、日本国民の反感を買い、今後の占領がやりにくくなると考えたのです。

「私は待とう 
 そのうち天皇が自発的に私に会いに来るだろう
 西洋のようにせっかちにするより、東洋のように辛抱強く待つ方が、我々の目的に一番かなっている」

後に、副官であるバンカー大佐は・・・
「ゼネラルは、心理的な側面では天皇を通じて占領を極めて効果的に行った」と言っています。

GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサー・・・
この時、日本側もマッカーサーと早急に会いたいと思っていました。
日本がポツダム宣言を受諾した最大の理由は、国体が護持(=天皇制存続)されると思っていました。
しかし、同時にぽつ談宣言の中では、戦争責任を追及する軍事裁判を行うことも謳われていました。
天皇が糾弾される可能性もあったのです。
日本政府は、”天皇が軍事裁判で糾弾されるのか”をGHQから探りたかったのです。

実際、アメリカでは天皇を糾弾せよという機運が高まっていました。
そこで、宮内省関係者は日本統治の最高権力を有するマッカーサーの考えを探ろうと情報集めに奔走・・・。
しかし、何もつかめずにいました。
そのために、天皇とマッカーサーとの会見に踏み切れずにいたのです。

そんな中・・・9月20日。
昭和天皇の侍従長・藤田尚徳のもとへ電話が・・・時の外務大臣吉田茂でした。
マッカーサーとあってきた吉田・・・

「マッカーサー元帥に、もし天皇陛下が”あなたを訪問したい”と言われたらどうなさるかと質問したところ”喜んで歓迎申し上げる”との返事だった。」

吉田から電話がかかってくる直前に、藤田もマッカーサーと会っていました。
藤田が伝えた内容は・・・

「マッカーサー元帥は、開戦以来方々の戦場で戦われ、日本に進駐されたが、ご健康はどうであろうか
 炎熱の南方諸島で健康をそこなわれるようなことはなかったろうか
 また、日本の夏は、残暑が厳しいので、十分に健康にご注意ありたい」

すると、マッカーサーは・・・

「私のことをいろいろご心配下さって感謝に堪えない
 どうか天皇によろしくお伝え願いたい」

マッカーサーの丁寧な対応に、藤田侍従長は安堵したといいます。
吉田茂大臣からの連絡は、大変うれしいものでした。
マッカーサーの意向がわかったので、宮内省で計画し、天皇がアメリカ大使館にマッカーサーをの訪問することが決まります。

その運命の日は、9月27日でした。
昭和天皇は、数人のお付きのものと共に、赤坂にあるアメリカ大使館へ。
迎賓室の入り口で待っていたマッカーサーと、遂に対面します。
握手と簡単な挨拶を交わした後、天皇はなかに入ります。
この時、お付きとして許されたのは、通訳只一人・・・。
マッカーサーは天皇に、こちらにお立ち下さい・・・そう言って、天皇の右側に立つと・・・突如、マッカーサー付きのカメラマンがシャッターを切ったのです。
撮影に関して何も知らされていなかった天皇は、驚きを隠せず・・・姿勢を正すことができませんでした。
三枚目でようやく体制を整えることができました。
宮内省発表の記事と共に翌日28日の新聞に報じられる予定でしたが、内務大臣山崎巌がこれを不敬だとして掲載禁止とするのです。
これまで国民が見慣れた天皇の写真は、御真影と言われた陸海軍大元帥の礼装服か、白馬にまたがった陸軍改定式などの勇姿でした。
それが、平民と変わらないモーニングにネクタイという姿だったからです。
さらに、現人神である天皇が直立不動の体勢をとっているのに対し、マッカーサーはノーネクタイに開襟シャツという軽装・・・こうした理由から不敬とし、差し止めたのです。

しかし、新聞に写真が載っていないことを知ったGHQは激怒!!
依然として獣体制の考え方を持っている者がいると、言論に対する一切の制限令を撤廃したのです。

國破れてマッカーサー (中公文庫) [ 西鋭夫 ]

価格:1,414円
(2019/10/3 09:14時点)
感想(4件)


こうして会見から2日後の29日、二人の写真が新聞に掲載されました。
これを見た国民の多くは、改めて日本が敗戦したことを思い知らされたといいます。

昭和天皇・マッカーサー 第1回会見
この写真を撮ったのち、第1回会見が始まりました。
会見の主な内容は、天皇が開戦を遺憾している事、ポツダム宣言の履行に対する確認でした。
マッカーサーは天皇のことをエンペラーと呼び、天皇に全てを訳し伝えよと強い口調で通訳に伝えると、10分にわたり話し続けたといいます。

後に、マッカーサーはこのことを振り返りこう言っています。

「私は天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴え始めるのではないかという不安を感じた」

天皇は命乞いをしに来たのでは??と考えていました。

「私がアメリカ製のタバコを差し出すと、天皇は礼を言って受け取られた
 そのタバコに火をつけて差し上げたとき、私は天皇の手が震えているのに気が付いた」

普段は吸わないタバコを手にした天皇・・・
その緊張がほぐれたのは、マッカーサーの思い出話でした。

「私は日本とは40年来の縁があるのです
 最初の日本訪問は、日露戦争の時
 父が従軍武官としてきた際に、その副官としてきたのです
 戦争後には、私は一度天皇の父君に拝謁したこともあるのですよ」

そんな話をするうちに、天皇の警戒心は薄らぎ、その場の空気も和らいできました。
すると天皇は・・・

「私は国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身、あなたの代表する諸国の採決に委ねるためお訪ねした」

戦争責任のすべてを追うというのです。

「死を伴うほどの責任・・・
 明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとするこの勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした
 私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても、日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである」

気付けば会見の予定より大幅にオーバーしていました。
昭和天皇とマッカーサーは、35分の会見で心を通わせたのです。
会見が終わると、天皇を大使館の玄関まで見送りました。
予定外のことでした。

天皇との信頼関係が築けたことは、日本国民の信頼も勝ち得たと判断したのでしょう。
この会見の成功が、敗戦国日本の歴史を大きく変えることとなります。

1946年5月3日、東京市ヶ谷の旧陸軍士官学校大講堂で極東国際軍事裁判・・・東京裁判が行われました。
ポツダム宣言に基づく戦争責任を追及するというものです。
注目されたのは、最大の責任アリとされた昭和天皇の処遇でした。
連合国側では、裁判にかけ、処刑追放するべきだという声が高まっていました。
マッカーサーは、天皇が日本の国際法違反に関与していないか、戦争責任はあるか、全ての証拠を収集せよと、アメリカ本国から命じられていました。

1946年1月25日、これに対しマッカーサーは、アイゼンハワー陸軍参謀総長に回答しています。
「天皇の犯罪行為について調査したが、過去10年間、天皇が日本の政治決定に関与した明白な証拠は見つからなかった
 天皇告発は、日本人に大きな衝撃を与え、天皇制の崩壊は日本を崩壊させる」
マッカーサーはこう考えていました。
日本は降伏しても、天皇制は存続すると信じたからポツダム宣言を受諾した。
そのため、これを裏切り天皇を裁けば、ゲリラ戦が各地で勃発するだろう。
それを制圧するためには、膨大な費用と人材を要する・・・
占領を容易に遂行するためにも天皇を裁判にかけるべきではない・・・!!

マッカーサーは様々なてを打ちます。
1946年1月1日、昭和天皇の発意として「新日本建設ニ関スル詔書」を出します。
天皇自ら現人神であることを否定した人間宣言です。
原案は、GHQによって作られました。
①「人間宣言により新たな天皇像を作り上げ、天皇の独裁者のイメージを払拭しようとしました。
そして、天皇制を存続させ、天皇が裁判で糾弾されないよう、東京裁判の為に来日したキーナン首席検事にその意向を伝えます。
これによってアメリカ政府も天皇に”戦争責任を問わない”となりました。
しかし、他にも問題が・・・
東京裁判で審判をする連合国の内ソ連とオーストラリア・・・未だ天皇の戦争責任を追及する構えでした。
②天皇を裁かないことを前提に、裁判を進めるよう他国を説得し、同意させます。
裁判が始まると、天皇を裁かないことに矛盾が生じてきます。

東京裁判を行う上で大きな課題となった昭和天皇の戦争責任・・・
この時、天皇を糾弾せよという声を制したのは、天皇との会見をしたGHQ最高司令官マッカーサーでした。
マッカーサーの働きかけによって、天皇を糾弾しないという方向で進んでいきます。
ところが・・・
開戦当時の総理だった第40代内閣総理大臣東条英機への検察尋問で状況が一変します。

「天皇が望んでいないのに、あなたは戦争を選択した。
 このことについてどう思うか?」と聞かれ・・・
「私は忠実な軍人で、陛下に背いたことはない!」

これは即ち天皇の命令で戦争を行ったということ・・・
これでは天皇の戦争責任を追及しなければならなくなる・・・!!
そこで、アメリカのキーナン主席検事は、検察尋問を打ち切り、法廷が正月休みの間に東条が親しい軍人や官僚を使い説得させたのです。
東条は渋りながらも、天皇を訴追させないためにこう証言します。

「陛下には責任なし
 全責任は自分にある」と。

こうしてなんとか天皇を出廷させずに済みました。

マッカーサーは日本の占領において、民主化にも力を入れます。
それは、日本を二度と戦争国家にしないためです。
民主化の名のもとに、日本の軍事主義を徹底的には甲斐、壊滅することが大命題でした。
武装解除を行い、背後にある財閥やそれを運用する人間の追放を徹底的に行いました。

憲法改正・・・
マッカーサーは、占領当初から時代遅れの古い憲法を改正すべきだと口にしていました。
民主的な憲法を作るべきだ・・・!!
これを受けて日本政府は新たな憲法草案を作りますが・・・明治憲法に変わらないと却下されます。
そこで、GHQ主導の下で新憲法の製作に・・・!!
別名「マッカーサー憲法」と呼ばれた日本国憲法の草案・・・
その最初に掲げられたのが、天皇の地位についてでした。

天皇は国家元首の地位にある
皇位は世襲される
天皇の職務および機能は憲法に基づく

憲法草案に関わったホイットニー局長は、「草案が守られれば天皇は安泰になるだろう」といったといいます。
マッカーサー・ノートに基づく三原則
①天皇の地位は国民主権に基づくものとする
②戦争の放棄
③封建制度の廃止
でした。
この草案に、当時の幣原内閣は驚きます。
自分達には考えも及ばない形で、日本や日本国民の権利か書かれていました。
新しい日本の憲法草案は、当時世界の中でも斬新的な民主憲法だったのです。

新憲法についても、マッカーサーと天皇は話し合いました。
1946年10月16日、第3回会見
2時間にわたった会見で天皇は・・・
「日本国民は、戦争放棄の実現を目指してその理想に忠実でありたいと思う」by昭和天皇
「戦争放棄を決意する日本国憲法は歴史的な意味を持つだけでなく、戦争を放棄したがゆえに道徳的な評価を受けていて、その面で国際社会のリーダーになりうる」byマッカーサー
日本国憲法は、その年の11月3日に公布され、翌5月3日に施行されました。

こうして天皇は、国民の象徴となったのです。
強い信頼関係で結ばれていた天皇とマッカーサー・・・その内容は、回を追うごとに深みを帯びていきます。
第4回会見以降、マッカーサーは天皇を陛下と呼んだのです。
二人の関係は信頼そのものとなり、マッカーサーは、天皇を当惑させたり、屈辱したりしないよう気を遣ったといいます。

マッカーサーはGHQ最高司令官を突如解任されます。
それは、朝鮮戦争の進め方について当時のトルーマン大統領と意見が対立したからです。
この突然の報せに、日本は驚きます。
1951年4月15日、昭和天皇はなっかーさーに別れのあいさつに向かいます。
11回目・・・これが最後の会見でした。
そして・・・翌日、マッカーサーはあわただしく日本を去っていきました。
羽田空港へと向かう沿道には、新聞発表で二十数万もの人々が星条旗と日の丸を手に一行を見送ったといいます。
しかし、どうして日本を占領しに来た司令官がこんなに人気があったのでしょうか?

アメリカの援助物資はじめ、マッカーサーの政策が、自分たちの為になっている有難さを、日本国民は身をもって知っていたからです。
こうしてマッカーサーは、日本の統治を大成功におさめたのでした。

「私はいつも、占領政策の背後にある色々な理由を、注意深く説明したが、天皇は倭代謝話し合ったほとんど、どの日本人よりも、民主的な考え方をしっかり身に着けていた
 天皇は日本の精神的復活に、大きい役割を演じ、占領の成功は、天皇の誠実な協力と影響力に負うところが極めて大きかった」

天皇は・・・
「東洋の思想にも通じているあのような人が日本に来たことは、日本の国のためにも良かった
 一度約束したことは必ず守る信義の厚い人だ
 元帥との会見はいまなお思い出深い」

昭和天皇とダグラス・マッカーサー・・・この会見がなければ、日本はいまとは違った形になっていたかもしれません。
まさに、日本の運命を決めた世紀の会見でした。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

昭和天皇・マッカーサー会見 (岩波現代文庫) [ 豊下楢彦 ]

価格:1,144円
(2019/10/3 09:14時点)
感想(4件)

アメリカはいかに日本を占領したか マッカーサーと日本人 (PHP文庫) [ 半藤 一利 ]

価格:924円
(2019/10/3 09:14時点)
感想(0件)

どんな難題や大ピンチもとんちで解決・・・小坊主一休さん。
一休さんこと一休宗純は、、室町時代を生きた実在の禅僧です。

絵本やテレビアニメでお馴染みの一休さん。
中でも有名な話が、室町幕府三代将軍足利義満に招かれたときの事・・・
「あの屏風に書かれたトラを捕まえてみよ」by義満
そして縄を手に取りこう答えます。
「準備ができました。
 それではここからトラを出してください!!」by一休
一休のとんちに将軍も天晴!!

ある商家が一休を家に招きますが、その家の周りは濠で巡らされています。
「このはしわたるな」と、立札が書かれていました。
ひらめいた一休は、臆することなく橋を渡っていき・・・
「はしをわたるなと書いてあったので、真ん中を歩いてまいりました。」by一休

意地悪な難題を突き付けられても機転を利かせる小坊主・一休・・・
これらのエピソードの元となっているのが、江戸初期に出版された「一休咄」に書かれています。
降りかかった難題を解決する一休の明快なストーリーが人気を呼んで大ヒットしました。
その後もいくつも一休本が出版され、とんちの一休さんというイメージがつきました。

このとんち話は実話なのでしょうか?

ほとんどすべて、後世に作られた創作で・・・しかし、一休と全く関係がないかというとそうではない・・・。
一休の生涯を弟子たちがまとめた「一休和尚年譜」には、とんちにつながるエピソードがあります。
実際には、義満ではなく4代将軍・義持に会っていたといいます。
つまり、一部の史実を元に創作されたものです。
実際の一休は・・・ひげ面で髪を伸ばしたお世辞にも愛くるしいとはいえない型破りな僧侶でした。
そういった風貌から、破戒僧と呼ばれていました。
そして人生もまた型破りでした。

・出生の秘密
京田辺にある酬恩庵一休寺は、一休が再興した寺です。
宝物殿には一休ゆかりの品が大切に保管されています。
一休が履いていた靴・・・23cmほどで動物の皮で作られ、ボロボロに履き潰されています。
さらに、一休の出生の品もあります。
時の後小松天皇から拝領した青磁の鉢・・・この鉢を特別に大切にしていた理由は・・・
ふたりの間柄にありました。
一休の母・伊予の局は後小松天皇の側室で、一休はその二人の間にできた子供だったのです。
しかし、天皇の子でありながら、1394年1月1日、京都・嵯峨野で人目をはばかるように生まれます。
幼名は千菊丸・・・当時は、60年にわたって分裂していた南朝と北朝が3代将軍足利義満の画策により統一・・・南朝の後亀山天皇が、三種の神器を北朝の後小松天皇に渡したことで、後小松天皇が正当な天皇となりました。
ただ・・・統一したとはいえ、北朝の南朝に対する不信感は根強いまま・・・
そんな中、一休を身籠った伊予の局は南朝出身だったことから、後小松天皇に近づいたスパイであるとあらぬ噂をかけられ、宮中を追われたために、人知れず一休を産むことに・・・。
この命を案じた母は、6歳になった我が子を臨済宗の安国寺に預けます。
周建と名付けられた小坊主は、才能を発揮していきます。
中でも禅問答である公案が得意でした。
幼いころから禅問答を得意としていたことから、とんちの一休さんのモチーフになったようです。
13歳になると東山建仁寺に入り、漢詩を作ることを日課とします。
生涯にわたって作られた詩は、知られているだけで1060に及びます。
詩作の喜びを知り、悟りを開くため修行に励む一休・・・
しかし、21歳になったある日・・・真冬の琵琶湖で入水自殺を図るのです。

どうして一休は死のうとしたのでしょうか?
当時、室町幕府は京の主だった寺を管理していました。
一休が修行していた寺もその一つで、手厚く保護されていました。
そのため、僧侶は権力と結びつき、賄賂によって地位や権力を手に入れるようになり、堕落していました。
「ここにいて、この先、真の悟りなどあるのだろうか。」
一休は疑問を感じるようになります。
そして、権力と結びつくことを拒んだ一休は、高僧として知られた謙翁宗為の門をたたき、ただひたすらに厳しい修行の日々を過ごすのです。
しかし、門下となって4年・・・心酔していた謙翁宗為がこの世を去ってしまいます。
極めて真っすぐで真面目だった一休・・・一休の自殺未遂は、謙翁宗為の死で心の支えが無くなってしまったからでした。

しかし、一休は死に切れませんでした。
残されたのは全の道だけ・・・と新たな師を求めます。
京都を去って、近江堅田へ・・・祥瑞庵の華叟宗曇禅師の門をたたきます。
華叟は、俗化した都の宗教界に嫌気がさしていた人物で、その志の高さに強く共感したのです。
入門が許されなければ死ぬ覚悟でした。
甘えや妥協を許さない華叟は、門を閉ざし、一休の入門を拒んだのです。

「それでも私は一日中庵の前で、こうして頭を地につけ入門を願いました。」

息詰まる空気の中・・・3日たち、5日たち・・・不動の姿勢でいる一休を見た華叟は、驚くべき言葉を発します。

「水をかけ、某でたたいて追い払え!!」

しかし、一休は動じません。

「ただ、私は全の道を極めたい その一心でいました」

華叟はついに門を開きました。
仏法に権力を持ち込むことを嫌った華叟は、その志の高さからか暮らしぶりは貧しさを通り越し、極貧でした。
華叟や弟子たちは、まともな食事もとれず、庵では薬草を売って命を繋いでいました。
一休は、上流階級向けの香袋や雛人形作りの内職をして、生計を支えていたといいます。
苦しい日々の中、平家物語を聞いた一休は、この上ない無情を感じ・・・

「有漏路より 
 無漏路に帰る一休み
 雨ふらば降れ
 風ふまば吹け」

と歌を読みました。
華叟はこの歌の中から、一休を与えました。
一休宗純の誕生です。

ある夜の事・・・琵琶湖でこぎ出した船の中で座禅を組んでいた一休は、暗闇で鳴くカラスの声を聴き・・・

「カラスは見えなくてもそこにいる
 仏もまた見えなくとも心の中にある」

これを聞いた華叟は、一休を後継者と認め、印可状を授けることに・・・
しかし、一休は頑としてこれを受け取りませんでした。
当時印可状を欲しいと躍起になっている者はたくさんいましたが、一休は悟りは紙面では伝えられないと考えていたのです。
不伝の伝と考えていたのです。

悟りを開いた一休・・・奇抜な行動が目立ってきました。

・破戒僧の秘密
悟りを開いた一休は、髪を伸ばし、ひげを伸ばし始めました。
暮らしぶりも禅僧に非ず・・・公の場で酒を飲み、女好きを公言します。
著書「狂雲集」でも書いています。
一休は美女に目がなく、ナンパまでしていました。
人々は、一休のことを破戒僧と呼ぶようになります。
一休42歳、大坂・堺にいた頃・・・一休は外出する際には、長さ三尺の刀を持ち、その鍔をたたきながら歩きました。
禅僧が刀をもって歩くなど、正気を疑われる行いです。
町の人が一休に尋ねます。

「剣は人を殺すためのものでしょう?
 和尚さんは、何のために剣を持っているのですか?」

すると一休はその剣を抜いて見せました。
中身は木刀でした。

「あなたたちは何もご存じないようだが、今あちこちの贋坊主どもはこの木剣のようなものではないか
 鞘に納まっていれば立派に見えるが、鞘から抜けば中身はただの木片に過ぎない」

と説いたのです。

一休が最も嫌ったのが偽善でした。
偽悪になることで、偽善をあぶり出す・・・当時の仏教界の現状・・・権力者やお金持ちに近づいて仏法を商売道具にしているのではないか??
当時の禅僧を批判するパフォーマンス・・・身をもって禅の姿を伝えていたのです。

「有難そうな経文の巻物など、もともと便所のチリ紙とおなじようなものじゃ
 言葉をもてあそぶ紙切れに過ぎない
 臨済宗の開祖・臨済義玄は、有難いお経で何のためらいもなく尻を拭いたそうじゃ」

経文にとらわれてしまっては、仏の知恵とは外れてしまう
それのみを深く追求するようになってはならない・・・ということを言っているのです。
常識は時にひとを責めたり、苦しめたりします。
全ての物を捨てて「無」になれというのが一休の・・・禅の教えでした。

・破戒僧の教え
一休は、広く庶民たちにもわかるように禅の教えを説いていきます。
その一つが「一休骸骨」と呼ばれる法話集です。
仏教の教えが、優しい言葉と多くの挿絵で書かれています。
登場するのはユーモラスな骸骨!!
話は、墓場に迷い込んだ僧が、酒宴で骸骨に出会う場面から始まります。

「くもりなきひとつの月をもちながら
    うき世の闇に まよひぬるかな」

くもりなき月=菩提心という清らかな心・・・
人間は、清らかな心を持ながら、どうして闇の中を迷わなければならないのか??
これに対し一休は、迷う心・・・煩悩があればこそ菩提心があると説いています。
よって煩悩があって迷っても、菩提心があれば願わなくても仏になれると説き、

「人間 死んで皮が破れてしまえば、どんな人間も骸骨に他ならない」

貧しい人も裕福な人も、一皮むけば骸骨・・・こうした教えを、各地を巡って説いていきます。
地位や身分にとらわれず、人々に接した一休・・・その常識にとらわれない自由で奇抜な説法は、人気を集めて、人々の信頼を得ていきます。
しかし、その日々は孤独との戦いでした。
一休寺に肖像画が・・・そこに直筆の言葉が残っています。

「この100年間、東海の禅界で瘋癲の限りを尽くしてきたのがこの妖怪のような男
 今日の日本に禅はない。
 だれかこの一休の面前で禅を語ることのできる者がおるか」

この乱れた時代・・・
正当な禅の教えを伝えていく自負と重責・・・そんな一休が二度目の自殺を図ります。

・二度目の自殺
54歳になった一休は、突然寺を出て、山中へ分け入り、一切の食事を断ち、餓死しようとします。
大徳寺の以遠力争い・・・の中で、35人の禅僧が獄につながれてしまいます。
同じ禅僧の失態を前に、一休は恥ずかしさに耐え切れなくなり、山中で自殺を図ったのです。
この時、一休を思いとどまらせたのが、義理の兄弟だった後花園天皇でした。
天皇は、直ちに勅を出します。

「けっしてそのようなことをしてはならない
 そうなれば、仏法も、王道も滅びてしまうだろう
 師よ どうして朕を見捨てるのか
 師よ 国を忘れるのか」

自殺を思いとどまった一休は、京都を転々としながら修行します。
そして63歳の時、臨済宗の高僧・大応国師が建立し、戦火で焼かれ荒廃していた妙勝寺を恩返しにと20年以上もかけて修復し、再興します。
これが、酬恩庵一休寺です。
仏の恩に報いるという意味で、一休が名付けました。
しかし、再興のさなか、応仁の乱が勃発します。

寛正年間のはじめ・・・台風や洪水などの天災に見舞われ、飢饉が重なり、わずか2か月で8万の餓死者を出したと伝えられています。
疫病も広がり、鴨川は死体で流れが堰き止められるほどだったといいます。
一休の嘆きと怒りは権力者たちに向かいます。

・権力者への怒り

時の将軍・8代義政は、財政が破たん状態であったにもかかわらず、花の御所を造営・・・その妻・日野富子は将軍を無視して権力をふるい私腹を肥やしました。
そんな日野富子について一休は・・・

「俗世の女人の厄いは、脚の裏についた煩悩の紅い糸だ
 天下の老禅師もこの強欲には手を焼いている」

世俗の塵にまみれた貪欲な女性が権力を握れば、決まって騒ぎが起きるというのです。
一休74歳の時、その懸念は敵中!!
1467年応仁の乱勃発。
富子が実子である義尚を将軍にしようと画策し、西軍と東軍が対立!!
十数年にわたり内乱が繰り広げられ、主要な戦場となった京都は、壊滅的な被害を受け、すっかり荒廃してしまいました。

1474年、82歳になった一休に、勅命が下ります。
消失した大徳寺の住職になるように・・・と。
すぐさま再建に取りかかりますが、それには今のお金で数十億円が必要でした。
一休は自らの足で京都や堺を回り、再建のための寄進を求めます。
すると・・・武士や商人、庶民までもが寄進をしてくれました。
そして5年後の1479年、一休86歳の時に大徳寺の仏殿は完成します。
しかし、一休は住職にもかかわらず、大徳寺には住まず、生活の拠点としていた酬恩庵から25キロの道程を輿に乗ってわざわざ通ったといいます。

それは、一人の女性の為でした。
一休77歳の時・・・盲目の女性は名を森女といい、一休よりも50歳も若かったのです。
一休は、酬恩庵に住まわせた森女と一緒に居たいがために、わざわざ酬恩庵から通ったのです。
森女は一休にとって大事な存在で、一休の晩年の仕事を支える精神的支柱となりました。

酬恩庵一休寺にある虎丘庵は、応仁の乱の中、一休が自ら京都の東山から移築した庵です。
一休はここで、晩年、最愛の人・・・森女と暮らしながら詩作にふけりました。
死が二人を分かつまで・・・

京田辺にある酬恩庵一休寺・・・
ここに一休の木造が安置されています。
87歳の時に弟子に作らせたもの・・・ありのままの姿を後世に残そうと、等身大に・・・。
自分の毛髪やひげをそりつけさせたといいます。
今でも植え込んだ跡が残っています。
禅僧は髪を剃るもの・・・形式にとらわれずに・・・一休最後のメッセージでした。
木造が完成した翌年・・・1481年10月、一休は熱病が悪化、その1か月後・・・座禅の姿で眠るように亡くなりました。
11月21日、88歳の生涯でした。

そして死の間際にこう一言・・・
「しにとうない・・・」
悟りを得た高僧とは思えない・・・人間らしい、一休らしい最期の言葉でした。

一休辞世の詩・・・
「長い間花の下で 詩情を磨いてきた
 わしの一生涯の風流は、無限の情の中にあるのだ」

そんな一休を慕い、風流の心を受け継いだ者たち・・・
茶道・村田珠光、連歌・宗祇をはじめ、俳諧師や絵師たちなど・・・今に伝わる日本文化のパイオニアたち・・・
一休の美意識と精神は、文化となって連綿と受け継がれていったのです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

髑髏の世界 一休宗純和尚の跡をたどる (単行本・ムック) / 中川徳之助/著

価格:5,400円
(2019/9/23 09:51時点)
感想(0件)

USED【送料無料】聚美 vol.17(2015 AUT 特集:一休宗純の世界 久隅守景の芸術 [JP Oversized]

価格:1,948円
(2019/9/23 09:52時点)
感想(0件)

京都市東山区にある高台寺・・・死者の霊魂を祀ると言われる霊屋には、二体の座像が安置されています。
右が豊臣秀吉、そしてその隣にあるのが、秀吉の正室・・・北政所・おねです。
秀吉の正室・おねがいなければ、秀吉は天下をとれなかった・・・??

おねが生れたのは、一節には1548年といわれています。
父・杉原定利は、母・朝日のところ(木下)に婿養子となっていたために、おねも木下の人間として育てられました。
秀吉と結婚したのは14歳の時、でも、それまでが大変でした。
おねの親族・肥後国日出藩木下家家老が編纂した資料には・・・野合とあります。
野合とは、正式な手続きを経ずに男女が密かに関係を結ぶことです。
当時は、政略結婚など、親が相手を決めるのが常でしたが、その中で、おねと秀吉は恋愛で結ばれた仲でした。
更に問題だったのが、秀吉の身分・・・
おねの家は名字を持つれっきとした家系でしたが、藤吉郎と名乗っていた秀吉は、名字もない農民あがりだったのです。
尾張の織田信長のもと、戦の戦闘で戦う歩兵で足軽衆をしていました。
そんな身分の低い秀吉との結婚に、母・朝日は猛烈に反対します。
それでもあきらめきれないおねに救いの手をさしのべたのは・・・母・朝日の妹・七曲でした。
夫である浅野長勝におねを養女にしてもらい藤吉郎と結婚させました。
二人の結婚式は清州城下にある足軽長屋で行われました。
とても質素なものだったと言われています。
この時、秀吉25歳、おね14歳、親の反対を押し切ってまでの結婚・・・とても仲が良かったといいます。
おねと結婚したので、木下と名乗ることができるようになった秀吉・・・。
名字を持てる身分になった事は、秀吉にとって大きな出来事でした。
それを機に・・・足軽から天下人へと上り詰めます。

内助の功①長浜城を取り仕切る
1573年、浅井長政との小谷城の戦いで勝利に貢献した秀吉は、浅井の領地だった北近江三郡13万石を与えられ、国持ち大名となります。
そし1574年に築いたのが長浜城です。
その翌年・・・結婚して14年、おねも長浜城に入りますが、夫婦の時間などありませんでした。

この頃、木下から羽柴に名前を変えた秀吉は、主君信長から中国方面軍司令官に抜擢され、中国地方を支配する毛利氏の討伐に任命されます。
播磨の姫路城を足掛かりに西に向かうことに・・・!!
不在の間、長浜城をおねに任せた秀吉・・・
「長浜城下に町人を招くため、町人の年貢諸役を免除したところ、近隣の在所から長浜に、続々と人が流入したため、年貢を申し付けた
 しかし、「それ様」が、断りを入れてきたため、今まで通り年貢を免除することにする
 「それ様」が願ってこのようになった事を、よくよく言い聞かせてほしい」

「それ様」=おねです。
尾根の意見を聞き入れて、願いを取り下げたと文書に書かれているのです。
秀吉とおねは共同経営者だったのです。

内助の功②信長との付き合い
秀吉の主君信長がおねにあてた手紙です。
そこには、安土城を建築中だった信長の元に、おねが見事な土産をもっていった事へのお礼が書かれていました。
主君へのこうした気配りも忘れませんでした。
一方で、おねは次々と側室を迎える秀吉のことを、信長に相談していたようで・・・
「はげねずみのような秀吉が、あなた以上の妻を迎えるのは難しいのだから、朗らかな気持ちで堂々としなさい」
そして、この手紙を秀吉に立ちに見せるように言うのでした。
おねが主君信長から厚い信頼を得ていた証拠でした。

1581年、信長が京都御馬揃えを行った年・・・
家臣たちは次々と金銀や唐物をもって信長の元へ挨拶に行きました。
しかし、秀吉は小袖200枚を送ったのです。
動きやすい小袖は、当時、侍女たちの普段着でした。
特に、信長は家臣に褒美として与えるほど愛用していました。
そのため、秀吉からの気の利いた贈り物に大変喜んだといいます。
その小袖・・・おねと長浜の女性たちが力を合わせて縫い上げたものでした。
おねの内助の功もあって、主君信長との深い絆ができた秀吉・・・

1582年6月2日、信長は家臣・明智光秀の謀反に遭い、京都本能寺で自害しました。
秀吉不在の長浜城を守っていたおねにも危険が迫っていました。
長浜城に光秀方が攻め入ってきたのです。
おねはすぐに側室や女中たちを引き連れて城を脱出!!
標高750mほどの高地にある大吉寺に逃げ込み、事なきを得ました。
おねは、夫秀吉の留守をしっかりと守り通したのです。
そして本能寺の変からわずか11日後・・・羽柴秀吉は山崎の戦いで光秀を討ち、主君信長の仇を討った秀吉は、天下人へと邁進・・・おねの仕事も増えていきました。

内助の功③妻外交
1583年、秀吉が天下人となることを決定づけた織田家家臣・柴田勝家との賤ケ岳の戦い。
秀吉よりも決め手になったのは前田利家が戦線離脱したことでした。
おねと前田利家の正室・まつが親しく、そこには、妻のホットラインがあった・・・??
おねは、柴田郡の状況を聞いたり、利家の戦線離脱を説得したりしていたようです。
夫たちが表向きには出来ない交渉を、妻外交で担っていました。

結婚から24年がたった1585年7月・・・遂に秀吉は関白に上り詰めます。
史上初の武家関白の誕生です。
その裏にも、おねの妻外交があった・・・??
関白になれるのは、公家の五摂家だけでした。
そこで、秀吉は近衛家の猶氏(家督相続を前提としない養子)となったのですが、そこには、おねが天皇家や公家衆などにお酒やタイなどの献上品を折につけ贈り、立ち働いていました。
この頃から、秀吉は豊臣と名を改め、おねも北政所となりました。

関白となった秀吉は天下統一に向け躍進!!
各地で次々と人質を取っていきます。
家族を人質に取って、動きを制限したり、反発を防ごうと考えていました。
それを大々的にやった最初が、秀吉でした。
長く秀吉と対抗していた伊達政宗もその一人・・・。
配下となるにあたって、その臣従の証として政宗に正室を人質に出すよう命じます。
そんな政宗の元に、尾根の手紙が届きます。

”人質として上洛する政宗殿の奥方の安全を保証する”

おねは、大勢の人質の監督も任されていました。
人質を蔑ろにすれば、恨みを買い、有事の際にはそれが豊臣家に災いをもたらす火種になるかもしれない・・・
そう考えたおねは、人質を丁重に扱い、世話を焼いていました。

秀吉とおねには子供ができなかったと言われています。
しかし、江戸に書かれた「爛柯堂棋話」によると・・・

秀吉とおねは、結婚してすぐに子供を授かった
しかし、秀吉は足軽衆・・・
二人の暮らしは貧しく、子供ができるとさらに苦しくなる・・・
子おろしの灸を据えた
そうしたことが3回もあった・・・

この話の信憑性はわかりませんが・・・。
そこでおねは、忙しい秀吉に代わって、何人もの養子、養女を迎えはじめます。
秀吉はおねにその子供たちのことを任せ、豊臣家の未来を担う人材を育てさせます。
しかし、状況が一変!!
1588年、秀吉の側室・茶々が懐妊。
秀吉は、出産場所として淀城を建設。
そこに住むようになった茶々は淀の方と呼ばれるようになります。
翌年・・・秀吉の待望の嫡男・鶴松が生れます。
跡継ぎとなる男の子を産んだ側室・淀の方と、正室だが子供のいないおね・・・
そんな二人の間には確執があったとされていますが・・・??
二人の間には確執はありませんでした。
淀の方は、鶴松を生んだ時点で二人目の正室となりました。
当時、関白になると正室は一人ではありませんでした。
淀の方は、男児を出産したことで、正室に格上げされたのです。
正室の役割には、子供を産むことと、家を守ることがあります。
おねは家を守ることに長けており、確執なく、正室の役割分担をして二人で秀吉を支えていました。

1590年、関東の北条氏に勝利した秀吉は、遂に天下統一を成し遂げます。
しかし、年が明けると次々と秀吉に不幸が襲います。

1591年1月、実弟秀長が死去
     8月、嫡男鶴松が死去

この時55歳、もう子には恵まれないであろうと思った秀吉とおねは、家督を継ぐ者を選ぶことに・・・。
候補は二人・・・秀吉の姉の子・秀次、おねの兄の子・秀秋でした。
秀吉の数少ない身内の秀次は、四国攻めの副大将として活躍し、重要地である近江八幡43万石の大名に。
秀秋は3歳で秀吉の養子となり、6歳で丹波亀山10万石の大名になるなど、溺愛されて育ちました。
どちらを跡継ぎにする・・・??
秀吉が選んだのは、自分の血縁である秀次でした。

養子に迎えると、自分は太閤に・・・秀次を関白の座につけました。
ところがその2年後・・・淀殿が秀頼を生むのです。
1593年、淀の方が男の子を出産・・・拾・・・後の秀頼です。
子供は無理と思っていた秀吉は大喜び!!
秀頼を正統な後継者として育てたいと考えるようになります。
そこで運命が大きく変わったのが秀次と秀秋・・・
1594年、秀秋を小早川家へ養子に出します。
1595年、秀次は・・・謀反の疑いをかけられ切腹に追い込まれます。
さらに、秀次の正室、側室、子供達・・・総勢39人を殺害!!
この時のおねの心情や行動について書かれた資料は残されていません。

こうして秀頼が名実共に秀吉の後継者となりました。
しかし、秀吉が病に倒れます。
おねは、必死で病気平癒の祈祷を行います。
しかし・・・その願い届かず・・・1598年8月18日、この世を去ります。

秀吉の遺言で、五大老のツートップ、徳川家康と前田利家が豊臣家を任されます。
家康は伏見城で執務を、利家は大坂城で秀頼の補佐をする・・・。
妻たちにも遺言しています。
大坂城のおねは伏見城に・・・伏見城にいた淀の方は江戸城に移るように言い残しました。
遺言通り、淀の方と秀頼は、秀吉が亡くなった翌年、大坂城の本丸に移ります。
ここでは、前田利家が補佐を任されていましたが・・・1599年前田利家死去。
利家が亡くなったことで、家康が天下取りに動き出します。
するとおねが驚きの行動に・・・
自分のいる大坂城西ノ丸に家康を招き入れ、さらに、夫・秀吉の遺言に従わず、伏見城ではなく京都の屋敷に・・・。その理由は・・・??
強大な権力をふるい始めた家康に対抗してきていたのが、秀吉の側近で五奉行のひとり石田三成でした。
ところが三成は、反三成派の武将たちから襲撃を受け、責任を取らされて近江・佐和山城で蟄居させられていました。
すると家康は、三成の兄・石田正澄の屋敷に入り、政務をはじめました。
家康は、前田利家がいなくなった後、秀頼の補佐もしなければならないので、大坂に本拠地を置く必要性があり、石田正澄邸に入りました。
しかしおねは、政務を執る場所は大坂城内だと考えて、豊臣政権の政治は大坂城で行うべきと、家康を大坂城に入れました。
おねが家康を大坂城に入れたのは、豊臣家のことを思っての事・・・。
秀吉の遺言に反して京都の屋敷に移り住んだのにも理由がありました。
秀吉の亡骸が、京都の豊国神社に埋葬されていたからです。
京都の屋敷に移り住んだおねは、秀吉の月命日には欠かさず参っていたと言われています。

亡き夫の弔い・・・後継者の育成・教育・・・後家役割と、当時は言っていました。
菩提を弔うのはおね、秀頼の教育は淀の方だったのでしょう。
しかし、おねが家康を大坂城に入れたことで、家康はますます立場を強くしていき、勢力を拡大させていきます。

1600年9月15日、関ケ原の戦いが始まります。
徳川家康率いる7万の東軍と、石田三成率いる8万の西軍が激突します。
秀吉恩顧の者たちが、東西に分かれて闘いました。
天下分け目の戦いで、東軍の勝利を決定づけさせたのは、秀吉とおねが養子にして可愛がっていた小早川秀秋の裏切りでした。
秀頼の誕生後、小早川家に養子に入った秀秋は、家督を継ぎ、筑前名島を治める大名になっていました。
豊臣家から追われたとはいえ、一族だった秀秋は西軍として参戦!!
戦の途中、東軍に寝返り西軍を攻撃!!
これによって東軍が勢いづいて勝利したのです。
この裏切りは、家康の調略によるものですが・・・
秀秋に裏切りをせかす手紙が残っています。

東軍の浅野幸長・黒田長政から小早川秀秋に宛てたものです。
そこには、
”政所様の世話になってきた二人(浅野・黒田)はおねを手助けする為に東軍についた”と書かれていました。
足軽出身だった秀吉には、代々仕えてきた武将がいませんでした。
そこでおねは、秀吉を支える武将にすべく、加藤清正・福島正則など若い家臣たちの面倒をよく見ていました。
黒田官兵衛の息子・長政も、世話になっていました。
秀吉・おね夫妻に我が子のように育てられました。
おねの親族の浅野も、おねに恩がありました
秀次事件の際に、秀次の弁護をしたことで秀吉の怒りを買ったのをおねが助けていたのです。
そんな二人は、同じくおねに恩のある秀秋に対し、東軍に着くと返事をしてほしいとせっついたというのですが・・・

おねは、本当に東軍に味方していたのでしょうか?
この手紙は、黒田・浅野が小早川秀秋を説得する為に、おねをダシに使ったのでは・・・??と思われます。
おねは、家康方についていたわけではなく、名前を利用されただけでした。
関ケ原の戦いのとき・・・おねはどのような状況だったのでしょうか?
おねは、これといった政治的な動きはしていません。
おねの兄・木下家定は中立、
その長男・勝俊は東軍として参加するも任務放棄
次男利房は西軍、三男延俊は東軍、四男俊定は西軍。
五男秀秋は・・・??西軍から東軍に寝返りました。
おねの親族は、てんでばらばらの動きをしていました。
もし、家康に加担していたならば、東軍につくように諭したはず・・・
おねが家康方に立っていたわけではなかったのです。
動きようがなかったのです。

関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年征夷大将軍に任じられます。
おねには高台院の院号が下賜され・・・2年後、家康の援助を受け秀吉の菩提寺となる高台寺を建立。
家康の遺品を底に収め、菩提を弔うことに・・・
静かに暮らそうと思っていました。

しかし、時代がそうはさせてくれませんでした。
京都でなく夫・秀吉の菩提を弔っていたおね・・・しかし、徳川家康が動きます。
豊臣秀頼が再建した京都・方広寺大仏殿の釣鐘に物言いがついたのです。
問題となったのは、「国家安康」の四文字です。
家康が分断されて呪っているというのですが・・・
その真の目的は、これを機に豊臣と戦をすること。
秀頼と淀の方はこれに乗せられてしまいます。
全国から浪人と集め、戦の用意を始めたのです。
豊臣と徳川は臨戦態勢に・・・大坂の陣勃発目前!!
そしておねが動きます。
大坂へ向かうことにしたのです。
この時67歳・・・どうしておねは、危険な大坂に向かうことにしたのでしょうか?
淀の方を説得しようとしたのでは・・・??といわれています。
徳川方に屈服するようにと・・・!!
豊臣家の存続を願っていたおねの行動でした。
豊臣家を守りたいという思いがあったのです。
徳川の邪魔が入り、大坂にはたどり着けず・・・京都を出ることさえできませんでした。
1614年11月19日、大坂冬の陣勃発!!
二度にわたる戦いの末、追いつめられた秀頼と淀の方は大坂城で自害。
ここに豊臣家は滅亡しました。
その時おねは・・・守護を命じられていた甥の木下利房と共にいました。
しかし、守護とは名ばかりで、淀の方と連絡を取らないように監視されていたのです。
焼け落ちていく大坂城・・・紅蓮の炎と立ち上る煙は京の町からも見えたといいます。
おねもまた見ていたのかもしれません。
必死に守ってきた豊臣家の最期を。
伊達政宗に送ったおねの手紙には・・・大坂のことは何とも申し上げる言葉もありません。

足軽だった秀吉と築き上げてきた豊臣家、言葉にならないほどつらかったということでしょうか?
最後まで慕われ、暑い信頼を寄せられていたおねは、乱世の中、細やかな気遣いと確かな判断力で夫を支え、深い愛情を家臣たちに注ぎ、育て・・・おねは、戦国一の偉大なる妻であり、母でした。

おね終焉の地とされる圓徳院・・・亡くなるまで19年間をここで過ごしたといいます。
1623年おねは甥木下利房の次男である利次を養子に迎えます。
そしてその翌年、波乱の人生を77歳で閉じるのでした。
亡骸は、圓徳院の近くの高台寺に・・・秀吉と共に祀られています。
死後も秀吉の妻として寄り添うように・・・。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

北政所と淀殿―豊臣家を守ろうとした妻たち (歴史文化ライブラリー)

新品価格
¥9,800から
(2019/9/21 21:15時点)

東大教授も惚れる! 日本史 アッパレな女たち (集英社ノンフィクション)

鹿児島市からおよそ120キロ・・・大隅諸島の種子島。
種子島といえば、宇宙センターで知られていますが、もう一つ・・・歴史的なある出来事が起こりました。

1543年8月25日、種子島にやってきたポルトガル人が、日本に初めて鉄砲を伝えた・・・鉄砲伝来です。
教科書にはこう書かれていますが・・・
しかし、近年の研究によって、いろいろ違う説も出てきました。

国立公文書館に、鉄砲伝来の貴重な資料が残されています。
江戸時代初期の1606年に薩摩国の僧侶・南浦文之が編纂した鉄砲記です。
種子島に鉄砲が伝わった経緯が詳しく記されています。
これによると・・・種子島の最南端にある門倉岬・・・
1543年8月25日、この岬の沖合に大きな船が姿を現します。
島民たちは動揺・・・!!
船から降りてきた乗組員に中に、見たこともない顔つきの者がいたからです。

報せを受けた村の長、西村織部丞が、乗組員に話しかけてみるも全く言葉が通じません。
そこで、漢文に通じていた織部丞が、砂浜に字を書くと・・・答えた男は、隣の国・明からやってきた五峯というものでした。
他のものは誰なのか聞くと・・・彼らは西南から来た異人で、商人であるとの事。
その異人とは、ポルトガルの商人でした。

織部丞は、とりあえず島を治めていた種子島家へ・・・。
この時の島の領主・種子島時堯は、まだ十代の若者でした。
五峯らと面会した時堯は、ポルトガル人が奇妙なものを持っていることに気付きます。

「おぬしが手にしているモノは、一体何じゃ??」

其れこそが、鉄砲・・・火縄銃だったのです。

ポルトガル人は、この火縄銃を身振り手振りで説明・・・そしてこう言いました。
「これは、銀山を砕くことができるし、鉄の壁に穴をあけることもできる
 国に災いをもたらす邪悪な者も、鉄砲の玉に触れればたちまち魂を失ってしまう」
若き領主・時堯は、すぐに鉄砲に強い興味を持ち、日を改めて試し打ちをさせてもらうことに・・・
手ほどきを受けて引き金を引いてみると・・・??
時堯は、初めて体験した爆音と衝撃に驚きますが、一瞬にして百歩先の的に玉が当たったのを目の当たりにすると、
「ぜひともこの使い方を、学びたいものだ」
と、すぐに鉄砲を二挺購入・・・一説には二挺で銀2000両・・・数千万円の大金を払ったと言われています。
この時、時堯が手にした鉄砲は残ってはいませんが、同じ時に伝わったものが種子島に残っています。
西村織部丞がポルトガル人から手に入れた鉄砲とされています。

その鉄砲を伝えた船には、ポルトガル人以外に明の人も乗っていました。
実は彼らが乗ってきたのは南蛮船ではなく、ジャンク船と呼ばれる中国で古くから使われてきた木造帆船です。
五峯の船だった??
五峯は、王直という人物の別称で、明や東南アジアの沿岸などで、暗躍していた海賊・・・倭寇の頭領でした。
鉄砲が伝来してきたころの倭寇は、明の人たちが主体となって、東南アジアや日本などと密貿易を行っていました。
倭寇のメンバーに、ポルトガル人がいたと思われます。
ポルトガル人を乗せたジャンク船が、タイを出発し、日本近海へ漂着したと伝えられています。
つまり、伝えたのは倭寇とそのメンバーであるポルトガル人の乗った船だったのです。

日本の鉄砲記・・・・・・1543年に鉄砲が伝来
ポルトガルの記録・・・1542年
イエズス会の記録・・・1541年

となっていて、様々な説があるのです。

どうして種子島にやってきたのでしょうか??
その理由にも、様々な説があります。

①偶然説
8月25日は、今の9月下旬ごろ・・・台風が頻繁にやってくる時期です。
ポルトガルの記録には、倭寇たちの乗せたジャンク船が航海中にシケに遭い偶然種子島に着いたとあります。
②必然説
室町幕府や有力大名などは、堺などの商人たちを使って明と勘合貿易を行っていました。
商人たちは堺から土佐、南九州を通って明の東沿岸へ向かっていました。
そしてそのルートの中で中継点となっていたのが種子島だったのです。
現在の奄美大島や沖縄は、琉球王国とよばれ、実質的に日本の最南端は種子島でした。
倭寇が民から日本へ向かう際、当時の日本の最南端であった種子島を目指すのは必然だったのです。
明の人々にとって種子島は日本の玄関口だったのです。

種子島にやってきた明の海賊・倭寇のメンバーだったとされるポルトガル人が伝えたとされる鉄砲・・・その火縄銃は、どこで作られたものなのでしょうか?
現在最も有力な説は、ヨーロッパ製。
ところが、種子島に伝わってそののち国内で普及していった火縄銃と、当時のヨーロッパの銃とは大きく異なっています。
点火装置である火ばさみ・・・日本のものは引き金を引くと火ばさみが銃口側・・・前に落ちる仕組みになっています。
対して、ヨーロッパで普及していた火縄銃の火ばさみは、打ち手側に落ちる仕組みになっています。
この違いから、伝来したのはヨーロッパ製ではないのではないか?という説があるのです。
だとするとどこのもの・・・??
ポルトガルの資料によると、現在のタイであるシャムから倭寇の船に乗って・・・とありました。
東南アジアでも鉄砲が作られていたとされています。
その火ばさみは、まさに日本のものと同じタイプ!!
そのため、種子島に伝来したものは東南アジア製である可能性が唱えられています。

豊臣秀吉が天下統一を果たしたころには、50万挺の火縄銃が、国内に装備され、世界有数の鉄砲保有国になっていました。
急速に増えて行った原因は、日本人の職人たちのその技術力の高さがありました。
国産第一号はどのようにして生まれたのでしょうか?
種子島を治めていた種子島時堯は、ポルトガル人から2挺の鉄砲を購入したのち、家臣たちに言います。
「これと同じものを作ってみせよ」
その大役を任されたのが、刀鍛冶の八板金兵衛でした。
種子島では、海岸で良質の蹉跌が採れ、製鉄に必要な薪も豊富にあったので、刀づくりが盛んにおこなわれていました。
金兵衛は、刀の本場美濃国の関から種子島にやってきたと言われています。
早速金兵衛は、その技を駆使して銃身づくりに・・・しかし・・・基底部を塞がないと暴発してしまう・・・
しかし、掃除の為にも基底部は開けられるようにしておかなければなりません。
密閉出来て簡単に取り外せる・・・それが大きな壁でした。
ネジ構造でしたが、当時の日本にはネジ自体が存在していませんでした。
鉄砲を分解し、ネジを目にした金兵衛は途方に暮れていたかも・・・??
金兵衛はポルトガル人に製造方法を教えてほしいと願い出ます。
それと引き換えに、自分の娘・若狭を差し出したといいます。
若狭を連れて帰ったポルトガル人は、翌年母国から鍛冶職人と共に帰ってきて製造方法を金兵衛に教えます。
それは、父金兵衛の執念の犠牲になった娘の悲劇として種子島に伝わっています。
若狭は戻ってきたポルトガル人と共に帰国し、その後亡くなるまで種子島で暮らしたと言われています。

金兵衛の作った鉄砲が残っています。
代々、種子島家に伝わったものです。
しかし、金兵衛がどのようにしてネジ部分を作ったのかという記録は残っていません。
ネジは外側にネジ山のある雄ねじと内側にネジ溝のある雌ねじとに分かれています。
雄ねじはやすりなどで加工、雌ねじは内部なのでその苦労は大変なものでした。
どのようにして重臣の内側に溝を掘ったのでしょうか?
それは、鍛造法による雌ねじの製作です。
①高温に熱した銃身に雄ねじを差し込みます。
②回りを叩いていくことで、雄ねじと密着させます。
③鉄が暑いうちに、雄ねじを回しながら抜き取ると、銃身の内側に溝が刻まれます。
そうすると、綺麗な雌ねじが完成します。
こうして、苦労の末、国産第一号の鉄砲が出来上がったのです。

急速に普及していった鉄砲・・・
種子島からどのようにして国内に広まったのでしょうか?
種子島に鉄砲が伝来し、国産の鉄砲づくりに成功したという噂は、近畿地方に伝わります。
当時、明と貿易を行っていた堺の商人たちが中継地点の種子島に立ち寄って聞いたのを広めたからです。
そんなある日の事・・・一人の男が種子島時堯の元にやってきます。
紀州・根来寺の津田監物です。
新義真言宗の総本山である根来寺は、当時寺領72万石を有し、一大宗教都市を形成していました。
大名並みの権力・財力を持つ寺で、防御するための軍事力も必要でした。
僧兵・・・寺の軍事力を強化したいと考えていた監物は、
「殿の鉄砲を一挺お譲りいただけないでしょうか」
大金を払ってポルトガル人から手に入れた鉄砲・・・
「一つ持って行くがよい」
気前よくもらい、扱い方、火薬の調合まで教えてもらいました。

監物が島を去ったのち、和泉国堺から商人の橘屋又三郎がやってきました。
鉄砲で商売をしたく、その作り方を会得したいというのです。
すると、時堯は、またもや承諾します。
「よくよく学んでいくがよいぞ」
刀鍛冶・八板金兵衛がようやく手に入れた作り方を、惜しげもなく教えてしまうのです。
どうして時堯は、貴重な鉄砲を手放し、伝授したのでしょうか?

時堯の思いは「鉄砲記」に記されていました。
「我が島はとても小さいが、決して物を惜しむようなことはしたくない
 私自身が欲しいと思うのだから、誰でも欲しがるであろう
 これを自分だけのものにして箱に収めて仕舞っておくようなことはしない」
鉄砲は、種子島時堯の気前の良さで、交易をしていた堺や紀州などの近畿地方へ広まっていったのです。

津田監物は根来寺に戻ると鉄砲職人に作らせ、大量生産に成功。根来寺の僧兵たちは鉄砲隊を形成、根来衆と呼ばれるようになります。
橘屋又三郎も堺に帰り、鉄砲の一大生産地となります。
近畿地方一帯に広まった鉄砲は、関東地方などに広まり、さらに甲信越・・・東北地方へ・・・。
そこで重要な役目を担ったのが、紀州・根来衆、堺の砲術師、鉄砲鍛冶たちでした。
彼等は諸大名たちに招かれ、鉄砲を広く普及させていきます。

豊後を治めていた大友義鎮も・・・義鎮が、南蛮鉄砲を13代将軍足利義輝に献上したという記録が残っています。
その鉄砲は、交易していた種子島家、もしくは肥前の平戸などで密貿易を行っていた倭寇から手に入れたものだとされています。
九州で勢力を拡大していた義鎮は、新たに配下に置いた肥前の守護に任命してもらえるように将軍義輝に当時まだ珍しかった舶来の鉄砲を送ったのです。
その義輝自身も、そうした鉄砲を政治に利用していきます。
失墜していた幕府の権威を取り戻すために・・・関東の豪族たちを取り込もうと火縄銃を与えます。
また、上越地方で勢力を拡大していた上杉謙信には病気見舞いとして火薬の調合の秘伝書を送るなどしています。
贈答品や外交の道具として用いられた鉄砲は、やがて、新しい兵器として全国に普及していくことになります。

当時は戦国大名たちが鎬を削る戦乱の世・・・
それまで戦で使用されていた武器は・・・刀、槍、そして弓などでした。
そんななかに現れた鉄砲は、戦を大きく変えていきます。
火縄銃の威力とはどれほどのもの・・・??
50m離れたところから撃って、的の中心から半径4センチ以内に命中します。
射程は100mあり、殺傷能力も十分にありました。
さらに、その破壊力は・・・??
40m先の甲冑を撃ち抜きます。

戦国大名たちは、余所の鉄砲集団を傭兵として雇い入れました。
有名なところでは、紀州の根来衆、雑賀衆の強力な鉄砲集団です。
鉄砲の伝来とともに甲冑も伝来しました。
それを参考に、鉄砲から身を守るため、鉄製の鎧が使われるようになりました。
それが、現在言われる当世具足と呼ばれるものです。
城の構造も大きく変わります。
新しい城郭は、鉄砲玉を通さないように壁が厚くなりました。
鉄砲狭間を作り、鉄砲を装備した敵を遠ざけるため、城の周囲に堀を巡らせました。
戦の様相もがらりと変わりました。

戦国武将の中で、一番鉄砲を有効利用したのは織田信長です。
戦国の世を天下布武へと導いたのが織田信長・・・
信長は、若い頃から鉄砲に興味を抱いていました。
”信長公記”によると・・・
1549年・・・16、7歳ごろの時、砲術師・橋本一巴から鉄砲の手ほどきを受けたと書かれています。
日本に伝来してわずか6年後のことでした。
新しもの好きだった信長は、鉄砲を気に入るとすぐさま戦に用います。
1570年、北近江の浅井長政、越前の朝倉義景との姉川の戦いで、500挺の鉄砲を投入。
1575年、武田勝頼率いる武田軍と戦った長篠の戦いでは3000挺もの鉄砲を投入して、見事勝利しています。
しかし、どうして信長はこれだけ多くの鉄砲を調達することができたのでしょうか?

①和泉国・堺を手中に収めていた
信長は、堺の商人・茶人の今井宗久にさまざまな特権を与え、鉄砲と火薬の製造を任せたのです。
さらに、姉川の戦いの後の小谷城の戦いで浅井長政を倒すと、長政の領地であった近江国・国友村を配下に納めます。
②近江国・国友
国友は、堺と並ぶ鉄砲の一大生産地でした。
こうして、鉄砲の安定した供給を押さえた信長は、そののち、戦を大きく変えていきます。

鉄砲は伝来当時高価なものでしたが、その高価なものをたくさん使うことは誰も考えていませんでした。
信長は、強力な経済力のもと、大量の鉄砲を装備したのです。
秀吉、家康もそれを踏襲しています。

鉄砲を大量に装備したものが戦に勝つ・・・いつの間にか、戦は経済力の勝負となっていきます。
財力のない武将は、戦う前から降伏するようになり、無駄な戦が減少していきます。
そして、信長亡き後、鉄砲を大量に装備できる圧倒的な財力を誇った豊臣秀吉や徳川家康によって、天下統一がなされていったのです。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

真説 鉄砲伝来 (平凡社新書)

新品価格
¥864から
(2019/9/17 07:11時点)

鉄砲―伝来とその影響

新品価格
¥10,584から
(2019/9/17 07:11時点)

このページのトップヘ