日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: にっぽん!歴史鑑定

2.26事件、阿部定事件と世間を震撼させる事件が続いた続いた昭和11年・・・
1枚のレコードが話題となりました。
「お伝地獄の唄」です。
愛する男のために罪を犯したその女性の名は・・・明治の初めに毒婦と言われた実在の人物・高橋お伝でした。
彼女は本当に毒婦だったのでしょうか?

明治9年8月26日夕刻・・・東京蔵前に会った旅館・丸竹に一組の男女がふらりと入ってきました。
身なりの立派な中年の男は古物商・後藤吉蔵、その隣にいた粗末な格好をした女が高橋お伝、この時26歳でした。
二人は2階の部屋にあがると夜の10時ごろまでお酒を飲んでいたといいます。
8月27日朝・・・二人がなかなか起きてこないので声をかけると・・・
「悪いモノを食べたようで、具合が悪いのでしばらくこのまま寝かせてくださいな。」
傍らには、明け方にお伝が殺した吉蔵が横たわっていました。
お伝は血にまみれた吉蔵の首を布団で隠し、部屋を出る支度をはじめます。
8月27日夕方・・・お伝は女中に、
「私はちょっと出かけてきます。
 主人はまだ調子が悪くて寝ていますので、決して起こさないように・・・」
そう言って、勘定の1円を先払いすると、出かけていきました。
8月28日朝・・・しかし、お伝は帰ってきません・・・
男も起きてこないので、女中が男のところに行くと・・・全く起きないので布団をめくってみると、首を切られ血まみれになった死体が・・・!!
女中は部屋から飛び出してすぐに警察に通報!!
しかし、二人は偽名で泊まっていたために身元がわからず・・・
余りにも凄惨な殺人現場・・・枕の下から書置きのようなものが・・・

”この者に5年前に姉を殺され無念の日々を暮らしてきましたが、ついに仇を討ちました
 姉の墓参りを済ませたら出頭します
 逃げも隠れもしません”

この殺害は仇討だった・・・??
しかし、これは巧妙な偽装工作だった・・・??

仇討と言えば、世間の同情もひき、捜査の手も緩むだろう・・・。
仇討は、江戸時代までは公認されていましたが、地方制度の整備によって、お伝の事件の3年前の明治6年に禁止令が発布されていました。
しかし・・・禁止令が出されても、お伝の事件はそれから間もなくのことだったので、仇討に同情的で・・・この前に土佐で起こった仇討は無罪になっていました。
墓参りが済めば出頭しているのではないか・・・??
警察も同情的で、出頭するのを待ち、捜査もろくにしませんでした。
しかし、数日後、事件は予想外の展開を見せます。
後藤吉蔵の妻から「夫が帰ってこない」と通報が入ったのです。
容貌や服装から、蔵前の遺体が吉蔵であることが判明・・・しかも、家を出る時に持って出ていた所持金11円がなくなっていることもわかりました。
事件は仇討から強盗殺人に切り替えられ、捜査を開始!!
人相書きを作り、お伝を探します。
すると。。。よく似た女が東京の新富町にいたという情報が入り・・・しらみつぶしに捜索が・・・
そして、明治9年9月9日、警察は知人宅に潜んでいたお伝を発見し、そのまま逮捕!!

お伝はどうして吉蔵を殺してしまったのでしょうか?
強盗殺人で捕まったお伝は、市谷監獄に収監されます。
当時は物的証拠よりも自白が重要視されていたので、取調べは厳しく拷問も当たり前でした。
しかし、お伝はなかなか自白しないばかりか・・・恋人に手紙を書いています。
仮釈放にしてもらえるように、権威のある人に力を貸してもらえるように恋人に頼んだのです。
さらに、新聞記事によれば・・・助かりたい一心で、供述をころころ変え、そのたびに供述書に拇印を押していたといいます。
そんな中で、一貫していたのは「姉の仇討」ということでした。
「私は旧沼田藩の家老・広瀬半右エ門の娘です。
 母・春が広瀬家に出入りいている際に、半右エ門の手がつき生まれたのが私でした。
 そして、半右エ門にはもう一人娘がいて・・・それが姉のかねです。
 そして、このかねの旦那こそが、にっくき後藤吉蔵なのです。
 吉蔵は5年ほど前、理由はわかりませんが、姉を刺し殺してしまったのです。」
 だから、その仇を討ったのだと言い張ります。
しかし、調べてみると沼田藩の広瀬家にはそんな事実はなく・・・
姉がいるというのも作り話でした。
お伝は確かに沼田藩・・・嘉永3年に上野国下牧村で生まれました。
父親は高橋勘左衛門という浪人でした。
母・春は嫁入り前に身籠っていて・・・それを承知で器量の良い春を娶っていました。
そして春はお伝の父親について決して話さなかったといいます。

春が身籠っているのを承知で娶った勘左衛門でしたが、お伝が生れてわずか2か月で春を離縁してしまいます。
このことを、取調べで勘左衛門は語っています。
「春はどうにも我儘が強くてね
 自分の気に適いませんでした。」
この母の性格をお伝は受け継いでいました。
お伝は子供のいなかった勘左衛門の兄・高橋九右衛門に養子に出されてしまいました。
九右衛門はたくさんの田畑を持ち、農業の傍ら造り酒屋を営んでいたので裕福でした。
実の子のようにかわいがられたお伝・・・14歳になった時、九右衛門の勧めで百姓の宮下要次郎を婿にとります。
ところが・・・甘やかされ我儘に育ったお伝は、真面目が取り柄の要次郎をどうしても好きになれず、夫を残して家を飛び出し、料理屋の住み込み女中となってしまいます。
九右衛門が連れ戻しに行っても、要次郎のいる家には帰らないと駄々をこねるばかり・・・
結局、九右衛門が根負けし、要次郎との離縁を受け入れました。
お伝の最初の結婚生活は、わずか2年半で終わりを告げたのでした。
我儘なお伝を造り酒屋に奉公に出した九右衛門・・・
しかし、九右衛門にとっては可愛い一人娘・・・20日ほどで許されて・・・17歳の時2人目の婿を取ります。
親類でもある高橋波之介でした。
働き者で色男・・・お伝にとっては理想の亭主でした。
義父からもらった田畑を共に耕しながらつつましく暮らしていました。
しかし、その幸せも長くは続きませんでした。
「1年半が過ぎた頃、夫がレプラになってしまいました。」
レプラとは、ハンセン病のことで、らい菌による慢性感染症のことで、主に皮膚と末梢神経に病変が生じます。
現在では治療法が確立していましたが、当時は不治の病で感染すると信じられていました。
それでもお伝は献身的に看病しました。
わが身をも省みずに看病するお伝でしたが、波之助の病状は良くならず・・・生活も困窮していきます。
田畑を担保に借金をして凌ぐ日々が続きます。
病気のせいで村人からも疎まれていた二人は、村を出る決意をします。
おでんは義父に「必死に働いてお金は返すつもり」と書置きをし、故郷を捨て、波之助と共に東京に向かいます。
二人は東京・馬喰町の旅館に落ち着き、お伝は雇い奉公をして生活を支え、波之助の治療法を必死に探します。
日本に最新の医療を持ち込んだヘボンの治療を受けようと、横浜に移り住んだこともありました。
お伝は治療費や生活費のために身を粉にして働きます。
時には娼婦として路上に立ったことも・・・。
波之助を助けたい一身でした。
惚れた男にはとことん尽くす・・・それがお伝でした。

運命とは残酷なもので・・・お伝の必死の看病もむなしく、波之助の病状は悪化の一途をたどり・・・
明治5年9月・・・遂に帰らぬ人になってしまいました。
深い悲しみに暮れるお伝・・・故郷には借金もあって帰れない・・・
しかし、身寄りのない都会で、女性が一人で生きていくのは容易なことではありませんでした。



お伝は、当時羽振りの良かった絹商人・小沢伊兵衛の愛人となり、なんとかしのいでいました。
そんな中・・・運命の人と出会うのです。

「麹町にいたところ、小川市太郎という男と知り合い、すぐに夫婦同然となって商いをはじめました。」

小川市太郎は尾張藩士の子弟でしたが、明治維新で失業し、お伝と出会ったことは遊び人に身を落としていました。
しかし、根はやさしく何よりも色男だったので、お伝は惚れこんでしまいました。
二人は一太郎が借りた金を資金に仲買業を始めました。
お伝は関東一円を飛び回ったといいます。とても仕事熱心でした。
今度こそ幸せを・・・と、働きますが、市太郎は遊び惚けてばかり・・・
なかなか軌道に乗らず、生活は困窮を極めていきます。
明治9年・・・二人は茶葉の取引に失敗し、大きな損失を出してしまいます。
住むところも失っていよいよ首が回らなくなった二人は、新富町に住む友人・穴倉佐太郎に同居を申し込みます。
とても人情深い男で、二人の食事まで用意してくれました。
うまくいかない事業・・・借金・・・お伝の人生は大きく狂っていきます。

高橋お伝はどうして人を殺めてしまったのか・・・??
働かない恋人の小川市太郎の代わりに、お伝は内職をして当座をしのいでいましたが、その傍らで街角に立ち体を売っていました。
それでも商売で作った借金は一向に減りませんでした。
心身ともに追いつめられたお伝は、商いの相手だったともいわれている古物商の後藤吉蔵を訪ねます。
羽振りの良かった吉蔵に、200円の借金を申し入れるお伝。
平均年収が160円ほどだった時代、200円は今の500万円に相当します。
なかなか首を縦に振らない吉蔵・・・。
しかし数日後・・・
明治9年8月26日、吉蔵は突然態度を変えます。
お伝に金を貸すようなそぶりを見せると・・・
「どこかで一泊しないか」
藁にもすがる思いでお伝は吉蔵の誘いを受けいれ・・・
蔵前の旅館・丸竹に・・・。

そして吉蔵に言われるがままに体を委ねるのです。
翌朝事件が起こります。
お伝は寝ていた吉蔵をおこし、もう一度借金を申し込みますが・・・
吉蔵は悪びれる様子もなく「貸せない」と、冷たく言い放ち、再び眠ってしまいました。財布を見てみると11円しかありません。
弱みに付け込まれ、もてあそばれただけ・・・悔しい!!
するとお伝は突発的に持っていたカミソリで吉蔵の喉を掻っ切ってしまいました。
この時、狂気となったカミソリ・・・事件の6日前に家から無くなっていたものでした。

吉蔵を殺した翌日、帰ってくると・・・
「いつものように横浜に行っていとこにあってきましたけど、思ったほど金策ができませんのよ。」
そしてその翌日、久し振りに丸髷を結って簪を差しおめかししていました。
これが最後の幸せな時間でした。

明治11年10月・・・お伝の自白は得られないまま、証拠は十分として取調べが終わりました。
お伝は、結審に当たって市太郎、九右衛門との面会が許されます。
涙ながらにこう言いました。
「自分は近いうちにお仕置になると思う
 お仕置の日は、もう一度会いに来てほしい」
そして明治12年1月・・・お伝に判決が下されます。
罪状は、色仕掛けで金を巻き上げようとしたがうまくいかなかったので殺した強盗殺人・・・
言い渡された刑は・・・「斬」・・・斬首刑でした。
極刑である斬首刑は、古代から死刑の一つとして認められてきました。
江戸時代になって8代将軍吉宗が定めた”公事方御定書”によって法制化されます。
斬首のみ・・・殺人
        10両以上の窃盗
        他人の妻との不義密通
        殺人犯逃亡の手助け
に課せられ
斬首+獄門(晒し首)・・・主殺し
               親殺し
               関所破り
               公儀に対する重い諜計

江戸幕府が消滅し、明治の時代になっても斬首刑は行われていました。
しかし、世の風潮は変わりつつありました。
明治時代になって刑法制度の改革が行われ、火あぶり、磔などの残虐な方法は廃止されるようになりましたが・・・
重罪には斬首刑は行われていましたが・・・
しかし、国際社会と歩調を合わせることが急務な当時の日本において、欧米諸国と足並みをそろえるためには古い制度をやめて新しい制度に代える必要がありました。

明治6年切腹廃止
   9年廃刀令発布
斬首刑もまた時代遅れの刑として廃止を求める声が高まっていました。
そんな中、お伝は最後の斬首刑に処せられることとなるのです。

明治になって急速に近代化が進むと、刑罰や処刑法も見直されました。
そんな中、人ひとりを殺し、11円を奪ったお伝は斬首刑という判決を受けます。
お伝の判決は妥当だったのでしょうか??
この時代、強盗殺人に対しては、死刑が言い渡されると決まっていました。
裁判では法律に基づいて死刑、斬首刑を言い渡したとなります。
もう少し、近代化が早かったなら、代わっていたのでは??

・市太郎との生活で借金が重なった
・吉蔵の言いなりにならざるを得なかった
・吉蔵は約束を反故にした
・カッとなって殺してしまった

これらは量刑を考えるうえで、斟酌すべき事情に当たると言えるでしょう。
近代刑法の制定後なら、斬首されることはなかったでしょう。

明治12年1月31日、市谷監獄でお伝の処刑が行われました。
「高橋お伝の断末魔は、誠に見苦しいとりみだしたものであった。」
結審後の面会で、市太郎は必ず最期の日には会いに来ると約束していましたが、来ませんでした。
激しく狂うお伝を、補佐役の役人が力づくで抑え込むと、処刑人が一気に刀を振り下ろしました。
しかし、刀は外れ、お伝の後頭部に・・・!!
お伝は観念したかのように念仏を唱え始めました。
そして・・・
明治12年1月31日、高橋お伝死去・・・この時お伝は29歳でした。

最愛の人、小川市太郎が市谷監獄を訪れたのはその翌日でした。
そしてお伝が処刑された翌年・・・明治政府は新しい刑法を指定し、お伝の処刑後は斬首刑は一度も行われなかったので、日本で最後に斬首刑になった人となったのでした。
人を殺め、嘘をつき、罪を最期まで逃れようとしたお伝の行為は確かに悪女と呼べるものかもしれません。
しかし、毒婦というのは・・・??
どうして??
処刑後、お伝の遺体は浅草にあった警察の病院に運ばれ解剖されることに・・・
名目は「犯罪者の体にある生理学上の特異性の調査」でした。
おでんの体は4日間に分けて細かく徹底的に調べられました。
その所見は・・・「局部の異常発達」
おでんの局部は切り取られ、サンプルとしてアルコール漬けにされます。
どうしてお伝の局部は標本にされたのでしょうか?
それは美人で男を取り込む要素を持つ女性・・・ということで、医者の興味本位で標本にされてしまったのです。
今から思うととてもひどいものですが、当時としては見せしめとして同情はほとんどなく・・・
局部の異常発達は、性欲が強いためと決め付けられ、異常性欲の殺人者のレッテルを貼られてしまったのです。
死後もお伝の悲劇は続きます。
処刑から3か月後には当時の戯作者仮名垣魯文がお伝をモデルにした「高橋阿伝夜叉譚」を発表。
その中でお伝は後藤吉蔵を殺しただけではなく、他に二人の男を毒殺しようとしたと書かれました。
そして毒婦であると印象付けるために、作品には毒という文字が21回も使われたのです。
その1か月後には歌舞伎も上映・・・人気役者で話題となりましたが、時代設定は江戸時代になっていましたが、ここでもお伝は各地を放浪しながら悪事を重ねた毒婦にされ、吉蔵から奪ったお金も200両と誇張されました。

その後もお伝は様々な作品のもモデルとなったことで、稀代の毒婦になってしまいました。
類まれな美人であったために、マスコミの餌食とされてしまったのです。
マスコミが作り上げた毒婦像だったのです。
お伝の遺体は・・・頭蓋骨は何者かによって持ち去られ、巡り巡って浅草に住む漢方医のもとへ・・・
そして、事件から10年が過ぎた明治22年3月・・・この漢方医のもとへ40歳代の男がやってきました。
それは僧侶となった小川市太郎でした。
お伝が最期まで名前を呼んで愛した最愛の人でした。
お伝の亡骸を見せてもらった市太郎は、涙に暮れていたといいます。
お伝は好きになった男にはとことん尽くした男でした。

嘘で固められてしまった人生・・・その中で唯一の真実・・・それは市太郎への思いだったのかもしれません。
まさに流転の人生でした。
東京台東区にある谷中霊園・・・ここにお伝の墓碑があります。
3回忌の際、お伝をモデルに小説を書いた魯文の発案で立てられたもので、出資者には演じた歌舞伎役者たちも名を連ねています。
この墓碑には古くから不思議な言い伝えがあり、お参りをすると三味線が上達すると言われていて・・・
今でも花を手向ける人が絶えません。
しかし、お伝が三味線を弾いたということはどこにもありません。

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今から1800年以上前の弥生時代・・・日本は倭国と呼ばれていました。
クニと呼ばれるいくつもの小国からなっていましたが、長い間内乱が続いていました。
それを治め、統治したのが卑弥呼だと言われています。
卑弥呼は邪馬台国の女王で、シャーマンのような呪術を使った・・・
古代史の謎の一つ・・・卑弥呼とは何者だったのか??

卑弥呼は日本の歴史書には一切登場しません。
その名が最も古く書かれているのは中国の正史「三国志」。
65巻に及ぶその歴史書の一部、「魏書東夷伝 倭人の条」・・・いわゆる「魏志倭人伝」です。
3世紀後半に中国の歴史家によって書かれたもので、その内容は2000字ほど。

”その国本また 男子を以て王となし
 住まること七、八十年 倭国乱れ 相攻伐すること暦年
 即ち共に 一女子を立てて王となす
 名付けて卑弥呼という”

つまり、魏志倭人伝によれば、倭国に何年も続いた内乱を鎮めるために卑弥呼が女王となったというのです。
それはいつ頃のこと・・・??

手掛かりとなるのが、その後5世紀に出た「後漢書」。

”桓霊の間 倭国大いに乱れ 更々相攻伐し 暦年主なし
 一女子あり 名を卑弥呼という
 ここにおいて 共に立てて王となす”

注目するのは”桓霊の間”・・・この時期倭国が乱れていたとあります。
この時期は・・・中国の皇帝桓帝、霊帝の時代でAD147年~184?年・・・2世紀の中ごろから後半のことです。
倭国を構成するクニが共に卑弥呼を女王として立てたのです。
邪馬台国の女王とは言っていません。
そのクニとは・・・倭国。。。つまり、連合国家・倭国の女王で、邪馬台国は倭の女王・卑弥呼が暮らしたクニのことです。
つまり・・・
・2世紀後半の人物
・倭国の女王
・倭国内の邪馬台国の王宮で暮らした
と思われます。

”卑弥呼は鬼道に仕え民衆を支配していた”

鬼道こそが卑弥呼が女王として共立された大きな原因でした。
鬼道とはなんなのでしょう?
鬼籍に入る・・・「鬼」とは死者を意味します。
鬼道とは、死者の霊や先祖の霊と交信する神がかり的な行為でした。
青森のイタコやシャーマンのような霊力のある霊的能力を持って女王となったのです。
祖先崇拝・・・死者の声を聞くことのできる最初の人物で、その特殊能力に畏敬の念を抱き女王としたのです。

卑弥呼の王宮があったとされる邪馬台国・・・その場所はわかっておらず、様々な説が・・・
現在有力とされているのが、畿内説と九州説です。
それぞれで主張されている場所は・・・
畿内説での最有力候補は奈良県桜井市”纏向遺跡”です。
南北1.5キロ・東西2キロの巨大な遺跡で、広さはもちろん九州から関東に至る土器が多数出土しています。
そのことからここが当時の日本の交易の中心だったと考えられ、邪馬台国の都ではないかと言われてきたのです。
さらに、平成21年には、3棟の大型建物群の柱の跡が見つかりました。
最も大きな建物で、南北19m・東西12m・・・卑弥呼の時代、国内最大級の建物がここにあったのです。
魏志倭人伝には、卑弥呼の王宮についてこう書いています。

”宮室 楼観 城柵 厳かに設け”とあります。
この宮室に当たるのが、大賀建物群ではないか?と言われています。
しかし、纏向遺跡では、楼観、城柵のようなものが見つかっていません。

九州説は・・・??
佐賀県にある吉野ケ里遺跡です。
日本最規模を誇る弥生時代の集落跡で、現在は98棟の建物が再現されています。
その中の大きな建物が”宮室”ではないか?と考えられてきました。
さらに、平成11年の発掘で、吉野ケ里遺跡最古の堀の跡が見つかり、ここに纏向遺跡では発見されていない巨大な環濠のあることがわかりました。
その堀に沿って城柵があると推測されています。
楼観・・・物見やぐらのあったこともわかりました。
それは、魏志倭人伝にある卑弥呼の王宮そのものでした。

しかし、その真実はわかっていません。

”女王になってから彼女の姿を見るものは少なく、千人の侍女がいたが、飲食の世話などは一人の男子が行っていた”

卑弥呼の食べていたものは・・・??
炊き込みご飯、隊の塩焼き、サトイモ・タケノコ・豚肉のあわせ煮、蛤とイイダコのワカメ汁、ショウサイフグの一夜干しなど・・・フグには毒がありますが、この時代からすでに食べられていました。

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感想(1件)



中国の歴史書の中にしかない卑弥呼・・・
別の名で日本の歴史書にあるのでは・・・と、古事記や日本書紀で探ろうとしたのですが・・・??
江戸時代の朱子学者・新井白石が唱えたのが、第14歳仲哀天皇の皇后・神功皇后です。

・神功皇后説
神功皇后・・・白石はあるエピソードに注目します。
神功皇后は、仲哀天皇と九州での戦いに向かった際、「海の向こうの宝の国(新羅)を討て」との神の託宣を聞きました。
しかし、戦いで帝が命を落としてしまったため、皇后は身重の体でありながら武装、朝鮮半島に攻め込み、凱旋後には出産した皇子・後の応神天皇の代わりに政を行った。
神のお告げを聞くことができ、自ら戦い、政を行うその姿が重なると考えたのです。

・熊襲の女説
同じ江戸時代、国学者の本居宣長は、卑弥呼=神功皇后としながら・・・
魏に使者を送ったのは、卑弥呼と偽った熊襲の女首。
熊襲とは、ヤマト政権に服属しなかった九州南部の部族です。
その女首長が自分が卑弥呼と偽って手紙を送ったというのです。
魏志倭人伝に書かれている卑弥呼は偽物だったというのです。

・天照大神説
戦前に活躍した東洋史学者の白鳥庫吉は、著書の中で天照大神こそ卑弥呼であると唱えます。
古事記には、太陽を司る天照大神が天岩戸に引きこもったことで世界が闇となり災いが発生したとあります。
天岩戸伝説です。
卑弥呼が亡くなる前に、日食が起こりました。
月によって太陽が隠され、光が失われていくさまが、天岩戸伝説と重なるというのです。

・倭迹迹日百襲姫説
第七代孝霊天皇皇女・倭迹迹日百襲姫です。
日本書紀に・・・
崇神天皇の時代、疫病が蔓延し、国の民の半分が失われ・・・帝は当惑し、天照大神を祀ったものの一向に良くならず・・・。
皇族の年配者である倭迹迹日百襲姫に相談したところ、大物主神がつきこう助言します。
「我のことを祀りなさい」
さらに、大物主神は我が子の祀らせよと伝えました。
大物主神とは、人間との間にできたこのことで、天皇はすぐにその子を探し出し、祀らせました。
すると・・・たちまち疫病がおさまったといいます。
大物主神は、祖先神的な要素の強いため、これを呼び出すことのできるものが卑弥呼では??

卑弥呼が軌道を使い、祖先神の声を聴いたように、倭迹迹日百襲姫も祖先神である大物主神と交信できる力を持っていました。
そのことから二人は同一人物ではないか?と言われるようになりました。
最近では倭迹迹日百襲姫が有力ですが、決め手となる証拠は見つかっていません。

魏志倭人伝の中の一節・・・
”年すでに長大なるも 夫婿無し 男弟あり 佐けて国を治む”
卑弥呼は女王になった時、すでに年を取っており、夫はおらず弟に助けてもらいながら国を治めていたといいます。
しかし、弟が補佐していたという説に異を唱える人も・・・
卑弥呼は女王ではない??
卑弥呼の時代前後に、女王はいなかった・・・??
卑弥呼のみが女王というのはおかしい・・・??
卑弥呼という名は、古代中国人が倭人が話すヒミコという音に漢字をあてたと思われます。
古代で言えば”ヒメミコ”なのでは・・・??
ヒメミコ・・・「ヒ」とか特殊な霊力を持った女性・「ミコ」は高貴な人(皇族)の子どもを示したのでは・・・??
よってヒメミコは、霊力を持った少女という意味で、人名ではなく地位の称号ではないのか?ということです。
ヒメミコと名乗る女性は、同時期にたくさん存在すると思われるのです。
女王の称号としてはふさわしくない・・・??
なので、卑弥呼は女王ではなく、男弟が倭国王で卑弥呼はその補佐をしていたのでは・・・??というのです。

では、どうして卑弥呼が倭国の女王ということになっているのでしょうか?
倭国が中国から遠く離れていたので単純に間違えた??
古くからの伝承で・・・”東海の果てに女国がある”とあるので、魏志倭人伝の著者がその国だと思うそうした??
古代中国の思想で・・・中華思想によって女王卑弥呼が作り出されたのでは??
男性が長く国を治めてきた中国・・・人々は女性が政治に介入することをひどく嫌い、辺境の地にはそんな野蛮な国があると思っていました。
そうした思想から、海の向こうの倭国もまた、女王が治める魏よりも劣った野蛮国であると思った可能性があるのです。
卑弥呼が必ずしも魏志倭人伝の通りに女王であった可能性だけではなく、色々な可能性があるのです。

247年・・・卑弥呼は亡くなったとされています。
しかし、そこにはなぜ、どのようにして亡くなったのかが詳しく書かれていません。
卑弥呼の死の真相とは・・・??
・暗殺説
魏志倭人伝によると、卑弥呼は亡くなる直前、狗奴国と戦争していたといいます。
苦戦をしていた卑弥呼は、魏に応援を要請するも、大敗・・・
卑弥呼に従っていた国々は、「戦いに敗れたのは、卑弥呼が神の声を聞き誤ったからだ」として暗殺した?
しかし、狗奴国に敗れたとは考えにくく、敗戦の責任で暗殺されたとは考えにくい。
・生贄説
卑弥呼が亡くなる前、日食が起こったと言われています。
当時の人々にとって、日食は悪い前兆であり、政を行うもののせいだという考えがありました。
そこで、卑弥呼が日食の責任を取った??
・自然死説
魏志倭人伝には、倭国と狗奴国が戦争をしていたのは247年とあります。
しかし、その後の卑弥呼の死や後継者争いについて年代が書かれていません。
卑弥呼は狗奴国の戦いに勝った後も生きていて、自然死した可能性があるのです。
・戦死説
王宮に籠り、戦場に赴くことなどなかったはずの卑弥呼が戦死・・・??
祖先崇拝を維持していくためには、始祖という偉大な祖先が必要です。
卑弥呼は国をまとめて平和を作った偉大な祖先に近い・・・自らが死ぬことで、偉大な祖先神になろうとした??
そんな時、戦いの場が死にやすかった・・・??

そんな卑弥呼の墓は・・・??
畿内説・纏向遺跡の中にある箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫の墓だと伝えられています。
倭迹迹日百襲姫=卑弥呼・・・??
箸墓古墳は、全長300m、高さ30mという巨大な前方後円墳で、公演部分の直系が150m・・・魏志倭人伝には、卑弥呼の墓の大きさは、直径百余歩とされています。
1歩は1.44mなので、同じ150mになります。
平成21年、箸墓古墳に発見された土器から3世紀の中頃ものだということがわかりました。
卑弥呼が亡くなったも、まさに3世紀!!
箸墓古墳は、偉大なる祖先神を祀るために造られたもの・・・??
それは祖先神の始祖になろうとした卑弥呼に相応しく、衣装を身にまとった姿を模した墓にしている??

九州説
吉野ケ里遺跡からおよそ40キロ・・・平原遺跡にある弥生時代終末期に作られたとされる古墳一号墓。
一変がおよそ12mの四隅が丸い長方形の墓に木簡が埋葬されていました。
その周囲から発見されたものの中には耳當と呼ばれるピアスが。。。
埋葬された人物が女性だったことがわかります。
そして木棺の周りから40枚もの銅鏡が・・・意図的に割られており、埋葬されたのは呪術を操る強い力を持った人物で、その力を封印する為に祭事に使う道教が割られたのではないか??
一号墓は女性で強い霊力を持ったその時代のものだと言われるようになります。

もう一つは・・・福岡県・久留米市にある祇園山古墳です。
根拠としているのは、魏志倭人伝の卑弥呼の墓について書かれている部分・・・
”埋葬する者 奴婢百余人”です。
卑弥呼は殉死した100人ほどのものと一緒に埋葬されたとあるのです。
祇園山古墳には、中心の埋葬施設の周りにいくつもの埋葬施設があるからです。
さらに古墳の形・・・上から見ると円の中心が四角いものの、周りは丸くなっています。
その形が方格規矩鏡と似ているのです。
そしてその方格規矩鏡には四神(玄武・白虎・朱雀・青龍)が書かれているので、宗教的な儀式に使われたとされています。
卑弥呼にとって慣れ親しんだ鑑だったので、墓の形として採用したのでは??

魏志倭人伝には、卑弥呼の死後、男性が王になったものの再び混乱が起きてしまったとあります。その後を受け継いだのが、わずか13歳の少女でした。
これによって倭国はまた平和を取り戻しました。
しかし、その後、中国の歴史書から邪馬台国の記述は消え、卑弥呼の名と共に歴史の闇に包まれてしまうのです。
謎多き卑弥呼・・・いったい何者だったのでしょうか。

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江戸幕府三代将軍・徳川家光の乳母として大奥で絶大な権力を握った女性・・・お福・・・春日局です。
戦国乱世に翻弄しながらも、江戸という時代を自らの手で切り開いていった女性です。

春日局の辞世の句の一つ・・・

西に入る 月を誘い 法をへて
    今日ぞ火宅を 逃れけるかな

天下取りに邁進する戦国の風雲児・織田信長が、西日本攻略の足掛かりにするため丹波を平定した1579年、その丹波国でお福は生まれました。
父は斎藤利三・・・信長の家臣・稲葉一鉄に仕える武将でした。
母・お安は一鉄の兄・通明の娘だったといいます。
多くの兄弟の末っ子として生まれたお福は、何不自由ない生活を送っていました。
しかし、時は戦国・・・その人生は乱世に翻弄されていきます。
原因は、父・利三・・・武功をあげたにもかかわらず、取り立てがないことに怒り、主君である稲葉一鉄とたもとを分かったのです。
そんな利三が次に仕えたのは、信長の重臣・明智光秀でした。
これが、お福の運命を大きく変えます。

1582年6月2日、お福4歳の時・・・あの事件が起こります。
本能寺の変!!
光秀の重臣として本能寺襲撃の戦法を命じられたお福の父・利三は、襲撃の中心メンバーとして信長を自害に追い込んだのですが、主君の死を知り備中高松から急ぎ引き返してきた羽柴秀吉の軍勢と山城国・山崎で激突!!大敗を喫した明智軍は、散り散りに逃げていきました。

お福の父・利三も大津まで逃げるも残党狩りにあい捕縛され・・・市中に引き回しの上、京の六条河原で斬首!!
その首は、謀反人として光秀と共に晒されました。
幼いお福は、母と共にその父の無残な姿を見たともいいます。
謀反人の身内となったお福と家族は苦労が絶えなかったと言われています。
母は、7人の子供を抱え・・・秀吉は、男の子を探し出し、亡き者にしようと躍起になっていました。
京都の公家・三条西家を頼って、ひっそりと暮らしていましたが・・・
京は危ないということで、土佐の長宗我部正親の正室がお福の父の義理の妹だったので、援助を受けていたのではないか??
一説によると京を離れ、正親を頼り土佐へ・・・身を隠して暮らしていたといいます。
そして・・・1588年、お福たちはようやく京都に戻ってきます。
そこには理由が・・・
秀吉が関白になり、九州平定し・・・あとは関東と東北となった時、天下を取った秀吉にとって明智の残党などどうでもよくなっていたのです。
13歳になったお福は、一鉄の妻の援助により、三条西家に奉公に出、作法を学ぶ機会を得ました。
その後、一鉄の息子・重通の養女となり同じく養子であった稲葉正成に嫁ぐこととなったのです。
1595年、この時、お福17歳。。。

稲葉正成は、お福の7つ年上で、戦国大名小早川秀秋の家老で5万石でした。
結婚の2年後、長男・正勝が誕生!!
お福にとってようやく平穏な日々が訪れました。

1600年9月15日、天下分け目の関ケ原の戦いが起きます。
お福の夫・稲葉正成は、主君小早川秀秋と共に西軍に・・・
しかし、小早川は、突然味方である西軍襲撃を命じたのです。
この寝返りが、家康率いる東軍勝利に導く大きな要因となったのですが・・・
この時、裏切りを進言したのが稲葉正成だと言われ・・・正成は、東軍勝利の陰の功労者でした。
ところが・・・その翌年、主君・小早川と対立!!
5万石の家老を捨て、浪人となって美濃国に戻ります。
こうしてお福は家老の妻から浪人の妻へ・・・
子供を連れての苦しい生活に・・・
しかし、夫・正成は、浪人の身でありながら側室をおき、子供まで設ける始末・・・
するとお福は・・・
「そとで囲うのは周りの目もあります故、その女子と子を屋敷へ呼び寄せここで育てましょう。」
ところが・・・
正成が屋敷を留守にしたとき、お福はその女子を殺害し、家を出ていきました。
どうして・・・??
浪人でありながら側室を置くことに我慢できなかったのでは??
側室殺しは後世のお話の可能性がありますが、お福が家を出たのはその通り・・・

「お福は正成に恨みがあり、まだ幼子であった正勝を懐に抱いて家を逃げ出し、城に走り入った」

夫・稲葉正成に離縁を認めさせるために、城に駆け込んだのです。
夫と離縁して、自分自身の力で生活を良くしたいという前向きな決断でした。



1604年7月17日、江戸城で2代将軍・徳川秀忠と正室・お江の間に男子が生まれました。
幼名・竹千代・・・後の3代将軍・徳川家光です。
正室は子育てをしないという将軍家の慣例に伴って、すぐさま竹千代の乳母の募集が京都で行われました。
お江にしてみれば、教養の高い京都辺りから募集したかったようです。
しかし、乳母に手をあげる者はいませんでした。
当時の江戸は未開の土地だったのです。
そこで、京都の入り口・粟田口に募集の高札を建てたと言われています。
夫と離縁して自立の道を模索していたお福は、そのうわさを聞きつけて応募します。
将軍家の乳母の条件は厳しく・・・
乳飲み子が元気に育つようによく母乳が出るのはもちろん、当時はその子の養育も任されていたので、家柄と教養も必要でした。
1604年、お福は4男・正利を出産、母乳はよく出ました。
若い頃に公家の三条西家に奉公に出ていたので、教養や行儀作法も身につけていました。
問題は竹千代の母であるお江・・・
お江は、織田信長の妹であるお市の方の三女・・・お江にとってお福は、伯父・信長を殺した謀反人の娘でした。
しかし、お福は竹千代の乳母に採用されます。
どうして・・・??
ひとつは責任者であった京都守護職の板倉勝重と三条西家が親しかったこと・・・。
そして家康の目に留まったことです。
乳母採用に関して、家康が決定権を持っていました。
家康が・・・関ケ原の戦いで西軍を裏切って東軍を勝利に導いた陰の功労者である稲葉正成の妻であったこと・・・それが魅力だったのです。

乳母となったお福は江戸城に入り、生母・お江に代わって竹千代に乳を与え育てていくことに。
そんな中、気をもんだのが、竹千代の体の弱さと食の細さでした。
お福は竹千代を強く育てるために心を砕きます。
七色飯や大食いの男が食べるところを見せたり・・・
献身的なお福に、竹千代は懐きました。

しかし、そんなお福の前に暗雲が・・・
1606年、竹千代の弟となる国松(のちの忠長)が生まれます。
お江は、乳母をおかず、自らの手で育てることにします。
一説には乳母に育てられた竹千代が、お江に懐かなかったことが原因だともいわれています。
次第にお江は国松ばかりをかわいがるようになり・・・それは単に自分が手塩にかけているというわけではなく・・・
竹千代はおっとりしていて何事にも消極的、それに比べ国松は聡明で積極的と全く違うタイプでした。
戦国乱世の息吹が残る時代、親が見てどちらが家を発展させることができるのか?・・・それは、器量が重視されました。
おまけに大坂にはまだ豊臣家が残っていました。
弱肉強食の戦国時代同様、家を守れるものを跡取りにしなければなりません。
お江は、国松の方が将軍に相応しいとかわいがるようになったのです。
そんなお江の振る舞いは、秀忠までも動かしてしまいます。
二人が国松を溺愛・・・江戸城内でも・・・
「家督は国松さまが・・・」
「今のうちに我等もそちらに・・・」
と、幕臣たちも国松の方に足しげく通うようになり、竹千代の元には訪れるものが無くなってしまいました。
こうして江戸城内は、次期将軍は国松だという機運が高まる中・・・乳母として竹千代を将軍にと頑張ってきたお福は焦ります。

1611年・・・竹千代が7歳になったその時、大胆な行動に打って出ます。
伊勢参りと偽って、江戸城を出発し、大御所・家康に会うために駿府に向かいます。
二元政治と言われていた江戸と駿府ですが、この時はまだ家康の方が力が強かったのです。
しかし、一介の乳母が家康に直訴するなど手打ち覚悟の命がけの行為でした。
そこでお福は根回しに・・・
お福があったのは、晩年家康の寵愛を受けていた側室のお六でした。
お六は、並びなき美人で器用な人で、家康公に何を言ってもすべて聞き入れられると言われていました。
この頃乳母が力を持つということは・・・特に、正室に勝つなどとはあり得ないことでした。
お福は家康が寵愛するお六を動かすことによって何とかしようとしたのです。
根回しが上手くいき、家康に御目通りが叶ったお福・・・

「どうか・・・どうか竹千代さまを、次の将軍に・・・宋でなければまた国が乱れます。」

すると家康は・・・「わかっておる・・・良きように取り計らうから、安心して江戸にもどるがよい」

それから数か月後、家康は江戸城にやってきました。
そして孫の竹千代と国松に体面・・・並んで座る二人を見た家康は、竹千代を上座に呼び寄せます。
これに国松も続こうと腰をあげましたが・・・
「上座にあがれるのは次の将軍のみである!!」
と一喝!!その場に座らせ、竹千代が次期将軍だと周りに認識させたのです。

お福にあった後、家康はお江に「訓戒状」を送っていました。
そこには長男は跡取りで別格である。次男以下は家来と同じであると辛らつな言葉を記しています。
長幼の序・・・長男と次男以下は別格であると・・・竹千代を次期将軍として別格としたのです。
今後争いが起きないように、長子相続の重要性を説いたのです。

1616年、自らの役目を終えたかのように、家康はこの世を去ります。
千代は元服し、家光となります。
1623年7月27日、徳川家光が三代将軍となりました。
この時、家光20歳!!
お福の人生も変わります。
1624年11月3日、家光が将軍となったことで秀忠は大御所となりお江と共に西ノ丸御殿へ移りました。
家光は将軍の住居・本丸御殿へ・・・乳母の春日局も共に移ります。
これによってお福は乳母という立場を越え、政治的な立場に立って行きます。

老中も大奥には容易には口出しは出来ない・・・
そして表向きの事まで・・・
将軍眼の姫君の婚姻、大名間の縁組にまで口を出すようになります。
しかし、それもすべて家光のため・・・家光の政治を陰で支えたいというお福の強い思いからでした。
お福は家光が将軍となってからも献身的に尽くします。
家光が26歳の時に疱瘡(天然痘)にかかります。
当時は命にかかわる病でした。
お福は懸命に看病しました。
さらに家康が祀られている東照宮に願掛けをします。
「上様の病をどうか、どうかお治し下さい。
 その代わり、私はどんな病にかかろうとも、今後一切薬は飲みません。」
その1か月後・・・家光は病を克服し、回復していきます。
安堵したお福は、そのお礼参りとして伊勢神宮に参詣することにします。
1629年8月21日江戸を出発・・・無事に伊勢参りを済ませたのですが、江戸には戻らず京都に向かいます。
後水尾天皇と天皇の中宮になっていた家光の妹・和子に挨拶するためでした。
この時、幕府と朝廷の間でもめ事が起こっていたので、三代将軍家光のため、少しでも緊張状態を緩和しようと考えたのです。
しかし、このお福の行動は、京都の公家にとっては由々しきことでした。
お福は家光の乳母として幕府内では大きな力を持っていましたが、朝廷から見れば無位無官の人物です。
そんな立場の者が、天皇に謁見したいと参内したので大ごとでした。
そこでお福は若い頃に奉公した三条西実条の妹と名乗り、何とか天皇と謁見したのです。
天皇からの杯を受け・・・1629年お福は「春日」の局号を賜わります。
春日は、朝廷の女官に代々引き継がれてきた由緒正しい局の名でした。
この時51歳・・・謀反人の娘から、家光の乳母となり強大な権力を得、春日局となったお福でしたがもう一つ心配事が・・・世継ぎでした。
とうの家光が、女性に興味を示しません。
家光は五摂家(近衛家・九条家・鷹司家・一条家・二条家)の鷹司家から孝子を正室に迎えますが、気に入らないと大奥から中ノ丸御殿へと移してしまいました。
お福も孝子をあまり気に入らなかったようで・・・悪く言っています。
お福は自分の手で相手を探すために、なりふり構わず奔走します。
将軍家家族の生活の場として誕生した江戸城大奥・・・
そこを将軍の世継ぎを産み育てる場所として整備したのが春日局でした。
それもまた、家光のため・・・
家光には男色の気があり、女性に興味を示さなかったからです。
それでも春日局は家光に側室をとらせたいと奔走します。
江戸市中に出ては、美女を探し出し家光に引き合わせました。
一向に女性に興味をひきません・・・

1639年・・・六条有純の娘・慶光院が跡目のお礼をするために江戸城に登城・・・
席巻した家光が、その美青年のような姿に心を奪われたのです。
春日局は慶光院を口説き落として、江戸城に留まらせます。
そして還俗させ、お万の方として家光の側室にしてしまうのです。
しかし、二人の間に世継ぎはできませんでした。
そこで春日局は、浅草浅草寺近くの古着屋の店先で、お蘭という女の子を見つけて驚きます。
その顔立ちが、お万の方によく似ていたからです。
春日局はお蘭が13歳になるのを待ち、大奥に迎え入れました。
すると狙いは敵中・・・家光はお蘭を気に入り、寵愛するようになります。
そして8年後・・・家光とお蘭の間に待望に男の子が誕生・・・
1641年、後の4代将軍徳川家綱の誕生でした。
この1か月後、徳川御三家へのお披露目の際、家綱を抱いていたのは春日局となったお福でした。
この時、63歳・・・江戸城に入ってから40年経っていました。

幕府内で、絶大な権力を誇る春日局・・・しかし、それは家光のため。
決して奢ることはなかったといいます。
しかし、一度だけ鬼になったことが・・・理由は、実の息子・・・四男・稲葉正利。
正利は家光と将軍争いをしていた忠長に仕えていたのですが、素行が悪く、駿府の細川家に預けられます。
そこでも素行は悪く・・・人々が恐れ逃げ回るほどの乱暴狼藉でした。
春日局の耳にも入り・・・しかし、正利が変わることはありませんでした。
1638年、春日局は実の子・正利に自害を命じます。
これも家光の為でした。
これ以上正利の悪行を許せば、乳兄弟である家光にも悪い噂が立つと考え、鬼になったのです。
母に自害を命じられ、ようやく目が覚めた正利・・・
「春日殿のことを思い出せば、涙が流れました。
 詫言を致します。」
改心した正利は、自害を免れたといいます。
家光のため鬼となった春日局・・・自らの信念に生きた女性でした。

三代将軍徳川家光に世継ぎが生れ・・・春日局は自らの役目を終えたと引退・・・
江戸城を離れます。
その翌年の1643年8月、春日局は病に倒れます。
自分のために薬立ちをしていると知っていた家光は・・・
「薬を飲まないより飲むことが奉公になる」と手紙を送ります。
自分のために薬を飲んでほしい・・・と。
家光の前では薬を飲んだふりをして安心させます。
しかし、家光が帰るとそれを吐き捨て、一切口にしなかったといいます。
春日局は薬絶ちを最期まで貫いたのです。

「上様が末永く健やかでおられますように・・・」

そしてそのまま春日局はこの世を去りました。
家光が春日局を知ったのは、その2日後でした。
家光は、一人嘆き悲しみ、食事も喉を通らなかったといいます。
そして7日間喪に服しました。
家康の月命日17日には毎月欠かさず行っていた江戸城内の東照宮参詣もこの時は止めたといいます。

今日までは 乾く間もなく うらみわび
           何しに迷う あけぼのの空

戦国の世に翻弄され、江戸という新しい時代を切り開いてきた春日局でした。

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日本初の正史・・・公認の歴史書と言われる日本書紀・・・
681年3月、第40代天武天皇の命によって編纂が始まり、40年の長い歳月を費やして720年全30巻が完成しました。
そこには神々による国の創生と天皇家の歴史が書かれ、時代を越えて多くの人に読み継がれてきました。
しかし、日本書紀にはある疑惑が・・・。

1~2巻・・・神代紀・・・神々による日本の創生
3巻以降は、天照大神の子孫である初代神武天皇から天武天皇の妃・第41代持統天皇までの天皇家の歴史

「古事記」も天武天皇の命によって編纂されたもので、この二つを合わせて記紀と言います。
内容も非常に似ていますが違っているのは・・・古事記はすべて漢字で書かれているものの日本語を漢字で記したものです。
日本書紀は、完全な漢文・・・古代中国語で書かれています。
日本の歴史書なのに、どうして漢文で書かれていたのでしょうか?

日本書紀の編纂が始まったのは、681年3月・・・
天武天皇が6人の皇族と6人の役人に編纂を命じたと言われています。
そしておよそ40年後の720年、天武天皇の王子・舎人親王によって完成します。
時を同じくして古事記の編纂も行われていましたが、漢文と日本語・・・二つのモノが必要だった理由・・・それは、編纂が始まる18年前に始まった白村江の戦に関係していました。

660年、日本と友好関係を結んで仏教をもたらした百済が、唐・新羅の連合軍に敗れて滅亡・・・
3年後、日本は百済復興のために3万の水軍を派遣!!
白村江で唐・新羅の連合軍と激突!!
しかし、結果は惨敗!!
日本軍は、全面撤退を余儀なくされます。
この敗戦を機に、朝廷は国防を意識するようになり、時の女帝・斉明天皇の皇子・中大兄皇子は大宰府に水城や山城を建造、対馬と筑紫には防人をおきました。
さらに、中大兄皇子が第38代天智天皇に即位すると・・・国家として唐に劣らない政治体制を築くために近江令を制定、庚午年籍を作成します。
そうした国家の体制づくりを受け継いだ弟・天武天皇は日本書紀によって日本を守ろうとしたのです。

日本は、唐をはじめとするアジア諸国に対して、唐と匹敵する深い歴史や文化があることを、日本書紀によって示したのです。
だから、日本書紀は完全な漢文で書かれているのです。
つまり、日本書紀は国外向け、古事記は国内向けに作られているのです。

「日本」という国名が初めて使われたのはこの日本書紀が初めてです。
それまでは、中国によってつけられた倭と呼ばれていましたが、それを用いず日本を使うことで成熟した独立国家であるとしたのです。

しかし・・・歴史は権力者が作るものです。
権力者に都合のいい歴史が書かれる・・・特定の事件、人物に対して事実とは違うことが書かれています。
日本書紀には虚構の歴史が書かれているというのです。

1~2巻・・・神代紀には、天皇の誕生がこう記されています。
男神の伊邪那岐と女神の伊邪那美が愛し合って日本列島を生み、そこに天照大神の孫である邇邇芸命が降り立ちます。
この邇邇芸命の子孫が、初代神武天皇となったと。
7巻には、日本武尊が登場!!
女装で油断させ、ヤマト王権に抵抗する九州の熊襲を成敗します。
いずれも本当のことかどうか定かではありませんが、天皇家の権威を高まるために書かれたことには違いありません。

ところが・・・16巻に登場する25代武烈天皇は・・・悪行の限りを尽くした稀代の暴君として書かれています。
あろうことか妊婦の腹を裂き胎児を見たり、生爪をはいだものに素手で山芋を掘らせたり、木に登らせたものを射殺したり・・・やりたい放題・・・これほど悪く書かれている天皇は他にありません。
武烈天皇は、自らの悪行が祟ったのか跡継ぎを残せないまま崩御。
天皇家の正当な血統が絶たれてしまったために、10代前の応神天皇の5世孫・継体天皇を越前から呼び寄せて即位させたのです。
天皇を神格化して日本の統治者であることを正当化する為に作られた日本書紀に、どうして天皇家の不名誉な歴史が書かれているのでしょうか?

実際に武烈天皇がそうだったのではなく、中国の歴史書に倣って暴君にされてしまったようです。
中国は有史以来、数多くの王朝交代を繰り返してきていました。
そして王朝が滅び去るときには暴君の存在がありました。
日本書紀によって中国に匹敵する連綿とした歴史があることを主張したい日本でしたが、王朝の滅亡や暴君が登場したことはなく書けない・・・
そこで、跡継ぎを残さないまま亡くなった武烈天皇を暴君に仕立て上げ、血統の交代を中国の王朝交代のようにドラマチックなものにしたのでは・・・??と言われています。

日本書紀にはその編纂を命じた天武天皇に関することも書かれています。
それは、天皇に即位する前・・・大海人皇子の時に起きた大事件です。
672年に多くの皇族や豪族を巻き込んで起こった古代最大の内乱・・・壬申の乱です。
日本書紀28巻にはその経緯が書かれています。
天智天皇は、当初弟の大海人皇子(天武天皇)を次期天皇候補の筆頭にしていました。
ところが・・・第一皇子の大友皇子が成長すると・・・親子の情に流されて、朝廷の官職の最高位である太政大臣に任命。
次期天皇候補の序列を入れ替えてしまったのです。
それでも安心できない天智天皇は、病床に大海人皇子を呼んで揺さぶりをかけます。
「皇位をそちに譲る・・・」
この言葉にまんまと乗ってくるならば、謀反の意ありと討伐!!と考えたのです。
それを察した大海人皇子は出家して吉野の山へ・・・。
こうして天智天皇の子・大友皇子が第39代弘文天皇として即位。
疑心暗鬼の弘文天皇は、吉野の大海人皇子に食料が届かないというような妨害工作を働きかけます。
もともと皇位を奪うつもりなどなかった大海人皇子ですが・・・

「このままだと命を奪われてしまう・・・」

と考え身を守るために兵を集めて挙兵しました。
多くの皇族や豪族を巻き込んで両軍が激突し、これに勝利した大海人皇子が第40代天武天皇となったのです。
つまり、大海人皇子はやむを得ず弘文天皇を討ったというのです・・・が。
真相は全く違っていました。
当時は跡を継ぐのは長男で・・・次男である大海人皇子はそれを補佐する存在にならなければなりませんでした。
つまり、大海人皇子には後継継承権はなかったのです。
それにもかかわらず、地位と権力を奪い取った・・・その通りに書くわけにはいかなかったのです。
後継証券がない大海人皇子が天皇になりたくて起こした一方的な皇位の簒奪だったのです。

大海人皇子が託されたのは、”天智天皇の血を受け継いだ正当な後継者を生み出すこと”でした。
大海人皇子は天智天皇の娘4人を妻にしています。
我が子である大津皇子、草壁皇子などの後見人を期待されていたのです。
しかし、やはり息子たちの後見人では満足できない・・・天皇になりたいという野心がありました」。
おまけに、鵜野讃良皇女は天智天皇の娘でした。
夫である大海人皇子が平の皇族であっては困る・・・後見役で終わってしまっては困る・・・という切迫した思いがこの反乱を起こした一因だったともいわれています。

日本書紀の中で、自分の皇位継承を正当化する為に歴史を作り変えてしまった天武天皇・・・
しかし、編纂が始まってわずか5年後・・・686年10月崩御!!

その後、日本書紀の編纂に大きな影響を与えたのは・・・当時の最高権力者・藤原不比等でした。
朝廷に仕える役人のひとりに過ぎなかった不比等は、701年日本初の本格的な基本法・大宝律令の編纂において中心的な役割を果たしたことで、政治の表舞台に登場します。
さらに、娘・宮子が文武天皇に入内し、後の聖武天皇となる首皇子を出産すると、天皇家との関係を強くしたことで、絶大な権力を掌握!!
後に続く藤原家の隆盛の礎となりました。
そんな不比等もまた、史実の改ざんを行った可能性が高いのです。
父である中臣鎌足が大きく関与した歴史的事件・・・大化の改新の発端の真実とは・・・??

奈良明日香村にあるにある伝飛鳥板蓋宮跡・・・35代皇極天皇の宮殿があった場所です。
ここで645年大化の改新の発端とされる事件が起こりました。
乙巳の変です。
日本書紀24巻には、事の顛末がこう記されています。
ある日、皇極天皇の皇子・中大兄皇子が蹴鞠をしていると靴が脱げてしまい・・・その靴を役人のひとりである中臣鎌足が拾います。
これをきっかけに意気投合した二人は、絶大な権力を握り天皇を蔑ろにしていた蘇我氏をうち滅ぼそうと決意をします。
そして、飛鳥板蓋宮で、朝鮮の使節が天皇に貢物を捧げる儀式が執り行われている時・・・
二人は儀式に出席していた蘇我入鹿を襲撃し、斬殺!!
さらに中大兄皇子が入鹿の父・蝦夷の反撃に備えて兵を集めると、蘇我氏の最期を悟った蝦夷は自らの屋敷に火を放ち、自害した・・・。
つまり、乙巳の変は、天皇を蔑ろにする蘇我氏を二人が成敗する・・・正義の決起!!
本当にそうだったのでしょうか?
日本書紀によって大悪人とされている蘇我蝦夷・入鹿親子・・・の蘇我氏。
表舞台に登場したのは6世紀前半からで、入鹿の曽祖父稲目が朝廷の大臣に就任したことに始まります。
稲目の後は馬子・・・馬子は、日本に伝来したばかりの仏教を推進し、権力を拡大。
日本初の本格的仏教寺院・飛鳥寺を建立します。
33代推古天皇のもとでは、中心となって国政を司りました。
蝦夷・入鹿の時代になると、隆盛は極まり、朝廷の権力を掌握!!
そして、大きな事件を起こします。
乙巳の変の1年半ほど前の643年・・・蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を次期天皇にしたいと考えていた入鹿は、最大のライバルである山背大兄王を襲撃!!
一族もろとも自害に追い込みました。
日本書紀には、入鹿の単独行動による暴挙とされていますが・・・乙巳の変の原因となる事件とされていますが・・・。
入鹿は黒幕に命じられて、山背大兄王を襲撃したのではないのか??
黒幕とは・・・当時の天皇であった皇極天皇??
皇極天皇は、後の天智天皇、天武天皇の実の母親です。
中国の文化や思想に傾倒した天皇で、事件が起こった当初は自らが暮らす飛鳥を、唐の長安のようにしたいと・・・権力の象徴となる都にしたいと思っていました。
しかしこの時、斑鳩に新しい宮殿が築かれており、そこを拠点とする山背大兄王が次期天皇となれば、都が斑鳩に移ってしまう・・・。
そこで、腹心・入鹿に命じて山背大兄王を襲撃させたのでは・・・??
入鹿は皇極天皇の命に従って山背大兄王を襲撃したに過ぎない・・・。
日本書紀の入鹿の単独行動による暴挙はうそ??

入鹿が惨殺された理由は・・・??
日本書紀では中大兄皇子が入鹿を暗殺した際に、皇極天皇にこう訴えています。
「蘇我入鹿は天皇家を滅ぼそうとしていました。
 いるかなどによって、天皇家が滅びるようなことはあってはなりませぬ。」
朝廷をh牛耳っていた蘇我入鹿は天皇家を滅ぼし、その地位を乗っ取ろうとしていた・・・これを防ぐために、入鹿を討ったと言っているのですが・・・??
蘇我氏は当時、蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を天皇にしようとしていました。
決して自分達が取って代わろうとは思っていませんでした。
どうして「乙巳の変」は起こったのでしょうか?
そこで出てくるのが黒幕・皇極天皇です。
皇極天皇は山背大兄王暗殺の褒賞として、蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を次期天皇に内定しました。
が・・・これに不満を抱いたのは、次期天皇の座を虎視眈々と狙っていた皇極天皇の弟・軽皇子でした。
軽皇子は、天皇に次期天皇内定の取り消しを願い出ましたが、良い返事が返ってきません。
そこで・・・
「私を次の帝に指名していただければ、飛鳥京の築造に協力いたします。」
と申し入れ、ようやく納得させたのです。
そうなれば、あとは邪魔者を始末するのみ・・・。
邪魔者とは・・・古人大兄皇子を推す蘇我氏でした。
乙巳の変は、日本書紀に記されている正義の決起ではなく、軽皇子が起こしたライバル勢力の排除であり、そこには皇極天皇の心変わりがあったのです。
それは、天皇家や、それにかかわった中臣鎌足の子・不比等にとって知られたくない事実でした。
そのため、蘇我氏は日本書紀によって稀代の大悪人とされてしまったのです。



軽皇子は、乙巳の変2日後に即位し、孝徳天皇となります。
蘇我氏が持っていた公共事業の権利を天皇家が掌握することとなります。
これによって莫大な利権が自分の物となるのです。

中大兄皇子と藤原不比等は一刺客として乙巳の変に参加しました。
中大兄皇子は叔父が即位した方が、皇位が巡ってくる可能性が・・・
鎌足は、乙巳の変当時は軽皇子の腹心でした。
二人が英雄のように書かれている理由は・・・
編纂された当時の天皇の理想像は、一つは天智天皇の血統を受け継いでいる事、もう一つは藤原氏の血脈である事・・・それはまさに当時の皇太子。。。首皇子(聖武天皇)のことだったのです。
二つが結びついた事件が乙巳の変だったのです。
二人が一刺客ではなく主役であったと改ざんされることとなりました。

日本書紀には、天智天皇が自ら鎌足の病床を見舞う・・・そして、669年藤原姓を賜わるというエピソードがあります。
藤原氏が天皇家にとって特別な存在であるということを、知らしめなければならなかったのです。
不比等以降、藤原氏の黄金時代が続きます。
それは日本書紀によってつくられた藤原氏のイメージが根底にあったのです。

軽皇子が孝徳天皇となって始めた政治改革が大化の改新です。
教科書にも、天皇による中央集権化が進んだ重要な改革だったと書かれています。
日本書紀には、その大化の改新の政策方針として発令された「改新の詔」が次のように記されています。

・土地や人民の私有を禁じる公地公民制の施行
・首都の設置
・戸籍の作成
・新しい租税制度の制定

ところが・・・この改新の詔についても・・・1967年に発見された木簡により改ざんがあったことが明らかとなりました。
日本書紀の改新の詔には、”郡”という行政区画の単位は701年以降から使用されたとあります。
木簡から”郡”が使われだしたのは、701年以降であることが判明・・・つまり、改新の詔は本来のモノではなく、701年以降に不比等の時代に書き換えられたものなのです。
どうして書き替える必要性があったのでしょうか?
乙巳の変の正当化のため・・・大改革を目指して行われたとしなければ・・・
大化の改新をより際立ったものにするために、その発端となった乙巳の変の歴史的価値を高め、それを実行した中大兄皇子と中臣鎌足の名声をあげる・・・そのために、改新の詔を改ざんしたのでは・・・??

古代日本を語るうえで欠かせない聖徳太子・・・
日本書紀における聖徳太子についての記述は・・・厩戸皇子・・・。
聖徳太子は、生前の功績をたたえて後世に呼ばれた名前で、本来の名は厩戸皇子です。
日本書紀によると、第31代用明天皇の皇子として生まれました。
生まれてすぐに言葉を話し、青年後は一度に十人の話を聞くことができたという超人的な能力を持っていました。
叔母の推古天皇が第33代推古天皇として即位すると、皇太子として摂政として政治改革に邁進し、冠位十二階や十七条憲法を制定、遣隋使を派遣し大陸の文明や文化を吸収、法隆寺をはじめ、多くの寺院を建立。
仏教の普及に尽力しました。
まさに古代の英雄です。
のはずですが・・・その厩戸皇子に関する資料はほとんどなく、98年後に作られた「日本書紀」にだけ詳しく書かれています。
聖徳太子こと厩戸皇子は実在の人物ではなく日本書紀によって書かれた虚構の人物・・・??

厩戸皇子は実在するものの聖徳太子として広く知られている人物像は日本書紀によってつくられた可能性が高く、さらにその立場も・・・皇太子に立てられ摂政ということですが・・・
厩戸皇子の時代、皇太子や摂政という地位はありませんでした。
皇太子であり摂政であるというのはねつ造だと思われます。

厩戸皇子は、実際にどんな職務についていたのでしょうか?
605年政治の中心だった飛鳥を離れ、斑鳩に築いた宮殿に移ります。
このことから朝廷での職務は・・・??
斑鳩は、当時の国際玄関口である難波にアクセスしやすいところにありました。
期待された役割は外交・・・外務大臣であったのです。
遣隋使の派遣・・・むしろこれが本来の職務で十七条憲法作成には携わっていないばかりか十七条憲法自体、天武天皇の時代以降につくられた可能性が高いのです。
そうなると、厩戸皇子は天才政治家でもなかったことになります。
どうして日本書紀は厩戸皇子を超人的な皇太子に仕立て上げたのでしょうか?
そこには藤原不比等と首皇子(聖武天皇)の存在がありました。

日本書紀が完成される時期に皇太子となったのが首皇子でした。
日本に皇太子という制度が導入されたのは7世紀末・・・編纂された当時、皇太子ってなに?と、認識されていませんでした。
そこで、皇太子とはかくあるべきという皇太子の理想像としてつくられたのです。
頭脳明晰、人の話をよく聞く、仏教を重んじる・・・理想像を示すことで、それを手本に首皇子に学んでもらい、偉大な天皇となってほしい・・・そうなれば、天皇家と密接に結びついている藤原家も安泰・・・。
不比等はそう考えていたのかもしれません。
そんな野望が、聖徳太子こと厩戸皇子の虚構の人物像を作り上げたのです。
そしてそれを学んだ首皇子は、第45代聖武天皇となり、廬舎那仏・・・奈良の大仏建立に情熱を注ぐのです。
仏教によって国を守り安定させることで、天皇の権威を示そうとしました。
そして、そのそばには藤原氏の姿がありました。

日本初の正史・・・国歌公認の歴史書でありながら、時の権力者によって事実でない虚構が数多く記されている日本書紀・・・まさに、歴史は勝者によってつくられるのです。


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観応元年~3年(1350~52)・・・室町時代草創期、朝廷が二つに分かれ南北朝時代と言われたころ・・・
幕府内の抗争に端を発した全国規模の争いが勃発・・・世にいう観応の擾乱です。
相対したのは室町幕府初代将軍・足利尊氏とその弟・足利直義です。
兄弟喧嘩が全国の武士を巻き込んだのです。

1336年、足利尊氏は京に室町幕府を開きます。
尊氏は政務にはほとんど介入せず、尊氏が執り行ったのは軍事を取りまとめることでした。
武士たちの手柄を査定する論功行賞を行い、恩賞を与える権利(恩賞充行権)を執行することでした。
代わりに政務に当たったのは弟・直義・・・所領の裁判や寺社勢力との土地をめぐる交渉などを一手に引き受けていました。
まさに、兄弟二人三脚で歩み出した室町幕府。
このまま順調に行くと思われましたが・・・幕府内に不協和音が!!
原因は、直義と幕府の重臣・高師直との対立でした。
高師直は主君・足利尊氏に従い、各地を転戦・・・室町幕府樹立に貢献した武将でした。
将軍に次ぐNo,2の執事(のちの管領)として幕府を支えていました。
最も重要な仕事は、尊氏が出す恩賞に関する文書を発給すること。
さらに、京の北朝と吉野の南朝を二人の天皇が存在する中、幕府が支持する北朝との交渉を行っていました。

そうした師直の幕府の権力をさらに強める出来事が・・・
南朝を樹立した後醍醐天皇の遺志を継いだ後村上天皇が幕府を倒そうと画策。
その動きに呼応して・・・1347年河内国で南朝方の楠木正行が挙兵。
尊氏はすぐに討伐軍を派遣しますが、大敗を喫してしまいました。
そこで・・・戦を得意とする師直を、討伐軍の大将として出陣させることに。
すると師直は、1348年1月、見事に楠木軍の城を落としたのです。
さらに、勢いそのままに南朝の後村上天皇に兵を差し向け・・・皇居、公家の邸宅、寺社まで焼き払いました。
こうした師直の活躍によって幕府は危機を回避・・・その軍功によって師直は直義をも凌駕する力を得るように・・・
尊氏が行っていた論功行賞まで行うようになりました。
しかし、師直の恩賞の与え方は問題があったようで・・・
すべての武士を満足させられるほどの恩賞が与えられてはいませんでした。
不満を持った武士たちが、直義につき、高師直との対立を深めたのです。
唐居jの武士たちにとって領地の与えられる恩賞は、何よりも重要でした。
そのため、恩賞次第で誰につくかを決めていました。
さらに直義は師直が論功行賞まで口を出すことにいら立っていました。
そんな中、直義の腹心だった上杉重能と、畠山直宗が直義が信頼を寄せる僧侶を使通じて師直の悪行を密告してきたのです。
師直がこんな暴言を吐いていると・・・
「天皇は、木や金で作った人形で十分・・・生身の天皇は、遠くに流してしまえ」
しかし、これは師直に嫉妬した二人のねつ造でした。
ところが直義はこれを信じてしまいます。

1349年6月、直義は上杉や畠山らと師直殺害計画を立てます。
それは、100人以上の兵を配し、師直を襲わせるというものでしたが・・・この計画は師直の知るところとなって計画は失敗に終わります。
すると直義は、兄である尊氏に直談判に・・・!!
尊氏は弟の言葉を信じます。
師直は執事を解任され、所領も没収・・・幕府から追放されてしまいます。
罷免されてからわずか2か月後・・・師直は5万を超える兵を率いて京に攻め入るというクーデターを決行します。
危険を感じた直義は、兄・尊氏の屋敷に避難するも、師直の軍勢に取り囲まれてしまいます。
師直は、自分を陥れた上杉重能と畠山直宗の身柄の引き渡しを要求・・・

すると尊氏は・・・
「わしに指図するのか??
 家臣に強要されて下手人を出した先例などあるものか?!
 そんなことをするくらいなら討死じゃ!!」
激高する尊氏を何とか治める直義・・・
そして腹心である上杉と畠山を越前国に流罪にし、自身も政務から引退することを師直に約束し、事を治めたのです。
師直のクーデターは、対立する忠直の政務引退という当初の要求以上の大成功を治めます。
しかし、師直はそれにとどまらず、中国地方を統治していた直義の養子・直冬にも兵を差し向けたのです。
ただ冬はそれに屈し、九州へと逃れます。
さらに師直は、越前に流されていた上杉と畠山を殺害させたのです。

九州へと追いやられた直冬は、尊氏の実の子でした。
ところが身分の低い側室から生まれた子であったためか、尊氏に疎まれ、実の子として認められないなど冷たく当たられていました。
それを見かねた直義は直冬を養子にし、可愛がっていました。
それなのに・・・自分だけでなく直冬まで追いやられるとは・・・!!

1349年8月21日、高師直は、再び執事に返り咲きました。
その2か月後・・・身を引くことになった直義の跡を継いで政務に綾ることとなったのは、尊氏の子・足利義詮でした。
正式な引継ぎを終えると直義は出家し、粗末な家でひっそりと暮らしたのです。
ところが、黙っていなかったのが直義の養子・直冬でした。
九州で味方を募り、勢力を拡大!!
1350年9月、直冬が反幕の兵を挙げます。
10月16日、足利尊氏は直冬討伐を決意!!

自ら兵を率いて28日に師直と共に九州に向け京を出発することに・・・
その2日前・・・直義が密かに京を出ているという知らせが舞い込みます。
師直は、直ちに尊氏に進言します。

「悪い予感がいたします。
 あちらも兵を挙げるやもしれませぬ。
 出陣を取りやめ、直義殿を探した方がよろしいかと・・・」by師直

「予定通り出陣じゃ!!」by尊氏

尊氏は直義のことなど気にも留めていませんでした。
出家した直義に味方する武将などいないと思っていたのです。
それは尊氏の判断ミスでした。
直義は京を出ると石川城へ・・・次々と味方を集めていたのです。
打倒師直!!
各地の武士が次々と挙兵!!
中には師直の恩賞の与え方に不満を持っていた尊氏派の武将もいました。
さすがの尊氏も無視できなくなり・・・直義はさらに禁じ手を・・・!!

河内国に入った直義が向かったのは、幕府と対立していた南朝!!
直義は軟調に和睦を申し入れたのです。
直義は、南朝と手を組むことで、その権威と戦力を利用して尊氏と師直に対抗しようとしたのです。
直義の申し出に南朝では激論が交わされましたが、ここで直義と手を組むことが南朝復活のきっかけになると考えました。

直義が南朝と手を組んだことで、武士たちが直義側にもつくことに・・・
1351年1月7日、直義軍は、京の石清水八幡宮を占拠、師直討伐の準備にかかります。
観応の擾乱の幕開けです。
直冬討伐のために京を出発していた尊氏と師直でしたが、直義が南朝と手を組んだことを知ると急いで戻ります。
1月10日には、山城国山崎に着陣。
15日には義詮も合流します。
しかし、形勢が直義軍に傾くと、尊氏・師直軍は寝返り始めました。
尊氏たちはますます追い込まれることに・・・



そんな中、1351年2月17日、摂津国新出浜で直義軍と尊氏・師直軍が激突!!
尊氏・師直軍は、直義軍に完膚なきまでに叩きのめされるのです。
観応の擾乱第一章は、直義軍の勝利でした。
ところがこの時、戦場に直義の姿がありませんでした。
遠く離れた石清水八幡宮で傍観していました。
直義は師直を粛正し、排除するのが目的で、尊氏と敵対するつもりは全くなかったのです。
2月20日、尊氏と直義の和睦交渉が行われました。
尊氏は和睦の条件として師直の出家を提案し、直義はそれを受け入れます。
その4日後、師直は出家・・・京に帰る途中で斬殺されてしまいます。
犯行に及んだのは、かつて師直に貶められた上杉重能の息子の軍勢と言われています。
差し向けたのは直義だったともいわれています。
1351年2月26日、幕府のNo,2、高師直死去。
その死はあまりにも酷いものでした。

兄・尊氏と和睦を結んだ直義は、尊氏の子・義詮の補佐として幕府に復帰します。
直義の養子・直冬も、幕府の一員となり九州の統治を任されます。
すべて思い通り・・・安堵したのもつかの間、誤算が生じていきます。

直義の誤算①南朝との和睦
南朝との和睦交渉が行き詰まります。
直義は和睦の条件として南朝と北朝がそれぞれ交互に天皇を出し合い一つの朝廷にする・・・ところが、南朝はこれを断固拒否!!
5月15日、5か月に及んだ和睦交渉決裂!!
この交渉失敗によって、直義は幕臣たちからその政治力を疑問視され、信頼を失います。

直義の誤算②恩賞の権限
尊氏に恩賞充行権を残していました。
敗者であるにもかかわらず尊氏は・・・
「わしに従った武士への恩賞を最優先にすべきであろう」と言ったのです。
尊氏は将軍として恩賞を広く与えれば、直義に味方した武士も自分のもとに戻ると考えたのです。
恩賞を与える権限だけは死守したかったので、直義に対して強気に出たのです。
武士に十分な恩賞を与えて満足させないと、自分に従ってくれないことを尊氏は思い知ったのです。
直義の目的は、師直の排除と直冬の容認にありました。
擾乱以前の体制に戻すことを望んでいたので、恩賞充行権を取り上げなかったのです。
しかし、この判断が直義を追いつめていきます。

尊氏は、勝った直義側の恩賞よりも、負けた自分の武士の恩賞を優先します。
直義は自分の配下の者にも平等にというものの・・・それは叶えられませんでした。
勝利に貢献したにもかかわらず、満足に恩賞を与えられなかった武士たちは大いに失望します。
彼らまで直義から離れていきました。

さらに直義の誤算は続きます。
直義の誤算③義詮の反発
義詮が強く反発するようになります。
義詮は補佐の直義が自分の立場を奪いかねないと畏れます。
一説に義詮は自分を将軍に・・・とした高師直に恩義を感じていたので、直義を恨んでいたともいいます。
義詮は土地の所領に関する政務、土地の訴訟をめぐる裁判を管轄する直義に対し、御前沙汰という裁判機関を新しく設けます。
義詮は土地の問題に関して独自に対応したのです。
直義とは別の方法で・・・!!
所領争いの裁判は、元々土地を持っていた寺社側が、代わって土地を得た武士側を訴えるのが殆どでした。
直義は双方の言い分を聞き、吟味して裁定していました。
しかし義詮は寺社側の訴えのみを聞いて裁定。
裁判のスピード化を図ったのです。
これに喜んだ寺社側も直義から離れていき・・・幕府内で孤立を深めていきます。

相次ぐ誤算によって信頼を失った直義・・・
7月19日、直義は尊氏に対し、政務からの引退を申し入れます。
尊氏は直義を説得し、引退だけはとどまらせたものの・・・直義に、政治に対する熱意や意欲はありませんでした。
同じころ・・・南朝が幕府から寝返った武士たちを取り入れたことで力を盛り返し、各地で挙兵したのです。
尊氏は南朝軍を討伐する為に京を出陣!!
多くの武士たちが付き従いました。
そのため、直義は留守を任されることとなりましたが・・・不可解な行動に出ます。
深夜、京を出て北陸へ向かいます。
どうして京を離れたのでしょうか?
直義は、兄・尊氏の出陣は南朝を倒すためではなく自分を包囲する為に、殲滅する為に出陣したのだと考えたのです。
夜陰に乗じて京を出たのです。
それは、直義の誤解ではなかったか??
直義と南朝の講和(和睦交渉)の失敗により、全国各地の南朝方の武士が挙兵したのです。
南朝の武士を討つための尊氏の挙兵を直義は自分を討つためだと誤解したのです。

尊氏は使者を北陸に送り、直義に戻ってくるように説得します。
しかし・・・尊氏の説得にもかかわらず、直義は帰ってきませんでした。
そのうち・・・全国の武士が高氏派、直義派に分かれて、各地で戦乱をおこします。

おさまれと わたくしもなく 祈るわが
    心を神も さぞ守るらむ      by尊氏

闘わなくてもいい相手でした。
早く戦いが終わってほしい・・・

しかし、9月12日尊氏と直義の和睦が成ってからわずか7か月後・・・再び戦うことに・・・!!
二人は琵琶湖の北東にある八相山で激突!!(八相山の戦い)
地の利を得た武士がいた尊氏軍が勝利します。

10月2日、近江国錦織興福寺で和睦交渉を行います。
話し合いは決裂・・・尊氏は・・・??
南朝との和睦交渉を始めます。
敵対していた尊氏に南朝は困惑・・・しかし、尊氏が、今後天皇は南朝の皇族からのみ即位させると提案したことで話はまとまります。
どうして南朝と手を組むことに・・・??
尊氏は直義が失敗した南朝との和睦を実現することで、直義と和睦するつもりだったのです。

11月3日、尊氏の子・義詮が幕府の使者となり、南朝との和睦を締結。
その内容はおおむね尊氏の提案でしたが・・・尊氏は不満を露にします。
そこには、直義を追討せよという文字があり、義詮がその条件を受け入れてしまったのです。
しかし、この条件で南朝との和睦が成立・・・
11月4日、尊氏は京を出発・・・弟直義追討の兵を挙げるのです。

義詮は直義を武力で倒すため、尊氏と共に出陣を希望していました。
尊氏はすべて断っています。
義詮を連れて行くよりも単独の方が直義と和睦できる余地があると考えていたのです。
最後の最後まで、講和を諦めていませんでした。

直義は・・・??
北陸を経由して鎌倉に向かっていました。
11月15日、配下の武士・上杉氏の本拠地・鎌倉に到着。
11月29日、駿河国薩埵山に尊氏軍が3000の兵で布陣!!
大軍を率いて直義も鎌倉を出発し、尊氏軍を包囲します。最後の決戦・・・!!
そこに、直義の姿はりませんでした。
直義は伊豆国府に籠り、そこから一歩も動こうとはしませんでした。
この時直義が読んだ歌が・・・

暗きより 暗きに迷う 心にも
       離れぬ月を 待つぞはかなき   by直義

どうして兄と戦わなくてはならないのか?
どうしてこんなことになってしまったのか?
兄と戦うことはできませんでした。
そして尊氏もまた・・・薩埵山に布陣したまま動こうとはしませんでした。
そんな中、義詮は関東の武士たちに使者を送り、味方になるように促します。
12月15日、これに下野国の宇都宮氏が挙兵し、尊氏側につきました。
一気に直義軍が劣勢に立たされ撤退・・・。
1352年1月・・・直義降伏・・・ついに観応の擾乱第二章は、尊氏軍の勝利に終わります。

鎌倉浄妙寺・・・兄・尊氏との戦に敗れた直義はこの寺に幽閉されることに・・・
直義の体調は悪化・・・
2月26日、奇しくも高師直を暗殺してからちょうど1年後・・・直義は46歳でこの世を去ったのです。
この時、兄尊氏はまだ鎌倉にいました。
戦後処理のために鎌倉に腰を落ち着け、東国の統治に専念することにしたからです。
しかし、弟の最期に立ち会ったのか・・・??それはわかっていません。

室町幕府を二つに引き裂いた観応の擾乱・・・後の幕府を大きく変えます。
積極的に武士に恩賞を与えるようになりました。
武士の室町幕府への忠誠や支持が強まり、政権の基盤が強化されました。
南北朝の争乱が集結し、室町幕府の覇権が確立する意義のある戦乱でした。

全国規模で戦ったことで、武士の数が増加!!
江戸時代まで続く武士中心の世界は観応の擾乱から始まったといえます。



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