日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: にっぽん!歴史鑑定

鎌倉で長い歴史を誇る鶴岡八幡宮・・・
この境内に、雄々しく凛とした社があります。
白旗神社・・・祀られているのは、鎌倉で日本初の武家政権・鎌倉幕府を開いた源頼朝です。
武家の頂点を極めた頼朝・・・その人生はまさに波乱万丈でした。
どうして流人から将軍になれたのでしょうか・・・??

流人から武士の頂点となった源頼朝・・・どうやってそこに至ったのでしょうか??

①1159年 平治の乱

1143年、頼朝は源氏を束ねる武家の棟梁源義朝の子として京の都で生まれたと言われています。
三男でしたが、嫡男として育てられます。
それは、母親の家が名門貴族の藤原家の血をひき、熱田神宮の宮司をしていたことで、二人の兄の母より家柄や地位が高かったからです。
血筋に恵まれたこと、父・義朝が後白河上皇の近臣・藤原信頼の信頼を得ていたこともあって、頼朝はわずか12歳で後白河上皇の姉・上西門院統子に仕えることになります。
その翌年の1159年、蔵人に就任・・・宮中の全ての事務、行事に関する職で、出世の登竜門でした。
そして、同じ年、頼朝は13歳で初陣を果たします。
それが平治の乱!!
父・義朝が、朝廷の実権を握ろうとした藤原信頼と共に起こした内乱です。
武家のライバル平清盛が熊野詣で京の都を留守にしていたすきに、後白河法皇の屋敷を襲撃・・・
上皇とその息子である二条天皇を幽閉したのです。
このクーデターにより、父・義朝は受領の最高峰の播磨守に・・・
初陣を飾った頼朝は、右兵衛権之佐になりました。
これは、源氏にとって大きな意味を持っていました。

右兵衛権佐は、朝廷の有力者の子弟が任命される地位で、官位が四位以上の者が命じられることが多かったのです。
当時まだ従五位下であった頼朝が命じられたことは、源氏の家柄が非常に上昇していたことを表しています。
父・義朝たちの目論見は、うまくいったはずでした。
ところが・・・クーデターを知った清盛が、急遽京の都に戻ってきました。
清盛の挙兵によって、後白河法皇と二条天皇が脱出・・・
これによって、義朝たちは一変・・・賊軍となってしまいました。
そして、清盛の武力の前に惨敗・・・父・義朝は敗走中に謀殺されます。
父とはぐれた頼朝は・・・??
平家方に捕らえられてしまいました。
元服していれば処刑される・・・頼朝も、その例にもれず処刑されるはずでした。

清盛の母である池禅尼が亡くした子供に似ているからと命乞いをしたと言われていますが、元服して戦に臨んだ敗軍の武士が処刑されることを武士の妻である池禅尼が理解できないはずはありません。
亡くした子供に似ているから・・・ではなく、頼朝の助命嘆願は圧力をかけられていたからです。
その圧力とは・・・上西門院統子と後白河法皇でした。
頼朝の母の一族に助命を懇願されたので、池禅尼に圧力をかけたのだと思われます。

1160年3月11日、頼朝は京の都を追われ、伊豆の伊東に流されます。
その身は、平家方の有力豪族・伊東祐親の監視下におかれるも、ある程度の自由は認められていました。
損なる人生活が十数年続いた頃・・・
頼朝は伊東祐親が上洛している間に、祐親の娘・八重姫と恋仲になり、男の子・千鶴丸を設けてしまったのです。
これを知った祐親は激怒!!
娘と頼朝を引き離したばかりか、なんと千鶴丸を殺害してしまったのです。
さらにその後、頼朝の暗殺まで計画・・・頼朝に再び命の危険が迫ります。

この危機にすくいの手を差し伸べたのが、祐親の次男で暗殺計画に反対していた伊東祐清です。
その祐清の手引きによって、頼朝は辛くも伊東から脱出。
蛭ヶ小島にうつるとその在庁官人だった北条時政の保護を受けることに・・・
その後、31歳になった頼朝は、時政の娘・政子と結婚。
1178年娘・大姫が生れました。
流人でありながら、おだやかな生活を手に入れたのです。
そんな中でも胸の奥には武士としての滾るものがありました。

「いつか・・・父の仇・清盛を討つ!!」by頼朝

しかし、”平家にあらずんば人にあらず”と言われるほど、清盛を中心とした勢いは増すばかり・・・
頼朝は、伊豆に流されてから20年を過ごすことになります。
流人である頼朝には、武力も何もなく、周囲も清盛が平家を攻撃するとは思っていませんでした。
本人も、平家との立場の違いに、仇討ちを諦めていたのです。

「もはや・・・平家を討つことはかなわぬのか・・・??」by頼朝

流された伊豆の地で、父の仇である平家を討つと誓いながらも、20年・・・勢力を増す平家に挙兵できていませんでした。
そんな中・・・
1180年4月、平家の権勢を良しとしない後白河法皇の皇子・以仁王が挙兵に動きます。
全国の武士に、平家を討つために立ち上がって欲しいと願ったのです。
その知らせは、伊豆にいる頼朝のもとにも届けられました。
遂に、平家に一矢報いることができる・・・!!はずでした。
ところが、以仁王の乱は、平家の知る処となって鎮圧・・・
平家の今後の出方と反平家の武士たちの動向を見極め、頼朝はどう動くのか??慎重に考えました。
頼朝は伊豆周辺の状況を見ながら、虎視眈々と味方集めをしていきます。
以仁王の乱の後、それまで源氏の一族が治めていた伊豆の国の知行国主の座に平時忠がつきます。
平家による支配が色濃くなったことで、北条氏を含む伊豆の武士たちは反発!!
頼朝はそんな彼らを味方に取り込んでいきました。
さらに・・・相模・上総は後白河法皇の知行国でした。
それが平家が知行するようになり、後白河法皇の知行国の武士たちは圧力を受けるようになったのです。
頼朝はそうした平家の圧力に不満を抱く、相模や上総の武士たちにも目をつけます。
すぐに相模に腹心を派遣し、味方に引き入れることに成功します。

「ついに・・・機は熟した!!」

②1180年 源頼朝挙兵

8月17日、頼朝は平家打倒の狼煙を上げます。
しかし・・・相模国の石橋山で、平家方の大庭景親軍と激突するも、圧倒的な兵力差で惨敗を喫してしまいます。

「まだ、兵が足りぬか・・・!!」

そこで頼朝は、更なる味方集めに奔走します。

「平家によって幽閉されている院(後白河法皇)を共に救おう!!」と。

後白河法皇のためという大義名分が功を奏したのか、上総、下総の有力武将が頼朝の味方に・・・
更には、平家に不満を持っていた関東各地の有力武将たちもが次々と合流・・・平家方の武将を倒していきました。
すると、その形勢に平家方の武将の中にも頼朝に下る者たちが現れます。
こうして頼朝は、流人ながらも強大な軍団を作り上げることに成功します。
10月6日、源氏ゆかりの地鎌倉に入り、本拠地とします。
石橋山での敗戦から、わずか1月後のことでした。
頼朝は、行きつく暇もなく、京から送り込まれている大軍を迎え撃つべく出陣!!
黄瀬川沿いに布陣し、富士川の近くに陣を構えた平家軍と対峙します。
富士川の合戦です。
両軍に走る緊張・・・ところが・・・
10月20日未明・・・一斉に飛び立った水鳥の羽音を、源氏軍の紀州と勘違いした平家軍が、慌てふためいて逃げて行ったのです。
戦わずして勝利した頼朝は、実質的に関東を支配することとなりました。
頼朝は、平家という共通の敵を作り、勝ったら平家の所領を与えることにしました。
そうやって武士たちを繋ぎとめていたのです。
この新恩給与を朝廷にも認めさせ、後の地頭という制度につなげていきます。
頼朝に従っていた武将たちは、やがて御家人となり、頼朝と御家人との間には、「御恩と奉公」という関係が生れ、これが鎌倉幕府を支える基本となっていきます。
20年間流人として生きてきた頼朝には、東国の武士たちが何を望んでいるのか・・・それを知っていたからできたことです。

この合戦後、運命的な出会いをすることとなります。
腹違いの弟・義経との初体面です。
平時の乱の混乱のさ中に生れた義経は、幼いころに京の鞍馬寺に預けられるも、打倒平家を胸に京の都を脱出、奥州・平泉へ・・・!!
藤原秀衡の庇護を受け、武士として立派な成長を遂げていました。
そして・・・義経は、兄の挙兵を聞きやってきたのです。
二人は涙しながら語り合ったと言います。
こうして頼朝と義経は、力を合わせて打倒平家に邁進することとなるのです。

③1181年 平清盛死去

関東の武士たちを味方につけ、富士川の合戦で平家軍に勝利した頼朝は、鎌倉を拠点に実質的に関東を支配することになりました。
しかし、頼朝は平治の乱で平家に敗れて以来、いまだ朝廷に弓を引いた謀反人のままでした。
そこで、上洛して後白河法皇に近づき、どうにかして謀反人の立場をといてもらおうと考えていました。
その策は・・・平家の打倒と後白河法皇の救援と建前として上洛することです。
ところがそんな頼朝のもとに衝撃的な報せが・・・!!
平家を率い、強大な権力を有していた平清盛が熱病で急死したのです。

「なんと!!あの清盛が死んだ・・・??」

清盛の死で、頼朝の策は破綻します。
大黒柱を失った平家が政権を返上したことで、後白河法皇の院政が復活!!
頼朝が上洛する理由が無くなってしまったのです。



そこで頼朝は驚くべき策を・・・!!
源氏と平家の和平です。
頼朝は後白河法皇に書状を送り、こう申し入れます。

❶院(後白河法皇)への敵意はない
❷これまでの行動は、院の救済が目的
❸院が平家の滅亡を望まない場合は、朝廷の支配のもとで源氏が東国、平家が西国の治安維持を担当する

後白河法皇は、この頼朝の案に興味を示しますが、平家は猛反発します。
亡き清盛の遺言があったからです。

「かならずや我が墓前に頼朝の首を供えよ・・・!!」

結局、和平は結ばれませんでした。
しかし、これはすべて頼朝の思惑通りでした。
頼朝も、平家と和睦できるとは思っていませんでした。
この案を出すことで、後白河法皇の信頼を得ようとしたのです。
後白河法皇や朝廷の信頼を得るために、実現しないであろう和平工作を上奏したのです。
実際法皇は、突っぱねた平家に不信感を抱き、頼朝に近づいていきます。
こうして上洛への道筋を作った頼朝・・・その最終目的は、謀反人の汚名を雪ぎ、朝廷を守る唯一の官軍になること・・・しかし、横やりが・・・!!

④1183年 木曽義仲 上洛

それは、同じ源氏・いとこの木曽義仲が先に上洛。
平家を都落ちさせてしまったのです。
おまけに義仲は後白河法皇に面会、平家追討の宣旨を受けました。
一説にはこの時義仲は、頼朝を謀反人のまま据え置くように働きかけたと言います。
こうして後白河方法の信任を得た義仲が、頼朝より官軍として平家追討軍を率いることに・・・!!
頼朝は、上洛の機会を逸してしまいました。
ところが、義仲軍の兵士たちが、京の都で乱暴狼藉を働いたことで、後白河法皇が激怒!!
これを知った頼朝は、すぐさま後白河方法に使者を送り、如何に自分が法皇のために力を注いでいるのかをアピール・・・その苦労が実ったのか・・・

1183年10月9日・・・
頼朝は朝廷から謀反人の立場をとかれ、従五位下に任じられます。
14歳で伊豆に流されてから23年・・・37歳でようやく少年時代の官位に返り咲きました。
そして、この5日後・・・朝廷に認めさせたのが・・・

❶東国にある荘園の年貢や税は、頼朝が徴収して、朝廷や荘園領主におさめる
❷これに違反する者がいれば、朝廷は頼朝に追討を命じることができる

これにより頼朝は、名実ともに関東の支配権を得ます。
京の都では、後白河法皇や朝廷の信頼を失った木曽義仲を追討のため、頼朝の上洛を期待する声が・・・!!
その声に応え、頼朝が今日に派遣したのが弟の源義経でした。

1184年1月・・・
義経は宇治川の合戦で義仲軍と激突!!
見事、義仲を討ち取りました。
これで、ライバルがいなくなり、頼朝が平家追討の旗頭となったのです。

⑤1185年 平家滅亡

頼朝は平家追討のために、弟の義経を西国に派遣。
兄の期待に応えるように、義経は一の谷の合戦や屋島の合戦で奮戦し、平家を追いつめていきます。
そして、1185年3月・・・壇ノ浦の合戦で平家軍に勝利!!
頼朝の挙兵から4年半・・・ついに源氏が平家を滅ぼしたのです。

平家を滅亡させた功労者となった義経・・・
父も兄もなくしていた頼朝にとって、義経の存在は心許す唯一の存在でした。
そんな義経を、頼朝は自分の子として迎え入れ、後継者にしようとしたほどでした。
ところが・・・頼朝は、次第に義経と対立を深めていきます。
1184年8月6日、義経は法皇から左衛門少尉を与えられ、検非違使の職を宣旨られます。
義経は、源氏の権威が上がったと、兄頼朝も喜んでくれると思いました。
しかし・・・平家追討に対する恩賞を誰に与えるのかは、自分が申請すると朝廷に申し出ていた頼朝は、自身の許可を得ず官職をもらった義経に激怒!!
これが、頼朝と義経の対立の原因だと吾妻鏡には書かれています。
しかし・・・頼朝は、義経が検非違使になった後も、後白河法皇との取次などを任せています。
むしろ、頼朝は義経を検非違使に推挙していた可能性もあるのです。

⑥1189年 源義経 追討

血を分けた兄弟である頼朝と義経・・・
二人はともに平家打倒の宿願を果たしましたが、その後激しく対立!!
頼朝は実の弟である義経を死に追い込んでいくこととなります。
どうして頼朝は弟の義経を追討したのでしょうか?

通説では、頼朝は自分の許可も得ずに検非違使の職をもらったことに激怒し、二人の対立の原因とされてきました。
義経の検非違使就任は頼朝も了承していた可能性があります。
問題だったのは、義経が検非違使の職にとどまり続けたことだったのでは・・・??

対立の理由
❶検非違使留任問題
頼朝は平家追討の勲功として義経に伊予守の官職を与えるように推挙していました。
京の都の治安を守る検非違使は、京に留まる必要があります。
しかし、伊予守などの受領は、必ずしも現地に行く必要がありません。
頼朝は義経を伊予守に就任させ鎌倉に呼び戻し、自分の近くに置いておこうと考えていました。
ところが、義経は、伊予守の職をもらった後も、辞任しなければならない検非違使に留任し、京の都に居続けたのです。
これに頼朝は腹を立て、二人の仲に決定的な亀裂が生じたのです。
頼朝は、自分の軍が朝廷を守る唯一の官軍になることを目指していました。
しかし、義経は検非違使として京に留まることで後白河法皇の直属軍になる可能性がありました。
義経の検非違使留任が、頼朝軍を唯一官軍にする大きな妨げとなったのです。

❷後継者問題
弟義経との初体面から2年・・・
1182年8月に頼朝の嫡男・頼家が誕生。
我が子を跡継ぎにしたい頼朝は、弟・義経の存在を疎ましく思うようになっていきます。
義経が源氏の後継者となり、よりいrが退けられることを頼朝は恐れていました。
下手をすれば、源氏が二つに分裂し、頼朝が築いた権力が消滅する危険性があったのです。
頼家を後継者にする弊害となり、源氏内の派閥闘争の火種となる義経を排除したかったのです。

1187年、義経が藤原秀衡を頼って平泉に到着。
一方、頼朝は義経追討の宣旨を受けます。
しかし、秀衡の強大な軍事力を前に、頼朝は手を出せずにいました。
ところが・・・10月29日、秀衡は病死。
頼朝は義経追討に動きます。秀衡の後継者である泰衡に圧力をかけ、義経と奥州藤原氏の分裂を画策。
泰衡は家を守るために義経を攻撃することに・・・!!
追いつめられた義経は・・・
1189年4月30日、義経自害!!
その後、頼朝は平泉に兵を送り込んで、強大な力を有していた奥州藤原氏を滅ぼすのです。
これで敵対する武家勢力は消滅・・・頼朝は遂に武家政権の頂点に立ったのです。

⑦1192年 頼朝 将軍就任

弟である義経や、奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、1190年11月7日、上洛。
一千騎の兵を従えて堂々たる行列で京の都に戻ってきました。
14歳で都を追われてから30年の月日が経っていました。
この時頼朝は武官の最高位・右近衛大将に任じられ、名実ともに武士の最高位に上り詰めるのですが・・・
わずか9日後に辞任して鎌倉に帰ってしまいました。

右近衛大将は、朝廷の政務、儀式への参加が主な仕事・・・京の都に絶えずいなければなりませんでした。
頼朝は拠点とする鎌倉で体制を盤石にすることを優先しました。
頼朝は、鎌倉にいても務まる権威ある官職を朝廷に求めます。
そうして2年後、朝廷から賜ったのが・・・
1192年、征夷大将軍・・・46歳でついに流人から将軍となりました。
その3年後、頼朝は再び上洛。
妻・政子、嫡男・頼家、娘・大姫らを引き連れてのことでした。
頼朝は、娘の大姫を、時の後鳥羽天皇の妃にしようと考えていました。
朝廷の有力者に大姫を紹介し、後鳥羽天皇との縁談を取り持ってもらおうと・・・
大姫を入内させ、男子が生れればそれは天皇・・・源氏は天皇の外戚となり、強大な権力を得ることができます。
大姫を嫁がせることで、源氏と北条氏の権威が上がると頼朝は考えていました。
源氏と北条氏が天皇の縁戚となり、高い権威を持つことで、幕府の安定を図ろうとしたのです。

ところが・・・入内を待たずに娘の大姫は入内を待たずに病死・・・。
20歳だったと言われています。
かなしみいえぬままに大姫の代わりとしてその妹の入内計画を始めますが・・・
最後の願いはかなわず・・・
1199年正月13日、源頼朝、53歳で病死。
志半ば・・・波乱に満ちた生涯でした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

源頼朝-武家政治の創始者 (中公新書)

新品価格
¥990から
(2020/1/12 09:19時点)

源頼朝はなぜ運命を逆転できたのか ―令和日本に必要な「武士(もののふ)の精神」― (OR BOOKS)

新品価格
¥1,540から
(2020/1/12 09:19時点)

1582年・・・天正10年6月2日・・・京都・本能寺に宿泊中の織田信長を、明智光秀が急襲・・・!!
信長を自害へと追い込みました。
光秀は、そのまま近くにいた信長の嫡男・信忠も襲撃し、死に追いやりました。
本能寺の変・・・未だ、様々な謎が残る、戦国史上最大のミステリーです。
この謀叛には、数少ない生き証人がいます。
その男の名は弥助・・・弥助は、光秀の襲撃、信長の自害、信忠の自害まですべてを目の当たりにした歴史の目撃者なのです。

①なぜ信長の遺体は見つからなかったのか・・・??
弥助は、身の丈6尺以上(190cm)の大男で、十人力の怪力の持ち主と、信長公記には書かれています。
イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが上司に宛てた書簡には「イエズス会日本年報追加」には、本能寺の変における弥助の行動が書かれていました。

”信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き相当長い間戦っていたところ、明智の家臣が彼に近づいて恐るることなくその刀を差し出せといったので、これを渡した”

弥助は、イエズス会から信長への贈り物でした。

159年7月・・・本能寺の変の3年前・・・
イエズス会の船が、島原半島の口之津に入港しました。
その時、宣教師ヴァリニャーノの従者として降り立った一人が弥助でした。
信長公記によると・・・
”年の齢二十六、七と見えたり
 その身の黒きこと牛のごとし
 彼の男 健やかに器量なり”
アフリカのモザンビーク出身と言われる弥助は、奴隷として買い取られ、インドのゴアで宣教師の護衛兼荷物持ちとなった事がわかっています。
更に弥助には大きな役目がありました。
宣教師たちは物珍しさが好きな日本人のために、黒人を「人寄せ」に使っていました。
当時、日本では黒人の人気は相当なもので、布教をしていた宣教師はこう書いています。
”日本人は極めて新奇なことを喜ぶ
 彼らは黒人を見るためにお金を払うだろうから、それを監督する者は短期間で金持ちになるだろう”
イエズス会は、黒人を日本に連れてくることで、日本人の心をつかもうとしていたのです。

1581年、弥助は宣教師に連れられて、京都に来ました。
弥助の噂は瞬く間に広がり、弥助を一目見ようと大勢の人が押しかけました。
見物人同士の喧嘩でけが人が出るほどでした。
その騒ぎを聞きつけた織田信長が、弥助を連れてくるように命じます。

1581年2月、信長と面識のあった宣教師オルガンティーノは、弥助を伴って信長との謁見に臨むこととなります。
信長は当時、畿内を中心とした強力な政権を確立、イエズス会は信長を日本の実質的最高権力者と見なし、信長に取り入ることでキリスト教の布教と庇護を確実にするという目論見がありました。
この時弥助をはじめてみたときの信長の反応は・・・??

”信長は大いに喜んだものの、愉しませるために我らが墨を塗ったのではないかと考え、男の肌の色が生来の者であると信じなかった
 しかしながら、帯から上の着物を脱がせて検分した後は、信長もようやくこれを納得した”

弥助の漆黒の肌に驚いた信長は、肌をこすったり引っかいたりしました。
それでも肌の色が変わらないとわかると、やっと黒い肌を認めたといいます。
片言の日本語が喋れるとわかった信長は、矢継ぎ早に質問をしたといいます。
数日後・・・弥助の主人ヴァリニャーノも信長に謁見します。
そこで弥助の運命が一変!!当時珍しいクリスタルガラスなどを献上したところ、弥助の献上も申し出たのです。
弥助を気に入っていた信長は、この申し出を受け入れました。
しかも、単なる従者としてではなく、弥助を侍として取り立てたのです。
信長公記によると・・・
”弥助は安土城の城下町に従者付きの住居を与えられ、さらに身分に相応しい衣服と武具も与えられた”とあり、正式な家臣となっていました。
こうして弥助は、日本初の外国人侍となったのです。
本能寺の変のわずか1年3か月前のことでした。

1582年6月1日・・・
天下統一を目指す織田信長は、羽柴秀吉の毛利攻めの援軍に向かうために、京都本能寺に宿泊していました。
当時の本能寺は、東西140m、南北270mの広大な敷地と大伽藍を有していました。
しかし、信長が連れていたのは僅かな手勢のみでした。
従者のうち戦力となるのは弥助を含め、30人ほどでした。
そして翌、6月2日未明・・・
信長と同じく秀吉の援軍に出立するはずだった明智光秀が、1万3000の兵で本能寺を包囲!!
只ならぬ喧噪で目を覚ました信長は、当初、従者たちの喧嘩だと思ったといいます。
しかし、小姓の森蘭丸が、明智光秀の謀反であると告げると・・・

「是非に及ばず」

と覚悟を決めたのです。

鬨の声を上げ攻撃を仕掛ける明智の軍勢、それでも信長は弓を次々と放ち、弦が切れると槍を突き立てて敵をなぎ倒しました。
弥助も主君の首をとらせてなるものかと必死に応戦!!
しかし、兵力の差は歴然・・・状況を打破するには至りませんでした。
そして、雑兵によって深手を負わされた信長は、もはやこれまで・・・と観念・・・
一説によると奥に誰も通さぬよう命じ、燃え盛る本能寺で自害し、果てたといわれています。
49歳でした。
問題はこの後・・・襲撃後、明智軍は信長の遺体を探します。
しかし、それらしき遺骨すら見つけることができませんでした。
信長の遺体はどこに消えたのでしょうか?
それが、本能寺の変おける長年の謎でした。
その謎を解くカギを握っていたのは弥助でした。

森蘭丸が、信長の首を切り落とし、弥助が本能寺から持ち出すことを任されていた・・・??
戦国の世では、首をとることが戦に勝った事の証・・・
首が見つからなければ、光秀は信長を討ったとは証明されず、大きな打撃となります。
弥助に首を持って本能寺を脱出した・・・??
明智軍をどうやって突破したのか??

信長の死後の弥助の行動は・・・??
本能寺の近くにあった阿弥陀寺に残されています。
本能寺の変の頃、阿弥陀寺の住職をしていたのは清玉上人です。
清玉上人は、幼い頃信長の兄・信広に命を救われ、その後織田家に家族同然に育てられた織田家とつながりの深い人物でした。
そんな清玉上人の本能寺の変当日の行動を書いたものが「信長公阿弥陀寺由緒之記録」です。
そこには・・・
本能寺の変の知らせを受けた清玉上人は、大いに驚き、仲間の僧侶20人ばかりと一緒に信長のもとに駆け付けます。
なんとか寺の裏側から寺に入ると、既に信長は切腹した後・・・
墓地のやぶの中で、10人ほどが火葬をしていました。
話を聞くと、遺言通り信長の首を持ち出そうとしたものの、四方を明智軍に囲まれているので仕方なく火葬しているとの事・・・
この火葬を行っていた家臣の一人が弥助・・・??
弥助たち家臣は、織田家にゆかりのある清玉上人なら信長の遺骨を託せる・・・と、あるものは再び明智軍に飛び込んで行ったといいます。
火葬を終えた清玉上人は、信長の遺骨を取り集め、自らが着ていた法衣に包みました。
そして、本能寺の僧侶のふりをして阿弥陀寺に持ち帰ります。
火葬し、遺骨にしていたので、目立たずに持ち運ぶことができたというのです。
清玉上人は、葬儀を行い、死を弔いました。
そのため、現在でも阿弥陀寺では信長の法要が毎年行われています。
墓地も存在しています。
弥助たち家臣が火葬し、清玉上人が遺骨を持ち去った可能性が高いと思われます。

本能寺の変の直後、京都と近江を支配下に置いた光秀は、織田家の武将たちの反撃に備えます。
その際、光秀は周辺の武将たちに味方になるように要請します。
しかし、信長の遺体が見つからないことで、信長が討たれた確証はなく、もし生きていた場合光秀に加担したことで攻め滅ぼされてしまう・・・と、ほとんどの武将が光秀の味方に付かなかったといいます。
その結果・・・
1582年6月13日、明智軍は本能寺の変を知り急遽引き返した秀吉の軍と山崎で激突し敗退・・・
光秀は、逃げる途中に落ち武者狩りにあい、本能寺の変からわずか11日後に命を落としました。
弥助と清玉上人の活躍が、光秀の三日天下につながったとも考えられます。

遺骨を上人に預けた弥助は・・・??

②なぜ信忠も巻き添えとなってしまったのか・・・??
本能寺と1.2キロのところに信忠が宿泊していました。

本能寺の変の当日、織田信長の嫡男・信忠は、京都にいないはずでした。
本能寺の変の3か月前・・・3月11日、織田家が長年争っていた甲斐の武田氏を滅ぼしたことで、信忠は功労者である徳川家康をねぎらうために堺に向かう予定だったのです。
しかし、父・信長が毛利と戦う羽柴秀吉の応援に向かうことになり、安土を出発したことを知った信忠は、急遽予定を変更し、信長を迎えようと京都にとどまったのです。
このように信忠が信長の顔色をうかがうのには理由がりました。
織田家の嫡男として小さい頃から帝王学を学んできた信忠は、父・信長と共に多くの戦に参戦し、自らも多くの功績をあげてきました。
1575年織田家の家督を継いで岐阜城へ・・・
美濃・尾張の二か国およそ100万石を治める大名に・・・正式に織田家の当主となったのです。
しかし、信忠に対する信長の評価は・・・

「信忠は、一見器用に見えるが、城持ち大名としては不器用だ
 もっと人が予測できないことをやらなければ合戦には勝てない」

と、極めて厳しいものでした。
信忠は19歳で織田家を継承しましたが、天下平定の実権は父・信長のもとにありました。
そんな中、信長が自らの後継者として信忠に並々ならぬ期待をしていました。
信忠にとっては、そのプレッシャーは、計り知れないものがありました。
その父・信長の重圧が、信忠を京都に止まらせてしまったのです。

1582年6月1日・・・
信忠は、本能寺にいる信長のもとを訪ね、酒を酌み交わしたといいます。
それが、父と子の今生の別れとなりました。
その僅か数時間後・・・本能寺の変が起きたのです。
信忠は、明智軍が本能寺を攻めたという知らせを妙覚寺で聞きました。
その信忠のもとへ弥助が駆けつけることに・・・
どうして弥助が向かったのか・・・??
明智急襲の知らせを聞いた信忠は、直ちに手勢500人を引き連れて、父・信長を救うべく本能寺に向かいました。
その途中で、信長の家臣で村井貞勝に遭遇します。
すると村井が、
「本能寺は明智勢に取り囲まれ、近づくことすらできません。」by村井
「となれば、もはや明智勢から逃げ切ることは出来ないだろう
 もし逃げられたとしても、雑兵に討ち取られては後世の物笑いになり、無念である」by信忠
「ならば、御所へお行き下さい
 御所であれば、光秀も攻め入ることはできないでしょう」by村井
「仕方あるまい・・・」by信忠

こうして信忠は、二条御所に向かい、籠城することになったのです。
一方、死を覚悟した信長は、一刻も早く京都から脱出の命を信忠に伝える必要がありました。
信長にとって最悪の事態は、自分と信忠が同時に討ち取られてしまうことでした。
織田家の当主である信忠が生きていれば反撃できる!!
そこで、信長が考えたのが、何とかして信忠を京都から脱出させることだったのです。
しかし、本能寺は光秀の軍勢に取り囲まれている・・・
どうやって伝える・・・??
信長は、十人力の弥助なら、明智軍を潜り抜け、自らの首と伝言を妙覚寺の信忠に届けられると考えたのかもしれません。
信長の命を受けた弥助は、信長の遺骨は清玉上人に託すことになりましたが、伝言だけは・・・と、命がけで妙覚寺に向かうこととなります。
その結果、弥助はなんとか信忠のもとにたどり着くことができました。

弥助は、織田家の当主だった信忠に、信長の死を報せ、京都から退避するように伝えるために、信忠のもとに向かったのです。
明智光秀が信長を討ち取ったのち、織田家当主の信忠は、弥助から父・信長の死と、京都を脱出せよという最後の命を受け取りました。
しかし、信忠が逃げようとした形跡はありません。
すでに、安全であったはずの二条御所も明智軍に包囲され、京都を脱出することは不可能だったのです。
それでも信忠は、明智軍と命の限り戦いました。
弥助も信忠を守ろうと応戦しますが、それも時間の問題でした。

信忠の最期について信長公記には・・・

「私が腹を切ったら縁の板をひきはがし、亡骸を床下に入れて隠せ」

こう言い残し、信忠は自決という名誉の死を選んだのです。
26歳の若さでした。

③光秀に謀反を起こさせた黒幕とは誰なのか・・・??

織田信長とその嫡男・信忠が自害し、明智光秀軍の勝利に終わった本能寺の変・・・
ここにもう一つの謎があります。
その後の弥助について、フロイスはこう書いています。

「明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差し出せと言ったので、これを渡した」

こうして弥助を捕らえた明智の家臣が光秀にその処分をたずねると・・・光秀はこう命じました。

「インドのパードレの聖堂に置け」by光秀

インドのパードレの聖堂とは、京都・南蛮寺・・・イエズス会の京都における本拠地のことです。
明智軍と戦った信長の側近・弥助をなぜか無罪放免・・・かつて従者として仕えていたイエズス会へ戻したのです。
どうして弥助は殺されることなくイエズス会に戻されたのでしょうか?

本能寺の変の後、光秀に味方する武将はいませんでした。
そこで、光秀が目をつけたのが、京都に近い高槻城主の高山右近でした。
右近はかつて信長によって弾圧された荒木村重の家臣だったことで、信長に反感を持っていると考えたからです。
光秀は、右近がキリシタン大名でもあったことから、宣教師を通じて書状を送り、味方になるように要請していました。
とにかく見方を作る必要があった光秀・・・
イエズス会と連携して、キリシタン勢の支持を得ようとしたのです。

こうした光秀とイエズス会との関係が、本能寺の変の前からあったという説があります。
そのきっかけとなったのは、信長のある行動でした。
ルイス・フロイスの「日本史」によると・・・

「安土山の寺院には神体はなく、信長は己自らが神体であり、生きたる神仏であるとし、彼の上に万物の創造主もないと言い、地上において崇拝されんことを望んだ」

信長は、自らが神になろうとしたのです。
安土城・・・の本丸に清涼殿という天皇を招く館を作りました。
しかし、この館の上に、信長のいる天守を置いたのです。
自ら天皇の上にたとうと・・・あらゆるものを超越しようと自らを神格化し、全く新しい権力構造を作ろうとしたのです。
この信長の野望は、キリスト教に忠実なイエズス会にとって絶対に許すことにできないものでした。
そして、そんな信長の絶対的権力に恐れを抱いたのが、信長の重臣・明智光秀でもあったのです。
当時光秀は、信長によって丹波・近江志賀郡などの領地を召し上げられ、出雲と石見を自ら攻略し、領土とするよう命じられていました。
このことから、打倒信長という点で、イエズス会と光秀の利害が一致、そのため、イエズス会が本能寺の変の黒幕だった・・・??

その結果か、光秀は本能寺に宿泊していた信長を襲い、自らの主君を自害に追い込むことになりました。
そして、この謀叛の一部始終を、イエズス会の宣教師たちは、本能寺のすぐ近くの南蛮寺から見届けていたのです。

「インドのパードレの聖堂に置け」・・・

つまり、弥助がイエズス会に返されたのは、光秀とイエズス会との密接な関係の証であった可能性があるのです。

イエズス会の思惑と、信長の野望・・・その狭間で、運命を翻弄されたのが弥助だったのかもしれません。
この後、弥助に関する記録は残っていません。
日本を離れ、モザンビークに帰ったのでは??と言われています。
しかし、イエズス会の報告書に気になる記述がありました。
本能寺の変の2年後、九州に黒人がいたことが記され、キリシタン大名であった有馬晴信の軍勢の大砲の使い手として活躍し、勝利をもたらしたというのです。
その黒人が弥助だったとしたら・・・九州のどこかで一生を終えていたのかもしれません。
本能寺の変の目撃者として全ての真相を胸に秘めたまま・・・。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍 [ ロックリー トーマス ]

価格:1,980円
(2020/1/9 16:50時点)
感想(1件)

「本能寺の変」はなぜ起こったか 信長暗殺の真実 (角川文庫) [ 津本 陽 ]

価格:638円
(2020/1/9 16:52時点)
感想(0件)

1582年6月2日・・・天下統一目前で織田信長が家臣・明智光秀の謀反で命を落とします。
本能寺の変です。
戦国の世を大きく変えたこの事件は、信長と光秀を取り巻く女たちの運命も翻弄しました。
光秀の娘・・・細川ガラシャもその一人です。

戦国の革命児・織田信長が、尾張の一大名から天下布武を掲げ走り出したころ・・・
1563年、細川ガラシャは武勇、教養を兼ね備えていた明智光秀の三女・玉として生まれました。
ガラシャとは、キリスト教の洗礼名です。
幼少の頃の玉の記録はありません。
歴史にその名が現れるのは、16歳で名門・細川家の嫡男・忠興と結婚した時です。
当時、二人の父・・・明智光秀(近江国)と細川忠興(山城国)は、織田信長の家臣した。
その婚儀を取り持ち、媒酌人を買って出たのが、主君・信長本人でした。
そこには信長の思惑がありました。
この頃の明智光秀は信長の重臣で、西を攻める・・・細川藤孝も援軍として、この二組を固く結びつけようとしていたのです。
京都府長岡京市・・・細川家の居城・勝龍寺城で婚儀が執り行われました。
誰もがうらやむ美男美女のカップルでした。
夫・忠興は玉の美しさに惚れ込み、手作りのカルタを作るなどして喜ばせ、夫婦仲は良かったといいます。
結婚した翌年には、長女・於長、その翌年には長男・忠隆が生れます。
そんな中、明智家は丹波国を、細川家は丹後国を見事平定・・・拝領し、順風満帆でした。
勝龍寺城での生活が、玉にとって一番幸せな時期でした。

玉は、美しいだけでなく、和歌、儒学、仏教にも精通していました。
才色兼備で、義父・細川藤孝も「一入 最愛の嫁」と絶賛していました。

1582年6月2日、結婚から4年がたった玉20歳の時・・・運命が急転します。
本能寺の変が起きるのです。
父・明智光秀が、主君である織田信長を討ったことで、謀反人の娘となってしまった玉・・・
これが悲劇の始まりでした。

ガラシャの悲劇①謀反人の娘

信長に謀反を起こした光秀は、すぐさま細川家に援軍を要請・・・
上洛し、味方に加わるように書状を送りました。
しかし、細川家が出した答えは非常なものでした。
「光秀は主君の敵」
光秀に味方することを拒んだのです。
当主の藤孝は、髻を切って息子・忠興に家督を譲ります。
主君信長への哀悼の意を示します。
昵懇であった実家と嫁ぎ先の対立・・・その狭間で苦しむ玉に・・・
織田家、細川家家臣たちから謀反人の娘・玉に対する離縁や自害を求める声があがります。

この時夫忠興が取った策とは・・・??

父を助けてほしい・・・愛する夫と一緒にいたい・・・そう願う玉・・・
夫・忠興に一縷の望みを託していました。
しかし、忠興は・・・「最早、共に暮らすことはできない」そう言って、玉を丹後国のはずれ味土野に幽閉してしまうのです。
明智軍記には、味土野に明智家の茶屋があったといいます。
忠興は、玉を実家ゆかりの地へ移すことで、様々な圧力から守ろうとしたのです。
そんな忠興の気持ちなど知る由もない玉は・・・
「(父上が)腹黒なる御心ゆえ
 自らも忠興に捨てられ
 微かなる有り様なり」と、認めています。
本能寺の変から11日後・・・1582年6月13日、山﨑の戦い
父、光秀は信長の家臣だった羽柴秀吉と戦い、惨敗・・・敗走する中、落ち武者狩りにあい落命・・・母や玉の男兄弟たちも命を絶ち、明智家は乱世に散りました。

玉は・・・数人の家老と侍女をつれ、陸の孤島で幼い子たちとも引き離され孤独の日々を送っていました。
この時、身籠っていた玉は、次男・興秋を出産。
そんな玉の支えとなっていたのは、身の回りの世話をしてくれていた清原いとという侍女でした。
このいとは、儒学者の娘で、玉の教養の高さは彼女の影響もあったようです。

秀吉の臣下となり武功をあげて行った細川忠興は、妻・玉の幽閉を解いてもらえるように秀吉に願い出ます。
秀吉は、あっさりと主君・信長の敵を許します。
この頃、秀吉自身は地位を不動のものとしていました。
徳川家康、織田信雄など周りに敵もいたので、忠興が自分の手足となって働いてくれるようにと思ってのことでした。
かつて大阪での大坂での屋敷のあった地に玉は戻ってきました。
しかし、その暮らしは幽閉生活よりも苦しいものでした。

ガラシャの悲劇②戦国一の美女
玉の幽閉中に側室を持ち、子まで成していた夫・忠興・・・たまに厳しく接します。
それは、かつての優しい夫ではありませんでした。
短気な忠興に、頑なになっていく玉の心・・・。
どうして忠興は玉に厳しかったのでしょうか?

”彼女に対して行った極端な監禁は、信じられぬほど厳しいものであった”byルイス・フロイス

そして出入りを逐一報告させました。
窮屈な生活を強いられていた玉・・・どうしてそんな必要があったのでしょうか?

理由❶謀反人の娘ということへの世間体を気にした
理由❷戦国一の美女だったので、忠興の過度の嫉妬がそうさせました。
     美しい妻が、他の男の目に触れることを嫌ったのです。

次第にふさぎ込んでいく玉・・・。
常に監視されている窮屈な暮らし・・・

玉を他の男の目に触れさせたくない・・・その心を最も駆り立てたのは、主君である秀吉でした。
忠興が秀吉の命で朝鮮出兵した時の事・・・
秀吉が九州の名護屋城に大名たちの妻子を招き、茶会を行うという噂を聞くと、忠興はいてもたってもいられず、玉に何度も手紙を送っています。
その中には歌も・・・

なびくなよ
  わが姫垣の
       女郎花
男山より
  風は吹くとも

女郎花とは玉の事、男山は秀吉の事・・・どんなことがあってもなびくなということです。
秀吉は女好きで有名で、留守見舞いとして家臣たちの妻を呼び寄せていました。
それであわよくば自分のものにしようと・・・そこを気にしていました。
そんな忠興に対して、こんな歌を返しています。

なびくまじ
   わがませ垣の
         女郎花
男山より
  風は吹くとも

そして茶会当日・・・玉はある覚悟をもって秀吉と謁見します。
秀吉の前に進み出て挨拶をした玉は、その懐からわざと短刀を落としたのです。
私に触れれば自害するという意思表示でした。
流石の秀吉もその覚悟を知り、そのまま帰したといいます。
とはいえ、自分の幽閉中に側室を持ったうえ、嫉妬・監禁というゆがんだ愛情表現・・・
玉の夫への不信感は強まっていきます。
そんな中でも、忠興のある話には熱心に耳を傾けました。
キリスト教の話です。
忠興は、親交の深かった大名・高山右近から聞いたキリスト教の教えを玉によく聞かせました。
何より自分の話を聞き、こちらだけを見てくれる・・・
玉の心を唯一引き止められる幸せな時間でした。

1549年、イエズス会の宣教師ザビエルによってキリスト教は伝えられました。
30年余りで全国に広まり、信者は15万人に達したといいます。
夫・忠興からキリスト教の話を聞かされた玉は、その教えに大きく心を動かされました。

「神の前では何人も平等であり、愛をもって接しなければならない」

玉は、教会に行き、もっと教えを聞きたいと思うようになっていきます。

ガラシャの悲劇❸キリシタン
厳しい監視の中、外に出ることのできない玉に、チャンスが巡ってきたのは1587年3月のことでした。
夫・忠興が秀吉の命を受け、九州討伐へ・・・!!
大坂の屋敷を離れたのです。
玉は、病気と偽り部屋に籠ると監視の目を欺き、侍女たちと屋敷を抜け出します。
向かったのは、天満の教会です。
玉は、日が暮れるまで宣教師にキリスト教の教えについて質問を繰り返しました。
玉に会った宣教師は・・・イエズス会日本通信にこう書いています。

”これほどの理解力を持つ聡明な日本女性を見たことがない
 明晰かつ果敢な判断ができる女性であった”

玉は、すぐに洗礼を受けることを望みましたが、かないませんでした。
細川家の素性を明かさない玉を、宣教師が怪しんだからです。
諦めて屋敷に戻った玉でしたが、その後、外出の機会がもどってくることはありませんでした。
そこで、どうしてもキリシタンになりたかった玉は、まず侍女・清原いとに洗礼を受けさせます。
そしてそのいとから洗礼を受け、ようやくキリシタンとなったのです。
洗礼名はガラシャ・・・ラテン語で神の恩恵という意味です。
玉という名から連想された”賜る”からつけられたといわれています。
この時、25歳でした。

どうしてガラシャはそこまでしてキリシタンになりたかったのでしょうか?
儒教の”三従の教え”から解き放たれたかったのでは・・・??
三従の教え・・・子供の時は父に、結婚してからは夫に、年老いたら長男に従うというものです。
女性は生涯男性にしたがうという三従の教えから解き放たれたかったのです。
そして三男の忠利が病弱だったため、その回復を願ったのだともいわれています。

キリシタンとなって充実な日々を送っていたガラシャですが、生きる希望となっていたキリスト教が、またもや悲劇を起こします。
1587年6月・・・九州を平定した秀吉が、キリスト教への入信および日本人奴隷の売買への禁止、宣教師の国外退去を命じる伴天連追放令を発布しました。

秀吉は、実際に九州に足を踏み入れて、キリスト教が強くなってきていることに気付いたのです。
長崎の出島をイエズス会が占拠している・・・!!
憤りを感じているところへ、日本人の男女が奴隷として東南アジアへと売られていったことを知ります。
そしてキリスト教徒の結束力の強さ・・・そこに信長が苦しめられてきた一向一揆と同じものを・・・結束力の恐ろしさを感じたのです。
秀吉のキリシタンに対する迫害は、次第に強くなっていきます。
大名たちにもキリスト教を禁止・・・破ったものは領地没収など厳しく接します。

秀吉がキリスト教への締め付けを強める中、ガラシャは娘や侍女たち、家臣たちにも洗礼を受けさせていました。
これに激高したのは九州から帰ってきた細川忠興でした。
忠興は、ガラシャの喉元に短刀を突き付け改宗することを迫りましたが、ガラシャは決して首を縦に振りませんでした。
そこで、忠興は、洗礼を受けた周りの者たちを攻撃し始めます。
キリシタンとなった侍女たちの髪を切ったり、鼻や両耳を削ぎ落され屋敷の外に追い出されるものまでいました。
忠興自身もキリシタンに共感している部分もありましたが、秀吉も伴天連追放令を出したことに従うほか、家を守れませんでした。
妻がキリスト教にのめり込んでいく・・・立場上許せませんでした。
ガラシャは、忠興との離縁を望むようになります。
侍女を通じて宣教師に相談するも・・・・キリスト教では離婚は禁じられているといわれます。
ガラシャは覚悟を決めて宣教師に手紙を書きました。

「どのような迫害を受けようとも、私の信仰はかわりません」

厚い信仰心で自らの人生に立ち向かう決意をしたガラシャでしたが、時代の大きな波にのまれようとしていました。
1598年8月18日、天下人・豊臣秀吉死去・・・
秀吉亡き後、天下を狙って暗躍する徳川家康と豊臣政権を守ろうとする石田三成が対立・・・
再び戦乱に・・・
徳川家康の東軍7万8000VS石田三成の西軍・8万4000!!
天下分け目の関ケ原の戦いが始まりました。
しかし、この大戦は、わずか半日で決着・・・!!家康の東軍の圧勝で終わりました。
この勝敗に大きく関係していたのが、細川ガラシャだといわれています。
関ケ原の戦いとガラシャの関係とは。。。??
関ケ原の戦いの3か月前・・・細川忠興を始め多くの大名たちが家康に反抗していた上杉討伐の為に会津へと向かいます。
大坂城下に残されたのは、夫を待つ妻たち・・・。
三成は、敵対する大名の妻子を大坂城内に人質にとる作戦に出ます。
人質として三成がどうしても欲しかったのがガラシャでした。
ガラシャを人質にすれば、妻を溺愛する忠興は必ず寝返りする・・・!!
そうなれば、他の大名たちの次々と味方に付くだろうと考えたのです。

7月16日、三成の使者が大坂城下の細川家の屋敷を訪れて・・・
「御上様(ガラシャ)を人質として差し出すように・・・さもなければ屋敷に押しかける」
この時、大坂に残った細川家の重臣たちが出した結論を、侍女が書き残しています。
”一人も人質なし”と・・・!!
絶対に人質になってはいけないというのです。
この判断の元、ガラシャは人質になることを拒絶!!
すると翌日・・・石田軍によって細川家は取り囲まれてしまいます。
危機が迫る中、ガラシャの脳裏によぎったのは夫の言葉でした。

「いざという時には、そなたも細川忠興の妻として自害するように。」

ガラシャは悩みます。
キリスト教では自殺は禁止されていました。
しかし、このままでは人質として捕らえられてしまう・・・
そうなれば、妻としての面目が立たない・・・!!
神への祈りをささげたガラシャは侍女たちを集め、自らの覚悟を話します。

「私はひとりで死にます。
 皆は逃げよ・・・!!」

そして、夫に宛てた遺言を託すのです。

「側室を正室代わりにされることはないように」

妻の意地を見せたガラシャに、最早迷いはありませんでした。
そして家老である小笠原秀清に言います。

「私の胸をその長刀で突きなさい」

自害せず、家臣に殺させることでキリストの教えを守り、死によって大名の妻として細川家を守ったのです。
残った家臣たちもガラシャに続いて自刃・・・屋敷に火が放たれ、遺体は炎に包まれました。
細川ガラシャ・・・この時38歳・・・妻の死が、上杉討伐に行っていた夫・忠興の元に伝えられたのは数日後のことだったといいます。
この一連の出来事について細川家の記録にこう書かれています。

「自害せしむるの間 三成怖れて 人質を取り入ることならず」

ガラシャを死なせてしまったことで、三成は怖気づいてしまったのだ・・・と。
この事件が、三成が正室を人質にとる作戦を諦めさせる原因となりました。
結果、関ケ原の戦いで家康が不利にならずに済んだのです。

男たちの争いに翻弄されたガラシャの辞世のうた・・・

散りぬべき
   時知りてこそ
       世の中の
花も花なれ
      人も人あれ

散り際を知っている花は美しく、私もそうなりたい・・・
その潔い死は、歴史を大きく変えたのでした。

キリスト教が禁じられている中、忠興は妻の葬儀を教会で行いました。
その際、涙を流し泣き続けたといいます。
そして忠興は亡くなる83歳まで正室を迎えることはありませんでした。
ガラシャの遺言通り・・・
本能寺の変、関ケ原の戦いと、戦国の覇権争いに巻き込まれ、波乱の人生を送ったガラシャ・・・
自らが招いたわけではない悲劇に、何度も身を引き裂かれるような思いをし、キリスト教という救いに出会い、慈悲深い心で戦乱の世を必死に生き抜きました。
ガラシャはまさに戦国の世を象徴する女性でした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

細川ガラシャ:散りぬべき時知りてこそ (ミネルヴァ日本評伝選)

新品価格
¥3,080から
(2019/12/30 23:09時点)

細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯 (中公新書)

今からおよそ300年前の江戸時代前期・・・元禄14年3月14日・・・
江戸城松の廊下で後世まで語り継がれることとなる事件が起こります。
播州赤穂藩主・浅野内匠頭が高家筆頭・吉良上野介に殿中で斬りつけたのです。
内匠頭はこの事件からわずか7時間後に切腹処分・・・
それから1年9ヵ月後・・・
元禄15年12月14日・・・赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入って上野介を討ち、切腹に処されるまでの赤穂事件・・・。
これをもとに作られた芝居が忠臣蔵です。

「預置金銀請払帳」・・・吉良邸討ち入りまでにかかった経費を記した文書・・・忠臣蔵の決算書、かかった費用は現在の価値で8000万円以上!!
刃傷事件から討ち入りまで1年9か月・・・どのようにして使われたのでしょうか?

元禄14年3月14日、浅野内匠頭の切腹と共に赤穂浅野家のおとり潰しが決まりました。
そして国元の赤穂藩は、城を明け渡すことになりました。
これに際し、筆頭家老である大石内蔵助はいろいろな精算処理に迫られます。

一般的に、藩が取り潰しになると、領地・城・江戸屋敷は幕府に返上。
しかし、藩が蓄えてきたものは藩の財産です。
精算処理をする必要がありました。

換算レートは・・・
金一両=   12万円
金一分=    3万円
金一朱=   7,500円
銀一匁=   2,000円
銀一文=     30円

まずは、
①藩札の精算・・・
藩札とは、藩が独自に発行した紙幣で、商人たちに支払われたものですが、藩が消滅すればなくなってしまう・・・換金する必要がありました。
ただし、これが莫大で、赤穂浅野家の記録によると藩がこれまでに発行した藩札は銀900貫目=約18億円・・・藩の返還予算に匹敵する額でした。
藩札を持っていた商人たちは、刃傷事件から5日後には、銀に換えてほしいと札座に殺到します。
赤穂藩には替り銀と呼ばれる藩札に交換するための準備金・銀700貫目(約14億円)が用意されていました。
これを使えば、藩札の総額900貫目の大部分が生産でき、不足は200貫目となります。
内蔵助は残りの分を塩田に貸した運上銀で精算しようと考えていましたが、赤穂藩は大坂商人に借金をして財政の不足を補っていました。
運上銀を大坂商人への担保としていたために取り上げられてしまいました。

銀200貫目はいまの4億円・・・
内蔵助は浅野家の本家である広島藩などに借金の申し入れに走らせますが、どこもけんもほろろ・・・。
「藩札は6分替えで行う!!」
額面の6割で替えるというのです。
6割は540貫・・・これなら700貫目で賄えます。
商人たちも、踏み倒されるよりはましだと藩札を額面の6割で銀に交換しました。
こうして内蔵助は何とか切り抜けました。

しかし・・・
②最後の給料と退職手当
赤穂藩はおよそ300人の藩士を抱えていました。
藩が潰れると藩士たちは浪人となり、路頭に迷うことが目に見えていました。
そこで、倉から米を放出・・・この年の分を一括支給しました。
米1万7836石=現在の価値で16億5000万円!!
さらに割賦金という退職金も支給
金5,899両=現在の価値で7億1千万円!!
割賦金は、基本的に藩士の石高に応じて支給されるものです。
しかし、内蔵助は高い録を持っている者には支給割合を減らし、すぐに困窮するであろう小録の者に多く支給しています。
内蔵助自身は、割賦金の受け取りは辞退しています。
こうして赤穂藩は最後の給料と退職金をあわせて23億5000万円を藩士300人ほどに分配しました。
単純計算で1人780万円ほどの支給となりました。
しばらくは暮らしていける学でしたが、すぐに新しい生活の基盤を作らなければなりませんでした。
すべての残務処理を終えたのは、吉良邸討ち入りの1年6か月前のことでした。

この残務処理の際、赤穂藩が売ったものには・・・
船17艘・・・・・・・・・・・・銀17貫目=3400万円
具足・馬具・弓・槍・・・銀15貫目=3000万円
鉄砲150挺・大筒など

藩士たちもそれぞれ家財の整理を行い、赤穂城から立ち退いていきました。
4月19日・・・赤穂城は幕府に引き渡されます。

大石内蔵助の手元には残ったのは391両、浅野内匠頭の正室・瑤泉院の持参金の化粧料300両・・・691両・・・およそ8292万円が討ち入りの軍資金となります。

箱根町の箱根神社には、浅野内匠頭が書いた「預置金銀請払帳」が残されてます。
討ち入りまでの支出報告が記録されています。
最初に使った先は・・・金100両・・・紫野瑞光院への寄付です。
京都堀河にあった紫野瑞光院に亡き主君・浅野内匠頭の墓を立てることとなり、金100両を寄付したのです。
内蔵助は、内匠頭の菩提を弔うため、他にも複数の寺院に多額の祈祷料を支払っており、その総額は金127両3分・・・軍資金の2割近くになりました。
内蔵助はこの時点でお金を討ち入りに使おうとは思っていなかったようです。
第一に浅野内匠頭の仏事費用でした。
仏事費金127両3分=約1533万円

その後、内匠頭の弟で旗本となっていた浅野大学を当主とし、浅野家を再興させようと動いていました。

赤穂城を幕府に引き渡したのち、残務処理を終えた大石内蔵助は、親戚を頼り京都郊外の山科に移住します。
家族と暮らすための家と土地を購入し、全国各地に散らばった赤穂浪士たちと連絡を取りながら、浅野家の再興に紛争します。
お家再興には伝手が必要でした。
そのお金・・・交際費、工作費は65両1分(783万円)・・・このことから、内蔵助の願いはお家再興だったと思われます。
この時点での残高は、498両=5976万円でした。

他にもかなりの支出割合を占めているのが上方~江戸間の旅費でした。
上方の浪士たちが次々と江戸へ行っていました。
その費用金78両1分2朱と銀42匁=1000万円にも上りました。
金銀請払帳に、日付の記載はありませんが、元禄14年9月ごろ~11月ごろまでの支出と推測されます。
どうしてその時期に集中して行かなければならなかったのでしょうか?
その頃、赤穂浪士たちの中で意見が対立!!
あくまでも赤穂藩再興を目指す大石内蔵助ら穏健派と、堀部安兵衛達江戸詰めの急進派が主君の無念を晴らすのが家臣の務めであるとし、一刻も早く討ち入りすべしとしていたのです。

そんな中、元禄14年8月19日・・・討ち入りまで1年4か月・・・
吉良耕付之介が呉服橋門内から本所へ屋敷替えが行われました。
これに湧きたったのが、江戸の急進派です。

「江戸城から遠い屋敷に移したということは、幕府にも暗に仇討せよと言っているのではないか}
「上方は煮え切らぬ!上方へ行き、説得し、急ぎ討ち入りの算段をつけよう」

そうした江戸での動きを知った内蔵助は、急進派をなだめるために進藤源四郎や大高源吾をを江戸へ送ったのです。
その旅費の内訳は・・・
旅籠宿泊料・・・350文(1万円)
駕籠代・食費など(1日)・・・500文(約1万5000円)
大井川の川越し・・・約48文~100文(約1400円~3000円)
なので、山科から江戸までは14日かかるので、片道の旅費は一人当たり3両(約36万円)

当時の旅は、宿場宿場に泊まるので、それなりにお金がかかります。
元禄の世にしても1日3両で山科~江戸間を移動するのはお金に余裕のある旅でした。
ところが、旅費をかけて江戸に行った進藤たちは、急進派たちと意気投合・・・全く役に立ちませんでした。
江戸に送った使者が次々と急進派に取り込まれたため、何度も使者を送ることになりました。
そこで内蔵助は堀部らに文を送ります。

「まだるく思し召し候とも時節を御見合わせなさるべく候」

討ち入りするいい時期が来るまで待つようにと言います。
しかし、それでも不安な内蔵助はお供を連れて江戸に向かうのです。
その費用二人分で金23両3分、銀20匁・・・289万円でした。
残りは419両・・・5028万円となってしまいました。
吉良邸討ち入りまで1年1か月・・・!!
江戸急進派は内匠頭の一周忌までに討ち入りたいと思っていました。
内蔵助は討ち入りの期日を決める必要はないと考えていたのです。
安兵衛は期日が決まらないと決心が固まらないと主張したのです。
内蔵助は、翌年の春にもう一度相談しようと提案します。
江戸に集まると目立つので、京都の山科あたりで話し合おうと決定しました。
急進派は、内蔵助が討ち入りに同意したのだと考えて納得しました。

赤穂浪士たちに残された軍資金は、691両ありました。
しかし、内匠頭への弔い料、お家再興のための工作費、度重なる上方~江戸間の旅費に消えていきました。
さらに、急進派との会談を終えた内蔵助は、上方から江戸へ来た者たちの屋敷(アジト)を購入します。
金70両・・・江戸三田屋敷調え代
およそ840万円で屋敷を購入し、修繕してアジトにしようと考えていましたが、その矢先・・・付近で火事が発生し、屋敷は燃えなかったものの将軍の別邸が類焼し、修繕が必要になりました。
その間、内蔵助が大金を投じて手に入れた屋敷が幕府の御用地になることに・・・。
結局屋敷は使えず840万円はムダ金に・・・。
手元に残った軍資金は、360両・・・4320万円ほどになりました。
吉良邸討ち入りまでおよそ1年となりました。

帳面には、度々旧赤穂藩士たちへの援助金と出てきます。
旧藩士たちの身分は浪人・・・無職でした。
粗末な裏長屋に住むなど、貧しい生活を送っていました。

「母のことを忘れたり、妻子のことを思わないわけではないが、武士の義理に命を捨てる道は、それには及ばないものです。
 わずかながら残した金銀・家財を頼りに母を世話してほしい。
 もし御命が長く続き財産が尽きたら、ともに餓死なさってください。
 それも仕方のないことと思います。」by小野寺十内

こうしたため、命つなぎにと金10両を送っています。
すでに借金をして首が回らないもののいました。
其れなりの割賦金のあった中級藩士でも、1年で使ってしまうほどでした。
そのため、飢えや生活困窮の名で援助金が出されたのです。

こうして困窮する藩士たちのために132両1分=1587万円が出され・・残金は227両・2733万円となったのです。

元禄15年2月15日、山科の大石内蔵助邸で会合が開かれました。
この話し合いの後、内蔵助は嫡男・力を残し、17年間連れ添った妻・理玖と子供たちを妻の実家に帰します。
この時、理玖は7か月の子を身籠っていました。
その後、理玖たちに類が及ばないための苦渋の選択でした。
この頃から内蔵助は京都祇園の一力茶屋などで遊興にふけるようになります。
そうした費用は・・・??帳面にはそのお金は書かれていません。
吉良邸討ち入りまで6か月のことでした。

討ち入りまで5か月前の元禄15年7月18日、討ち入りまで5か月の時・・・
内匠頭の罪に連座し、閉門を命じられていた弟・浅野大学に対する幕府の処分が決定します。
松平安芸守へのお預け・・・
屋敷や領地を取り上げられ、本家の広島藩に引き取られました。
事実上の改易処分でした。
これで大学が当主として浅野家を継ぐことはできなくなりました。
内蔵助のお家再興の夢は砕け散りました。
内蔵助は遂に腹をくくります。
処分から10日後・・・吉良邸討ち入りを宣言するのです。
ちなみに19人が集まったこの会議は、食事は金一両(12万円部屋代+食事代)
この後、赤穂他、各地に住んでいる浪士たちに連絡するように大高源吾と貝賀弥左衛門に命じます。
二人を赤穂に遣わす旅費と雑費が金二両一分と銀五匁五分(28万円)。
大高は2回赤穂に遣わされたので、別に金一両一分と銀四匁二分が支給されました。
それでも滞在費が足りなくなったのか、金10両の援助をしています。

それ以外にも、
銀百三十六匁五分四厘
原惣右衛門書き出す方々
飛脚賃金 並びに路銀不測の面々遣わす

討ち入りのために江戸に下ることが決まったので、原惣右衛門が手紙を書いて同士にたちに送った飛脚代も・・・
この時、連絡係の大高源吾と貝賀弥左衛門に大事な封書を預けます。
以前誓った120人に神文を出させていましたが、神文の署名部分を切り取ってそれを封にいれ託しました。
そして、大高源吾らは、内蔵助の通りにこう告げます。

「内蔵助殿は当初の計画を取りやめ、妻子を養うために仕官することにしました。
 皆様も勝手次第にしてください。
 ですからこの神文はお返しします。」

内蔵助はそれでも仇討がしたいと怒ったものに対してだけ真実を告げ仲間に入れました。
意志の固いものを選抜する・・・むやみに大勢が下ると目立つので、それは避けたいと思っていたようです。
結果、残った浪士たちは50人・・・その一人一人に支度金金三両(36万円)が与えられました。
こうして内蔵助のもとに残ったのは、60両・・・720万円ほどになりました。

そして・・・元禄15年11月5日・・・討ち入りまで1か月・・・
討ち入りを決意した大石内蔵助は1か月かけて江戸に到着。
日本橋石町の隠れ家に入ります。
この時60両となっていた軍資金から借家暮らしの浪士の家賃を払い、さらに一人当たり1か月につき金2分の食費を出します。
残りは僅か数両に・・・これで、弓矢や槍、長刀などの討ち入りの装備の総てを買わなければなりません。

これをあわせた装備の総額は12両の144万円・・・残金は-7両1分・・・約-87万円となってしまいました。
金銀請払帳の末尾には・・・「金七両一分(約87万円)不足 自分より払」とあります。
最後は内蔵助が自分のお金を使ったことがわかります。

元禄15年11月29日、討ち入りまで15日・・・内蔵助は金銀請払帳を締めます。
軍資金の使い道は、最終的に・・・


仏事費・・・・・・・・・・・・・・・1533万円
お家再興工作費・・・・・・・・783万円
江戸屋敷購入費・・・・・・・・840万円
旅費・江戸滞在費・・・・・・2976万円
会議通信費・・・・・・・・・・・・132万円
生活援助費・・・・・・・・・・・1587万円
討ち入り装備費・・・・・・・・・144万円
その他・・・・・・・・・・・・・・・・379万円

合計8369万円・・・こうして赤穂浪士四十七士は12月14日、吉良邸に討ち入ることとなったのです。
内蔵助は同士たちが集まった時・・・
「それぞれの店賃やツケの代金は12日までにしっかりと始末をつけておけ
 不足の際は申すがよい」
お金のない者にはまた内蔵助が自腹を切るというのです。
討ち入りにあたって身辺を整理し、綺麗にしておけということでした。
13日の夜・・・残った僅かの金を持ち寄り今生の暇乞いと酒を酌み交わしたといいます。
いよいよ討ち入りです!!

江戸城松の廊下の刃傷事件から1年9か月後の元禄15年12月14日夜・・・
赤穂浪士四十七士は吉良上野介の屋敷に向かいました。
そして4時半ごろ・・・いざ討ち入りです!!
浪士たちは次々と吉良の家臣たちを討ち取り、遂には隠れていた上野介を見つけ、主君の仇討を果たしたのです。
12月14日、討ち入りの夜、大石内蔵助は瑤泉院に金銀請渡帳を届けています。
計画が露見してしまうのを畏れ、ギリギリまで手元に置いていました。
いくら主君の仇を討つとはいえ、瑤泉院の私財に手を付けてしまったため、使い道の報告と償いの意味もあったのです。
内蔵助が管理していた資金があったからこそ、討ち入りは成功したのでした。

吉良邸討ち入りまでかかった経費を綴った預置金銀請払帳・・・それをつぶさに見ていくと、討ち入りまでの1年9か月がどれほど大変だったのか・・・よくわかります。
忠臣蔵の決算書は数字ですが、そこからは様々な葛藤や苦労・・・様々な思いを感じることができました。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

赤穂浪士の討入り事件を問い質す[本/雑誌] / 長谷川健三/著

価格:1,210円
(2019/12/16 17:04時点)
感想(0件)

これが本当の「忠臣蔵」 赤穂浪士討ち入り事件の真相(小学館101新書)【電子書籍】[ 山本博文 ]

価格:550円
(2019/12/16 17:05時点)
感想(1件)

鎌倉時代終焉後のおよそ60年間、二つの朝廷が並び立つという日本史上類を見ない状態が起こりました。
南北朝時代・・・それはまさに動乱の日々でした。
およそ60年続いた南北朝時代は複雑な時代です。

1333年 建武の新政
1339年 後醍醐天皇崩御
1350年 観応の擾乱
1351年 正平の一統
1367年 足利義満三代将軍就任
1392年 南北朝合一

南北朝時代の軍記物「太平記絵巻」には宴で上半身裸で踊っている者、酒を煽りいい感じの者・・・これは、建武の新政のキーパーソン第96代後醍醐天皇が開いた無礼講といわれる宴です。
身分の上下など一切なくして飲み、歌いましょうということですが、真の目的は鎌倉幕府を倒幕する見方を集めることでした。
倒幕した理由は・・・??

「我が子に皇位を継がせることは出来ぬのか・・・??」

後醍醐天皇は、我が子を天皇にしたかったのですが、出来ない理由がりました。
それが両統迭立です。
その始まりは鎌倉時代の事・・・
きっかけは、第88代後嵯峨天皇が皇位継承を誰にするか明確にしないまま崩御したことにありました。
そして皇位継承者の後深草と亀山の相続争いとなりました。
持明院統第89代後深草天皇と大覚寺統第90代亀山天皇・・・から交互に即位する両統迭立となり、以後それが踏襲されていました。
後醍醐天皇は大覚寺統の天皇なので、次は持明院統からの天皇と決まっていたのです。
しかし、自分の子を天皇に即位させたい後醍醐天皇はこの両統迭立を廃止したかったのです。
そのためには、承久の乱以降、皇位継承に介入することになってきた鎌倉幕府を倒すことが必要だったのです。
くわえて、幕府による武士中心の政治ではなく、天皇中心の政治に戻すことを考えていました。
両統迭立を撤廃し、自分の子孫に皇位継承させ、天皇中心の政治に戻すために、後醍醐天皇は倒幕の狼煙を上げたのです。
ところが・・・その計画が二度も幕府にバレ、後醍醐天皇は隠岐へと流されてしまいます(1332年)。

後醍醐天皇の皇子・護良親王が各地に倒幕を命じ、吉野で挙兵したのはその8か月後のことでした。
すると、幕府への反乱勢力が次々と立ち上がるのです。
当時の鎌倉幕府に不満を持っていた人々はたくさんいました。
北条氏が日本の大半の所領を治め、その他の武士の所領が少なかったのです。
隠岐に流された翌年、後醍醐天皇は隠岐を脱出することに成功し、三度目の倒幕の狼煙を上げます。
この時、鎌倉幕府が鎮圧軍として関東から京都の派遣したのが、分裂のもう一人のキーパーソン・足利高氏です。
高氏は、一度は後醍醐天皇側と戦いますが、突如天皇方に寝返り、幕府に反旗を翻します。
自分と共に討伐軍の大将として派遣されていた北条一門の有力大名である名越高家が射殺されたことが、足利高氏が後醍醐に味方した理由の一つでした。
形勢が不利だと幕府を見限り天皇方に・・・そして倒幕の呼びかけに応じた武士たちをまとめ、六波羅探題を攻め落とします。
これによって天皇方が優勢に・・・
さらに、尊氏同様幕府から寝返った新田義貞ら反乱軍が鎌倉に入り、幕府軍を撃破!!
鎌倉幕府は滅亡します。

その年の6月のこと・・・武家から政権を奪還した後醍醐天皇は、京都に帰り元号を建武と改め、再び天皇による政治を始めます。
これが建武の新政です。
こうして、朝廷主導による政治に戻した後醍醐天皇ですが、その3年後、朝廷は南北に分かれてしまいます。

後醍醐天皇の政治は府独裁的でした。
天皇は鎌倉時代から武士が持つ所領を白紙に戻します。
その上で、個別安堵法を発布。
土地の所有権は、天皇が許可しない限り無効とするとしたのです。
すると、所領安堵の許可を求める武士たちが京都に殺到・・・都は大混乱となります。

二条河原落書には・・・
”この頃 都に流行るもの 夜討 強盗 謀綸旨”
綸旨とは天皇が出す命令の事で、後醍醐天皇のせいで治安が悪化し、偽の綸旨が出回るなど、世の中が混乱したことを批判しています。
朝廷ファーストだった後醍醐天皇は・・・
公家には十分に恩賞を与えるものの、武士たちには少ししか与えませんでした。
武士たちは大きな不満を抱きます。
後世、この時代の政治を「物狂いの沙汰」といっています。

武士を蔑ろにした後醍醐天皇の政治・・・不満分子が幕夏したのは1335年のことでした。
天皇中心の政治に不満を抱く旧幕府の残党が鎌倉を占拠します。
これを鎮圧すべく、願い出たのが足利尊氏でした。

「征夷大将軍に任じていただき、鎌倉へ向かわせてはもらえませんでしょうか」by尊氏

しかし後醍醐天皇は許しません。
天皇中心の政治に戻した後醍醐天皇にとって、征夷大将軍という役職など邪魔でした。
高氏は後醍醐天皇の許可なく鎌倉に向かい、反乱軍を鎮圧。
その後も天皇の帰郷命令を無視します。
まだまだ反乱分子が潜伏していたのです。
尊氏は旧幕府の残党を掃討してから京都に戻るつもりだったのです。

そんな尊氏の考えも露知らない後醍醐天皇は、新田義貞に足利尊氏追討命令を出します。
これによって鎌倉幕府を共に倒した後醍醐天皇と袂を分かち朝敵となってしまった尊氏は進撃して来た新田軍を竹之下の戦いで撃破!!
敗走する新田軍を追って京都に入るも、天皇方の北畠顕家の軍に敗北。
九州へと逃れていくのです。
しかし、九州で立て直した足利尊氏は、1336年、多々良浜で天皇方の大軍を破ると京都を目指します。
そして湊川の戦で新田軍と再び相まみえ勝利しました。

京都へと逃げ帰った新田軍は、後醍醐天皇が比叡山に立てこもります。
こうして、後醍醐天皇がいなくなった京都に足利尊氏が入り、持明院統の光明天皇を擁立。
その一方で、次は大覚寺統から天皇を出すことを条件に比叡山に籠っていた後醍醐天皇と和睦します。
これを受け、後醍醐天皇は天皇の正当性を示す三種の神器を新たに即位した光明天皇側に引き渡すのですが・・・
2か月後、御醍醐天皇は京都を脱出。
吉野につくと・・・
「今日の御所に渡した神器は偽物じゃ!!
 真の神器は朕のもとにある・・・!!」と。
自分こそが、正当な天皇であると宣言し、新しい王朝・・・南朝を設立します。
どうして朝廷が南北に分裂してしまったのか・・・??
それは、後醍醐天皇が「建武の新政」に失敗し、足利尊氏と対立したためです。
こうして朝廷は、南朝と北朝に分裂、二人の天皇が並び立つという日本史上類を見ない南北朝時代が幕を開けました。
これ以後、南朝と北朝は違う元号を使うことに・・・南朝は延元、北朝は建武と・・・。

遂に幕を開けた南北朝時代・・・
後醍醐天皇は吉野に追いやられる形で南朝を開くのですが、勢力は吉野周辺と九州、東国の一部にすぎませんでした。
後醍醐天皇は、京の都を取り戻すべく、味方の武士たちに京都に攻め入るように命じます。
しかし、天皇の側近だった北畠顕家が、1338年和泉国で討死していました。
また新田義貞も越前国で雑兵の矢を受け、「最早これまで」と、1338年に自害。
有力な武将を次々と失った南朝は、急速に力を失っていきました。

そこで後醍醐天皇は、自分の王子たちを陸奥や遠江に派遣しますが、これも失敗!!
1339年、我が子護良親王を皇太子とした翌日の8月16日、失意のうちに後醍醐天皇崩御。

「太平記」にはその最後の様子が記されています。
足利方を悉く滅亡させよと命じ、苦しい息を吐きながらも、朕の体は南の吉野で骨になるが、魂は北の京の都奪還の執念を持ち続けるといい残しました。

こうして南朝を立てた後醍醐天皇が崩御したことで、尊氏が後ろ盾となっていた北朝が俄然有利となっていきます。

後醍醐天皇が亡くなる前の年・・・
1338年、足利尊氏が征夷大将軍に就任します。
京都で室町幕府を開きました。
尊氏は弟・直義と政務を分担して、幕政を運営していました。

南北朝の対立は、実質的には南朝と北朝方の室町幕府との対立でした。
そのため、幕府の内紛が南北朝時代をより複雑にしていきます。
1347年、南朝方の運勢が九州で勢力を拡大、九州における幕府の拠点を次々と落としていきます。
これに呼応するかのように、父・後醍醐天皇の遺志を継いで即位した後村上天皇は、北朝方の幕府を倒そうと画策します。
京都に近い摂津国でも南朝方が挙兵しました。
それを鎮圧すべく、尊氏は側近の高師直を討伐軍の大将として出陣させます。
戦を得意とした師直は、見事四条畷の戦いに勝利すると、勢いそのままに南朝に兵を差し向け、皇居や公家の邸宅、寺社にまで火を放つのです。
この時、後村上天皇ら南朝は吉野を脱出し、賀名生へと逃げのびています。

一方、幕府の方でも師直に不満を抱くものがいました。
幕府の政務全般を担っていた弟の直義です。

「見境なく火をつけるとは、なんという狼藉・・・」

そんな直義の不満を余所に、この軍功によって師直の幕府での影響力は強まり、直義を凌ぐほどに・・・
おまけに、直義の養子である直冬が、師直に冷遇されていたのです。
直義の不満はついに爆発!!
「高師直を討つ!!」
これに呼応したのは、師直に不満を抱いていた各地の武士たちで、次々に挙兵します。
世にいう観応の擾乱の始まりでした。
挙兵した直義は、兄・尊氏もびっくりな策を講じます。
突然京都を脱出し、宿敵である南朝に出向きます。
そして、南朝に降伏し、和睦を申し入れます。
南朝勢力を味方につけるためでした。
この時、直義が出した和睦の条件は、南朝と北朝から天皇を交互に出し合う「両統迭立」に戻すというものでした。
しかしこれは、自分の子孫に跡を継がせるという後醍醐天皇の意思に反する事・・・
南朝には受け入れがたい条件でした。
その一方で、これを受け入れれば、直義に味方する武士たちが戦力になり、南朝復活のきっかけになるのでは・・・??
そこで南朝は、和睦の条件をうやむやにしたまま、南朝の戦力回復のために、足利直義の降伏を受け入れるのです。
この直義降伏によって、南朝有利と見た武士たちが南朝側についたことで、南朝の思惑通り、南朝は息を吹き返します。
1月・・・直義は石清水八幡宮を占拠し、大軍で京都に向かうと師直討伐の準備を始めます。
そして2月17日、摂津国・打出浜で直義軍は師直を擁護する兄・尊氏軍と激突。
尊氏軍を完膚なきまでに叩き潰すのです。
その3日後・・・直義は尊氏と和睦・・・高師直に資格を差し向け、斬殺したといいます。
こうして直義は尊氏の嫡男・義詮の補佐役として幕府の要職に復帰。
表面上は平穏をとし戻したかのように見えた幕府ですが、水面化では家臣たちが尊氏派と直義派に分かれて激しく争っていました。
そんな中、直義は義詮との関係がうまくいかず、幕府内で孤立していきます。
すると突如政務からの引退を表明。
北陸へと逃亡してしまいました。
この直義の行動が、再び南北朝に大きな波紋を呼びます。

南北朝時代が始まって15年・・・朝廷が一時的に一つになった時がありました。
1351年正平の一統です。
当時室町幕府は尊氏派と直義派に分裂していました。
孤立を深めた直義は北陸に逃げてしまいました。
九州では南朝方が勢力を拡大、幕府方の城を次々と攻略していました。
尊氏は焦ります。

「九州では我が軍が劣勢・・・ 
 やがて京の都までその手は伸びて来るだろう
 しかし、北へと逃げた弟・直義もなんとかせねばならん」

考えた末に出した答えは、直義を優先させた驚きなものでした。
南朝に降伏して和睦する!!
この時、尊氏が出した和睦の条件の一つが、元号を南朝の「正平」に統一すること。
そして北朝三代崇高天皇と皇太子・直仁親王が廃止され三種の神器も南朝に没収・・・その他北朝が行った叙位・任官も否定され、両朝分裂前に戻されたのです。
幕府が支持する北朝にとって圧倒的不利な条件での和睦・・・
直義のしていた南朝との講和・・・尊氏は南朝と和睦することで、直義を幕府に戻そうとしていました。
尊氏が南朝に降伏したことで、南朝が勝利となり南北朝が統一・・・これが正平の一統です。

しかし・・・再度分裂してしまいます。
南朝の有力武士が加わった尊氏軍が、北陸から鎌倉に向かった直義を捕らえて幽閉・・・。
その直後、直義は謎の死を遂げます。
さらに、尊氏が京都を離れているうちに、南朝が和睦を破って京都に侵攻・・・尊氏の嫡男である義詮を追い出し、三種の神器を奪い取ってしまいます。
天皇中心の世にしたい南朝方にとって、幕府の存在は認めることができなかったのです。
その後、京都はすぐに幕府の手に戻りますが、北朝の三人の上皇(光厳・光明・崇光)と皇太子が南朝に連れ去られます。
そこで、幕府を預かる義詮は、三種の神器のないまま、光厳上皇の第二皇子を後光厳天皇として即位させ北朝を復活。
こうして南朝が尊氏との和睦を破ったため、南北朝は再び分裂したのです。

1358年、足利尊氏死去・・・南北朝の混乱は、尊氏の代では終わりませんでした。

疫病を退散させる目的で、平安時代に始まったとされる祇園祭・・・
その壮麗な祭りの見どころは、山鉾の巡幸です。
今のように山鉾を巡幸しながらお囃子を鳴らしながら京都を練り歩くようになったのは南北朝時代といわれています。
町ごとに工夫を凝らした山鉾は、町衆の経済力を示すももであり、町内の団結を強める役割を果たしていました。
南北朝の分裂によって幾度も焼かれた京の町・・・
戦いは全国に飛び火し、世情は不安定に・・・人々は団結し、自ら身を守るしかありませんでした。
それは農民たちも同じで、惣という農民組織を作り団結、役人相手に年貢の交渉も始めます。
14世紀は、社会経済的にも重要視され、この頃から惣村という現在の農村の原型・村が形成されていきました。
南北朝時代が始まって20年以上が経っていました。
尊氏の死後、二代将軍には息子・義詮が・・・
義詮は南朝討伐を試みるも、混乱は続きます。

1367年、足利義満三代将軍就任。
南朝と幕府の本格的な和睦交渉を受け、後村上天皇は北朝と和睦して争いを収めるために綸旨を出します。
しかし・・・綸旨の中に、”北朝が降参すれば”と書かれていたため、義詮は激怒、和睦は実現しませんでした。
そしてその時、義詮はなくなります。
その後を継いで三代将軍に就任したのが義満・・・この義満こそが、南北朝時代に終止符を打つキーパーソンです。
義詮が亡くなった翌年、幕府との交渉に前向きだった後村上天皇が崩御・・・
和睦に反対していた長慶天皇が即位します。
この長慶天皇は、武力によって南北朝合一を果たそうとしていました。
室町幕府も、義詮が急死し、義満が後を継ぐ者のまだ11歳の少年でした。
義満が推さなかったために幕府は不安定になり、南北朝合一どころではなくなってしまったのです。
将軍義満が成長するまでは幕府も和睦どころではありません。
そして・・・南北朝時代が始まって47年・・・
南朝の長慶天皇が譲位し、後亀山天皇が即位します。
軍事的な体力が残っていなかったこともあり、南朝方の軍事活動は極端に減っていきます。
一方26歳となった足利義満は、各地の有力守護たちを討ち、将軍としての権力を拡大していきます。
南朝は最早脅威ではありませんでしたが、その存在は無視できません。
南朝が幕府に反旗を翻す勢力の受け入れ口になっていたからです。

「余に背く者たちを絶つには、南朝をなんとかせねばならぬな」

そこで義満は、和睦し南朝を取り込むことを考えます。
1391年、北朝方の室町幕府の軍勢が、九州の南朝最後の拠点を攻略。
ここに九州における南北朝の戦いがようやく終わりました。
その翌年の1392年、南北朝の和睦を考えていた義満は、南朝にこう呼びかけます。

「三種の神器を差し出して頂ければ、両統迭立を復活させましょう」

これ以上争いが続くことを望んでいなかった後亀山天皇はこれに応じます。
10月5日・・・天皇は僅かな臣下を連れて京都に向かい、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲渡・・・
ついに南北朝合一・・・およそ60年に続いた南北朝時代に終止符が打たれたのです。
この時の合一の条件は・・・
①南朝が「三種の神器」を北朝に譲渡
②国衙領は南朝が、長講堂領は北朝が支配
③今後、皇位は南朝と北朝が交互に
でした。

ところがこれに反し、これ以後北朝の系統が続くのです。
どうして南北朝合一の条件は守られなかったのでしょうか?
南朝との和睦交渉に、北朝はほとんど関与していませんでした。
幕府が勝手に行いました。
そのため、北朝が和睦の条件を聞いたのは合一後のことでした。
蚊帳の外におかれていた北朝は、幕府による事後報告を守る必要がないと考えたのです。
また、将軍義満も、もともと守る気がなく南朝をだましていたのでは・・・??とも言われますが・・・
しかし、両統迭立を破った時は、義満は亡くなった(1408年)後です。
南朝は敗北し、子孫が天皇として残ることはありませんでした。
北朝も大幅に弱体化し、足利幕府の強力な保護がなければやっていけなくなりました。
勝者は・・・室町幕府ということになります。
後醍醐天皇が足利尊氏と対立し、吉野に新しい王朝・南朝を設立してから60年・・・多くの人が血を流し、何度も町は焼かれ、人々は不安に駆られ続けました。
今から700年前、日本あった動乱の日々でした。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

図解観応の擾乱と南北朝動乱/水野大樹【1000円以上送料無料】

価格:1,870円
(2019/12/9 21:02時点)
感想(0件)

皇子たちの南北朝 後醍醐天皇の分身

価格:1,026円
(2019/12/9 21:04時点)
感想(0件)

このページのトップヘ