日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: にっぽん!歴史鑑定

大型船が頻繁に行きかう東京湾の玄関口・浦賀水道・・・
幕末、ここで日本を揺るがす大事件が起こります。
1853年6月3日、突然4隻の大きな船が現れたのです。
黒船来航です。
当時、和船の総トン数が100tだったのに対し、黒船(蒸気船)の総トン数は2500t・・・25倍の大きさです。
この黒船の来航をきっかけに、およそ260年続いた江戸幕府が崩壊へと進むこととなります。
日本の歴史を大きく変えた出来事でした。
どうしてアメリカは極東の小さな島にやってきたのでしょうか?
幕末の日本はどう映ったのでしょうか?

太平の 眠りをさます 上喜撰
       たった四杯で 夜も眠れず

”上喜撰”という緑茶と、蒸気船をかけています。
そしてたった四隻で幕府は不安で眠れない様子を揶揄した歌です。

アメリカ側でもそんな記録が残されています。
マシュー・ペリーは、アメリカから4隻の船で浦賀にやってきました。
蒸気船のサスケハナ号とミシシッピー号、そして2隻の帆船です。
艦隊は全部で63門の大砲を装備、臨戦態勢を布きながらを進め、午後5時ごろ浦賀沖に錨を下ろしました。
初めてみる日本・・・ペリーの第一印象は・・・

「投錨の直前に天候は晴れ上がり、富士山の高い頂がますますくっきりと見え、内陸部に広がる群峰よりはるかに高くそびえていた」

ペリーにとっても霊峰富士は強烈な印象だったのです。
ペリーが遠路はるばるやってきた目的は二つありました。
①アジア諸国と貿易をする拠点を作る
②捕鯨船の補給基地を作る
この時ペリーにはもう一つ重要な任務がありました。
アメリカ大統領の親書(国書)を日本に渡す任務です。
鎖国を続けてきた日本に、どうやってアメリカの要求をのませるのか?
ペリーは事前の日本の情報から日本人の特性を掴み、幕府との交渉方針を決めていました。

「排他的に振る舞い、気難しい人物を演じれば演じるほど、形式と礼儀を重んじる日本の人々は、こちらの目的を尊重するようになるだろう」

ペリーが浦賀に停泊すると、すぐに浦賀奉行所の船が近づいてきました。
そして役人のひとりがいきなり横断幕を広げたのです。
そこには当時ヨーロッパの公用語だったフランス語で「艦隊は撤退すべし!」と書かれていました。
もちろんアメリカ側も意味は理解していましたが、毅然とした態度をとっていたいペリーはこれを無視!!
しかし、幕府役人はなかなか引き下がりません。
ひとまず役人を乗船させ、部下のコンティ大尉を通してこう告げます。

「われわれはアメリカ合衆国大統領から、幕府将軍に宛てた親書をしかるべき役職の人物に受け取ってもらいたい」

ペリーは幕府の役職にある人物と会うことが交渉の近道だと考えたのです。
しかし幕府役人は・・・

「異国との交渉は、長崎でしか行えない
 親書は長崎で渡してもらいたい」

別の異国船が来航した際、この言葉で体よく追い返した例がありました。
今回も、帰ってもらおうとしたのですが・・・それを聞いたペリーは激怒!!
幕府役人を追い払ってしまったのです。
そしてここから全く開国する気のない幕府と、何としても国交を結びたいアメリカとの長い戦いが始まるのです。

黒船を見ようとたくさんの人々が浦賀に詰めかけます。
中には見物人相手に商売をする人も・・・
望遠鏡の貸し出し、船での黒船見学ツアーなどです。
ペリーの似顔絵も販売されました。

この時繁盛したのが武具師・・・
江戸幕府始まって以来、武具を使うことがなかったので、多くの旗本、御家人たちは持っていなかったのです。一斉に武具を買いに走りました。

ペリーはいきなりやってきたのではなく・・・幕府は事前にペリーが来航することを知っていました。
諸外国との交易・交流を制限する鎖国政策をとっていた幕府は、取引場所を長崎の出島に限定し、相手はオランダと清国とのみ交易をおこなっていました。
そして、その見返りとして彼等から欧米列強に関する情報を得ていたのです。
当初は開国を求めてやってくる他の欧米列強に対し武力での排除を行っていましたが・・・
1842年清国がアヘン戦争でイギリスに敗れ、不平等条約の締結を強要されたという情報を得ると、大きく方針を変換・・・
1842年薪水給与令を出し、外国船に燃料や水を与え、穏便に帰ってもらうように指示を出していました。
アヘン戦争のころから、欧米列強の武力に脅威を感じ始めています。
”ペリー来航”の情報も、お蘭だから事前に知らされていました。

「アメリカ合衆国が艦隊を派遣し、交易をおこなうために日本へ渡来するとの事、司令官は当初オーリックというものであったが、ペリーなる人物に交代したようだ」

この風説書がオランダより幕府の手に渡ったのが1852年7月でした。
ペリーがアメリカを出発したのが10月でした。
ペリーがアメリカを発つ3か月も前に、オランダを通じてアメリカが通商を求めてやってくることを掴んでいたのです。
しかし、幕府は何ら手を打つことができませんでした。
当時の将軍は12代将軍徳川家慶・・・病気がちだったために老中首座・阿部正弘が政務を行っていました。
当然阿部は、オランダからの報告を聞いていましたが、この年・・・1852年5月22日江戸城西ノ丸御殿が焼失・・・。
再建工事に莫大な費用が掛かるために、軍費にお金を割くことが難しかったのです。
この頃、外国の情勢に詳しい薩摩の島津斉彬と会談した阿部は、こんな事を漏らしています。

「もしアメリカが来ても、なるだけ穏便に済ませ、長崎へ行ってもらうしかない」

そしてペリーが実際にやってきました。
阿部の指示通り、長崎へ行ってもらうようにしますが・・・拒否されてしまいます。
さらにコンティ大尉はこう脅してきました。

「浦賀でしかるべき役人が大統領の親書を受け取らなければ、我々は武装して江戸城へ向かう」

対応した浦賀奉行所・香山栄左衛門は・・・
「船の中は、緊迫した状況であり、アメリカ側は皆殺気立っていた」

幕府はようやくアメリカが本気だということに気付いたのかもしれません。
戦争は避けなければ・・・ようやく幕府は親書を受け取ることに・・・。

1853年6月8日・久里浜・・・6日目・・・アメリカ大統領の親書の受け渡しが行われました。
幕府は江戸湾の警備を行っていた彦根藩・川越藩などの藩兵を5000人配置!!
対してアメリカ側は武装した水兵300人!!
幕府の代表としてペリーを出迎えたのは、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道・・・
この時の様子をペリーは・・・
「戸田、井戸の両候は、初めから最後まで銅像のように動かず、一切言葉を発しなかった」
この日はあくまで親書を受け取るだけ・・・
余計なことを言わないように釘を刺されていたのかもしれません。
双方無言の中、13代アメリカ大統領ミラード・フィルモアの親書が日本側に渡されました。
そこには・・・
①友好的な国交を樹立し、通商条約を定める
②難破船やアメリカ船の船員の救助と保護
③蒸気船の燃料と水・食料の補給
それを渡したペリーは・・・
「来年の4月か5月にふたたび来日するので、その時に親書に対する返答を聞かせてもらいたい」
そう言い残し、アメリカがアジアの拠点としていた清国の広東へと向かったのです。
どうしてペリーはその場で交渉しなかったのでしょうか?

幕府はなるべく時間稼ぎをし、はぐらかし、アメリカを諦めさせようと考えていました。
幕府のペースに巻き込まれることを避け、効率よく時間をおいての交渉で決着しようとしたのです。

あっけなくペリーは去りましたが、阿部正弘は再びやってくるペリーにどう対応するのか?頭を悩ませていました。
すると阿部は、驚きの行動に出ます。
親書を一般に公開し、大名から庶民に至るまで広く意見を募ったのです。
時代が大きく動いていました。
全国から約800通の建白書が寄せられました。
一番多かった意見は、「アメリカの要求を拒絶し打ち払う」という案でした。
200年以上守ってきた伝統を崩したくない・・・
しかし、積極的に開国し、アメリカとの貿易で得た利益で軍備を強化するという意見もありました。

1635年、3代将軍家光の時に、「大船建造の禁」によって幕府も軍艦を所有できていませんでした。
阿部は、諸大名に対し大型船の建造を許可し、オランダへ軍艦を発注しています。
しかし、ペリーがやってくるまで9か月!!
ペリーが再来航するまでに強化できた軍備は、品川沖に台場を建設するぐらいでした。

幕府はアメリカン関する情報収集にも乗り出します。
土佐藩士の中浜万次郎を江戸に呼び、旗本格として登用しました。
ジョン万次郎で知られる中浜は、漁船で漂流後、アメリカで10年間暮らし、ようやく帰国したばかりでした。
万次郎は・・・
「アメリカはかなり前から日本と親睦を持ちたがっていました。
 メキシコとの海上戦でわずか4時間ほどでアメリカ側が勝利をおさめた」
などと、開国を進言!!
更に幕府は長崎奉行を通じてオランダ商館の館長クルティウスにも助言を求めます。
「アメリカの要望を一切無視したならば、戦争に発展しかねない
 試しに一港だけ開いてみたらどうか」
多方面から様々な意見を聴取した幕府老中・阿部正弘でしたが、いかにアメリカの要求をはねのけることが難しいか・・・痛感するばかりでした。

1854年1月16日・・・ペリーが再び来航!!
幕府は焦ります。
ペリーの予告では、4月か5月との事だったからです。
そこにはペリーの思惑がありました。
前回の来航直後、12代将軍徳川家慶が亡くなっていました。
そこで、その混乱に乗じれば、用意に条約締結に持ち込めるのでは?と考えたからです。
前回の来航後、ロシアも日本に開国を迫っていたので、他の列強国を出し抜いて、有利な条約を締結したいとも考えていました。
アメリカが要求したのは三つ・・・。
①友好的な国交を樹立し、通商条約を定める
②難破船やアメリカ船の船員の救助と保護
③蒸気船の燃料と水・食料の補給

日米両国の国益をかけた戦いの前に、水面下で駆け引きが始まりました。
この時ペリーは、長い航海で持病のリウマチが悪化・・・体調を崩していました。
それを聞き付けた幕府は、お見舞い品として大根800本、人参1500本、鶏卵1000個などを届けています。
対してアメリカ側も、幕府役人らを船に招待・・・
西欧料理や酒を出してもてなしました。
アメリカは船に生きた鶏、羊、イタリア人シェフまで乗せていました。
万端の準備をしていたペリー・・・。
食事でもてなすことで、友好的なムードを作り出そうとしたのです。

こうして当日を迎えましたが・・・両者が激突します!!
アメリカ代表のペリーに対峙したのは江戸幕府応接掛筆頭・林大学頭!!
冒頭、林は3つの条件のうち、難破した船員の救助と保護は承諾します。
そして石炭、水、食料の補給も承諾!!
しかし、両国間で通商を結ぶのは、国の決まりで出来ないと断固拒否!!
この時幕府側は、全てを拒否するのは難しいと考え、受け入れを最小限に止めるという方針に転換していたのです。
しかし、それを聞いたペリーは態度を豹変!!

「貴国は難破船の救助を行わないうえ、海岸に近づこうとしただけで発砲してくる
 さらに、漂着した外国人を罪人同様に投獄している
 貴国が国政を改めないならば、我々は戦争も辞さない覚悟である」

林を揺さぶろうと過去の非人道的な行為をあげて責めます。
しかし、林は動じません。

「外国船に発砲していたのは一昔前の話であり、漂着民に対してもオランダを通して長崎の出島から返還している」と、理路整然と反論!!
さらに通商に関しては・・・
「自国の産物で十分に事足りている」
と、きっぱり拒否したのです。
すると驚いたことに、ペリーは通商の要求をあっさりと取り下げてしまいました。
どうして・・・??
自分達の要求をすべて飲ませようとしたものの林大学頭らが手ごわいのを見て、方針を転換したのです。
全部を処理しなくても、国交樹立を最優先して段階的に通商を認めさせようとしたのです。
こうして日米の間で、ひとまず合意に至りました。
大筋では合意したものの、交渉はまだ終わりません。

日本にやってきたペリー・・・
日本のはじめて目にする日本の風俗や文化に驚きます。
ある時町の銭湯へ・・・驚愕!!
男女とも入り乱れて混浴!!
「日本人は道徳心に優れているのに、その道徳心に疑いを感じざるを得ない」

さらに既婚女性のお歯黒にびっくり仰天!!
「妻がこんな歯をしていたら、夫はものも言わず逃げ出してしまうだろう」

一方で日本人に器用さに感心します。
町で売られていた浮世絵のち密さとユーモアに感嘆!!
焼き物の磁器や漆器の優美な形と洗練されたデザインに魅せられます。

日本人がひとたび欧米諸国の技能を知ったならば、近い将来強力なライバルとなるだろう

日米の交渉は大詰めを迎えていました。
アメリカの蒸気船の燃料である石炭と水、食料の補給などをどの港で行うのか??
幕府は、当面は長崎で行い5年後に別の港を追加することを提案します。
それに対しペリーは・・・

「本来の趣旨を理解されていないようだ」

アメリカが日本に目をつけた主な理由は、太平洋航路の中継地点としたいからです。
太平洋に面していない長崎は、その狙いから外れているので、納得できるものではありませんでした。
ペリーはここでこんな申し出をします。
「大統領の命により運んできた土産の品々を贈呈したい」
献上品は、全部で140種類に及びました。
なかでも幕府の一港が目を見張ったのが、1/4モデルの蒸気機関車と、モールス電信機でした。
アメリカ側はそれらを実演してみせ、日本側を大いに驚かせます。

「日本人はいつでも異常な好奇心を示し、それを満足させるのに、画集国からもたらされた発明品の数々は恰好の機会を得た」

幕府も負けじと贈り物をします。
米と酒・・・ここで50人もの力士を導入し、1俵60キロもある米俵を片手に二俵づつ、計4俵担いで運ばせて・・・力士の怪力ぶりを見せつけます。
力士たちの巨体と怪力に、ペリーたちは圧倒されます。

「偉大な筋肉は、ヘラクレスのよう彫像のごとく、隆々と盛り上がっていた」

すると予期せぬ事態が・・・傍らでこのパフォーマンスを見ていた水兵が、力士に勝負を挑んだのです。
この思わぬ日米対決に、周囲は大興奮!!
しかし、勝負は一瞬でつきました。
そして力士は水兵に向かってこう言い放ったのです。

「強さの秘密は、日本の美味い米と美味い酒じゃ」

日本が大いに面目を施した瞬間でした。

北太平洋で操業を行う捕鯨船の補給基地に数カ所、清国と結ぶ太平洋航路の補給地として会談を行っていた横浜周辺を含め他に数カ所開港することを要求します。
幕府は、当面は長崎で、5年後にもう一つ追加することで押し切りたいと考えていました。
アメリカの要求を飲めば、長崎で取引をしているオランダも同じ要求をしてくるに違いない・・・!!

しかし、ペリーは執拗に林に食い下がります。
音を上げた林は、「もはや自分の裁量では決められない」と江戸へ戻り、幕閣たちに伝えたのです。
すでにペリーが再来して1か月がたっていました。
長期にわたる交渉に疲れたのか、これ以上拒むことは不可能と感じたのか、結局幕府が折れ、「箱館・下田」を開港すると通知。
ペリーもそれを承諾し、ようやく合意に達したのです。

「この湾にきてわずか5週間・・・
 この国と、この国の人々から大きな信頼を勝ちうることができた」

そしてペリーは日本側に感謝の意を示すためにおよそ70人の幕府役人を招待し、豪華な料理、バンドの演奏にダンス・・・役人の中には酔っぱらってペリーと肩を組む者もいたほど和やかでした。
こうして締結された日米和親条約(1854年3月3日)でしたが、その中には今後日本が他国とこれ以上好条件で条約を締結した場合、その内容が自動的にもアメリカにも適用されるという・・・アメリカに最恵国待遇を与えたのです。

そして黒船の来航は、およそ260年続いた太平の世を揺り起こします。
尊王上運動を誘発し、明治維新へと繋がりました。
ペリー来航から14年後、江戸幕府はついに大政を奉還します。
もしペリーがやって来なかったら・・・??
明治になるのはもっと時間がかかったかもしれません。

日米交流の扉を開いたマシュー・ペリー・・・日米和親条約締結からわずか4年後、アメリカで63歳で死去・・・。
ペリーが日本から持ち帰ったものが、今もアメリカに残されています。
初代大統領ジョージ・ワシントンの功績をたたえるために建てられたワシントン記念塔・・・この一部に幕府からアメリカに送られた伊豆下田の石が使われています。
日本とアメリカの友好の証として・・・!!

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大阪府堺市・・・巨大な古墳群・・・百舌鳥古墳群のなかでひときわ大きな古墳が仁徳天皇陵として知られる大山陵古墳です。
全長およそ486mの前報後円墳で、その面積は約47万㎡で、世界最大です。
クフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵に並ぶ世界三大墳墓です。
この百舌鳥古墳群と古市古墳群が世界遺産となることがほぼ内定しました。
日本国内に16万基以上ある古墳は、3世紀中ごろから7世紀末頃まで作られました。

何のために造られたのか?
誰の墓なのか・・・??

3世紀半ばから7世紀末ごろまで続いたと言われる古墳時代・・・
その幕開けと言われる古墳が奈良県桜井市の纏向遺跡にあります。
纏向遺跡は、初期大和政権発祥の地で、邪馬台国畿内説の候補地です。
その中にあるのが箸墓古墳です。
全長およそ280mの前方後円墳で、現在は孝霊天皇の娘・倭迹迹日百襲姫命が埋葬された陵墓とされ、宮内庁が管理しています。
この時代に作られた古墳の形は様々で・・・その多くは、前方後円墳、前報後方墳・円墳・方墳に分かれています。
中でも前方後円墳は、ヤマト政権の大王やその一族、ヤマト政権と関係を持つ地方豪族が築造を許されていました。
日本オリジナルの形だと言われています。
どうして前方後円墳と言われるようになったのか?
それは、寛政の三奇人と言われた、江戸時代後期の儒学者・蒲生君平です。
君平は、二度にわたって近畿・四国の天皇陵の調査をし、地元調査を丹念に行った結果、車塚と呼ばれていることが多いことに気付きました。
古墳は使者を運ぶ車をかたどったもの??と考え、宮車をかたどったもので前方後円としたのです。
これが現在まで使われているのです。
現在では、この独特な形になった理由として、機能説が有力ですが、前方部の役割に諸説あります。
後円部は使者を埋葬する場所ですが・・・
前方部は①祭壇説②通路説③主従埋葬説などがあります。
結局どうしてこの形なのかは、今でも謎のままです。

当初は、ヤマト政権発祥の地である奈良盆地の東で築造された大和・柳本古墳群(3世紀中ごろ~4世紀前半)、ところが4世紀後半以降になると・・・
奈良盆地の北・佐紀古墳群(4世紀後半~5世紀後半)、西・馬見古墳群(4世紀後半~5世紀後半)、大阪平野の古市古墳群(4世紀末~5世紀末)、百舌鳥古墳群(4世紀末~5世紀末)で作られるようになり、より大きな前方後円墳が登場します。

中でも群を抜いて大きいのが、百舌鳥古墳群にある大山陵古墳・・・
日本書紀などから4世紀末に崩御したと言われる仁徳天皇が眠っていると言われています。
ところが・・・2018年、宮内庁が外部機関となる堺市と共同発掘したところ・・・5世紀の特徴を持った円筒埴輪やそれらが並んでいた痕跡を発見!!
仁徳天皇が崩御した時期とは違うことから、古墳がいつ造られて誰が埋葬されているのか再検討が必要となりました。
宮内庁は学者による調査を認めていませんが、世界遺産登録を機に本格的な発掘調査が行われるかもしれません。

この巨大な前方後円墳には、強大な権力者が埋葬されていることは必至・・・まさに国家プロジェクトでした。
その作り方は・・・??
①立地の選定・・・木を切って土地を平たんにする
②古墳の形を地面に描く
③濠の掘削~盛り土を行う
少し離れた櫓から、責任者が指示を出していました。
④葺石を敷く・・・葺石の数・約536万5千個
6キロ離れた石津川から運ばれてきたと考えられています。
多くの労働力と時間をかけて運ばれてきた石は、太陽の光を反射してキラキラ輝いていたと言われています。
古墳を縁取るように深紅の埴輪が並んでいました。
壮麗で圧巻なことだったことでしょう。
⑤被葬者の埋葬・・・後円部の頂上に穴を掘り埋葬する石室を作ります。
竪穴式石室は古い時代の石室で、石を積み上げて壁を作りその中に棺を入れました。
大山陵古墳は、このような石室が前方部と後円部、それぞれに作られたようです。

大山陵古墳に携わった人数は1日2000人、期間は15年8か月、費用は796億7700万円のビッグプロジェクトでした。
しかし、どうしてそこまで巨大な古墳を作る必要があったのでしょうか?
①支配下に置くものへの力の誇示
可視的な政治権力を見せつける装置でした。
その時々の技術、労働力の限界を追求したものでした。

②現在大山陵古墳から大阪湾までの直線距離は4キロ・・・。
ところが、5世紀当時はもっと海が迫っていました。
大山陵古墳・反正天皇陵・履中天皇陵が海岸線沿いにあったのです。
古墳は海から見えるように巨大にしていました。
国際的・・・外国からくる人に見せつけるためでした。
朝鮮半島の有力者たち渡来人たち・・・国内外に大和政権の権威の大きさを前方後円墳の大きさで示すためでした。
前方後円墳は基本的に見せる墳墓だったのです。
ヤマト政権の大王が勢力を見せつけるための巨大装置として築造した前方後円墳・・・
それはやがて、全国の地で作られるようになります。
誰でも勝手に作れたものではなく、ヤマト政権の認可によって各地の首長が前方後円墳を作ったのです。
ヤマト政権の一員になったことの証でした。

どうして地方の国々は、ヤマト政権の支配下に入ったのでしょうか?
理由は鉄でした。
武器や農具の材料として優れていた鉄ですが、当時の日本ではまだつくることはできませんでした。
そこでヤマト政権は、朝鮮半島南部の伽耶や新羅から大量に入手・・・ヤマト政権の支配下に入れば、その鉄が分け与えられたのです。
ヤマト政権の政治同盟の根幹は、モノ「鉄」とヒト「技術者」の分配で成り立っていました。
地方の国々は、ヤマト政権とネットワークを築くことで「鉄」やそれを使える「技術者」などを手に入れたかったのです。
全国に広がった前方後円墳は、統一国家となった証でもありました。
現在知られているだけでも、岩手県から鹿児島県まで、およそ5200基!!
そうした前方後円墳の中には、装飾古墳もあります。
福岡県桂川町にある王塚古墳もその一つです。
6世紀中ごろに作られたと考えられている前方後円墳で、全長86mあったと考えられています。
古墳からは、100点を超える武器や馬具、銅鏡、装飾品などが出土していますが、中でも多かったのは馬具です。
国内でもトップクラスの豪華さと精密さを誇ります。
装飾古墳と言われる由縁は、石室にあります。
王塚古墳は、横穴式石室で、入り口→羨道→前室→玄室となっています。
その石室は、普段は劣化防止のために非公式です。
6世紀中ごろまでの装飾古墳の5色使われているのは王塚古墳だけです。
使われている色は「赤・黒・緑・白・黄」。描かれている方法は、石室全体をまず赤色に塗り、そこから文様を描くという技法です。
珠文・・・天体をかたどったもの
三角文、靫、太刀、盾などが壁一面に描かれています。
どうしてこのような文様が書かれたのでしょうか?
謎を解くカギは双脚輪状文にありました。
縄文時代、弥生時代の人々は、お守りとして貝のブレスレット(腕輪)を身につけていました。
その貝は、ゴホウラ、スイジガイなどの南でとれる大型の貝でした。
その貝を輪切りにして貝を断面にすると双脚輪状文のような文様に・・・。
魔よけの効果を期待したのでは??
古代の人々は、魔よけの文様を描くことで、被葬者を守っていたと考えられます。
ここに埋葬されたのはどんな人??
4人の人が眠っているとされていますが・・・
様々な見解がありますが、副葬品や装飾品から位の高い首長を祀っていると考えられます。

3世紀中ごろから作られてきた古墳・・・しかし、7世紀に入ると、ヤマト政権の命令によって全国で前方後円墳の築造が停止します。
それは、朝鮮半島で新羅が、隋・唐の力を得て、朝鮮半島の統一にかかります。
それに対する脅威もあって、これに対抗するための連合政権から政権を一つにまとめる中央集権化へ・・・
その中心となったのが、当時推古天皇の摂政だった厩戸皇子(聖徳太子)でした。
冠位十二階で豪族の世襲制を防ぎ、憲法十七条で天皇への服従を唱えさせるなどして、中央集権化を推進・・・政策によって統治する律令国家の誕生で、巨大古墳で力を誇示する必要性が無くなっていったのです。
しかし、巨大な前方後円墳の築造が無くなっただけで、墓としての古墳は作られ続けられます。
その中で位の高いのが方墳です。

奈良県明日香村・・・そこに最大級の方墳があります。
石舞台古墳です。
天井石の上面が広く平らで、まるで舞台のようであることから石舞台と呼ばれてきました。
古墳には大小およそ30個の花こう岩が使われており、一番大きな天井の石だけで77t・・・総重量は2300トンと推定されています。
この古墳・・・もともとは土を盛り上げて作った墳丘が覆っていたのですが、盛り土が失われて横穴式石室がむき出しになってしまっているのです。

遺体を安置した玄室の奥行きが7.6m、高さ4.7m、幅は3.5mとかなり大きなものです。
発掘調査によって、約50m四方の方墳で、濠と外濠が存在していました。
元々あった小さな古墳を壊してその上に築造されています。
築造は7世紀初めごろで、その頃にヤマト政権内で権勢をふるっていた蘇我馬子の庭園が近くにあったことから、この古墳は馬子を祀っているのではないか?と言われています。
どうして石室がむき出しになってしまったのでしょうか?
645年乙巳の変で、中大兄皇子は中臣鎌足たちによって殺害され、日本の歴史に悪人としてその名を刻む蘇我入鹿の祖父・・・。
そのため、多くの人から憎まれて墓を壊されてしまったのではないか?と言われてきました。
しかし、近年蘇我氏の再評価と共に異論も出てきています。
乙巳の変が起きたのは、隋が滅んで唐が建国された東アジアの状況に危機感を抱いた蘇我氏が、権力を集中して難局を乗り切ろうとした時の事でした。
そこで、近年では王族中心の国家にこだわる中大兄皇子が、中臣鎌足たちと共にそれを阻止しようとして蘇我氏を滅ぼし、それを隠蔽するために鎌足の子・不比等が日本書紀を編纂する為に蘇我氏を悪人に仕立てたのでは?とされています。
事実、蘇我氏は多くの人に支持されていたようで・・・
710年平城京遷都の際には、多くの人が蘇我氏の全盛期であった「飛鳥の都に戻りたい」「飛鳥の者が懐かしい」と、訴え続けていたといいます。
そんな思いを断ち切らせるために、為政者たちは人々が飛鳥京を懐かしまないように蘇我氏の権力の象徴だった石舞台古墳を破壊したのでは?と言われています。

645年の大化の改新後、古墳をめぐる状況は急展開します。
翌646年簿葬令の発布によって、
・身分によって墳墓の規模を制限
・王墓の築造にかける日数は7日以内
となりました。

そのため、古墳を築くことができるのは、一部の有力者の身になりました。
やがて古墳は小型化が進み、その代わりに古墳の内部を彩る極彩色壁画が施されるようになります。
その代表が高松塚古墳やキトラ古墳です。
王族を祀るために7世紀末から8世紀初め見かけて作られた終末期古墳です。
高松塚古墳の極彩色壁画には、方角を司る四神や女子群像などが色鮮やかに描かれ、キトラ古墳の石室天井には東アジア最古の天文図が・・・
どちらも当時の事を知る貴重な資料です。

そして古墳時代は終焉を迎えます。
カギを握るのは、天武・持統天皇陵です。
正八角形を形どった八角墳で、特別な存在である天皇だけに許された形でした。
二人が一緒に埋葬されているのは、持統天皇が夫である天武天皇と共に埋葬してほしいと願ったため・・・。
さらにその際、土倉ではなく仏教思想の火葬を望んだのです。

持統天皇は初めて火葬された天皇で、これ以降、その風習が広まっていったといいます。
それに伴って、古墳のような大きな墳墓は必要なくなっていきました。
こうして400年に渡った古墳時代は終わったのです。

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天文で解ける箸墓古墳の謎 (奈良の古代文化) [ 豆板敏男 ]

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馬子の墓 誰が石舞台古墳を暴いたのか

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万葉集・・・8世紀泥編纂された現存する日本最古の歌集です。
日本人の心のふるさとともいわれています。
全20巻に及ぶ歌集「万葉集」
そこに収録されている歌は、短歌:約4200首、長歌:約260首、旋頭歌:約60首・・・計4516首です。

タイトルの「万葉集」については諸説ありますが、万葉=万代(世)という意味があることからこの歌集が末永く伝わりますようにという願いが込められているといいます。
そんな万葉集の第1巻は、5世紀後半の日本を統治したという21代雄略天皇の長歌から始まります。

籠もよ
み籠持ち
ふくしもよ
みぶくし持ち
この岡に
菜摘ます児
家告らせ
名告らさね

から始まります。

これをわかりやすく読み砕くと・・・
「これは良いカゴを持ってらっしゃるし土を掘るヘラも良いものですね
 若菜摘みをしてらっしゃるお嬢さん方、家はどこです?お名前をおっしゃいなさいな」
しかし、当時名前を聞くのはプロポーズに当たり、答えないため・・・天皇は、

そらみつ
大和の国は
おしなべて
吾こそ居れ
しきなべて
吾こそいませ
吾こそは
告らめ
家をも名をも

この大和は私が君臨している国。
隅々まで私が治めているのですぞ。
それでも言わぬなら私から名乗りましょう。

なぜ万葉集はこの雄略天皇の歌から始まるのでしょうか?

雄略天皇は、国土統一の英雄とされています。
日本が雄略天皇によって統一されたと万葉集が編纂された8世紀の人々は考えていました。
歌集の価値を高める時に巻頭の歌は重要で、偉大な雄略天皇の歌を巻頭に置くことで、歌集としての価値を高めようとしたのです。

万葉集を編纂したのは、奈良時代の歌人で名門貴族の出である大伴家持が有力視されています。

新元号令和の由来は、万葉集・梅花歌三十二首の序文・・・
そしてその歌が詠まれた宴を開いたのが家持の父・大伴旅人でした。
家持は旅人の長男として奈良時代の初頭・・・718年頃平城京で生まれ育ちました。
そもそも大伴氏は大和政権の古参の名門氏族で、エリートでした。
家持は幼少のころから学問に勤しみ、十代半ばで歌を詠み始めたとされています。
そして20代後半・・・746年に国守(県知事)として越中国に赴任します。
雄大な風景に魅了されて、多くの歌を詠み始めます。

馬並めて
 いざ打ち行かな
       渋谿の
清き磯廻に
   寄する波見に

こうしてお気に入りの場所を歌に詠む一方で、

春の日に
  萌れる柳を
     取り持ちて
見れば都の
   大路し思ほゆ

これには裏の意味があるともいわれ・・・
柳は当時の都で流行っていた女性の細い眉の事・・・。
家持は柳を見ることで美しい都の女性たちを遠く越中の国から懐かしんでいたようなのです。

万葉集に収録されている家持の歌は473首。
4516首の一割以上をしめ最多!!
全20巻からなる万葉集は・・・
巻1、2、3は宮廷関係の歌
巻9は柿本人麻呂など有名家人の歌など特色がありますが・・・
巻17,18,19,20は家持の歌日記のような内容です。
さらに巻4大伴氏に関係する歌、巻5大友旅人の歌・・・と、家持の親族の歌が多く収められていることから、万葉集の編纂者ではないか?という説が古くからあるのです。

もしそうなら、本当に家持が多くの歌を編纂したのでしょうか?
万葉集は、多くの歌集を集めてきたものです。
万葉集以前にあった様々な歌集を集めて、最終的にまとめたのが大友家持だったと思われます。
天皇が歌を詠みなさいと呼びかけたときに歌が読めないと無作法に当たる・・・
そこで、宮廷社会を生き抜くために、常日頃から勉強し、スキルアップすることが必要なのです。

万葉集には防人たちの歌も数多くありますが、その歌を編纂したのも家持でした。
家持は754年兵部少輔に就任・・・防人たちを監督することになり、その際、防人たちから歌を集めたのです。
そうして集まった166首の中から厳選した防人の歌84首を万葉集に収録。
防人の妻が読んだ歌もあります。
当時、東国で徴兵された防人たちは、九州までの交通費は自費負担。
しかも任期は3年・・・それも延長されることが多く、力尽きて命を落とす者も少なくありませんでした。

万葉集には万葉仮名が使われています。
当時はまだカタカナもひらがなもなく、文字は中国から伝わった漢字のみでした。
そして日本語を表記する時もすべて漢字。
日本語の発音に漢字の読みを当てたのが万葉仮名です。
しかし、万葉集の中には皇族や貴族だけでなく、役人、兵士、農民、芸人、遊女などの歌もあります。
さらに名もなき人の歌も多く、およそ半数の2103首が「読み人知らず」です。
当時はまだ読み書きのできない人が多く、全ての人が万葉仮名を使いこなしていたとは考えにくいのですが・・・
実際は・・・??
詠った人と書いた人は別??全員が文字が書けたわけでもなく、役人たちは漢字を学んでいました。
文字が書けない人々の歌を、文字が書ける階級の人々が書き残した・・・それがいつしか万葉集として編纂されたのです。
万葉仮名はいつまで使われたのでしょうか?
平安時代以降には、万葉集はすでに読めなくなっていたと思われます。
少なくとも10世紀には読めなくなっていたので、それ以前にはすでに使われなくなっていたと思われます。
そのため、平安時代中期には万葉集の解読は困難だったようで、62代村上天皇は5人の家人に解読作業を命じています。
そして鎌倉時代中期には、万葉集の研究に全てを雪いだ学問僧・仙覚が全ての歌に読みをつけ、注釈を加えた「万葉集注釈」を完成。
これが現代の万葉集研究の基礎となっています。

万葉集に収録されたおよそ4500首・・・
その作品は主に4つの時代に区分されています。
第1期は、初期万葉時代(629~672年)・・・舒明天皇即位~壬申の乱
素朴でおおらかな歌が多いのが特徴です。
中大兄皇子と共に、大化の改新の立役者となった藤原鎌足の歌も収められています。
鎌足の歌は、采女を手に入れたと嬉しそうな歌です。
采女とは、天皇の日常の雑事に従事する女官のことで、地方豪族の娘の中から容姿端麗な者が選ばれていました。
そして天皇の妻となる可能性もある人・・・天皇以外の者が采女と恋仲になるのは厳禁・・・話しかけることもダメでした。
そんな中、天智天皇は功績のあった鎌足にあってはそれを許す・・・
それは、結婚を許すと同時に、特別な配慮を天皇から受けた・・・名誉を受けた歌となっています。

初期万葉時代を代表する歌人と言えば額田王。
後世に描かれた肖像画によって絶世の美女だったと言われています。
残された歌から宮廷歌人だったのでは?と思われますが、謎が多く、僅かな手掛かりは日本書紀の一文・・・
額田姫王・・・大海人皇子(のちの天武天皇)に嫁ぎ、皇女を一人産んだ
嫁いだ経緯は記されていないものの、宮廷詩人として仕えていた際に、大海人皇子に見初められたのでは?とされています。
そんな額田王の歌は・・・??

君待つと 
 我が恋ひ居れば
    我が屋戸の
 簾動かし
    秋の風吹く

あなたが来るかなあ・・・と待っていたら部屋のすだれが動いた・・・
と思って喜んだのに秋風が吹いただけだった。

当時は、通い婚でした。
この歌を素直に読めば、愛する夫を心待ちにしている額田王ですが、実は額田王は夫である大海人皇子ではありませんでした。

この歌は、夫である大海人皇子の実の兄・・・時の天皇となった天智天皇に向けて読まれた歌です。
つまり、禁断の恋・・・夫の兄が来るのを待っていたのです。

宮廷社会は天皇から寵愛を受ける・・・それはすべてに優先されていました。
当時の慣習としては一般的だったと思われます。
更に万葉集には続きが・・・天智天皇が近江国の蒲生野で、薬狩(山野に出て鹿の若角や薬草を取りに行く行事)に出かけたとき、これに同行していた額田王と大海人皇子はこんな歌を詠みます。

額田王が・・・

あかねさす
  紫野行き
   標野行き
野守は見ずや
  君が袖振る

これに対し大海人皇子は

紫草の
  にほえる妹を
    憎くあらば
人妻ゆえに
 我恋ひめやも

未練たらたら・・・大海人皇子は、額田王を諦めきれなかったのでしょうか?
この後、天智天皇は次期天皇の筆頭候補だった大海人皇子を差し置いて、実子である大友の皇子に皇位を譲渡。
これが原因で壬申の乱が勃発しました。
万葉集を知ると、額田王をめぐる大海人皇子と天智天皇の確執もあるのでは?と、考えられます。
が・・・実際のところはどうだったのでしょうか?

この歌のやり取りは、大海人皇子が40歳前後、額田王が30代半ばを過ぎた頃・・・
今風に言えば、若い頃のコイバナを自虐的に詠んで宴を盛り上げた!!ぐらいです。
二人が交わしたのは恋の歌ではなく、壬申の乱とも無関係と思われます。


第2期は、白鳳万葉時代(672~710年)・・・壬申の乱~平城京遷都の頃で、力強い歌が多いのが特徴です。
有名な歌人は柿本人麻呂です。
万葉集以外、古代の文献には一切登場しないため、謎の歌人と言われています。
生没年不詳・・・経歴も不明・・・しかし、持統天皇などに仕えた宮廷詩人でした。
天皇をほめたたえる歌や、皇族の死を惜しむ歌など、儀礼的な歌を数多く読んでいます。
しかし、その一方、妻への恋の歌も・・・。
人麻呂が創出したとされる枕詞には、「足走る」「あさもよし」「鶏が鳴く」などがあり、歌人の模範とされ平安時代には歌聖と称されるようになります。
さらに鎌倉時代には、歌の神として全国各地に祀られるようになりました。
歌の神・柿本人麻呂を祀る神社は、山陰地方を中心に北海道から熊本県まで、全国に200以上にのぼります。
人麻呂は、その名が「火とまる」「人うまれる」に似ていることから、火伏の神や安産の神として祀られました。
歌人として頂点を極めた人麻呂は、今なお人々の厚い信仰を集めているのです。

万葉集の中で、最も多いのが恋の歌です。
全体の7割・・・およそ3000種が恋の歌です。
どうしてこんなに恋の歌を詠んだのでしょうか?
市場、橋のたもと、山の中で男女が一緒に歌を掛け合う・・・
歌をどれだけうまく返せるのか?で、人柄や知識の有無を判断していたのです。
当時は歌の上手な人がモテ、結婚相手を探していたようです。


第3期は、平常万葉時代(710~730前後)平城京遷都~山上憶良没頃は個性的な歌が多くみられます。

第五巻に収録されている「貧窮問答歌」もその一つです。
当時の民衆の貧しさと苦しさを切々と詠んだもので、詠み人は、社会派詩人と言われる山上憶良でした。
歌の前半は、憶良が下級役人だったころのみじめな貧しい暮らしぶりを詠んだものです。
晩年こそ貴族となっていた憶良でしたが、家の格が低く、40歳を過ぎて遣唐使に任命されるまでは、無位無官でした。
歌の後半は、食べる者さえロクにない農民たちの貧しい過酷な現状が詠まれています。
当時、税としての米の取り立ては非常に厳しく、餓死者も出るほどでした。
万葉集に収録された「貧窮問答歌」は、当時の庶民の暮らしを今に伝えてくれる貴重な資料でもあります。


第4期は、天平万葉時代(730前後~759年)山上憶良没後~最終歌は、優美な歌が多くあります。
繊細で優美な歌が多いことから、万葉集の成熟期と言われています。
代表的な歌人は、万葉集の編纂者と言われる大伴家持。
万葉集の最後の一種・・・結びの歌は、この家持が詠んでいます。

新しき
  年の初めの
      初春の
今日振る雪の
    いやしけ吉事

759年の正月、国守として因幡邦で詠んだ歌です。
新年を迎え、希望に満ち溢れている家持ですが、この歌を最後に亡くなるまでの25年間、家持の歌は一首も残っていません。
家持自身が世の中に絶望し、歌を詠うことをやめてしまったという人もいます。
しかし、家持が役人生活をしている以上は詠んでいないということは考えられず、結びの歌以降も歌は詠み続けていたものの、万葉集に取り込まれなかったと考えるのが妥当です。
晩年に詠まれた歌は、世に出なかったからでは??
それではどうして世に出なかったのか?
当時の大伴氏が置かれていた状況にあります。
万葉集の結びの歌が詠まれた8世紀中ごろ・・・朝廷の中心にいたのは、大納言・藤原仲麻呂を筆頭とする藤原氏でした。
しかし、権勢を振り翳す仲麻呂に対し、古くから天皇に仕えてきた面々は、不満を抱いていました。
そうした者たちが、仲麻呂の暗殺を画策!!
757年橘奈良麻呂の乱です。
これに大伴氏の一族も加わったのですが、事前に計画が漏れてしまい、加担したものは、拷問死、もしくは流罪となってしまいます。
762年・・・今度は家持自身が、仲間と共に藤原仲麻呂の暗殺を画策!!
しかし、これも事前に計画が露呈・・・
仲間の一人が罪を被ったことで、家持は無罪となりましたが、翌年報復人事で薩摩国へ左遷されてしまいました。
これで出世の道は絶たれたと思われましたが、ほどなくして藤原仲麻呂が孝謙上皇と対立し、謀反を起こし殺害されてしまいます。
そののち、家持は大宰府の最高次官をへて都への復帰が叶い、中納言まで昇進!!
785年、60代後半でこの世を去りました。

ところが・・・死後の家持にまたもや悲劇が・・・!!
家持がこの世を去った20日ほど後・・・785年10月31日、大伴氏の一族が長岡京遷都の責任者だった藤原の種継を暗殺してしまいます。

実行犯たちは斬首刑に・・・そしてなんと、すでに亡くなっていた家持まで生前関わっていたと処罰を受けます。
その罰は、家持の遺体の埋葬禁止、官位の剥奪、領地の没収、無実の嫡男を隠岐へ追放・・・
そうした処罰の一環として、万葉集結びの歌以降に詠んだ歌が破棄された可能性があるのです。

だから・・・家持の晩年の歌が世に出なかった・・・??
恩赦が実施され、家持が名誉を回復したのは、それから21年後・・・806年のことでした。

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昭和7年・・・1932年5月15日、日本中を震撼させた事件がおこりました。
時の内閣総理大臣・犬養毅殺害!!世に言う五・一五事件です。
海軍青年将校・・・・・6人
陸軍士官候補生・・11人
元士官候補生・・・・・1人
民間人・・・・・・・・・・・9人
計27人による事件です。
彼等はどうして凶行に及んだのでしょうか?

1932年5月15日、事件当日・・・
その日は五月晴れの青空がまぶしい日曜日で、首相官邸にも穏やかな空気が流れていました。
この日、犬養夫人は帝国ホテルで行われる結婚式に出席、三男・健は相撲見物に出かけていました。
犬養総理は、首相官邸でパンとコーヒーという軽い食事を済ませた後、新緑の庭に出て休日を過ごしていました。
犬養総理がのんびりと休日を過ごしている中、あわただしく動いていた者たちが・・・
首相官邸を襲撃することになる三上卓海軍中尉と黒岩勇海軍予備少尉です。

5月15日午前8時ごろ・・・襲撃まで9時間30分!!
事件の首謀者の一人である三上卓海軍中尉はこの時27歳、海軍の幹部である階級としてはまだ下位でしたが、将来を嘱望されたエリートでした。
前日・・・所属部隊のあった広島県呉市から上京!!
周囲に悟られないように祖母に”ハハシス スグカエレ”という嘘の電報を打ってもらうと、10日間の休みを取っていました。
事件当日・・・三上は黒岩と共に襲撃に備えて奔走していました。
国民に対して撒く檄文を作らなくてはなりません。
ビラを製作するガリ版と神を購入し、襲撃近くの旅館でその文面を考えていました。
三上が檄文を担当したのには理由がありました。
読書家で、文章を書くのが得意で、檄文も当日速攻で書き上げています。

日本国民に檄す!

日本国民よ!
刻下の祖国日本を直視せよ
政治、外交、経済、教育、思想、軍事、
何処に皇国日本の姿ありや・・・

(略)

日本は今や欺くの如き錯綜せる
堕落の淵に死なんとしてゐる
革新の時期!!
今にしてたたずむば日本は滅亡せんのみ

国民諸君よ
武器を執って立て!

そう国民に呼びかけた青年将校たちの決起の目的とは・・・??
彼等は当時の日本をひどく憂いていました。

①政府への不満
1930年ロンドンで・・・ロンドン海軍軍縮会議が行われました。
巡洋艦・駆逐艦などの各国の保持比率が決められたのですが・・・
日本は保有する巡洋艦の割合を対アメリカで7割を主張するも、僅かに減らされ6.975割となったのです。
それにもかかわらず、当時の内閣総理大臣・浜口雄幸は世界から日本が孤立する可能性があると考えて海軍の反対を押し切り調印しました。
青年将校らは、政府の軟弱外交に憤っていたのです。

日本の政界は、立憲政友会と立憲民政党が常に対立!!
政治が上手く回っていないばかりか、汚職事件がはびこっていました。

そんな中・・・
1931年9月、中国で陸軍・関東軍が満州鉄道を爆破、満州事件が勃発しました。
浜口内閣に代わって政権を担っていた立憲民政党の岩槻礼次郎内閣が満州事件の騒動の責任を取って総辞職、そんな日本を立て直そうと内閣総理大臣になったのは立憲政友会の犬養毅でした。
この時、76歳。
総理となった犬養は、満州国建国に反対を唱えます。

②財閥
昭和初期、1929年ニューヨーク株式市場の株の大暴落に端を発した世界恐慌は日本へも波及・・・。
アメリカ市場に依存していた日本の生糸産業は大打撃を受けます。
さらに、賃金引き下げや倒産が相次ぎ、都市には失業者で溢れていました。
おまけに米価の大暴落、冷害・・・東北の大飢饉・・・
そんな中、日本の財閥は、日本の円が下落することを見越して、安定したアメリカのドルを買いに走ります。
すると、庶民の窮状にもかかわらず、利益を独占しようとしていると・・・
1932年2月9日、井上準之助(大蔵大臣)暗殺。
3月5日、段琢磨(三井財閥総帥)暗殺・・・襲撃事件が相次ぎます。
そんな財閥と政府が癒着していたこともあって、三上達の不満は爆発します。
彼等は、政党政治を打倒して、国家改造を成し遂げようとしたのです。
貧困にあえいでいる農民や労働者を救うには、財閥や特権階級と癒着した政党政治を無くし、新たな国家を建設しようとしたのです。

目指すは、国家改造!!
諸悪の根源である政党や財閥を倒そうとしたのです。
昭和維新の名のもとに・・・!!

どうして襲撃が5月15日となったのでしょうか?
第2次計画では、5月上旬~中旬に開かれる帝国議会を襲撃し、議会を大混乱に陥れようとしていたのですが・・・
新聞にこんな記事が・・・”喜劇王と首相・官邸で会見”
世界の喜劇王チャールズ・チャップリンが来日、その歓迎会が15日に首相官邸で行われるという・・・!!
5月15日に開かれるチャップリンの歓迎会を狙えば、そこに集まる政府要人・特権階級を一度に狙うことができる・・・!!と、考えたのです。
あわよくば、チャップリンを殺害することで、日米関係を悪化させられると考えました。
しかし・・・仲間の中には不安を感じるものも・・・!!
「確実にチャップリンの歓迎会は、首相官邸で行われえるのか・・・??」
それを確かめることができなかったので、チャップリン殺害計画は白紙に・・・。


決行日は変更されずに、首相官邸と他二カ所の襲撃に計画は練り直されました。
実際、5月15日に、チャップリンは犬養首相の息子と相撲観戦に出かけ、首相との面会はキャンセルしていたようです。
計画は二転三転し、最終の第五次計画が出来上がったのは事件の僅か3日前でした。
5月15日午後5時30分に襲撃が決まりました。

第一組が襲撃するのは政治のTOP・犬養毅のいる首相官邸!!
第二組は天皇を補佐する立場にあった牧野伸顕内大臣官邸!!
第三組は政党政治の中核・立憲政友会本部!!
青年将校たちは、それぞれの場所を襲撃したのち、警視庁・・・警察の力を弱める手はずになっていました。
その後で第四組が、財閥の代表として三菱銀行本社・・・別動隊が東京周辺の変電所6カ所を襲い、治安を乱したうえで戒厳令を敷き、軍政府をつくろうという大胆な計画でした。
青年将校たちは、飯倉に会った海軍の社交クラブ・水交社にいったん集まります。

5月15日午後3時00分・・・襲撃まで2時間30分!!
国民に革命の決起を促す檄文のビラを刷り終えた三上たちも水交社に来て、軍服に着替えていました。
ところが、三上が身に着けたのは、中尉の軍服ではなく大尉のものでした。
広島県呉市から上京した三上は、軍服を持っておらず、襲撃前日に銀座に買いに行きました。
しかし、海軍中尉の服はなく、店主は・・・
「手直しが必要ですので少々お時間をいただけますでしょうか?」
「時間がないんだ・・・」
「大尉の軍服を直すのであれば、明日までにできますが、いかがでしょうか?」
「では・・・そうしてくれ、遅くとも、明日のお昼過ぎまでには届けてほしい・・・」
と、届いた大尉の服を身に着けて、共に首相官邸を襲撃する山岸宏海軍中尉に500枚のビラを託し、一足先に、黒岩海軍予備少尉と第一組の集合場所である靖国神社へ。
その15分後・・・託されたビラを抱えた山岸中尉が靖国神社へと向かいます。
その頃、首相官邸は・・・満州問題解決のために犬養毅首相が密使として中国に送っていた腹心である萱野長知が訪ねてきていました。
犬養は、得意の囲碁を楽しんだといいます。
そして総理はこう言いました。
「一緒に夕食でもどうだい?」
しかし、萱野は用事があったために丁重に断って官邸を出ます。
事件の後、萱野はこう言ったといいます。
「あの時俺が帰らず犬養さんと一緒にいたら、殺させはしなかった」

5月15日午後4時30分・・・襲撃まで1時間!!

他の襲撃部隊もそれぞれの集合場所へと向かっていました。
第三組は新橋駅、第二組は泉岳寺へと向かっていました。

5月15日午後5時00分・・・襲撃まで30分!!
全員が集合した第二組と第三組は、タクシーで目立たないように・・・車を使うことを決められていました。
他にも、使用する武器の数も、拳銃は妨害者に対してのみ使うなど、
細かく決められていました。
この日要したのは、拳銃13挺、短刀15本、手榴弾21個・・・。
拳銃は、計画に協力したいというものから届いたもので、それぞれが持ち寄ったり購入したり・・・手榴弾の殆どは、三上が戦闘員として出動していた時に弾薬庫から盗んだものでした。
武器はすべて事件当日、各組に分配されました。

5月15日午後5時10分・・・襲撃まで20分!!

遅れて第一組である首相官邸襲撃部隊が靖国神社に集合!!
メンバーは、三上卓、黒岩勇、山岸宏、村山格之、陸軍士官候補生5人の計9人・・・。
彼等は首相官邸の表門と裏門に分かれて襲撃予定でした。
表組は三上・黒岩達5人、裏門は山岸・村山達4人!!
初対面のものもいましたが、特に名乗ることも銭司にタクシーで急ぎます。
しかし、その途中で三上が・・・
「ちょっと待ってくれ」
そう言ってタクシーを止めさせました。
そこで向かったのは駄菓子屋で、キャラメルを二つ買うと、裏門組のタクシーにも一つ分けました。
これはカモフラージュ・・・キャラメルを渡しながらこうささやきました。

「そっちに拳銃一丁余ってないか・・・??」

三上は、タクシーに乗ってから自分の使う拳銃が一つないことに気付いたのです。
裏門組に混じってしまった・・・??
山岸もとりあえず、自分の拳銃と弾丸を三上に渡し・・・
「この拳銃は調子が悪いから1つしか弾が入っていない・・・撃ったら装填を忘れるな!!」
そして首相官邸に向かったのです。



その頃、犬養毅は耳鼻科医の往診を受けて・・・そして往診が終わったところでした。

5月15日午後5時過ぎ・・・牧野内大臣官邸襲撃!!
集合場所である泉岳寺を出た第二組の古賀清志たち5人は、予定より早く内大臣官邸に到着してしまいました。
しかし、古賀は時間を待たずに決行!!
車を降りると遠く離れた場所から玄関に手榴弾ひとつを投げ込みました。
爆発はしたものの・・・玄関から30mも手前でした。
古賀に続いて元士官候補生も手榴弾を投げ込みます。
ところが・・・これが不発!!
士官候補生たちは手榴弾の使い方を教わっていませんでした。
襲撃としてはお粗末でしたが、彼らはそれ以上は何もせずに三上が作ったビラをまきながら、次の襲撃とである警視庁に向かいました。
古賀は警視庁襲撃を最終決戦と考えていたために、牧野内大臣の殺害はせずに脅すだけに留めたのです。

午後5時30分・・・立憲政友会本部襲撃!!
新橋駅で合流した中村義雄海軍中尉と陸軍士官候補生3人の第三組は、襲撃する立憲政友会本部に到着!!
午後5時30分を待って、玄関に中村中尉が手榴弾を二発投げ込みました。
しかし、ここでも不発!!
ここで使用する上限の2個を使い果たしてしまいました。
士官候補生は、次の警視庁襲撃用の手榴弾を持って車を降りました。
そして・・・その手榴弾を投げます!!
仲村らは爆発を確認すると、車に乗り込んで警視庁に向かいました。
この間、わずか3分の出来事でした。

首相官邸の表門と裏門に別れて襲撃することになっていた第一組・・・
表門組は、タクシーに乗ったまま、表門を難なく通過!!
特に不審がられませんでした。
そしてタクシーを降りると、護衛に用件を聞かれます。

「自分は名刺を持ち合わせていないが、海軍大学の副長である。
 校長の至急の要件で、是非総理に会いたいので、その旨、伝えてくれ。」

そう咄嗟に出まかせを言うと、玄関横の応接室に通されます。
しかし・・・護衛はなかなか総理に会わせようとはしません。
三上は・・・「案内しろ!!」と、銃を突き付けます。
護衛は、案内するそぶりを見せて玄関に向かって走り出しました。
「総理が危ない!!」
逃げる護衛に向かって士官候補生が発砲!!
この銃声に官邸内は騒然となりました。

一方、裏門組は官邸の手前でタクシーを降りますが、下見をしていなかったために入り口がわからずただウロウロ・・・。
焦る山岸海軍中尉は、三上から預かったビラ500枚が邪魔になり、ごみ箱に捨ててしまいます。
そんな中、表門の最初の銃声が響きます。
山岸らが銃声の方へ走っていくと裏門が・・・!!
そこでオロオロしていた護衛たちが助けが来たのだと勘違いし、山岸らを官邸内に案内してしまいました。

その頃、表門の三上達はいつも犬養総理がいるという日本間を必死に探していました。
すると三上が廊下の先に板戸を発見!!
三上はその板戸を足でけ破ると・・・廊下を進む三上達は、護衛を見つけました。
腹部に向けて発砲!!もう一人の護衛は震え上がり・・・
「総理の居場所は知りません。」
三上は聞きだすことを諦めて、部屋を出ると、そこで裏門組と合流!!

「必ずいる!!」

廊下を走って・・・その先の戸を開けると・・・逃げる様子もなく、犬養首相は食堂にいました。
三上はすかさず引き金を引きました!!
しかし、弾は発射されず・・・!!
装填することを忘れていたのです。

護衛に対して撃ったので・・・弾がなかったのです。
装填しようとする三上に、ゆっくりと近づいた犬養は、

「まあまて・・・そう騒がんでも話をすればわかる
 あちらへ行こう・・・話せばわかる・・・」

その真相とは・・・??

この頃犬養は、よく自分の名前をこう言っていました。
「いぬかい き」
毅を「き」と呼んだのです。
毅然の毅・・・
強い意志を持って生きる・・・それは、犬養が生涯貫いた哲学でした。
そんな犬養が毅然として立ち向かおうとしたもの・・・それは、腐敗した政界を浄化し、二大政党のもとで政党政治を行うことでした。
それは理想の日本を造るため・・・
犬養は凶弾に倒れる前にこう言っています。

「吾輩の理想としては、すべての国民が国家の恵沢に潤うものでなくてはならぬ
 今の政治は裏長屋の墨にまでは及んでおらぬ」

方法は違うが、日本が置かれた状況を良くしたいという思いは同じだと話したかったのです。

襲撃に来た三上達に日本間に招き、落ち着いた態度でこう言いました。
「まあ・・・靴を脱いだらどうだ
 急がんでも話せばわかることだ」

銃を突き付けられても、こう言って・・・次の言葉を発しようとしたその時・・・
傍にいた山岸がこう叫びました。
「問答無用!! 撃て撃て!!」

この声と同時に入ってきた黒岩達が立て続けに発砲!!
さらに三上も頭に向けて銃弾を放ちました。
即死したと思い込んだ三上達は、部屋を出て次の目的地である警視庁に向かいました。
この時、首相に向けられた銃弾は7発でしたが、命中したのは2発でした。

総理はまだ息がありました。
そして駆けつけたお手伝いさんに向かって言いました。

「いまの若いもんをもう1度よんで来い・・・話して聞かせてやる・・・!!」

5月15日午後5時35分・・・第三組、警視庁襲撃!!

それぞれの襲撃を終え、警視庁に向かう部隊三組・・・最初に警視庁についたのは、中村率いる第三組でした。
到着順に襲撃することになっていたので、すぐに窓に向け手榴弾を投げ込むも・・・不発!!
再度投げ込むと電信柱に命中し爆発するも、窓を割っただけでした。
これで手持ちの手榴弾を使い果たした中村たちは、自首する為に憲兵隊本部へ車で向かいます。

5時40分、第二組、警視庁襲撃!!
わずか五分後、古賀率いる第二組が到着!!
士官候補生二人が、玄関の石段に手榴弾を投げつけましたが、二発とも不発に終わります。
すると、第三組の爆発に驚いて出てきた警察官・・・古賀や士官候補生たちは威嚇射撃し、タクシーに急いで戻り憲兵隊本部へ自首しました。

残る首相官邸襲撃組の一組は、警視庁に向かったものの他のものがすでに襲撃していたために憲兵隊本部へ。
こうしてすべての者が自首しましたが、襲撃から30分の経過していませんでした。
丁度その頃、襲撃を躊躇しているものが一人・・・
まだ学生だった奥田秀夫です。
どうして軍人でもない奥田一人に三菱銀行本社襲撃を任せたのかはわかりませんが、奥田が動き出したのは、日暮れになってからの事でした。
午後7時00分・・・三菱銀行本社襲撃
裏庭に向かって手榴弾を投げましたが・・・ところが、木の枝に当たり裏庭まで届かずに道に落ちて爆発!!
奥田は急いでその場を立ち去り・・・翌日別の場所を襲撃しようと考え自首はせず、友人の家に泊まりました。
しかし・・・翌日下宿先に戻ったところを逮捕されます。

午後7時00分・・・変電所襲撃!!
別動隊tの農民たちが、別れて東京周辺の変電所に農民たちがいました。
目的は、6カ所同時に襲って、東京に大停電をおこし、さらに混乱させようとしたのです。
ところが・・・事前に変電所の仕組みを勉強していたものの、多くの者が理解できていませんでした。
そこで、手当たり次第にスイッチを切ったり、ハンマーでたたいたり、手榴弾を投げたり・・・
結果は僅かに損傷しただけでそれどころか、怖気づいて断念したものや、施設に侵入しても何もできずにいる者もいました。
結果はお粗末なものでした。
こうして犯行に及んだ別動隊の者は、翌日に全員逮捕されるのです。

青年将校襲撃から7時間後・・・5月16日午前2時35分・・・。
犬養毅総理が息を引き取りました。
現職総理大臣が殺害されたのはこれが最初で、以後起こっていません。
その10日後・・・元海軍大将の斎藤実が第30代内閣総理大臣となります。
犬養たちの政党政治は終わりを告げました。
これによって皮肉にも青年将校たちの目的の一つが達成されました。

実行犯たちの裁判が開始されました。
三上卓・黒岩勇・古賀清志は死刑を求刑されます。
1933年11月9日判決!!
ところが判決は驚くべきものでした。
反乱罪として死刑を求刑されていた三上達・・・三上卓・禁固15年、黒岩勇・禁錮13年、古賀清志・禁固15年!!
無期懲役を求刑されていた中村義雄、山岸宏は禁固10年と大きく減刑されました。
事件後、日本の現状に不満を持ち、三上達に賛同した農民や軍関係者、退役軍人たちから助命嘆願が集まっていたのです。
その数・・・100万通・・・。
その世論が、判決に影響したと思われます。
また、軍法会議であったために、軍が将校たちを守ったとも・・・
その翌年・・・1934年2月3日、三菱銀行本社を襲撃した奥田秀夫や変電所を襲撃した農民たち・・・民間人の裁判が行われました。
懲役15年を求刑されていた奥田は懲役12年に・・・変電所を襲撃した農民たちは懲役7~10年から懲役3年半~7年に・・・その度合いが違っていたので、将校たちへの甘さが際立ち、非難の声が上がったといいます。

時の総理大臣暗殺という凶行・・・事件を知った新聞各紙は号外を出しますが、発禁処分にされてしまいます。
それ以後、報道は軍部に遠慮して委縮、このメディアの沈黙こそが、軍部の暴走生んだと、後に犬養毅のお孫さんが語っていたといいます。
事件後、日本は犬養毅総理が望んでいなかった満州国を承認、国際連盟を脱退・・・世界から孤立していきます。
そして・・・戦争への道程をひた走っていくようになるのです。

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男たちを虜にし、江戸の文化と流行の発信地となった幕府公認の遊郭・吉原・・・そこは一日千両という大金の動く不夜城・・・男たちが一度は訪れたいと憧れた場所でした。
しかし、それは浅草日本堤に会った新吉原のこと・・・。
その始まり・・・「元吉原」は江戸時代を通じ商業の中心地であった日本橋人形町にありました。
元吉原が登場したのは今から400年前・・・

1590年7月、豊臣秀吉による小田原討伐が成功し、臣下であった徳川家康に関八州への国替えを命じます。
8月、家康は江戸へ・・・目の前に広がっていたのは、茅葺の粗末な家が100軒あるかないかという寂しい町と葦の湿地帯でした。
その状況に家臣たちは落胆しますが、家康は「思いのままに城下町をつくることができる」と思っていました。
秀吉が亡くなって天下を取った家康は、1603年江戸幕府を開きます。
本格的な江戸城造改築と町の整備拡大に・・・。
天下普請の大号令のもと、全国の大名に工事が振り分けられました。
大工などの職人たちも各地から集まり、江戸は男たちで溢れかえります。

そんな男たちを当て込んでできたのが遊女屋でした。
その遊女となったのは、北関東の貧しい農家の娘たちが殆どでした。
遊女屋の数は瞬く間に増えていきます。慶長年間には、京橋・鎌倉河岸・麹町・・・50軒以上!!
その状況に慌てたのが幕府でした。
慌てた理由は火事・・・!!
遊女屋には風呂があり、火を扱っていたので火事を起こす可能性があり、もしそうなればせっかく作った町が燃えてしまう・・・!!
幕府は遊女屋の場所替えを命じたり、遊女屋に属さない遊女100人余りを箱根の西に追い払います。



1605年、遊女屋を集め遊郭をつくるように幕府に嘆願したのは庄司甚右衛門でした。
一節には甚右衛門は、小田原北条氏に使える武士の子だったと言われています。
小田原城が落城した際に、主君と父を失い浪人に・・・
江戸に出たのち、生きていくために遊女屋の経営を始めたと言われています。
この時は遊郭設置は却下!!

1612年、再び幕府へ遊郭設置を嘆願!!
そこまでして甚右衛門が遊郭を作りたかった理由とは・・・??
ひとつは同業者が多くなり利益が低下したこと。
そこで新規参入ができないように、遊女屋を一カ所に集め、幕府公認にすることで利益が独占できると考えたのです。
もう一つは、江戸の町の治安の悪化でした。
遊女屋が無秩序に乱立し、問題が起きることを恐れたのです。
駿府では問題がたくさん起こっていたので、同じことが江戸で起きると遊女屋がすべて鳥潰しになってしまうのではないか?と考えたのです。
そこで甚右衛門は、3つの提案と共に幕府に願い出ました。

①引負横領の事
客を一晩以上泊めない

②人を勾引かし並に養子娘之事
幕府公認の遊郭をつくれば、人さらい人買いなどの悪質な業者から娘たちを守ることができる

③諸浪人悪党並に欠落者之事
悪人を一つにまとめておける・・・??

利益を独占するためと、治安の悪化を防いで遊女屋が廃止されないようにするためでした。

しかし、幕府が遊郭設置を認めたのは嘆願から5年・・・1617年でした。
どうして5年もかかったのか・・・??
甚右衛門が嘆願書を出したころは、幕府は豊臣方と対立している最中だったこと。
そして倫理的な問題・・・江戸時代を通じて、多くの城下町で遊郭を置くことは禁止されていました。
遊郭へ通うことは、武士の倫理において恥ずべきことだと考えていたのです。
生活の堕落を助長する・・・と!!

ではどうして遊郭を認めたのか??
当時はキリシタン商人による人身売買が横行していました。
多くの日本人女性が奴隷として海外に売られていたのです。
幕府の執拗なキリシタン弾圧は、キリシタン商人による人身売買を止めるためでもあったのです。
1614年全国にキリスト教禁教令を発布
1617年江戸の遊郭設置を許可
幕府が遊郭設置を認めたのは、人身売買から女性たちを守るためだったと考えられます。

江戸の市街地から最も離れた辺鄙な場所・・・人形町周囲に葦がしげる湿地帯に・・・
「自分達で湿地帯を埋めて作れ」と家康は言いました。
甚右衛門たち遊女屋の主人たちは、早速工事を開始!!
周囲を掘ってその土を板と葦を使って浮島のようなものを作ります。
これを轡と言い、それが郭になったと言われています。
1618年遊郭が完成。
周囲に葦が茂っていたことから葦原と名付けられました。
商売繁盛のために”吉”の字が当てられたのは後の事です。
こうして江戸唯一の幕府公認の遊郭・吉原が誕生しました。

その後、整地拡張を重ねていきます。
2町四方・・・47,500㎡・・・東京ドームと同じくらいの大きさで下。
その巨大遊郭の惣名主となったのは甚右衛門でした。
甚右衛門が最初に嘆願してから13年の月日が流れていました。

吉原は遊郭設置に際し、5つの条件を幕府から出されていました。
①吉原以外での商売の禁止
②長逗留(連泊)の禁止
③不審者の届け出
④服装を質素にする
 幕府はこの時贅沢を禁じたのです。
⑤建物を質素にする
 派手にして客を呼びたいところを庶民と同じ板葺きでした。
目も眩むような後の吉原とはかけ離れた地味な吉原・・・しかし、開業当時から遊女たちのランク付けはされていました。
「太夫←格子←端」です。
最上級の遊女は太夫です。
彼女たちはヘッドハンティングされてきた京都・島原などの太夫が殆どで、和解遊女たちの指導者的役割でもありました。
そんな太夫の1日の指名料は1両!!約10万円でした。
太夫の下は、格子、端と続き、格子が銀30匁(約6万円)、端は銀10~20匁(2~4万円)でした。
当時の大工の日給が銀1~3匁(2000~6000円)だったことを考えると、庶民たちが遊べるはずもなく、お客は上級武士でした。
そのため、遊女たちには相手ができるように和歌やお茶、お琴とたしなみが必要でした。
これは新吉原となっても受け継がれていきますが、遊郭の外に出ることができなかった新吉原とは違って・・・元吉原では遊郭の外へ遊山も許可されていました。
吉原の店には、幕府からある役目が・・・幕府の最高裁判所である評定所に奉行らが出席する式日には、吉原から太夫ら供給遊女を差し出すように命じられていたというのです。
他にも、三代将軍家光の姫君の尾張藩への輿入れを吉原の遊女たちがお供に・・・手伝ったと言われています。

幕府の名もしっかりこなし、順風満帆に見えたものの、強力なライバル・・・銭湯が現れます。

急速な発展を遂げた新興都市・江戸・・・日本橋人形町にある吉原・・・。
かなり繁盛していましたが、そんな吉原の人気に影を落とす強力なライバルは銭湯!!
当時の銭湯には湯女という女性がいて、入浴客の垢すりや髪すきなどの世話をしていました。
江戸の町に大工や職人が増えていくと、そんな男性を当て込んだサービスが始まったのです。
夕方4時ごろにいったん閉店すると、洗い場は一変し金屏風が立ちお座敷に早変わり・・・湯女たちは三味線で歌を歌い、春を売るようになったのです。
一説には湯女の料金は500~1,000文(1万2000円~2万円)でした。

吉原は、町から遠く、料金が高く、格式があって行きづらい・・・
湯女は、違法だが、町から近く、料金も安く、行きやすい・・・

そのため銭湯は下級武士や町民で大繁盛・・・
すると、遊女を銭湯に派遣して稼がせるという吉原の楼主が現れたのです。
しかし、これは吉原以外での営業禁止に反します。
幕府は楼主などを磔の刑に!!
さらに夜間営業や遊女の外出を禁止してしまいます。
店にとっては夜間営業の禁止は痛手でした。
営業時間が短くなったために売り上げが落ちてしまいます。

そんな吉原に追い打ちをかけたのが、アイドル並みの人気を誇った湯女・勝山です。
勝山がいた戦闘は、堀丹後守直寄の屋敷の前だったので、丹前風呂と呼ばれていました。
丹前風呂は、勝山を指名する客で大賑わい、順番待ちする間にのぼせる客が・・・!!
人気の秘密は美貌もさることながら、どんな客でも分け隔てなく接する気立てのよさでした。
装いも・・・外出するときは木刀を二本差すという男勝りの奇抜なスタイルで、束ねた髪を曲げて輪にし白い元結をした勝山曲げは、女性がこぞって真似をしました。
カリスマ的人気を誇った湯女・勝山・・・吉原に通っていた男たちも勝山目当てに丹前風呂に殺到!!
天下の吉原に閑古鳥が鳴き始めました。
遂に経営の危機に・・・!!

窮地に陥った吉原は、奥の手に出ます。丹前風呂の取り潰しを幕府に願い出ます。

吉原は、幕府に営業を認めてもらう代わりに運上金を納めていました。
吉原の経営が悪化すれば税金も減る・・・そうなれば、幕府も困るから嘆願も通ると思ったのです。
その思惑通り、幕府は丹前風呂をおとり潰しに、さらに湯女は一軒に三人までと厳格化しました。
その後、初山はヘッドハンティングされて吉原にやってきて、遊女のトップに上り詰めます。
遊女が花魁道中の独特の歩き方”外八文字”は、勝山が考案したと言われています。
吉原の人気は復活!!その遊び方も派手になっていきます。



しかし、再び危機が・・・1656年10月、吉原の楼主たちが幕府の評定所に呼び出されます。
奉行から命じられたのは・・・??
「吉原の移転」でした。
①江戸の人口が増大し、町が拡大しました。
かつては江戸のはずれだった日本橋人形町も町人の住む所となり、大名の屋敷も立ち並ぶようになっていました。
吉原が江戸の町に飲み込まれていったのです。
吉原が町の中心部に位置するようになったことで、風紀の乱れを警戒したのです。
②浪人対策 
当時幕府は体制を盤石にするために、犯行の恐れのある大名家を次々とおとり潰しにしていました。
三代将軍家光の頃には、69の大名家が取り潰されていました。
主君を失い、浪人となった者たちは、士官先を求めて江戸に流れてきました。
しかし、士官先などそうそうなく、幕府への不満を募らせていました。
そんな中、1651年・・・軍学者の由井正雪が幕府転覆計画を企てます。
世にいう慶安の変です。
由井正雪など浪人たちによる幕府転覆の陰謀事件で、事前に発覚したことで小説は自害し、一味は壊滅しました。
これ以後、幕府への反乱未遂事件は多発!!
幕府は浪人への対策をはじめました。
その一環として、反乱分子になりかねない浪人たちが集まりやすい吉原を、江戸城から遠ざけたかったのです。

江戸の町の治安のために移転させられることとなった吉原・・・
その事業の最高責任者に抜擢されたのが、北町奉行・石谷貞清でした。
石ケは各地の洪水被害調査や土木工事に携わったのち、1651年に江戸着た町奉行に赴任しました。
まず行ったのは、候補地を決めること・・・
石谷はいくつかの候補地を選定します。
絞り込みをある人物に依頼します。
幕府に仕えていた陰陽師・土御門泰重です。
当時は陰陽師の占いを信じていたので、幕府は吉原の移転先を陰陽師に決めさせることで吉原側を納得させようとしました。
そうして占ってみると・・・
「江戸城から見て丑寅の方角が吉ですな・・・!!」
丑寅・・・北東は鬼門と呼ばれ、鬼が出入りする穢れのある方角とされていました。
穢れのつきやすい遊郭は、そこに置いた方が良いというのです。
1656年10月、石谷は候補地を楼主たちに告げました。
「吉原を本所もしくは浅草日本堤のどちらかに移すよう命じる」
楼主たちは困惑します。
どちらも、町のはずれのはずれ、辺境の地だったからです。
幕府からの命令は絶対で、どちらかを選ぶしかない・・・
本所には、隅田川を渡すしかありませんが、当時、近くに橋はかかっていませんでした。
そこで、辺鄙な沼地ながらも地続きの浅草寺が近くにあった浅草日本堤を選びます。

とはいっても、引っ越しは大ごとで・・・楼主たちは重い腰を上げようとはしませんでした。
そこで、石谷は5つの特典をつけました。
①移転先は今までの1.5倍の土地を与える
②夜間営業を許可
③立ち退きの補償料1万500両(10億5000万円)を吉原に支払う
④違法営業中の銭湯200軒を取り潰す
⑤火災時の消火の役割を免除
どれも吉原にとっては至れり尽くせりの内容でした。
何より有難かったのは、夜間営業の再開と、銭湯の取り潰しでした。
1657年3月までに、吉原を浅草日本堤に移転します。

ところが・・・移転の準備をしようとしていた矢先に・・・明暦の大火!!
年が明けた1月18日午後二時ごろ・・・本郷丸山付近から出た火が瞬く間に江戸の町を飲み込んでいきました。
20日になってようやく鎮火したものの、江戸城を天守閣をはじめ町の大半が焼失・・・
10万の人が命を落としました。
吉原も全焼・・・126人の遊女が亡くなったといいます。
街の復興事業のために、資材や人件費が高騰したこともあって、吉原の移転は難しくなってしまいました。

幕府も復興事業で大忙し!!
このまま移転の話も立ち消えに・・・??

6月中には移転せよと日を切られ、言われてしまいました。
浅草日本堤は湿地帯・・・そのまま建物は立てられず整地は必要・・・
100軒以上立てなければならないが、それだけの人も財も残っていませんでした。
江戸が灰と化した後、4か月後に新たな場所に吉原をつくる・・・この無謀ともいえる計画に、石谷は・・・??
大火で大量に出た瓦礫を埋め立てに使おう!!
処理に困っていた瓦礫を活用できるのはもちろん、瓦礫に土を混ぜれば効率が上がると考えたのです。
陰陽師・土御門泰重は、全国にネットワークを持っており、大量の職人を動員することができました。
準備が整うと、工事を進めていきます。
その頃、吉原の遊女屋は・・・火事の被害が少なかった地域の民家を借りて仮宅営業を始めることに・・・。
1657年6月14日、吉原の遊女たちは、仮宅の浅草山谷に移ります。
1000人いたともいえる遊女の大移動は、人々の注目を浴びました。
こうして始まった仮宅営業は普段よりも値段を安くしたことで、男たちが殺到、大繁盛します。
わずか4か月で工事も終了!!8月14日、新しい吉原の営業が始まりました。
次第に、遊女たちの装いもあでやかになり、独自のイベントを立ち上げて行った吉原は、男が一度は行きたいという華やかな不夜城に・・・!!
この移転で、移転前を元吉原、移転先の浅草日本堤を新吉原と呼ぶようになったのです。

大火で焼失した町を復興する為に、全国からさらに大工や職人たちが集まってきました。
そんな男たちは遊女を一目見ようと吉原に殺到し、その華やかさにまたたくまに魅了されました。
そして吉原は、一日1000両という大金が落ちる一大歓楽街と発展し、様々な物語、文化を生み出していったのです。

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