日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: にっぽん!歴史鑑定

かつての甲斐国・・・山梨県甲州市にそびえる天目山・・・
1582年、名将武田信玄の跡を継いだ武田勝頼がこの山の麓で無念の死を遂げました。
ところ変わって・・・かつての紀伊国・・・和歌山県の高野山・・・
1595年、天下人豊臣秀吉の養子である秀次が切腹を命じられ、寺の一室でこと切れました。
この二人には、3つの共通点がります。
①歴史にその名をとどろかせる偉大なる父を持っていたこと
②無念の死を遂げたこと
③死後、数々の汚名を着せられたこと
です。

勝頼が自刃し、20代続いた名門武田家が滅びました。
歴史からその名が消えたことで、勝頼のことを不肖の息子、愚将と揶揄しました。
死の直前、養父・秀吉に対し謀反を企てたという嫌疑をかけられた秀次は、暴君・摂政関白と言う悪名を馳せます。
本当にそうだったのでしょうか??
偉大な父の影に隠れ、今まで注目されてこなかった二人の戦国武将の実在とは・・・??

武田信玄の四男として生まれた武田勝頼・・・26歳の時、信玄の指名で後継者となります。
どうして不肖の息子と呼ばれた勝頼が武田家を継ぐことになったのでしょうか?
信玄は、甲斐の隣国だった相模の北条氏康、駿河の今川義元と同盟を結んでいましたが・・・
1560年桶狭間の戦いで今川義元が尾張の織田信長に討たれると、弱体化した今川の領地をとろうと信玄は信長と同盟関係を結びます。
そしてその証として信長の養女が勝頼の正室として迎えられました。
ところが・・・この同盟に、勝頼の兄で信玄の嫡男の義信が猛反発。
義信は今川義元の娘を妻にしていたので、今川家の立場をとっていたのです。
自分に異を唱えた義信に対し信玄は激怒、義信は幽閉され2年後自刃していまいました。
この時、次男・信親は出家、三男・信之もすでに亡くなっていたため、年功序列によって四男の勝頼を新たな後継者に指名しました。
ところが、信玄の家臣たちが猛反発!!
それほど勝頼は、後継者に相応しくない不肖の息子だったのでしょうか?
信玄の側室だった勝頼の母・諏訪御料人は、信玄が攻め滅ぼした信濃の豪族・諏訪氏頼重の娘でした。
諏訪家との融和を図ろうと考えた信玄は、勝頼が生れると諏訪家の男子が用いていた頼の文字を使った名を与え、諏訪家の跡取りにすることにします。
そして勝頼はやがて武田配下の諏訪家の領主として戦に参加するようになります。
このことが、勝頼が後継者に指名された際、大きな問題になりました。
武田の重臣たちにとって、長らく同僚として戦を戦ってきた勝頼が、館となることに反発があったのです。
もう一つは、勝頼はあくまでも諏訪勝頼・・・諏訪家の男であって、武田の人間ではないという・・・
武田家は代々嫡流が家督を継いできていました。
余所の家に養子になっていた人間が武田の家を継ぐということについては根強い反発があったのです。
家臣が勝頼が跡取りとなることに反対したのは、勝頼が”不肖の息子”だったからではなく武田配下の諏訪家の当主だったからです。

こうして勝頼は、家臣の反対を受けながらも信玄の後継者としてはれて武田勝頼を名乗ることとなります。
ところがその2年後、信玄は病死してしまいました。
すると、父・信玄の遺言が、さらに勝頼を苦しませます。
その内容は・・・
”勝頼の息子・信勝が16歳になり次第、家督を継がせ、勝頼はその後見人になること”
勝頼が正当な武田家の跡取りではなく中継ぎであると・・・真の後継者は勝頼の息子・信勝だといっているようなものです。
どうしてこのような遺言を残したのでしょうか?
ゆくゆくは勝頼の息子・信勝が跡を継ぐから・・・と、家臣と勝頼を配慮したものだったのですが、逆効果だったようです。
武田の家臣は、武田二十四将と言われ、一筋縄ではいかない者も多く、信玄と一緒に領土を大きくしてきたという自信もあるので、そんな人たちを勝頼がコントロールするというのは並大抵のものではありませんでした。
信玄が長生きをして、勝頼と家臣たちの関係をうまくつなげるような関係を作っていればよかったのですが、不運としか言いようがありません。

甲斐の虎と恐れられ、戦国最強の武将・武田信玄・・・
対して息子の勝頼は、後世愚将と蔑まれてきました。
織田信長と同盟を結んでいた武田信玄でしたが、越前の朝倉義景や北近江の浅井長政、さらには大坂の石山本願寺などが決起すると、信長包囲網に参戦します。
1573年三方ヶ原の戦いなどで、信長と同盟を結んでいた徳川家康を相手に戦いを優勢に勧めていましたが・・・
そのさ中、持病が悪化・・・甲斐へ戻る途中に亡くなってしまいました。
そんな父の無念を晴らすために、新生武田軍も織田・徳川連合軍に挑んでいきます。

1574年、勝頼は織田の領地である東美濃へ侵攻。
その勢いはすさまじく、1日で18もの城を落とします。
さらに、家康の領地へ侵攻した勝頼は、遠江にある難攻不落の城・高天神城を陥落させ、三河の足助城、野田城までも落としてみせるのです。
焦る家康をしり目に、勝頼が次に狙いを定めたのは、家康の息子・信康が城主を務める岡崎城でした。
勝頼は、徳川家の家臣・大賀弥四郎らと内通し、岡崎城を内外から攻め落とす作戦を立てます。
結局、済んでのところで情報が洩れ未遂に終わり、大賀弥四郎は処刑されます。
もし、岡崎城を占拠されていれば、信長の援護が絶たれ、浜松城にいた家康は孤立し、武田軍によって壊滅状態に追い込まれるところだったのです。
家康を追いつめた勝頼の見事な戦いを伝え聞いた信長は、同盟を結んでいた越後の上杉謙信にこんな手紙を送ります。

「勝頼はまだ若いが、信玄の軍法を守り、表裏をわきまえた武将 恐るべき敵である」

勝頼が侮れない存在であることを認めたのです。
しかし、その一方、勝頼の家臣たちは・・・

”これで勝頼さまは、益々我らの意見を聞かなくなる”

勝利を重ねていく度に、勝頼は独断で動くようになり、家臣たちとの溝は深まるばかりでした。
そして、1575年・・・ついに勝頼は織田・徳川連合軍との大一番を迎えます。
長篠の戦いです。
織田・徳川連合軍3万8千に対し、武田軍はその半分以下の1万5千。
当然勝頼の家臣たちは撤退を進言しますが・・・勝頼はそれを無視して突撃を指示!!
結果、武田軍は惨敗を喫し、信玄以来の家臣たちの多くが命を落としました。
どうして勝頼は無謀な戦いに挑んだのでしょうか?

あの場に信長、家康の二人がいる・・・信玄の果たせなかったこの戦いに勝てば、父を超えることができる・・・??
相すれば、武田家の中での権威を不動のものにできると考えたのです。
勝頼の家臣たちから武田家の跡継ぎとして認められていないという状況を打開したかったのです。

武田家の兵法書「甲陽軍鑑」には、勝頼は”強すぎたる大将”と記されています。
故に自分は父・信玄を超えているのだと過信してしまったのかもしれません。

一説に、家康は長篠の戦いの直前信長にこう迫ったといいます。

「もし信長殿が援軍を送らず、長篠が陥落したら勝頼と手を組み、織田と戦う所存」

それだけ、家康が勝頼率いる武田軍を恐れていたということ・・・
長篠の戦いで勝利した信長が、追い打ちをかけるべく上杉謙信に武田領に攻め入るように要請しますが・・・
なぜか謙信は動きませんでした。
勝頼は、信長の動きを察知して、既に謙信との和睦を成立させていたのです。
家康を追いつめ、信長の動きの先を読む・・・この時、信長42歳、家康33歳、対して勝頼は30歳・・・そう考えると武田勝頼は善戦し、名将の片りんを見せていたのです。

長篠の戦いで、大敗した武田勝頼は、領内での立て直しを図ります。
まず行ったのが検地・・・各農地からの年貢を厳しく定めることで、それまで不安定になりがちだった家臣たちの知行から得られる収入を確定させました。
そして勝頼は、それに見合う軍役を、家臣たちに課しました。
つまり、収入によって保有しなければならない兵士や武器などの数を厳密に定めたのです。
これにより、短期間で武田軍を再強化することに成功します。
勝頼は、商人と職人を管理します。
武具の安定供給、城づくりの際の資材の調達、人足の動員などを迅速に行えるようにしたのです。
さらに、城の移転を進めます。
祖父・信虎、父・信玄は躑躅ヶ崎館を居城としてきましたが、甲斐・駿河・信濃にまたがる領地を治めるには甲府は東に寄り過ぎていたため、勝頼は領土拡大も見据えて韮崎(新府城)を築城し、そこへ武田氏の本拠地を移しました。
東西を川に挟まれ、城を建てた七里岩台地の周囲は、25キロにわたって断崖が続いていて、新府城はまさに自然の要害でした。
新府城は、躑躅ヶ崎館に比べると、はるかに巨大で武田の築城技術を駆使したとてつもない大きいお城です。
他の戦国大名と比べても大きく、集大成の意味もありました。
ところが、そんな新府城を築城した翌年、勝頼は武田家を滅亡に追い込んでしまいます。

しかし、武田家滅亡は、勝頼のせいだけではなかったのです。
勝頼は、周辺諸国との外交交渉を、積極的に行っていきます。
信玄の時代から長年対立してきていた越後の上杉謙信との和睦が成立すると、そこに信玄時代から同盟を結んでいた相模の北条氏政を加え、甲斐・相模・越後の三国による和睦を画策・・・三国で同盟を結べれば、織田・徳川連合軍に十分対抗できると考えたのです。
しかし、勝頼の期待空しく、謙信が氏政との同盟を拒否したことで、あえなく破談に終わってしまいました。
さらに、暫くして予期せぬ事態が・・・氏政が、甲相同盟を破棄して信長と同盟を結んだのです。
勝頼は、西側から織田・徳川連合軍、東側から北条の攻撃を受ける羽目に陥ってしまったのです。
次第に劣勢になっていく勝頼・・・そんな勝頼に対し、家臣たちも不信感を募らせていきます。
そして・・・この最悪の状況の中、勝頼をさらに追いつめる出来事が・・・
1582年2月14日、奇しくも織田軍が武田領に進軍したその日・・・領内の浅間山が噴火しました。
当時、浅間山の噴火は、「東国に政変が起こる」前兆とされてきました。
さらに、この時信長の朝廷への根回しにより、勝頼が朝敵とされていたことから、家臣たちはこう考えたのです。

「帝が信長の必勝を祈願したことで、神は勝頼さまを見限ったのだ」

家臣たちは武田家はもうおしまいだと、次々に勝頼の元を去っていきました。
天にも家臣にも見放されたことで、勝頼は甲斐にある天目山まで逃げのびるも・・・
結局信長軍に追い込まれ・・・妻と息子と共に自刃したのです。
1582年3月11日、武田勝頼自刃、37歳でした。

「勝頼は紛れもない名将であったが、運が尽きてしまいああいう結果に終わってしまった」by信長


天下人の養子にして関白の座にあった豊臣秀次・・・
秀次は死後、殺生関白などの汚名を着せられてしまいます。
が・・・その人生の殆どは、秀吉の言われるままでした。
1568年、秀次は、百姓であった父・弥助と秀吉の姉であった智との間に・・・尾張の農家に生まれます。
しかし、当時織田信長の家臣であった叔父・秀吉の出世によってその人生が激変していきます。

1573年北近江の浅井長政の居城・小谷城攻めの直前、秀吉は浅井の重臣宮部継潤を織田方へ寝返らせるため、甥の秀次を人質代わりに継潤の養子として差し出します。
5歳だった秀次は、宮部吉継を名乗ることになります。
その後、一度は秀吉の元に戻りますが、13歳の頃、信長の家臣・三好康長との連携を深めるために養子に出されます。
自分の子供を政治に利用することは戦国の常でしたが、秀吉と妻・おねとの間には子供がいなかったため、甥である秀次がその代わりに秀吉の出世の道具として使われたのです。
2回目の養父・三好康長は、茶の湯・連歌を嗜む風流人・・・そんな康永から多大な影響を受け、文学や和歌を嗜み、茶の湯においては千利休の弟子だったともいわれています。
そんな教養ある秀次は、後に関白となる秀吉に、公家や諸大名の接待役として重宝されたといいます。

秀次の武将としての才覚は・・・??
1584年、羽柴秀吉が、徳川家康らと相まみえた小牧長湫の戦い・・・
秀吉軍10万に対し、徳川・織田信雄軍はわずか3万・・・
数の上で劣勢だった徳川軍は、小牧山に陣を構え動かずにいました。
相手の3倍の軍を要しながら、手出しできない状況に秀吉は苛立ち始めます。
そこで、池田恒興が、こんな作戦を提案しました。

「家康の本領である三河を攻めるふりをして、徳川をおびき出し、そこをたたいてはいかがなものか」

すると、秀次がこう申し出ます。

「私をその作戦の大将にしていただきたい」

秀吉は、作戦自体には乗り気ではありませんでしたが、秀次が大将を務めるならばと了承します。
秀次は恒興らと共に、意気揚々と出陣します。
ところが・・・家康がすぐにこの作戦を見破り、秀次軍に気付かれないように二手に分かれて追跡し、挟み撃ちにしたのです。
不意を突かれた秀次軍は、壊滅状態に・・・
大将の秀次は、命からがら逃げだしますが、恒興をはじめ、2500人が討ち死にしてしまいました。
この秀次の失態に、秀吉は激怒したといいます。

1583年の賤ケ岳の戦いで、同年代の福島正則、加藤清正らが大活躍をしていました。
秀次は焦っていたようです。
秀吉は怒り、秀次に責任を問う手紙を書いています。

”一時は殺そうと思った”
”今後行いを改めなければ首を切る”

とまで・・・
しかし、その手紙の最後にこうも書いています。

”ゆくゆくは、自分の名代として考えている”

秀吉から大きな期待を寄せられていた秀次は、秀吉の弟で自分の叔父にあたる羽柴秀長の支援もあり、その後傭兵軍団・雑賀衆・根来衆を討伐する紀州攻め、土佐の長宗我部正親を討つ四国攻めで武功をあげ、愚将の汚名を返上します。
この活躍により、秀次は近江20万石を与えられます。
大坂、京都を拠点にしていた秀吉が、秀次を隣接する近江においたのは、豊臣政権を支える大きな柱の一つとして認めたことの証でした。

豊臣秀吉の甥で秀吉の言いなりの人生を歩んできた秀次・・・一国一城の主になります。
しかし、その後、暴君という汚名を着ることとなります。
秀次は本当路暴君だったのでしょうか?
秀吉から近江20万石を与えられた秀次は、新しい町づくりに挑んでいきます。
その名残が、近江八幡市に残されています。
町を歩いていると真っ直ぐな道が多いことに気付きます。
当時の城下町の殆どが、敵の侵入を防ぐために行き止まりや袋小路を多く設けたのに対し、近江八幡の町は碁盤目状になっています。
秀次は、軍事拠点としてではなく、商業の中心地となるように町づくりを計画。
町にめぐらせた堀を、琵琶湖とつなぐことで舟で直接荷物を運び入れることができました。
さらに、上下水道を整備します。
町家と町家の間に、背割りという溝を作り、生活排水を流せるようにしました。
上水道は、遠方から引いてきた水を、竹の管を通して各緯度に分配し、常時使えるようにしました。
この時代、上下水道を完備した町は他にはなく、秀次の先見性が伺われます。
そして、秀次はインフラを整備したこの町に、信長の死によって活気を失っていた安土から多くの商人と職人を呼び寄せ、楽市楽座のような活気ある商業都市を築き上げたのです。
秀次は、軍事より商業を優先した経済都市を築き上げ、領民から喜ばれる平和な町づくりを実践した名君だったのです。

そんな秀次が、秀吉から跡継ぎとして指名されるのは、それから6年後の1591年のことでした。
この年、秀吉は良き理解者であった弟の秀長と、側室・淀の方との間にもうけた3歳の息子・鶴松を相次いで亡くします。
この時、秀吉55歳・・・自ら築き上げた豊臣政権を守るため、身内である秀次を養子とし、関白の座まで譲ります。
幼いころから秀吉の言いつけを守って生きてきた秀次が、ようやく手にした関白の座・・・喜びもひとしおでした。
ところが・・・その後、摂政関白の汚名を着せられることとなるのです。
そもそも殺生関白といわれるようになったのは、”太閤様軍記のうち”という本の中で、秀次がいろいろ悪事を働いたということが書かれています。
例えば、殺生禁止の比叡山で鹿狩り・・・??しかし、教養のある秀次がそんな大それたことをするのか??
罪もない旅人を千人斬り・・・??秀次は芸術に造詣が深く、秀吉所有の名刀の管理を任されていました。
秀次は、その切れ味を試すために、罪人を使って試し切りをした・・・と考えられます。
悪く、悪く、悪意のある書き方をされています。
”太閤様軍記のうち”は、太閤・秀吉を称賛する書物なので、秀吉に都合の悪いことは捻じ曲げられ、悪事はすべて秀次に押し付けた可能性があります。

秀次の存在は秀吉にとって都合が悪かった・・・??
天下人・豊臣秀吉に対する謀反を企てたとして、養子の秀次が切腹に追い込まれた秀次事件・・・
本当に秀次は謀反を企てたのでしょうか・・・??
1593年、秀吉と側室・淀殿との間に秀頼が生れます。
当然秀吉は、自分の息子・秀頼を跡継ぎにしたいと考えるようになりました。
しかし、すでに養子の秀次に関白の座を譲っていました。
そんな中、1595年、山へ鹿狩りに出かけ戻ってきた秀次に、衝撃の知らせが届きます。

「わしが山で仲間と落ち合い、太閤殿下に謀反を企てていただと・・・??」

秀次は、すぐさま秀吉に事実無根であることを訴えますが・・・弁解する事さえ拒否され、結局秀次は高野山で切腹に追い込まれてしまいます。
本当に謀反を企てていたのでしょうか?
秀次と親交のあった人々の証言によると・・・??

「秀次さまが謀反を企てた?? そんな馬鹿な・・・」by公家・山科言経
「秀次公は、謀反を起こすような方ではない」by前田利家
「秀次は、万人から愛され、野心家ではなかった」byルイス・フロイス

秀次は、謀反を企てるような人物ではないというのです。
では、どうして切腹に追い込まれたのでしょうか??
唯一の手掛かりは、秀吉が自分の養女の婿・吉川広家に宛てた手紙です。
そこには・・・
「自分の思い通りにならなかったから・・・」
秀次の何が思い通りにならなかったからなのでしょうか??
秀吉が、秀次に自分の息子に関白の座を譲れといった事を拒絶したのか??と思われます。

秀次は、謀反ではなく関白の座を譲れという秀吉の言葉を聞かなかったことによる切腹だと考えられます。
それでも怒りが収まらない秀吉は、秀次の正室、側室、子供、侍女など30人を処刑しました。
二度と跡継ぎ問題が起きないように・・・。


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青森県のほぼ中央に連なる火山群・八甲田山・・・
有数の豪雪地帯であるこの一帯は、冬ともなれば銀世界に・・・多くの人がスキーを楽しみに訪れます。
そんな八甲田山で今から118年前の1902年1月23日・・・日本山岳史上最悪の遭難事件が起こります。
雪中行軍の演習を行っていた大日本帝国陸軍の歩兵部隊が遭難・・・210人中199人が死亡しました。

1902年1月23日午前6時
その日、陸軍の基地である青森屯営では朝早くから兵士たちが雪の八甲田山で行われる雪中行軍の準備に追われていました。
行軍演習を行うのは、青森歩兵第五連隊、部隊構成は指揮官である中隊長の神成文吉大尉を中心に先頭を行くのはカンジキを履いて雪道を作るカンジキ隊、それに4つの小隊が続き、その後に食料や燃料などを運搬するソリ隊、また編制外として特別移動大隊本部(大隊長・山口鋠少佐、倉石一大尉、永井源吾軍医など)が加わり、総勢210人の中隊編制となりました。
この日は雪こそ降っていたものの、風邪は弱く、朝の最低気温はマイナス6度、積雪は90cmほどでした。
舞台が整ったのを確認した神成中隊長は号令します。
「演習中隊の指揮をこの神成がとる
 本日予定のごとく、田代新湯に向かい行軍を成す」
青森第五連隊の行軍計画は、青森屯営から八甲田山にある田代新湯まで行き、折り返して屯営に帰ってくるという往復およそ42キロの1泊2日の行程でした。
決して大遠征というものではありませんでした。

午前6時55分、青森歩兵第五連隊、屯営出発
総勢210名の部隊が、八甲田山に向けて出発しました。
これが死の行軍になるとは誰も知らずに・・・。
屯営から八甲田山の麓にある幸畑まで3.2キロ、ほとんど平たんな道です。
人や馬の往来もあって、雪も多少踏みしめられて歩きやすく順調に進みました。

午前7時40分、青森歩兵第五連隊、幸畑到着
荷物を運んできたソリ隊は、この時すでに大汗を掻いていました。
そのため、毛布で作られた防寒外套を脱ぎ、薄い外套に着替えてしまいました。
カンジキ隊は、幸畑より積雪が多くなるためここからカンジキを履くことに。
そして、ここで命運を分ける最初の判断ミスがありました。

地元農民からこの先の行軍は止めた方がいい、するなら案内をつけるべきだ・・・と、忠告されます。
しかし、小隊の隊長たちは聞き入れませんでした。
夏に度々行軍練習をしていたので、必要ないとしたのです。
しかし、冬の八甲田山・・・道案内をつけずに行軍を始めました。
目的地である田代新湯までは残り18キロ・・・
ここからはほとんどが登り、進むにつれてどんどん雪が深くなっていきました。
すると問題が・・・
降り積もったフカフカの新雪ではソリが動きません。
人も馬も通らない雪山・・・先鋒のカンジキ隊だけでは道は作れず、ソリは雪に沈みなかなか前に進みませんでした。

午前11時30分、青森歩兵第五連隊、小峠到着
出発からおよそ4時間半、青森歩兵第五連隊の本体が小峠に到着、ソリ隊が着いたのはその1時間後でした。
第五連隊は昼食を・・・しかし、その時すでにご飯は凍っていました。
ポケットに入れていた餅が石のような固さに・・・
いつもの訓練とおなじように食料を持ってきましたが、石のように凍っていてほとんど食べられなかったのです。
豪雪の山岳地の気温は、予想をはるかに超えていたのです。

しかし、どうして雪中行軍を行う必要があったのでしょうか??

7年前の1895年・・・
日本は日清戦争に勝利し、下関条約を締結します。
当時の日本円で3億円・・・国家予算の4倍という2億両(テール)の賠償金や、遼東半島、台湾、澎湖諸島などの領土を得ますが、その6日後、ロシア・ドイツ・フランスが3千万両(テール)と引き換えに遼東半島の返還を日本に勧告しました。
この三国干渉に対し、日本は止む無く受諾し、遼東半島を清に返還することとなりました。
するとロシアが南へと勢力を拡大し、朝鮮半島に迫ってきました。
日本はこのままいけばロシアとの戦争が起こると予測します。
その際、ロシアが津軽海峡を経由して陸奥湾から日本国内に侵入してきた場合、ロシアに弘前から八戸につながる交通網を押さえられるのは必至、そうなれば、日本軍が青森・弘前方面から八戸方面に抜けるためには八甲田山を経由しなければなりません。
また、寒冷地であるロシアへの上陸も想定し、寒さと雪に耐える訓練が必要であると判断。
こうして雪中行軍は想定されるロシアとの戦争に向けての演習として行われました。

青森歩兵第五連隊の210名は、来るべきロシアとの戦争に備え、雪深い八甲田山での雪中行軍を実施。
小峠にでの昼食も凍ってしまっていて食べることができず、その上天候も悪化。
すると隊員の中から意見が・・・

「天気が荒れてきて大雪になりそうだ・・・田代新湯へ進むのは無理だろう
 戻った方がよいのではないか」

このまま前進するか、行軍を中止して戻るか、演習を指揮する神成文吉大尉は決断を迫られます。
結論は・・・このまま前進。
しかし、この判断を下したのは神成中隊長ではなく、編制外として参加していた大隊長の山口少佐でした。
陸軍のメンツにかけても簡単に中止することなどできなかったのかもしれません。
当然大隊長の決定に反対するものなどいませんでした。

目的地である田代新湯まで残りあと10キロほどだったこともあり、着きさえすれば温泉にゆっくり浸かって一杯・・・と、楽観的な隊員たちも多かったといいます。
神成中隊長は、雪中行軍実施の5日前に予行演習を行ってはいましたが、実際に行ったのはこの時食事をした小峠まで・・・
田代新湯については、地元の人間に聞いただけでした。
小屋が4、5件あるといっても着替えをできる程度の建物で、210人が宿泊できるなど到底無理・・・渓谷にあって冬には見つけるのも困難な小さな温泉場でした。
そうとは知らずに田代新湯を目指して進む青森第五連隊は・・・小峠・大峠・大滝平・賽の河原・按ノ木森・馬立場・・・6.5キロを進んでいきました。

午後4時、青森歩兵第五連隊、馬立場到着
積雪量も増えて傾斜もきつく、ソリ隊は更なる困難を極めます。
主力部隊が馬立場に到着しても、ソリ隊の中には按ノ木森にまでもたどり着いていない者もいたといいます。

神成中隊長は、遅れているソリ隊に応援を送るとともに、先に宿泊の手配をするために田代新湯にも人を向かわせました。
本隊も後を追い出発、暫くすると・・・先に田代新湯へと向かわせた隊員たちが戻ってきました。
吹雪が激しく、進めなかったのです。
天候はますます悪化、しかし、猛吹雪の中でも行軍は続けられました。
この日は満月が近く、吹雪の中でも月明かりが積もった雪に反射、周囲を明るく照らしていたため日没の午後5時ごろを過ぎても行けると判断してしまいました。
しかし・・・

午後8時15分、青森歩兵第五連隊、露営
流石に夜も8時を過ぎると周囲は暗くなり、猛吹雪となり田代新湯への道も分からなくなってしまいました。
止む無く野宿することに・・・
そこは、目的地である田代新湯の1.5キロ手前にある平沢でした。
猛吹雪の冬山での露営は、想像を絶する過酷なものでした。
深さ2m、広さ6畳ほどの雪山を5つ堀り、40人ほどに分かれてその中へ・・・
雪の中での煮炊きは難しく、夕食は生煮えのご飯がわずかばかり支給されただけでした。
寒さと空腹に耐えながら、隊員たちは自ら掘った穴の中で立ったまま身を寄せ合い、朝を待つことになります。
眠ると投資の危険があるため、足踏みや軍歌を歌い続けていたといいます。

1月24日午前1時・・・

日付が変わると天候はさらに悪化。
激しい雪と風が打ち付けます。
気温は-20℃を下回っていました。
すると、大隊長の山口少佐が・・・
「このままでは皆凍え死んでしまう・・・
 いますぐ帰営だ・・・!!」
これに反対したのが、司令官である神成中隊長でした。
「帰営は夜が明けるのを待つべきです!!」
「いや、一刻も早く帰るべきだ!!」by山口少佐
山口大隊長の命令により、青森歩兵第五連隊は、猛吹雪の中帰営することになりました。

1月24日午前2時30分、青森歩兵第五連隊、帰営開始
これが判断ミスでした。
猛吹雪のため、顔をあげて進むことができず、部隊は完全に方向を見失ってしまうのです。
極寒の雪山を彷徨う隊員たちは、ひどい低体温症に陥り、凍傷にかかっていきます。
極度の疲労と不眠により、幻覚を見ておかしなことを言う者、錯乱して踊り出すものなど、精神的に異常をきたす者が現れはじめます。
そんな中、
「田代新湯への道を知っています!!」
隊員のこの言葉に、山口大隊長は帰営するよりは近くの田代新湯に行く方がいいだろうと考え・・・
「しからば案内せよ!!」
こうして青森歩兵第五連隊は再び方向転換し、田代新湯へと向かうことになります。
ところが、1時間もしないうちに道に迷ってしまいます。
目の前に現れたのが、駒込川・・・道が違っていました。
そのため、山口大隊長の判断で、三度の反転・・・夜半に出発した平沢の露営地に逆戻りすることになりました。
しかし、3時間、5時間、10時間歩いても、露営地にたどり着くことはできず・・・隊員たちはまるで雪に吸い込まれていくかのように倒れていきました。

重い凍傷にかかり、気力も体力も限界を超えていました。
青森歩兵第五連隊は、八甲田山中で完全に遭難してしまったのです。
やっとのことで露営できるくぼ地を見つけたのは、2日目の夕方でした。

午後5時、青森歩兵第五連隊、2日目露営

多くの命を失った第五連隊は、ようやく進行を止め、鳴沢の西南のくぼ地に露営することに・・・第一露営地から第二露営地までおよそ15時間・・・その間の距離は700mほどしかなく、雪がないと10分もかからない場所でした。
隊員たちはただただ寒さに耐えるほかなく、激しい体力の消耗と空腹、睡魔との戦い・・・!!
極限状態の中の第五連隊は、天は見放します。

露営と言っても野ざらしのくぼみ・・・ただただ寒さに耐えるしかなく・・・
しかし、山口大隊長は、多くの犠牲者を出してしまったことで夜半に出発することの怖さを身にしみて感じたのか慎重になっていました。

「夜が明けてから出発する」
「凍え死んでしまいます。
 もっと早くに出発させてください!!」

隊員たちに何度も懇願された山口大隊長は、再び夜中に出発することに・・・。

1月25日午前3時、青森歩兵第五連隊、鳴沢出発

山口大隊長の命を受けた神成中隊長は、各小隊を集めると露営地を出発。
身を切るような寒さの中、鳴沢渓谷を下っていきました。
しかし・・・方向が間違っていると倉石大尉に指摘され反転。
容赦なく吹きすさぶ猛吹雪の中、結局道に迷い周辺を行ったり来たり・・・
すると、隊を率いていた神成中隊長が、
「天は我らを見捨てたらしい・・・!!
 俺も死ぬから、全員夕べの露営地に戻って枕を並べて死のう!!」
指揮官のこの悲痛な叫びが、わずかな気力だけで生き抜いてきた隊員たちの心を砕きました。
皆の士気が下がったのか、あっちでばたり、こっちでばたり・・・もう、足の踏み場もないほど倒れていきました。
朝方なんとか露営地に戻って点呼して見ると、210人いた隊員は60人ほどになっていました。

そんな中、午前7時ごろ、一時的に視界が開けるのです。
まさに一筋の光明・・・神成中隊長は、帰路を見つけるための捜索隊を出します。
今井米雄特務曹長と渡邊幸之助軍曹以下10人を2隊に分けて派遣するのです。

午前11時
行軍3日目にして初めての朗報が届きます。
「帰路、見つけました!!」
渡邊軍曹でした。
青森第五連隊はすぐに出発、馬立場を目指して出発します。
ところが、どこまで行っても馬立場に到着しません。
部隊は森の中をただグルグル回っていただけ・・・また道に迷ったのです。
途中さらに落伍者が続出!!
隊はばらばらとなりました。
こうして犠牲者199人、日本山岳史上最悪の遭難事件は起こったのです。

1月23日~26日
青森歩兵第五連隊は、氷点下猛吹雪の八甲田山中で遭難。
出発から4日目の点呼で確認された隊員は、わずか30人・・・最終的には210人中199人が命を落としました。
どうして起こってしまったのでしょうか??

遭難した原因①予行演習との違い
隊を率いる神成文吉大尉は、事前に行った予行演習で目的地である田代新湯まで行きませんでした。
ソリをたった一台引き、小峠までの平たんな道を折り返しただけ。
そして報告書にこう書くのです。

「ソリを運搬具に使用するのは、甚だしく困難にあらざることを認めたり
 この日 天気晴朗にして積雪三尺ないし四尺
 表面やや堅硬にして良好の景状なり」

ソリを使うのは難しくないと判断、しかし実際は多くのソリを使ったことが間違いでした。
行軍を大きく遅らせ、隊員たちの体力を消耗させる原因となってしまいました。

遭難した原因②天候の悪化
当時の天気図が残されています。

1月22日、太平洋沿岸に大きな低気圧が現れていました。
この低気圧の影響で、1月24日ごろから北日本を大寒波が襲います。
青森測候所でも、例年1月の平均最低気温が-4℃ですが、1月23~27日の最低気温は-9℃でした。
標高の高い八甲田山では、平地以上に気温が低下していたと考えられます。
記録的な寒さのため、ほとんどの隊員が低体温症・・・凍傷になり動けなくなっただけでなく、錯乱状態など精神に異常をきたしました。
また、大寒波の影響で、暴風雪が吹き荒れ、視界不良になるホワイトアウトが起き、目的地までの道を完全に見失ってしまったのです。

遭難した原因③準備不足
雪中行軍の計画が正式に発表されたのは、出発のわずか2日前の21日のことでした。
そのため、隊員たちに必要な装備を準備する時間はありませんでした。
さらに、行軍が1泊2日であること、行先が田代新湯という温泉場であったことから隊員たちは通常の冬の訓練着より薄着だったり、なかには所持品が手ぬぐいだけという者もいたといいます。
防寒着も、隊員たちの多くは綿の生地の薄地のモノを着用、履物も多くの者が昔ながらの藁靴で、防寒性に優れたものではありませんでした。
さらに・・・当時のカイロは安価ではなく、各自で用意するのは難しかったのです。
いかに準備が大事であったか・・・別の部隊がそれを証明しています。

同じ時期(1月20日~1月31日)に、雪中行軍を行った弘前歩兵第31連隊も、八甲田山での雪中行軍を行っていました。
その工程は、弘前から十和田湖を通って八甲田山を踏破して青森を経由して弘前に戻るというものでした。
総延長224キロ・・・11泊12日という青森第五連隊よりも長いものでした。
第31連隊は、計画を行軍の1か月前に発表。
準備を万全にしたうえで、行軍を行う町村役場に食料、休憩、宿泊所などの協力を要請。
特に道案内人の手配は怠りませんでした。その結果、31連隊の37人は無事に帰営しています。

遭難した原因④指揮系統の乱れ
本来ならば、指揮官である中隊長の神成大尉が部隊の指揮を行う筈でした。
しかし、前進か露営か、帰営か・・・常に大事な決定を下したのは、編制外として参加していた山口大隊長でした。
雪中行軍の生還者の一人はこう語っています。

「雪中行軍のあの悲惨事は、山口大隊長が軽率にも行軍計画者であり、指揮官である神成大尉に相談せず命令を発したのがそもそもの原因である」

とはいっても、軍隊にあって階級の差は絶対です。
神成中隊長より上官の山口大隊長が命令を下すのは至極当然ともいえます。
問題は別のところにありました。
生還者はこうも証言しています。

「山口大隊長はその時、寒さのために頭脳の明瞭を欠いていた」

極限の寒さが判断を誤らせてしまったというのです。
様々な要因が重なり遭難してしまった青森歩兵第五連隊・・・
実は弘前歩兵第31連隊も遭難しかかったのですが・・・天候悪化のために無理をしませんでした。
そして7人の道案内がいたおかげで、助かったといわれています。
その途中・・・第31連隊は、無残な姿を目撃します。
弘前歩兵第31連隊中隊長の福島泰蔵大尉は、案内賃の2円を手渡し村人たちにこう言いました。

「この二日間のことは口外すべからず」と。

丁度その頃、遭難した第五連隊が救助隊に発見され始めていました。

1月24日を過ぎても青森歩兵第五連隊は帰ってきませんでした。
しかし、救助が開始されたのは26日のこと・・・どうして・・・??
ひとつは連隊本部が楽観的だったこと。
行軍部隊はどこかで宿営し、25日は天候が少し回復したので帰ってくだろうとしていたのです。
しかも、この日には呑気に送別会をしていたといいます。
しかし、夜になっても帰ってこないため、急ぎ銃所隊を編制。
翌26日の早朝、救助隊が田代新湯へ出発します。
しかし、案内人を手配するのに手間取ったり、露営の準備をしていなかったり、さらに雪が深かったこともあって捜索は難航・・・

1月27日午前10時ごろ・・・雪の中で直立不動で仮死状態の後藤房之介伍長を発見。
その近くで神成中隊長を見つけるも氷のように固まって亡くなっていました。
先に見つかり一命をとりとめた後藤伍長がこの時に発した一言がさらに救助を遅らせます。

「ほかに生存者はいない 皆、死んだ」

どうしてそんなことを言ってしまったのか・・・??
自分だけが救助されたと思い、皆が亡くなってしまったと思い込んでいたのです。
帰ってくるだろうという楽観視と、生存者はいないだろうという諦め、天候の悪さなどが重なったのです。

後藤伍長の後に16人が救出されました。
わずか16名・・・。
青森第五連隊の捜索は、雪解けの5月まで続けられたといいます。
救出された隊員たちはその後、懸命な治療も敵わず6人が命を落とし、死者の数は199人となってしまいました。
生存者はわずか11人・・・これが、山岳史上最悪の遭難事件の全貌です。

救助された人々の中にはこの悲劇の行軍の実質的な指揮を執った山口大隊長もいました。
しかし、凍傷がひどく、治療の甲斐なく命を落とします。(2月2日)
静観した隊員の一人、倉石一大尉は、その後日露戦争に従軍、多くの命を奪った雪中行軍の本来の目的を果たします。
最初に発見された後藤伍長は凍傷のため両手の指と両ひざ下を切断・・・退役後は郷里の宮城で結婚し、子宝にも恵まれたといいます。
そんな後藤伍長をモデルにしたといわれる雪中行軍遭難記念像が遭難現場近くに立っています。
痛ましい事件を忘れないようにと・・・!!

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かつての丹波国・・・京都市右京区にある慈眼寺・・・
ここには、とある戦国武将が祀られていますが・・・墨で塗りつぶされて真っ黒です。

mituhide
















その武将とは・・・??

本能寺の変で主君である織田信長を討った天下の謀反人・明智光秀です。
この木像は、光秀が創建した寺に安置されていました。
肩には明智の家紋、桔梗紋があります。
どうして黒く塗りつぶされたのか??それは、光秀が逆賊とされたからでした。
しかし、最近の研究では・・・??
本能寺の変は、明智光秀が織田信長という鬼を倒しただけ??
天下の謀反人ではなかったのか・・・??

残された資料が非常に少ない明智光秀・・・
信長に仕えるまでの前半生は、ほとんど解らず多くの謎に包まれています。
通説では、美濃国の源氏の名門・土岐氏の一族・・・明智の家に生れたといいます。
室町時代の明智氏は、京都に常駐し、将軍の直臣として高い地位にありましたが、光秀の父に関しては、”光綱・光隆・光国”などの名が上がり、特定に至っていません。
出生地もはっきりせず、現在の岐阜県可児市・恵那市・大垣市・山県市・・・など諸説ありますが、近年では明智城のあった可児市を有力とする声が多くなっています。
生年も謎・・・
光秀を主人公とする軍記物「明智軍記」には、光秀の辞世の句があり、そこに”五十五年の夢”とあることから、亡くなった1582年に数えで55歳・・・それから逆算すると1528年生まれとされてきました。
つまり、光秀は1534年生まれの信長より6歳上。
しかし、明智軍記は光秀の死後100年以上たっている、作者も不明のために信憑性が低いとされてきました。

そして近年別の説が・・・??
本能寺の変の時、55歳・・・それは絶妙な年齢です。
しかし、17世紀成立の歴史書「当代記」には、光秀は羽柴秀吉との山崎合戦に敗れた後、落ち武者狩りで殺された・・・この時の年齢が齢六十七と書かれています。
最近では、1516年生まれという研究者もいます。
1516年生まれならば、信長より18歳年上・・・本能寺の変の際は67歳ということになります。

当時の美濃国は、守護である土岐氏が京都に滞在することが多く、それを美濃に持ち帰っていたため文化風流に富んでいました。
また、学問を重んじる寺も多く、そこには兵法書などが豊富にありました。
美濃国に生れた光秀は、幼少のころから様々な文化に触れ、多くの知識と素養を身に着けたのだと思われます。
そんな文武両道の光秀の前に、大きな試練の日々が待っていました。

1552年頃、油売りから身を起こしたともいわれる斎藤道三が、守護の土岐頼芸を追放し、美濃国を掌握。
明智氏はこの道三に仕えることとなりましたが、1556年4月、道三とその長男・義龍による長良川の戦いが勃発し、道三が討死・・・すると義龍は、道三に仕えていた明智氏を敵とみなし、その年の9月、3000の兵で明智城に攻め入りました。
対する明智方の兵は870人・・・城代を務めていた光秀の叔父・明智光安は勝ち目はない・・・と、光秀に明智の家の再興を頼みます。
明智城を脱出した光秀・・・。

妻・熙子と共に美濃を後にした光秀は、明智軍記によると諸国を放浪・・・極貧の暮らしの中、各地で禅寺を間借りしながら伊達氏、毛利氏、宇喜多氏などの所領を転々とします。
そして、1557年頃・・・越前国へと流れつきます。
福井県にある称念寺・・・光秀はこちらの門前に小屋を建てて住むことを許され、間もなくして朝倉義景に仕官。
この後、出世を果たしたといわれていますが、その理由は・・・??

ある日のこと、義景の前で鉄砲の腕前を披露することとなった光秀は、45mほど離れた的を、次々と打ち抜き、100発中99発命中・・・その褒美として鉄砲隊100人を預けられたといわれています。
これが本当に出世の理由・・・??
諸芸に通じた光秀ならば、鉄砲も上手かったと思われます。
鉄砲の話は作り話の可能性が高く、そもそも光秀がすぐに朝倉義景に仕えたという話そのものが疑わしいと思われます。
越前国に身を置いた光秀が、寺子屋の師匠をしていたという伝承もあります。
お医者さんをしていたという説もあり・・・その素養の高さが目に留まったのではないかと思われます。

1566年9月、光秀が身を寄せていた越前国に、足利義昭が逃げてきました。
前年に兄である室町幕府13代将軍・足利義輝が暗殺され、義昭にも危険が迫っていたため、幕臣の細川藤孝と共に逃亡・・・足利家と関係の深かった朝倉義景を頼って、越前までやってきたのです。
その時・・・明智の名を見つけた細川は、
「将軍の直臣だった明智氏の者か??」と、声をかけたのでは・・・??
光秀の人生が、大きく動き始めた瞬間でした。

そんな中、義昭は朝倉義景に声をかけ、足利将軍家を復興する為に共に上洛してくれるように要請します。
しかし、長男の急死などで気落ちしていた義景は、なかなか腰を上げようとしませんでした。
業を煮やした義昭は、義景を見限り一人の武将に希望を託します。
それが尾張の織田信長でした。
当時の織田信長は、美濃を制圧、その名をとどろかせていました。
思案する義昭に光秀は・・・??
光秀は、細川藤孝に「信長の妻に縁がある」と告げます。
信長の妻とは、正室・帰蝶のことで、帰蝶は美濃の斎藤道三の娘で、一説では母・小見の方は光秀の叔母・・・つまり、帰蝶と光秀は従兄妹になります。
光秀は、その縁を頼りに橋渡し役を買って出たのですが・・・
それによって信長とも運命の出会いを果たすのです。
この頃、信長が細川藤孝に贈った書状にも、

「詳細は明智に申し含めました
 義昭さまによろしくお伝えください」

とあります。

織田信長は、天下布武というだけあって、上洛の機会をうかがっていました。
信長にとって義昭の護衛は渡りに船だったのです。

1568年9月7日、信長は足利義昭を奉じて上洛。
光秀も幕臣として同行したといわれています。
こうして光秀は、放浪の身から歴史の表舞台に出たのです。
この時、通説なら41歳、当代記説なら53歳・・・。
9月26日に京都に到着した信長は、義昭の兄・義輝を殺害した勢力を京都から追い払い、平定。
翌10月、義昭は室町幕府第15代将軍に就任するのです。
光秀の橋渡しによってすべてはうまく行きましたが、光秀自身は複雑な状況になります。
この頃は、幕臣として義昭に仕える一方、信長からも扶持を受けていました。
光秀は二人の主君に仕える両属だったのです。
当時は武士たちは有能な主君を自由に選ぶことができたのです。

1569年、信長は直臣である丹羽長秀、木下秀吉、中川重政らと共に、新参者の光秀を京都奉行に任命します。
そうすれば、足利義昭の監視役とき、教養のある光秀は使えると思われていたようです。
光秀は、信長の期待に見事応え、京都の治安維持や税の徴収などで辣腕を発揮!!
和歌や茶の湯を通じて朝廷との交渉役となり、武骨ものの多い織田家臣団の中でなくてはならない存在となっていきます。
そんな中、光秀のもう一人の主君である足利義昭は、将軍とは名ばかりで実権を信長に握られていることに腹を立て、諸国の戦国大名に信長に圧力をかけるように命じます。
すると・・・光秀は、義昭の監視役としてその動きを逐一信長に報告していました。

1570年1月・・・信長は義昭に対して五か条の条書を突き付けます。
そこには・・・”重要な政治や軍事は信長が執行する 将軍は口出しするな”と記されていて、信長の印と共に光秀の署名がありました。
中立的な立場にいた光秀が、信長側に立ったのです。
どうして信長を選んだのか??
将軍・義昭よりも、天下統一に邁進する信長の将来性に賭けたのです。

織田家臣団の中にあって知略に富んだ交渉人として貢献する明智光秀・・・
さらに武将としてもその力を見せつけていくこととなります。

信長から政治に口出しするなと言われた将軍・義昭は、それに従うことはなく水面下で動きます。
朝倉義景を味方に付けようと画策します。
義景がこれに応じたため、1570年4月20日、大軍を率いて朝倉攻めに出発します。
光秀もこれに参戦・・・光秀にとって義景は、根無し草だった自分を拾い上げてくれた恩人・・・しかし、主君と決めた信長のために迷いはありませんでした。

4月25日、越前国に入った織田軍は、圧倒的戦力で金ヶ崎城と天筒山城を落とします。
織田軍が取った朝倉郡の首は1300以上だったともいわれています。
勢いそのままに朝倉義景のもとに攻め入ろうとした信長に・・・とんでもない情報が・・・!!
信長と同盟を結んでいた北近江の浅井長政が突然反旗を翻したのです。
長政の正室は、信長の妹のお市の方でした。
浅井氏に絶対の信頼を寄せていた信長は、言葉を失うほど狼狽したと言われています。
このまま残れば朝倉軍と浅井軍に挟みうちされるのは必死!!
家臣たちに説得された信長は、止む無く撤退を決意します。
戦において最も難しいのが退却戦・・・
本体を無事に退却させるためには、最後尾の殿が身を盾にして敵の追撃を食い止めなければなりません。
この難役に名乗りを上げたのが木下秀吉でした。
秀吉は金ヶ崎城に残って朝倉軍の追撃を必死に食い止め、兵の大半を失ったものの時間を稼ぎ、無事に帰還しました。
金ヶ崎の退き口と呼ばれるこの退却は、秀吉の武功として広く知られていますが・・・??

資料には「金ヶ崎城に 木藤 明十 池筑 その外残し置かれ・・・」とあります。

木藤=木下秀吉
明十=明智光秀
池筑=池田勝正

のことです。

つまり、この三人の共同作戦でした。
しかも、勝正は、多くの鉄砲を用意して参陣しています。
つまり、池田勝正と明智光秀が主力だった可能性が高いのです。
にもかかわらず、秀吉一人の武功とされているのは、太閤記に秀吉の武功ばかりが書かれています。
謀反人となった光秀の武功など、無用だと意図的に書き残さなかった可能性があります。
秀吉やその家臣によってかき消された光秀の功績は他にもあったと思われます。

信長の危機を命がけで救い、益々信長の信頼を得た光秀ですが、その一方で・・・
ルイス・フロイスは・・・
「織田家にあって、光秀は余所者・・・
 ほとんどすべての者から快く思われていなかった節がある
 また、光秀は裏切りや、密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的。
 己を偽装するのに抜け目なく、戦においては謀略の達人であった」と言っています。
浮いた存在だったようです。

フロイスは、キリスト教の受け入れに批判的だった光秀を、快く思っていなかったようですが・・・。
しかし、主君のためならば、残忍なことも、汚いこともするという一面が、光秀にはあったようです。

織田信長と対立していた石山本願寺法主の顕如が、浅井長政や朝倉義景に反信長連合を呼びかけます。
これに呼応した浅井・朝倉連合軍は、京都へ向けて進軍を開始し、比叡山延暦寺に布陣します。
すると信長は延暦時に対し・・・
「我が方に味方するなら山門領を安堵しよう
 それが無理ならばせめて中立を守って欲しい」
と、申し入れ、さらに
「味方もしない、中立を守らないというのであれば、敵とみなして焼き払う」
と脅しをかけました。
しかし、延暦寺はこれを聞き入れずに、無視・・・!!

翌年・・・1571年9月・・・ついに信長は、比叡山焼き払うように光秀に命じます。
比叡山延暦寺は、平安時代から朝廷の鎮護の役目を担ってきた由緒ある寺院です。
焼き打ちなどすれば、朝廷、更には京都の人々からの非難を免れることはできません。
通説では、光秀はこれに強く反対した!!

光秀の反対を押し切って、信長が比叡山の焼き打ちを決行!!
執拗な焼き打ちは4日間にわたって行われ・・・男女合わせて3000人以上が落命しました。
しかし、その真相は・・・??

近年の研究によると、光秀は比叡山焼き打ちには反対していないようです。
むしろ、忠実に比叡山の焼き打ちを実行しました。
その大きな根拠は、比叡山山麓の土豪に宛てた光秀の書状です。
そこには・・・

・弾薬の補給
・抵抗する集落の皆殺し

焼き打ちを実行するための細かな指示が書かれていました。
つまり、比叡山の焼き打ちに反対せず、入念な下工作をして信長の命令通りに実行したのです。
やはり謀略の達人なのか・・・??

しかし、この焼き打ちは、近年の発掘調査によってちょっとした山火事程度だったという説も出てきています。

光秀は、信長に反対せずに焼き打ちを実行したものの・・・それは脅し程度のもので、虐殺ではなかった可能性が高いのです。
1571年12月、光秀は比叡山焼き打ちの褒美として近江国志賀郡5万石を与えられ、さらに琵琶湖の湖畔に城(坂本城)を築くことを許されました。
これによって、光秀は延暦寺の監視と、琵琶湖水運の権利獲得を任されたのです。
これは、一国一城の主になったということ・・・
この時点では、まだ織田家臣団で一国一城の主になったものはおらず、新参者の光秀が第一号だったのです。

光秀は築城の名人で・・・ルイス・フロイスも、
「築城について造詣が深く、優れた築城手腕の持ち主」と評し・・・坂本城については、
「安土城に次いで豪壮絢爛な城」と絶賛しいます。
坂本城は、特殊な構造で、城から直接琵琶湖に船で出ることのできる攻めの拠点の城でもありました。
天下統一に突き進む信長・・・光秀は、何を見て付き従っていたのでしょうか?

1573年、室町幕府15代将軍・足利義昭は、再び信長討伐を掲げますが、全く歯が立たずに降伏・・・
7月、義昭は信長によって京都から追われ、室町幕府は事実上滅亡しました。
これによって信長は畿内をほぼ制圧!!
残るのは丹波国のみとなります。
京都に近い丹波国には、朝廷や将軍の領地が多く、義昭を蔑ろにする信長に良い感情を持っていない土豪が多く、なかなか手が出せずにいました。
しかし、丹波国を攻略し、畿内全土を掌握しなければ、天下布武は実現できない!!
そこで、1575年信長は丹波国を攻めるべく兵を起こし、その総大将に光秀を任命しました。
光秀は、期待に応えるべく奮戦し、4年の月日を費やして、丹波の城を次々と制圧・・・
1579年丹波国平定。

信長は大いに喜び・・・
「丹波国での光秀の働きは、天下の面目を施した」と光秀を絶賛しました。
そして、その丹波一国が光秀に与えられるのです。
丹波一国は29万石に相当し、近江国の志賀郡と合わせると光秀の所領は34万石・・・まさに、大出世でした。
丹波国の領主となった光秀は、福知山城などを築き領地経営に着手。
自らが考える理想の国づくりをしていきます。

長引く戦で疲弊した農民のために年貢の引き下げ、商業地では地場産業を奨励、水害から町を守るために福地山城下を流れる由良川の堤防を造成しました。
ケガを負った家臣には手紙を書いたり薬を渡し心配りをし、敵対した相手でも降伏後は自分の家臣に組み込むことが多かったといいます。
光秀の優しさは志賀郡でも変わらず・・・
西教寺には・・・戦で命を落とした明智軍18名の供養米を供えた際の寄進場状が残されています。

本来は、温厚、温和な人物であったと思われます。
誰もが幸せに暮らせる国を築きたかったのです。
信長の天下統一は、この国を豊かにするに違いない・・・そのために、自分の粉骨砕身お仕えしなければ・・・と思っていた光秀は、本能寺の変の1年前、家中軍法を作っています。
戦場での雑談や抜け駆けを禁止するなど細かな規定が18か条にわたって記されていますが、その結びには光秀のこんな言葉が・・・

「落ちぶれた身から信長様に拾ってもらった私が、莫大な軍勢を任されたからには、明智家の法度が乱れていると
”武功がない人間だ”とか”国家の穀潰しで公務を怠っている”と嘲笑され迷惑をかけてしまう
 抜群の働きを見せれば、速やかに信長様のお耳に入ることだろう」

信長への感謝と兵を預かる責任感を家臣たちに表明したものです。
しかし、その一方で、天下の謀反人となる変を起こすのです。
明智光秀は謀反人なのか?名将なのか?
光秀は、名将になった故に謀反人になったのでは・・・??
天下統一を目前にした信長は、天皇を超える存在になろうとしていました。
信長が、社会を乱す鬼となってしまったと感じた光秀は、自分の最後の大仕事として鬼を退治しようとしたのでは・・・??
信長の最後の城・安土城は、天皇を迎え入れる際の御幸の御間より、信長の暮らす天守の方が高い位置にありました。
自分は天皇を超える存在であるという強烈な意思を示したのです。
また、晩年の信長は、敵将の生首を蹴飛ばしたり、それまで以上に傍若無人な振る舞いが目立つようになってきていました。
その鬼を退治したのが本能寺の変・・・
謀反の後、もし光秀の天下が続いていれば、どんな理想の国を築いていたのでしょうか?

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鎌倉で長い歴史を誇る鶴岡八幡宮・・・
この境内に、雄々しく凛とした社があります。
白旗神社・・・祀られているのは、鎌倉で日本初の武家政権・鎌倉幕府を開いた源頼朝です。
武家の頂点を極めた頼朝・・・その人生はまさに波乱万丈でした。
どうして流人から将軍になれたのでしょうか・・・??

流人から武士の頂点となった源頼朝・・・どうやってそこに至ったのでしょうか??

①1159年 平治の乱

1143年、頼朝は源氏を束ねる武家の棟梁源義朝の子として京の都で生まれたと言われています。
三男でしたが、嫡男として育てられます。
それは、母親の家が名門貴族の藤原家の血をひき、熱田神宮の宮司をしていたことで、二人の兄の母より家柄や地位が高かったからです。
血筋に恵まれたこと、父・義朝が後白河上皇の近臣・藤原信頼の信頼を得ていたこともあって、頼朝はわずか12歳で後白河上皇の姉・上西門院統子に仕えることになります。
その翌年の1159年、蔵人に就任・・・宮中の全ての事務、行事に関する職で、出世の登竜門でした。
そして、同じ年、頼朝は13歳で初陣を果たします。
それが平治の乱!!
父・義朝が、朝廷の実権を握ろうとした藤原信頼と共に起こした内乱です。
武家のライバル平清盛が熊野詣で京の都を留守にしていたすきに、後白河法皇の屋敷を襲撃・・・
上皇とその息子である二条天皇を幽閉したのです。
このクーデターにより、父・義朝は受領の最高峰の播磨守に・・・
初陣を飾った頼朝は、右兵衛権之佐になりました。
これは、源氏にとって大きな意味を持っていました。

右兵衛権佐は、朝廷の有力者の子弟が任命される地位で、官位が四位以上の者が命じられることが多かったのです。
当時まだ従五位下であった頼朝が命じられたことは、源氏の家柄が非常に上昇していたことを表しています。
父・義朝たちの目論見は、うまくいったはずでした。
ところが・・・クーデターを知った清盛が、急遽京の都に戻ってきました。
清盛の挙兵によって、後白河法皇と二条天皇が脱出・・・
これによって、義朝たちは一変・・・賊軍となってしまいました。
そして、清盛の武力の前に惨敗・・・父・義朝は敗走中に謀殺されます。
父とはぐれた頼朝は・・・??
平家方に捕らえられてしまいました。
元服していれば処刑される・・・頼朝も、その例にもれず処刑されるはずでした。

清盛の母である池禅尼が亡くした子供に似ているからと命乞いをしたと言われていますが、元服して戦に臨んだ敗軍の武士が処刑されることを武士の妻である池禅尼が理解できないはずはありません。
亡くした子供に似ているから・・・ではなく、頼朝の助命嘆願は圧力をかけられていたからです。
その圧力とは・・・上西門院統子と後白河法皇でした。
頼朝の母の一族に助命を懇願されたので、池禅尼に圧力をかけたのだと思われます。

1160年3月11日、頼朝は京の都を追われ、伊豆の伊東に流されます。
その身は、平家方の有力豪族・伊東祐親の監視下におかれるも、ある程度の自由は認められていました。
損なる人生活が十数年続いた頃・・・
頼朝は伊東祐親が上洛している間に、祐親の娘・八重姫と恋仲になり、男の子・千鶴丸を設けてしまったのです。
これを知った祐親は激怒!!
娘と頼朝を引き離したばかりか、なんと千鶴丸を殺害してしまったのです。
さらにその後、頼朝の暗殺まで計画・・・頼朝に再び命の危険が迫ります。

この危機にすくいの手を差し伸べたのが、祐親の次男で暗殺計画に反対していた伊東祐清です。
その祐清の手引きによって、頼朝は辛くも伊東から脱出。
蛭ヶ小島にうつるとその在庁官人だった北条時政の保護を受けることに・・・
その後、31歳になった頼朝は、時政の娘・政子と結婚。
1178年娘・大姫が生れました。
流人でありながら、おだやかな生活を手に入れたのです。
そんな中でも胸の奥には武士としての滾るものがありました。

「いつか・・・父の仇・清盛を討つ!!」by頼朝

しかし、”平家にあらずんば人にあらず”と言われるほど、清盛を中心とした勢いは増すばかり・・・
頼朝は、伊豆に流されてから20年を過ごすことになります。
流人である頼朝には、武力も何もなく、周囲も清盛が平家を攻撃するとは思っていませんでした。
本人も、平家との立場の違いに、仇討ちを諦めていたのです。

「もはや・・・平家を討つことはかなわぬのか・・・??」by頼朝

流された伊豆の地で、父の仇である平家を討つと誓いながらも、20年・・・勢力を増す平家に挙兵できていませんでした。
そんな中・・・
1180年4月、平家の権勢を良しとしない後白河法皇の皇子・以仁王が挙兵に動きます。
全国の武士に、平家を討つために立ち上がって欲しいと願ったのです。
その知らせは、伊豆にいる頼朝のもとにも届けられました。
遂に、平家に一矢報いることができる・・・!!はずでした。
ところが、以仁王の乱は、平家の知る処となって鎮圧・・・
平家の今後の出方と反平家の武士たちの動向を見極め、頼朝はどう動くのか??慎重に考えました。
頼朝は伊豆周辺の状況を見ながら、虎視眈々と味方集めをしていきます。
以仁王の乱の後、それまで源氏の一族が治めていた伊豆の国の知行国主の座に平時忠がつきます。
平家による支配が色濃くなったことで、北条氏を含む伊豆の武士たちは反発!!
頼朝はそんな彼らを味方に取り込んでいきました。
さらに・・・相模・上総は後白河法皇の知行国でした。
それが平家が知行するようになり、後白河法皇の知行国の武士たちは圧力を受けるようになったのです。
頼朝はそうした平家の圧力に不満を抱く、相模や上総の武士たちにも目をつけます。
すぐに相模に腹心を派遣し、味方に引き入れることに成功します。

「ついに・・・機は熟した!!」

②1180年 源頼朝挙兵

8月17日、頼朝は平家打倒の狼煙を上げます。
しかし・・・相模国の石橋山で、平家方の大庭景親軍と激突するも、圧倒的な兵力差で惨敗を喫してしまいます。

「まだ、兵が足りぬか・・・!!」

そこで頼朝は、更なる味方集めに奔走します。

「平家によって幽閉されている院(後白河法皇)を共に救おう!!」と。

後白河法皇のためという大義名分が功を奏したのか、上総、下総の有力武将が頼朝の味方に・・・
更には、平家に不満を持っていた関東各地の有力武将たちもが次々と合流・・・平家方の武将を倒していきました。
すると、その形勢に平家方の武将の中にも頼朝に下る者たちが現れます。
こうして頼朝は、流人ながらも強大な軍団を作り上げることに成功します。
10月6日、源氏ゆかりの地鎌倉に入り、本拠地とします。
石橋山での敗戦から、わずか1月後のことでした。
頼朝は、行きつく暇もなく、京から送り込まれている大軍を迎え撃つべく出陣!!
黄瀬川沿いに布陣し、富士川の近くに陣を構えた平家軍と対峙します。
富士川の合戦です。
両軍に走る緊張・・・ところが・・・
10月20日未明・・・一斉に飛び立った水鳥の羽音を、源氏軍の紀州と勘違いした平家軍が、慌てふためいて逃げて行ったのです。
戦わずして勝利した頼朝は、実質的に関東を支配することとなりました。
頼朝は、平家という共通の敵を作り、勝ったら平家の所領を与えることにしました。
そうやって武士たちを繋ぎとめていたのです。
この新恩給与を朝廷にも認めさせ、後の地頭という制度につなげていきます。
頼朝に従っていた武将たちは、やがて御家人となり、頼朝と御家人との間には、「御恩と奉公」という関係が生れ、これが鎌倉幕府を支える基本となっていきます。
20年間流人として生きてきた頼朝には、東国の武士たちが何を望んでいるのか・・・それを知っていたからできたことです。

この合戦後、運命的な出会いをすることとなります。
腹違いの弟・義経との初体面です。
平時の乱の混乱のさ中に生れた義経は、幼いころに京の鞍馬寺に預けられるも、打倒平家を胸に京の都を脱出、奥州・平泉へ・・・!!
藤原秀衡の庇護を受け、武士として立派な成長を遂げていました。
そして・・・義経は、兄の挙兵を聞きやってきたのです。
二人は涙しながら語り合ったと言います。
こうして頼朝と義経は、力を合わせて打倒平家に邁進することとなるのです。

③1181年 平清盛死去

関東の武士たちを味方につけ、富士川の合戦で平家軍に勝利した頼朝は、鎌倉を拠点に実質的に関東を支配することになりました。
しかし、頼朝は平治の乱で平家に敗れて以来、いまだ朝廷に弓を引いた謀反人のままでした。
そこで、上洛して後白河法皇に近づき、どうにかして謀反人の立場をといてもらおうと考えていました。
その策は・・・平家の打倒と後白河法皇の救援と建前として上洛することです。
ところがそんな頼朝のもとに衝撃的な報せが・・・!!
平家を率い、強大な権力を有していた平清盛が熱病で急死したのです。

「なんと!!あの清盛が死んだ・・・??」

清盛の死で、頼朝の策は破綻します。
大黒柱を失った平家が政権を返上したことで、後白河法皇の院政が復活!!
頼朝が上洛する理由が無くなってしまったのです。



そこで頼朝は驚くべき策を・・・!!
源氏と平家の和平です。
頼朝は後白河法皇に書状を送り、こう申し入れます。

❶院(後白河法皇)への敵意はない
❷これまでの行動は、院の救済が目的
❸院が平家の滅亡を望まない場合は、朝廷の支配のもとで源氏が東国、平家が西国の治安維持を担当する

後白河法皇は、この頼朝の案に興味を示しますが、平家は猛反発します。
亡き清盛の遺言があったからです。

「かならずや我が墓前に頼朝の首を供えよ・・・!!」

結局、和平は結ばれませんでした。
しかし、これはすべて頼朝の思惑通りでした。
頼朝も、平家と和睦できるとは思っていませんでした。
この案を出すことで、後白河法皇の信頼を得ようとしたのです。
後白河法皇や朝廷の信頼を得るために、実現しないであろう和平工作を上奏したのです。
実際法皇は、突っぱねた平家に不信感を抱き、頼朝に近づいていきます。
こうして上洛への道筋を作った頼朝・・・その最終目的は、謀反人の汚名を雪ぎ、朝廷を守る唯一の官軍になること・・・しかし、横やりが・・・!!

④1183年 木曽義仲 上洛

それは、同じ源氏・いとこの木曽義仲が先に上洛。
平家を都落ちさせてしまったのです。
おまけに義仲は後白河法皇に面会、平家追討の宣旨を受けました。
一説にはこの時義仲は、頼朝を謀反人のまま据え置くように働きかけたと言います。
こうして後白河方法の信任を得た義仲が、頼朝より官軍として平家追討軍を率いることに・・・!!
頼朝は、上洛の機会を逸してしまいました。
ところが、義仲軍の兵士たちが、京の都で乱暴狼藉を働いたことで、後白河法皇が激怒!!
これを知った頼朝は、すぐさま後白河方法に使者を送り、如何に自分が法皇のために力を注いでいるのかをアピール・・・その苦労が実ったのか・・・

1183年10月9日・・・
頼朝は朝廷から謀反人の立場をとかれ、従五位下に任じられます。
14歳で伊豆に流されてから23年・・・37歳でようやく少年時代の官位に返り咲きました。
そして、この5日後・・・朝廷に認めさせたのが・・・

❶東国にある荘園の年貢や税は、頼朝が徴収して、朝廷や荘園領主におさめる
❷これに違反する者がいれば、朝廷は頼朝に追討を命じることができる

これにより頼朝は、名実ともに関東の支配権を得ます。
京の都では、後白河法皇や朝廷の信頼を失った木曽義仲を追討のため、頼朝の上洛を期待する声が・・・!!
その声に応え、頼朝が今日に派遣したのが弟の源義経でした。

1184年1月・・・
義経は宇治川の合戦で義仲軍と激突!!
見事、義仲を討ち取りました。
これで、ライバルがいなくなり、頼朝が平家追討の旗頭となったのです。

⑤1185年 平家滅亡

頼朝は平家追討のために、弟の義経を西国に派遣。
兄の期待に応えるように、義経は一の谷の合戦や屋島の合戦で奮戦し、平家を追いつめていきます。
そして、1185年3月・・・壇ノ浦の合戦で平家軍に勝利!!
頼朝の挙兵から4年半・・・ついに源氏が平家を滅ぼしたのです。

平家を滅亡させた功労者となった義経・・・
父も兄もなくしていた頼朝にとって、義経の存在は心許す唯一の存在でした。
そんな義経を、頼朝は自分の子として迎え入れ、後継者にしようとしたほどでした。
ところが・・・頼朝は、次第に義経と対立を深めていきます。
1184年8月6日、義経は法皇から左衛門少尉を与えられ、検非違使の職を宣旨られます。
義経は、源氏の権威が上がったと、兄頼朝も喜んでくれると思いました。
しかし・・・平家追討に対する恩賞を誰に与えるのかは、自分が申請すると朝廷に申し出ていた頼朝は、自身の許可を得ず官職をもらった義経に激怒!!
これが、頼朝と義経の対立の原因だと吾妻鏡には書かれています。
しかし・・・頼朝は、義経が検非違使になった後も、後白河法皇との取次などを任せています。
むしろ、頼朝は義経を検非違使に推挙していた可能性もあるのです。

⑥1189年 源義経 追討

血を分けた兄弟である頼朝と義経・・・
二人はともに平家打倒の宿願を果たしましたが、その後激しく対立!!
頼朝は実の弟である義経を死に追い込んでいくこととなります。
どうして頼朝は弟の義経を追討したのでしょうか?

通説では、頼朝は自分の許可も得ずに検非違使の職をもらったことに激怒し、二人の対立の原因とされてきました。
義経の検非違使就任は頼朝も了承していた可能性があります。
問題だったのは、義経が検非違使の職にとどまり続けたことだったのでは・・・??

対立の理由
❶検非違使留任問題
頼朝は平家追討の勲功として義経に伊予守の官職を与えるように推挙していました。
京の都の治安を守る検非違使は、京に留まる必要があります。
しかし、伊予守などの受領は、必ずしも現地に行く必要がありません。
頼朝は義経を伊予守に就任させ鎌倉に呼び戻し、自分の近くに置いておこうと考えていました。
ところが、義経は、伊予守の職をもらった後も、辞任しなければならない検非違使に留任し、京の都に居続けたのです。
これに頼朝は腹を立て、二人の仲に決定的な亀裂が生じたのです。
頼朝は、自分の軍が朝廷を守る唯一の官軍になることを目指していました。
しかし、義経は検非違使として京に留まることで後白河法皇の直属軍になる可能性がありました。
義経の検非違使留任が、頼朝軍を唯一官軍にする大きな妨げとなったのです。

❷後継者問題
弟義経との初体面から2年・・・
1182年8月に頼朝の嫡男・頼家が誕生。
我が子を跡継ぎにしたい頼朝は、弟・義経の存在を疎ましく思うようになっていきます。
義経が源氏の後継者となり、よりいrが退けられることを頼朝は恐れていました。
下手をすれば、源氏が二つに分裂し、頼朝が築いた権力が消滅する危険性があったのです。
頼家を後継者にする弊害となり、源氏内の派閥闘争の火種となる義経を排除したかったのです。

1187年、義経が藤原秀衡を頼って平泉に到着。
一方、頼朝は義経追討の宣旨を受けます。
しかし、秀衡の強大な軍事力を前に、頼朝は手を出せずにいました。
ところが・・・10月29日、秀衡は病死。
頼朝は義経追討に動きます。秀衡の後継者である泰衡に圧力をかけ、義経と奥州藤原氏の分裂を画策。
泰衡は家を守るために義経を攻撃することに・・・!!
追いつめられた義経は・・・
1189年4月30日、義経自害!!
その後、頼朝は平泉に兵を送り込んで、強大な力を有していた奥州藤原氏を滅ぼすのです。
これで敵対する武家勢力は消滅・・・頼朝は遂に武家政権の頂点に立ったのです。

⑦1192年 頼朝 将軍就任

弟である義経や、奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、1190年11月7日、上洛。
一千騎の兵を従えて堂々たる行列で京の都に戻ってきました。
14歳で都を追われてから30年の月日が経っていました。
この時頼朝は武官の最高位・右近衛大将に任じられ、名実ともに武士の最高位に上り詰めるのですが・・・
わずか9日後に辞任して鎌倉に帰ってしまいました。

右近衛大将は、朝廷の政務、儀式への参加が主な仕事・・・京の都に絶えずいなければなりませんでした。
頼朝は拠点とする鎌倉で体制を盤石にすることを優先しました。
頼朝は、鎌倉にいても務まる権威ある官職を朝廷に求めます。
そうして2年後、朝廷から賜ったのが・・・
1192年、征夷大将軍・・・46歳でついに流人から将軍となりました。
その3年後、頼朝は再び上洛。
妻・政子、嫡男・頼家、娘・大姫らを引き連れてのことでした。
頼朝は、娘の大姫を、時の後鳥羽天皇の妃にしようと考えていました。
朝廷の有力者に大姫を紹介し、後鳥羽天皇との縁談を取り持ってもらおうと・・・
大姫を入内させ、男子が生れればそれは天皇・・・源氏は天皇の外戚となり、強大な権力を得ることができます。
大姫を嫁がせることで、源氏と北条氏の権威が上がると頼朝は考えていました。
源氏と北条氏が天皇の縁戚となり、高い権威を持つことで、幕府の安定を図ろうとしたのです。

ところが・・・入内を待たずに娘の大姫は入内を待たずに病死・・・。
20歳だったと言われています。
かなしみいえぬままに大姫の代わりとしてその妹の入内計画を始めますが・・・
最後の願いはかなわず・・・
1199年正月13日、源頼朝、53歳で病死。
志半ば・・・波乱に満ちた生涯でした。

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1582年・・・天正10年6月2日・・・京都・本能寺に宿泊中の織田信長を、明智光秀が急襲・・・!!
信長を自害へと追い込みました。
光秀は、そのまま近くにいた信長の嫡男・信忠も襲撃し、死に追いやりました。
本能寺の変・・・未だ、様々な謎が残る、戦国史上最大のミステリーです。
この謀叛には、数少ない生き証人がいます。
その男の名は弥助・・・弥助は、光秀の襲撃、信長の自害、信忠の自害まですべてを目の当たりにした歴史の目撃者なのです。

①なぜ信長の遺体は見つからなかったのか・・・??
弥助は、身の丈6尺以上(190cm)の大男で、十人力の怪力の持ち主と、信長公記には書かれています。
イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが上司に宛てた書簡には「イエズス会日本年報追加」には、本能寺の変における弥助の行動が書かれていました。

”信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き相当長い間戦っていたところ、明智の家臣が彼に近づいて恐るることなくその刀を差し出せといったので、これを渡した”

弥助は、イエズス会から信長への贈り物でした。

159年7月・・・本能寺の変の3年前・・・
イエズス会の船が、島原半島の口之津に入港しました。
その時、宣教師ヴァリニャーノの従者として降り立った一人が弥助でした。
信長公記によると・・・
”年の齢二十六、七と見えたり
 その身の黒きこと牛のごとし
 彼の男 健やかに器量なり”
アフリカのモザンビーク出身と言われる弥助は、奴隷として買い取られ、インドのゴアで宣教師の護衛兼荷物持ちとなった事がわかっています。
更に弥助には大きな役目がありました。
宣教師たちは物珍しさが好きな日本人のために、黒人を「人寄せ」に使っていました。
当時、日本では黒人の人気は相当なもので、布教をしていた宣教師はこう書いています。
”日本人は極めて新奇なことを喜ぶ
 彼らは黒人を見るためにお金を払うだろうから、それを監督する者は短期間で金持ちになるだろう”
イエズス会は、黒人を日本に連れてくることで、日本人の心をつかもうとしていたのです。

1581年、弥助は宣教師に連れられて、京都に来ました。
弥助の噂は瞬く間に広がり、弥助を一目見ようと大勢の人が押しかけました。
見物人同士の喧嘩でけが人が出るほどでした。
その騒ぎを聞きつけた織田信長が、弥助を連れてくるように命じます。

1581年2月、信長と面識のあった宣教師オルガンティーノは、弥助を伴って信長との謁見に臨むこととなります。
信長は当時、畿内を中心とした強力な政権を確立、イエズス会は信長を日本の実質的最高権力者と見なし、信長に取り入ることでキリスト教の布教と庇護を確実にするという目論見がありました。
この時弥助をはじめてみたときの信長の反応は・・・??

”信長は大いに喜んだものの、愉しませるために我らが墨を塗ったのではないかと考え、男の肌の色が生来の者であると信じなかった
 しかしながら、帯から上の着物を脱がせて検分した後は、信長もようやくこれを納得した”

弥助の漆黒の肌に驚いた信長は、肌をこすったり引っかいたりしました。
それでも肌の色が変わらないとわかると、やっと黒い肌を認めたといいます。
片言の日本語が喋れるとわかった信長は、矢継ぎ早に質問をしたといいます。
数日後・・・弥助の主人ヴァリニャーノも信長に謁見します。
そこで弥助の運命が一変!!当時珍しいクリスタルガラスなどを献上したところ、弥助の献上も申し出たのです。
弥助を気に入っていた信長は、この申し出を受け入れました。
しかも、単なる従者としてではなく、弥助を侍として取り立てたのです。
信長公記によると・・・
”弥助は安土城の城下町に従者付きの住居を与えられ、さらに身分に相応しい衣服と武具も与えられた”とあり、正式な家臣となっていました。
こうして弥助は、日本初の外国人侍となったのです。
本能寺の変のわずか1年3か月前のことでした。

1582年6月1日・・・
天下統一を目指す織田信長は、羽柴秀吉の毛利攻めの援軍に向かうために、京都本能寺に宿泊していました。
当時の本能寺は、東西140m、南北270mの広大な敷地と大伽藍を有していました。
しかし、信長が連れていたのは僅かな手勢のみでした。
従者のうち戦力となるのは弥助を含め、30人ほどでした。
そして翌、6月2日未明・・・
信長と同じく秀吉の援軍に出立するはずだった明智光秀が、1万3000の兵で本能寺を包囲!!
只ならぬ喧噪で目を覚ました信長は、当初、従者たちの喧嘩だと思ったといいます。
しかし、小姓の森蘭丸が、明智光秀の謀反であると告げると・・・

「是非に及ばず」

と覚悟を決めたのです。

鬨の声を上げ攻撃を仕掛ける明智の軍勢、それでも信長は弓を次々と放ち、弦が切れると槍を突き立てて敵をなぎ倒しました。
弥助も主君の首をとらせてなるものかと必死に応戦!!
しかし、兵力の差は歴然・・・状況を打破するには至りませんでした。
そして、雑兵によって深手を負わされた信長は、もはやこれまで・・・と観念・・・
一説によると奥に誰も通さぬよう命じ、燃え盛る本能寺で自害し、果てたといわれています。
49歳でした。
問題はこの後・・・襲撃後、明智軍は信長の遺体を探します。
しかし、それらしき遺骨すら見つけることができませんでした。
信長の遺体はどこに消えたのでしょうか?
それが、本能寺の変おける長年の謎でした。
その謎を解くカギを握っていたのは弥助でした。

森蘭丸が、信長の首を切り落とし、弥助が本能寺から持ち出すことを任されていた・・・??
戦国の世では、首をとることが戦に勝った事の証・・・
首が見つからなければ、光秀は信長を討ったとは証明されず、大きな打撃となります。
弥助に首を持って本能寺を脱出した・・・??
明智軍をどうやって突破したのか??

信長の死後の弥助の行動は・・・??
本能寺の近くにあった阿弥陀寺に残されています。
本能寺の変の頃、阿弥陀寺の住職をしていたのは清玉上人です。
清玉上人は、幼い頃信長の兄・信広に命を救われ、その後織田家に家族同然に育てられた織田家とつながりの深い人物でした。
そんな清玉上人の本能寺の変当日の行動を書いたものが「信長公阿弥陀寺由緒之記録」です。
そこには・・・
本能寺の変の知らせを受けた清玉上人は、大いに驚き、仲間の僧侶20人ばかりと一緒に信長のもとに駆け付けます。
なんとか寺の裏側から寺に入ると、既に信長は切腹した後・・・
墓地のやぶの中で、10人ほどが火葬をしていました。
話を聞くと、遺言通り信長の首を持ち出そうとしたものの、四方を明智軍に囲まれているので仕方なく火葬しているとの事・・・
この火葬を行っていた家臣の一人が弥助・・・??
弥助たち家臣は、織田家にゆかりのある清玉上人なら信長の遺骨を託せる・・・と、あるものは再び明智軍に飛び込んで行ったといいます。
火葬を終えた清玉上人は、信長の遺骨を取り集め、自らが着ていた法衣に包みました。
そして、本能寺の僧侶のふりをして阿弥陀寺に持ち帰ります。
火葬し、遺骨にしていたので、目立たずに持ち運ぶことができたというのです。
清玉上人は、葬儀を行い、死を弔いました。
そのため、現在でも阿弥陀寺では信長の法要が毎年行われています。
墓地も存在しています。
弥助たち家臣が火葬し、清玉上人が遺骨を持ち去った可能性が高いと思われます。

本能寺の変の直後、京都と近江を支配下に置いた光秀は、織田家の武将たちの反撃に備えます。
その際、光秀は周辺の武将たちに味方になるように要請します。
しかし、信長の遺体が見つからないことで、信長が討たれた確証はなく、もし生きていた場合光秀に加担したことで攻め滅ぼされてしまう・・・と、ほとんどの武将が光秀の味方に付かなかったといいます。
その結果・・・
1582年6月13日、明智軍は本能寺の変を知り急遽引き返した秀吉の軍と山崎で激突し敗退・・・
光秀は、逃げる途中に落ち武者狩りにあい、本能寺の変からわずか11日後に命を落としました。
弥助と清玉上人の活躍が、光秀の三日天下につながったとも考えられます。

遺骨を上人に預けた弥助は・・・??

②なぜ信忠も巻き添えとなってしまったのか・・・??
本能寺と1.2キロのところに信忠が宿泊していました。

本能寺の変の当日、織田信長の嫡男・信忠は、京都にいないはずでした。
本能寺の変の3か月前・・・3月11日、織田家が長年争っていた甲斐の武田氏を滅ぼしたことで、信忠は功労者である徳川家康をねぎらうために堺に向かう予定だったのです。
しかし、父・信長が毛利と戦う羽柴秀吉の応援に向かうことになり、安土を出発したことを知った信忠は、急遽予定を変更し、信長を迎えようと京都にとどまったのです。
このように信忠が信長の顔色をうかがうのには理由がりました。
織田家の嫡男として小さい頃から帝王学を学んできた信忠は、父・信長と共に多くの戦に参戦し、自らも多くの功績をあげてきました。
1575年織田家の家督を継いで岐阜城へ・・・
美濃・尾張の二か国およそ100万石を治める大名に・・・正式に織田家の当主となったのです。
しかし、信忠に対する信長の評価は・・・

「信忠は、一見器用に見えるが、城持ち大名としては不器用だ
 もっと人が予測できないことをやらなければ合戦には勝てない」

と、極めて厳しいものでした。
信忠は19歳で織田家を継承しましたが、天下平定の実権は父・信長のもとにありました。
そんな中、信長が自らの後継者として信忠に並々ならぬ期待をしていました。
信忠にとっては、そのプレッシャーは、計り知れないものがありました。
その父・信長の重圧が、信忠を京都に止まらせてしまったのです。

1582年6月1日・・・
信忠は、本能寺にいる信長のもとを訪ね、酒を酌み交わしたといいます。
それが、父と子の今生の別れとなりました。
その僅か数時間後・・・本能寺の変が起きたのです。
信忠は、明智軍が本能寺を攻めたという知らせを妙覚寺で聞きました。
その信忠のもとへ弥助が駆けつけることに・・・
どうして弥助が向かったのか・・・??
明智急襲の知らせを聞いた信忠は、直ちに手勢500人を引き連れて、父・信長を救うべく本能寺に向かいました。
その途中で、信長の家臣で村井貞勝に遭遇します。
すると村井が、
「本能寺は明智勢に取り囲まれ、近づくことすらできません。」by村井
「となれば、もはや明智勢から逃げ切ることは出来ないだろう
 もし逃げられたとしても、雑兵に討ち取られては後世の物笑いになり、無念である」by信忠
「ならば、御所へお行き下さい
 御所であれば、光秀も攻め入ることはできないでしょう」by村井
「仕方あるまい・・・」by信忠

こうして信忠は、二条御所に向かい、籠城することになったのです。
一方、死を覚悟した信長は、一刻も早く京都から脱出の命を信忠に伝える必要がありました。
信長にとって最悪の事態は、自分と信忠が同時に討ち取られてしまうことでした。
織田家の当主である信忠が生きていれば反撃できる!!
そこで、信長が考えたのが、何とかして信忠を京都から脱出させることだったのです。
しかし、本能寺は光秀の軍勢に取り囲まれている・・・
どうやって伝える・・・??
信長は、十人力の弥助なら、明智軍を潜り抜け、自らの首と伝言を妙覚寺の信忠に届けられると考えたのかもしれません。
信長の命を受けた弥助は、信長の遺骨は清玉上人に託すことになりましたが、伝言だけは・・・と、命がけで妙覚寺に向かうこととなります。
その結果、弥助はなんとか信忠のもとにたどり着くことができました。

弥助は、織田家の当主だった信忠に、信長の死を報せ、京都から退避するように伝えるために、信忠のもとに向かったのです。
明智光秀が信長を討ち取ったのち、織田家当主の信忠は、弥助から父・信長の死と、京都を脱出せよという最後の命を受け取りました。
しかし、信忠が逃げようとした形跡はありません。
すでに、安全であったはずの二条御所も明智軍に包囲され、京都を脱出することは不可能だったのです。
それでも信忠は、明智軍と命の限り戦いました。
弥助も信忠を守ろうと応戦しますが、それも時間の問題でした。

信忠の最期について信長公記には・・・

「私が腹を切ったら縁の板をひきはがし、亡骸を床下に入れて隠せ」

こう言い残し、信忠は自決という名誉の死を選んだのです。
26歳の若さでした。

③光秀に謀反を起こさせた黒幕とは誰なのか・・・??

織田信長とその嫡男・信忠が自害し、明智光秀軍の勝利に終わった本能寺の変・・・
ここにもう一つの謎があります。
その後の弥助について、フロイスはこう書いています。

「明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差し出せと言ったので、これを渡した」

こうして弥助を捕らえた明智の家臣が光秀にその処分をたずねると・・・光秀はこう命じました。

「インドのパードレの聖堂に置け」by光秀

インドのパードレの聖堂とは、京都・南蛮寺・・・イエズス会の京都における本拠地のことです。
明智軍と戦った信長の側近・弥助をなぜか無罪放免・・・かつて従者として仕えていたイエズス会へ戻したのです。
どうして弥助は殺されることなくイエズス会に戻されたのでしょうか?

本能寺の変の後、光秀に味方する武将はいませんでした。
そこで、光秀が目をつけたのが、京都に近い高槻城主の高山右近でした。
右近はかつて信長によって弾圧された荒木村重の家臣だったことで、信長に反感を持っていると考えたからです。
光秀は、右近がキリシタン大名でもあったことから、宣教師を通じて書状を送り、味方になるように要請していました。
とにかく見方を作る必要があった光秀・・・
イエズス会と連携して、キリシタン勢の支持を得ようとしたのです。

こうした光秀とイエズス会との関係が、本能寺の変の前からあったという説があります。
そのきっかけとなったのは、信長のある行動でした。
ルイス・フロイスの「日本史」によると・・・

「安土山の寺院には神体はなく、信長は己自らが神体であり、生きたる神仏であるとし、彼の上に万物の創造主もないと言い、地上において崇拝されんことを望んだ」

信長は、自らが神になろうとしたのです。
安土城・・・の本丸に清涼殿という天皇を招く館を作りました。
しかし、この館の上に、信長のいる天守を置いたのです。
自ら天皇の上にたとうと・・・あらゆるものを超越しようと自らを神格化し、全く新しい権力構造を作ろうとしたのです。
この信長の野望は、キリスト教に忠実なイエズス会にとって絶対に許すことにできないものでした。
そして、そんな信長の絶対的権力に恐れを抱いたのが、信長の重臣・明智光秀でもあったのです。
当時光秀は、信長によって丹波・近江志賀郡などの領地を召し上げられ、出雲と石見を自ら攻略し、領土とするよう命じられていました。
このことから、打倒信長という点で、イエズス会と光秀の利害が一致、そのため、イエズス会が本能寺の変の黒幕だった・・・??

その結果か、光秀は本能寺に宿泊していた信長を襲い、自らの主君を自害に追い込むことになりました。
そして、この謀叛の一部始終を、イエズス会の宣教師たちは、本能寺のすぐ近くの南蛮寺から見届けていたのです。

「インドのパードレの聖堂に置け」・・・

つまり、弥助がイエズス会に返されたのは、光秀とイエズス会との密接な関係の証であった可能性があるのです。

イエズス会の思惑と、信長の野望・・・その狭間で、運命を翻弄されたのが弥助だったのかもしれません。
この後、弥助に関する記録は残っていません。
日本を離れ、モザンビークに帰ったのでは??と言われています。
しかし、イエズス会の報告書に気になる記述がありました。
本能寺の変の2年後、九州に黒人がいたことが記され、キリシタン大名であった有馬晴信の軍勢の大砲の使い手として活躍し、勝利をもたらしたというのです。
その黒人が弥助だったとしたら・・・九州のどこかで一生を終えていたのかもしれません。
本能寺の変の目撃者として全ての真相を胸に秘めたまま・・・。

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