日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: ダークサイドミステリー

マインドコントロール・・・その罠は、日常の至る所に潜んでいます。
セミナー、ボランティア、SNS・・・自らの意思で選んだように見せかけ、一度入れば抜け出せない・・・
そして恐ろしい事件を引き起こしてしまうかも・・・??
今から40年前、南米ジャングルの中の町で起きた前代未聞の集団自殺・・・
死者の数909人・・・信者を自ら死に追い込んだのは、人民寺院の教祖・ジム・ジョーンズでした。
社会正義を掲げ、人々を熱狂させ、奇跡を起こす・・・
しかしその一方、信者を恐怖で縛る・・・!!
彼等はどうして自分の生き死にまで操られてしまったのでしょうか?

南米ガイアナのジャングルを切り開いて作られた町・・・ジョーンズタウン・・・
今からおよそ40年前、アメリカから集団移住した宗教団体は、人種の垣根を超え、理想郷を作ろうとしていました。
ところが、1978年11月18日・・・
彼等の理想郷は突如崩壊します。
子供を含む909人が集団自殺したのです。
死因は猛毒のシアン化合物による服毒自殺でした。
この集団自殺を引き起こしたのは、人民寺院・・・そして信者たちをしに追いつめたのが、ジム・ジョーンズでした。
人民寺院は、数千人の熱狂的な信者を抱える大教団・・・

始まりは、集団自殺事件の47年前・・・
アメリカのインディアナ州・・・ジム・ジョーンズは、1931年5月13日に州都インディアナポリスにほど近い900人ほどの小さな町で生れました。
当時、アメリカ各地で激しい人種差別が蔓延し、インディアナ州もそんな一つでした。

”私の家は、地域の中でも間違いなく貧しい方でした。
 子供の頃を思い出そうとすると、とても辛くなります。”

貧しい暮らしの中で、事務の人格形成に大きく影響を及ぼしたのが、母のリネッタでした。

母親は、輪廻転生を信じていました。
今の自分が不幸なのは、周りの抑圧と嫉妬のせいだと信じていました。
その反動からか、ジムのことを幼いころから
「あなたは特別な人」
「神はあなたが世界を変える人になるのを望んでいる」
と、繰返し言い聞かせました。

幼くして強烈な使命感と自己愛を背負い込んだジム・ジョーンズは、自分の生きる道を当時コミュニティーの中心だった教会に求めます。
6歳の頃から町じゅうの教会を回り、聖職者がどのように人々の関心を集め、世間に影響力を持つのか・・・
説教の仕方や振る舞い・・・
そして、1952年21歳の時、インディアナポリスの地元の白人教会の見習い牧師に就任します。
この頃、信者獲得の方法を研究していたジム・ジョーンズは、ある教会の集会に参加し、衝撃を受けます。
それは、ペンテコステ派教会の集会で、聖霊体験を通じて信仰を深めるというものでした。
信仰に没頭する信者を見たジム・ジョーンズは、この手法を利用することを考えます。

1954年、23歳の若さで人民寺院設立。
人民寺院は、貧しい人の救済や人種差別の撤廃などを掲げ、黒人や貧民を引き付けていました。
設立当時の人民寺院は・・・
人種差別と貧困に苦しむ黒人たちの心をわしづかみにしたのは、ジム・ジョーンズが熱狂的に掲げる理想の社会でした。

”私は神の原理 すなわち神の社会主義を身をもって実現しています
 完全に平等な社会 人々が全ての物事を共有する社会
 貧富の差がなく、人種の区別がない社会の代表者なのです
 平等や正義を求めて闘う人あらば、そこに私は存在します
 そのような場所こそが、私の居場所なのです。”

インディアナポリスでは、人気者となりました。
白人の牧師なのに、他民族の共生生活やマイノリティーの社会問題を取り上げ、熱く語りました。
これまでそんな話をする牧師は、見たことも聞いたこともありませんでした。
ジム・ジョーンズは、理想を語るだけでなく、自ら実践しました。
貧しい人々やホースレスに無料で食事を提供・・・スープ&キッチン
他にも、悩み事相談、衣服の配布など、社会奉仕の輪を広げ、知名度を上げていきます。
そして、さらに多くの信者を集めることにも熱心でした。
そのために彼がやったとこは・・・
足腰の悪い人に暗示をかけて、歩かせる奇跡に成功。
これは信仰治療・・・大衆の面前で病気を治し(ちなみにこの女性はサクラと判明)、この奇跡に多くの人々が押し寄せ、教団の規模は拡大していきます。

”私は奇跡を起こすことができる”
”私は病気を癒し、癌を治すことができる”
”私は太陽の輝きを止めることができる!!”
”私は雨を降らせることができる!”
”そう、何でもできるのです”
”平等や正義を求め戦うあなた
 そんなあなたのそばに私はいます”

世の中とうまくいかず、苦しんでいる人にとっては心動かされるセリフです。
その一方で、ジム・ジョーンズは信者獲得のために怪しい治療もしていました。
彼は何をやろうとしていたのでしょうか?

カルトとは、ラテン語で”儀礼””神々の崇拝”という意味です。
しかし、この事件が起きて、否定的な意味合いが加わってしまいました。
破壊的カルトと位置付けます。
こっそりと人権侵害をする集団・・・
破壊的カルトは、集団優先・私生活の蜂起・批判の封鎖・絶対服従という特徴を持っています。
1950年代~70年代にかけて、アメリカは価値観が大いに揺らいだ時代でした。
その中で、ビジョンを掲げる人がたくさんいて、ジム・ジョーンズもその中のひとりでした。
病気、空白感、人間関係・・・悩みを相談する相手もいない・・・
相談しても「みんなそんなもの」「我慢しなさい」といわれてしまう。。。
そこに、教祖カリスマが、
「あなたの悩みはわかりますよ」
「こういうことを求めているんですね」
という事で、魅力的になるのです。
「信じる信じない」は、自分や周りが体験したことだけしかない・・・それを与えられてしまうと信じてしまうのです。

マーチン・ルーサー・キング・・・
1960年、公民権運動が盛んになる一方で、それを阻止しようとする白人との対立が深まった時代・・・ジム・ジョーンズは、1961年、30歳でインディアナポリスが選出する人権委員会委員長に就任。
人権委員会は、言論の自由、暴力の禁止などを啓蒙する民間組織で、ジム・ジョーンズは、白人専用の店や映画館などの施設を、国民に開放するなど強引に改革を進めました。
しかし、地位と名声を手に入れる一方で、彼の行動に異変が・・・。

人種差別が根強い中での急激な改革・・・
マスコミを使って自分の成果を過剰にアピールする手法などが、保守的な白人の反感を買い、ジム・ジョーンズのストレスとなっていました。
やがて、ジム・ジョーンズや人民寺院、教団の周りで嫌がらせが頻発するようになります。
深夜に鳴り響く無言電話、自宅の窓ガラスが割られることも・・・
ところが、ジム・ジョーンズは気が付いてしまいました。
そのガラスの破片は家の外側に飛び散っていたのです。
ジム・ジョーンズの不正行為・・・
ジム・ジョーンズや教団への攻撃は、ジム・ジョーンズの作り話だったのです。
自分自身で恐怖を作り上げ、信者に訴えていました。
被害妄想になっていたのです。
自作自演や、彼の指示による信者たちによる仕業・・・

”核の地獄によって、アルマゲドンが起きるだろう
 私たちはそれに備えなければならない
 独裁者が支配した時のことを考え、他の場所へ移動するみゅんびもしておかなければならない”

東西冷戦によって、核戦争の危機が恐れられていた当時、ジム・ジョーンズは、核戦争の恐怖まで利用しようとしました。
彼は、信者をコントロールするのに、”恐怖”が一役買っていることを知っていました。
彼は、「外界には巨大な悪の世界がある」と、信者に思いこませたかったのです。
ジム・ジョーンズは、あらゆる恐怖を利用し、自分達を脅かす敵は外にいるとし、「君たちを守れるのは教団だけ」だと、信者たちを追い込んでいきます。

そしてその決め手が・・・1965年教団の移設でした。
インディアナから3700キロカリフォルニア州に、140人ほどの信者を引き連れて向かいます。
彼等の移住先となったのが、レッドウッドバレー・・・ブドウ畑が一面に広がる農村地帯でした。
移住に当たり、ジム・ジョーンズは、信者たちに全財産を寄進させます。
家を売り払い、仕事も辞めさせ、人間関係まで断ち切らせました。
ここでの共同生活を強いたのは・・・そこには教祖ジムの野望が・・・!!
移住によって、教団の結束力は高まります。
彼等には家族のような強い絆が・・・!!
しかし、それは、ジムに忠誠を誓わせ、意のままにコントロールしようとするジム・ジョーンズに都合のいい偽りの家族でした。
教祖になる人の共通点は、ナルシストで自己愛が強く、自己顕示が強い・・・
他人は自分の道具のように平気でウソをついて操ることが許されると思っています。
周りから攻撃をされると自尊心が傷つき、それが嫌。
「崇拝されている自分」を感じたい・・・!!
そしてメンバーを逃がさないために、恐怖を与える!!

選ばれた少数派・・・そこに誇りを持つ人々は、自分たちのグループに属さない人を排除しようとします。
自分達は真理を知っている・・・真理に近い・・・!!
よりよい人生を歩んで、将来は”不老不死”
辛くても、そこにいることが大事で、抜け出ることが敗北なのです。
自分達こそが救われる・・・だからがんばる・・・!!
外部の人が、ヤジ、バッシングをしようと聞き入れる必要はない・・・!!
という気持ちがあるので、いくら話をしてもダメなのです。

1972年、41歳の時、組織拡大のため、人民寺院の拠点を大都市に移します。
サンフランシスコ・フィルモア地区です。
黒人たちの信者を獲得しながら、ジム・ジョーンズは新たな戦略を立てていました。

”社会を変えようと願う白人学生の心を掴む”こと。

当時は、ベトナム戦争反対をきっかけに、社会運動が盛んな時代でした。
ジム・ジョーンズは、アメリカ社会から脱出し、精神的自由を得ようとする若者に狙いを定めたのです。

人民寺院は、教団運営を教祖の側近たちによる合議制が表向き・・・民主的に進めているようでしたが、実際はジム・ジョーンズの独裁でした。
側近たちは、彼に弱みを握られた人たちで、主にセックスパートナーで、主にジムの汚い仕事を任されていました。極秘の仕事です。
女性たちが任された汚い仕事・・・その一つは、真夜中のゴミ漁り・・・信者になりそうな家のゴミ箱をあさって、個人情報を集め、礼拝の時に使います。
おもむろに名前を呼び・・・あらかじめ得た情報で、悩みや病気を言い当て、奇跡の能力と見せかけて勧誘する・・・
しかし、この詐欺まがいの事実を知っても、側近たちは止めさせようとはしませんでした。
彼のユートピア建設という革命的ビジョンに共感し、社会を変えると興奮していたからです。
彼の発言に疑問を感じても、自分が間違っていると言い聞かせていました。
ジム・ジョーンズが、自分に疑問を抱いている信者がいないか、側近たちに監視させました。
見つかれば、信者は徹底的に自己批判させされました。
自己批判は、人間浄化ともいわれ、集会など、多くの信者の前で行われました。

人間浄化といわれるつるし上げは、巧妙な計算のもとに行われていました。
友人、親、兄弟から批判させ、最後は集団でなじる・・・家族の絆を断ち切り、孤立化させるのです。
救いが得られるのは教祖だけ・・・。

人間浄化は、見ている者も恐怖で縛りつけます。

理想社会を目指す教団の恐怖の実体は、秘密として守られ続けるはずでした。
重要な幹部が逃亡・・・教団の弁護士の妻で、サンフランシスコ寺院の管理を担当する者です。
さらに、ジム・ジョーンズが最も恐れていた事態が・・・地元の有力紙・サンフランシスコクロニクルの記者が、ジム・ジョーンズの異様さに気付き、脱会した信者を調べ始めたのです。
ジム・ジョーンズの恐怖の支配に亀裂が入ろうとしていました。

家を売り、仕事を捨て、ジム・ジョーンズについてきた人たち・・・もう後戻りはできません。
その先にあると信じたのは、輝かしい未来に満ちた楽園・・・
そこで待っていたのは破滅でした。

1977年8月1日、遂に人民寺院の告発記事が出ます。
ジム・ジョーンズの本当の姿が暴かれたのです。

”敵が人民寺院を陥れようとしている”

ジム・ジョーンズは恐怖で煽り立てます。
告発記事が掲載されると、1000人もの信者がカリフォルニアから姿を消しました。
その先は、南米の国・・・ガイアナ・・・。
ジム・ジョーンズは、密かにジャングルの中に巨大な街を築き上げていました。
ジョーンズタウンと名付けられた街には、学校や病院も完備されていました。
信者は財産のすべてを教団に譲り渡し、衣食住のすべてを教団が面倒を見る仕組みです。
信者の子どもは、人民寺院の子として育て、18歳未満の子供は300人近く暮らしていました。

一方アメリカでは、家族を取り戻そうと被害者家族の会が結成されました。
下院議員が現地調査に乗り出すことに・・・!!
アメリカ政府の動向がジム・ジョーンズに伝わると、彼の被害妄想は悪化していきます。
不安が増すと、1日中拡声器で信者に恐怖を訴え続けます。

1878年11月14日、調査団はジョーンズタウンに向かいます。
ライアン下院議員に同行したのは被害者の会メンバー14人、報道関係者9人、視察期間は、11月17日、18日のみ。
11月17日、ジョーンズタウンに入ります。
カメラを向けた信者たちのすべてが、ジョーンズタウンを褒め称えます。
この日の夜、歓迎祝賀会が開催されます。
笑顔と歓声・・・その裏で、ジョーンズタウンのバランスが崩れ始めていました。
11月18日、視察2日目・・・取材班は、ジム・ジョーンズにインタビューする機会を得ていました。
彼等は独自に入手した情報をぶつけて暴こうとします。

恐怖について・・・
「昨晩、一人の信者がこのメモを私に託してきました」
そこには・・・「助け出してほしいと」名前入りの信者の手紙でした。
取材後、さらに2家族13人が、ジョーンズタウンから出たいと願い出ます。
ジム・ジョーンズが理想と恐怖でしばりつけたほころびが次第に大きくなっていきます。

差別や格差のない社会を夢見て、全てを捨てジム・ジョーンズについてきた信者たち・・・。
しかし、たどり着いた先は、教祖と教団による恐怖と抑圧・・・こんなはずではなかった・・・本当に他の道は選べなかったのか・・・??
調査団が急遽チャーターした飛行機は2機・・・空港に着くと、まず信者たちを乗せようとしました。
その時・・・滑走路に多くの人を乗せた不審なトラクターが・・・!!
11月18日午後5時・・・人民寺院信者の襲撃により、ライアン議員と報道関係者たち5人が死亡、5人が重軽傷を負いました。
その直後、ジョーンズタウンでは、ジム・ジョーンズの最後の説教が始まろうとしていました。

”下院議員はなくなりました。
 裏切り者も死んでいます。
 今日、起こったことから私たちはもう逃れることはできません。
 私たちはとても危険な状況に追い込まれてしまいました。
 平和に暮らすことができないのなら、平和のうちに死を選びましょう。”

説教の最中、側近たちは集団自殺のためのシアン化合物の入ったジュースを用意していました。
教祖の示した死に抵抗したのは、女性一人でした。

「自ら死を選ぶのは敗北です
 最期まで戦うべきです
 ここにいる赤ちゃんを見てください
 みんな生きる権利があります」

「そう思うよ だが、赤ん坊にも平和に逝くという権利もあるのを忘れてはいけない」

「平和な暮らしを求めてここに来たのです
 ロシアに亡命する選択肢はもうないんですか?」

「なに?わかった すぐロシアに電話してやろう
 ほかに案はあるか?」

シアン化合物入りジュースは、幼い子供から順に飲まされ・・・ガイアナ人民寺院事件・・・死者918人(18歳未満の子ども304人)
集団自殺を免れた信者は87人

教祖の実子スティーブン・ジョーンズは、バスケットの試合で他の町に行っていたために生き延びました。
事件後、教祖の子として他の道を選べなかったのか、スティーブンは長い間悩み続けました。

マインドコントロールをされないために・・・誰にも依存することなく、自分で考え続けることが大切なのです。

サンフランシスコの小高い丘に、ジョーンズタウンで亡くなった人たちのメモリアルが・・・。
身元が確認できなかった409遺体がここに埋葬されました。
ほとんどが子供達です。
生き延びた者たちは、長い年月、自分が生き延びた意味に悩みつつ・・・2018年、彼らが完成させた墓碑銘には、ガイアナで亡くなった全ての人の名前が刻まれています。
反対意見もあったが、ジム・ジョーンズの名前も・・・!!

本当に他の道はなかったのか・・・??
深い後悔と自責の念を抱え、元信者たちは毎年11月18日、ここで祈りを捧げるのです。

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ロシア発、世界最大のミステリー・・・ディアトロフ峠事件・・・
今から60年前、9人の若者が、冬山で一夜にして全員死亡・・・
マイナス30度の雪の中、遺体の多くは薄着、異常な骨折、顔の損壊・・・放射線の検出・・・
”死の山”で何が起こったのか・・・??
噂の説はなんと75!!どうして噂は拡大したのか・・・??

1980年代後半、世界的激動の時代でした。
ソビエト連邦のゴルバチョフ書記長は東西冷戦を終結させ、体制の維持が困難になったソビエト連邦は崩壊・・・
混乱の中、封印されていた遭難事件の詳細が、奇妙な噂となって西側に伝わりました。

1959年冬・・・ソビエト連邦・・・
現場は、国の中央部・・・ウラル山脈北東部・・・スヴェルドロフスク州
一月下旬、9人の若者が22日間の予定で冬山トレッキングを行っていました。
彼等は地元・ウラル工科大学の学生やOBでした。
男性7人、女性2人・・・全員が登山や長距離スキーの熟練者でした。
中でもリーダーのイーゴリ・ディアトロフ(23歳)は、経験豊富な雪山登山のエキスパートでした。
隊員からの信頼も厚く、そのディアトロフには恋心を抱く女性が・・・ジナイダ・コルモゴロワ(22歳)・・・ジーナ・・・経験豊富なハイカーで、社交的で誰にでも優しい女性でした。
グループ内には、ジーナに恋心を抱くものも何人もいました。
そしてリュドミラ・ドゥビニナ(20歳)・・・リューダ・・・最年少ながら、タフで活発な性格、カメラが趣味で、残された隊員たちの写真の多くは、リューダが取ったものでした。
他のみんなも、ディアトロフが特に信頼を寄せるメンバーでした。
そんなディアトロフ隊が目指したのが、ウラル山脈北部、標高1234mのオトルテン山・・・これまでルートが作られていない地域を進む過酷なコースでした。
彼等は、歌ったり踊ったり・・・仲良くオトルテン山を目指していました。

ところが・・・出発から10日目・・・2月1日。
悪天候・・・風速15~20mの強風・・・気温マイナス25~30度の極寒!!
薄暗い靄の中を、時速1.5キロで進みます。
目的のオトルテン山まで残り10キロ・・・
しかし、ここで日没・・・午後5時ごろテントを設営し、夜を明かすことに・・・。
雪の斜面を掘る一方、テントを張るために整地します。
しかし、この写真が彼らの最後の写真となるのです。

それから2週間・・・2月16日。
下山予定日から3日たってもウラル工科大学に一行からの連絡はなかったのです。
彼等が通う大学には、心配する家族からの電話がひっきりなしにかかります。
2月20日、地元の検察に捜査本部が設置。
大規模な捜索活動が始まりました。
そして・・・2月26日、捜索隊がテントを発見。
その場所は、目的地オトルテン山の10キロ南のホラート・シャフイル山の斜面・・・。
死の山と先住民たちが呼ぶ地域でした。
テントは雪に押しつぶされていました。
しかし、支柱のポールはロープで頑丈に縛られたまま立っていました。
雪崩に流された形跡はありません。
テントの中に人影はなく、靴や荷物は置いたまま・・・
テントは内側から数カ所が切り裂かれていました。
非常事態・・・??
地元の検察当局は、刑事事件として捜査を本格化!!
2月27日。。。捜索隊は、テントの近くで複数の足跡を発見!!
足跡をたどり、斜面を下った先に・・・リーダーのディアトロフ、女性のジーナ、男性隊員3人・・・相次いで死体が見つかりました。
その姿は、不可解なもの・・・
雪の中、薄着で靴も履かず・・・中には、下着姿ではだしの者も・・・周辺には脱ぎ捨てられた衣服が・・・!!
マイナス30度の寒さの中、一体なぜ・・・??
5人はテントから1.5キロ離れた下り坂で亡くなっていました。
非常事態でテントを出たとしても、靴もなしにどうしてこれだけも離れたのか・・・??
5人の体には、打撲や擦り傷以外に傷はなく、死因は低体温症による死・・・凍死と判定されました。
残りの4人は見つけられないまま捜査は難航・・・。
5人の遺体の謎も解けないまま2か月が過ぎた頃・・・溶け始めた雪の下からようやく4人の遺体が発見されました。
5人の遺体から、さらに75m離れたところでした。
靴を履いていないという状況は前の5人と同じでしたが、遺体は大きく異なっていました。
ある者は頭部が陥没損傷、ある者は肋骨5本を骨折し折れた骨が内臓に突き刺さり大量出血・・・
特に遺体の損傷が激しかったのがリューダ・・・肋骨10本が折れたうえ、心臓にその骨が突き刺さりそれが致命傷となっていました。
しかも、顔からは眼球と舌が失われ・・・検視官は彼等の死は暴力的な外傷による死としました。
車にひかれたような強い外力の影響としたのです。
その上想定外の謎が・・・リューダたち二人の衣服からは、異常な量の放射線が検出されました。
9人の内5人は低体温症による凍死、他の4人は強い衝撃による死亡・・・その上、放射線が検出されました。
2月1日の夜・・・いったい何が起きたのでしょうか?

事件から60年、この不可解な事件に対して75のもの仮説が出されました。
獣害説・・・ウラル山脈にいる熊や狼・・・獰猛な野生動物に襲われたのか??
マンシ族襲撃説・・・マンシ族は、この地域で狩りをして暮らす先住民族・・・聖地としてあがめる山に勝手に登ったことに怒りを買ったのではないか?
スパイ暗殺説・・・隊員の中に外国のスパイがおり、その人物をソビエト当局が始末する際に、全員巻き込まれたのではないか?
恋愛沙汰の人間関係のもつれ説
雪男”メンク”の襲撃説・・・テントから見つかったカメラには・・・雪深い中、こちらを見ている影が・・・!!
こうした襲撃や殺人説は、遺体の傷から動物の爪や鋭利な刃物による外傷は見つかっておらず、雪男メンクの姿は隊員かも・・・??
最後の写真には暗闇に光る大きな光の玉・・・いったい何・・・??
事件当時、ウラル山脈一帯には、謎の光球の目撃がいくつも発生!!
目撃者の中には、捜索隊の警察官や軍の関係者もいました。
なので、この隊は、ミサイル実験のトラブルに巻き込まれた説や、UFO襲撃説まで登場・・・
仮説は増え続け、事件は世界最大のミステリーとまで言われるようになりました。

当時、ウラル地方周辺は、Mトライアングル・・・”ロシア版バミューダ・トライアングル”と呼ばれていました。
1980年代からUFOの目撃情報などが多数報告されています。
モノは消える・・・UFOは飛ぶ・・・UMA(未確認動物)は歩いている・・・オーパーツ、超古代文明の痕跡・・・怪奇現象のテーマパークでした。

この事件はソ連時代、タブーとして扱われており、公式見解以後、誰も触れられない状況にありました。
60年経って当局が取り組む・・・??
9人の死がセンセーショナルに受け止められ、60年経った今も、議論がなされている特異性があります。

事件原因の説・・・75・・・。

1959年、事件が起きた直後から、知能の検察局が現場の状況や原因を操作し、まとめた捜査報告書には何が書かれ、何が書かれていないのでしょうか?

ディアトロフ峠事件の報告書・・・表紙には機密文書・・・極秘の文字が・・・。
1959年、事件の捜査直後のこの文書には、現場に即した情報がまとめられています。
その物証、ディアトロフたちの家族や友人、学校関係者の証言、推測された事件原因が書かれていました。
ディアトロフたちの推定死亡時間は、最後の食事をとってから6~8時間後でした。
つまり、2月1日または2日に亡くなったことは明らかです。
その時、彼らに何が起こったのか・・・??
捜査報告書には・・・??

どうして9人はテントを離れたのか?
テントが雪崩で流されていないことから他の自然現象を考えてみると・・・
強風説・・・
ある捜索隊員の記録には・・・”死因は自然現象しか考えられません。彼らは強風に飛ばされたんです。”とあります。
現場は捜査日も強い風が吹いており、これを原因だという人は他にもいました。
ディアトロフたちを襲った強風を想定すると・・・
夜・・・尋常ではない風音に怯える一行・・・テントが飛びそうになったので、慌ててテントを切り裂いて外に飛び出たところ、隊員の誰かが風で飛ばされてしまう・・・
助けようとする仲間も強風にあおられうまくいかない。
全員流されるように斜面を下るしかなかった・・・。
吹雪の中、薄着で靴も履かず、1.5キロの距離を・・・そして9人の内5人は寒さと風が原因で亡くなりました。
死因は低体温症でした。
しかし、下着姿ではだしで亡くなったゲオルギーの原因は推定されていません。
マイナス30度の寒さの中、その奇妙な姿はどうして起きたのでしょうか?
冬山の遭難事例を考えると・・・あり得ることです。薄着で体が冷えて低体温症になって、錯乱状態になり・・・矛盾脱衣をしてしまうのです。
体温が34度以下まで下がると、内臓の機能を維持する為に血液を集中させます。
すると、冷え切った体の中心が温かくなり、体温調節中枢が麻痺・・・暑いと錯覚して衣服を脱いでしまうのです。

一方、頭蓋骨、肋骨の骨折した遺体、目や舌が失われていた遺体は・・・??
1959年の報告書によると・・・彼らの死体はすべて水の中にありました。
死体は分解されており、水の流れがとても速く、さらに腐敗が進む可能性があります。
眼球は死体の死後変化・・・つまり、腐敗と分解によるものだというのです。
そして頭蓋骨の骨折は、頭部のけがは強い風によって倒れ、転倒した際に頭を石や氷などに激しく打った可能性があります。
さらに4人は、4~4.5mの雪の層の下から発見されました。
渓谷の崖の上から転落したことを示唆していました。
捜査を担当したものは、全ての死体に外傷や闘争の兆候はない、周囲に第三者の足跡は見つからなかったため、事件性を否定し、抗しがたい自然による不可抗力としたのです。

その一方、報告書には、自然災害では説明できない奇妙な現象も記録されています。
損傷が激しかった死体の衣服から放射線を検出・・・。
その放射線量は、一般的な放射線作業従事者の基準を超えるものでした。
これを報告書では、お福が大気中から落下した放射線粉塵で汚染されているか、放射性物質を取り扱う時に接触して汚染されると説明されています。
二人のうち一人は、原子力の研究者でしたが、もう一人は一般のウラル工科大学の学生でした。
汚染原因は記録されていません。

そして報告書には、自然災害とは無縁の謎の光球の記録も・・・!!
光球の目撃者の記録も多数残されています。
「午前6時40分頃、南側に点滅する明るく白い光のボールを見ました。」
「球は10分間見えた後、溶けるように北の空に消えました。」
しかし、その正体については報告書には記されていません。

”捜査書を極秘扱いとして機密書庫に保管せよ”

捜査書は、一般の目に触れることなく、事件そのものも世間に知らされず、”9人の死”の事実は闇へ消えたのです。

北極圏は冷戦時代、アメリカとソ連が一番対峙するピークポイントで、非常に軍事的な意味の高い場所でした。
ノーバヤゼムリャは、頻繁に核実験やミサイル発射などが行われていました。
そして、冷戦時代、軍事機密は非常に重要なものでした。
人命に影響を及ぼしていても、政府が隠そうとするのは自然なものです。
そこには検察の忖度があったのかもしれません。

2019年2月、ロシア最高検察庁が再調査を発表します。
ところが、6月、ディアトロフの遺族たち・・・ディアトロフ財団が記者会見をし、検察庁の発表に反論します。
事件をめぐり・・・何が起こっているのでしょうか?
事件から60年を迎えた2月1日・・・ロシア連邦の最高検察省がディアトロフ峠事件に於いて再調査を発表しました。
そして、チームが編成され、既に現地調査を行っていることを明らかにしました。
”抗しがたい自然による不可抗力の詳細な調査”だといいます。
「犯罪行為は絶対にありえない 
 意図的な犯罪説を支持する証拠はひとつもありません」
あくまでも自然災害が原因・・・雪崩説、雪嵐説、暴風雪を考えるというのです。
しかし、60年前の報告書では、雪崩説は全く言及されていませんでした。
捜索隊が発見した時、地中のポールはきっちり紐で固定され、雪崩で流されていなかった・・・。
しかも、雪崩が起きやすい傾斜は30度以上といわれています。
ディアトロフたちがテントを設営した場所は、15度~20度でした。
雪崩は起きにくいはず・・・
近年ロシアでは、ディアトロフたち自身の過失で雪崩が起きたという説が・・・??
彼等は斜面を掘り起こして整地し、テントを設営しました。
しかし、これによってテントの上の斜面の雪が支えを失い、そこに崩れた雪が小さな雪崩を引き起こし、テントをおしつぶしたというのです。
現地の調査を行ったロシアの地質学者によると・・・
彼等がテントを設営した場所の先に、30度の斜面がありました。
そこに、新説が降り積もると、下の雪はその重みで圧縮されます。
何度も繰り返されると、重なった板状の雪の層ができます。
この層は、雪が降るたびに圧縮されて、重くなっていきます。
そうした雪の板の塊(雪崩)が、テントを押しつぶしたのです。

そして近年、ロシア以外の研究者の検証も行われ、山の地形などから強風ではない、特殊な気流・・・渦ができたとする説が・・・。
彼等はテントを山の風下に設営しました。そして、渦に巻き込まれたのです。
この上なく最悪の場所だったのです。
テントが設置されたのは、左右が対称の半円形の山の風下・・・
強風がこの山に当たると、風邪は左右に分かれ、山の側面に細かい渦を発生させる・・・これが山を越えたところで、一つの大きな渦に成長し、強力な渦がテント周りを通ります。
眠っている間に2つの渦が近づくことにより、地面の振動を感じ・・・さらに非常に大きな轟音が・・・それが長時間続くと、人々は圧迫感や恐怖心を感じます。
こうした異常事態に隊員たちはテントを飛び出したのでは・・・??というのです。

再調査で解明されるはずでしたが・・・
2019年6月26日、ディアトロフ財団記者会見で・・・

「ディアトロフたちに登山経験がなく、自分達で雪崩を起こしてしまったと書いてある
 こうやって国民をだまそうとする検察のやり方、どうなんですか??
 僕たちは、毎年雪を調べている!!
 データはたくさん持っています。
 雪崩はあり得ません。」

会見を開いたのは、1990年に創立したディアトロフ財団で、事件の真相究明を目的に活動しています。
彼等は旧ソビエト体制は、事実の隠蔽や陰謀を仕組んだと疑い続けているのです。

情報隠蔽を疑う理由の証拠は、1959年の捜査報告書の表紙です。

そこに・・・捜査報告書の事件番号が未記入なのです。
事件ごとに番号が決められ、それに基づいてすべての記録が整理保管されているはずなのに・・・。
事件番号もない、捜査資料番号も不正確・・・
不都合な文章を抜き、捏造文書を加えても、検証不可能・・・!!

さらに財団には、日付についても矛盾しているといいます。
1959年2月、学生捜索隊として捜索活動に参加したテントの第一発見者は・・・
「テントは2月26日に、27日に遺体が発見された
 テントは私たち捜索隊が発見したという事になっている
 当時、どういう訳か、私たちは案内人によってテントのすぐ近くに連れていかれた
 私たちが乗ったヘリコプターは、まだ見つかっていないテントの近くに行けたのか・・・??
 すでに誰かに発見されていたのです。

 報告書に書かれている捜査開始の日は2月6日。
 なぜ2月6日に刑事事件の捜査が始まっているのか。
 志望者が出ていることを知っていたからでしょう。

 これは仕組まれていたこと
 すべてはシナリオだったんです
 死亡原因を自然現象によるものとするための工作なんです」

報告書では、全ての捜査開始日の日付が2月6日になっています。
ディアトロフたちが遭難したのが2月1日~2日。
家族達が大学に連絡したのが2月16日。
報告書の日付は2月6日・・・。
はるか以前から検察が動いていたことになります。

自然現象説で解決を図ろうとするロシア検察庁・・・事件当時の当局の疑惑を訴える財団・・・事件は混迷を深めます。

ソ連時代は環境汚染があって、閉鎖都市もあり、核実験などが行われていました。
人的被害もたくさんありました。
ソ連が崩壊し、被害を訴える声が起きます。
しかし、ほとんどが操作されない状況が続いています。
しかし、あえて再調査とは・・・??

ソ連時代、文書はきちんと作られ、全部きちんと保存しておくというのがソ連政府の性格です。
文書がいい加減に作られてしまうことに非常に違和感を感じられます。

今なお、事件の解明を目指すディアトロフ財団・・・
どうして軍隊用の水筒がディアトロフ財団の遺品に紛れていたのか?
この水筒にはアルコールが入っていましたが、ディアトロフたちはアルコール入りの水筒を持って行ってはいませんでした。
ディアトロフ財団の創設者は、遺族でも関係者でもありません。
しかし、子供のころ、偶然遭難者たちの葬儀を目撃・・・大勢の若者たちの死さえ隠され続けてきたことに理不尽さを感じていました。

「この世で最も価値のあるものは真実です。
 もしそれを知らなければ、私たちは何者かに頼りきり、騙されながら生きていくことになります。
 健全な社会の正式な一員とは言えません。
 政府や捜査機関が何かを隠したり、公表しなかったりする場合、真実は何よりも尊いのです。
 それが活動を続ける理由です。」

1959年若者9人が遭難し死亡・・・どうしてこのことが世界最大のミステリーに・・・??
そこには、事件から60年の間に起きた様々な社会情勢が関係しています。
事件が起きた1950年~60年初頭、東西冷戦の真っただ中、ソビエトでは厳しい規制によって、外国からの情報はもちろん、国内でも報道さえ統制されていました。
しかし、1985年に誕生したゴルバチョフ政権は”グラスノスチ”・・・情報公開をし始めました。
多くの規制撤廃・・・言論、思想、出版、報道が自由となりました。
タブーとされた情報も表に現れてきます。
封印されたディアトロフ事件の資料が公開されたのも1990年代・・・そうした情報統制の反動の時代でした。
その結果、ソビエトで出版される場合、極秘ミサイル実験の巻き添え説や、当局の陰謀が語られるようになり、インターネット時代になり欧米各国に広まります。

ソビエトで長年封印された怪奇事件の登場に、とくにアメリカがオカルトとして特集。
遂には雪崩説から陰謀説、超常現象まで、事件の疑惑をありったけ放り込んだアメリカ、イギリス、ロシアの映画まで登場!!
こうした流れの中、事件の原因は75にまで膨れ上がってロシアに逆輸入!!
事件そのものを知らないロシアの人の間でも、様々な憶測を呼ぶミステリーとして広がり、ドキュメンタリー番組が製作される事態に・・・。

明るく、いつもと変わらず出かけたまま帰ってこなかった9人の若者たち・・・
あの夜、何があったのか、その真相は今も雪山の中に隠されたまま・・・。

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死に山: 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相

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100年にわたり、人類の誰も読むことができなかった最強の未解読文書・・・ヴォイニッチ手稿・・・。

voinitti















世界中に存在する未解読文書・・・
2017年恐怖の未解読文書のニュースが・・・。
その名は、「悪魔の手紙」です。
akuma


この手紙は、1676年シチリア島で発見された一枚です。
修道女に悪魔が乗り移り、勝手に手を動かして書いたものだといわれています。
アルファベットでもなく・・・このわずか1ページの文書が、300年未解読です。

2017年9月、イタリアの研究者らが暗号解読ソフトを使って解析した結果、この文字はラテン語や古代ギリシャ語、ルーン文字、アラビア語がつかわれていることが判明・・・。

しかし、この最新技術を使っても、キリスト教批判らしき内容はうかがえるが、全文を解読できたわけではありません。

このような未解読文書の中でも最大の謎・・・
世界中の研究者が挑み続けている謎があります。
ヴォイニッチ手稿です。
ヴォイニッチ手稿が発見されたのは、1912年イタリアです。
古物商ウィルフリド・ヴォイニッチが発見したことからヴォイニッチ手稿と呼ばれています。
表紙にタイトルはなく、作者も不明・・・使われている用紙の分析結果から、15~16世紀ごろに書かれたものとされています。
およそ230ページに及ぶ手書きの本で、目を引くのは極彩色の挿絵!!
この挿絵は、実在が確認できないものばかりで正体は不明。

voinitti















そして文字は・・・アルファベット、アラビア数字に似ているが、地球上のどの言語にも該当せず、この内容は一切不明です。

だれが何の内容を、読めない文字で記録したのか???

様々な推測がなされています。
錬金術師が人類究極の英知を!?
宇宙人からのメッセージ??
イタズラ??
古代文明の遺産??
怪しげな噂は広がり続け、留まることを知りません。
謎だらけのヴォイニッチ手稿・・・そこに描かれている挿絵から、6つの章に分けられていると考えられています。

植物の章・・・正体不明の植物が数多く書かれています。
このうちのどの一つも地球に存在する植物として確認できていません。
天文の章・・・宇宙の星々の姿を描いたと思しき図が書かれて・・・その構造は実際のものとは大違いです。
それは、まるで生き物のよう・・・。
生物の章・・・妊婦のような女性たちと奇妙な管が書かれています。
女性たちは何をしているのか?
緑の液体と管は一体何なのか?
十二宮図の章、薬草の章、レシピの章で、合計六章とされています。

詠むことを拒む緻密な文字・・・そして、徹底して当てはめることをも拒む謎の挿絵・・・。
この解読の試みは世界中で行われています。
その研究者たちの多くが予想したのが暗号説です。
ヴォイニッチ手稿は、中世の言語を暗号のルールに変換したものでは??というのです。
そもそも暗号とは何か?
シーザー暗号など一定の法則で別の文字に入れ替える換字式暗号方式・・・

voinitti2
第二次世界大戦後、この方式で解読を試みたのが、アメリカの弁護士ジョセフ・マーティン・フィーリーです。
フィーリーはヴォイニッチ手稿のコピーを入手し、解読に挑みます。
フィーリーが解読の手掛かりにしたのが緑色の液体に浸かる女たちの絵です。

絵を元に、文字の内容は女性に関するものと推測。
そしてページ上の方にある特徴のある単語の解読を行います。
その文字を手掛かりに、アルファベットに置き換えてみると・・・
結果は無残なものでした。
意味のある文章が成り立たなかったのです。



voinitti3



2017年9月、権威ある文学誌が「ヴォイニッチ手稿の解読に成功」との記事を掲載し、話題となりました。
話題のイギリスの歴史学者ニコラス・ギブズは・・・
この挿絵と、中世の文献の類似性に解読の手掛かりを見出します。

絵が似ていれば、その内容も似ているのでは??


voinitti4


さらに、ヴォイニッチ手稿の「一文字ずつ」は、ラテン語の略字ではないか?と推測し、解読していきます。しかし、ギブズが訳したのはわずか2行で、他の場所にこの方法は当てはまらないと批判されています。

学者たちは失敗続き・・・







そこで出てきたのがデタラメ説です。
解読できない理由は、そもそも言語としての法則がないから??
デタラメな文字の羅列だから・・・!?

単語の分布を調べてデタラメか意味があるのか判別すると・・・??
ヴォイニッチ手稿は意味のないデタラメではない可能性もあります。
暗号でもデタラメでもないとすれば、その文章は一体何なのでしょうか?

独自の言語で書かれた本??
既存の他の言語との対応関係が見られないので”人工言語”で書かれたものなのでは?
人工言語とは、自然言語とは異なり、人為的に作られた言葉のことです。
母国語が異なる人たちの意思伝達のために造られたエスペラント語。
コンピューターを動かすためのプログラム言語。
などです。
ヴォイニッチ手稿が人工言語だとすれば、人工物がどうして人に解読できないのでしょうか?
言語学者によると、ヴォイニッチ手稿には文章解読の重要な手掛かりが見つからないといいます。
言語の骨格が見えない・・・のです。
言語の基本構造を判断する手掛かりが、ヴォイニッチ手稿からは見つからないのです。
しかし、どうして230ページ分もあっても言語の基本構造の手掛かりが見つからないのか・・・??
それは、圧倒的に量が少ないからです。

もしヴォイニッチ手稿と同じ手法で書かれた他の書籍が発見されれば・・・挿絵が理解できれば・・・文章を解読する手掛かりとなるかもしれません。

もう一つの謎、230ページの文章を、だれが何のためにかいたのでしょうか?
特権階級の人々が多額の費用をかけて作ったのでは・・・??
神聖ローマ皇帝ルドルフ2世が、600ダカット(数千万円)で写本を購入しています。
この写本がヴォイニッチ手稿ではないかといわれています。
写本を作って売って、ある程度の狭いサークルで流通させる・・・
かなりの財力・社会的地位がなければできないことです。

300年以上も前に作られたといわれ、21世紀の今なお未解読のヴォイニッチ手稿・・・作者の目的は一体何だったのでしょうか?
これを読み解ける日は来るのでしょうか?

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ヴォイニッチ写本の謎

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北大西洋魔の三角海域・・・バミューダ・トライアングル!!
100を変える船や飛行機が謎の失踪!!
宇宙人の仕業?異次元に飲み込まれたのか??

地球のおよそ7割を占める海・・・そこに、船や飛行機が跡形もなく忽然と消える場所が・・・
北大西洋魔の三角海域・・・バミューダ・トライアングルです。

アメリカ大陸の東・・・北大西洋のフロリダ・プエルトリコ・バミューダ諸島を結んだ三角海域・・・バミューダ・トライアングル!!
ここでは、船が・・・さらには飛行機が・・・突然謎の失踪をする・・・!!
例えば、1918年、アメリカ海軍給炭艦・サイクロプス号は、救助を求めるSOS信号すら発することもなく、乗組員309名を乗せたまま突如、消えました。

1925年、日本の貨物船来福丸・・・
「早く来てくれ・・・!!脱出できない!!」という奇妙な通信を残して消えました。

1945年、アメリカ海軍の爆撃機5機が、天気が良かったぬも関わらず・・・
「我々のいる場所は・・・どうやら・・・」という謎の言葉を残して5機が同時に消えました。
これまでに失踪した船と飛行機100以上・・・。
行方不明者は1000人を超え、生存者はおろか残骸すらなし・・・。
未だ一件も解決していません。
バミューダ・トライアングルとは・・・??

透明度の高い海で、珍しい淡いピンク色のビーチ、パステルカラーの街並み・・・カリブ海でも一二を争う観光地のバミューダ諸島・・・。
人々はバミューダ・トライアングル伝説をどう考えているのでしょうか?

ハリケーン?伝説?事故??
それともミステリースポット・・・??

どのような使用室事件があったのでしょうか?

1945年12月・・・フライト19事件
第二次世界大戦終結からおよそ3か月後・・・
フロリダにあるアメリカ海軍基地から5機の爆撃編隊”フライト19”が飛び立ちました。
離陸した時刻は午後2時・・・天候は飛行日和でした。
隊長は、飛行時間2500時間を超えるベテランでテイラー中尉。
訓練は、基地を出て低空爆撃訓練を行い、進路を二度変えて基地に戻るという極めて簡単なもので、まだ太陽が出ている4時にはすべてが終了する予定でした。
ところが・・・
「白い水に突入!我々は完全に迷った!!」という行進を最後に、5機の爆撃機が一斉に消えたのです。
そんなことが本当に起こり得るのか・・・??

調べてみると、事故を起こす気象状況ではないのに謎の更新を残して消失。
救助を求めるSOS信号を発することなく消失。のパターンが多いのです。
この「謎の消失」が起きる共通原因とは・・・??

・宇宙人による拉致
・異次元に迷い込んだ
・海底ピラミッド
・海の巨大生物

怪しげな仮説がいくつもあります。

自然現象の仮説では・・・

・ダウンバースト説
・メタンハイドレート説

と、仮説はいろいろあるものの、誰も目撃したものはいないので、原因不明です。
海で突如として消える・・・人間だけが消えることもあります。
最も有名な事件はメアリー・セレステ号事件です。
今からおよそ150年ほど前の1872年、ニューヨークの運搬船・デイ・グラチア号がポルトガル沖で奇妙な船を発見します。
船の名は、メアリー・セレステ・・・。
人の気配がなく、呼びかけてみても返事がない・・・。
調べてみても、人影はどこにもない・・・しかし、彼らは驚きの光景を目にします。
食堂のテーブルに湯気の立ったコーヒーやパンなどのまだ温かい食事があったのです。
直前まで人がいたのか・・・??
乗組員が誰もいないにもかかわらず、救命ボートは残されたままでした。
人だけが蒸発した・・・??

バミューダ諸島には、この周辺地域で発生した事故の一切の記録を保管している組織があります。
バミューダ海事オペレーションセンター・・・1980年に発足したバミューダ政府の運営機関です。
周辺およそ320キロのSOSを受け入れ、船や飛行機の捜索救助活動を行い、事故原因の調査を行っています。
そして追跡調査も・・・地元の船であろうと、外国の日寝であろうと原因を正確に把握できるまで徹底的に調査を行っています。

バミューダ・トライアングルで謎の失踪事件の記録は・・・??
船が座礁した記録はあるものの、原因不明で失踪したという記録などありません。
このエリアは、1年の半分はハリケーンが通過します。
以前はGPSもなく、ハリケーンの予測も不十分でした。
また、人的ミスも大きな要因として考えられます。
それらが船の失踪や沈没を起こしたのではないかと考えます。
今も、毎日何千もの船が通過しますが、何の問題も起きていません。

では・・・謎の失踪事件の話の出どころは・・・??
バミューダ・トライアングルの伝説について、世界的に影響を与えた一冊の本・・・
アメリカの言語学者で超常現象研究家のチャールズ・ベルリッツが1974年に書き下ろした「バミューダ・トライアングル」は20か国語に翻訳され、500万部を超える世界的ベストセラーとなります。
その内容は・・・??
日本の貨物船・来福丸・・・
「早く来てくれ・・・!!脱出できない!!」と、何かにとらわれたように救助を求め、バハマ諸島とキューバの間で行方不明になったとされています。
来福丸は他の船によって決定的瞬間が撮影されていました。
来福丸は、人知れず失踪したわけではなく、救助に来た船の目の前で大しけで沈没していたのです。
しかも、事故現場は、バミューダ・トライアングルから遠く離れたカナダ沖・・・!!
更に最後の交信も・・・
「本船は今や危うく沈もうとしている
 しかし、救いの船は60マイルのところからここに向かっている」
というもので、「早く来てくれ・・・!!脱出できない!!」とは言っていなかったのです。

ベルリッツは、「フライト19失踪事件」についても・・・
気温は摂氏18度、太陽はかがやき、雲はまばらで、理想的な飛行日和。
日常的な飛行訓練を率いたのは、飛行時間2500時間以上の指揮官テイラー中尉・・・。
この飛行中に、異常な事態が発生しそうな気配はこれっぽっちもなかった。

「白い水に突入した」という交信を残して、5機が突然一斉に失踪!!
ベルリッツはこの事件を、不可解な失踪を遂げた完全な消滅事件としました。
しかし、実際はどうだったのでしょうか?

アメリカ公文書館・・・ここに当時、海軍が行った事故調査報告書が残っています。
報告書によると・・・
フロリダ19の機体は、フロリダ半島の暗闇の中、不時着した。
当時その海域は荒れており、水上の不時着には適していなかった。
またその原因については・・・
フライト19の失踪は、リーダーでありインストラクターでもあったテイラー中尉の一時的な精神の混乱と、その結果の誤った判断によっておこった・・・
つまり・・・快晴であったが後に天候は悪化、テイラー中尉が一時的なパニックに陥ったことで、自分が飛んでいる場所を錯覚した可能性があったとされています。
白い水に突入とは・・・別空間に迷い込んだような交信記録はどこにもありませんでした。

ベルリッツは、海軍の調査結果には触れることなく実際にはなかった交信を捜索することにより、謎の失踪を演出していたのです。

こうした数々を検証したのが、アリゾナ州立大学図書館司書ローレンス・クシュです。
クシュは、ベルリッツが書いた36の事件のうち、23件は捏造・脚色と暴露しています。

「バミューダ・トライアングルの伝説は、要するに恋に作られたものである
 それはまず、ずさんな調査に始まり、次いで謝った概念や間違った推理、あるいは人々の興味や関心を煽ろうとする作家たちによって、故意に或いは無意識的に作られたものに過ぎない
 それが借り換えし語られたおかげで、真実めいたオーラを帯びてきたのである」


一方、乗り物だけ残して人だけが消えるケースも・・・それが、メアリー・セレステ号事件です。
無人で漂流する船に、なぜか出来立ての食事が残されていた・・・。
こちらも公式記録が残っていました。
船と貨物には保険が掛けられており、裁判が行われたのです。
証言台に立ったのは、メアリー・セレステ号を発見した船員や船の所有者です。
彼等は船の中で何を見たのか・・・??

正式な宣誓をしたのち、当時の様子をこう証言しました。

「私と二人の男がメアリー・セレステに乗り込みましたが、誰もいませんでした。」

テーブルに温かい食事はあったのか・・・??

「船室にも調理室にも、食事の準備をしている様子はありませんでした。
 船室ではパンや食べ物などは見ませんでした。」

なんと・・・最大の謎ともいえる温かい食事はなかったのです。
では・・・救命ボートは残されたままだったのか・・・??

「ボートはどこにも見当たりませんでした。
 だから、何隻あったのかもわかりません。」

救命ボートは使われていた・・・??
つまり、伝説で語られている事とは異なり、船員たちは救命ボートで船を離れた可能性が高いのです。
しかし、この裁判においても、なぜ乗組員たちが船を離れたのかは不明でした。
ところが10年後、メアリー・セレステ号が再び出航することに・・・
伝説が再燃します。
1883年6月9日に書かれたロサンゼルス・タイムズ・・・
「なぜ いかにしてメアリー・セレステ号はみじんになったのか?」
調理室では静かに火が燃えていて、夕食は手つかずのまま残され、まだ温かかった
航海日誌は発見された1時間前に記入されたばかり・・・
このように、船から突然乗組員がいなくなったと強調!!
さらに、救命ボートもそのままだった・・・
乗組員が脱出した可能性まで捻じ曲げたのです。
メアリー・セレステ号事件は実際のところ、救命ボートが無くなっていたことから”乗組員がなぜ船から離れたのかわからない”という事件でした。

それが、温かい食事や救命ボートが残されていたとすることによって、乗組員が船から突然消え失せたという話になったのです。
そしてこれが知られるようになったのは、有名なある人物とのかかわりがありました。
コナン・ドイルです。
ドイルは事件の12年後、メアリー・セレステ号をモデルにしたコーンヒル・マガジンに「J・ハバフック・ジェフソンの証言」(1884年)という短編小説を発表します。
これを多くの読者が、事実に基づいた小説だと信じたのです。

更に謎は有名になっていきます。
事件を元に、「ファントム・シップ」(1935年)・・・映画まで作られたのです。

どうして事実と異なる伝説が生まれたのでしょうか?
メアリー・セレステ号事件というのは、非常に興味を掻き立てられる事件でした。
乗組員がなぜか船を捨て、そのままいなくなってしまった・・・
とても不可解な事件です。
しかしそれだけでは少し面白みに欠けていました。
人々はつまらない事実よりも、面白い伝説やフィクションを好みます。
そのため、歴史上沖田多くの出来事を人々は誇張して伝えようとします。
その結果、事実に対して尾ひれがつき、船が発見されたときには「温かい食事が残っていた」「救命ボートが残っていた」といった要素が加えられて、面白い物語に変化していったのです。

バミューダ・トライアングル・・・そしてメアリー・セレステ号事件・・・
人知れず目撃者のない海で起きた事件を多少脚色してもわからないだろうと人為的に膨らませた伝説でした。

バミューダ諸島水中探査研修所には・・・「バミューダ・トライアングル謎の解明」という場所があります。
2018年にオープンしたばかりで、バミューダ・トライアングルの情報を集めた世界初の施設です。
観光客たちがこの展示を望んでいたのです。
私たち人類は、これまでに地球上のあらゆる場所を踏破してきました。
しかし、海には今なお未知の領域が残っている・・・海は人間にとって永遠の謎なのです。

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ムー認定 驚異の超常現象

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今から100年ほど前に起きた日本最悪の獣害・・・三毛別ヒグマ事件!!
巨大なヒグマが北海道の山里を何度も襲う・・・わずか2日で8人を殺害!!
ヒグマが凶暴に・・・!!
人間を襲撃した原因は・・・??
”禁断の4条件”とは・・・??
ヒグマが大きな人里へ・・・伝説のマタギが迎え撃つ!!

エゾヒグマ・・・大きな牙と鋭い爪を持ち、体長2m以上、体重300kg!!
北海道にしかいない国内最大の陸上生物です。
鮭、鹿などの獣を襲って食べるイメージですが、実際は雑食性で食事の8割は植物や昆虫です。
アリやハチなども好物で、獣の肉はあまり食べません。
警戒心が強く、人間の気配を察すると接触を避けるために、自分から離れる臆病な一面も・・・。
では、100年前の事件で、臆病なヒグマがどうして人を襲ったのでしょうか?
しかも、2日連続で8人!!
この異常な行動は、どうして生まれたのでしょうか?

1915年11月中旬・・・北海道。
霙の降る早朝・・・山の集落で・・・最初の異変が起こりました。
家の主・池田富蔵は、異様な気配を感じ目を覚ましました。
しばらくたち外に出てみると・・・30㎝はあろうかというヒグマの足跡が・・・!!

「どうしてこんなところまで・・・??」

これまで近くで見かけることはあっても、家の前まで近づくのは初めてのことでした。
しかも、足跡の傍には・・・軒先に干してあったトウモロコシが食い荒らされていました。
これが始まりでした。
トウモロコシは乾燥させると半年以上持ち、当時の集落では家の外壁一面に干し、外気で低温保存していました。
ヒグマにとって自然の中のエサは、季節や年次変動で不足しがちです。
ヒグマはエサを求めて徘徊し、人里近くにトウモロコシが・・・!!
美味しくて珮カロリー、クマにとっては絶好の食べ物でした。
それに手を出したのが最初でした。

異常なヒグマになる条件①人里に近づく
食べ物目当てなので、品減への警戒心が薄らぐのです。

北海道北西部苫前郡苫前町・・・
大正時代の人口およそ8000人・・・漁業で栄えた港町から川に沿って20キロほどさかのぼる・・・
山に囲まれた平野部の集落が三毛別地区・・・そして事件のあったのがさらに川上。
山が迫る谷、川沿いの狭い地域・・・当時六線沢と呼ばれ15戸、40人余りが暮らしていました。

人々はどんな環境で暮らしていたのでしょうか?
集落を流れるルペシュペナイ川・・・多くの家は、この沢沿いに建てられていました。
険しい土地に住み、農地を切り開こうとしていたのは開拓民たちでした。
その多くは、東北、北陸、四国の出身者で、30~40代の若い世代が多くありました。
少しでもいい生活をという夢を抱いてやって来ていました。
簡単な木組みに、藁や板を張り付けただけの粗末な家・・・
原生林で木を切り倒し、根っこを掘り、農地へと変える・・・農業が軌道に乗るまでは貧しい暮らしが続きます。
六線沢は、斜面が多く土地も狭い・・・
どうしてわざわざ農地に不向きな地域を開拓しなければならなかったのでしょうか?
まず移住者は、開拓しやすい場所に入ります。
後からくる人たちは条件が悪くなります。
山に近い傾斜地とか、水に恵まれない場所しか残っていないのです。

北海道に入植がはじまったのが明治2年・・・政府が北海道に開拓使を設置。
まず人々が集まったのは札幌や海岸沿いの平野でした。
明治中期になると、帯広や旭川などの高原や高地にも入っていきます。
そして明治の終わりから大正にかけて、深い山奥が割り当てられるようになります。
明治末期、六線沢に本格的な入植開始。
そこはヒグマの生息圏でもありました。

入植から数年後の大正4年11月下旬・・・
六線沢では雪がつもりはじめ、厳しい冬が始まりました。
ヒグマが接近した池田家では数日後、再び足跡が・・・。
池田は家の外のトウモロコシを回収せずに干し続けました。

異常なヒグマになる条件②人間に近づくといいことがあると学習する
人間の近くでエサを食べることに成功すると、警戒心が薄れ、積極的に人里に来るようになる

二度目の被害から数日後・・・大正4年11月30日午後8時・・・
夜の闇の中、ヒグマはまた池田家に現れました。
この時、すでに六線沢で鉄砲を持つ金子富蔵が池田に頼まれ待ち伏せていました。
撃ったものの・・・・・外れた!!
ヒグマは一目散に雪山に・・・!!
鉄砲を持っているとはいえ、農業や林業で暮らす身・・・西武が不十分でした。
が・・・その後、ヒグマが池田家に現れることはありませんでした。

しかし、予想外の恐ろしい行動に・・・!!

池田家からヒグマが追われて10日目・・・12月9日。
この朝、六線沢の男たちは村の入り口に集まっていました。
隣村との境、三毛別川に橋をかける共同作業をするために集まっていたのです。
六線沢では女性と子供が残されていました。
以前、クマが現れた池田家から3キロ奥・・・太田三郎家で・・・。
六線沢では珍しい板壁の家でした。
太田三郎がコツコツと材料を買いそろえて、頑丈な作りにしていました。
三郎も家を空けたその日、家にいたのは妻・マユ、隣村から預かっていた少年・幹雄・・・子供のいないこの夫婦は、正式に幹雄を養子にもらうつもりでいました。
午前10時30分・・・そこへ・・・。
壁の向こうに何かが・・・!!
1時間ほど後、正午・・・壊された板壁の中では・・・!!
幹雄の死体が・・・マユは・・・??
ヒグマにさらわれていました。
トウモロコシ目当てで人家に来るようになったヒグマ・・・どうして家の中にいる人まで襲う・・・!?
原因は”悲鳴”??
悲鳴は弱みを見せている行為なので、それに驚くことはあまりなく、むしろ弱みに付け込んで襲ってくるのです。
これはクマに限らず、捕食性の動物の習性として持っています。
人は襲いやすい獲物だと学習したのです。

異常なヒグマになる条件③人間を弱いと知る
人が逃げたり悲鳴を上げたりすると、ヒグマは本能で攻撃してしまうのです。
すると、それまで警戒すべき人間が”実は弱い”と知るのです。
こうして人間を攻撃するヒグマになってしまうのです。

男たちはマユの血の跡を追います。
血の跡は、人が登るのが困難なほどの斜面ををあがっていました。
太田家から150mの場所でマユは見つかります。
全身を完膚なきまでに喰い尽された残骸は、雪中に匿されていました。

異常なヒグマになる条件④人間の味を覚える
最初の一例は、たまたま襲ってしまった・・・たまたま人肉を食べておいしいと学習してしまうと・・・エスカレートして人を襲うクマになってしまうのです。

最初の襲撃の翌日の12月10日夕方・・・
事件の報せは三毛別、古丹別、苫前村と伝わり、六線沢の人々をヒグマから守ろうと約50人の男たちがやってきます。
中には鉄砲を持つ者が10人以上・・・!!
男たちは数人ずつに分け、5キロに及ぶ六線沢を見回ります。
しかし、人が歩ける範囲をはるかに超え、ヒグマはいつどこに現れるかわからない・・・
夜8時・・・ヒグマが盛んに活動する時間・・・
太田家では妻・マユの遺体を持ち帰り、幹雄とあわせ葬式が始まりました。
傍には鉄砲を持つ男・・・異様な緊張感の中、7人が立ち会います。
その時・・・!!
再びの襲撃・・・!!
クマは逃走!!仕留められませんでした。
呼び寄せたのはマユの遺体・・・??
食べ物に対する執着心は相当なもので、1回自分がとった獲物は自分のものと認識していました。
取り返されたら取り返す!!のです。
ヒグマが出た・・・!!
銃を持った男たちが太田家へ・・・!!

太田家から500mのところに明景安太郎の家が・・・広めの家には、女性と子供たちが集まっていました。
明景安太郎の妻・ヤヨと子供5人、妊娠中の斎藤タケと子供2人・・・そして世話役の男性・・・鉄砲はありませんでした。
この襲撃で、子供5人、女性一人、重傷2人!!
襲撃直後、悲鳴を聞きつけて鉄砲を持った男たちがやってきます。
しかし・・・断末魔のうめき、人骨をかみ砕くいような響き、クマの暴れまわる鈍い音・・・もはや生存するものはいないと誰もが思わずにはいられませんでした。

空に放った銃声に驚いて飛び出すヒグマ!!
不発!!
慌てる男たちをしり目に、ヒグマは悠然と闇に消えました。
最初の襲撃からわずか36時間・・・六線沢40人余りのうち10人が犠牲になりました。

明景家襲撃の2時間後・・・12月10日午後10時・・・
六線沢の開拓民たちは決断を下します。

「もう・・・ここにはいられない・・・山を下りよう」

50人以上で警戒しても命は守れない・・・
再び戻ってくれる保証のないまま、全住民が村を離れました。
重傷者3人を運び、6キロ下流の三毛別小学校まで非難しました。

最初の襲撃から4日目の12月12日朝・・・
ヒグマ駆除のために、警察隊が動き出します。
若者たちを集め、討伐隊が組織され・・・それは270人以上、鉄砲60挺以上という大規模なものでした。
討伐隊は、三毛別川にヒグマを迎え撃つ防衛線を張りました。
今は射止橋と呼ばれています。
この川幅は15m・・・ヒグマなら簡単に超えることが出きる・・・ここからの地域は人家が増えていく・・・ヒグマを通すわけにはいかない・・・!!

12月13日午後5時・・・
無人となった六線沢にヒグマが戻ってきました。
二斗樽の鰊づけを食い荒らし、さらに鶏舎を襲ってニワトリ数羽を食い殺し、雑穀類を暴食しました。
民家を次々と襲い、家畜や食料を食い漁っていく・・・八軒を渡り歩き、下流へ・・・!!
女性の匂いのついたものに、異様な執着を見せていました。
その日の夜8時・・・
川沿いを見張っている男たちは、月明かりの下、不思議な光景を見ることに・・・

川岸にはヤナギの大木の切り株が六本ある
討伐隊員が何気なくその切り株を眺めてみると、暗闇とはいえ、どう数えても一本多い・・・。

「ひとか?クマか・・・??」

10数丁の銃が、一斉に火を噴く・・・!!
一発が確かにヒグマに命中!!
しかし、黒い塊は川岸をひとっとびに、元来た節減をと美容に走り去ったのです。
このヒグマは不死身・・・??
ヒグマの体は分厚い脂肪と筋肉でおおわれています。
なので、脳と心臓周辺以外では、1発で致命傷を与えることは難しいのです。
しかも、頭蓋骨は厚く流線型で弾丸が貫通しにくいのです。
銃の扱いに慣れた者でも仕留めるのは至難の業・・・
翌朝、討伐隊は、傷を負った熊の血の跡を追います。
270人以上、10数匹の犬・・・山狩りが始まりました。
そこには伝説のマタギと呼ばれる男・山本兵吉!!
生涯で300頭以上のヒグマを仕留めたといいます。

討伐隊は山の頂上付近まで追い込みます。
ヒグマの習性を熟知していた山本・・・!!
頂上付近でヒグマを見つけ、引き金を引きます!!

巨熊は大きくのけぞり、どうと倒れた

仕留めた!!かと思いきや、倒れたクマがやおら立ち上がり、大きく吠えて山本を睨みます。
山本は2発目を発射しました。
山本の初弾は心臓近くに、2発目は頭部を貫通し、共に致命傷となりました。

人間によって凶暴になったと思われるヒグマ・・・
その命は人間が放った銃弾によって終わりました。

ヒグマの被害によって一つの集落が消滅するのはありませんでした。
アイヌの人たちがクマと共存してきていました。
しかし、相容れないところはきちんと敷居を確認して、クマとに一定の関係を保ちながらやってきました。
人間とクマが同じ場所で仲良く暮らす・・・そんなことのできる相手ではなかったのです。

現代では人間に近づいてきたヒグマをどうする・・・??

駆除するという対応が殆どです。
厄介な行動をしてしまうクマは、人間の不注意による面が多くあります。
ひとりひとりが最低限のクマに対する正しい知識を持つ普及教育が重要です。
現代の問題を「自然と人間との関係」に引き寄せて、知恵を出していかなければいけなくなってきています。

日本史上最悪の獣害といわれた三毛別ヒグマ事件・・・
異常な事件は新聞などによってセンセーショナルに報道されました。
しかし、人々とヒグマの間に何が起きたのか・・・??冷静に調査した記録は作られませんでした。
事件から50年経った昭和40年・・・調査を行い人物が現れました。
北海道で森林管理を行う林務館・木村盛武・・・「獣害史最大の惨劇苫前羆事件」
当時六線沢で何が起きたのか?大村さんは高齢となった関係者から聞き取り調査を行います。
浮かび上がってきたのは、人間によって一線を超えるヒグマの生態・・・不幸な事故の責任は、99%人間側にあるのではないか?というものでした。

2015年に木村さんはこう言っています。
近年、異常ともいえる都市生活圏へのクマの侵入、激増する目撃情報などから、森林生産力の低下は否めません。
野生の熊が、餌を求めて移動する索餌行動は本能であり、行動半径の拡大につながっています。
熊は意外と身近なところに棲んでいます。
私はいたずらに熊を恐れ、憎んだりするのではなく、熊と人間が共生できる社会であってほしいと願っています。

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