日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: ダークサイドミステリー

ケネディ大統領暗殺事件・・・
犯人とされているのは、リー・ハーベイ・オズワルド(24歳)です。
しかし、24歳の若者が大統領を暗殺して得をする・・・??
もっと得をする人がいるはず・・・!!

陰謀論・・・ある出来事について、一般に理解されている事実や背景とは別に、何らかの謀略が存在することを主張する意見のことです。
陰謀論という言葉が広く使われるようになったのは、ケネディ大統領暗殺事件がきっかけだったといわれています。

「われわれは10年以内に月に行くことを決めた!!
 容易くはなく、大変だから決めたんだ!!」

アメリカは当時、ソビエトとの宇宙開発競争において敗北続きでした。
1957年世界初の人工衛星スプートニク1号、1861年世界初の有人宇宙飛行ガガーリン・・・
相次いでソビエトに先を越されていました。
そんな逆境の中、「我々は月に行く!!」若きケネディは、途方もない夢を描いていました。
ケネディは黒人にも人気があり・・・当時のアメリカ社会の大きな壁である黒人差別・・・とくに南部の州では黒人の公共施設利用を禁止する法律までありましたが、ケネディは、公民権運動の指導者・キング牧師を支援するなど黒人からも愛される大統領でした。

その反面、若さゆえに外交には不安を持たれていました。
共産主義陣営との東西冷戦・・・大きな試練がキューバ危機でした。
ソビエトがキューバに核ミサイル基地を建設開始、アメリカに核戦争の危機が迫っていました。
ケネディは追いつめられながら、23歳も年上のソビエトのフルシチョフ首相を相手に粘り強く交渉し、見事戦争の危機を回避しました。
夢、誠実さ、実力・・・若き指導者ケネディは、アメリカの未来を明るく照らす希望の光でした。

しかし、社会を急速に変えようとするケネディには、反発する勢力も多かったのです。
まずは保守層の多い南部の州です。
1963年11月22日(金)テキサス州ダラス・・・午前11時40分、ケネディ大統領ダラスに到着しました。
待ち受けるのは、かつての南軍の旗!!
黒人奴隷の開放に反発し、南北戦争を戦った南部の誇りを示す旗です。
この日の朝、地元の新聞にはケネディの政策を批判する全面広告が出されています。

「ケネディさん、われわれダラスの自由な思想市民は、あなたによって憲法が無視されていると感じ、われわれの苦情、あなたへの反論、批判を表明する権利がある」

街に貼られたビラには・・・

「この男、アメリカ合衆国に対する反逆罪で指名手配」

国家反逆罪で指名手配し、ソビエトや共産主義と友好的な関係を目指す姿勢に強烈な怒りが向けられていました。

午前11時50分・・・ケネディ大統領は妻のジャクリーンと、テキサス州知事のコナリー夫妻と共に、パレード出発。
ダラスの中心街、全長16キロのコースでケネディーを迎えたのは、意外にも大勢の人でした。
想像以上の市民の歓迎に、気を良くしたコナリー夫人が振り返ってケネディに声をかけました。

「これでもうダラス市民があなたを好きじゃないなんて言えませんね」

「それははっきり言えるね」byケネディ

12時29分、パレードの終わりが近づきます。
エルム通りに入る・・・残りおよそ150m・・・高架下をくぐり、高速道路に乗る予定でした。
ところが・・・12時30分、運命の瞬間がやってきました。

何者かの狙撃!!
弾は2発当たり、その一発は頭を直撃!!
そして午後1時37分・・・当時のアメリカでもっとも信頼されていたニュースキャスターが、全米に信じがたい悲報を伝えました。

「ダラスからの公式発表です
 ケネディ大統領が死去されました
 中部標準時午後1時
 東部標準時の2時です
 今から38分前です」

ケネディ大統領死亡・・・その衝撃は大きすぎました。
なぜケネディが殺されなければならなかったのか?

納得の理由が見つけられない人々は、さらにテレビや新聞で刻々と報じられる見解に翻弄されます。
事件発生から1時間20分後・・・1時50分に容疑者が逮捕されます。
ダラスに住む24歳の青年リー・ハーベイ・オズワルドです。
オズワルドの勤務先は、暗殺現場近くのテキサス州教科書倉庫ビル・・・
その6階で、ライフル銃1丁と空薬きょう3個が見つかりました。
彼はそのビルを抜け出し、映画館にいるところを警察官に取り押さえられました。
24歳・・・無名の若者が、本当にケネディを狙撃したのでしょうか?
本当にアメリカから希望の光を奪ったのか・・・??
犯人の動機は・・・??冷戦構造の中、対立する共産主義の若者が、ケネディを殺した・・・??
ところが・・・事件発生から11時間・・・警察の取調後の1963年11月23日深夜0時5分・・・
オズワルドは記者に向かって・・・

「何が起きているのか本当にわからない
 警察官殺害の罪に問われているということしか話してくれないのです
 だれか法律で私を守ってください

 私がソビエトに住んでいたから連行されているんだ
 身代わりなんだよ!!」

さらに、ケネディ暗殺から2日後最悪のことが・・・
11月24日午前11時21分、ダラス市警察の地下・・・オズワルドの拘置所移送のテレビが生中継時に・・・
オズワルドが暗殺されたのです。
撃ったのは、ダラスでナイトクラブを経営するジャック・ルビーでした。
しかも、ルビーの背景について、マスコミは驚きの報道を・・・
”かつてシカゴ裏社会とのつながりがあり、衝動的に行動する男だといわれている”
厳戒且つ記者の前での銃撃・・・この不可解な事件が疑惑に拍車をかけることとなりました。
ジャック・ルビーによるオズワルドの暗殺をきっかけに、相当多くの陰謀疑惑が語られるようになりました。
これを見た多くの人は当然、深い疑いを持ったのです。
ダラス市警の留置所にいる男が、侵入してきた何者かに暗殺されるなんてありえない・・・!!
仕組まれたことに違いない!!
ルビーがやったことは「口封じ」だ!!と。

口封じなら、その背後には黒幕が・・・??
それは共産主義者??あるいはマフィアか??
さらに翌年、オズワルドの母から爆弾発言が!!

「私の息子は政府の秘密工作員でした!!」

ということは、オズワルドが共産主義者というのは見せかけで、アメリカの政府機関が関与していた・・・??
ケネディ、オズワルド・・・2人を巡って次々と起こる予想外の展開と怪しげな情報の氾濫
疑惑は収まりを見せずに拡大・・・!!

事件から2週間後の12月7日・・・
アメリカ北東部ペンシルバニア州の一般紙に巷で語られる根拠のない噂に釘を刺す一本の記事が出ました。
タイトルは”陰謀論”。

”理性的な人々にとって異常な心理状態の人の行動は、簡単には理解できないものだ
 だからこそ、確かな証拠はないにもかかわらず、ケネディ大統領が殺された理由には陰謀があるはずだと思い込んでしまう
 理性的な人は、おかしな考えに取り憑かれた人間がたったひとりでこれほど大きな罪を犯しうるという現実を、受け入れることが出来ないのだ“

アメリカ国民の感情をドラマチックに揺さぶり続けた希望の光・・・ケネディ・・・
ケネディ暗殺とその後の衝撃の数々で、世間が感じた理不尽な思い、それを納得させるため、人は陰謀論を語るようになったのです。

ケネディ、謎の暗殺から1週間後・・・1963年11月29日。
黒幕はソビエト?キューバ?マフィア?政府機関??
24歳の若者がたった一人で大統領を暗殺するはずがないという陰謀論がささやかれていました。
真相究明のため、ケネディ大統領暗殺に関する大統領特命調査委員会(ウォーレン委員会)が設置されました。
メンバー7人は・・・連邦最高裁判所長官アール・ウォーレンを筆頭に、上院議員2名、下院議員2名、弁護士、元CIA長官・・・という顔ぶれでした。
関係かっく所から資料をすべて提出させ、独自に証人尋問を行い10か月もの調査を行いました。
1964年9月24日、ついにウォーレン委員会が全24巻にも及ぶ報告書を提出。
果たして、全世界が注目した最終結論とは・・・??

「本委員会は、オズワルドがケネディ大統領の暗殺者だったと結論する
 本委員会は、オズワルドは単独で行動したものと結論する
 オズワルドがケネディ大統領暗殺の陰謀に加わっていたという信頼すべき証拠はなかった」

何という期待外れ・・・世間は騒然としました。
根強い疑惑・・・しかし、実は白昼公然と行われたケネディ暗殺は、たくさんの写真や映像で前後の様子がはっきりしています。
パレードのリムジン・・・ケネディの前に座っているのはコナリーテキサス州知事。
コースも明確、ダラス市内、メイン通りの西の端で右折してヒューストン通りに入り、さらにエルム通りを左折・・・この曲がり角にあるのが、オズワルドがいたとされるテキサス州教科書倉庫ビルなのです。
ウォーレン委員会の報告によると、ビルからケネディの乗る車までは約80m・・・ライフル銃が3発発射されています。
うち一発が、ケネディ大統領の喉を貫通したのと同一の弾丸が、コナリー知事をも負傷させました。
もう一発が、ケネディ大統領の頭部の右後方から入り致命的な重傷を負わせました。
しかし、ウォーレン委員会の公式報告に疑問を感じる人たちが指摘するのは、この狙撃について・・・。
1975年、肝心の狙撃の瞬間を映した動画がテレビで公開されました。
偶然撮影された八ミリフィルムビデオ・・・「ザプルーダー・フィルム」です。
撮影をしたのは、ダラスの会社経営者エイブラハム・ザプルーダーです。
エルム通りに面した位置から26秒余りを撮影しています。
映像は事実を映す・・・事件の真相に迫る・・・??
そして人々はこの中にウォーレン委員会報告書とは異なる結論を確認しました。

1991年公開のアメリカ映画「JFK」。
これは、ケネディ暗殺陰謀論を再現させるきっかけとなりました。
ケビン・コスナー演じる地方検事が、ザプルーダー・フィルムを一フレームずつ解析し、陰謀を暴こうとします。
人々は、223フレームから232フレームの部分に注目しました。
223フレームは、ケネディ大統領は喉を押さえています。
つまり、弾丸が喉を撃ち抜いた直後です。
しかし、コナリー知事に弾が当たった様子はない・・・??
ウォーレン委員会の報告では、ケネディ大統領の喉を貫通した後、同一の弾がコナリー知事をも負傷させたとしています。
ところが、ケネディと、コナリー二人を貫通したとすると不自然な弾道に・・・!!

ザプルーダー・フィルムで検証されているもう一つの疑惑が、ケネディの頭部に命中した銃弾について・・・
ウォーレン委員会の報告によると、頭部の右後方から入り、致命的な重傷を負わせたとなっています。
人々は、313から321フレームのケネディの身体全体の動きに注目しました。
ケネディの頭部に銃弾が命中した場面・・・身体が大きく後ろにのけぞっています。
これは前から撃たれた証拠!!
つまり、前方に別の狙撃手がいたのか・・・??
ところが、こうした陰謀論を真っ向から否定しつづけた論客がいます。
まぎれもなくオズワルド一人というのです。
陰謀論が根拠としたフレームを使って全く逆の結論を・・・

2人を同時に傷つけた弾は、道路標識から出てくるときに撃たれました。
コナリーの背広の襟が捲れる瞬間が写っています。
この瞬間、ケネディを貫いた弾がコナリーの背中から胸元をも貫通したのです。
さらに、陰謀論を覆すリムジンの証拠写真があります。
パレードの主役・ケネディよりもコナリーの椅子は低く作られています。
ひとつの銃弾が傷の通りに真っすぐに撃ち抜くことが可能となっています。
さらに、頭部に当たった銃弾は、後ろにのけぞっているのは前から撃たれた証拠と言われていますが・・・
全く逆の証拠もあります。
フィルムを見ると、頭を打たれた瞬間、”血の霧”が右前方に飛んでいるのが分かります。
もし、前から撃たれていれば、左斜め上に飛ぶはず・・・??
同じ映像の同じ個所を見ても、見るポイントや解釈が異なると、正反対の分析になってしまう・・・
事件から半世紀以上たった今でも、ネット上では今も怪しい人物の情報が溢れています。

例えば・・・アンブレラマン・・・青天のダラスで傘をさす男がいました。
彼は、ケネディ狙撃位置の目印として近くに立っていたのか・・・??
バブーシュカ・レディ・・・ケネディ狙撃直後、カメラを構えている女性が・・・組織の記録係・・・??
第二の狙撃手・・・ケネディを前方から撃った幻の狙撃手が写っている・・・??
一般に、事件解明の証拠とされる現場映像の数々・・・しかし、ケネディ暗殺事件の謎に置いては、証拠映像でさえも陰謀論の拡大を加速させてしまうのです。

2018年4月、トランプ大統領はケネディ大統領暗殺事件に関する機密文書について全面公開を見送りました。
トランプ大統領自身が全面公開したかったにもかかわらず、CIAやFBIが反対したせいだとか・・・
現役の大統領でさえ手が出せない闇が、そこにはあるのです。
巨大な力を持った黒幕が・・・??

ケネディ暗殺の陰謀論を拡大させることになったウォーレン委員会報告書・・・
黒幕説についてはこう書かれています。

”オズワルドが、ケネディ大統領暗殺の陰謀に加わっていたという信頼すべき証拠はなかった”

これに反発する人々は、様々な勢力が陰謀に加わったと主張してきました。
その黒幕とは・・・??

①敵対する国外勢力
オズワルドが共産主義者と伝えられたこともあり、冷戦で対立していたソビエトか、アメリカを敵視するキューバが黒幕かとされています。
敵対する国内勢力として・・・
②マフィア説
ケネディ家は、父親の代からマフィアと協力関係にありました。
しかし、ケネディ政権が取締りを強化したためケネディを裏切り者とみていました。
③アメリカ中央情報局・・・CIA
CIAは、ケネディが大統領に就任した当初から、対キューバ政策をめぐり対立していました。
そこでCIAが邪魔なケネディを消した・・・??

陰謀論者は複雑に考え過ぎなのでは・・・??
オズワルドを調べれば、答えはシンプルなのに・・・??
陰謀論者は、オズワルドのことを研究しないまま、「彼は単なる囮で1人で暗殺など不可能だ」というイメージを植え付けたのです。
オズワルドの生い立ちを見て見ると、アメリカとソビエト・・・二つの国家に失望していたことが分かります。
高校時代から共産主義に興味を持ち、19歳でソビエトに亡命。
しかし、ソビエトに馴染めず23歳の時に帰国しました。
それでもアメリカ社会へのいら立ちを抱き続けます。
ケネディと政治的に正反対の軍人を暗殺しようとしたことがありました。

ケネディでなくても良かった・・・??
彼は、アメリカかソビエトに一泡吹かせたかったのでは・・・??

そんなオズワルドにまさかに運命が重なります。
ケネディ暗殺の5週間前、オズワルドはテキサス州教科書倉庫に就職。
そして事件の2日前、パレードが自分の勤務先の前を通ることを知るのです。
オズワルドにとって、これはおぜん立てされた贈り物でした。
暗殺を実現するためには、多少の運が必要なのです。
オズワルド単独犯行説が素直・・・??


それともCIAが関与・・・??
情報を、CIAがその事実を隠している・・・??
ケネディ暗殺に関する文書・15,000点が非公開となっています。
これらが明らかになれば、CIAの何らかの事件への関与が新たに見えてくるかもしれない・・・!!
1963年10月、暗殺の6週間前にCIAがやり取りした電報には、オズワルドの経歴や特徴が3ページにわたって書いてあります。
そして6人のCIA高官が目を通しています。
つまり、暗殺事件の前からオズワルドを監視していたことが伺えます。
この電報は、長い間公開されておらず、初公開は1992年でした。
ところが、CIAは1964年に「資料はすべて提出した」としています。
1964年ウォーレン委員会の証人尋問で、CIA副長官だったR・ヘルムズは宣誓の下、CIAにあるオズワルドをめぐる全ての証拠書類を委員会に提出したかと聞かれ「はい」と回答しました。
しかし、それは嘘・・・CIAは所持していた文書の大部分を隠していました。
CIAは、宣誓証言でウソをついて罪を犯し、司法妨害を行ったのは事実です。
公的な機関のこのような行為は、犯罪を隠している可能性がある・・・??
CIAが隠している情報をすべて出させることで、真相解明が近づくはず・・・??
しかし、そんな陰謀につながる資料を国民が利用できる公文書館に提出するのか・・・??
それが航海されるのを認めるか・・・??
それはありえないでしょう。

あの日以来、半世紀を超えてなお続く議論・・・この先、決定的な証拠は出るのか・・・??
しかし、証拠が提出されたからと言って、真相解明につながるかはわかりません。
情報が公開されたとしても、信頼性のない情報がたくさん出てきてしまえば、それは陰謀論を正当化するだけです。
ケネディ暗殺陰謀論は、たとえ情報が公開されたからといって、事件の真相につながるとは限らないのです。

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青森県・八甲田山・・・毎年1月、青森の陸上自衛隊では雪深い山を15キロ踏破する訓練を行っています。
そのルート上、必ず立ち寄る場所があります。
仮死状態になりながらも絶ち続けた兵士・・・
明治35年、八甲田山麓で遭難し、雪の中に倒れている仲間の場所を立ち姿によって救援隊に知らせました。
120年近く経った今なお、語り継がれる悲劇・・・世界最大級の山岳遭難事件です。

210人のうち、199人の死者を出した八甲田山雪中行軍の惨劇・・・
兵士は東北出身、日程は僅か2日、雪に慣れた屈強な男たちに何が起きたのか・・・??

八甲田山・・・標高1585m・・・
青森県のほぼ中央にならぶ、18の山々からなる連峰です。
この地で、今からおよそ120年前、明治陸軍の士官や兵士210人が遭難し、199人が命を落としました。
彼等の殆どは、地元・東北出身者・・・雪に慣れ、規律正しい集団行動に長けた屈強な若者たちが、どうしてこれほど多く犠牲になったのか・・・??

明治35年1月23日、帝国陸軍青森歩兵第五連隊駐屯地

「前へ進め!!」

午前6時55分、歩兵第五連隊の第二大隊を中心とした210名は、八甲田山山麓に向け片道20キロ・・・往復40キロの雪中行軍の訓練に出発しました。
時は日露戦争前夜・・・この訓練は、ロシアでの戦い・・・極寒の北の大地、対ロシア戦の軍事行動を想定したものでした。
コースは青森市内から少しづつ坂をのぼり、最初の目標は小峠・9.6キロの中間地点です。
続いて17キロ地点・八甲田山の北側・標高732mの馬立場、そして残り3キロを下って温泉地・田代で野営。
2日目は来た道を帰る1泊2日の行程・・・登山というより麓を進む夏場ならトレッキングコースの地形です。
出発した23日、朝の天気は薄曇りで風も穏やか・・・
行軍の滑り出しは好調で、兵士の中には目的地田代で温泉に入るつもりで手ぬぐいを用意する気楽な者もいました。
彼等は冬の雪山を軽く見ていたのでしょうか・・・?
青森市内、八甲田山雪中行軍遭難資料館・・・
ここに、第五連隊の雪中行軍の様子の展示があります。
編制は雪の中の行軍に適した工夫が施されていました。
先頭はカンジキ隊40人・・・カンジキを履き、雪を上から踏み固める兵士
その歩きやすくなった雪道を本隊114人が続きます。
更に踏み固められた道をソリ輸送隊56人、全員の食料や酒、炊事道具の外、野営で暖をとる薪や木炭、地面に風よけの穴を掘るスコップなど、雪山の備えた装備をたっぷりと運び、装備や物資など当時としては可能なほど準備をしていました。
先頭を行くのは、この行軍の計画、指揮を執った青森歩兵第五連隊第二大隊中隊長・神成文吉大尉・32歳。
秋田県出身で、青森第五連隊には14年も所属し、雪のことを熟知しているたたき上げでした。

出発から4時間35分後・・・1月23日午前11時30分、9.6㎞地点小峠着。
一行は中間点の小峠に到着し、昼食の小休止、時速およそ2.1キロ・・・ほぼ神成の予定のペースでした。
ところが、少し前から雲行きが怪しくなり、風速は10m・・・雪が兵士たちをたたきつけ始めました。
そこに、軍医の永井源吾が申し出ます。
永井は前夜、青森の測候所に問い合わせ、午後から天気が崩れると聞いていました。

「天候の急変により、風雪も強く、気温も低下しています
 これからは、益々雪も深く、風も強くなるでしょう
 現装備では、この風雪に耐えられません
 一応帰隊しては・・・」by永井

ところがこれに、若い下士官たちが反発します。
予定通り進んでいる現状を重視し前進するか、この先の悪天候を見越して引き返すか・・・?
神成大尉は、上官である最高責任者・第二大隊長の山口鋠少佐の判断を仰ぎます。
山口少佐は45歳の東京育ち・陸軍士官学校出身で、日清戦争にも従軍した明治陸軍の生え抜きでした。

「計画通り、行軍を実行する!!」by山口

次の目標は17キロ地点・・・ルート上の再興標高地点・馬立場。
午前中と同じペースで行けば、午後三時に到着予定でした。
しかし、途中には平たんだが最大の難所・賽の河原がありました。
賽の河原は遮るものもない1年中吹きっ晒しの大雪原・・・風が強く、少し前に地元住民が18名も遭難・・・
凍死したほどの難所で、怖がって冬場には誰も近づかないところでした。
体を飛ばしそうな暴風に、歩みを止めさせる雪・・・神成大尉は、無事突破できるように遅れるものをかばいながら、慎重に隊列を進ませます。
苦闘の結果、第五連隊210名は、全員脱落することなく賽の河原を突破しました。

出発から9時間15分・・・1月23日午後4時10分、17km地点・馬立場到着。
悪天候の難所を乗り越え、最高地点まで登ったものの、この間の速度は1.2キロ・・・小峠までの速度の半分まで落ちていました。
目的地・田代まであと3キロ・・・日没までに到着するのは不可能・・・
ここにとどまり野営するか??
雪の夜を田代まで強行するのか・・・??

その時、天は第五連隊に味方します。
雪が薄れて日が差し、3キロ先の田代が見えたのです。
晴れてさえいれば、満月に近い月で雪が照らされ見通しが利く・・・神成たちは、夜の行軍を決断します。
しかし、この時彼らは、冬の八甲田山の本当の恐ろしさにまだ気づいていなかったのです。

出発から10時間30分・・・1月23日午後5時30分、17km地点・馬立場発。
歩兵第五連隊第二大隊は、馬立場を後にし、3キロ先の田代を目指します。
すでに夜・・・幸い、月が雪山を照らし、道に迷う心配はありませんでした。
しかし、進み始めてすぐに想定外の苦難が・・・
後に、遭難の一部始終を生存者から聞き取った「遭難始末」によると、馬立場からわずか800mで起きた異変が記してありました。

”積雪胸ヲ没シ 一進一止 其困難 名状スベカラズ”

急激に雪が降り始め、胸まで埋まってしまう・・・
しかも、雪には水分が少なく、粉のようにさらさらしていました。
先頭の隊が履いているカンジキは、パウダースノーでは雪に沈んで機能しない・・・
さらに、本隊の後方にいたソリ輸送体にとって、この雪は致命的!!
ソリごとパウダースノーに沈み、進めない!!

彼等がルートにしていた八甲田山の北側山麓は、世界でも有数の大雪が降る局地気象のエリアです。
八甲田山北側山麓では、雪雲が八甲田山にぶつかり北側に流れる・・・第五連隊の辺りに雪雲が集中し、直前でもわからない局地的な豪雪を降らせるのです。

出発から13時間・・・1月23日午後8時、18.5km地点・平沢着。
田代の手前の平沢に到着しました。
2時間30分でわずか1.5キロ・・・もがきながらの行軍でした。
動き続けた兵士たちは疲労困憊・・・一行は、この日のうちの田代到着を断念し、ここ平沢での野営を決定!!
輸送隊のスコップで、風よけの雪洞を掘り、朝5時の出発まで休息をとることにしました。
20人ほどが立ったままで食事をし、暖をとり、休憩する・・・しかし、ここでも想定外のことが・・・!!
雪は深さ4メートルもあったため、地面まで掘り進めることが出来なかったのです。
雪の上では火がなかなかつかず、ついても火力が弱い・・・まともに米も焚けず、食事がとれない・・・その上・・・

出発から17時間・・・1月23日深夜・平沢露営地。
マイナス21度の寒さと強い風が兵士たちを襲います。
寒さをしのぐはずの雪洞が役に立たない・・・外気の侵入を防ぐ天幕などが、現場にはありませんでした。
さらに、兵士たちが着こんだ防寒を意識した服装が、彼らを苦しめます。
彼等が着用していた軍服・・・小倉服は、綿で織られています。
その下の肌着も綿素材・・・これらが汗を吸収し、濡れ、凍り付きます。
一睡もできず、足踏みをして体を温める兵士たち・・・このままでは全員が凍傷か、凍死してしまう・・・!!

最高責任者・山口鋠少佐は決断します。

”行軍ノ目的ハ 概ネ達成シタルモノト云フベシ
 天命ヲ待ツハ 凍傷ヲ起スノ患アリ
 夜明け前ノ出発ハ 日没后ノ行進ニ優レリ”

出発から19時間30分・・・1月24日行軍2日目午前2時30分、平沢露営地出発。
歩兵第五連隊は、朝5時を待たず、元来た道を青森に向けて出発・・・それが、死の行軍の始まりでした。

出発から21時間・・・1月24日行軍2日目未明、平沢露営地~馬立場間
平沢露営地を出発した第五連隊第二大隊210名は、青森連隊に戻るため、1.5キロ先の最高標高地点・馬立場を目指します。
しかし、天候は悪化、目印となるはずの馬立場は見えず・・・!!
雪に残っているはずの自分たちの通ってきた跡さえ豪雪で覆いかぶされわからなくなっていました。
行軍開始から1時間・・・彼等は鳴沢渓谷に行き当たります。
道に迷った・・・遭難の始まりでした。

出発から22時間・・・1月24日午前5時、鳴沢~平沢露営地間
闇を彷徨っていた兵士たちは、明るい視界に活路を見出します。

「ここからなら、田代への道を知っています!!」

兵士の一人が申し出たその言葉に、山口少佐は賭けます。

「青森本部までの帰路は18km、田代までならばたった1km余りだ
 道がわかるのなら、田代へ向かうのが得策である」

疲労の極みの兵士をおもんぱかったのでしょうか?
しかし、天は彼らを裏切ります。
まさにこの時、東北一帯を台風並みの猛烈な巨大低気圧が襲いました。
風速29m、気温-25℃・・・猛吹雪が第五連隊の視界を奪います。
ホワイトアウト・・・近くを歩く仲間も見えない・・・それどころか、自らの上下感覚さえもわからない・・・。
兵士たちは方向感覚を失い、大きくカーブを描き、再び鳴沢渓谷に出てしまいました。
どうしてここまで極端に目的地に向かえないのか・・・??
それは、リングワンダリングです。
視覚と聴覚を奪うと、進めば進むほど同じ場所を回り迷走する・・・第五連隊も、まさにその状況でした。
500mほどの白い闇に閉じ込められたのです。

出発から25時間・・・1月24日午前8時、鳴沢周辺

迷走する第五連隊は、別の進路に希望を見出します。
雪の中を進むのではなく、鳴沢の渓谷から駒込川に下りたのです。川沿いに進めば、いずれ人の住むところに出るかもしれない・・・!!
しかし、川はさらに危険でした。
岩が多く、足場が悪いのでケガをする・・・水で体がぬれ、益々凍えます。
やがて、雪と断崖に阻まれ、先に進めなくなり、地上に脱出するため、高低差200mもの急斜面を何時間もかけて登りました。

出発から29時間・・・1月24日昼12時、鳴沢周辺。
-20℃の中、食事も睡眠も休息もまともにとれず歩き続けた兵士たち・・・
疲労の限界を超え、異変が起こり始めます。

髭や眉毛は氷柱となり、顔面は暗紅色となり、睡魔に襲われたの如く昏倒・・・
体の内部まで冷え切って低体温症・・・体に震えが起こり、やがて震えが止まらなくなり眠るように倒れたといいます。
深部体温が35℃以下の低体温症では、脳の機能が低下し、意識障害を起こします。
最終的には心臓が停止、死に至るのです。
行軍2日目・・・わずか500mの真っ白な闇に閉じ込められた兵士たちは、わずか数時間で全体の1/4、およそ50名が死亡、行方不明となりました。

出発から41時間・・・1月24日2日目深夜、鳴沢露営地。
丸一日彷徨い続けた挙句、第五連隊は白い闇から外に出ることが出来ず、鳴沢で2日目の夜を耐えていました。
その間にも、次々と兵は倒れていく・・・既に全体の1/3、70人余りが命を失っていました。

出発から44時間・・・1月25日3日目、午前3時。、間から満月が現れました。

「天候が回復したぞ~~!!」

鳴沢から800m先、馬立場の頂が見えました。
ようやく、帰る方向が示されたのです。
指揮官・神成大尉が先頭に立ち、生き残った140人を率いて馬立場を目指します。
ところが・・・すぐに風雪が吹き始め、馬立場を覆い隠しました。
神成たちは彷徨い続けます。
最後の希望が消えた・・・。

この時の、神成の叫びを生き残った兵士が覚えていました。

「天は我々は軍隊の資料のために死ねというのが天の命令である」

出発から71時間・・・1月26日4日目、救助隊捜索開始!!
陸軍青森駐屯地は、第五連隊との連絡が取れないため、救助隊を派遣!!62人が雪中行軍の後を追い、捜索を開始。

そして・・・出発から100時間・・・1月27日午前11時、馬立場手前。
神成大尉と行動を共にしていた第五連隊・後藤房之助伍長が発見されます。
仮死状態になりながらも、まるで救助隊に仲間を知らせるかのように、雪原の中で立ち続けていました。
相次いで連隊を率いていた神成大尉も雪の中で遺体で発見・・・
次々と兵士たちの遺体が見つかっていきます。
その場所は、馬立場の手前の難所・賽の河原周辺・・・神成大尉は閉じ込められた鳴沢周辺から兵士たちを率いてかろうじて脱出、しかし、馬立場を越えたところで力尽きたのです。
その後、奇跡的に生存者が発見されます。
行軍9日目の1月31日、山口少佐ら10人が駒込川沿いに・・・風雪を凌げる崖の下で、4日間過ごしていたのです。
鳴沢で3人救助、平沢で3人救助・・・2月2日には田代の小屋で1人・・・温泉の湯を飲み11日目まで生き長らえていました。
生き残った者は、谷の中、炭焼き小屋などの風を防げる場所に避難していました。
救出されたのは17人・・・しかし、収容後に6人が死亡、雪中行軍参加者210名のうち、死者199名が犠牲となりました。
生存者は11名・・・その多くが凍傷で体の一部を失ったのです。

生に至る判断が、すべて裏目に出てしまいました。
判断の中でいかに冷静になれるのか・・・??
パニックに陥った時、今の状況を客観的に分析して理想の方向性を探し出す・・・冷静に自分の状況を見つめる必要があります。

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マインドコントロール・・・その罠は、日常の至る所に潜んでいます。
セミナー、ボランティア、SNS・・・自らの意思で選んだように見せかけ、一度入れば抜け出せない・・・
そして恐ろしい事件を引き起こしてしまうかも・・・??
今から40年前、南米ジャングルの中の町で起きた前代未聞の集団自殺・・・
死者の数909人・・・信者を自ら死に追い込んだのは、人民寺院の教祖・ジム・ジョーンズでした。
社会正義を掲げ、人々を熱狂させ、奇跡を起こす・・・
しかしその一方、信者を恐怖で縛る・・・!!
彼等はどうして自分の生き死にまで操られてしまったのでしょうか?

南米ガイアナのジャングルを切り開いて作られた町・・・ジョーンズタウン・・・
今からおよそ40年前、アメリカから集団移住した宗教団体は、人種の垣根を超え、理想郷を作ろうとしていました。
ところが、1978年11月18日・・・
彼等の理想郷は突如崩壊します。
子供を含む909人が集団自殺したのです。
死因は猛毒のシアン化合物による服毒自殺でした。
この集団自殺を引き起こしたのは、人民寺院・・・そして信者たちをしに追いつめたのが、ジム・ジョーンズでした。
人民寺院は、数千人の熱狂的な信者を抱える大教団・・・

始まりは、集団自殺事件の47年前・・・
アメリカのインディアナ州・・・ジム・ジョーンズは、1931年5月13日に州都インディアナポリスにほど近い900人ほどの小さな町で生れました。
当時、アメリカ各地で激しい人種差別が蔓延し、インディアナ州もそんな一つでした。

”私の家は、地域の中でも間違いなく貧しい方でした。
 子供の頃を思い出そうとすると、とても辛くなります。”

貧しい暮らしの中で、事務の人格形成に大きく影響を及ぼしたのが、母のリネッタでした。

母親は、輪廻転生を信じていました。
今の自分が不幸なのは、周りの抑圧と嫉妬のせいだと信じていました。
その反動からか、ジムのことを幼いころから
「あなたは特別な人」
「神はあなたが世界を変える人になるのを望んでいる」
と、繰返し言い聞かせました。

幼くして強烈な使命感と自己愛を背負い込んだジム・ジョーンズは、自分の生きる道を当時コミュニティーの中心だった教会に求めます。
6歳の頃から町じゅうの教会を回り、聖職者がどのように人々の関心を集め、世間に影響力を持つのか・・・
説教の仕方や振る舞い・・・
そして、1952年21歳の時、インディアナポリスの地元の白人教会の見習い牧師に就任します。
この頃、信者獲得の方法を研究していたジム・ジョーンズは、ある教会の集会に参加し、衝撃を受けます。
それは、ペンテコステ派教会の集会で、聖霊体験を通じて信仰を深めるというものでした。
信仰に没頭する信者を見たジム・ジョーンズは、この手法を利用することを考えます。

1954年、23歳の若さで人民寺院設立。
人民寺院は、貧しい人の救済や人種差別の撤廃などを掲げ、黒人や貧民を引き付けていました。
設立当時の人民寺院は・・・
人種差別と貧困に苦しむ黒人たちの心をわしづかみにしたのは、ジム・ジョーンズが熱狂的に掲げる理想の社会でした。

”私は神の原理 すなわち神の社会主義を身をもって実現しています
 完全に平等な社会 人々が全ての物事を共有する社会
 貧富の差がなく、人種の区別がない社会の代表者なのです
 平等や正義を求めて闘う人あらば、そこに私は存在します
 そのような場所こそが、私の居場所なのです。”

インディアナポリスでは、人気者となりました。
白人の牧師なのに、他民族の共生生活やマイノリティーの社会問題を取り上げ、熱く語りました。
これまでそんな話をする牧師は、見たことも聞いたこともありませんでした。
ジム・ジョーンズは、理想を語るだけでなく、自ら実践しました。
貧しい人々やホースレスに無料で食事を提供・・・スープ&キッチン
他にも、悩み事相談、衣服の配布など、社会奉仕の輪を広げ、知名度を上げていきます。
そして、さらに多くの信者を集めることにも熱心でした。
そのために彼がやったとこは・・・
足腰の悪い人に暗示をかけて、歩かせる奇跡に成功。
これは信仰治療・・・大衆の面前で病気を治し(ちなみにこの女性はサクラと判明)、この奇跡に多くの人々が押し寄せ、教団の規模は拡大していきます。

”私は奇跡を起こすことができる”
”私は病気を癒し、癌を治すことができる”
”私は太陽の輝きを止めることができる!!”
”私は雨を降らせることができる!”
”そう、何でもできるのです”
”平等や正義を求め戦うあなた
 そんなあなたのそばに私はいます”

世の中とうまくいかず、苦しんでいる人にとっては心動かされるセリフです。
その一方で、ジム・ジョーンズは信者獲得のために怪しい治療もしていました。
彼は何をやろうとしていたのでしょうか?

カルトとは、ラテン語で”儀礼””神々の崇拝”という意味です。
しかし、この事件が起きて、否定的な意味合いが加わってしまいました。
破壊的カルトと位置付けます。
こっそりと人権侵害をする集団・・・
破壊的カルトは、集団優先・私生活の蜂起・批判の封鎖・絶対服従という特徴を持っています。
1950年代~70年代にかけて、アメリカは価値観が大いに揺らいだ時代でした。
その中で、ビジョンを掲げる人がたくさんいて、ジム・ジョーンズもその中のひとりでした。
病気、空白感、人間関係・・・悩みを相談する相手もいない・・・
相談しても「みんなそんなもの」「我慢しなさい」といわれてしまう。。。
そこに、教祖カリスマが、
「あなたの悩みはわかりますよ」
「こういうことを求めているんですね」
という事で、魅力的になるのです。
「信じる信じない」は、自分や周りが体験したことだけしかない・・・それを与えられてしまうと信じてしまうのです。

マーチン・ルーサー・キング・・・
1960年、公民権運動が盛んになる一方で、それを阻止しようとする白人との対立が深まった時代・・・ジム・ジョーンズは、1961年、30歳でインディアナポリスが選出する人権委員会委員長に就任。
人権委員会は、言論の自由、暴力の禁止などを啓蒙する民間組織で、ジム・ジョーンズは、白人専用の店や映画館などの施設を、国民に開放するなど強引に改革を進めました。
しかし、地位と名声を手に入れる一方で、彼の行動に異変が・・・。

人種差別が根強い中での急激な改革・・・
マスコミを使って自分の成果を過剰にアピールする手法などが、保守的な白人の反感を買い、ジム・ジョーンズのストレスとなっていました。
やがて、ジム・ジョーンズや人民寺院、教団の周りで嫌がらせが頻発するようになります。
深夜に鳴り響く無言電話、自宅の窓ガラスが割られることも・・・
ところが、ジム・ジョーンズは気が付いてしまいました。
そのガラスの破片は家の外側に飛び散っていたのです。
ジム・ジョーンズの不正行為・・・
ジム・ジョーンズや教団への攻撃は、ジム・ジョーンズの作り話だったのです。
自分自身で恐怖を作り上げ、信者に訴えていました。
被害妄想になっていたのです。
自作自演や、彼の指示による信者たちによる仕業・・・

”核の地獄によって、アルマゲドンが起きるだろう
 私たちはそれに備えなければならない
 独裁者が支配した時のことを考え、他の場所へ移動するみゅんびもしておかなければならない”

東西冷戦によって、核戦争の危機が恐れられていた当時、ジム・ジョーンズは、核戦争の恐怖まで利用しようとしました。
彼は、信者をコントロールするのに、”恐怖”が一役買っていることを知っていました。
彼は、「外界には巨大な悪の世界がある」と、信者に思いこませたかったのです。
ジム・ジョーンズは、あらゆる恐怖を利用し、自分達を脅かす敵は外にいるとし、「君たちを守れるのは教団だけ」だと、信者たちを追い込んでいきます。

そしてその決め手が・・・1965年教団の移設でした。
インディアナから3700キロカリフォルニア州に、140人ほどの信者を引き連れて向かいます。
彼等の移住先となったのが、レッドウッドバレー・・・ブドウ畑が一面に広がる農村地帯でした。
移住に当たり、ジム・ジョーンズは、信者たちに全財産を寄進させます。
家を売り払い、仕事も辞めさせ、人間関係まで断ち切らせました。
ここでの共同生活を強いたのは・・・そこには教祖ジムの野望が・・・!!
移住によって、教団の結束力は高まります。
彼等には家族のような強い絆が・・・!!
しかし、それは、ジムに忠誠を誓わせ、意のままにコントロールしようとするジム・ジョーンズに都合のいい偽りの家族でした。
教祖になる人の共通点は、ナルシストで自己愛が強く、自己顕示が強い・・・
他人は自分の道具のように平気でウソをついて操ることが許されると思っています。
周りから攻撃をされると自尊心が傷つき、それが嫌。
「崇拝されている自分」を感じたい・・・!!
そしてメンバーを逃がさないために、恐怖を与える!!

選ばれた少数派・・・そこに誇りを持つ人々は、自分たちのグループに属さない人を排除しようとします。
自分達は真理を知っている・・・真理に近い・・・!!
よりよい人生を歩んで、将来は”不老不死”
辛くても、そこにいることが大事で、抜け出ることが敗北なのです。
自分達こそが救われる・・・だからがんばる・・・!!
外部の人が、ヤジ、バッシングをしようと聞き入れる必要はない・・・!!
という気持ちがあるので、いくら話をしてもダメなのです。

1972年、41歳の時、組織拡大のため、人民寺院の拠点を大都市に移します。
サンフランシスコ・フィルモア地区です。
黒人たちの信者を獲得しながら、ジム・ジョーンズは新たな戦略を立てていました。

”社会を変えようと願う白人学生の心を掴む”こと。

当時は、ベトナム戦争反対をきっかけに、社会運動が盛んな時代でした。
ジム・ジョーンズは、アメリカ社会から脱出し、精神的自由を得ようとする若者に狙いを定めたのです。

人民寺院は、教団運営を教祖の側近たちによる合議制が表向き・・・民主的に進めているようでしたが、実際はジム・ジョーンズの独裁でした。
側近たちは、彼に弱みを握られた人たちで、主にセックスパートナーで、主にジムの汚い仕事を任されていました。極秘の仕事です。
女性たちが任された汚い仕事・・・その一つは、真夜中のゴミ漁り・・・信者になりそうな家のゴミ箱をあさって、個人情報を集め、礼拝の時に使います。
おもむろに名前を呼び・・・あらかじめ得た情報で、悩みや病気を言い当て、奇跡の能力と見せかけて勧誘する・・・
しかし、この詐欺まがいの事実を知っても、側近たちは止めさせようとはしませんでした。
彼のユートピア建設という革命的ビジョンに共感し、社会を変えると興奮していたからです。
彼の発言に疑問を感じても、自分が間違っていると言い聞かせていました。
ジム・ジョーンズが、自分に疑問を抱いている信者がいないか、側近たちに監視させました。
見つかれば、信者は徹底的に自己批判させされました。
自己批判は、人間浄化ともいわれ、集会など、多くの信者の前で行われました。

人間浄化といわれるつるし上げは、巧妙な計算のもとに行われていました。
友人、親、兄弟から批判させ、最後は集団でなじる・・・家族の絆を断ち切り、孤立化させるのです。
救いが得られるのは教祖だけ・・・。

人間浄化は、見ている者も恐怖で縛りつけます。

理想社会を目指す教団の恐怖の実体は、秘密として守られ続けるはずでした。
重要な幹部が逃亡・・・教団の弁護士の妻で、サンフランシスコ寺院の管理を担当する者です。
さらに、ジム・ジョーンズが最も恐れていた事態が・・・地元の有力紙・サンフランシスコクロニクルの記者が、ジム・ジョーンズの異様さに気付き、脱会した信者を調べ始めたのです。
ジム・ジョーンズの恐怖の支配に亀裂が入ろうとしていました。

家を売り、仕事を捨て、ジム・ジョーンズについてきた人たち・・・もう後戻りはできません。
その先にあると信じたのは、輝かしい未来に満ちた楽園・・・
そこで待っていたのは破滅でした。

1977年8月1日、遂に人民寺院の告発記事が出ます。
ジム・ジョーンズの本当の姿が暴かれたのです。

”敵が人民寺院を陥れようとしている”

ジム・ジョーンズは恐怖で煽り立てます。
告発記事が掲載されると、1000人もの信者がカリフォルニアから姿を消しました。
その先は、南米の国・・・ガイアナ・・・。
ジム・ジョーンズは、密かにジャングルの中に巨大な街を築き上げていました。
ジョーンズタウンと名付けられた街には、学校や病院も完備されていました。
信者は財産のすべてを教団に譲り渡し、衣食住のすべてを教団が面倒を見る仕組みです。
信者の子どもは、人民寺院の子として育て、18歳未満の子供は300人近く暮らしていました。

一方アメリカでは、家族を取り戻そうと被害者家族の会が結成されました。
下院議員が現地調査に乗り出すことに・・・!!
アメリカ政府の動向がジム・ジョーンズに伝わると、彼の被害妄想は悪化していきます。
不安が増すと、1日中拡声器で信者に恐怖を訴え続けます。

1878年11月14日、調査団はジョーンズタウンに向かいます。
ライアン下院議員に同行したのは被害者の会メンバー14人、報道関係者9人、視察期間は、11月17日、18日のみ。
11月17日、ジョーンズタウンに入ります。
カメラを向けた信者たちのすべてが、ジョーンズタウンを褒め称えます。
この日の夜、歓迎祝賀会が開催されます。
笑顔と歓声・・・その裏で、ジョーンズタウンのバランスが崩れ始めていました。
11月18日、視察2日目・・・取材班は、ジム・ジョーンズにインタビューする機会を得ていました。
彼等は独自に入手した情報をぶつけて暴こうとします。

恐怖について・・・
「昨晩、一人の信者がこのメモを私に託してきました」
そこには・・・「助け出してほしいと」名前入りの信者の手紙でした。
取材後、さらに2家族13人が、ジョーンズタウンから出たいと願い出ます。
ジム・ジョーンズが理想と恐怖でしばりつけたほころびが次第に大きくなっていきます。

差別や格差のない社会を夢見て、全てを捨てジム・ジョーンズについてきた信者たち・・・。
しかし、たどり着いた先は、教祖と教団による恐怖と抑圧・・・こんなはずではなかった・・・本当に他の道は選べなかったのか・・・??
調査団が急遽チャーターした飛行機は2機・・・空港に着くと、まず信者たちを乗せようとしました。
その時・・・滑走路に多くの人を乗せた不審なトラクターが・・・!!
11月18日午後5時・・・人民寺院信者の襲撃により、ライアン議員と報道関係者たち5人が死亡、5人が重軽傷を負いました。
その直後、ジョーンズタウンでは、ジム・ジョーンズの最後の説教が始まろうとしていました。

”下院議員はなくなりました。
 裏切り者も死んでいます。
 今日、起こったことから私たちはもう逃れることはできません。
 私たちはとても危険な状況に追い込まれてしまいました。
 平和に暮らすことができないのなら、平和のうちに死を選びましょう。”

説教の最中、側近たちは集団自殺のためのシアン化合物の入ったジュースを用意していました。
教祖の示した死に抵抗したのは、女性一人でした。

「自ら死を選ぶのは敗北です
 最期まで戦うべきです
 ここにいる赤ちゃんを見てください
 みんな生きる権利があります」

「そう思うよ だが、赤ん坊にも平和に逝くという権利もあるのを忘れてはいけない」

「平和な暮らしを求めてここに来たのです
 ロシアに亡命する選択肢はもうないんですか?」

「なに?わかった すぐロシアに電話してやろう
 ほかに案はあるか?」

シアン化合物入りジュースは、幼い子供から順に飲まされ・・・ガイアナ人民寺院事件・・・死者918人(18歳未満の子ども304人)
集団自殺を免れた信者は87人

教祖の実子スティーブン・ジョーンズは、バスケットの試合で他の町に行っていたために生き延びました。
事件後、教祖の子として他の道を選べなかったのか、スティーブンは長い間悩み続けました。

マインドコントロールをされないために・・・誰にも依存することなく、自分で考え続けることが大切なのです。

サンフランシスコの小高い丘に、ジョーンズタウンで亡くなった人たちのメモリアルが・・・。
身元が確認できなかった409遺体がここに埋葬されました。
ほとんどが子供達です。
生き延びた者たちは、長い年月、自分が生き延びた意味に悩みつつ・・・2018年、彼らが完成させた墓碑銘には、ガイアナで亡くなった全ての人の名前が刻まれています。
反対意見もあったが、ジム・ジョーンズの名前も・・・!!

本当に他の道はなかったのか・・・??
深い後悔と自責の念を抱え、元信者たちは毎年11月18日、ここで祈りを捧げるのです。

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ロシア発、世界最大のミステリー・・・ディアトロフ峠事件・・・
今から60年前、9人の若者が、冬山で一夜にして全員死亡・・・
マイナス30度の雪の中、遺体の多くは薄着、異常な骨折、顔の損壊・・・放射線の検出・・・
”死の山”で何が起こったのか・・・??
噂の説はなんと75!!どうして噂は拡大したのか・・・??

1980年代後半、世界的激動の時代でした。
ソビエト連邦のゴルバチョフ書記長は東西冷戦を終結させ、体制の維持が困難になったソビエト連邦は崩壊・・・
混乱の中、封印されていた遭難事件の詳細が、奇妙な噂となって西側に伝わりました。

1959年冬・・・ソビエト連邦・・・
現場は、国の中央部・・・ウラル山脈北東部・・・スヴェルドロフスク州
一月下旬、9人の若者が22日間の予定で冬山トレッキングを行っていました。
彼等は地元・ウラル工科大学の学生やOBでした。
男性7人、女性2人・・・全員が登山や長距離スキーの熟練者でした。
中でもリーダーのイーゴリ・ディアトロフ(23歳)は、経験豊富な雪山登山のエキスパートでした。
隊員からの信頼も厚く、そのディアトロフには恋心を抱く女性が・・・ジナイダ・コルモゴロワ(22歳)・・・ジーナ・・・経験豊富なハイカーで、社交的で誰にでも優しい女性でした。
グループ内には、ジーナに恋心を抱くものも何人もいました。
そしてリュドミラ・ドゥビニナ(20歳)・・・リューダ・・・最年少ながら、タフで活発な性格、カメラが趣味で、残された隊員たちの写真の多くは、リューダが取ったものでした。
他のみんなも、ディアトロフが特に信頼を寄せるメンバーでした。
そんなディアトロフ隊が目指したのが、ウラル山脈北部、標高1234mのオトルテン山・・・これまでルートが作られていない地域を進む過酷なコースでした。
彼等は、歌ったり踊ったり・・・仲良くオトルテン山を目指していました。

ところが・・・出発から10日目・・・2月1日。
悪天候・・・風速15~20mの強風・・・気温マイナス25~30度の極寒!!
薄暗い靄の中を、時速1.5キロで進みます。
目的のオトルテン山まで残り10キロ・・・
しかし、ここで日没・・・午後5時ごろテントを設営し、夜を明かすことに・・・。
雪の斜面を掘る一方、テントを張るために整地します。
しかし、この写真が彼らの最後の写真となるのです。

それから2週間・・・2月16日。
下山予定日から3日たってもウラル工科大学に一行からの連絡はなかったのです。
彼等が通う大学には、心配する家族からの電話がひっきりなしにかかります。
2月20日、地元の検察に捜査本部が設置。
大規模な捜索活動が始まりました。
そして・・・2月26日、捜索隊がテントを発見。
その場所は、目的地オトルテン山の10キロ南のホラート・シャフイル山の斜面・・・。
死の山と先住民たちが呼ぶ地域でした。
テントは雪に押しつぶされていました。
しかし、支柱のポールはロープで頑丈に縛られたまま立っていました。
雪崩に流された形跡はありません。
テントの中に人影はなく、靴や荷物は置いたまま・・・
テントは内側から数カ所が切り裂かれていました。
非常事態・・・??
地元の検察当局は、刑事事件として捜査を本格化!!
2月27日。。。捜索隊は、テントの近くで複数の足跡を発見!!
足跡をたどり、斜面を下った先に・・・リーダーのディアトロフ、女性のジーナ、男性隊員3人・・・相次いで死体が見つかりました。
その姿は、不可解なもの・・・
雪の中、薄着で靴も履かず・・・中には、下着姿ではだしの者も・・・周辺には脱ぎ捨てられた衣服が・・・!!
マイナス30度の寒さの中、一体なぜ・・・??
5人はテントから1.5キロ離れた下り坂で亡くなっていました。
非常事態でテントを出たとしても、靴もなしにどうしてこれだけも離れたのか・・・??
5人の体には、打撲や擦り傷以外に傷はなく、死因は低体温症による死・・・凍死と判定されました。
残りの4人は見つけられないまま捜査は難航・・・。
5人の遺体の謎も解けないまま2か月が過ぎた頃・・・溶け始めた雪の下からようやく4人の遺体が発見されました。
5人の遺体から、さらに75m離れたところでした。
靴を履いていないという状況は前の5人と同じでしたが、遺体は大きく異なっていました。
ある者は頭部が陥没損傷、ある者は肋骨5本を骨折し折れた骨が内臓に突き刺さり大量出血・・・
特に遺体の損傷が激しかったのがリューダ・・・肋骨10本が折れたうえ、心臓にその骨が突き刺さりそれが致命傷となっていました。
しかも、顔からは眼球と舌が失われ・・・検視官は彼等の死は暴力的な外傷による死としました。
車にひかれたような強い外力の影響としたのです。
その上想定外の謎が・・・リューダたち二人の衣服からは、異常な量の放射線が検出されました。
9人の内5人は低体温症による凍死、他の4人は強い衝撃による死亡・・・その上、放射線が検出されました。
2月1日の夜・・・いったい何が起きたのでしょうか?

事件から60年、この不可解な事件に対して75のもの仮説が出されました。
獣害説・・・ウラル山脈にいる熊や狼・・・獰猛な野生動物に襲われたのか??
マンシ族襲撃説・・・マンシ族は、この地域で狩りをして暮らす先住民族・・・聖地としてあがめる山に勝手に登ったことに怒りを買ったのではないか?
スパイ暗殺説・・・隊員の中に外国のスパイがおり、その人物をソビエト当局が始末する際に、全員巻き込まれたのではないか?
恋愛沙汰の人間関係のもつれ説
雪男”メンク”の襲撃説・・・テントから見つかったカメラには・・・雪深い中、こちらを見ている影が・・・!!
こうした襲撃や殺人説は、遺体の傷から動物の爪や鋭利な刃物による外傷は見つかっておらず、雪男メンクの姿は隊員かも・・・??
最後の写真には暗闇に光る大きな光の玉・・・いったい何・・・??
事件当時、ウラル山脈一帯には、謎の光球の目撃がいくつも発生!!
目撃者の中には、捜索隊の警察官や軍の関係者もいました。
なので、この隊は、ミサイル実験のトラブルに巻き込まれた説や、UFO襲撃説まで登場・・・
仮説は増え続け、事件は世界最大のミステリーとまで言われるようになりました。

当時、ウラル地方周辺は、Mトライアングル・・・”ロシア版バミューダ・トライアングル”と呼ばれていました。
1980年代からUFOの目撃情報などが多数報告されています。
モノは消える・・・UFOは飛ぶ・・・UMA(未確認動物)は歩いている・・・オーパーツ、超古代文明の痕跡・・・怪奇現象のテーマパークでした。

この事件はソ連時代、タブーとして扱われており、公式見解以後、誰も触れられない状況にありました。
60年経って当局が取り組む・・・??
9人の死がセンセーショナルに受け止められ、60年経った今も、議論がなされている特異性があります。

事件原因の説・・・75・・・。

1959年、事件が起きた直後から、知能の検察局が現場の状況や原因を操作し、まとめた捜査報告書には何が書かれ、何が書かれていないのでしょうか?

ディアトロフ峠事件の報告書・・・表紙には機密文書・・・極秘の文字が・・・。
1959年、事件の捜査直後のこの文書には、現場に即した情報がまとめられています。
その物証、ディアトロフたちの家族や友人、学校関係者の証言、推測された事件原因が書かれていました。
ディアトロフたちの推定死亡時間は、最後の食事をとってから6~8時間後でした。
つまり、2月1日または2日に亡くなったことは明らかです。
その時、彼らに何が起こったのか・・・??
捜査報告書には・・・??

どうして9人はテントを離れたのか?
テントが雪崩で流されていないことから他の自然現象を考えてみると・・・
強風説・・・
ある捜索隊員の記録には・・・”死因は自然現象しか考えられません。彼らは強風に飛ばされたんです。”とあります。
現場は捜査日も強い風が吹いており、これを原因だという人は他にもいました。
ディアトロフたちを襲った強風を想定すると・・・
夜・・・尋常ではない風音に怯える一行・・・テントが飛びそうになったので、慌ててテントを切り裂いて外に飛び出たところ、隊員の誰かが風で飛ばされてしまう・・・
助けようとする仲間も強風にあおられうまくいかない。
全員流されるように斜面を下るしかなかった・・・。
吹雪の中、薄着で靴も履かず、1.5キロの距離を・・・そして9人の内5人は寒さと風が原因で亡くなりました。
死因は低体温症でした。
しかし、下着姿ではだしで亡くなったゲオルギーの原因は推定されていません。
マイナス30度の寒さの中、その奇妙な姿はどうして起きたのでしょうか?
冬山の遭難事例を考えると・・・あり得ることです。薄着で体が冷えて低体温症になって、錯乱状態になり・・・矛盾脱衣をしてしまうのです。
体温が34度以下まで下がると、内臓の機能を維持する為に血液を集中させます。
すると、冷え切った体の中心が温かくなり、体温調節中枢が麻痺・・・暑いと錯覚して衣服を脱いでしまうのです。

一方、頭蓋骨、肋骨の骨折した遺体、目や舌が失われていた遺体は・・・??
1959年の報告書によると・・・彼らの死体はすべて水の中にありました。
死体は分解されており、水の流れがとても速く、さらに腐敗が進む可能性があります。
眼球は死体の死後変化・・・つまり、腐敗と分解によるものだというのです。
そして頭蓋骨の骨折は、頭部のけがは強い風によって倒れ、転倒した際に頭を石や氷などに激しく打った可能性があります。
さらに4人は、4~4.5mの雪の層の下から発見されました。
渓谷の崖の上から転落したことを示唆していました。
捜査を担当したものは、全ての死体に外傷や闘争の兆候はない、周囲に第三者の足跡は見つからなかったため、事件性を否定し、抗しがたい自然による不可抗力としたのです。

その一方、報告書には、自然災害では説明できない奇妙な現象も記録されています。
損傷が激しかった死体の衣服から放射線を検出・・・。
その放射線量は、一般的な放射線作業従事者の基準を超えるものでした。
これを報告書では、お福が大気中から落下した放射線粉塵で汚染されているか、放射性物質を取り扱う時に接触して汚染されると説明されています。
二人のうち一人は、原子力の研究者でしたが、もう一人は一般のウラル工科大学の学生でした。
汚染原因は記録されていません。

そして報告書には、自然災害とは無縁の謎の光球の記録も・・・!!
光球の目撃者の記録も多数残されています。
「午前6時40分頃、南側に点滅する明るく白い光のボールを見ました。」
「球は10分間見えた後、溶けるように北の空に消えました。」
しかし、その正体については報告書には記されていません。

”捜査書を極秘扱いとして機密書庫に保管せよ”

捜査書は、一般の目に触れることなく、事件そのものも世間に知らされず、”9人の死”の事実は闇へ消えたのです。

北極圏は冷戦時代、アメリカとソ連が一番対峙するピークポイントで、非常に軍事的な意味の高い場所でした。
ノーバヤゼムリャは、頻繁に核実験やミサイル発射などが行われていました。
そして、冷戦時代、軍事機密は非常に重要なものでした。
人命に影響を及ぼしていても、政府が隠そうとするのは自然なものです。
そこには検察の忖度があったのかもしれません。

2019年2月、ロシア最高検察庁が再調査を発表します。
ところが、6月、ディアトロフの遺族たち・・・ディアトロフ財団が記者会見をし、検察庁の発表に反論します。
事件をめぐり・・・何が起こっているのでしょうか?
事件から60年を迎えた2月1日・・・ロシア連邦の最高検察省がディアトロフ峠事件に於いて再調査を発表しました。
そして、チームが編成され、既に現地調査を行っていることを明らかにしました。
”抗しがたい自然による不可抗力の詳細な調査”だといいます。
「犯罪行為は絶対にありえない 
 意図的な犯罪説を支持する証拠はひとつもありません」
あくまでも自然災害が原因・・・雪崩説、雪嵐説、暴風雪を考えるというのです。
しかし、60年前の報告書では、雪崩説は全く言及されていませんでした。
捜索隊が発見した時、地中のポールはきっちり紐で固定され、雪崩で流されていなかった・・・。
しかも、雪崩が起きやすい傾斜は30度以上といわれています。
ディアトロフたちがテントを設営した場所は、15度~20度でした。
雪崩は起きにくいはず・・・
近年ロシアでは、ディアトロフたち自身の過失で雪崩が起きたという説が・・・??
彼等は斜面を掘り起こして整地し、テントを設営しました。
しかし、これによってテントの上の斜面の雪が支えを失い、そこに崩れた雪が小さな雪崩を引き起こし、テントをおしつぶしたというのです。
現地の調査を行ったロシアの地質学者によると・・・
彼等がテントを設営した場所の先に、30度の斜面がありました。
そこに、新説が降り積もると、下の雪はその重みで圧縮されます。
何度も繰り返されると、重なった板状の雪の層ができます。
この層は、雪が降るたびに圧縮されて、重くなっていきます。
そうした雪の板の塊(雪崩)が、テントを押しつぶしたのです。

そして近年、ロシア以外の研究者の検証も行われ、山の地形などから強風ではない、特殊な気流・・・渦ができたとする説が・・・。
彼等はテントを山の風下に設営しました。そして、渦に巻き込まれたのです。
この上なく最悪の場所だったのです。
テントが設置されたのは、左右が対称の半円形の山の風下・・・
強風がこの山に当たると、風邪は左右に分かれ、山の側面に細かい渦を発生させる・・・これが山を越えたところで、一つの大きな渦に成長し、強力な渦がテント周りを通ります。
眠っている間に2つの渦が近づくことにより、地面の振動を感じ・・・さらに非常に大きな轟音が・・・それが長時間続くと、人々は圧迫感や恐怖心を感じます。
こうした異常事態に隊員たちはテントを飛び出したのでは・・・??というのです。

再調査で解明されるはずでしたが・・・
2019年6月26日、ディアトロフ財団記者会見で・・・

「ディアトロフたちに登山経験がなく、自分達で雪崩を起こしてしまったと書いてある
 こうやって国民をだまそうとする検察のやり方、どうなんですか??
 僕たちは、毎年雪を調べている!!
 データはたくさん持っています。
 雪崩はあり得ません。」

会見を開いたのは、1990年に創立したディアトロフ財団で、事件の真相究明を目的に活動しています。
彼等は旧ソビエト体制は、事実の隠蔽や陰謀を仕組んだと疑い続けているのです。

情報隠蔽を疑う理由の証拠は、1959年の捜査報告書の表紙です。

そこに・・・捜査報告書の事件番号が未記入なのです。
事件ごとに番号が決められ、それに基づいてすべての記録が整理保管されているはずなのに・・・。
事件番号もない、捜査資料番号も不正確・・・
不都合な文章を抜き、捏造文書を加えても、検証不可能・・・!!

さらに財団には、日付についても矛盾しているといいます。
1959年2月、学生捜索隊として捜索活動に参加したテントの第一発見者は・・・
「テントは2月26日に、27日に遺体が発見された
 テントは私たち捜索隊が発見したという事になっている
 当時、どういう訳か、私たちは案内人によってテントのすぐ近くに連れていかれた
 私たちが乗ったヘリコプターは、まだ見つかっていないテントの近くに行けたのか・・・??
 すでに誰かに発見されていたのです。

 報告書に書かれている捜査開始の日は2月6日。
 なぜ2月6日に刑事事件の捜査が始まっているのか。
 志望者が出ていることを知っていたからでしょう。

 これは仕組まれていたこと
 すべてはシナリオだったんです
 死亡原因を自然現象によるものとするための工作なんです」

報告書では、全ての捜査開始日の日付が2月6日になっています。
ディアトロフたちが遭難したのが2月1日~2日。
家族達が大学に連絡したのが2月16日。
報告書の日付は2月6日・・・。
はるか以前から検察が動いていたことになります。

自然現象説で解決を図ろうとするロシア検察庁・・・事件当時の当局の疑惑を訴える財団・・・事件は混迷を深めます。

ソ連時代は環境汚染があって、閉鎖都市もあり、核実験などが行われていました。
人的被害もたくさんありました。
ソ連が崩壊し、被害を訴える声が起きます。
しかし、ほとんどが操作されない状況が続いています。
しかし、あえて再調査とは・・・??

ソ連時代、文書はきちんと作られ、全部きちんと保存しておくというのがソ連政府の性格です。
文書がいい加減に作られてしまうことに非常に違和感を感じられます。

今なお、事件の解明を目指すディアトロフ財団・・・
どうして軍隊用の水筒がディアトロフ財団の遺品に紛れていたのか?
この水筒にはアルコールが入っていましたが、ディアトロフたちはアルコール入りの水筒を持って行ってはいませんでした。
ディアトロフ財団の創設者は、遺族でも関係者でもありません。
しかし、子供のころ、偶然遭難者たちの葬儀を目撃・・・大勢の若者たちの死さえ隠され続けてきたことに理不尽さを感じていました。

「この世で最も価値のあるものは真実です。
 もしそれを知らなければ、私たちは何者かに頼りきり、騙されながら生きていくことになります。
 健全な社会の正式な一員とは言えません。
 政府や捜査機関が何かを隠したり、公表しなかったりする場合、真実は何よりも尊いのです。
 それが活動を続ける理由です。」

1959年若者9人が遭難し死亡・・・どうしてこのことが世界最大のミステリーに・・・??
そこには、事件から60年の間に起きた様々な社会情勢が関係しています。
事件が起きた1950年~60年初頭、東西冷戦の真っただ中、ソビエトでは厳しい規制によって、外国からの情報はもちろん、国内でも報道さえ統制されていました。
しかし、1985年に誕生したゴルバチョフ政権は”グラスノスチ”・・・情報公開をし始めました。
多くの規制撤廃・・・言論、思想、出版、報道が自由となりました。
タブーとされた情報も表に現れてきます。
封印されたディアトロフ事件の資料が公開されたのも1990年代・・・そうした情報統制の反動の時代でした。
その結果、ソビエトで出版される場合、極秘ミサイル実験の巻き添え説や、当局の陰謀が語られるようになり、インターネット時代になり欧米各国に広まります。

ソビエトで長年封印された怪奇事件の登場に、とくにアメリカがオカルトとして特集。
遂には雪崩説から陰謀説、超常現象まで、事件の疑惑をありったけ放り込んだアメリカ、イギリス、ロシアの映画まで登場!!
こうした流れの中、事件の原因は75にまで膨れ上がってロシアに逆輸入!!
事件そのものを知らないロシアの人の間でも、様々な憶測を呼ぶミステリーとして広がり、ドキュメンタリー番組が製作される事態に・・・。

明るく、いつもと変わらず出かけたまま帰ってこなかった9人の若者たち・・・
あの夜、何があったのか、その真相は今も雪山の中に隠されたまま・・・。

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100年にわたり、人類の誰も読むことができなかった最強の未解読文書・・・ヴォイニッチ手稿・・・。

voinitti















世界中に存在する未解読文書・・・
2017年恐怖の未解読文書のニュースが・・・。
その名は、「悪魔の手紙」です。
akuma


この手紙は、1676年シチリア島で発見された一枚です。
修道女に悪魔が乗り移り、勝手に手を動かして書いたものだといわれています。
アルファベットでもなく・・・このわずか1ページの文書が、300年未解読です。

2017年9月、イタリアの研究者らが暗号解読ソフトを使って解析した結果、この文字はラテン語や古代ギリシャ語、ルーン文字、アラビア語がつかわれていることが判明・・・。

しかし、この最新技術を使っても、キリスト教批判らしき内容はうかがえるが、全文を解読できたわけではありません。

このような未解読文書の中でも最大の謎・・・
世界中の研究者が挑み続けている謎があります。
ヴォイニッチ手稿です。
ヴォイニッチ手稿が発見されたのは、1912年イタリアです。
古物商ウィルフリド・ヴォイニッチが発見したことからヴォイニッチ手稿と呼ばれています。
表紙にタイトルはなく、作者も不明・・・使われている用紙の分析結果から、15~16世紀ごろに書かれたものとされています。
およそ230ページに及ぶ手書きの本で、目を引くのは極彩色の挿絵!!
この挿絵は、実在が確認できないものばかりで正体は不明。

voinitti















そして文字は・・・アルファベット、アラビア数字に似ているが、地球上のどの言語にも該当せず、この内容は一切不明です。

だれが何の内容を、読めない文字で記録したのか???

様々な推測がなされています。
錬金術師が人類究極の英知を!?
宇宙人からのメッセージ??
イタズラ??
古代文明の遺産??
怪しげな噂は広がり続け、留まることを知りません。
謎だらけのヴォイニッチ手稿・・・そこに描かれている挿絵から、6つの章に分けられていると考えられています。

植物の章・・・正体不明の植物が数多く書かれています。
このうちのどの一つも地球に存在する植物として確認できていません。
天文の章・・・宇宙の星々の姿を描いたと思しき図が書かれて・・・その構造は実際のものとは大違いです。
それは、まるで生き物のよう・・・。
生物の章・・・妊婦のような女性たちと奇妙な管が書かれています。
女性たちは何をしているのか?
緑の液体と管は一体何なのか?
十二宮図の章、薬草の章、レシピの章で、合計六章とされています。

詠むことを拒む緻密な文字・・・そして、徹底して当てはめることをも拒む謎の挿絵・・・。
この解読の試みは世界中で行われています。
その研究者たちの多くが予想したのが暗号説です。
ヴォイニッチ手稿は、中世の言語を暗号のルールに変換したものでは??というのです。
そもそも暗号とは何か?
シーザー暗号など一定の法則で別の文字に入れ替える換字式暗号方式・・・

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第二次世界大戦後、この方式で解読を試みたのが、アメリカの弁護士ジョセフ・マーティン・フィーリーです。
フィーリーはヴォイニッチ手稿のコピーを入手し、解読に挑みます。
フィーリーが解読の手掛かりにしたのが緑色の液体に浸かる女たちの絵です。

絵を元に、文字の内容は女性に関するものと推測。
そしてページ上の方にある特徴のある単語の解読を行います。
その文字を手掛かりに、アルファベットに置き換えてみると・・・
結果は無残なものでした。
意味のある文章が成り立たなかったのです。



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2017年9月、権威ある文学誌が「ヴォイニッチ手稿の解読に成功」との記事を掲載し、話題となりました。
話題のイギリスの歴史学者ニコラス・ギブズは・・・
この挿絵と、中世の文献の類似性に解読の手掛かりを見出します。

絵が似ていれば、その内容も似ているのでは??


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さらに、ヴォイニッチ手稿の「一文字ずつ」は、ラテン語の略字ではないか?と推測し、解読していきます。しかし、ギブズが訳したのはわずか2行で、他の場所にこの方法は当てはまらないと批判されています。

学者たちは失敗続き・・・







そこで出てきたのがデタラメ説です。
解読できない理由は、そもそも言語としての法則がないから??
デタラメな文字の羅列だから・・・!?

単語の分布を調べてデタラメか意味があるのか判別すると・・・??
ヴォイニッチ手稿は意味のないデタラメではない可能性もあります。
暗号でもデタラメでもないとすれば、その文章は一体何なのでしょうか?

独自の言語で書かれた本??
既存の他の言語との対応関係が見られないので”人工言語”で書かれたものなのでは?
人工言語とは、自然言語とは異なり、人為的に作られた言葉のことです。
母国語が異なる人たちの意思伝達のために造られたエスペラント語。
コンピューターを動かすためのプログラム言語。
などです。
ヴォイニッチ手稿が人工言語だとすれば、人工物がどうして人に解読できないのでしょうか?
言語学者によると、ヴォイニッチ手稿には文章解読の重要な手掛かりが見つからないといいます。
言語の骨格が見えない・・・のです。
言語の基本構造を判断する手掛かりが、ヴォイニッチ手稿からは見つからないのです。
しかし、どうして230ページ分もあっても言語の基本構造の手掛かりが見つからないのか・・・??
それは、圧倒的に量が少ないからです。

もしヴォイニッチ手稿と同じ手法で書かれた他の書籍が発見されれば・・・挿絵が理解できれば・・・文章を解読する手掛かりとなるかもしれません。

もう一つの謎、230ページの文章を、だれが何のためにかいたのでしょうか?
特権階級の人々が多額の費用をかけて作ったのでは・・・??
神聖ローマ皇帝ルドルフ2世が、600ダカット(数千万円)で写本を購入しています。
この写本がヴォイニッチ手稿ではないかといわれています。
写本を作って売って、ある程度の狭いサークルで流通させる・・・
かなりの財力・社会的地位がなければできないことです。

300年以上も前に作られたといわれ、21世紀の今なお未解読のヴォイニッチ手稿・・・作者の目的は一体何だったのでしょうか?
これを読み解ける日は来るのでしょうか?

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