日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: アナザーストーリーズ

今から半世紀前・・・人類は、地球を飛び出し、未知の世界に乗り出しました。
宇宙へ~~!!
しかし、その挑戦は、あまりにも危険なミッションでした。

まず、誰もが思い浮かべるのは、アポロ11号の月面着陸です。
1969年7月20日・・・人類は、初めて月に降り立ちました。
全世界に生中継された船長アームストロングの姿・・・そして、あまりに有名なあの言葉・・・

「一人の人間にとっては小さな一歩だが
           人類にとっては大きな飛躍だ!!」

しかし、着陸があと十数秒遅れていたら、偉業は大惨事になっていたかもしれません。
謎のエラー音が鳴り響き、想定外のトラブルが次々と発生!!
地球の管制室がパニックになる緊急事態!!
一体、何が起きたのか・・・??

アメリカ・ニューヨーク・・・
アポロ11号月面着陸50周年、イベント会場にいた男・・・チャールズ・デューク・・・
50年前チャールズは、管制室がアポロ11号に迫る危機を肌で感じていました。
一瞬の判断が命取りになる中、どうやって結面着陸を成功させたのでしょうか??
1969年7月16日、アポロ11号打ち上げ!!
世紀のミッションは幕を開けました。
乗組員は3人の宇宙飛行士・・・船長ニール・アームストロング、バズ・オルドリン、マイケル・コリンズ。
人類を月へ送る・・・この壮大な計画は、1961年に始まりました。
NASAは、宇宙飛行士の候補として、空軍や海軍からエリート中のエリートを選抜しました。
チャールズ・デュークも宇宙飛行士・・・アームストロングの4年後輩にあたります。
宇宙飛行士は、宇宙に出る前、1年間管制室で経験を積む必要があり、チャールズは交信担当になっていました。
現場の指揮権は船長のアームストロングにあり、ヒューストンの管制センターは宇宙飛行士に適切な指示と情報を与える・・・
しかし、宇宙船に情報を伝える役は、ただ一人・・・交信担当の宇宙飛行士でした。
同じ訓練を受け、同じ知識を持つ者にしかできない仕事・・・チャールズがこの重要な役割に抜擢されたのは、アームストロングが深く関係していました。
アームストロングから直々に頼まれたのです。

「君は、10号で素晴らしい仕事をした
 是非、11号でも担当してほしい!!」と。

月面着陸の最終リハーサルとして、1969年5月18日にアポロ10号は打ち上げられました。
着陸船のテストの際、トラブルが発生していました。
宇宙飛行士の操作ミスで、機体が激しく回転!!
この時、チャールズは地球から素早く、的確な対応策を伝えました。

「期待が大きく回転しているが、手動で姿勢をコントロールできる」byチャールズ

これを評価したアームストロングは、命を預ける相手としてチャールズを選びました。
チャールズもまた、アームストロングには絶大な信頼を持っていました。

地球を出て4日目、アポロ11号は月の軌道に入りました。
いよいよ着陸準備にかかります。
ついに迎えた運命の7月20日!!
着陸直前の緊迫した様子が、20018年に公開された交信記録に残されています。

「動力降下開始」byチャールズ

着陸船イーグルで月に降りるのは、アームストロングとオルドリン!!

月と地球との交信は、1.3秒の遅れが生じます。
もし、イーグルに何か起きた場合、すぐに指示を出さなければならない!!
チャールズは万一に備えます。

「我々のいる位置を確認してくれ」byアームストロング
「了解、正しい位置にいる、すべて順調だ」byチャールズ

開始から5分・・・冷静なアームストロングの声が突然変わりました。

「プログラムアラームだ!!」byアームストロング

イーグルではエラーのアラームが鳴り続けていました。

「1202、1202の意味を教えてくれ!!」byアームストロング

各部署が焦って一斉に知らせます。
そしてコンピューターの担当者が素早く反応しました。

「コンピューターのオーバーフローだが、二度と起こらなければ問題ない」

実はこのエラーは、オルドリンのある操作が招いたものでした。
月面と着陸船の位置関係を測定するレーダーだけを使う筈でしたが、司令船用のレーダーもオンにしていたため、情報が増えオーバーフローが起きたのです。

「問題ない、着陸はGOだ!!」byチャールズ

しかし、すぐに新しいトラブルが・・・!!
予定していた場所は、岩やクレーターで着陸不可能!!
とっさにアームストロングは操縦を手動に切り替え、別の目的地を探します。
しかし、なかなか着陸できません。
そして、最大の危機に直面します。
余計な燃料を使い、燃料切れになりそうでした。
あと60秒でイエローカード、30秒を切ったらレッドカードです。
予定よりも飛行距離が伸びた・・・
ギリギリしか積んでいない燃料は限界に・・・!!
非常事態にざわめきたつ管制室・・・!!
しかし、チャールズは・・・同じ宇宙飛行士として、この時アームストロングが何を考えているのか?同じ気持ちになって考えました。
同じ状況を作り出そうとしたのです。
そして、宇宙飛行士にではなく、管制室に向かって言いました。

「我々は静かにしていよう」byチャールズ

アームストロングならこの事態を乗り越えてくれる・・・彼にはそれだけの経験があると信じていました。

1968年5月6日、月着陸訓練・・・
アームストロングが乗る月着陸訓練機に吹き付けた強風・・・期待があおられ制御不能に!!
墜落直前、アームストロングは脱出!!
命を落としかねない事故でした。
それでもこの訓練が必要だと考えたアームストロングは、誰よりも長く直前まで訓練を続けていました。
ここから先は、アームストロングを信じて任せるしかない!!
チャールズの指示で静かになった管制室・・・
イーグルは予定されていた着陸地点を6キロも超えて飛び続けていました。
残された燃料はあとわずか・・・緊張が高まります。

「こちら”静かの基地”イーグルは着陸した」byアームストロング

残された燃料は、17秒分でした。

この後、いよいよアームストロングが月面に降り立つ・・・!!
世紀の瞬間が、全世界のテレビで生中継される!!
日本でも特別番組がスタートしていました。
しかし、ハプニングが・・・!!
世界中に放送され映像は、上下さかさまでした。
テレビカメラの位置に問題がありました。
取り付けられていたのは格納庫・・・
カメラはさかさまに設置されていました。
テレビ中継を担当したエド・トーキントン・・・カメラがどう取り付けられているのか正確な情報がわからないままの本番でした。
しかし、エドは、万が一に備えて中継地にボタンを押すだけで反転する装置を取り付けてもらっていました。
そのおかげで、すぐ映像は反転され正常の戻りました。
まさに、その数秒後!!

「月面に踏み出す
 一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ!!」byアームストロング

人類が一つとなって、未来への大きな一歩を踏み出した瞬間でした。
何億人もの人々が見守る中、月面着陸は大成功を果たしました。
互いを信じたチャールズとアームストロング、実は二人はある約束を交わしていました。

「着陸に成功したら、その場所を”静かの基地”と呼ぶよ
 秘密のコールサインだ」byアームストロング

このことを知っていたのは、3人の宇宙飛行士とチャールズだけでした。

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1961年4月12日、人類は初めて宇宙に飛び出し、地球を一周しました。
宇宙船の中にいるのはソビエトの宇宙飛行士ユーリ・ガガーリン。
当初宇宙開発は、アメリカよりもソビエトが先んじていました。

「地球は青かった」の言葉は、あまりにも有名です。
しかし、偉業達成後、ガガーリンはどうなったのでしょうか?
7年後・・・34歳の若さで他界・・・
突然の英雄の死に、様々な憶測がささやかれました。
英雄の栄光と知られざる苦悩とは・・・??

半世紀前、ソビエト社会主義共和国連邦と呼ばれる国がありました。
鉄のカーテンに閉ざされ情報もうかがえない謎の国!!
1961年4月12日、そのソビエトが突然世界初有人宇宙飛行!!

「地球が見える、なんて美しいんだ!!」

一夜にして、突如全世界に注目される英雄となったガガーリン。
しかし、この後、ガガーリンは奇妙なことを語っています。

「宇宙に飛んだ重圧よりも地上での重圧の方がつらい」byガガーリン

モスクワの北東に位置する星の街。
半世紀前、秘密基地で場所も公表されませんでした。
ガガーリンの友人ボリス・ボリノフは、ガガーリンと共に訓練をした宇宙飛行士です。
人類初の宇宙飛行士の候補生としてソビエト空軍が誇るエースパイロットが集められました。
しかし、当時宇宙に行くことは秘密・・・トップシークレットにされていました。
命がけであることは理解していました。
候補生たちを待っていたのは、味わったことのない過酷な訓練でした。
遠心加速器に乗せられました。
負荷は重力の12倍・・・12G !!血流すら重く感じるほどでした。
多くの脱落者が出る中、ガガーリンの存在は大きな励みになりました。

「ガガーリンは、どんなに苦しい訓練でもいつも笑顔でチームのムードメーカーでした
 笑い話をしたり、誰かをからかったりして大笑いしました
 弱音を吐いたときは、ガガーリンがそうやってみんなを鼓舞してくれました
 彼がいたから前向きになれた」byボリス

初めて宇宙船を見た時、ガガーリンは「中に入ってもいいですか?」とためらいなく乗り込んだといいます。
いつも笑顔で、茶目っ気タップリの明るい青年でした。
しかし、人類初の宇宙飛行は危険に満ちていました。
実験的に宇宙に送られた犬は、心拍に異常をきたすなど半数が死亡。
宇宙区間が生物に与える影響はいまだはっきりしませんでした。
さらに、ロケットにも問題が・・・
70名以上が死亡し、航空機事故と発表されましたが、しかし、それはロケットエンジンの爆発だったことが分かっています。

時は”米ソ冷戦”の真っただ中!!
ソビエトがその国力を証明する為にアメリカと競っていたのがロケット開発でした。
1957年10月4日世界初の人工衛星スプートニクを飛ばし、先んじたのはソビエト!!
しかし、アメリカもすぐに追いかけます。
1958年10月1日NASA設立!!
その競争は、どちらが先に宇宙に人類を送り込めるかで絞られつつありました。
みな、祖国の栄光のために、命がけで挑んでいました。
打ち上げの2日前、人類初の宇宙飛行士が選ばれる!!

「宇宙に行く最初の人物は、ユーリ・ガガーリン!!」

労働者階級の出身、そして小柄であることなどが決め手でした。

1961年4月12日、ボストーク1号発射!!
人類が初めて地球を見た瞬間でした。
2日後の4月14日、盛大なセレモニーが開催されました。
108分の飛行は、27歳の若者をソビエトの英雄にしました。
しかし、その瞬間から彼の人生は政治に翻弄され予想だにしなかった方向へと突き進んでいきました。

アンドレイ・ヴァヴィーロフは、外務省でガガーリンの通訳をしていました。
彼が見せてくれたまだ誰にも見せたことのないフィルムには・・・。
政府の要請で、インドを訪問した時の映像がありました。

「ガガーリンを一目見ようと、演説に50万人が駆けつけました
 インド人には、宇宙から帰って来た彼が、天から舞い降りた神様に見えたのかもしれない」byアンドレイ

ガガーリンの飛行は、社会主義国家の力を宣伝する格好の材料でした。
偉大な功績をアピールするため、ガガーリンは世界中に派遣されることになります。
世界中から英雄扱いされる自分を、ガガーリンはどう思っていたのでしょうか??

ガガーリンの姪・・・タマラ・フィラトワによると・・・
ガガーリンは英雄になりたかったわけではありませんでした。
自分よりも他人を第一に考える人でした。

「宇宙に飛んだ重圧よりも地上での重圧の方がつらい」
 
英雄という重圧に、ガガーリンは追いつめられていきます。

「居心地が悪いんです
 だって、みんなが僕をスーパーヒーローにしようとしているから
 人を理想化すべきじゃない
 病気になりそうです」byガガーリン

彼の唯一の希望は、もう一度宇宙飛行士として任務につくこと・・・。
しかし、その願いも、思わに形で奪われることに・・・。
初飛行から6年後、ガガーリンは次の打ち上げ機の予備のパイロットに選ばれます。
正パイロットは、親友のコマロフでした。
しかし、ソユーズの開発は難航・・・飛行直前にもかかわらず、改善すべき欠陥が、203にものぼる有様でした。
ガガーリンは、危険すぎると打ち上げ中止を訴えたが、受け入れられません。
その時、親友のコマロフは悲壮な覚悟を決めていました。
打ち上げ直前、コマロフにあった人物がこう証言しています。

コマロフの妻は「飛ばないで!!」と言っていました。
でも彼は、
「行かなければならない
 自分が断われば、ガガーリンが飛んでソ連の英雄が死ぬことになる」
苦し気に泣いていました。
打ち上げは、強行されました。
しかし、地球への帰還の途中、パラシュートが開かず宇宙船は地面に激突!!
1967年4月23日、コマロフ死去
親友が事故死した後、ガガーリンは政府から告げられています。

「君を宇宙に行かせることは二度とない」と。

親友の死に耐えていたガガーリン、宇宙に行く夢と親友を同時に失ってしまいました。
ガガーリンが、戦闘機の訓練中に事故を起こし、亡くなったのはその1年後のこと・・・34歳でした。
気球を避けようとしたとも他の戦闘機を避けようとしたともいわれていますが、今なお、真相は明らかになっていません。

宇宙飛行士の夢を絶たれたガガーリンは、エンジニアとして宇宙開発に携わるべく勉強していました。
ガガーリンは、新たな目標に向かって夢や希望にあふれていました。
ガガーリンの死から1年後、アポロ11号が打ち上げられました。
アームストロング船長が、人類史上初めて月面に第一歩を踏み出します。
ガガーリンの友人・ボリノフは、国際会議の席上でアームストロング船長を固い握手を交わし、彼のある言葉に心を震わせました。

「私たちみんなに対し、星々を目指すように求めたのは、あのガガーリンだった」byアームストロング

宇宙へのあくなき挑戦・・・栄光の裏にはいくつもの危機がありました。
月面着陸から1年後の1970年4月13日。
宇宙での大事故が発生します。
アポロ13号が月に到達する直前、管制室に緊急メッセージを送ってきました。

「問題発生の模様!!」

突然船体が爆発、メインエンジンが使用不可能に・・・!!
事故が起きたのは、地球から32万キロの彼方・・・!!
絶体絶命の危機に陥りました。
それを救ったのは名もなき男たちでした。
動くこともままならず、宇宙空間を漂い始めたアポロ・・・船内には、3人の宇宙飛行士・・・!!
しかし、アポロ13号は絶体絶命から奇跡の生還を果たします。
その陰には、NASAのエリートだけでなく、全米各地のエンジニアの知られざる努力がありました。
宇宙飛行士が生きて戻るまでは緊迫の87時間!!

1970年4月11日、アポロ13号打ち上げ!!
月のサンプルを集めるため打ち上げられました。
4月13日、夜9時7分・・・爆発音が!!

「ヒューストン、問題発生だ
 主電源Bが電圧低下」byアポロ13号

その時の管制室は大混乱!!
いろんなボタンが赤く点滅し、何が起きたのかわかりませんでした。
爆発音から13分後・・・

「窓から外を見ると、何か噴き出しているようだ
 何かガスのようなものだ」byアポロ13号
 
起きていることが、クルーの生命に関わることだということははっきりとしていました。
爆発したのは、支援船内部にある酸素タンクのひとつ!!
エンジンを損傷した可能性があり、その場合、点火すれば船体ごと吹き飛んでしまう!!
助かる道はただ一つ・・・
予定通り月を周回し、月の引力を使って加速し帰還するルートです。
しかし、あまりにも遠い道のりでした。
動力はおろか、酸素、電力が失われる中、アポロ13号は地球まで持つのか・・・??
アポロの中でぜったに守らなければいけないのは司令船!!
地球に戻る時、大気圏で焼けるような温度になっても耐えられるのはこの部分だけでした。
そこで、司令船の電力を温存するため、クルーを急遽、月着陸船・アクエリアスに避難させました。
切り離して動くために、電力も酸素も独立したシステムになっているからです。
なんとか急場をしのぐも、大きな問題が立ちはだかっていました。
爆発の衝撃で、本来の軌道から外れていたのです。
軌道修正しようにも、メインエンジンは損傷した可能性があり使えません。
そこで目をつけたのは、アクエリアスの小さなエンジンでした。
しかし、そのエンジンは月に着陸するための降下用・・・
一度使うためだけの設計でした。
軌道修正できるだけの性能とパワーがあるのか??
困惑するNASAに、カリフォルニアから情報がもたらされます。
アクエリアスの円陣を開発した総責任者ジェラルド・エルヴェラムでした。
NASAからすぐにエンジンを噴射したいといわれ・・・即座に
「噴射は20秒ほどだったら問題ない、推力は自由に調節してもいい」と言いました。
事故から5時間半後・・・エンジンは噴射されました。
軌道修正は成功!!
しかし、前途は多難・・・頼みの綱はアクエリアス!!
その小さいエンジンはどれだけ持つのか??

エルヴェラムは、8年前からこのエンジンにかけてきた男!!
自らNASAに売り込み、開発、アクエリアスのエンジンには、特別な思い入れがありました。
エルヴェラムは即座に動き始めます。
あらゆる事態を想定してデータを洗い出します。
さらに、右腕をヒューストンに送ります。
アクエリアスのエンジン担当ドン・ハーヴィーです。
管制室につくなり、ある問題を突き付けられます。
地球に向かう速度を上げられないか??
電力は残りわずか・・・このままでは宇宙飛行士の命が危うい・・・エンジンを噴射して加速したいが・・・あとどれだけ使えるのか・・・??

問題は、エンジン内部にある断熱シールドでした。
何回の燃焼に耐えられるのか・・・??
エンジンを点火する時、その高熱からエンジンを守るために断熱シールドが・・・この耐久性がネックになる!!
カリフォルニアのエルヴェラムと協力し、データを洗い直します。
一方、ニューヨークでもアクエリアスを設計した現場の男たちが動いていました。
アクエリアスの管理責任者ジェラルド・サンドラ、設計デザインマーティ・フィンクルマンは、なんとかエンジンを持たせられないか・・・極限まで電力を節約する方法を検討します。
電力の残りは2日分・・・
しかし、地球までは最低4日かかる・・・!!どうすれば・・・!!

NASAに何かを伝えても、業者か言われるのは嫌そうでした。
そこで、NASAの上層部に連絡し、彼らの指示に従えといってもらいます。
マーティたちは、現場の知恵を結集し、大胆な節約プランを練り上げます。
通信装置遺骸ほとんどすべてをOFF・・・命綱のナビゲートシステムさえもOFFに!!
一番の難題は、NASAの人間に彼らが定めた限界が絶対ではないと説得することでした。
エンジニアたちは実験で、NASAが知らないデータを持っていました。
しかし、彼等は規定外のことがしたくない・・・
この温度は超えるな!!このスイッチは絶対に切るな!!
マニュアルを聖書扱いしていました。
説得するのが骨でした。

アポロが月の裏側を抜ける直前・・・エンジンの限界について結論が見えてきました。
ハーヴィーがカリフォルニアのエルベラむとデータを突き合わせた中に、決め手となる情報がありました。

断熱シールドがどれだけの燃焼に耐えられるのか??
その実験データが見つかったのです。
実験は、NASAが求める以上に長い時間、燃焼したらどうなるかを試していました。
そのデータによると、断熱シールドの限界は、およそ4分間でした。
合計4分までなら噴射可能!!

事故から23時間半後・・・アクエリアスは、エンジンを噴射します。
噴射は、成功!!
アポロは地球に向けて加速します。
事故から82時間後・・・遂に、地球まであと少しのところまでやってきました。
最後の難関は大気圏突入!!
僅かな角度の違いで、帰還することが出来ない・・・許される角度の幅は、2.4度・・・。
支援船を切り離し、最後の調整・・・目標の角度へと導きます。
事故から86時間後・・・アクエリアスを切り離す!!
アクエリアスは、全ての任務をやり終えた後、大気圏に落下し燃え尽きました。
いよいよ大気圏突入!!通信が途絶えます。

そして、12分後、アポロ13号が姿を現しました。

世界中がその生還を喜びました。
まさに、奇跡の生還劇!!
人類が初めて経験した宇宙での大事故・・・アポロ13号の奇跡のリカバリーはこう呼ばれます。

「成功した失敗」と。

人類の宇宙への挑戦・・・そこにはどんな危機に見舞われようと決してあきらめない人々の努力と情熱の物語がありました。

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あの時・・・韓国を覆った熱狂・・・それは、史上空前の規模でした。
韓国初の女性大統領・朴槿恵・・・彼女のあんな末路を、誰が想像したでしょうか?
大統領は、ある女の操り人形らしい・・・その驚きのスクープは、一人の記者の執念の取材から始まりました。

韓国第18代大統領・パク・クネ・・・クリーンなイメージで大きな期待を寄せられていました。
しかし、まさかのスキャンダルで、その姿は一変しました。
ある女性の言われるがままに便宜を図り、大統領の権限で金を集めたばかりか、国の機密文書まで渡し、指図を受けていたという信じられない疑惑です。
結局、大統領の座から引きずり降ろされ、裁判で懲役25年の判決が言い渡されました。

事件が発覚するや否や、韓国中が一人の女の素性に騒然となりました。
チェ・スンシル・・・父親は、新興宗教の教祖でした。
パク・クネとは、およそ40年に渡る深い付き合いで、しかしその存在は、表舞台ではほとんど知られていませんでした。
チェ・スンシルは、大統領からの絶大な信頼を武器に国政に介入・・・
人事をほしいままに操り、一兆円以上不正に蓄財したといわれています。

2013年2月大統領就任式・・・

「新政府は経済の復興と国民の幸福、そして文和隆盛を通じて、新たな希望の時代を切り開いていきます」byパク・クネ

大統領に一体何が起こったのか・・・??
韓国史上最悪と言われるこのスキャンダル・・・その裏には、取材に命を懸け、翻弄された者たちの知られざる苦悩がありました。
韓国を揺るがした大統領の疑惑・・・その舞台裏のもう一つの戦いが!!

1017年3月10日・・・憲法裁判所によってパク・クネ大統領が罷免・・・その座を追われました。

大統領の疑惑を誰よりも早くつかみ、世に知らせようとした記者・・・イ・ジンドン
彼の極秘取材は、苦い結末を迎えていました。
首都・ソウル・・・その中心にある住宅街にイ・ジンドンは暮らしています。
22年間の記者生活を終え、今はフリーのジャーナリストとして活動しています。
その取材は、危険に身をさらす戦いでした。
事件の始まりとなったスクープ・・・
ジンドンが勤めていたのはテレビ朝鮮。
2011年に出来たばかりのケーブルテレビでした。
経験者を集め、ニュースやバラエティーを中心に放送しています。
ジンドンは元々新聞記者でした。
政府の不正を暴く、数々のスクープをものにしてきました。
その経験を買われ、報道局の特別取材部長に抜擢されました。

放送局の知名度を上げ、視聴率を上げようとみんなで頑張りました。
知人から1本の電話を受けたのは、会社に入って3年が過ぎた頃でした。
話だけ聞こうと待ち合わせに向かいます。
期待はしていませんでした。
なにしろ、この手の話はしょうもないものがほとんどだったから・・・。
カフェに現れた体格のいい男・・・コ・ヨンテでした。
アジア大会に出たこともある元フェンシング選手でした。
案の定、切り出された話は退屈でした。

「一緒に住んでいる女が自分の家から1千万円の現金を盗んでいった
 そのお金を取り返してほしい」

というものでした。
情報提供というものの、男女関係の愚痴ばかり・・・
だったら警察に。。。というと、

「警察に頼んでも、あの女はすべてをもみ消してしまう
 警察に行っても何の意味もない」

どういうことなのか・・・??
ニュースになりそうもない痴話げんか・・・しかし、一つだけ引っかかる点がありました。
その女の名前・・・”チェ・スンシル”

「もしかして、昔パク・クネとの関係が話題になっていたチェ・テミンの娘のことか?」

と聞いたら、「そうだ」というのです。
実は、パク・クネには大統領になる以前から、密かに囁かれていた噂がありました。

その当時の韓国は、軍事独裁政権・・・そこに君臨したのが大統領のパク・チョンヒ・・・パク・クネの父親です。
妻が暗殺されたため、ファーストレディの役を娘のパク・クネがしていました。
ちょうどその頃・・・一つの噂が持ち上がります。
チェ・テミンという新興宗教の教祖が、パク・チョンヒ親子に取り入り、陰で私腹を肥やしているというのです。
そして、チェ・テミンは、娘のチェ・スンシルをパク・クネに近づけます。
彼女は、大学時代からパク・クネと交流。
やがて親子は、パク・クネが理事長を務める財団を利用して、多額の金を蓄えたと噂されました。
記者のイ・ジンドンも、噂を聞いたことがありました。

その後、パク・クネは、韓国初の女性大統領となりました。
クリーンなイメージで、かつての噂は薄れていました。

”コ・ヨンテがなぜそんなにチェ・スンシルのことを恐れるのか”

大きな疑問と胸騒ぎが・・・
もしかしたら、これを取材したら相当大きなニュースになるのでは??と、イ・ジンドンは直感します。
同姓同名の別人かどうか調べます。
唯一手に入ったのは、娘の馬術競技の観戦している1枚でした。
サングラスで顔はわからない・・・
コ・ヨンテから持ち込まれた写真は、ゴルフ中・・・こちらもサングラスをしていました。
しかし、白い帽子、白いパンツ、白い腕時計・・・間違いなく同一人物でした。

写真を嫌がるという点が、記者魂を刺激・・・ジンドンは、コ・ヨンテの取材を深めていきます。
コ・ヨンテによれば、政府の役人がチェ・スンシルに頻繁に会いに来て、いつも彼女に何かを報告しているようでした。
会いに来るときは、官用車を遠くに止めたり、他の車に乗り換えたりしていました。
チェ・スンシルがよく出入りするのは、ソウル市内の洋服の工房。
大統領専用に衣装を作っているという・・・
コ・ヨンテに頼んで、監視カメラをつけてもらうと・・・1か月後、遂に映像が手に入ります。
そこにはチェ・スンシルが・・・ワイシャツの男がメモを差し出しました。
その男は・・・映っていたのは、大統領の秘書に当たる行政官でした。
大統領の側近と呼ばれる人物です。
男がどれだけ大統領に近いか・・・大統領に当選した翌日、両親の墓参りをするパク・クネのすぐ後ろに控えているのがその男でした。
最も傍で大統領を支える一人・・・
チェ・スンシルは民間人です。
民間人が、大統領の行政官にぞんざいな態度をとっていました。
裏で彼女が権力を握っているに間違いないと思われました。
大統領の補佐官を通してチェ・スンシルは何を企んでいるのか・・・??
ジンドンは、地道に取材をします。

そして1年半の取材の末・・・報道に踏み切ります。
ジンドンが報じたのは、政府が後押しする財団に、巨額の金が不自然に流れている実態でした。
ただし、第一報では、敢えてチェ・スンシルの名前は出しませんでした。
しかし、関係者の証言から、財団を牛耳っているのはチェ・スンシルで、集めた資金を自分の会社に流していることをジンドンは掴んでいました。
まずは疑惑を報じ、世間の関心を集めたところで本人に直撃!!
3日がかりの貼り込みの末、駐車場でついにチェ・スンシルを捕まえます。
ついに、チェ・スンシルをカメラの前に引きずり出しました。
集めた疑惑の数々を一気に公表するだけ・・・しかし、そこには覚悟が必要でした。
ジンドンの家族は、以前にも取材で脅迫されたことがあったのです。

しかし、このスクープ・・・まさかのお蔵入りが決まります。
会社の上層部から圧力がかかったのです。
1か月後、意外な追い風が・・・!!
ある新聞社が財団の本当のボスはチェ・スンシルでは・・・??という疑惑を名前を出して報じたのです。

ジンドンの一報が出た後、他のマスコミが財団の背後を調べ始めていました。
その一人が、ハンギョレ新聞パン・ジュンホです。
周辺取材から、疑惑の中心がチェ・スンシルであることはつかみました。
しかし、財団のあらゆる資料にその名はなく、関係が証明できない・・・
財団の理事長の経歴を調べると、最近までマッサージ店を経営していました。
それを怪しみ、元スタッフを直撃すると・・・

「チェ・スンシルさんは、うちの常連の一人でしたよ」

チェ・スンシルは、財団の理事長になる人物を探していました。
その人も、財団で働かないかと、直接誘いを受けていました。
自分の意のままに動かせる人物をトップに据え、その陰で、財団を牛耳っているのではないか??
チェ・スンシルの存在を始めて公にしたスクープでした。
そしてハンギョレ新聞は、あるメッセージを紙面に乗せます。
それは、あのジンドンたちに向けたものでした。

「私たちはが取材の一歩を踏み出すことが出来たのは、テレビ朝鮮の報道があったからです。
 私たちはその跡を追っていくうちに、この事件のパズルを完成させるための決定的なピースが存在することを知りました。
 テレビ朝鮮は、そのピースを手にしているようですが、報道はしていません。
 いつ世に出して頂けるのでしょうか
 パク・クネ大統領の力が弱まった時なら、報道することが出来るのでしょうか」byハンギョレ新聞

多くのマスコミが、その矛先をチェ・スンシルに向け始めました。
財団以外にも、様々なルートで金を集め、不正に蓄財していたという疑惑・・・!!
名門大学に圧力をかけ、娘を裏口入学させている疑惑・・・
そしてその疑惑の目は、いよいよ大統領本人に向けられていくことになります。
大統領を陰で動かし、私腹を肥やしていたというチェ・スンシルの疑惑・・・しかし、この事件、韓国に最も大きな衝撃を与えたのは大統領が国家の機密文書すら差し出し指示を受けているという報道でした。


その報道の発端は、チェ・スンシルのものとされるタブレット端末を、あるクルーが見つけたこと・・・。
ソン・ヨンソク・・・タブレット端末を手に入れた記者!!
彼が率いるチームは、不思議な状況でこのタブレット端末を発見!!
韓国中をあっと言わせました。
物議をかもす物証を見つけてしまったのです。
韓国中が熱中する報道合戦に、ケーブルテレビJTBCは出遅れていました。
その差を埋めるには、一発逆転のスクープしかない!!
特別取材チームのソン・ヨンソク。
これまで数々のスクープをものにしてきたヨンソク・・・しかし、このタブレットの報道を巡って、彼のチームは葛藤を抱えることとなります。
あの時、ヨンソクが狙いを定めたのは、チェ・スンシルと大統領の関係を暴くことでした。
他社が見落としている情報源はないか・・・??
浮かんだのは、チェ・スンシルと一緒に大統領の衣裳店を運営していたコ・ヨンテでした。
彼を徹底的に取材すれば、具体的な何かが出てくるのでは・・・??
当時、コ・ヨンテはチェ・スンシルの愛人と噂されていました。
様々な会社を任され、多くの時間を一緒に過ごしていました。
ヨンソクは、コ・ヨンテ名義のオフィスをすべて回れと部下に指示します。
不思議な物証は、そのうちの一カ所で見つかりました。
訪ねたのは、新人記者でした。
その会社は、引っ越しをした後で、もぬけの殻でした。
しかし、木製の机が一つだけ残されていたのです。
警備員がカギを開けてくれたので部屋の中に・・・
そして、何気なく引き出しを開けると・・・中にあったのは、会社に関係する文書、メモリーカードが抜きとられたデジタルカメラ、そしてタブレット端末・・・機種は古く、充電が切れていました。
会社へ持ち帰って色々調べると・・・いろいろ確認することが出来ました。
その中身は・・・パク・クネ大統領が、休暇時にとった非公開の写真でした。
大統領に極めて近い者しか取れないであろう写真・・・
そして、大統領の演説の原稿らしきものも・・・!!
あちこちに添削したような赤字が入っています。
さらに北朝鮮に関する文書など、国家機密と思われるファイルが200以上も含まれていました。
どうして引き払われたオフィスにこんなものが・・・??
偶然か、誰かが仕組んだのか・・・??
しかし、これほどの物証を利用しない手はない・・・!!
タブレットからは他にもチェ・スンシルのプライベート写真や、娘のアカウントも見つかりました。
このタブレットが、チェ・スンシルのものである可能性が極めて高いと判断し、報道することにしました。
問題は、報道のやり方・・・
タブレットに機密ファイルがあったと報じても、政府から否定されれば次の手が無くなってしまう・・・
そこで、一計を案じます。
10月24日、第一報では、タブレットのことは一切触れず、情報を小出しにするのが彼らの作戦でした。
2日後、大統領府は、演説文が外部に出るなどありえないと、報道を全否定します。
そこでヨンソクたちは、次の情報を出します。
今度は、何者かの手直しの跡が残っている大統領の演説文を証拠として示したのです。
翌25日、大統領は会見で釈明に追われます。

「チェ・スンシルは、大統領選挙の時、主に演説や広報などの分野で意見や感想を伝える役割をしました。
 就任後にも、一定期間、一部の資料について意見を聞いたこともありますが、大統領府の補佐体制が整ってからはやめました。」

疑惑の一部を素直に認め、事態の収拾を図ったのです。
しかし、これが大統領を追いつめることに・・・!!
会見のわずか4時間後、JTBCは、大統領の説明の矛盾を突きます。

史料の中には、国家安全に関する機密や経済政策を含む内容があったことを・・・!!
チェ・スンシルという一民間人に、国家機密まで渡していた・・・!!
演説などで助言を受けていたという大統領の説明を覆すスクープでした。
ひとつ説明するたびに、その嘘が暴かれる繰返し・・・
大統領の言葉をそのまま信じる人は、もはやいなかったのです。

そしてこの時、テレビ朝鮮がお蔵入りになっていた映像の公開に踏み切ります。
チェ・スンシルが、大統領の側近をあごで使う・・・あの衝撃的映像です。
国民の怒りが、爆発します。

「パク・クネは退陣せよ!!」

デモの参加者は、瞬く間に膨れ上がります。
3か月目には、1日で170万人にまで達していました。
エスカレートする報道合戦の中、大統領のパク・クネは何を思っていたのでしょうか?
憲法裁判所が弾劾に動き始める中、ただ一人大統領への直接インタビューを許されたジャーナリストがいました。
ネットを中心に活躍する保守派のジャーナリスト、チョン・キュジェでした。
その頃、全てのメディアが大統領を引きずり降ろそうと躍起になっていました。
そんな中、大統領にインタビューしても、非難を浴びるのは確実でした。
大統領は、疑惑について静かに釈明をするだけでした。
インタビューでも淡々としていました。
空虚さを感じさせるほど何の感情も伝わってこない受け答え・・・
そこには、権力への執着も、報道への怒りも見えませんでした。

2017年3月、憲法裁判所はパク・クネが法を犯したと認定・・・史上初の大統領の罷免が決まりました。
裁判で、あのタブレット端末は、チェ・スンシルの物と認められました。
しかし、偶然過ぎる発見の状況には、疑いの声がやみません。
パク・クネの支持者たちは、JTBCの一連の報道に抗議デモを続けてきました。
捏造ではないのか・・・??と。

チェ・スンシルは、二審で懲役20年の判決をうけ、現在上告中!!
パク・クネには、二審で懲役25年の判決が下されました。
彼女は証言を拒み、上告を望まなかったと伝えられています。

様々な謎を含みながらも、大統領の罷免に行きついたチェ・スンシル事件・・・
その最も大きな後押しとなったのは、民衆の力でした。
毎週土曜日に行われたデモは、全部で20回、参加者数は1600万人以上・・・その規模は史上空前のものとなりました。

そこに、片道5時間かけて参加していた高校生イ・セロムがいました。
家族の反対を押し切ってデモに参加し続けました。
デモを支えた原動力とは・・・??
ソウルの中心部にある広場・・・あの時、この広場は大統領の罷免を求める人たちで埋め尽くされていました。
あのデモは、規模だけでなく、雰囲気も今までと全く違っていました。
空前のデモを支えた思いとは・・・??

現在、ソウル市内の大学に通うイ・セロム。
事件を知った時は、受験を1か月後に控える高校生でした。
夢はデザイナー・・・そのためには、熾烈を極める大学入試を突破しなければならない・・・!!
そんな中、飛び込んできたのが、あの許せないニュースでした。
チェ・スンシルの娘が、名門大学に裏口入学していたのです。
ニュースでデモを見て一緒に声を上げたくなった・・・心配する家族の反対を押し切って、参加を決めました。
同じ受験生の友達7人と共に・・・!!
バスで5時間かけてソウルに向かいます。
衝突があるかもわからないと考え、洋服の下に何重にも段ボールを巻いていました。
しかし、100万人が集まったデモの光景は、想像とは全く違っていました。
デモなのに暴力的ではなく、警察がカイロをくれたり・・・とても不思議な感じでした。
言いたいことがある者は、段に上がって自由に声をあげました。
そこにアーティストたちが加わり、思い思いのパフォーマンスをしました。
そして夜は、社会の暗闇を照らす意味で、みんなでろうそくの灯をともしました。
これまでデモで多くの死者を出した反省から、新たな方法がいつの間にか生まれていたのです。
そんな中、みんなに交じって初めてシュプレヒコールを上げたセロム・・・
学校に戻り、友達に写真を見せて状況を話すと、デモに参加したいという友人が増えていきます。
以後、セロムは毎週土曜日、4か月にわたってデモに通い続けることになりました。

同じ頃、SNS上では・・・”#ところでチェ・スンシルは?”と書かれるように・・・。
何にでも、”#ところでチェ・スンシルは?”とつけるのが大流行します。
疑惑から国民の目をそらそうとする政府に対し、自分たちは忘れないという意思表示です。
若者たちが編み出した知恵でした。
そして、あのデモが空前の規模になった理由がもう一つ・・・
生れてはじめてデモに参加する人がたくさんいました。
今までは政治に興味のなかった人々が、政治に興味を持つようになった原因は、セウォル号事件でした。
2014年に起きたセウォル号沈没事故・・・修学旅行中の高校生を含む304人が無くなった事故です。
パク・クネ大統領は、遺族に真相究明を約束したものの、救助が出来なかった理由や、事故原因は明らかになっていません。
遺族たちは、黄色いリボンをシンボルに、今回のデモに参加していました。
その悲しみは、デモに集まる人々に共有されていきます。
黄色いリボンをつける人が少しずつ増えていきます。
今回のデモでは、「これが国家なのか?」という声が、上がっていました。

「子供達がよりよい国で暮らしてほしい」
「今回のことをちゃんと覚えておいてほしい」

全国で、延べ1600万人以上が参加したデモ・・・
警官隊との暴力的な衝突は、ついに一度も起きませんでした。
そして、デモが始まって6か月目・・・大統領の罷免が決まりました。
今も、大統領府の目の前にある一角で、あの時の映像が流されています。
ロウソク革命・・・壁には、訪れた国民からのメッセージが・・・

”これからも、一歩ずつ進歩しますように”
”よい国になることを願っています”

民衆に選ばれた者が、民衆の力によって引きずりおろされる・・・
そのあまりにも劇的な例が、パク・クネ大統領の罷免でした。
彼女は証言を拒否・・・真相は闇に埋もれようとしています。
しかし、韓国の人々は、自分達の国を自分たちの手で守ろうとしたのです。
歴代大統領は、これまで悲惨な末路をたどってきました。
ある者は不正な蓄財を行った罪などで死刑判決・・・
またある者は、収賄容疑にまみれ、自ら命を絶ちました。
新たにムン・ジェイン政権が誕生しました。

不正にまみれてきた黒い歴史に終止符は打たれるのでしょうか??
記者たちが、命を懸けて戦わなければならない政府とは、一体、誰のためにあるのでしょうか??


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20世紀最大の発見・・・兵馬俑。
そのすべての始まりは、一人の農民の鍬の一振りでした。

長い戦乱の世を一代で終わらせ、統一王朝を築いた秦の始皇帝。
その死後も仕える軍隊として作られたのが兵馬俑です。
威厳にあふれる将軍、武器を構える兵士、洗車をひく馬・・・始皇帝の軍隊を忠実に再現しています。
驚くべきことに、一人一人顔が違います。

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しかし、ここ兵馬俑・・・2000年間は土の中にいました。
そのまま埋まっていてもおかしくはない・・・。

1974年3月29日、中国中央部の荒れ地で、一人の村人が振り下ろした鍬が、偶然兵馬俑に当たります。
それからあれよあれよと・・・8000体の兵馬俑が現れました。
始皇帝の大軍団が、2000年の時の彼方から蘇りました。
今世紀最大の発見といわれる巨大遺跡でいた。

第一発見者・・・楊志発
最初に兵馬俑を掘り出したことで数奇な運命に翻弄されます。

中国中部陝西省の大平原・・・
都会から遠く離れた地で兵馬俑は見つかりました。
今や兵馬俑のおかげで見事に発見した村に、その男はいました。
楊志発・・・現在は自宅の一角で小さな記念館を開いています。
入場は無料で、話しも聞けます。

一本の鍬が、兵馬俑に当たった瞬間から、彼の人生は一変しました。
1974年、楊志発36歳・・・兵馬俑の発見は、いくつもの偶然が重なった結果でした。
楊の住む西楊村から1.5キロのところに始皇帝陵がありました。
しかし、当時の楊たちにとっては今日の暮らしの方が問題でした。
当時、中国はみんなで作ったものをみんなで分ける・・・共産主義体制が敷かれて25年目・・・
農村では食料は役所を通じて村人に均等に配給されていました。
しかし、どれだけもらえるかは、その村の収入次第・・・。
楊の村は、度々干ばつで、農作物がほとんどとれませんでした。
井戸は枯れ、どこを掘っても水は出ない・・・楊は家族を抱えて途方に暮れていました。
水よ・・・出てくれ・・・!!荒れ地を鍬で掘り続けます。

1974年3月29日・・・運命の日もそうでした。
村はずれのくぼ地・・・必死に4mぐらい掘った時・・・鍬がズボッと入り、抜けなくなりました。
土を払うと・・・そこには壺が・・・??
壺ではなく、それは神様の像・・・??
土の中から顔も出て・・・本物の人間のようでした。
最初の兵馬俑は、こうして姿を現しました。
掘り当てたいのは水・・・しかし、出てくるのは焼き物ばかり・・・。
楊は考えます。
始皇帝陵の近くで・・・大事なものなのでは・・・??
この日見つかっただけで、リヤカー3台分・・・地元の役人の元へと持ち込みます。

面倒と思っていた役人・・・陶俑ではないか??と気づきます。

touyou















身分の高い人の墓に納められた陶器の人形・・・陶俑。
楊は、この時初めて自分が発見したものの価値を知りました。

役人は・・・
「手間賃はくれてやる
 とっとと井戸掘りにもどれ」と、30元をくれました。
当時の日本円でおよそ4,200円で、当時は現金は村人全員で分ける必要があり・・・楊の手元に残ったのは、0.13元・・・およそ20円でした。
農民の財産は集団のもので、個人の物はなく、方針に従わなければ食料ももらえませんでした。

あの掘り出し物はどうなるのか・・・??
井戸を掘り続けます。

役人は役人で困り果てていました。
妙な掘り出し物をどうするのか・・・??
国の法律もない・・・。
無かったことにしよう・・・役人は、倉庫の奥深くに兵馬俑を隠しました。
まだ残り、8000体もあるとは夢にも思わず・・・。

そしてそのまま3か月、事態は一転します。
きっかけは、北京の政府内で出回った密告文書でした。

従来の陶俑とは全く異なった等身大のものが見つかった・・・
地元の役人は、これに妥当の措置をしていません。

隠したつもりでも、情報は漏れていました。
密告を受けて政府が出した命令は・・・
「速やかに妥当な措置をとれ」でした。
妥当な措置とは・・・??
あいまいな命令でしたが、噂を聞いて楊は役所に駆けつけました。
発掘を手伝うつもりでした。
しかし、学者先生が発掘することに・・・。
発見したにもかかわらず、兵馬俑の外に追い出されてしまった楊・・・
その後、20年もの間遺跡に近づこうとはしませんでした。

所詮農民だから・・・と。

兵馬俑発見者の存在は忘れられました。
しかし、20年後、彼の立場は一変します。

すみやかに妥当な措置をとれ・・・に正面方立ち向かったのは、兵馬俑の初代発掘責任者・考古学者・袁仲一です。
最初に頼まれたときは、10日あれば終わると考えていました。
しかし、40年も兵馬俑に関わることとなります。
袁に託された任務は、ただの発掘ではありませんでした。
当時、中国では文化大革命(1966~1976)の嵐が吹き荒れていました。
名だたる歴史遺産が、次々と破壊されていた時代・・・兵馬俑は壊されていてもおかしくはありませんでした。

文化大革命・・・それは、当時の中国全土を吹き荒れた破壊と粛清の嵐でした。
新しい文化を生み出すスローガンのもと、古くからの歴史遺産が容赦なく破壊されていきました。
其れに抗う者たちは、反体制分子として厳しく処罰されました。
破壊を止めることは誰にもできない・・・。

折角見つかった兵馬俑も、このままでは・・・!!
そうなる前に、ピンチを救ったのは・・・袁仲一でした。
権力のプレッシャーと、学者としての使命・・・その狭間で戦います。

発掘隊のメンバーには、
「危険な時代だから一歩間違えば刑務所に行くかもしれない・・・でも、私たちで兵馬俑を守り抜こう!!
 たとえ逮捕されようとも、歴史の犯罪者にだけはなってはならない!!」そう決めていました。

悲壮な決意で発掘に臨んでいた袁仲一。
文化大革命の中、ギリギリの戦いが始まりました。

陝西省西安・・・この町で20代から考古学者の道を歩んでいた袁。
31歳の時、文化大革命が起きました。
毛主席の本を読み、毛主席の言葉を聞き、毛主席の指示に従おう・・・
毛沢東と違う考えを解く者たちは、自己批判を迫られさらし者に・・・
その敵意は、歴史自体にも向けられ、由緒ある仏像でも破壊される・・・!!
古い価値は否定しろ・・・!!考古学者には最低の時代でした。

文化大革命によって貴重なものが壊されました。
しかし、それを口に出すことは許されませんでした。
そんな袁が、運命を変える一報を受けたのは、1974年7月!!

兵馬俑発見から4か月後のことでした。
すみやかに妥当な措置をとれ・・・!!という命令でした。
破壊せよ・・・??
とにかく物を見て見よう・・・と、村を訪れます。
すると・・・ゴミ捨て場に陶俑の手が転がっていました。
兵士の胴体が植木鉢に・・・子供が腕でチャンバラを・・・!!
最初に発見した人は役所に届けていましたが、かなりの数の村人がこっそりと掘り返していました。

役所の倉庫に眠っていた兵馬俑も日の目を見ます。
陶俑は、秦より後の時代にも作られていますが、2、30cm・・・大きくても60cmほどしかありません。
兵馬俑は実物大・・・!!誰も見たことのない大きさでした。
遺跡の広さは想像をはるかに超えていました。
そこまで言っても終わらない・・・兵馬俑1号抗の大きさは1万4000㎡・・・世界でも1、2を争う規模の地下遺跡で、中身はぎっしり・・・!!
考古学者全員が大興奮でした。
大大大発見だったのです!!
どう措置する・・・??
絶対に守り抜く!!どうやって文化大革命の破壊を免れる・・・??

この時代でも壊されなかったもの・・・それは、万里の長城です。
どうして壊されなかったのか・・・??それは、秦の始皇帝が築いたものだったからです。
当時、始皇帝は特別な存在でした。
毛沢東が礼賛していたのです。
その理由は焚書坑儒。
始皇帝が儒教の学者を土に埋め、書物を焼き払ったという故事です。
毛沢東も、古い思想を否定する点では同じ・・・!!
この時代、始皇帝の行いはいいこととされ、彼の残したものは例外的に破壊を免れました。
兵馬俑が始皇帝のものだとわかれば・・・!!
始皇帝陵の近くで発見されたことから予感がありましたが・・・
与えられた発掘期間はわずか1年・・・なんども延長を訴えます。
遺跡の規模はとてつもなく大きい・・・途絶えることなく出てくる・・・
しかし、当局の決定は変わりませんでした。
始皇帝に関わるものを・・・??
いよいよ危険を感じ始めた1975年4月・・・
機嫌まで3か月を切ったある日の事・・・
兵馬俑が持っていた武器に、作らせた人物の名が書かれていました。
相邦の呂不韋・・・兵馬俑は焼き物ですが、武器は本物を持っていました。
その一つに明記されていたのです。
相邦とは、秦の国の政治のTOPに当たる存在、呂不韋とは始皇帝の若き日に相邦を務め、歴史書にも登場する人物です。

遂に、兵馬俑が始皇帝と結びつきました。
呂不韋は始皇帝と縁が深い人物です。
これで兵馬俑を守れる・・・!!

袁が突き付けた100点満点の回答・・・誰もが納得する妥当な措置でした。
これには毛沢東も大喜び。
1975年7月12日、始皇帝の遺跡、兵馬俑が発見されたという第一報が世界に向けて発信されました。
すると、全部掘り出せ、早く掘り出せと要求の嵐・・・
それをはねつける袁・・・10年でも20年でも待ってもらう・・・と。
袁は、発掘と修復が終わるまで、遺跡を考古学者の管理に置き、政治の介入を拒みました。

文化大革命という混乱の中、孤軍奮闘した袁・・・しかし、一つだけできなかったことがあります。
写真の公開です。
中国政府は詳細な情報は国家機密として写真は一切公表しませんでした。
闇に葬られる・・・??

ジャーナリスト、オードリー・トッピング・・・兵馬俑の価値を世界に知らしめた女性です。
兵馬俑は世界の宝へと変身していきます。
兵馬俑の運命を変えたオードリー・トッピングは、今、アメリカに住んでいます。
中国とのつながりは深く、先祖は19世紀の末から中国でキリスト教の布教をしていた宣教師でした。
中国=怖いというイメージが世界で広がっていた中で、何度も中国を取材し、人々の生の声を使えることを使命としてきたトッピング・・・1975年、兵馬俑を訪れたときも、もともとは別の取材を進めていました。
父の中国訪問を記事・・・父が周恩来などと面会するという記事・・・にするつもりでした。
父・チェスター・ロニングは、カナダの外交官でした。
イギリスのエリザベス女王や、インドのネルー首相などとも親しく交流した世界的な有名人物でした。
父の特別待遇を利用して中国を訪れることができたトッピング・・・
周恩来、鄧小平らとの会談を取材中に、思いがけないニュースを知ります。
北京で新聞を見ていたら、兵馬俑発見の記事が・・・
政治家の記事よりもこちらの記事を・・・!!
予定を切り上げ、すぐに遺跡へ・・・!!

発掘現場に向かおうとしたとき、役人が立ちはだかります。
兵馬俑遺跡を訪ねてきた欧米人など初めて・・・しかもカメラを持っている・・・。
ウソ泣きをして連れて行ってもらう・・・
「カメラはダメです!!」
しかし、予備のカメラを持っていました。
足を踏み入れた発掘現場・・・一目で圧倒されます。
いにしえの戦場が目の前に広がっていました。
こんな素晴らしい遺跡を目にしたら・・・ジャーナリストのすることはただ一つ!!
覚悟を決めてカメラで写真を撮りたい・・・!!
同行していた娘を囮に使います。
質問をしてメモを取り続け、役人の目を母からそらします。
その隙に撮った写真・・・撮れたのはごくわずかで、ピントもくるって使えません・・・。
滞在時間2時間・・・写真は撮れないまま、現場を後にします。
折角の取材をニューヨークタイムズに・・・!!
現場を見たものでしか書けない臨場感・・・!!
詳細に書かれたその記事・・・しかし、写真はないのでインパクトはありませんでした。
書きたいことは山ほどある・・・!!

考古学会で一番権威のあるナショナルジオグラフィックに売り込みます。
しかし、読者は写真なしでは許してくれませんよ!!
現場に行ったのに、どうして写真がないのか・・・??
世界中の人は、見たこともない写真を待っている。
どうやって写真を手に入れる・・・??

中国の秘密ルートを使いました。
発掘現場の誰かから写真を横流ししてもらいました。
トッピングが写真を入手たのは1976年の秋・・・同じころ、中国は激変を迎えていました。
1976年9月9日・・・毛沢東死去。
これを機に、文化大革命は収束に向かいます。
1年半後・・・もう誰も危害が及ばない・・・
1978年4月、ナショナルジオグラフィック誌・・・オードリー・トッピングは写真を掲載します。
世界はこの時初めて兵馬俑を見ます。
兵馬俑は今や世界の宝となりました。
この記事が、兵馬俑の価値を世界中に伝えたのです。
トッピングの記事の翌年・・・兵馬俑博物館がオープン!!
初日から外国人が殺到します。
1984年、たっての希望で兵馬俑を訪れたのはアメリカ合衆国レーガン大統領でした。
それからも相次いだビップに、中国政府も写真撮影を黙認・・・
1987年にはユネスコの世界遺産に登録され、名実ともに世界の宝となりました。
もう・・・兵馬俑を破壊しようと思う者もいない・・・!!

この記事によって、ようやく一人の男が見出されます。
忘れ去られていた第一発見者の農民・・・楊志発。
トッピングの記事を読んだ外国人が、楊のもとを訪ねてくるようになります。
聞かれるまま秘話を話していた楊・・・本をだすと瞬く間に8か国語に翻訳されます。
1994年6月、役所から「外国人に話をしたり、サインをするなら博物館の中でやってほしい」と頼まれます。
楊は20年ぶりに兵馬俑の近くに。。。
6月26日、兵馬俑博物館でサイン会開始・・・大行列となります。
アメリカ大統領クリントンもその一人です。
不遇だった兵馬俑の発見者は、外からの評価によって報われます。

誰一人かけても世界に知られることはなかった奇跡の遺跡兵馬俑・・・
2000年の眠りから掘り出したのはひとりの農民でした。
兵馬俑発見の直後にとった3歳の息子との写真が宝物です。
息子に話します。
「父さん、なんかすごいものを見つけてさ・・・」
息子に自慢ができてうれしかった。
それだけで十分だ・・・。


一本の鍬によって2000年の歴史から蘇った兵馬俑・・・
その瞳は、愚かで愛すべき人の営みを、これからも見つめ続けるのです。


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1989年・・・平成が始まった年、日本各地で大騒動が起きました。
小さな町に突如、1億円が・・・!!
「ふるさと創生1億円」は、全国の3245の市町村に国が一律1億円を分配し、自由に使ってもらおうという前代未聞の大事業でした。
日本中の役場の人たちが、1億円の使い道に頭を悩ませました。

全国の市町村に送られた1億円・・・
ふるさと創生1億円を掲げたときの総理大臣・竹下登・・・目指したのは地方の活性化でした。
当時、既に地方は過疎化が進み、寂れ始めていました。
人口や財政規模に関係なく、一律1億円が支給されました。
しかも、国は使い道に一切口を出さない・・・町や村に委ねられました。
様々なアイデアが飛び出しました。
全国で300市町村にのぼったのが温泉を掘るプロジェクトでした。
観光の目玉にしようと多額の費用をかけて掘り進めますが、明暗はわかれてしまいました。
他には村営のスナック、福井の恐竜博物館・・・歓喜と失意の中、批判も・・・その内幕とは・・・??
1億円事業とは一体何だったのでしょうか?

1988年12月21日・・・ふるさと創生1億円事業が全国に発表されました。
その担当大臣・・・自治大臣・梶山静六
梶山がこだわったのは、大きな町にも小さな村にも一律で1億円を分配することでした。
この前代未聞の事業は、どのようにして実現したのでしょうか?

「日本の40数年来、戦後培われてきたこの民主的な制度
 この根幹をなす地方自治の進展のために、全力を尽くしていかなければならない気持ちでいっぱいです。」by梶山

梶山は、武闘派で軍師の異名を持っていました。
自らの派閥の長・竹下登に総裁選立候補を促したときには・・・

「もし、竹下さんが立たないというんなら、俺は竹さんを刺し殺すよ」by梶山

そんな男がバラマキとの批判にも動じず、ふるさと創生1億円に突き進んだのはどうしてか・・・??
すべての始まりは・・・1987年竹下登内閣発足!!
竹下内閣で地方を管轄する自治大臣に任命されました。
地方を元気にすることは、梶山にとってライフワークのテーマでした。
茨城出身で、県議会議員からのたたき上げでした。
地方出身の田中角栄からも可愛がられました。
その後は、竹下派七奉行の一人として、政界ににらみを利かせます。

時代はバブル経済真っ盛り・・・ダブついた金を地方に回せないかと考えていました。
温めていた大胆不敵なアイデアを実行に移そうとしました。
大きい団体も、小さい団体も、一律の金を手にしたときに、何ができるのか・・・??
最初は10億円でした。
10億といえば、小さな村の年間予算に匹敵する額でした。
そのお金を一律全国の市町村に配るという前代未聞の計画でした。
梶山は、総理官邸で竹下との直談判に臨みます。

「一律10億円で3000市町村、総理の力でなんとか3兆円工面してもらえませんか」by梶山
「ずいぶんたくさん金が要るんだね。でも、その構想はいいなあ」by竹下
好感触を抱く梶山。

数日後、竹下からの返答を聞くために再び総理官邸へ・・・

「100億でどうだ?」by竹下

その意味を梶山は瞬時に判断しかねました。

「それって一市町村ですか?」by梶山
「いや、全部で」by竹下
「総理、それは駄目です。それではできません。
 もうちょっと何とかなりませんか」by梶山
「いやあ・・・大蔵省に話下ろしたら、最大限それくらいだって言うんだよね」by竹下
一律10億円どころか、一律300万円・・・??
この時代、予算の使い道に総理大臣でも大蔵省に逆らえない空気がありました。
特に竹下総理は、大蔵省の人の言うことには耳を傾けていました。

梶山は、どうしてそこまで地方活性化にこだわったのでしょうか?
そこには、原体験がありました。
19歳で戦地から帰ってきた梶山が、故郷で目にしたのは、戦死した兄を想い声を殺してなく母の小さな背中でした。
声をあげられない名もなき人々の支えになりたい・・・!!
しかし、永田町の情勢は風雲急を告げていました。
未公開株をめぐるリクルート贈収賄疑惑が持ち上がり、内閣にも火の手が及び始めていました。
もし、内閣が倒れれば・・・ふるさと創生計画も吹っ飛んでしまう・・・!!
急いだ梶山は、大蔵省から金を引っ張るのではなく、ある財源に目をつけました。
それは、自治省の財政局が管轄する地方交付税・・・地方公共団体の財源として、国から交付されるものでした。
県議会議員出身の梶山らしい目の付け所でした。
梶山は、懲りずに10億円と持ちかけます。
3000の団体に10億円ずつ交付税で出来るのか・・・??
そんなお金はない・・・。
大臣就任以来梶山に仕えてきた片山善博に、移動辞令が・・・その先は財政局でした。
片山は梶山と財政局との板挟みという苦しい立場に身を置くことになります。
片山は地方交付税の実情を踏まえて、落としどころを提案します。
「1億円で勘弁してもらいましょう」
財務局が1億円を受け入れたのです。
しかし、頑として譲らない条件がありました。
それは”一律”・・・。一律は、交付税の制度上、難しいものがありました。

段階補正・・・人口や財政規模に合わせて交付税の金額を決める仕組みのことです。
どの地域でも、一定の行政水準を維持するための算定方法が定められているのです。

「大臣、基本は1億円で行けます
 ですが、規模によって8000万から1億3000万ぐらいのばらつきがどうしてもできます」
「ダメだ
 すべての団体に、ぴっちり1億円やりなさい」by梶山

そこには、梶山の政治家としての思惑がありました。
すべて国任せに甘んじている地方自治の在り方に刺激を与えたかったのです。
地方は、国から言われたことは完璧にする・・・それは世界的に見ても稀な優秀さです。
しかし、自分で考えることに対しては苦手です。
皆考えて、うちの町で、どういうやり方をしたら一番いいのか・・・??
それを考えるきっかけにしたかったのです。
そんな梶山の想いを強くする出来事が起こります。
昭和天皇のご容体が悪化・・・町は自粛ムードに包まれ、笑い声が消えたのです。
世の中が暗い・・・一つぐらい前向きな何かがあってもいいのではないか・・・??

さらに、政界を揺るがすリクルート贈収賄疑惑で、竹下内閣の改造が秒読みに・・・そうなれば、自治大臣が代わることは間違いない・・・。
残された時間はわずかしかない・・・!!

1988年12月21日、ふるさと創生事業が発表されました。
地方交付税という名目で、すべての市町村に一律1億円を・・・!!
梶山の自治大臣退任の6日前のことでした。

会見で梶山はあえてこう言っています。

「200人の村だったら、みんなで相談して酒を飲んじゃってもいい
 50万円ずつ山分けしたっていいんだ」

しかし、最後にこうくぎを刺すことを忘れていませんでした。

「市町村長の見識は問われますぞ」by梶山

かくして、日本中に1億円が配られ、各地で壮大な知恵比べが繰り広げられることとなったのです。

全国の市町村がバラエティーに富んだ模索をします。

・島根県掛合町役場の人々
ここは、時の総理大臣・竹下登の故郷でした。
総理のおひざ元が何を使うのか・・・??
日本中から注目されることとなります。
島根県の山間にある旧掛合町・・・
人口4000余りの小さな村は、このふるさと創生事業にとりわけ頭を悩まされることとなります。

町役場の総務課長は・・・?
1億円をどう使うべきか・・・??
全国からマスコミが押し寄せ、注目の的となり、小さな町がひっくり返ります。

1987年11月、竹下政権が発足。
小さな町からの総理誕生に、掛合町は沸き返ります。
ところが、竹下内閣は国民から人気のない消費税導入を打ち出し、リクルート社の贈収賄疑惑も・・・
支持率は下がるばかり・・・その起死回生の策がふるさと創生一億円事業だったのです。

全国の市町村が、ユニークな使い方をして話題となります。
故郷の知名度を上げるために・・・!!
しかし、掛合町は、妙な使い方をして総理の地元は何をやっているんだと非難されることを畏れました。
慎重に・・・プレッシャーを感じながら、時間をかけて検討します。
重圧の中、彼らが選んだのは愚直なやり方でした。
各小学校区単位でコミュニティー協議会があったので、そこへ100万円ずつを交付して、それぞれが考えるというものでした。
そこから出てきたものをまとめ上げようとなります。

1989年3月、町の7つの地域にまず100万円ずつ配り、町民にアイデアを募ります。
そんな時・・・「好老」という文字が目に留まります。
竹下登が総理になるときに出た本に書かれていたのです。
「老いて尚好し」を意味する言葉です。
総理就任に当たり、自らの抱負を綴った著書の中に繰り返し使っていました。
誰もが向かっていく道・・・好老・・・
当時、掛合町の高齢化率はすでに20%でした。
全国平均の15年先を行く数字を指し示していました。
そして、少子化、若者の流出・・・
重く暗い未来予想図と正面から向き合い、そのために1億円使うことに決めました。
1989年12月、各地区から提案が上がります。
高齢者生活福祉センター、温泉源開発、スポーツ施設の充実・・・まさに老いて尚好しに欠かせないものです。
「好老の郷」づくりと名付けられます。
1億円を足掛かりに、足りない分は財政から補い、一つ一つ実現していこうという長期計画でした。

「安らかに生まれ、健やかに育ち、朗らかに働き、和やかに老いる」それは、人間の誰しもが思うことでした。

総合福祉施設”好老センター”をふるさと創生金から4000万円かけてつくります。
そこには当時まだ珍しかった高齢者デイサービスを導入。
切迫する町の高齢化に即した試みでした。
ただ計画の中には、町にそぐわないとやめたものも・・・屋内プール、モトクロス、テニスコート、アスレチック・・・それでも粘り強く考えます。
100万円で募ったアイデア・・・その中から生まれたもの・・・それは、今は全国に広がる”道の駅”です。
1993年道の駅””掛合の里””開業。
もともと国道沿いにあった特産品の販売所に、町の機能を集約しようと考えました。
地元の人が交流できる、会議ができる、飲食ができるような施設を・・・
子供や国道を通過する人が、立ち寄れるような公園を・・・。
地域の特産品を求めて人が集まる・・・
自分達の町をより楽しくするために考えたことが国に認められ、道の駅の第一号となったのです。
あれから30年・・・現在町の高齢化率が40%以上・・・好老センターは、忙しく動いています。

・福島県双葉郡葛尾村・・・1億円に救われた村
ふるさと創生事業から22年後に起きた東日本大震災・・・福島第一原発の事故で、周辺の住民たちは避難を余儀なくされました。
およそ600人の人々が村外に避難しました。
2011年3月11日、東日本大震災が発生。
地震と津波の影響で、福島第一原発全電源喪失・・・。
3月12日、福島第一原発から放射性物質が拡散。
政府は半径20km県内の避難指示を出します。
いつ、どこに避難すればいいのか・・・??
住民たちは混乱します。
3月15日、3度目の爆発!!
放射性物質がさらに広範囲に拡散することになります。
しかし、その前夜、葛尾村は全村非難を敢行!!
最悪の事態を免れます。
それを可能にしたのが、今も葛尾村の全家庭に置かれている白い機械・・・この機会の声が彼らを救いました。
震災が起こるまでは、人口およそ2000の農業と酪農が盛んな村でした。
30年前、この村も、ふるさと創生一億円事業に湧きかえりました。

過疎化、高齢化が進むのはどこも同じ・・・何に使う・・・??
1991年、中学校にコンピューター導入。
村の中学生に最先端の技術に触れてもらうためです。
およそ1000万円を計上し、1台約60万円の最新機種を16台購入しました。
しかし、当時はまだ東京でも文章を書くだけでのワープロが一般的でした。
パソコンは買ったものの活用できないまま2年が過ぎました。
ところが1993年、中学校の教員として赴任してきた先生が状況を変えます。
まだインターネットという言葉すら浸透していなかった時代、子供たちを巻き込んで自分たちの手で学校にネット回線を引き込みます。
この先生は、1987年~89年までアフリカ・ガーナに海外青年協力隊として勤務、アフリカで理科を教えていました。
田舎だからこそ、テクノロジーが意味を持つ!!
子供たちの学習を発信しようということで、プログラミングコンテストに応募!!
子供達と夜おそくまで頑張って、全国で最優秀賞に輝きます。
インターネット授業は、たちまち全国から注目を浴びるようになります。
都会に対して気後れしていた子供達・・・意識がみるみる変わっていきました。
電線一本で、全国や世界と繋がれる・・・!!
子供たちにとって大きな自信になりました。
中学校のIT教育が成功したことで、村全体のIT化が進んでいきます。
1998年には病院に通うのが困難な高齢者の遠隔医療が進められました。
そして、2009年、葛尾村は更なるIT化に・・・!!
村内のネットワーク・・・前世帯に光ファイバーを施設。
テレビの地デジ化の時期でした。
その工事費用に充てられたのが、ふるさと創生金・・・パソコンを購入した残りだったのです。

そして村全体を光ネットワークでつないだ時に、各家庭に設置されたのが小さな白い箱・・・IP告知端末です。
緊急の報せを受信でき、会話もできる・・・村を繋ぐホットラインです。
2011年3月11日、東日本大震災が発生したのは、ホットラインが完成した翌年でした。
地震発生翌日、政府は半径20キロ圏内に避難指示を発令。
しかし、葛尾村の場合、一部は20キロ圏内に含まれるものの、大部分がその外側に位置する為に役場も判断に迷っていました。
電話回線は途切れ、電気は通っていたものの山に囲まれた村では防災無線の届かない地域もありました。
その窮地を救ったのが、IP告知端末です。
震災直後からこれを使って村民の安否確認が行われました。
地震発生から3日後の3月14日、自主的に非難した村民もいたため、この時村にとどまっていたのは600人余り・・・。
夜9時・・・福島第一原発では内部状況が深刻化し、「事故対策本部が撤退」と伝わります。
ついに村長は、全村非難を決断します。
村長から支持を受けた職員が、全世帯のIP告知端末に向けて避難勧告を発信!!

「22時15分に役場前に集合
 直ちに福島市あづま総合運動公園に避難することを勧告する」

そして、わずか1時間で村に残っていた612人が避難に成功!!
事前に連絡していたので、安否確認ができていたからこその脱出劇でした。
ふるさと創生一億円は、22年後巡り巡って村の危機を救ったのです。

ふるさと創生一億円事業・・・バラマキ、無駄遣いと痛烈に批判され、負の遺産を生み出したこともありました。
しかし、多くの村や町が、1億円を前に故郷の未来を真剣に考えたのは確かなことです。

1989年一億円相当の金塊を展示し、日本の注目を集めた町があります。
現在の兵庫県淡路市・・・旧津名町です。
金塊は、1億円を担保に借りたものでした。
1億円はそのまま貯めてありました。
2010年金塊を返却。
今年、その1億円を使い切ります。
9900万円は図書館に・・・残りの100万円は金塊ラッピングバスに・・・。
2019年10月から運行を開始、市内を走り始めたばかりです。
いつ、どこを走るかは非公開です。
見れば幸運、乗れば金運がアップするんだとか。。。

当時は批判もあった金塊展示、それもまた街の活性化に利用しました。
ふるさと創生から30年、地方はしたたかです。

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