日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: テレビ番組

「アメリカの移民として最近起きた事件について、市民の皆さんと世界中の友人に伝えたいことがあります」byアーノルド・シュワルツェネッガー

2021年1月、アーノルド・シュワルツェネッガーさんがアメリカで起きた連邦議事堂襲撃事件についてメッセージを発表し、世界から注目を集めました。

「私はオーストリアで育ちました
 ”水晶の夜”という事件を良く知っています
 1938年、ナチの過激グループによって多くのユダヤ人の街が襲撃された事件です
 水曜日は、ここアメリカにおける”水晶の夜”でした
 この国や世界中で、同じようなことが起こり得る恐怖があるのです」byアーノルド・シュワルツェネッガー

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21世紀、民主主義の国アメリカが、どうして80年前の独裁政治のナチ・ドイツに重なるのか・・・??
あのような世の中は、いつ、どこでも現れ得るのだろうか・・・??

1930年代、ドイツ国民を独裁政治のもとに置いたアドルフ・ヒトラー・・・彼らはなぜ、笑顔で従ったのか??
今もヒトラーを慕う人々・・・その心の内とは・・・??
集団はなぜ簡単に従うのか??
ナチ社会がいきついたのは、弱者の安楽死でした。
庶民の笑顔が生み出した惨劇とは・・・??

総統アドルフ・ヒトラーのカリスマ的独裁・・・
メディアを活用した国民を欺くプロパガンダ。
批判するものは徹底的に取り締まる恐怖政治。
これまで、ヒトラー時代のドイツ国民は、狂気の集団・ナチ党に騙され、統制され、強引に熱狂に巻き込まれたと思われていました。
しかし、1990年代以降、新たな研究が進みました。

「まさに過ちのない神でした
 それが、我らの総統でした」

「1932年頃、ヒトラーをバカにしている子供たちに出会ったとき、私は”あれは許せない!”と怒って、その子たちとつかみ合いのケンカになりました
 私たち家族は、心の底からナチでした
 いつもヒトラーの写真を持ち歩いていたのです」

当時、ヒトラーを心から支持し、何十年たってもあの頃は良かったと語る人々・・・
一体、ヒトラーとナチのどこに惹かれたのでしょうか?

1920年代、ドイツ・・・ヒトラー登場以前のドイツは、新たな民主主義の時代・・・女性も選挙権を持ち、外に出て働く新しい女性がもてはやされました。
都市部での工業化が進み、産業が発展、当時の政治・・・ワイマール共和制では、議会主導のもと人権を尊重する自由な社会を目指していました。
ところが・・・この頃、ドイツの経済は二重の困難に見舞われていました。

1914年~1918年の第一次世界大戦に敗北し、領土の13%を失い、莫大な賠償金1320億金マルクを戦勝国に支払わされていました。
さらに、1929年の世界恐慌で、国民の暮らしはどん底に・・・失業者は550万人以上!!
そこに現れたのが、アドルフ・ヒトラー・・・過激な言動や演説で話題を集め、弱小政党だったナチ党・・・国民社会主義ドイツ労働者党を急速に成長させつつあるリーダーでした。

ヒトラーは、戦勝国に奪われたドイツ領土の奪還を国民に宣言!!
敗戦によってドイツがうけた恨みと屈辱を打ち破ろうと、いう呼びかけは、生活苦に苦しむ人々の心に火をつけました。

「ヒトラーこそ、敗戦からドイツを立ち直らせ、成功に導く救世主だ」

ヒトラーの呼びかけは、ドイツ人男性の心をくすぐるものでした。
当時のドイツ男性の多くは、戦争で戦って世界大戦で失ったものを取り戻したいと考えていました。
15世紀ドイツに”ランツクネヒト”という傭兵たちがいます。
彼等のように、最前線で泥にまみれて勇猛果敢に戦い抜くことに、魅力を感じていたのです。

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1940年、ナチ党女性向け機関誌の表紙は・・・工業労働者、農民と並ぶ兵士がいます。
男たちの団結によって、母親と赤ん坊が守られています。
当時、都市部の工業優先に不満を感じていた農民に、ヒトラーは目をつけます。
盛んに農村を訪れ、農村にも役割があり、国家は君を必要としていると、呼びかけました。
さらに、保守的な主婦層の声を拾い、社会進出する女性よりも、家庭で子供を産み育てる女性こそ大切だと語り掛けたのです。
新しい女性を興奮して受け入れた女性たちは案外少なく大多数は新しい現象を見て不安に陥っていたのです。
大多数の女性たちがよって立つところは、女性のいる場所は家庭であって、妻であり母である・・・この役割を認知してもらわなければならない・・・というのが、ナチ党を受け入れる太い下地になっていたのです。

民族共同体・・・男女の性の違い、労働の種類に関係なく、ドイツ民族の誰もが国家のために役立つ存在であり、皆で一致団結した公平な社会を目指そう!!と訴えたのです。
自分たちは、国家の必要とされている・・・!!
承認欲求をくすぐられ、喜びを感じた人々は、次々にナチ党を支持・・・
1928年にはわずか12/491席だったナチ党の国会での議席数は、1930年には107/577議席、1932年には230/608議席にまで急増・・・
1934年、ヒトラーは大統領と首相を兼ねた国家元首・総統を名乗り、前権力を握ったのです。

「必要不可欠なのは、ひとりの指導者の医師、ひとりが命じ、他の人々はそれを実行すればよい
 統治とは、上から始まり下で終わるものだ」byヒトラー

ナチ党のスローガン”そうとは命じ我々は従う”

統一された制服を身に着け、一糸乱れぬ更新をする八の隊員たち・・・
こうした集団行動も、人々が自らナチスに従う感情を掻き立てたといいます。


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「総統は命じ、我々は従う
 我々は彼に敬意を払い、愛したのです
 我らの総統として
 単純なことです」

近年の研究で合意独裁・・・ヒトラーが命じ、従うことに誇りと喜びを感じる国民の共同作業によって、独裁政治が実現したのです。

ヒトラーに、本当にカリスマ性があったのでしょうか??
カリスマとは、民衆が特定の人物に願いを投影したその結果です。
それによって、本当にカリスマに見えてしまうのです。

”勝利万歳!!”

”総統万歳!!”

1933年、政権を取ったヒトラーは、国民の更なる一致団結を目指し心をくすぐる政策を打ち出していきます。


ヒトラーの国民サービス ①歓喜力行団
旅行代理店のような政府機関で、旅行やスポーツ、コンサートなどの贅沢なレジャーを国民に格安で提供する組織です。
労働者の月給が1か月7万円ほどの時代に、絶景が大人気シュヴァルツヴァルトの旅1泊3食付きで1400円!!
後に世界遺産にもなる温泉地・エルツ山地への温泉旅行・8泊9日で1万2000円!!
安い!!かつて、お金持ちの特権だったレジャーを、労働者たちに開放。

”よく働いたらよく休む、国家のために力を蓄えてくれ”

という触れ込みでした。

ヒトラーの国民サービス ②国民車構想

一家に一台自動車を・・・!!エリート層限定だった自動車を、労働者層でも買えるようフォルクスワーゲン社が開発!!
数年後の納車を楽しみに、人々は積立金を支払いました。

ヒトラーの国民サービス ③アウトバーン

全国7000キロもの高速道路網アウトバーン計画・・・大型機械の使用を控え、出来るだけ手作業にすることで、年間60万人もの雇用を約束。
一時期550万人を越えていた失業者数は、ナチス時代に見る見るうちに下がり、1939年には12万人に!!

ところが、こうした魅力的な政策には、からくりがありました。
アウトバーンは、ヒトラー以前からアイデアがあり、計画が進んでいました。
ヒトラーの功績ではないのです。
国民車も、人々から積立金を集めるだけで、実際には納品されませんでした。
戦争に向けて、軍用車の製造で手いっぱいだったのです。
また、失業対策も、年間60万人の雇用を約束したアウトバーン建設では、実際の雇用者は10万人どまり。
それでも失業者が大きく減っ多様に見えるのは、若者を年間40万人も勤労ボランティアにつかせ、専業主婦にさせることで失業者のカウントから外したというのが実態でした。
さらに、1935年からは、戦争に向けての徴兵や軍需産業への動員で、失業者を減らしています。
ところがこれをヒトラーは、経済政策の政策だと宣伝・・・人々はこれを喜び、国家のために働く団結心を強めたのです。

しかし・・・表向きの一致団結には、裏側で生贄が必要でした。
それは、共同体の敵を作ること・・・!!

その標的が、ユダヤ人でした。
ユダヤ人は、古くからヨーロッパ各地で迫害を受け続けてきました。
苦境にあえぐドイツの中で、商業の成功で豊かな暮らしをするユダヤ人に妬みと憎しみが集まっていました。
ヒトラーたちは、ユダヤ人をドイツ人を食い物にし、ドイツが堕落した原因と決めつけ弾圧を開始。

1933年4月1日、ナチ党は国民にユダヤ人商店へのボイコットを呼びかけました。
ナチ党の武装組織・突撃隊が、ユダヤ人を象徴する六芒星や罵倒する言葉を落書き・・・買い物しようとする人を威圧しました。
この騒ぎに、ユダヤ人商店の前は、やじ馬で溢れかえりました。
当時の映像には、ボイコットという名の迫害現場を笑顔で見物する人々が記録されています。
映像に映っている人々の大半は、ナチの突撃隊ではなく、ただの見物人でした。
しかし、映像を見た人は、こう受け取ってしまいました。

「あの店ではもう買うべきではない」
「店のユダヤ人と自分たちは別である」

国民の中でバリアができてしまいました。
こうした直接暴力を振るうものと、見物するものとの関係が、予想だにしない恐ろしい効果を生みます。

ヒトラーの経済政策

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その後、ナチ党は、新たな法律によってユダヤ人への迫害を強めていきます。
弁護士や医師などの職業、商業の権利などをユダヤ人から奪い、ドイツ人のものとしました。

こうしたユダヤ人から合法で略奪した金品は、国の財源に充てる一方、格安で競売にかけることで、共同体を構成する国民に分配されたのです。
収容所送りとなったユダヤ人一家の家財道具を大勢のドイツ人が競り落としました。
彼等は、元の持ち主であるユダヤ人家族が、二度と戻ってこないとわかっているからこそ、安心して買えたのです。

共同体が団結すれば、皆が一緒に豊かになれる・・・
この幻想に喜ぶに人々は、その裏にある迫害を見て見ぬふりをすることで、さらにヒトラーの独裁を支えていきました。

街中で燃え上がる炎・・・まるでキャンプファイヤーを楽しむかのように笑うドイツの若者たち・・・
彼等が燃やしているのは書物の山・・・焚書です。
1933年5月10日、国内34の大学都市で学生団体が呼びかけます。
伝統的なドイツの価値観を守るためと称して、ユダヤ人の書物などを焼き払いました。

そして5年後・・・民衆の暴走が一銭を超える事件が起きます。
11月・・・ポグロム(虐殺)・・・水晶の夜
ドイツ全土のユダヤ人街を、ナチ突撃隊が襲撃、放火した事件です。
発端は、1938年11月7日、フランス・パリで、ドイツ大使館職員がユダヤ人青年に銃撃され死亡する事件が発生しました。
すると、ドイツの複数の地域で、ユダヤ教礼拝堂・シナゴーグへの放火など、報復行為が始まりました。
さらに事件の2日後、国民啓蒙宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスが奇妙な演説をしました。

「各地の反ユダヤデモで商店が破壊され、シナゴーグが焼かれている
 しかし、この行動は、あくまで自然発生的なので、抑える必要はない
 それが総統のご意向だ」byゲッベルス

報復を政府は止めない・・・
ところが、これが党幹部を通じて、全国のナチ党支部へ伝わるうちに、恐ろしい事態を引き起こします。

11月9日夜・・・ドイツ全土でナチ突撃隊によるユダヤ人街襲撃が始まりました。
一方、警察は、こうした暴力に対してみて見ぬふり・・・
だれも止める者がいない中、見物していた一般市民も暴走し始めます。
自分は手足となって、代弁者となって、権威者の願いや希望を遂行する・・・
野蛮な行動や暴力的な行為でも、責任を負わない・・・。
正しいことをやっている、いいことをやれる、模範市民として正当化する論理を持っていました。

襲撃は朝まで続きました。
放火されたシナゴーグ1400。
略奪、破壊されたユダヤ人商店7500軒。
負傷者多数、死者100人以上。

その後、事件の原因はユダヤ人側にあるとして、ユダヤ人3万人が逮捕。
頭を丸刈りにされ、収容所で強制労働をするか、財産を放棄して国外退去するか選択が迫られます。
上層部の無責任な扇動がもたらす民衆の無責任馬暴力の解放・・・
止めるもの無き共同体の暴走は、その後、急激に加速していきます。

首都ベルリンの中心地ティアガルテン通り4番地・・・
美術館やベルリンフィルハーモニーと並んで、ガラスの慰霊碑が立っています。
かつてここにあった司令部から障害者を安楽死させよという作戦・・・T4作戦です。
1939年9月1日、ポーランド侵攻・・・
これを機に第2次世界大戦がはじまりました。
この頃作られたナチ党のプロパガンダ映画「過去の犠牲者」・・・精神障害者の施設が映し出されています。

「健康な国民を健全にするための資金が、障害者を扶養するために使われている
 この施設の費用に、これまで7700万円かかった
 この資金があれば、数多くの健康な人が、家を買えたはずだ」

ヒトラーはこの障害者を5000人安楽死させることができれば、年間50億円の介護費が軽減できると計算しました。
莫大な戦争費用の足しにできると考えたのです。
1939年10月、T4作戦発動!!
医師たちは、全国の障害者施設や病院を調査して回り、労働力になりそうもない者を見つけると見つけるとこう呼びました。

「生きるに値しない命」

親に対しては、特別な治療が必要と嘘をつくとバスに乗せて安楽死施設へと連れ去りました。
彼等が連れてこられた施設内には、離れの建物がありました。
障害者たちはまずシャワーを浴びよと中に入ります。
そこは、ガス室でした。
全国6カ所の安楽死施設・・・その一つがあるハダマー・・・。
住民たちは、丘の上にある施設で何が行われているのかうすうす感付いていました。

「施設から煙がのぼっているのが見えて、何だろうと皆で噂しました
 戦場からの帰還兵が言いました
 死体が焼けるにおいと同じだと
 満席のバスが丘の上にのぼるのですが、帰りはいつも空っぽです
 施設はもう人でいっぱいのはずなのに、おかしいと思いました」

障害者の親の一部は、安楽死を歓迎しました。
わが子が障害者であることを恥と思う親もいたのです。
当時、精神的な疾患の場合、親や兄弟も障害者と疑われるからです。
しかし、T4作戦のうわさが広がると、次第に反発の声が上がります。
ドイツカトリック教会のフォン・ガーレン司教は強く非難しました。

「私たちは、他者から生産的であると認められた時だけ生きる権利がるというのでしょうか
 もし、非生産的な市民を殺してよいとするならば、病人、傷病兵、仕事でケガをした人、老いて弱った時の私たちすべてを殺すことが許されるのです」

宗教界からの反発に、国民がなびくことを恐れたヒトラーは、1941年8月、T4作戦の中止を命令します。
しかし・・・

「医療施設自身でどうにかする時が来たのだ」by安楽死施設医師

作戦の中止が伝えられたのちも、医師や看護師が自発的に安楽死を続けたのです。
この暴走に対して、ナチ政府が罰則を設けたり、富めたるすることはありませんでした。

「私は生涯一度も悪いことをしていません
 私は常に勤勉で、患者にも人気があり、上司の評価も良かったのです
 治療不可能な精神病患者が、国や国民、家族の負担になっているため、惠の死を与える法律が作られたせいなのです
 私は当時、そう信じていました」by安楽死施設の看護師

やがて安楽死の対象は、高齢の病人、空襲で傷を負った市民、さらには第1次世界大戦で負傷した退役軍人まで、戦争の役に立たないと殺害・・・その数は、20万人に拡大しました。

このT4作戦で使われた技術や使われた医師や看護師は、後にホロコースト・・・ユダヤ人大量虐殺の担い手となりました。

1945年4月30日、独裁者アドルフ・ヒトラー自殺・・・。
彼がドイツ国民に見させた夢・・・民族共同体は崩壊します。
ドイツは再び敗北・・・国民が喜んで従い、一致団結した独裁の結果、国民自身も含め数千万もの命が失われました。



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アメリカ最大の軍事施設ホワイトサンズ ミサイル実験場・・・ここで人類初の核実験が行われました。
トリニティーと言われたこの実験は、広島に原爆が投下される3週間前に実施されました。
当時、マンハッタン計画と言われた原爆開発・・・アメリカの極秘プロジェクトと言われてきました。
しかし、最新研究から、この研究にイギリスが深く関与していたことが明らかになってきました。
その中心となったのが、首相のウィンストン・チャーチル。
その全容を示す資料が、イギリスで公開されました。
原爆開発を秘匿する為に、プロジェクトは暗号名で呼ばれました。
チューブ・アロイズ・・・そこには、知られざるイギリスの核戦略が記されていました。
原爆開発のカギとなる技術をもたらしたのは、イギリスの科学者たちでした。
さらに、日本の原爆投下にチャーチルが強い影響力を与えていたことが明らかになりました。

アメリカを動かし、原爆開発を進めるチャーチル・・・
しかし、ナチス・ドイツを率いるヒトラーや、ソビエトのスターリンも原爆開発を進め、しのぎを削っていました。
スターリンは、開発を急ぐため、イギリスにスパイを送り込んでいました。
原爆投下の舞台裏で、何が起きていたのか・・・暗号名”チューブ・アロイズ”。

イギリスの首都ロンドン・・・中心部の官庁街にある大蔵省・・・
その地下には、第2次世界大戦中、秘密の作戦室がありました。
イギリス首相ウィンストン・チャーチルが、戦争の指揮を執った内閣戦時執務室です。
シェルターで身を守りながら、チャーチルは強大な敵と戦っていました。

ヒトラー率いるドイツ軍・・・1939年、ポーランド侵攻。
続いてオランダやフランスを占領し、その脅威はイギリスに迫っていました。
対するチャーチルは、劣勢に立たされながらも、徹底抗戦を続けました。

「いかなる代償を払っても勝利を、海で陸で空で戦う」

チャーチルが最も恐れていたことは・・・それは、ヒトラーが原爆を手にすることでした。

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①原爆をめぐる攻防~チャーチルVSヒトラー~
1938年、ヒトラー率いるドイツで、後の原爆に繋がる重大な発見がありました。
当時、最先端の原子物理学を研究していたカイザー・ヴィルヘルム研究所・・・
人類にとって、未知のエネルギー反応が見つかりました。
原爆の原理であるウランの核分裂反応が観測されたのです。
天然資源ウラン鉱石・・・その原子に中性子を当てることで、ウランが分裂・・・
それを連鎖的にひきおこすと、莫大なエネルギーが得られることが分かりました。
核分裂を応用すれば、通常兵器の数万倍の破壊力を引き出せる可能性がありました。
翌1939年4月、ヒトラーは、ウランを使った新兵器の開発に向け、研究機関を設立。
その5か月後・・・ドイツはポーランドを攻撃し、第2次世界大戦がはじまりました。
原爆に関する情報を厳重に管理、極秘裏に研究を進めていくヒトラー。
その脅威に、いち早く警鐘を鳴らしたのが、ドイツからアメリカに亡命した天才科学者でした。

1939年、アインシュタインは、アメリカも原爆研究を始めるよう提案する手紙を書きました。
あて先は、当時の大統領ルーズベルト。
しかし、ルーズベルトは、原爆は実用的でないと考えました。
原爆開発には、大量のウランが必要になる・・・
爆弾は重すぎて、大型船でしか運べず、輸送は困難と見なしたのです。
原爆研究を本格化しないアメリカ・・・ヨーロッパの戦争に関わらない、孤立主義をとっていました。

一方のイギリス・・・
1940年、ドイツによる空襲で、ロンドンが大火に包まれました。
ヒトラーの猛攻で、敗戦の危機に立たされるチャーチル・・・
そのチャーチルのもとに、逆転の朗報がもたらされます。
バーミンガム大学で、原爆を小型化する理論が見つかったのです。
サイクロトロンは、原爆の小型化に欠かせない装置・・・
後にウランの分離に用いられました。
当時、研究を行っていたのが、ドイツから亡命していたユダヤ人科学者ルドルフ・パイエルスでした。
注目したのは、ウランの周囲・・・
自然界に存在するウランは、0.7%のウラン235と99.3%のウラン238・・・このうち、核分裂しやすいウラン235だけを分離し、濃縮すると、原爆を小型化できることが分かりました。

「1940年の春に状況が変わりました
 突然、核兵器開発の可能性を見出したのです
 それが、同位体(ウラン235)を分離する大規模な計画に繋がるのです」byパイエルス

その発見は、フリッシュ・パイエルス・メモと呼ばれた文書にまとめられました。
原爆を飛行機で運べるほど、小型化できる可能性が見えてきました。
チャーチルは、原爆が実用的な兵器になると認識・・・
本格研究に乗り出すことを決断します。

フリッシュ・パイエルス・メモの登場は、原爆開発の歴史で最も重要です。
単なる理論だった者を、現実へと変えたのです。
それは驚くべき前進でした。
パイエルスの発見をもとに、チャーチルは原爆開発の組織を立ち上げます。
オールドクイーン・ストリート16番地・・・
ここに、原爆開発の方針を検討する”チューブ・アロイズ技術委員会”が置かれました。
チューブ・アロイズ計画・・・暗号名で呼ばれました。
チューブ・アロイズとは、管状合金のこと・・・航空機のラジエーターや、燃料タンクの製造計画を連想させ、原爆開発と悟られないようにしました。
研究の中核を担った科学者は、50人ほど・・・
パイエルスのようにヒトラーの迫害を逃れてきたユダヤ系の人々が多かったのです。

「ヒトラーが、最初に原爆を手にしたら、という想像は私たちを震え上がらせた
 原爆は、多数の市民を死傷させる
 これを防御するには、同じ武器での報復以外に手段はない
 抑止力として開発する価値がある」byパイエルス

ところが、イギリスの原爆開発には大きな障害がありました。
ドイツによる激しい空襲です。

”イギリスは、絶え間ない敵の爆撃に晒されている
 必要とされる大きくて目につきやすい工場をこの国に建てるのは不可能に思われた”byチャーチル

このままでは、ヒトラーに対抗できない・・・
チャーチルは思い切った決断に出ます。
アメリカと協力すれば、最短で原爆開発ができると考えていました。
アメリカは、資金を持っているし、空襲もありません。
原爆の秘密を渡し、アメリカを味方につければ、アメリカの工業力を使って戦争に勝つための原爆開発ができると目論んだのです。

1941年7月・・・チャーチルは、原爆開発のカギを握るパイエルスの発見を密かにアメリカに伝えました。
報告を受けたのは、ルーズベルト大統領の右腕ヴァニーヴァー・ブッシュ。
兵器開発の責任者でした。

「我々は、イギリスの報告書を読み、初めて”これはできる”と確信した
 チャーチルは、ルーズベルトに非常に大きな影響を及ぼし歌と思う」byブッシュ

ブッシュは、これまで原爆開発に乗り気でなかったルーズベルトに、イギリスの報告を伝えました。
その2日後・・・ルーズベルトはチャーチルに電報を送りました。

「チャーチル閣下へ
 我々は、早急に会談を開くべきだと考える
 共同で研究を進めたい」byルーズベルト

ルーズベルトは、政策を大きく転換・・・原爆開発に着手することを決断しました。

奇妙な同盟 1 ルーズベルト、スターリン、チャーチルは、いかにして第二次大戦に勝ち、冷戦を始めたか [ ジョナサン・フェンビー ]
奇妙な同盟 1 ルーズベルト、スターリン、チャーチルは、いかにして第二次大戦に勝ち、冷戦を始めたか [ ジョナサン・フェンビー ]

2か月後・・・1941年12月真珠湾攻撃
それまで孤立主義をとっていたアメリカが参戦。
太平洋戦争が始まりました。
真珠湾攻撃は、イギリスにとって好都合でした。
アメリカが参戦し、チャーチルは”感謝してぐっすり眠った”と言っています。

1942年6月・・・チャーチルは自らアメリカへわたりました。
ニューヨーク・ハイドパークにあるルーズベルトの邸宅・・・
原爆を共同で開発するための秘密会談が行われました。

「私が強く主張したのは、直ちに全ての情報を共有すること
 そして同じ条件で仕事をし、成果を平等に分かち合うことだ」byチャーチル

チャーチルは、英米の科学者が、互いの国で研究を進め、その成果を交換し合うことを提案。
ルーズベルトも原爆開発プロジェクトを始めることを決定しました。

アメリカの計画は、その事務所がマンハッタンにあったことからマンハッタン計画と暗号名がつけられました。
アメリカを巻き込んだことで、原爆開発競争は加速していきます。
ヨーロッパでは、チャーチルがヒトラーに対し攻めに転じます。
ドイツの原爆開発を阻止するために、極秘の破壊工作を命じました。
1943年2月、ドイツ軍が占領したノルウェーのテレマルクで・・・
特別に訓練した9人の兵士を潜入させました。
切り立った壁に囲まれた秘密工場・・・
ここで、ドイツ軍は大量の重水を製造していました。
重水は、ウラン核分裂の連鎖反応を誘発させる材料でした。

「重水という不気味で異様で不吉な言葉・・・
 この恐るべき領域で敵に後れを取るという致命的な危険を冒すことはできなかった」byチャーチル

重水の製造ラインは、爆破されました。
チャーチルは、ヒトラーの原爆開発に打撃を与えることに成功したのです。
同じ頃、アメリカではイギリスの支援によって原爆研究が加速していました。
巨額の資金を投じ、全米各地に研究施設や大規模工場の建設を開始。

1942年12月・・・シカゴ大学で、世界初の実験用原子炉を建設・・・
ここで、原爆を量産する新たな可能性が見出されました。
それは、原爆のもう一つの材料となるプルトニウム・・・
ウランよりもわずかな量で、強大な爆発を引き出す特性を持っていました。
それまで、原爆の材料とされてきたウラン235、わずか0.7%しか存在しない貴重なものでした。
一方、99.3%を占めるウラン238。
これに、中性子を当てることで、プルトニウムを生み出せることが実証されました。
プルトニウムを量産できれば原爆を量産できる!!
アメリカは、頑張ク開発のカギとなる技術を独自に見出したのです。
その生かを受け、ブッシュはルーズベルトに一つの提案をしました。

「今後の情報すべてをアメリカだけで保有することの利点は明らかだ
 これから先の歩みが第一級の重要性を持つ軍事機密になる段階に達しつつある」

アメリカは、1942年の末には、プルトニウムを製造する技術をすべて持っているという強い自信がありました。
マンハッタン計画の責任者たちは、イギリスに情報を渡すことに抵抗しました。
戦後に、原子力開発の分野でイギリスがアメリカの競争相手に発展することを恐れたからです。

原爆情報の独占へと動き始めたアメリカ・・・
1943年1月、イギリスは思わぬ通告を受けます。

「アメリカからの情報は、上から規制されました
 密かに行われていた情報交換が政治的理由ですべてストップしたのです」byパイエルス 

頼りにしていたアメリカの方針転換・・・
チャーチルは、原爆の共同開発計画の見直しを迫られたのです。


②核の独占~チャーチルとルーズベルト

1943年7月、チャーチルは首相官邸にアメリカ大統領の右腕ブッシュを呼びつけました。
当初、アメリカを頼るしかないと共同開発を持ち掛けたチャーチル・・・
しかし、この会談で、意外な行動に出ました。

「イギリスは独自に原爆開発を開始する」byチャーチル

チャーチルの方から、原爆の共同開発の解消を主張しました。
チャーチルたちは追い詰められていました。
自分たちの計画が、アメリカに乗っ取られた・・・イギリスが排除されると感じていたのです。
この時、チャーチルに秘策があったことが明らかになりました。

「アメリカの協力なしでカナダに短期間で工場を建設する」byチューブ・アロイズ技術委員会議事録

カナダが、イギリス連邦の一つで、チャーチルの影響力が強く及びました。
ドイツの空襲がなく、原爆開発を安全に行えるメリットがありました。
この計画を立案したのは、パイエルス達イギリスの科学者でした。
開発拠点は、モントリオール大学、独自の原爆開発に踏み切るため、ウランと核分裂に必要な材料”重水”を運び込み、原子炉を造ろうとしていました。
こうしたチャーチルの思い切った行動を重く受け止めたのは、ルーズベルトでした。
これ以上、イギリスを追い詰めることは同盟関係をそこなうと考え始めていました。

イギリスは、第2次世界大戦の終わりには、破産寸前でした。
ルーズベルトは、それを見抜き、イギリスが没落するのを阻止しようと決めました。
ルーズベルトには、戦後の目的がありました。
力を発揮できる強力な同盟国としてイギリスを保っておくことです。
結局、ルーズベルトはイギリスを強い同盟国でいさせるために、核政策のパートナーにしておこうと思いました。

イギリスとの同盟関係を最優先にしたルーズベルト・・・
情報公開の再開を行いました。
その1か月後、カナダで行われた英米首脳会談・・・チャーチルは、アメリカが再び格の独占に走らないようにルーズベルトとの間で秘密の協定を結びました。
”ケベック協定”です。
原爆を共同管理する上での基本方針を取り決めました。

第一、互いに対し原爆の力を使わない
第二、互いの合意なしに第三者に使用しない
第三、互いの合意なしに如何なる情報も第三者に提供しない

注目すべきは、第二項。
原爆投下の決定権は、英米の二国で持つという内容です。
その後、ケベック協定は予想を超えた役割を果たします。
1941年にチューブ・アロイズ計画がマンハッタン計画に組み込まれた瞬間から、イギリスは原爆を使用するつもりがあったと思われます。
チャーチルは、原爆投下の決定権にアメリカと対等の立場を望んだのです。

「ルーズベルトと交わした秘密の協定より、良い条件はありえない
 もうほかにすることはない
 ただ最善をもってこれを貫くのみだ」byチャーチル

チャーチルの計画は、ケベック協定を後ろ盾に加速していきます。
アメリカ西部のロスアラモス・・・標高2200m、人里から隔離された高台・・・
この地に、アメリカは原爆の設計と組み立てを行う秘密の研究施設を建設します。
全米の優秀な科学者や、その家族など6000人が集められました。
そこに、チャーチルは、イギリスの優秀な科学者を派遣。
一刻も早い完成を目指そうとします。

”イギリスの委員会はマンハッタン計画に全力を尽くす
 イギリス全ての研究が中断されてもだ”byチューブ・アロイズ技術委員会

イギリスの科学者は全員、本物の科学者でした。
ロスアラモスでは、皆若く、上司たちもせいぜい30代・・・
とくにイギリスの科学者が取り組んだのは、原爆を実用化する上での最大の難問・・・プルトニウムの起爆方法でした。
当時は、爆縮と呼ばれる起爆方法でした。
プルトニウムの球体の周囲を火薬で取り囲み、同時に転嫁することでプルトニウムを圧縮する仕組みです。
プルトニウムは密度が高くなると、臨界に達し、爆発する特性があり、それを起こすために外側からの爆発の力が必要だったのです。

文庫 ルーズベルトの開戦責任 (草思社文庫) [ ハミルトン・フィッシュ ]
文庫 ルーズベルトの開戦責任 (草思社文庫) [ ハミルトン・フィッシュ ]

プルトニウムの球体を覆うように32個の起爆スイッチが取り付けられていました。
起爆スイッチが同時に作動すれば、それが一つの爆発になります。
それが爆縮・・・球体を小さい体積に圧縮し、爆縮を引き起こそうとしたのです。

しかし、プルトニウムの爆縮は、困難を極めました。
火薬で圧縮しようとすると、その衝撃波は先端だけが先にプルトニウムに到達します。
プルトニウムに同時に均一の力が加わらないため、圧縮される前に逃げ道を求めて飛び散ってしまうのです。
爆縮に許された誤差は、2/1000000秒でした。
多くの科学者のとけない難問でした。
解決の糸口を見つけたのは、イギリスから派遣された二人の物理学者クラウス・フックスとジェームス・タックでした。
高度な計算理論と、火薬の専門知識を持っていました。
注目したのは、爆縮レンズと呼ばれる仕組みです。
プルトニウムの周囲に、燃焼速度の異なる火薬を組み合わせると、衝撃波が屈折!!
すると、プルトニウムを均等に包み込むように爆縮が起こるのです。
こうして、誤差を克服・・・プルトニウムを起爆する見通しが立ちました。

爆縮レンズを開発したイギリス人科学者は、どのように評価されたのでしょうか・・・??

「爆縮レンズの実現は、非常に困難なものでした
 ロスアラモスの中でも、主要な研究テーマでした
 最終的に、爆縮レンズが必要だと突き止めるまでは、この方法が使えると想像できた人は誰もいなかったのです
 イギリスが他に類を見ない重要な貢献をした
 アメリカよりはるかに高度な専門知識がありました」byロイ・グラウバー博士

アメリカの原爆開発を、陰で動かしたチャーチルと、イギリスの科学者たち・・・
当初の敵は、ヒトラー率いるナチス・ドイツでした。
しかし、ヨーロッパの戦局が激変する中で、新たな脅威が出現しようとしていました。
ソビエトです。

1941年、ソビエトは、ドイツ軍の大規模な奇襲攻撃を受ける・・・
ソビエト軍は敗退・・・首都モスクワの近郊まで侵攻されました。
ソビエトを率いるのは、ソ連共産党書記長のヨシフ・スターリン。

「全ての国民が陸海軍を支えてナチスの大軍を叩き潰すのだ
 我々の人的資源は無尽蔵だ」byスターリン

徹底抗戦を命じるスターリン・・・
イギリスと同盟を結び、戦局の転換を目指しました。
ソビエトが攻勢に転じたのは、スターリングラードの戦いでした。
1943年2月・・・それまで連勝を続けていたドイツ軍を壊滅に追い込んだのです。
ドイツ軍は、その後も撤退が続いていきます。
ヒトラーは、劣勢を打破しようと弾道ミサイルV2の開発に力を入れました。
いつ完成するかもわからない原爆開発は、中止に追い込まれていきます。

一方、ソビエトはスターリングラードで勝利した2月、国家防衛委員会が原爆開発を決定。
極秘に小型の原子炉建設を開始しました。
急速に台頭するソビエト・・・同盟国とはいえ、チャーチルの目にはスターリンも新たな脅威として映っていました。


③新たな脅威=チャーチルVSスターリン

スターリン率いるロシアは、原爆情報を盗み取る諜報戦に力を入れていました。

「ロシアは昔からスパイ活動に強い国です
 ロンドンにはソ連の諜報支局があり、政治や科学技術の情報を収集していました
 スターリンは、チャーチルが原爆を持てば、ソ連に戦争を仕掛けると考えていました
 当時、ソ連は原爆を持っていませんでした
 ですから、緊急を要したのです」by元KGB

もっとも重要な原爆情報をソビエトに渡していたスパイがいました。
コードネーム・チャールズ・・・
イギリスで、原爆実用化の理論が発見されたこと・・・
さらに、それをもとにアメリカ・ロスアラモスで開発が行われていることをつぶさに報告していました。
最初に情報を渡していたのは、1941年。
マンハッタン計画が始まる以前から、チャールズはスパイ活動を行っていました。
誰がチャールズなのか・・・??

ソビエトの機密資料には、その実名が記されていました。
クラウス・フックス・・・チューブ・アロイズ計画に参加し、あのプルトニウムの爆縮の研究を行った物理学者でした。
フックスは、ドイツ共産党員で、イギリスに亡命した物理学者でした
フックスは、ソビエトにどのように情報を渡していたのでしょうか??
アメリカ、ロスアラモスで研究を行っていたフックス・・・度々研究施設を離れていました。
外出が許されたのは、ドイツからアメリカに亡命した姉に面会するという理由でした。
しかし、実は、ソビエトの工作員と落ち合っていたのです。
工作員は目印として、当時流行していたコメディ本を持っていました。
フックスが渡した情報には、原爆開発における最高機密が含まれていました。
起爆装置の構造・・・プルトニウムを爆縮する方法です。
最後のカギが、ソビエトに渡っていたのです。

フックスはどうしてスパイになったのでしょうか??  
フックスは、すべての行動を、”反ファシズムの戦い”としていました。
ナチスを中心としたファシズムと対抗する勢力としてソビエトに期待していたのです。
スターリングラードの戦いで、ソビエトは祖国を開放する存在に映ったといいます。
戦いで戦局が変わったこと・・・戦争で貢献したソ連は甚大な被害も受けていたので、支援するべきだと考えていました。
フックスには、ソビエトに情報を渡したもう一つの理由がありました。
もし、原爆の情報が誰か一人の手にとどまっていたら、危険であると気づいていました
原爆を独占し、悪用できる状態は人類の危機であると・・・!!

ファシズムとの戦い、そして、英米の核の独占への危機感・・・
それが、フックスがソビエトに情報を流した理由でした。

ソビエトは、諜報活動で得た情報をもとに、プルトニウム型原爆の開発を進めていきます。
それは、英米が開発していた原爆と、瓜二つのものでした。
チャーチルは、イギリスの科学者が原爆の最高機密情報までソビエトに漏らしていたことを把握していませんでした。

アメリカとイギリスは、スターリン政権下のソ連の動向を察知できませんでした。 
独裁体制で、厳しく情報が統制されていたからです。
それでもチャーチルは、スターリンが原爆開発を始めているのではないかと恐れ続けていました。

「ロシア人は、化学開発に特異な才能がある
 原爆開発を進め、大きな成果を上げている可能性を忘れてはならない」byチューブ・アロイズ計画担当大臣

当初、ヒトラーと対抗するために始まったチャーチルの原爆開発計画・・・この先、スターリンとの攻防が焦点となっていきます。
それぞれの思惑は、原爆投下にどのようにかかわっていくのでしょうか??

1944年、ヨーロッパではドイツの敗色が濃厚となっていました。
スターリン率いるソビエトは、ベルリンを目指し猛攻撃を続けていました。
こうしたソビエトの力の脅威を感じていたのは、チャーチルでした。
共産主義のソビエトと戦後に衝突が起こると考えると、原爆の実用化を急いでいました。

「国際的恐喝に利用されかねない原爆を獲得する競争で、ソ連を勝たせてはならない」byチャーチル

一方、原爆を共同開発していたアメリカ・・・チャーチルとは異なる考えが芽生え始めていました。
ルーズベルト大統領は、大国ソビエトとの対立は、世界に混乱を招くとみていました。
ルーズベルトの戦後の大きな目標は、ソ連との協調でした。
ルーズベルトは、戦後もイギリスとは軍事同盟を維持しながら、同時にソ連との協調も必要になると信じていたのです。
ルーズベルトが目指したのは、ソビエトとの協調・・・
核を独占したいチャーチルとは、異なる考え方でした。

④”対立”か”協調”か~ソ連をめぐる攻防~
どうすれば、ソビエトと協調を図れるのか??
ルーズベルトは、ひとりの世界的な科学者を起用します。
アインシュタインと並ぶ天才と呼ばれたデンマーク出身のノーベル賞物理学者ニールス・ボーア。
チューブ・アロイズ計画の特別顧問で、英米の高官とも広い人脈を持っていました。
当時、ニールス・ボーアは、最先端を行く物理学者でした。
ルーズベルトとこれほど個人的にはなしができた科学者はいません。
ボーアは、対ソ協調に向けた独特な構想を持っていました。
原爆開発を行っていることを、ソビエトに打ち明けようというのです。

「秘密裏に準備されると、競争を防止するには情報交換と開放的な態度が必要となる
 大国間にある不振の原因の根絶に役立つはずである」byボーア

ボーアの構想は、後に”核(原子力)の国際管理”と呼ばれました。
ソビエトとの軋轢を無くすため、米英ソで原爆情報を共有・・・その上で国際組織で核技術と資源を管理する・・・
世界から、原爆の開発競争を無くすことが目的でした。
ルーズベルトは、”核の国際管理”に非常的に好意的でした。
そして構想をスターリンに伝えられるよう、イギリスに行きチャーチルを説得するようボーアに依頼しました。
ボーアは、イギリスに渡り、チャーチルとの会談を取り付けます。
1944年5月・・・ロンドン首相官邸に招かれたボーア・・・会談開始から30分、突然チャーチルが話を打ち切りました。
この時、チャーチルの元には、イギリスの諜報機関からのソビエトを警戒する計画書が届いていました。
会談の直前、ソビエトの大使館員がボーアと接触・・・ソビエトの原爆開発を手伝うように勧誘を行ったのです。
ボーアは、その勧誘をことわり、接触の事実をイギリス側に伝えていました。
しかし、チャーチルは、ボーアをソビエトのスパイと疑いました。

「どうしてボーアは、この問題に入り込んできたのか
 彼は、ソ連と密接な交信をしている
 死刑に値する大罪を犯していることをわからせなければならない」byチャーチル

9月、チャーチルはルーズベルトを訪ねます。
ボーアとソビエトの接触の事実を突き付け、くぎを刺しました。

「原爆情報を世界に知らせようとする提案は受け入れられない
 ソ連に絶対に情報を漏洩しないよう、措置を取るべきである」byチャーチル

この時結ばれた協定により、核の国際管理に繋がるルーズベルトの構想は潰えたのです。
チャーチルは、戦後スターリンが世界制覇に動くことを非常に恐れていました。
いずれはソ連も原爆を持つ・・・しかし、その時には英米が原爆を大量に保有し、優位に立っていると考えました。
1944年、太平洋では、日本軍が絶望的な抵抗を続けていました。
英米を中心とする連合国の兵士にも、犠牲者が増え続けていました。

「我々は、とりわけ日本の存在を忘れてはならない
 日本を償わせるために、どれだけの時間や努力が必要とされるのか」byチャーチル

9月、チャーチルとルーズベルトが交わした協定・・・
この中に、日本降伏に向けたある重要な方策が記されていました。

「最終的に原爆が使用可能になったとき、おそらく日本に使用することになろう」byハイドパーク協定

日本を降伏に追い込むための切り札として、原爆を実践で利用することが視野に入ってきたのです。
1945年2月、米英ソの首脳が集まったヤルタ会談。
ここで、日本降伏へのもう一つの切り札が検討されました。

ヤルタの密約・・・ソ連は対日参戦を条件に南樺太や千島列島などを要求

スターリンは、参戦の見返りに南樺太や千島列島などを要求・・・
それには共産圏の拡大のリスクがありましたが、米英は受け入れました。
ソ連参戦は、日本を確実に降伏させるための作戦でした。
この時、原爆が本当に実用化できるか誰にもわかりませんでした。
終戦へのあらゆる戦略を練ったのです。

会談から2か月後の1945年4月・・・ルーズベルトが死去
新たに大統領となったのは、それまで原爆開発について何も聞かされていなかったトルーマンでした。
共産主義のソビエトに、批判的な考えを持つ政治家でした。
4月末・・・ヒトラーは自殺、5月、ドイツ降伏・・・長きにわたる戦いが終わり、イギリスは戦勝ムードに湧きました。
しかし、チャーチルは違っていました。

「歓喜に沸く群衆にもまれながら、私の心は将来の懸念でいっぱいになっていった
 事態にはもう一つの局面があった
 日本がまだ征服されていなかった
 原子爆弾がまだ生まれておらず、世界は混沌としていた
 私の目にはソ連の脅威がナチスにとって代わっているように見えた」byチャーチル

5月のドイツ降伏後、原爆を日本に投下する計画が加速していきます。
アメリカ・ロスアラモスに近い砂漠地帯・・・原爆を実際に爆発させ、兵器としての効果を確かめる実験の準備が始まろうとしていました。
日本のどの都市に原爆を投下するのか??
その検討も始まっていました。
ドイツ降伏から2日後に開かれた目標検討委員会・・・目標の選定にあたって重要な条件が示されました。

「兵器を使用する際、これを劇的なものにし、その重要性を国際的に認識させること」

英米が、原爆という強大な力を持っていることを世界に示す・・・
それが、次の戦争を防ぐ抑止力になると考えていました。

チャーチルは後に「原爆の被害が大きいほど好都合だ」と言っています。
核のパラドックスです。
原爆被害への想像が恐ろしいほど、再び使いにくいだろうと考えました。
イギリスから派遣された科学者たちは、原爆の効果を最大限に引き出そうとします。

ウィリアム・ペニー・・・爆風研究の第一人者です。
注目したのは、原爆を起爆させるCODE。
ある一定の高さで起爆すると、通常の爆風の2倍以上の威力を持つ衝撃が!!
マッハステムが発生します。
原爆が爆発すると、上空からの爆風・・・そして、地面にぶつかり反射する爆風・・・この2つの爆風の波長がタイミングよく重なるとマッハステムが発生します。

原爆を起爆する高度が重要議題でした。
適切な高度が設定できれば、2つの波長が同調し、威力を増大できるのです。
原爆の威力を世界に示し、マッハステムの効果を測定する空襲被害の少ない都市に投下する必要がありました。
こうして、広島と長崎が目標に選ばれました。
原爆投下に向けて、7月に実験が行われることになりました。
戦局を左右するこの極秘情報すら、ソビエトは、スパイを通じて察知していました。
プルトニウムの起爆方法をソビエトに渡したクラウス・フックス・・・原爆実験の情報も伝えていました。

「実験は7月10日ごろ行われる
 成功すれば原爆は早急に実際の戦闘で試される」

この情報は、政治的価値がありました。
フックスは、ソ連に実験を警告しました。
それで、スターリンは日本との戦いに参戦すべきとの決意を固くしました。
ソビエトは、対日参戦に向けて、極東に急ピッチで兵士を輸送していきます。
原爆投下の前に、対日参戦できるのだ。
それがスターリンの課題でした。
一方、チャーチルも動き出します。
チャーチルは、トルーマンから原爆投下の同意を求められ、ためらうことなく同意しました。

ケベック協定・・・第二、互いの合意なしに第三者に使用しない

原爆投下の決定権を等しく持つことを取り決めたケベック協定・・・
7月2日、チャーチルは、原爆が完成したら、協定に基づき、即使用することを示しました。

「イギリスは日本への原爆投下に同意する」by合同政策委員会

英米は、ソ連参戦前に、原爆投下で戦争を終わらせようとします。
スターリンに、日本の領土を渡さずに済むからです。
ソビエトの参戦を阻止したいチャーチル・・・
原爆投下の前に参戦したいスターリン・・・
日本降伏を巡って繰り広げられる大国の駆け引き・・・
そのカギを握る実験は、7月16日に行われることが決まりました。
原爆実験の前日、7月15日、チャーチルはドイツに向かいました。
ポツダム会談です。
対日戦や、戦後のヨーロッパ問題について話し合う2週間の首脳会談です。
チャーチルの呼びかけで、トルーマン、スターリンが集まりました。
どのように戦争を終結させるのか・・・
会談初日の7月17日、先に動いたのはスターリンでした。
スターリンは、チャーチルに近寄り、日本から極秘の電報が届いていたことを打ち明けました。

日本は当時、中立条約を結んでいたソビエトに、昭和天皇の和平の意向を知らせていました。
ソビエトの対日参戦の意向を知らず、和平の仲介を頼んでいたのです。
スターリンは、和平の仲介は行わず、対日参戦する意向をチャーチルに伝えました。
スターリンからのこの情報は、チャーチルもすでに掴んでいました。
日本がソビエトに送った暗号電報は解読され、チャーチルに報告されていたのです。
チャーチルも、和平に応じないことを述べました。

英米は和平交渉がソ連と日本の間で結ばれることを嫌いました。
外交的な終結を望まず、日本人に罰を下す必要があると考えていました。
翌18日、事態は大きく動きます。
アメリカで2日前におこなわれた原爆実験の報告書が届いたのです。
原爆が正確に爆発するかどうかが、プルトニウムの起爆にかかっていました。
実験は、成功・・・プルトニウム型原爆の威力は、想定を超えるものでした。
実験の成功を受け、チャーチルとトルーマンは、宿舎で話し合いました。
その時のことをトルーマンが日記に記していました。

「マンハッタンが日本の上空で爆発すれば、日本は間違いなく降伏する」byトルーマン日記7月18日

チャーチルは、トルーマンと同じ考えでした。

「対日戦の終結には、もはやソ連を必要としなくなった」byチャーチル

そして、実験の成功は、大統領になって首脳会談が初めてだったトルーマンの態度にも変化をもたらしました。
トルーマンは大胆になり、スターリンに対し強気の外交交渉を進めます。
これは、チャーチルにとって好都合でした。

「我々は、ソ連とのパワーバランスを回復するものを手に入れた
 ドイツ降伏後、不安定だった外交が、原爆の力で一変する
 今後、ソ連にあれこれ言われたら、モスクワを消せばいいのだ」byチャーチル

ポツダム会談開始から1週間後、トルーマンはソビエトに対し優位に立ったと確信!!
スターリンに実験のことを伝えました。

トルーマンは、”新兵器を手に入れた”と言いました。
スターリンを怖がらせようと思ったのです。
しかし、スターリンの反応は、トルーマンの予想とは違いました。
スターリンは、非常に冷静でした。
何の反応もありませんでした。
スターリンは、すでに知っていたのです。
原爆開発計画は、スターリンより知っていました。

2人の話し合いを、少し離れたところで聞いていたチャーチル・・・

「二人の国家元首の話し合いは、間もなく終わってしまった
 トルーマンが私のそばに姿を見せた
 ”どうでしたか?”と私は尋ねた 
 ”スターリンは、一つも質問をしなかった”とトルーマンは答えた
 私は、スターリンが自分の知らされている事の重要な意義をまるでわかっていないと確信した」byチャーチル

しかし、その重要性を知っていたスターリン・・・
すぐに側近を集め、会合を開きました。

「我々は同盟国だったはずだ
 米英は、我々が当分の間、原爆を開発できないことを望んでいるに違いない
 そうやって、時間稼ぎをして、自分たちの計画を押しつけようというのだ
 だが、そうはさせない」byスターリン

スターリンが指示したのは、対日参戦の予定を繰り上げることでした。

日中戦争はスターリンが仕組んだ 誰が盧溝橋で発砲したか [ 鈴木荘一 ]
日中戦争はスターリンが仕組んだ 誰が盧溝橋で発砲したか [ 鈴木荘一 ]

翌25日、トルーマンは、日本への原爆投下を承認します。
原爆を確実に投下するため、作戦は航空機から投下目標が目視できる最も早い日と決められました。
そして翌26日、日本への無条件降伏を呼び掛けるポツダム宣言が発表されました。
これを日本は黙殺・・・。
8月6日、午前8府15分・・・広島にウラン型原爆が投下されました。
2日後、ソビエトは日ソ中立条約を一方的に破棄、9日未明、旧満州・中国東北部へ侵攻します。
同じ日、B29に積み込まれたのは、プルトニウム型原爆・・・。
8月9日、午前11時2分・・・長崎に投下されました。

翌日、トルーマンは声明を発表します。

「戦争を早く終わらせ、多くの米兵の命を救うため、原爆投下を決断した
 アメリカ国民も、同意してくれると思う」byトルーマン

「原爆を使用すべきかどうかについて、一刻の議論の余地もなかった
 1、2度の爆発の犠牲によって圧倒的な力を顕示する
 我々が、あらゆる苦労と危険を経験してきた後では、奇跡的な救いのように思われた」byチャーチル

8月15日、昭和天皇の玉音放送が日本の降伏を伝えました。
原子爆弾・・・爆風は、爆心地から5キロ先の建物までも破壊しました。
熱線によって、爆心地は4000度となりました。
その年だけで、22万人もの命が失われました。
そして、目に見えない放射線は、がんや白血病を引き起こし、今も多くの被爆者を苦しめています。

⑥終わりなき核の時代へ
戦争終結から1か月後の9月・・・ロスアラモスにいたイギリスの科学者たちは、帰国することになります。
送別会では、原爆開発を劇にしていました。
そこには、7月の原爆実験を祝う場面もありました。
科学者の多くは、帰国後イギリスの核開発に関わっていくことになります。
当初、ヒトラーの抑止力として原爆開発を始めたパイエルスもその一人でした。

「父を研究に引き止めたのは、核開発がもたらす結果ではなく、科学への探求心だと思います
 でもそれは間違っています」

戦後、核開発をめぐる国際情勢は、大きく変わろうとしていました。
原爆の力を確信したトルーマン・・・
1946年マクマホン法を制定・・・外国への原子力技術の移転を禁止、政策を転換します。
ソビエトは、1949年、核実験に成功。
アメリカの原爆実験から4年後のことでした。
短期間で開発できたのは、フックスからの機密情報があったからです。
1950年、朝鮮戦争が勃発・・・核の力を後ろ盾に、 米ソ冷戦が激化していきます。
1952年、アメリカが水爆を誕生させます。
翌年、ソビエトも実験を行いました。
チューブ・アロイズ計画開始から10年余り・・・
核開発競争が激化し、一般市民が核の脅威にさらされる時代が始まっていました。
核の時代・・・原爆開発に関わった科学者はどう受け止めたのでしょうか??
英米の核の独占を阻止しようとしたフックス・・・1950年、ソビエトのスパイであることを自白して、イギリスで裁判にかけられます。
英国籍を剥奪され、9年の服役後、東ドイツで過ごしました。

「戦後、私はソ連の政策に疑問を抱くようになった
 私の行いがもたらした被害を、修復できるよう努めたい
 だが、過去にはもう戻れはしない」

フックスが自白したのは、戦後、スターリンが核の力を後ろ盾に東欧諸国を力で押さえつけたことに失望したからでした。祖国は東西に分割され、東ドイツはソビエトのひどい監視と弾圧を受けました。
フックスは、ベルリンの壁崩壊を見ることなく、31年前に亡くなりました。

冷戦時代、核のパワーバランスが次の世界大戦を防いだと信じています

原爆は投下された長崎・・・その年だけで7万人の命が失われました。
その被害を、科学者たちはどのように受け止めたのでしょうか?
戦後、イギリスは被爆地に科学者を派遣していました。
どの都市に落とすのか、選定を行ったペニーは、戦後、戦略爆撃調査団の中心メンバーとして長崎を訪れていました。
目的は爆風の威力の調査でした。
ペニーが注目したのは、爆心地から500mにある旧城山国民学校です。
当時、珍しい鉄筋コンクリートの頑丈な建物でした。
校舎には、8000トンもの力がかかったものの骨組みがあり、計測できたからです。

ペニーが学校に興味を持ったのは、人々の在籍記録があったからです。
そのデータを使い、被爆状況と死亡率の関係を調査しました。
ペニーはさらに、ひとりひとりの死因や、学校のどの場所でなくなったかを詳しく調査しました。
無くなった場所のその建物の強度を調査することで、防護率を算定していきました。
ペニーは、これらのデータから、核戦争に備えた防衛計画を立案していきました。

「同じ威力の原爆を爆発させても、イギリスのシェルターならば十分耐えられる
 ロンドンの地下鉄にある深いシェルターならば、完全に身を守ってくれる」

1952年、ペニーは、チャーチルが主導したイギリス発の核実験の責任者となります。
イギリスは、アメリカが核の独占に走ったことで戦後、独自の核開発を進めました。

ペニーは、科学者としての功績から、貴族の地位を与えられ、イギリスの原爆の父と呼ばれました。

「私は常に自分が重要だと思った仕事を、さらには義務として自分に与えられたこと、そして自分が上手くできると思われることをしてきました。
 これが私の人生で貫いてきた原則です。」byペニー

ペニーたちが見失っていたことは、広島・長崎は、人々が住んでいる普通の街だったということです。
巨大な爆発の下に、日常の生活を送っていた一般の人たちを普通の人間とは見ないのです。
被爆者の調査は、データを取るということから考えると、実験材料にされたということです。
それは許しがたいことで、人間としてのモラルは一体何だったのか??
絶対人間としてやるべきではありません。

戦後も核開発を続けたチャーチル・・・
1965年、90歳でなくなりました。
生前、
原爆投下について語った言葉があります。

「神は私になぜ原爆を使用したのか尋ねられるかもしれない
 しかし、自己弁護させてほしい
 人類が熾烈な戦いのさ中にあったときに、なぜ神はこの知識を私たちに与えたのだろうか」byチャーチル

もし、原爆が日本に投下されていなかったら、戦後の世界の様相は違っていたでしょう。
原爆投下は、第2次世界大戦の終わりではなく、冷戦の始まりでした。
チャーチルが原爆開発を主導したことを考えれば、核の軍拡競争の責任はチャーチルにあります。

明らかになったチャーチルの核戦略、チューブ・アロイズ計画。
人類と核をめぐる、今も私たちに突き付けられている課題が、既にそこにはありました。
核をどう管理すべきか・・・
倫理的な責任をどう負うべきなのか・・・

大切なのは、核の国際管理や協調を唱えた人々の考えです。
彼等が想定した戦後の最悪の姿が、多くの国が密かに核兵器を開発し、文明が逸滅びるかもしれない核の緊張下に置かれていることです。
なぜ今、この状況に陥ったのでしょうか、人類が不道徳だから間違ったのでしょうか。
答えを知るのは困難でも直視するしかないのです。
私たちは、今、その世界に生きているのですから・・・!!

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南太平洋の楽園・・・マーシャル諸島共和国・・・
美しいサンゴ礁で出来たビキニ環礁・・・
1954年3月1日、ここでアメリカの水爆実験が行われました。
爆発力は、広島型原爆の千倍の破壊力・・・
きのこ雲は直径200kmにまで広がり、放射性物質をまき散らしました。
日本の第五福竜丸の乗組員をはじめ1万人が被ばく・・・
アメリカが核実験で起こした最悪の事故でした。

史上最悪の破壊兵器・水素爆弾・・・
その破壊力は無限・・・開発したのは、理論物理学者エドワード・テラー。
水爆の無限の破壊力に取りつかれた男です。

テラーはハンガリー出身のユダヤ人です。
1908年、ハンガリーの首都ブダペストに生れます。
小学校に上がる前に、掛け算、割り算を完ぺきにこなし、学校では教師よりも優れた回答を示しました。
その一方で、テラーは、小学校に入ってからも、母親に靴下をはかせてもらっていたといいます。
テラーは、科学以外のことは何も自分で出来ない人でした。
彼は、人生を科学と数学に捧げるのだと自覚していました。

1925年、17歳になったテラーは、当時学問の中心地だったドイツに留学します。
大学で物理学に出会い、研究者の道を歩み始めます。
折しもヒトラー率いるナチスが台頭した時代・・・
1933年にナチス政権が誕生すると、ユダヤ人迫害が広がっていきます。
1935年、テラーは27歳でアメリカに亡命・・・
新天地に渡ったテラーが取り組んだのが当時注目を集めていた原子力の研究でした。
物質を構成する原子・・・その中核をなすのが原子核です。
1938年、原子核が複数に分かれる反応・・・核分裂が発見されました。
この時に発生するエネルギーを利用し、後に原子爆弾が作られることとなります。
しかし、テラーの関心は、そのもう一つ先の核融合にありました。
核融合・・・二つの原子核が結びつき、別の原子核になる反応・・・太陽の内部でとてつもないエネルギーを出しているのが核融合です。
これを地球上で起こすには、一億度という超高温が必要になります。
その為、人間の手による核融合は不可能だと考えられていました。
1941年、核融合が実現できるかもしれないアイデアがテラーにもたらされました。
持ち掛けたのは、既にノーベル賞を受賞していた物理学者エンリコ・フェルミでした。
原爆ができたと仮定して、その熱によって核融合を起こせるのではないか・・・??
このアイデアが実現すれば、原爆よりもはるかに巨大なエネルギーを生み出すことができる・・・!!
核融合を利用した爆弾・・・それが水素爆弾!!
水爆は、理論上破壊力をいくらでも大きくすることができ、水爆の無限の破壊力にテラーは夢中になりました。

テラーは、科学はどんな方向であれ、出来る限り追及を続けるべきだと考えていました。
たとえ、破滅的な結果を生み出すことになろうと、科学は追及されるべきだと・・・!!

1942年、後にマンハッタン計画として知られる計画がすすめられていました。
その科学部門を束ねる物理学者ロバート・オッペンハイマーが、原爆についての検討会議を開きました。
原爆開発をするにあたって、技術的な問題を確認するための場でした。
テラーはその席上で、本来の議題を無視し、水爆の話を持ち出しました。

「核分裂ではなく、核融合を起こすのです
 原爆はすでに理論が完成し、後は作るだけだ
 我々が今、話し合うべきことは、核融合に他ならない
 つまりは、水爆の可能性の追究だ!!」byテラー

物理学者たちは、テラーが示した水爆の可能性に引き込まれ、原爆そっちのけで激しい議論が始まりました。
会議の参加者の中で、水爆に最も興味を示したのは、原爆開発のリーダー、オッペンハイマーでした。
テラーとオッペンハイマーは、食事の時間も惜しんで水爆について話し合いました。
その濃密な議論は、他の科学者たちはこう形容しました。

「知的な情事」

翌年、テラーもマンハッタン計画に参加・・・。
ニューメキシコにあるロスアラモス国立研究所に拠点を移しました。
しかし、原爆開発が難航していたため、水爆については当面棚上げすることに決定していました。
テラーは、オッペンハイマーに不満をぶつけます。
オッペンハイマーは、まずは原爆がなければ水爆はありえないと判断していました。
テラーは裏切られた思いでした。

テラーは、非常に感情的な人でした。
よく同僚の科学者たちと衝突していました。
自分が間違っていえると認めたことはほとんどありませんでした。

1945年7月16日・・・
オッペンハイマーたちは、人類史上初の原爆実験を成功させました。
同年8月6日広島、9日長崎への原爆投下・・・核兵器が実際に使われたのです。
1949年、事態は一変します。
ソ連が原爆実験に成功したのです。
わずか4年でアメリカと肩を並べたのです。
ソ連の原爆実験成功を知ったテラーは、科学行政上の最高権力者となったオッペンハイマーに水爆開発を促します。

しかし・・・オッペンハイマーは、科学者が参加している諮問機関の代表として水爆の見解をまとめ、政府に提出しました。

”水爆は大領殺りく兵器となる・・・使用されれば、拭い去れない憎悪が残されるだろう・・・!!”

テラーは激怒しました。

「水爆を使用すべきか否かを決定するのは、科学者の仕事ではない
 発見することが科学者の仕事だ!!」byテラー

テラーにしてみれば、より先に進めるのにそこに行かないというのは非科学的としか思えなかったのです。
そして、この時には、テラーはオッペンハイマーを憎むようになっていました。

1950年1月31日、第33代大統領ハリー・トルーマンは、水爆開発を進めることを決定!!
テラーが水爆開発の委員長に就任しました。
テラーが目指した破壊力は、広島型原爆のおよそ100倍・・・1メガトン以上!!
水爆を完成させるのに原爆が発する高熱をつなげなければならない・・・!!
原爆を爆発させた時発する熱エネルギーは、どう変化するのでしょうか??
計算の結果、原爆の熱エネルギーでは核融合に必要な一億度という高温を維持できないことが分かりました。
これでは、求める破壊力は得られない・・・
そこに、突破口を開く数学者スタニスワフ・ウラムが現れます。
彼のアイデアは、原爆の爆発で圧縮状態を作り、その圧縮によって加熱することで、核融合にいたるというものでした。
テラーはそこからひらめきを得ます。
核融合が始まった中心部分で、もう一つ核分裂反応を起こすことを思いついたのです。
内側と外側との両方から圧縮することで、1億度の高温状態を維持できると考えたのです。
誰も思いつかなかった画期的な方法でした。
これは、テラー・ウラム設計と呼ばれることになります。

通常兵器に関する画期的な発明は、人々に称賛されることはありません。
しかし、彼らの水爆は、間違いなく天才しかなしえない偉業でした。

ところが、テラーにとって驚くべきけっていた・・・
1951年9月17日、いよいよ水爆を完成に導く段階になって、別の科学者が責任者に任命されたのです。
1952年11月1日、マーシャル諸島エニウェトク環礁にて、世界初の水爆実験が行われました。
テラーはこの実験を直接見ていません。
およそ8000キロ離れたカリフォルニアで、地震計の変化によって成功を知りました。
テラーは早速、ロスアラモスに電報を打ちました。

”It`s a boy”

テラーは、「男の子が生まれた」と言いました。
自分が本当の父親であると宣言したのです。

「私が「水爆の父」である
 我が子は、生まれるべくしてこの世に誕生した」

水爆の父であると自負していながら、開発の責任者から外されたテラー・・・ある人物の差し金を強く疑っていました。
その男は、ロバート・オッペンハイマーです。
アメリカの原子力政策の科学顧問を務め、政治の世界でも強い影響力を持っていました。
オッペンハイマーが、自分に反対しているという思い込みがあまりにも強かったテラーは、彼を完全に敵視するようになっていました。
テラーのオッペンハイマーに対する憎しみが増していった理由は、妬みです。
オッペンハイマーは非常にハンサムで、カリスマ的でみんなに崇拝されていました。
テラーは、オッペンハイマーと同じほど優れているのに、なぜ同じように尊敬されないのか??と考えたのです。
そんなテラーに、オッペンハイマーから権力を奪い取る機会が訪れます。

1953年8月12日、ソ連が水爆実験を成功させます。
冷戦の緊張が高まる中、水爆に反対してきたオッペンハイマーにソ連のスパイ疑惑が持ち上がります。
聴聞会にかけられることになりました。
承認として呼ばれた多くの科学者たちがオッペンハイマーを擁護しました。
テラーだけがスパイ疑惑を肯定する側に立ちました。
1954年4月28日・・・証言台に立ったテラーは、こう問われました。

「オッペンハイマーは、国家安全保障における危険人物だと思うか?」

「オッペンハイマー博士は、非常に理解に苦しむ行動をとってきました
 多くの場面で、私は彼に全く賛成できませんでした
 国家に関わる重要な事柄は、より信頼のおける人のてに委ねられることを希望します」byテラー

テラーの証言が決定打となり、オッペンハイマーの公職追放が決まりました。

科学者たちは、テラーの裏切りを許しませんでした。
テラーに握手を求められた同僚の科学者は、差し出された手を無言で見下ろし、そのまま立ち去りました。
科学者仲間は皆、テラーを避け、テラーから離れていきました。

亡命者であるテラーにとって、科学者は同僚というだけでなく友人であり家族でした。
科学というのは、そういう全ての面を含んだ彼の社会そのものだったのです。
その社会から、つまはじきになるということは、非常に孤独ですべてを失うことでした。

裏切りのオッペンハイマー裁判のあと、テラーはずっとオッペンハイマーとの和解の道を探っていました。
エネルギー開発の業績をたたえる物理学賞をオッペンハイマーが受賞すると、祝福の手紙を出しました。
出会った頃、水爆の可能性を熱く語り合った思い出や、授賞式あって話したいと思っていることなどが長々と綴られていました。
オッペンハイマーからの返事はわずか2行でした。
2003年9月9日、エドワード・テラーは脳卒中で倒れ、死去・・・95歳の生涯でした。

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ケネディ暗殺の夜・・・大統領専用機エアフォースワンが、ダラスから戻りました。

「私は最善を尽くす
 私にできるのはそれだけだ」by36代大統領ジョンソン 
  
新大統領ジョンソンは、ケネディが模索していたベトナムからの撤退政策を白紙にしようとしました。
暗殺の3か月後、ケネディ時代から国防長官を務めていたロバート・マクナマラのもとに電話がかかってきました。
ジョンソンからでした。

「我々は、ベトナムの自由に責任がある
 手を引けば、ドミノが倒れるように、アジアは共産化してしまう
 戦争の拡大も、宥和政策の拡大も望んでいない
 我々の目的は、南ベトナム兵の訓練だ
 撤退を表明するのは愚かなことだとずっと思っていた
 だが、前大統領の時は黙っていたのだ
 ”負けそうなのによく撤退なんて言えるな”と世間から思われるぞ」byジョンソン

マクナマラは、ジョンソン政権下で秘密と嘘にまみれたベトナム戦争を推し進めていきます。

ベトナム戦争隠された地獄・・・ロバート・マクナマラ

1963年9月25日放送「マクナマラ長官と国防総省」
ジョンソン政権の大きな課題は、南北ベトナムの戦争でした。
共産主義の拡大を防ぐために、アメリカは南ベトナムを支援・・・
軍事顧問団の名目で、軍を派遣していました。

1964年8月・・・アメリカは大きなウソをつきます。

「8月2日と4日にトンキン湾の公海上で、北ベトナムの水上艦艇によって米海軍の駆逐艦が攻撃を受けました」

アメリカ政府は、公海上で北ベトナムから2日間にわたって攻撃を受けたと発表します。
しかし、実際は、1日目はアメリカ軍が北ベトナムの領海を侵犯しており、2日目は攻撃そのものがありませんでした。

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後にニューヨークタイムズによって暴かれた国防総省の機密文書によると、アメリカ軍の領海侵犯はそもそも北ベトナムに攻撃させることが目的でした。
アメリカは、このトンキン湾事件を口実に、北ベトナムへの爆撃を開始・・・
宣戦布告無きまま戦争状態へ突入しました。
地上戦も拡大し、延べ270万もの兵士が戦場へと送られていきます。

「海兵隊の派兵は、国民に歓迎されないだろう
 特に、母親たちが反対する
 北爆とは比較にならない心理的影響を生む
 だが、派兵を認めるしかない」byジョンソン大統領
 
戦場は、地獄と化しました。
延々と続くジャングルの中で、アメリカ軍はゲリラ戦の泥沼に陥りました。
その実態は、国民に伏せられたまま若者たちが次々と送られていきました。

「どこへ行くのか、だれも知らなかった
 パイロットから、”ベトナムに行く”と聞かされても、ヨーロッパのどこかだと思っていた
 それが、国だということすら知らなかった」by元兵士

「当時は訳が分からなかった 
 従来の戦争とは違い、領土でも人民解放でもなかった
 死者が増えるばかりだった
 自分を守るために必死で、とにかく早く帰りたかった」by元兵士

ベトナムを視察するマクナマラ・・・
1965年には、アメリカ軍の戦死者は、2300人に達します。
政府は、戦略の失敗に気付き始めていましたが、戦争の実態を認めようとはしませんでした。

「我が軍は、お先真っ暗ではありません
 敵も甚大な被害に苦しんでいます」

アメリカ政府の暴走を暴いたのは、テレビ報道でした。
泥沼のゲリラ戦・・・敵味方の区別がつかなくなった兵士たちは、民間人までも攻撃していました。
戦争の大義は失われました。
全米で、反戦運動の嵐が吹き荒れます。
1967年10月には、首都ワシントンで10万人がデモ・・・
マクナマラのいる国防総省を群衆が取り囲みました。
国民は、この戦争を”マクナマラの戦争”とまで呼びました。

マクナマラは、1年以上前から戦略の転換を訴えていました。

「軍事作戦だけでなく、他の道も探るべきです
 軍事行動だけでは自殺行為に等しい
  
 先行きの見通しのないまま、30~40万の兵士をベトナムに送るのは非常に危険です」byマクナマラ 

しかし、ジョンソンは部下の不服従が我慢ならない男でした。

「私が求めているのは、忠誠心だ
 真昼間にショーウィンドウの中で俺のケツにキスして”バラのような香りがします”といえる男が必要なんだ」

ジョンソンが側近に送った言葉です。

マクナマラは、国防長官を辞任しました。
会見では言葉を詰まらせ・・・言葉になりませんでした。

その後も、戦争は7年間続きました。
アメリカ軍の戦死者は5万8000人・・・ベトナム人の犠牲者は380万人に上りました。

「私はジョンソン大統領が、国のために果たした貢献を忘れてはいないし、戦争の責任を彼一人に負わせるつもりはない
 しかし、ケネディが生きていたら、たぶん結果は違っていたと思う」byマクナマラ

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1959年9月・・・
核戦争の恐怖が高まる中、ソビエトの最高指導者が融和を求めてアメリカを訪れました。
フルチショフがどうしても行きたいと望んだがかなえられなかった場所があります。
ディズニーランドです。
開園4年目を迎えた夢の国は、世界各国からの国家元首が訪問を希望するほどの憧れの場所となっていました。
ハリウッドのスターたちも招かれたロサンゼルスでの歓迎会で、フルチショフの怒りが爆発します。

「先ほどあの場所の視察は出来ないと言われた
 何と言ったっけ・・・
 そうそれだ、ディズニーランド
 当局が、私の身の安全を保証できないからだそうだ
 行くのを本当に楽しみにしていたんだ
 せっかくアメリカまでやってきたのに、炎天下の車の中に閉じ込められるとは、思ってもみなかった」byフルチショフ

この2年後、フルチショフはケネディと会談します。
両国の首脳が、核の危険性、軍縮などについて直に話し合いました。
世界は、希望に向けて動き出したかのように見えました。
しかし・・・1963年11月22日、一人の男の死が世界に衝撃を与えました。

「8ミリカメラを回していると、大統領の車がヒューストン通りを曲がりました
 カーブの中ほどまで来たとき、銃声が一発聞こえて、大統領はこんなふうにかがみこみました
 そして、もう一発か二発、銃声がして、大統領の頭が割れて、血が噴き出しました
 私は撮影を続けましたが、本当にショックでした」byザプルーダー

アメリカが悲劇に包まれたこの1日は、多くのカメラによって記録されていました。
アメリカの理想が終わった日・・・ケネディ暗殺

暗殺当日・・・
天気予報は外れ、ダラスは晴天となりました。
これが、世界の運命を変えることになります。
AM11:38・・・ケネディ到着・・・暗殺まで52分・・・
46歳の若き大統領・・・アポロ計画を推し進め、キューバ危機を乗り越え、ベトナムからの撤退を模索していたケネディは、翌年の再選を目指し、遊説の地・ダラスを訪れました。

シークレットサービスは、ケネディから支持者の少ないテキサス訪問にかける意気込みを聞かされていました。

「大統領から指示があったんです
 テキサスに行くのは、出来るだけ多くの人に自分を見てもらい、声を聴いてもらうためだ
 だから、車の屋根は外したい」と・・・。

車は、時速16キロでゆっくりと進みます。
SM11:52分・・・空港出発・・・暗殺まで38分・・・
町の中心部に入ると、熱狂した人々が車道にまで溢れていました。
急なカーブに差し掛かり、車は速度をさげます。
銃声は3発でした。

「突然右後方から爆発音が聞かれ、その瞬間、大統領がのどを押さえたのが見えました
 何か、悪いことが起きたと思いました
 私はステップから飛び降り、大統領の車に観買って走り出しました
 二発目は、私には聞こえませんでした
 車に手がかかったのですが、足が滑ってしまいました
 車が加速したからです 後二歩のところでした
 ようやくたどり着いたときには、三発目が大統領の頭に当たっていて、それが致命的な一発だったのです」byシークレットサービス

全米の大手テレビネットワークは、4日間にわたって通常番組をすべて中止します。
演説会場では、2500人の市民がケネディの到着を待っていました。

「なんとお伝えすべきかわかりません 
 真珠湾攻撃の日のような気持ちです
 これは本当の話です
 大統領と知事が、パレードの最中に銃撃されました」

暗殺現場のすぐそばに立つ教科書倉庫ビル・・・
銃声の方角から、すぐさまここが捜査されました。
このビルで働く従業員の一人の行方がわからない・・・
警察官が、容疑者を追跡中に射殺されました。
そして・・・

「公式発表によると、本日午後1時・・・ 
 ケネディ大統領が死亡しました」

PM1:50分・・・身柄拘束・・・暗殺から1時間20分後・・・
ダラス市警は映画館で発見しました。
白人男性の身柄を拘束・・・
警察官射殺事件の容疑者とみられました。

容疑者は・・・リー・ハーベイ・オズワルド・・・24歳。
教科書倉庫ビルから消えた従業員でした。

マスコミは、オズワルドの過去をすぐに洗い出します。
ロシア人とされる妻とダラスに住んでいるということ・・・
8月にニューオーリンズでカストロ支援団体のビラを配布中に傷害事件を起こして逮捕されていました。

「私は共産主義者ではありません
 マルクス主義も、そのほかの哲学も勉強しましたよ」

深夜、殺到したマスコミが、容疑者に質問を浴びせます。

「どういうことなのかわかりません
 弁護士をつけてほしい
 何が起きているのか本当にわからない
 警察官殺害の罪に問われているということしか話してくれないのです
 誰か法律で私を守ってください」

「大統領を殺したのですか?」

「その容疑は聞いていません
 新聞記者に質問されて初めて知ったんです」

11月24日、オズワルド移送・・・暗殺から2日後・・・
オズワルドの移送が生中継されている中、再び衝撃が襲います。
容疑者のオズワルドが撃たれたのです。
撃ったのは、ダラス市民のジャック・ルビー・・・かなしんでいる大統領夫人がいたたまれなくなったという彼の供述を信じる者はいませんでした。
事件の半年後・・・暗殺現場を調べる政府の調査委員会のメンバーたち・・・
その報告書は、オズワルドの単独犯行と結論付けました。
しかし、国民は納得しませんでした。
社会主義勢力による暗殺・・・ベトナム撤退で利益を失う軍産複合体の陰謀など・・・
様々なうわさが流れました。
オズワルドを殺害したジャック・ルビーは、4年後に獄中で病死・・・その直前に、こう答えています。

「世界が真実を知ることは、決してないだろう
 あの事件で、大きな利益を得た人々が、それを許さないだろう」

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