日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: フランケンシュタインの誘惑

人は食べる。
生きるために、愉しむために、だがしかし、食べることが死を招くこともある。
日露戦争・・・2万7000を超す兵士たちが、食事によって死亡しました。
兵士の命運を握ったのは、文豪・森鴎外でした。
鴎外にはもう一つの顔がありました。
本名・森林太郎・・・職業は陸軍軍医!!
現在の東京大学医学部を19歳で卒業、45歳で軍医のTOPに上り詰めたエリート流のエリートです。
森は、陸軍兵士の食事として、白米に固執・・・白米ばかりを食べ続けた兵士たちが死の病に倒れました。
一方、ライバルの海軍は、麦飯によって市の病を撃退!!
しかし、森は、自らの主張を曲げようとはしませんでした。

「兵士の食事には米が一番!!
 麦飯がその次!!
 洋食はそのまた次である!!」

その結果、日本はある大発見の栄光を取り逃がします。
・・・ビタミン・・・
現在の健康ブームの起源ともいえるビタミン・・・その発見に至る知られざる物語です。

古代中国では医者を4つに分け位を与えました。
位の四番目は家畜を治療する獣医・・・
三番目は外科医、二番目は内内科医、一番位が高いとされたのは食医。
食べ物の力によって病気を未然に防ぐ医師の事です。

1884年8月3日、不思議な事件が報じられました。
広島から上京した藤本信太18歳・・・知人を訪ねる途中、突然路上で倒れました。
激しく苦しみ病院に搬送されましたが死亡しました。
脚気でした。

脚気は神経の病・・・
足がむくみ、進行すると極端に衰弱し、急性心不全で死んでいました。
明治になると日本で大流行・・・年間3万人が死亡し、結核と共に国民病として恐れられました。
特に軍隊では深刻で、多い年には陸軍・海軍の兵士の4割が脚気患者となりました。
富国強兵を推し進める日本にとっての一大事となりました。

脚気の原因は、ビタミンB1の欠乏でした。
ビタミンは、人体の機能を維持する為に必要不可欠な栄養素です。
体内で作ることは出来ず、食べ物から得なければなりません。
当時、軍隊では兵士の食事に白米を支給。
ビタミンB1がほとんど含まれていない白米ばかりを食べた兵士が、次々と倒れて行きました。

白米しか食べないと、ビタミンが採れません。
白米の中に含まれている炭水化物をエネルギーに変えることが出来ないのです。
だんだんと体が弱ってきて、最後は死んでしまうのです。
明治時代、三大栄養素の炭水化物・タンパク質・脂質は既に知られていました。
しかし、ビタミンは、世界のだれもが知らない栄養素でした。
その為、脚気は原因不明の病とされ、誤った説が流布しました。

脚気細菌説・・・来日したドイツ人医師・ベルツらが提唱しました。
しかし、主食が白米でないヨーロッパには脚気がありません。
主張は憶測にすぎませんでした。
ベルツは、のちの東京大学医学部・・・東京医学校で指導していたこともあり、東大医学部出身者を中心に、この脚気細菌説が強く信じられました。

1884年8月24日、横浜・・・
この男も、脚気細菌説を信じた男の一人でした。
陸軍軍医・森林太郎・・・森鴎外です。
脚気対策に苦慮する陸軍の特命を受け、海外に旅立とうとしていました。
当時、22歳・・・明治の日本きってのエリートでした。

1862年、石見国・・・島根県の医師の家に生れました。
教育熱心な母・・・5歳で論語を読み、8歳でオランダ語、10歳でドイツ語を学びました。
森は、11歳で第一大学医学校・・・後の東京大学医学部予科に入学しました。
史上最年少の19歳で卒業し、陸軍軍医となりました。
入隊後、2300ページに及ぶドイツ語の専門書を10か月で翻訳します。
森を高く評価した陸軍の幹部たちは、海外で最新の医学を学んでくるよう白羽の矢を立てたのです。
2か月の船旅を経て、森は目的地・ドイツに到着します。

ドイツでは医学の革命が起きていました。
細菌学です。1876年に、ロベルト・コッホが炭疽菌を発見!!
さらに1882年に結核菌、1884年にコレラ菌を発見しました。
そのコッホのもとで、森は細菌学を学びました。
病気がきちっと目に見えるもので説明できるようになって、合理的・・・
よくわからない方法ではなくて理由のある、根拠のある方法で国民の衛生状態、健康が保てるという意識を持ったのです。
留学中、その後の森の考え方を決定づける出来事がもう一つありました。
ある講演会に参加した時の事・・・
「日本人は、西洋の蒸気船を動かすことはできるが、止め方はわかっていない」
講演者は、日本の外国文化の表面だけを真似していると皮肉を込めて批判しました。
森は、新聞にドイツ語で反論します。

「日本人は、ヨーロッパの文明と文化の価値を評価する知性を十分に備えている
 日本が何を無批判で真似たというのか・・・??」by林太郎

日本を代表してコッホから医学を学んでいるエリート医師・・・森には日本を背負っているという強い自負がありました。
一方、日本では、陸軍だけでなく海軍も脚気に苦しんでいました。
1883年軍艦・龍驤・・・乗組員367名のうち169名が脚気に・・・!!
25名が死亡し、航行不能という事件が起こりました。
立ち向かったのは、海軍軍医・高木兼寛。
薩摩藩の下級武士出身で、高木は脚気の原因は、細菌とは全く違うと考えていました。
その根拠となったのが、高木が学んだ聖トーマス病院医学校・・・イギリス時代に学んだ疫学でした。
疫学は、病気発声の分布などをもとに有効な対策を導き出す学問です。
1850年代、ロンドンでは伝染病コレラが蔓延・・・医師は患者の数を調べ、感染源を井戸と特定、井戸を封鎖して感染拡大を食い止めました。
この疫学を使い、脚気の対策に乗り出した高木・・・
兵士が着る衣服と脚気が関係はあるか??
生活空間では??気温では・・・??
高木はその条件を探りました。
そして2年後・・・高木は一つの結論にたどり着きます。

「脚気の原因は栄養の偏りにあるのではないか?」

白米ばかり食べ、おかずをおろそかにしている兵士が脚気にかかりやすかったからです。
”栄養素が偏っていると病気になるかもしれない”という考え方を初めて提出しました。
食べ物と病気の関係を栄養素のレベルで初めて考えたのです。
高木は、軍艦丸ごと使った実験に着手します。
軍艦・筑波の乗組員333人の食事を白米中心の日本食からパンと肉中心の洋食に切り替えました。
脚気被害をを出した龍驤と同じ航路をたどり脚気の発生率を比べました。
大規模な比較実験でした。
出発して8か月後・・・目的地のハワイについた軍艦・筑波から電報が届きました。

「ビョウシャイチニンモナシ アンシンアレ」

高木は食事によって世界で初めて脚気の予防に成功しました。
そして、日本人が食べなれないパンの代わりに大麦や裸麦を加えた麦飯を導入。
海軍から脚気を一掃する!!
1886年、高木は成果を英語で発表。
白米に偏った食事では、炭水化物が多くなりタンパク質が不足。
麦飯中心の食事は、炭水化物に加えタンパク質が多い。
と主張しました。

脚気の原因は、栄養バランスが崩れることだと考えたのです。
脚気栄養欠陥説です。
しかし高木はビタミンという未知の栄養素には気づいていませんでした。

森を送り出した陸軍は焦り始めました。
陸軍の軍医は、今の東京大学医学部出身者で占められており、脚気細菌説を強く支持していました。
幹部の一人は森に留学の成果を催促します。
ドイツにいた森は、論文を書いて応えます。
「日本兵食論大意」です。

”余ハ東西洋人ノ食ヲ知ル者ナリ”と、大上段から論を説きました。
”米ヲ主トシタル日本食ハ心力及ヒ体力ヲシテ活発ナラシムルコト毫モ西洋食ト異ナルコトナシ”

白米中心の日本食は、栄養面で洋食に劣らず変える必要はないと主張します。

”米食ト脚気ノ関係有無ハ 余 敢エテ説カズ”

脚気の原因については一切触れませんでした。
3年後帰国すると、講演会で高木のことを「ローストビーフに飽くことを知らないイギリス流の偏屈学者」と揶揄・・・
白米を否定した高木を西洋かぶれだと攻撃しました。

1889年、森は、白米の栄養に関係のないことを証明する実験を行いました。
陸軍兵食試験です。
兵士18人を3つのグループに分け、白米中心・麦飯中心・パンと肉中心の食事を8日間与え続けます。
そして食べたものと排泄された量を比べ、栄養素がどれだけ体に吸収されたかを計算します。
この実験では、一番優れているのは白米、次いで麦飯、そしてパンと肉は3番目でした。
森は白米の栄養に問題がないことを示すことで、海軍が唱える栄養欠陥説を否定します。

高木は反論しませんでした。
森は、雄弁で文章も、話しても、とっても華麗な言葉を使って・・・
敵がギャフンというような、ぐうの音も出ないような言い方で、やっつけます。
自分から見ればいい加減にみえるような理論を、攻撃するということについては抜け目がない・・・
森鴎外にやられると、再起不能なぐらいに傷ついた・・・という感じになったのです。
以後、高木は科学の表舞台から離れていきます。
しかし、高木の研究は、ビタミン発見の歴史に重要な役割を果たします。
栄養が病気の原因とする高木の論文は、海外の研究者に広く読まれることになります。

日本にこんなに偉大なことをされた方がいたのか??

その高木の論文が、未知の栄養素の発見につながる大きなヒントを後の研究者に与えたのです。

脚気論争の光と影 陸軍の脚気惨害はなぜ防げなかったのか

新品価格
¥1,200から
(2020/7/17 20:51時点)



一方、陸軍は森の偏食試験の結果を高く評価・・・白米を支給し続けます。
森は、陸軍エリートの階段を上っていきます。

1890年、森は、ドイツ留学の経験をもとに「舞姫」を発表。
軍医の仕事をしながら作家としての名も高めていきます。
その4年後・・・1894年、朝鮮半島の覇権をめぐり日清戦争が勃発。
陸軍の食事が試されます。
自らの実権で、白米の栄養価に問題はないと自信を持った森・・・
開戦前、陸軍軍医部にこう意見しています。

「米ノ主食タル価値ハ甚大ナルモノニテ
 副食ニ至リテハ平素栄養上ノ価値甚少シ」

白米を1日6合食べていれば、副食・・・おかずを食べなくても栄養面で問題はないと主張しました。
結果、陸軍では先頭による死者は450人でしたが、脚気による死者4000人という事態を招きました。
日清戦争直後、森は割譲された台湾で兵士の健康管理する最高責任者・台湾総督府陸軍局軍医部長に任命されます。
その台湾で、脚気が大発生しました。
兵士2万3338人に対し、脚気患者21087人!!
実に兵士の9割が脚気を患い、2000人以上が死亡しました。

一方海軍は、麦飯の支給を続けていました。
日清戦争における海軍の脚気患者は僅か34人、いずれも軽症でした。
海軍は白米に固執する陸軍を批判!!
両者のメンツをかけた論争が始まりました。

海軍「脚気は、食べ物で防ぐことが出来る 
    恐れるべき病ではない
    陸軍は猛省すべきだ」

対して陸軍は、ペンネームを使った匿名の投書で海軍が非科学的だと反論!!

「病気を予防し、治療するためには、病原や病気になる仕組みがわからなければいけない
 それは、我々が最も信用している帝国医科大学(東京大学医学部)でもわからないのに海軍にわかるのか?
 科学的にお答えいただきたい」

海軍はすかさず再反論
天然痘が予防接種によって防げることを引き合いに出しました。

「天然痘も病理は不明だが、100年も前にジェンナーによって予防法が確立している
 脚気も同じことで、原因の究明と予防法を混同してはいけない」

そんな中、陸軍では現場の兵士から麦飯を支給してほしいとの声が上がります。
しかし、陸軍軍医部はそれを断固として認めませんでした。
森も、陸軍軍医部を擁護する論文を発表。
森は、麦飯と脚気減少に、因果関係はなく、たまたま時期が重なっただけだと強弁しました。

森が、麦飯採用に関して何らかの提言をしたり、譲歩する態度を示していれば、陸軍全体の態度も変わったのかもしれません。
海軍を見れば、麦飯の採用で明らかに脚気が減っているのに、実験的にも試みなかったという点では責任は大きいのです。

1904年・・・日露戦争で更なる悲劇が起こります。
森は、第二軍軍医部長として従軍・・・軍医部での階級はナンバー2でした。
その森に、戦線の軍医から進言がありました。

「麦飯を支給すべきではないか」と。

しかし、黙殺!!

1905年日露戦争集結
陸軍全体で、脚気患者25万人・・・2万7468人が死亡!!
前代未聞・・・古今東西みても稀に見る被害でした。
驕り、エリート意識、これが悲劇の全てでした。

自分が脚気の専門ではないと認めることが出来なかった・・・
エリート意識が強すぎた森林太郎が起こした悲劇でした。

森は、従軍中にこんな歌を詠んでいます。

ますらをの 玉と碎けしももちたり
  それも惜しけど こも惜し釦鈕 身に添う釦鈕

屈強な兵士たちが、幾万も玉のように砕けてしまった・・・
それは惜しいけど、無くしてしまった私の大切なボタン、それも同じように惜しい・・・

陸軍の惨状に対し、海軍の脚気死亡者は3名でした。
世間は陸軍を非難・・・軍医のTOP・軍医総監が責任を問われ辞任に追い込まれました。
代わってその地位に就いたのは、森でした。

1908年、陸軍は、「臨時脚気病調査会」を設立します。
調査会は東京帝国大学医学部の教授や、陸軍、海軍の軍医らで構成されていました。
初代会長となったのは森でした。
その頃、コッホが来日・・・森は、コッホに脚気の研究法について相談をします。
コッホは言いました。

「日本の脚気は伝染病の脚気と栄養不足の脚気の2種類があるのではないか
 東南アジアに、脚気に非常によく似た病気があるからそれを調べてはどうか」

その病気は、オランダ領ジャカルタで、ベリベリと呼ばれていました。
早速森は、現地に調査員を派遣。
すると、現地では意外なことが起きていました。
ベリベリがほとんどなくなっていたのです。
患者にある物を食べさせることで撃退していました。
主導したのは、オランダの医師・生理学者のフレインスとエイクマンでした。
彼等は、麦飯によって脚気を防いだ海軍・高木の研究を発展させ、患者に玄米や豆が効くことを明らかにしていました。
エイクマンらは、玄米に含まれ、白米で失われてしまう米ぬかの中に脚気を防ぐ未知の成分があるのではないかと考えていました。
帰国した調査員は、臨時脚気病調査会で糠が脚気に効果的だと報告します。

報告を支持する者はいませんでした。
調査員は罷免されます。
突破口を開いたのは、医学とは全く異なる分野の男でした。
農学者・鈴木梅太郎です。
静岡の農家に生まれた鈴木は、植物は何故水と土だけで育つのかを解き明かそうと農学を志し、米の研究を始めました。
34歳で東京帝国大学農科大学・・・後の東京大学農学部教授に就任。
鈴木はエイクマンらがジャカルタで行った研究を知り米糠に注目します。
鈴木は米糠から脚気を防ぐ成分を抽出することに成功。
アンチ・ベリベリ・・・脚気に対抗するという意味を込め、アベリ酸と名付けました。
1911年、鈴木は、森が会長を務める臨時脚気病調査で、成果を論文にして報告。

「アベリ酸と名付けたるものは、従来ありふれた物質にあらず
 アベリ酸は三大栄養素とは異なり、生きていくために必要不可欠な全く新しい栄養素だ」

と主張しました。
これを、脚気を治癒する因子という概念ではなく、”高等動物の生育に必須のものである”という概念を伝えました。
まさに、いまでいう”ビタミン”の概念を提出したのです。

ところが、東京帝国大学医学部の委員たちは農学者である鈴木に冷酷でした。

「ぬかで脚気が治るなら、小便を飲んでも治る」

彼等は、農学は高級じゃないと思っていました。
医学というのがプライドのある分野で、他の学問分野とは違うという意識がありました。
従って、病気の解決に関しても、農学あたりから口を出されることに空いて我慢がならなかったのです。
鈴木はアベリ酸を臨床試験で使ってほしいと訴えましたが、断られ続けました。

逆風の中、1912年8月、ドイツの科学雑誌に鈴木の論文が掲載されます。
その中で、アベリ酸をオリザニンと改名。
オリザとは、ラテン語で米を意味します。
調査会での報告から1年が過ぎていました。
しかし、一歩遅かったのです。
鈴木が論文を提出する半年前の1912年2月・・・
ポーランド人の生化学者フンクが、鈴木と同じく米糠から脚気を防ぐ成分を抽出したと発表していたのです。
フンクはその物質をビタミンと名付けました。
Vital=生命に必要なものという意味を込めて・・・
鈴木は、未知の栄養素発見の栄光をみすみす取り逃がしました。

パンデミックと漢方?日本の伝統創薬

新品価格
¥1,650から
(2020/7/17 20:53時点)



一方、森は・・・
フンクがビタミンを発表した2年後に1冊の医学書を送り出します。
脚気の項目は・・・疫種・・・即ち伝染病に分類されていました。
1922年、森は60歳で死去・・・。
生涯、脚気細菌説の誤りを公には認めませんでした。
2年後・・・臨時脚気病調査会は、脚気の原因はビタミンの欠乏にあると認め、解散しました。

未知の栄養素の発見は、世界の科学者たちを突き動かします。
1948年までに13種類のビタミンが見つかりました。
脚気の外に、ビタミン欠乏によっておこる病気が次々と明らかになりました。
大航海時代に船乗りたちを苦しめた壊血病・・・歯茎や皮膚から出血が止まらなくなる・・・
壊血病は、ビタミンCの欠乏が原因だとわかりました。
骨が曲がり、もろくなるくる病・・・カルシウムの吸収に欠かせないビタミンDの欠乏が原因でした。
暗いところで見えなくなる夜盲症・・・鳥眼はビタミンAの欠乏で発症するとわかりました。
そして、1949年以降、生命の維持にかかわるビタミンは、発見されていません。
代わって科学者たちは、僅かであれ健康にかかわる物質を探し始めました。
その数は5万にのぼると言われています。
こうした物資を取り入れた商品が、次々と開発されています。
1991年、日本では特定保健用食品=トクホの制度がスタートしました。
消費者庁の審査を通ると効果効能を表示できるようになりました。
さらに、機能性表示食品の制度によって、健康にかかわる商品がより多く店頭に並ぶようになります。
いまや、このような商品の規模は1兆5000億円を超えています。

米糠からオリザリンを抽出した鈴木梅太郎・・・その成功に至るまで、米の栄養について講演をしたことがあります。
その聴衆の中に、海軍に麦飯を導入した高木兼寛がいました。
高木は公演終了後、鈴木に声をかけました。

「面白い話だった
 これからも研究を続けてもらいたい」

高木は若き鈴木を励まし、開場を去ったといいます。

鈴木梅太郎に関する新しい事実が・・・
1914年のノーベル生理学・医学賞に推薦された人のリストの中に、”Suzuki.U”とありました。
鈴木がビタミン発見の功績によって、ドイツ人科学者からノーベル賞に推薦されていたのです。
湯川秀樹が日本人初のノーベル賞を受賞する35年も前のことでした。
1929年、ビタミンの研究に対しノーベル賞が授与されました。
受賞者は、ジャカルタで米糠の研究をしていたエイクマンとビタミンの役割を研究したホプキンズ・・・
実は、当時このホプキンズは東京帝国大学の医学部の教授2名が推薦していました。
鈴木の研究を押すことはなかったのです。

鈴木梅太郎の研究は、長い間東京帝国大学医学部が否定し続けてきた成果です・・・
鈴木が先んじて受賞するようなことがあれば・・・耐えられなかったのかもしれません。

ビタミンの研究で、たった一人世界で名を残した日本人がいます。
南極大陸にある高木岬・・・麦飯を導入したあの高木兼寛の名にちなんでいます。
命名したのは、探検隊が脚気に悩まされたイギリス・・・
ビタミン研究の功績者として敬意を表したのです。

高木兼寛の名は、凍てつく大地で輝き続けています。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

教科書には載っていない 大日本帝国の発明

新品価格
¥713から
(2020/7/17 20:54時点)

1969年、人類初の月面着陸・・・
「人類にとっては偉大な飛躍である」byニール・アームストロング
この偉業を成功に導いた世界的なヒーロー、ロケット工学者ヴェルナー・フォン・ブラウン・・・しかし、彼にはもう一つの顔がありました。
第二次世界大戦時、ナチスドイツのもとで、世界初の弾道ミサイルV2を開発、ロンドン⇔パリを震撼させました。
夢の実現のためなら殺人兵器を作り、そして母国ドイツを捨ててアメリカに技術を売りました。
しかし、最期まで自らの罪を認めませんでした。

宇宙開発の父フォン・ブラウン・・・その光と闇とは・・・??
我々が暮らす太陽系の40光年先に、地球に似た惑星が7つあります。
アメリカ航空宇宙局NASAが発表しました。

「第二の地球を発見するのは時間の問題だ!!」

アメリカの民間会社が、2024年に火星旅行を実現させると発表・・・費用は2000万円です。
人々の夢を乗せて進む宇宙開発の礎を築いた男がいます。

ロケット工学者ヴェルナー・フォン・ブラウンです。
50年前、初めて人類を月に送ったアポロ計画の中心人物です。
フォン・ブラウンは、1912年、ドイツに生れました。
両親はともに貴族の家柄で、父マグヌス・フォン・ブラウンは農業大臣を務めました。
何不自由ない生活、天真爛漫で好奇心旺盛な少年でした。
丁度その頃、ドイツはロケットブームに沸いていました。
第一次大戦後、疲弊したドイツの工業を活性化させるため、自動車メーカーがロケットカーを開発、猛スピードで走る姿は注目を浴びました。
さらに、映画「月世界の女」が大ヒット、月へ向かうロケットや、無重力状態で人が宙に浮く様子にフォン・ブラウンは夢中になりました。
ロケットを造って月に・・・物理や数学の勉強を始めました。

フォン・ブラウンの欲望は、少年の頃から月に到達することでした。
月依存症・・・月へ行くためなら、彼はどんなことでもしました。

1930年、ベルリン工科大学に入学しドイツ宇宙旅行協会に入会、ヨーロッパ各地から500人以上の優秀な工学者が集まった宇宙ロケットの研究者集団です。
全長およそ2m、重さ20キロのロケットを造り実検を重ねます。
しかし、38万キロ先の月に行くには程遠い・・・
フォン・ブラウンは、夢の実現のためには莫大な資金が必要だと考えました。
民間企業の寄付で運営していた宇宙旅行協会では、宇宙ロケットの開発は勧められないのは明白でした。
2mほどのロケットでは、月へ行くなんて到底無理です。
フォン・ブラウンが目をつけたのは、ドイツ軍でした。
第一次世界大戦敗戦後のヴェルサイユ条約で、ドイツは、戦車・潜水艦・軍用機などの兵器の製造を禁止されていました。
その条約の抜け穴が、それまで存在していなかった新兵器弾道ミサイルだったのです。
弾道ミサイルと宇宙ロケットは、技術的に同じ仕組みを持っています。
共にロケットエンジンで宇宙空間に打ち上げる・・・
宇宙ロケットは目的の軌道に乗せる、一方の弾道ミサイルは宇宙空間へ飛ばし、地球の引力を利用して目標に落とす・・・
フォン・ブラウンは、ドイツ軍に自分のロケット技術を売り込みました。
話を聞いた陸軍大尉は、彼の豊富な知識に圧倒されると技術者として陸軍の採用を約束しました。

フォン・ブラウンにとって、ロケットを造るために軍に協力するのは当然のことでした。
彼は、軍がミサイル兵器を望んでいることは百も承知でした。
全てわかったうえで、兵器開発に協力したのです。
それが、”月依存症”フォン・ブラウンが、夢をかなえるための唯一の手段でした。
フォン・ブラウンは、宇宙旅行協会の研究者たちに声をかけました。

「宇宙旅行を実現するためには、軍の資金に頼るしか道はない」byフォン・ブラウン

仲間たちは、軍に協力することを躊躇しました。
自分達のロケット技術が兵器として利用されるのを嫌がりました。

1932年10月、フォン・ブラウンはたった一人でドイツ陸軍兵器局に民間技術者として採用されます。
3か月後の1933年1月30日、ヒトラー政権誕生、再軍備を推し進めます。
人類初の弾道ミサイルを目指すフォン・ブラウンは、まず、広大な実験場の建設を提案します。
目をつけたのは、ドイツ北部、バルト海に面するペーネミュンデ・・・広大な海に向けてより大きなミサイルの発射実験ができると考えました。
フォン・ブラウンは、沼や森に囲まれたペーネミュンデなら、秘密裏に実検を行うことも可能だと説得・・・
建設のための莫大な予算を獲得します。
フォン・ブラウンが中心となり、実験場を設計・・・鉄道や工場なども作らせました。
かつては陸軍に入ることに躊躇した宇宙旅行協会の仲間を含め、新たに120人以上の科学者や技術者を呼び寄せました。

1937年7月、フォン・ブラウンは25歳で開発部のリーダーとなります。
フォン・ブラウンが目指したのは、1トンの弾頭を搭載し、250km先の目標に僅か数分で着弾させる弾道ミサイル・・・
エンジンを燃焼させて、ミサイルを高度28km地点にあげ、そこでエンジンを止める・・・すると、ミサイルはそのままの角度で成層圏を越え高度80kmに到達、その後、地球の重力に従い攻撃目標へ落ちる!!
落下のスピードは、音速をはるかに超えるマッハ6!!
当時、迎撃することは到底不可能でした。
しかし、問題は・・・スピードが速くなると、空気抵抗によってミサイルの揺れが大きくなる・・・
ミサイルは、姿勢を保てなくなり、軌道を外れます。
狙った目標に、正確に打ち込むためには、姿勢の制御が必要不可欠でした。
人類が経験したことのないスピードで動く物体を、どうすれば安定した姿勢に保つことが出来るのか・・・??
開発は困難を極めました。

フォン・ブラウンは、問題を克服する為に、ある実験装置の導入を思いつきます。
超音速風洞です。
音速を越えた状態で起こる空気の流れを人工的に発生させ、空気抵抗を調べる装置です。
これを使えば、弾道ミサイルが超音速でどう動くのか、シミュレーションできます。
風洞実験を繰り返し、改良を加え、飛行の安定性を高めることに成功しました。

25歳の若者が、科学者やエンジニアたちをまとめる偉大なリーダーとなりました。
フォン・ブラウンには、組織を大きくし、優秀な人材を発掘し、科学者やエンジニアたちのやる気を引き出すプロジェクトリーダーとしての素質がありました。
彼の力で、プロジェクトはどんどん大規模になり、多くの予算を獲得しました。

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻・・・第二次世界大戦が勃発しました。
ドイツ軍は、オランダ、フランスを次々に撃破、しかし、1942年当時のソビエト連邦スターリングラードで激しい抵抗にあい、形勢が逆転します。
そんな中、フォン・ブラウンが開発した弾道ミサイルの最終実験が行われました。
A4ロケット・・・全長14m、総重量13トン・・・高度80キロを超え、190キロ先にある目標に到達しました。
フォン・ブラウンは、実験の成功をヒトラーに報告しました。
実検の映像を見せると、ヒトラーは興奮して叫びました。

「感謝する!
 このロケットを使えば、戦争を終わらせることが出来るだろう」

ヒトラーは、この弾道ミサイルを秘密兵器とし、大量生産を命令します。
その数、1万2000基・・・ペーネミュンデの工場だけでは到底製造が追いつきませんでした。
フォン・ブラウンは、ドイツ中央部にあるミッテルバウ=ドーラ強制収容所の目をつけました。
収容されているフランスやロシアの捕虜・・・およそ1万人を利用しようと考えたのです。
収容所そばの炭鉱跡に工場を建設・・・捕虜たちに弾道ミサイルを作らせました。
新鮮な空気も水もない、劣悪な環境の中、肺炎や赤痢が流行・・・捕虜たちは次々と死んでいきました。
逆らえば、処刑されました。
労働力が不足すると、他の収容所から調達しました。
強制労働の犠牲者は、2万人に及びました。
1944年、ドイツは連合国側に取り囲まれ配色が濃厚となっていました。
9月8日、フォン・ブラウンの開発した弾道ミサイルがロンドンに発射されました。
ミサイルはおよそ6分で300キロ先のロンドンに着弾、マッハ6で落ちてくるミサイルにロンドン市民はパニックに陥ります。
ミサイルは報復という意味の頭文字をとって、V2ロケットと名付けられました。
V2ロケットは、ロンドンやパリで1万3000人もの命を奪います。
フォン・ブラウンは、V2ロケットの開発について後にこう語っています。

「その時はまさか、兵器が作られるなんて思ってもいませんでした」

1945年ドイツが敗戦に向かう中、フォン・ブラウンは新たな弾道ミサイルの開発を進めていました。
目指したのは、アメリカに到達する大陸弾道ミサイルです。
飛距離を伸ばすことは、彼にとって月に近づくことでもありました。
実はこの時、フォン・ブラウンは母国ドイツを捨てることを考え始めていました。
ナチス親衛隊に入隊していたにもかかわらず・・・!!
日和見主義者のフォン・ブラウンは、ナチスに協力しました。
親衛隊の制服に身を包みますが、それは、見せかけの忠誠心を示すためです。

「ドイツは2階の大戦で敗北した
 今度は勝者の側につきたい」byフォン・ブラウン

当時、連合国側の二つの大国、アメリカとソビエト連邦は、兵器開発に携わる優秀な科学者をドイツから獲得しようともくろんでいました。
この情報を掴んだフォン・ブラウンは、信頼できる部下20人を集め密かに集会を開きました。

「ドイツは負ける
 しかし、我々のロケットなが宇宙にたどり着くのはあと一歩だ!!
 我々は宇宙旅行が現実になると信じてきた
 この信念をとめることはできない」byフォンブラウン

フォンブラウンは、連合国の中で宇宙開発ができる経済力があるのはアメリカだけだと考えていました。

「アメリカとソ連、どちらも我々の能力と技術を欲しがっている
 我々は、アメリカ軍に投降した方がよいのではないか」byフォン・ブラウン

反対する者はいませんでした。
520人の技術者たちが、フォン・ブラウンに賛同しました。
一方、ドイツに侵攻したアメリカも、フォン・ブラウンを血眼に探していました。
V2ロケットに核弾頭を搭載すれば、世界最強の兵器になると考えていたのです。
1945年2月、ミサイル開発の拠点ペーネミュンデの東160キロにまでソ連軍が迫っているという情報が・・・!!
フォン・ブラウンはすぐに決断します。
520人の技術者とその家族全員を運ぶという世紀の大脱出!!
1000台のトラックを用意し、V2ロケット100基分の部品と重要書類を積み込ませました。
通行証は、偽造しました。

1945年2月17日、ペーネミュンデを出た一行は、南へおよそ600キロ離れたブライヒェローデへ向かいました。
ナチスに見つかれば裏切り者として処刑される・・・決死の逃亡でした。

4月30日、ヒトラー自殺!!

その2日後、フォン・ブラウンたちはアメリカ軍に投降・・・母国ドイツを捨てました。
第二次世界大戦が終わると、フォン・ブラウンたち工学者126人はアメリカのテキサス州フォードブリスに移住します。
ミサイル実験場でした。
フォン・ブラウンは、アメリカ軍に元ナチスの戦争犯罪人として形式的な尋問にかけられる一方、V2ロケットを組み立てるように命令されます。
その後、アメリカとソ連の冷戦が激化、1949年ソ連が原爆実験に成功。
その翌年の1950年、朝鮮戦争が勃発。
アメリカは、急速に軍備拡大を進めていきます。
フォン・ブラウンは、アメリカ軍から核弾頭を搭載できるミサイルの開発を命じられます。
フォン・ブラウンには、何の躊躇もありませんでした。
ロケットが核兵器になることは必然だと考えていました。
ソ連を敵とみなし、アメリカが西側の救世主になるために・・・!!
核兵器を持つことは正しいと信じ、弾道ミサイル開発に全面的に協力したのです。

日々徒然〜歴史とニュース?社会科な時間〜 - にほんブログ村

1953年、2トンの核弾頭を搭載できる弾道ミサイルの発射実験に成功します。
320キロの射程距離を持つこのミサイルは、レッドストーンと名付けられました。
後の大陸間弾道ミサイルICBMへと発展していきます。

この頃、共産主義者や独裁主義者をアメリカから追放しようという動きがおこりました。
フォン・ブラウン・・・元ナチスの親衛隊だった過去を暴かれます。
しかし、彼は命令に従うしかなかったと弁明し続けました。
フォン・ブラウンは、繰返し何もなかったといい、陸軍もマスコミにそのように報道させました。
彼がナチスの親衛隊だったという事実は封印されたのです。

1955年、軍の計らいによりフォン・ブラウンは、アメリカの市民権を取得し、名実ともにアメリカの国民となりました。
アメリカ軍は、フォン・ブラウンらドイツ人科学者たちをアメリカ国民にし、冷戦の兵器開発競争に利用したのです。
フォン・ブラウンのレッドストーンは、その後、核実験のために何度も打ち上げられました。
彼はナチス・ドイツのためだけでなく、アメリカでもロケット兵器の開発に邁進しました。

「人道的な立場に立てばロケットの研究を中止すべきだったかもしれない
 しかし、私の宇宙への夢は、あまりにも強かった
 実現できるなら、悪魔に心を渡してもいいとさえ思っていた」byフォン・ブラウン

1957年10月4日、アメリカに激震が走りました。
ソ連が人類初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功!!
戦後、科学技術で常にトップを走ってきたアメリカのプライドが打ち砕かれました。
そんな中、フォン・ブラウンは国務長官にこう言います。

「私に任せていただけるなら、60日で必ず人工衛星を打ち上げてお目にかけます」byフォン・ブラウン

当時、フォン・ブラウンは新たに強力な弾道ミサイルを開発していました。
爆弾の代わりに人工衛星を搭載すれば、軌道に乗せることが出来ると確信していました。
スプートニクの成功は、彼に、非常に大きな挫折と怒りをもたらしました。
フォン・ブラウンは世界で一番最初に人工衛星を打ち上げるという野望を持っていたのですから・・・!!

3か月後の1958年1月31日、人工衛星”エクスプローラー1号”を搭載した巨大ロケットが打ち上げられました。
95分後、見事、衛星軌道に乗り、アメリカ初の人工衛星となりました。
この成功によって、アメリカは国家の威信を回復、フォン・ブラウンは一躍アメリカのヒーローとなりました。
10月1日、アメリカ航空宇宙局NASAが発足!!
フォン・ブラウンは、マーシャル宇宙飛行センター所長に就任します。
宇宙ロケット開発のTOPに立ちました。

しかし、1961年4月12日、またしてもソ連に先を越されます。
ガガーリンによる人類初の有人宇宙飛行です。
1961年5月25日、ケネディ大統領は、すぐに声明を出しました。

「60年代のうちに人間を月に着陸させ、無事地球に帰還させるという目標の達成を目指す」byケネディ

アポロ計画です。
フォン・ブラウンは副大統領に、「ソ連より先に月に行くロケットを開発できる」と主張していました。
それを聞いたケネディ大統領が、彼の言葉を信じ、すかさず動いたのです。
地球から月へはおよそ38万キロ・・・月に到達し、地球に帰還させるためには正確な軌道を導き出すことが最重要課題となります。
まずは、ロケットを月の軌道に乗せ、月の引力を使って着陸させる・・・
帰りは地球の引力で戻る・・・途方もない計画でした。
フォン・ブラウンが開発したのは、宇宙飛行士を月に運ぶための3つの円陣を持つ世界初の三段式ロケット・サターンⅤです。
フォン・ブラウンは、アポロ計画の最重要部分であるロケットエンジン開発のリーダーに任命されました。
アポロ計画の最重要人物の一人となったのです。

アメリカ政府は、アポロ計画に年間60億ドル(2兆1600億円)を投じ、それは国家予算の予算のおよそ4%にも上りました。 
予算獲得のためには、国民の支持が必要だと考えたフォン・ブラウンは、マスコミを利用しました。
当時人気のあったウォルト・ディズニーと宇宙ロケットを開発する番組を制作します。
宇宙旅行を描いた小説やエッセイをわかりやすくイラスト共に雑誌に掲載、さらに、ケネディ大統領との親密さをアピールし、アメリカ国民に月面着陸は夢ではないと印象付けました。
アポロ計画スタートから8年後・・・1969年7月16日、三人の宇宙飛行士を乗せたサターンⅤが打ち上げられます。
全長110m、総重量3000トンを超える巨大なロケットが飛び立ちました。
そして4日後・・・7月20日、アポロ11号は、人類初の月面着陸に成功しました。

「これはひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」byアームストロング

世界中の人々は、テレビにくぎ付けとなり熱狂!!

「アームストロングが月面に降り立った時、まさに人生最高の瞬間だった」byフォン・ブラウン

人類初の大偉業を成し遂げたフォン・ブラウンは、英雄として歴史に名を刻みました。

アポロ11号による月面着陸成功後、フォン・ブラウンが生み出したロケットによって、宇宙開発は飛躍的に進みます。
アメリカNASAは、現在、火星への有人飛行を目指し、巨大なロケットの開発を進めています。
民間企業では、月旅行を実施すると発表・・・
その一方で、フォン・ブラウンが開発したロケットの技術でスカッドミサイルなどが世界各国に広まりました。
現在、およそ50か国が大陸間弾道ミサイルの開発を進めています。
射程距離は1万キロ・・・およそ1分で宇宙空間へ到達し、最高速度はマッハ20にもなります。

フォン・ブラウンのV2ロケットは、技術革命でした。
大陸間弾道ミサイルと、新たな宇宙ロケット両方を可能にしました。
アメリカ、ロシア、イギリス・・・そして中国など、世界各国のロケット開発を飛躍的に進歩させたのです。
現在、地球の周りには、4400以上の人工衛星が稼働中。
少なくともおよそ300基は軍事衛星だといわれています。
日本はこれまでに延べ11基の情報収集衛星を打ち上げました。

宇宙は果てしない・・・この瞬間も膨張を続けています。 
人類はどこまでたどり着けるのか・・・??

1972年、アポロ計画の打ち切りが決まると、フォン・ブラウンもNASAをさりました。
その3年後、63歳の時ガンが見つかります。
1977年6月16日、すい臓がんで死去・・・
死の底でフォン・ブラウンは、まるで宇宙の中を漂っているようなうわごとを発したといわれています。

「私は今、銀河系を脱出しようとする
 10万光年・・・10億光年・・・」

最期の言葉は・・・「ノバ(新星)」・・・65歳の生涯でした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

岡田斗司夫ゼミ#250「フォン・ブラウン~ロケットを作った男は神?悪魔? 来年、確実にやってくるアポロ50周年ブームをいまから先取り!」

新品価格
¥1,000から
(2020/7/3 09:26時点)

これからはじまる宇宙プロジェクト2019-2033 (エイムック)

新品価格
¥1,540から
(2020/7/3 09:26時点)

このページのトップヘ