日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: フランケンシュタインの誘惑

今から200年前・・・1冊の小説が世に出ました。
科学に魅せられた若者が、理想の人間を作り出そうとして恐ろしい化け物を生み出してしまう・・・
小説の名は「フランケンシュタイン」・・・
科学は人類に夢を見せる一方で、時に残酷な結果を突き付ける・・・
科学は、誘惑する・・・!!

2019年、日本の吉野彰がノーベル化学賞を受賞しました。
化学の世界で最高の栄誉であるノーベル賞・・・
創設したのは、スウェーデンの化学者アルフレッド・ノーベルでした。
ダイナマイトの発明で得た莫大な財産は、賞の基金となりました。
鉱山や土木工事に革命をもたらし、人類の発展に大きく貢献しました。
しかし、その破壊力は、戦争にも使用されました。
ノーベルは、ダイナマイトが戦争に使われることを承知で、世界中に売りさばき、巨万の富を築きました。
ノーベルは、死の間際、財産の使い道を遺言します。
人類に最大の貢献をしたものに与えられるノーベル賞・・・それは爆薬王・ノーベルの最後の償いだったのか・・・??

スウェーデンの首都・ストックホルム・・・
1833年、アルフレッド・ノーベルは、発明家の父の三男としてストックホルムの小さなアパートに生れました。
生まれつき喘息で病弱だったノーベル・・・隙間風が入る部屋の中で、震えながら暮らしました。
ノーベルの家は、とても貧しく、息子たちは町でマッチ売りをするほどでした。
ノーベルが1歳の時、発明家だった父が、事業の失敗と火事で破産しました。
子供の時の飢餓体験は強烈で、後に裕福になった時もいつ破産するかわからないという恐怖にとらわれていました。

ノーベル家の窮状を救ったのは戦争でした。
当時のヨーロッパは、帝国主義の時代・・・フランス・イギリス・オーストリアなどの列強各国は軍備を拡大し、より強力な武器や弾薬を求めていました。
中でもロシアは、黒海沿岸の覇権をめぐり、オスマン帝国と対立!!
ロシア皇帝・ニコライ1世は、武器の発明家を国の内外を問わず起用しました。
そんな時、ノーベルの父イマニュエル・ノーベルの発明した機雷がロシア軍に採用されます。
敵艦隊の侵入を防ぐなど、軍の信用を得たため、武器の注文が相次ぎます。
一家は、ノーベルが9歳の時にロシア・サンクトペテルブルクに移住。

食べる物にも困った生活から、馬車を持つほど裕福になりました。
ノーベルは、4人の家庭教師から、母国語であるスウェーデン語をはじめ、ロシア語・英語・フランス語・ドイツ語・・・物理・科学などの英才教育を受けます。
中でも、興味を持ったのは、化学でした。
当時は物質の構造や特性を化学的に解き明かそうとしていた時代・・・
ノーベルも、物質を組み合わせることで、まるで違うものに変化する化学反応に夢中になりました。
兵器を作るための工作機械や、火薬が並ぶ父親の工場は最高の実験室でした。
ノーベルは後年、こう証言しています。

「父が機雷の製造を手掛けていたので、私が爆発物に興味を持ったのは、当然だったわけです」

一方、病弱で友達のいないノーベルの心は、文学にも引き付けられました。
詩を書くのが大好きで、一時は本格的に文学者を目指すほどでした。
1853年、ロシアとオスマン帝国の衝突をきっかけに、クリミア戦争が勃発・・・
イギリスやフランスも参戦する大規模な戦いに発展しました。
父の工場は、戦争特需となって生産を拡大・・・たちまち従業員1000人以上の大工場となりました。
20歳になったノーベルは、文学者の道をあきらめて父の道を手伝うことになります。
この時期の経験が、ノーベルに大きな影響を与えました。
兵器を作ることで、大儲けできることを目の当たりにしたのです。
クリミア戦争が始まって2年後の1855年・・・
ノーベルの人生を変える出来事が起こります。
知り合いの化学者ニコライ・ジーニンから興味深いものを見せられます。
それは少しとろみのある不思議な液体・・・教授がガーゼにその液体を数滴たらし、ハンマーでたたくとパーン!!・・・これがニトログリセリンでした。
これが、7年前に発明されたばかりの物質で、その破壊力は従来の黒色火薬の5倍以上!!

1856年クリミア戦争が終結すると、軍の注文は激減・・・父の工場は、たちまち破産に追い込まれます。
ストックホルムに戻り、一からやり直しとなったノーベル・・・
起死回生の切り札と考えたのが、あのニトログリセリンでした。
しかし、ニトログリセリンには大きな問題がありました。
極めて危険だったのです。
ニトログリセリンは、わずかな衝撃で爆発する一方、狙った時に爆発しないという気まぐれな性質があります。
だから、世界中の科学者の誰もが爆薬として使うのは不可能だと諦めていました。

どうしたら、ニトログリセリンを確実に爆発させることができるのか・・・??

他の薬品と混ぜたり、圧力や温度を変えたり・・・試行錯誤です。
その結果、急激に圧力をかけて、180度以上の熱・・・確実に爆発することが分かりました。
ノーベルは、あるアイデアを考え出します。
ニトログリセリンの上にカプセルに入れた火薬をおきます。
導火線でこの火薬を爆発させることで、一気に圧力をかけ、ニトログリセリンを爆発させようというのです。
火薬を使ったこの起爆装置は雷管と呼ばれ、その後、世界中で使われることになります。

しかし・・・1864年9月・・・ニトログリセリンの製造中に爆発事故が起き、弟を含む5人の死傷者を出す大惨事となりました。
ノーベルは、確実に爆発させる条件を見つけたが、不安定なニトログリセリンを安全に取り扱うことはまだできなかったのです。
弟が死んだ次の日、更なる研究に取り掛かります。
弟が死んでも決してあきらめませんでした。
彼は化学者として、ニトログリセリンという暴れ馬を手なずける可能性がほんの少しでもあるのならば、何としてもその方法を見つけたいと考えていました。

爆発事故は、ストックホルム市民を恐怖に陥れました。
警察からも、市街地でのニトログリセリン製造はおろか実験も禁止されました。
しかし、その一方で、爆発力の大きさは逆に宣伝となります。
事故から1か月後、電鉄会社からトンネル工事にニトログリセリンを使いたいという注文が舞い込みました。
そこでノーベルは、ドイツに新しい工場を建て、ニトログリセリンを製造しながら、安全に取り扱う研究を続けます。

ニトログリセリンが危険な原因は、振動や衝撃が伝わりやすい液体だからだと考えたノーベル・・・
固形化することを考えます。
黒色火薬にしみこませてみる・・・しかし、失敗・・・爆発力が著しく落ちてしまったのです。
それは、火薬がニトログリセリンを十分に吸収できなかったためです。
ノーベルは、ニトログリセリンをしっかり吸収できる物質をいろいろ試します。
おがくず・・・風が吹いただけで爆発
炭・煉瓦の粉・・・爆発すらしない
試行錯誤を続けていたある日、ノーベルは不思議な光景を目にします。
水辺に浮いた油が、見る見るうちに土にしみ込んでいました。
この土は、珪藻土と呼ばれるものです。
ケイソウが化石化して堆積したもので、細かな穴が無数にあるので吸収性に富んでいました。
ノーベルは、この珪藻土がニトログリセリンと混ぜるのにとても適していると気づきます。
ニトログリセリンを珪藻土に吸収させることで、衝撃や摩擦に対する反応が抑えられます。
そうすることで、安全性が格段に増すのです。
珪藻土を試していると、その吸収度はすさまじく・・・3杯の重量のニトログリセリンを吸い込むことができました。
ノーベルは、珪藻土とニトログリセリンを1:3の割合で固形化。
実験をすると、ニトログリセリンとそん色ない破壊力を見せました。
しかも、衝撃を与えても爆発しませんでした。
追い求めていた安全でかつ強力な爆薬が完成したのです。
ノーベルはこの爆薬をギリシャ語で力を意味するディナミスからダイナマイトと名付けました。

1867年9月19日、特許取得・・・
そこにはダイナマイトと共に、ノーベルの火薬と明記した上で、衝撃や火花で爆発しないこと、安全に運搬や貯蔵ができることを強調しています。
ダイナマイトは、それまで不可能だと思われていた、アルプス山脈を貫く全長15キロのトンネルを可能にしました。
鉱山や油田などの資源開発、鉄道やダムなどのインフラ整備に・・・ダイナマイトがあって初めて実現できたのです。

従来の火薬の5倍の破壊力を持つダイナマイト・・・強力な兵器といても使われていきます。
1870年普仏戦争・・・
軍事大国フランスに、ドイツ連邦の一部に過ぎない新興国プロイセンがどこまで戦えるのかと世界が注目しました。
ところが、開戦からわずか2か月で、プロイセンがフランスを圧倒・・・
この時、プロイセンが初めて戦争で使ったのが、ダイナマイトでした。
要塞や補給路となる橋の爆破、塹壕を作るために威力を発揮します。
プロイセン軍の勝利に貢献しました。
敗れたフランスは、ダイナマイトの威力に注目・・・

当時最大の発行部数を誇った新聞が、トップ記事で紹介しました。

”最も驚異的で最も恐ろしい破壊力を持つ製品”

”殺人の道具として利用できる”

兵器として知れ渡ったダイナマイト・・・ノーベルは、カバンにダイナマイトを詰め込んで、ヨーロッパ中に売り込みました。
名付けて”ダイナマイト旅行”
ノーベルは、発明家であり優秀なビジネスマンでもありました。
ノーベルのキャリアは、ロシア時代、クリミア戦争で大もうけした父の軍需工場からスタートしています。
兵器でお金を稼ぐことに対し、何の抵抗もなかったのです。
ノーベルは、母国スウェーデンをはじめ、ドイツ、アメリカ、イギリス、フランスなど世界13か国に17の工場を建設していきます。
ダイナマイトの生産量・・・特許を取得した1867年11トンでしたが、6年後には2020トン・・・200倍近くの急成長を遂げます。
ノーベルは、名実ともに爆薬王として巨万の富を築いていきます。
1876年、43歳になったノーベルは、パリを拠点に更なる一歩を歩み出します。
新兵器の開発です。
ノーベルが興味を持っていたのは無煙火薬です。
当時、たくさんの科学者がこの無煙火薬を研究していました。
従来の黒色火薬を使った大砲や銃は、発射後大量の煙が出るため、敵に発射位置を悟られやすかったのです。
また、砲身にすすが溜まり、連続して使えないという欠陥もありました。
その為、世界中の科学者と火薬製造会社が無煙火薬の開発にしのぎを削っていました。

ノーベルは、ダイナマイトを開発した自信があったので、自分なら無煙火薬も開発できると考えていました。
彼はパリに住んでいたので、フランス政府に声を掛けましたが、それにとどまらず、イギリスやロシアにも売り込もうとしていました。
ノーベルの提案に飛びついたのは、普仏戦争でダイナマイトの威力に驚いたフランスでした。
ノーベルは、大砲の実験場を自由に使わせてもらうなど、フランス軍の全面協力の元、無煙火薬の研究に取り組みました。
注目したのは一瞬で燃える杯も煙も出ない素材・・・ニトロセルロースです。
1884年、このニトロセルロースにニトログリセリンとショウノウを混合し、無煙火薬バリスタイトを完成させました。
バリスタイトを使った大砲は、わずかに水蒸気が出るもののその差は一目瞭然でした。
煙やススが格段に減ったため、連射が可能となったうえに、威力が強かったのです。
新兵器の完成でした。
これで他の火薬は必要ない・・・
ノーベルが作った無煙火薬バリスタイトは、民間利用には必要のないものです。
しかし、兵器である大砲にはもってこいでした。
戦争で使われるためだけに作られたものなのです。
ノーベルは、明らかに一線を越えたのです。
バリスタイトを開発したその年、フランス最高の栄誉レジオンドヌール勲章を受章します。
ノーベル51歳・・・人生の絶頂を迎えていました。

勲章受章の4年後・・・55歳になったノーベルの人生に翳り見え始めます。
1888年・・・この年、一番仲の良かった兄が死去・・・
しかも、兄の死をノーベル本人と間違えた記事が新聞の死亡欄に載りました。

”人類に貢献したとはいいがたい男が死亡した
 ダイナマイトを発明したムッシュ ノーベルである”

本来、死去した人を称える死亡欄で、ノーベルはその功績を否定されていました。
翌1889年、兄に続き最愛の母が死去・・・さらに、事業でも不運が続きます。
フランス軍がライバル会社の無煙火薬を採用、ノーベルのバリスタイトは生産中止に追い込まれます。
窮地に立ったノーベルは、1890年、イタリアとバリスタイトの売買契約を結びました。
これに対し、フランスの新聞が一斉に攻撃!!

”信じがたいことに外国人化学者が、フランスで研究開発した無煙火薬をイタリアで製造させている”

”あえて名を挙げるなら、アルフレッド・ノーベルだ!!裏切り者!!”

ノーベルは、逃げるようにイタリアのサンレモに移り住みます。
次々と襲う逆風・・・追い打ちをかけるように、持病の心臓病が悪化します。
そんな時、ある1冊の本に出会います。
「武器を捨てよ!」
反戦をテーマにした小説でした。
作者は、平和活動家のベルダ・フォン・ズットナー。
ノーベルは、ズットナーとは10年来の知り合いでした。
5か国語でビジネスレターを書けるほど語学に堪能だったズットナー・・・
かつて短い期間でしたが、ノーベルの秘書として働いていました。
出会った時、ノーベルはズットナーの美貌と知性に一目惚れ・・・
仕事の合間を縫って、公園やレストランに連れ出しました。
ノーベルは数回のデートの後、彼女に好きな人がいるかどうかを聞こうとしましたが、シャイな彼にはできませんでした。
彼女には、結婚の予定があったのでノーベルのもとで働いたのは1週間ほどでしたが、その後も二人の友人関係は長く続きました。
敬愛するズットナーの書いた「引きを捨てよ」
戦争の悲惨さを訴えるこの小説を読んで、ノーベルは平和について考え始めました。
ノーベルが平和について語ることは、それまでありませんでした。
しかし、彼女の本を読んでから、突然世界平和を夢見るようになったといいます。

1892年、ノーベルは、ズットナーが主催する平和会議に参加しました。
しかし、平和を実現する方法については、ノーベルとズットナーはまるで違っていました。
世界各国が武器を捨てれば平和になるというズットナーに対し、ノーベルは、強力な兵器こそが平和を生むという考え方でした。

「たった1秒で完全に相手を破壊できるような時代が到来すれば、全ての文明国は驚異のあまり戦争を放棄し、軍隊を解散させるだろう」byノーベル

1894年、ノーベルは自らの考えを推し進めるかのようにスウェーデンの兵器工場を買収・・・
爆薬だけでなく、大砲などの生産に乗り出します。
ノーベルは、国家はお互いに強い軍隊と強力な武器を持たなければならないと考えていました。
彼にとって、大事なのはバランスです。
武器は敵を倒すためのものではなく、戦う相手を威嚇し、そしてお互いをけん制するためのものなのです。
ノーベルは、兵器という恐怖が、平和実現のために必要だと考えていました。

1896年12月10日・・・ノーベルは63歳で人生の幕を閉じます。
脳出血でした。
生涯独身で、看取ったのは使用人一人だけでした。
親族も友人もいない最期でした。
死の前年、ノーベルは遺書を書き残しています。
ストックホルムにあるノーベル財団・・・
このビルの一室にその遺書が残されています。
遺書の中でノーベルは、自分の遺産について細かく指示をしています。

”資産は安全確実な有価証券に替え、その年利を賞として、前年に人類に対して最も偉大な貢献をした人物に授与するものとする”

”賞の対象は、地域や国籍を問わない”

ノーベルが、授与する分野として書いていたのは、物理学・化学・生理学及び医学・文学でした。
この4つの賞は、彼が若い時から興味を持っていた分野で、ノーベルという人間を作ってきたものです。
そして、もうひとつ・・・ノーベルが指定した賞があります。
”平和賞”です。

”国家間の友好及び武器兵器の廃棄削減”などに貢献したものに与えられます。
どうしてノーベルが平和賞を作ったのか・・・??
兵器産業で大もうけしたのに、兵器の廃棄や削減をしたものに賞を与えるというのは、矛盾しています。
ノーベルという人間を、一つの枠だけで語ることは不可能です。
平和賞は、謎なのです。

ノーベルが賞のために残したのは、現在の日本円でおよそ250億円・・・それは、総資産の実に94%にものぼるものでした。
ノーベルの遺言の内容が報じられると、スウェーデンのみならず、海外から大きな反響がありました。

”スウェーデン文化史の一大事件”
”ノーベル氏の科学への惜しみない贈り物”
”博愛主義に基づいた記念碑的な慈善行為”

人類初となる試みに対し、最大級の賛辞が贈られました。
この賞は、ノーベル賞と名付けられ、1901年から毎年彼の命日である12月10日に授賞式が開催されることになりました。

第1回・・・レントゲンを発見したレントゲンが物理学賞を
      国際赤十字を創設したアンリ・デュナンが平和賞を
女性初は、第3回の物理学賞のマリー・キューリー
ズットナーは第5回の平和賞を受賞しました。

これまでに900を超える個人と団体が受賞しています。
      
1945年、第2次世界大戦が終結したその年、ノーベル賞の記念晩さん会に招かれたアインシュタインはこう語りました。

「ノーベルは、かつてないほど強力な爆薬を発明し、破壊への扉を開きました
 同様に、史上最悪の兵器製造に参加した現在の科学者も、罪悪感と責任感に悩まされています
 科学者は常にノーベルと同じ苦境に立たされているのです」byアインシュタイン

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我が目的・・・優れし者の理想郷・・・
600万人のユダヤ人を殺害し、20万人以上の障害者を殺害・・・
ナチス・ドイツ・・・その陰には、ナチスの政策に協力した数多くの科学者がいました。
残虐行為の重要人物でありながら、未だほとんど知られていない科学者がいます。
人類遺伝学者オトマール・フォン・フェアシュアー。
優秀な人間だけのユートピアを目指す化学・・・優生学を絶対視した男でした。

「病人と障害者は不妊手術すべきである」

フェアシュアーが作成した極秘文書が見つかりました。
そこに記された断種の文字・・・
障害者への強制的な不妊手術、断種がナチスの大虐殺の始まりでした。
フェアシュアーは、ナチスが目指したユダヤ人根絶に貢献しました。
しかし、フェアシュアーは、その罪に問われることなく、戦後は科学界のTOPとして君臨し続けました。
謎に包まれた科学者・・・命に優劣をつけた男は、いかにしてナチスを支えたのか??

古代ギリシャ世界で最強とされたスパルタの戦士たち・・・
スパルタでは、新生児が長老によって選別され、完全に健康で強い子供だけが、生きることを許されたといいます。
選ばれし優れた者だけのユートピア・・・
それは天国・・・それとも地獄なのか・・・??

2015年1月27日、ナチス・ドイツによる大量虐殺の象徴アウシュビッツ・・・
開放から70年を迎え、収容所跡では、追悼式典で祈りに包まれました。
ナチス・ドイツは、ユダヤ人だけでなく、障害者も殺害しました。犠牲者は600万人以上にのぼります。
こうした虐殺は、ドイツ最高の頭脳を誇る多くの医師や科学者の関与によって実現したものでした。

ヒトラーの主治医カール・ブラント・・・障害者を安楽死させる計画を立案、遂行・・・
精神医学者カール・シュナイダー・・・人体実験で、精神疾患の患者を殺害、解剖を繰り返しました。
アウシュビッツの医師ヨーゼフ・メンゲレ・・・収容された人々の標本を作り、死の天使と恐れられました。
さらに、近年の調査によって、これまで知られていなかった大物科学者の存在が浮かび上がってきました。

人類遺伝学者オトマール・フォン・フェアシュアーです。
戦後、大学教授として要職を歴任し、ドイツの学会トップとして君臨し続けた人物です。
2001年、かつてフェアシュアーが所長を務めた研究機関は、フェアシュアーが犯罪行為に手を染めていたことを認めました。
多くの学生や研究者から慕われていた穏やかな教授・・・
その男が、ナチスによる大量虐殺を科学者として後押ししていたというのです。

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ベルリン市内から4時間・・・ドイツ中央部に位置するゾルツ・・・
1896年、フェアシュアーはこの村を代々領地としてきた貴族の家に生まれました。
幼いころから自然科学に強い関心を抱いていたフェアシュアーは、
1919年、マールブルク大学で医学を学びます。(23歳)
そこで出会い、夢中になったのが、当時最先端の科学・優生学でした。

優生学・・・それは、19世紀から20世紀にかけて生物学の目覚ましい発展と共に誕生した新しい学問でした。
その基礎となったのは、ダーウィンの「種の起源」でした。
進化論・・・生物は、生存競争と自然淘汰によって進化を遂げてきたというものです。
さらにメンデルが、遺伝の法則を発見・・・この遺伝学が進化論と結びついて、優生学を推し進めます。
遺伝的に優れた者を残し、劣るものを取り除いて人為的に淘汰を行う・・・
そうすることで、人類の進歩を促し、よりよい社会・ユートピアの建設を目指す・・・それが、優生学です。

優生学は、当時世界中でブームでした。
優生学のテーマは、民族全体の健康を守ることでした。
病気や障害が高い確率で遺伝するのであれば、いかにして予防できるか・・・
つまり、”遺伝によって病気や障害が広まる事”をどうやって防ぐか・・・??
それが重要だったのです。

目の前の患者だけでなく、民族全体を救うことが出来る・・・
フェアシュアーは、優生学に取りつかれます。
卒業したフェアシュアーは、1923年、大学の附属病院に勤務・・・遺伝生物学の研究を開始します。
そこで、優生学の研究対象として目をつけたのが、双子でした。
一卵性双生児は、同一の遺伝子を持ち、二卵性双生児は半分ほどの遺伝子を共有している・・・
一卵性と二卵性の双生児を統計的に比較することで、人間的に外見や体質に遺伝がどの程度関与しているのかがわかると考えました。

例えば、ある病気に二人ともかかる割合が一卵性双生児の方が高い場合、その病気のかかりやすさに遺伝が関わっていると考えられます。
フェアシュアーが調査したのは、当時死の病と恐れられていた結核でした。
結核は、感染しても発症する人としない人がいる・・・ここに遺伝的な影響があるのではないか??
一卵性と二卵性・・・併せて127組の双生児を調査します。
双生児が二人とも結核を発症する確率は、一卵性が二卵性に比べて45%高いという結果になりました。
フェアシュアーは、「結核の発症には、遺伝的な性質が相当な重要性を持つ」と結論付けました。
このフェアシュアーの結論は、間違ってはいなかったと最新の研究で解明されつつあります。
遺伝学者たちは、彼の研究を高く評価しました。
フェアシュアーは、遺伝に関する研究者として国際的に認められ、地位を確立しました。
フェアシュアーは、この研究の成果を優生学の分野で応用するべきだと主張しました。

「結核から民族を救うために、優生学を取り入れ、患者は不妊手術を行うべきである」byフェアシュアー

男性は輸精管、女性は輸卵管を切除するのが不妊手術です。
優生学では、これを断種と呼びました。
優生学の観点からすると、望まれない遺伝子を持った人間の生殖によって、特定の病気や障害が子孫へ受け継がれることを防がなければならなかったのです。

1931年・・・フェアシュアーは、障害者に対しても断種を行うべきだと主張・・・

「生涯がある子供を身籠る可能性があるならば、キリスト教的慈愛精神によって不妊手術、つまり断種を行うべきである」byフェアシュアー

キリスト教では許されないはずの不妊手術を正当化しました。
フェアシュアーは、断種を行わない方が、残酷なことだと考えました。
重い病気や、障害のある人々が増え続けると、ドイツ民族の負担は大きくなる・・・
多くのドイツ民族を救うために、小さな犠牲は仕方のないことだと考えたのです。

この頃、第1次世界大戦の敗北の痛手からようやく立ち直りかけたドイツを、世界恐慌が襲いました。
失業者は600万人にも及び、国民の生活は困窮を極めました。
ドイツの財政は、危機的状況に陥りました。

最大の人口を抱えるプロイセン州政府は、歳出削減の策を検討するため、フェアシュアーら科学者を招集しました。

「フェアシュアー教授は、非常に慎重であり、その計算によるとドイツにおける障碍者の数は20万人以上にも上ります
 障害者のためにさかれる支出を健常な人々のために役立てるべきではないか・・・」

プロイセン州政府は、フェアシュアーのデータをもとに、障害者の不妊手術を・・・断種法案を策定します。
そこにはこう書かれています。

”本人の同意があれば不妊手術を認める”

しかし、当時、国の法律では不妊手術は禁じられていました。
そのため、州独自の断種法は実現には至りませんでした。

1933年、事態は一変・・・フェアシュアーの救世主となる男が現れました。
アドルフ・ヒトラーです。
この年、ヒトラー率いるナチスが政権を掌握しました。
優生学に共感したヒトラーは、
「肉体的にも精神的にも不健康で無価値な人間は、子孫の体にその苦悩を引き継がせてはならない」と主張。
”遺伝病の子孫を予防する法律”・・・断種法を成立させました。
対象となったのは、当時は遺伝すると思われていた様々な病気、そして障害です。
さらに、この断種法は、フェアシュアーらの法律案から一歩大きく踏み込んでいました。
本人の同意なし・・・”強制的な不妊手術が可能”だったのです。

1933年は、優生学者にとって開放の都市でした。
彼等は新しい法律に満足でした。
そこに、”強制”という文字があったからです。
フェアシュアーはこの政策をさらに医学界に広げるため、自ら主宰して雑誌を発行します。
その中でヒトラーを、「優生学を国家の主要原則とした初の政治家」として称賛しています。
一方、ナチスもフェアシュアーを評価します。

”我が党に対して、完全な忠誠心を持っており、政治的宣伝の前でも意義がある”

フェアシュアーにとってナチスは、優生学に基づいたユートピアを実現してくれる存在でした。
ナチスもまた、政治でやりたいことを実現する為に、医学者や遺伝学者の知識を必要としていたのです。
ナチスと結びついたフェアシュアーは、凄まじい出世街道を歩むこととなります。
フェアシュアーは、フランクフルト大学に新設された遺伝病理学研究所の所長に就任・・・
まず最初に取り組んだのは、フランクフルト市民の遺伝情報の収集でした。
病院、養護学校、福祉施設から家族の病気や履歴、生涯の有無と言った情報を入手し、遺伝カードを作成。
3年間でフランクフルト市民のおよそ半分に当たる25万人の遺伝情報を収集しました。
断種すべき人々をあぶり出すためでした。
さらに、フェアシュアーは、自ら調査の現場に乗り出していきます。
彼が所長を務める研究所に保健所の資格を取得させたのです。
この資格があれば、住民を直接診断することが出来る・・・!!
これまで審査と診断結果をもとに、遺伝的に健康と判断したカップルには結婚を許可し、適正証明書を発行します。
しかし、遺伝的に問題があると判断した場合、断種をある場所に申請する権限がありました。
その名も優生裁判所です。
断種法遂行のためにナチスによって設立された裁判所です。
法廷では10分もかからず審査され、次々と判決が下されていきました。
その裁判の記録が残されています。
1000以上ある記録の中から、フェアシュアーが直接かかわったケースが見つかりました。
15歳の少年・・・養護学校を出たばかりで、フェアシュアーは彼を思考速度が遅いと診断しました。
少年は明確に能力が欠けていると書かれています。
彼には精神遅滞が確認されたのです。
先天性の知的障害でした。
診断の結果、断種が申請されたのです。

結婚の申請に来た女性は・・・
ドイツの首都は何処か?
フランスの首都は??という質問に答えられず、さらに、字を読むこともできないと付け加えています。
彼女は妊娠6か月で、お腹の子の父親と結婚するつもりでした。
フェアシュアーは、彼女を知的障害と診断し、早急に中絶し断種すべきだと記しています。

病気や障害のない社会を作ることが出来るならば、断種は素晴らしいことだと彼は思っていました。
つまり、自分達が行ったことは、人道的だと信じていたのです。
1945年までにおよそ40万人が強制的に断種されました。
犠牲者は、当時のドイツ国民の200人に一人にのぼりました。

病人や障害者を徹底的に排除してきたナチスは、次の段階へと進んでいきます。
ユダヤ人の根絶です。
ヒトラーは、ユダヤ人があらゆる欠陥を持った劣等人種であると主張しました。

「ユダヤ人は何処にでも住み着く 
 どこでも金儲けを始めるユダヤ人こそ、国際的な不穏分子だ」byヒトラー

これに科学者の立場から、フェアシュアーも加担します。

「異人種が移住してくると、異質な遺伝が持ち込まれ、ドイツ民族が変えられてしまう
 ユダヤ人が増加し、影響が大きくなることを阻止しなくてはならない」byフェアシュアー

ユダヤ人を排斥する動きは日ごとに激しさを増していきます。
1935年血統保護法を制定、ユダヤ人とドイツ人の婚姻・性交渉を禁止しました。
発覚すると禁固刑や懲役刑に処せられました。
優生学に基づく政策が次々と打ち出される一方で、ある問題が浮上します。

「ユダヤ人とはだれか・・・??」

ユダヤ人とは誰か・・・??
驚くべきことに、ナチスはユダヤ人をハッキリと特定する方法を持っていませんでした。
ユダヤ人とドイツ人の外見には、たいして差がありません。
ナチスにとって問題だったのは、誰がユダヤ人で誰がユダヤ人でないかをハッキリと確定できなかったことです。
こうしたユダヤ人問題を検討するナチスの委員会の顧問として招かれたフェアシュアー・・・
ユダヤ人を科学的に特定する方法の研究に取り掛かります。
フェアシュアーは、ユダヤ人の特徴を徹底的に検証します。
①ユダヤ人男性の身長は161cm~164cmである
②ユダヤ人の鼻はかぎ鼻である
③ユダヤ人は特有の体臭がある
④よくかかる病気
などを事細かく調査します。

その過程で、フェアシュアーは、ユダヤ人の特徴がわかったと考えました。
「ユダヤ人は他の民族と比べて、糖尿病などの発病、聾や難聴などの障害が起こる頻度が高い」byフェアシュアー

そして、こう訴えました。

「ドイツ民族の特徴の保存が脅かされないよう、ユダヤ人を完全に隔離することが必要である」byフェアシュアー

結局、彼はユダヤ人根絶に向けても協力したことになります。
ナチスがユダヤ人を隔離し、殺害することを正当化したのです。
フェアシュアーがユダヤ人の科学的特定に励んでいる頃、一人の新人医師が研究所に赴任してきました。
ヨーゼフ・メンゲレです。
メンゲレは、博士論文で最優秀という評価を受けた期待の新人でした。
フェアシュアーは、すぐにメンゲレの有能さを認め、自分の後継者に相応しいと考えました。
メンゲレもまた、フェアシュアーを師と仰ぎ、フェアシュアーのような教授となることが目標となりました。

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1942年、フェアシュアーは、ドイツが誇る世界的研究機関・カイザー・ウィルヘルム人類学 人類遺伝学 優生学研究所所長に46歳で就任します。
より化学的に、簡潔にユダヤ人を確定できないか・・・
フェアシュアーは、ある研究に取り組みます。
それは、血液の研究でした。
人種によって血液中のたんぱく質に違いがあるのではないか??
フェアシュアーは、ユダヤ人特有のたんぱく質を発見しようと考えました。

彼は、人種診断を客観化して、簡単に血液テストでユダヤ人を確認できるようにしようとしたのです。
つまり、人種の証明を外見のみに依存させないということです。
この研究には、大量の血液が必要となります。
ユダヤ人はもちろん、比較のために様々な人種の血液を入手しなければなりませんでした。
そこへ、弟子のメンゲレがある場所へ赴任することが決まります。
アウシュビッツ強制収容所です。
ユダヤ人をはじめ、ポーランド人、ソ連軍捕虜など、14万人が収容されていた最大の使節でした。
収容所医師となったメンゲレは、フェアシュアーの命令の元、ありったけの血液を集めました。
ある人は1日に2度も3度も採血されました。
抵抗することは許されませんでした。
ある人は血液がなくなるまで採血され、しぼんだビニール袋のようになって倒れました。
メンゲレが採取した血液標本には、人種や年齢、性別が記され、フェアシュアーの元へ次々と送られました。
フェアシュアーは、報告書にこう記しています。

「私の助手であり共同研究者のメンゲレ医師が、血液標本を続々と届けてくれている
 様々な人種200人以上の血液標本が集まった」

メンゲレは、フェアシュアーが興味を引きそうなもの・・・眼球や内臓、骨格なども手に入れようと考え、収容された人々を殺害し始めます。
当時、フェアシュアーは同僚に宛てた手紙・・・
「私の特異性たんぱく質についての研究が、ついに決定的な段階に達しました」

このプロジェクトは、誇大妄想でしかありませんでした。
科学的な事実というよりも、フェアシュアーの願望がもとになったものでした。
彼の研究は、論理的に非難されるべきもので、科学と呼べるようなものではなかったのです。

1945年1月27日、アウシュビッツ強制収容所開放・・・
5月7日、ドイツ降伏は無条件降伏を受け入れました。

フェアシュアーは、自分に不利な書類をすべて破棄、証拠を隠滅します。
敗戦と同時に、それまで権勢を誇ってきた科学者や医師たちは、一転して追われる身となりました。
障害者の人体実験を繰り返したカール・シュナイダーは、連合国軍に逮捕され、自殺。
障害者を安楽死させる計画を実行したカール・ブラントは、戦争犯罪人として裁判にかけられ死刑となりました。
フェアシュアーの愛弟子のヨーゼフ・メンゲレは南米へ逃亡・・・死ぬまで34年間、逮捕に怯える日々を送りました。
フェアシュアーも連行され、尋問が行われました。
フェアシュアーはそこで、「アウシュビッツでの出来事を一切しらなかった」と証言しました。
結局、フェアシュアーは罰金600ライヒスマルク・・・45万円ほどの罰金で許されました。
カール・ブラントは、誰一人として自分の手で直接殺していませんが、処刑されました。
フェアシュアーも同じように裁かれるべきでした。

フェアシュアーは、研究者としての実績が評価され、1951年名門ミュンスター大学に迎え入れられます。
新設された人類遺伝子学研究所の所長に就任します。
科学の世界に返り咲いたのです。
その翌年には、ドイツ人類学教会会長に就任。
フェアシュアーは、過去について沈黙を守り、学会トップの座に居座り続けました。

1968年・・・
フェアシュアーは、故郷ゾルツで家族と休暇中でした。
その帰り道、車にはねられ意識不明の重体に陥ります。
昏睡状態は11か月続き、1969年8月8日・・・家族に見守られながら、この世を去りました。
享年73歳でした。
学会から尊敬ウを集め、家族に愛された戦後の人生でした。

もし、彼が事実をすべて話していたら、そのキャリアは終わっていたでしょう。
フェアシュアーが反省していたか、罪の意識を感じていたかについては疑問です。
むしろ、自分の行いに誇りを持ったまま、墓場に行ったのではないか・・・??

フェアシュアーの追悼記事・・・

”オトマール・フォン・フェアシュアー教授は、信仰心があつく、模範的な人物であった
 彼はどんな困難に置いても理解に満ち、寛容だった”

戦後、フェアシュアーは、友人に手紙を書いていました。

”あの忌まわしい過去について話すのはやめておきましょう
 もうすぎさったことですから”

遺伝によって人間に優劣をつけた優生学・・・果たして過去のものなのか・・・??

フェアシュアーの死後、遺伝の研究は飛躍的に進み、生命科学の発展によって遺伝子の働きが次々と明らかになりました。
血を作る遺伝子、皮膚を作る遺伝子、筋肉を作る遺伝子、病気や障害の原因となる遺伝子も発見されています。
こうした遺伝子を調べることで、退治に病気や障害がないかを診断する出生前検査も格段に進歩しました。
最新の解析技術・次世代シーケンサー・・・人の全ての遺伝情報を、わずか1日で解読できます。
この技術を使って、妊婦の血液中に含まれるDNAを分析・・・簡単な血液検査だけで染色体異常の可能性がわかるようになりました。
日本でこの方法を使って受診した人は3万人以上・・・ダウン症などを引き起こす染色体異常の可能性が見つかり、精密検査で異常が確定した妊婦の9割以上が、人口妊娠中絶を選択しています。
さらに、生命のあり方を大きく変える技術も生まれています。
2015年4月、中国で人の受精卵に遺伝子操作が行われました。
特定の遺伝子を切断して働かなくさせたり、別の遺伝子を組み込ませたりするゲノム編集・・・
この技術を使って、血液の病気に関する遺伝子を操作したといいます。
生命の設計図を自在に操る力を手に入れた人類・・・
いずれ、望み通りの人間をつくることも可能とされています。

ナチスを率い、人間の淘汰を進めたアドルフ・ヒトラー・・・こんな言葉を残しています。

「大衆の理解力は非常に小さく、忘却力は非常に大きい」

かつてフェアシュアーが所長を務め、アウシュビッツから送られる血液を受け取っていた研究所・・・
現在では、ベルリン自由大学の施設として使われています。
その入り口にヒトラーの言葉に抗う一枚の碑文が掲げられています。

”フェアシュアーは、ナチス・ドイツの非人道的な政策に科学的根拠を提供し、淘汰と殺人にも積極的に関与した
 この犯罪は、あがなわれないままである
 科学者たちは、その学術研究の内容と結果に責任を持たなくてはならない”


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#18「“いのち”の優劣 ナチス 知られざる科学者」

障害者の安楽死計画とホロコースト ナチスの忘れ去られた犯罪

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この地球に君臨するホモ・サピエンス・・・ラテン語で賢いを意味します。
しかし、人類を上回る知能を持った存在が現れた時、何が起きるのか・・・??
2017年、人間を打ち負かした人工知能AI・・・
コンピューターが、プロ棋士のTOP名人を破りました。
いまや機械は、自ら学習し、進化し始めています。
人が操作しなくても走る自動運転・・・専門の医師も見逃すようなガンをコンピューターが見つけ出す・・・
こうした人工知能を70年も前に予言した男がいました。
数学者アラン・チューリングです。

「我々が求めているのは経験から学習する機械だ!!」

彼は時代を先取りしていました。
知性とは何かを問い、科学の新境地を切り開こうとしたのです。
しかし、チューリングの人生は大きく狂わされます。
それは、第二次世界大戦での秘密作戦への参加でした。
ドイツの暗号・・・エニグマの解読です。
不可能とされたこのミッションを、チューリングは超高速な計算機を開発し、成功させます。
この功績は戦後も極秘中の極秘とされ、チューリングは忘れられた科学者となります。
機密を他言した場合は、刑務所行きか射殺されると言われていたようです。
その為に、チューリングの人生は悲劇に見舞われるのです。

人工知能を予言した男・・・アラン・チューリング・・・
その知られざる悲劇の物語とは・・・??

イギリス・・・ロンドン・・・この町の地下に、第二次世界大戦当時の戦時内閣執務室が残されています。
時の首相ウィンストン・チャーチルは、大きな危機に直面していました。
ナチス・ドイツによって、ロンドンの街は猛烈な空爆に晒されました。
海では、神出鬼没の潜水艦Uボートによってイギリスの輸送船が次々と撃沈されていました。
ドイツは高度な暗号を使って作戦を展開・・・イギリスには、その攻撃を防ぐ術がありませんでした。
チャーチルの命じた最高気密の作戦・・・暗号の解読でした。
ナチス・ドイツの暗号期の名はエニグマ!!ドイツ語で謎を意味します。
生み出される暗号のパターンは、1京の1万倍以上・・・世界中の暗号解読者たちが10年以上かけても解読されませんでした。
ナチス・ドイツは、解読は不可能だと絶対の自信を持っていました。
その不可能を可能にした男・・・アラン・チューリングです。
後に、人工知能を予言する天才数学者です。
1912年、ロンドンに生まれたチューリングは、孤独な少年時代を送りました。
両親は、当時イギリスの統治下にあったインドに赴任・・・知人の家に預けられました。
幼いころからチューニングは数字に異様な興味を示しました。
街灯に作られた番号を見ると、一つ一つ立ち止まって読み上げる変わった子でした。
10歳の時、ある1冊の本と出会います。
「自然の不思議」という本を読んで、能の仕組みに夢中になりました。
その本は、「人間の体は機械である」と定義しています。
そして、脳も機械的に機能するものであり、その働きは科学的に説明できると書かれています。
チューリングにとっては驚きでした。
13歳の時、全寮制の男子校に入学・・・人づきあいが悪く、科学の話しかしないチューリングは、変り者として扱われ、友達はひとりもいませんでした。
床下に閉じ込められるなど、陰湿ないじめも受けました。
そんなチューリングにある時、1年上の先輩が手を差し伸べます。
クリストファー・モーコム・・・学校一の秀才でした。
モーコムは、難解な科学の話も真剣に聞いてくれました。
初めて自分を理解してくれる人間と出会い、チューリングの心は次第に満たされていきます。
二人はともに、科学の最高峰・ケンブリッジ大学への進学を目指すようになります。
これは、チューリングにとって、恋愛感情の芽生えでもありました。
彼は、モーコムに淡い恋心を抱いたのです。
出来るだけ一緒にいたかったのです。
17歳のチューリングは、卒業を目の前にしたモーコムと一緒にケンブリッジを訪れています。
しかし、モーコムは、ケンブリッジ大学への進学が決まった直後、18歳で息を引き取りました。
結核でした。

チューリングが母に宛てた手紙には・・・

「僕が、モーコム以外の誰かと友達になろうと思うことは、二度とないかもしれません
 モーコムに、またきっとどこかで会える・・・」

それは、モーコムの死を否定するものでした。
モーコムの心は生きていると思いたかった・・・そして、チューリングは、何としても心というものを知りたかったのです。
心は脳によって生み出されるもの、しれは一体何なのか、理解したいという衝動にかられます。
これが彼の研究の原動力となり、後に人工知能へとむかわせることになるのです。

1931年、モーコムが亡くなった翌年に、チューリングは一緒に通うはずだったケンブリッジ大学へと進学。
新進気鋭の数学者マクスウェル・ニューマンの講義を受けます。
チューリングは、彼の運命を決定づけるある言葉とここで出会います。

「人間が行う数学の計算は、いずれ全て機械がこなせるようになる」

当時、計算機と言えば、特定の計算しかできないものでした。
四則演算を行う計算機、微分解析機、人間のように様々な計算のできるものはありませんでした。
人間の脳のようにあらゆる計算の完璧にできる計算機を作ることはできないか・・・??
チューリングは、全く新しい概念にたどり着きます。
足し算や引き算など一つ一つの計算方法を数字に置き換えて表現できないか・・・??と。
あらゆる計算方法が数字に返還できれば、一台の計算機で処理することが可能になる・・・!!
それは、プログラムで機械を動かすという、現在のソフトウェアの概念そのものでした。

この方法を発展させ、計算だけでなく人間の行うあらゆる行動を数字に置き換えれば、機械で実行できるに違いない・・・!!
後に、万能チューリング・マシンと言われ、これはまさに世界初のコンピューターの構想でした。

1936年、論文が学会誌に掲載されると、クルト・ゲーテル、ジョイ・フォン・ノイマンら学者たちに驚きをもって受け入れられます。
しかし、彼らを除くと、あまりに斬新なチューリングの発想は、理解されませんでした。
1つの機械があらゆる仕事をこなすというアイデアは、驚異的なことでした。
人類史上、誰も考えつかなかったこと・・・ある意味、気味の悪い概念でした。
プログラムを書けば、望む事を何でもこなしてくれるという機械なのですから・・・。

チューリングの考えた数字化したソフトウェアを実際に処理する高速の演算機はまだありませんでした。
チューリングは、その開発に向けて研究を進めます。
しかし・・・1939年、第2次世界大戦が勃発・・・チューリングは、イギリス政府の情報機関・政府暗号学校にヘッドハンティングされました。
課せられた任務は、あのエニグマの解読でした。
当時、ドイツから奪い取ったエニグマから複製機が作られていました。
配線と歯車によって文字を変換する設定が決まる・・・
配線を繋ぎ変え、歯車を回転することで設定は容易に変えられる・・・!!

配線を越えると文字の変換方法が変わり、歯車によっても変わる・・・これを何度も繰り返すことで、複雑な暗号化を可能にしました。
配線と歯車の設定がわかれば、暗号を解読できるが、その組み合わせは1京の1万倍以上・・・
さらに、ドイツは、その設定を毎日変えていました。
解読は不可能だと考えられていました。
政府暗号学校には、ケンブリッジ大学を中心に若手の優秀な数学者が集められていました。
中でも、チューリングは大型新人として期待されていましたが、一方、エキセントリックな性格で注目されました。
職場でもプライベートでも一人で過ごし、自分よりも知的レベルが低いと思う人間とは付き合わない・・・
花粉症だったため、ガスマスクをつけてサイクリングに出かけました。
その姿に、天才だが変人だと評されました。

その頃の政府暗号学校では、人海戦術によって一部を解読していましたが、1週間もかかっていました。
その時には既に、ドイツ軍の攻撃は終わっていました。
チューリングは、その役に立たなかった解読文目をつけました。
分析を繰り返した結果、ドイツは決まり文句を使用していることが分かったのです。

その一つ・・・ドイツ語で天候を意味する”WETTER”
毎朝6時過ぎに気象情報を暗号化して送っていたため、通信文にたくさんありました。
暗号文のどの部分が”WETTER”に対応するのか??人間が探すこととなりました。
エニグマの構造上、入力された文字は違う文字に暗号化されます。
どの文字とも一致しない部分を探します。
”WETTER”に当たる暗号文が見つかれば、次は”WETTER”をそのように変換する設定を突き止めることとなります。
しかし、これは大変な作業でした。
”WETTER”6文字のヒントがあっても、設定には天文学的なパターンがあったからです。
そこで、チューリングは、人間の能力を超えた速さで設定を探し出す新たな機械を考案します。
暗号解読機”ボンブ”・・・それは、36個のエニグマを同時に稼働させるというものでした。
歯車を高速で回転させ、暗号の設定を自動的に一つ一つ試していく・・・
設定を突き止めると回転が止まり、結果が表示されるのです。
1940年8月には、人手で1週間かかった解読が、1時間にまで短縮されました。
翌年、Uボートの暗号解読にも成功します。

「敵影なし 翌朝までにコース070に引き返せ」

「区画4925にて1時間以内に攻撃開始」

ボンブは素晴らしい成果をあげました。
しかし、現代のコンピューターの祖先とまでは言えません。
後に、電子工学が実用化され、大幅な計算スピードの向上が達成されて初めて、今のコンピューターが生れるのです。
不可能とされた暗号解読を見事に成し遂げたチューリング・・・
しかし、コンピューター実現に向けた本来の研究を中断せざるを得ませんでした。

エニグマの解読に成功したイギリス・・・しかし、その事実は極秘中の極秘・・・ウルトラシークレットとされました。
ドイツに気付かれれば、エニグマが改良され、再び解読不能となる恐れがあったからです。
そこでイギリスは、様々な偽装作戦を実行しました。
エニグマの解読によって、Uボートの位置が解読できても、わざわざ偵察機を飛ばし、たまたま発見したように装いました。
また、Uボートが水面に潜っていても、検地できる長距離レーダーを開発したと嘘の情報を流しました。
偽装工作によって、エニグマが解読できていることをなんとか気付かれないようにしていました。
その為に、多くの命が犠牲になったという話もあります。
攻撃のアリバイを作るために、偵察機が来るまでUボートを攻撃できなかったのです。
偵察機を待っている間に、イギリスの日ねがUボートによって撃沈されることもありました。

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イギリスは、チューリングが作ったボンブをさらに進化させ、新たな暗号解読機コロッサスを開発。
2400本の真空管を使うことで、ボンブよりも劇的に早い処理速度が可能となりました。
このコロッサスの東條は、1944年のノルマンディー上陸作戦の成功に、決定的な役割を果たします。
ドイツ軍は、イギリスに最も近いカレー二千rにょくを集中させて連合軍の常陸に備えていることを暗号解読で解明・・・
手薄だったノルマンディーからの上陸が決行されました。
上陸を成功させた連合国軍は、ベルリンを目指し、快進撃を続けます。
1945年5月7日、ナチス・ドイツ無条件降伏!!
チューリングの暗号解読は、戦争の終結の大きく貢献し、連合国を勝利に導きました。

しかし・・・この極秘作戦について語ることは厳しく禁じられました。
チャーチルは、チューリング達暗号解読者についてこう評しています。

「金の卵を産んでも決して鳴かないガチョウたち」

戦後、イギリスはドイツから没収した数千台のエニグマを、解読できない暗号機だと偽って、旧植民地などに普及させます。
そして、彼らの通信を密かに解読し、各国の内情を掴んでいました。
チューリングの偉業は、戦後もずっと世間に知られないままとなりました。
それどころか、事実と正反対の不当な評価を受けていました。
暗号解読に従事した人たちは、戦地に赴くことはありませんでした。
その為”兵役逃れ”というレッテルを貼られました。
戦争に何も貢献していない人たちだと思われていたのです。
圧倒的に重要な仕事をし、戦争における中心的な役割を担っていたにもかかわらず、そのことを誰かに告げることは許されませんでした。
両親や家族にも知らせることが出来なかったのです。
チューリングが本来進めたかっらコンピューターの研究は、止まったまま・・・世界で初めてソフトウェアの概念を打ち立てた論文を発表して、8年余りが経っていました。



1945年6月・・・チューリングのもとをある男が訪ねてきました。
イギリス国立物理学研究所の数学部門のTOP・・・ジョン・ウォームスリーです。
ウォームスリーは、チューリングが8年前に発表した論文を読んで以来、その才能を高く評価していました。
そして、コンピューターを作るチャンスを提供したのです。
終に長年の夢をかなえられる・・・チューリングは友人に宣伝しました。

「能を作るぞ」

1946年、チューリングは、世界初のコンピューターを設計。
エースと名付けられました。
設計の基本思想は、ハードウェアをなるべくシンプルにして、その分を高度なプログラムで補うというものでした。
当時最先端の電子工学を駆使して、超高速の演算処理を可能としていました。
新聞には、エースを称える文字が踊りました。
ところが、実際に作り上げる段階で、開発は難航します。
戦争で破壊されたインフラの復興に、技術者たちの手が取られ、夢のような計画には人手を回せないという現実がありました。
チューリングの設計思想にも批判が・・・
理解しがたい難しいプログラムに頼らず、ハードウェアを大きくすればいいという指摘でした。
チューリングの本当の経歴を誰も知りませんでした。
単に優秀な数学者という程度で、それ以上の評価はありませんでした。
もし、チューリングの戦時中の功績が知られ、国民的英雄だと評価されていたら、全く違っていた結果になっていたはずです。

チューリングは激怒・・・研究所の上司に意見書を提出します。

「困難な問題を思 考ではなく多くの装置で解決しようとする
 全くスマートでないやり方だ」

研究所の同僚が、まずはレベルを落とした現実的なパイロット版をと提案しますが、その製作を拒否。
レベルを下げてでも試作機を作るのは、賢明なやり方です。
しかし、チューリングはやりたいことではなかったのです。
ハイスペックのコンピューターを、作れる可能性があるのになぜそうしないのか・・・!!
低レベルの試作機を作るなんて、時間の無駄だと思ったのでしょう。
チューリングは結局、チームプレーヤーではなかったのです。

チューリングはどうしてもハイスペックなコンピューターが欲しかった・・・
そのコンピューターに、人間の脳の機能をプログラミングすることで、人工知能の実現を目指していたのです。

1947年、チューリングは数学者の学会で、世界初ともいわれる人工知能の宣言を行います。

「我々が求めているのは、経験から学習する機械だ」

その翌年、知能機械と題した論文を発表。
人間の脳をモデルにして、コンピューター上に神経細胞、ニューロンのネットワークを構築するというものでした。
チューリングは、人間の脳の中で、ニューロン同士が接続と解除を繰り返し、学習していくという現象に着目します。
この現象を再現できれば、人間の脳は作れるはずだ・・・!!
脳の働きを機械的にとらえた先駆的な発想でした。
現在、この研究が、巨額な資金を投入して進められていますが、彼は1948年にすでにこのアイデアを思いついていたのです。

しかし、あまりに早すぎた研究は、理解されませんでした。
論文を読んだ国立物理学研究所の上司はこう言ったといいます。

「まるで小学生の作文だ
 発表に値しない」

その頃、一つのニュースが世界を駆け巡りました。
1948年6月、マンチェスター大学で遂に世界初のコンピューター・ベビーが作動したのです。
かつてチューリングの講義を受けたことのある研究者たちによるものでした。
チューリングは、すぐさまマンチェスター大学に移籍。
そこで、人工知能はあくまで可能だと主張します。
そして、それを証明する為に、ある考え方を発表しました。
機械の知能を判定するテスト・・・現在、チューリング・テストと呼ばれているものです。
このテストで、一人の人間が相手が機械か人間かわからないように質問していきます。
質問者は、それぞれの返答からどちらが本当の人間かを判断します。
もし、質問者が、機械の方が人間だとみなした場合、その機械は人間と同等の知能を持つと言えるのではないか??
チューリングは、知能に対する考え方自体を根本から変えるように訴えました。
知能とは何かを問い、科学の新境地を切り開こうとしました。
人間でも他人の脳の内部のことはわかりません。
その人の知能を離す内容や行動で判断します。
機械に対しても同じように考えるべきです。
脳や機械の内部で何が怒っているかは重要ではなく、アウトプットが全てなのだと主張したのです。
知性とは何か、思考とは何か、人類は長年議論してきましたが、明確な答えはまだ出ていません。
チューリングは、そこに全く新しい考え方で、疑問を投げかけたのです。

そして、研究を続けていた1952年・・・事件は起こりました。
チューリングが逮捕されたのです。
イギリスで当時犯罪とされていた同性愛の罪でした。
裁判の結果は有罪・・・12か月の保護観察処分が言い渡されました。
精神科にかかり、女性ホルモンの定期的な投与が義務付けられました。
乳房が膨らみ、性的能力を奪われました。

「私は間違いなく まるで違う人間になるだろう
 自分でも知らない誰かに」

チューリングはこの事件によって研究の第一線から退かざるを得なくなりました。
逮捕から2年が経った1954年・・・チューリングはベッドに倒れている姿で発見されました。
脇には青酸カリの付着したかじりかけのリンゴがありました。
検視の結果、自殺とされました。
享年41歳・・・

人工知能の夢は、道半ばで潰えました。

1956年・・・チューリングの死から2年後・・・アメリカ・ニューハンプシャー州のダートマス大学に、数学や電子工学の研究者10名が集まりました。
テーマは人工知能・・・アーティフィシャル・インテリジェンス・・・
AIという言葉が、初めて使われました。
チューリングの業績が正しく評価されるようになったのは、それからさらに18年後の1974年。
イギリス情報部の元大佐が、一冊の本を世に送り出しました。
タイトルは「ウルトラ・シークレット」
イギリス政府の許可を得て、チューリングら暗号解読者たちの功績を初めて公開したものでした。
この出版をきっかけに、徐々に情報が公開され、チューリングはコンピューター科学の始祖としてようやく認められました。
そして現在・・・人工知能の分野では、チューリングが目指した経験から学習する機械の回路の実現は急速に進んでいます。
機械が人間の力を借りず、自ら進化することが可能となりました。
もはや開発者でも、人工知能内部で何が起きているのかわからないといいます。
2045年には、人工知能は予測不能な姿に変化し始めるシンギュラリティ―が起きるという予測もあります。

日本人高次脳学会が、倫理指針を発表しました。
人工知能の研究者に守るべき基準として、安全性や、社会に対する責任などをあげました。
そして最後の項目では、AI自身に対してもこの倫理指針を守るように求めています。
人工知能が、社会の構成員となるためには、人工知能学会員と同様に、倫理指針を順守できなければならない。

今から70年前に人工知能を予言した男・・・アラン・チューリング・・・
彼はその死の3年前、こう語っています。

「機械が思考する方法をひとたび確立したならば、我らの如きひ弱な力は、すぐに追い抜かれるだろう
 機械が実権を握ることになると考えねばなるまい」


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人は食べる。
生きるために、愉しむために、だがしかし、食べることが死を招くこともある。
日露戦争・・・2万7000を超す兵士たちが、食事によって死亡しました。
兵士の命運を握ったのは、文豪・森鴎外でした。
鴎外にはもう一つの顔がありました。
本名・森林太郎・・・職業は陸軍軍医!!
現在の東京大学医学部を19歳で卒業、45歳で軍医のTOPに上り詰めたエリート流のエリートです。
森は、陸軍兵士の食事として、白米に固執・・・白米ばかりを食べ続けた兵士たちが死の病に倒れました。
一方、ライバルの海軍は、麦飯によって市の病を撃退!!
しかし、森は、自らの主張を曲げようとはしませんでした。

「兵士の食事には米が一番!!
 麦飯がその次!!
 洋食はそのまた次である!!」

その結果、日本はある大発見の栄光を取り逃がします。
・・・ビタミン・・・
現在の健康ブームの起源ともいえるビタミン・・・その発見に至る知られざる物語です。

古代中国では医者を4つに分け位を与えました。
位の四番目は家畜を治療する獣医・・・
三番目は外科医、二番目は内内科医、一番位が高いとされたのは食医。
食べ物の力によって病気を未然に防ぐ医師の事です。

1884年8月3日、不思議な事件が報じられました。
広島から上京した藤本信太18歳・・・知人を訪ねる途中、突然路上で倒れました。
激しく苦しみ病院に搬送されましたが死亡しました。
脚気でした。

脚気は神経の病・・・
足がむくみ、進行すると極端に衰弱し、急性心不全で死んでいました。
明治になると日本で大流行・・・年間3万人が死亡し、結核と共に国民病として恐れられました。
特に軍隊では深刻で、多い年には陸軍・海軍の兵士の4割が脚気患者となりました。
富国強兵を推し進める日本にとっての一大事となりました。

脚気の原因は、ビタミンB1の欠乏でした。
ビタミンは、人体の機能を維持する為に必要不可欠な栄養素です。
体内で作ることは出来ず、食べ物から得なければなりません。
当時、軍隊では兵士の食事に白米を支給。
ビタミンB1がほとんど含まれていない白米ばかりを食べた兵士が、次々と倒れて行きました。

白米しか食べないと、ビタミンが採れません。
白米の中に含まれている炭水化物をエネルギーに変えることが出来ないのです。
だんだんと体が弱ってきて、最後は死んでしまうのです。
明治時代、三大栄養素の炭水化物・タンパク質・脂質は既に知られていました。
しかし、ビタミンは、世界のだれもが知らない栄養素でした。
その為、脚気は原因不明の病とされ、誤った説が流布しました。

脚気細菌説・・・来日したドイツ人医師・ベルツらが提唱しました。
しかし、主食が白米でないヨーロッパには脚気がありません。
主張は憶測にすぎませんでした。
ベルツは、のちの東京大学医学部・・・東京医学校で指導していたこともあり、東大医学部出身者を中心に、この脚気細菌説が強く信じられました。

1884年8月24日、横浜・・・
この男も、脚気細菌説を信じた男の一人でした。
陸軍軍医・森林太郎・・・森鴎外です。
脚気対策に苦慮する陸軍の特命を受け、海外に旅立とうとしていました。
当時、22歳・・・明治の日本きってのエリートでした。

1862年、石見国・・・島根県の医師の家に生れました。
教育熱心な母・・・5歳で論語を読み、8歳でオランダ語、10歳でドイツ語を学びました。
森は、11歳で第一大学医学校・・・後の東京大学医学部予科に入学しました。
史上最年少の19歳で卒業し、陸軍軍医となりました。
入隊後、2300ページに及ぶドイツ語の専門書を10か月で翻訳します。
森を高く評価した陸軍の幹部たちは、海外で最新の医学を学んでくるよう白羽の矢を立てたのです。
2か月の船旅を経て、森は目的地・ドイツに到着します。

ドイツでは医学の革命が起きていました。
細菌学です。1876年に、ロベルト・コッホが炭疽菌を発見!!
さらに1882年に結核菌、1884年にコレラ菌を発見しました。
そのコッホのもとで、森は細菌学を学びました。
病気がきちっと目に見えるもので説明できるようになって、合理的・・・
よくわからない方法ではなくて理由のある、根拠のある方法で国民の衛生状態、健康が保てるという意識を持ったのです。
留学中、その後の森の考え方を決定づける出来事がもう一つありました。
ある講演会に参加した時の事・・・
「日本人は、西洋の蒸気船を動かすことはできるが、止め方はわかっていない」
講演者は、日本の外国文化の表面だけを真似していると皮肉を込めて批判しました。
森は、新聞にドイツ語で反論します。

「日本人は、ヨーロッパの文明と文化の価値を評価する知性を十分に備えている
 日本が何を無批判で真似たというのか・・・??」by林太郎

日本を代表してコッホから医学を学んでいるエリート医師・・・森には日本を背負っているという強い自負がありました。
一方、日本では、陸軍だけでなく海軍も脚気に苦しんでいました。
1883年軍艦・龍驤・・・乗組員367名のうち169名が脚気に・・・!!
25名が死亡し、航行不能という事件が起こりました。
立ち向かったのは、海軍軍医・高木兼寛。
薩摩藩の下級武士出身で、高木は脚気の原因は、細菌とは全く違うと考えていました。
その根拠となったのが、高木が学んだ聖トーマス病院医学校・・・イギリス時代に学んだ疫学でした。
疫学は、病気発声の分布などをもとに有効な対策を導き出す学問です。
1850年代、ロンドンでは伝染病コレラが蔓延・・・医師は患者の数を調べ、感染源を井戸と特定、井戸を封鎖して感染拡大を食い止めました。
この疫学を使い、脚気の対策に乗り出した高木・・・
兵士が着る衣服と脚気が関係はあるか??
生活空間では??気温では・・・??
高木はその条件を探りました。
そして2年後・・・高木は一つの結論にたどり着きます。

「脚気の原因は栄養の偏りにあるのではないか?」

白米ばかり食べ、おかずをおろそかにしている兵士が脚気にかかりやすかったからです。
”栄養素が偏っていると病気になるかもしれない”という考え方を初めて提出しました。
食べ物と病気の関係を栄養素のレベルで初めて考えたのです。
高木は、軍艦丸ごと使った実験に着手します。
軍艦・筑波の乗組員333人の食事を白米中心の日本食からパンと肉中心の洋食に切り替えました。
脚気被害をを出した龍驤と同じ航路をたどり脚気の発生率を比べました。
大規模な比較実験でした。
出発して8か月後・・・目的地のハワイについた軍艦・筑波から電報が届きました。

「ビョウシャイチニンモナシ アンシンアレ」

高木は食事によって世界で初めて脚気の予防に成功しました。
そして、日本人が食べなれないパンの代わりに大麦や裸麦を加えた麦飯を導入。
海軍から脚気を一掃する!!
1886年、高木は成果を英語で発表。
白米に偏った食事では、炭水化物が多くなりタンパク質が不足。
麦飯中心の食事は、炭水化物に加えタンパク質が多い。
と主張しました。

脚気の原因は、栄養バランスが崩れることだと考えたのです。
脚気栄養欠陥説です。
しかし高木はビタミンという未知の栄養素には気づいていませんでした。

森を送り出した陸軍は焦り始めました。
陸軍の軍医は、今の東京大学医学部出身者で占められており、脚気細菌説を強く支持していました。
幹部の一人は森に留学の成果を催促します。
ドイツにいた森は、論文を書いて応えます。
「日本兵食論大意」です。

”余ハ東西洋人ノ食ヲ知ル者ナリ”と、大上段から論を説きました。
”米ヲ主トシタル日本食ハ心力及ヒ体力ヲシテ活発ナラシムルコト毫モ西洋食ト異ナルコトナシ”

白米中心の日本食は、栄養面で洋食に劣らず変える必要はないと主張します。

”米食ト脚気ノ関係有無ハ 余 敢エテ説カズ”

脚気の原因については一切触れませんでした。
3年後帰国すると、講演会で高木のことを「ローストビーフに飽くことを知らないイギリス流の偏屈学者」と揶揄・・・
白米を否定した高木を西洋かぶれだと攻撃しました。

1889年、森は、白米の栄養に関係のないことを証明する実験を行いました。
陸軍兵食試験です。
兵士18人を3つのグループに分け、白米中心・麦飯中心・パンと肉中心の食事を8日間与え続けます。
そして食べたものと排泄された量を比べ、栄養素がどれだけ体に吸収されたかを計算します。
この実験では、一番優れているのは白米、次いで麦飯、そしてパンと肉は3番目でした。
森は白米の栄養に問題がないことを示すことで、海軍が唱える栄養欠陥説を否定します。

高木は反論しませんでした。
森は、雄弁で文章も、話しても、とっても華麗な言葉を使って・・・
敵がギャフンというような、ぐうの音も出ないような言い方で、やっつけます。
自分から見ればいい加減にみえるような理論を、攻撃するということについては抜け目がない・・・
森鴎外にやられると、再起不能なぐらいに傷ついた・・・という感じになったのです。
以後、高木は科学の表舞台から離れていきます。
しかし、高木の研究は、ビタミン発見の歴史に重要な役割を果たします。
栄養が病気の原因とする高木の論文は、海外の研究者に広く読まれることになります。

日本にこんなに偉大なことをされた方がいたのか??

その高木の論文が、未知の栄養素の発見につながる大きなヒントを後の研究者に与えたのです。

脚気論争の光と影 陸軍の脚気惨害はなぜ防げなかったのか

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一方、陸軍は森の偏食試験の結果を高く評価・・・白米を支給し続けます。
森は、陸軍エリートの階段を上っていきます。

1890年、森は、ドイツ留学の経験をもとに「舞姫」を発表。
軍医の仕事をしながら作家としての名も高めていきます。
その4年後・・・1894年、朝鮮半島の覇権をめぐり日清戦争が勃発。
陸軍の食事が試されます。
自らの実権で、白米の栄養価に問題はないと自信を持った森・・・
開戦前、陸軍軍医部にこう意見しています。

「米ノ主食タル価値ハ甚大ナルモノニテ
 副食ニ至リテハ平素栄養上ノ価値甚少シ」

白米を1日6合食べていれば、副食・・・おかずを食べなくても栄養面で問題はないと主張しました。
結果、陸軍では先頭による死者は450人でしたが、脚気による死者4000人という事態を招きました。
日清戦争直後、森は割譲された台湾で兵士の健康管理する最高責任者・台湾総督府陸軍局軍医部長に任命されます。
その台湾で、脚気が大発生しました。
兵士2万3338人に対し、脚気患者21087人!!
実に兵士の9割が脚気を患い、2000人以上が死亡しました。

一方海軍は、麦飯の支給を続けていました。
日清戦争における海軍の脚気患者は僅か34人、いずれも軽症でした。
海軍は白米に固執する陸軍を批判!!
両者のメンツをかけた論争が始まりました。

海軍「脚気は、食べ物で防ぐことが出来る 
    恐れるべき病ではない
    陸軍は猛省すべきだ」

対して陸軍は、ペンネームを使った匿名の投書で海軍が非科学的だと反論!!

「病気を予防し、治療するためには、病原や病気になる仕組みがわからなければいけない
 それは、我々が最も信用している帝国医科大学(東京大学医学部)でもわからないのに海軍にわかるのか?
 科学的にお答えいただきたい」

海軍はすかさず再反論
天然痘が予防接種によって防げることを引き合いに出しました。

「天然痘も病理は不明だが、100年も前にジェンナーによって予防法が確立している
 脚気も同じことで、原因の究明と予防法を混同してはいけない」

そんな中、陸軍では現場の兵士から麦飯を支給してほしいとの声が上がります。
しかし、陸軍軍医部はそれを断固として認めませんでした。
森も、陸軍軍医部を擁護する論文を発表。
森は、麦飯と脚気減少に、因果関係はなく、たまたま時期が重なっただけだと強弁しました。

森が、麦飯採用に関して何らかの提言をしたり、譲歩する態度を示していれば、陸軍全体の態度も変わったのかもしれません。
海軍を見れば、麦飯の採用で明らかに脚気が減っているのに、実験的にも試みなかったという点では責任は大きいのです。

1904年・・・日露戦争で更なる悲劇が起こります。
森は、第二軍軍医部長として従軍・・・軍医部での階級はナンバー2でした。
その森に、戦線の軍医から進言がありました。

「麦飯を支給すべきではないか」と。

しかし、黙殺!!

1905年日露戦争集結
陸軍全体で、脚気患者25万人・・・2万7468人が死亡!!
前代未聞・・・古今東西みても稀に見る被害でした。
驕り、エリート意識、これが悲劇の全てでした。

自分が脚気の専門ではないと認めることが出来なかった・・・
エリート意識が強すぎた森林太郎が起こした悲劇でした。

森は、従軍中にこんな歌を詠んでいます。

ますらをの 玉と碎けしももちたり
  それも惜しけど こも惜し釦鈕 身に添う釦鈕

屈強な兵士たちが、幾万も玉のように砕けてしまった・・・
それは惜しいけど、無くしてしまった私の大切なボタン、それも同じように惜しい・・・

陸軍の惨状に対し、海軍の脚気死亡者は3名でした。
世間は陸軍を非難・・・軍医のTOP・軍医総監が責任を問われ辞任に追い込まれました。
代わってその地位に就いたのは、森でした。

1908年、陸軍は、「臨時脚気病調査会」を設立します。
調査会は東京帝国大学医学部の教授や、陸軍、海軍の軍医らで構成されていました。
初代会長となったのは森でした。
その頃、コッホが来日・・・森は、コッホに脚気の研究法について相談をします。
コッホは言いました。

「日本の脚気は伝染病の脚気と栄養不足の脚気の2種類があるのではないか
 東南アジアに、脚気に非常によく似た病気があるからそれを調べてはどうか」

その病気は、オランダ領ジャカルタで、ベリベリと呼ばれていました。
早速森は、現地に調査員を派遣。
すると、現地では意外なことが起きていました。
ベリベリがほとんどなくなっていたのです。
患者にある物を食べさせることで撃退していました。
主導したのは、オランダの医師・生理学者のフレインスとエイクマンでした。
彼等は、麦飯によって脚気を防いだ海軍・高木の研究を発展させ、患者に玄米や豆が効くことを明らかにしていました。
エイクマンらは、玄米に含まれ、白米で失われてしまう米ぬかの中に脚気を防ぐ未知の成分があるのではないかと考えていました。
帰国した調査員は、臨時脚気病調査会で糠が脚気に効果的だと報告します。

報告を支持する者はいませんでした。
調査員は罷免されます。
突破口を開いたのは、医学とは全く異なる分野の男でした。
農学者・鈴木梅太郎です。
静岡の農家に生まれた鈴木は、植物は何故水と土だけで育つのかを解き明かそうと農学を志し、米の研究を始めました。
34歳で東京帝国大学農科大学・・・後の東京大学農学部教授に就任。
鈴木はエイクマンらがジャカルタで行った研究を知り米糠に注目します。
鈴木は米糠から脚気を防ぐ成分を抽出することに成功。
アンチ・ベリベリ・・・脚気に対抗するという意味を込め、アベリ酸と名付けました。
1911年、鈴木は、森が会長を務める臨時脚気病調査で、成果を論文にして報告。

「アベリ酸と名付けたるものは、従来ありふれた物質にあらず
 アベリ酸は三大栄養素とは異なり、生きていくために必要不可欠な全く新しい栄養素だ」

と主張しました。
これを、脚気を治癒する因子という概念ではなく、”高等動物の生育に必須のものである”という概念を伝えました。
まさに、いまでいう”ビタミン”の概念を提出したのです。

ところが、東京帝国大学医学部の委員たちは農学者である鈴木に冷酷でした。

「ぬかで脚気が治るなら、小便を飲んでも治る」

彼等は、農学は高級じゃないと思っていました。
医学というのがプライドのある分野で、他の学問分野とは違うという意識がありました。
従って、病気の解決に関しても、農学あたりから口を出されることに空いて我慢がならなかったのです。
鈴木はアベリ酸を臨床試験で使ってほしいと訴えましたが、断られ続けました。

逆風の中、1912年8月、ドイツの科学雑誌に鈴木の論文が掲載されます。
その中で、アベリ酸をオリザニンと改名。
オリザとは、ラテン語で米を意味します。
調査会での報告から1年が過ぎていました。
しかし、一歩遅かったのです。
鈴木が論文を提出する半年前の1912年2月・・・
ポーランド人の生化学者フンクが、鈴木と同じく米糠から脚気を防ぐ成分を抽出したと発表していたのです。
フンクはその物質をビタミンと名付けました。
Vital=生命に必要なものという意味を込めて・・・
鈴木は、未知の栄養素発見の栄光をみすみす取り逃がしました。

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一方、森は・・・
フンクがビタミンを発表した2年後に1冊の医学書を送り出します。
脚気の項目は・・・疫種・・・即ち伝染病に分類されていました。
1922年、森は60歳で死去・・・。
生涯、脚気細菌説の誤りを公には認めませんでした。
2年後・・・臨時脚気病調査会は、脚気の原因はビタミンの欠乏にあると認め、解散しました。

未知の栄養素の発見は、世界の科学者たちを突き動かします。
1948年までに13種類のビタミンが見つかりました。
脚気の外に、ビタミン欠乏によっておこる病気が次々と明らかになりました。
大航海時代に船乗りたちを苦しめた壊血病・・・歯茎や皮膚から出血が止まらなくなる・・・
壊血病は、ビタミンCの欠乏が原因だとわかりました。
骨が曲がり、もろくなるくる病・・・カルシウムの吸収に欠かせないビタミンDの欠乏が原因でした。
暗いところで見えなくなる夜盲症・・・鳥眼はビタミンAの欠乏で発症するとわかりました。
そして、1949年以降、生命の維持にかかわるビタミンは、発見されていません。
代わって科学者たちは、僅かであれ健康にかかわる物質を探し始めました。
その数は5万にのぼると言われています。
こうした物資を取り入れた商品が、次々と開発されています。
1991年、日本では特定保健用食品=トクホの制度がスタートしました。
消費者庁の審査を通ると効果効能を表示できるようになりました。
さらに、機能性表示食品の制度によって、健康にかかわる商品がより多く店頭に並ぶようになります。
いまや、このような商品の規模は1兆5000億円を超えています。

米糠からオリザリンを抽出した鈴木梅太郎・・・その成功に至るまで、米の栄養について講演をしたことがあります。
その聴衆の中に、海軍に麦飯を導入した高木兼寛がいました。
高木は公演終了後、鈴木に声をかけました。

「面白い話だった
 これからも研究を続けてもらいたい」

高木は若き鈴木を励まし、開場を去ったといいます。

鈴木梅太郎に関する新しい事実が・・・
1914年のノーベル生理学・医学賞に推薦された人のリストの中に、”Suzuki.U”とありました。
鈴木がビタミン発見の功績によって、ドイツ人科学者からノーベル賞に推薦されていたのです。
湯川秀樹が日本人初のノーベル賞を受賞する35年も前のことでした。
1929年、ビタミンの研究に対しノーベル賞が授与されました。
受賞者は、ジャカルタで米糠の研究をしていたエイクマンとビタミンの役割を研究したホプキンズ・・・
実は、当時このホプキンズは東京帝国大学の医学部の教授2名が推薦していました。
鈴木の研究を押すことはなかったのです。

鈴木梅太郎の研究は、長い間東京帝国大学医学部が否定し続けてきた成果です・・・
鈴木が先んじて受賞するようなことがあれば・・・耐えられなかったのかもしれません。

ビタミンの研究で、たった一人世界で名を残した日本人がいます。
南極大陸にある高木岬・・・麦飯を導入したあの高木兼寛の名にちなんでいます。
命名したのは、探検隊が脚気に悩まされたイギリス・・・
ビタミン研究の功績者として敬意を表したのです。

高木兼寛の名は、凍てつく大地で輝き続けています。

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1969年、人類初の月面着陸・・・
「人類にとっては偉大な飛躍である」byニール・アームストロング
この偉業を成功に導いた世界的なヒーロー、ロケット工学者ヴェルナー・フォン・ブラウン・・・しかし、彼にはもう一つの顔がありました。
第二次世界大戦時、ナチスドイツのもとで、世界初の弾道ミサイルV2を開発、ロンドン⇔パリを震撼させました。
夢の実現のためなら殺人兵器を作り、そして母国ドイツを捨ててアメリカに技術を売りました。
しかし、最期まで自らの罪を認めませんでした。

宇宙開発の父フォン・ブラウン・・・その光と闇とは・・・??
我々が暮らす太陽系の40光年先に、地球に似た惑星が7つあります。
アメリカ航空宇宙局NASAが発表しました。

「第二の地球を発見するのは時間の問題だ!!」

アメリカの民間会社が、2024年に火星旅行を実現させると発表・・・費用は2000万円です。
人々の夢を乗せて進む宇宙開発の礎を築いた男がいます。

ロケット工学者ヴェルナー・フォン・ブラウンです。
50年前、初めて人類を月に送ったアポロ計画の中心人物です。
フォン・ブラウンは、1912年、ドイツに生れました。
両親はともに貴族の家柄で、父マグヌス・フォン・ブラウンは農業大臣を務めました。
何不自由ない生活、天真爛漫で好奇心旺盛な少年でした。
丁度その頃、ドイツはロケットブームに沸いていました。
第一次大戦後、疲弊したドイツの工業を活性化させるため、自動車メーカーがロケットカーを開発、猛スピードで走る姿は注目を浴びました。
さらに、映画「月世界の女」が大ヒット、月へ向かうロケットや、無重力状態で人が宙に浮く様子にフォン・ブラウンは夢中になりました。
ロケットを造って月に・・・物理や数学の勉強を始めました。

フォン・ブラウンの欲望は、少年の頃から月に到達することでした。
月依存症・・・月へ行くためなら、彼はどんなことでもしました。

1930年、ベルリン工科大学に入学しドイツ宇宙旅行協会に入会、ヨーロッパ各地から500人以上の優秀な工学者が集まった宇宙ロケットの研究者集団です。
全長およそ2m、重さ20キロのロケットを造り実検を重ねます。
しかし、38万キロ先の月に行くには程遠い・・・
フォン・ブラウンは、夢の実現のためには莫大な資金が必要だと考えました。
民間企業の寄付で運営していた宇宙旅行協会では、宇宙ロケットの開発は勧められないのは明白でした。
2mほどのロケットでは、月へ行くなんて到底無理です。
フォン・ブラウンが目をつけたのは、ドイツ軍でした。
第一次世界大戦敗戦後のヴェルサイユ条約で、ドイツは、戦車・潜水艦・軍用機などの兵器の製造を禁止されていました。
その条約の抜け穴が、それまで存在していなかった新兵器弾道ミサイルだったのです。
弾道ミサイルと宇宙ロケットは、技術的に同じ仕組みを持っています。
共にロケットエンジンで宇宙空間に打ち上げる・・・
宇宙ロケットは目的の軌道に乗せる、一方の弾道ミサイルは宇宙空間へ飛ばし、地球の引力を利用して目標に落とす・・・
フォン・ブラウンは、ドイツ軍に自分のロケット技術を売り込みました。
話を聞いた陸軍大尉は、彼の豊富な知識に圧倒されると技術者として陸軍の採用を約束しました。

フォン・ブラウンにとって、ロケットを造るために軍に協力するのは当然のことでした。
彼は、軍がミサイル兵器を望んでいることは百も承知でした。
全てわかったうえで、兵器開発に協力したのです。
それが、”月依存症”フォン・ブラウンが、夢をかなえるための唯一の手段でした。
フォン・ブラウンは、宇宙旅行協会の研究者たちに声をかけました。

「宇宙旅行を実現するためには、軍の資金に頼るしか道はない」byフォン・ブラウン

仲間たちは、軍に協力することを躊躇しました。
自分達のロケット技術が兵器として利用されるのを嫌がりました。

1932年10月、フォン・ブラウンはたった一人でドイツ陸軍兵器局に民間技術者として採用されます。
3か月後の1933年1月30日、ヒトラー政権誕生、再軍備を推し進めます。
人類初の弾道ミサイルを目指すフォン・ブラウンは、まず、広大な実験場の建設を提案します。
目をつけたのは、ドイツ北部、バルト海に面するペーネミュンデ・・・広大な海に向けてより大きなミサイルの発射実験ができると考えました。
フォン・ブラウンは、沼や森に囲まれたペーネミュンデなら、秘密裏に実検を行うことも可能だと説得・・・
建設のための莫大な予算を獲得します。
フォン・ブラウンが中心となり、実験場を設計・・・鉄道や工場なども作らせました。
かつては陸軍に入ることに躊躇した宇宙旅行協会の仲間を含め、新たに120人以上の科学者や技術者を呼び寄せました。

1937年7月、フォン・ブラウンは25歳で開発部のリーダーとなります。
フォン・ブラウンが目指したのは、1トンの弾頭を搭載し、250km先の目標に僅か数分で着弾させる弾道ミサイル・・・
エンジンを燃焼させて、ミサイルを高度28km地点にあげ、そこでエンジンを止める・・・すると、ミサイルはそのままの角度で成層圏を越え高度80kmに到達、その後、地球の重力に従い攻撃目標へ落ちる!!
落下のスピードは、音速をはるかに超えるマッハ6!!
当時、迎撃することは到底不可能でした。
しかし、問題は・・・スピードが速くなると、空気抵抗によってミサイルの揺れが大きくなる・・・
ミサイルは、姿勢を保てなくなり、軌道を外れます。
狙った目標に、正確に打ち込むためには、姿勢の制御が必要不可欠でした。
人類が経験したことのないスピードで動く物体を、どうすれば安定した姿勢に保つことが出来るのか・・・??
開発は困難を極めました。

フォン・ブラウンは、問題を克服する為に、ある実験装置の導入を思いつきます。
超音速風洞です。
音速を越えた状態で起こる空気の流れを人工的に発生させ、空気抵抗を調べる装置です。
これを使えば、弾道ミサイルが超音速でどう動くのか、シミュレーションできます。
風洞実験を繰り返し、改良を加え、飛行の安定性を高めることに成功しました。

25歳の若者が、科学者やエンジニアたちをまとめる偉大なリーダーとなりました。
フォン・ブラウンには、組織を大きくし、優秀な人材を発掘し、科学者やエンジニアたちのやる気を引き出すプロジェクトリーダーとしての素質がありました。
彼の力で、プロジェクトはどんどん大規模になり、多くの予算を獲得しました。

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻・・・第二次世界大戦が勃発しました。
ドイツ軍は、オランダ、フランスを次々に撃破、しかし、1942年当時のソビエト連邦スターリングラードで激しい抵抗にあい、形勢が逆転します。
そんな中、フォン・ブラウンが開発した弾道ミサイルの最終実験が行われました。
A4ロケット・・・全長14m、総重量13トン・・・高度80キロを超え、190キロ先にある目標に到達しました。
フォン・ブラウンは、実験の成功をヒトラーに報告しました。
実検の映像を見せると、ヒトラーは興奮して叫びました。

「感謝する!
 このロケットを使えば、戦争を終わらせることが出来るだろう」

ヒトラーは、この弾道ミサイルを秘密兵器とし、大量生産を命令します。
その数、1万2000基・・・ペーネミュンデの工場だけでは到底製造が追いつきませんでした。
フォン・ブラウンは、ドイツ中央部にあるミッテルバウ=ドーラ強制収容所の目をつけました。
収容されているフランスやロシアの捕虜・・・およそ1万人を利用しようと考えたのです。
収容所そばの炭鉱跡に工場を建設・・・捕虜たちに弾道ミサイルを作らせました。
新鮮な空気も水もない、劣悪な環境の中、肺炎や赤痢が流行・・・捕虜たちは次々と死んでいきました。
逆らえば、処刑されました。
労働力が不足すると、他の収容所から調達しました。
強制労働の犠牲者は、2万人に及びました。
1944年、ドイツは連合国側に取り囲まれ配色が濃厚となっていました。
9月8日、フォン・ブラウンの開発した弾道ミサイルがロンドンに発射されました。
ミサイルはおよそ6分で300キロ先のロンドンに着弾、マッハ6で落ちてくるミサイルにロンドン市民はパニックに陥ります。
ミサイルは報復という意味の頭文字をとって、V2ロケットと名付けられました。
V2ロケットは、ロンドンやパリで1万3000人もの命を奪います。
フォン・ブラウンは、V2ロケットの開発について後にこう語っています。

「その時はまさか、兵器が作られるなんて思ってもいませんでした」

1945年ドイツが敗戦に向かう中、フォン・ブラウンは新たな弾道ミサイルの開発を進めていました。
目指したのは、アメリカに到達する大陸弾道ミサイルです。
飛距離を伸ばすことは、彼にとって月に近づくことでもありました。
実はこの時、フォン・ブラウンは母国ドイツを捨てることを考え始めていました。
ナチス親衛隊に入隊していたにもかかわらず・・・!!
日和見主義者のフォン・ブラウンは、ナチスに協力しました。
親衛隊の制服に身を包みますが、それは、見せかけの忠誠心を示すためです。

「ドイツは2階の大戦で敗北した
 今度は勝者の側につきたい」byフォン・ブラウン

当時、連合国側の二つの大国、アメリカとソビエト連邦は、兵器開発に携わる優秀な科学者をドイツから獲得しようともくろんでいました。
この情報を掴んだフォン・ブラウンは、信頼できる部下20人を集め密かに集会を開きました。

「ドイツは負ける
 しかし、我々のロケットなが宇宙にたどり着くのはあと一歩だ!!
 我々は宇宙旅行が現実になると信じてきた
 この信念をとめることはできない」byフォンブラウン

フォンブラウンは、連合国の中で宇宙開発ができる経済力があるのはアメリカだけだと考えていました。

「アメリカとソ連、どちらも我々の能力と技術を欲しがっている
 我々は、アメリカ軍に投降した方がよいのではないか」byフォン・ブラウン

反対する者はいませんでした。
520人の技術者たちが、フォン・ブラウンに賛同しました。
一方、ドイツに侵攻したアメリカも、フォン・ブラウンを血眼に探していました。
V2ロケットに核弾頭を搭載すれば、世界最強の兵器になると考えていたのです。
1945年2月、ミサイル開発の拠点ペーネミュンデの東160キロにまでソ連軍が迫っているという情報が・・・!!
フォン・ブラウンはすぐに決断します。
520人の技術者とその家族全員を運ぶという世紀の大脱出!!
1000台のトラックを用意し、V2ロケット100基分の部品と重要書類を積み込ませました。
通行証は、偽造しました。

1945年2月17日、ペーネミュンデを出た一行は、南へおよそ600キロ離れたブライヒェローデへ向かいました。
ナチスに見つかれば裏切り者として処刑される・・・決死の逃亡でした。

4月30日、ヒトラー自殺!!

その2日後、フォン・ブラウンたちはアメリカ軍に投降・・・母国ドイツを捨てました。
第二次世界大戦が終わると、フォン・ブラウンたち工学者126人はアメリカのテキサス州フォードブリスに移住します。
ミサイル実験場でした。
フォン・ブラウンは、アメリカ軍に元ナチスの戦争犯罪人として形式的な尋問にかけられる一方、V2ロケットを組み立てるように命令されます。
その後、アメリカとソ連の冷戦が激化、1949年ソ連が原爆実験に成功。
その翌年の1950年、朝鮮戦争が勃発。
アメリカは、急速に軍備拡大を進めていきます。
フォン・ブラウンは、アメリカ軍から核弾頭を搭載できるミサイルの開発を命じられます。
フォン・ブラウンには、何の躊躇もありませんでした。
ロケットが核兵器になることは必然だと考えていました。
ソ連を敵とみなし、アメリカが西側の救世主になるために・・・!!
核兵器を持つことは正しいと信じ、弾道ミサイル開発に全面的に協力したのです。

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1953年、2トンの核弾頭を搭載できる弾道ミサイルの発射実験に成功します。
320キロの射程距離を持つこのミサイルは、レッドストーンと名付けられました。
後の大陸間弾道ミサイルICBMへと発展していきます。

この頃、共産主義者や独裁主義者をアメリカから追放しようという動きがおこりました。
フォン・ブラウン・・・元ナチスの親衛隊だった過去を暴かれます。
しかし、彼は命令に従うしかなかったと弁明し続けました。
フォン・ブラウンは、繰返し何もなかったといい、陸軍もマスコミにそのように報道させました。
彼がナチスの親衛隊だったという事実は封印されたのです。

1955年、軍の計らいによりフォン・ブラウンは、アメリカの市民権を取得し、名実ともにアメリカの国民となりました。
アメリカ軍は、フォン・ブラウンらドイツ人科学者たちをアメリカ国民にし、冷戦の兵器開発競争に利用したのです。
フォン・ブラウンのレッドストーンは、その後、核実験のために何度も打ち上げられました。
彼はナチス・ドイツのためだけでなく、アメリカでもロケット兵器の開発に邁進しました。

「人道的な立場に立てばロケットの研究を中止すべきだったかもしれない
 しかし、私の宇宙への夢は、あまりにも強かった
 実現できるなら、悪魔に心を渡してもいいとさえ思っていた」byフォン・ブラウン

1957年10月4日、アメリカに激震が走りました。
ソ連が人類初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功!!
戦後、科学技術で常にトップを走ってきたアメリカのプライドが打ち砕かれました。
そんな中、フォン・ブラウンは国務長官にこう言います。

「私に任せていただけるなら、60日で必ず人工衛星を打ち上げてお目にかけます」byフォン・ブラウン

当時、フォン・ブラウンは新たに強力な弾道ミサイルを開発していました。
爆弾の代わりに人工衛星を搭載すれば、軌道に乗せることが出来ると確信していました。
スプートニクの成功は、彼に、非常に大きな挫折と怒りをもたらしました。
フォン・ブラウンは世界で一番最初に人工衛星を打ち上げるという野望を持っていたのですから・・・!!

3か月後の1958年1月31日、人工衛星”エクスプローラー1号”を搭載した巨大ロケットが打ち上げられました。
95分後、見事、衛星軌道に乗り、アメリカ初の人工衛星となりました。
この成功によって、アメリカは国家の威信を回復、フォン・ブラウンは一躍アメリカのヒーローとなりました。
10月1日、アメリカ航空宇宙局NASAが発足!!
フォン・ブラウンは、マーシャル宇宙飛行センター所長に就任します。
宇宙ロケット開発のTOPに立ちました。

しかし、1961年4月12日、またしてもソ連に先を越されます。
ガガーリンによる人類初の有人宇宙飛行です。
1961年5月25日、ケネディ大統領は、すぐに声明を出しました。

「60年代のうちに人間を月に着陸させ、無事地球に帰還させるという目標の達成を目指す」byケネディ

アポロ計画です。
フォン・ブラウンは副大統領に、「ソ連より先に月に行くロケットを開発できる」と主張していました。
それを聞いたケネディ大統領が、彼の言葉を信じ、すかさず動いたのです。
地球から月へはおよそ38万キロ・・・月に到達し、地球に帰還させるためには正確な軌道を導き出すことが最重要課題となります。
まずは、ロケットを月の軌道に乗せ、月の引力を使って着陸させる・・・
帰りは地球の引力で戻る・・・途方もない計画でした。
フォン・ブラウンが開発したのは、宇宙飛行士を月に運ぶための3つの円陣を持つ世界初の三段式ロケット・サターンⅤです。
フォン・ブラウンは、アポロ計画の最重要部分であるロケットエンジン開発のリーダーに任命されました。
アポロ計画の最重要人物の一人となったのです。

アメリカ政府は、アポロ計画に年間60億ドル(2兆1600億円)を投じ、それは国家予算の予算のおよそ4%にも上りました。 
予算獲得のためには、国民の支持が必要だと考えたフォン・ブラウンは、マスコミを利用しました。
当時人気のあったウォルト・ディズニーと宇宙ロケットを開発する番組を制作します。
宇宙旅行を描いた小説やエッセイをわかりやすくイラスト共に雑誌に掲載、さらに、ケネディ大統領との親密さをアピールし、アメリカ国民に月面着陸は夢ではないと印象付けました。
アポロ計画スタートから8年後・・・1969年7月16日、三人の宇宙飛行士を乗せたサターンⅤが打ち上げられます。
全長110m、総重量3000トンを超える巨大なロケットが飛び立ちました。
そして4日後・・・7月20日、アポロ11号は、人類初の月面着陸に成功しました。

「これはひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」byアームストロング

世界中の人々は、テレビにくぎ付けとなり熱狂!!

「アームストロングが月面に降り立った時、まさに人生最高の瞬間だった」byフォン・ブラウン

人類初の大偉業を成し遂げたフォン・ブラウンは、英雄として歴史に名を刻みました。

アポロ11号による月面着陸成功後、フォン・ブラウンが生み出したロケットによって、宇宙開発は飛躍的に進みます。
アメリカNASAは、現在、火星への有人飛行を目指し、巨大なロケットの開発を進めています。
民間企業では、月旅行を実施すると発表・・・
その一方で、フォン・ブラウンが開発したロケットの技術でスカッドミサイルなどが世界各国に広まりました。
現在、およそ50か国が大陸間弾道ミサイルの開発を進めています。
射程距離は1万キロ・・・およそ1分で宇宙空間へ到達し、最高速度はマッハ20にもなります。

フォン・ブラウンのV2ロケットは、技術革命でした。
大陸間弾道ミサイルと、新たな宇宙ロケット両方を可能にしました。
アメリカ、ロシア、イギリス・・・そして中国など、世界各国のロケット開発を飛躍的に進歩させたのです。
現在、地球の周りには、4400以上の人工衛星が稼働中。
少なくともおよそ300基は軍事衛星だといわれています。
日本はこれまでに延べ11基の情報収集衛星を打ち上げました。

宇宙は果てしない・・・この瞬間も膨張を続けています。 
人類はどこまでたどり着けるのか・・・??

1972年、アポロ計画の打ち切りが決まると、フォン・ブラウンもNASAをさりました。
その3年後、63歳の時ガンが見つかります。
1977年6月16日、すい臓がんで死去・・・
死の底でフォン・ブラウンは、まるで宇宙の中を漂っているようなうわごとを発したといわれています。

「私は今、銀河系を脱出しようとする
 10万光年・・・10億光年・・・」

最期の言葉は・・・「ノバ(新星)」・・・65歳の生涯でした。

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