日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: BS歴史館

NHKさかのぼり日本史(6)江戸 “天下泰平”の礎

幕末、日本に開国騒動を巻き起こしたのは、黒船来航です。
しかし、それを遡ること50年・・・もう一つの黒船騒動がありました。
1906年9月12日「露寇事件」です。

ロシアが南下してきた軍事衝突です。
当時、出島で限られた国としか交易していなかった江戸幕府・・・
ロシアは開国と通商を求め武力で迫って来ます。
震撼する日本・・・!!
ここで初めて日本は、国防を意識し、国境を知るのです。
おまけにここに来て初めて鎖国を宣言したのでした。

露寇事件・・・
対外国という意味では、13世紀の蒙古襲来以来の大事件でした。
この頃から太平の眠りから覚めることになる日本。。。
ここに近代日本が出発したのかも知れません。
そして・・・日露関係のスタート地点ともなるのです。

文化年間・・・庶民のための文化が花開くのどかな時代に・・・
衝撃が走りました。
それが露寇事件だったのです。

首謀者はニコライ・レザノフ。
ロシア帝国の外交官でした。
このレザノフの命令を受けた軍人たちが、突然北方の島々に紛争を仕掛けたのです。
文化3年9月樺太・文化4年4、5月択捉島・5、6月利尻島・・・と次々に焼き払われ、食料が略奪されます。
しかし、この事件についての文献はほとんどありません。

鉄砲を撃つことが殆どなくなっていた日本・・・
200年前の・・・戦国時代の武器を使っていた日本・・・
被害は大きくなかったものの・・・その圧倒的な力に日本人は怖れ慄いたのです。

ロシアは毛皮が欲しい!!
毛皮交易は・・・16~19世紀に行われ、ロシア北米で発展しました。
特にラッコの毛は珍重されていたのです。
ロシアで生産し、中国で売る!!

1799年露米会社を設立し、レザノフが総支配人となっていました。
毛皮交易と植民地経営を目的とし。。。
日本近海が、ロシアにとって重要・・・国家の財源としての良質の毛皮が欲しかったのです。

当時のロシアは急速に領土を拡大していました。
西はナポレオン戦争、東はアラスカにまで勢力を伸ばしていました。

日本をその拠点にしたかたレザノフ・・・どうして攻撃したのでしょう??
2年前の長崎・・・

1804年9月6日レザノフ長崎来航。
ロシア皇帝の親書を以て意気揚々とやってきますが・・・幕府は上陸を拒否し、24時間体制の監視下に置きました。
来日して2か月半・・・陸の上でも軟禁状態に置かれます。
レザノフは日本語が話せたようです。
東北からロシアに流れ着いた漁師たちに教わっていたのです。
日本に対する関心の深さが伺えます。
現場の日本人たちも友達のようになっていきます。

そんな中幕府は・・・通商か鎖国かで悩んでいました。
レザノフを怒らせて帰らせる???
1805年3月日露会議。

レザノフに伝えられたのは・・・
「わが国は、唐山(中国)・朝鮮・琉球・紅毛(オランダ)以外とは通交通商しない」
というものでした。
そして・・・
「再び来ることを費やすことなかれ。」
と言ったのでした。
この時初めて、外に向けて鎖国を表明したのです。

半年待たされたレザノフ・・・期待を裏切られたレザノフ。。。
幕府の結論を受け入れることができなくて・・・攻撃を命令してしまったのです。

この事件に幕府が下したのは・・・
1807年4・5月東北諸藩に蝦夷地への出兵を命令!!
当時の蝦夷地は、松前藩があるだけで他の土地はアイヌの土地でした。
1802年東蝦夷地上知。
1807年西・北蝦夷地上知。
段階的に直轄地としていきます。

幕府にとって蝦夷地の重要性が増していきます。
そして・・・津軽藩・秋田藩・南部藩・庄内藩が蝦夷地に向け3000人の軍勢が出陣しました。
箱館・宗谷・斜里などに配備されます。
軍事的緊張がピークに・・・!!

おまけに兵士たちは、食べるものもなく、気候も・・・なれない土地での生活に、病気になったりして弱っていきます。
彼等の病気は”浮腫病”・・・”脚気や壊血病”でした。
この惨状を救ったのは、松前藩。。。幕府に上申書を出します。

”蝦夷地全域を、守ることは難しい・・・
 民命に関わる問題だ・・・”と。。。

整備縮小された東北の軍・・・
1808年6月帰国命令が出されたのでした。
斜里詰津軽藩士105人中74人が死亡・・・この間にロシアの船は一度も現れなかったのです。
未開の・・・地図もない蝦夷地のあまりに悲劇でした。
この後、伊能忠敬や間宮林蔵が活躍していくのです。

露寇事件の後も、北方では緊張状態が続きます。
幕府はロシアと交戦状態にあると考えていたのです。
そんな中起きた事件が・・・
1811年6月4日ゴローニン事件勃発。
ディアナ号を拿捕、船長以下8人を捕縛しました。

露寇事件の報復措置だと思っていた日本。。。
露寇事件は決着したと思っていたロシアには寝耳に水でした。
副艦長のリコルドは報復として1812年8月14日北前船「観世丸」を拿捕。

この時ロシアに連れて行かれたのが、高田屋嘉兵衛でした。
この嘉兵衛がロシアとの緊張を解いていきます。

名字帯刀を許された御用商人の嘉兵衛、幕府の信頼も厚く一目置かれていました。
嘉兵衛は交易船を繰り出し・・・蝦夷地全域で商いをしていました。
なので、アイヌの人からロシアの現状も聞いていました。
民間人でありながら幕府にも内通し、国際感覚も持っていた嘉兵衛。。。
日本とロシアの溝を埋めたいと考えていました。
世の中のためにロシアで一肌脱ごう!!
捕虜ではないので対等でなければならない・・・嘉兵衛はロシアで食い扶持を自分で賄います。
が・・・その結果栄養不足で病に倒れます。
それでも毅然とした態度を貫いた嘉兵衛。。。

ロシアに連行されて4か月・・・リコルドに提案します。

「蝦夷地で行った乱暴は、公式に詫びさえすればゴローニン艦長は許されて自由の身となるだろう。」by嘉兵衛

ロシアは露寇事件は国家としての命令ではなかったと、書簡を発行し、嘉兵衛に持たせて帰らせます。

1813年9月16日リコルド箱館来航。
ロシアとの全面戦争をしたくなかった幕府も、渡りに船と会談をします。
そして・・・ゴローニン達は全員ロシアへ・・・嘉兵衛も日本に・・・。
9月26日、ゴローニン事件は解決したのでした。

ここに・・・ロシアとの緊張関係も終わりを告げたのでした。
露寇事件を通じて、対外関係の難しさを知った日本・・・
50年後のペリー来航にはこれを生かしたといいます。

嘉兵衛に対する幕府からのお礼は小判5枚・・・
現在の価値で20万円だったといいます。

ロシアに限らず外国と紛争を起こしたら大変なことになる・・・

将軍の御威光・メンツをつぶさない様に、しかし、紛争を起こさないような解決をとらなければいけない。
大きく負けないためには小さく負け、プライドを守る!!

露寇事件によってロシアと紛争になってしまった。。。
”発端から考え直そう”という考え方が・・・誤解を解いて再検討が大切なのです。


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今から1300年以上前、日本という国の在り方を定めた戦いがありました。
672年”壬申の乱”です。
天智天皇の後継争いとして天皇の長子・大友皇子と、天皇の弟・大海人皇子が国を二分して戦った古代最大の内乱です。
勝利した大海人皇子は天武天皇として即位、国の基本を作り上げていきます。
律令制や官僚制度、国史編纂、新都造営・・・天皇の称号を始めて用い、皇室ゆかりの儀式が整備されました。
天皇・国家を定めた・・・日本の国を作った戦いなのです。

しかし、乱の経緯については解らないことばかり・・・
戦いの発端は・・・??
皇位継承を辞退した大海人皇子はどうして蜂起したのか?
わずか30人余りで吉野を脱出した大海人皇子が、4日間で3万の軍勢に膨れ上がり圧勝できたのか??
そしてその時、天智天皇の娘であり大海人皇子の妻・鵜野姫皇女(持統天皇)は???

古代日本最大の内乱はどうして起こり、日本はどのように変わっていったのか?
日本の在り方とは???

壬申の乱は、戦前、教科書から削除されていました。
戦前は万世一系・・・壬申の乱は、都合が悪かったと思われます。

天智天皇の後継者争いから始まった壬申の乱・・・。
天智天皇の時代の政治は???
大化の改新を成功させた中大兄皇子・・・天智天皇は、663年白村江の戦いに直面します。
当時日本は倭国・・・百済復興のために大量の兵の兵を派遣し、新羅・唐と戦います。
大国・唐の圧倒的軍事力の前に大敗を喫した倭国軍。。。
その後、唐・新羅が百済を滅ぼすと、今度は唐と新羅が対立します。
混沌とする世界の中、倭国の危機が続いていました。
白村江の戦いに敗北したあと即位した天智天皇は、外圧に対抗するための軍事国家を建設を目指します。
水城や山城を急ピッチで作ります。
戦時体制をしき、本土決戦を意識し、侵略に備えたのです。
急速な富国強兵をすすめます。
671年・・・病に臥せった天智天皇。。。
有力候補は息子・若干24歳の大友皇子、もう一人は弟・大海人皇子でした。
天智天皇は息子ではなく、弟を指名したと日本書紀には書かれています。
当時の皇位継承は、明確に存在していたのではなく、・・・統ではなく資質。年齢や経験がモノをいったのです。
未知数の大友皇子よりも大海人皇子を選んだのですが。。。
大海人皇子は皇位継承を辞退し、出家してしまいました。
兄の想いを慮って身を引いたのか???
「お言葉にはご用心なさいませ。」
その一言で、兄の謀略を感じ取ったのかも知れません。
自分が皇位を継承すると言ったら・・・??
兄の謀略を察し・・・だからの出家だったのかもしれないのです。
そこには、天智天皇の国づくりに対する諸豪族の不満があったと言われています。

例えば・・・庚午年籍の制定・・・
土地や徴税など、豪族の既得権を国家の管理とするものでした。
公地公民は、確実に税と兵をとる方法でした。
おまけに都を飛鳥から近江大津宮に遷都しようと考えていました。
この遷都に対する不満から火事や不吉なことが起こったと言われています。
全員が集結して国の役人となる。。。
土地・民衆の支配権が国家に管理登録される不満。。。
大海人皇子はその不満を感じていたのでそのまま継ぐのは不利だ・・・と感じ、671年近江を出発し、隠遁生活に入りました。同行したのは妻・鵜野讃良皇女と息子・草壁皇子たち。。。

それから1か月余りで天智天皇が崩御。

こうして大友皇子が近江朝廷の実権を握ったのでした。

天智天皇の改革は・・・近代国家にならなければ国が亡びるかもしれない・・・ということを感じ、安全保障が第一でした。
古代皇位継承は今とは違い、統治能力とある程度の年齢が必要でした。
それが暗黙のルールだったのです。
25歳の大友は若く、おまけに母親(伊賀采女)の身分が低く、豪族とも扱われない可能性がありました。

そして大海人は、天智の不満・恨みを一身に背負わないためにも、出家が必要だったのです。
天智天皇は改善をしたかった・・・しかし大海人皇子は変革を望んでいたのです。

壬申の乱は、そんな大海人皇子の吉野脱出から始まります。
そのきっかけを日本書紀は・・・
672年5月、大海人皇子は家臣から報告を受けます。
「朝廷は天智天皇の陵墓を創るためとし妊婦を集めていますが、武器を持たせています。
 早く逃げないと危ないことになるでしょう。」
つまり、大友は大海人追討に向かうと言うのです。
吉野脱出は緊急避難???
近江朝廷側が仕掛けた?いえいえ、大海人皇子の念入りな作戦が伺えます。
吉野脱出の計画は???
①近江の皇子たちとの合流
高市皇子と大津皇子を呼び出し、伊勢で落ち合えるようにします。
脱出がばれると人質にされかねないので合流しました。

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細い道・・・険しい道を通ります。
大海人皇子は事前に何回もシミュレーションしていたようです。
積殖山口で武市皇子と再会します。そして大津皇子とも合流。。。
これは計画的にしないと出来ないことです。
吉野に隠棲してから考えたようです。

そして・・・鈴鹿の山道を封鎖!!
この頃、大津宮は高市皇子と大津皇子がいなくなったので捜索開始。
一方鈴鹿に到着した大海人皇子は、追っ手を防ぐための軍事行動に出ました。

”500の軍勢で、鈴鹿の山道の守りを固めた”

鈴鹿の山道を抑える・・・これは大事なこと・・・近江朝廷側の追っ手を防ぎ、飛鳥からの追っ手も防げる場所だったのです。

不破の道を防げ!!
不破とは関ヶ原のことです。
交通の最大の要所でした。
近江と東国の関係を断ち、東国を味方につけることが目的でした。
不破を押さえ、尾張からの2万の兵も合流し・・・
4日間・170㎞の行程で・・・30人の一行は3万人にも膨れ上がっていったのでした。

白村江で西国は疲弊していましたが、東国は無傷な兵がたくさんいました。
鈴鹿と不破の関を押さえると・・・東国と畿内は遮断されます。
つまり、この二つの道を塞ぐことが勝利への道だったのです。
地図もないのに、道もないのに・・・何度も練習した成果でした。

壬申の乱は、6万人もの兵士が敵味方に分かれて戦った、古代史上最大の内乱でした。
しかし、大海人皇子軍の一方的勝利に終わるのです。
近江朝廷軍は遂に不破に向かって進軍します。
近江朝廷側に不満を抱く者たちが飛鳥で立ち・・・飛鳥はあっけなく落ちました。
大海人皇子の軍勢は各地で勝利し、大津宮へ・・・最後の決戦の地は、滋賀県にある瀬田橋。。。
兵力を結集し、雌雄を決することになりました。

勝敗はあっけなく・・・
近江方の陣は混乱し、逃げ散るのを止めることは出来ませんでした。
大友皇子たちも、かろうじて脱出しますが。。。
もはや逃げ場はなく・・・山前で・・・大友皇子は自ら首をくくって死に・・・
不破の大海人皇子の元へと届けられたのでした。

こうして壬申の乱は終わりを告げるのでした。

中央の大友がこれだけあっけなく負けた理由は・・・
大海人は戦争を起こそうとしていたこと。
大友は戦が起こるとは思っていなかった。。。
用意周到に準備していることに全く気付いていなかったのが原因だったのです。
そう、知らせてくれる見方がいなかったのです。

やはり、みんなが大海人皇子が継ぐべきだと思っていたのです。

どちらが勝った方が良かったのか???
大友が買った場合、天智天皇のまま・・・唐よりの政策になって、唐に取り込まれていたかもしれません。
国家として残るために、大海人が勝って良かったのだろうと思われます。

大友の首は必要だったの???
王族の首を斬るということは、日本の歴史上ほとんどありません。
戦後処理を考えると、大友は確実に死んだという事実を示さなければならなかったのです。

壬申の乱の翌年、大海人皇子は大津から飛鳥に都をもどし、天武天皇として即位し、大規模な国家改造のために、独裁的人事体制を築きます。

天智天皇の時代には有力豪族がついていた大臣のポストを無くし、天皇皇后を頂点に皇族・皇親に力を集中させ(皇親政治)、しかし、敗れた側の人々にも政治参加をさせました。
トップダウンのできる体制が整いました。

東アジアでは、新羅が唐と戦争を起こし・・・676年には新羅が朝鮮を平定します。
大陸の脅威は徐々に薄れ・・・国内の改革に取り組みだしました。
681年律令の編纂を開始、国史編纂事業にも取り組みます。これがのちの日本書紀です。
大王という名を改め、天皇という言葉を初めて使ったのは天武天皇だと考えられています。
天武天皇は、自らを天皇と名乗り、絶対的な権威を持ちました。
大王(おおきみ)は・・・たくさんいる王の中のTOPですが、天皇は唯一無二の存在です。

飛鳥の都を賛美する歌に・・・

「おおきみは
  神にしませば赤駒の
    腹這ふ田井を都と威しつ」

と、万葉集に収められています。

天皇は神である・・・

天武天皇は、どんな国家を目指したのでしょう?
天武朝の前半と後半とでは全く違い、天武10年までは戦争状態でした。
非常に高圧的に・・・国家の基本は軍事であるという政策をとります。
確実に税がとれて兵が徴収できる国家です。
天武5年に唐と新羅の戦争が終わり・・・天武7年にその知らせがもたらされました。

いつ攻めてくるかわからない時代が終わりました。
不安の無くなった天武政権は、貨幣経済でないと大きな国は動かせない!!と、税を徴収し、徴兵すること・・・近代的な考えになっていくのです。

政治的な立場には天皇と皇后しか置かない・・・
ふたりで決定する政治をし、みんな天皇と皇后の下に平等であることを認識させました。
まさに”一君万民”です。
唯一無二の天皇の為に・・・
神話が必要でした。
世界に対抗するためにも中国とのバランスを考えて作られたと考えられます。
天皇の歳が長すぎたり・・・いろいろ変な部分がありますが、努力してつじつま合わせをした結果ではないか?とも思われるのです。

絶対的な権力と権威・・・
天武天皇の最後の問題は皇位継承でした。
どう継承していくのか???
そこには皇后の想いもありました。
天皇の息子のうち、成人しているのは4人・・・
草壁皇子・大津皇子・高市皇子・忍壁皇子。。。
そのうち、鵜野讃良皇女の息子・控えめな草壁皇子と大田皇女の息子・優秀な大津皇子に絞られました。

大津皇子支持の声の多い中・・・
679年後継者を指名・・・草壁皇子です。
他の皇子には争わないと誓わせました。
しかし、686年天武天皇が崩御・・・
その1か月後に皇子たちの誓いは破られてしまうのでした。
大津皇子の謀反が発覚!!大津皇子は死に追いやられてしまいました。
ところが3年後には草壁皇子も亡くなってしまいます。
そこで皇后・鵜野讃良皇女が持統天皇として即位します。

夫の計画を引き継いで・・・
草壁皇子の息子・軽皇子を後継者と指名し、697年で文武天皇として即位します。
権力を持たない、若い天皇の誕生でした。
これがその後の日本の在り方を決めることになりました。
中国は易姓革命。天がそれを見放した時に滅びるのですが・・・
日本の場合は天は万世一系としてなり、権威はあるけれども権力はない・・・
という形となり、長続きする理由なのです。

これを強く支持したのは壬申の乱で争った大友皇子の息子・葛野王でした。
あまりにも若い天皇に反対意見のある中・・・
「わが国では今日まで子孫が皇位継承することになっている
 兄弟の順で相続するならば、国は乱れる」
と。。。葛野王は、天武天皇直系の軽皇子の即位を推したのです。

持統天皇は喜び、国を定る・・・現在まで連綿と続くこの国の在り方が、この壬申の乱から始まったのです。


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感想(1件)


かつて・・・天皇が二人いる前代未聞の時代がありました。
南北朝時代です。
京都の北朝と、吉野の南朝・・・二つの朝廷の存在する時代が60年も続きました。
動乱の引き金を引いたのは、室町幕府初代将軍・足利尊氏です。
南朝と北朝の原因は、尊氏の三度の裏切りにありました。
最初の裏切りは、武家政権の鎌倉幕府。
尊氏の裏切りで幕府は滅亡。。。
二度目の裏切りの相手は、尊氏に裏切りを耳打ちした後醍醐天皇、最後は最愛の弟に対する裏切りでした。

戦前の人には、天皇に弓を引く”逆賊”として有名な尊氏。。。
戦前はタブーな人でした。

kou




足利尊氏と言えばこの肖像画で有名です。
猛々しい姿に逆臣、朝敵として記録されてきました。






ホントはこちら・・・

takauji

勇猛な武将というよりも高貴な感じ。。。
清和源氏の直系なのです。
鎌倉幕府の筆頭御家人でした。
そんな尊氏がどうして???



鎌倉幕府は、頼朝が開いて以来、承久の乱・蒙古襲来・・・負けたことがありません。
東国政権だった鎌倉幕府は、六波羅探題、鎮西探題を置いて支配を広めていきました。
そんな最強の鎌倉幕府に反旗を翻したのが、後醍醐天皇です。

鎌倉時代後期、北条氏は富と権力を独占し、時の第14代執権・北条高時は栄華を極めて政務を顧みませんでした。
「野蛮な東国武士は勅書には応じないだろうから武力で征伐しようと思う」
1331年後醍醐天皇挙兵!!
しかし、朝廷軍3000VS幕府軍7万5000。。。圧倒的な幕府軍に完敗。
1332年には後醍醐天皇は隠岐に配流となり一件落着の筈でしたが・・・
ところが、護良親王が引き継いで挙兵!!
武士達に令旨をばらまきます。

おまけに後醍醐天皇は隠岐を脱出し、船上山に立て籠もります。
幕府は再び討伐軍を作り、その大将を任されたのが足利尊氏でした。

太平記には・・・

「父の喪中で悲しみも癒えず、その上私は病に冒されている。
 高時の出兵命令は実に恨めしい。」

天皇の討伐よりも父の喪中。。。
その上、
「自分は清和源氏の一族。。。血統の後期は我々の方が上なのだ。」

家格が低い北条氏に恨めしさが。。。
尊氏は、心の内を人には見せませんでした。

裏切りの決定打は”楠木正成”だったという説も。。。
尊氏が出兵する1か月も前から楠木軍は千早城に入城。
1333年2月~5月・千早城の戦い。。。
数万の幕府軍にわずか1000の兵で立ち向かいました。
奇想天外な戦術で・・・千早城を落とせない幕府軍は厭戦気分になり。。。
それが尊氏の背中を押したと言われているのです。
尊氏が西へ向かう間に、千早城から離脱してきた兵士たちに遭って。。。
幕府に対する不満、西での出来事を聞きながら、時代の流れが変わるのを肌で感じていたのかも知れません。

「後醍醐天皇が世の中を救うために綸旨を発せられたので、勅命に従い正義の兵を挙げる」

幕府を裏切り後醍醐天皇を選んだのでした。
1333年5月7日、尊氏は六波羅探題を攻略。
それをきっかけに、全国の武士が討幕に鞍替えしたのでした。
北条一族は鎌倉の山奥で集団自決し、150年続いた鎌倉幕府は尊氏が裏切りを決意してからわずか2週間で滅亡したのでした。

どうして挙兵したのか?
そこには血筋の問題がありました。
当時の天皇家は、持明院統と大覚寺統の二つに分かれており、交代に順番で即位し・・・両統迭立だったのです。
後醍醐天皇は、本当は天皇になる立場ではなかったのですが若くして兄が死に、天皇が回ってきたのです。
一代限りの天皇でした。
兄の血筋も持明院統も倒さなければ、自分の血筋には天皇の座が行くことはない。。。
両統迭立という仕組みを作った鎌倉幕府自体を倒さなければ!!
という発想の飛躍があったのです。
そして、後醍醐天皇の側近たちも、次男など・・・位につくことが出来ない寂しい人生を送るための人たちだったのです。
後醍醐と同じような不満を持っていた人たちだったのです。
過激になり討幕へと向かい・・・みんなで煽っていくのでした。
最強だった鎌倉幕府が崩壊した直接の原因は蒙古襲来・・・3度目がある・・・
非御家人を動員してまでも国を守ろうとした結果が、旧来からの御家人たちに不満を持たせ・・・御家人、非御家人たちからもそっぽを向かれたのでした。
当時は得宗専制体制で、北条一門が所領をたくさん持っていて・・・つまり、北条一門を倒せば莫大な所領が手に入る!!
足利尊氏も次男坊でした。長男が死ななければ、文学青年として一生を終えていたのかもしれない尊氏。。。
そんな英雄的でない尊氏が立ち上がるのです。

鎌倉幕府を倒し、新政権を樹立した後醍醐天皇・・・。
それに最も貢献した足利尊氏。。。しかし、2年後に後醍醐天皇に刃を向けることになります。
朝廷を再興したい後醍醐天皇。。。
1334年建武の新政が始まりました。
とにかく天皇の独裁政権でした。
例えば六月令・・・

”今後の土地所有権の変更は、一々後醍醐自身の裁断を経なければならない”

その結果、討幕に参加した武士達が恩賞欲しさに天皇の元へ殺到します。
対応しきれない後醍醐天皇は・・・
七月令・・・

”一々来られては、政務が煩雑になるので、現在持っている土地をそのまま治めるように”

としました。
武士達の恩賞への期待は失望えと変わっていったのです。
新政権始まってすぐの初歩的なミスでした。

そんな尊氏の立場は・・・???
武士達と天皇の間にはいり、仲介者として関東八国を治めていました。
後醍醐を支えていたのです。
しかし・・・
1335年7月北条時行挙兵!!
建武政権に不満を持つ御家人達を結集させ、一時鎌倉を制圧しました。
この時鎌倉を治めていたのは弟の足利直義でした。
命からがら鎌倉を脱出!!
尊氏は挙兵にあたり、征夷大将軍と恩賞を与える権利を認めてくれるように後醍醐天皇に進言します。
しかし、簡単には許可が下りなかったのです。

8月、尊氏は許可なく京を出発し、鎌倉へ・・・。
そして、制圧するとまだ天皇の宣旨が下されていないのに征夷将軍を自称し、手柄を挙げた武将たちに恩賞を与えたのです。
と・・・尊氏の現場判断は、弟・直義が下したものでした。
政権に見切りをつけ、新しい武家政権の構想を立てていたのです。
尊氏は、天皇に弁明しようとしますが既に信頼は失墜し。。。
天皇は新田義貞・北畠顕家の追討軍を出したのです。
天皇と弟の間で板挟みに・・・浄光明寺に引きこもってしまいました。

直義は駿河で尊氏追討軍と対決するもあえなく敗走、箱根まで帰ってきました。
そこで・・・あくまで弟の為に・・・闘う尊氏は、見事追討軍を破って京へ・・・!!
後醍醐天皇を比叡山に押し込めて1336年1月京都を制圧したのでした。

後醍醐天皇は、何をしたかったのでしょうか?
それは徳治主義。
徳のある人間が王座になる。。。というもので、
米価の調整、関所の撤廃、民の為になることをするという志は立派なのですが、それが理解されなかったのです。

幕府を裏切り天皇を裏切った尊氏・・・。
日本中を激しく動いた将軍でした。
京都と鎌倉、博多・・・その総距離は5000㎞以上!!
どうして尊氏はそこまで動き回らなければならなかったのでしょうか?

1336年1月27日、尊氏は北畠顕家軍に敗れ、京都を追われます。
尊氏絶体絶命の大ピンチ???
しかし、不思議なことが・・・。
「負けたはずの尊氏に、在京武士がついて行ってしまう。。。」
「朝敵を追悼する合戦の筈なのに、皆の士気が上がらないのはどうも変だ」
西日本敗走中に・・・元弘没収地返付令を出していた尊氏。
天皇によって没収された所領を返給するというものでした。

尊氏は武士の利益を守るための建武政権打倒を掲げていたのです。
敗戦の理由を朝敵になったことだと考え、新たな天皇を擁立することを考えます。
持明院統からの光明天皇。。。大義名分を得ようとしたのでした。
天皇同士の戦いに次々と集結し、都にあがる尊氏は、5月湊川の戦いで宿敵・楠木正成・新田義貞軍を破ります。
6月入京。。。京都奪還に成功しました。
そして8月15日功名天皇践祚。
名実ともに天下を取った尊氏。。。
早く遁世したいと言い出しました。仏門に入りたいと。。。
しかし、その願望は瞬く間に破られました。
12月後醍醐天皇は吉野に朝廷を開きました。
正当な皇位は自分にあると!!!
京に北朝、吉野に南朝。。。そして、後醍醐天皇は1339年8月16日亡くなりました。
尊氏は大きく落胆し、後醍醐天皇を弔うために天龍寺を造営。。。巨額な費用が使われたのでした。

尊氏最後の裏切りの相手は、最愛の弟・直義でした。
直義こそが室町幕府を治めていました。
長い間源頼朝と思われてきた肖像画が直義だという説があります。

naoyosi


























尊氏の絵(↑)と共に奉納されたとも言われています。
1336年11月建武式目制定。
幕府を鎌倉から京都に移して室町幕府が始まりました。
尊氏は政務の一切を弟・直義に任せ

「私は将軍という器ではないから、これからは軽々しく振る舞って武士たちの人気を得ていこうと思う。
 お前は重々しく振る舞って、無駄なことに時間を使わないでくれ」

と言っています。
真逆な性格で10年以上も幕府を支えてきた足利兄弟。

ところが・・・この肖像画の人物が・・・足利家の執事・高師直が原因で二人の仲が裂かれてしまうのです。
政権構想の違いで起こった観応の擾乱。
高師直を罷免した直義、将軍に直訴に行った高師直。。。あろうことか尊氏は直義を追放し、長男・義詮に政務を譲ろうとしました。
1351年12月、薩埵山の戦いで・・・
直接対決、尊氏3000、直義が50万で包囲しましたが、戦いは尊氏の勝利。
直義は鎌倉の寺に幽閉され・・・その後、謎の死を遂げるのでした。
太平記には・・・
”病死と公表されたが、本当は敵(尊氏)に毒を盛られて亡くなったと人々は噂している”

そして尊氏は些細な病気で54歳で亡くなります。
長らく逆賊とされてきた尊氏。

そんな尊氏の詠んだのがこの一句。

「よしあしと
  人をば言ひて
    誰もみな
 わが心をや 
   知らぬなるらむ」

足利尊氏は・・・イデオロギー的な歴史観におさまりきらない男。
人間としてのリアリティーのある誰の中にもある一面を持っていて、現代人に一番近い人なのかもしれません。
人間というのはいつの時代も不条理な存在で、その象徴が尊氏なのかもしれません。

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足利尊氏再発見 一族をめぐる肖像・仏像・古文書

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中世瀬戸内海の仏教史 村上水軍の本拠地芸予諸島を主として

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1576年・・・天正4年7月・・・ 安土城で・・・
織田信長が怒り心頭していました。
その相手は海賊。。。
長篠の戦で武田勝頼に勝利、天下統一を目前の信長でした。
大坂の・・・木津川口の合戦・・・

毛利水軍VS織田水軍です。
毛利の主役は、瀬戸内海の海賊たちでした。
機動力に長けた小舟を使います。
秘密兵器は焙烙玉と呼ばれる手榴弾。。。
この威力に織田水軍は殲滅されてしまったのです。
向かうところ敵なしの信長を震撼させたのは、日本一の海賊大将・・・
村上水軍の村上武吉でした。

古来海賊達は、海の荒くれ者として怖れられていました。
10世紀には・・・紀貫之が土佐日記で。。。
”海賊の恐怖で髪も白くなる・・・”と書いています。

しかし・・・
村上海賊の旗は、瀬戸内海におけるパスポートでした。
海賊こそが、航海の安全・秩序を守る海の管理者だったのです。
日本の実在の海賊は・・・よくある物語のパイレーツとは別物で、しかし、海洋国家の日本にとっては海の勢力を抜きにして日本史は語りきれません。

港を押さえ、お金を取りたて秩序を守る・・・
社会的な役割を果たす、必然であり必要な存在だったのです。

14世紀・・・最果ての地に幻の海の民がいました。
青森県津軽半島、十三湊・・・大津波で一夜にして滅んだと言われていました。
1996年の発掘調査で・・・当時のままの姿が出て来ました。
南北2キロの道路に・・・整然と当時の町が並んでいました。
朝鮮半島の高麗青磁・中国の天目茶碗・タイの陶磁器も発掘されました。
十三湊の交易範囲はアジア全域に渡っていたことが分かります。
西の博多に匹敵するほどの港でした。
そこを一手に担っていたのは安藤氏。
日本海で活躍していた安藤水軍です。
が・・・16世紀以降忽然と消えてしまいました。


瀬戸内海でも海賊が台頭していきます。
そこには塩が関係している???
愛媛県弓削嶋は・・・中世・・・京都の東寺の荘園で、古くから塩づくりが盛んでした。
東寺に塩を献上していたのです。
京都の貴族や寺社勢力は、瀬戸内海に塩を作るための荘園を置きました。
大量の塩を運ぶための武装集団として発達してきたのです。
これが海賊の台頭の契機と言われています。
939年の藤原純友の乱は、最初の海賊の氾濫でした。
数千艘の船団で博多に現れ、大宰府を陥落。

12世紀末・・・1185年の壇ノ浦の戦いで・・・
水軍の平氏に対して馬の源氏と言われていましたが。。。
源氏は四国の海賊を味方につけます。
さらに・・・平氏方だった和歌山の熊野水軍を寝返らせ味方につけるのです。
壇ノ浦の戦いになると、源氏は船舶数でも勝っていたのです。
源平合戦の勝敗を分けたのは海賊だったのです。
海賊は大軍団ではないものの、要所を握っていたのです。

戦国時代に入って・・・
瀬戸内海の海賊が力を拡大していきました。
芸予諸島の3つの島を拠点にしていた三島村上水軍(因島・能島・来島)が最も力を拡大していきます。
当時最短で瀬戸内海を航行するためには、どのルートを使ってもこの拠点は通らなければなりません。
中でも能島村上氏は瀬戸内海最強の海賊集団でした。

棟梁は村上武吉。
ポルトガルの宣教師も日本一の海賊と言っています。
後に信長・秀吉を怖れさせることになります。

彼らを知らしめたのは・・・
1555年の厳島の合戦。。。
中国地方の覇権を争う陶氏と毛利元就・・・
村上水軍は、毛利方に味方をしました。村上水軍は、夜陰に紛れて船300艘で毛利軍を陶氏の背後に送ったのです。
この事が村上水軍の名を天下に轟かすことになりました。
村上水軍の強さの秘密は???
能島の当たりは瀬戸内海の中でも最も潮流の難しい場所・・・
「舟に乗るより潮に乗れ!!」
エンジンもない時代・・・この天然の要塞・能島に近づくことは無理でした。
村上水軍の”子早”は小回りが利き、機動力に長けていました。
そして特殊な武器・・・”熊手”です。
相手の船をひっかけて引き寄せて、相手の船に乗り込み白兵戦に持ち込むのです。
鎖帷子は・・・海に落ちた時を考えて、薄く、軽く作られていました。
戦術書によると・・・布陣図が・・・布陣図を変えながら戦うことを得意としていました。
能島全体に岩礁ピットが作られていて・・・その数400以上。
能島の高台には・・・三の丸・二の丸・本丸があり、平時にも利用できる万能な城だったようです。

この財力は・・・
帆別銭です。
一定の場所・・・海の関所(秋穂・上関・塩鮑本島)を通過するときに、帆の大きさに合わせて額を変えたお金を徴収していたのです。
そして、支払ったものには、村上水軍の旗を与えていました。
上乗り。。。
船に海賊を乗せると安全が保障され、終着点で警固料を徴収していました。
荒くれ者のイメージが強い海賊ですが、平時は経済活動や交易の舞台となっていたようです。
優れた統率力と、経済力を持ち合わせていたのです。


1573年7月13日・・・大坂湾で・・・
毛利と村上海賊の大船団がやってきました。
待ち受けるは織田水軍・・・
第一次木津川口の合戦です。

海賊だった武吉が信長と闘うことになったかというと・・・
天下統一を目指す織田軍の最大の敵となったのが一向宗・石山本願寺・蓮如でした。
6年もの間抵抗を続け・・・信長は手を焼いていました。

本願寺を兵糧攻めにしようとした信長・・・
困窮した本願寺は、門徒宗の多かった毛利輝元に援助を要請したのです。
毛利家は10万石の兵糧米を申し出ます。
この運搬と、これにみ合う海上戦に強い集団・・・それが村上水軍だったのです。
船団は一路大坂へ・・・!!
村上水軍の大活躍で、織田の船団は焙烙玉で炎上・・・
毛利家は、石山本願寺に兵糧米を入れることに成功!!
射手舟⇒焙烙船⇒武者船⇒道具船を駆使した村上氏の名前は天下に轟くのでした。
信長は、天下統一には水軍力は欠かせない!!と、思う戦いとなったのでした。

1578年11月織田が石山本願寺に!!
第二次木津川口の合戦の始まりです。
村上水軍になすすべもなく敗北していた織田軍は、その轍を踏まない様に・・・
尾張の海賊の棟梁・九鬼嘉隆を使います。
九鬼嘉隆は、伊勢志摩の海賊衆の棟梁で、信長の水軍創設に尽力しました。

信長は、焙烙玉対策をさせます。村上水軍に対峙した織田軍団の船は、鉄板に囲まれた軍船・・・鉄板装甲軍船でした。
この船を6艘建造したと言われています。
村上水軍の焙烙攻撃も歯が立たず・・・
さらに、機動力対策も・・・!!
大砲を使って狙い撃ち・・・村上水軍は敗退を余儀なくされたのでした。

信長は、村上水軍の海軍力を傘下に入れようと画策します。
それを仰せつかったのが秀吉。。。

「私事を捨てて分別を持って東方に忠節を尽くしてほしい」

書状が武吉に届きます。

しかし、武吉は海の民のプライドを持って断固拒否!!
信長と距離を取ります。
天下が秀吉に移って・・・
秀吉は、毛利輝元と和睦を結び、四国・九州を平定したことによって、四方を秀吉勢力に囲まれてしまった武吉。。。
追い詰められ・・・秀吉は止めの一撃として・・・海賊停止令を出します。
そこには海賊の取り締まり・・・さらに船頭や漁師・・・船を操れる者を地頭や代官がリストアップし、秀吉に報告させたのです。
海賊の自立性・自治を全部否定するものでした。

この海賊停止令を機に、通行料の徴収も禁止され、海賊たちは自立して生きる術を失っていくのです。
村上海賊衆は歴史の表舞台から忘れ去られ、姿を消していくことになるのです。
1600年、関ヶ原の戦いで毛利が破れ、山口県の周防に移住させられます。
そこに村上武吉の墓がありました。

”誇りを忘れるな!!”

1604年村上武吉死去、享年72歳でした。
ここに・・・海賊たちの時代は終わりを告げたのでした。

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もう一つの幕末維新②です。

西欧列強から日本を守るべく、果敢に海を渡ったスーパー留学生がいました。
人呼んで長州ファイブ。
平均年齢25歳の若者たちでした。
彼等は近代日本の礎となるべく・・・

「生きた器械となって日本を救うため洋行する」

動乱の幕末にあって、イギリスに密航留学を企て。。。
これがのちの明治国家建設の原動力となっていきます。

メンバーは、
伊藤俊輔(博文)=総理大臣
井上聞多(馨)=外務卿
山尾庸三=工業の父
野村弥吉=鉄道の父
遠藤謹助=造幣の父
日本の近代化を担うのです。

彼等は、最初の近代日本人であり国際人でした。
彼らが学んだことが、明治国家の礎となり・・・いなければ近代日本は変わっていたかもしれません。

1863年12月12日・・・
イギリス公使館焼き討ち事件で。。。
「命を賭してでもいてきを排除し、国家の御楯となる。」by聞多。
そんな長州ファイブがどうして留学したのでしょうか???

幕府が1858年にアメリカと結んだ日米修好通商条約。。。
その内容は不平等なものでした。
攘夷の声が高まりました。

そんななか・・・佐久間象山は・・・
「攘夷は到底不可能
 異国に学び、軍備を充実させる」
と主張します。

攘夷を諦め、外国に学ぶことを説き。。。
それに感化されたのが、長州藩・井上聞多でした。

井上は、攘夷を実行するために・・・外国に学び軍備を充実させようと・・・留学が不可欠だと思い始めます。
リアリストだったことが大きな要素となりました。
そして・・・長州ファイブによる留学が・・・
しかし、鎖国で留学渡航はできず・・・見つかれば死罪!!
そこで5人は、密航を決意しました。

資金を捻出するために・・・
長州藩の御用金を担保に商人から5000両を借りました。
主君にも内緒で・・・!!

あのイギリスのマセソン商会に依頼し・・・
しかし、どうしてイギリス側は長州ファイブを手助けしたのでしょうか?

幕末の日英関係・・・
当時日本はイギリスの倍以上の人口があって、加えて金と銀の保有量が世界一の国でした。
植民地政策の維持費が大変だったイギリスは、貿易で利益をあげる方が安全で安上がりだと考えたのです。

当時の貿易は幕府に厳しく管理されていました。
イギリスは、豊かな西国・長州藩と結びつくことで自由貿易を画策したのです。
削者隻を持っている長州藩に恩を売っておくのはメリットとなる・・・!!
5人は、生きた器械となるまでは決して帰らない!!と、武士の誇りであった髷を落とし。。。
命を賭けた覚悟の留学が始まったのでした。

しかし・・・イギリス留学で、彼らの考え方は根底から覆されます。

「攘夷の念如きは、跡形もなく消え去った」by聞多。

上海に寄港した5人・・・
ここで彼らが目にしたのは・・・イギリスの進出によって見る影もない大国・清の姿でした。
我が物顔で西洋人が町を歩き、こき使われる上海の人々、港では・・・軍艦、蒸気船・・・100艘以上を目の当たりにするのでした。

”これがすべて襲い来ると思うと防御のしようがない
 海軍を我が国に興して軍備を整えないと、遂に国を滅ぼす!!”

カルチャーショックを受けるのでした。
しかし・・・攘夷思想は完全には払拭できません。
軍事技術や文明力を学べば、攘夷も可能ではないか?と、思っていました。
西洋列強の脅威を痛感します。

食べ物はビスケットと塩漬けの肉・・・
水夫同様の扱いを受け、デッキを掃除させられる。。。
不満を言おうにも、英語が解らない。。。

4か月の過酷な航海を経て・・・1863年11月4日イギリス・ロンドンに到着します。

彼らの留学生活は???
ロンドン大学に在籍し、科学・物理学・鉱物学・・・日本ではなじみのなかった理系を選択していました。
ロンドン大学は、当時の最高技術の化学を学べる名門でした。
ろくに英語も話せない5人がこの大学に入れたのは・・・
科学者アレキサンダー・ウィリアムソンのおかげです。
彼の家で、ホームステイをし・・・決して裕福ではなかったウィリアムソンでしたが、5人の世話をしてくれます。

その日々は、若者たちにとってかけがえのない日々でした。
休日には社会見学・・・国会・博物館・造船所などを案内してくれます。

5人は近代国家イギリスの繁栄を目の当たりにし・・・
”鉄道は諸方に快走し、工場から噴き出る黒煙は天にたなびき、
 人々の往来も激しい。。。
 その繁華の盛況に茫然・・・
 攘夷の念如きは跡形もなく消え去った”
命を賭けて海を渡った5人には、もう攘夷の文字はありませんでした。

彼らの2年後には、薩摩から薩摩スチューデントがやってきます。
一緒に行動するようになって・・・
日本で殺し合っている二藩が、ロンドンでは一緒に行動しているという現実。。。
薩長同盟を先取りして・・・明治国家を先取りしていたのです。
留学したことによって、自分が”日本人である”と、強烈に意識し始めていました。
一番最初に日本人となった若者でした。

しかし・・・日本では・・・真逆のことが起こっていました。
1863年5月10日、長州藩外国船砲撃事件勃発!!
西欧列強との緊張が、一気に高まります。
彼らの心境は複雑でした。

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「どんなに海軍の学問を研究しても、自分の国が滅びれば、全く無益である。
 伊藤と2人で帰国して、藩主を説得し、攘夷を変じて開国の道を取らせる。」と、決心した井上。
「3人は残って、初志貫徹せよ。」
万が一、自分達が斃れた時には・・・と、後を託しました。

1864年6月、密かに帰国します。
この頃・・・諸国は長州に対して臨戦態勢に入っていました。
そこで二人は・・・駐日イギリス公使ラザフォード・オールコックの元を訪ねます。
名もなき二人の若者が、戦争相手国責任者に直談判しました。
「長州藩が行った無謀な外国船砲撃は、子供が大人に石を投げるのと同じこと。
 大人である外国が、四国連合して子供を攻めるのはいかがなものか?
 必ず藩主を説得し攘夷を止めさせ、開国主義へと方針転換させるので、攻撃をやめてほしい。」

以外にもオールコックは、猶予を与えてくれました。
そして、2週間後。。。
藩主・毛利隆親に自分が見てきた西欧列強の力を話します。
「西洋では君主から市民まで、皆、一致協力して富国の為に努め、人民のための行政法律が整っている。
 これこそが、文明である。
 こうした国々と戦って、勝てるわけがない!!
 領土や賠償金を奪われ、国を滅ぼすだけである。」

藩主にたてつき、攘夷の無謀さを訴える聞多。
しかし、聞多たちは、売国奴!!と、蔑まれます。
が・・・1か月後・・・7月19日禁門の変勃発!!
御所に向けて長州が発砲した事件です。

幕府は長州を朝敵とみなし、長州征伐が始まりました。
数十万の幕府軍に取り囲まれた長州・・・列強と幕府・・・苦境に立たされた長州・・・
毛利隆親は、止む無く諸外国と交渉するように井上に命令するのでした。

藩主の場当たり的な態度に・・・
「和議の方針を、今後一切変えることのないように・・・!!」
藩主は、これを確約しました。

しかし8月5日・・・和議を待たずして・・・下関戦争開戦。
圧倒的な軍事力の前に、長州軍は完敗したのでした。
和平交渉は、高杉晋作を中心に、伊藤・井上が行い・・・
外国の信頼を得て、下関戦争が終息します。

この事が・・・もしかすると。。。長州藩だけでなく、日本を救ったかもしれません。
下関戦争を足掛かりに、大坂を攻め落とし、京都を陥れる恐るべき作戦があったからです。
あっさりと下関戦争が終わり・・・大規模な戦争に発展しなかった・・・
これが、大規模な戦争になっていたら・・・
日本の近代化の在り方は、大きく変わっていたかもしれません。

実は・・・イギリスに残った3人も、奔走していました。
外交官レジナルド・ラッセルと接触し、ラッセルに長州藩が外国船を攻撃したことについて・・・
「長州藩は、幕府と諸外国を不仲にし、幕府の権力を弱体化させ、朝廷に権力を取り戻そうと望んでいる。
 朝廷と新たな条約を結べば、自由に貿易できるようになるであろう。」
と、釈明しています。

最終的には、天皇に権力を取り戻し、日本に平和と秩序をもらたらすこと・・・
幕府が間違っているということをロビー活動したのです。
この影響を受けて・・・政府も攻撃を止めるように命令したのでは???と言われています。
二手に分かれた長州ファイブのおかげで、日本の危機は救われたのでした。

下関戦争から4年後・・・時代は明治。
帰国した長州ファイブは、新政府に出仕し、新しい国づくりを始めました。
「文物 制度という形ばかりが進歩しても、人民は疲弊するだけで国力は減退する
 民力という実をはぐくむことが先決である。」by聞多

民力・・・新しい日本人をつくることを目指しました。
土台作りをしたのは伊藤博文。
大日本帝国憲法を制定し・・・そこには近代国家の権利と義務が書かれてありました。
井上馨は、鹿鳴館外交を行います。
国民の文明化をめざし、欧化政策を勧めました。
今までの日本にない国民に脱皮することで、日本がさらに大きな発達を遂げると考えたのです。

そして・・・イギリスに残っていた3人も。。。
帰国後、民力を高める改革を行います。

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鉄道大国日本の原点を作ったのは井上勝(野村弥吉)。
鉄道事業を統括する地位についた井上は、明治5年初めての鉄道・・・新橋横浜間を開通させました。
当時歩いて1日かかっていたところを、1時間で行くことが出来るようになり。。。
鉄道網の父と呼ばれるようになりました。

大阪の夏の風物詩・・・造幣局の桜の通り抜け・・・
その生みの親が、遠藤謹助です。
日本独自の造幣が目標でした。
遠藤が勤め出したころの造幣局は・・・西洋人だらけ。。。
貨幣技術は、機械から技術まで・・・西洋人に頼っていたのです。
給料が破格に違う!!
お雇い外国人は、安い人でも200円ぐらい給料をもらっていたのに、日本人職員は5円ほどだったのです。
明治14年造幣局長に就任した遠藤は・・・日本経済の根幹となる貨幣経済の鋳造を。、日本人たちの手だけで行います。
こうして明治の日本経済が支えられていったのでした。

世界でも有数の日本の造船技術を普及させたのは、工業の父と呼ばれた山尾庸三です。
しかし・・・単に工業技術を伝えただけではなく・・・

「工業無くも 人を作らば その人 工業を見出すべし」

人材育成にも力を注ぎます。
工部大学校(東京大学工学部)、工部美術学校・・・色々な学校を設立。
その取り組みの中には・・・盲動教育あり、明治13年楽善会訓盲院を設立。
健常者と一緒に働く人々を・・・文明開化の為に働きました。

命を賭けた長州ファイブは、技術や制度だけではなく、人々の民力を高める改革を行い。。。
今日の日本の礎となりました。
新しい国家をつくるために、民力を利用したのはかつてなく。。。
日本の近代に、ひとりとして欠くことのできない役割を果たしたのです。
長州ファイブは幕末留学生の先駆けであり、このおかげで今の日本があるのです。

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井上馨 開明的ナショナリズム

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