日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: 追跡者 ザ・プロファイラー

独裁者アドルフ・ヒトラー・・・彼には唯一心を許した正式な妻がいました。
その名はエヴァ・ブラウン・・・ヒトラーより23歳年下の女性です。
しかし、その存在はドイツ国民に知らされることはありませんでした。
秘密の関係を続けたエヴァとヒトラー・・・二人が結婚式を挙げたのは、共に命を絶つ前日でした。
独裁者アドルフ・ヒトラーが愛した一人の女性・・・エヴァ・ブラウン。
幼いころから自由奔放、政治には関心がなく、ハリウッド女優になることを夢見ていました。
やがてヒトラーと恋人となると、エヴァはヒトラーが用意した豪華な山荘で暮らしました。
ファッションを楽しみ、大好きな動物を飼い、気ままに過ごす日々・・・
第二次世界大戦が勃発し、ドイツ国内が戦火に包まれる中でも、身の危険や貧困からは無縁の暮らしでした。
ヒトラーをはじめ、ナチスドイツの高官と他愛もない会話で周囲を和ませたエヴァ・・・
多くの召使に囲まれ、山荘の女主人と称しました。
しかし、その裏では家族との確執を抱えていました。
ヒトラーの過激な言動に反発し、別れを勧める父・・・
ナチスドイツの反ユダヤ政策に反対する姉・・・
そしてヒトラーには常に何人もの女性の影が付きまといました。
その一方でエヴァの存在は極秘・・・山荘という鳥かごに閉じ込められていました。
しかし、ナチスドイツが滅びる2か月前・・・
エヴァは自ら鳥かごを出てヒトラーがいる戦火のベルリンに向かいました。

エヴァ・ブラウンとヒトラーが出会ったのは1929年。
17歳のエヴァは、ミュンヘンにある写真館で働いていました。
そこへ店主に連れられて一人の男がやってきました。

「おかしな口ひげを生やし、大きなフェルトの帽子をかぶった中年紳士が入ってきたの
 私の足を見つめていて、あまりいい気がしなかったわ」

「君は、あの方が誰だかわからないのか?」

「さあ・・・」

この男こそ、アドルフ・ヒトラー。
当時40歳、急激に勢力を伸ばしていたナチ党の党首・・・すでにメディアを賑わす有名人でした。
エヴァにとっては、この中年男の初対面の印象はよくありませんでした。
しかし、後にエヴァとヒトラーは恋人同士になします。
どうして惹かれていったのでしょうか?

エヴァ・ブラウンは、1912年、ドイツ・ミュンヘンの中流家庭で誕生します。
エヴァは三姉妹の次女で、教員だった父のフリードリヒと母フランツィスカの元、娘たちは厳しく教育されました。
学校の成績は優秀でしたが、いたずら好きの問題児・・・教師たちに手を焼かせる生徒でした。
エヴァは思春期を迎えると、父の監視は益々厳しくなります。
父は娘たちの手紙すべてに目を通します。
門限を設けて夜10時には床につくように・・・。
1928年、16歳になるとカトリック修道会の女学院に入学させ、模範的な淑女に育てようとしました。
しかし、この頃エヴァが夢中になったのは恋愛小説と映画。
特に学芸会では演劇に熱心に取り組みます。
いつしか、ハリウッド女優として成功することを夢見るようになっていました。

教師の父親が一番重要視していたのは、娘たちに一流の専門教育を受けさせること・・・。
しかし、エヴァ達娘は、反抗的でした。
17歳になったエヴァは、近所の写真館で働き始めます。
これが、彼女の運命を大きく変えることとなります。

この頃ドイツは、第1次世界大戦で敗戦し荒廃していました。
戦争を再び起こさないように軍備を制限され、戦後賠償で経済はどん底・・・町には失業者が溢れていました。
そんな時、経済復興と失業問題の解決を掲げ、支持を集めたのがヒトラー率いるナチ党でした。
エヴァが働く写真館の店主は、熱烈なナチ党員・・・ヒトラーの専属写真家も務めていたため、店はヒトラーの写真で埋め尽くされていました。
ヒトラーと出会った夜、エヴァは父に聞いてみました。

「アドルフ・ヒトラーってどんな人?」

「ヒトラー?
 あいつは自分が万能だと思い上がっている青二才だ!!」

父親はもちろん心配していました。
なぜなら、当時のナチ党は、極めて暴力的で殺人を犯すこともありました。
しかし、エヴァは、父への反抗としてヒトラーに近づきました。
一方、ヒトラーは、エヴァを気に入りました。

「彼女は私を和ませるんだ」

ヒトラーは、周りを側近や気の置けない人で固める傾向にありました。
そういった狭い交友関係の中で女性も選んでしまうのです。
その後、ヒトラーは写真館を訪れるたびにエヴァへプレゼントを持ってくるようになりました。

「エヴァさん・・・オペラに招待してもよろしいですかな?」

23歳年上の男からの紳士的な誘いに魅了されていったエヴァ・・・
出会いから2年がたったころには姉にこう打ち明けています。

「絶対にあなたもヒトラーに会うべき!
 会えばあの人のイメージも変わるから・・・!!」

ヒトラーの女性に対するマナーには、うっとりとするものがありました。
夢中になってしまったのは、エヴァからでした。
しかし、この頃のヒトラーには特別に親密な女性がいました。
姪のゲリ・ラウバル(23歳)です。
ヒトラーの姉の娘で、エヴァより4歳年上でした。
ヒトラーとゲリは、2年の同居生活を送り、叔父と姪を超えた深い関係だったといいます。

「私は姪のゲリを愛している
 だが、結婚は出来ない」

タイプとしては、エヴァとおなじように非常に快活で行動的な女性でした。
そんな中、ヒトラーとエヴァが急速に近づく事件が起こります。
1931年ゲリが自ら命を絶ちました。
一説ではヒトラーの束縛が原因ともいわれています。
ヒトラーは憔悴しきっていました。
ゲリを失ってしまったショックがあまりにも大きかったのです。
それを見たエヴァは・・・

「ヒトラーにとってあの女は、きっと特別な人だったのね」

この直後、エヴァは思いがけない行動に出ます。
髪型や風貌、話し方まで自分をゲリそっくりに真似たのです。
いつしか二人は恋人同士になりました。
エヴァ19歳、ヒトラー42歳の時でした。

自ら望んでヒトラーの恋人となったエヴァ・ブラウン・・・しかし、わずか2年の間に2度も自殺を企てます。
何が原因だったのでしょうか?
エヴァがヒトラーと出会って3年後、1932年7月、ヒトラー率いるナチ党は、ドイツ国会選挙で第1党に躍進します。
ますます政治活動に力を入れるヒトラー・・・
エヴァをミュンヘンに残し、ドイツ中を飛び回ります。
以前より会う時間は減っても二人の関係は続いていました。
当時ヒトラーは、側近にこう漏らしています。

「私はミュンヘンにいる一人の娘を愛している」

しかし、エヴァの存在は、限られた一部の人だけの秘密でした。
それは、ヒトラーの結婚に対する考えからでした。

「私には既に花嫁がいる
 私はドイツと結婚したのだ!」

独身であることで、女性の支持が得られるという考え方がヒトラーにはありました。
結局最後まで、ヒトラーはエヴァと言う存在を国民の目からひた隠しにしました。
ヒトラーにとっては、女性よりも政治の方が大事だったのです。

この時、エヴァ・ブラウンは20歳・・・ミュンヘンの実家でヒトラーからの連絡を待つだけの生活でした。
そんな中、ある事件を引き起こします。
エヴァは、ヒトラーに別れの手紙を投函・・・そして・・・銃弾は首をかすめ、一命をとりとめました。
知らせを聞いたヒトラーは、すぐに病院へ駆けつけました。
そして医師にこうただしました。
 
「彼女は本気で自殺しようとしていたのか・・・??」

「彼女は心臓を狙っていましたが、なんとか助けられました」

エヴァは、ヒトラーとの関係が終わるのではないかと深く絶望していました。
これからは、この娘を気にかけてやらなければ・・・
2度とこんなことが起きてはならない・・・
ヒトラーは、いつでも連絡が取れるようエヴァの部屋に電話を設置しました。
自殺未遂の翌年・・・1933年1月にヒトラーは首相に就任。
一層政局に謀殺されていきます。
21歳の誕生日を迎えたエヴァの元には、ヒトラーから指輪やネックレス、ブレスレットが届きました。
しかし、肝心のヒトラー本人は現れませんでした。

「彼が殊勝になったところで、私に何の関係があるの??
 彼に会えない日が増えるだけだわ」

翌年ヒトラーは、ナチ党の党首・首相・大統領と全ての権限を持つ総統に就任し、独裁色を強めていきます。
武力を背景に、反対勢力を排除していきます。
しかし、エヴァは、ヒトラーの政治には関心を示さず、生涯ナチ党に入りませんでした。
そんなエヴァにとっての最大の関心ごとは、ヒトラーの周りの女性たちでした。
絶大な人気を誇るヒトラーの周りには、有名女優や歌手、映画監督などが集まりました。
青年時代は画家志望だったヒトラーは、芸術的才能を持つ女性たちと積極的に触れ合います。
それに対して、エヴァの存在はあくまで秘密にされ、公の行事に参加する事さえ許されませんでした。
エヴァは、ヒトラーに寄ってくる女性たちに、激しい嫉妬心を抱いていたといいます。
ヒトラーは、多くの著名な女性と出会っては、彼女たちの機嫌を取るため贈り物までしていました。
しかし、エヴァは、自分がとても難しい立場にいることも自覚していて、すべてを受け入れるしかありませんでした。

エヴァの23歳の日記には・・・ヒトラーと自分の関係が・・・その時々の気持ちが書かれています。

「昨日は思いがけなく彼が来て、うっとりとするような夜になったわ」

それから2週間後には・・・

「彼はもう、14日間も来ていない
 私は彼がなぜ怒っているのかわからない」

さらに12日後には・・・

「今は政治的にいろんなことが起きているから彼が私に興味を示さないのは当然のことよ
 ただ静かに待っていればいいのよ」

この日記が書かれた1935年3月16日、ヒトラーは第1次世界大戦後に禁止されていたドイツの再軍備を宣言しました。

エヴァの日記に書かれているのは、ありふれた日常ばかり・・・
国がひっくり返って、世界が崩壊するかもしれない中で、エヴァがはヒトラーが自分のために時間があるかどうかという観点からしか見ていませんでした。

翌月のエヴァの日記には・・・

「愛なんてものは彼の計画から外されてしまったんだわ」

そしてエヴァは再び事件を起こします。
自宅で大量の睡眠薬を飲み、2度目の自殺を図ったのです。

「親愛なる神様、今日中に彼と話すことができるようにお力をお貸しください
 明日では遅いのです
 私は35錠飲むことに決めました」

しかし、姉がすぐに発見して手当てをしたため、命はとりとめました。
この時姉は、エヴァの自殺の原因を両親に知られるのを恐れ、日記の一部を破りとりました。
エヴァの日記は後になくなりますが、姉が破った4か月分だけが偶然残りました。
再び自殺を図ったエヴァに対し、ヒトラーは驚くとともに心打たれたといいます。
ヒトラーは、自分に絶対的な忠誠心を誓った仲間に非常に温情をかけるような面があります。
自分の命をかけてまで、自分に忠誠を示してくれたというのが、ヒトラーの気持ちを動かしました。
2度目の自殺未遂から3か月後、ヒトラーは公式行事にエヴァも参加することを許しました。

1935年秋、ニュルンベルク党大会・・・ヒトラーのもとに10万もの人が集まるのをエヴァは初めて目の当たりにしました。
この党大会中にヒトラーはある重要な法案を可決しました。
ニュルンベルク法と呼ばれるユダヤ人の市民権を奪う人種差別法です。
エヴァは日記にこうつづっています。

「地球でもっとも偉大な人の恋人の私」

エヴァ・ブラウン23歳の秋のことでした。

エヴァとヒトラーが出会って6年が経った1935年、父・フリードリヒはヒトラーに手紙を送ろうとしました。
恋人とはいえ、秘密で結婚もしようとしないというエヴァとの中途半端な関係を心配したからです。
「子供達は結婚して初めて両親のもとから離れるもの」
これ以上付き合うなら、エヴァと結婚してほしいと遠回しに迫っています。
この手紙はヒトラーに届けられる前に、エヴァに見つかり破り捨てられてしまいます。
しかし、父が手紙の写しを持っていたため、どんな内容だったのかわかっています。

もちろん、エヴァは結婚したかったのです。
しかし、自分の立場を受け入れ、一度たりともヒトラーの邪魔をしようとはしませんでした。
常にヒトラーの言われたように動きました。
だから、あのような関係が長く続いたのです。
ミュンヘン近郊・・・自然に囲まれたオーバーザルツベルクの山荘・・・ここを気に入ったヒトラーは、山荘を買い取って改築しました。
改築が完成すると、エヴァ・ブラウンは実家から出て山荘で暮らすようになります。
この時、24歳・・・山荘には巨大な大広間をはじめ、30以上の部屋があり、最高級の木材などが使われていました。
人里離れた山荘は、関係を公にできない二人にとって絶好の隠れ家でした。
この山荘で、エヴァに仕えていた女性の証言が残っています。

「”ハッキリ言っておくわ”と初日に言われたの
 ”あれがヒトラーの部屋で、こっちがエヴァの部屋、利口ならば2人の関係はわかるわね
 あともうひとつ
 何を見ても、何が起こっても、絶対口外したり、書き留めたりしないこと
 エヴァの存在は極秘よ”とね
 だから、2人がどこまで進展しているのかは分からなかった」

エヴァとヒトラーは、人前では仲のいい友人として振る舞い、決して親密な態度は見せませんでした。
そんな2人が楽しみにしていたのが夜の映画鑑賞です。
その日何を見るか決めるのはエヴァ、特に好きだったのはハリウッド映画「風と共に去りぬ」でした。
エヴァは、主役のスカーレット・オハラを真似た衣装を着て、映画の一シーンを再現するほどお気に入りでした。

エヴァが山荘に移って3年が経った1939年、第2次世界大戦勃発。
9月、ドイツ軍はポーランドに侵攻。
戦争が始まると、山荘は総統大本営となりました。
ヒトラーは、ここで日夜作戦会議を開いて戦略を立てました。

戦争中でも、エヴァの暮らしにはほとんど変わりはありませんでした。
しかし・・・エヴァ自身にはある変化が起きていました。
ヒトラーが山荘を離れるとエヴァはそれを待っていたかのようにいそいそとパーティーの準備を始めるようになります。

「それまでおとなしくしていた彼女が一瞬で豹変した
 すぐに様々なお楽しみの準備が始まった
 はめを外し、まるで子供だった」

さらに、エヴァは家族も山荘に呼んで一緒に優雅な生活を送るようになりました。
そこには、ヒトラーをかつての青二才と嫌っていたフリードリヒの姿もありました。
この頃には、父もナチ党に入党しています。
いつしかエヴァは、自らを山荘の女主人と名乗るようになっていました。

開戦当初、ヒトラー率いるドイツ軍は快進撃を続け、1940年6月にはパリを占領するなどヨーロッパ中を震え上がらせました。
戦争を拡大する裏で、ナチスは数百万人のユダヤ人を強制収容所に送ります。
こうしたユダヤ人迫害など、ヒトラーの政策を批判していたのは姉のルイゼでした。
山荘で公然とヒトラーを批判する姉に対して、エヴァはこう言いました。

「総統が、あなたを強制収容所送りにしても私は助けないわよ!」

第2次世界大戦末期の1945年4月30日・・・
ナチスドイツの総統官邸でエヴァはヒトラーと共に命を絶ちました。
一体どうして・・・??
1944年、ヒトラー率いるナチスに開戦当初の勢いはありませんでした。
6月には連合軍がノルマンディ上陸作戦に成功。
ドイツ国内では市街地への空襲が激化!!
山荘にいたエヴァは、故郷ミュンヘンから立ち上る炎をじっと見つめていたといいます。
更に翌月には、ヒトラー自身に衝撃的な事件が起こります。
1944年7月20日、ヒトラー暗殺未遂事件・・・会議中、ヒトラーの傍に置かれていたカバンが爆発・・・戦争の敗北を悟った側近たちのクーデターでした。
この爆発で4人が命を落としたものの、ヒトラーは奇跡的に軽傷を負っただけで済みました。
この時、エヴァのもとにヒトラーからあるものが届けられました。
爆発の衝撃でボロボロになった軍服です。
エヴァはヒトラーにこう返事を書きました。

「あなたの身に万一のことがあったら、私は生きていくことができません
 たとえ死んでもあなたについていくと誓ってまいりました
 あなたを愛することが私の全てです・・・あなたのエヴァ」

1944年10月、エヴァは細かい遺書を書きます。
遺書には現金や車、買いそろえた毛皮のコートやじゅうたんなど、家族や友人の誰に渡すか・・・事細かに記されていました。

1945年1月、連合軍は首都ベルリンに迫っていました。
ヒトラーは、総統官邸の地下に作られた地下壕に籠り、ベルリン防衛を指揮。
エヴァに対しては、戦火から遠く離れた山荘に留まるように指示していました。
しかし、3月7日、ベルリンの戦火を抜けて走る一台の車が・・・
エヴァ・ブラウンでした。
ヒトラーは、彼女が言いつけに背いてやってきたことを心から喜んだといいます。
その後も連合軍の猛攻は続き、地下壕の側近たちにも不安が募っていきます。
しかし、エヴァは、地下壕に家具一式を運び込んで、美しく着飾って、山荘にいるのと同じように過ごしました。
エヴァは、ヒトラーが部下の前で弱みを見せることを許さず、時には軍服の乱れを注意することもありました。

「そんな薄汚れた格好で歩き回ってはいけないわ」

1945年4月、連合軍は総統官邸の目前まで迫ってきました。

「1日ごと、いや1時間ごとに最後が私たちに近づいてきています
 総統は、この戦争の全ての希望を失いました
 けれど、私たちは生きて捕らわれるつもりはありません」

敗戦が濃厚となり、逃亡する兵士が続出・・・
その中にエヴァの妹の夫・・・義理の弟もいました。
逃亡先で捕まった義理の弟には、処刑命令が下りました。
しかし、エヴァは救いの手を差し伸べませんでした。
すでに地下壕は絶望的な状況・・・連合軍がいつ押し寄せてもおかしくありませんでした。
そして、4月29日未明・・・
エヴァは、ヒトラーと結婚式をあげようとしていました。
写真館の出会いから16年が経っていました。
エヴァは、光沢を帯びたロングドレスに身を包み、美しい宝石で着飾ります。
式は、ナチスドイツの婚姻条例に従ってベルリン市役員立会いの下で行われました。
結婚証明書に署名する際、エヴァはブラウンと書きそうになり、慌ててエヴァ・ヒトラーと書き直しました。
朝になるとエヴァは使用人にこう言います。

「私のことをヒトラー夫人と呼んでもいいのよ」

結婚式の翌日・・・1945年4月30日午後3時・・・
ヒトラー夫妻はそろって部屋へと入っていきました。
そして銃声が・・・こうして、エヴァ・ヒトラー33年の生涯に幕を下ろしました。

2人の遺体は地下壕の外に運び出され、焼却されました。
2日後ベルリンが陥落し、ドイツは敗戦を迎えます。

 
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疾きこと風の如く 
   徐かなること林の如く 
侵掠すること火の如く
   動かざること山の如し

風林火山の旗を掲げ、戦国最強ともいわれる武将・武田信玄
生涯60戦以上してわずか2敗。
圧倒的な強さの裏に、人知れぬ苦しみが隠されていました。
人呼んで”甲斐の虎!!”
騎馬軍団を率いて、颯爽と戦場を駆け巡った信玄。
織田信長も畏れたといわれるお馴染みの信玄の姿・・・
singen

しかし、近年の研究によると、きゃしゃな体つきにほっそりとした顔、この肖像画が本物の信玄とされています。
豪胆なイメージと違い、常にストレスを抱えていたという信玄。
そんな悩み多き人生を思わせる姿です。

信玄は名門・武田家の嫡男として誕生。
しかし、跡目をめぐり実の父と対立。
父を追放してしまいます。
武田家の当主となっても年上の重臣たちは言うことを聞かず、信玄は酒に溺れる日々・・・。

ようやく家臣をまとめ上げ、領地獲得に奮闘するも、上杉謙信を始め強力なライバルが立ちふさがります。
激闘を繰り返し、家臣や家族を失います。
それでも信玄は、己の野望に向かって突き進みます。

「都に武田の旗を立てる」

不治の病に侵される中、最後の遠征へ・・・!!

甲斐の虎と恐れられた武将、武田信玄。
その生涯が記された甲陽軍鑑にはこう書かれています。
20歳で実父を追放、そして武田家当主となります。
どうして父を追放したのでしょうか?
1521年、武田晴信(信玄)誕生。
父の信虎は、この地を治める大名、母は大井夫人と呼ばれる武家の娘でした。
母は竹だけの嫡男である晴信の教育に熱心でした。
幼い晴信のために僧侶を招き、和歌、兵法を学ばせたといいます。
その甲斐あって、晴信は賢い子に成長しました。

ある時、晴信は大量の蛤の貝殻を持ってこさせました。
家臣に貝殻がいくつあるか当てさせます。
家臣たちは1万とも、2万とも・・・実際は、4000個でした。
意外そうな顔をする家臣たちに晴信は言います。

「5000ほど兵がいれば、どんなことでもできる」

実際は、5000ほどしかいなくても、1万や2万に思うこともある・・・
少数の兵でもうまく使えば勝てるという意味でした。
しかし、晴信の聡明さを父は嫌ったといいます。
信虎は、一代で甲斐を平定した猛将です。
戦いに長け、家臣たちを力で従わせていました。
己の力を信じ、戦で力を発揮してきた信虎にとって、晴信は屁理屈ばかりのこしぬけに見えたのかもしれません。

ある時晴信は、信虎の持つ名馬が欲しいと願い出ました。
すると信虎は、
「若いお前があの馬に乗るのはまだ早い
 来年14歳になったら元服させる
その時に、武田家の宝物と一緒に譲るつもりだ」
しかし、晴信は、
「宝物は家督相続の時にもちろん頂戴します
 しかし馬は、今から練習しておけば父上が御出陣の際にお供をして役に立つことができます」
自分が家督を継ぐことがすでに決まっているかのようなこの物言いに、信虎は激怒!!
「そんな生意気をいうなら、武田の家督は弟の次郎に相続させる」

1536年、晴信は16歳で初陣を飾ります。
隣国・信濃での領地争いでした。
その時晴信は一計を案じました。
直ちに攻め入ろうとはせず、有利になる時を待ったのです。
晴信の狙いは、正月でした。
正月を迎えると、兵士の多くは家に帰ってしまい城は手薄になりました。
晴信は楽々と城攻めに成功!!
意気揚々と引き上げ、戦果を報告した晴信・・・しかし、父は、
「から城を落としただけだ!!」
晴信の手柄を、断固として認めませんでした。

そしてある日、親子の対立を決定的にさせる出来事が起こります。
父・信虎は、杯を弟に与えたのです。
兄の晴信を差し置いて、家臣たちの前で弟を武田家の跡取りとして扱ったのです。
重臣の居並ぶ前で、信玄ではなく弟の信繁に杯を渡すというのは、家督相続予定者を信玄から信繁に変えるという意思表示・・・大変重い意味がありました。
不安に苛まれる晴信・・・しかし、武田の家臣の空気は微妙に変わり始めていました。

この頃甲斐では台風や洪水などの災害が続き、人々は飢餓に苦しんでいました。
しかし、信虎は領民の救済には目もくれず、領土拡大を図って隣国との戦に明け暮れていたのです。
そのため表立って逆らえないものの大勢が不満を募らせていました。

信虎は悪逆非道であり 人民も牛馬も ともに悲しみ悩んでいる

信虎への不満が充満する中、ある人物が晴信を訪れます。
重臣・板垣信方です。
板垣は、晴信を幼いころから教育した武田家の重臣で晴信を誰よりも知る人物です。
板垣は晴信に進言します。

「信虎様には、速やかにご隠居いただき、あなた様に跡を継いでいただくことが、一番の得策にございます」

この自分が父を隠居させるとは・・・親への忠義に反する行為・・・迷った挙句に晴信は、

「困窮する民を救いたい」

と、自分のためではなくあくまでも甲斐のために動こう・・・晴信は密かにクーデターを決意しました。

1541年、20歳の時、絶好の機会が訪れます。
父・信虎が、駿河の今川義元をたずね、甲斐を留守にしたのです。
もともと武田家と今川家は、領地を争う敵同士でした。
しかし、今川と戦うのは不利と考えた信虎は、関係改善を図ります。
今川義元の紹介した娘を晴信の正妻とします。
これが功を奏し、武田と今川は後に同盟を結ぶこととなりました。
信虎は駿河を訪問したのは今川との親睦を深めるためでした。
この機を逃さず、晴信は甲斐と駿河の国境を封鎖!!
信虎が帰って来られないようにしました。
僅かな兵しか従えていなかった信虎は、成す術もありませんでした。
さらに晴信は今川と密約・・・信虎を隠居させて今川に置いておくというものでした。
晴信が信虎の追放に成功します。
家督を継ぎ、晴れて武田家の当主となりました。
20歳の時でした。

20歳で甲斐武田家の当主となった晴信は、それから10年、領土を2倍以上に広げます。
しかし、そこに至るまでには様々な壁、そしてそれを乗り越えるための工夫がありました。
父を追放した当初、晴信に従わない家臣が多くいました。
それは、甲斐が山国で盆地が多いことも原因でした。
当時は盆地ごとに有力な家臣が地域を治めていました。
山で遮られて、他の地域との交流が少ないため、独立心が強かったのです。
武力で従わせてきた信虎がいなくなったので、家臣たちは好き勝手に行動を始めます。

通行税を巻き上げたり、所領を配下の者に分配したり・・・

”全てのことが思うようにいかず迷惑している”
 
そんな家臣たちに嫌気がさした晴信は、責任を投げ出してしまいます。
昼夜を問わず、若い家臣や侍女を集めて酒盛りや歌会を・・・
この晴信の行いに心を痛めたのは、晴信に信虎の追放を勧めた板垣信方でした。

”信虎さまは、非道の行いが過ぎた故追放されました
 今のお館様は、あまりにも我儘勝手で信虎様よりも悪しき大将にございます
 今の言葉に腹が立ったなら、自分を斬ってください” 

当時交代したばかりの信玄政権の初期を全面的に支えていたのは板垣でした。
板垣に対する信頼感は、たいへん高かったのです。
板垣の言葉に心を打たれた晴信は、家臣たちに自分をリーダーと認めさせるには、行動しかない・・・
戦場にその身を投じていきます。

晴信は諏訪の攻略に・・・この地を守る諏訪大社の庇護が欲しかったのだといわれています。
諏訪大社は、諸国に知られた戦神・・・武将たちは、この諏訪大社に対する信仰を持っている人が多くいました。
諏訪大社を保護し、盛り立てていく・・・そういう権力なんだと内外に示すことで、影響力を強めようとしたのです。

自らの正当性を強調する一方、晴信は家臣の意見に耳を傾けることにも熱心でした。
領内の政策や戦の方針など、独断をやめて合議制にします。
家臣の働きをつぶさに観察し、功績をあげたものには即座に褒美を与えました。
晴信は、戦の最中でも様々な褒美を与えていたといいます。
中でも大きな役割を果たしていたのが金・・・甲州金です。
戦功をあげたものには、金の粒を三すくい与えたという記録が残っています。
これは、金山開発が盛んだった甲斐ならではの恩賞でした。
山が多く、平地の少ない甲斐では、土地以外の褒美が必要だったので、信玄が編み出した工夫でした。

さらに、領国経営でも画期的な工夫を・・・
「甲州法度之次第」と呼ばれる法律を制定します。
法度では、年貢のルールを正確にし、役人などの横暴を取り締まります。
そして身分を問わず、法の下の平等を打ち出しました。

”この晴信自身が法度に背くことがあれば、責賎を選ばず、誰でも届け出てよい
 その時は責任をとる”

自分の制定した戦国法が、自分自身にも適用される・・・
そういった法は他にはありません。
信玄が制定した甲州法度が唯一無二のものです。

武田二十四将図・・・
二十四将と言うからには24人家臣がいるはずですが、23人・・・
つまり、晴信自身も24将の一人に数えられています。
トップダウンだけではなく、時には家臣と対等に・・・若きリーダーの姿がそこにはありました。
こうして家臣たちの信頼を築きながら、晴信は北へ領地を拡大を目指します。
目標は信濃国の完全掌握でした。
信濃侵攻を開始した武田軍は、破竹の勢いで敵を打ち破ります。

1548年、27歳の時信濃の1/4を配下に治めます。
しかし、行く手に強敵が・・・!!
北信濃の武将・村上義清です。
連勝を重ねてきた武田軍は、迷わず城を攻撃!!
ところが、城の守りは固く激しい反撃にあいます。
さらに別動隊に後ろに回り込まれ挟み撃ちに・・・!!
この戦で、幼いころから晴信を支えた重臣・板垣信方が討ち死に・・・!!
5000人ともいわれる戦死者を出し、武田軍は惨敗しました。
敗戦から2か月後、体勢を立て直した武田軍は3度の戦いの末、村上を破ります。
板垣信方亡き後、晴信はその恩を忘れず板垣家を重用。
板垣家は主を変えて江戸時代も続き、明治維新を迎えたといわれています。
こうして晴信は、甲斐と信濃をほぼ手中に治めました。
32歳でした。

武田晴信は40歳を前に出家し、武田信玄となります。
その頃、信玄のもとには、一騎当千の兵どもが揃っていました。
高坂昌信、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀・・・武田四天王といわれる武将を従えて、信玄は戦場を駆け巡りました。
若き日に信玄と戦った三河の徳川家康・・・後にこう語っています。

「今の世に信玄ほどの武将は他にいない」

どうして武田軍は最強と呼ばれたのでしょうか?

「人は城 人は石垣 情けは味方 仇は敵なり」

武田の強さの秘密は、その人材活用術にありました。
武田四天王の一人、高坂昌信は16歳の時に信玄の世話係として登用されました。
しかし、農民の出身だったため読み書きが不得意で周りの者にバカにされることも多かったのですが・・・
そんなある時信玄は家臣を集めてこう言いました。

「何より大事なのは、武功・忠孝の者から話を聞くことだ 
 一日に一つ聞けば一月で三十、一年で三百六十も聞いたことになる
 去年の自分より、はるかに優れた人となる」

この教えを聞いた高坂は、以後周りの人の話をよく聞き、覚えることに愚直に取り組みました。

武田家の歴史や信玄の教えを記した第一級の資料「甲陽軍鑑」
この本は、高坂の口述筆記を元にしています。
高坂は、武田家で見聞きしたことや、信玄が行いを年下の者に伝えることで、慢心を戒め戦に役立てたといいます。
読み書きが不得意な高坂は、信玄の教えを守ることでどんな武将も及ばない立派な書物を作ることができたのです。

四天王の二人目は山県昌景。
信玄は山県をこう評しています。

「赴くところ敵なし」と。

山県が率いたのは騎馬部隊・・・
その具足の色から赤備えと呼ばれ、他国の武将から畏れられました。
元々甲斐は、馬の産地であったことから騎馬の扱いに長けた者が多かったのです。
そこで武田軍は、他国より優れた騎馬隊を組織!!
山県はその騎馬部隊を操り、敵と味方の足軽がせめぎ合うところに突入し、勝利に導いたといわれています。

武田四天王残る二人は、内藤昌秀・馬場晴信。
内藤晴信は勇猛で知られた武将でしたが欠点もありました。
戦闘に夢中になると周りが見えなくなるのです。
そこで信玄は馬場晴信と一緒に行動するように言いつけます。
馬場は冷静で状況判断に優れていたからです。
ある戦で内藤が勝ちに乗じて単独で敵を深追いしたことがありました。
それに一早く気付いた馬場は、内藤に使者を出します。
使者は馬場からの言葉を内藤に伝えました。

「このままだと危ないぞ」

内藤は、己の悪い癖である深追いに気付き、即座に兵を引いたといいます。
信玄は家臣の長所短所を見極めて、組み合わせ力を最大限に発揮させたのです。

さらに、戦の役に立たない家臣でも、貴重な戦力にしました。
岩間大蔵左衛門は、武田軍団一の臆病者と言われていました。
戦に行きたくないと嫌がり、合戦では目を回して卒倒・・・
味方からも不満が絶えませんでした。
そんな不満を耳にした信玄は一計を案じ、岩間にこう言います。

「これからは家中のどんな些細なことでも知らせよ
 もし報告を怠ったら、斬る」

家臣たちの動向を知らせる目付けに任命しました。
岩間は殺されてはたまらないと、家中で少しでも不穏な動きがあれば逐一信玄に報告しました。
おかげで信玄は、家臣の活躍や評価を正確に行うことができ、家臣たちの不満は減っていきます。

そんな武田軍団でも苦戦した敵がいました。
越後の龍として恐れられた上杉謙信です。
謙信と信玄が相対した川中島の合戦・・・
信濃と越後の国境で、信玄が32歳の時から足掛け12年、実に5回も繰り広げられました。
しかしこの戦、信玄は地理的に不利でした。
戦場の川中島まで謙信の城からはおよそ50キロ、対して信玄の城からは100キロも離れた甲府から出陣します。
そこで、戦いの拠点として新たに築いたのが川中島に近い海津城です。
四天王の一人・高坂昌信を配して合戦に備えます。
さらに、領内に狼煙台を数多く配置、見張りが敵を発見すると狼煙をリレーして連絡し、信玄が素早く出陣できるようにしました。

1561年、信玄40歳の時、謙信と最も激しい戦いの第4次川中島の戦いを繰り広げます。
この時謙信は、信玄の先手を取って武田の陣地の目の前にある妻女山に陣取ります。
知らせを受けた信玄は海津城に急行。
武田軍は家臣全員が出陣し、総力戦の構えをとりました。
霧が立ち込める中、信玄は武田軍を二つに分け、妻女山の上杉軍を挟み撃ちにする作戦をとりました。
ところが上杉軍はこの作戦を見抜いて、密かに下山・・・。
濃い霧に紛れて布陣・・・そして霧が晴れた瞬間、準備万端の上杉軍が信玄に襲い掛かってきました。
不意を突かれた武田軍は大混乱・・・
上杉軍は武田の本陣にまで迫ってきました。
危うし・・・信玄・・・
その時、武田の別動隊がようやく現場に駆け付けます。
形勢逆転、信玄は何とか上杉の猛攻を退けました。
その後も川を挟んで二人はにらみ合いを続けましたが、とうとう決着はつきませんでした。

川中島の戦いの後、信玄には新たな野望が芽生えます。
近年見つかった資料には・・・
「日本国を残らず攻め取って治めたい
 都に武田の旗を立てる」と書かれています。
どうして都を目指したのでしょうか??

1554年、33歳の時信玄は北方の上杉謙信との戦いに備えてある策を講じていました。
南の駿河国・今川氏、東の相模国・北条氏と三国同盟を組んだのです。
同盟の保証としてそれぞれの当主の嫡男にそれぞれの姫を嫁がせるという政略結婚が行われ、三国は血縁関係となりました。
しかし6年後の1569年、39歳の時にこの同盟に亀裂が入る大事件が起こります。
桶狭間の戦いです。
尾張の小大名だった織田信長が、今川義元を奇襲し破りました。
当主が亡くなったことで今川の力が弱まっていくことは明らかでした。
これを好機と見た信玄は、同盟を無視して今川攻めの準備を始めます。
駿河には港と京につながる東海道がある・・・
どうしても欲しかったのです。

しかし、武田の家中で今川攻めに反対する者がいました。
信玄の長男・義信です。
義信の妻は、三国同盟の時に今川から迎えた義元の娘でした。
妻の実家だったのです。
今川攻めを巡って、親子は激しく対立します。
義信は信玄の暗殺を企てます。
しかし、企てはすぐに発覚し、信玄は慶喜を幽閉、その後、義信は非業の死を遂げました。

信玄は義信をかわいがり、後継者として期待をして育てていました。
しかし、義信事件となったのは、政治家としての信玄は家庭人としての顔を捨てざるを得ない・・・信玄の深い悲しみと苦悩がありました。

1568年、47歳で駿河に侵攻。
武田軍は順調に進み、翌年には駿河国を制圧します。
しかし、密かに病魔が忍び寄っていました。
駿河侵攻を始めて3年・・・50歳を超えた頃には体調が悪化し、床にふせることが多くなってきていました。

「膈という病気だと言われた」

膈とは、胃がんと考えられています。
信玄は死期が近づいてきていることを悟りました。
それでも信玄は野望を抱いていました。
2018年に発見された新資料には・・・
「日本国を残らず攻め取って治めたい
 都に武田の旗を立てる」と。
余命があまりないかもしれないという状況の中で、足利義昭と一緒に室町幕府体制を支えながら上洛を遂げて、天下の運営に携わりたいという気持ちがあったのです。

1572年12月、52歳で信玄挙兵。
病を押して京へ・・・。
隣国の遠江に攻め入った信玄・・・行く手を遮ろうとした徳川家康を三方ヶ原の戦いで一蹴、さらに西へ急ぎました。
翌月には三河の野田城を攻略、いよいよ最大の難敵・・・尾張の織田信長との対決が迫っていました。
しかし・・・口の中にできものができ、歯が5,6本抜けて次第に衰弱していきます。
もはや、死脈を打つ状態となったので覚悟をします。
信玄は遂に甲斐への帰路につきました。
その道中、遺言を残しています。

「自分の死を3年の間秘すこと」

信玄は自分の死を敵に悟られないように入念な準備をしました。
その一つが白紙の手紙・・・
信玄は、自分の花押だけの手紙を800枚余り用意しました。
信玄の手紙を出すことで、生きているように見せかけようとしたのです。

1573年4月12日、ふるさと甲斐への道半ばで信玄は息を引き取りました。
52歳の生涯でした。

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愛と欲望が渦巻く女の園・・・大奥・・・江戸城の中で営まれた煌びやかでミステリアスな暮らしぶりは、今も私たちの心を揺さぶります。
その基礎を築いたのが、春日局です。

将軍の世継ぎを作るためにもうけられた大奥・・・
最盛期には、3000人もの女性たちが暮らした絢爛豪華な世界です。
その礎を築き、最高権力者として君臨した春日局・・・本名はお福。
お福の生涯は、苦悩と困難の連続でした。

1579年、お福は丹波国・・・兵庫県丹波市に誕生します。
高台に今も残る城の石垣・・・この城の主が、お福の父・斎藤利三でした。
斎藤利三は武芸に優れ、家族を大切にした人物として知られています。
1万石という領地で裕福なお姫様として育ったお福・・・
しかし、25歳の時、徳川家の乳母として仕えることとなります。

1582年、4歳の時・・・突如として幸せな暮らしを壊す大事件が起こります。
明智光秀が、主君・織田信長を裏切った本能寺の変です。
お福の父・斎藤利三は、明智光秀の重臣でした。
その後、光秀は信長の家臣・羽柴秀吉に敗れ、父・利三も謀反人として捕まります。

斎藤利三を生け捕り、京の都中を引き回し、首を刎ねた・・・!!
明智の首と共に晒しものにした・・・!!

この時お福は4歳・・・一説には、母に連れられ、父の最期を目にしたともいわれています。
謀反人の娘となったお福・・・それまでの生活が一変します。
一家は亡き父の友人を頼りにする流浪の身・・・
食べる物も満足にない粗末な暮らし・・・なんとか生き長らえたことが当時の記録に残っています。
極貧・・・謀反人の娘としてどん底の生活をしていました。

1588年、10歳の時に親戚にあたる公家の家に引き取られます。
お福はこの家で、書道や歌道を学びます。
この経験が後に役立つことになります。
17歳になったお福は、母の遠縁にあたる武士と結婚。
相手は、稲葉正成・・・中国地方の有力大名・小早川秀秋に仕える武将でした。
お福は子宝にも恵まれ・・・しかし、幸せは長くは続きませんでした。
夫・正成が、諸君とそりが合わずに解雇・・・浪人となります。
一家は夫の故郷・美濃谷口に移り住みます。
夫の収入はなく、自給自足のどん底の暮らしだったといいます。
お福が懸命に働いて家計を支えているにもかかわらず、夫は妾を囲っていたともいわれています。
そんな暮らしを続け、3人目の子どもが生まれた時・・・思わぬ話が耳に入ります。
二代将軍に子供が生まれるので、乳母を募集するという・・・
お福はこの話に飛びつきます。
極貧の生活から脱出する為に・・・自分が主として子供たちを育てていくためにも、何か職を・・・!!

乳母の募集を命じたのは、天下人・徳川家康でした。
その頃、京都の伏見城にいました。
お福は美濃からわざわざ京に上り、面接を受けました。
応募者は、20人以上・・・
決め手は家康・・・家康はお福の父・利三を高く評価していました。
立派な武将で、力量が高い・・・戦略的にうまい・・・!!

「お福は斎藤利三の娘なので、優れた人物のはずだ」

家康にとっても乳母として最適なお福だったのです。

お福は将軍家の乳母に見事合格!!
夫と離縁し、乳飲み子と次男を母に預け・・・長男一人を連れて江戸に向かいます。
お福はこの時、25歳・・・新しい人生の始まりでした。

埼玉県川越市の喜多院・・・ここには、三代将軍家光が生れた部屋があります。
江戸城から移築されたものです。
家光の部屋につながる春日局化粧の間・・・お福が使っていたとされる部屋があります。
家光の幼名は竹千代・・・内気で病弱だったものの、お福と二人三脚で将軍の跡目争いを勝ち抜いていきます。
今も同じ屋根の下にある二つの部屋は、二人の強い絆を表しているのです。

どうしてお福は竹千代を将軍にすることができたのでしょうか?

お福が25歳の時に乳母としての生活が始まりました。
赤ん坊に乳をあげるだけでなく、付きっ切りで世話をして育てます。赤ん坊の名は竹千代・・・次期将軍です。
竹千代の父は、二代将軍秀忠、そして母は信長の姪・お江でした。
3歳になると、竹千代には厳しい教育係がつけられ、武道や学問を徹底的に教え込まれました。
そんな日々を送る竹千代が、ヒマを見て逃げるように通ったのがお福の部屋でした。
厳しい教育環境・・・選りすぐりの将軍教育をされていた竹千代・・・息苦しい教育環境にあったので、家光も気がめいりことが多く・・・一息付けるのがお福の家だったのです。

しかし、竹千代には将軍になるには不安な点が二つありました。
①内気でおとなしい性格
将軍として全国の大名に号令するにはあまり相応しくない・・・
そこで、役に立ったのが、お福が故郷から連れてきた長男・正勝・・・幼いころから竹千代の世話係・小姓にしていました。
何でも話せる年上の相談相手が、内気な性格を徐々に変えていきます。
②病弱
竹千代は体が弱く、病気がちでした。
食べ物の好き嫌いも激しく、食も細かったのです。
そんな竹千代が工夫を凝らしたのが食事でした。
七色飯・・・白米の外に、茶飯、粟飯、小豆飯、麦飯・・・七色用意しました。
見た目を楽しくしてたくさん食べてもらおうとしたものです。
竹千代に豪華な食事を出す一方、お福は極めて質素でした。
それを気にした竹千代が、自分の膳から分けたこともあったといいます。

お福の愛情ですくすくと育つ竹千代。

しかし、そんな二人に暗雲が・・・
竹千代が7歳の時に跡継ぎ争いにライバルが現れます。
2歳下の弟・国松です。
内気な兄・竹千代とは違い、活発で聡明な国松・・・。
お江は、竹千代よりも国松に愛情を注いでいました。

一説にはこの頃江戸城内ではある噂が立つこととなります。

「お江が竹千代より国松をかわいがるのはお福のせいである」と。

原因は、お福とお江の浅からぬ因縁でした。
お江の伯父は信長・・・その信長を殺した光秀の家臣がお福の父・斎藤利三・・・
更に家臣の間には・・・
「将軍様は竹千代さまでなく、国松さまを嫡男(跡継ぎ)になされるかもしれない・・・」
家臣たちは、国松に貢物を持参する一方で、竹千代にはほとんど持ってこなかったといいます。

江戸時代も始まったばかりのこの頃、優秀さが将軍にはどうしても必要でした。
優秀なように見える国松が、兄を差し置いて跡継ぎになるということもあり得たのです。
お福はそれを一番心配していました。
実の母の冷たい仕打ちに追いつめられていく竹千代・・・
そして・・・竹千代・・・自殺未遂・・・。
しかし、その寸前でお福が見つけ、思いとどまらせたといいます。
思い余ったお福は、将軍秀忠の側近に話を持ちかけます。

「そろそろ竹千代君が世継ぎであるという正式なお披露目があっても良い時期なのに、いまだなんのお沙汰もありません
 一体どうなっているのでしょうか」

秀忠の返事は一言・・・「そのうち決めることにする」

このままでは竹千代の将来が危ない・・・!!

1612年、34歳の時、お福は江戸から旅立ちます。
行先は駿府城・・・!!
大御所・徳川家康と会うためでした。

お福は家康に訴えます。

「竹千代さまが将軍家のお世継ぎであるはず
 弟の国松さまを母君が愛され、その勢いは竹千代さまを凌いでいます
 しかし、弟が兄に勝ることは許されることではありません
 将軍の跡継ぎの決定は、天下の一大事だからです」

跡継ぎは兄の竹千代にするべき・・・そうしなければ秩序が崩れてしまうと家康に直訴!!

この行為は、身分をわきまえないものとして厳しく罰せられるかもしれない危険な行為でした。
お福の切なる訴えを聞いた家康・・・すぐには決断しませんでした。

次期将軍は竹千代??国松・・・??

1611年10月、突然家康が江戸を訪れます。
竹千代と国松を呼び出し・・・広間の上座についた家康は、まず竹千代に、
「竹千代殿 これへ これへ」つられて国松も上座に行こうとすると・・・
「国松はそこにおれ!!」と、しかりつけ、下座におきました。
竹千代を上座に呼ぶことで、家康は自分の考えを家臣たちに示しました。
三代将軍が決まった瞬間でした。
1623年、竹千代は家光と名を改め、20歳で将軍につきます。
お福45歳のことでした。

家光を三代将軍に育て上げ、乳母としての念願を果たしたお福・・・
しかし、それで満足することはありませんでした。
次に力を注いだのは、大奥の礎作りでした。
大奥とは、江戸城の奥で、将軍の正室や側室たちが生活する男子禁制の場です。

「全て奥向きの定法は皆二位の局(お福)の制作なりとぞ」

どうしてお福はそのようなことができたのでしょうか?
父・秀忠から将軍職を継承した家光・・・
その3年後・・・1626年に実母・お江が死去・・・享年54歳でした。
20歳の頃から理想とする政治を始めた家光・・・
47歳になったお福は子育てを終えてからも一層家光を支えることとなります。
乳母の後見役割・・・育てた「養い君」は、大きくなっても叔母に相談に行きます。
これに応える関係があり、お福も何かお役に立ちたいと思っていました。
家光は、意欲的に政治に取り組みます。
全国の藩主を江戸に行き来させる参勤交代制度を確立、外国への渡航を禁じた鎖国政策を強化、当時は幕府に絶対的な力はなく、大きな力を持つ大名はたくさんいました。
お福はこの頃、頻繁に大名の婚姻の相談に乗ります。
相談に乗りながら、その家にはどんな人物がいるのか??謀反を起こしそうな気配はないのか??
大名たちをくまなく調べたといいます。

婚姻政策は、当時の大名統制の根幹でした。
家光がどうやったら日本を統治できるのか??
家光がよりよく徳川幕府を運営していくためにはどうしたらいいのか??
派閥工作をしていたのです。

「上様のためなら何でもできる・・・」

お福は大名達を奥向きから支配していきます。
小姓をしていたお福の息子・稲葉正勝を、重要な箱根の関所のある小田原藩主に・・・
これによって、お福のせいへの影響力はますます増していきます。
全てが順調に見えた家光の治世・・・
しかし、お福には頭を悩ませる問題がありました。
将軍になって10年になっても正室の間に跡継ぎが生れませんでした。
このままでは家康から続く徳川宗家の血統が途絶えてしまう・・・!!
そんな折、衝撃的な出来事が起きます。
家光が天然痘にかかり、瀕死の状況に・・・
天然痘で亡くなるのが普通であった時代・・・家光が亡くなると徳川家自体が危機に瀕してしまう・・・!!
幕府も倒壊してしまうのではないか・・・??
大きな危機感を抱いていました。
すぐさまお福は、江戸城内の神社に向かいました。
そこで、こう祈願したと言われています。

「もし、家光さまを助けてくれるというのなら、私は死ぬまで絶対に薬を飲みません」

お福の祈りが通じたのか、家光は奇跡的に命を取り留めます。
病気は治ったものの、跡継ぎ問題に新たな危機を感じたお福。
家光の正室は京都から来た公家の娘・・・仲は良くなかったと言われています。
一説では、女性に関心がなかったと言われる家光・・・
そんなある日、お福のもとに耳寄りな情報が・・・家光が女性に一目ぼれしたと言います。
しかし、その女性は尼さん・・・
それでもお福は諦めず、尼さんを強引に還俗させ、髪が伸びるまで待って側室に迎え入れたのです。
さらに、お福自らも町に出てスカウトします。
そして目をつけたのが、一人の女性・・・
古着屋の店先に座っていたお蘭という娘でした。
当時側室と言えば、大名や公家などの名門から取るのが常識・・・町娘から取るのはありえない話でした。
春日局は”上様のお気に召すか”を一番大切にしていました。
家光はお蘭を一目で気に入り側室にしました。
1641年、家光の嫡男が誕生。
これでひとまず跡継ぎ問題は解決しました。
しかし、お福はさらに側室を江戸城に迎えます。
これが後に大奥という組織の礎となりました。
中々順調に子供が育たない時代、家光が若い時から病弱だったことから、第2、第3の候補の跡継ぎを産む女性を作っておく必要があったのです。
それが徳川家の安泰のためになるという方針でした。

家光の時代の大奥は・・・
御殿を囲むように女中たちの部屋が・・・最大8名にまで増えた側室たち。
そこには、お福の部屋もありました。
こうした組織を作ることで、お福の政治への影響力はより高まっていきました。
将軍とのかかわりが近い・・・将軍の意向を左右し得る立場でした。
幕府の政治にも、大きな影響を与えました。
全国の大名からも注目され、将軍の考えを聞くために春日局に接触して将軍の考えを聞こうという大名はたくさんいました。

最盛期には3000人を超えたのちの大奥・・・
規律を守るため、男子禁制などの厳しい掟がありました。
その一方、お福は側室だけではなく、世話をする女中たち全員の待遇改善に努めます。

女房(女中)たちは、武士が具足を一揃えするほどの費用をかけ小袖を用意しております
今までは私のお手当を分配して参りましたが、全ての階級の女中たちに、衣装代を幕府より頂戴したいのです

お福は、奥で働く全ての階級の女中に衣装代を出してほしいと幕府に要望します。
衣装代を出してほしい、実家に手当てが欲しい、勤めに関することがらを奔走しました。
そういう要求をできるのはお福で、そういう人だからいろいろな人から要望が集まってきました。
大奥制度を作る基礎にお福が参画していったのです。

そんなお福が51歳の時、嬉しい出来事が・・・
京に赴き天皇に拝謁した時のこと・・・「春日局」という称号を賜わったのです。
春日局とは、本来天皇の子を産んだ女官だけに与えられる由緒ある称号でした。
それが、徳川家の、しかも一介の乳母に与えられたのは前代未聞のことでした。

夫と別れ、人生をやり直そうと江戸城に来て40年・・・
お福は公私にわたって家光を支え続けました。
ところが・・・1643年、65歳の時に病に倒れます。
容態は日に日に悪化・・・しかし、周りがどんなに勧めても薬を飲もうとはしませんでした。
かつて家光が大病を患った時に立てた薬立ちの願掛けを今なお守っていたのです。
何度も見まいに来た家光が、書いた手紙が残っています。

”お前は私が病とならぬよう、薬断ちの願をかけ、長い間それを守ってくれた
 だが、お前に万一のことがあれば、それこそ私は心痛の余り命が尽きてしまうだろう
 お前が薬を飲むのは天下のためだ
 どうか薬で病を治し、私に長く仕えてほしい”

しかし、お福は何度頼まれても薬を口にすることはありませんでした。
困った家光は一計を案じます。

”これならば如何じゃ・・・薬を飲んでくれるか?”

家光が用意したのは、徳川家の家宝「曜変天目茶碗」・・・
家光自身、めったに使うことのない貴重な茶碗を、お福に薬湯を飲ませるために差し出したのです。

「上様のご厚情・・・有難き幸せにございます」

お福はようやく薬の入った茶碗を口に運びました。
しかし、薬はお福の喉を伝い、胸元へと流れていきました。
家光はここまでしても、自分の願掛けを破らなかったのです。
そして、お福は静かに息を引き取り、65年の人生を終えました。
1643年、春日局死去
京都にあるお福の菩提寺・麟祥院・・・家光は一体の木像を掘らせ置きました。
”春日局木像”です。
慈悲深い優しい笑みを浮かべたお福の姿・・・
命をかけて生涯尽くしてくれたお福に対しての感謝のしるしだと言われています。

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マリア・カラス・・・美貌と実力を兼ね備え、歌に生き、愛に生きた世紀の歌姫です。
その最後のステージは日本でした。
まだ50歳だったマリア・カラスの早過ぎる終幕・・・その訳とは・・・??

maria
類まれな表現力で、オペラ界を変えたカラス・・・”カラス以前””カラス以後”という言葉が生まれたほどでした。
歌声だけでなく、エキゾチックなその美貌で世界中の聴衆を魅了しました。
しかし、彼女はその外見に強いコンプレックスを持っていました。

世紀の歌姫と言われ、世界中の劇場から依頼が殺到したマリア・カラス・・・しかし、反面、色々なトラブルを起こしました。
突然の公演キャンセル、大劇場との対立、いつしか”高慢””金の亡者””キャンセル魔”と言われるようになります。


私生活もたたかれます。
夫がある身にもかかわらずギリシャの大富豪オナシスと9年間の大恋愛、しかし、オナシスはマリアを裏切り元アメリカ大統領夫人ジャクリーン・ケネディと再婚。

世紀の歌姫・・・その人生に秘められた愛と悲しみとは・・・??

マリア・カラスの家は決して裕福ではなく、両親は音楽関係ではありませんでした。
しかし、マリアはオペラ歌手への道を選びます。
どうしてオペラ歌手となったのでしょうか?
1923年、マリアはニューヨークで誕生しました。
両親はギリシャ移民でした。

父・ジョージは平凡な薬剤師、母・エヴァンゲリアは幼い男の子を失くしたばかり・・・男の子が欲しかったといいます。
しかし、生まれてきたのは女の子のマリア・・・
我が子を見た母は、「その子をあっちへやって!!」
母は、姉のジャッキーにだけ愛情を注ぎました。
かつて歌手を夢見ていた母は、ジャッキーに蓄音機を買い、ピアノを学ばせて音楽の才能を伸ばそうとしました。
マリアは、母に気に入られようと姉のすることは何でもしました。
7歳の時、マリアはレコードに合わせて姉のように歌ってみました。
すると母は・・・才能があるのは姉ではなくマリアであると気づきます。

「母は、私に並外れた音楽の才能があることに気付いた最初の人でした。」

母は、突然マリアに興味を抱くようになります。
マリアにもピアノのレッスンを受けさせ、図書館でレコードを聞かせ、厳しい英才教育を施しました。
マリアも母の関心が自分に向いたので、喜んで練習をしました。

1935年、11歳の時、ラジオの音楽コンテストに出場します。
マリアはアコーディオン奏者に次いで2位となりました。

「私が母に愛されていると感じたのは、歌っている時だけでした。」

母は、薬剤師の父を見下しており、両親の不仲は子供が見ても明らかでした。
そして母は、父をアメリカに残し、1937年、13歳の時ギリシャに移住。
マリアは奨学金を得てアテネの音楽学校へ・・・!!
その学校で教えていた世界的なソプラノ歌手エルビラ・デ・イダルゴは、すぐにマリアの才能にほれ込みました。

「マリアが孤独なのは気付いていました」byイダルゴ
 
母に愛されていないマリアを娘のようにかわいがるイダルゴ・・・
普段の生活でも何かと面倒を見ました。
オペラ歌手の卵だったマリアは体重が80キロ以上あり、外見には無頓着でした。

「先生は私の服装を嘆いていた
 容姿に磨きをかけよようと本気で努力をしないなら、もうレッスンはいないとおっしゃったほどよ」

家庭では得られなかった安らぎ・・・
マリアは歌のレッスンに集中しました。

こうしてマリアが声楽の練習をしていた時に第二次世界大戦が勃発!!
1941年、17歳の時、ドイツ軍・イタリア軍がアテネを占領します。
占領下におかれたアテネは、食糧不足に陥ります。
すると母は、マリアにドイツ兵やイタリア兵との親密な関係を強要・・・食料得るためでした。
この頃から、母とマリアの溝は深まったといいます。

1942年、18歳の時「トスカ」でプロのオペラ・デビュー。
マリアはこのトスカをこの後も何度も演じ、得意のレパートリーとします。
上演が終わると、何度もカーテンコールが起きるほど好評でした。
これを機に、ドイツ兵や、イタリア兵の前で歌うようになります。
しかし、このことが後に災いしてしまうのです。
対戦も終わりに近づいた1944年、20歳の時にアテネが開放。
すると、マリアがドイツ兵やイタリア兵のために歌っていたことが問題視されました。
劇場から追放され、音楽学校の奨学金も打ち切られます。
1945年、21歳の時に、マリアは仕事を求めて母と離れ、父のいるアメリカ・ニューヨークに向かいます。

しかし、いくらオーディションを受けても不合格。
ギリシャで有名になったぐらいでは、アメリカでは通用しませんでした。
世界屈指のオペラハウス・メトロポリタン歌劇場のオーディションもうまくいきません。
しかし、マリアは地震に満ち溢れていました。

「メトロポリタンはいつか歌ってくれ、と私に頭を下げて来るでしょう」

歌手活動を本格化させたマリア・カラスは、30キロ以上のダイエットをします。
あまりに急激な原料は、歌声に影響する可能性がありましたが、マリアは大変身を遂げました。
ニューヨークに戻って2年、ようやくマリアにチャンスが巡ってきました。
イタリアでのオペラ出演です。
マリアはすぐに、イタリアのベローナに向かいます。
1947年、23歳の時に「ラ・ジョコンダ」でイタリア・デビュー。
2万5000人も集まった野外劇場で歌い上げます。
しかし、公演は成功したものの、次の契約につながりません。
そこに、救いの手を差し伸べたのが、オペラ好きで地元では有名な実業家のジョヴァンニ・バッティスタ・メネギーニでした。
マリアより30歳ほど年上の52歳でした。
公演前の食事会で、マリアに一目ぼれしたのです。
その後、マリアを高級レストランに誘っては口説きます。
初めてレディーとして扱われるマリア・・・次第にメネギーニを愛するようになっていきます。
あえない時、マリアがメネギーニに贈った手紙には・・・

「私がどんなにあなたを恋しがっているかお分かりにならないでしょう
 あなたの腕に戻る日が待ちきれません」

裕福なメネギーニは、マリアの生活を保障。
マネージャーも務め、仕事上のパートナーになりました。
メネギーニの援助でイタリアを拠点としたマリアに、少しづつオペラの仕事が舞い込むようになります。

1948年、24歳の時、フィレンツェで「ノルマ」が大成功!!
カラスブームが巻き起こります。
ノルマは最も難しい曲の一つで、それまであまり歌われてはいませんでした。
しかし、マリアは見事に歌いこなして観客を魅了します。
それが可能だったのは、マリアが様々な声を使いこなせたからです。

「美しい声だけでは十分ではありません
 役を演じる時は、幸福感・喜び・悲しみ・恐れなどを表現する為に、千種類もの声を使い分ける必要があります。
 美しい声だけでそれができますか?」

さらにマリアがこだわったのが演技です。
当時のオペラは、あまり演技にこだわっていませんでした。
当時は、”ちゃんと楽譜通りにやりましょう”というオペラでした。
そして衣装を着けて棒立ちで歌っている・・・
マリア・カラスは、激しい演技を行うことによって、歌い手としての個性を発揮するのに成功したのです。
オペラ歌手として軌道に乗ったマリアは、1949年、25歳の時にメネギーニと結婚。
そして主役のチャンスが訪れます。

1951年ミラノ・スカラ座で正式にデビューします。
スカラ座といえば、誰もが憧れるイタリアオペラの殿堂・・・!!
この時演じたのは、「シチリア島の夕べの祈り」
マスコミの反応は・・・

”驚異的な広がりを持つ中音域と低音域はきらめくような美しさに満ちている”

その歌声に熱狂した聴衆は、いつしかマリアをこう呼ぶようになります。

”スカラ座の女王”と。

マリア・カラスの名は世界中に響き渡り、王族や大富豪も、マリアの舞台を見ることがステータスとなりました。
新境地を次々と開いていくマリアは、オペラの常識にも挑戦します。
体重が必要とされるオペラ歌手にもかかわらず、痩せようと考えたのです。
きっかけは、映画「ローマの休日」でした。
オードリー・ヘップバーンに憧れたマリアは、ダイエットを決意しました。
そして、11か月で30キロ以上の体重を落としました。
マスコミでも話題となり、その減量法聞かれると・・・

「もし痩せる方法がわかっていたら、私は世界一の金持ちになれたと思いませんか?」

ハリウッド女優並みのスタイルを手に入れると、ディオールやジバンシーなどのデザイナーが、ドレスや宝飾品を提供。
マリア・カラスは、誰もがうらやむ大スターとなりました。
さらに、マリアの勢いは止まりません。
駆け出しのころからあこがれていた生まれ故郷ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の出演!!
1956年、32歳の時にメトロポリタン歌劇場で初公演。
マリアは聴衆を感動と興奮の渦に巻き込んで、16回ものカーテンコールを受けました。
ダイエットをしてもその歌声は、衰えませんでした。
大スターとなったマリア・・・ギリシャの母とは疎遠になっていました。
マリアは仕送りをしていましたが、母はそれ以上にお金を欲しがりました。
マリアが断わると、母はマスコミを通じて冷たい娘と非難しました。
マリアはそんな母が許せず、生涯あうことはありませんでした。

35歳の時、マリア・カラスは17歳年上の大富豪オナシスと恋に落ちます。
オナシスは妻も子もありながら、女遊びの絶えないプレイボーイ・・・。
それなのに、どうしてマリアは恋に落ちたのでしょうか?

30代で世界で最も有名な歌姫となったマリア・・・
しかし、栄光の影で様々な苦悩を抱えていました。
その一つが、夫メネギーニのお金への執着。
マネージャーでもあるメネギーニは、マリアが売れてくるとギャラを法外に吊り上げました。
1947年・・・1公演:4万リラ
しかし、10年後には、80万~100万リラと20倍以上に・・・
今の日本円で1000万円以上です。
余りに高額な請求に、困惑する劇場側に、メネギーニは「妻が望んでいるので・・・」と言いました。
実際には、マリアは夫に任せっきりだったので、ギャラの金額などわかっていませんでした。
さらにマリアを悩ませたのは、大御所の批評家たちでした。

「マリア・カラスの声は、力強さはあるが清らかさがない」

若い批評家には熱狂的に評価された一方で、大御所の受けは悪かったのです。
というのも、マリアは今までにいないタイプでした。
マリアは自分を侮辱する手紙ばかりを100通ほど保管していました。
どうしてこのような手紙を保管していたのかは難しいですが、自分をさらに精進させるために自分の糧にするためだったと思われます。
絶頂期だったマリア・・・しかし、翌年から破滅の足音が聞こえてくるのでした。

1957年、33歳のエディンバラでの公演以来、喉の調子を崩します。
医者に休養を命じられていました。
それでもどうしてもと頼み込まれ、5回の上演・・・しかし、喉は4回が限度でした。
そのため、1回分の代役を頼みます。
オペラでは、体調に合わせて代役が歌うのはよくあること・・・
ところが・・・

「あの忌まわしいパーティーに行ったのが間違いでした」

5回目の公演キャンセルの日にパーティーに出席・・・
これが報道され、マスコミから非難の嵐が・・・!!
オペラ歌手としては当たり前のことをしただけなのに・・・。

この事件から4か月後・・・
1958年1月にローマで事件を起こします。
イタリア大統領も見に来る公演でマリアはノルマを演じることになっていました。
ところが、またしても喉の調子を崩してしまう・・・
一幕目は乗り越えたものの、二幕目以降は出演できないというマリアに、スタッフは・・・

「あなたならできます
 舞台を続けないとダメですよ!!」

「声が出ないのよ・・・」

「いい加減でいいんだよ、それなら!!」

遂に、二幕目をすることなく公演中止。
これが大問題となり、マリアは会見を開いて声が出なかったと弁明します。
しかし、マスコミは気まぐれでワガママだと非難します。
これをきっかけに、スカラ座を始めイタリアでの契約が無くなります。
大統領も出席する公演をキャンセルしたことで、イタリア政府の介入もあったとされます。
さらに同年、メトロポリタン歌劇場と演目で衝突!!

「同じ演目ばかり・・・新しい試みがしたいの!!」

大劇場との関係悪化は、メネギーニの責任が大きいといわれています。
メネギーニにとって交渉はありえないことでした。
自分の要求額でなければ契約しませんでした。
アメリカに行って、メトロポリタンの支配人・ビングが相手でも、同じやり方をしました。
メネギーニ同様、ビングも譲らない性格だったので、二人は喧嘩になっていました。
さらに、マリアのビジネス用の口座からメネギーニ個人の口座にお金を移して使い込んでいたことが発覚。
マリアはショックを受け、夫への信頼は粉々に崩れました。

声の衰え・・・大劇場との衝突・・・夫の裏切り・・・
精神的にも追いつめられた時、一人の男性と出会いました。
マリアより17歳年上で、一代で巨万の富を築いた大富豪オナシスです。
しかし、オナシスは妻の間に二人の子供のいる既婚者でした。

1959年、35歳の時、オナシスがマリア夫婦を招待したオナシスの地中海クルーズがマリアの人生を変えました。
元イギリス首相・チャーチルなどを乗せた3週間の航海・・・
クルーズの間、マリアとオナシスは急接近します。
二人きりの時間を過ごしました。
港に戻ってきたころには、マリアはメネギーニと別れる決意をしていました。
結婚生活は終わりをつげ、マネージャーも辞めさせました。
世紀の歌姫の大富豪の恋は、マスコミも注目します。

「私は長いことカゴの中で飼われていると感じていました
 ですから、活気にあふれ魅力的なオナシスや彼の友人たちに出会った時、私は生まれ変わったのです」

マリア・カラスがオナシスと恋に落ちた翌年・・・
1960年、マリアが36歳の時、オナシスが妻と離婚します。
マリアは、アメリカの市民権を放棄して、1966年、42歳でギリシャ国籍を取得します。
オナシスと結婚するためでした。
当時、マリアを悩ませていたのは声の衰えでした。
ある時、パリのオペラ座で公演した時も、最後まで持たずに途中降板していまいました。

「歌っていたのは本当の私ではないのよ
 自分の声ではなくて、聞き覚えのない他人の声に聞こえたわ」

超えの衰えたマリアは、仕事を控え、オナシスとの生活を最優先しました。

「8年半もの間 共に生きてきて 私は心から言います
 あなたのことをとても誇りに思い 全身全霊をかけてあなたを愛していますと・・・
 そして、あなたもまた私に対して同じ思いでいることを願っています」

ところが・・・この手紙が書かれた9か月後・・・
1968年・・・オナシスは、もとアメリカ大統領夫人ジャクリーン・ケネディと再婚します。
この衝撃的なニュースを新聞で知ったマリア・・・
結婚式当日は、オナシスとよく行ったレストランに足を運びました。

「私には屈辱よ
 2か月たっても立ち直れない」

オナシスとジャクリーンが結婚して数か月後・・・
マリアのアパートを一人の男が訪ねてきました。
なんと、オナシス・・・ジャクリーンと離婚はしないが、マリアとよりを戻したいというのです。
マリアは拒絶・・・しかし、結局はオナシスを許し、受け入れるのです。
心の支えが戻ってきたマリアは、47歳で新たな挑戦を始めます。
ニューヨークのジュリアード音楽院で、若者たちに教えたのです。

聴講生には、世界三大テノールと言われるプラシド・ドミンゴ、ルチアーノ・パヴァロッティの姿もありました。
再びステージに立つ気力の湧いたマリアは、1973年、49歳で世界各地をコンサートで回ります。
ヨーロッパやアメリカなど世界9か国を回り、最後は日本でした。
札幌での公演を終わりホテルに戻ると、マリアを愕然とさせる報せが・・・オナシス緊急入院!!
マリアはパリで入院中のオナシスのもとへ・・・!!

「私よ マリア
 あなたのカナリヤよ
 あなたを愛している
 これからもずっと愛し続ける」
 
9日後・・・
1975年3月15日、オナシス死去・・・69歳でした。
マリアが葬儀に参列することは許されませんでした。
オナシスの死後、マリアはパリの自宅からほとんど出ませんでした。
ステージにも、札幌公演を最後に、二度と立つことはありませんでした。
過去に自分が歌った歌声を、聞いてばかりだったといいます。
夜・・・眠れなくて睡眠薬を飲み、朝・・・頭をすっきりさせるために興奮剤
1977年9月16日、マリア・カラス53歳、自宅で急死・・・
心臓麻痺と言われています。

晩年自伝を書くことを勧めた作家に対してこう言っていたといいます。

「自伝ならもう書いたわよ
 それは、私が演じてきた音楽の中にあるわ
 音楽こそ私が知る唯一の言語なんですもの」

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紀元前200年の中国大陸・・・
民に圧制を敷く秦帝国を倒そうと立ち上がった二人の英雄がいました。
ひとりは若きエリート将軍の項羽。
戦の天才と謳われ無類の強さを誇りました。
もう一人は農民出身の劉邦・・・この時すでに40歳を過ぎていました。

地方の小役人だった劉邦は、酒と女が大好きなダメおやじ。。。
項羽と戦っても負け続けた劉邦・・・そのたびに、命からがら逃げ続けました。
ところが、最後に天下を握ったのは劉邦でした。
人生の半ばでセカンドチャンスにかけた劉邦・・・皇帝に上り詰める奇跡の大出世を遂げます。
どうして天下をとれたのでしょうか・・・??

紀元前221年、圧倒的な武力で史上初めて中国を統一した秦の始皇帝・・・しかし、秦は、万里の長城や始皇帝陵などの建設など、民に重い負担を強いて各地に反乱を招きました。
そうした民衆を率いたのが劉邦です。
しかし、彼は40過ぎまで自他楽な生活を送っていました。
そんなダメおやじが、どうしてリーダーになったのでしょうか?
劉邦は、現在の北京と上海の間の農村地帯・沛県に生れました。
紀元前91年ごろに完成した中国の歴史書「史記」によると・・・
農家に生まれた劉邦は、家業を嫌い定職にも就かず、酒と女が大好きな自他楽な生活が好きなダメおやじでした。
そんな劉邦・・・一つだけ長所がありました。
それは人相です。
花が高く、美しい髭を蓄えた竜顔の持ち主でした。
竜顔は天子の顔と言われ、徳の高い証でした。
そのせいか、彼がただ酒を飲んでいるだけで人が集まってきました。
そんな不思議な魅力を持つ男でした。
劉邦はその人望を買われて地方の小役人となり、結婚・・・
しかし、40歳を過ぎた頃、劉邦の運命は大きく変わることとなります。

紀元前210年、秦の始皇帝が死去・・・
これをきっかけに重い税と過酷な労働を強いていた秦に対し、各地で反乱が起きました。
各地で起きた反乱勢力は、やがてかつて秦に滅ぼされた楚に集まりました。
そして国王を擁立して楚を復活させ、反乱軍の中心にしました。
この時、劉邦も反乱に加わり、反乱軍のリーダーの一人となっていました。
軍といっても劉邦のもとに集まったのは、戦の経験もない農民たち・・・寄せ集めの集団でした。
楚に続々と集まってくるリーダーたち・・・楚の国王は宣言します。

「先に関中を平定したものをその地の王とする」と。

関中とは、秦の都を中心とする地域で、その王になるということは秦帝国を滅ぼすことを意味していました。
王の地位を夢見た劉邦は、打倒秦を目指して、早速関中を目指します。
そこに立ちはだかったのが、最大のライバルである項羽でした。
項羽・・・今も絶大な人気を誇る武将です。
項羽はこの時20代の若武者で、祖父はかつての楚の将軍というエリートでした。
身長180cmを超える大男で、頭がよく、力持ちだったといいます。
圧倒的な武力を誇る項羽軍は、まず秦の主力がいた城に向かって北上します。
そして、秦の主力20万人と激突!!
しかし、項羽の兵はわずか2万・・・賭けに打って出ます。
項羽は自分たちの乗ってきた船を川に沈めました。
三日分だけの食料を残して捨てさせます。
もはや・・・負けたら死ぬしかない・・・自軍をわざと窮地に追い込んで、兵士の力を引き出す作戦です。
楚の戦士は、一人で10人の敵を相手にしました。
その雄たけびは、天をも動かすほどでした。
追い込まれた項羽の兵はすさまじく、10倍もの進軍を撃破!!
しかし、項羽のすさまじさはこれにとどまりませんでした。

「秦軍をすべて生き埋めにしろ!!」

戦いで捕らえた20万人の兵を生き埋めにしたのです。
項羽の強さと残虐さは、この戦いで知れ渡ったといいます。

一方、南側から秦の都を目指した劉邦軍の戦いは、項羽の軍とは対照的でした。
劉邦軍が秦の南の拠点に迫った時・・・反乱軍の勢いに押され、秦の終わりを悟った司令官は命を助けてくれるのなら降伏すると和平を持ちかけてきたのです。
それに対し劉邦は一言こう言いました。

「善」

劉邦が秦の民に対して”力で抑えるのではない””人を殺すのではない”という認識を与えました。
劉邦軍は寛大だという噂はすぐに広まり、秦の拠点は次々と劉邦に降伏していきました。
その結果、劉邦は項羽よりも早く秦の都に到着し、王の権利を得ます。
すでに主力軍を失った秦王に抵抗する力はなく、劉邦に降伏・・・
ここに秦は滅亡するのです。
この時、劉邦は秦王の命はとりませんでした。

「楚王が私を派遣したのは、私の寛容さに期待してのこと、それを裏切ることはできない」

敵の命乞いには寛容だった劉邦ですが、聖人君子だったわけではありません。
秦王朝の財宝や美女たちを手あたり次第漁ろうと、喜び勇んで宮殿に入りました。
軍師の張良が劉邦を諫めます。

「天下のために動こうとするならば、目の前の快楽に我を忘れてはなりません
 それは暴君のすることと同じです」by張良

張良は、戦の素人集団を支えた名軍師でした。
劉邦は全幅の信頼を寄せていました。
張良の言葉を聞き、劉邦は略奪はせずに宮殿を出ます。

項羽より先に秦の都に入った劉邦・・・事前の約束では劉邦が王になるはずでしたが、項羽が猛反発!!
武力行使に出ます。
そして迎えた項羽と劉邦の直接対決・・・劉邦は項羽と何度も対決して、何度も負けています。
どうして項羽に負け続けたのでしょうか?
秦の都に一番乗りした劉邦は、
「項羽が都に入れないようにするべき」という部下の意見を聞き入れ、都への入り口を封鎖。
項羽を締め出しました。
これを知った項羽は激怒・・・!!
劉邦に後れを取ったとはいえ、秦の主力を倒した我こそ王になるべきなのに・・・!!

「劉邦を討つべし!!」

項羽は劉邦が封鎖していた都の入り口を突破!!
宮殿の外に、屈強な40万の兵を揃えました。
劉邦軍がわずか10万・・・!!
圧倒的な戦力の差を見せつけられた劉邦は、戦わずして負けを認めます。
みずから項羽の陣へ赴きます。
劉邦は、項羽に臣下の礼をとってこう言いました。

「私は、項羽将軍と力を合わせて秦を攻めました。
 ところが、思いもよらず私が先に都に入ることになってしまったのです。」

自分はあくまで項羽の部下であり、野心がないことを訴えます。
この時、項羽の軍師は、劉邦は危険だと進言します。

「かつて欲が深かった劉邦が、宝物にも女にも手を付けていない・・・
 これは、まさに劉邦の天下取りの志が小さくないということの現れです。
 今のうちに劉邦を亡き者にすべきです。」

項羽の軍師は劉邦を宴に招き、事故に見せかけた暗殺計画を立てます。
宴もたけなわになると余興の演舞始まります。
劉邦に華麗な舞から鋭い切っ先が迫ります。
飛び込んできたのは、危機を察した劉邦の部下でした。
異様に張り詰める空気・・・その時項羽は・・・ 

「壮士なり」

身を挺して守ろうとした部下の勇気を称え、項羽は肉と酒を与えてもてなしました。
劉邦はその隙に厠に行くふりをして逃走・・・!!

その数日後、項羽は清の都に入城!!
項羽のやり方は、劉邦とは真逆でした。
秦の王や王族を殺し、宮城に火を放ったのです。
都を焼く炎は、三か月続いたといいます。
その後、項羽は西楚を本拠地としました。
自らを「西楚覇王」を名乗り、18人の王に領地を分割!!
この時、劉邦も王として土地を与えられました。
しかしそこは、山ばかりで作物の育たないへき地でした。
項羽の横暴な振る舞いはエスカレート・・・楚の帝を殺害します。
あまりに無道な行いに対し、諸侯の怒りが噴出します。
反項羽の機運が高まるのを感じた劉邦は”打倒項羽”を諸侯に呼びかけます。
すると、続々と劉邦のもとに集まってきて・・・その数56万人の連合軍となりました。
西楚を攻撃します。
この時、項羽は遠征に出ていて留守だったために、連合軍が圧勝します。
勝利に意気上がる連合軍・・・占領地では略奪が横行し、酒宴に明け暮れる兵士が続出します。
これは劉邦の主義に反する行為ですが、劉邦に統制をとる力はありませんでした。
そんな中、劉邦が恐れていたことが・・・
項羽が遠征から戻ってきたのです。
項羽は3万の精鋭で連合軍を攻撃!!
勝利に気が緩み連合軍は10数万人が戦死しました。
項羽の追っ手に迫られた劉邦は、馬車から自分の子どもを蹴り落して逃げたといいます。
劉邦は3度も子供を蹴り落しましたが、その都度部下が馬車を止めて子供を拾い馬車に乗せました。
命からがら逃げかえった劉邦・・・自らの領地に戻ることもできずに、味方を求めてさまようことに・・・。

戦に負け続け、決して強くはない劉邦を支えたのが漢の三傑と言われた男たちでした。
優れた政治力で領地を治め劉邦軍を陰で支えた蕭何、的確な策と助言で劉邦軍を勝利へと導いた軍師の張良、劉邦が戦場で全幅の信頼を寄せる代将軍の韓信・・・どうして劉邦は自分よりも優れた者に慕われたのでしょうか?

連合軍が大敗北を喫したのち、劉邦は単独で項羽に向かうも負け続け、ジリジリと戦線を後退させていきました。
このままでは項羽に攻め滅ぼされてしまう・・・
そこで散り散りになった味方を集めるという任務に一人の男を抜擢します。
それが韓信です。
劉邦軍最強と称えられる韓信ですが、実は元項羽の部下でした。
韓信は何度も項羽に献策しますが、聞き入れてもらえません。
項羽に愛想をつかし、劉邦のもとにやってきたのです。
そんな韓信の勇猛ぶりは・・・
ある戦いで、20倍の敵を目にした韓信は、驚くべき行動に出ます。
川を背にしてわざと逃げ場のないところに陣を敷いたのです。
常識では考えられない無謀な行い・・・
後退すれば川に落ちて死ぬ・・・
ならば、攻めて前に出て討死しよう!!
死に物狂いで戦う韓信の軍は、遂に20倍もの敵を蹴散らしました。
韓信の戦いは背水の陣の言葉のもとになったといいます。
部下は、劉邦にこう進言します。

「韓信は、一国に二人といない優れた人物、国士無双です。」と。

劉邦は、韓信が項羽軍の武将であったにもかかわらず、大将軍に抜擢するのです。
劉邦が韓信に与えた使命は・・・
当時、項羽に恐れをなし、劉邦の連合軍から離脱する諸侯がたくさんいました。
韓信は、兵を率いて彼らを攻め、武力で従えて再び劉邦軍に参加させました。
諸国を回り敵を次々と従えていく韓信・・・遂に斉まで制圧・・・しかし、この時劉邦に韓信から意外な手紙が届きます。

「斉は嘘つきでこれまで裏切りを繰り返してきた国です。
 ついては私を仮の王にでもしていただかないと斉を治めることはできません。」

斉を従えるどころか、自ら王になりたいと言い出した韓信・・・
模試や裏切りでは・・・??と、激しく憤る劉邦。。。
しかし、この時、張良が劉邦に助言しました。

「ここは韓信を信じて望み通りになさいませ」

そこで劉邦は、韓信に意外な返事をします。

「有能な韓信が諸侯を平定したのだ
 仮の王とは言わず、真の王になるがよい」

これまでの働きを考えれば、お前が王になる資格は十分にある・・・この劉邦の計らいに、大いに感動する韓信。

「私の策を信じ、採用し、大将軍にもしてくれた
 すべては劉邦様のおかげ」

韓信がこうして国々を巡っていた頃、劉邦は広武山で項羽の進軍を食い止めていました。
広武山は、天然の要害で、さすがの項羽軍の攻めあぐねて膠着状態になっていました。
戦いが長引いたことで、項羽には焦りが生じます。
率いてきた数十万の兵士の食料が尽きかけていたのです。
遂に項羽は広武山の断崖に立ち、劉邦に呼びかけます。

「何年もの間、天下が乱れているのは、私たち2人のせいだ
 これ以上、民を苦しめるべきではない
 1対1で決着をつけようではないか」

しかし、劉邦は笑ってとりあいませんでした。

「力勝負はしない・・・!!」

つづけて劉邦は、項羽を激しく断罪します。

「項羽よ、お前はかつての秦の都に入り、暴虐非道の限りを尽くしこれを焼き払った
 お前はかつて、自分勝手に領地分けを行い、私を辺境の地に追いやった
 おまえはかつて、自らの主君たる楚の帝を殺した
 どれも天下の誰もが許すことのない極悪非道の罪である」

項羽の非道を堂々と断罪した劉邦・・・この言葉に共鳴した諸侯が次々と合流・・・
そして韓信は、30万もの見方を率いて劉邦のもとに向かっていました。

睨み合いを続ける劉邦と項羽・・・食糧は尽きかけ、不安が募ります。
しかし、劉邦軍にはその心配がありませんでした。
それは、三傑の一人・蕭何がいたからです。
領国の土地を豊かにし、民を増やし、前線に食料を送っていました。
当時の戦争で最も大事なことは、戦場の局面ではなく後方からの補給でした。
食糧がなければ戦争はできないのです。
項羽軍の弱点は、補給が不足していたことです。
1年が過ぎるころには、項羽軍は深刻な食糧難でした。
そのため、兵力の体力も士気も下がってしまう・・・。
ついに項羽は劉邦と和平を結びます。
本拠地に戻って立て直そうとしたのです。

撤退を始めた項羽軍・・・ようやく故郷に帰れると、兵士たちはホッとしていました。
しかし、劉邦軍では

「今こそ、項羽軍を討つ好機です」by張良

劉邦は約束を破り、項羽軍に追撃をかけました。
不意を突かれた項羽軍は総崩れ・・・項羽は何とか追撃を逃れ垓下にたどり着きます。
古くからあった城に籠城します。
この垓下城は、詳しい場所がわからず、真偽のほどはわかりませんでした。
が、2007年実際にあったことが確認されています。
項羽が籠城した城は、川と堀に囲まれた小高い丘にあり、東京ドーム4個分の難攻不落の要害でした。

劉邦は、籠城する項羽軍を幾重にも包囲・・・城は簡単には落ちそうにありません。
そこで劉邦は・・・??
何十万もの劉邦軍の兵士に、項羽の故郷・・・楚の国の歌を歌わせたのです。
東西南北・・・四方から聞こえる楚の歌を聞いた項羽は・・・

「なんと楚の人が多いことか・・・
 楚はすべて、劉邦の手に落ちてしまったのか・・・??」

項羽は楚の国が陥落し、楚の民が劉邦軍のものになったのだと思い込んで涙を流したといいます。
四面楚歌という言葉はこれから生まれました。
追いつめられた項羽軍は残りわずか・・・食料も尽きようとしていました。
項羽は800の兵を率いて城を出ると、劉邦に最後の戦いを挑みます。
しかし、やがて力尽き・・・長江のほとりで自害して果てました。
31歳・・・紀元前202年のことです。

何度も負け続け、しかし、最後に勝利した劉邦・・・
後に劉邦は天下をとれた理由についてこう語っています。

「わしは張良のように策を巡らし、戦場の勝敗を決することはできない
 わしは蕭何のように民を愛し、食料の供給を絶やさず安心させることはできない
 わしは韓信のように軍を率いて戦いに勝つことはできない
 だが、わしはこの3人の英傑を使いこなすことができた
 これが、わしか天下を勝ち取った理由だ」

紀元前202年 劉邦が皇帝に即位。
その後400年続く漢の誕生です。

しかし、皇帝となってからの劉邦は、人が変わったかのように冷徹な行いをしました。
劉邦は部下やかつての連合軍の諸侯たちに反乱、逃亡、暗殺などの疑いをかけ、部下たちを粛正していきます。
部下たちのおかげで天下を取ったのに・・・。
その矛先は、打倒項羽の立役者・韓信にも向けられました。
韓信に謀反の疑いをかけて位を奪い斬殺!!
漢王朝をひらいてから7年・・・仲間の粛正を重ねる中、劉邦は戦いでできた傷が元でその生涯を終えます。
62歳でした。

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