日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: 追跡者 ザ・プロファイラー

京都の夏を彩る祇園祭、豪華な仮面をつけたイタリアの人々が行き交うベネチアカーニバル・・・
この二つの祭り、同じ起源を持っています。
共に伝染病を追い払い、悲惨な光景を後世に伝える儀式・・・
人類を太古の昔から、苦しめてきた見えない悪魔・・・細菌やウイルスは、今も私たちの生活を脅かしています。
今からおよそ120年前、科学を武器に伝染病に挑んだ日本人がいました。

医学者・北里柴三郎です。

未知の病を解明し、多くの命を救った北里・・・
しかし、その道のりは平たんなものではありませんでした。
2024年から1000円札の新しい顔となる北里柴三郎・・・明治の日本で、世界に認められる研究を成し遂げ、予防医学の礎を築きました。
1886年、北里は、医学先進国だったドイツに留学、ひたすら研究に明け暮れる日々を送りました。

「人に熱と誠があれば何事でも達成する」by北里柴三郎

その努力が実を結び、破傷風などの道の病を解明・・・治療法を確立し、医学の進歩に貢献しました。
明治の半ばごろには、北里の名はヨーロッパに広まり、日本人初のノーベル賞候補に・・・!!
しかし、帰国した北里を待っていたのは、苦難の連続でした。
己の信念を貫く余り、国の方針と対立!!
研究と治療の場を失い、孤立した北里を救ったのは、日本を代表する教育者でした。

”国民の衛生状態を向上させたい!!”

日本細菌学の父とされる北里柴三郎・・・ところが、少年時代に憧れたのは、軍人でした。
そればかりか・・・

「医者は一人前の人間がすることではない」by北里柴三郎

そんな少年が、どうして医学者になったのでしょうか?

1853年、北里は、小さな村の9人兄弟の長男として熊本で誕生
庄屋の息子だった北里は、ガキ大将で、肥後もっこすそのもので、一度言い出したら聞かない頑固者でした。
その頃の日本は、西洋の技術や制度を積極的に採用し、近代化を図っていました。
ところが、同時に厄介なものももたらされます。
コレラや赤痢といった未知の伝染病です。
100万人以上暮らす江戸では、コレラだけで10万人の犠牲者が出たと言われています。
北里は、5歳の時に弟と妹を疫病で失いました。
当時の医者には、手立てがなく、隔離したり看取ることしかできませんでした。

「医者と坊主は一人前の人間がすることではない」by北里

北里は18歳になると将来の夢を抱きます。
それは、職業軍人になることでした。
その為、陸軍学校に進もうと考えていました。
ところが、両親は猛反対・・・医者になることを望んだ父親は、地元にできた医学校(現在の熊本大学医学部)への進学を強く勧めました。
心ならずも地元の医学校に入学した北里・・・しかし、ここでの出会いが、北里を医学の道へと誘いました。

オランダ人講師のマンスフェルトです。
北里が、授業で唯一興味を持ったのは、軍人になっても役立つ語学でした。
マンスフェルトは、北里を気に入り、やがて授業以外でも個人的に教えるようになります。
そんなある日、北里はマンスフェルトに聞かれます。

「君は本当に医者になるつもりがあるのか?」byマンスフェルト

「両親に言われて、そのように装っていますが、実はここで語学だけを学び、将来は軍人になりたいのです」by北里

「ならば、今日一日も無駄にしてはいけない
 だがな、医学も決して無用な学問ではないぞ」byマンスフェルト

それからしばらくすると、マンスフェルトは北里にある物を見せました。
当時、日本ではまだ珍しかった顕微鏡です。
見えたのは、無数の細菌でした。
肉眼では見えないミクロの世界に、北里は異常な興奮を覚えました。

「医学もまた学ぶに足りる!!」by北里

1874年、21歳でマンスフェルトの勧めで東京医学校(後の東京大学医学部)に入学します。
学生寮に入り、学費を稼ぐために牛乳の販売会社でアルバイトにも励みます。
北里は、実にバンカラな学生生活を送りました。
肥後もっこすの性格そのままに、頑固で正義感が強かった北里・・・学生のリーダーとして、演説会や討論会を開き、時にはストライキをして暴れ回ったといいます。
校長は、やりたい放題の寮生を抑え込もうと、2人の屈強な男を監督として送り込みます。

「諸君の乱暴は、真に甚だしい
 今後、学生の本文に背いたものは、少しも容赦しない」

「貴君は、今日、就任したばかりではないですか
 生徒の行動が不良とどのように知ったのですか?」by北里

「校長などから聞いておる」

「他人の話だけで、人間を判断するのか」by北里

そう畳みかけると、男は二度と口を出しませんでした。

もちろん、医学も熱心に学びます。
しかし、北里は、疑問を感じるようになっていました。
当時、日本の医学では、病にかかった患者を治す治療医学がほとんどでした。

1878年、25歳の時に書いた「医道論」・・・演説の原稿には、北里がどんな医学を目指したいのかが記されています。
”人民に健康法を説いて、身体の大切さを知らせ、病を未然に防ぐ
 これが、医道の基本である”

当時、伝染病の原因がわかりませんでした。 
ただ、人にうつるということが、わかっているだけ・・・
伝染病の感染拡大を防ぐには、自分たちの命を一番に考えて、摂生保健=日々の生活の中で健康に気を配ることで病を未然に防ぎましょう・・・これが、医道論でした。

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1883年30歳で東大医学部を卒業・・・
卒業と同時に、バイト先の社長の姪・乕(とら)と結婚しました。
社長が、北里の人間性に惚れ込んですすめたと言われています。
二人は仲睦まじく、後に4男3女を設けました。
同級生のほとんどは、地方病院の院長など、人もうらやむ高給取りになります。
しかし、北里が進んだのは、内務省の衛生局でした。
地方病院の院長210円
内務省衛生局  70円・・・
給料は、同級生のわずか1/3でした。

衛生局は、全国の病院や衛生環境を調査でき、さらに、ヨーロッパへの留学も可能でした。
北里に迷いはありませんでした。

「学術を研究し、国民の衛生状態を向上させたい・・・!!」

2年後、32歳の北里は、医学先進国・ドイツに留学を命じられます。

ドイツに来た時、北里は東洋の片隅からやってきた無名の留学生にすぎませんでした。
しかし、ここで画期的な研究論文を次々と発表し、第1回ノーベル賞の最終候補にまでなります。
どうしてそんなことが出来たのでしょうか??

1886年、32歳の時、ベルリン大学(現フンボルト大学)の衛生研究室に留学しました。
研究室を率いていたのは、ローベルト・コッホ・・・伝染病の原因となる細菌を次々と発見し、細菌学の世界的権威として知られていました。
コッホの元には、世界中から優秀な研究者が集まっており、新入りの北里は、特に目立つ存在ではありませんでした。

「私はその時、ドイツ語の上手い日本人が来たという印象しかなかった」byコッホ

しかし、北里は、自分の評判など気にしなかったといいます。
とにかく熱心に研究に取り組みました。
留学して最初の1年間は、下宿と研究室の間の道しか知らないほどでした。
ある時、コッホは部下から報告を受けます。

「北里は珍しい男です
 我々ドイツ人にも、彼ほどの勉強家は見当たらない」

コッホに目をかけられるようになった北里は、やがて重要な研究を任され、中心メンバーとなります。
ところが、思いもよらないことが・・・
内務省から突然、ドイツの他の研究室へと移動を命じられたのです。
北里は、この一方的な移動にカチンときました。

「細菌学は最新の学問で、1年2年では学びえないことだけはお分かりでしょう
 細菌学研究に関しては、私に一任していただきたい」by北里

しかし、どうあっても国の方針は変えられないという・・・
この時、北里を救ったのはコッホでした。
コッホは、内務省の担当者に直接会って、北里が必要な人材であることを伝えました。
おかげで北里は、研究室に留まることが出来たのです。
その後、北里は、世界的な研究を成し遂げます。

それが、破傷風の解明です。
破傷風とは、伝染病の一種で、傷口から体内に破傷風菌が入ると、筋肉がこわばり、最後にはけいれんし、身体が反り返ってしまう・・・現在でも感染者の半数が死に至る恐ろしい病です。
破傷風菌・・・北里が研究したのは、特定の金だけを取り出して培養する純粋培養でした。
当時、破傷風菌だけを増やすのは、出来なかったのです。
多くの研究者が、純粋培養に挑みましたが、成功者はいませんでした。
しかし、北里は、何度失敗しても諦めませんでした。

「人に熱と誠があれば何事でも達成する」by北里

研究を始めて1年後、北里ははしょうふう菌のある特徴に気付きました。
他の菌とは違い、破傷風菌はどんな時も空気から遠いところに集まっていたのです。

破傷風菌は酸素を嫌っているのか??
なんとか酸素がない状況を作れないものか??

そこで北里は、亀の子シャーレを開発します。
破傷風菌をシャーレの中に入れます。
そしてそこに水素を送り込み、空気中の酸素を追い出します。
最後にシャーレの口を閉じ、酸素がない状況を保ちます。
そうすると、破傷風菌は見る見るうちに増殖しました。

1889年、36歳の時、北里は、世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功しました。
このことは、新聞でも報道され、北里の名は、ヨーロッパじゅうに轟きました。
さらに北里は、これに満足せず、破傷風の治療法の確立に取り掛かります。
実験に使ったのは、破傷風菌そのものではなく破傷風菌が出す毒素・・・
北里は、動物の体内に、この毒素を少しずつ注入していきます。
すると、同じグループの中で、致死量の毒素を入れても病気を発症せずに生きる個体がいました。
これは、動物の体内の血液中に、毒素を消す抗体が生まれ、免疫の役目をはたしていたためです。
この抗体を含む血清を、破傷風の患者に注射すると、たちまち症状が回復しました。
これは、血清療法と呼ばれ、北里が世界で初めて確立した治療法です。
伝染病に対する治療法がほとんどなかった当時は画期的なものでした。
この治療法は、同じコッホ研究室のベーリングとの共同論文として発表され、大きな話題を呼びました。
これによって北里は、11年後の1901年、第1回ノーベル医学生理学賞最終候補に選ばれます。
しかし、その栄冠に輝くのは、共同開発者のエミール・フォン・ベーリングでした。
彼は後にこう語っています。

「私が短期間で研究を改正できたのは、北里の感嘆すべき破傷風の研究結果と彼の協力があったからである」

北里は、1901年に日本に帰国していて、コレラ・赤痢に対する対策に非常に忙しくしていました。
あまりノーベル賞については頓着していなかったのでは??といわれています。
この研究によって北里は、世界の医学者と肩を並べる存在となりました。
欧米中の研究機関から、好待遇のオファーが次々と舞い込みます。
しかし、北里はこれらの誘いを丁重に断ります。

「学び得た全ての術で我が同胞の苦しみを救いたい」by北里

北里は、6年の留学を終え、39歳で日本に帰国しました。

世界的な功績を挙げたことで、内務省では北里を中心に伝染病の研究所を計画する話が持ち上がります。
しかし、これに横やりを入れてきたのが、文部省でした。
東京帝国大学内に、伝染病研究室を開設するべきだと国に提案します。
北里潰しとも取れる行為でした。
これは、北里と帝大の間でもたらされていた確執が、原因の一つでした。
確執の始まりは、数年前の脚気論争・・・
脚気とは、ビタミンB1の欠乏によって下半身のしびれや心不全を起こす疾患です。
ビタミンの概念のない当時は、伝染病の一つとして考えられていました。
1885年、帝大の教授・緒方正規が、脚気の原因は脚気菌という細菌によるものだという論文を発表しました。
しかし、北里は、脚気の原因は菌ではないと強く否定したのです。
北里の反論に、帝大側は激怒!!
何故ならその教授は、留学前の北里を指導していた恩師だったからです。
しかし、北里には関係ありませんでした。

「その説に非があるとすれば、たとえ親子兄弟師弟といえども、批判すべきなのが学者の一大義務と考える」by北里

当然帝大は、北里の行動を恩知らずと非難・・・
内務省と文部省の綱引きで計画は進まず、北里は研究の場すら持てずにいました。
そんな北里に救いの手を差し伸べた人物がいました。
慶應義塾の創設者・福沢諭吉です。

「すぐれた学者がいるのに、それを無駄にするのは国の恥である」by諭吉

福沢は、自らの土地と私財を投じ、北里のために私立伝染病研究所を設立します。
ここで北里は、日本で初めて血清療法を行います。
子供の死因の一つだった感染症・ジフテリア治療は、成功率90%でした。
恩師コッホのように伝染病研究所の所長となった北里は、しかし、若手の指導では肥後もっこすを貫きます。
しかし、怒った後は、からっとしていてわだかまりを残すことはありませんでした。
所員達は北里を、敬愛を込めてこう呼びました。
”ドンネル”・・・ドイツ語で雷の事です。

「北里先生のところに行きますと、なんだか威圧された、おっかぶせられた感じが致しました
 しかし、どういうものか甘えてみたいという気分も致しました」

北里のもとでは、黄熱病の研究で知られる野口英世や赤痢菌を発見した志賀潔など、優秀な研究者が育っていきました。
志賀は、赤痢菌を発見した当時のことをこう振り返っています。

「私は大学を出たばかりの若僧だったから、先生の研究助手というのが本当であった
 しかるに論文を発表するに当たり、先生は私一人の名前で書くように言われた
 赤痢菌発見の手柄を、若僧の助手一人に譲った宣誓を、私はまことにありがたきものと思うのである」志賀

1894年、41歳の時、北里のもとに衝撃的なニュースが舞い込みます。
香港で、ペストが猛威を振るっているという・・・
皮膚が黒ずむ症状から黒死病とも呼ばれたペスト・・・
中世のヨーロッパで大流行し、全人口の1/3を奪ったといいます。
極めて危険な伝染病でした。
当時すでに、香港と日本の間で盛んに貿易船が行き来していました。
船を経由してペストが上陸してくるのは時間の問題・・・!!
強い危機感を抱いた明治政府は、北里をリーダーに6人の調査団を香港に派遣しました。
命の保証などありませんでした。
香港に到着した北里たちの目には、病院から溢れんばかりの人が・・・その致死率は、9割近くにのぼっていました。
北里たちは、ペスト患者たちがいる病院の物置を即席の研究室としました。
そこに遺体を運んでペストの原因を探ります。
棺の蓋が、解剖台の代わりでした。
締め切られた部屋の温度は、40度近くに達しました。
死と隣り合わせの作業・・・この調査で、2面の研究者がペストに感染しましたが、なんとか一命はとりとめました。
研究開始から5日目・・・
北里は、日本に1本の電報を打ちました。

”今回、黒死病の病原を発見せり”

北里は、数百年にわたって人類を苦しめてきた伝染病の原因・・・ペスト菌を世界で初めて発見したのです。
この偉業は、世界中で報道され、称賛を集めました。
帰国した北里が行ったのは、ペストの予防対策でした。
全国から医師を集め、講演会を実施。
感染予防や消毒の方法などを説いて回りました。
同時に、ペスト治療のための血清の開発も進めました。
さらに、自ら内務省衛生局のTOPの掛け合い、伝染病対策の指針となる法律の制定に着手します。
こうして、1897年、43歳の時に伝染病予防法制定。
ペストは、国の伝染病に指定され、以下のような予防策が決められました。
感染者の隔離、上下水道の整備、外国船の検疫・・・
この法律は、1997年に改正されるまで、100年近くにわたって施行されることになります。
北里の功績を認め、1899年、46歳の時に内務省管轄の国立伝染病研究所となりました。

「学問や知識は、人々に普及させなけれ世のためにならない
 ことに、医学衛生においては、学問と生活を結びつけるのが学者の責務である」by北里

研究所が国立となった年、ついにペストが日本に上陸します。
しかし、北里たちの尽力で、大規模な感染に至ることはありませんでした。

国立伝染病研究所は、ドイツのコッホ研究所、フランスのパスツール研究所と共に、世界三大研究所と呼ばれました。
ところが北里は、61歳の時に研究所を退職し、私財を投じて新たな研究所を作ります。

1914年10月、北里は突然文部省から呼び出されます。
それは、伝染病研究所の管轄が、内務省から文部省へと移る通達でした。
伝染病研究所は研究機関なので、文部省が監督すべきであるという理由です。
また、更なる発展のため、研究所は帝大の傘下に入れるということでした。
これは、北里にとっては受け入れがたいことでした。
内務省が所管している研究機関であれば、自分たちの研究結果はすぐに実践できる・・・
しかし、文部省だと教育研究の現場なので、人々に向けての保健衛生的な段取りができなくなるのです。
自分達がやっている伝染病の封じ込めに、大きな支障になるのではないか??
このままでは、予防医学の実践ができなくなるかもしれない・・・
しかも、確執のあった帝大の傘下に入れば、研究所が嫌がらせを受ける可能性もある・・・

6日後・・・1914年10月20日、北里は、研究所の全員を集めてこう告げました。

「私は昨日、きっぱりとこの職を辞した
 しかし、諸君らにはまだ開かれた未来がある
 一路研究に励み、国家のため、学問のために、ますます奮励されることを望む」by北里

ところが、
「北里先生が去られて、我々だけが留まるわけにはいきません」

志賀潔をはじめとする北里の直弟子の研究者35名も辞表を提出・・・
さらに、守衛や事務員、女性職員に至るまで、ほぼ全員が研究所をやめました。

「私を慕ってくれる気持ちは嬉しい・・・しかし、彼等の生活をどうやって守るのか・・・??」by北里

新たに研究所を作って、彼らを雇うしかない・・・
北里は、妻と子を集めてこう切り出しました。

「今度、自分は伝研をやめ、若い者に意志を継がせたいと再三話したが、どうしても行動を共にすると言って聞き入れてくれない・・・
 皆の熱意を無視するのも忍びないので、それに伴う資金に貯金の大部分を当てたいが・・・」by北里

「どうぞ、役立てていただきましょう」by乕

翌1915年、北里は、私財を投じて北里研究所を設立・・・
その額は30万円、現在の価値でおよそ3億円でした。
この研究所で、北里が取り組んだのは、スペイン風邪と結核の対策でした。

1918年、65歳の時、第1次世界大戦のさ中、ヨーロッパでスペイン風邪が大流行・・・
同じ年、日本にも上陸し、およそ38万人もの死者を出しました。
スペイン風邪は、ウイルス性のインフルエンザ・・・ウイルスが小さすぎて、当時の顕微鏡では見ることが出来ず、解明は出来ていませんでした。
北里研究所では、スペイン風邪の重症化を防ぐ治療薬を開発します。
期待した効果はありませんでしたが、それでも蔓延を防ごうと懸命に取り組みました。

もう一つ・・・北里が力を入れたのが、当時は不治の病とされた結核の対策でした。
「結核退治絵解」 

etoki
















現在では当たり前となった公衆衛生の基本を説いています。

1931年、北里柴三郎はもう一決に倒れ、その生涯に幕を下ろしました。
78歳でした。

その後、北里研究所は、大学や病院を抱える一大研究機関として今も活躍しています。

2015年、北里研究所の大村智さんが、ノーベル医学生理学賞を受賞・・・授賞理由は、”線虫感染症の新しい治療法の発見”でした。
北里が、第1回ノーベル賞候補に選ばれてから100年以上経っての栄誉でした。

「第1回ノーベル賞の受賞は、本来なら北里先生も入るか、単独で貰うべきだったと(先輩の)北里の門下生は言う
 私が首相したら、その先輩が本当に涙を流してくれました
 これが、北里研究所の職員たちの思いだったんだなっていうことを思いました
 北里先生の求められたものって、深くて幅が広いんですね
 私の生涯、一生頑張っても到達できない
 若手を美優文に育成して、北里先生の求めたるところを求めてもらう
 これが、私のこれからの希望です」by大村智

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今からおよそ1800年前の中国大陸・・・国は乱れ、各地で反乱が起きていました。
そこに新しい世を作ろうと、三人の英雄が登場します。

冷徹な天才政治家・魏の曹操
豊かな土地と文化を誇る・呉の孫権
裸一貫から一国の王に上り詰めた・蜀の劉備

しかし、劉備の建国までの道のりは、失敗と敗北の連続でした。
400年に渡り中国を治めた漢帝国・・・その力が弱まり、群雄割拠の世となったとき、一人の英雄が表れました。
劉備・・・3世紀、魏・呉・蜀の三国時代に、蜀の皇帝となった男です。
小説・三国志演義では、劉備が正義で曹操が悪人と描かれています。
高潔な人柄で、人々に慕われ、一騎当千の豪傑たちを率いる堂々たる英雄です。
しかし、歴史書の三国志に書かれている劉備は、俗物で泥臭い男でした。
貧しい家に生まれた劉備は、親の期待とは裏腹に勉強嫌いで博打好き・・・30過ぎまで自分の領地を持てず、有力者のもとに転々と身を寄せる居候でした。
戦でも、大事な場面で負け続け、ライバル曹操との直接対決では完膚なきまでに叩きのめされました。
しかし、義兄弟の契りを結んだ関羽・張飛・・・そして、・・天才軍師・諸葛亮に支えられ、数々のピンチに立ち向かいます。

劉備は成り上がりの俗物だったのか?
それとも、庶民の味方・真の英雄だったのか??

1800年前の中国大陸・・・
乱れた世を治め、民を救おうと立ち上がった劉備・・・彼の元には、様々な人が集まってきました。
その中に、呂布という武将もいました。
呂布は、無類の強さを誇る反面、権力のためには見方を裏切り、主君殺しとして有名でした。
劉備はそのことを知りながら、あえて呂布を部下とします。

どうして劉備は裏切り者を受け入れたのでしょうか?
161年、劉備は現在の北京から南の農村地帯に生れました。
実家は、漢王室の血筋を引く家柄とされていますが、父が早くに亡くなったので、没落し、暮らしは貧しかったのです。
少年時代の劉備は、母と共に草履やむしろを売って生活していました。
母は、親戚の援助を受け、劉備に儒学を学ばせます。
息子の将来に期待したのです。
しかし、三国志では、劉備は・・・

”読書が好きではなく、犬・馬・音楽を好み、衣服を美しく整えていた”

勉強に興味はなかったものの、犬や馬のレースを通じて、商人や地元の名士と友達になり、人脈を広げていきました。
そんな劉備・・・幼いころから大きな夢を抱いていました。

「俺はきっと、羽飾りのついた天子の車に乗ってやるんだ!!」by劉備

184年、劉備23歳の時、その夢をかなえるきっかけとなった事件が起こります。
黄巾の乱です。
多くの農民が各地で蜂起、漢の打倒を目指して戦います。
乱の原因は、漢の堕落・・・
政治腐敗が進み、役人の間では賄賂が横行していました。
役人は、私腹を肥やす反面、民衆には重い税を課して苦しめていたのです。
そんな漢を倒すための黄巾の乱でしたが、戦いで土地は荒れ、略奪や暴行が相次ぎ、民衆の苦しみは消えることはありませんでした。
そこで劉備は、治安を守り、困窮した民を救おうと立ち上がります。
有力な商人から資金を援助してもらい義勇軍を結成。
その時、劉備のもとに集ったのが、後に一万の兵に匹敵すると言われた豪傑・関羽と張飛です。
劉備が目指したのは、漢帝国の再興・・・今の腐りきった漢ではなく、徳による政治が行われ、民が平穏に暮らすことができたかつての姿・・・それを取り戻すのが、漢王室の血を引く自分の務め・・・!!

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感想(8件)



その後、各地の混乱を治めて実績を積んだ劉備は、地方の行政官を任されるまでになりました。
自らの蓄財に興味のなかった劉備は、それまでの役人とは違い、民衆から不当に税を取り立てませんでした。
さらに、身分を問わず誰とでも分け隔てなく接した劉備は、民衆から絶大な支持を集めました。

その2年後・・・193年、徐州から援軍要請が来ました。
徐州は、上海から北西へ500キロ・・・古くから交通の要衝として栄えた土地です。
徐州に侵攻してきたのは曹操・・・漢の衰退をきっかけに、破竹の勢いで勢力を拡大する武将です。
曹操は、漢帝国の高官の家柄で、中国北部を抑え勢力を伸ばしていました。
曹操は、歯向かうものは容赦なく叩き潰す冷徹な武将・・・
領国では農政や軍事に革新的な手腕を見せました。
しかし、厳しすぎる規律のために、逃げ出す者もたくさんいました。
そんな曹操との初対決に臨んだ劉備・・・
圧倒的な軍事力を誇る曹操に叩き潰されました。
降伏も時間の問題か・・・??
しかし、幸運なことに曹操は途中で撤退していきました。
曹操の留守中に反乱がおきたため、やむ終えず引き返したのです。
曹操軍が撤退したことで、194年、33歳で劉備は徐州を領有します。
それから1年後・・・劉備を頼って一人の武将が身を寄せてきました。
無類の強さで天下に知られた呂布でした。
呂布は、漢の高官の部下でしたが、権力を掴むためには裏切りもいとわず、仕えた主君を次々と殺害・・・
誰もが眉を顰める主君殺しの武将でした。

しかし、劉備はそれを承知で呂布を部下にします。
案の定、呂布は劉備の留守に反乱・・・徐州を強奪します。
劉備は行き場を失いました。
この時、劉備が頼ったのは、かつての敵・・・曹操でした。
この時、曹操も呂布と敵対していました。
それを知った劉備は、共同戦線を張ろうと持ち掛けたのです。
曹操の援軍を得た劉備は、苦戦を強いられながらも勝利し、呂布を捕らえました。
曹操は、武将として能力の高い呂布を生かそうと考えます。
しかし、劉備は主君を裏切った呂布を信用できない・・・と主張します。
結局、呂布は処刑されました。

かねてから劉備を高く評価していた曹操は、その後も劉備を手厚くもてなします。
曹操にはなかった”徳”を劉備は持っていました。
そんな劉備に対して、曹操は畏敬の念を持っていたのです。
しかし、2人の蜜月は、長くは続きませんでした。
ある日、曹操は、劉備にこう言いました。

「天下の英雄と言えば劉備と曹操だけだ」by曹操

劉備は思わず箸を落としました。
何故なら、後ろめたい思いがあったからです。
少し前、劉備は漢の第14代皇帝・献帝から、曹操暗殺の密命を受けていたのです。
暗殺計画が表沙汰になれば命はない・・・
劉備は、敵軍討伐を口実に、曹操のもとを逃げ出します。

関羽、張飛と共に向かったのは、徐州・・・
劉備は、かつて呂布に奪われた徐州の奪還に成功します。
この時、38歳でした。

戦乱の世に名乗りを上げた劉備・・・
しかし、領地を得るような大事な戦に負け続け、部下を率いて流浪の日々が続きます。
そんな劉備を慕ったのは、土地を追われた貧しい民・・・
劉備についてくる民の数は膨れ上がります。

負け続けの劉備に、どうして人々はついて行ったのでしょうか?

曹操のもとを逃げ出し、徐州を取り返した劉備・・・
しかし、劉備の裏切りに激怒した曹操は、自ら精鋭を率いて徐州に攻め込んできました。
曹操軍の強さを身に染みてわかっていた劉備は、震えあがります。
戦わずして、妻子を見捨てて逃走~~!!
劉備と兄弟同然のつながりで結びついていた関羽は、曹操に捕らえられてしまいます。
一方、逃げた劉備は、曹操と敵対していた豪族のもとに身を寄せ、居候となりました。

捕虜となった関羽・・・しかし、意外にも手厚い歓待を受けます。
曹操から金品や名馬を授かり、さらに、兵士と土地まで与えられたといいます。
曹操は、武勇に優れた関羽を部下にしたいと思っていました。

しかし、関羽は・・・

「曹操公が私を厚遇してくださるのはよく知っていますが、私は劉備様から厚い恩義を受けており、一緒に死のうと誓った仲です
 あの方を裏切ることはできません」by関羽

その代わりに、曹操軍を苦しめていた将軍を討ち取ります。
そして早々に受けた恩を返したのです。
こうして関羽は、曹操の誘いを断り去っていきました。
もとの主君に帰っていくのは、中国では極めて例外的です。
破れてしまった主君を捨てて、新しい有能は主君に仕えて自分の才能を生かしていくというのは、中国では普通なのです。
生かして劉備のもとに返せば強敵になる・・・家臣たちは、関羽に追い討ちをかけようとしました。
しかし、曹操は、

「彼は彼なりに、主君のためにしているのだ
 追跡してはならない」by曹操

関羽が戻れば、許(曹操の本拠地)の情報が全部バレてしまう・・・
しかし、曹操は関羽を信じてもとの君主である劉備のもとに帰っていく関羽を”義”だと評価しています。

三国志 Three Kingdoms 第1部~第9部 ブルーレイ全9巻

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感想(4件)



再び関羽と合流した劉備・・・
今度は、漢の皇帝の血を引く劉表のもとに身を寄せることになります。
劉表の治める荊州は、中国大陸のほぼ真ん中・・・戦乱の世で中立と平和を保ち、多くの儒学者が集まっていました。
劉備は、曹操に対抗できる武将として厚遇されました。
平穏な日々が6年続きましたが、天子の車に乗るという幼いころの夢には近づくこともできないまま、46歳になっていました。

「月日が経つのは早く、すでに老いも目前に迫っている
 だが、何の功績も立てられず、あまりにもふがいない」by劉備

劉備は考えます。

”どうして自分は領地を持てないのか?”

「戦いに勝つだけではダメだ・・・
 民や土地を治め、長期的な戦略を描ける優秀な軍師が必要だ」by劉備

そんなある日、劉備は近くの村にいる男のうわさを聞きつけます。
才能がありながら誰にも仕えず暮らしているという・・・
その名は、諸葛亮・・・自分よりも20歳も若い男でした。
劉備は早速、諸勝郎の家をたずねてみました。
しかし、旅に出ていて不在だという・・・
日を改めて訪問しましたが、またしても留守でした。
それでもあきらめず3度目に訪れた時・・・

「劉備殿・・・先生が戻られました」

仮にも将軍の劉備が、実績のない若者に最大限の礼を尽くしたのです。
いわゆる”三顧の礼”です。
諸葛亮は、こうした劉備の姿勢に感動し、会うことにしました。
諸葛亮は、諸国の情勢を分析し、天下統一の道筋を示します。

今、劉備が強大な曹操と戦うのは得策ではない・・・
そこで、南の大国・呉を二代に渡って治めている孫権と手を組み、曹操に対抗させる・・・
両者が争っているうちに、劉備は拠点となる土地を手に入れ、第三の勢力になる・・・
そして、天下統一への足掛かりをつくる!!

この策は、”天下三分の計”として後に広く知られることになります。

一方、曹操は、着々と領土を広げていました。
劉備と諸葛亮が会った翌年の208年、曹操は荊州に侵攻を開始、再び劉備に迫ってきました。
時を同じくして、荊州の主・劉表が死去・・・
この時、諸葛亮は、劉表の息子を討てば荊州を奪うことができると進言しました。
しかし、劉備は、
「しのびない・・・」
ところが、劉表の息子は、曹操と戦わずしてあっさり降伏してしまいました。
止む無く劉備は、仲間と共に、荊州を離れます。
曹操の厳しい仕打ちを恐れた民衆は、劉備たちの後を追いました。
その数、十数万人・・・!!
この状態で、曹操の追撃を受ければひとたまりもない・・・
劉備の部下は、民を見捨てて我らだけで行きましょうと進言します。
しかし、劉備は

「大事をなすには 何よりも人をもってもととなす
 今、自分を慕って来てくれている人々を見捨てて行けるか」by劉備

多くの民を引き連れて、ゆっくりとした歩み・・・
瞬く間に曹操軍に追いつかれ、絶体絶命・・・!!
この時、劉備の窮地を救ったのは、旗挙げの時から苦楽を共にした張飛!!
曹操軍の前に立ちはだかった張飛は、

「俺が張飛だ!!かかってこい!!
 死を賭して戦おうぞ!!」by張飛

怖気づいた敵兵は、誰一人、張飛に近づかなかったといいます。
張飛の活躍でなんとか窮地を脱したものの、流浪は続きます。

湖北省・武漢・・・長江のほとり・・・かつて夏口と呼ばれた地に47歳の劉備は逃げ延びてきました。
なんとか曹操軍の追撃を逃れたものの、このままでは南へと勢力を拡大する曹操に飲み込まれてしまう・・・!!
かくなる上は、呉の孫権と同盟を組んで曹操と対抗するしかない!!
劉備は早速、諸葛亮を孫権のもとへ送ります。
その呉では、隊群で迫りつつある曹操と戦うべきか、降伏するべきか、未だ決めかねていました。
そこに現れた諸葛亮・・・孫権の家臣は、「協力して早々と戦おう」と、言いに来たに違いない・・・と、思いました。
しかし、諸葛亮は思いもよらない言葉を孫権に投げかけました。

「もしも、曹操に敵わないと思われるのであれば、すぐに降伏なさるがいいでしょう」by諸葛亮

と、降伏を勧めたのです。
一国の主に対し、あまりにも無礼な物言いでした。
孫権は思わず、

「曹操に負け続けてきた劉備こそ、なぜ降伏しない?」by孫権

と問い返しました。

「我が主・劉備殿は、漢王室の血筋・・・
 もし負けて滅んだとしてもそれは天命
 どうして曹操に降伏出来ましょうか」by諸葛亮

「私とて、広大な領土と10万の軍勢を持つ身、曹操の言いなりになどならない・・・!!」

劉備と手を結び、曹操と戦おう!!
孫権は、諸葛亮の狙い通り、同盟が成立!!

その頃、曹操は大軍を率いて長江を下っていました。
兵士の数は、実に20万・・・
曹操軍と劉備・孫権軍が激突したのは、長江の中流にある赤壁でした。

長江の両岸で睨み合った両軍・・・曹操軍20万に対して劉備・孫権軍は3万・・・兵力の差は歴然でした。
しかし、曹操軍にも弱点がありました。
曹操は、陸の騎馬戦ではめっぽう強かったものの、水上の戦いにはなれていませんでした。
しかも、船が揺れるのを防ぐため、船同士をつないで固めていました。

そこで、劉備・孫権軍は、一計を案じます。
まず、配下の者に「降伏したい」という手紙を曹操に送らせておきます。
そして夜・・・見方を裏切ったふりをさせて、曹操軍のもとへと船を進ませます。
降伏に来たと信じて、警戒を解く曹操軍・・・
その時・・・一斉に船に火をかけて突進!!
折しも強風がたけり狂い、全ての船に火が映って岸辺にある軍営にまで延焼しました。
煙と炎は、天にみなぎり、おびただしい数の人や馬が焼死や溺死をしました。
曹操軍は、膨大な数の犠牲者を出して敗走・・・!!
劉備・孫権軍は、見事な勝利を収めました。
劉備はその後、荊州の南部を占領・・・
ついに、天下三分の計の要となる地を手に入れたのです。

劉備の次なる狙いは、 荊州の西に位置する益州でした。
長江の上流・・・四川省の中心地・成都・・・
かつて益州といわれた四川の中心地です。
この時、益州を治めていたのは漢の皇帝の流れをくむ・劉璋でした。
211年、劉備が51歳の時、劉璋からの使者が来ます。
益州内での反乱鎮圧のため、劉備軍の派遣を要請してきたのです。
ところが、援軍の要請に来た使者は、劉璋を君主の器ではないと見限っていました。
そして、劉備に益州の地理など詳しい情報を与え、劉璋から益州を奪って治めてほしいと密かに依頼してきたのです。
その年の9月、劉備は自ら数万人の兵を引き連れて反乱鎮圧の援軍として益州に入ります。
何も知らない劉璋は、待ちに待った援軍が来たと喜び、酒宴で劉備をもてなします。
この時、劉備の家臣は、今すぐに劉璋を倒して益州を奪うべきだと進言しました。
しかし、劉備はこう言っていさめます。

「まだここに来たばかりで、民衆の心をつかんでいない
 これは重大なことであるから、あわててはいけない」by劉備

そして1年が過ぎた頃、益州を奪う好機が訪れます。
曹操がふたたび動き出し、呉の孫権を攻めたという情報が入ったのです。
劉備は、同盟相手の孫権を助けると言って、兵を動かしました。
しかし、向かった先は、孫権のもとではなく劉璋がいる成都に侵攻・・・!!
劉備は、10万を超える兵で成都を包囲・・・孤立した劉璋は降伏し、劉備はついに益州を手に入れました。

214年、53歳の時・・・ここに、劉備と諸葛亮が目指して来た天下三分の計の形が整ったのです。

天下三分の計を実現し、漢帝国の復興という目標に近づきつつあった劉備・・・
ところが、その10年後、劉備は周囲の反対を押し切ってかつての同盟を組んだ後の孫権に出兵します。
どうして劉備は孫権に挑んだのでしょうか??

53歳にして成都を手に入れ、蜀を領土とした劉備・・・魏・呉・蜀の三国時代が始まりました。
221年、60歳で、自ら帝位につき、漢帝国復興を宣言します。
劉備は、政にも自らの信念を貫きます。
敵将であっても投降すれば一定の地位と活躍の場を与えました。
劉備の徳による政治のおかげで、蜀の国は安定していきます。
しかし、劉備の目標はさらに先にありました。

求めていたのは「聖漢の大一統」・・・漢による中国統一でした。
そして劉備は天下統一に向けて動き出します。

218年、劉備は漢中に向かって進軍します。
益州北部の曹操の拠点を奪っていきます。
知らせを聞いた曹操が、長安から自ら出陣してきました。
定軍山・・・ここが、劉備と曹操の決戦の場となりました。
天然の要害である山に、劉備は立てこもります。
劉備は、2か月にわたる曹操の猛攻に耐え、曹操軍が疲弊するのを待ちます。
結局、補給が尽きた曹操は撤退・・・!!
劉備はついに漢中という天下統一の重要な足掛かりを手に入れました。
そんな矢先、劉備のもとに思いもよらない知らせが届きました。

関羽が孫権に殺されたという・・・
劉備は、益州に進出した時から、荊州の守りを最も信頼していた関羽に任せていました。
劉備に関中を奪われた曹操は、仕返しとばかりに呉の孫権に関羽を挟み撃ちにしようと持ち掛けたのです。
劉備の勢力拡大を警戒していた孫権は、曹操に合意・・・
荊州へ侵攻しました。
この計略にはまり、挟み撃ちにあった関羽は、呉の兵に捕らえられ斬首されました。

関羽を殺した孫権は、荊州を占領・・・
怒りに震える劉備は、孫権を倒すべく張飛に1万の兵を預け、呉へ出陣命令を下します。
ところが・・・張飛が出陣しようとした矢先、部下が謀反を起こします。
張飛殺害・・・!!
その首は、手柄になるだろうと孫権のもとへ・・・!!

関羽と張飛・・・かけがえのない二人を失った劉備は、孫権への復讐に燃えます。
しかし、家臣の中には反対する者もいました。
天下統一の戦うべき相手は曹操・・・!!
孫権と戦うべきではない・・・!!
221年、劉備は周囲の反対を押し切って出陣します。
劉備軍の士気は高く、圧倒的な勢いで勝ち進み、孫権軍の拠点をいくつも落としていきます。
しかし、孫権はあえて全面対決を避け、持久戦に持ち込みます。
決着がつかないまま半年が過ぎ・・・
夏・・・孫権の領内に深く侵入した劉備軍は、補給路を確保するために50以上の陣営を築いていました。
それらのほとんどが、夏の暑さを避けて森の中に作られました。
しかし、これは、自殺行為に等しいミスでした。
兵力は分散してはいけない・・・しかし、結局長期戦にされたので、分散してしまう・・・!!
暑くなって陣を長く、しかも木陰に引いてしまった・・・
兵法で禁じていることをいくつもやってしまった戦い方でした。

劉備軍の拠点に忍び寄った孫権軍は、一斉に火をかけました。
夏場の乾燥した森・・・火の勢いはすさまじく、劉備軍は次々と陥落・・・死者は数万人に上りました。
劉備は、なんとか敵の包囲を突破し、味方の城まで逃げ延びます。
しかし、そこで病に倒れます。
容態は急速に悪化し、死期を悟った劉備は諸葛亮を枕元に呼びます。

「我が息子が補佐するに足る器なら、補佐してほしい
             そうでなければ君が国をとるがよい」by劉備

諸葛亮は、涙ながらに劉備の息子を支えていくことを誓ったといいます。
223年、劉備はこの世を去りました。
62年の生涯でした。

劉備の遺志を継いだ諸葛亮は、天下統一を目指して5度にわたって魏と戦います。
しかし、諸葛亮も道半ばで病に倒れます。

劉備の死から57年後、280年に晋が中国を統一・・・三国時代は終わりを告げます。

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人形劇 三国志〈全集〉 DVD-BOX完全セット (全 17 巻 )

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感想(0件)

現在、世界中で飛行機に乗る人の数は、1年間で約45億!!
地球上のどこでも気軽に飛んでいけます。
旅客機の時代は、一人の若者の快挙から始まりました。
チャールズ・リンドバーグ・・・およそ100年前、ニューヨーク⇔パリ間の5800キロの無着陸飛行に初めて成功しました。

1929年にアメリカで公開されたウォルト・ディズニーの初期作品「プレーン・クレイジー」・・・飛行機に夢中になった主人公が、パイロットにチャレンジする物語です。
主人公が、その髪型を真似するほど憧れたその人物・・・それがリンドバーグでした。

1927年5月20日、ニューヨーク⇔パリ間を大西洋単独無着陸飛行という世界初の快挙に成功したリンドバーグ・・・
ニューヨークの凱旋パレードでは、400万人もの人が祝福、一夜にして世界中のヒーローとなりました。
しかし、その後リンドバーグを待っていたのは、英雄ゆえの悲劇の連続でした。

20世紀は飛行機と共に始まりました。
1903年、ライト兄弟が世界初の友人動力飛行に成功します。
1914年、第1次世界大戦で、飛行機が戦闘に投入されます。
飛行機の運動性能は瞬く間に向上し、その後は如何に長く飛ぶか・・・飛行距離を競う時代となりました。
そして1919年、アメリカで世界最大の航空レースが催されます。
ニューヨーク⇔パリ間の5800キロ・・・大西洋を横断し、しかも無着陸のレースです。
1番乗りの賞金は、2万5000ドル・・・現在の価値でおよそ4000万円でした。
前人未到のこのレースに挑み、初の偉業達成した若者こそ、リンドバーグでした。

リンドバーグは、どのようにして大西洋無着陸横断に成功したのでしょうか?
1902年、リンドバーグは、ミシガン州デトロイトで生まれました。
父は弁護士、母は教師・・・しかし、両親はリンドバーグが5歳の時に別居します。
母に引き取られたリンドバーグ・・・しかし、母が仕事に出かけると、リンドバーグはひとり・・・。
ひとり遊びが好きな内気な少年でした。

「私は部屋の中で生白い顔をして何時間もずっとあれこれつまらないことを考えて過ごした」

時折会いに来る父は、友達のいないリンドバーグをこう励ましました。

「一人は一人前の仕事をする
 二人では半人前の仕事をする
 三人になると何も達成できない・・・ということわざがある
 他人を頼り過ぎてはいけないよ」

そんなリンドバーグは心を惹かれたのは機械でした。
近くに住んでいた祖父は、歯科医で発明家。
リンドバーグは祖父の研究室に入り浸り、様々な工具や機械に夢中になりました。

「科学はあらゆる謎を解き明かす鍵なんだ!」

やがてリンドバーグの興味は、最先端のメカ・飛行機に向いてきます。
10歳の時、母と共に試験飛行を見学しました。
リンドバーグの目の前で、飛行機が大空へと駆け上がっていきます。

「僕も空を飛びたい!!」

20歳になったリンドバーグは、パイロットを目指して飛行学校へ入学。
1週間後、初めて飛行機に乗せてもらいました。

「美しさと危険に満ち 生と死を超越した永遠の空間の中に生きている気がした」

在学中、リンドバーグはアルバイトして稼いだ金をつぎ込んで中古の飛行機を手に入れます。
その目的は、プロの曲芸飛行士!!
第1次世界大戦が終わり、仕事にあぶれたパイロットが始めたこのショーは、全米で大人気でした。
リンドバーグは、”命知らずの空中軽業師”というキャッチフレーズで、各地を回り、操縦の腕を磨いて行きました。
その後、リンドバーグは、22歳で陸軍飛行学校に入学。
曲芸飛行で磨いた操縦の腕前は、教官を凌ぐほどだったといいます。
翌年、リンドバーグは首席で卒業、航空産業の中心だったセントルイスに移住します。
セントルイスでは、全米に先駆けて、民間の航空郵便が発足、リンドバーグはその会社のチーフパイロットに採用されました。
嵐でも、闇夜でも、たった一人で飛ぶ航空郵便・・・
それは、孤独を苦にしないリンドバーグにうってつけでした。
しかし、当時、航空郵便のパイロットは、最も危険な職業でした。
墜落死亡事故が後を絶たなかったのです。
リンドバーグも、2度墜落事故をに遭いましたが、その度にパラシュートで脱出し、生還しました。
そんな頃、耳にしたレースが、大西洋横断レースでした。
ニューヨーク⇔パリ間、5800kmの無着陸飛行です。
それまで大西洋横断の最長記録は3000km・・・
今回のレースは、その2倍近い前人未到の距離でした。
名だたるパイロットが挑戦したものの、次々と失敗、6人の犠牲者が出ていました。
しかし、リンドバーグに迷いはありませんでした。

「賞金よりコースを飛んでみたい」

リンドンバーグは、他の挑戦者が考えもしなかったアイデアを次々と実行していきます。
大西洋横断は、30時間以上の長距離飛行です。
操縦を後退するため、他の挑戦者は2人乗りの飛行機を使っていました。
しかし、リンドバーグは・・・

「僕はひとりだけで飛ぼう」

狙いは、軽量化でした。
2人乗り用の飛行機では、どうしても重くなり、長距離に適しません。
一人乗りならば劇的に減る・・・
しかし、その代わりにリンドバーグは飛行中一睡もできない!!
さらにリンドバーグは、無線機も非常用のパラシュートも積みませんでした。
命の危険と引き換えに、ギリギリまで軽くしたのです。

リンドバーグは、飛行機の設計の時点で細かく常識外れの注文をつけます。
操縦席の前に、巨大なガソリンタンクを設置しろと言うのです。
操縦席からは、全く前が見えなくなってしまう・・・

「前が見えないと危険だ」と、技術者は猛反対・・・しかし、リンドバーグは反対を押し切ります。
その設計にした理由は、飛行機に燃料を一番多く積める方法だったからです。
彼の飛行技術であれば、前方の視界は必要ありませんでした。
航空郵便では闇夜に飛ぶことも多く、彼にとって飛行は感覚的なものでした。
航路はわかっていて、メーターで高度も解り、飛行の状況をちゃんと把握できたのです。
完成した飛行機の名は、”スピリット・オブ・セントルイス号”でした。
地図には大西洋上空を吹く季節風なども計算し、1時間で飛べる距離・・・すなわち100マイルごとに方向を細かく書き込みます。

「正確であることは、とても重要なことだ
 ぼくの職業は、命そのものが正確さに依存しているから」

1927年5月20日・・・大西洋横断飛行出発当日・・・。
入念に準備をしてきたリンドバーグでしたが、大きなミスを犯していました。
記者たちの取材攻勢で眠ることができず、フライトを前に24時間も眠っていない状態でした。
積んでいた食料は、サンドイッチ5食分だけ・・・
「それで足りるのか?」と聞かれたリンドバーグは、

「パリに着けばサンドイッチはいらない
 パリに到着しなければやはりサンドイッチはいらない」

午前7時54分離陸・・・
ところが燃料が満タンで重かったうえ、滑走路が雨でドロドロにぬかるんでいたため、なかなか離陸ができない・・・
なんとか機体を持ち上げた飛行機・・・パリへの長い旅が始まりました。
離陸から14時間・・・飛行機は大西洋上空へ・・・!!
リンドバーグの最大の敵は、睡魔でした。
飛行前からの睡眠不足と疲労で、激しい睡魔に襲われ、幻覚まで見えたといいます。

「なんとかして気を張り詰めておく方法を見つけなくてはならない
 この分では、死か失敗しかない」

窓から顔を出し、プロペラからの熱風を浴びてなんとか眠気を覚ましたといいます。
ニューヨークを出発してから33時間30分・・・リンドバーグの目に映ったのは・・・

「星空の下に星がきらめくような大地がある・・・ パリの灯だ!!」

空港には、15万人のパリ市民がリンドバーグを一目見ようと殺到しました。
アメリカに帰国後、大統領からは勲章が与えられました。
その後、リンドバーグは全米の82都市を訪問、熱烈な歓迎と祝福を受けました。
リンドバーグ25歳の時でした。

前人未到の偉業を成し遂げ、一躍世界のヒーローとなったリンドバーグ・・・
しかし、その僅か8年後、リンドバーグ一家は祖国アメリカを去りイギリスに移住します。
英雄となったリンドバーグを待っていたのは、祝賀行事の分刻みのスケジュールでした。
行く先々で、待ち構えるマスコミから猛烈な取材攻勢を受けます。
端正な顔立ちも、人気に益々火をつけます。
多くの女性が、独身のリンドバーグに熱い視線を送ります。
しかし、彼は何の関心も示しませんでしたが・・・

メキシコシティ・・・1927年、アメリカ政府の要請で親善大使としてメキシコへ
そして、アメリカ大使館のクリスマスパーティーに出席します。
そこでリンドバーグを迎えたのが、大使の娘アン・モローでした。
文学を愛する物静かな女性にリンドバーグは一目ぼれします。
大西洋横断から2年後、27歳になったリンドバーグはアンと結婚。
リンドバーグは、しばしばアンを飛行機に乗せて空を飛びました。
そしてこんな夢を語りました。

「僕が今、興味があるのはね 国と国の間にある偏見を打ち破って、飛行機を通じてお互いを結びつけることなんだ」

リンドバーグは、航空会社の技術顧問に就任。
ニューヨークから西海岸への航路の開発に乗り出します。
当時、ニューヨークから西海岸までは、大陸横断鉄道・・・一番早い汽車でも丸3日かかりました。
このルートを飛行機が飛ぶようになれば、客が殺到するのは確実だ!!
リンドバーグは、安全で効率的なルートを探すため、何度も大空に飛び立ちました。
なんと、妻のアンも一緒でした。

1929年、ニューヨークロサンゼルス間を48時間で結ぶ大陸横断旅客航路、就航。
リンドバーグ・ラインと呼ばれるこの航路は、誰もが飛行機に乗って旅をする先駆けとなりました。
私生活も充実し、この頃、長男チャールズが誕生します。
リンドバーグは、静かな環境を求めてニューヨークから車で2時間ほど離れた郊外に移り住みます。
航空ルート開拓の仕事は、子供が生まれても続けました。
アンと二人でアラスカからベーリング海、日本に至る北太平洋航路の開発の旅に出ます。

1931年8月、夫妻は茨城県霞ヶ浦に到着。
日本での滞在はおよそ1か月・・・東京、大阪、福岡と訪問し、各地で熱烈な歓迎を受けます。
その後、アメリカに戻ったリンドバーグ・・・しかし、その6か月後悲劇が・・・。
1932年3月1日、自宅で一家団らんを過ごした夜9時すぎ・・・当時1歳8か月の長男チャールズが2階の寝室から忽然と姿を消したのです。
部屋には脅迫状が残されていました。

「5万ドルを用意しろ
 警察には知らせるな」

世界的な英雄を襲った誘拐事件・・・!!
静かな森は、報道陣と警察で騒然となりました。
妻アンはリンドバーグの母への手紙にこう書いています。

「恐ろしく非現実的な状況に私の感覚は麻痺しています」

リンドバーグは、身代金5万ドルを用意します。
犯人から受け渡しに指定された墓地・・・
リンドバーグは、離れたところから身代金受け渡しに立ち会いました。
しかし・・・金を渡したもののチャールズは帰らず、犯人からの連絡も途絶えました。
事件から70日後・・・自宅から5キロほど離れた松林で、変わり果てた我が子が発見されました。

「抑えようのない感情がこみ上げてくる
 今はこの悲しみを受け入れることができない」

事件から2年半後、身代金の紙幣を使った男が逮捕されました。
ドイツ系移民のブルーノ・ハウプトマン・・・不法入国者で逮捕歴もありました。
裁判でハウプトマンは、無罪を訴えました。
その内容をリンドバーグは欠かさず傍聴したといいます。
リンドバーグは、ハウプトマンの声を聞いてこう証言しました。

「あの晩に聞いたのと同じ声です」

リンドバーグの証言が決め手となり、ハウプトマンは死刑となりました。
しかし、判決の後、リンドバーグへの取材攻勢はやむこともなく・・・さらに、事件後に生れた次男のジョンを誘拐するという予告状まで舞い込み、リンドバーグ一家の忍耐力は限界に達していました。
1935年、妻と次男と共にイギリスに移住・・・33歳の時でした。

第2次世界大戦が起きると、リンドバーグは英雄から一転、国民の批判にさらされることとなります。
どうして英雄の座から転げ落ちたのでしょうか?
1935年、イギリスに移住したリンドバーグ一家・・・ロンドンの郊外で、おだやかな日々を過ごしていました。
1年後・・・リンドバーグのもとに、アメリカ政府から1通の手紙が届きます。
ヒトラー率いるナチスドイツの空軍を視察する依頼でした。
1936年7月、34歳のリンドバーグは、妻のアンと共にベルリンに飛びます。
ドイツを視察訪問・・・リンドバーグの名声は、ドイツでも絶大でした。
ヒトラーの右腕で、ドイツ空軍総司令官だったゲーリングは、リンドバーグを大歓迎・・・
軍事機密である戦闘機の視察も特別に許可されます。
ドイツ空軍の戦闘機を見たリンドバーグは、高い技術力に感銘を受けます。
第1次世界大戦の負け、兵器を破壊されてから20年足らず・・・
驚異のスピードでドイツを復興し、軍備を整えたヒトラーを高く評価しました。
リンドバーグは、日記にこう記しています。

「彼に対して批判はあるが、偉大な人物であることに間違いない
 若干の狂信的行為はあるが、ある程度の狂信性がないと、これほどまでのことは達成できなかっただろう」

その後、リンドバーグにはドイツに貢献した外国人に与えられるという荒鷲十字勲章が与えられました。
リンドバーグは、意味を深く考えずに勲章を受け取ったといいます。
彼は決して”親ナチス”ということではありませんでした。
しかし、彼は間違いなく、ナチスドイツの技術の進歩、そしてヒトラーが作り上げた空軍に感銘を受けていました。

1939年4月・・・3年半ぶりにアメリカに帰国。
その9月、第2次世界大戦が勃発!!
ナチスドイツがポーランドに侵攻したのです。
これを受けアメリカでは、ナチスドイツを批判するローズベルト大統領がアメリカも参戦すべきだと主張していました。
リンドバーグは、この主張に真っ向から対立!!
中立を訴えました。

「私は皆さんにアメリカの中立を訴えたい
 戦争に介入すれば、私たちは大変な損害を受けます
 我が国の指導者の判断は間違っています」

リンドバーグの主張は、大きな支持を集め、次期大統領の有力候補という声まで聞かれるようになっていました。
1940年、ナチスドイツがロンドンを空爆開始、アメリカの世論は一気に参戦に傾きます。
それでも参戦に反対し続けるリンドバーグに、民衆は失望していきました。

「アメリカを戦争へと駆り立てるのは、ローズベルト大統領に他ならない」

風刺画にはナチスの手先として描かれ・・・ドイツの勲章を持っていたことも、ナチスとの関わりの証拠だとされ、国中から大バッシングを受けたのです。

リンドバーグの立場がさらに悪くなる事態に・・・
1941年、日本がハワイ真珠湾のアメリカ軍を攻撃、太平洋戦争が勃発しました。
こうなっては、リンドバーグも反戦の主張を撤回する以外にありませんでした。

「我が国に対して武力を行使された今、武力によって報復せねばなりません」

自らも参戦したいと希望したリンドバーグ・・・
しかし、ローズベルト大統領と廃立している時に軍籍を返上していました。
軍には戻れない・・・そこで、戦闘機を作る民間会社の技術顧問として参戦します。
太平洋のニューギニアへ・・・!!
到着すると、軍法を無視して爆撃機に搭乗します。
米軍は、日本軍の拠点ラバウルの爆撃を計画、パイロットにはニューギニアからラバウルを往復する長距離飛行の技術が必要でした。
すでに40歳を超えていたリンドバーグ・・・しかし、長距離飛行で彼の右に出る者はいませんでした。
最高司令官マッカーサーは、リンドバーグの参戦を黙認。
若いパイロットの指導役として燃料の節約教えます。
ゼロ戦の激しい攻撃をかわしながら、日本軍に爆撃を続けたリンドバーグ・・・
しかし、爆撃後地上に降りて日本兵の死体を見た時、大きな衝撃を受けました。

「自分がボタンを押すことで死が落下していく
 爆弾が落ちたところに人がいたら、その人の命を奪ったのは自分なのだ」

1945年5月、首都ベルリンが陥落・・・ドイツは降伏しました。

1960年代、60歳を過ぎてからリンドバーグはそれまでと全く違う活動を始めます。

「もしどちらかを選ぶとするならば、今の私は飛行機よりも鳥を選ぶだろう」

それは、絶滅危惧動物の保護でした。
飛行機という最先端の文明とは真逆の自然に生きがいを見つけたのです。

1945年5月、ドイツの敗戦から1か月後・・・ドイツ空軍の技術調査のためにドイツを訪問。
そして調査の一環として、ナチスの強制収容所を訪れます。
そこで、多くのユダヤ人が虐殺された生々しい現場を目の当たりにします。

「これこそ、人間の生と死が堕落の極みに達した場所・・・
 このような施設を正当化することは絶対に不可能だ」

太平洋戦争の終結から3年後、今度は日本へと飛んでいき広島を上空から眺めました。

「よく目を凝らすと、眼下には爆破され、放射能を浴び、焼けただれた広島の土が見えた」

そして1953年、リンドバーグは1冊の本を発表します。
タイトルは「翼よ、あれがパリの灯だ」。
ニューヨーク⇔パリ間の無着陸飛行を中心に書かれた青春の自叙伝です。
あれから26年経った今、リンドバーグは快挙に酔いしれた当時とは全く違う気持ちだと語りました。

「私たちは飛行機というものに命を捧げてきたが、それを作り出した文明を、いま私たちは破壊しているのだ」

60歳を過ぎたリンドバーグは、世界自然保護基金の団体と連携し、絶滅が心配される生き物の保護するため、世界中を飛び回るようになります。
フィリピンのミンドロ島にだけ生息する野生のタマラオ・・・この牛も、絶滅危惧種の一つでした。
リンドバーグは、その知名度を生かし、マルコス大統領の直談判、フィリピン政府を動かして、保護区を作らせました。
他にも、シロナガスクジラ・ハクトウワシ・ホッキョクグマ・マウンテンゴリラなど、世界中を飛び回りながら、その後の人生を動物たちを救うことに捧げました。

ハワイ・マウイ島・・・豊かな自然のこの島に、リンドバーグが晩年家族と過ごした家があります。
文明から遠ざかるように、電気もガスもひかず、ランプと薪の生活を送っていたといいます。
末の娘によると・・・

「父は優しくもあり厳しくもありました
 子供の頃には私を抱き上げて高く投げてくれたり、家ではロープで素敵なものを色々と作ってくれました
 機械であろうとお金であろうと、日常使うものの管理にはとても厳しかった
 車に乗る前には、私たちにもタイヤを蹴らせ、オイルの点検もさせました
 突然車を停めて、私たちにタイヤの交換をさせたりもしました
 まだ交換の必要が無くてもです」

そんな父が晩年、自然の保護活動に打ち込んだのも分かる気がするといいます。

「父は飛行機の技術が、世界中の自然を破壊していると考えたのです
 ”人類が生き残るには自然とテクノロジーのバランスをとらなくてはならない”と言っていました」

71歳の時、リンドバーグは悪性リンパ腫に侵され、ニューヨークの病院に入院します。
しかし、都会で死を迎えることをかたくなに拒み、医師の反対を押し切って島へ戻りました。

「マウイ島で死に、その地で埋葬される・・・
 そのことが、父にとって大事なことでした
 亡くなる10日前とか、1週間前に、死に向けて全ての準備が整っているか確認したかったのです
 父はどのようにお墓が建てられるかも知りたがりました
 自分の葬式で、母に讃美歌を歌ってほしいと希望したのに、”あれはダメ””これはダメ””他の賛美歌にして”と注文を付け、自分で決めようとしていました
 本当に父らしいと思います
 父は非常に細かいプランナーでした」

「どうせ死と対面するならば、前もって知っておきたいのだ
 死こそ人生における最後の、そして最大の冒険だろうから」

1974年8月26日、チャールズ・リンドバーグ死去・・・72歳の生涯でした。
今、リンドバーグは、マウイ島の自然の中で静かに眠っています。

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ジャイアントキリング・・・19世紀のヨーロッパでそれを成し遂げた男がいました。
その男の名は鉄血宰相と呼ばれたドイツのビスマルクです。
明治の日本でヨーロッパを訪れた新政府の指導者たち・・・西洋文化の視察と江戸幕府が結んだ不平等条約の改正のために・・・!!
一行は、法整備や機械文明の進んだヨーロッパを貪欲に学びました。
しかしその反面、不平等条約の改正は一向に進んでいませんでした。
彼等は対応には丁寧だが、交渉には取りつく島もありませんでした。
そんな中、有益な助言をくれた政治家が一人だけいました。

「諸君らは、各国が礼儀を持って接していると思っただろうが、それはあくまで建前にすぎず、現実は弱肉強食である」

ドイツの首相オットー・フォン・ビスマルクです。
19世紀、小さな国の集まりだったドイツを統一し、弱小国からヨーロッパ屈指の強国へと押し上げた・・・目的のためには、慣習や法律を破ることもいとわない風雲児でした。

ビスマルクが首相になったのは47歳の時でした。
しかし、若い頃のビスマルクは札付きのワルでした。
仕事そっちのけで酒と女遊びに・・・借金まみれ、おまけに誰彼構わずケンカを吹っ掛けました。
そんな男がどうして首相になったのでしょうか?

ベルリンから西へ100キロほどのシェーンハウゼン・・・
1815年、ビスマルクはこの片田舎で生まれました。
当時は現在のようなドイツ国家はなく、ビスマルクのいたプロイセン王国やオーストリアなど、大小の国が集ってドイツ連邦(約35の国と4つの自由都市からなる連邦組織)を形成し、それぞれの国を治めていました。
父フェルディナントは、プロイセン王国に仕えて地方の領地経営をする田舎貴族・ユンカーで、農業経営をしながらプロイセン国王の下で地域を治めていて、おおらかで朴訥だったといいます。

「私は父を心から愛していました」

母・ヴィルヘルミーネとは、ソリが合いません。
母は大都会ベルリンから嫁いできた政府高官の娘でした。

「母は美しく頭脳明晰でしたが、情けをほとんど持ち合わせず、厳しく冷たい人に見えました
 小さい頃は、心底母が嫌いでした」

1822年、6歳でベルリンの寄宿学校に入学し、エリート教育を施されます。
英語・フランス語を習得、成績は優秀でした。
しかし・・・1832年17歳でゲッティンゲン大学に入学すると・・・ろくに授業に出なくなります。
奇抜な服を着て、大きな犬を従え、毎日あてもなく町をうろつきます。
仲間と会えば酒を煽り、喧嘩に明け暮れます。
そんなビスマルクが唯一熱中したのが歴史学でした。
歴史の裏に、ヨーロッパの利害や思惑がいかに絡み合っているのかを読み解く授業・・・
ビスマルクは夢中になりました。

「僕はプロイセンで最大のゴロツキになるか、最も偉くなるかだ」

1935年、20歳で母の望み通り官僚として働き始めます。
しかし、単調なデスクワークにすぐに飽きてしまいます。
代わりに夢中になったのが恋愛でした。
仕事をさぼって、恋人と各地で豪遊・・・金が尽きるとギャンブルに手を出しました。
しかし、恋人と別れるころには借金と無断欠勤とでビスマルクは職場を逃げ出します。

1839年、24歳の時、ビスマルクが次に手掛けたのが農場経営でした。
父の跡継ぎとして故郷でユンカーとして働き始めます。
数年もたつと・・・一人の時は退屈だ・・・何をやっても本気にならないビスマルク・・・
しかし、1842年、27歳の時、大きな転機が訪れます。
幼なじみに連れられてキリスト教のサークルに入ります。
ここからビスマルクの人生に二つの道が切り開かれていきます。

ひとつは政治家への道・・・
このサークルには、プロイセン国王の側近たちも参加していました。
彼等の推薦でビスマルクは州議会議員になることができました。
もう一つは結婚への道・・・
サークルの中に、マリー・フォン・ダッテンという7歳下の知的な美女がいました。
ビスマルクはマリーと交際し、愛を育んでいきます。
しかし、幸せは束の間でした。
1846年、31歳の時、突然病でマリーがこの世を去ってしまいます。

「こんな親しい人を死によって失ったのは初めてだ
 かけがえのない彼女の姿を見ることも、声を聞くことも二度と出来ない
 この出来事が、まだ現実だとは思えない」

ところがその翌月、ビスマルクは驚くべき行動に出ます。
マリーの親友ヨハナ・フォン・プトカマーにプロポーズしたのです。
ヨハナは内向きで、社交的というよりは家庭の人でした。
信仰と伝統を重んじて非常に地味な女性でした。
マリーの死をきっかけに、二人の関係は急に密になったのです。
ビスマルクからすれば、自分が落ち着ける場所を見出したのです。

1847年、32歳でヨハナと結婚。
議員として政治に没頭していきます。

1851年、36歳で外交官に抜擢されます。
1852年3月、外交官になったばかりのビスマルクが意気揚々と向かったのがドイツ連邦議会でした。
しかし、そこで目にしたのはプロイセンの二倍ほどもある大国オーストリアの強大な権威でした。
オーストリアのシェーンブルン宮殿・・・当時、宮殿の主はハプスブルク家でした。
ヨーロッパの国々と婚姻を結んで影響力を持ち、さらに長い歴史を誇る神聖ローマ帝国の皇帝を兼ねたという名門中の名門です。
プロイセンはドイツ連邦の中ではナンバー2の国で、つねに格下扱いされ屈辱を受けてきました。
ビスマルクはそこで大胆な行動に出ます。

議会で葉巻を吸うことができるのは、連邦議会会長のオーストリア代表だけ・・・という慣例がありました。
ところが、ビスマルクは葉巻を取り出しおもむろに議長の前で吸い出したのです。
議長は呆気にとられたといいます。
オーストリアの秘密文書には、ビスマルクについてこう書かれています。

”時には紳士らしくするものの本性は傲慢で卑怯、過剰なうぬぼれに大ぼら吹き
 オーストリアへの嫉妬と憎しみでいっぱいで、常に戦いを挑んでくる”

外交官となって11年経った1862年47歳・・・
ビスマルクはついに首相に就任しました。
プロイセン国王・ヴィルヘルム1世の意向だったといいます。
その背景には、国王と議会の対立がありました。
当時のプロイセン議会は、個人の自由を尊重し、国王に否定的な自由主義議員が多数を占めていました。
そのため、国王と議会が対立し、政治が麻痺していたのです。
そこでヴィルヘルム1世は、常々国王に忠誠を誓っていたビスマルクに目をつけたのです。

議員になりたての1847年、32歳の時・・・ビスマルクは既にこんな演説をしています。

「プロイセン君主は、神からの恵によって、絶対的な王権を所有しているのです」

君主主義に対する忠誠、保守的なところがあります。
そこが一番大きかったのです。
しかし、何をしでかすかわからない・・・!!

プロイセン王国の首相となったビスマルク・・・ある野望に燃えていました。
プロイセンをドイツ連邦を代表する大国として周りの国々に認めさせることです。
しかし、そのためには同じドイツ連邦でナンバー1のオーストリアが邪魔になる・・・

首相の座について1週間後、ビスマルクは後世に残る演説をします。

「時代の大問題を決着させるのは、演説や多数決によってではない
 鉄と血によってだ!!」

武器を示す鉄と兵士を意味する血・・・
プロイセンを発展させ、強国に導く手段は軍備拡張であると明確に打ち出したのです。
ところが、大きな問題がありました。
それは議会・・・当時の議会は、君主制を嫌う自由主義の議員が多数を占めており、国王に忠実なビスマルクに猛反発します。
ビスマルクの出した政府予算案は、議会で否決されてしまいます。
しかし、ビスマルクはそんなことでは諦めない・・・
議会の了承を得ないまま軍備を拡張します。
これは、当時の憲法の不備に付け込んだ裏技でした。
プロイセン憲法には、”政府予算の成立には国王と議会の合意が必要”とあります。
合意せず予算が成立しなかった場合のルールがなかったのです。
予算不成立の後、ビスマルクが国王の承認を得て、予算を使っても憲法違反として罰することができないのです。
さらにビスマルクは邪魔をする自由主義委員の力を削ぐために、普通選挙を導入します。
それまで貴族が大多数を占めていた議会に労働者や農民など様々な階級の人間が入ってくることで、彼らの影響力を奪おうという狙いでした。
彼が大衆民主主義を考えて、その制度を取り入れたかというとそうではなく・・・
まだ選挙権を持っていない農民層などの保守的な大衆は、おのずと君主の政府を支持するだろうと・・・その計算があって、普通選挙制度を導入したのです。

首相に就任してから、ビスマルクはそれまで以上に猛烈に働き、部下にもそれを求めました。
早起きが苦手なビスマルクは、夜になるにつれて調子が上がったといわれています。
そのため、眠りにつくのが朝の7時になることもありました。
直属の部下は、その無茶苦茶な生活に振り回されていましたが、それでもビスマルクを慕っていたといいます。

そんなビスマルクにとって、唯一ホッとできる場所は、妻ヨハナのいる家庭でした。
公務で家を空けることの多かったビスマルクは、ヨハナは三人の子供を育てながら夫を支えました。
ビスマルクは、ヨハナにこんな手紙を送っています。

「僕があなたと結婚したのは、あなたを愛するためさ
 あなたと故郷の暖炉以上に大切で愛しいものはないよ」

ビスマルクは、工業化による国力増大にも力を入れました。
豊富な石炭のとれたライン川流域には、製鉄会社や軍需産業のクルップ社などが誕生しました。
そして、各地を結ぶ鉄道網に着々と整備されていきました。
首相に就任してから4年後の1866年、50歳の時、国力の増強に手ごたえを感じたビスマルクは、いよいよ他国に目を向けました。
ビスマルクは、国王ヴィルヘルム1世の御前会議でこう進言します。

「プロイセンこそ、ドイツの頂点に立つ正当な権利を持っています
 それに対してオーストリアは、その嫉妬心ゆえ指導する能力もないのにプロイセンにドイツの指導権を許すまいとしてきたのです」byビスマルク

その後、フランクフルトで開かれたドイツ連邦議会・・・ビスマルクは人々の度肝を抜く改革案を提出させます。
ドイツ連邦から議長国のオーストリアを除外するという案でした。
当然オーストリアは戦争も辞さない構えで猛反発!!
両国の対立は避けられなくなりました。
こうして1866年、51歳の時に普墺戦争勃発!!
オーストリア側の兵は40万、それに対しプロイセンの勢力は32万でした。
しかし、ビスマルクには勝算がありました。
それは、プロイセン軍にその人ありと謳われた参謀長モルトケの存在です。
ビスマルクより15歳年上のモルトケは、参謀長として長年プロイセン軍を指揮してきました。
めったに人を褒めないビスマルクですら、モルトケをこう表しています。

「彼は非常に珍しい人物だ
 常に準備ができていて、絶対的に信頼できる
 その上、心の底まで冷静だ」

開戦から1か月後、勝敗を左右する重要な戦いが起きます。
1866年7月3日、ケーニヒグレーツの戦いです。
この時、モルトケは誰も思いつかなかった斬新な作戦でオーストリアの数をひっくり返します。
カギとなるのがドイツの鉄道網でした。
モルトケは、開戦前に鉄道部を新設、ドイツ各地から戦場となりそうな各地に5本の線路をひかせていたのです。
モルトケの作戦は・・・
部隊を3つに分けて、鉄道を使って送り込み、オーストリアの守りの要ケーニヒグレーツ要塞を三方向から攻撃する・・・25万もの兵士や、ひとつ数トンにもなる大砲を、あっという間に敵陣に送り込むという当時の常識からは考えられない戦法でした。
戦いが始まるとプロイセン軍は三方向からオーストリア軍に襲い掛かり撃破、さらに、旧式の銃で重点突撃してくる敵には最新鋭の銃で返り討ち!!
戦いは、わずか半日で決着しました。
オーストリア軍の戦死者は10000以上、プロイセン軍はおよそ2000・・・
プロイセンの圧勝でした。
勝利の報告に歓喜した国王ヴィルヘルム1世は、この勢いに乗って戦争を続けようとします。
しかし、ビスマルクは国王を説得し、勝利から間もなくオーストリアと講和を結びました。
他のヨーロッパ諸国が介入してくることを警戒したのです。
大戦前、ビスマルクはイタリア、フランスに密かに交渉を行っています。
戦争に介入しないように根回ししていたのですが・・・戦いが長引けば、どうなるかはわからない・・・。
ビスマルクは、他の国がどう動くのかを常に警戒していました。
もし、他国からの調停や介入を認めると、せっかく獲得したものを、成し遂げようとしたものを、制限されてしまう恐れもあったのです。
なるべく早く戦争を終わらせて、講和を結びたかったのです。

1867年、52歳の時にオーストリアを排除し、プロイセンを中心とする北ドイツ連邦が誕生しました。
この実績を前にして、これまで反発していた議会もビスマルクを支持、一枚岩となったプロイセンは、更なる野望に突き進んでいきます。
ビスマルク52歳の時でした。

オーストリアに勝利したのち、ビスマルクは次なる野望に燃えていました。
ドイツ統一です。

「もしドイツが今世紀中に、その国民的目標を達成するとすれば、それだけで偉大なことだと思う
 それが5年、いや10年のうちに達成できたとすれば、神の恵みとしか言いようがない」

しかし、この野望は、5年も待たずに達成されることとなります。

オーストリアに勝利した1866年、ビスマルクはバルト海のリューゲン島で3か月の休養を取りました。
この時、激務とストレスが原因で、神経痛を患っていたのです。
そんな状態でも、ビスマルクは暴飲暴食を繰り返し、医者の警告を無視します。
医者に止められていた大好きなコニャック入りソーダをコッソリ妻のヨハナに持ってこさせたといいます。
休養十分で、公務に復帰したビスマルクは、悲願のドイツ統一には乗り越えなければならない二つの壁がありました。
一つ目の壁は、南ドイツ諸国(4か国)の抵抗。
元々この地域はプロテスタントが主流の北ドイツと違ってカトリックが主流でした。
特に最も多いバイエルン王国が統一に反対していました。
もう一つの壁が、隣国フランスのナポレオン3世です。
南ドイツ諸国ともめれば、付け入るスキを与えかねない・・・。
フランスを何らかの方法で黙らせておくことが必要です。
1870年、ビスマルクにこの問題を一気に解決する絶好の機会が訪れました。
それは、ドイツでもフランスでもなくスペインの次期国王をめぐる争いでした。
その候補の一人がレオポルト!!
プロイセンの分家に当たる家柄でした。
ビスマルクはレオポルトを応援します。
これに危機感を持ったのが、ナポレオン3世です。
レオポルトがスペインの王になった場合、フランスの東と南をプロイセン王家が固めることになってしまう・・・
戦争が起きれば、挟み撃ちにあう危険な状況です。
そこでナポレオン3世は、プロイセン国王ヴィルヘルム1世に対し、戦争も辞さない態度で猛抗議!!
フランスの圧力の前に、プロイセンは動揺・・・ということは全くなく、それはビスマルクの想定内でした。
彼のシナリオ通りに事は進行していました。
フランスに揺さぶりをかける何らかのけん制をしようとしたときに、「スペイン王位継承問題」は”使える”と、判断したのです。
しかし、ナポレオン3世の要求は、レオポルトの候補辞退だけにとどまりませんでした。
「今後一切、プロイセンと関係する家柄からのスペイン国王候補を承認するな」と迫ったのです。
これに対しビスマルクはナポレオンを挑発し、フランスの方から戦争を仕掛けるべく手を打ちました。

ビスマルクは、フランスからの要求の電報を、新聞に発表します。
しかしそれは、嘘にならない範囲で巧妙に書き換えられていました。
フランスがプロイセンに不当な要求をしているという印象が際立つように、短くまとめられていました。
さらにその要求を、国王は毅然とはねのけ、今後の面会を拒否したことも強調されました。
生地が出るや否やプロイセンの国民はフランスに猛反発、南ドイツの人々でさえプロイセン国王を支持しました。
開戦が秒読みになった時、ビスマルクはモルトケに言いました。

「準備はよろしいかな?」
「もちろん!!」

1870年7月19日普仏戦争勃発
モルトケはまたも鉄道を活用し、軍を変幻自在に移動させます。
そのスピードも、輸送できる兵力も、オーストリアとの戦争のわずか4年で3倍となっていました。
さらにモルトケは、最新鋭のクルップ砲を戦場に投入!!
フランス軍の大砲が青銅で作られていたのに対し、クルップ砲は鋼鉄製、火力も飛距離も圧倒的でした。
プロイセン軍は、ナポレオン3世を捕虜にするという大戦果を挙げるのです。
こうして戦局を有利に進めながらも、ビスマルクはドイツ統一のため南ドイツ諸国との交渉を続けていました。
ビスマルクがこだわったのが、南ドイツ4か国の要請を受ける形でドイツ統一するという形でした。
併合を力任せにやってしまうと北ドイツ連邦の君主国はどうなるかという問題が発生します。
あくまでも彼が目指していたのは、君主国の連合による形のドイツだったのです。
そうすれば、プロイセン国王を温存する形でドイツ統一が実現できる!!

プロイセンによるドイツ統一に最後まで抵抗したのはバイエルン国王・ルードヴィヒ2世でした。
芸術に造詣が深く、多くの名建築を残した国王は、激しい浪費癖でも有名な君主でした。
その性格に目をつけたビスマルクは、ルードヴィヒ2世に多額の援助を約束します。
資金繰りに困っていたルードヴィヒ2世は遂に折れ、統一に同意します。
ビスマルクの援助によって、ルードヴィヒ2世が建築したのが、ドイツを代表する城・ノイシュヴァンシュタイン城です。
その美しい景観、内装を見ようと、今も年間150万人以上の観光客が訪れ、南ドイツを代表する名所となりました。

1871年1月18日、ドイツ皇帝即位式を決行。
場所はなんとベルサイユ宮殿!!
ここにプロイセン軍の大本営が置かれていました。
南ドイツとの合意を取り付けて2か月・・・情勢が変わらないうちに、ドイツ統一の既成事実を作ろうと急いでこの日に決めました。
しかし、即位式の直前、またもビスマルクを悩ませる問題が・・・

「私はドイツ皇帝になどなりたくない!!」byヴィルヘルム1世

ドイツ統一を望んだ張本人が、「プロイセン国王」の称号にこだわり、「ドイツ皇帝」を渋ったのです。
ビスマルクは何とか説得し、式場へ連れていきます。
こうしてドイツを統一する皇帝が即位。
ヨーロッパの大国に引けを取らない国が誕生しました。

「この皇帝出産は難産だった
 国王というものは、気まぐれな欲望を抱くものだ
 私は爆弾になって建物全体を粉々にしてやろうと何度思ったことか」byビスマルク

皇帝の即位から4か月後、ビスマルクはフランスと講和を結び、戦争を終えます。
首相に就任してから9年・・・56歳の時でした。

オーストリアとフランスに勝利し、ドイツ統一を果たした2年後の1873年に戦勝記念塔が完成、除幕式はビスマルクによって行われました。
ビスマルクは、生まれたばかりのドイツを近代国家にさせようと次々と政策を行います。
ドイツの最高裁判所や、中央銀行を設立、貨幣をマルクに統一し、経済や法律の基盤を整備していきます。
戦争に負けたフランスから莫大な賠償金を得たこともあり景気は絶好調、工業もますます発展します。
統一から20年後には、鉱工業の生産高がほぼ倍増します。
ドイツは世界有数の工業大国へとなっていきます。

そしてビスマルクは外交でも手腕を発揮します。
オーストリア=ハンガリー、ロシアなどの国々と複雑に同盟を結びました。
後にビスマルク体制と呼ばれる同盟で、各国の勢力がバランスを保つ仕組みを作り上げました。
1873年、そんなドイツを訪れた日本人がいます。
明治新政府の岩倉使節団です。
彼等を歓迎したビスマルクはこう語りかけます。

「諸君らは、各国が礼儀を持って接していると思っただろうが、それはあくまで建前にすぎず、現実は弱肉強食である」

この時、明治政府のリーダー大久保利通が西郷隆盛に送った手紙が残されています。

「ビスマルク モルトケ大先生を生んだドイツこそ、我が理想とする国である」by大久保利通

この頃には、ビスマルクの息子も政界に入り、父を支えるようになっていました。
しかし、ドイツ統一から17年後、1888年、72歳の時ビスマルクの政治生命に暗い影が・・・
皇帝ヴィルヘルム1世が90歳で亡くなりました。
3か月後に即位したのは孫のヴィルヘルム2世・・・
73歳のビスマルクと若き29歳のヴィルヘルム2世では、考えが合いません・・・
2人の関係は日に日に悪くなっていきます。

「10年間にわたり実直かつおそれることなく仕事を続けたら、敵はたくさん増えるのに古い友人を失ってばかりで新たな友人もできません」byビスマルク

1890年3月、74歳の時、遂にビスマルクは皇帝に辞表を提出・・・27年務めた首相から引退しました。
それから4年後の1894年、ビスマルクを生涯支えていた妻ヨハナ死去・・・70歳でした。

「私に残っていたもの それはヨハナであり48年間を振り返れば心に満ちてくるのは感謝だけだった」

4年後、1898年7月30日、ビスマルクは83歳でその生涯を終えます。

2012年、そのビスマルクの肉声が見つかりました。
アメリカの発明家エジソンが、ビスマルクが74歳の時に声を録音させたものです。
唯一残るビスマルクの声は、息子への助言でした。

「仕事しろ 食事しろ 何事もほどほどにしなさい
 特に酒には気を付けるように
 父親より息子への助言だ」

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独裁者アドルフ・ヒトラー・・・彼には唯一心を許した正式な妻がいました。
その名はエヴァ・ブラウン・・・ヒトラーより23歳年下の女性です。
しかし、その存在はドイツ国民に知らされることはありませんでした。
秘密の関係を続けたエヴァとヒトラー・・・二人が結婚式を挙げたのは、共に命を絶つ前日でした。
独裁者アドルフ・ヒトラーが愛した一人の女性・・・エヴァ・ブラウン。
幼いころから自由奔放、政治には関心がなく、ハリウッド女優になることを夢見ていました。
やがてヒトラーと恋人となると、エヴァはヒトラーが用意した豪華な山荘で暮らしました。
ファッションを楽しみ、大好きな動物を飼い、気ままに過ごす日々・・・
第二次世界大戦が勃発し、ドイツ国内が戦火に包まれる中でも、身の危険や貧困からは無縁の暮らしでした。
ヒトラーをはじめ、ナチスドイツの高官と他愛もない会話で周囲を和ませたエヴァ・・・
多くの召使に囲まれ、山荘の女主人と称しました。
しかし、その裏では家族との確執を抱えていました。
ヒトラーの過激な言動に反発し、別れを勧める父・・・
ナチスドイツの反ユダヤ政策に反対する姉・・・
そしてヒトラーには常に何人もの女性の影が付きまといました。
その一方でエヴァの存在は極秘・・・山荘という鳥かごに閉じ込められていました。
しかし、ナチスドイツが滅びる2か月前・・・
エヴァは自ら鳥かごを出てヒトラーがいる戦火のベルリンに向かいました。

エヴァ・ブラウンとヒトラーが出会ったのは1929年。
17歳のエヴァは、ミュンヘンにある写真館で働いていました。
そこへ店主に連れられて一人の男がやってきました。

「おかしな口ひげを生やし、大きなフェルトの帽子をかぶった中年紳士が入ってきたの
 私の足を見つめていて、あまりいい気がしなかったわ」

「君は、あの方が誰だかわからないのか?」

「さあ・・・」

この男こそ、アドルフ・ヒトラー。
当時40歳、急激に勢力を伸ばしていたナチ党の党首・・・すでにメディアを賑わす有名人でした。
エヴァにとっては、この中年男の初対面の印象はよくありませんでした。
しかし、後にエヴァとヒトラーは恋人同士になします。
どうして惹かれていったのでしょうか?

エヴァ・ブラウンは、1912年、ドイツ・ミュンヘンの中流家庭で誕生します。
エヴァは三姉妹の次女で、教員だった父のフリードリヒと母フランツィスカの元、娘たちは厳しく教育されました。
学校の成績は優秀でしたが、いたずら好きの問題児・・・教師たちに手を焼かせる生徒でした。
エヴァは思春期を迎えると、父の監視は益々厳しくなります。
父は娘たちの手紙すべてに目を通します。
門限を設けて夜10時には床につくように・・・。
1928年、16歳になるとカトリック修道会の女学院に入学させ、模範的な淑女に育てようとしました。
しかし、この頃エヴァが夢中になったのは恋愛小説と映画。
特に学芸会では演劇に熱心に取り組みます。
いつしか、ハリウッド女優として成功することを夢見るようになっていました。

教師の父親が一番重要視していたのは、娘たちに一流の専門教育を受けさせること・・・。
しかし、エヴァ達娘は、反抗的でした。
17歳になったエヴァは、近所の写真館で働き始めます。
これが、彼女の運命を大きく変えることとなります。

この頃ドイツは、第1次世界大戦で敗戦し荒廃していました。
戦争を再び起こさないように軍備を制限され、戦後賠償で経済はどん底・・・町には失業者が溢れていました。
そんな時、経済復興と失業問題の解決を掲げ、支持を集めたのがヒトラー率いるナチ党でした。
エヴァが働く写真館の店主は、熱烈なナチ党員・・・ヒトラーの専属写真家も務めていたため、店はヒトラーの写真で埋め尽くされていました。
ヒトラーと出会った夜、エヴァは父に聞いてみました。

「アドルフ・ヒトラーってどんな人?」

「ヒトラー?
 あいつは自分が万能だと思い上がっている青二才だ!!」

父親はもちろん心配していました。
なぜなら、当時のナチ党は、極めて暴力的で殺人を犯すこともありました。
しかし、エヴァは、父への反抗としてヒトラーに近づきました。
一方、ヒトラーは、エヴァを気に入りました。

「彼女は私を和ませるんだ」

ヒトラーは、周りを側近や気の置けない人で固める傾向にありました。
そういった狭い交友関係の中で女性も選んでしまうのです。
その後、ヒトラーは写真館を訪れるたびにエヴァへプレゼントを持ってくるようになりました。

「エヴァさん・・・オペラに招待してもよろしいですかな?」

23歳年上の男からの紳士的な誘いに魅了されていったエヴァ・・・
出会いから2年がたったころには姉にこう打ち明けています。

「絶対にあなたもヒトラーに会うべき!
 会えばあの人のイメージも変わるから・・・!!」

ヒトラーの女性に対するマナーには、うっとりとするものがありました。
夢中になってしまったのは、エヴァからでした。
しかし、この頃のヒトラーには特別に親密な女性がいました。
姪のゲリ・ラウバル(23歳)です。
ヒトラーの姉の娘で、エヴァより4歳年上でした。
ヒトラーとゲリは、2年の同居生活を送り、叔父と姪を超えた深い関係だったといいます。

「私は姪のゲリを愛している
 だが、結婚は出来ない」

タイプとしては、エヴァとおなじように非常に快活で行動的な女性でした。
そんな中、ヒトラーとエヴァが急速に近づく事件が起こります。
1931年ゲリが自ら命を絶ちました。
一説ではヒトラーの束縛が原因ともいわれています。
ヒトラーは憔悴しきっていました。
ゲリを失ってしまったショックがあまりにも大きかったのです。
それを見たエヴァは・・・

「ヒトラーにとってあの女は、きっと特別な人だったのね」

この直後、エヴァは思いがけない行動に出ます。
髪型や風貌、話し方まで自分をゲリそっくりに真似たのです。
いつしか二人は恋人同士になりました。
エヴァ19歳、ヒトラー42歳の時でした。

自ら望んでヒトラーの恋人となったエヴァ・ブラウン・・・しかし、わずか2年の間に2度も自殺を企てます。
何が原因だったのでしょうか?
エヴァがヒトラーと出会って3年後、1932年7月、ヒトラー率いるナチ党は、ドイツ国会選挙で第1党に躍進します。
ますます政治活動に力を入れるヒトラー・・・
エヴァをミュンヘンに残し、ドイツ中を飛び回ります。
以前より会う時間は減っても二人の関係は続いていました。
当時ヒトラーは、側近にこう漏らしています。

「私はミュンヘンにいる一人の娘を愛している」

しかし、エヴァの存在は、限られた一部の人だけの秘密でした。
それは、ヒトラーの結婚に対する考えからでした。

「私には既に花嫁がいる
 私はドイツと結婚したのだ!」

独身であることで、女性の支持が得られるという考え方がヒトラーにはありました。
結局最後まで、ヒトラーはエヴァと言う存在を国民の目からひた隠しにしました。
ヒトラーにとっては、女性よりも政治の方が大事だったのです。

この時、エヴァ・ブラウンは20歳・・・ミュンヘンの実家でヒトラーからの連絡を待つだけの生活でした。
そんな中、ある事件を引き起こします。
エヴァは、ヒトラーに別れの手紙を投函・・・そして・・・銃弾は首をかすめ、一命をとりとめました。
知らせを聞いたヒトラーは、すぐに病院へ駆けつけました。
そして医師にこうただしました。
 
「彼女は本気で自殺しようとしていたのか・・・??」

「彼女は心臓を狙っていましたが、なんとか助けられました」

エヴァは、ヒトラーとの関係が終わるのではないかと深く絶望していました。
これからは、この娘を気にかけてやらなければ・・・
2度とこんなことが起きてはならない・・・
ヒトラーは、いつでも連絡が取れるようエヴァの部屋に電話を設置しました。
自殺未遂の翌年・・・1933年1月にヒトラーは首相に就任。
一層政局に謀殺されていきます。
21歳の誕生日を迎えたエヴァの元には、ヒトラーから指輪やネックレス、ブレスレットが届きました。
しかし、肝心のヒトラー本人は現れませんでした。

「彼が殊勝になったところで、私に何の関係があるの??
 彼に会えない日が増えるだけだわ」

翌年ヒトラーは、ナチ党の党首・首相・大統領と全ての権限を持つ総統に就任し、独裁色を強めていきます。
武力を背景に、反対勢力を排除していきます。
しかし、エヴァは、ヒトラーの政治には関心を示さず、生涯ナチ党に入りませんでした。
そんなエヴァにとっての最大の関心ごとは、ヒトラーの周りの女性たちでした。
絶大な人気を誇るヒトラーの周りには、有名女優や歌手、映画監督などが集まりました。
青年時代は画家志望だったヒトラーは、芸術的才能を持つ女性たちと積極的に触れ合います。
それに対して、エヴァの存在はあくまで秘密にされ、公の行事に参加する事さえ許されませんでした。
エヴァは、ヒトラーに寄ってくる女性たちに、激しい嫉妬心を抱いていたといいます。
ヒトラーは、多くの著名な女性と出会っては、彼女たちの機嫌を取るため贈り物までしていました。
しかし、エヴァは、自分がとても難しい立場にいることも自覚していて、すべてを受け入れるしかありませんでした。

エヴァの23歳の日記には・・・ヒトラーと自分の関係が・・・その時々の気持ちが書かれています。

「昨日は思いがけなく彼が来て、うっとりとするような夜になったわ」

それから2週間後には・・・

「彼はもう、14日間も来ていない
 私は彼がなぜ怒っているのかわからない」

さらに12日後には・・・

「今は政治的にいろんなことが起きているから彼が私に興味を示さないのは当然のことよ
 ただ静かに待っていればいいのよ」

この日記が書かれた1935年3月16日、ヒトラーは第1次世界大戦後に禁止されていたドイツの再軍備を宣言しました。

エヴァの日記に書かれているのは、ありふれた日常ばかり・・・
国がひっくり返って、世界が崩壊するかもしれない中で、エヴァがはヒトラーが自分のために時間があるかどうかという観点からしか見ていませんでした。

翌月のエヴァの日記には・・・

「愛なんてものは彼の計画から外されてしまったんだわ」

そしてエヴァは再び事件を起こします。
自宅で大量の睡眠薬を飲み、2度目の自殺を図ったのです。

「親愛なる神様、今日中に彼と話すことができるようにお力をお貸しください
 明日では遅いのです
 私は35錠飲むことに決めました」

しかし、姉がすぐに発見して手当てをしたため、命はとりとめました。
この時姉は、エヴァの自殺の原因を両親に知られるのを恐れ、日記の一部を破りとりました。
エヴァの日記は後になくなりますが、姉が破った4か月分だけが偶然残りました。
再び自殺を図ったエヴァに対し、ヒトラーは驚くとともに心打たれたといいます。
ヒトラーは、自分に絶対的な忠誠心を誓った仲間に非常に温情をかけるような面があります。
自分の命をかけてまで、自分に忠誠を示してくれたというのが、ヒトラーの気持ちを動かしました。
2度目の自殺未遂から3か月後、ヒトラーは公式行事にエヴァも参加することを許しました。

1935年秋、ニュルンベルク党大会・・・ヒトラーのもとに10万もの人が集まるのをエヴァは初めて目の当たりにしました。
この党大会中にヒトラーはある重要な法案を可決しました。
ニュルンベルク法と呼ばれるユダヤ人の市民権を奪う人種差別法です。
エヴァは日記にこうつづっています。

「地球でもっとも偉大な人の恋人の私」

エヴァ・ブラウン23歳の秋のことでした。

エヴァとヒトラーが出会って6年が経った1935年、父・フリードリヒはヒトラーに手紙を送ろうとしました。
恋人とはいえ、秘密で結婚もしようとしないというエヴァとの中途半端な関係を心配したからです。
「子供達は結婚して初めて両親のもとから離れるもの」
これ以上付き合うなら、エヴァと結婚してほしいと遠回しに迫っています。
この手紙はヒトラーに届けられる前に、エヴァに見つかり破り捨てられてしまいます。
しかし、父が手紙の写しを持っていたため、どんな内容だったのかわかっています。

もちろん、エヴァは結婚したかったのです。
しかし、自分の立場を受け入れ、一度たりともヒトラーの邪魔をしようとはしませんでした。
常にヒトラーの言われたように動きました。
だから、あのような関係が長く続いたのです。
ミュンヘン近郊・・・自然に囲まれたオーバーザルツベルクの山荘・・・ここを気に入ったヒトラーは、山荘を買い取って改築しました。
改築が完成すると、エヴァ・ブラウンは実家から出て山荘で暮らすようになります。
この時、24歳・・・山荘には巨大な大広間をはじめ、30以上の部屋があり、最高級の木材などが使われていました。
人里離れた山荘は、関係を公にできない二人にとって絶好の隠れ家でした。
この山荘で、エヴァに仕えていた女性の証言が残っています。

「”ハッキリ言っておくわ”と初日に言われたの
 ”あれがヒトラーの部屋で、こっちがエヴァの部屋、利口ならば2人の関係はわかるわね
 あともうひとつ
 何を見ても、何が起こっても、絶対口外したり、書き留めたりしないこと
 エヴァの存在は極秘よ”とね
 だから、2人がどこまで進展しているのかは分からなかった」

エヴァとヒトラーは、人前では仲のいい友人として振る舞い、決して親密な態度は見せませんでした。
そんな2人が楽しみにしていたのが夜の映画鑑賞です。
その日何を見るか決めるのはエヴァ、特に好きだったのはハリウッド映画「風と共に去りぬ」でした。
エヴァは、主役のスカーレット・オハラを真似た衣装を着て、映画の一シーンを再現するほどお気に入りでした。

エヴァが山荘に移って3年が経った1939年、第2次世界大戦勃発。
9月、ドイツ軍はポーランドに侵攻。
戦争が始まると、山荘は総統大本営となりました。
ヒトラーは、ここで日夜作戦会議を開いて戦略を立てました。

戦争中でも、エヴァの暮らしにはほとんど変わりはありませんでした。
しかし・・・エヴァ自身にはある変化が起きていました。
ヒトラーが山荘を離れるとエヴァはそれを待っていたかのようにいそいそとパーティーの準備を始めるようになります。

「それまでおとなしくしていた彼女が一瞬で豹変した
 すぐに様々なお楽しみの準備が始まった
 はめを外し、まるで子供だった」

さらに、エヴァは家族も山荘に呼んで一緒に優雅な生活を送るようになりました。
そこには、ヒトラーをかつての青二才と嫌っていたフリードリヒの姿もありました。
この頃には、父もナチ党に入党しています。
いつしかエヴァは、自らを山荘の女主人と名乗るようになっていました。

開戦当初、ヒトラー率いるドイツ軍は快進撃を続け、1940年6月にはパリを占領するなどヨーロッパ中を震え上がらせました。
戦争を拡大する裏で、ナチスは数百万人のユダヤ人を強制収容所に送ります。
こうしたユダヤ人迫害など、ヒトラーの政策を批判していたのは姉のルイゼでした。
山荘で公然とヒトラーを批判する姉に対して、エヴァはこう言いました。

「総統が、あなたを強制収容所送りにしても私は助けないわよ!」

第2次世界大戦末期の1945年4月30日・・・
ナチスドイツの総統官邸でエヴァはヒトラーと共に命を絶ちました。
一体どうして・・・??
1944年、ヒトラー率いるナチスに開戦当初の勢いはありませんでした。
6月には連合軍がノルマンディ上陸作戦に成功。
ドイツ国内では市街地への空襲が激化!!
山荘にいたエヴァは、故郷ミュンヘンから立ち上る炎をじっと見つめていたといいます。
更に翌月には、ヒトラー自身に衝撃的な事件が起こります。
1944年7月20日、ヒトラー暗殺未遂事件・・・会議中、ヒトラーの傍に置かれていたカバンが爆発・・・戦争の敗北を悟った側近たちのクーデターでした。
この爆発で4人が命を落としたものの、ヒトラーは奇跡的に軽傷を負っただけで済みました。
この時、エヴァのもとにヒトラーからあるものが届けられました。
爆発の衝撃でボロボロになった軍服です。
エヴァはヒトラーにこう返事を書きました。

「あなたの身に万一のことがあったら、私は生きていくことができません
 たとえ死んでもあなたについていくと誓ってまいりました
 あなたを愛することが私の全てです・・・あなたのエヴァ」

1944年10月、エヴァは細かい遺書を書きます。
遺書には現金や車、買いそろえた毛皮のコートやじゅうたんなど、家族や友人の誰に渡すか・・・事細かに記されていました。

1945年1月、連合軍は首都ベルリンに迫っていました。
ヒトラーは、総統官邸の地下に作られた地下壕に籠り、ベルリン防衛を指揮。
エヴァに対しては、戦火から遠く離れた山荘に留まるように指示していました。
しかし、3月7日、ベルリンの戦火を抜けて走る一台の車が・・・
エヴァ・ブラウンでした。
ヒトラーは、彼女が言いつけに背いてやってきたことを心から喜んだといいます。
その後も連合軍の猛攻は続き、地下壕の側近たちにも不安が募っていきます。
しかし、エヴァは、地下壕に家具一式を運び込んで、美しく着飾って、山荘にいるのと同じように過ごしました。
エヴァは、ヒトラーが部下の前で弱みを見せることを許さず、時には軍服の乱れを注意することもありました。

「そんな薄汚れた格好で歩き回ってはいけないわ」

1945年4月、連合軍は総統官邸の目前まで迫ってきました。

「1日ごと、いや1時間ごとに最後が私たちに近づいてきています
 総統は、この戦争の全ての希望を失いました
 けれど、私たちは生きて捕らわれるつもりはありません」

敗戦が濃厚となり、逃亡する兵士が続出・・・
その中にエヴァの妹の夫・・・義理の弟もいました。
逃亡先で捕まった義理の弟には、処刑命令が下りました。
しかし、エヴァは救いの手を差し伸べませんでした。
すでに地下壕は絶望的な状況・・・連合軍がいつ押し寄せてもおかしくありませんでした。
そして、4月29日未明・・・
エヴァは、ヒトラーと結婚式をあげようとしていました。
写真館の出会いから16年が経っていました。
エヴァは、光沢を帯びたロングドレスに身を包み、美しい宝石で着飾ります。
式は、ナチスドイツの婚姻条例に従ってベルリン市役員立会いの下で行われました。
結婚証明書に署名する際、エヴァはブラウンと書きそうになり、慌ててエヴァ・ヒトラーと書き直しました。
朝になるとエヴァは使用人にこう言います。

「私のことをヒトラー夫人と呼んでもいいのよ」

結婚式の翌日・・・1945年4月30日午後3時・・・
ヒトラー夫妻はそろって部屋へと入っていきました。
そして銃声が・・・こうして、エヴァ・ヒトラー33年の生涯に幕を下ろしました。

2人の遺体は地下壕の外に運び出され、焼却されました。
2日後ベルリンが陥落し、ドイツは敗戦を迎えます。

 
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