日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: 追跡者 ザ・プロファイラー

現在、世界中で飛行機に乗る人の数は、1年間で約45億!!
地球上のどこでも気軽に飛んでいけます。
旅客機の時代は、一人の若者の快挙から始まりました。
チャールズ・リンドバーグ・・・およそ100年前、ニューヨーク⇔パリ間の5800キロの無着陸飛行に初めて成功しました。

1929年にアメリカで公開されたウォルト・ディズニーの初期作品「プレーン・クレイジー」・・・飛行機に夢中になった主人公が、パイロットにチャレンジする物語です。
主人公が、その髪型を真似するほど憧れたその人物・・・それがリンドバーグでした。

1927年5月20日、ニューヨーク⇔パリ間を大西洋単独無着陸飛行という世界初の快挙に成功したリンドバーグ・・・
ニューヨークの凱旋パレードでは、400万人もの人が祝福、一夜にして世界中のヒーローとなりました。
しかし、その後リンドバーグを待っていたのは、英雄ゆえの悲劇の連続でした。

20世紀は飛行機と共に始まりました。
1903年、ライト兄弟が世界初の友人動力飛行に成功します。
1914年、第1次世界大戦で、飛行機が戦闘に投入されます。
飛行機の運動性能は瞬く間に向上し、その後は如何に長く飛ぶか・・・飛行距離を競う時代となりました。
そして1919年、アメリカで世界最大の航空レースが催されます。
ニューヨーク⇔パリ間の5800キロ・・・大西洋を横断し、しかも無着陸のレースです。
1番乗りの賞金は、2万5000ドル・・・現在の価値でおよそ4000万円でした。
前人未到のこのレースに挑み、初の偉業達成した若者こそ、リンドバーグでした。

リンドバーグは、どのようにして大西洋無着陸横断に成功したのでしょうか?
1902年、リンドバーグは、ミシガン州デトロイトで生まれました。
父は弁護士、母は教師・・・しかし、両親はリンドバーグが5歳の時に別居します。
母に引き取られたリンドバーグ・・・しかし、母が仕事に出かけると、リンドバーグはひとり・・・。
ひとり遊びが好きな内気な少年でした。

「私は部屋の中で生白い顔をして何時間もずっとあれこれつまらないことを考えて過ごした」

時折会いに来る父は、友達のいないリンドバーグをこう励ましました。

「一人は一人前の仕事をする
 二人では半人前の仕事をする
 三人になると何も達成できない・・・ということわざがある
 他人を頼り過ぎてはいけないよ」

そんなリンドバーグは心を惹かれたのは機械でした。
近くに住んでいた祖父は、歯科医で発明家。
リンドバーグは祖父の研究室に入り浸り、様々な工具や機械に夢中になりました。

「科学はあらゆる謎を解き明かす鍵なんだ!」

やがてリンドバーグの興味は、最先端のメカ・飛行機に向いてきます。
10歳の時、母と共に試験飛行を見学しました。
リンドバーグの目の前で、飛行機が大空へと駆け上がっていきます。

「僕も空を飛びたい!!」

20歳になったリンドバーグは、パイロットを目指して飛行学校へ入学。
1週間後、初めて飛行機に乗せてもらいました。

「美しさと危険に満ち 生と死を超越した永遠の空間の中に生きている気がした」

在学中、リンドバーグはアルバイトして稼いだ金をつぎ込んで中古の飛行機を手に入れます。
その目的は、プロの曲芸飛行士!!
第1次世界大戦が終わり、仕事にあぶれたパイロットが始めたこのショーは、全米で大人気でした。
リンドバーグは、”命知らずの空中軽業師”というキャッチフレーズで、各地を回り、操縦の腕を磨いて行きました。
その後、リンドバーグは、22歳で陸軍飛行学校に入学。
曲芸飛行で磨いた操縦の腕前は、教官を凌ぐほどだったといいます。
翌年、リンドバーグは首席で卒業、航空産業の中心だったセントルイスに移住します。
セントルイスでは、全米に先駆けて、民間の航空郵便が発足、リンドバーグはその会社のチーフパイロットに採用されました。
嵐でも、闇夜でも、たった一人で飛ぶ航空郵便・・・
それは、孤独を苦にしないリンドバーグにうってつけでした。
しかし、当時、航空郵便のパイロットは、最も危険な職業でした。
墜落死亡事故が後を絶たなかったのです。
リンドバーグも、2度墜落事故をに遭いましたが、その度にパラシュートで脱出し、生還しました。
そんな頃、耳にしたレースが、大西洋横断レースでした。
ニューヨーク⇔パリ間、5800kmの無着陸飛行です。
それまで大西洋横断の最長記録は3000km・・・
今回のレースは、その2倍近い前人未到の距離でした。
名だたるパイロットが挑戦したものの、次々と失敗、6人の犠牲者が出ていました。
しかし、リンドバーグに迷いはありませんでした。

「賞金よりコースを飛んでみたい」

リンドンバーグは、他の挑戦者が考えもしなかったアイデアを次々と実行していきます。
大西洋横断は、30時間以上の長距離飛行です。
操縦を後退するため、他の挑戦者は2人乗りの飛行機を使っていました。
しかし、リンドバーグは・・・

「僕はひとりだけで飛ぼう」

狙いは、軽量化でした。
2人乗り用の飛行機では、どうしても重くなり、長距離に適しません。
一人乗りならば劇的に減る・・・
しかし、その代わりにリンドバーグは飛行中一睡もできない!!
さらにリンドバーグは、無線機も非常用のパラシュートも積みませんでした。
命の危険と引き換えに、ギリギリまで軽くしたのです。

リンドバーグは、飛行機の設計の時点で細かく常識外れの注文をつけます。
操縦席の前に、巨大なガソリンタンクを設置しろと言うのです。
操縦席からは、全く前が見えなくなってしまう・・・

「前が見えないと危険だ」と、技術者は猛反対・・・しかし、リンドバーグは反対を押し切ります。
その設計にした理由は、飛行機に燃料を一番多く積める方法だったからです。
彼の飛行技術であれば、前方の視界は必要ありませんでした。
航空郵便では闇夜に飛ぶことも多く、彼にとって飛行は感覚的なものでした。
航路はわかっていて、メーターで高度も解り、飛行の状況をちゃんと把握できたのです。
完成した飛行機の名は、”スピリット・オブ・セントルイス号”でした。
地図には大西洋上空を吹く季節風なども計算し、1時間で飛べる距離・・・すなわち100マイルごとに方向を細かく書き込みます。

「正確であることは、とても重要なことだ
 ぼくの職業は、命そのものが正確さに依存しているから」

1927年5月20日・・・大西洋横断飛行出発当日・・・。
入念に準備をしてきたリンドバーグでしたが、大きなミスを犯していました。
記者たちの取材攻勢で眠ることができず、フライトを前に24時間も眠っていない状態でした。
積んでいた食料は、サンドイッチ5食分だけ・・・
「それで足りるのか?」と聞かれたリンドバーグは、

「パリに着けばサンドイッチはいらない
 パリに到着しなければやはりサンドイッチはいらない」

午前7時54分離陸・・・
ところが燃料が満タンで重かったうえ、滑走路が雨でドロドロにぬかるんでいたため、なかなか離陸ができない・・・
なんとか機体を持ち上げた飛行機・・・パリへの長い旅が始まりました。
離陸から14時間・・・飛行機は大西洋上空へ・・・!!
リンドバーグの最大の敵は、睡魔でした。
飛行前からの睡眠不足と疲労で、激しい睡魔に襲われ、幻覚まで見えたといいます。

「なんとかして気を張り詰めておく方法を見つけなくてはならない
 この分では、死か失敗しかない」

窓から顔を出し、プロペラからの熱風を浴びてなんとか眠気を覚ましたといいます。
ニューヨークを出発してから33時間30分・・・リンドバーグの目に映ったのは・・・

「星空の下に星がきらめくような大地がある・・・ パリの灯だ!!」

空港には、15万人のパリ市民がリンドバーグを一目見ようと殺到しました。
アメリカに帰国後、大統領からは勲章が与えられました。
その後、リンドバーグは全米の82都市を訪問、熱烈な歓迎と祝福を受けました。
リンドバーグ25歳の時でした。

前人未到の偉業を成し遂げ、一躍世界のヒーローとなったリンドバーグ・・・
しかし、その僅か8年後、リンドバーグ一家は祖国アメリカを去りイギリスに移住します。
英雄となったリンドバーグを待っていたのは、祝賀行事の分刻みのスケジュールでした。
行く先々で、待ち構えるマスコミから猛烈な取材攻勢を受けます。
端正な顔立ちも、人気に益々火をつけます。
多くの女性が、独身のリンドバーグに熱い視線を送ります。
しかし、彼は何の関心も示しませんでしたが・・・

メキシコシティ・・・1927年、アメリカ政府の要請で親善大使としてメキシコへ
そして、アメリカ大使館のクリスマスパーティーに出席します。
そこでリンドバーグを迎えたのが、大使の娘アン・モローでした。
文学を愛する物静かな女性にリンドバーグは一目ぼれします。
大西洋横断から2年後、27歳になったリンドバーグはアンと結婚。
リンドバーグは、しばしばアンを飛行機に乗せて空を飛びました。
そしてこんな夢を語りました。

「僕が今、興味があるのはね 国と国の間にある偏見を打ち破って、飛行機を通じてお互いを結びつけることなんだ」

リンドバーグは、航空会社の技術顧問に就任。
ニューヨークから西海岸への航路の開発に乗り出します。
当時、ニューヨークから西海岸までは、大陸横断鉄道・・・一番早い汽車でも丸3日かかりました。
このルートを飛行機が飛ぶようになれば、客が殺到するのは確実だ!!
リンドバーグは、安全で効率的なルートを探すため、何度も大空に飛び立ちました。
なんと、妻のアンも一緒でした。

1929年、ニューヨークロサンゼルス間を48時間で結ぶ大陸横断旅客航路、就航。
リンドバーグ・ラインと呼ばれるこの航路は、誰もが飛行機に乗って旅をする先駆けとなりました。
私生活も充実し、この頃、長男チャールズが誕生します。
リンドバーグは、静かな環境を求めてニューヨークから車で2時間ほど離れた郊外に移り住みます。
航空ルート開拓の仕事は、子供が生まれても続けました。
アンと二人でアラスカからベーリング海、日本に至る北太平洋航路の開発の旅に出ます。

1931年8月、夫妻は茨城県霞ヶ浦に到着。
日本での滞在はおよそ1か月・・・東京、大阪、福岡と訪問し、各地で熱烈な歓迎を受けます。
その後、アメリカに戻ったリンドバーグ・・・しかし、その6か月後悲劇が・・・。
1932年3月1日、自宅で一家団らんを過ごした夜9時すぎ・・・当時1歳8か月の長男チャールズが2階の寝室から忽然と姿を消したのです。
部屋には脅迫状が残されていました。

「5万ドルを用意しろ
 警察には知らせるな」

世界的な英雄を襲った誘拐事件・・・!!
静かな森は、報道陣と警察で騒然となりました。
妻アンはリンドバーグの母への手紙にこう書いています。

「恐ろしく非現実的な状況に私の感覚は麻痺しています」

リンドバーグは、身代金5万ドルを用意します。
犯人から受け渡しに指定された墓地・・・
リンドバーグは、離れたところから身代金受け渡しに立ち会いました。
しかし・・・金を渡したもののチャールズは帰らず、犯人からの連絡も途絶えました。
事件から70日後・・・自宅から5キロほど離れた松林で、変わり果てた我が子が発見されました。

「抑えようのない感情がこみ上げてくる
 今はこの悲しみを受け入れることができない」

事件から2年半後、身代金の紙幣を使った男が逮捕されました。
ドイツ系移民のブルーノ・ハウプトマン・・・不法入国者で逮捕歴もありました。
裁判でハウプトマンは、無罪を訴えました。
その内容をリンドバーグは欠かさず傍聴したといいます。
リンドバーグは、ハウプトマンの声を聞いてこう証言しました。

「あの晩に聞いたのと同じ声です」

リンドバーグの証言が決め手となり、ハウプトマンは死刑となりました。
しかし、判決の後、リンドバーグへの取材攻勢はやむこともなく・・・さらに、事件後に生れた次男のジョンを誘拐するという予告状まで舞い込み、リンドバーグ一家の忍耐力は限界に達していました。
1935年、妻と次男と共にイギリスに移住・・・33歳の時でした。

第2次世界大戦が起きると、リンドバーグは英雄から一転、国民の批判にさらされることとなります。
どうして英雄の座から転げ落ちたのでしょうか?
1935年、イギリスに移住したリンドバーグ一家・・・ロンドンの郊外で、おだやかな日々を過ごしていました。
1年後・・・リンドバーグのもとに、アメリカ政府から1通の手紙が届きます。
ヒトラー率いるナチスドイツの空軍を視察する依頼でした。
1936年7月、34歳のリンドバーグは、妻のアンと共にベルリンに飛びます。
ドイツを視察訪問・・・リンドバーグの名声は、ドイツでも絶大でした。
ヒトラーの右腕で、ドイツ空軍総司令官だったゲーリングは、リンドバーグを大歓迎・・・
軍事機密である戦闘機の視察も特別に許可されます。
ドイツ空軍の戦闘機を見たリンドバーグは、高い技術力に感銘を受けます。
第1次世界大戦の負け、兵器を破壊されてから20年足らず・・・
驚異のスピードでドイツを復興し、軍備を整えたヒトラーを高く評価しました。
リンドバーグは、日記にこう記しています。

「彼に対して批判はあるが、偉大な人物であることに間違いない
 若干の狂信的行為はあるが、ある程度の狂信性がないと、これほどまでのことは達成できなかっただろう」

その後、リンドバーグにはドイツに貢献した外国人に与えられるという荒鷲十字勲章が与えられました。
リンドバーグは、意味を深く考えずに勲章を受け取ったといいます。
彼は決して”親ナチス”ということではありませんでした。
しかし、彼は間違いなく、ナチスドイツの技術の進歩、そしてヒトラーが作り上げた空軍に感銘を受けていました。

1939年4月・・・3年半ぶりにアメリカに帰国。
その9月、第2次世界大戦が勃発!!
ナチスドイツがポーランドに侵攻したのです。
これを受けアメリカでは、ナチスドイツを批判するローズベルト大統領がアメリカも参戦すべきだと主張していました。
リンドバーグは、この主張に真っ向から対立!!
中立を訴えました。

「私は皆さんにアメリカの中立を訴えたい
 戦争に介入すれば、私たちは大変な損害を受けます
 我が国の指導者の判断は間違っています」

リンドバーグの主張は、大きな支持を集め、次期大統領の有力候補という声まで聞かれるようになっていました。
1940年、ナチスドイツがロンドンを空爆開始、アメリカの世論は一気に参戦に傾きます。
それでも参戦に反対し続けるリンドバーグに、民衆は失望していきました。

「アメリカを戦争へと駆り立てるのは、ローズベルト大統領に他ならない」

風刺画にはナチスの手先として描かれ・・・ドイツの勲章を持っていたことも、ナチスとの関わりの証拠だとされ、国中から大バッシングを受けたのです。

リンドバーグの立場がさらに悪くなる事態に・・・
1941年、日本がハワイ真珠湾のアメリカ軍を攻撃、太平洋戦争が勃発しました。
こうなっては、リンドバーグも反戦の主張を撤回する以外にありませんでした。

「我が国に対して武力を行使された今、武力によって報復せねばなりません」

自らも参戦したいと希望したリンドバーグ・・・
しかし、ローズベルト大統領と廃立している時に軍籍を返上していました。
軍には戻れない・・・そこで、戦闘機を作る民間会社の技術顧問として参戦します。
太平洋のニューギニアへ・・・!!
到着すると、軍法を無視して爆撃機に搭乗します。
米軍は、日本軍の拠点ラバウルの爆撃を計画、パイロットにはニューギニアからラバウルを往復する長距離飛行の技術が必要でした。
すでに40歳を超えていたリンドバーグ・・・しかし、長距離飛行で彼の右に出る者はいませんでした。
最高司令官マッカーサーは、リンドバーグの参戦を黙認。
若いパイロットの指導役として燃料の節約教えます。
ゼロ戦の激しい攻撃をかわしながら、日本軍に爆撃を続けたリンドバーグ・・・
しかし、爆撃後地上に降りて日本兵の死体を見た時、大きな衝撃を受けました。

「自分がボタンを押すことで死が落下していく
 爆弾が落ちたところに人がいたら、その人の命を奪ったのは自分なのだ」

1945年5月、首都ベルリンが陥落・・・ドイツは降伏しました。

1960年代、60歳を過ぎてからリンドバーグはそれまでと全く違う活動を始めます。

「もしどちらかを選ぶとするならば、今の私は飛行機よりも鳥を選ぶだろう」

それは、絶滅危惧動物の保護でした。
飛行機という最先端の文明とは真逆の自然に生きがいを見つけたのです。

1945年5月、ドイツの敗戦から1か月後・・・ドイツ空軍の技術調査のためにドイツを訪問。
そして調査の一環として、ナチスの強制収容所を訪れます。
そこで、多くのユダヤ人が虐殺された生々しい現場を目の当たりにします。

「これこそ、人間の生と死が堕落の極みに達した場所・・・
 このような施設を正当化することは絶対に不可能だ」

太平洋戦争の終結から3年後、今度は日本へと飛んでいき広島を上空から眺めました。

「よく目を凝らすと、眼下には爆破され、放射能を浴び、焼けただれた広島の土が見えた」

そして1953年、リンドバーグは1冊の本を発表します。
タイトルは「翼よ、あれがパリの灯だ」。
ニューヨーク⇔パリ間の無着陸飛行を中心に書かれた青春の自叙伝です。
あれから26年経った今、リンドバーグは快挙に酔いしれた当時とは全く違う気持ちだと語りました。

「私たちは飛行機というものに命を捧げてきたが、それを作り出した文明を、いま私たちは破壊しているのだ」

60歳を過ぎたリンドバーグは、世界自然保護基金の団体と連携し、絶滅が心配される生き物の保護するため、世界中を飛び回るようになります。
フィリピンのミンドロ島にだけ生息する野生のタマラオ・・・この牛も、絶滅危惧種の一つでした。
リンドバーグは、その知名度を生かし、マルコス大統領の直談判、フィリピン政府を動かして、保護区を作らせました。
他にも、シロナガスクジラ・ハクトウワシ・ホッキョクグマ・マウンテンゴリラなど、世界中を飛び回りながら、その後の人生を動物たちを救うことに捧げました。

ハワイ・マウイ島・・・豊かな自然のこの島に、リンドバーグが晩年家族と過ごした家があります。
文明から遠ざかるように、電気もガスもひかず、ランプと薪の生活を送っていたといいます。
末の娘によると・・・

「父は優しくもあり厳しくもありました
 子供の頃には私を抱き上げて高く投げてくれたり、家ではロープで素敵なものを色々と作ってくれました
 機械であろうとお金であろうと、日常使うものの管理にはとても厳しかった
 車に乗る前には、私たちにもタイヤを蹴らせ、オイルの点検もさせました
 突然車を停めて、私たちにタイヤの交換をさせたりもしました
 まだ交換の必要が無くてもです」

そんな父が晩年、自然の保護活動に打ち込んだのも分かる気がするといいます。

「父は飛行機の技術が、世界中の自然を破壊していると考えたのです
 ”人類が生き残るには自然とテクノロジーのバランスをとらなくてはならない”と言っていました」

71歳の時、リンドバーグは悪性リンパ腫に侵され、ニューヨークの病院に入院します。
しかし、都会で死を迎えることをかたくなに拒み、医師の反対を押し切って島へ戻りました。

「マウイ島で死に、その地で埋葬される・・・
 そのことが、父にとって大事なことでした
 亡くなる10日前とか、1週間前に、死に向けて全ての準備が整っているか確認したかったのです
 父はどのようにお墓が建てられるかも知りたがりました
 自分の葬式で、母に讃美歌を歌ってほしいと希望したのに、”あれはダメ””これはダメ””他の賛美歌にして”と注文を付け、自分で決めようとしていました
 本当に父らしいと思います
 父は非常に細かいプランナーでした」

「どうせ死と対面するならば、前もって知っておきたいのだ
 死こそ人生における最後の、そして最大の冒険だろうから」

1974年8月26日、チャールズ・リンドバーグ死去・・・72歳の生涯でした。
今、リンドバーグは、マウイ島の自然の中で静かに眠っています。

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ジャイアントキリング・・・19世紀のヨーロッパでそれを成し遂げた男がいました。
その男の名は鉄血宰相と呼ばれたドイツのビスマルクです。
明治の日本でヨーロッパを訪れた新政府の指導者たち・・・西洋文化の視察と江戸幕府が結んだ不平等条約の改正のために・・・!!
一行は、法整備や機械文明の進んだヨーロッパを貪欲に学びました。
しかしその反面、不平等条約の改正は一向に進んでいませんでした。
彼等は対応には丁寧だが、交渉には取りつく島もありませんでした。
そんな中、有益な助言をくれた政治家が一人だけいました。

「諸君らは、各国が礼儀を持って接していると思っただろうが、それはあくまで建前にすぎず、現実は弱肉強食である」

ドイツの首相オットー・フォン・ビスマルクです。
19世紀、小さな国の集まりだったドイツを統一し、弱小国からヨーロッパ屈指の強国へと押し上げた・・・目的のためには、慣習や法律を破ることもいとわない風雲児でした。

ビスマルクが首相になったのは47歳の時でした。
しかし、若い頃のビスマルクは札付きのワルでした。
仕事そっちのけで酒と女遊びに・・・借金まみれ、おまけに誰彼構わずケンカを吹っ掛けました。
そんな男がどうして首相になったのでしょうか?

ベルリンから西へ100キロほどのシェーンハウゼン・・・
1815年、ビスマルクはこの片田舎で生まれました。
当時は現在のようなドイツ国家はなく、ビスマルクのいたプロイセン王国やオーストリアなど、大小の国が集ってドイツ連邦(約35の国と4つの自由都市からなる連邦組織)を形成し、それぞれの国を治めていました。
父フェルディナントは、プロイセン王国に仕えて地方の領地経営をする田舎貴族・ユンカーで、農業経営をしながらプロイセン国王の下で地域を治めていて、おおらかで朴訥だったといいます。

「私は父を心から愛していました」

母・ヴィルヘルミーネとは、ソリが合いません。
母は大都会ベルリンから嫁いできた政府高官の娘でした。

「母は美しく頭脳明晰でしたが、情けをほとんど持ち合わせず、厳しく冷たい人に見えました
 小さい頃は、心底母が嫌いでした」

1822年、6歳でベルリンの寄宿学校に入学し、エリート教育を施されます。
英語・フランス語を習得、成績は優秀でした。
しかし・・・1832年17歳でゲッティンゲン大学に入学すると・・・ろくに授業に出なくなります。
奇抜な服を着て、大きな犬を従え、毎日あてもなく町をうろつきます。
仲間と会えば酒を煽り、喧嘩に明け暮れます。
そんなビスマルクが唯一熱中したのが歴史学でした。
歴史の裏に、ヨーロッパの利害や思惑がいかに絡み合っているのかを読み解く授業・・・
ビスマルクは夢中になりました。

「僕はプロイセンで最大のゴロツキになるか、最も偉くなるかだ」

1935年、20歳で母の望み通り官僚として働き始めます。
しかし、単調なデスクワークにすぐに飽きてしまいます。
代わりに夢中になったのが恋愛でした。
仕事をさぼって、恋人と各地で豪遊・・・金が尽きるとギャンブルに手を出しました。
しかし、恋人と別れるころには借金と無断欠勤とでビスマルクは職場を逃げ出します。

1839年、24歳の時、ビスマルクが次に手掛けたのが農場経営でした。
父の跡継ぎとして故郷でユンカーとして働き始めます。
数年もたつと・・・一人の時は退屈だ・・・何をやっても本気にならないビスマルク・・・
しかし、1842年、27歳の時、大きな転機が訪れます。
幼なじみに連れられてキリスト教のサークルに入ります。
ここからビスマルクの人生に二つの道が切り開かれていきます。

ひとつは政治家への道・・・
このサークルには、プロイセン国王の側近たちも参加していました。
彼等の推薦でビスマルクは州議会議員になることができました。
もう一つは結婚への道・・・
サークルの中に、マリー・フォン・ダッテンという7歳下の知的な美女がいました。
ビスマルクはマリーと交際し、愛を育んでいきます。
しかし、幸せは束の間でした。
1846年、31歳の時、突然病でマリーがこの世を去ってしまいます。

「こんな親しい人を死によって失ったのは初めてだ
 かけがえのない彼女の姿を見ることも、声を聞くことも二度と出来ない
 この出来事が、まだ現実だとは思えない」

ところがその翌月、ビスマルクは驚くべき行動に出ます。
マリーの親友ヨハナ・フォン・プトカマーにプロポーズしたのです。
ヨハナは内向きで、社交的というよりは家庭の人でした。
信仰と伝統を重んじて非常に地味な女性でした。
マリーの死をきっかけに、二人の関係は急に密になったのです。
ビスマルクからすれば、自分が落ち着ける場所を見出したのです。

1847年、32歳でヨハナと結婚。
議員として政治に没頭していきます。

1851年、36歳で外交官に抜擢されます。
1852年3月、外交官になったばかりのビスマルクが意気揚々と向かったのがドイツ連邦議会でした。
しかし、そこで目にしたのはプロイセンの二倍ほどもある大国オーストリアの強大な権威でした。
オーストリアのシェーンブルン宮殿・・・当時、宮殿の主はハプスブルク家でした。
ヨーロッパの国々と婚姻を結んで影響力を持ち、さらに長い歴史を誇る神聖ローマ帝国の皇帝を兼ねたという名門中の名門です。
プロイセンはドイツ連邦の中ではナンバー2の国で、つねに格下扱いされ屈辱を受けてきました。
ビスマルクはそこで大胆な行動に出ます。

議会で葉巻を吸うことができるのは、連邦議会会長のオーストリア代表だけ・・・という慣例がありました。
ところが、ビスマルクは葉巻を取り出しおもむろに議長の前で吸い出したのです。
議長は呆気にとられたといいます。
オーストリアの秘密文書には、ビスマルクについてこう書かれています。

”時には紳士らしくするものの本性は傲慢で卑怯、過剰なうぬぼれに大ぼら吹き
 オーストリアへの嫉妬と憎しみでいっぱいで、常に戦いを挑んでくる”

外交官となって11年経った1862年47歳・・・
ビスマルクはついに首相に就任しました。
プロイセン国王・ヴィルヘルム1世の意向だったといいます。
その背景には、国王と議会の対立がありました。
当時のプロイセン議会は、個人の自由を尊重し、国王に否定的な自由主義議員が多数を占めていました。
そのため、国王と議会が対立し、政治が麻痺していたのです。
そこでヴィルヘルム1世は、常々国王に忠誠を誓っていたビスマルクに目をつけたのです。

議員になりたての1847年、32歳の時・・・ビスマルクは既にこんな演説をしています。

「プロイセン君主は、神からの恵によって、絶対的な王権を所有しているのです」

君主主義に対する忠誠、保守的なところがあります。
そこが一番大きかったのです。
しかし、何をしでかすかわからない・・・!!

プロイセン王国の首相となったビスマルク・・・ある野望に燃えていました。
プロイセンをドイツ連邦を代表する大国として周りの国々に認めさせることです。
しかし、そのためには同じドイツ連邦でナンバー1のオーストリアが邪魔になる・・・

首相の座について1週間後、ビスマルクは後世に残る演説をします。

「時代の大問題を決着させるのは、演説や多数決によってではない
 鉄と血によってだ!!」

武器を示す鉄と兵士を意味する血・・・
プロイセンを発展させ、強国に導く手段は軍備拡張であると明確に打ち出したのです。
ところが、大きな問題がありました。
それは議会・・・当時の議会は、君主制を嫌う自由主義の議員が多数を占めており、国王に忠実なビスマルクに猛反発します。
ビスマルクの出した政府予算案は、議会で否決されてしまいます。
しかし、ビスマルクはそんなことでは諦めない・・・
議会の了承を得ないまま軍備を拡張します。
これは、当時の憲法の不備に付け込んだ裏技でした。
プロイセン憲法には、”政府予算の成立には国王と議会の合意が必要”とあります。
合意せず予算が成立しなかった場合のルールがなかったのです。
予算不成立の後、ビスマルクが国王の承認を得て、予算を使っても憲法違反として罰することができないのです。
さらにビスマルクは邪魔をする自由主義委員の力を削ぐために、普通選挙を導入します。
それまで貴族が大多数を占めていた議会に労働者や農民など様々な階級の人間が入ってくることで、彼らの影響力を奪おうという狙いでした。
彼が大衆民主主義を考えて、その制度を取り入れたかというとそうではなく・・・
まだ選挙権を持っていない農民層などの保守的な大衆は、おのずと君主の政府を支持するだろうと・・・その計算があって、普通選挙制度を導入したのです。

首相に就任してから、ビスマルクはそれまで以上に猛烈に働き、部下にもそれを求めました。
早起きが苦手なビスマルクは、夜になるにつれて調子が上がったといわれています。
そのため、眠りにつくのが朝の7時になることもありました。
直属の部下は、その無茶苦茶な生活に振り回されていましたが、それでもビスマルクを慕っていたといいます。

そんなビスマルクにとって、唯一ホッとできる場所は、妻ヨハナのいる家庭でした。
公務で家を空けることの多かったビスマルクは、ヨハナは三人の子供を育てながら夫を支えました。
ビスマルクは、ヨハナにこんな手紙を送っています。

「僕があなたと結婚したのは、あなたを愛するためさ
 あなたと故郷の暖炉以上に大切で愛しいものはないよ」

ビスマルクは、工業化による国力増大にも力を入れました。
豊富な石炭のとれたライン川流域には、製鉄会社や軍需産業のクルップ社などが誕生しました。
そして、各地を結ぶ鉄道網に着々と整備されていきました。
首相に就任してから4年後の1866年、50歳の時、国力の増強に手ごたえを感じたビスマルクは、いよいよ他国に目を向けました。
ビスマルクは、国王ヴィルヘルム1世の御前会議でこう進言します。

「プロイセンこそ、ドイツの頂点に立つ正当な権利を持っています
 それに対してオーストリアは、その嫉妬心ゆえ指導する能力もないのにプロイセンにドイツの指導権を許すまいとしてきたのです」byビスマルク

その後、フランクフルトで開かれたドイツ連邦議会・・・ビスマルクは人々の度肝を抜く改革案を提出させます。
ドイツ連邦から議長国のオーストリアを除外するという案でした。
当然オーストリアは戦争も辞さない構えで猛反発!!
両国の対立は避けられなくなりました。
こうして1866年、51歳の時に普墺戦争勃発!!
オーストリア側の兵は40万、それに対しプロイセンの勢力は32万でした。
しかし、ビスマルクには勝算がありました。
それは、プロイセン軍にその人ありと謳われた参謀長モルトケの存在です。
ビスマルクより15歳年上のモルトケは、参謀長として長年プロイセン軍を指揮してきました。
めったに人を褒めないビスマルクですら、モルトケをこう表しています。

「彼は非常に珍しい人物だ
 常に準備ができていて、絶対的に信頼できる
 その上、心の底まで冷静だ」

開戦から1か月後、勝敗を左右する重要な戦いが起きます。
1866年7月3日、ケーニヒグレーツの戦いです。
この時、モルトケは誰も思いつかなかった斬新な作戦でオーストリアの数をひっくり返します。
カギとなるのがドイツの鉄道網でした。
モルトケは、開戦前に鉄道部を新設、ドイツ各地から戦場となりそうな各地に5本の線路をひかせていたのです。
モルトケの作戦は・・・
部隊を3つに分けて、鉄道を使って送り込み、オーストリアの守りの要ケーニヒグレーツ要塞を三方向から攻撃する・・・25万もの兵士や、ひとつ数トンにもなる大砲を、あっという間に敵陣に送り込むという当時の常識からは考えられない戦法でした。
戦いが始まるとプロイセン軍は三方向からオーストリア軍に襲い掛かり撃破、さらに、旧式の銃で重点突撃してくる敵には最新鋭の銃で返り討ち!!
戦いは、わずか半日で決着しました。
オーストリア軍の戦死者は10000以上、プロイセン軍はおよそ2000・・・
プロイセンの圧勝でした。
勝利の報告に歓喜した国王ヴィルヘルム1世は、この勢いに乗って戦争を続けようとします。
しかし、ビスマルクは国王を説得し、勝利から間もなくオーストリアと講和を結びました。
他のヨーロッパ諸国が介入してくることを警戒したのです。
大戦前、ビスマルクはイタリア、フランスに密かに交渉を行っています。
戦争に介入しないように根回ししていたのですが・・・戦いが長引けば、どうなるかはわからない・・・。
ビスマルクは、他の国がどう動くのかを常に警戒していました。
もし、他国からの調停や介入を認めると、せっかく獲得したものを、成し遂げようとしたものを、制限されてしまう恐れもあったのです。
なるべく早く戦争を終わらせて、講和を結びたかったのです。

1867年、52歳の時にオーストリアを排除し、プロイセンを中心とする北ドイツ連邦が誕生しました。
この実績を前にして、これまで反発していた議会もビスマルクを支持、一枚岩となったプロイセンは、更なる野望に突き進んでいきます。
ビスマルク52歳の時でした。

オーストリアに勝利したのち、ビスマルクは次なる野望に燃えていました。
ドイツ統一です。

「もしドイツが今世紀中に、その国民的目標を達成するとすれば、それだけで偉大なことだと思う
 それが5年、いや10年のうちに達成できたとすれば、神の恵みとしか言いようがない」

しかし、この野望は、5年も待たずに達成されることとなります。

オーストリアに勝利した1866年、ビスマルクはバルト海のリューゲン島で3か月の休養を取りました。
この時、激務とストレスが原因で、神経痛を患っていたのです。
そんな状態でも、ビスマルクは暴飲暴食を繰り返し、医者の警告を無視します。
医者に止められていた大好きなコニャック入りソーダをコッソリ妻のヨハナに持ってこさせたといいます。
休養十分で、公務に復帰したビスマルクは、悲願のドイツ統一には乗り越えなければならない二つの壁がありました。
一つ目の壁は、南ドイツ諸国(4か国)の抵抗。
元々この地域はプロテスタントが主流の北ドイツと違ってカトリックが主流でした。
特に最も多いバイエルン王国が統一に反対していました。
もう一つの壁が、隣国フランスのナポレオン3世です。
南ドイツ諸国ともめれば、付け入るスキを与えかねない・・・。
フランスを何らかの方法で黙らせておくことが必要です。
1870年、ビスマルクにこの問題を一気に解決する絶好の機会が訪れました。
それは、ドイツでもフランスでもなくスペインの次期国王をめぐる争いでした。
その候補の一人がレオポルト!!
プロイセンの分家に当たる家柄でした。
ビスマルクはレオポルトを応援します。
これに危機感を持ったのが、ナポレオン3世です。
レオポルトがスペインの王になった場合、フランスの東と南をプロイセン王家が固めることになってしまう・・・
戦争が起きれば、挟み撃ちにあう危険な状況です。
そこでナポレオン3世は、プロイセン国王ヴィルヘルム1世に対し、戦争も辞さない態度で猛抗議!!
フランスの圧力の前に、プロイセンは動揺・・・ということは全くなく、それはビスマルクの想定内でした。
彼のシナリオ通りに事は進行していました。
フランスに揺さぶりをかける何らかのけん制をしようとしたときに、「スペイン王位継承問題」は”使える”と、判断したのです。
しかし、ナポレオン3世の要求は、レオポルトの候補辞退だけにとどまりませんでした。
「今後一切、プロイセンと関係する家柄からのスペイン国王候補を承認するな」と迫ったのです。
これに対しビスマルクはナポレオンを挑発し、フランスの方から戦争を仕掛けるべく手を打ちました。

ビスマルクは、フランスからの要求の電報を、新聞に発表します。
しかしそれは、嘘にならない範囲で巧妙に書き換えられていました。
フランスがプロイセンに不当な要求をしているという印象が際立つように、短くまとめられていました。
さらにその要求を、国王は毅然とはねのけ、今後の面会を拒否したことも強調されました。
生地が出るや否やプロイセンの国民はフランスに猛反発、南ドイツの人々でさえプロイセン国王を支持しました。
開戦が秒読みになった時、ビスマルクはモルトケに言いました。

「準備はよろしいかな?」
「もちろん!!」

1870年7月19日普仏戦争勃発
モルトケはまたも鉄道を活用し、軍を変幻自在に移動させます。
そのスピードも、輸送できる兵力も、オーストリアとの戦争のわずか4年で3倍となっていました。
さらにモルトケは、最新鋭のクルップ砲を戦場に投入!!
フランス軍の大砲が青銅で作られていたのに対し、クルップ砲は鋼鉄製、火力も飛距離も圧倒的でした。
プロイセン軍は、ナポレオン3世を捕虜にするという大戦果を挙げるのです。
こうして戦局を有利に進めながらも、ビスマルクはドイツ統一のため南ドイツ諸国との交渉を続けていました。
ビスマルクがこだわったのが、南ドイツ4か国の要請を受ける形でドイツ統一するという形でした。
併合を力任せにやってしまうと北ドイツ連邦の君主国はどうなるかという問題が発生します。
あくまでも彼が目指していたのは、君主国の連合による形のドイツだったのです。
そうすれば、プロイセン国王を温存する形でドイツ統一が実現できる!!

プロイセンによるドイツ統一に最後まで抵抗したのはバイエルン国王・ルードヴィヒ2世でした。
芸術に造詣が深く、多くの名建築を残した国王は、激しい浪費癖でも有名な君主でした。
その性格に目をつけたビスマルクは、ルードヴィヒ2世に多額の援助を約束します。
資金繰りに困っていたルードヴィヒ2世は遂に折れ、統一に同意します。
ビスマルクの援助によって、ルードヴィヒ2世が建築したのが、ドイツを代表する城・ノイシュヴァンシュタイン城です。
その美しい景観、内装を見ようと、今も年間150万人以上の観光客が訪れ、南ドイツを代表する名所となりました。

1871年1月18日、ドイツ皇帝即位式を決行。
場所はなんとベルサイユ宮殿!!
ここにプロイセン軍の大本営が置かれていました。
南ドイツとの合意を取り付けて2か月・・・情勢が変わらないうちに、ドイツ統一の既成事実を作ろうと急いでこの日に決めました。
しかし、即位式の直前、またもビスマルクを悩ませる問題が・・・

「私はドイツ皇帝になどなりたくない!!」byヴィルヘルム1世

ドイツ統一を望んだ張本人が、「プロイセン国王」の称号にこだわり、「ドイツ皇帝」を渋ったのです。
ビスマルクは何とか説得し、式場へ連れていきます。
こうしてドイツを統一する皇帝が即位。
ヨーロッパの大国に引けを取らない国が誕生しました。

「この皇帝出産は難産だった
 国王というものは、気まぐれな欲望を抱くものだ
 私は爆弾になって建物全体を粉々にしてやろうと何度思ったことか」byビスマルク

皇帝の即位から4か月後、ビスマルクはフランスと講和を結び、戦争を終えます。
首相に就任してから9年・・・56歳の時でした。

オーストリアとフランスに勝利し、ドイツ統一を果たした2年後の1873年に戦勝記念塔が完成、除幕式はビスマルクによって行われました。
ビスマルクは、生まれたばかりのドイツを近代国家にさせようと次々と政策を行います。
ドイツの最高裁判所や、中央銀行を設立、貨幣をマルクに統一し、経済や法律の基盤を整備していきます。
戦争に負けたフランスから莫大な賠償金を得たこともあり景気は絶好調、工業もますます発展します。
統一から20年後には、鉱工業の生産高がほぼ倍増します。
ドイツは世界有数の工業大国へとなっていきます。

そしてビスマルクは外交でも手腕を発揮します。
オーストリア=ハンガリー、ロシアなどの国々と複雑に同盟を結びました。
後にビスマルク体制と呼ばれる同盟で、各国の勢力がバランスを保つ仕組みを作り上げました。
1873年、そんなドイツを訪れた日本人がいます。
明治新政府の岩倉使節団です。
彼等を歓迎したビスマルクはこう語りかけます。

「諸君らは、各国が礼儀を持って接していると思っただろうが、それはあくまで建前にすぎず、現実は弱肉強食である」

この時、明治政府のリーダー大久保利通が西郷隆盛に送った手紙が残されています。

「ビスマルク モルトケ大先生を生んだドイツこそ、我が理想とする国である」by大久保利通

この頃には、ビスマルクの息子も政界に入り、父を支えるようになっていました。
しかし、ドイツ統一から17年後、1888年、72歳の時ビスマルクの政治生命に暗い影が・・・
皇帝ヴィルヘルム1世が90歳で亡くなりました。
3か月後に即位したのは孫のヴィルヘルム2世・・・
73歳のビスマルクと若き29歳のヴィルヘルム2世では、考えが合いません・・・
2人の関係は日に日に悪くなっていきます。

「10年間にわたり実直かつおそれることなく仕事を続けたら、敵はたくさん増えるのに古い友人を失ってばかりで新たな友人もできません」byビスマルク

1890年3月、74歳の時、遂にビスマルクは皇帝に辞表を提出・・・27年務めた首相から引退しました。
それから4年後の1894年、ビスマルクを生涯支えていた妻ヨハナ死去・・・70歳でした。

「私に残っていたもの それはヨハナであり48年間を振り返れば心に満ちてくるのは感謝だけだった」

4年後、1898年7月30日、ビスマルクは83歳でその生涯を終えます。

2012年、そのビスマルクの肉声が見つかりました。
アメリカの発明家エジソンが、ビスマルクが74歳の時に声を録音させたものです。
唯一残るビスマルクの声は、息子への助言でした。

「仕事しろ 食事しろ 何事もほどほどにしなさい
 特に酒には気を付けるように
 父親より息子への助言だ」

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独裁者アドルフ・ヒトラー・・・彼には唯一心を許した正式な妻がいました。
その名はエヴァ・ブラウン・・・ヒトラーより23歳年下の女性です。
しかし、その存在はドイツ国民に知らされることはありませんでした。
秘密の関係を続けたエヴァとヒトラー・・・二人が結婚式を挙げたのは、共に命を絶つ前日でした。
独裁者アドルフ・ヒトラーが愛した一人の女性・・・エヴァ・ブラウン。
幼いころから自由奔放、政治には関心がなく、ハリウッド女優になることを夢見ていました。
やがてヒトラーと恋人となると、エヴァはヒトラーが用意した豪華な山荘で暮らしました。
ファッションを楽しみ、大好きな動物を飼い、気ままに過ごす日々・・・
第二次世界大戦が勃発し、ドイツ国内が戦火に包まれる中でも、身の危険や貧困からは無縁の暮らしでした。
ヒトラーをはじめ、ナチスドイツの高官と他愛もない会話で周囲を和ませたエヴァ・・・
多くの召使に囲まれ、山荘の女主人と称しました。
しかし、その裏では家族との確執を抱えていました。
ヒトラーの過激な言動に反発し、別れを勧める父・・・
ナチスドイツの反ユダヤ政策に反対する姉・・・
そしてヒトラーには常に何人もの女性の影が付きまといました。
その一方でエヴァの存在は極秘・・・山荘という鳥かごに閉じ込められていました。
しかし、ナチスドイツが滅びる2か月前・・・
エヴァは自ら鳥かごを出てヒトラーがいる戦火のベルリンに向かいました。

エヴァ・ブラウンとヒトラーが出会ったのは1929年。
17歳のエヴァは、ミュンヘンにある写真館で働いていました。
そこへ店主に連れられて一人の男がやってきました。

「おかしな口ひげを生やし、大きなフェルトの帽子をかぶった中年紳士が入ってきたの
 私の足を見つめていて、あまりいい気がしなかったわ」

「君は、あの方が誰だかわからないのか?」

「さあ・・・」

この男こそ、アドルフ・ヒトラー。
当時40歳、急激に勢力を伸ばしていたナチ党の党首・・・すでにメディアを賑わす有名人でした。
エヴァにとっては、この中年男の初対面の印象はよくありませんでした。
しかし、後にエヴァとヒトラーは恋人同士になします。
どうして惹かれていったのでしょうか?

エヴァ・ブラウンは、1912年、ドイツ・ミュンヘンの中流家庭で誕生します。
エヴァは三姉妹の次女で、教員だった父のフリードリヒと母フランツィスカの元、娘たちは厳しく教育されました。
学校の成績は優秀でしたが、いたずら好きの問題児・・・教師たちに手を焼かせる生徒でした。
エヴァは思春期を迎えると、父の監視は益々厳しくなります。
父は娘たちの手紙すべてに目を通します。
門限を設けて夜10時には床につくように・・・。
1928年、16歳になるとカトリック修道会の女学院に入学させ、模範的な淑女に育てようとしました。
しかし、この頃エヴァが夢中になったのは恋愛小説と映画。
特に学芸会では演劇に熱心に取り組みます。
いつしか、ハリウッド女優として成功することを夢見るようになっていました。

教師の父親が一番重要視していたのは、娘たちに一流の専門教育を受けさせること・・・。
しかし、エヴァ達娘は、反抗的でした。
17歳になったエヴァは、近所の写真館で働き始めます。
これが、彼女の運命を大きく変えることとなります。

この頃ドイツは、第1次世界大戦で敗戦し荒廃していました。
戦争を再び起こさないように軍備を制限され、戦後賠償で経済はどん底・・・町には失業者が溢れていました。
そんな時、経済復興と失業問題の解決を掲げ、支持を集めたのがヒトラー率いるナチ党でした。
エヴァが働く写真館の店主は、熱烈なナチ党員・・・ヒトラーの専属写真家も務めていたため、店はヒトラーの写真で埋め尽くされていました。
ヒトラーと出会った夜、エヴァは父に聞いてみました。

「アドルフ・ヒトラーってどんな人?」

「ヒトラー?
 あいつは自分が万能だと思い上がっている青二才だ!!」

父親はもちろん心配していました。
なぜなら、当時のナチ党は、極めて暴力的で殺人を犯すこともありました。
しかし、エヴァは、父への反抗としてヒトラーに近づきました。
一方、ヒトラーは、エヴァを気に入りました。

「彼女は私を和ませるんだ」

ヒトラーは、周りを側近や気の置けない人で固める傾向にありました。
そういった狭い交友関係の中で女性も選んでしまうのです。
その後、ヒトラーは写真館を訪れるたびにエヴァへプレゼントを持ってくるようになりました。

「エヴァさん・・・オペラに招待してもよろしいですかな?」

23歳年上の男からの紳士的な誘いに魅了されていったエヴァ・・・
出会いから2年がたったころには姉にこう打ち明けています。

「絶対にあなたもヒトラーに会うべき!
 会えばあの人のイメージも変わるから・・・!!」

ヒトラーの女性に対するマナーには、うっとりとするものがありました。
夢中になってしまったのは、エヴァからでした。
しかし、この頃のヒトラーには特別に親密な女性がいました。
姪のゲリ・ラウバル(23歳)です。
ヒトラーの姉の娘で、エヴァより4歳年上でした。
ヒトラーとゲリは、2年の同居生活を送り、叔父と姪を超えた深い関係だったといいます。

「私は姪のゲリを愛している
 だが、結婚は出来ない」

タイプとしては、エヴァとおなじように非常に快活で行動的な女性でした。
そんな中、ヒトラーとエヴァが急速に近づく事件が起こります。
1931年ゲリが自ら命を絶ちました。
一説ではヒトラーの束縛が原因ともいわれています。
ヒトラーは憔悴しきっていました。
ゲリを失ってしまったショックがあまりにも大きかったのです。
それを見たエヴァは・・・

「ヒトラーにとってあの女は、きっと特別な人だったのね」

この直後、エヴァは思いがけない行動に出ます。
髪型や風貌、話し方まで自分をゲリそっくりに真似たのです。
いつしか二人は恋人同士になりました。
エヴァ19歳、ヒトラー42歳の時でした。

自ら望んでヒトラーの恋人となったエヴァ・ブラウン・・・しかし、わずか2年の間に2度も自殺を企てます。
何が原因だったのでしょうか?
エヴァがヒトラーと出会って3年後、1932年7月、ヒトラー率いるナチ党は、ドイツ国会選挙で第1党に躍進します。
ますます政治活動に力を入れるヒトラー・・・
エヴァをミュンヘンに残し、ドイツ中を飛び回ります。
以前より会う時間は減っても二人の関係は続いていました。
当時ヒトラーは、側近にこう漏らしています。

「私はミュンヘンにいる一人の娘を愛している」

しかし、エヴァの存在は、限られた一部の人だけの秘密でした。
それは、ヒトラーの結婚に対する考えからでした。

「私には既に花嫁がいる
 私はドイツと結婚したのだ!」

独身であることで、女性の支持が得られるという考え方がヒトラーにはありました。
結局最後まで、ヒトラーはエヴァと言う存在を国民の目からひた隠しにしました。
ヒトラーにとっては、女性よりも政治の方が大事だったのです。

この時、エヴァ・ブラウンは20歳・・・ミュンヘンの実家でヒトラーからの連絡を待つだけの生活でした。
そんな中、ある事件を引き起こします。
エヴァは、ヒトラーに別れの手紙を投函・・・そして・・・銃弾は首をかすめ、一命をとりとめました。
知らせを聞いたヒトラーは、すぐに病院へ駆けつけました。
そして医師にこうただしました。
 
「彼女は本気で自殺しようとしていたのか・・・??」

「彼女は心臓を狙っていましたが、なんとか助けられました」

エヴァは、ヒトラーとの関係が終わるのではないかと深く絶望していました。
これからは、この娘を気にかけてやらなければ・・・
2度とこんなことが起きてはならない・・・
ヒトラーは、いつでも連絡が取れるようエヴァの部屋に電話を設置しました。
自殺未遂の翌年・・・1933年1月にヒトラーは首相に就任。
一層政局に謀殺されていきます。
21歳の誕生日を迎えたエヴァの元には、ヒトラーから指輪やネックレス、ブレスレットが届きました。
しかし、肝心のヒトラー本人は現れませんでした。

「彼が殊勝になったところで、私に何の関係があるの??
 彼に会えない日が増えるだけだわ」

翌年ヒトラーは、ナチ党の党首・首相・大統領と全ての権限を持つ総統に就任し、独裁色を強めていきます。
武力を背景に、反対勢力を排除していきます。
しかし、エヴァは、ヒトラーの政治には関心を示さず、生涯ナチ党に入りませんでした。
そんなエヴァにとっての最大の関心ごとは、ヒトラーの周りの女性たちでした。
絶大な人気を誇るヒトラーの周りには、有名女優や歌手、映画監督などが集まりました。
青年時代は画家志望だったヒトラーは、芸術的才能を持つ女性たちと積極的に触れ合います。
それに対して、エヴァの存在はあくまで秘密にされ、公の行事に参加する事さえ許されませんでした。
エヴァは、ヒトラーに寄ってくる女性たちに、激しい嫉妬心を抱いていたといいます。
ヒトラーは、多くの著名な女性と出会っては、彼女たちの機嫌を取るため贈り物までしていました。
しかし、エヴァは、自分がとても難しい立場にいることも自覚していて、すべてを受け入れるしかありませんでした。

エヴァの23歳の日記には・・・ヒトラーと自分の関係が・・・その時々の気持ちが書かれています。

「昨日は思いがけなく彼が来て、うっとりとするような夜になったわ」

それから2週間後には・・・

「彼はもう、14日間も来ていない
 私は彼がなぜ怒っているのかわからない」

さらに12日後には・・・

「今は政治的にいろんなことが起きているから彼が私に興味を示さないのは当然のことよ
 ただ静かに待っていればいいのよ」

この日記が書かれた1935年3月16日、ヒトラーは第1次世界大戦後に禁止されていたドイツの再軍備を宣言しました。

エヴァの日記に書かれているのは、ありふれた日常ばかり・・・
国がひっくり返って、世界が崩壊するかもしれない中で、エヴァがはヒトラーが自分のために時間があるかどうかという観点からしか見ていませんでした。

翌月のエヴァの日記には・・・

「愛なんてものは彼の計画から外されてしまったんだわ」

そしてエヴァは再び事件を起こします。
自宅で大量の睡眠薬を飲み、2度目の自殺を図ったのです。

「親愛なる神様、今日中に彼と話すことができるようにお力をお貸しください
 明日では遅いのです
 私は35錠飲むことに決めました」

しかし、姉がすぐに発見して手当てをしたため、命はとりとめました。
この時姉は、エヴァの自殺の原因を両親に知られるのを恐れ、日記の一部を破りとりました。
エヴァの日記は後になくなりますが、姉が破った4か月分だけが偶然残りました。
再び自殺を図ったエヴァに対し、ヒトラーは驚くとともに心打たれたといいます。
ヒトラーは、自分に絶対的な忠誠心を誓った仲間に非常に温情をかけるような面があります。
自分の命をかけてまで、自分に忠誠を示してくれたというのが、ヒトラーの気持ちを動かしました。
2度目の自殺未遂から3か月後、ヒトラーは公式行事にエヴァも参加することを許しました。

1935年秋、ニュルンベルク党大会・・・ヒトラーのもとに10万もの人が集まるのをエヴァは初めて目の当たりにしました。
この党大会中にヒトラーはある重要な法案を可決しました。
ニュルンベルク法と呼ばれるユダヤ人の市民権を奪う人種差別法です。
エヴァは日記にこうつづっています。

「地球でもっとも偉大な人の恋人の私」

エヴァ・ブラウン23歳の秋のことでした。

エヴァとヒトラーが出会って6年が経った1935年、父・フリードリヒはヒトラーに手紙を送ろうとしました。
恋人とはいえ、秘密で結婚もしようとしないというエヴァとの中途半端な関係を心配したからです。
「子供達は結婚して初めて両親のもとから離れるもの」
これ以上付き合うなら、エヴァと結婚してほしいと遠回しに迫っています。
この手紙はヒトラーに届けられる前に、エヴァに見つかり破り捨てられてしまいます。
しかし、父が手紙の写しを持っていたため、どんな内容だったのかわかっています。

もちろん、エヴァは結婚したかったのです。
しかし、自分の立場を受け入れ、一度たりともヒトラーの邪魔をしようとはしませんでした。
常にヒトラーの言われたように動きました。
だから、あのような関係が長く続いたのです。
ミュンヘン近郊・・・自然に囲まれたオーバーザルツベルクの山荘・・・ここを気に入ったヒトラーは、山荘を買い取って改築しました。
改築が完成すると、エヴァ・ブラウンは実家から出て山荘で暮らすようになります。
この時、24歳・・・山荘には巨大な大広間をはじめ、30以上の部屋があり、最高級の木材などが使われていました。
人里離れた山荘は、関係を公にできない二人にとって絶好の隠れ家でした。
この山荘で、エヴァに仕えていた女性の証言が残っています。

「”ハッキリ言っておくわ”と初日に言われたの
 ”あれがヒトラーの部屋で、こっちがエヴァの部屋、利口ならば2人の関係はわかるわね
 あともうひとつ
 何を見ても、何が起こっても、絶対口外したり、書き留めたりしないこと
 エヴァの存在は極秘よ”とね
 だから、2人がどこまで進展しているのかは分からなかった」

エヴァとヒトラーは、人前では仲のいい友人として振る舞い、決して親密な態度は見せませんでした。
そんな2人が楽しみにしていたのが夜の映画鑑賞です。
その日何を見るか決めるのはエヴァ、特に好きだったのはハリウッド映画「風と共に去りぬ」でした。
エヴァは、主役のスカーレット・オハラを真似た衣装を着て、映画の一シーンを再現するほどお気に入りでした。

エヴァが山荘に移って3年が経った1939年、第2次世界大戦勃発。
9月、ドイツ軍はポーランドに侵攻。
戦争が始まると、山荘は総統大本営となりました。
ヒトラーは、ここで日夜作戦会議を開いて戦略を立てました。

戦争中でも、エヴァの暮らしにはほとんど変わりはありませんでした。
しかし・・・エヴァ自身にはある変化が起きていました。
ヒトラーが山荘を離れるとエヴァはそれを待っていたかのようにいそいそとパーティーの準備を始めるようになります。

「それまでおとなしくしていた彼女が一瞬で豹変した
 すぐに様々なお楽しみの準備が始まった
 はめを外し、まるで子供だった」

さらに、エヴァは家族も山荘に呼んで一緒に優雅な生活を送るようになりました。
そこには、ヒトラーをかつての青二才と嫌っていたフリードリヒの姿もありました。
この頃には、父もナチ党に入党しています。
いつしかエヴァは、自らを山荘の女主人と名乗るようになっていました。

開戦当初、ヒトラー率いるドイツ軍は快進撃を続け、1940年6月にはパリを占領するなどヨーロッパ中を震え上がらせました。
戦争を拡大する裏で、ナチスは数百万人のユダヤ人を強制収容所に送ります。
こうしたユダヤ人迫害など、ヒトラーの政策を批判していたのは姉のルイゼでした。
山荘で公然とヒトラーを批判する姉に対して、エヴァはこう言いました。

「総統が、あなたを強制収容所送りにしても私は助けないわよ!」

第2次世界大戦末期の1945年4月30日・・・
ナチスドイツの総統官邸でエヴァはヒトラーと共に命を絶ちました。
一体どうして・・・??
1944年、ヒトラー率いるナチスに開戦当初の勢いはありませんでした。
6月には連合軍がノルマンディ上陸作戦に成功。
ドイツ国内では市街地への空襲が激化!!
山荘にいたエヴァは、故郷ミュンヘンから立ち上る炎をじっと見つめていたといいます。
更に翌月には、ヒトラー自身に衝撃的な事件が起こります。
1944年7月20日、ヒトラー暗殺未遂事件・・・会議中、ヒトラーの傍に置かれていたカバンが爆発・・・戦争の敗北を悟った側近たちのクーデターでした。
この爆発で4人が命を落としたものの、ヒトラーは奇跡的に軽傷を負っただけで済みました。
この時、エヴァのもとにヒトラーからあるものが届けられました。
爆発の衝撃でボロボロになった軍服です。
エヴァはヒトラーにこう返事を書きました。

「あなたの身に万一のことがあったら、私は生きていくことができません
 たとえ死んでもあなたについていくと誓ってまいりました
 あなたを愛することが私の全てです・・・あなたのエヴァ」

1944年10月、エヴァは細かい遺書を書きます。
遺書には現金や車、買いそろえた毛皮のコートやじゅうたんなど、家族や友人の誰に渡すか・・・事細かに記されていました。

1945年1月、連合軍は首都ベルリンに迫っていました。
ヒトラーは、総統官邸の地下に作られた地下壕に籠り、ベルリン防衛を指揮。
エヴァに対しては、戦火から遠く離れた山荘に留まるように指示していました。
しかし、3月7日、ベルリンの戦火を抜けて走る一台の車が・・・
エヴァ・ブラウンでした。
ヒトラーは、彼女が言いつけに背いてやってきたことを心から喜んだといいます。
その後も連合軍の猛攻は続き、地下壕の側近たちにも不安が募っていきます。
しかし、エヴァは、地下壕に家具一式を運び込んで、美しく着飾って、山荘にいるのと同じように過ごしました。
エヴァは、ヒトラーが部下の前で弱みを見せることを許さず、時には軍服の乱れを注意することもありました。

「そんな薄汚れた格好で歩き回ってはいけないわ」

1945年4月、連合軍は総統官邸の目前まで迫ってきました。

「1日ごと、いや1時間ごとに最後が私たちに近づいてきています
 総統は、この戦争の全ての希望を失いました
 けれど、私たちは生きて捕らわれるつもりはありません」

敗戦が濃厚となり、逃亡する兵士が続出・・・
その中にエヴァの妹の夫・・・義理の弟もいました。
逃亡先で捕まった義理の弟には、処刑命令が下りました。
しかし、エヴァは救いの手を差し伸べませんでした。
すでに地下壕は絶望的な状況・・・連合軍がいつ押し寄せてもおかしくありませんでした。
そして、4月29日未明・・・
エヴァは、ヒトラーと結婚式をあげようとしていました。
写真館の出会いから16年が経っていました。
エヴァは、光沢を帯びたロングドレスに身を包み、美しい宝石で着飾ります。
式は、ナチスドイツの婚姻条例に従ってベルリン市役員立会いの下で行われました。
結婚証明書に署名する際、エヴァはブラウンと書きそうになり、慌ててエヴァ・ヒトラーと書き直しました。
朝になるとエヴァは使用人にこう言います。

「私のことをヒトラー夫人と呼んでもいいのよ」

結婚式の翌日・・・1945年4月30日午後3時・・・
ヒトラー夫妻はそろって部屋へと入っていきました。
そして銃声が・・・こうして、エヴァ・ヒトラー33年の生涯に幕を下ろしました。

2人の遺体は地下壕の外に運び出され、焼却されました。
2日後ベルリンが陥落し、ドイツは敗戦を迎えます。

 
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疾きこと風の如く 
   徐かなること林の如く 
侵掠すること火の如く
   動かざること山の如し

風林火山の旗を掲げ、戦国最強ともいわれる武将・武田信玄
生涯60戦以上してわずか2敗。
圧倒的な強さの裏に、人知れぬ苦しみが隠されていました。
人呼んで”甲斐の虎!!”
騎馬軍団を率いて、颯爽と戦場を駆け巡った信玄。
織田信長も畏れたといわれるお馴染みの信玄の姿・・・
singen

しかし、近年の研究によると、きゃしゃな体つきにほっそりとした顔、この肖像画が本物の信玄とされています。
豪胆なイメージと違い、常にストレスを抱えていたという信玄。
そんな悩み多き人生を思わせる姿です。

信玄は名門・武田家の嫡男として誕生。
しかし、跡目をめぐり実の父と対立。
父を追放してしまいます。
武田家の当主となっても年上の重臣たちは言うことを聞かず、信玄は酒に溺れる日々・・・。

ようやく家臣をまとめ上げ、領地獲得に奮闘するも、上杉謙信を始め強力なライバルが立ちふさがります。
激闘を繰り返し、家臣や家族を失います。
それでも信玄は、己の野望に向かって突き進みます。

「都に武田の旗を立てる」

不治の病に侵される中、最後の遠征へ・・・!!

甲斐の虎と恐れられた武将、武田信玄。
その生涯が記された甲陽軍鑑にはこう書かれています。
20歳で実父を追放、そして武田家当主となります。
どうして父を追放したのでしょうか?
1521年、武田晴信(信玄)誕生。
父の信虎は、この地を治める大名、母は大井夫人と呼ばれる武家の娘でした。
母は竹だけの嫡男である晴信の教育に熱心でした。
幼い晴信のために僧侶を招き、和歌、兵法を学ばせたといいます。
その甲斐あって、晴信は賢い子に成長しました。

ある時、晴信は大量の蛤の貝殻を持ってこさせました。
家臣に貝殻がいくつあるか当てさせます。
家臣たちは1万とも、2万とも・・・実際は、4000個でした。
意外そうな顔をする家臣たちに晴信は言います。

「5000ほど兵がいれば、どんなことでもできる」

実際は、5000ほどしかいなくても、1万や2万に思うこともある・・・
少数の兵でもうまく使えば勝てるという意味でした。
しかし、晴信の聡明さを父は嫌ったといいます。
信虎は、一代で甲斐を平定した猛将です。
戦いに長け、家臣たちを力で従わせていました。
己の力を信じ、戦で力を発揮してきた信虎にとって、晴信は屁理屈ばかりのこしぬけに見えたのかもしれません。

ある時晴信は、信虎の持つ名馬が欲しいと願い出ました。
すると信虎は、
「若いお前があの馬に乗るのはまだ早い
 来年14歳になったら元服させる
その時に、武田家の宝物と一緒に譲るつもりだ」
しかし、晴信は、
「宝物は家督相続の時にもちろん頂戴します
 しかし馬は、今から練習しておけば父上が御出陣の際にお供をして役に立つことができます」
自分が家督を継ぐことがすでに決まっているかのようなこの物言いに、信虎は激怒!!
「そんな生意気をいうなら、武田の家督は弟の次郎に相続させる」

1536年、晴信は16歳で初陣を飾ります。
隣国・信濃での領地争いでした。
その時晴信は一計を案じました。
直ちに攻め入ろうとはせず、有利になる時を待ったのです。
晴信の狙いは、正月でした。
正月を迎えると、兵士の多くは家に帰ってしまい城は手薄になりました。
晴信は楽々と城攻めに成功!!
意気揚々と引き上げ、戦果を報告した晴信・・・しかし、父は、
「から城を落としただけだ!!」
晴信の手柄を、断固として認めませんでした。

そしてある日、親子の対立を決定的にさせる出来事が起こります。
父・信虎は、杯を弟に与えたのです。
兄の晴信を差し置いて、家臣たちの前で弟を武田家の跡取りとして扱ったのです。
重臣の居並ぶ前で、信玄ではなく弟の信繁に杯を渡すというのは、家督相続予定者を信玄から信繁に変えるという意思表示・・・大変重い意味がありました。
不安に苛まれる晴信・・・しかし、武田の家臣の空気は微妙に変わり始めていました。

この頃甲斐では台風や洪水などの災害が続き、人々は飢餓に苦しんでいました。
しかし、信虎は領民の救済には目もくれず、領土拡大を図って隣国との戦に明け暮れていたのです。
そのため表立って逆らえないものの大勢が不満を募らせていました。

信虎は悪逆非道であり 人民も牛馬も ともに悲しみ悩んでいる

信虎への不満が充満する中、ある人物が晴信を訪れます。
重臣・板垣信方です。
板垣は、晴信を幼いころから教育した武田家の重臣で晴信を誰よりも知る人物です。
板垣は晴信に進言します。

「信虎様には、速やかにご隠居いただき、あなた様に跡を継いでいただくことが、一番の得策にございます」

この自分が父を隠居させるとは・・・親への忠義に反する行為・・・迷った挙句に晴信は、

「困窮する民を救いたい」

と、自分のためではなくあくまでも甲斐のために動こう・・・晴信は密かにクーデターを決意しました。

1541年、20歳の時、絶好の機会が訪れます。
父・信虎が、駿河の今川義元をたずね、甲斐を留守にしたのです。
もともと武田家と今川家は、領地を争う敵同士でした。
しかし、今川と戦うのは不利と考えた信虎は、関係改善を図ります。
今川義元の紹介した娘を晴信の正妻とします。
これが功を奏し、武田と今川は後に同盟を結ぶこととなりました。
信虎は駿河を訪問したのは今川との親睦を深めるためでした。
この機を逃さず、晴信は甲斐と駿河の国境を封鎖!!
信虎が帰って来られないようにしました。
僅かな兵しか従えていなかった信虎は、成す術もありませんでした。
さらに晴信は今川と密約・・・信虎を隠居させて今川に置いておくというものでした。
晴信が信虎の追放に成功します。
家督を継ぎ、晴れて武田家の当主となりました。
20歳の時でした。

20歳で甲斐武田家の当主となった晴信は、それから10年、領土を2倍以上に広げます。
しかし、そこに至るまでには様々な壁、そしてそれを乗り越えるための工夫がありました。
父を追放した当初、晴信に従わない家臣が多くいました。
それは、甲斐が山国で盆地が多いことも原因でした。
当時は盆地ごとに有力な家臣が地域を治めていました。
山で遮られて、他の地域との交流が少ないため、独立心が強かったのです。
武力で従わせてきた信虎がいなくなったので、家臣たちは好き勝手に行動を始めます。

通行税を巻き上げたり、所領を配下の者に分配したり・・・

”全てのことが思うようにいかず迷惑している”
 
そんな家臣たちに嫌気がさした晴信は、責任を投げ出してしまいます。
昼夜を問わず、若い家臣や侍女を集めて酒盛りや歌会を・・・
この晴信の行いに心を痛めたのは、晴信に信虎の追放を勧めた板垣信方でした。

”信虎さまは、非道の行いが過ぎた故追放されました
 今のお館様は、あまりにも我儘勝手で信虎様よりも悪しき大将にございます
 今の言葉に腹が立ったなら、自分を斬ってください” 

当時交代したばかりの信玄政権の初期を全面的に支えていたのは板垣でした。
板垣に対する信頼感は、たいへん高かったのです。
板垣の言葉に心を打たれた晴信は、家臣たちに自分をリーダーと認めさせるには、行動しかない・・・
戦場にその身を投じていきます。

晴信は諏訪の攻略に・・・この地を守る諏訪大社の庇護が欲しかったのだといわれています。
諏訪大社は、諸国に知られた戦神・・・武将たちは、この諏訪大社に対する信仰を持っている人が多くいました。
諏訪大社を保護し、盛り立てていく・・・そういう権力なんだと内外に示すことで、影響力を強めようとしたのです。

自らの正当性を強調する一方、晴信は家臣の意見に耳を傾けることにも熱心でした。
領内の政策や戦の方針など、独断をやめて合議制にします。
家臣の働きをつぶさに観察し、功績をあげたものには即座に褒美を与えました。
晴信は、戦の最中でも様々な褒美を与えていたといいます。
中でも大きな役割を果たしていたのが金・・・甲州金です。
戦功をあげたものには、金の粒を三すくい与えたという記録が残っています。
これは、金山開発が盛んだった甲斐ならではの恩賞でした。
山が多く、平地の少ない甲斐では、土地以外の褒美が必要だったので、信玄が編み出した工夫でした。

さらに、領国経営でも画期的な工夫を・・・
「甲州法度之次第」と呼ばれる法律を制定します。
法度では、年貢のルールを正確にし、役人などの横暴を取り締まります。
そして身分を問わず、法の下の平等を打ち出しました。

”この晴信自身が法度に背くことがあれば、責賎を選ばず、誰でも届け出てよい
 その時は責任をとる”

自分の制定した戦国法が、自分自身にも適用される・・・
そういった法は他にはありません。
信玄が制定した甲州法度が唯一無二のものです。

武田二十四将図・・・
二十四将と言うからには24人家臣がいるはずですが、23人・・・
つまり、晴信自身も24将の一人に数えられています。
トップダウンだけではなく、時には家臣と対等に・・・若きリーダーの姿がそこにはありました。
こうして家臣たちの信頼を築きながら、晴信は北へ領地を拡大を目指します。
目標は信濃国の完全掌握でした。
信濃侵攻を開始した武田軍は、破竹の勢いで敵を打ち破ります。

1548年、27歳の時信濃の1/4を配下に治めます。
しかし、行く手に強敵が・・・!!
北信濃の武将・村上義清です。
連勝を重ねてきた武田軍は、迷わず城を攻撃!!
ところが、城の守りは固く激しい反撃にあいます。
さらに別動隊に後ろに回り込まれ挟み撃ちに・・・!!
この戦で、幼いころから晴信を支えた重臣・板垣信方が討ち死に・・・!!
5000人ともいわれる戦死者を出し、武田軍は惨敗しました。
敗戦から2か月後、体勢を立て直した武田軍は3度の戦いの末、村上を破ります。
板垣信方亡き後、晴信はその恩を忘れず板垣家を重用。
板垣家は主を変えて江戸時代も続き、明治維新を迎えたといわれています。
こうして晴信は、甲斐と信濃をほぼ手中に治めました。
32歳でした。

武田晴信は40歳を前に出家し、武田信玄となります。
その頃、信玄のもとには、一騎当千の兵どもが揃っていました。
高坂昌信、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀・・・武田四天王といわれる武将を従えて、信玄は戦場を駆け巡りました。
若き日に信玄と戦った三河の徳川家康・・・後にこう語っています。

「今の世に信玄ほどの武将は他にいない」

どうして武田軍は最強と呼ばれたのでしょうか?

「人は城 人は石垣 情けは味方 仇は敵なり」

武田の強さの秘密は、その人材活用術にありました。
武田四天王の一人、高坂昌信は16歳の時に信玄の世話係として登用されました。
しかし、農民の出身だったため読み書きが不得意で周りの者にバカにされることも多かったのですが・・・
そんなある時信玄は家臣を集めてこう言いました。

「何より大事なのは、武功・忠孝の者から話を聞くことだ 
 一日に一つ聞けば一月で三十、一年で三百六十も聞いたことになる
 去年の自分より、はるかに優れた人となる」

この教えを聞いた高坂は、以後周りの人の話をよく聞き、覚えることに愚直に取り組みました。

武田家の歴史や信玄の教えを記した第一級の資料「甲陽軍鑑」
この本は、高坂の口述筆記を元にしています。
高坂は、武田家で見聞きしたことや、信玄が行いを年下の者に伝えることで、慢心を戒め戦に役立てたといいます。
読み書きが不得意な高坂は、信玄の教えを守ることでどんな武将も及ばない立派な書物を作ることができたのです。

四天王の二人目は山県昌景。
信玄は山県をこう評しています。

「赴くところ敵なし」と。

山県が率いたのは騎馬部隊・・・
その具足の色から赤備えと呼ばれ、他国の武将から畏れられました。
元々甲斐は、馬の産地であったことから騎馬の扱いに長けた者が多かったのです。
そこで武田軍は、他国より優れた騎馬隊を組織!!
山県はその騎馬部隊を操り、敵と味方の足軽がせめぎ合うところに突入し、勝利に導いたといわれています。

武田四天王残る二人は、内藤昌秀・馬場晴信。
内藤晴信は勇猛で知られた武将でしたが欠点もありました。
戦闘に夢中になると周りが見えなくなるのです。
そこで信玄は馬場晴信と一緒に行動するように言いつけます。
馬場は冷静で状況判断に優れていたからです。
ある戦で内藤が勝ちに乗じて単独で敵を深追いしたことがありました。
それに一早く気付いた馬場は、内藤に使者を出します。
使者は馬場からの言葉を内藤に伝えました。

「このままだと危ないぞ」

内藤は、己の悪い癖である深追いに気付き、即座に兵を引いたといいます。
信玄は家臣の長所短所を見極めて、組み合わせ力を最大限に発揮させたのです。

さらに、戦の役に立たない家臣でも、貴重な戦力にしました。
岩間大蔵左衛門は、武田軍団一の臆病者と言われていました。
戦に行きたくないと嫌がり、合戦では目を回して卒倒・・・
味方からも不満が絶えませんでした。
そんな不満を耳にした信玄は一計を案じ、岩間にこう言います。

「これからは家中のどんな些細なことでも知らせよ
 もし報告を怠ったら、斬る」

家臣たちの動向を知らせる目付けに任命しました。
岩間は殺されてはたまらないと、家中で少しでも不穏な動きがあれば逐一信玄に報告しました。
おかげで信玄は、家臣の活躍や評価を正確に行うことができ、家臣たちの不満は減っていきます。

そんな武田軍団でも苦戦した敵がいました。
越後の龍として恐れられた上杉謙信です。
謙信と信玄が相対した川中島の合戦・・・
信濃と越後の国境で、信玄が32歳の時から足掛け12年、実に5回も繰り広げられました。
しかしこの戦、信玄は地理的に不利でした。
戦場の川中島まで謙信の城からはおよそ50キロ、対して信玄の城からは100キロも離れた甲府から出陣します。
そこで、戦いの拠点として新たに築いたのが川中島に近い海津城です。
四天王の一人・高坂昌信を配して合戦に備えます。
さらに、領内に狼煙台を数多く配置、見張りが敵を発見すると狼煙をリレーして連絡し、信玄が素早く出陣できるようにしました。

1561年、信玄40歳の時、謙信と最も激しい戦いの第4次川中島の戦いを繰り広げます。
この時謙信は、信玄の先手を取って武田の陣地の目の前にある妻女山に陣取ります。
知らせを受けた信玄は海津城に急行。
武田軍は家臣全員が出陣し、総力戦の構えをとりました。
霧が立ち込める中、信玄は武田軍を二つに分け、妻女山の上杉軍を挟み撃ちにする作戦をとりました。
ところが上杉軍はこの作戦を見抜いて、密かに下山・・・。
濃い霧に紛れて布陣・・・そして霧が晴れた瞬間、準備万端の上杉軍が信玄に襲い掛かってきました。
不意を突かれた武田軍は大混乱・・・
上杉軍は武田の本陣にまで迫ってきました。
危うし・・・信玄・・・
その時、武田の別動隊がようやく現場に駆け付けます。
形勢逆転、信玄は何とか上杉の猛攻を退けました。
その後も川を挟んで二人はにらみ合いを続けましたが、とうとう決着はつきませんでした。

川中島の戦いの後、信玄には新たな野望が芽生えます。
近年見つかった資料には・・・
「日本国を残らず攻め取って治めたい
 都に武田の旗を立てる」と書かれています。
どうして都を目指したのでしょうか??

1554年、33歳の時信玄は北方の上杉謙信との戦いに備えてある策を講じていました。
南の駿河国・今川氏、東の相模国・北条氏と三国同盟を組んだのです。
同盟の保証としてそれぞれの当主の嫡男にそれぞれの姫を嫁がせるという政略結婚が行われ、三国は血縁関係となりました。
しかし6年後の1569年、39歳の時にこの同盟に亀裂が入る大事件が起こります。
桶狭間の戦いです。
尾張の小大名だった織田信長が、今川義元を奇襲し破りました。
当主が亡くなったことで今川の力が弱まっていくことは明らかでした。
これを好機と見た信玄は、同盟を無視して今川攻めの準備を始めます。
駿河には港と京につながる東海道がある・・・
どうしても欲しかったのです。

しかし、武田の家中で今川攻めに反対する者がいました。
信玄の長男・義信です。
義信の妻は、三国同盟の時に今川から迎えた義元の娘でした。
妻の実家だったのです。
今川攻めを巡って、親子は激しく対立します。
義信は信玄の暗殺を企てます。
しかし、企てはすぐに発覚し、信玄は慶喜を幽閉、その後、義信は非業の死を遂げました。

信玄は義信をかわいがり、後継者として期待をして育てていました。
しかし、義信事件となったのは、政治家としての信玄は家庭人としての顔を捨てざるを得ない・・・信玄の深い悲しみと苦悩がありました。

1568年、47歳で駿河に侵攻。
武田軍は順調に進み、翌年には駿河国を制圧します。
しかし、密かに病魔が忍び寄っていました。
駿河侵攻を始めて3年・・・50歳を超えた頃には体調が悪化し、床にふせることが多くなってきていました。

「膈という病気だと言われた」

膈とは、胃がんと考えられています。
信玄は死期が近づいてきていることを悟りました。
それでも信玄は野望を抱いていました。
2018年に発見された新資料には・・・
「日本国を残らず攻め取って治めたい
 都に武田の旗を立てる」と。
余命があまりないかもしれないという状況の中で、足利義昭と一緒に室町幕府体制を支えながら上洛を遂げて、天下の運営に携わりたいという気持ちがあったのです。

1572年12月、52歳で信玄挙兵。
病を押して京へ・・・。
隣国の遠江に攻め入った信玄・・・行く手を遮ろうとした徳川家康を三方ヶ原の戦いで一蹴、さらに西へ急ぎました。
翌月には三河の野田城を攻略、いよいよ最大の難敵・・・尾張の織田信長との対決が迫っていました。
しかし・・・口の中にできものができ、歯が5,6本抜けて次第に衰弱していきます。
もはや、死脈を打つ状態となったので覚悟をします。
信玄は遂に甲斐への帰路につきました。
その道中、遺言を残しています。

「自分の死を3年の間秘すこと」

信玄は自分の死を敵に悟られないように入念な準備をしました。
その一つが白紙の手紙・・・
信玄は、自分の花押だけの手紙を800枚余り用意しました。
信玄の手紙を出すことで、生きているように見せかけようとしたのです。

1573年4月12日、ふるさと甲斐への道半ばで信玄は息を引き取りました。
52歳の生涯でした。

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愛と欲望が渦巻く女の園・・・大奥・・・江戸城の中で営まれた煌びやかでミステリアスな暮らしぶりは、今も私たちの心を揺さぶります。
その基礎を築いたのが、春日局です。

将軍の世継ぎを作るためにもうけられた大奥・・・
最盛期には、3000人もの女性たちが暮らした絢爛豪華な世界です。
その礎を築き、最高権力者として君臨した春日局・・・本名はお福。
お福の生涯は、苦悩と困難の連続でした。

1579年、お福は丹波国・・・兵庫県丹波市に誕生します。
高台に今も残る城の石垣・・・この城の主が、お福の父・斎藤利三でした。
斎藤利三は武芸に優れ、家族を大切にした人物として知られています。
1万石という領地で裕福なお姫様として育ったお福・・・
しかし、25歳の時、徳川家の乳母として仕えることとなります。

1582年、4歳の時・・・突如として幸せな暮らしを壊す大事件が起こります。
明智光秀が、主君・織田信長を裏切った本能寺の変です。
お福の父・斎藤利三は、明智光秀の重臣でした。
その後、光秀は信長の家臣・羽柴秀吉に敗れ、父・利三も謀反人として捕まります。

斎藤利三を生け捕り、京の都中を引き回し、首を刎ねた・・・!!
明智の首と共に晒しものにした・・・!!

この時お福は4歳・・・一説には、母に連れられ、父の最期を目にしたともいわれています。
謀反人の娘となったお福・・・それまでの生活が一変します。
一家は亡き父の友人を頼りにする流浪の身・・・
食べる物も満足にない粗末な暮らし・・・なんとか生き長らえたことが当時の記録に残っています。
極貧・・・謀反人の娘としてどん底の生活をしていました。

1588年、10歳の時に親戚にあたる公家の家に引き取られます。
お福はこの家で、書道や歌道を学びます。
この経験が後に役立つことになります。
17歳になったお福は、母の遠縁にあたる武士と結婚。
相手は、稲葉正成・・・中国地方の有力大名・小早川秀秋に仕える武将でした。
お福は子宝にも恵まれ・・・しかし、幸せは長くは続きませんでした。
夫・正成が、諸君とそりが合わずに解雇・・・浪人となります。
一家は夫の故郷・美濃谷口に移り住みます。
夫の収入はなく、自給自足のどん底の暮らしだったといいます。
お福が懸命に働いて家計を支えているにもかかわらず、夫は妾を囲っていたともいわれています。
そんな暮らしを続け、3人目の子どもが生まれた時・・・思わぬ話が耳に入ります。
二代将軍に子供が生まれるので、乳母を募集するという・・・
お福はこの話に飛びつきます。
極貧の生活から脱出する為に・・・自分が主として子供たちを育てていくためにも、何か職を・・・!!

乳母の募集を命じたのは、天下人・徳川家康でした。
その頃、京都の伏見城にいました。
お福は美濃からわざわざ京に上り、面接を受けました。
応募者は、20人以上・・・
決め手は家康・・・家康はお福の父・利三を高く評価していました。
立派な武将で、力量が高い・・・戦略的にうまい・・・!!

「お福は斎藤利三の娘なので、優れた人物のはずだ」

家康にとっても乳母として最適なお福だったのです。

お福は将軍家の乳母に見事合格!!
夫と離縁し、乳飲み子と次男を母に預け・・・長男一人を連れて江戸に向かいます。
お福はこの時、25歳・・・新しい人生の始まりでした。

埼玉県川越市の喜多院・・・ここには、三代将軍家光が生れた部屋があります。
江戸城から移築されたものです。
家光の部屋につながる春日局化粧の間・・・お福が使っていたとされる部屋があります。
家光の幼名は竹千代・・・内気で病弱だったものの、お福と二人三脚で将軍の跡目争いを勝ち抜いていきます。
今も同じ屋根の下にある二つの部屋は、二人の強い絆を表しているのです。

どうしてお福は竹千代を将軍にすることができたのでしょうか?

お福が25歳の時に乳母としての生活が始まりました。
赤ん坊に乳をあげるだけでなく、付きっ切りで世話をして育てます。赤ん坊の名は竹千代・・・次期将軍です。
竹千代の父は、二代将軍秀忠、そして母は信長の姪・お江でした。
3歳になると、竹千代には厳しい教育係がつけられ、武道や学問を徹底的に教え込まれました。
そんな日々を送る竹千代が、ヒマを見て逃げるように通ったのがお福の部屋でした。
厳しい教育環境・・・選りすぐりの将軍教育をされていた竹千代・・・息苦しい教育環境にあったので、家光も気がめいりことが多く・・・一息付けるのがお福の家だったのです。

しかし、竹千代には将軍になるには不安な点が二つありました。
①内気でおとなしい性格
将軍として全国の大名に号令するにはあまり相応しくない・・・
そこで、役に立ったのが、お福が故郷から連れてきた長男・正勝・・・幼いころから竹千代の世話係・小姓にしていました。
何でも話せる年上の相談相手が、内気な性格を徐々に変えていきます。
②病弱
竹千代は体が弱く、病気がちでした。
食べ物の好き嫌いも激しく、食も細かったのです。
そんな竹千代が工夫を凝らしたのが食事でした。
七色飯・・・白米の外に、茶飯、粟飯、小豆飯、麦飯・・・七色用意しました。
見た目を楽しくしてたくさん食べてもらおうとしたものです。
竹千代に豪華な食事を出す一方、お福は極めて質素でした。
それを気にした竹千代が、自分の膳から分けたこともあったといいます。

お福の愛情ですくすくと育つ竹千代。

しかし、そんな二人に暗雲が・・・
竹千代が7歳の時に跡継ぎ争いにライバルが現れます。
2歳下の弟・国松です。
内気な兄・竹千代とは違い、活発で聡明な国松・・・。
お江は、竹千代よりも国松に愛情を注いでいました。

一説にはこの頃江戸城内ではある噂が立つこととなります。

「お江が竹千代より国松をかわいがるのはお福のせいである」と。

原因は、お福とお江の浅からぬ因縁でした。
お江の伯父は信長・・・その信長を殺した光秀の家臣がお福の父・斎藤利三・・・
更に家臣の間には・・・
「将軍様は竹千代さまでなく、国松さまを嫡男(跡継ぎ)になされるかもしれない・・・」
家臣たちは、国松に貢物を持参する一方で、竹千代にはほとんど持ってこなかったといいます。

江戸時代も始まったばかりのこの頃、優秀さが将軍にはどうしても必要でした。
優秀なように見える国松が、兄を差し置いて跡継ぎになるということもあり得たのです。
お福はそれを一番心配していました。
実の母の冷たい仕打ちに追いつめられていく竹千代・・・
そして・・・竹千代・・・自殺未遂・・・。
しかし、その寸前でお福が見つけ、思いとどまらせたといいます。
思い余ったお福は、将軍秀忠の側近に話を持ちかけます。

「そろそろ竹千代君が世継ぎであるという正式なお披露目があっても良い時期なのに、いまだなんのお沙汰もありません
 一体どうなっているのでしょうか」

秀忠の返事は一言・・・「そのうち決めることにする」

このままでは竹千代の将来が危ない・・・!!

1612年、34歳の時、お福は江戸から旅立ちます。
行先は駿府城・・・!!
大御所・徳川家康と会うためでした。

お福は家康に訴えます。

「竹千代さまが将軍家のお世継ぎであるはず
 弟の国松さまを母君が愛され、その勢いは竹千代さまを凌いでいます
 しかし、弟が兄に勝ることは許されることではありません
 将軍の跡継ぎの決定は、天下の一大事だからです」

跡継ぎは兄の竹千代にするべき・・・そうしなければ秩序が崩れてしまうと家康に直訴!!

この行為は、身分をわきまえないものとして厳しく罰せられるかもしれない危険な行為でした。
お福の切なる訴えを聞いた家康・・・すぐには決断しませんでした。

次期将軍は竹千代??国松・・・??

1611年10月、突然家康が江戸を訪れます。
竹千代と国松を呼び出し・・・広間の上座についた家康は、まず竹千代に、
「竹千代殿 これへ これへ」つられて国松も上座に行こうとすると・・・
「国松はそこにおれ!!」と、しかりつけ、下座におきました。
竹千代を上座に呼ぶことで、家康は自分の考えを家臣たちに示しました。
三代将軍が決まった瞬間でした。
1623年、竹千代は家光と名を改め、20歳で将軍につきます。
お福45歳のことでした。

家光を三代将軍に育て上げ、乳母としての念願を果たしたお福・・・
しかし、それで満足することはありませんでした。
次に力を注いだのは、大奥の礎作りでした。
大奥とは、江戸城の奥で、将軍の正室や側室たちが生活する男子禁制の場です。

「全て奥向きの定法は皆二位の局(お福)の制作なりとぞ」

どうしてお福はそのようなことができたのでしょうか?
父・秀忠から将軍職を継承した家光・・・
その3年後・・・1626年に実母・お江が死去・・・享年54歳でした。
20歳の頃から理想とする政治を始めた家光・・・
47歳になったお福は子育てを終えてからも一層家光を支えることとなります。
乳母の後見役割・・・育てた「養い君」は、大きくなっても叔母に相談に行きます。
これに応える関係があり、お福も何かお役に立ちたいと思っていました。
家光は、意欲的に政治に取り組みます。
全国の藩主を江戸に行き来させる参勤交代制度を確立、外国への渡航を禁じた鎖国政策を強化、当時は幕府に絶対的な力はなく、大きな力を持つ大名はたくさんいました。
お福はこの頃、頻繁に大名の婚姻の相談に乗ります。
相談に乗りながら、その家にはどんな人物がいるのか??謀反を起こしそうな気配はないのか??
大名たちをくまなく調べたといいます。

婚姻政策は、当時の大名統制の根幹でした。
家光がどうやったら日本を統治できるのか??
家光がよりよく徳川幕府を運営していくためにはどうしたらいいのか??
派閥工作をしていたのです。

「上様のためなら何でもできる・・・」

お福は大名達を奥向きから支配していきます。
小姓をしていたお福の息子・稲葉正勝を、重要な箱根の関所のある小田原藩主に・・・
これによって、お福のせいへの影響力はますます増していきます。
全てが順調に見えた家光の治世・・・
しかし、お福には頭を悩ませる問題がありました。
将軍になって10年になっても正室の間に跡継ぎが生れませんでした。
このままでは家康から続く徳川宗家の血統が途絶えてしまう・・・!!
そんな折、衝撃的な出来事が起きます。
家光が天然痘にかかり、瀕死の状況に・・・
天然痘で亡くなるのが普通であった時代・・・家光が亡くなると徳川家自体が危機に瀕してしまう・・・!!
幕府も倒壊してしまうのではないか・・・??
大きな危機感を抱いていました。
すぐさまお福は、江戸城内の神社に向かいました。
そこで、こう祈願したと言われています。

「もし、家光さまを助けてくれるというのなら、私は死ぬまで絶対に薬を飲みません」

お福の祈りが通じたのか、家光は奇跡的に命を取り留めます。
病気は治ったものの、跡継ぎ問題に新たな危機を感じたお福。
家光の正室は京都から来た公家の娘・・・仲は良くなかったと言われています。
一説では、女性に関心がなかったと言われる家光・・・
そんなある日、お福のもとに耳寄りな情報が・・・家光が女性に一目ぼれしたと言います。
しかし、その女性は尼さん・・・
それでもお福は諦めず、尼さんを強引に還俗させ、髪が伸びるまで待って側室に迎え入れたのです。
さらに、お福自らも町に出てスカウトします。
そして目をつけたのが、一人の女性・・・
古着屋の店先に座っていたお蘭という娘でした。
当時側室と言えば、大名や公家などの名門から取るのが常識・・・町娘から取るのはありえない話でした。
春日局は”上様のお気に召すか”を一番大切にしていました。
家光はお蘭を一目で気に入り側室にしました。
1641年、家光の嫡男が誕生。
これでひとまず跡継ぎ問題は解決しました。
しかし、お福はさらに側室を江戸城に迎えます。
これが後に大奥という組織の礎となりました。
中々順調に子供が育たない時代、家光が若い時から病弱だったことから、第2、第3の候補の跡継ぎを産む女性を作っておく必要があったのです。
それが徳川家の安泰のためになるという方針でした。

家光の時代の大奥は・・・
御殿を囲むように女中たちの部屋が・・・最大8名にまで増えた側室たち。
そこには、お福の部屋もありました。
こうした組織を作ることで、お福の政治への影響力はより高まっていきました。
将軍とのかかわりが近い・・・将軍の意向を左右し得る立場でした。
幕府の政治にも、大きな影響を与えました。
全国の大名からも注目され、将軍の考えを聞くために春日局に接触して将軍の考えを聞こうという大名はたくさんいました。

最盛期には3000人を超えたのちの大奥・・・
規律を守るため、男子禁制などの厳しい掟がありました。
その一方、お福は側室だけではなく、世話をする女中たち全員の待遇改善に努めます。

女房(女中)たちは、武士が具足を一揃えするほどの費用をかけ小袖を用意しております
今までは私のお手当を分配して参りましたが、全ての階級の女中たちに、衣装代を幕府より頂戴したいのです

お福は、奥で働く全ての階級の女中に衣装代を出してほしいと幕府に要望します。
衣装代を出してほしい、実家に手当てが欲しい、勤めに関することがらを奔走しました。
そういう要求をできるのはお福で、そういう人だからいろいろな人から要望が集まってきました。
大奥制度を作る基礎にお福が参画していったのです。

そんなお福が51歳の時、嬉しい出来事が・・・
京に赴き天皇に拝謁した時のこと・・・「春日局」という称号を賜わったのです。
春日局とは、本来天皇の子を産んだ女官だけに与えられる由緒ある称号でした。
それが、徳川家の、しかも一介の乳母に与えられたのは前代未聞のことでした。

夫と別れ、人生をやり直そうと江戸城に来て40年・・・
お福は公私にわたって家光を支え続けました。
ところが・・・1643年、65歳の時に病に倒れます。
容態は日に日に悪化・・・しかし、周りがどんなに勧めても薬を飲もうとはしませんでした。
かつて家光が大病を患った時に立てた薬立ちの願掛けを今なお守っていたのです。
何度も見まいに来た家光が、書いた手紙が残っています。

”お前は私が病とならぬよう、薬断ちの願をかけ、長い間それを守ってくれた
 だが、お前に万一のことがあれば、それこそ私は心痛の余り命が尽きてしまうだろう
 お前が薬を飲むのは天下のためだ
 どうか薬で病を治し、私に長く仕えてほしい”

しかし、お福は何度頼まれても薬を口にすることはありませんでした。
困った家光は一計を案じます。

”これならば如何じゃ・・・薬を飲んでくれるか?”

家光が用意したのは、徳川家の家宝「曜変天目茶碗」・・・
家光自身、めったに使うことのない貴重な茶碗を、お福に薬湯を飲ませるために差し出したのです。

「上様のご厚情・・・有難き幸せにございます」

お福はようやく薬の入った茶碗を口に運びました。
しかし、薬はお福の喉を伝い、胸元へと流れていきました。
家光はここまでしても、自分の願掛けを破らなかったのです。
そして、お福は静かに息を引き取り、65年の人生を終えました。
1643年、春日局死去
京都にあるお福の菩提寺・麟祥院・・・家光は一体の木像を掘らせ置きました。
”春日局木像”です。
慈悲深い優しい笑みを浮かべたお福の姿・・・
命をかけて生涯尽くしてくれたお福に対しての感謝のしるしだと言われています。

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