日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: 追跡者 ザ・プロファイラー

ローマのカエサル、フランスのナポレオン、ナチス・ドイツのヒトラー・・・
彼らがこぞって憧れた英雄・・・それがアレクサンドロス大王です。
彼が支配した帝国は、あのチンギス・ハンが現れるまで1500年間世界最大の広さを誇りました。
しかも、アレクサンドロスは、この帝国をわずか10年で築いたのです。

アレクサンドロス大王・・・後の人々は、戦の天才、理想的なリーダーと称えました。
未知の世界に挑みながら、32歳でこの世を去ったアレクサンドロス・・・その大いなる野望と苦悩の人生とは・・・??

アレクサンドロスは、紀元前334年、22歳の時にアジアに出発!!
6万5000の兵を率いてエーゲ海から東の世界に旅だちます。
わずか10年のうちに大帝国を打ち立てました。
どうしてアジアへ向かったのでしょうか・・・??

紀元前356年、アレクサンドロスはギリシャ北部の山岳地帯マケドニア王国に生れました。
父は、マケドニア王・フィリッポス2世!!
母はオリュンピアス・・・アレクサンドロスは、次期マケドニア王の有力候補でした。

彼は幼い頃から英才教育を受けます。
アレクサンドロスは、同世代の貴族の子どもたちと切磋琢磨し、運動や格闘で体を鍛えます。
乗馬も習います。それは、騎馬隊がマケドニアの戦力だったからです。
誰も乗りこなせなかった気性の荒い馬を乗りこなします。
その馬は、ブーケファラスと名付けられ、その後アレクサンドロスの愛馬としていくつもの戦いを勝利に導くことになります。
勉強も超一流で、343年、13歳の時に、今も歴史に残る人物が家庭教師として招かれます。
哲学者・アリストテレスです。
アレクサンドロスは、アリストテレスから文学や哲学、医学、天文学・・・ありとあらゆる知識をたたき込まれ学びます。
アレクサンドロスがアリストテレスに送った手紙にはこう書かれています。

「私は権力者よりも、何が最善であるか正しく判断できる者になりたいのです」

当時、ギリシャは都市国家アテネを中心に発達し、西洋随一の文明を誇っていました。
しかし、戦上手で野心家だったフィリッポスは、精強な軍隊を率いて南に勢力を広げていきます。
18歳の時、アレクサンドロスに活躍の場面が・・・
ギリシャ地域の覇権をかけた一戦に、マケドニアの一員として参加することになったのです。
敵は、アテネを中心とする連合軍!!
紀元前338年、カイロネイアの戦いです。
アレクサンドロスは、騎兵部隊を指揮し、アテネ連合軍の歩兵部隊を壊滅させるのです。
マケドニアは圧勝します。

マケドニア王国の首都・ペラの遺跡に、強さを物語る壁画があります。
貴族の墓に描かれた兵士の姿・・・手にしている槍の長さは約6m・・・。
それまで他の部隊の歩兵が使っていたものの2倍は長かったのです。
この長い槍の兵士たちが何列も体型を作り、密集して進む戦法です。
他の攻撃を寄せ付けず、もし見方が倒れても、そのまま前へと進む強力な戦法でした。
この戦いでマケドニアはギリシャ地域の大半を支配下に置き、フィリッポス王は、強大な地域の盟主となりました。

しかし、アレクサンドロスは華々しい活躍を見せたにもかかわらず、複雑な思いを抱いていました。

「父上は何もかも先に取ってしまわれて、私がやりたい大きく立派な仕事は何一つ残してくださらない」

紀元前336年、アレクサンドロスが20歳の時に、フィリッポスは前代未聞の代計画に取りかかります。
古代ギリシャ人がアジアと呼んだ大国ペルシャへの遠征です。
ギリシャとペルシャは、貿易が盛んなエーゲ海の覇権をめぐり、200年にもわたって対立していました。
そんな争いに決着をつけるために、ペルシャ侵攻を決意したのです。
しかし、出兵の直前に思わぬ事件が・・・
祝典のさ中、観衆の前でフィリッポスは護衛官によって暗殺!!
事件の直後、暗殺の黒幕として二人の人物に疑いの目が向けられました。
ひとりは妻のオリュンピアス、そしてもう一人はアレクサンドロスです。

当時のマケドニアは一夫多妻制・・・
フィリッポスには7人の妻と2人の息子がいましたが、後継者はアレクサンドロスが最有力でした。
しかし、フィリッポスが寵愛する若い王妃が妊娠すると、風向きは変わります。
この王妃が男の子を産めば・・・その子に王位を継がせるかもしれない・・・。
王の死は、アレクサンドロスにとって好都合でした。
王子といえど黒幕となれば王位に就くことなどできない・・・。
しかし、新たな王となったのは、疑惑の渦中にあった20歳のアレクサンドロスでした。
決め手になったのは、重臣たち・・・大貴族がアレクサンドロスを支持したからでした。
アレクサンドロス自身は、父親から帝王学を学び、すでに軍隊で活躍した経験を持っていました。
それは、どの貴族も兵士たちも認めるところでした。

紀元前334年、22歳でアジアに出発!!
父が成し遂げられなかった夢をかなえるために・・・!!
10年に及ぶ大遠征の始まりでした。

「アジアを野蛮なペルシャの支配から解き放ち、ギリシャの自由を取り戻すのだ・・・!!」

トルコの西部・エーゲ海と黒海の間に位置する海峡ダーダネルス海峡・・・ヨーロッパとアジアを分かつ境界線です。
紀元前334年、22歳の時にダーダネルス海峡を越えてアジアへ・・・!!
当時、アジアに君臨していたペルシャは、世界最大の帝国でした。
そんな強敵を相手に、アレクサンドロスは連戦連勝を重ねます。
どうしてペルシャに勝てたのでしょうか??
当時のペルシャの支配領域は、エジプトからトルコ、インドのインダス川にまで及んでいました。
その帝国をしていたのは、ペルシャ王ダレイオス3世でした。
アレクサンドロスの軍に対抗すべく、2000キロ以上離れた王宮のあるバビロンから戦闘の指揮を執っていました。
アレクサンドロスはペルシャ領に入ると、小アジアを東に侵攻。
それを受けてペルシャ軍は、アジアの門といわれたグラニコス川で迎え撃つことに・・・。
アレクサンドロス率いる1万8000の軍が川に到着。
対岸にはペルシャ軍の精鋭部隊が川を渡ろうとするところを待ち構えていました。
グラニコス川は、川幅は狭いものの流れが早く、切り立った崖が迫っていて川岸には十分な広さがありませんでした。
マケドニアが得意とする長槍部隊が使えない・・・!!
対岸に押し寄せたペルシャ兵・・・戸惑う味方の兵士にアレクサンドロスは・・・

「あとに続け!!
 そしてあっぱれば勇者ぶりを見せよ」

アレクサンドロスは正面突破を決断し、川に飛び込みます。
敵軍の放つ矢を受けながら、崖を登って対岸にたどり着くと、次々とペルシャ軍を撃破していきます。
ペルシャ軍は、リーダーのアレクサンドロスめがけてやってきます。
この時、身を挺してアレクサンドロスを守ったのが、子供の頃から共に訓練を受けて育った側近の部下たちでした。
やがてペルシャ軍は敗走を始めました。
父・フィリッポス2世が、軍隊を改革して、側近だけでなく歩兵も「仲間」と呼ぶようになっていました。
父親の代から、王と兵士の間には強い絆があったのです。
これをアレクサンドロスは受け継いでいたのです。
兵士や貴族たちも、王に対して親密な態度で、親しく語ることができる・・・
上下関係ではなく、「仲間」「同志」という関係で結ばれていました。

部下との絆を大切にするアレクサンドロス・・・
遠征に出発する前に、アレクサンドロスは財産の殆どを部下たちに分け与えてしまいます。
それを心配した側近が訪ねます。

「王の手元には何を残されますか?」
「希望だけだ」
「では、あなたと遠征を共にする我々も、その希望を分かち合いましょう」
側近はこう言って、もらった財産をアレクサンドロスに返したといいます。

ペルシャとの初戦に勝利したアレクサンドロスは、小アジアの都市を攻略していきます。
一方、ペルシャ帝国のダレイオス3世は、国中から集めた大軍を率いてバビロンを出発!!
アレクサンドロスとの直接対決に向かいました。
紀元前333年、23歳の時にイッソスの戦い・・・
地中海沿岸部で、両軍が川を挟んで対峙しました。
アレクサンドロス率いるマケドニア軍・1万9000、対するはダレイオスの部隊ペルシャ軍7万2000!!
圧倒的な兵力差でした。
戦いが始まりました。
しかし、川岸は足場が悪く、マケドニア軍が馬にまたがったまま川を渡ることは難しい・・・
そこで、アレクサンドロスは、弓矢軍の援護を受けながら、徒歩で素早く川を渡ります。
ペルシャ軍は、狭い土地に数万の兵士を集めたために身動きが取れず、アレクサンドロスの素早い動きに対応できませんでした。
敵の混乱に乗じたアレクサンドロスは、ブーケファラスにまたがり、ダレイオスに突進!!
それを見たダレイオスは・・・戦線離脱・・・逃げ出したのです。
王を失ったペルシャ軍は、総崩れ・・・アレクサンドロスは、歴史的勝利を得ました。

戦いの後、ペルシャ陣営に足を踏み入れたアレクサンドロス・・・
そこには、ダレイオスの母と妻、子供たちが残されていました。
敗者はどのような扱いを受けても文句は言えない・・・しかし、アレクサンドロスは、捕虜となったダレイオスの家族を、王族として丁重に扱ったのです。

また、そこには、夥しい数の金銀財宝や豪華絢爛な装飾品の数々が残されていました。

「王になることはこういうことだったのか・・・!!」byアレクサンドロス

アフガニスタン北部にある紀元前4世紀の都市の遺跡・・・アイ・ハヌム・・・
ここで、ギリシャの様式で作られた柱の跡が残されています。
2400年前、遥か4000キロ離れた中央アジアにまでギリシャ文化が伝えられていました。
もちろん、ギリシャからペルシャ、インドまで及んだアレクサンドロスの帝国がもたらしたものです。
それだけの広大な土地をどのようにして支配したのでしょうか?
ペルシャ軍を破ったアレクサンドロス軍は、紀元前332年、24歳の時にエジプトを制圧!!
逃げ出したダレイオスを完全に倒すべく、帝国の中心に向かいます。
その頃、既にアレクサンドロスは、東地中海一帯を支配下に置いていました。
そんな中、アレクサンドロスのもとへダレイオスから手紙が届きました。

「捕虜となった家族を返してくれるならば、ユーフラテス川より西の領域すべてと身代金として多額の金を提供する
 さらに、私の娘と結婚し、友人になり、同盟を結んでほしい」byダレイオス

しかし、アレクサンドロスは・・・

「自分はアジアの王である!!
 金にしても、領土にしても、すべてもう自分のものだ
 家族を返してほしいというなら、まずはダレイオスみずから臣下として出頭せよ」byアレクサンドロス

そしてアレクサンドロスは、再びダレイオスと対決します。
決戦の部隊はイラク北部のチグリス川のほとりガウガメラ!!
ダレイオスは前回の教訓からダレイオス軍が力を発揮できる広大な平原を選びます。
更にダレイオスは秘密兵器も用意しました。
車輪に鋭い鎌をつけた戦車です。
その威力を生かすために、先に土地を平らにならすという念の入れようでした。
兵士も帝国の全土から精鋭を集めます。
ダレイオスの威信をかけた総力戦でした。
20万とも30万ともいわれるペルシャ軍に対し、アレクサンドロス率いるマケドニア軍は4万7000!!
まともに戦えば勝ち目がありません。
側近がアレクサンドロスに提案します。

「夜の闇に紛れて奇襲をかけましょう」

しかし、アレクサンドロスは・・・


「私は勝利を盗まない」

あくまでも正々堂々と決着をつけることを望みました。
紀元前331年10月、ガウガメラの戦い。
ダレイオスを中心に広がるペルシャの大軍・・・アレクサンドロスは敵に囲まれないようにせん列を⑳西、斜めの陣形をとりました。
そして、アレクサンドロス本人は、騎兵隊を率いて右翼の最前線に立ちました。
敵の戦車の機動力を削ぐために、地ならしされていない方向へ戦列を移動させます。
さらに、巧妙な罠を貼りました。
ペルシャの戦車部隊が突進すると中に入れさせます。
戦車が孤立したところを襲い掛かります。
作戦にはまり混乱するペルシャ軍!!
その左翼で喜平と歩兵の間で亀裂が生じました。
その瞬間、アレクサンドロスは突進!!
敵陣の中に入りました。
目指すはダレイオスの首ひとつ!!
しかし、ダレイオスは、再び逃げ出しました。
王がいなくなったペルシャ軍は、散り散りとなり敗走を始めました。
25歳のアレクサンドロスは、こうしてギリシャとアジアの覇者となったのです。

その後、アレクサンドロスは自ら兵を率いてダレイオス追撃に向かいます。
しかし、ダレイオスは逃亡の途中で側近に裏切られ、暗殺されていました。
遺体を目にしたアレクサンドロスは自らのマントで包み、王として丁重に葬りました。
さらに、暗殺者を捕らえて、四肢分断・・・ペルシャ式で処刑しました。
正当な方法でダレイオスの仇を討ったとペルシャ全土に触れ回ったのです。
ガウガメラの戦いで歴史的勝利をおさめたアレクサンドロスは、王宮のあるバビロンに向かいます。
この時、アレクサンドロスがバビロンの人々に語り掛けた言葉がバビロンの遺跡から発掘されています。

「私はあなた方の家に侵入しない」

決して略奪や破壊は行わない・・・平和的に入城するつもりであることを表明しました。
おだやかに諭して平和的に彼らを治める・・・
力づくで征服するのではなくて、相手の文化や伝統を尊重しながら支配下に治めていく・・・!!
アレクサンドロスはどうして平和的な政策をとったのでしょうか?
それは、ガウガメラの戦いの前年、エジプト入城でのことです。
ダレイオスから学びました。
エジプトの王・ファラオでもあったダレイオスは、現地の宗教を認め、言葉や文化を尊重しました。
さらに、荒れ果てた砂漠に地下水路を建設し、農地を増やしていました。
人々の生活を豊かにし、慕われていたのです。

ギリシャ文明こそ世界一でアジアは野蛮・・・そんなアレクサンドロスの価値観は揺らいだのです。
それまでアレクサンドロスは、 制圧した都市の総督をすべてギリシャ人に変えていました。
しかし、バビロンではペルシャ人に今まで通り統治させることを決めました。

arekusanndorosu














この有名な壁画は、イタリアの古代都市ポンペイの大富豪の家を飾っていました。
しかし、紀元1世紀に火山の大噴火によって町全体が壊滅・・・。
その後、18世紀に遺跡の発掘が開始され、1831年モザイク画が発見されたのです。
絵の内容は、アレクサンドロス軍とペルシャ軍との決戦の場面です。
アレクサンドロスは右側のダレイオスを見据え、右手の槍はペルシャ兵の体を貫いています。
一方、ダレイオスは、アレクサンドロスの方を見ながらも、身体は逆を・・・まさに逃走しようとしている瞬間を描いた絵なのです。

当時のギリシャ人の中には、生計を立てるために傭兵として外国で仕事をする者もいました。
ペルシャ軍の中にも傭兵としてギリシャ人が戦っていました。
当時は大義のために戦う人もいれば、職業で戦う人・・・色々いました。
ペルシャ軍は、他にもいろいろな東方の民族がおり、寄せ集めの兵のような感じでした。
これが勝敗を分けた原因の一つでもありました。

向かうところ敵なしのアレクサンドロス・・・??
アレクサンドロスは、ペルシャを制圧したのち、広大な地を治めるためにペルシャ人を次々と要職につけました。
しかし、そのことで腹心の部下の間に亀裂が入りました。
ギリシャ人の部下はこう漏らします。

「ペルシャ人たちは、アレクサンドロスの同胞と呼ばれているが、私たちは誰もそんな名誉にあずかっていない」

アレクサンドロスが人前に出る時には、ペルシャ風の豪華の装束を身にまとっていました。
アジア地域の王であることを多くの民族に知らしめ、支配力を高めるためです。
さらに、家臣が王の前でひざまずき、ペルシャ式の宮廷儀式をギリシャ人にもさせました。
あるギリシャ人の部下は・・・アレクサンドロスのことを陰でこう言いました。

「東方かぶれ」と。
「野蛮な者たちや奴隷と一緒に暮らすがいい」

ひざまずいてお願いをするというのは、ギリシャ人にとって神に対して行う嘆願であって、生きた人間に対して行うものではありませんでした。
人間の世界と神の世界をごちゃまぜにしてしまう・・・
この世の秩序が壊れてしまうような非常に重大な出来事だったのです。

遠征軍が東へ、東へ進むと、ペルシャ帝国の影響力が弱くなり、抵抗は激しいものとなっていきます。
アレクサンドロスは、現在のウズベキスタンの辺りまでを苦労の末に制圧。
現地の豪族を取り込むために、生れてはじめてのことをしました。
有力者の娘・ロクサネと結婚したのです。
アレクサンドロスは、ロクサネとの間に子供も設けます。 
くわえて部下たちにも現地人との結婚を奨励し、合同結婚式を行います。
その土地で子供を産み、兵を増やすという考えもあったのだといいます。

しかし、アレクサンドロスが征服した民族と融和を深めるほど、古参の部下との溝が深まっていきます。
ある日の宴で酔っ払った部下が、アレクサンドスを公然と批判しました。

「アレクサンドロスの功績も、ただ一人で成し遂げたわけでもない
 大部分は、われわれマケドニア人たちの働きの結果ではないか」

こういわれたアレクサンドロスは、頭に血が上り、槍をとって部下を刺し殺しました。
この部下は、かつてグラニコス川の戦いでアレクサンドロスを守った側近中の側近でした。
己の行いにショックを受けたアレクサンドロスは3日間何も口にせず、悔やみ続けたといいます。

それでも・・・紀元前326年、30歳でインド北部へ・・・!!
川の向こうには、もっと豊かで広大な土地がある!!と、アレクサンドロスは心躍らせます。
しかし、いざ川を渡ろうとしたとき、部下の多くがついていくのを拒んだのです。

「我々が国を出た当時、どれくらいの数のギリシャ人がいたか・・・
 そして今、どれほどの数が残っているかはよくご存じのはずです。
 体力は、かつてのように強健ではなく、気力はさらに衰えております。」

兵士たちは、故郷マケドニアを出て以来、8年間過酷な遠征に疲弊しきっていました。
しかし、アレクサンドロスは、必死に説得します。

「輝かしい大業は、危険をおかす者たちの手によってこそ成就するのだ
 武勇に生き、不滅の誉れを後の世に残して死ぬことこそ、喜ぶべきことではないか」byアレクサンドロス

結局、兵士たちは動きませんでした。
アレクサンドロスは、やむ終えず遠征を中断・・・バビロンに戻りました。

それでも2年後、アレクサンドロスは海を渡る新たな遠征計画を立てます。
指揮官たちに命令します。

「陸上部隊は4日後に出発、艦隊は5日後に港を出る」 

しかし、その直後に熱病にかかり、見る見るうちに病状が悪化・・・
遠征に出発できないまま・・・
紀元前323年、アレクサンドロス死去・・・32歳でした。

アレクサンドロスの死後、大王を失った帝国では後継者争いが勃発し、膨大な領土はいくつもに分裂します。
新しく王となって激しく対立したのは、長年アレクサンドロスのもとで戦った部下たちでした。
1887年に発掘されたアレクサンドロスの石棺・・・そこには、ギリシャ兵とペルシャ兵が戦う姿があります。
しかし、別の面にはお互いが協力しながら狩りをする姿が刻まれています。

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  こともなき世に
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幕末、長州藩を率いて幕府と戦った高杉晋作の歌です。
理想に燃え、仲間の死に涙し、そして無鉄砲とも思える勇気で時代を動かした男です。
明治維新の先駆けとして活躍した長州の風雲児・高杉晋作。
晋作の代名詞と言えば奇兵隊・・・
身分の枠を超えて兵を募集した画期的な部隊です。
最新兵器で武装し、変幻自在に戦いを仕掛ける奇兵隊・・・晋作は戦の天才と言われました。
しかし、戦場から戻れば和歌を嗜み、三味線にも興じました。
誰もが晋作に憧れたといいます。
一見、誰にも縛られない粋な風流人・・・
ところが、事実は全く逆でした。
武士の家に育った晋作には、常に家名を汚すなというプレッシャーが襲いました。
人生を教えてくれた恩師との早過ぎる別れ。
夢を抱いて習った西洋航海術も、モノになりません・・・!!
教師に意見が通らず、酒に溺れ、頭を丸めることも・・・。

しかし、時代は晋作を求めていました。
長州藩取り潰しを狙う幕府に対し、仲間に決起を訴えかけます。
最初はたった80人でした。
晋作がつけた小さな炎は、やがて長州藩全体を燃え上がらせ、大きなうねりとなって日本中に広まっていきます。
しかし、そのさ中・・・晋作を待ち受けていたのは不治の病でした。

1862年、江戸時代の末、限られた人しか外国に行けなかった時代・・・
高杉晋作は、船の上から上海の街並みを見ていました。
幕府が作ったおよそ40人の視察団に、長州代表として参加したのです。
晋作は、かねてから外国に行くことを望んでいました。
どうして海外を目指したのでしょうか?

日本海を望む山口県萩・・・
1839年、この城下町に高杉晋作は生まれました。
高杉家は戦国時代から藩主毛利家に仕える名家です。
晋作の父・小忠太も、藩主の傍で要職を務めていました。
晋作は、高杉家の跡取りになるために厳しく育てられました。
特に、父の言うことには絶対に逆らえませんでした。
しかし、外では負けん気の強い性格が抑えられず・・・

15歳の時、晋作は、父と共に江戸に向かいました。
そこで目にしたのは、巨大な黒船・・・!!
1854年、15歳の時ペリーが来航。
ペリーは軍事力を背景に、日本に開国を迫ります。
大混乱の江戸の町・・・晋作は、激動の時代の始まりを肌で感じていました。
西洋列強が日本に迫ってきているのが、黒船を見ることによってリアルに感じられました。
これからの日本という国の形が変わっていく・・・彼の中で大きなテーマとなります。
この時、高杉晋作と同じ長州藩の中に、黒船に密航しようとした者がいました。
吉田松陰です。
晋作より9歳年上の兵学者で、若い頃から藩主にその才能を称えられていました。

1857年、18歳の時に萩に帰って吉田松陰の松下村塾に通い始めます。
松下村塾には、幼馴染の久坂玄瑞、後の総理大臣の伊藤博文も参加していました。
塾には自由な空気が流れ、時間の制約もなく、身分の制約もない・・・
熱い議論を交わしたといいます。
世界の情勢についても学びます。
そんな中、松陰の唱えたのは攘夷論でした。
松陰は、日本は西洋列強に学び力をつけ、その力で西洋を打ち払う攘夷を行うべきだと主張しました。
しかし、松陰の訴えと過激な行動は、一般の人たちには危険な行為としか思えませんでした。
そのため、晋作の家族は松下村塾に行くことを禁じます。
しかし、晋作は深夜にこっそりと松下村塾に通ったといいます。
国防論についても尊王論についても現実的で、そんな話が晋作は心底好きだったのでしょう。
日本の国を何とかしなければ・・・という積極的な燃えている炎があったので、松陰に引き付けられたのでしょう。

1858年、19歳の時に江戸に再遊学
この頃、藩の上層部に海外留学の希望をかなえてほしいと強く願い出ています。

”お願いしておりました私の洋学修行の件、どうなりましたでしょうか
 一刻も早く取りかからないと、手遅れになります”

ところが、この海外渡航の夢にも暗雲が立ち込めます。
晋作が江戸に来た年、幕府による危険分子の弾圧・・・安政の大獄が始まりました。
そして、晋作の師、吉田松陰も江戸の牢に投獄されてしまいます。

晋作は、牢に入った松陰のため、文具や書物を工面するなど奔走します。
この頃、晋作が感銘を受けた松陰の言葉があります。

”死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
 生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし”

そして松陰は・・・過激な思想の持ち主として処刑されました。

”松陰先生の仇は必ず取る
 しかし、主君も父もいて、わが身はわが身のようでわが身ではない”

それからおよそ5か月・・・20歳になった晋作に、海外渡航のチャンスが巡ってきました。
幕府の軍艦教練所で航海術を学び、様式軍艦の訓練をせよと命が下ったのです。

”男子としてこの宇宙に生れたのだ
 筆や硯の家来などになっていられない”

しかし、毎日書き続けていた日記がある日から書かれていません。
航海術の勉強を放棄したのです。
理系の航海術が得意ではなかったようです。
航海術は挫折したものの、藩主の跡継ぎの側近となります。
そして今度こそ、海外へ行くチャンスが・・・
1862年、22歳で海外視察団の一員となります。
行先は、清国の上海・・・晋作22歳、遂に海外に飛び出す時が来ました。
病に倒れる4年前のことです。

幕末・・・身分制度に縛られた世の中に、新風を吹き込んだ人がいました。
武士から商人、浪人に至るまで身分を問わず志ある者で編成された革新的な集団・・・その名も奇兵隊です。
創設者は、高杉晋作です。
晋作はどうして奇兵隊を作ったのでしょうか?

1860年、20歳・・・上海に渡航する2年前・・・晋作は結婚しました。
相手は城下一の美人と言われた4歳下のマサでした。
晋作はマサと仲睦まじく、上海から手紙を送っています。

”無事にお暮らしとのことめでたく思っています
 長崎でめずらしい高価な反物を買って送りました
 しかし、どうかこの反物で作った着物や帯で人の多いところ、お祭りなどへ出かけないでください
 あなたが武家の立派な妻の手本となれば、私も安心です
 稽古事や和歌の勉強をしながら、家のことをお願いします”

1862年5月、上海に到着
しかし、目の当たりにしたのは、かつての大国・清の惨状でした。
イギリスにアヘン戦争で敗れた清は、外国人が所有する居留地を各地に置かれ、貿易の主導権を握られていました。

”清の人たちは、イギリス人が街を歩けばみな避けて道をゆずっている
 その上、ことごとく外国人にこきつかわれている
 実に上海の地は清に属してはいても、イギリス、フランスの属地といえるくらいのありさまだ”

更に晋作が驚いたのは、イギリス軍の設置した砲弾・・・最新鋭の兵器・アームストロング砲です。
日本にある大砲とはけた違いの威力・・・西洋列強に武力で対抗するには軍備が欠かせない・・・!!
帰国した晋作は、長崎のオランダ商館へ。
最新鋭の武器を買うためです。
現在の価値で10億円の軍艦の契約を、藩に無断で契約!!
しかし、藩の了承を得ることができず、軍艦が買えませんでした。

”国の情勢が切迫している・・・!!”

もはや一刻の猶予もならない・・・!!
晋作は、自らの手で外国人を攻撃し、攘夷を決行しようと考えます。
向かったのは江戸・・・!!
1862年12月、23歳の時・・・
久坂玄瑞や伊藤博文ら松下村塾の仲間たちと共に、品川のイギリス公使館を焼き打ちしました。
極秘に進められたこの計画は、犯人が晋作たちだと判明するのは、明治時代になってからです。

晋作は、長州藩に攘夷のための軍備を主張し続けましたが、なかなか理解が得られません。
自暴自棄になる晋作・・・。
23歳の時、藩の要職を辞して休職・・・さらに、晋作は武士の命である髷を落とし、頭を丸めてしまいました。
酒を飲んではどんちゃん騒ぎの毎日・・・その胸には、むなしさと焦りが渦巻いていました。

”空しく月日を送り 愚か狂か 智か節義か
 なんだか訳も分からぬ人物にあいなり”

そんな中、ある事件から晋作の主張が認められるようになります。
1863年、23歳の時・・・下関事件です。
長州藩は下関を通る外国船を砲撃しました。
長州藩としては、外国船を打ち払い、攘夷を実行したのですが・・・
しかし、すぐに外国船から砲撃を受け、蹴散らされてしまいます。
初めて列強の武力に直面した長州藩・・・軍備の重要性を思い知った上層部が、晋作に意見を求めてきました。
この時、晋作は新しい部隊の新設を進言します。

”有志の士を募り、一隊を創立 名付けて奇兵隊と云わん”

奇襲をかけるなど敵の不意を打つための部隊という意味です。
武士だけで戦うには限界がある・・・戦いに長けたものを広く集め、武士ともども戦闘部隊にしようという考えでした。
志があればだれでも入隊ができる・・・
中での扱いも身分の上下はない、実力で決めていく・・・!!
後に庶民も入ってきて、それを軍事力として利用していきます。
封建社会を壊す一つのステップになりました。

1864年、25歳の時に四国(イギリス・フランス・アメリカ・オランダ)連合艦隊が下関に来襲。
前年に行った長州藩の攻撃に対し、更なる報復に出てきたのです。
この時、晋作の奇兵隊も初陣を飾ります。
しかし、圧倒的な戦力の四国連合艦隊にあえなく惨敗・・・
そればかりか、沿岸の砲台まで占拠されてしまいました。

追いつめられた長州藩は、戦いを諦め停戦交渉を行うことに・・・。
圧倒的に不利な仲での和平交渉に誰もがしり込みします。
結局、頼りにしたのが晋作でした。
藩の全権を任された晋作は、船に乗り込みます。
その姿は、家紋が入った直垂、黒の烏帽子・・・家老の正装でした。
居並ぶ提督たちに格で負けないように家老の息子だと偽っての交渉でした。
列強の代表は、安全な航行のための砲台撤去や、補給のための下関港への立ち寄りなどを求めます。
その上、300万ドルという巨額の賠償金を求めてきました。
これは、長州藩の年間予算の10倍でした。

こんな大金を払えば、藩の財政は壊滅・・・強硬な姿勢を崩さない外国人を前に晋作は言い放ちます。

”長州には、主君の為に命を捨てることなどなんとも思わないものが大勢いる
 もし、戦争を続けるというのならば、最後の一人になるまで戦うつもりだ”

この晋作の気迫の前に、賠償金は一銭も払われませんでした。
藩の存亡をかけた停戦交渉に成功した晋作、この時25歳。
病に倒れる1年前のことでした。

1864年12月、長州藩が幕府の圧力に屈しようとしている中、晋作は反乱を起こします。
晋作の呼びかけに応じたのは、最初はわずか80人ほど・・・長州藩は2000もの兵を動かし反乱を押さえようとするものの、戦いが進むにつれて晋作に共感するものが増え・・・800人にまで膨れ上がりました。

1864年7月、長州藩は、兵を率いて京に上りました。
御所で天皇に嘆願し、長州の地位回復を狙ったのです。
そこで、御所を警備する有力藩と激突・・・禁門の変です。
この戦闘で、長州藩は敗北し、晋作の仲間も命を落とします。
その中には松下村塾で共に学んだ久坂玄瑞もいました。

”後れても後れてもまた
 君たちに誓いし言を
 吾忘れめや”

この事件をきっかけに、幕府は長州征討を決定!!
15万を超える兵を動員します。
この動きに対し、長州藩は真っ二つに割れます。
幕府に抵抗し戦いも辞さない抗戦派と、幕府に謝罪して従うべきという恭順派です。
晋作は、抗戦派を支持していました。
しかし、藩の存続を優先するべきという恭順派が主導権を握ることとなります。

長州藩は幕府に従う証として禁門の変に関わった家老3人を切腹させ重臣たちを処刑しました。

”処刑の知らせを聞き 胸中やけるがごとく
 藩が受けた辱めをそそぎたい”

もはや武力決起しかない・・・!!
晋作は、奇兵隊の元へ・・・!!
晋作は隊士たちに恭順派の打倒を訴え決起を促します。
しかし、それに応える者はいませんでした。
この時奇兵隊は、自分たちの地位を保証してもらう代わりに藩の方針に従うという約束を交わしていました。

”この腰抜けどもが!!
 ぼくは毛利家300年の家臣だ
 たとえこの身が打倒されようと忠義を尽くす”

晋作が次に向かったのは、松下村塾の同志・伊藤博文の元でした。
この時伊藤は、下関で力士隊を率いていました。
伊藤は晋作の訴えに共鳴します。
他の部隊からも続々と集まってきました。
晋作は、約80人あまりの同志と共に決起します。

自分が死んでも自分の志を誰かが引き継いでくれるだろう・・・!!

”下関の鬼となり討ち死にする覚悟
 これより長州男児の肝っ玉をお見せする”

晋作は下関の役所を狙い、占拠することに成功。
この騒ぎを聞きつけた商人が資金援助を申し出ます。
次に晋作は、長州藩の海軍局へ・・・そこで軍艦三隻を手にします。
一方奇兵隊にも変化が・・・藩に反旗を翻します。
やがて奇兵隊は、晋作の隊に合流・・・
晋作がつけた決起の炎は、800人にまで燃え広がりました。
1月7日、ついに奇兵隊と藩兵が激突!!
最新式の銃を使いこなす奇兵隊は圧倒的勝利をおさめます。
すると藩の上層部に変化が・・・。
晋作の主張を受け入れなければ内乱はおさまらないと判断し、恭順派が更迭され始めます。

そして決起から40日後・・・藩主は徹底恭順の方針を撤回。
幕府へは恭順の意を示すもののもし攻撃を受ければ最後の一兵まで戦い抜くという武備恭順の方針を固めます。
この決起をきっかけに、晋作は長州藩の指導者の一人になるのです。

晋作が25歳の時に、マサとの間に待望の長男が誕生します。
名は梅之進・・・自分の好きな花の名で、溺愛しました。
しかし、晋作には家族と共に過ごす時間は残されていませんでした。
1865年9月、長州藩が敵対的な態度に変わったことを察知した幕府は、再び長州征討に乗り出します。
長州藩は徹底抗戦の構え・・・幕府との戦いの大義名分を文章にして民衆に示し、士気を高めていきます。
長州藩全体が沸き立つ中、25歳の晋作は、原因不明の病にかかっていました。

”腹痛がひどかったが、少し良くなった
 征長軍との戦いまでは命を保ちたいと鬼神に祈っている”

1866年6月7日、幕府軍は長州藩を取り囲み、四方向から攻めてきました。
長州藩の存亡をかけた戦い・・・幕府軍の兵数は、長州軍のおよそ50倍だったともいわれています。
しかし、晋作は怯むことなく最前線で指揮を執り、敵艦に奇襲をかけています。
小型の船を使った奇襲は大成果を納め、200隻余りを焼き払いました。
これをつぶさに見ていたのが土佐の坂本龍馬です。
龍馬は長州藩に味方し、軍艦を率いて参戦していました。

”晋作は兵士たちを鼓舞し、敵を打ち破り敵陣の陣幕屋旗などを奪っていった”

6月22日・・・激戦のさ中、晋作は突然倒れてしまいます。
不治の病と言われた肺結核でした。
それでも晋作は、病床で作戦会議を行います。
敵を蹴散らし進めと長州男児たちを鼓舞し続けます。
しかし、病は悪化・・・
喀血を繰り返すようになり、8月には戦線離脱、下関にある友人の家で療養することに・・・

晋作が最前線で戦う仲間に送った手紙は・・・

”進撃や勝利に大変喜んでいます
 体調は日々よくなっていますが、戦場に赴くほどではありません
 ご笑殺ください”

この頃、晋作を看病したのは愛人のうのでした。
元々下関の芸者だったうの・・・晋作が口説き落として一緒に暮らすようになったともいわれています。
うのは優しい性格で、正妻のマサといがみ合うこともなく、明治になっても二人の交流は続いたといいます。
そんなうのの看病の会もなく・・・晋作の病状は悪化の一途をたどります。
余命いくばくかの晋作の元へ、萩からマサと梅之進がやってきました。
医者が最後の別れに呼んだのです。
この時晋作はこう言います。

”しっかりやってくれろ・・・しっかりやってくれろ・・・”

そんな晋作の心の支えになったのはアルバムです。
そこには松下村塾からの盟友伊藤博文をはじめ晋作と深くかかわった人たちの写真が・・・
それだけではなく、アメリカ合衆国16代大統領のリンカーン、イギリスのビクトリア女王の写真まであります。

翼あらば
 千里の外も飛めぐり
よろづの国を
   見んとぞおもふ

1867年4月13日、晋作の命の炎が静かに消えました。
27歳でした。
最晩年に詠んだ歌が残っています。

面白き
   こともなき世に
          面白く

晋作がこの世を去ってから半年後・・・日本は明治維新を迎えます。

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チャーミングでセクシー・・・世界中の男性を虜にしたマリリン・モンローは、1950年代から1960年初頭にかけて映画界を席巻しました。
真赤な唇に口元のホクロ・・・印象的なボディーライン・・・モンローは、アメリカ国民のセックスシンボルでした。

「私は少数の人のものではなく、みんなのものでいたいの」

プライベートでは、独身でも、結婚してからもスキャンダルが絶えず・・・時の大統領ジョン・F・ケネディとも親密な仲・・・
誕生日パーティーには、撮影現場から駆けつける仲でした。
しかし、心の中は、生い立ちや教養へのコンプレックスでいっぱいでした。
”ちょっと間抜けな可愛いブロンド娘”を求められたモンロー・・・
周りにちやほやされても不安に押しつぶされそうでした。

「自分が偽物なんじゃないかと感じているなんて誰にも言えない・・・」

売れるために男心をくすぐるメイクを研究し、教養のなさを克服しようと読書に明け暮れます。
女優としての評価を得ようと演技を猛勉強し、スキャンダルも話題づくりに利用しました。
姿かたちから私生活まで、大衆の前に差し出したモンロー・・・すべては、本当の自分になるためでした。

わずか36年で生涯の幕を閉じたマリリン・モンロー
彼女が求めた本当の自分とは・・・??

マリリン・モンローこと、ノーマ・ジーン・ベイカーは、1926年6月1日、ロサンゼルスで生まれました。
ノーマが生れた時、既に父はいなくなっていました。
母は、ノーマを預けて働きます。
母の帰りを待つ間、小遣いを握りしめて通ったのが映画館でした。

「時には1日中そこに座っていたわ
 劇場の前にあるスターの手形や足型・・・そこに自分の脚を乗せてみたりしたの」

当時は世界恐慌のさ中で、アメリカ重に失業者があふれていました。
明日食べるものさえままならない中、母は必死で働きましたが、生活は益々苦しくなるばかり・・・
ついに母は、精神を患い入院・・・
母と離れ離れになったノーマは、8歳で里親を転々とすることになります。
貧しい暮らしのノーマ・・・体は痩せこけ、学校ではさやいんげんとからかわれました。

しかし、13歳になると状況は一変・・・成長期に入ったノーマは、抜群のスタイルに変身!!
学校中の生徒から熱い視線を向けられたといいます。

「学校に向かうのが、とても楽しくなったの
 女の子でさえ注目してきたわ
 目の前の世界が急に開けたの」

1942年、16歳の時、ノーマの里親はこれ以上養えないと、彼女を孤児院にいれようとしました。
それを不憫に思った近所の人の紹介で、5歳年上のジム・ドナティと結婚。

no-ma

















結婚当時、アメリカは太平洋戦争を戦っていました。
1944年、19歳になったノーマは、軍需工場で働きます。
これが平凡だった人生を大きく変えることに・・・

no-ma2
軍の機関誌にノーマの写真が載ると、人気が爆発!!
ノーマの元にはモデルの依頼が殺到!!

しかし、芸能界で働くことに夫は大反対!!



no-ma3























夢をかなえるために離婚します。


1946年、20歳の時、モデルの仕事が目に留まり、遂にハリウッドの映画会社にスカウトされます。
ノーマ・ジーンはマリリン・モンローと名を変え、茶色だった髪をまばゆいブロンドに染め上げました。
しかし、ハリウッドは甘くはなく・・・スカウトされたとはいえ大部屋の新人女優・・・僅かに舞い込む仕事は、エキストラばかり・・・。

しかし、モンローには自信がありました。

「もしハリウッドの専門家の50%から、あなたは才能がないといわれたらどうする?」

「もし、100%の人がそう言ったとしても、その100%全員が間違っているわ」byモンロー

スターになる日を夢見て、演劇教室に通い続けるモンロー・・・。
夜間学校にも通って、高校中退という学歴の劣等感も埋めようとしました。
そして、いい仕事を得るためなら、手段を選びませんでした。
後に自らをこう振り返っています。

「何人ものプロデューサーと寝たわ
 そうやって、最初のチャンスを掴む女優が多いの
 ほとんどの男は本当に下衆なんだから
 私たちは男からすべてを得る当然の権利があるのよ」byモンロー

1950年、24歳のモンローは、「イヴの総て」に出演。
売り出し中の新人女優という役でした。
この作品は、アカデミー賞6部門に輝き、期待の新人女優として脚光を浴び始めます。
念願だった女優の道を、ようやく歩き始めたモンロー・・・しかし、2年後、25歳の時に女優人生を消されかねないスキャンダルを襲います。

町中で売られていたヌードカレンダー・・・あのモンローではないか?という噂が広がりました。
当時のアメリカ社会は、今と違って性的なことに厳しく、ヌードはポルノ雑誌にしか許されていませんでした。
ヌード・モデルが女優など、とんでもないと思う人が大勢いたのです。
空前んだいスキャンダルの危機・・・!!
映画会社の幹部は、モンローに迫ります。

「ここに写っているのは君じゃない
 絶対に否定するんだ」

しかし、モンローは記者にこう言いました。
「お金に困り、食費や家賃にも不自由していたころ、ヌード・モデルをやってくれないかと頼まれたの
 私は50ドルをもらった
 悪いことは何もしてないわ」

ヌードモデルだったことをあっさり認めます。
どうして彼女はスキャンダルから逃げなかったのでしょうか?
衝撃の告白に、幹部たちはモンローはこれで終わりだと思っていました。
しかし・・・意外なことに、モンローの告白を世間は好意的に見ました。
ヌード写真に対するモンローの対応は、素晴らしいものでした。
おかげで批判的な見方は収まり、人々は彼女のヌードの上品さと美しさに気付いたのです。
モンローが時代の新しい基準を作りました。
これをきっかけに、マリリン・モンローの名がアメリカ中に広まり彼女は、一躍スターダムにのし上がっていきます。

マリリンの代名詞・モンローウォーク・・・モンロー自身が編み出した、お尻のラインを強調する歩き方です。
その姿に、世界中の男性が魅了されました。
「紳士は金髪がお好き」では、甘い歌声と妖艶なダンスを披露・・・。
女性としての自分の見せ方が、天才的に上手だったのです。
そして1953年、27歳でハリウッドの大スターの証・・・手形を押すまでになります。

アメリカ中を熱狂させ、セックス・シンボルとまで言われたモンロー・・・
しかし、わずか2年後、ハリウッドから姿を消すことに・・・!!
モンローがセックス・シンボルとしてもてはやされた裏には、たゆまぬ努力がありました。
美しいスタイルを維持する為に当時はほとんどの女優がしなかったジョギングや筋トレをしていました。
解剖学の専門書がモンローの愛読書でした。
筋肉や呼吸器官の仕組みを勉強し、発声方法や歩き方まで魅力的な見せ方を徹底的に研究します。
自分を作り直さなくてはいけないと思っていました。
女優は努力で作られることを知っていたからです。
人から教わるだけでなく、独学でも自分を輝かせようとしました。
セルフプロデュース術は外観だけにとどまらず、記者からの質問には男心をくすぐるサービス満点の答えを用意します。

「夜は何を着て寝ていますか?」
「シャネルの5番よ・・・」

その後も出演映画は大ヒットを連発・・・!!
しかし、人気が出れば出るほど、モンローへの重圧が重くのしかかります。

「新しいセリフを渡されるのが怖い
 覚えられなくて失敗するかもしれない
 みんな、素っ気なくて冷たい・・・」

やがて、モンローは撮影現場への遅刻が癖になります。
カメラの前に立つのが怖い・・・芝居が手につかない・・・
この頃、プライベートでも悩みを抱えていました。
長い間疎遠になっていた母・・・久し振りに届いた手紙・・・そのあて名は、「マリリンへ」でした。
実の母にも関わらず、あて名はノーマではなく芸名のマリリンでした。
 
 お願いだから手紙をちょうだい
 どうか、憎しみを忘れて
 あなたの愛がほしいの
                母より

モンローは、この手紙に返事をしませんでした。

「私たちを繋げるものは、何一つなかった
 私は不幸をすべて忘れたいだけなの
 私と母が抱えていた哀れな人生を・・・」

モンローは、母と会うことを拒絶し続け、親しく交流することはありませんでした。
しかし、母への経済的な援助は生涯つづけています。

そんなモンローの心の支えとなったのが、元ニューヨーク・ヤンキースのジョー・ディマジオです。
今なお破られていない世界記録56試合連続ヒットの伝説のスーパースターです。
12歳年上の物静かで頼れる男に夢中になります。
ディマジオは、モンローを愛していましたが、妻には家庭に入り、自分を支えてほしいと望んでいました。

1954年1月14日、遂に二人は結婚!!
映画界と野球界の国民的スター同士の結婚でした。
マスコミは大きく取り上げます。
1954年2月1日、二人が新婚旅行で向かった先は日本でした。
日本の野球関係者からの正体を受けていたディマジオは、日本を訪れることにしたのです。
ところが、出迎えた日本人は、招待したディマジオではなく、モンローに集中します。
記者会見でもモンローばかりに質問が殺到・・・気を悪くしたディマジオが、懐剣を中止するということに・・・!!
日本に滞在中、モンローとディマジオの関係に亀裂の入る出来事が起こりました。
1950年に勃発した朝鮮戦争・・・
来日の半年前に休戦したものの、いまだ数万人の米兵が韓国に駐留していました。
丁度日本に来ていたモンローに、軍から兵士を慰問してほしいとオファーが届いたのです。
モンローに許しを求められたディマジオは、こう答えました。

「”きみ”の新婚旅行だ 好きなようにしろ」

1954年2月、モンローは、ディマジオを日本に置いたまま韓国へ・・・!!
アメリカ軍の駐屯地10カ所を巡ってショーを行いました。
真冬の雪がちらつく天気をものともせず、氷点下の中ドレスひとつで歌います。
集まった兵士は、のべ10万人を超えたといわれています。

「あの慰問コンサートの時くらい、自分がスターだと思ったことはなかった
 生涯で最も楽しい瞬間だった」

新婚早々、ぎくしゃくした二人の関係を、決定的に破たんさせたのは、「七年目の浮気」でした。

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ニューヨークに住む妻子持ちと同じアパートに住む美女が巻き起こすコメディです。
この作品から生まれたのが、モンローを象徴するあのシーンです。

maririnn

真夜中の撮影だったにもかかわらず、現場に観客が殺到!!
想定外で現場は混乱し、撮影は何十回も撮ることに・・・。

笑顔を絶やさずに何度もカメラの前に立ち続けるマリリン・・・
この場所にはディマジオも来ていました。
撮影後のホテルでは、怒号と悲鳴か聞こえてきたといいます。



ディマジオは、彼女が主婦業に専念し、たまにいい映画があれば出演する・・・そんなスタンスを求めていました。
もう、セックス・シンボルは卒業してほしかったのです。

結局、この出来事をきっかけに・・・
1945年、9か月で離婚。

離婚会見に臨んだモンローは疲れ切っていました。
離婚の翌年・・・1955年、28歳でハリウッドを去ります。

1955年、28歳の時にある決断をしました。
売れない頃から所属していた映画会社から、周りの反対を押し切って独立!!
個人事務所を立ち上げます。
当時はどんなスターでも、映画会社と契約していなければ出演は不可能!!
二度と映画に出られなくなるかもしれない・・・大きな決断でした。
そしてそこまでしてモンローが求めたものとは・・・??
モンローは、ハリウッドの映画会社があまりにも大きな力を持っていることに不満を抱いていました。
次はどんな作品に出演するのか??監督は?いつどこで撮影・・・??
モンローのいない重役室の中で、映画会社が勝手に決めていたのです。
さらに、問題なのはスターになってもギャラは、昔の契約のままでした。

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「紳士は金髪がお好き」・・・主演女優のジェーン・ラッセルが出演料10万ドルなのに対し、ダブル主演のモンローは1万8000ドル・・・1/5にも満たない額でした。

そしてモンローが最も不満だったのが、その役柄・・・
いくら抵抗しても、少し間抜けなブロンド娘と決まっていました。

「私が演じるのは、マリリン・モンローばかり
 もっと違うものだって演じたいの
 マリリン・モンローを演じることから抜け出さなければならない」

1955年、「マリリン・モンロー・プロダクション」を設立。

私生活でも二度目の離婚をしたモンローは、新しい人生をスタートさせようとニューヨークに・・・
向かったのは、アクターズ・スタジオでした。
ジェームズ・ディーンやアル・パチーノなどが通った俳優養成所です。
モンローは、リー・ストラスバーグから指導を受けます。
その演技法は独特で・・・演技をするときに自分自身の体験からその感情を表現せよ・・・というもので、難解な指導についていけない者が後を絶ちませんでした。

スターであろうとここでは新人・・・モンローも一から学び始めます。

「彼女ほど感性と才能にあふれた人は珍しい
 マーロン・ブランドと同じだ
 彼女にはマーロンと似た感性があった」byストラスバーグ 

アクターズ・スタジオに通う一方、もう一つのコンプレックス教養を身につけようとします。
連日、古典から現代文学を読む一方で、作家や知識人と交流します。
映画の役と、モンローの実生活は、全く違っていました。
彼女とデートした男性の多くは、彼女が読書好きであることに驚きました。
そしてその知性と教養の深さに感動したのです。

1956年、29歳の時に一本の電話が・・・
古巣のハリウッドの映画会社が、彼女に帰ってきてほしいと懇願したのです。
モンローはそこで、長年の不満をぶつけます。
作品への出演拒否権、監督や脚本への意見を認めさせ、数々の要求をして再契約します。
出演料も、1本あたり10万ドルにアップしました。
こうしてモンローは、1年ぶりに帰ってきました。

復帰第1作目は、コメディ「バス停留所」でした。
モンローが演じたのは、ハリウッドを夢見て酒場で働くしがない歌手・・・
胸に秘めた想うを吐きだし、武骨な男の一途な愛にほだされるヒロイン・・・
話題を呼んで映画は大ヒット!!

「バス停留所」の中で、彼女は今までとは異なり、哀愁漂う演技をしました。
ヒロインの悲しみが伝わってくる表現は圧巻です。
批評家も、彼女の演技を高く評価しました。
延喜派の女優にステップアップしたモンロー・・・
しかし、身体に異変が起きていました。
極度の不眠症です。

「自分が偽物なんじゃないかと感じているなんて、誰にも言えない」

いくら喝采を浴びても、自分の演技に自信が持てない・・・
やがて睡眠薬を多用するようになります。
朝起きることさえままならなくなり・・・遅刻癖はますますひどくなりました。
そんなモンローがすごったのは、またもや結婚でした。
1560年、30歳の時に三度目の結婚。
相手は劇作家のアーサー・ミラーでした。
「セールスマンの死」でピューリッツァーを受賞した巨匠でした。
モンローは、11歳年上のミラーの知性と教養に強く惹かれました。

「私には父親がいません
 だから、尊敬できる人物が必要です」

モンローは、ミラーと親族だけのささやかな結婚式を行います。
誓いの言葉を述べながら、モンローは夢を抱いていました。
それは、夫と子供に囲まれた幸せな家庭を持つこと・・・。
結婚式の写真の裏にはこう書きました。

”Hope! Hope! Hope!”

1958年、32歳の時に「お熱いのがお好き」の撮影に入ります。

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モンロー演じる楽団の歌手と、ギャングに追われる男二人が恋に落ちる物語です。
モンローは、その魅力を遺憾なく発揮!!
最高傑作と言われます。
ところが、作品の評判とは共に、撮影現場でのモンローの評判は最悪でした。
相変らずの遅刻癖に、僅かの台詞でもNGを連発!!
監督のビリー・ワイルダーは、こう言っています。

「マリリンとの仕事は大変だった
 予算ははるかにオーバーし、私は破産寸前
 俳優たちの関係も冷え切っていた
 当時は果たして作品を完成できるか、わからない状態だった」

デビューから10年経っても、演技の不安はおさまるどころか益々大きくなっていきました。
昼夜をとわず睡眠薬を・・・
そして私生活でも深い傷を負います。
撮影中、モンローは念願の子どもを授かります。
しかし、3か月目で流産・・・結婚生活も破産寸前でした。

ある日、夫ミラーの個人的ノートがテーブルに開いて置いてありました。
何気なく読むと・・・
「私にどれほど失望したか、書いてあったのよ
 ”天子みたいだと思っていたが、間違いだった”って」

3度目の結婚生活も4年で終わりました。
34歳でミラーと離婚したモンロー・・・仕事に専念したかったものの、遅刻魔、トラブルメーカーという悪評の為に、敬遠されるようになっていました。
モンローは、一人で暗い部屋に閉じこもることが多くなりました。
心身共に限界に達し、精神病院に入院することも・・・。
この時、モンローの脳裏に浮かんだのが、幼い頃の母の姿でした。

「私は狂っているのかもしれない
 自分の家族がそうだったように」

この時期、、モンローは数々の男たちと浮名を流します。
イブ・モンタン、フランク・シナトラ、マーロン・ブランド、トニー・カーチス・・・
その中には、アメリカ大統領ジョン・F・ケネディもいました。
ケネディが大統領に就任して以降、二人は急接近したといわれています。
そしてそれは、公然の秘密でした。
恋愛におぼれているかに見えたモンロー・・・
友人にはこんな手紙を送っています。

「私がやりたいことはたった一つ・・・仕事だけよ」
 
1962年4月、2年ぶりの主演映画「女房は生きていた」の撮影が開始。
しかし、モンローの奇行は相変らずで、スタジオに現れないことも現場を混乱します。
カメラの前に立つことが怖くてたまらない・・・
さらに、撮影のさ中、スタッフに無断でニューヨークへ。
1962年5月19日・・・その向かった先は、ケネディ大統領の誕生日パーティーでした。
これには映画会社も激怒!!
その後も、一向に進まず、6月・・・製作中断!!
それから2か月・・・映画会社とモンローが和解し・・・
1962年8月1日、「モンローなしの映画はありえない!!」と、撮影再開。

モンローは友人に・・・

「また仕事に戻れる とってもうれしいわ」

ところが、その4日後・・・
マリリン・モンローは、突然その生涯の幕を閉じました。
1962年8月5日、マリリン・モンロー死去・・・36年の生涯でした。
自宅の寝室で受話器を握ったままでした。
片割れには、睡眠薬の空き瓶が転がっており、自殺、他殺、事故死・・・様々な憶測が流れましたが、その真相はいまも謎に包まれています。

1962年8月8日、マリリン・モンローの葬儀が行われました。
大スターにもかかわらず、関係者の意向で30人ほどで行われました。
弔辞を読んだのは、かつてニューヨークで彼女を演技指導したリー・ストラスバーグでした。

「マリリン・モンローは一つの伝説であった
 貧しい少女が夢をつかむ神話を作り上げた
 全世界にとって、永遠の女性の象徴となった
 だが、私はこの”マリリン・モンロー”を知らない
 そして、本人でさえも」


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今から400年前の戦国時代、誰よりも激しく運命に翻弄され、誰よりも強く生きようとした一人の女性がいました。
淀殿です。
織田信長の姪に生まれ、豊臣秀吉の側室となり、最後は一人の母として徳川家康に立ち向かいました。

天下人・豊臣秀吉の妻として強大な権力を握り、秀吉と共に天下に君臨した淀殿・・・
江戸時代の絵や本では、彼女は冷酷で横暴な稀代の悪女として描かれています。
大坂城を落城させ、我が子と共に死んだ愚かな母・・・??
焼け落ちる大坂城と共に、波乱の生涯を閉じた淀殿・・・その実像とは・・・??

淀殿はもともと茶々という名でした。
淀殿と呼ばれるようになったのは、天下人・豊臣秀吉の側室となってからです。
京都の南にある淀城・・・秀吉から城ひとつ与えられるほど愛され、家臣から淀殿と呼ばれた茶々。
しかし、茶々にとって秀吉は、実の両親を死に追いやった仇でした。

どうして親の仇を夫としたのでしょうか?

茶々が生れたのは、1569年、琵琶湖を望む交友の要所・北近江でした。
父はこの一帯を支配した戦国大名・浅井長政、母は織田信長の13歳年下のお市でした。
天下取りを目指す信長の意向で、お市は政略結婚として浅井長政に嫁ぎ茶々を産みました。
お市は、戦国一の美女・・・茶々もその美貌を受け継ぎ、美しい女性でした。
茶々が生れた翌年には次女・初が生れ、1573年には三女・江が生まれます。
政略結婚でしたが、仲の良かった父と母・・・家族と一緒に平穏な日々を送っていました。
しかし、運命の歯車は動き出していました。

父・長政が、越前の朝倉氏と組み、織田家を裏切って攻撃します。
長政の裏切りに怒った信長は、近江に出陣!!
姉川の戦い・・・浅井・朝倉の軍と激闘の末、蹴散らします。
長政も粘りよく戦ったものの・・・2年後、遂に城に追いつめられてしまいます。
浅井三代記によると、城が攻め落とされる直前・・・

「そなたは信長の妹なのだから、ここで死ぬことはない
 信長の元に送り返すから、生き長らえて菩提を弔ってほしい
 今、花のような姫たちを殺すのは不憫だ・・・
 理を曲げて逃げてほしい」by長政

父・長政は白と共に自刃。
5歳の茶々は、母と妹たちと共に城を脱出しました。
この時、茶々の腹違いの兄・万福丸は、秀吉の手で串刺しにされたといいます。
その後、伯父・信長の元に引き取られた茶々たち・・・
しかし、9年後・・・またもや運命の荒波が・・・!!

1582年、茶々、14歳の時に本能寺の変!!
信長は、天下統一目前で命を落とします。
信長を失った織田家で、後継者争いが始まります。
名乗りを上げたのは、有力武将の羽柴秀吉と柴田勝家。
秀吉は巧みな計略で、実質的に織田家の主導権を握ります。
お市は、対抗馬の柴田勝家の元に嫁ぎます。
秀吉を嫌っていたから・・・とも言われています。
この時、茶々14歳・・・母と二人の妹と共に、現在の福井県にある勝家の城で暮らし始めました。
しかし、ここでも平穏な生活は1年だけ・・・

1583年、15歳の時・・・賤ケ岳の戦い
秀吉を、織田家の当主と認めない勝家は、秀吉と衝突!!
戦う道を選びます。
しかし、大敗・・・!!
茶々たちの暮らす勝家の城も、秀吉の大軍に囲まれてしまいました。
その時、秀吉からの使者が・・・!!
母・お市と三姉妹は助命するという・・・。
しかし、母は申し出を拒否、そして、15歳の茶々に二人の妹を託し、三人だけで秀吉の元に行くように命じます。
この時、茶々は、母から弁財天の小さな像を託されます。
父・浅井長政と、母・お市は弁財天を篤く進行していました。
自分は浅井の血をひく娘だ・・・相当強く意識したと思われます。
そして、母・お市は、夫・勝家と共に自ら命を絶つのでした。

秀吉の保護された茶々たちは、織田の血をひく娘として多くの縁談がありました。
そして秀吉からも、茶々に使者が・・・
「私と一緒になっていただきたい」
天下一の美女・・・お市に憧れていたという秀吉。
秀吉が母に似た美女となっていた茶々に迫ってきたのでした。
秀吉は、かつて父・浅井長政を攻め、弟・万福丸を殺され・・・母も死に追いやり・・・何人も身内を滅ぼされた仇・・・
しかし、茶々はこう秀吉に返事をしたといいます。

「このように親なしになって秀吉さまを頼みにするからには、どのようにも秀吉さまの指図通りにしますが、先に妹たちの縁組を整えていただき、秀吉さまとのことはどのようにもしていただきたい」

秀吉に、妹たちにしっかりとした嫁ぎ先を探してくれるならば、側室になってもいいといったのです。
二人の妹を守っていかなければ・・・!!

三女・江・・・11歳で秀吉が仮親となり、尾張の佐治一成に嫁ぎます。
次女・初・・・京極高次に嫁ぎます。
秀吉の申し出があってから4年・・・妹たちが無事に嫁いだのを見届け、1588年、20歳の茶々は秀吉の側室となるのでした。
秀吉は52歳でした。

秀吉の側室となった事で、茶々の運命は大きく変わっていきます。
庶民から関白まで上り詰め、あらゆる望みをかなえた秀吉が、唯一叶えられなかった望みは、世継ぎでした。
茶々は側室に入ってから1年後・・・秀吉を狂喜乱舞させます。
1589年、21歳の時に待望の男の子・鶴松を産みます。
秀吉は、茶々が出産する為にわざわざ淀に城を建てさせます。
茶々が淀殿と呼ばれたのも、この頃とされます。
秀吉にはおね・・・北政所がいましたが、世継ぎを産んだことで淀殿の立場は北政所と同じ正室となりました。
鶴松出産の褒美として茶々がねだったものは・・・
それまで許されなかった父・長政の十七回忌、母・お市の七回忌の法要をお願いしています。
浅井を大切にする気持ちが、淀殿の中にはずっとあって、その一心でした。
淀殿は、戦災の為に失われていた両親の面影を、供養のために書かせています。
これが、今も残っている唯一の肖像です。

1590年、秀吉は小田原攻め・・・北条氏を降伏させます。
豊臣日に歯向かうものはなくなり、秀吉は天下統一を果たします。
しかし・・・1591年、茶々23歳の時、病弱だった鶴松が3歳で死去。。。
秀吉の落胆は激しく・・・
しかし、その2年後の1593年、25歳で男の子を出産。
秀吉は大喜び・・・その子こそ、後の当主となる秀頼です。
淀殿25歳、秀吉57歳の時の子でした。

この頃、秀吉が淀殿に送った手紙が残っています。

”ひろい(秀頼)にお乳を十分に与えなさい
 お乳が足りないときは(お乳が出るようお前が)飯を多く食べなさい”

想いが天に通じたのか、秀頼はすくすくと育っていきます。
無ず子を溺愛する秀吉に、淀殿は褒美を願い出ます。
浅井家の菩提寺の建立です。
その時建てられた寺は、今も京都に・・・

1598年、30歳の時に醍醐の花見・・・淀殿を始め、多くの側室、一族、重臣たちを率いて盛大な花見を催します。
今も伝わる醍醐の花見です。

しかし、この時、すでに秀吉は病魔に侵されていました。
その年の8月・・・秀吉は有力な大名を五大老、有能な五人の家臣を五奉行とし、秀頼を支える体制を整えます。
そして、大老の筆頭・・・徳川家康の手を握ってこう言いました。

「どうか、どうか、秀頼のことをよろしく頼む」

天下人秀吉は、62歳の生涯を閉じました。

大坂城には、淀殿や家族が残っていました。
秀吉を長年支えていた北政所は、出家して大坂城を出ていきました。
一説では、世継ぎを産んで我が物顔の淀殿を快く思わず出ていったといいます。

しかし・・・
秀吉が死んで2年後・・・大老の筆頭・徳川家康が、密かに勢力を拡大していました。
それを察知した秀吉の家臣・石田三成が反徳川の狼煙を挙げます。
1600年、関ケ原の戦いです。
この戦い、淀殿にとっては同じ豊臣の家臣である家康と三成の・・・いわば家臣同士の内紛・・・積極的にかかわりませんでした。
しかし、ある知らせが届いて否応なく、この戦いに巻き込まれることに・・・。
それは、妹・初の命が危ないという報せでした。
東軍について大津城に立てこもった京極高次とその妻・初が西軍に取り囲まれ、命が危ないというのです。
この時、淀殿が協力を仰いだのが北政所でした。
淀殿と北政所は、いがみ合っていたわけではなく、お互いの役割を理解しあっていました。
淀殿と北政所はそれぞれの使者を一緒に大津へと送り込みます。
そして二人の名で、両軍に停戦を求めたのです。
大津城は無血開城・・・淀殿は、無事に妹・初の救出に成功するのでした。

1614年11月、淀殿のいる大坂城に向かって、20万もの徳川の兵が攻め寄せました。
大坂冬の陣です。
豊臣方は、大坂城に籠城・・・難攻不落の大坂城を攻めあぐねる徳川軍・・・
戦は豊臣方の優位でした。
しかし、家康から和平を持ちかけられるとあっさり受け入れてしまいます。
どうして和平を結んだのでしょうか?

1600年、関ケ原の合戦に勝利した家康は、実質的ナンバー1となります。
しかし、淀殿はそのことをさほど深刻に考えていませんでした。
というのも、家康はじめ全員、秀頼に忠誠を誓っていたからです。
その間、家康は着々と豊臣の力を削いでいきます。
家康は秀吉の代行として、領地を淀殿に相談せずに諸大名に分け与えます。
そのため、200石以上あった豊臣の領地は半分以下になってしまいました。
さらに家康は、京都南にある伏見城に居を構え、それまで大坂城にいた多くの大名を伏見へ集めてしまいます。
秀頼の周りから大名がいなくなっていく・・・流石の淀殿も、不信感が増していきます。

淀殿の医師の診察記録・・・家康が伏見城に移って2か月後のもの・・・
不食、めまい・・・淀殿は、気がめいり、食欲がなくなりめまいに苦しんでいました。
この時、淀殿33歳・・・。
その心の支えは、大坂城と秀頼でした。
家康は、あくまで豊臣家の家臣・・・!!
秀頼が成人すれば、豊臣家に天下は戻るはず・・・!!

1603年、家康は朝廷から武家のTOPである征夷大将軍に任じられます。
同じ年、家康の孫・千姫が、秀頼に輿入れ。
そのため、淀殿は家康の忠誠を信じて疑わなかったといいます。
しかし2年後・・・愕然とする出来事が・・・!!
1605年、家康は将軍職を嫡男・秀忠に譲ります。
家康亡き後、徳川家が代々将軍となって政権を担っていくことを全国に知らしめたも同然でした。
淀殿も秀頼が成人するまでのつなぎであると思っていたのに・・・!!
徳川家が将軍職を世襲するとなると、諸大名の大阪場慣れが始まる・・・!!

1614年、淀殿と家康が対立する決定的な事件が・・・!!
淀殿の肝入りで改築工事がされていた方広寺・・・鐘楼に納められる鐘には”国家安康”の文字が刻まれていました。
これを見た家康は、自分の名前を分断して呪う行為だとして猛反発します。
淀殿にとっては言いがかりにしか思えない行為・・・淀殿は、家康の誤解を解くために、最も信頼する家臣を使者に出します。片桐且元です。
且元の父は、長政の家臣でした。淀殿にとって且元は二代にわたって自分たちに仕えてくれる数少ない身内と言える存在でした。
この時、淀殿か且元に送った手紙には・・・

「私と家康の間柄を、親密なものに戻せるかどうかは、すべてあなたにかかっています。
 私はしっかりとした親を持っておらず、相談する相手もいないので、あなただけが頼りです。」

しかし、徳川方との交渉が難航・・・且元は一か月近くも戻ってきませんでした。
戻ってきた且元は、事態を治めるために家康が出した条件を淀殿に伝えます。

秀頼が大坂城を出て国替えをする・・・!!
または、淀殿を人質として徳川へ差し出す!!

豊臣家を一大名に落とす厳しい条件でした。
淀殿にとって飲めない理不尽な要求・・・
このため、使者を務めた且元にも疑惑の目が向けられます。
ことごとく対立していた家臣たちは、この機に乗じて且元を暗殺する計画も・・・!!
且元も、危機を察して病気を理由に屋敷に引きこもってしまいました。

しかし、淀殿は且元を信頼していました。

「決して親子ともどもあなたをおざなりにはしていません
 長年の温情をどうして忘れることができましょうか
 あなたをひたすら頼みにしています」

しかし、手紙を送った甲斐もなく、且元は淀殿の元を去ってしまいました。

一方家康は、豊臣側から正式な答えがないことで大阪城攻めを決断・・・
諸大名を集め進軍します。

1614年11月、大坂冬の陣・・・
豊臣方は、浪人などを集め、10万の兵で大坂城に立てこもります。
取り囲む徳川方は、その倍の20万です。
難攻不落の大坂城・・・その理由は、城の三方向を外堀、内堀、さらに河出囲んでいる構造にありました。
徳川方も、その方向からは攻めず、堀のない南の方から攻めていました。
しかし、そこには真田氏の最強の砦・真田丸が・・・!!
真田丸の戦いでは、徳川は2万の戦死者を出し惨敗・・・こうした戦いで、豊臣方が優勢でした。
負け戦が長引けば、徳川方に離反者が出るかもしれない・・・。
家康は、和平を申し込みます。
豊臣方にしてみれば、応じる必要はない・・・
しかし、淀殿は徳川方とあっさりと和平を結んでしまいます。
しかも、大坂城の外堀を埋めるという徳川に都合のいい条件を、受け入れたのです。

和平を結んでわずか半年後・・・大坂夏の陣・・・!!
家康が豊臣方を攻め、大坂城は落城し、豊臣方は壊滅・・・!!
女性である淀殿は、城を落ち延びる選択もありました。
しかし、淀殿は、息子秀頼と共に、大坂城でその命を落とすのです。

どうして大坂城と運命を共にしたのか・・・??
大坂冬の陣の後、家康はあっという間に外堀を埋めました。
しかし、条件にはなかった内堀まで埋めてしまったのです。
堀を失くした大坂城は、最早どこからでも攻められるので、防御力の大半が削がれてしまいました。
戦が始まる前、淀殿は家康から”徳川の家臣としてなら豊臣家を存続させる”という屈辱的なことを言われます。
この時、仲介役となったのが、淀殿の妹・初でした。
初は、かつて関ケ原合戦の時に、淀殿に命を救われていました。
今度は自分が・・・と、初が淀殿を説得します。
降伏の条件を飲むように説得し続けます。
しかし、初の言葉に耳を貸さず、家康の家臣となることを拒否。
徳川方の大坂城総攻撃が始まります。
戦いが始まってなお、初は説得し続けますが、城を脱出せざるを得なくなります。
この頃、大阪城にいたのは、戦闘経験の乏しい家臣だけでした。
徳川方が豊臣方を圧倒・・・大坂城は落城寸前に追いつめられます。

しかし、淀殿には最後の切り札・・・千姫が残っていました。
千姫は家康に対しての人質・・・千姫が逃げ出さないよう、淀殿は千姫の袖を捕まえていました。
しかし、千姫は一瞬のスキを突いて逃亡・・・
徳川方の手引きで大坂城を脱出したといいます。

意気消沈する淀殿・・・そんな中、前線からは秀頼出陣の要請が・・・
前線で指揮をあげてほしいと何度も言われるも、淀殿はそれを許しませんでした。
やがて豊臣方は総崩れとなり、大坂城は炎に包まれました。
5月8日、秀頼と淀殿は大坂城で自害・・・秀頼23歳、淀殿47歳でした。
淀殿は、大坂城と共に滅びる道を選びました。
しかし、母から受け継いだ弁財天は無事でした。
落城前に徳川に使者を送り、三女・江に弁財天を託していたのです。
今は、父母を弔うため、淀殿が立てた菩提寺に今も祀られています。

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今からおよそ420年前の9月15日、日本中を巻き込んだ天下分け目の大決戦がありました。
関ケ原の戦いです。
その裏には、武将たちの数々の駆け引き、裏切り、決断がありました。
両軍合わせて10万という大スケールの戦い・・・
3人の人物を通してその実像に迫ります。

岐阜県の関ケ原・・・
東軍を率いる徳川家康、西軍を率いる石田三成・・・全国の大名が東西に分かれ、日本を二分する戦いでした。
勝った家康は、その後260年続く江戸幕府を開いて歴史を変えました。
しかし、その勝利は紙一重でした。

①もしも石田三成が大垣城で戦っていたら・・・??

関ケ原から東へ12キロの大垣市・・・西軍を率いた石田三成は、合戦の前日までここにいました。
水運に恵まれ。古くから栄えていた大垣・・・松尾芭蕉が「奥の細道」の旅を終えた地です。
川に囲まれた地形で、それが三成が大垣に拠点を置いた大きな理由です。

1560年、石田三成は現在の滋賀県長浜市で下級武士の子として生まれました。
三成は次男で家督を継がないため、幼いころから寺に預けられました。
勉強熱心だった三成は、15歳で豊臣秀吉と運命的な出会いをします。
鷹狩の途中で寺により、茶を所望した秀吉・・・
三成は、わざとぬるい茶を出しました。
喉の乾いていた秀吉が、一気に飲めるように考えたのです。
しかし、二杯目、三杯目になると、温度は熱く、量は少なめにしました。
この心遣いに感心した秀吉は、寺から家来として取り立てるのです。

算術も得意だった光秀は、領国経営にも力を発揮します。
秀吉が天下統一を果たすころには、全幅の信頼を得ました。
太閤検地、刀狩りの事業、朝鮮出兵では総奉行を務め、物資の補給に力を発揮しました。
ある大名は、三成のその仕事ぶりを・・・
「三成は豊臣政権の中心人物である」by毛利輝元
しかし、順調だった三成の人生に逆風が吹き荒れます。
1598年、主君・豊臣秀吉が死去
秀吉の意志を継ぎ、豊臣政権を発展させようと思っていた三成・・・しかし、ある武将が天下取りへの野心を露にしました。
徳川家康です。
「天地の格は定まりたることなきものなり」
天下は強い者の持ち回りというのが持論の家康・・・
有力大名と政略結婚を画策し、勢力拡大を図ります。
しかし、これは秀吉が生前禁じていた行為・・・
三成は、秀吉の禁止を破る家康に、強い警戒心を持つようになっていきます。
しかし、1599年3月、三成は思わぬ事件で足を救われます。
朝鮮出兵の温床に不満を持っていた武将たちが、三成を襲撃します。
恩賞を決めたのは秀吉でしたが、伝えたのが三成だったので、不満が三成への反発となったのです。
双方の仲介役となった家康は、この機に乗じて三成を政権中枢から外そうとします。

「秀頼公のため、世情を安定させる」by家康

三成は、混乱を招いた責任をとって、自らの居城である近江の佐和山城へ蟄居します。
佐和山城からほど近くの龍潭寺は、三成ゆかりの寺です。
ここに、三成の人柄を表す貴重なものが残されています。
三成の居城・佐和山城で使われていた板戸です。

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表は桜舞で非常に華やかですが、内側は質素に作られています。
表はお客が通るのでそれなりの絵ですが、自分たちの部屋側は、質素だったのです。

三成は蟄居している間も、大坂城の家康の動向を探っていました。
三成を追い出し、実権を握った家康は、独断で大名に領地を与えるなど、政権を意のままに操ろうとしました。
しかし、蟄居のみでは、三成はどうする事もできません。

ところが、1600年6月・・・三成に千載一遇のチャンスが・・・!!
会津の有力大名・上杉景勝に謀反の疑いありと、会津討伐のため家康は大坂城を離れます。
この時三成は、同志と共に全国の大名に書状「内府ちがひの条々」を送ります。
13か条にわたって、家康の罪を糾弾したのです。
三成はさらに、中国地方の大大名・毛利輝元を総大将にして家康討伐の軍を組織・・・9万を超える兵数を揃え西軍となります。

三成は、関東から引き返してくる家康を迎え撃つために、大坂から岐阜方面に進軍していきます。
一方、三成挙兵の知らせを聞いた家康は、会津討伐を中止し、急遽軍議を開いて諸将に自分につくように約束を取り付けます。
その数9万・・・家康率いる東軍が誕生しました。
三成は、岐阜城と大垣城を結ぶラインを防衛線としました。
そして、関ケ原の戦いの1か月前の8月11日・・・西軍は、大垣城に入城します。

三成はどうして大垣城を拠点としたのでしょうか?
家康が陣を置いたのが大垣城のおよそ4キロ先・・・岡山という小高い丘でした。
三成が西軍の拠点を大垣城としたのは、水の都ならではの守りの堅さがありました。
揖斐川、杭瀬川、水門川に挟まれている地形を利用して、城下町に川から水を引き込んで、何十にも堀を作ることができましいた。
守りに特化した城でした。
大垣城を拠点に、決戦の準備をする石田三成・・・
しかし、9月14日思わぬ知らせが・・・
東軍の陣地・岡山に、徳川家康が着陣したのです。
これは、西軍の予想よりもはるかに速い到着でした。
動揺が走ります。
そこで三成の重臣・島左近が、奇襲作戦を進言します。
「今、東軍をたたけば、味方の動揺を抑え、士気を高めることができる・・・!!」と。
島左近は、隊を囮部隊と伏兵部隊に分ける作戦をとりました。
囮部隊が、両軍の境にある杭瀬川を越えて、東軍陣地に入り敵を挑発・・・わざと敗走します。
追い打ちをかけようと川を渡ってきた東軍を、伏兵部隊が狙い、一網打尽にしました。
この手痛い敗走で、家康は大垣で戦えば不利だということを悟りました。
逆に三成は、この戦いで大きく士気を高めます。
勢いに乗る三成は、ここで一気に東軍をたたく秘策を用意していました。
三成が用意した必勝の策とは・・・??

南宮山・・・南宮山は、西軍・毛利秀元の陣がありました。
ここから大垣方面が一望できます。
毛利のいた南宮山は、三成が大垣城に、徳川が岡山にいれば家康の陣を狙える要の位置となります。
さらに城跡には、大垣城決戦を裏付けるものが・・・!!
南宮山には切岸が作られています。
切岸とは、敵が登れないように人工的に作った急斜面のことで、敵が攻めてこれないようになっていました。
もう一つ・・・竪堀も作られています。
竪堀は、山の斜面を横切れないように造られた堀のことです。
関ケ原方面には何もなく・・・
三成は、どんな戦術を考えていたのでしょうか?

後詰戦法です。
東軍が大垣城を囲んで攻撃しようと展開したタイミングで、毛利が南宮山をおりて背後から攻撃し、挟み撃ちにすること・・・三成の秘策は、南宮山からの後詰戦法だったと考えられます。
こうした山城を作り、1か月にわたって準備してきた西軍・・・しかし、大垣決戦は幻となってしまいます。

9月14日夜・・・
石田三成の元に思わぬ知らせが・・・家康が大垣城を攻めずに、西へ向かい佐和山城を、大坂城を攻めるというものでした。
これを聞いた三成は、急遽陣を移すことに・・・陣を敷くのは関ケ原!!
史実では、西軍は守備隊だけを大垣城に残し、関ケ原に異動。
決戦は関ケ原で行われました。

①もしも石田三成が大垣城で戦っていたら・・・??

西軍は大垣城、東軍は岡山・・・
そして南宮山には後詰の為に毛利勢が控えています。
徳川家康にとっては攻めるのは簡単ではない・・・!!
川と堀がはりめぐらされ、攻略の難しい大垣城・・・家康ならその豊富な水を浸かって、水攻めに・・・!!
大垣は、川の堤防より低い土地・・・
度々水害に見舞われています。
明治29年には、7月と9月に集中豪雨で各河川で堤防が決壊、大洪水に見舞われています。
岐阜市から大垣市まで船で往来できるほど浸水したといいます。
ogaki
















水害当時も水に浮かぶ大垣城の写真も・・・
豊富な水は、大垣城の強さでもあり、弱点でもありました。
西軍は後詰!!
毛利が一気に南宮山をおりてきます。
大垣城に近づいてきて・・・西軍も大垣城から出てきて・・・!!
東軍に属している人たちは、豊臣恩顧の大名が多く、家康に対して忠誠心はなく・・・寝返るものも出るかも・・・??
しかし、人望がなく・・・西軍の勝利・・・??


②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

関ケ原の戦いで、その名を後世に残した小早川秀秋・・・
武将とは思えないほどの優しげな表情です。
この時、19歳!!
東軍7万4000、西軍8万4000が激突した関ケ原の戦い、ここに参加した小早川秀秋は、最年少の武将でした。
しかし、その手には、巨大な兵力を握っており、勝敗を左右する絶好の位置に陣取っていました。
そのため秀秋は、両陣営の裏工作のターゲットとされたのです。

家康に味方し、地位と領地を得るチャンスを掴むのか??
三成に味方し、豊臣家での出世を狙いのか・・・??
人生最大の決断を19歳で迎えてしまいました。
小早川秀秋に付きまとう裏切り者のイメージ・・・
それは、関ケ原でのどんな行動からだったのでしょうか?

9月15日午前6時・・・霧が立ち込める中、大垣から移動した両軍は、布陣を終え、戦いの時を待っていました。
霧のはれた午前8時、井伊直正の鉄砲隊が、突然発砲し、戦いの火ぶたが切られました。
西軍の小早川秀秋は、関ケ原すべての武将の中でも最大の兵力1万1000を持っていました。
そして、東西両軍を見下ろす松尾山に陣取っていました。
西軍の指揮を執る三成は、のろしを上げて、秀秋に攻撃を合図します。
しかし、秀秋は全く反応せず・・・
正午過ぎ・・・秀秋は満を持して動き出します。
攻め込んだ相手は、大谷吉継・・・なんと、西軍の有力武将でした。
小早川秀秋の裏切りです。
この情報は、たちまち戦場を駆け巡り、東軍に寝返るものが続々と現れます。
こうして、勝敗の行方を決定づけてしまいました。

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

三成は、秀頼の出陣に当たって、関ケ原の人々に陣取りの案内、陣地作成の協力を依頼した書状を残っています。
普通は、家を燃やしたり、青田刈りをしたりしますが、事前に手紙を出しているところに、三成の思いやりが出ています。
関ケ原の戦いは、地元の農民にも一大事でした。
大切なコメを作る水田が戦場となるのです。
おまけに米の収穫時期と重なっていました。
三成からのお達しを受けた農民たちは、例年より米を早く収穫。
そして、本体が移動してくると陣地設営に協力します。
戦いが始まってからは、山中に逃げ込んで、戦いを見物していたといいます。
農民たちが見た戦いとは・・・??

三成が陣を敷いた笹尾山からは、関ケ原が一望できます。
味方はもちろん、敵の動きも手に取るようにわかります。
しかし、笹尾山から家康の桃配山は見えません。
家康は、最前線から遠いここで戦況を見守っていたのです。
しかし、戦いが始まって3時間後・・・一進一退の戦いにしびれを切らした家康は、遂に本陣を前線に移していきます。
桃配山から前進してきた家康・・・三成の笹尾山まで800mのところに陣取りました。
家康が見える・・・!!
家康を攻める絶好のチャンスが到来しました。
三成は、松尾山の秀秋に狼煙の合図を送るものの、一向に動きません。
大鵬も用意していた三成・・・優位だったのは西軍でした。
カギを握っているのは、松尾山に陣取っている小早川秀秋・・・!!

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??

小早川秀秋は、1582年、近江に生れます。
父親の名は、木下定家、叔母はおねでした。
そのため、幼いころに、子供の頃に子供のいない秀吉夫妻の養子となりました。
秀秋は、秀吉の世継ぎとして育てられ、おねからも、深い愛情をもって育てられます。
恵まれた環境の中、心優しく懸命な子に育った秀秋・・・

「貧しい武士や家がなくて困っている人を救いたい」と思っていました。

しかし、1593年、状況は一変します。
秀吉と淀殿の間に、実子・秀頼が生れたのです。
このため、秀秋が豊臣家の世継ぎとなることはなくなりました。
それどころか、秀頼の対抗馬とならないように、小早川家の養子に出されてしまいました。
その翌年、衝撃的な事件が起こります。
秀秋と同じく秀吉家の養子だった秀次が、謀反の罪をかけられ・・・死に追いやられてしまいました。
明日は我が身か・・・??酒におぼれ、手が付けられないようになります。
1598年に秀吉が亡くなり、秀秋の不安は消えました。
しかし、次は家康と光秀の戦いに巻き込まれてしまうのです。
有力武将でありながら、まだ十代の秀秋は、格好のターゲットでした。

石田三成の誘い
「秀頼殿が、15歳になるまで関白職をお願いしたい」
家康の調略
「我が方につくならば、上方の二国を約束する」
黒田長政からは秀秋の弱みを突く脅し文句が・・・
「西軍で戦えば、義母として愛育してくれた北政所様に累(災い)が及ぶことは必至」
東西両陣営から誘いの言葉をかけられた秀秋・・・
どのような思いでこの戦いに参加していたのでしょうか?

松尾山の陣は関ケ原の陣の中でもかなりの高所です。
そこからは、関ケ原が・・・三成の陣(松尾山)、家康の陣も見渡すことができます。

matuo












郭が東西にのびていて、立派なお城です。
松尾山の巨大な山城に陣取った小早川秀秋・・・両軍が促すも、動かず・・・!!
しびれを切らした家康が、小早川の陣地に向かって発砲!!
東軍として、戦いに参加するように促したともいわれています。
秀秋はどんな思いで戦いを見つめていたのでしょうか・・・??

戦いが始まって4時間・・・それまで傍観を続けていた小早川秀秋がついに動き出しました。
この時、松尾山を駆け下りたルートは、西軍の大谷吉継の後方を突くものでした。
大谷吉継は、病を押して戦う西軍の精神的支柱ともいえる武将!!
兵力600の精鋭部隊でした。
しかし、秀秋率いる1万1000の大軍勢、さらにその攻撃を目の当たりにした付近の4武将たちが、東軍に寝返ります。
さすがの大谷軍も、抑えきれなくなり壊滅・・・!!
大谷吉継はその場で自害しました。
大谷軍の敗北により、戦況は一転、東軍は勢いづき宇喜田秀家を追いこんでいきます。
側面を突かれた西軍は一気に総崩れとなり、三成は山中に逃亡・・・
まさに、小早川秀秋の行動が勝敗を決した決断だったのです。
午後2時・・・わずか半日で天下分け目の関ケ原は決着したのです。
これが史実・・・

②もしも、小早川秀秋が裏切らなかったら・・・??
西軍は山を背後に有利な状況・・・東軍を囲い込む陣形でした。
東軍が攻めて対峙する西軍・・・三成から狼煙があがった時、小早川秀秋が側面から東軍を突きます。
ここで一気に西軍に・・・
大垣城の後詰にいた西軍・・・南宮山の毛利勢が・・・中山道から、伊勢街道から家康軍を挟み、囲まれ・・・西軍の圧勝でしょう。

関ケ原合戦図屏風・・・
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有名人が117名描かれています。
しかし、その中で姿が絵が賀れていない人物が3人います。
その一人は、この戦いに勝利し江戸幕府を開いた徳川家康、二人目は、最も家康に叛逆した石田三成、そしてあと一人は・・・小早川秀秋です。
小早川秀秋のおかげで東軍は勝てたはずなのに、その秀秋の姿がないのです。
裏切り者として、評価が低すぎたので描かれなかった可能性が高いと思われます。
戦いに敗れ、山中に逃げた石田三成は、やがて捕らえられます。
そして京都市中引き回しの上・・・斬首!!
居城・佐和山城も火を放たれ、焼け落ちました。
この時、佐和山攻めの先陣を切ったのが、小早川秀秋でした。
合戦の二日後、家康に命じられてのことでした。
それから1週間後、秀秋は家康から手紙を受け取ります。

”今回の関ケ原でのご忠節にとても感悦しています
 以前からの約束は、間違いなく実現させます”
   
その言葉通り、秀秋は二国を与えられ、備前岡山城主となりました。
しかし、秀秋は関ケ原の戦いの後、以前にもまして酒浸りとなり・・・家臣を訳もなく切りつけるなど、肉体的にも精神的にも尋常な状況ではなかったといいます。
1602年、小早川秀秋死去・・・享年21歳・・・関ケ原の戦いからわずか2年後のことでした。


③もしも、黒田官兵衛が戦い続けていたら・・・??
天下分け目の戦い関ケ原・・・日本中を巻き込んだこの戦に、黒田官兵衛の姿はありませんでした。
この時官兵衛は、関ケ原から遠く離れた九州にいました。
九州の関ケ原という大合戦に身を投じていたのです。
関ケ原と同時に、九州で戦い始めた官兵衛は、その胸中に野心を秘めていたのでしょうか?

大分県中津市・・・黒田官兵衛は、関ケ原の戦いの13年前からこの土地に来て、城を築き始めていました。
九州の関ケ原では、中津を中心に活動した官兵衛・・・

1546年、黒田官兵衛は播磨国、姫路で生を受けました。
当時の播磨は小大名がひしめき鎬を削る時代でした。
1575年、29歳の官兵衛は、破竹の勢いで領土を拡大する織田信長に目通りしました。
その情報収集力、知略で、官兵衛は信長の部下・秀吉のもとで働き始めました。
この頃、秀吉から官兵衛に送られた手紙には・・・

”我が弟 同然に 信頼している”

と書かれています。
官兵衛は、秀吉から厚く信頼され、軍師として活躍していきます。
1582年、官兵衛に転機が訪れます。
それは、中国地方の難敵・毛利との戦いでした。
明智光秀の謀反により信長が落命・・・
それを聞いて、秀吉は呆然自失、泣き崩れます。
しかし、官兵衛は

”秀吉様、これはあなたが天下を取る好機となります”

官兵衛は、すぐに毛利との和睦をまとめ、秀吉は明智美津冷え討伐のため、200キロの道程を引き返します。
世に言う中国大返しです。
これにより秀吉は、光秀の討伐に成功・・・信長の後継者として全国を平定していきます。
1590年、秀吉は天下統一を成し遂げます。
そのそばには、いつも軍師官兵衛の活躍がありました。
しかし、官兵衛は、優秀されるがあまり秀吉に警戒されます。

ある時、秀吉は、自分の次に天下を取るのは誰かと、家臣たちに聞きました。
家臣たちは口々に徳川家康や前田利家など有力大名の名を口にします。
しかし、秀吉は・・・
”次は官兵衛が天下を取るだろう
 わしがはかりごとを迷っていると、官兵衛は的確な判断を下してくれる
 今の世に恐ろしいのは徳川と官兵衛だ
 しかし、徳川は温和な人である
 官兵衛はどうも心を許しがたい人間だ”
と言ったといいます。

官兵衛は、42歳の時に九州豊前に移り住みます。
秀吉に警戒心を抱かせないために、息子・長政に家督を譲り、自らは隠居しました。
そして秀吉がこの世を去り・・・次期政権は・・・関ケ原の戦いが始まります。
時を同じくして官兵衛も九州で挙兵!!
東軍の武将として西軍の領地を攻めたてます。
この時官兵衛は・・・
”関ケ原が長引けば、中国地方にも攻め入っていた”
と残しています。
官兵衛が居城としたのは、中津城・・・ここで、官兵衛の野心を垣間見えることができるのでしょうか?

官兵衛の石垣は、野面積みでも少し変わっています。
当時の石は自然石を使っていますが・・・官兵衛の石垣は、四角い石です。
川の上流5キロほどのところに7世紀の山城の跡があります。
そこの山城の石を川で運んで再利用したものです。

どうして官兵衛は、中津に城を築いたのでしょうか?
官兵衛が豊前に来た当初は、支配の中心となる城は西に在りました。
しかし、そこでは統治がしにくい・・・と、川と川の交わる交通の要衝・中津を拠点に置いたのです。
船が寄り付きやすいこと、そして海を使って情報を素早く得ていました。
当時は上方が中心なので、瀬戸内海に二カ所拠点を置いて、早舟でリレー形式で情報を掴んでいました。
その速さは、3日だったといいます。
九州での関ケ原に備えたのだといわれています。

中津には、京町、博多町と、現在でも官兵衛が作った町の名前が残っています。
中には官兵衛の故郷・・・姫路町もあります。
この姫路町は、中津城を作るときに姫路から連れてきた大工や石工を住まわせた場所でした。
様々な工夫を凝らして町を発展させ、莫大な富を築き、戦いの軍資金とします。
九州の関ケ原の際にも、その備蓄した金銀を出して、兵を集める・・・その資金で暴れるのです。

関ケ原の戦いが近づくと、息子・長政に大半の軍勢をつけて、家康の東軍に送ります。
自らは城の金庫を開け払い、身分の卑賤を問わず兵を集め、挙兵!!
9月13日、九州の関ケ原の火ぶたが切られました。
官兵衛は、かつて秀吉を天下人に押し上げた策略を駆使し、果敢に戦を展開し、西軍を破っていきます。
そんな中、家康にこんなことを願い出ています。

”清正と自分で切り取った九州の領土を拝領したい”

制圧した九州の領土を自分のものにしたいというのです。
隠居と言っても官兵衛はまだまだ野心に燃えていました。
官兵衛の野心は九州にはとどまらず・・・
山口県岩国市の吉川資料館には官兵衛の手紙が残っています。
10月4日に官兵衛が吉川広家に送ったその手紙の中には・・・
関ケ原の戦いが長引いていれば、中国地方に進軍して一花咲かせようと思っていたけれど、家康が早く戦いを終えてしまったので、戦いに姿を見せられなかったのが残念だと書かれています。

しかし、肝心の関ケ原の戦いは、官兵衛の予想に反してわずか半日で終わってしまいました。
それでも、官兵衛は戦をやめることなく、九州を制圧し続けます。
11月12日、九州の最大勢力・島津を攻める目前の官兵衛に、家康から停戦命令が出されます。
関ケ原合戦から2か月・・・官兵衛の戦いはついに終わりを告げるのでした。

③もしも、黒田官兵衛が戦い続けていたら・・・??
関ケ原の戦い当時、ほとんどの武将が戦いに参加していて留守でした。
九州の諸国は手薄・・・!!
関ケ原が長引いていれば、九州の武将たちは領国が危なくなると戻ってきます。
もともと加藤清正は東軍なので、戦うのは小早川秀秋、鍋島直茂、立花宗茂、小西行長・・・。
島津義弘は1500の兵しか連れて行っておらず、ほとんどの軍勢は島津義久のもと本国に温存されていました。
島津と戦うことは避けたい・・・??
周りを東軍に引き込んで、島津をけん制・・・戦わずして勝てるか・・・??
そして、吉川広家への手紙通りに中国地方に攻め入ります。
吉川を調略し、毛利へ・・・
西軍の総大将だった毛利輝元が東軍に寝返る・・・??
官兵衛は進軍を続け、大坂城に入って戦は終了
黒田官兵衛は、天下人ではなく、秀頼を擁立しナンバー2となったのでは・・・??
結果、家康の行動を止めることができたのでは・・・??

人生最後の戦いを終えた官兵衛・・・その後、息子・長政と共に福岡に移り余生を送ります。
ここでも官兵衛は、福岡城の築城に携わり、現在にも続く100万都市福岡の礎を築いていきました。

官兵衛は、晩年をどのようにして過ごしていたのでしょうか?
太宰府天満宮には官兵衛が奉納した歌が残っています。
「夢想之連歌」は、連歌の最初の句を官兵衛が夢の中で授かり詠んだものです。
そこには、
”松梅や 末長かれと 緑たつ
               山より続く 里は福岡”
と書かれています。
福岡が栄えるようにとの歌です。

この連歌には、黒田家の面々が出てきます。
家族で連歌を詠んでいるのは珍しく、」官兵衛は晩年は家族水入らずで送ったといいます。
戦乱の世の最後に、黒田家の安泰を想い、野心も満たされ、最期を迎えたのです。
福岡で穏やかな余生を過ごした官兵衛は、1604年、59歳でこの世を去りました。
官兵衛の跡を継いだ黒田長政は、こんな言葉を残しています。

「官兵衛が大坂方と通じれば、清正は喜んで味方になるはずだ
 九州の大名が結束して、官兵衛と清正が上れば、中国地方の軍勢も加わって十万騎になる
 これだけの大軍が、家康一人と戦うことは、卵に大きな石を投げ入れるようなものだ」

長政も同じように、関ケ原の戦いのシミュレーションを考えていたのです。

少しの違いで日本は変わったのかもしれない・・・

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