日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: 追跡者 ザ・プロファイラー

愛と欲望が渦巻く女の園・・・大奥・・・江戸城の中で営まれた煌びやかでミステリアスな暮らしぶりは、今も私たちの心を揺さぶります。
その基礎を築いたのが、春日局です。

将軍の世継ぎを作るためにもうけられた大奥・・・
最盛期には、3000人もの女性たちが暮らした絢爛豪華な世界です。
その礎を築き、最高権力者として君臨した春日局・・・本名はお福。
お福の生涯は、苦悩と困難の連続でした。

1579年、お福は丹波国・・・兵庫県丹波市に誕生します。
高台に今も残る城の石垣・・・この城の主が、お福の父・斎藤利三でした。
斎藤利三は武芸に優れ、家族を大切にした人物として知られています。
1万石という領地で裕福なお姫様として育ったお福・・・
しかし、25歳の時、徳川家の乳母として仕えることとなります。

1582年、4歳の時・・・突如として幸せな暮らしを壊す大事件が起こります。
明智光秀が、主君・織田信長を裏切った本能寺の変です。
お福の父・斎藤利三は、明智光秀の重臣でした。
その後、光秀は信長の家臣・羽柴秀吉に敗れ、父・利三も謀反人として捕まります。

斎藤利三を生け捕り、京の都中を引き回し、首を刎ねた・・・!!
明智の首と共に晒しものにした・・・!!

この時お福は4歳・・・一説には、母に連れられ、父の最期を目にしたともいわれています。
謀反人の娘となったお福・・・それまでの生活が一変します。
一家は亡き父の友人を頼りにする流浪の身・・・
食べる物も満足にない粗末な暮らし・・・なんとか生き長らえたことが当時の記録に残っています。
極貧・・・謀反人の娘としてどん底の生活をしていました。

1588年、10歳の時に親戚にあたる公家の家に引き取られます。
お福はこの家で、書道や歌道を学びます。
この経験が後に役立つことになります。
17歳になったお福は、母の遠縁にあたる武士と結婚。
相手は、稲葉正成・・・中国地方の有力大名・小早川秀秋に仕える武将でした。
お福は子宝にも恵まれ・・・しかし、幸せは長くは続きませんでした。
夫・正成が、諸君とそりが合わずに解雇・・・浪人となります。
一家は夫の故郷・美濃谷口に移り住みます。
夫の収入はなく、自給自足のどん底の暮らしだったといいます。
お福が懸命に働いて家計を支えているにもかかわらず、夫は妾を囲っていたともいわれています。
そんな暮らしを続け、3人目の子どもが生まれた時・・・思わぬ話が耳に入ります。
二代将軍に子供が生まれるので、乳母を募集するという・・・
お福はこの話に飛びつきます。
極貧の生活から脱出する為に・・・自分が主として子供たちを育てていくためにも、何か職を・・・!!

乳母の募集を命じたのは、天下人・徳川家康でした。
その頃、京都の伏見城にいました。
お福は美濃からわざわざ京に上り、面接を受けました。
応募者は、20人以上・・・
決め手は家康・・・家康はお福の父・利三を高く評価していました。
立派な武将で、力量が高い・・・戦略的にうまい・・・!!

「お福は斎藤利三の娘なので、優れた人物のはずだ」

家康にとっても乳母として最適なお福だったのです。

お福は将軍家の乳母に見事合格!!
夫と離縁し、乳飲み子と次男を母に預け・・・長男一人を連れて江戸に向かいます。
お福はこの時、25歳・・・新しい人生の始まりでした。

埼玉県川越市の喜多院・・・ここには、三代将軍家光が生れた部屋があります。
江戸城から移築されたものです。
家光の部屋につながる春日局化粧の間・・・お福が使っていたとされる部屋があります。
家光の幼名は竹千代・・・内気で病弱だったものの、お福と二人三脚で将軍の跡目争いを勝ち抜いていきます。
今も同じ屋根の下にある二つの部屋は、二人の強い絆を表しているのです。

どうしてお福は竹千代を将軍にすることができたのでしょうか?

お福が25歳の時に乳母としての生活が始まりました。
赤ん坊に乳をあげるだけでなく、付きっ切りで世話をして育てます。赤ん坊の名は竹千代・・・次期将軍です。
竹千代の父は、二代将軍秀忠、そして母は信長の姪・お江でした。
3歳になると、竹千代には厳しい教育係がつけられ、武道や学問を徹底的に教え込まれました。
そんな日々を送る竹千代が、ヒマを見て逃げるように通ったのがお福の部屋でした。
厳しい教育環境・・・選りすぐりの将軍教育をされていた竹千代・・・息苦しい教育環境にあったので、家光も気がめいりことが多く・・・一息付けるのがお福の家だったのです。

しかし、竹千代には将軍になるには不安な点が二つありました。
①内気でおとなしい性格
将軍として全国の大名に号令するにはあまり相応しくない・・・
そこで、役に立ったのが、お福が故郷から連れてきた長男・正勝・・・幼いころから竹千代の世話係・小姓にしていました。
何でも話せる年上の相談相手が、内気な性格を徐々に変えていきます。
②病弱
竹千代は体が弱く、病気がちでした。
食べ物の好き嫌いも激しく、食も細かったのです。
そんな竹千代が工夫を凝らしたのが食事でした。
七色飯・・・白米の外に、茶飯、粟飯、小豆飯、麦飯・・・七色用意しました。
見た目を楽しくしてたくさん食べてもらおうとしたものです。
竹千代に豪華な食事を出す一方、お福は極めて質素でした。
それを気にした竹千代が、自分の膳から分けたこともあったといいます。

お福の愛情ですくすくと育つ竹千代。

しかし、そんな二人に暗雲が・・・
竹千代が7歳の時に跡継ぎ争いにライバルが現れます。
2歳下の弟・国松です。
内気な兄・竹千代とは違い、活発で聡明な国松・・・。
お江は、竹千代よりも国松に愛情を注いでいました。

一説にはこの頃江戸城内ではある噂が立つこととなります。

「お江が竹千代より国松をかわいがるのはお福のせいである」と。

原因は、お福とお江の浅からぬ因縁でした。
お江の伯父は信長・・・その信長を殺した光秀の家臣がお福の父・斎藤利三・・・
更に家臣の間には・・・
「将軍様は竹千代さまでなく、国松さまを嫡男(跡継ぎ)になされるかもしれない・・・」
家臣たちは、国松に貢物を持参する一方で、竹千代にはほとんど持ってこなかったといいます。

江戸時代も始まったばかりのこの頃、優秀さが将軍にはどうしても必要でした。
優秀なように見える国松が、兄を差し置いて跡継ぎになるということもあり得たのです。
お福はそれを一番心配していました。
実の母の冷たい仕打ちに追いつめられていく竹千代・・・
そして・・・竹千代・・・自殺未遂・・・。
しかし、その寸前でお福が見つけ、思いとどまらせたといいます。
思い余ったお福は、将軍秀忠の側近に話を持ちかけます。

「そろそろ竹千代君が世継ぎであるという正式なお披露目があっても良い時期なのに、いまだなんのお沙汰もありません
 一体どうなっているのでしょうか」

秀忠の返事は一言・・・「そのうち決めることにする」

このままでは竹千代の将来が危ない・・・!!

1612年、34歳の時、お福は江戸から旅立ちます。
行先は駿府城・・・!!
大御所・徳川家康と会うためでした。

お福は家康に訴えます。

「竹千代さまが将軍家のお世継ぎであるはず
 弟の国松さまを母君が愛され、その勢いは竹千代さまを凌いでいます
 しかし、弟が兄に勝ることは許されることではありません
 将軍の跡継ぎの決定は、天下の一大事だからです」

跡継ぎは兄の竹千代にするべき・・・そうしなければ秩序が崩れてしまうと家康に直訴!!

この行為は、身分をわきまえないものとして厳しく罰せられるかもしれない危険な行為でした。
お福の切なる訴えを聞いた家康・・・すぐには決断しませんでした。

次期将軍は竹千代??国松・・・??

1611年10月、突然家康が江戸を訪れます。
竹千代と国松を呼び出し・・・広間の上座についた家康は、まず竹千代に、
「竹千代殿 これへ これへ」つられて国松も上座に行こうとすると・・・
「国松はそこにおれ!!」と、しかりつけ、下座におきました。
竹千代を上座に呼ぶことで、家康は自分の考えを家臣たちに示しました。
三代将軍が決まった瞬間でした。
1623年、竹千代は家光と名を改め、20歳で将軍につきます。
お福45歳のことでした。

家光を三代将軍に育て上げ、乳母としての念願を果たしたお福・・・
しかし、それで満足することはありませんでした。
次に力を注いだのは、大奥の礎作りでした。
大奥とは、江戸城の奥で、将軍の正室や側室たちが生活する男子禁制の場です。

「全て奥向きの定法は皆二位の局(お福)の制作なりとぞ」

どうしてお福はそのようなことができたのでしょうか?
父・秀忠から将軍職を継承した家光・・・
その3年後・・・1626年に実母・お江が死去・・・享年54歳でした。
20歳の頃から理想とする政治を始めた家光・・・
47歳になったお福は子育てを終えてからも一層家光を支えることとなります。
乳母の後見役割・・・育てた「養い君」は、大きくなっても叔母に相談に行きます。
これに応える関係があり、お福も何かお役に立ちたいと思っていました。
家光は、意欲的に政治に取り組みます。
全国の藩主を江戸に行き来させる参勤交代制度を確立、外国への渡航を禁じた鎖国政策を強化、当時は幕府に絶対的な力はなく、大きな力を持つ大名はたくさんいました。
お福はこの頃、頻繁に大名の婚姻の相談に乗ります。
相談に乗りながら、その家にはどんな人物がいるのか??謀反を起こしそうな気配はないのか??
大名たちをくまなく調べたといいます。

婚姻政策は、当時の大名統制の根幹でした。
家光がどうやったら日本を統治できるのか??
家光がよりよく徳川幕府を運営していくためにはどうしたらいいのか??
派閥工作をしていたのです。

「上様のためなら何でもできる・・・」

お福は大名達を奥向きから支配していきます。
小姓をしていたお福の息子・稲葉正勝を、重要な箱根の関所のある小田原藩主に・・・
これによって、お福のせいへの影響力はますます増していきます。
全てが順調に見えた家光の治世・・・
しかし、お福には頭を悩ませる問題がありました。
将軍になって10年になっても正室の間に跡継ぎが生れませんでした。
このままでは家康から続く徳川宗家の血統が途絶えてしまう・・・!!
そんな折、衝撃的な出来事が起きます。
家光が天然痘にかかり、瀕死の状況に・・・
天然痘で亡くなるのが普通であった時代・・・家光が亡くなると徳川家自体が危機に瀕してしまう・・・!!
幕府も倒壊してしまうのではないか・・・??
大きな危機感を抱いていました。
すぐさまお福は、江戸城内の神社に向かいました。
そこで、こう祈願したと言われています。

「もし、家光さまを助けてくれるというのなら、私は死ぬまで絶対に薬を飲みません」

お福の祈りが通じたのか、家光は奇跡的に命を取り留めます。
病気は治ったものの、跡継ぎ問題に新たな危機を感じたお福。
家光の正室は京都から来た公家の娘・・・仲は良くなかったと言われています。
一説では、女性に関心がなかったと言われる家光・・・
そんなある日、お福のもとに耳寄りな情報が・・・家光が女性に一目ぼれしたと言います。
しかし、その女性は尼さん・・・
それでもお福は諦めず、尼さんを強引に還俗させ、髪が伸びるまで待って側室に迎え入れたのです。
さらに、お福自らも町に出てスカウトします。
そして目をつけたのが、一人の女性・・・
古着屋の店先に座っていたお蘭という娘でした。
当時側室と言えば、大名や公家などの名門から取るのが常識・・・町娘から取るのはありえない話でした。
春日局は”上様のお気に召すか”を一番大切にしていました。
家光はお蘭を一目で気に入り側室にしました。
1641年、家光の嫡男が誕生。
これでひとまず跡継ぎ問題は解決しました。
しかし、お福はさらに側室を江戸城に迎えます。
これが後に大奥という組織の礎となりました。
中々順調に子供が育たない時代、家光が若い時から病弱だったことから、第2、第3の候補の跡継ぎを産む女性を作っておく必要があったのです。
それが徳川家の安泰のためになるという方針でした。

家光の時代の大奥は・・・
御殿を囲むように女中たちの部屋が・・・最大8名にまで増えた側室たち。
そこには、お福の部屋もありました。
こうした組織を作ることで、お福の政治への影響力はより高まっていきました。
将軍とのかかわりが近い・・・将軍の意向を左右し得る立場でした。
幕府の政治にも、大きな影響を与えました。
全国の大名からも注目され、将軍の考えを聞くために春日局に接触して将軍の考えを聞こうという大名はたくさんいました。

最盛期には3000人を超えたのちの大奥・・・
規律を守るため、男子禁制などの厳しい掟がありました。
その一方、お福は側室だけではなく、世話をする女中たち全員の待遇改善に努めます。

女房(女中)たちは、武士が具足を一揃えするほどの費用をかけ小袖を用意しております
今までは私のお手当を分配して参りましたが、全ての階級の女中たちに、衣装代を幕府より頂戴したいのです

お福は、奥で働く全ての階級の女中に衣装代を出してほしいと幕府に要望します。
衣装代を出してほしい、実家に手当てが欲しい、勤めに関することがらを奔走しました。
そういう要求をできるのはお福で、そういう人だからいろいろな人から要望が集まってきました。
大奥制度を作る基礎にお福が参画していったのです。

そんなお福が51歳の時、嬉しい出来事が・・・
京に赴き天皇に拝謁した時のこと・・・「春日局」という称号を賜わったのです。
春日局とは、本来天皇の子を産んだ女官だけに与えられる由緒ある称号でした。
それが、徳川家の、しかも一介の乳母に与えられたのは前代未聞のことでした。

夫と別れ、人生をやり直そうと江戸城に来て40年・・・
お福は公私にわたって家光を支え続けました。
ところが・・・1643年、65歳の時に病に倒れます。
容態は日に日に悪化・・・しかし、周りがどんなに勧めても薬を飲もうとはしませんでした。
かつて家光が大病を患った時に立てた薬立ちの願掛けを今なお守っていたのです。
何度も見まいに来た家光が、書いた手紙が残っています。

”お前は私が病とならぬよう、薬断ちの願をかけ、長い間それを守ってくれた
 だが、お前に万一のことがあれば、それこそ私は心痛の余り命が尽きてしまうだろう
 お前が薬を飲むのは天下のためだ
 どうか薬で病を治し、私に長く仕えてほしい”

しかし、お福は何度頼まれても薬を口にすることはありませんでした。
困った家光は一計を案じます。

”これならば如何じゃ・・・薬を飲んでくれるか?”

家光が用意したのは、徳川家の家宝「曜変天目茶碗」・・・
家光自身、めったに使うことのない貴重な茶碗を、お福に薬湯を飲ませるために差し出したのです。

「上様のご厚情・・・有難き幸せにございます」

お福はようやく薬の入った茶碗を口に運びました。
しかし、薬はお福の喉を伝い、胸元へと流れていきました。
家光はここまでしても、自分の願掛けを破らなかったのです。
そして、お福は静かに息を引き取り、65年の人生を終えました。
1643年、春日局死去
京都にあるお福の菩提寺・麟祥院・・・家光は一体の木像を掘らせ置きました。
”春日局木像”です。
慈悲深い優しい笑みを浮かべたお福の姿・・・
命をかけて生涯尽くしてくれたお福に対しての感謝のしるしだと言われています。

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マリア・カラス・・・美貌と実力を兼ね備え、歌に生き、愛に生きた世紀の歌姫です。
その最後のステージは日本でした。
まだ50歳だったマリア・カラスの早過ぎる終幕・・・その訳とは・・・??

maria
類まれな表現力で、オペラ界を変えたカラス・・・”カラス以前””カラス以後”という言葉が生まれたほどでした。
歌声だけでなく、エキゾチックなその美貌で世界中の聴衆を魅了しました。
しかし、彼女はその外見に強いコンプレックスを持っていました。

世紀の歌姫と言われ、世界中の劇場から依頼が殺到したマリア・カラス・・・しかし、反面、色々なトラブルを起こしました。
突然の公演キャンセル、大劇場との対立、いつしか”高慢””金の亡者””キャンセル魔”と言われるようになります。


私生活もたたかれます。
夫がある身にもかかわらずギリシャの大富豪オナシスと9年間の大恋愛、しかし、オナシスはマリアを裏切り元アメリカ大統領夫人ジャクリーン・ケネディと再婚。

世紀の歌姫・・・その人生に秘められた愛と悲しみとは・・・??

マリア・カラスの家は決して裕福ではなく、両親は音楽関係ではありませんでした。
しかし、マリアはオペラ歌手への道を選びます。
どうしてオペラ歌手となったのでしょうか?
1923年、マリアはニューヨークで誕生しました。
両親はギリシャ移民でした。

父・ジョージは平凡な薬剤師、母・エヴァンゲリアは幼い男の子を失くしたばかり・・・男の子が欲しかったといいます。
しかし、生まれてきたのは女の子のマリア・・・
我が子を見た母は、「その子をあっちへやって!!」
母は、姉のジャッキーにだけ愛情を注ぎました。
かつて歌手を夢見ていた母は、ジャッキーに蓄音機を買い、ピアノを学ばせて音楽の才能を伸ばそうとしました。
マリアは、母に気に入られようと姉のすることは何でもしました。
7歳の時、マリアはレコードに合わせて姉のように歌ってみました。
すると母は・・・才能があるのは姉ではなくマリアであると気づきます。

「母は、私に並外れた音楽の才能があることに気付いた最初の人でした。」

母は、突然マリアに興味を抱くようになります。
マリアにもピアノのレッスンを受けさせ、図書館でレコードを聞かせ、厳しい英才教育を施しました。
マリアも母の関心が自分に向いたので、喜んで練習をしました。

1935年、11歳の時、ラジオの音楽コンテストに出場します。
マリアはアコーディオン奏者に次いで2位となりました。

「私が母に愛されていると感じたのは、歌っている時だけでした。」

母は、薬剤師の父を見下しており、両親の不仲は子供が見ても明らかでした。
そして母は、父をアメリカに残し、1937年、13歳の時ギリシャに移住。
マリアは奨学金を得てアテネの音楽学校へ・・・!!
その学校で教えていた世界的なソプラノ歌手エルビラ・デ・イダルゴは、すぐにマリアの才能にほれ込みました。

「マリアが孤独なのは気付いていました」byイダルゴ
 
母に愛されていないマリアを娘のようにかわいがるイダルゴ・・・
普段の生活でも何かと面倒を見ました。
オペラ歌手の卵だったマリアは体重が80キロ以上あり、外見には無頓着でした。

「先生は私の服装を嘆いていた
 容姿に磨きをかけよようと本気で努力をしないなら、もうレッスンはいないとおっしゃったほどよ」

家庭では得られなかった安らぎ・・・
マリアは歌のレッスンに集中しました。

こうしてマリアが声楽の練習をしていた時に第二次世界大戦が勃発!!
1941年、17歳の時、ドイツ軍・イタリア軍がアテネを占領します。
占領下におかれたアテネは、食糧不足に陥ります。
すると母は、マリアにドイツ兵やイタリア兵との親密な関係を強要・・・食料得るためでした。
この頃から、母とマリアの溝は深まったといいます。

1942年、18歳の時「トスカ」でプロのオペラ・デビュー。
マリアはこのトスカをこの後も何度も演じ、得意のレパートリーとします。
上演が終わると、何度もカーテンコールが起きるほど好評でした。
これを機に、ドイツ兵や、イタリア兵の前で歌うようになります。
しかし、このことが後に災いしてしまうのです。
対戦も終わりに近づいた1944年、20歳の時にアテネが開放。
すると、マリアがドイツ兵やイタリア兵のために歌っていたことが問題視されました。
劇場から追放され、音楽学校の奨学金も打ち切られます。
1945年、21歳の時に、マリアは仕事を求めて母と離れ、父のいるアメリカ・ニューヨークに向かいます。

しかし、いくらオーディションを受けても不合格。
ギリシャで有名になったぐらいでは、アメリカでは通用しませんでした。
世界屈指のオペラハウス・メトロポリタン歌劇場のオーディションもうまくいきません。
しかし、マリアは地震に満ち溢れていました。

「メトロポリタンはいつか歌ってくれ、と私に頭を下げて来るでしょう」

歌手活動を本格化させたマリア・カラスは、30キロ以上のダイエットをします。
あまりに急激な原料は、歌声に影響する可能性がありましたが、マリアは大変身を遂げました。
ニューヨークに戻って2年、ようやくマリアにチャンスが巡ってきました。
イタリアでのオペラ出演です。
マリアはすぐに、イタリアのベローナに向かいます。
1947年、23歳の時に「ラ・ジョコンダ」でイタリア・デビュー。
2万5000人も集まった野外劇場で歌い上げます。
しかし、公演は成功したものの、次の契約につながりません。
そこに、救いの手を差し伸べたのが、オペラ好きで地元では有名な実業家のジョヴァンニ・バッティスタ・メネギーニでした。
マリアより30歳ほど年上の52歳でした。
公演前の食事会で、マリアに一目ぼれしたのです。
その後、マリアを高級レストランに誘っては口説きます。
初めてレディーとして扱われるマリア・・・次第にメネギーニを愛するようになっていきます。
あえない時、マリアがメネギーニに贈った手紙には・・・

「私がどんなにあなたを恋しがっているかお分かりにならないでしょう
 あなたの腕に戻る日が待ちきれません」

裕福なメネギーニは、マリアの生活を保障。
マネージャーも務め、仕事上のパートナーになりました。
メネギーニの援助でイタリアを拠点としたマリアに、少しづつオペラの仕事が舞い込むようになります。

1948年、24歳の時、フィレンツェで「ノルマ」が大成功!!
カラスブームが巻き起こります。
ノルマは最も難しい曲の一つで、それまであまり歌われてはいませんでした。
しかし、マリアは見事に歌いこなして観客を魅了します。
それが可能だったのは、マリアが様々な声を使いこなせたからです。

「美しい声だけでは十分ではありません
 役を演じる時は、幸福感・喜び・悲しみ・恐れなどを表現する為に、千種類もの声を使い分ける必要があります。
 美しい声だけでそれができますか?」

さらにマリアがこだわったのが演技です。
当時のオペラは、あまり演技にこだわっていませんでした。
当時は、”ちゃんと楽譜通りにやりましょう”というオペラでした。
そして衣装を着けて棒立ちで歌っている・・・
マリア・カラスは、激しい演技を行うことによって、歌い手としての個性を発揮するのに成功したのです。
オペラ歌手として軌道に乗ったマリアは、1949年、25歳の時にメネギーニと結婚。
そして主役のチャンスが訪れます。

1951年ミラノ・スカラ座で正式にデビューします。
スカラ座といえば、誰もが憧れるイタリアオペラの殿堂・・・!!
この時演じたのは、「シチリア島の夕べの祈り」
マスコミの反応は・・・

”驚異的な広がりを持つ中音域と低音域はきらめくような美しさに満ちている”

その歌声に熱狂した聴衆は、いつしかマリアをこう呼ぶようになります。

”スカラ座の女王”と。

マリア・カラスの名は世界中に響き渡り、王族や大富豪も、マリアの舞台を見ることがステータスとなりました。
新境地を次々と開いていくマリアは、オペラの常識にも挑戦します。
体重が必要とされるオペラ歌手にもかかわらず、痩せようと考えたのです。
きっかけは、映画「ローマの休日」でした。
オードリー・ヘップバーンに憧れたマリアは、ダイエットを決意しました。
そして、11か月で30キロ以上の体重を落としました。
マスコミでも話題となり、その減量法聞かれると・・・

「もし痩せる方法がわかっていたら、私は世界一の金持ちになれたと思いませんか?」

ハリウッド女優並みのスタイルを手に入れると、ディオールやジバンシーなどのデザイナーが、ドレスや宝飾品を提供。
マリア・カラスは、誰もがうらやむ大スターとなりました。
さらに、マリアの勢いは止まりません。
駆け出しのころからあこがれていた生まれ故郷ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の出演!!
1956年、32歳の時にメトロポリタン歌劇場で初公演。
マリアは聴衆を感動と興奮の渦に巻き込んで、16回ものカーテンコールを受けました。
ダイエットをしてもその歌声は、衰えませんでした。
大スターとなったマリア・・・ギリシャの母とは疎遠になっていました。
マリアは仕送りをしていましたが、母はそれ以上にお金を欲しがりました。
マリアが断わると、母はマスコミを通じて冷たい娘と非難しました。
マリアはそんな母が許せず、生涯あうことはありませんでした。

35歳の時、マリア・カラスは17歳年上の大富豪オナシスと恋に落ちます。
オナシスは妻も子もありながら、女遊びの絶えないプレイボーイ・・・。
それなのに、どうしてマリアは恋に落ちたのでしょうか?

30代で世界で最も有名な歌姫となったマリア・・・
しかし、栄光の影で様々な苦悩を抱えていました。
その一つが、夫メネギーニのお金への執着。
マネージャーでもあるメネギーニは、マリアが売れてくるとギャラを法外に吊り上げました。
1947年・・・1公演:4万リラ
しかし、10年後には、80万~100万リラと20倍以上に・・・
今の日本円で1000万円以上です。
余りに高額な請求に、困惑する劇場側に、メネギーニは「妻が望んでいるので・・・」と言いました。
実際には、マリアは夫に任せっきりだったので、ギャラの金額などわかっていませんでした。
さらにマリアを悩ませたのは、大御所の批評家たちでした。

「マリア・カラスの声は、力強さはあるが清らかさがない」

若い批評家には熱狂的に評価された一方で、大御所の受けは悪かったのです。
というのも、マリアは今までにいないタイプでした。
マリアは自分を侮辱する手紙ばかりを100通ほど保管していました。
どうしてこのような手紙を保管していたのかは難しいですが、自分をさらに精進させるために自分の糧にするためだったと思われます。
絶頂期だったマリア・・・しかし、翌年から破滅の足音が聞こえてくるのでした。

1957年、33歳のエディンバラでの公演以来、喉の調子を崩します。
医者に休養を命じられていました。
それでもどうしてもと頼み込まれ、5回の上演・・・しかし、喉は4回が限度でした。
そのため、1回分の代役を頼みます。
オペラでは、体調に合わせて代役が歌うのはよくあること・・・
ところが・・・

「あの忌まわしいパーティーに行ったのが間違いでした」

5回目の公演キャンセルの日にパーティーに出席・・・
これが報道され、マスコミから非難の嵐が・・・!!
オペラ歌手としては当たり前のことをしただけなのに・・・。

この事件から4か月後・・・
1958年1月にローマで事件を起こします。
イタリア大統領も見に来る公演でマリアはノルマを演じることになっていました。
ところが、またしても喉の調子を崩してしまう・・・
一幕目は乗り越えたものの、二幕目以降は出演できないというマリアに、スタッフは・・・

「あなたならできます
 舞台を続けないとダメですよ!!」

「声が出ないのよ・・・」

「いい加減でいいんだよ、それなら!!」

遂に、二幕目をすることなく公演中止。
これが大問題となり、マリアは会見を開いて声が出なかったと弁明します。
しかし、マスコミは気まぐれでワガママだと非難します。
これをきっかけに、スカラ座を始めイタリアでの契約が無くなります。
大統領も出席する公演をキャンセルしたことで、イタリア政府の介入もあったとされます。
さらに同年、メトロポリタン歌劇場と演目で衝突!!

「同じ演目ばかり・・・新しい試みがしたいの!!」

大劇場との関係悪化は、メネギーニの責任が大きいといわれています。
メネギーニにとって交渉はありえないことでした。
自分の要求額でなければ契約しませんでした。
アメリカに行って、メトロポリタンの支配人・ビングが相手でも、同じやり方をしました。
メネギーニ同様、ビングも譲らない性格だったので、二人は喧嘩になっていました。
さらに、マリアのビジネス用の口座からメネギーニ個人の口座にお金を移して使い込んでいたことが発覚。
マリアはショックを受け、夫への信頼は粉々に崩れました。

声の衰え・・・大劇場との衝突・・・夫の裏切り・・・
精神的にも追いつめられた時、一人の男性と出会いました。
マリアより17歳年上で、一代で巨万の富を築いた大富豪オナシスです。
しかし、オナシスは妻の間に二人の子供のいる既婚者でした。

1959年、35歳の時、オナシスがマリア夫婦を招待したオナシスの地中海クルーズがマリアの人生を変えました。
元イギリス首相・チャーチルなどを乗せた3週間の航海・・・
クルーズの間、マリアとオナシスは急接近します。
二人きりの時間を過ごしました。
港に戻ってきたころには、マリアはメネギーニと別れる決意をしていました。
結婚生活は終わりをつげ、マネージャーも辞めさせました。
世紀の歌姫の大富豪の恋は、マスコミも注目します。

「私は長いことカゴの中で飼われていると感じていました
 ですから、活気にあふれ魅力的なオナシスや彼の友人たちに出会った時、私は生まれ変わったのです」

マリア・カラスがオナシスと恋に落ちた翌年・・・
1960年、マリアが36歳の時、オナシスが妻と離婚します。
マリアは、アメリカの市民権を放棄して、1966年、42歳でギリシャ国籍を取得します。
オナシスと結婚するためでした。
当時、マリアを悩ませていたのは声の衰えでした。
ある時、パリのオペラ座で公演した時も、最後まで持たずに途中降板していまいました。

「歌っていたのは本当の私ではないのよ
 自分の声ではなくて、聞き覚えのない他人の声に聞こえたわ」

超えの衰えたマリアは、仕事を控え、オナシスとの生活を最優先しました。

「8年半もの間 共に生きてきて 私は心から言います
 あなたのことをとても誇りに思い 全身全霊をかけてあなたを愛していますと・・・
 そして、あなたもまた私に対して同じ思いでいることを願っています」

ところが・・・この手紙が書かれた9か月後・・・
1968年・・・オナシスは、もとアメリカ大統領夫人ジャクリーン・ケネディと再婚します。
この衝撃的なニュースを新聞で知ったマリア・・・
結婚式当日は、オナシスとよく行ったレストランに足を運びました。

「私には屈辱よ
 2か月たっても立ち直れない」

オナシスとジャクリーンが結婚して数か月後・・・
マリアのアパートを一人の男が訪ねてきました。
なんと、オナシス・・・ジャクリーンと離婚はしないが、マリアとよりを戻したいというのです。
マリアは拒絶・・・しかし、結局はオナシスを許し、受け入れるのです。
心の支えが戻ってきたマリアは、47歳で新たな挑戦を始めます。
ニューヨークのジュリアード音楽院で、若者たちに教えたのです。

聴講生には、世界三大テノールと言われるプラシド・ドミンゴ、ルチアーノ・パヴァロッティの姿もありました。
再びステージに立つ気力の湧いたマリアは、1973年、49歳で世界各地をコンサートで回ります。
ヨーロッパやアメリカなど世界9か国を回り、最後は日本でした。
札幌での公演を終わりホテルに戻ると、マリアを愕然とさせる報せが・・・オナシス緊急入院!!
マリアはパリで入院中のオナシスのもとへ・・・!!

「私よ マリア
 あなたのカナリヤよ
 あなたを愛している
 これからもずっと愛し続ける」
 
9日後・・・
1975年3月15日、オナシス死去・・・69歳でした。
マリアが葬儀に参列することは許されませんでした。
オナシスの死後、マリアはパリの自宅からほとんど出ませんでした。
ステージにも、札幌公演を最後に、二度と立つことはありませんでした。
過去に自分が歌った歌声を、聞いてばかりだったといいます。
夜・・・眠れなくて睡眠薬を飲み、朝・・・頭をすっきりさせるために興奮剤
1977年9月16日、マリア・カラス53歳、自宅で急死・・・
心臓麻痺と言われています。

晩年自伝を書くことを勧めた作家に対してこう言っていたといいます。

「自伝ならもう書いたわよ
 それは、私が演じてきた音楽の中にあるわ
 音楽こそ私が知る唯一の言語なんですもの」

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紀元前200年の中国大陸・・・
民に圧制を敷く秦帝国を倒そうと立ち上がった二人の英雄がいました。
ひとりは若きエリート将軍の項羽。
戦の天才と謳われ無類の強さを誇りました。
もう一人は農民出身の劉邦・・・この時すでに40歳を過ぎていました。

地方の小役人だった劉邦は、酒と女が大好きなダメおやじ。。。
項羽と戦っても負け続けた劉邦・・・そのたびに、命からがら逃げ続けました。
ところが、最後に天下を握ったのは劉邦でした。
人生の半ばでセカンドチャンスにかけた劉邦・・・皇帝に上り詰める奇跡の大出世を遂げます。
どうして天下をとれたのでしょうか・・・??

紀元前221年、圧倒的な武力で史上初めて中国を統一した秦の始皇帝・・・しかし、秦は、万里の長城や始皇帝陵などの建設など、民に重い負担を強いて各地に反乱を招きました。
そうした民衆を率いたのが劉邦です。
しかし、彼は40過ぎまで自他楽な生活を送っていました。
そんなダメおやじが、どうしてリーダーになったのでしょうか?
劉邦は、現在の北京と上海の間の農村地帯・沛県に生れました。
紀元前91年ごろに完成した中国の歴史書「史記」によると・・・
農家に生まれた劉邦は、家業を嫌い定職にも就かず、酒と女が大好きな自他楽な生活が好きなダメおやじでした。
そんな劉邦・・・一つだけ長所がありました。
それは人相です。
花が高く、美しい髭を蓄えた竜顔の持ち主でした。
竜顔は天子の顔と言われ、徳の高い証でした。
そのせいか、彼がただ酒を飲んでいるだけで人が集まってきました。
そんな不思議な魅力を持つ男でした。
劉邦はその人望を買われて地方の小役人となり、結婚・・・
しかし、40歳を過ぎた頃、劉邦の運命は大きく変わることとなります。

紀元前210年、秦の始皇帝が死去・・・
これをきっかけに重い税と過酷な労働を強いていた秦に対し、各地で反乱が起きました。
各地で起きた反乱勢力は、やがてかつて秦に滅ぼされた楚に集まりました。
そして国王を擁立して楚を復活させ、反乱軍の中心にしました。
この時、劉邦も反乱に加わり、反乱軍のリーダーの一人となっていました。
軍といっても劉邦のもとに集まったのは、戦の経験もない農民たち・・・寄せ集めの集団でした。
楚に続々と集まってくるリーダーたち・・・楚の国王は宣言します。

「先に関中を平定したものをその地の王とする」と。

関中とは、秦の都を中心とする地域で、その王になるということは秦帝国を滅ぼすことを意味していました。
王の地位を夢見た劉邦は、打倒秦を目指して、早速関中を目指します。
そこに立ちはだかったのが、最大のライバルである項羽でした。
項羽・・・今も絶大な人気を誇る武将です。
項羽はこの時20代の若武者で、祖父はかつての楚の将軍というエリートでした。
身長180cmを超える大男で、頭がよく、力持ちだったといいます。
圧倒的な武力を誇る項羽軍は、まず秦の主力がいた城に向かって北上します。
そして、秦の主力20万人と激突!!
しかし、項羽の兵はわずか2万・・・賭けに打って出ます。
項羽は自分たちの乗ってきた船を川に沈めました。
三日分だけの食料を残して捨てさせます。
もはや・・・負けたら死ぬしかない・・・自軍をわざと窮地に追い込んで、兵士の力を引き出す作戦です。
楚の戦士は、一人で10人の敵を相手にしました。
その雄たけびは、天をも動かすほどでした。
追い込まれた項羽の兵はすさまじく、10倍もの進軍を撃破!!
しかし、項羽のすさまじさはこれにとどまりませんでした。

「秦軍をすべて生き埋めにしろ!!」

戦いで捕らえた20万人の兵を生き埋めにしたのです。
項羽の強さと残虐さは、この戦いで知れ渡ったといいます。

一方、南側から秦の都を目指した劉邦軍の戦いは、項羽の軍とは対照的でした。
劉邦軍が秦の南の拠点に迫った時・・・反乱軍の勢いに押され、秦の終わりを悟った司令官は命を助けてくれるのなら降伏すると和平を持ちかけてきたのです。
それに対し劉邦は一言こう言いました。

「善」

劉邦が秦の民に対して”力で抑えるのではない””人を殺すのではない”という認識を与えました。
劉邦軍は寛大だという噂はすぐに広まり、秦の拠点は次々と劉邦に降伏していきました。
その結果、劉邦は項羽よりも早く秦の都に到着し、王の権利を得ます。
すでに主力軍を失った秦王に抵抗する力はなく、劉邦に降伏・・・
ここに秦は滅亡するのです。
この時、劉邦は秦王の命はとりませんでした。

「楚王が私を派遣したのは、私の寛容さに期待してのこと、それを裏切ることはできない」

敵の命乞いには寛容だった劉邦ですが、聖人君子だったわけではありません。
秦王朝の財宝や美女たちを手あたり次第漁ろうと、喜び勇んで宮殿に入りました。
軍師の張良が劉邦を諫めます。

「天下のために動こうとするならば、目の前の快楽に我を忘れてはなりません
 それは暴君のすることと同じです」by張良

張良は、戦の素人集団を支えた名軍師でした。
劉邦は全幅の信頼を寄せていました。
張良の言葉を聞き、劉邦は略奪はせずに宮殿を出ます。

項羽より先に秦の都に入った劉邦・・・事前の約束では劉邦が王になるはずでしたが、項羽が猛反発!!
武力行使に出ます。
そして迎えた項羽と劉邦の直接対決・・・劉邦は項羽と何度も対決して、何度も負けています。
どうして項羽に負け続けたのでしょうか?
秦の都に一番乗りした劉邦は、
「項羽が都に入れないようにするべき」という部下の意見を聞き入れ、都への入り口を封鎖。
項羽を締め出しました。
これを知った項羽は激怒・・・!!
劉邦に後れを取ったとはいえ、秦の主力を倒した我こそ王になるべきなのに・・・!!

「劉邦を討つべし!!」

項羽は劉邦が封鎖していた都の入り口を突破!!
宮殿の外に、屈強な40万の兵を揃えました。
劉邦軍がわずか10万・・・!!
圧倒的な戦力の差を見せつけられた劉邦は、戦わずして負けを認めます。
みずから項羽の陣へ赴きます。
劉邦は、項羽に臣下の礼をとってこう言いました。

「私は、項羽将軍と力を合わせて秦を攻めました。
 ところが、思いもよらず私が先に都に入ることになってしまったのです。」

自分はあくまで項羽の部下であり、野心がないことを訴えます。
この時、項羽の軍師は、劉邦は危険だと進言します。

「かつて欲が深かった劉邦が、宝物にも女にも手を付けていない・・・
 これは、まさに劉邦の天下取りの志が小さくないということの現れです。
 今のうちに劉邦を亡き者にすべきです。」

項羽の軍師は劉邦を宴に招き、事故に見せかけた暗殺計画を立てます。
宴もたけなわになると余興の演舞始まります。
劉邦に華麗な舞から鋭い切っ先が迫ります。
飛び込んできたのは、危機を察した劉邦の部下でした。
異様に張り詰める空気・・・その時項羽は・・・ 

「壮士なり」

身を挺して守ろうとした部下の勇気を称え、項羽は肉と酒を与えてもてなしました。
劉邦はその隙に厠に行くふりをして逃走・・・!!

その数日後、項羽は清の都に入城!!
項羽のやり方は、劉邦とは真逆でした。
秦の王や王族を殺し、宮城に火を放ったのです。
都を焼く炎は、三か月続いたといいます。
その後、項羽は西楚を本拠地としました。
自らを「西楚覇王」を名乗り、18人の王に領地を分割!!
この時、劉邦も王として土地を与えられました。
しかしそこは、山ばかりで作物の育たないへき地でした。
項羽の横暴な振る舞いはエスカレート・・・楚の帝を殺害します。
あまりに無道な行いに対し、諸侯の怒りが噴出します。
反項羽の機運が高まるのを感じた劉邦は”打倒項羽”を諸侯に呼びかけます。
すると、続々と劉邦のもとに集まってきて・・・その数56万人の連合軍となりました。
西楚を攻撃します。
この時、項羽は遠征に出ていて留守だったために、連合軍が圧勝します。
勝利に意気上がる連合軍・・・占領地では略奪が横行し、酒宴に明け暮れる兵士が続出します。
これは劉邦の主義に反する行為ですが、劉邦に統制をとる力はありませんでした。
そんな中、劉邦が恐れていたことが・・・
項羽が遠征から戻ってきたのです。
項羽は3万の精鋭で連合軍を攻撃!!
勝利に気が緩み連合軍は10数万人が戦死しました。
項羽の追っ手に迫られた劉邦は、馬車から自分の子どもを蹴り落して逃げたといいます。
劉邦は3度も子供を蹴り落しましたが、その都度部下が馬車を止めて子供を拾い馬車に乗せました。
命からがら逃げかえった劉邦・・・自らの領地に戻ることもできずに、味方を求めてさまようことに・・・。

戦に負け続け、決して強くはない劉邦を支えたのが漢の三傑と言われた男たちでした。
優れた政治力で領地を治め劉邦軍を陰で支えた蕭何、的確な策と助言で劉邦軍を勝利へと導いた軍師の張良、劉邦が戦場で全幅の信頼を寄せる代将軍の韓信・・・どうして劉邦は自分よりも優れた者に慕われたのでしょうか?

連合軍が大敗北を喫したのち、劉邦は単独で項羽に向かうも負け続け、ジリジリと戦線を後退させていきました。
このままでは項羽に攻め滅ぼされてしまう・・・
そこで散り散りになった味方を集めるという任務に一人の男を抜擢します。
それが韓信です。
劉邦軍最強と称えられる韓信ですが、実は元項羽の部下でした。
韓信は何度も項羽に献策しますが、聞き入れてもらえません。
項羽に愛想をつかし、劉邦のもとにやってきたのです。
そんな韓信の勇猛ぶりは・・・
ある戦いで、20倍の敵を目にした韓信は、驚くべき行動に出ます。
川を背にしてわざと逃げ場のないところに陣を敷いたのです。
常識では考えられない無謀な行い・・・
後退すれば川に落ちて死ぬ・・・
ならば、攻めて前に出て討死しよう!!
死に物狂いで戦う韓信の軍は、遂に20倍もの敵を蹴散らしました。
韓信の戦いは背水の陣の言葉のもとになったといいます。
部下は、劉邦にこう進言します。

「韓信は、一国に二人といない優れた人物、国士無双です。」と。

劉邦は、韓信が項羽軍の武将であったにもかかわらず、大将軍に抜擢するのです。
劉邦が韓信に与えた使命は・・・
当時、項羽に恐れをなし、劉邦の連合軍から離脱する諸侯がたくさんいました。
韓信は、兵を率いて彼らを攻め、武力で従えて再び劉邦軍に参加させました。
諸国を回り敵を次々と従えていく韓信・・・遂に斉まで制圧・・・しかし、この時劉邦に韓信から意外な手紙が届きます。

「斉は嘘つきでこれまで裏切りを繰り返してきた国です。
 ついては私を仮の王にでもしていただかないと斉を治めることはできません。」

斉を従えるどころか、自ら王になりたいと言い出した韓信・・・
模試や裏切りでは・・・??と、激しく憤る劉邦。。。
しかし、この時、張良が劉邦に助言しました。

「ここは韓信を信じて望み通りになさいませ」

そこで劉邦は、韓信に意外な返事をします。

「有能な韓信が諸侯を平定したのだ
 仮の王とは言わず、真の王になるがよい」

これまでの働きを考えれば、お前が王になる資格は十分にある・・・この劉邦の計らいに、大いに感動する韓信。

「私の策を信じ、採用し、大将軍にもしてくれた
 すべては劉邦様のおかげ」

韓信がこうして国々を巡っていた頃、劉邦は広武山で項羽の進軍を食い止めていました。
広武山は、天然の要害で、さすがの項羽軍の攻めあぐねて膠着状態になっていました。
戦いが長引いたことで、項羽には焦りが生じます。
率いてきた数十万の兵士の食料が尽きかけていたのです。
遂に項羽は広武山の断崖に立ち、劉邦に呼びかけます。

「何年もの間、天下が乱れているのは、私たち2人のせいだ
 これ以上、民を苦しめるべきではない
 1対1で決着をつけようではないか」

しかし、劉邦は笑ってとりあいませんでした。

「力勝負はしない・・・!!」

つづけて劉邦は、項羽を激しく断罪します。

「項羽よ、お前はかつての秦の都に入り、暴虐非道の限りを尽くしこれを焼き払った
 お前はかつて、自分勝手に領地分けを行い、私を辺境の地に追いやった
 おまえはかつて、自らの主君たる楚の帝を殺した
 どれも天下の誰もが許すことのない極悪非道の罪である」

項羽の非道を堂々と断罪した劉邦・・・この言葉に共鳴した諸侯が次々と合流・・・
そして韓信は、30万もの見方を率いて劉邦のもとに向かっていました。

睨み合いを続ける劉邦と項羽・・・食糧は尽きかけ、不安が募ります。
しかし、劉邦軍にはその心配がありませんでした。
それは、三傑の一人・蕭何がいたからです。
領国の土地を豊かにし、民を増やし、前線に食料を送っていました。
当時の戦争で最も大事なことは、戦場の局面ではなく後方からの補給でした。
食糧がなければ戦争はできないのです。
項羽軍の弱点は、補給が不足していたことです。
1年が過ぎるころには、項羽軍は深刻な食糧難でした。
そのため、兵力の体力も士気も下がってしまう・・・。
ついに項羽は劉邦と和平を結びます。
本拠地に戻って立て直そうとしたのです。

撤退を始めた項羽軍・・・ようやく故郷に帰れると、兵士たちはホッとしていました。
しかし、劉邦軍では

「今こそ、項羽軍を討つ好機です」by張良

劉邦は約束を破り、項羽軍に追撃をかけました。
不意を突かれた項羽軍は総崩れ・・・項羽は何とか追撃を逃れ垓下にたどり着きます。
古くからあった城に籠城します。
この垓下城は、詳しい場所がわからず、真偽のほどはわかりませんでした。
が、2007年実際にあったことが確認されています。
項羽が籠城した城は、川と堀に囲まれた小高い丘にあり、東京ドーム4個分の難攻不落の要害でした。

劉邦は、籠城する項羽軍を幾重にも包囲・・・城は簡単には落ちそうにありません。
そこで劉邦は・・・??
何十万もの劉邦軍の兵士に、項羽の故郷・・・楚の国の歌を歌わせたのです。
東西南北・・・四方から聞こえる楚の歌を聞いた項羽は・・・

「なんと楚の人が多いことか・・・
 楚はすべて、劉邦の手に落ちてしまったのか・・・??」

項羽は楚の国が陥落し、楚の民が劉邦軍のものになったのだと思い込んで涙を流したといいます。
四面楚歌という言葉はこれから生まれました。
追いつめられた項羽軍は残りわずか・・・食料も尽きようとしていました。
項羽は800の兵を率いて城を出ると、劉邦に最後の戦いを挑みます。
しかし、やがて力尽き・・・長江のほとりで自害して果てました。
31歳・・・紀元前202年のことです。

何度も負け続け、しかし、最後に勝利した劉邦・・・
後に劉邦は天下をとれた理由についてこう語っています。

「わしは張良のように策を巡らし、戦場の勝敗を決することはできない
 わしは蕭何のように民を愛し、食料の供給を絶やさず安心させることはできない
 わしは韓信のように軍を率いて戦いに勝つことはできない
 だが、わしはこの3人の英傑を使いこなすことができた
 これが、わしか天下を勝ち取った理由だ」

紀元前202年 劉邦が皇帝に即位。
その後400年続く漢の誕生です。

しかし、皇帝となってからの劉邦は、人が変わったかのように冷徹な行いをしました。
劉邦は部下やかつての連合軍の諸侯たちに反乱、逃亡、暗殺などの疑いをかけ、部下たちを粛正していきます。
部下たちのおかげで天下を取ったのに・・・。
その矛先は、打倒項羽の立役者・韓信にも向けられました。
韓信に謀反の疑いをかけて位を奪い斬殺!!
漢王朝をひらいてから7年・・・仲間の粛正を重ねる中、劉邦は戦いでできた傷が元でその生涯を終えます。
62歳でした。

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一度見たら忘れない映画「サイコ」
ある調査では、史上最高のアメリカのスリル映画に選ばれました。
作ったのは、アルフレッド・ヒッチコック・・・サスペンスの神様として、今も世界中で愛されています。

「鳥」「めまい」・・・これらの映画を作り出したヒッチコック。
彼の作品は、後にヒットする様々な恐怖映画のお手本として大きな影響を与えたとされます。
その影響は恐怖映画にとどまらず・・・若き日のスピルバーグも撮影現場を度々見学・・・。
ヒッチコックは、映画の映像表現の世界を大きく変えました。

これほどの業績を残したヒッチコック・・・不満たらたらでした。
当時、恐怖映画は低級とみられ、いくら大ヒットしてもアカデミー監督賞は取れませんでした。
さらに、世界中から愛された外見も、コンプレックスでした。
恐怖を描くことに生涯情熱を燃やすつづけたその知られざる素顔とは・・・??

ヒッチコックがその生涯で世に出した長編映画は53本・・・そのほとんどが恐怖やサスペンスの映画でした。
ところが、本人は人一倍怖がりでした。
どうして恐怖に魅せられたのでしょうか??

19世紀の末、イギリス・ロンドンで映画が普及します。
ヒッチコックが生れたのはそんな時代でした。
1899年、ロンドン郊外で青果店を営む三人兄弟の末っ子として誕生しました。
両親はカトリック教徒でした。
当時のイギリスは、国王を首長とするイギリス国教会を信仰する人が大多数でした。
カトリックは少数派・・・
母・エマは末っ子のアルフレッドを溺愛・・・
毎晩、アルフレッドをベッドに呼んで、一日のでき義とを聞くのが日課でした。
この寝る前の母との時間は、就職してからも続いていました。
父・ウィリアムは、よく芝居に連れて行ってくれました。
美しく踊るバラ色のライトに照らされたヒロイン・・・しかし、悪役が登場すると照明は緑に!!
ライトの効果で恐怖が一層掻き立てられ、その光景が目に焼き付きました。
さらに、幼いアルフレッドが恐怖と思った体験が・・・

「私はすごく怖がりであることを告白しなければならない」

ある晩、夜中に突然目が覚めました。
いつもなら人の気配がするはずなのに、あまりに静かで真っ暗でした。
両親を呼ぶものの返事もなく、真っ暗な中、彷徨います。
キッチンにも誰もいない・・・ふと見ると、コールドミートがありました。
幼いアルフレッドは、涙を拭きながらそれを食べました。

「その時以来、私は夜一人でいることと、冷たい肉を食べることに耐えられなくなった」

ヒッチコックの少年時代はいつも孤独でした。

「遊び友達がいたという記憶はない」

ひとりで本を読んだり、ゲームをしたり、母親がそばにいれば満足でした。

ヒッチコックはコンプレックスの塊でした。
当時カトリックの信徒は、それだけで変わっている存在でした。
そして出身がロンドンのイーストエンドのさらに東のはずれ・・・
強い訛がありました。
その訛にもコンプレックスがあり、友達とコミュニケーションをとることができなかったのです。
しかも、勉強がよくでき、プライドが高い

1910年、11歳の時に聖イグナチウス・カレッジ入学
そこで、恐怖という感情をさらに強くすることになります。
学校の規律が厳しく、破ったものには体罰が・・・!!
堅いゴム製の鞭で・・・そして罰を待つ時間が辛かった・・・。

思春期のヒッチコックは・・・
「私は常に犯罪というものに引き付けられていた」

当時、ロンドンの市民を恐怖のどん底に突き落とした切り裂きジャックなどの凶悪犯罪・・・十代の頃からヒッチコックは裁判所に通っています。
殺人事件の裁判をノートに詳細に書き留めていました。
ロンドン警視庁内にある犯罪図書館にも通い、犯罪に関する知識を貪欲に求めます。
敬虔なカトリック信者・・・罪悪感を感じつつ、一方で犯罪に魅惑される・・・。
悪に魅惑される自分を感じると、自分は罪深いと感じる・・・
そんな感情が渦巻いていました。
それがヒッチコックの映画作りの原点でした。

21歳の時転機が訪れます。
1920年、ロンドンに新しく映画の撮影所ができました。
芝居や映画が好きだったヒッチコックは自ら出向いて採用!!

「私はアシスタント・ディレクターの職を得て、とても満足していた
 あるとき”いい脚本家を知らないか?”と聞かれたので、”僕が書きましょう”といった
 アート・ディレクターをするはずの友達がいたが、別の仕事で来られなくなった
 ”アート・ディレクターをどうする?”という話になったので、”僕がやりましょう”といった」

監督デビューは26歳の時・・・「快楽の園」でした。
ライトを駆使して、映像に明るさの強弱を極端につけるなど、工夫を凝らします。
しかし、試写会の席で配給会社の社長は・・・

「この作品は観客を混乱させ不安にする」

初監督作品は、あっさりお蔵入りとなってしまいました。
ヒッチコックの斬新な映像は、社長には理解されず、2作目もお蔵入り・・・。
ヒッチコックがようやく評価されたのは、本格的にサスペンスに取り組んだ「下宿人」でした。
物語は、あの”切り裂きジャック”が下敷きでした。
ブロンドの女性ばかりが狙われる謎の連続殺人事件・・・ロンドン中がその話題で持ちきりの中、怪しい男が下宿屋にやってきます。
あの男が噂の殺人鬼ではないか・・・??
人々の中に疑いと恐怖が膨らんでいきます。
それを演出した・・・撮影方法・・・謎の男にガラス板の上を歩かせ下から撮影し、階下から見上げる人々が上の部屋を想像するという方法をとりました。
下宿人は、試写会で好評!!
映画はようやく公開にこぎつけます。
面白い!!知的で明瞭!!苦労の末に世に出た「下宿人」は、空前の大ヒット!!
イギリス映画史上最高といわれ、ヒッチコックは一躍新進気鋭の監督となりました。

ヒットを次々に飛ばしたヒッチコックは、観客から絶大な支持を集めましたが、俳優やスタッフの評判は・・・たいていは冷酷でした。
どうして冷酷といわれたのでしょうか??
27歳の時、ヒッチコックは同じ年のアルマと結婚をしました。
アルマはヒッチコックより5年先輩で、16歳から映画界で働いていました。
各シーンの記録をとるスクリプターで、現場のほぼすべてに精通するスタッフでした。
2人が出会った頃・・・アルマに話しかけられてもヒッチコックは無視し続けていました。

「僕は女の人に対してひどく引っ込み思案になってしまうんだ」

しかし、アルマがこちらを見ていないときは、アルマを見つめっぱなしだったといいます。
アルマに強く惹かれていたものの、すぐに結婚を申し込みませんでした。
こだわりがあったのです。

「私はまず映画監督に、その次にアルマの夫になりたかった
 アルマと結婚するには監督という絶対的な地位が必要だと思ったんだ」

下宿人で自信を得たヒッチコックはようやくアルマと結婚・・・。
その後もヒッチコックは、毎回脚本をチェックしてもらうほど、頼りにしていました。

「仕事の話になると、普段おとなしいアルマが怖い番犬みたいになった」

アルマの方が、ヒッチコックを尻に敷いていました。
アルマは、プロデューサーで活躍するという自分自身の夢は諦めることになりましたが、ヒッチコックをサポートして、ありえない傑作が生みだされることに喜びを見出していました。

1929年、30歳の時に英国初のトーキー映画「ゆすり」を公開。
ある時、男に襲われた主人公のアリスは抵抗するうちにナイフで相手を刺し殺してしまう・・・
動揺したアリスは、見るものすべてがナイフに見えて、罪の意識に悩まされます。
アリスの恐怖心を描くために、ヒッチコックはナイフという言葉だけ音量をあげました。
トーキーの特徴を見事にとらえた演出で、名声はますます高まります。

映画館に次々と恐怖を送り出したヒッチコックですが、家に帰れば優しい父親でした。
彼は特に一人娘を溺愛しました。
仕事が終わると飲みにも行かず、家族と食事をするのが楽しみでした。
39歳の時、大きなチャンスが舞い込みます。
ハリウッドから監督の声がかかったのです。

1939年、39歳の時にハリウッドに進出!!
第1作は・・・1940年「レベッカ」
大富豪の後妻となって屋敷にやってきた主人公・・・
そこには至る所に前妻レベッカの影が・・・!!
主人公の心理が追いつめられていくサスペンスです。
レベッカの興行は大成功で、ハリウッド進出は大成功となりました。
アメリカでも自分のサスペンス映画は通用する!!
ヒッチコックは自信を深めていきました。

ヒッチコックが渡米した年、第二次世界大戦が勃発!!
ヨーロッパは火の海と化していきます。
故郷イギリスにも、空襲の危機が迫っていました。
ヒッチコックはロンドンにいた母をアメリカに呼びましたが、母はイギリスを離れることを拒否します。
2年後、母はイギリスでその生涯を終えました。
映画の製作に追われていたヒッチコックは、母の死に目にも会えませんでした。
この事実がマスコミを通じて知られると、イギリス国民が激怒し、バッシングします。
祖国を見捨てた男として・・・!!

1945年・・・終戦を迎えると、戦勝国のアメリカには豊かで明るい時代が訪れます。
ハリウッド映画は娯楽の王様で、映画界が大盛況!!
この時代、ヒッチコックはヒットを連発します。

1954年、54歳の時に「裏窓」公開
脚を骨折した主人公の楽しみは、裏窓から見える隣のアパートの住人達の観察・・・
そんなある日、殺人と思われる様子を目撃してしまいます。
50代の円熟期にないったヒッチコックは、「めまい」「北北西に進路をとれ」などの名作を次々と製作。
ヒッチコックの映画作りは完璧主義でした。
撮影前から頭の中に映画の全体像が出来上がっていて、詳細に沿った絵コンテに沿って撮影が行われました。
現場でのアドリブはほとんどありませんでした。

「すべて絵コンテ通りに撮るべきなんだ
 私は映画作りにおいて現場でアドリブはしない
 現場での変更は、フルオーケストラの前で音楽家が曲を作るようなもの
 曲がまだできていないのに”フルート、音を出してくれない?”
 フルートが音を出すと”ありがとう”といって曲を書く
 映画は絵コンテ通りに撮影して、スケジュールより早く製作されるべきだ」

ヒッチコックは俳優が求められる以上の自発的な演技をすることを嫌いました。

「俳優は家畜だ
 俳優はあぶくのようなもので、監督の名前こそが観客の心にはっきり残るべきだ」

撮影現場を見た評論家はこう書き残しています。

「撮影現場のヒッチコックはサディストだ
 演技に自信を持っているスター俳優を脂汗流すまでしごき、結局そのシーンを使わないことにしたと人に話す
 それが何よりの楽しみなのだ」

俳優だけでなく、脚本家さえ気に入らなければクビでした。
そして中断された脚本を引き取って、台詞を直しシーン割をしたのがアルマでした。
めったに人を褒めないヒッチコックの最高の誉め言葉は・・・
「アルマが脚本を気に入っているよ」
 
1958年、ヒッチコックが仕事が手につかない事態に陥ります。
アルマがガンで入院したのです。
ヒッチコックはアルマに万が一のことがあったら・・・と、気も狂わんばかりだったといいます。
アルマが無事退院してからも、暫くの間は仕事が再開できない状況でした。

サイレント映画、トーキー、カラーと、日進月歩の映画界で、常に新しい表現にチャレンジしたヒッチコック・・・しかし、どんな作品を作っても、恐怖というテーマは変わりませんでした。
どうして”恐怖”にこだわったのでしょうか?
1955年、TV「ヒッチコック劇場」放送開始
平穏な日常の中で、突然恐怖に襲われる30分のミステリードラマです。
ヒッチコックは、番組を監修するだけでなく物語のはじめと終わりに登場。
製作者が作品を語るスタイルは大好評で、ヒッチコックの顔も世に広まりました。 
これは、ヒッチコックではおなじみのカメオ出演の応用です。
きっかけは衛が下宿人の制作でした。
人件費を削るために出演しました。
それ以来、ヒッチコックは数多くの作品に登場・・・もはや予算のためではありませんでした。
そして観客の楽しみの一つが、映画の中のヒッチコックを探すことでした。

「監督として世間に認められるためには、自分の名前と作品と結びつけてマスコミに取り上げてもらう必要がある
 そうしないと、自分のやりたいことができない」

彼がヒッチコック劇場を手掛けたのには、もう一つ理由がありました。
1950年代後半、テレビが家庭に普及します。
テレビに御客を奪われた映画は、興行収入が落ち込みます。
年間100本制作していたのが、15本ほどに激減・・・。
低予算でも質の高い映画を作って映画館に御客を呼び戻す・・・
この為にテレビ制作の経験を映画制作に取り込みました。
それが・・・「サイコ」です。

スタッフはテレビ界から集められ、時間を削減して人件費を削減する為に、早撮りになれているテレビの人間が必要でした。
低予算で早撮りでモノクロ・・・当時の映画会では常識外れでした。
この映画の最大の見せ所はシャワーシーン・・・
殺人者の顔は見えず、女性の顔が何度も映し出されます。
一秒にも満たない短いカット・・・こうしたカットが50以上重ねられています。
ヒッチコックがこのカットで狙ったのは、観客にも悲鳴を上げさせること・・・
スクリーンと観客席、そのどちらからも悲鳴を上げさせて、絵k画と観客が一体となった恐怖体験を作ろうとしたのです。

観客の感情や心理を操作・・・罪の意識や恐怖を刺激し、感情や心理を操作することに、達成感を見出していました。
人の心を操りたい・・・これは、ヒッチコックが生れながらに持っていたもので、子供の頃からいたずらっ子でした。

常に新しい映画に挑戦するヒッチコックは、古い価値観とも戦いました。
サイコの封切り前・・・当時の映画は倫理が厳しく管理されていました。
わいせつな言葉、神を冒涜する言葉は、悪役でも使えませんでした。
サイコのある映像が、ハリウッド映画で使われたことのない映像でした。
倫理規定に反するのでは・・・??しかし、ヒッチコックは演出上必要だとして一歩もひきません。
それは・・・汚いということで自粛していたトイレのアップでした。
サイコの予告にも独創的なアイデアを持ち込みます。
自らが予告編に出演して撮影現場を案内します。
映画の映像はワンカットも使いませんでした。
そして映画館では誰であっても上映開始後は途中入場させないという前代未聞の規制を徹底させました。
すると・・・上映に遅れまいと人々が長蛇の列をつくり、それがいい宣伝となります。
サイコはヒッチコック最大のヒットとなります。

制作費は他の映画の半分の80万ドル、しかし、興行収入は3600万ドル・・・映画界に新たな希望をもたらしました。

ヒッチコックはさらに新しい恐怖に取り組みます。
それは人間以外の恐怖でした。
カモメやスズメなど、おとなしい鳥が突然襲ってくるという恐怖・・・
どうして鳥が人間を襲うのか・・・??
最後まで明らかにされません。それが恐怖を掻き立てました。
本物の鳥を使うことにこだわります。
クライマックス・・・女優は本物の鳥に襲われます。
女優が本当にケガをするところまでカメラを回してリアリティーを追求します。
鳥もサイコ同様大ヒット・・・この映画を見た人が鳥がトラウマになるなど、衝撃作となるのです。

「サイコ」「鳥」の大成功で、自他ともに認めるハリウッドを代表する映画監督となったヒッチコック・・・
しかし、60歳を過ぎたこの時でも、アカデミー賞には不満たらたらでした。
1940年「レベッカ」で初めてアカデミー監督賞にノミネートされます。
それ以後、5回ノミネートされるも5回とも落選していました。

「私はいつも花嫁の付き添い役で、決して花嫁にはなれない」

当時、サスペンス映画は低級という風潮がありました。
ヒッチコックがいくらヒットを飛ばしても、所詮はテクニックだけの職人監督であるとされたのです。
「サイコ」や「鳥」以外で見返してやる・・・!!
1966年「引き裂かれたカーテン」など次々と新作を作りました。

「ヒッチコックの新作・・・標準以下のでき」
「かつては高度な個性的なスタイルがあったが、今は過去の栄光の繰り返しだ」

1960年代、どぎつい描写や残酷な表現があふれていました。
描写を抑制して観客の想像力を刺激する・・・ヒッチコックが得意とした演出が物足りないとされてしまったのです。
時代遅れといわれ、ピンチに陥ったヒッチコック・・・救いの手は思わぬところから現れました。
それはヨーロッパ・・・フランスを中心とするヌーベルバーグが評価したのです。
新進気鋭の映画監督トリュフォーは、ヒッチコック映画は芸術だと評価します。
トリュフォーは、ヒッチコックに対して1週間以上のロングインタビューを敢行。

「映画術 ヒッチコック/トリュフォー」・・・その内容をまとめた本は、今も映画監督を目指す者たちのバイブルとなっています。
ヒッチコックはハリウッドでも再評価されるようになり、各地で往年の名作が上映されました。
しかし、こうしたリバイバル上映は、ヒッチコックには堪えがたいものでした。
往年の名作ではなく、今の作品に注目を浴びせたかったのです。

「私は常に、映画を作り続けねばならない
 引退こそが一番恐ろしいことだ」

ヒッチコックは70歳を超えても新作に挑戦します。
酒の飲み過ぎで心臓が弱り、ペースメーカーを・・・。
現場に立ち続けます。
しかし、かつての自信は消え失せ、残ったのは不安でした。

「みんなが私を裏切ろうとしている!
 みんな、私を見捨てようとしているんだ!!
 助けてくれ!私はひとりぼっちなんだ!!」

生来人づきあいが苦手なヒッチコックは、友人からの電話や手紙に返事をしてきませんでした。
気が付いたときには、長年の友人たちはヒッチコックの傍にはいませんでした。
そんなヒッチコックに最後まで寄り添ったのは、妻のアルマでした。
いつしか、アルマと二人だけで家に籠るようになります。

1979年、79歳の時にヒッチコックに最後の晴れ舞台が訪れます。
長年の映画会への貢献を表彰されたこの席で、ひねくれものの彼には珍しく感謝の意を表します。

「皆さんに紹介します
 私に最大の愛情と感謝、励ましをくれた4人の人物です。
 最高のパートナーでした。
 一人目は映画の編集者、二人目は脚本家、三人目は私の娘パトリシアの母親、余人目は長年うちのキッチンで腕を振るってくれた名コック・・・彼女の名前はアルマです。」

1年後・・・1980年4月29日、ヒッチコックはアルマに看取られながら80歳の生涯に幕を下ろしました。

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秦の始皇帝以来、絶対的な権力者として君臨した皇帝・・・2000年以上続いた歴代皇帝の中で、たった一人だけ女性がいました。則天武后です。
絶世の美女といわれ男たちを虜にしたその裏で、恐ろしい野望を秘めていました。
7世紀の末・・・唐の国で・・・女性が政治に関わることがなかった時代、初めて、唯一の女性の皇帝が生れました。
則天武后です。
名門貴族が牛耳る古い政治体制に風穴を開け、実力のある者たちを次々に登用し、国力を発展させました。
仏教を手厚く保護し、文字の創作など、華やかな唐文化の礎を築きました。
しかし・・・後世に伝えられる多くは・・・稀代の悪女・・・!!

果たして彼女は、知性と美貌を兼ね備えた稀有な皇帝だったのか?
それとも国を傾けた悪女だったのか・・・??

7世紀初頭・・・大陸では10年続いた内乱から唐が誕生・・・
また悪魔に周囲を圧倒し、大帝国への道を歩み始めました。
都・長安の人口は100万を超え、皇帝のもとには隣国の使者が次々と謁見に訪れました。
その中には、日本の遣唐使の姿もありました。

623年・・・武照(則天武后)誕生。
長安から遠く離れた片田舎・・・父は役人とはいえ身分の低い役人でした。
しかし、やがて皇帝の子を身籠ることとなります。

中国の歴史書の中に、則天武后の生涯が書かれています。
裕福な役人の家に生れた武照は、幼いころから噂になるほどの美少女でした。
しかし、12歳の時に父が病に倒れると、苦しい毎日が・・・!!
異母兄弟からのいじめです。
武照は、兄たちから執拗ないじめを受けたということは想像に難くありません。
勝気な彼女は、兄たちに仕返しをしたいと思っていたようです。
そんな武照が14歳の時、チャンスが訪れます。

137年、14歳の時に都から皇帝の使者がやって来て、武照を宮廷に迎えたいと・・・皇帝の側室に抜擢されたのです。
武照が稀に見る美女であるという評判は、長安まで届いていたのです。
時の皇帝は、太宗・・・優れた手腕で、唐の発展をもたらした名君として絶大な権力と人望がありました。
側室の武照に与えられた住まいは後宮・・・
皇帝の寵愛を得るために、多くの女たちが美貌と教養を競い合う愛憎渦巻く場所でした。
ここでも抜群の美貌を誇った武照は、すぐに太宗の目に留まり、3かにあけずと皇帝の寵愛を受けるようになります。
しかし、あることから皇帝の愛は急激に冷めていきます。
それは不吉な予言でした。

”唐三代の後、女の武王 代わって天下を有す”

つまり、名前に”武”のつく女性が唐を滅ぼすというのです。
当時は、天の下に王朝が存在するという考え方がありました。
天の意思をくみ取る専門の部屋・・・「太史局」が置かれていました。
王朝にとって占いの意味は大きかったのです。
これ以後、武照は太宗から遠ざけられてしまいました。

武照は、皇帝の気をひく努力から一転、学問や教養を身につけます。
太宗が重臣たちと会議をしている時にはこっそりと裏で聞き、政治のイロハを学びました。
武照は、10年以上、このような生活をし、勉強しました。

649年、26歳の時、武照は側室として絶体絶命の危機に見舞われます。
それは太宗が病を患い、余命わずかになった事です。
側室は子供に恵まれなかった場合、皇帝が亡くなるとその身を汚してはならないと髪を落として尼になるのが通例でした。
皇帝に遠ざけられ、子宝に恵まれなかった武照・・・
尼寺で生涯を終えることになってしまう・・・??

半年後、遂に太宗は崩御・・・。
武照はしきたり通り、尼寺に送られました。
しかし・・・3年後、尼寺にいるはずの武照の姿が宮中にありました。
どうして・・・??
太宗が病にふせていた時の事・・・連日熱心に見舞いに来る男性がいました。
太宗の息子で皇太子の高宗です。
その心優しい性格が買われ、早々から皇太子にといわれていました。
武照は、このチャンスを逃しませんでした。
見舞いに来る高僧に接近し、深い関係を持ったのです。
太宗の死後も密かに逢瀬を重ね、今度は高宗の側室として宮中に戻ることに成功したのです。
そしてこの時すでに、高宗の子を身籠っていました。
皇帝の子を宿し、その地位を着々と築いていく武照・・・
かつて自分を見下した者たちを排除していきます。
そして、復讐は宮中にとどまりませんでした。
数年後、異母兄弟を宮中に呼び出し、出世させます。
そして栄転と称して長安から遠い辺境の地へ左遷しました。
幼い頃武照をいじめていた異母兄弟たちは、長安に戻ることなく、辺境の地で死を遂げたのです。

皇帝の寵愛を一身に受けた武照・・・しかし、側室の地位に満足せず、邪魔者を次々と消していきます。
そのためには、我が子さえも手にかけました。
どうして、多くの人を残酷に殺したのでしょうか??
652年、29歳の時に長男・李弘誕生。
皇帝の寵愛は益々深まったが、武照は愛だけでは満足しませんでした。
密かに狙ったのは、皇帝の正室・・・皇后の座でした。

しかし、宮中には当然ながら王皇后がいました。
武照は、皇后を失脚させる策略を練り始めます。
武将にとっては、太宗に仕えて、次の皇帝(太宗の息子)の後宮にも入りました。
それは常について回る負い目となりました。
負い目が攻められて潰されるかもしれない・・・
高宗の後宮に入った段階から、皇后の道を考えていました。

654年、31歳の時、大事件が・・・
武照と皇帝との間に、女の子が生まれました。
皇后はお祝いを述べようと武照の部屋をたずねます。
しかし、武照の部屋には誰もおらず、赤子だけが寝かされていました。
皇后は不思議に想いながら赤子をあやし・・・武照が戻らないので部屋を後にしました。
その少しあと、武照は部屋に戻ってきました。
赤子の様子がおかしい・・・??
元気だった我が子が冷たくなっていました。
武将が女官を問い詰めると・・・

「つい今しがた、皇后さまがいらっしゃいました!!」

武照は、すぐにこの事件を皇帝に・・・

「皇后のやつめが、朕の娘を殺したのだ」

宮中でも噂が立ちます。

「子供ができない皇后さまが、武照に嫉妬して、赤ん坊を殺したのではないか・・・??」

この事件・・・武照が皇后を陥れようとした罠でした。
皇后が帰った直後に自ら子供を殺したのです。
王皇后に擦り付けるために・・・!!
この事件以後、高宗は皇后に不信感を抱き、武照を皇后にしたいと思うようになります。
高宗は重臣たちに意見を聞きます。

「皇后さまは名家のご出身にて先帝が決めた方です
 どうして廃することができましょうや」by重臣

皇后になるには、家柄にこだわる家臣が邪魔になる・・・
武照は、今度は政治闘争をしかけて行きます。
目をつけたのは、名門以外の家臣です。
実力があるのに要職につけない・・・政権に不満を持っていました。
武照は、彼らを側近として重用し、王宮での発言する機会を与えます。
高宗はこうした献策を喜び、彼らを昇進させていきます。
すると、その中から「武照を皇后にしてほしい」と願い出る者もあらわれました。

こうして、武照は、新興勢力を拡大、反対勢力と対立します。
国を二分しかねないこのこと・・・重臣の一言で決着がつきます。

「これは陛下の家庭の事でございます
 外部の者の意見をお聞きになる必要はございますまい」

これを聞いた皇帝は、王皇后を幽閉・・・
後宮に入ってから19年・・・656年、33歳で野望を達成・・・皇后の座につきます。

ところが、武照はそれだけでは満足しませんでした。
幽閉されていた王皇后を処刑・・・そのやり方は、非常に残酷なものだったと資治通鑑に書かれています。
まず、王皇后を杖で100回たたかせました。
その後、手足を切断し、酒甕に投げ入れさせこう言いました。

「骨まで酔わせておやり!!」

皇后となった武照は、武后と呼ばれ、皇帝が病弱であったことから政治の実権を握っていきます。
皇帝の背後に御簾をかけてその後ろに座ります。
表向きは皇帝が政治を行っている・・・実際は武后が指導したのです。
人々はこれを”垂廉の政”といいました。
幼い皇帝の場合、皇太后である母親が背後から支えることはしばしばありましたが、大人になっての垂廉の政は、歴史的には稀有なことなのです。
武后に牛耳られ、実質的には武后が動かしている・・・という意識は強くなっていきます。

武后は自分に楯突く可能性のある反乱の芽を摘んでいきます。
我が子でさえ例外ではありませんでした。
政治の実権を握って10年後のこと・・・
皇太子で息子の李弘は、高い教養があり、聡明で正義感が強く名君になるといわれていました。
しかし、武后は自分の政治体制を危うくする存在であるとみなしました。
皇帝が李弘に皇帝の座を譲る前に、自分を脅かす李弘を排除いたい・・・!!
武后は、密かに酒に毒を混ぜ殺害!!
息子を殺してまで守った権力の座・・・まだ・・・更なる野望を持っていました。

武后が皇帝と並んで政治を行う姿を、人々は二聖といいました。
聖人は皇帝の別名で、皇帝が二人いるようだと揶揄したのです。
しかし、武后の野望は、二聖より大きくありました。
それは、男性しかなれなかった皇帝になること・・・
どうして中国史上唯一の女帝になることができたのでしょうか?

武后が実権を握り始めた頃、
668年、武后45歳の時、百済・高句麗を制圧し、勢力拡大に成功します。
それは、名君・太宗が成し遂げられなかった偉業・・・
武后の手腕のたまものでした。
国中が歓喜に湧きます。
武后の権力はますます大きくなり、皇帝は最早飾り物同然でした。

この数年前・・・皇帝は武后を排除しようとしたことがありました。
密かに宰相を呼び、自分を蔑ろにする武后の行いを嘆きました。
宰相は・・・
「皇后の横暴な振る舞い、支持するものは誰もおりません
 いっそのこと、皇后を拝されてはいかがでしょうか」

この言葉に勇気を得た皇帝は、皇后廃位の命令書の作成に取り掛かります。
しかし、このたくらみは、すぐに武后の耳に入ってしまいます。

「誠心誠意、陛下を補佐しておりますのに、何が不足でこのようなことをお考えになられるのですか・・・??」

「これは・・・宰相のしたことなのだ
 あやつがそうしろというから、そうしたまでじゃ」

叛逆の首謀者とされた宰相とその息子を処刑・・・
一族を奴隷の身分に落とされました。
これ以降・・・皇帝が武后に逆らうことはありませんでした。

しかし、実はこの事件は、武后にとってはショックなことでした。
皇后の地位は、絶対的な権力を持っていません。
武后自身も、自分の立場が不安定であることを改めて意識しました。
自分の権力を完全に貫徹するには、皇帝になるしかない・・・!!

最後、そして最大の野望・・・皇帝につくために、武后は・・・??

①氏族の系譜の見直し
先代の皇帝の時代、氏族を格付けした書物が書かれていました。
しかし、武后の氏族”武氏”は、掲載されていません。
そこで、武氏一族を名門に位置付けた「姓氏録」を編纂します。
自身の出自の正当性を作り上げます。

②女性の地位向上
当時、父親と死別した家族は、3年喪に服し仕事を休むという決まりがありました。
武后はこれを母親の場合もするべきだと主張します。
母権を父権に近づけようとしたのです。
そして、皇后の呼び名を天后(てんこう)、皇帝の名を天皇(てんこう)としました。
皇后のくらいは天から授けられたものであり、皇帝と並ぶ立場であると人々に意識させるためです。
着々と礎を築いていた683年、武后60歳の時・・・夫の高宗が病に倒れ、崩御・・・。
しかし、武后は空白となった皇帝の座につこうとはしませんでした。

敢て二人の息子中宗・睿宗を順番に皇帝としました。
女が皇帝になるということは、人々の観念に訴えなければいけない・・・
人々の中に、女性が皇帝になってもいいのではないか?
そのためには時間が必要でした。

宮中の人事を操る一方で、武后は先進的な政策を推し進めていきます。
その一つが、科挙の合格者の重用です。
科挙は、身分を問わず優秀な人材を求める官吏登用試験のことです。
隋の時代に始まった制度ですが、重要な役職につくには、結局貴族階級・・・家柄が重視されていました。
武后は才能はあるが身分の低い彼らを製作ブレーンとして自分のもとに置きます。
そして画期的な政策を生み出します。
銅きという投書箱の設置です。
政治への提言、自作の詩、不正の告発・・・民衆の声や才能を深く募ったのです。
しかし、真の目的は、役人の行いを密告させ、臣下の中の反乱分子をあぶり出すことでした。

「密告しようとするものがあれば、その内容を問わず、途中の駅馬や食事を提供し、上洛に便宜を図る
 たとえ密告が本当でなくても罰せられることはない」

武后は自分が面談し、密告が本当だとわかればだれでも雇用・昇進させました。
すると、たとえ密告が嘘であったとしても、役人を拷問し、無理やり罪を認めさせようとする人たちが現れました。
彼等はそのひどい行いから酷吏と呼ばれました。
告発されたものは、たとえ無実であったとしてもその罪を背負わされ処罰されました。
恐怖政治で役人を押さえつける一方、武后は民衆からの支持を得ることもぬかりありませんでした。
力を入れたのが仏教です。
当時、長安では玄奘三蔵が仏教の経典を天竺から持ち帰ったことで仏教の人気が高まっていました。
武后は多額の寄付をして仏教の保護に努めました。
現在の洛陽市の近郊にある龍門石窟といわれる聖地・・・十万体もの石仏が並んでいるともいわれています。
武后はここに高さ16メートルの廬舎那仏を作らせました。
仏の顔は武后の顔を模して造られたとされ、武后への崇拝の念を刷り込まれたといわれています。
民衆の気持ちを捕らえる権力の中の自分の邪魔者を排除する・・・それをやったうえで、機は熟したと考え、最後の一押しを画策しました。

690年9月3日、宮廷の門前に武后の息のかかった酷吏が900人以上の全国の有力者を従えて現れました。

「国号を改めてください」

国号を改めてくださいとは、武后を皇帝にいただく新たな国にしてほしいという意味でした。
翌日にはこれに官吏や農民、僧侶、異民族の長など・・・宮廷を囲む人は6万人にもなりました。
この事態を受け、皇帝は武后にこう提言します。

「どうか・・・皇帝になって下さい」by睿宗

「われ、天命を受け入れる!!」by武后

この時、史上唯一の女性の皇帝が誕生しました。
14歳で後宮に入ってすでに50年以上・・・武后、67歳の時でした。

あらゆる策略を用いて、遂に皇帝となった武后・・・
国号は、古代中国の国に倣い”周”としました。
古代の周は、平等な社会を築いたとして、孔子から高く評価されていました。
その再現を、武后がしてくれるのでは・・・と、民衆は期待しました。
都も長安から周と同じ洛陽へ・・・!!
新しく宮殿を建設・・・新しい時代が幕を開けました。
この遷都によって、名門貴族は力を削がれ、科挙による人材登用がさらに進みます。

しかし、その一方で、武后は武氏一族を重用していきます。
武后は女帝になることに全力を注いできたので、後継者の問題はほとんど頭にありませんでした。
しかし、新しい王朝を作ったということは、武氏の王朝を作ったということ・・・
武氏の血族を自分の身辺に置くことを考えて、後継者をどうするのか迷い続けていきます。

武后の気をひこうとするものも・・・酷吏たちです。
武后が皇帝となった今、酷吏たちはあまり必要なくなっていました。
そのため、存在価値を高めるべく、嘘の密告を重ねます。
罪のない有能な官僚を処刑・・・盤石だった武后の政権は、足元から崩れようとしていました。
武后がのめり込んだのは、愛人でした。
相手は貴族でも役人でもない・・・一介の商人・・・薬売りの遊び人でした。
男に夢中になった武后は、身分の低い愛人を堂々と宮中に呼び寄せられるようにわざわざ出家させます。
そして、その愛人のために、巨大な寺院を建設させたといいます。

696年・・・73歳の時・・・北方遊牧民族が侵攻してきました。
なんとか洛陽寸前で止めたものの、かつて周辺諸国を圧倒した力は失われていました。
武后への失望は、政権内部から農民にまで広がっていきます。
しかし、そんな情勢も知らんとばかりに80歳も近くなった武后は、再び愛人にのめり込みます。
今度の相手は、まだ20歳前後の美男子兄弟でした。政治手腕などないに等しい二人に新たな役所を作り、要職につけます。
当然成果はなく、兄弟の横暴さを強調させただけでした。
二人を告発する声ががっても、武后は聞く耳を持ちませんでした。
そして705年1月・・・宰相が中心になり、武后の息子・中宗を立ててクーデターを決行!!
愛人の兄弟を斬り捨てて武后に迫ります。

「人々は唐の復興を待ち望んでおります
 どうか、皇帝の座を皇太子に譲られ、万民の要望にしたがってください」

息子を見据えながら、武后はこう言いました。

「来るべきものが来た
 あとは静かに成り行きに任せ、そして消えゆくのみ」

中国史上、最初で最後の女帝・則天武后の治世はこうして終わりを告げました。
皇帝についてから、15年後のことでした。

それからわずか10か月・・・武后は静かに息を引き取りました。
82歳でした。
遺言にはこう書かれていたといいます。

「帝の称号は取り去り、則天大聖皇后と称する
 王皇后の一族、そして自分に逆らった官僚たちやその親族、彼らの罪を赦す」

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