日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: 追跡者 ザ・プロファイラー

青いジャケットを着たかわいいうさぎ・・・
国や世代を越えて愛されているピーターラビット。
その絵本は、世界110か国以上で読まれ、シリーズ全体で2億5000万部が出版されています。
作者は絵本作家のビアトリクス・ポター。
ヘビやカエルを愛するちょっと変わった動物マニアのお嬢様でした。
世界中で愛読されているピーターラビットの本が、世界で最初に翻訳されたのが日本・・・1906年のことでした。
イギリスで初版が出てからわずか4年後、「悪戯な小兎」という題で雑誌に乗りました。
ピーターはペター、マグレガーさんは杢平爺でした。

どうしてポターはピーターラビットを描いたのでしょうか?
1866年ロンドンで生まれたポター。
当時のイギリスは、世界に植民地を持つ大英帝国・・・冨も文化も絶頂期をむかえていました。
父・ルパートは弁護士・・・巨万の富を築いた商人の家に生まれました。
新興の富裕層であるポター家は、貴族や名家の仲間入りをしようと人脈作りに忙しく・・・
母・ヘレンは上昇志向が強く、ポター家のルーツである商人さえも見下していました。
当時の金持ちの常として・・・ビアトリクスの世話は乳母任せ、学校には通わせず家庭教師に勉強を教えさせました。
母は、娘を上流階級の一員にしようと徹底的に躾をします。

母の写真は決して笑うことがなく、常に不機嫌で険しい表情をしています。
母親はポターに常に付き添い、何かしたい場合事前に言わなければなりませんでした。
日記や手紙から、母親とポターが上手くいっていなかったことは明らかでした。

そんなポターの楽しみは、夏のバカンスでした。
ロンドンを離れ、ポター家の故郷スコットランドの田舎で3か月過ごす・・・
19世紀のイギリス・・・スコットランドには古くから妖精伝説があり、乳母から神秘的な話を聞いて育ったポター。
森や草原に妖精を探しに行ったといいます。
ポターに書いた日記に残っています。
自分だけがわかる暗号で書いた秘密の日記・・・
「森には妖精たちが住んでいた
 丘の向こうから大きな月が昇ってくる
 すると妖精たちが現れて、滑らかな芝草の上で踊り始める」
ポターはいつしか絵筆を取り、虫や野の花を描くようになります。
さらに田舎でつかまえたネズミやトカゲをロンドンに連れ帰り育てるように・・・それは自分だけの動物園でした。
トカゲにヘビ、コウモリにハリネズミ、そしてピーターラビットのモデルのウサギ・・・
愛し方も一風変わっていて、買っていた動物が死ぬと鍋で煮て骨格を取り出してスケッチ・・・それぞれの骨に番号をうち保存しました。
そんなポターにとって、親の期待は苦痛以外の何ものでもありませんでした。
上流階級の男性と結婚し、ポター家の地位が上がることを夢見ていた両親・・・
年頃になると、父はポターを社交界に連れていきます。

「ハイヒールを履いてレストランで食事をし、不自然なぐらいウエストを絞っている女の人たちは、なぜずっと大騒ぎしていられるのだろう?
 お茶会も晩餐会も嫌い・・・この先もずっとこうなのかしら」

しかし、19歳の時、彼女の運命は大きく変わります。
現在ではリュウマチ熱と推定される病気にかかり、自慢だった髪を失いました。
髪の毛を失ったショックは大きく・・・しかし、

「私は赤い鼻と短く刈った頭で満足すべきなのだ
 孤独かも知れないが、不幸な結婚よりはまし」

病気のために、結婚には不向きとされ・・・大きくなったポターが情熱を注いだのがキノコ。
16歳のころからバカンスで訪れていた湖水地方で、キノコのスケッチをするようになります。
イギリス北西部に広がる湖水地方では、ローマ時代から羊の牧畜が行われていました。
人と自然が理想的な形で共存する地域は、ロンドンの富裕層には人気の保養地でした。
ポターは野山でキノコを採り、細かいひだの一つ一つまでスケッチ・・・キノコの生態を観察します。
ポターはきのこ研究にのめり込み、素人ながら栽培の難しい奉仕を育てることに成功。
誰も為し得なかったこの研究を発表したい・・・
1885年、29歳の時、ポターはロンドンにある植物研究のキュー王立植物園を訪ねます。
ところが・・・見知らぬ素人のしかも女性の研究など、まともに話を聞いてくれません。
ポターは研究を論文にし、博物学の権威・リンネ協会で発表したいと願い出でます。
しかし当時、女性は学会に出席することさえ許されていませんでした。
それどころかポターの論文は、研究に全く関わらなかった男性から発表され、学者への夢を絶たれてしまいました。
あまりにもひどい仕打ちでした。

「キノコの研究以外に、何を楽しみに生きていけっていうの・・・??
 動物と絵・・・絵描きとして生きて行けたら素敵・・・!!」

この時、子供のころに勉強を教えてくれたアニー・ムーアがポターにアドバイスします。

「私の子供たちに書いた絵手紙を元に本を作ったらどう?」

ポターは、親しいアニーの子供たちに、多くの絵手紙を書いていました。
中でも息子のノエルが病気で長く伏せっていた時に書いたウサギの物語を思い出します。
主人公のウサギは、当時ポターが実際に飼っていたウサギ・・・ピーター・パイパーです。

「親愛なるノエル君へ・・・
 あなたにどんな手紙を書いてよいのかわからないので、4匹の小ウサギのお話をしましょう
 名前はフロプシーとモプシーとカトンテールとそれからピーターです」

イーターラビットは、3匹の妹ウサギのお兄ちゃん・・・
お母さんに止められていたにもかかわらず、お父さんが肉のパイにされてしまったマグレガーさんの畑に出かけました。
野菜を食べていると、案の定、マグレガーさんに見つかってしまいます。
必死に逃げるピーター・・・走る途中で靴は脱げ、ジャケットも網に引っかかり脱げてしまいました。
なんとか逃げ帰ったピーター・・・畑に置き去りにしたジャケットと靴は、マグレガーさんの畑の案山子として吊るされることとなりました。

自分を食べる人間から必死に逃げる話・・・
親の束縛から自由になりたい・・・というポターの強い気持ちが伺えます。
与えられたものを置き去って、新しい場所へという強い意志が伺えます。
親の敷いたレールには乗りたくないし、恋愛にも向いていない・・・
ピーターの絵本を書けば素敵なことが起こるかも・・・??

ピーターラビットの話を書き、絵本作家の道を歩み始めたポター・・・。
最大の障害は、母・ヘレンでした。
上流階級らしい振る舞いを求める母は、どこに行くにも使用人を同行させ、ポターを厳しく監視。
そんな中、どうしてデビュー作をヒットさせることができたのでしょうか?



この頃、イギリスでは絵本を富の象徴と言わんばかりに大型で豪華な高い絵本が流行していました。
しかし、ポターが出版社に持ち込んだサンプルは子供が自分で読むための手のひらサイズ・・・
こんな本は売れないと取り合ってくれません。
こうなったら自費で出すしかない・・・
本の挿絵やクリスマスカードで作った貯金を使い、250部が完成。
予算がないので絵は白黒でした。
これが目の肥えた文化人たちに受けます。
本を買った人にはコナン・ドイルもいたといいます。
その人気に目をつけたフレデリック・ウォーン社がポターの本を出したいと申し出ました。
担当の編集者は、ノーマン・ウォーン・・・ポターの2歳年下で、背の高い好青年でした。
しかし、出版に関しては意見が対立・・・
ノーマンは白黒の絵本は地味で売れない・・・すべての絵をカラーにと主張します。
しかしポターは、
「良質のカラー印刷にはお金がかかります。
 それに絵の大部分はウサギの茶色と(木や畑の)緑色です。
 だかたカラーにしても、面白みはありません。」
ノーマンは引き下がりません。
「ベストセラーにするためには、カラーでないといけません。
 挿絵を減らせば、コストは下げられます。」
ポターは、結局3つの条件と引き換えに、ノーマンの条件に従います。
①手のひらサイズの本
②子どもの小遣いで買える値段
③挿絵の色彩には妥協しない

ノーマンはポターの条件を忠実に、誠実に守ります。
ポターは、自分の意見を尊重してくれる男性に初めて出会ったのです。
絵本が完成するに近づいで、二人の間に信頼が・・・
ポターは使用人の動向付ではあるものの、ノーマンの家を度々訪れています。
ノーマンの家族はポターの家族と違い、兄弟もおいやめいもたくさんいて・・・
たくさんの人がいてにぎやかで、パーティーがあって・・・ノーマンはおいやめいたちから好かれていました。
二人がしばしば家族の輪の中にいたことは確かです。

自分の家とは違う温かな家庭・・・
ポターはノーマンにますます惹かれていきました。

1902年「ピーターラビットのおはなし」が世に出ます。
たちまち大人気を博し、諸藩の8000部が予約だけで完売!!
1年後には5万部を突破しました。
動物のしぐさなどのリアリティが・・・ポターの書いた挿絵が子供達にも受けた原因でした。
病気の男の子を励ますために書いた一匹のうさぎ・・・それが、ポター自身に生きる勇気を与えたのでした。

ピーターラビットの大成功で、次々と絵本を出すポター。
「りすのナトキンのおはなし」・・・37歳
「グロースターの仕立て屋」・・・37歳
「ベンジャミン バニーのおはなし」・・・38歳
どの本も大人気でした。
世間知らずのポターを、公私ともに支えるノーマン。
「2ひきのわるいねずみのおはなし」(38歳)では・・・
ポターは自分の絵の参考にしようとノーマンが姪のために造ったドールハウスを見にいこうとしました。
しかし、二人の関係を快く思わない母・ヘレンはポターの外出を禁じます。
そこでノーマンはソールハウスの写真をポターに送り、本の完成を助けます。

ポターは以外にも商売のセンスを発揮します。
動物のぬいぐるみも自ら作り特許を取っています。
そこにもノーマンが力を尽くしたといいます。
さらにピーターラビットのボードゲームやティーセットも販売・・・キャラクタービジネスをしました。
二人は毎日のように手紙のやり取りをします。
いつしかポターは、ノーマンと恋に落ちていました。

絵本作家として大成功を収めたポター・・・
しかし、彼女は44歳でロンドンを離れ湖水地方に・・・

ピーターラビットの出版から3年後の1905年・・・ポターはついにノーマンから手紙で結婚を申し込まれます。
こちらはその時ノーマンにポターが送った絵です。

pota-













うさぎたちがひくかぼちゃの馬車で、まるでシンデレラのように王子様のまつお城へ・・・
二人で作り上げたピーターラビットがポターに幸せの魔法をかけてくれた・・・

しかし、両親はこの結婚に猛反対!!
上級階級と結婚させたい両親は、一介の編集者との結婚を許せませんでした。
それまで反発はしても親の言うことを聞いていたポターは・・・
この時ばかりは断固結婚するといいます。
激しく抵抗する娘を見た両親は・・・
婚約はお互いの家族だけの秘密という条件で二人の婚約を認めます。
そして、ポターをバカンスに連れ出してノーマンから引き離すのです。
頭を冷やさせようとします・・・それに従うポター。

「少し急ぎすぎたのかもしれません。
 でも、最後には上手くいくと信じています。」

ところが、婚約から1か月後・・・婚約者ノーマンが急性白血病に・・・ポターが見舞いに訪れる間もなく、急にこの世を去りました。

「ノーマンは亡くなりました。
 私は間に合いませんでした。
 でもそれでよかったのです。
 私はただ泣くばかりで、彼の心をかき乱すだけだったに違いないから」

ノーマンの形見となった婚約指輪を、ポターはずっと身につけていました。
両親がノーマンとの婚約を公にすることを認めなかったので、ポターには自分の不幸な状況を語れる相手がほとんどいませんでした。
愛する人と結婚するという未来が無くなり、これからの人生がどうなるかわかりませんでした。

しかし、ポターはなき恋人を思うだけの人生は送りたくありませんでした。

「私は来年、新たなスタートに挑まなければなりません」

1905年11月、ポターは絵本の印税と叔母の遺産をつぎ込んで、湖水地方にあるヒルトップ農場を購入します。
主にそこで暮らそうと決心します。
両親は田舎暮らしに大反対!!
しかし、ロンドンから定期的に湖水地方を訪問するということで、計画を認めさせます。
この農場でポターは、家を改築したり、増築したり、庭を作り直したりと、多くの時間を過ごすことができました。

ポターはここで新作も手掛けます。
「パイがふたつあったおはなし」
「こねこのトムのおはなし」
湖水地方の美しい風景がふんだんに使われた絵本は、さらにファンを増やしていきます。
絵本の印税が入るたびに、敷地を増やしていきます。
そんな時頼りにしたのが、5歳年下の地元の弁護士ウィリアム・ヒーリスでした。
二人は不動産の売買を通じて知り合って、気の合う友人になりました。
その関係は、ノーマンとの関係に似ていました。
最初は仕事上のつながりから、お互いの尊敬が生れ、友情に変わり、興味を分かち合うようになったのです。

二人で湖水地方を飽きることなく散歩し、愛を育みました。
時にはヒーリスに連れられて地元のレスリング大会に出ることも・・・
農場に来てから6年後の1912年、46歳の時にヒーリスからプロポーズされます。

「かつて私が婚約した人は死んでしまいました。
 だからこそ幸せになりたいのです。
 また不幸な目に合うとは信じたくありません。」

ところがまたもや両親が大反対!!
「編集者の次は、田舎の弁護士なんて・・・」
「私たちの面倒は誰が見るんだ!!」
80歳の父と73歳の母・・・ロンドンを離れたくない二人は、ポターを理解しようとはしませんでした。

「厄介なことだらけでした。
 両親はくだらないことにこだわって、長いことヒーリスさんが家に来るのを許しませんでした。
 良心の反対は、私たちの絆を強くしただけなのに・・・」

結局、両親の反対を押し切って・・・1913年、47歳で結婚。
この頃作った絵本「こぶたのピグリン・ブランドのおはなし」は、ぶたのカップルのお話。
農場から市場に向かうピグリン・ブランドは、途中で人間に捕まってそこで黒豚のピグウィグと出会います。
2匹はベーコンにされようとしていました。
そこで二人は逃げ出して、丘の向こうのはるかな国へ行くのです。

親が決めた予想される人生は嫌だったのです。
結婚を機に、本格的に湖水地方で生活したポター・・・47歳にして新しい生活の始まりました。

ヒルトップ農場の傍で、ヒーリスとの新婚生活を始めたポター・・・
ところが1年後に母が亡くなると、母は近くに移り住んできました。
にもかかわらず、ロンドンを懐かしみ生活に馴染めなかった母・・・年を取ると益々意固地な性格に・・・。
ポターが母のために雇った使用人を1日でくびにしたこともありました。

母と違い、全くロンドンに未練のなかったポターは「まちねずみジョニーのおはなし」(52歳)を書いています。
田舎育ちのネズミ・チミ―は、街のネズミ・ジョニーと友達に・・・
チミ―は田舎では食べられない御馳走でもてなされます。
しかし、チミ―は故郷が恋しくなって田舎に戻っていまいました。
すると今度はジョニーがチミ―に会いにやってきました。
しかしジョニーは田舎暮らしに退屈し、都会に戻ってしまいます。
物語の最後をこう締めくくっています。

あるひとはあるばしょがすきで、またべつなひとはべつなばしょがすきです。
わたしがどうかといいますと、チミ―とおなじようにいなかにすむほうがすきです。
と。

この本を出して以降、ポターはあまり絵本を描かなくなっていきます。
代わりに増えたのが土にまみれ羊やガチョウたちと暮らす時間です。

「私は今、消えた親羊と子羊を男の子と大騒ぎしながら2時間も探して帰ってきたところです。
 現実に生きている動物の世話をしていると、どうも本に書かれた動物がつまらないものに思えてきます。」

特に力を入れたのがヒツジの飼育です。
湖水地方原産の頭の白いハードウィック種です。
かつてこの地の羊毛産業を支えていました。
しかし、羊毛に代わって化学繊維が登場し、ハードウィックは激減します。
ポターはローマ時代から湖水地方の風土を作り上げてきたこの羊を絶やしてはいけないと考えたのです。
この頃、ポターの愛する湖水地方に開発の危機が迫っていました。
北部の工業都市に住む人々の休暇のために、開発するのにうってつけだったのです。
ポターが湖水地方に移り住む前、45歳の時のこと・・・
ある日、湖に大きな音が響き渡りました。
ロンドンの金持ちが乗ってくる水上飛行機でした。
飛行機はひっきりなしにやってきて・・・飛行機工場の計画まで・・・!!

「まるで1千万匹のギンバエが一斉にうなっているようなうるささです。
 静かなウィンダミア湖がメチャクチャよ。」

ポターは、計画中止の嘆願書を作成し、地元で署名運動を大々的に始めました。
その甲斐あって、工場建設は中止となりました。

ポターは、農場や土地を買い足すために、印税を費やします。

「湖水地方が俗悪になるのを防ぐため、私はよくやっていると思います。
 真の教育が進んで行けば、自然の美しさの価値が認められるようになるでしょう。
 でもそれが遅すぎれば、取り返しのつかないことになります。」

1932年、ポターが66歳の時、彼女の人生を縛り続けた母が亡くなります。
93歳の最後まで、ヘレンはポターと仲たがいしていました。

「母は頭の素晴らしく明晰な人だった。
 が・・・亡くなって私はほっとしている。」

70歳の声をきく頃には、体力が衰え風邪をひくこともしばしば・・・

「私は年を取ることを少しも不快に思っていません。
 たとえ床にふせっていても、目に浮かべることができます。
 老いた自分の足ではもう二度と行けない高原やデコボコ道、足元の悪いぬかるも、ワタスゲなどを一歩一歩(心の中で)たどって行けるということです。」

1943年12月22日・・・ビアトリクス・ポターは、77歳でこの世を去りました。
遺骨はポターの愛した湖水地方に散骨されました。
散骨を行った羊飼いが散骨を行った場所を語らずに亡くなったので、その場所は今の謎のままです。
東京ドーム370個分に相当する4300エーカーの広大な土地と16の農場は、ポターの遺言により自然保護団体ナショナル・トラストに寄贈されました。

ポターが亡くなって75年・・・湖水地方は、今も昔のままの美しい自然を守っています。

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いつでもどこでもお湯さえあれば食べられるインスタントラーメン・・・
一人当たり年間45食、食べられています。
1958年、プロ野球の長嶋茂雄がデビューした年、インスタントラーメンが世に出ました。
開発の裏には、安藤百福の七転び八起きの起業家人生と食に対するすさまじい体験がありました。
世界の食を変えた壮大な夢追い人安藤百福。
その人生とは・・・??

48歳でインスタントラーメンを開発した安藤百福は、それ以前に繊維、エンジン、塩を手掛け、学校経営など10以上の事業を手掛けています。
若い頃からやり手の企業化でした。
百福はどうして次々と事業を起こしたのでしょうか?

1910年安藤百福は、日本統治下の台湾で生まれました。
両親は幼い頃で他界したので、呉服店を営む祖父の家で育ちました。
店には大勢の商売人が出入りし、活気にあふれていました。
百福はそんな雰囲気が大好きでした。
幼いころから店のそろばんで遊んでいたので、足し算や引き算はもちろん、掛け算まで覚えていました。
1930年、20歳の頃、百福は図書館の司書に。
しかし、物足りずに2年で辞めてしまいました。

「誰もやっていない新しいことをやりたい
 何か事業を起こしたい」

百福は、父親の遺産を元に・・・1932年、22歳の時にメリヤス商社を設立。
メリヤスは、服に使われる伸縮性のある生地で、日本では肌着として普及していました。
しかし、台湾ではほとんど立していなかったので・・・そこに目をつけて日本からメリヤスを仕入れて販売しました。
百福の読み通り、メリヤスは大当たり!!
台湾でも洋服は流行り、新しい肌着が求められていたのです。
企業からわずか1年で、1933年、23歳で大阪に進出。
会社はますます繁盛し、大阪でも一目置かれる事業家に!!

しかし・・・
1941年、31歳の時、太平洋戦争勃発!!

メリヤスの生産は国の管理下に置かれ、商売ができなくなってしまいました。
しかし百福はめげません。

「片時も、じっとしてはおれない性分だった
 ”何か人の役に立つことはないか”
 そう思って見渡すと、事業のヒントはいくらでも見つかった」 

百福が目をつけたのは、軍需工場。
工員が徴兵され、残ったのは家庭の主や老人たち・・・機械など扱ったことのない素人でした。
そこで百福は幻灯機を製造します。
幻灯機は、壁や幕に写真を投影できる機会です。
工場の壁にマニュアルを映し出して説明したのです。

何とか事業を続ける百福に、不幸が・・・
百福が経営する軍需工場から物資が大量に無くなりました。
百福に資材横流しの疑いが・・・百福は留置所に入れられます。
そこで生涯忘れられない経験をします。
出された食事は、麦飯と漬物・・・お椀は汚れ、悪臭が漂っていました。
まさに臭い飯・・・あまりに臭く、食べることができませんでした。
しかし、絶食してしばらくすると、空腹に耐えられなくなってきました。
そして・・・

「しょせん人間は動物ではないか 飢えれば豚になる」

疑いがはれて釈放されるまでの一月あまりの間・・・百福は食べ物がどれだけ大切なものか思い知らされました。

京都のホテルでフロント係をしている仁子と知り合います。
一目惚れでした。
すぐさまプロポーズ・・・仁子のもとへ通い続け、こう約束します。

「食べるものには苦労させない」

1945年、35歳で結婚。
二人は息子と娘を授かりました。
その年の8月、終戦。

焼け跡には飢えた子供やうつろな目をした大人が溢れていました。
彼等が心の底から求めるモノは食べ物でした。

「衣食住というが、食がなければ衣も住も芸術も文化もあったものではない」

百福は海水と鉄板を使って塩づくりをはじめました。

1951年、41歳の時・・・
信用組合の理事長に就任・・・
持ち前のチャレンジ精神が災いし・・・ポンポンお金を貸してしまいます。 
債権が焦げ付き、経営が悪化・・・わずか5年・・・1956年に信用組合破綻。

全財産を失った百福・・・それでも前を向いていました。

「失ったのは財産だけではないか
 その分だけ経験が血や肉となって身についた」

安藤百福、47歳・・・本当の挑戦はここから始まる!!

1956年、経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれ、日本は目覚ましい発展をはじめていました。
しかし、百福はこの上昇気流に乗れずにいました。
というのも、信用組合の破綻で全財産を失っていたからです。

これからの時代に人びとは何を求めるのか・・・??
頭に浮かんだのは、戦後の闇市。
温かいラーメンを食べるために多くの人が寒さに震えながら並ぶ姿でした。

家で手軽に食べることのできるラーメンは売れる!!
47歳!!この商品にかけました。
自宅に立てた庭で研究をします。

「重要なのはひらめき、発想である
 それらは体験から生まれ、蓄積される」

百福の頭の中には初めから理想のラーメンの姿が浮かんでいました。

お湯がかけられるだけで出来上がるラーメン・・・

・美味しくて飽きが来ない味
スープを研究!!
誰もが美味しいと思うものを・・・!!
味のヒントは息子・・・息子は鶏肉が食べられませんでした。
小学生の時、母が飼っていたトリをしめて食料にしようとしました。
ところがトリが暴れ、それがトラウマになってしまったのです。
しかし、鶏ガラスープのラーメンは美味しそうに食べる・・・
こうしてラーメンの味はチキンベースに決まりました。

・調理に手間のかからない簡便性
百福はお湯をかけるだけで麺とスープが出来上がることにこだわりました。
そのため、麺とスープが別々ではなく・・・スープの味がしみ込んだ麺を・・・!!

ラーメン作りは全くの素人の百福。
小麦粉の中にスープを練り込んでみる→麺がボソボソに切れてしまう・・・
麺を蒸してスープにつけてみる→粘ついた
この頃の百福は、朝5時に起きて小屋に籠り、夜中の1時、2時まで没頭し、睡眠時間は4時間ほど。

麺にスープの味をしみ込ませる・・・そのヒントはじょうろにありました。
じょうろで麺にスープを振りかけると、麺に均一に表面にしみ込ませることができました。
お湯を注ぐだけで麺とスープの両方が出来上がる・・・
一歩前進でした。
当時、百福は朝から晩まで研究に没頭・・・安藤家の家計は苦しいものでした。
それでも家族は百福を信じていました。

妻・仁子は友人に聞かれます。
「ご主人は、今何をされていますか?」と。
「ラーメンの製造ですよ」
「そんなことをなさらなくても、他に良い仕事がございますでしょうに」
当時ラーメンは、失業者が仕方なく始める屋台のイメージが根強かったのです。
「主人は将来、必ずビール会社のように大きくなると言っています」と。

・台所に常備されるような保存性
冷蔵庫が普及していなかった当時、常温で日持ちのする食べ物を求める人が大勢いると百福は考えました。
長く保存するためには、乾燥させることが必要でした。
開発をはじめて1年がたったある日・・・
台所で妻の仁子が天ぷらを揚げていました。
鍋をよく見ると・・・小麦粉の衣が油の中で泡をたてています。

「これだ!!
 天ぷらの原理を応用すればいいんだ!!」
百福は麺を油の中に入れてみました。
麺の中の水分が蒸発していきます。
その面に熱湯を注げばお湯が吸収され、麺が復元されます。
揚げたことで完全に乾燥され、日持ちが良くなりました。
そればかりか、衛生面でも有効であることがわかりました。

・値段の安さ
百福は、値段を35円に設定しました。
1958年8月25日、48歳の時、遂に百福のインスタントラーメンが販売されました。
喫茶店のコーヒーが1杯50円の時代に、35円のインスタントラーメンは人気を博します。
魔法のラーメンと言われ大ヒット!!

高度経済成長で、単身赴任者がたくさん出てきていました。
温かくして食べられる保存性が高い食べ物は殆どありませんでした。
そこへ、お湯を注いだらすぐ食べられる・・・
大変重宝な食べ物と、当時の独身男性には思われました。

現在、世界80か国で食べられているカップラーメン・・・
百福がこれを発明したのは61歳の時でした。

百福が51歳の時、会社は急成長を収めていました。
この年、インスタントラーメンの製造は、5億5000万食!!
翌年には10億食、その翌年には20億食超!!



あっという間に日本に広まったインスタントラーメン・・・売り上げは頭打ちになってしまいました。
そこで百福は、欧米視察に出かけます。
56歳でした。

アメリカで商談に望んだ時・・・地元のバイヤーにインスタントラーメンの試食を頼みます。
すると・・・彼女は麺を二つに割って紙コップに入れ、そこにお湯を注いだのです。
フォークで食べ始めました。

欧米の人は、箸と丼は使わない・・・という当たり前のことに初めて気づかされました。
他にも・・・ハンバーガーやドリンクを食べ歩きしている人が大勢いました。
越えるべきもの・・・それは食文化の壁でした。

「もし、彼らが麺類を常食するようになるとしたら、それこそ食文化の革命を意味する
 挑戦してみる価値のあるテーマだった」

1969年、59歳の時、開発をはじめます。
コンセプトは片手でカップを持ち、どこでも立ったまま食べられるラーメン・・・
この開発で一番の難題は、カップの中間に面を固定することでした。
輸送中に麺が壊れることを防ぐためでしたが、当時の技術では中間にうまく収めることができません。
悩み続けたものの・・・
ある晩、百福が布団におさまっていると・・・めまいのような症状が・・・
天井がひっくり返ったような感じが・・・その時!!
カップに麺を入れるのではなく、麺にカップをかぶせてひっくり返せばいい!!
これで、カップの中間に納めることに成功します。
百福はこの新商品に具材を入れることに・・・
こだわったのはエビ!!
世界中から様々なエビを取り寄せて具材に取り入れます。
このアイデアは、試作品を食べた女性から・・・。
「エビがなければ50円。
 エビがあれば100円の価値がありますよ」
1971年、カップラーメン開発発表会
しかし、記者の反応は今一つ・・・
100円は高い?良風美俗に反する??
しかし、百福には自信がありました。

「いい商品は、必ず世の中が気付く
 それまでの辛抱だ
 ラーメンを売るな、食文化を売れ」

発売から2か月後、宣伝を兼ねた販売を行います。
店を出したのは東京の銀座・歩行者天国の路上でした。
そこには長髪にジーンス、ミニスカート。。。最先端の文化の若者が行き交っていました。
最初は戸惑っていた若者・・・一人・・・また一人・・・そのうち人だかりが・・・!!
多い日で1日2万食が売り切れました。

1972年2月・・・意外な出来事からカップラーメンの知名度は全国区に!!
あさま山荘事件です。
長野県にある山荘に連合赤軍の5人が人質を取り立て籠ったこの事件・・・
テレビで生中継され、日本中が固唾をのんで見守っていました。
極寒の2月・・・機動隊の隊員が食べていたのがカップラーメンでした。
仕出し弁当も凍る中、お湯を注ぐだけで食べられるカップラーメンが隊員たちを温めます。
これはテレビ中継に何度も流されたといいます。
この時から人気に火がつきます。
生産が追い付かなくなるほど・・・
1973年、63歳の時、カップラーメンがアメリカで発売され人気に。
欧米の文化を越えるために開発したカップラーメン、日本の食文化を変えるほどの力を持っていました。

1987年、76歳の時、経済の「改革開放」が始まった中国を訪れます。
目的は麺はどこで生まれ、伝わってきたのか・・・??
麺ロードの旅でした。
麺の歴史を自分の目と口で・・・36日間調査します。
食べた面の数は300種類以上。
食に対する百福の情熱は絶えることはなく、生涯現役でした。

日本を代表する経営者となった百福・・・
1974年、64歳の時に食糧庁長官・三善信二がある相談を持ち掛けてきました。

「お湯をかけたらすぐ食べられる
 米の加工食品が開発できませんか」

戦後、日本人の食生活は急速に洋風化。
パンが普及・・・コメ離れが進んで余剰米が溢れていました。
そこでカップラーメンの技術を利用してコメの消費を促してほしいという・・・
頼まれれば嫌と言えない百福・・・快諾します。
1年間の研究の末・・・即席カップごはんが完成します。
試食会では大絶賛!!
新聞も、救世主かのように掻き立てます。
成功を確信した百福は、会社の年間利益と同じ30億円を投じて生産ラインを作ります。

「ラーメンは他のものに任せて、これからは米の市場に全力を傾けてもいい」

1975年即席カップごはんを世に出します。
期待通り、爆発的な売れ行きでした。
しかし・・・わずか1か月で小売店からの注文が止まりました。

「そんなはずあるまい」

自らスーパーマーケットに・・・
そこで目にしたのは、一度は商品を手にとっても棚に戻す消費者の姿でした。

「よく考えるとご飯は家でも炊けますから」

ラーメンとは需要が違う・・・
カップラーメンの成功で思い上がり、マーケットを読み違えたのです。
己の未熟さを突き付けられました。

「30億円は捨てても仕方がない・・・」

1975年、65歳でカップごはんの生産を中止。

その翌年・・・息子・宏基はカップうどん、カップ焼きそばと大ヒットを世に出し、新時代を築いていました。
さすがの百福も、息子の手腕を認めざるを得ませんでした。
1985年75歳で百福は社長の座を息子に譲り会長に。

ところが、会長となっても誰よりも早く出社し、新製品は試食しました。
商品の細かいところまで直接指示を出しました。

社長の宏基にしてみれば、扱いにくい会長でした。
経営方針をめぐり、親子は何度も激しく対立します。
そんな時、決まって百福は言いました。

「人間は突き詰めれば敬と愛しかない
 お前にはその敬愛の心がない」

この頃、百福は自分の仕事に対する姿勢を・・・
「食足世平」と言っています。
食足りて世の中が初めて平和になるという経営理念でした。
食は人の命を支える一番大切なもの・・・

1995年1月、阪神・淡路大震災が発生!!
百福はすぐに被災者支援に動きます。
即席めん100万食を緊急輸送。
寒さが一番厳しい時期・・・火が使えず電気にも不自由する避難所生活・・・
温かいラーメンは笑顔を運んできました。

2001年、91歳の百福は、21世紀のラーメンを思いつきます。
目指したのは宇宙・・・宇宙食ラーメンの開発という壮大なものでした。
90歳を超えてなお、指揮を執りました。
気圧が低い宇宙船内で・・・75度で戻る麺を開発。
無重力空間で飛び散らないようにスープにはとろみをつけました。
醤油味、みそ味、カレー味、とんこつ味のラーメンが完成!!

2005年、スペースシャトル・ディスカバリー号と共に百福のラーメンは宇宙へ。
初めて宇宙でラーメンを食べた野口聡一さんは・・・
「地上で食べる味が再現されていて大変美味しかった」
この時、95歳・・・成功を少年のように喜びました。

その1年後・・・百福は急性心筋梗塞で死去・・・食と共に生きた96歳の生涯でした。

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1933年・・・ソビエト連邦共和国から送り込まれたリヒャルト・ゾルゲ。
天才的な手腕で、日本を丸裸にしていきます。
ゾルゲのスパイ網は、日本に深く入り込んでいました。

政治家の趣味・趣向から、女性関係まで把握し、軍や政治の最高機密まで手を伸ばしました。
しかし、表の顔は夜な夜な銀座で大酒のみの外国人・・・。片言の日本語で女性を口説きまくります。
天才スパイとプレイボーイのゾルゲには誰にも言えない秘密がありました。
それは耐えられない孤独・・・
唯一心を開いたのは、日本人の恋人でした。
そして遂にゾルゲに捜査の手が伸びます。
その秘められた素顔とは・・・??

モスクワの中心にあるニジネキスロフスキー通り・・・かつてゾルゲはこの通りに面した場所で、恋人のカーチャと暮らしていました。
37歳の時、ゾルゲは自分の身分を明かさずにカーチャにプロポーズ・・・式も挙げない登録だけの結婚でした。
しかし、幸せは長くは続きませんでした。
ゾルゲには、数か月後に日本に行く指令が出ていたのです。

「一人の愛する女より、任務に身を捧げる時が来た」

どうしてソ連のスパイとなったのか・・・??

ゾルゲが生まれたのは、アゼルバイジャン共和国の首都バクー。
かつてはロシア帝国の一部でした。
19世紀中ごろに豊かな石油資源が見つかると世界から一獲千金を狙う人が集まってきました。
父アドルフはドイツから来た石油技師、母はロシア人のニーナ。

「私には二つの祖国がある」

ドイツとロシア、二つの祖国を持ったことがゾルゲに大きな影響を与えます。

3歳の時、一家はドイツベルリンに移り住みます。
厳格な父の影響で、愛国少年に・・・。
ゾルゲが18歳の時大きな転機が・・・第1次世界大戦です。
愛国心に燃えるドイツは家族、先生にも相談せずに陸軍に・・・!!
しかし、そこは、想像していたような勇ましい、華やかな場所ではありませんでした。

「私はこの幾度となく繰り返して行われている戦争は無意味なことだと知った
 私は友人の死や飢えて疲弊する国民を目の当たりにした
 私は3度も負傷し、強い憤りを持ち始めていた」 

そんなゾルゲに衝撃的なニュースが・・・ロシア革命です。
日露戦争など戦争で貧しい暮らしを強いられてきた国民は皇帝に反旗を翻し、史上初の社会主義国誕生へ!!
その原動力は共産主義運動でした。
戦争につくづく嫌気がさしていたゾルゲは、これこそ平和の道だと考えました。

「ロシア革命の勃発で、私はこの運動を理論的に支持するのではなく、みずから現実にその一部となることを0決心した」

1919年、24歳の時、ドイツの変革を目指してドイツ共産党に入党。
政府の激しい弾圧によって失敗したものの4年後・・・モスクワにあるソ連のコミンテルンにスカウトされ・・・
1924年、29歳の時にソ連共産党員になります。
コミンテルンは世界中で活躍する共産党の国際組織です。
ゾルゲの任務は、ヨーロッパにおける政治、経済情勢の調査でした。
指導部はゾルゲの能力を高く評価し、4年後諜報機関へ!!
ソ連のスパイ・ゾルゲの誕生・・・この時、33歳でした。

「私はこの任務を私の性格に向いているために引き受けた」

ゾルゲの任務地は極東!!
中国大陸に利権を持つヨーロッパや日本がどう動くのか??という情報が、ソ連には極めて乏しく・・・ゾルゲの洞察力や分析力に期待したのです。



「私は東洋におけるかつてない複雑な情勢に引き付けられた」

1933年、37歳で来日・・・潜入。
その頃日本は、外国のスパイに警戒するようにたくさんキャンペーンされていました。
スパイは捕まれば死刑・・・そんな中、ゾルゲの暗躍が始まります。
スパイ生活と私生活をどう成立させたのでしょうか?
ゾルゲの任務は、ドイツ軍と日本軍の動向を探ることでした。
ゾルゲは大手新聞社の特派員としてドイツの外国人記者として来日しました。
父親がドイツ人であるので、怪しまれることはありませんでした。
外国の通信社のあるビルを拠点に、日本で取材した記事をドイツに贈る傍ら、ソ連のスパイとして活動しました。
ゾルゲがまず目をつけたのが東京にあるドイツ大使館でした。

「ドイツ大使館の信用が得られたら、私は日本人に最も信用されるだろう
 そして大使館は私にかかるかもしれない様々な疑惑に対し、防波堤となるだろうと考えた」

ゾルゲのターゲットは、陸軍武官オット。
ドイツ本国の情報はもちろん、日本の機密も知る男でした。
ゾルゲは記者として接近するだけでなく、大嫌いなナチスに入党し、オットの信頼を得ます。
ゾルゲは自分からソ連や日本の情報を提供します。
これは彼の周到な計画の一つでした。

「私はドイツ側に(ソ連から得た)多少の情報を提供してよいという了解を得ていた」

オットはゾルゲからの情報の代わりに、ドイツや日本の情報を漏らしたのです。

スパイはただ情報をとるだけでは成り立ちません。
相手にも核心部分の手前ぐらいの情報は与えないと、次の情報は取れません。
どこまで漏らしていいのか?
常に彼は考えていました。

オットのゾルゲへの信頼はどんどん高まっていきます。

「あの男は、何でも知っている」byオット

オットはゾルゲを有能なジャーナリストとして大使館内に部屋を与え、重要書類の入った金庫の鍵さえ与えました。

「私はオットの協力者として、ドイツ大使館では一目置かれる存在だった
 大使や武官などから意見を求められたり、相談まで持ちかけられた
 少しも苦労せずに大使館の文書や資料を借り受け、写真にとることもできた」

ゾルゲは一方でスパイを組織化・・・組織の中心メンバーは4人・・・
フランスの写真記者ブランコ・ブケリッチ(ゾルゲの補佐)、ドイツの天才無線技士マックス・クラウゼン、アメリカから画家の宮城予徳・・・宮城は写生旅行と偽って、日本各地の軍部の動きを調べます。
そしてゾルゲが最も頼りにしたのが新聞記者・尾崎秀実・・・5年前に上海で出会い、その時から目をつけていました。

「尾崎は優れた政治的教育を受けており、非常に賢く、極めて役に立つ」

国際情勢に詳しい尾崎は、近衛文麿に重用されました。
情報は、尾崎からゾルゲに筒抜けだったのです。
更に連絡員を加え・・・総勢17人・・・互いに顔も知らないスパイ組織ラムゼイ諜報団を作りました。
ゾルゲは表向きは外国記者として生活していました。
住まいは東京麻布の質素な家・・・毎朝6時に起き、朝風呂に入り、新聞を読んでエキスパンダーで体を鍛えます。
読書やタイプライターで執筆し、昼からドイツ大使館や外国通信社のある銀座へ向かいます。
ゾルゲはモスクワにいる妻にしばしば手紙を送ります。

「ここでの生活はひどいけれど、すべてうまくいっています
 もちろんつらいですが、安らかな生活を送ってください
 そして私のことを忘れないでください」

しかし、実際の行動は、手紙とは裏腹で・・・
ゾルゲが足しげく通ったのは、大使館で毎週末に行われたサロンパーティー・・・。
ダンスが上手く、話し上手なゾルゲは女性たちの人気の的でした。
この女性と狙いを定めたら、人妻、独身を問わず一夜を共にしました。
ゾルゲを信用し、重用していたオットの妻・ヘルマとも不倫の関係になっていました。
ゾルゲはいつしかサロン荒らしという名でよばれました。
日本の女性も派手に口説きまわります。
単なる放蕩を繰り返している外国人に見せかけます。
派手なプレイボーイぶりは、隠れ蓑にする手段でしたが、日本人の気質や文化の理解にもつながると考えていました。
ゾルゲはスパイの心構えを後にこう語っています。

「利口なスパイは、軍や政治上の秘密や書類を手に入れるということにのみ務めるのではなく、少しでも関係のある問題について情報を拾い集め、深い理解を持つ必要がある
 日本の歴史に照らし合わせてみると、現代の政治外交問題も容易に理解することができるようになっていた」

日本という国を深く理解しようとしていたゾルゲ・・・
1936年2.26事件・・・陸軍青年将校千数百名を率いて起こしたクーデター未遂事件です。
彼等が占拠した地域の中には、ゾルゲの通うドイツ大使館がありました。
そのためゾルゲは事件の様子を克明にレポートしています。

「突如官庁街で一斉射撃音が響き渡った
 官庁街は恐ろしい顔でにらみつける兵士によって厳しく遮断されていることがまもなく判明した
 すべての責任のある官庁の機能はマヒし、政府は何一つ発表しなかった」

ゾルゲの手下たちは、外国人記者という立場を利用して、首謀者のインタビューにも成功しています。
2.26事件について、ゾルゲのレポートはこう結んでいます。

「この事件から日本では今後軍部の独走が始まり反ソ連的になっていくだろう」

このラムゼイ報告は、その後6年にわたり、モスクワに送られ続けたのです。

日本でスパイ活動をしている間・・・ゾルゲのもう一つの祖国、ドイツも大きく変わりました。
ヒトラー率いるナチスの台頭・・・ゾルゲはヒトラーの危険性を何度もモスクワに訴えたものの聞き入れられませんでした。

1937年42歳・・・来日して4年目・・・モスクワから直ちに帰国せよと命令が・・・
しかし、ゾルゲは帰りませんでした。
母国の変化に気付いていたからです。
ソ連ではスターリンが実権を握り、独裁を深めていました。
スターリンは世界平和を目指すという最初の目的、理想を捨て、領土と自分の地位を守ることを優先しました。
スターリンは、ゾルゲの父がドイツ人ということから二重スパイでないか?と疑っていました。
今帰れば殺されてしまうのではないか??
妻カーチャに手紙を送ります。

「私の大切なカーチャ・・・
 長い間、私は手紙を書くことができなかったのです
 私を待ち続けるのはやめた方が、あなたには幸せかもしれません
 でも愛する人よ ほかにどうしようもないのです
 あまりにも長く、あまりにもつらい時がたちました
 あついキスを送ります」

どうして命がけでスパイ活動を続けたのでしょうか?
モスクワの本部と妻からも離れ、半ば孤立してスパイ活動をしていたゾルゲ・・・
表向きは派手に遊んでいても、自分の正体は明かせず・・・
そんなゾルゲがただ一人心を開いたのは・・・石井花子でした。
日本に来て2年目・・・銀座でウェイトレスとして働く花子と出会いました。
16歳年下でした。
二人は恋に落ち・・・ゾルゲは花子を家にあげ、6年間も過ごしています。

1941年、45歳・・・来日して8年目・・・
ヒトラー率いるナチスドイツがソ連に侵攻・・・独ソ戦が始まりました。
1か月も前から再三ドイツの危険性を報告していたゾルゲにとって、モスクワの反応は歯がゆいものでした。
ドイツの信仰が始まった翌日・・・6月23日緊急指令!!

「独ソ戦に対する日本政府の方針を探って報告せよ」

ソ連はドイツ戦線に戦力を集中させたかったのです。
しかし、戦力が西側に偏れば、日本に対する防備が薄くなる・・・
日本軍がソ連に侵攻する可能性はあるのか・・・??
ゾルゲに探らせようとします。
スターリンへの違和感からモスクワから距離をとっていたゾルゲでしたが、祖国を守るために迷いはありませんでした。
スパイたるもの戦争を止めるのが本当の仕事・・・そう、信念を持っていました。
そして、モスクワの勝利は共産主義の勝利・・・!!

ゾルゲが全精力をあげて探ったのは、「日本軍はどう動くのか?」という情報でした。
ゾルゲに情報をもたらしたのは、諜報部の中枢人物の尾崎でした。

1941年7月2日天皇と中枢部との御前会議が開かれ、日本の取るべき二つの道が検討されました。
この機に乗じてソ連への北進か、東南アジアの石油資源の南進か・・・??
もし、日本が北進すれば、ソ連軍はドイツ軍と日本軍に挟み撃ちにされる・・・!!
独ソ戦の勃発から2か月後、諜報団の尾崎は政府の要人である西園寺公一と接触します。
尾崎はそれとなく話を伐り出します。

「対ソ戦をやるかやらないか、満州から軍幹部が着て相談しているそうだが、やらぬことになったのか?」
「それは、軍と政府の間でやらぬことに決まったよ」

この情報は、すぐにゾルゲに報告されました。
ゾルゲは日本軍の様子など裏付けをとると、暗号電報をモスクワに・・・!!

1941年10月4日、ラムゼイ報告
日本軍が北進を中止したことにより、前線部隊が日本への帰国を開始した
今年中の日本軍のソ連参戦はない

この報告を受け取ったソ連は、極東を守っていたシベリアの精鋭部隊を西へと移動!!
ゾルゲは、日本脱出の準備を・・・!!
しかし、モスクワへ打電した2週間後の1941年10月18日、ゾルゲの自宅を特高警察が取り囲み・・・20世紀最大と言われるスパイ事件の首謀者ゾルゲは逮捕されたのです。

ゾルゲは東京拘置所に入れられました。
他のメンバーは、すぐにスパイ活動を自白しましたが、ゾルゲだけは否認し続けていました。
しかし、逮捕から1週間・・・ついに、全面的に自白をはじめました。

「石井花子に絶対タッチしてくれるな!!」

当初、スパイ容疑さえ認めなかったゾルゲでしたが・・・証拠を突き付けられました。
それは、暗号電報の下書きでした。
ゾルゲが逮捕前夜に書いたものでした。

「任務達成につき 日本脱出の許可を願う」

いきなり立ち上がり、上着を脱いで投げつけて・・・
「いかにも俺はスパイだった、コミュニストだ、間違いない!!
 ソ連のためにやった
 俺は今までいっぺんも負けなかった
 日本の警察に初めて負けた!!」

ゾルゲの自白は変わっていました。
ドイツ語の文章の方がわかりやすいと、愛用のタイプライターで供述書を打っていきました。
ゾルゲは自らの生い立ち、スパイになった動機を書きました。
そしてどのようにスパイ団を作って、どのように情報を手に入れたのか・・・書いていきます。

1943年2月、極東方面からの精鋭部隊のおかげで、ソ連軍はスターリングラードをドイツから守ることができました。
このニュースに、ゾルゲは満面の笑みを浮かべたといいます。
日本政府はこのスパイ事件を極秘に処理しようと、ソ連にゾルゲと日本兵との交換を申し込みます。
しかし、答えは意外なものでした。

「リヒャルト・ゾルゲなる人物に、当方は心当たりがありません」

戦争の行方を左右する重要な情報をもらたしたゾルゲは、ソ連にとって英雄のはずでした。
しかし、スターリンはその存在すら認めませんでした。
取り調べ半年後・・・

「私の秘密の仕事の全責任は、私にあるのであります。」

スパイは国家への重罪・・・スパイでなくてもその関係者は厳しく取り調べられ・・・拷問で死ぬことも・・・。
ゾルゲは死を覚悟していましたが、どうしても巻き込みたくない人がいました。
自白の前に条件を出しました。

「私に関わった女性たちのことは触れないでくれ
 石井花子は諜報事件について関係ないのだから、取調べの対象から外してもらいたい」

ゾルゲは最後まで花子の正体を明かしませんでした。
知ってしまえば、事件の関係者になってしまうと考えたのかもしれません。
取調べ官も、察して暗黙の了解を・・・
ゾルゲは供述書にわざわざこんな文章を残しています。

「女というものは、政治的なあるいはいろいろな知識がないから、情報活動には全然だめで、女はスパイ活動には役に立たないと思っている」

自分と関係のあった女性たちを守ろうとしたのかもしれません。
石井花子は取調べを受けたものの基礎はされませんでした。

逮捕から2年後の1943年9月29日・・・
主文 被告人を死刑に処す

祖の翌年、1944年11月7日、スターリンは独ソ戦の勝利宣言をしました。
「偉大なる祖国万歳!!」
同じ日、東京拘置所でゾルゲの死刑が執行されました。
ゾルゲ・・・49歳の生涯でした。
遺骨は戦後、共同墓地から石井花子が探し出し、手厚く葬りました。
現在、モスクワ市内にある公園には、ゾルゲの銅像が置かれています。
作られたのはゾルゲの死から20年後・・・スターリンも世を去ってから・・・
理由は、祖国をナチスドイツから救った功績。
ゾルゲは今も市民に愛されています。


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厚い胸板、鏡の前でファイティングポーズ、アフリカでライオンのハンティング・・・20世紀を代表する小説家ヘミングウェー。
行動する作家・・・戦後、アメリカ社会のヒーローとなりました。
その生涯は死の恐怖との戦いの連続でした。
20世紀、アメリカのメディアに度々登場し、ワイルドで行動的な小説家アーネスト・ヘミングウェー。
彼の書く小説も、その外見そのものでした。
代表作の”老人と海”は、真カジキと勇敢に戦う老人の姿を描いて、後にノーベル文学賞を受賞。
戦場にも度々足を運びます。
「武器よさらば」「誰がために鐘は鳴る」・・・自らの体験を描いた作品はベストセラーとなり、20世紀の作品に大きな影響をああ得たと言います。
プライベートでも、真カジキと戦い、アフリカでハンティングに熱中・・・。
自らパパ・ヘミングウェーと名乗り、戦う男らしい男のシンボルになろうとしました。
しかし・・・

「人に聞いてもらうためにウソをついた」

周りが求める姿を演じるあまり、自分を押し殺す場面もありました。
真実とフィクションの間で揺れ動くヘミングウェー・・・その心に常にあったのは、死の恐怖でした。
スペイン内紛、第2次世界大戦に従軍記者として参加。
戦場で死を身近に感じることで対極にある生を強く感じることができました。

「人間は滅茶滅茶にやられるかもしれない
 でも、打ち負かされることはないのだ」(老人と海)

しかし、61歳の時・・・
「書けないのだ・・・もう言葉が出てこないのだ・・・」
最期は自分の手で人生を終わらせることを選びました。

ヘミングウェーは、何度も戦場に・・・戦場での実体験を小説にしました。
”行動する作家”だったのです。
その創作スタイルは、小説の新しいスタイルを切り開いたと言われています。
どうして戦場に向かったのか・・・??

1899年、アメリカ・シカゴ郊外のオークパーク・・・裕福な人々が暮らすこの町で生まれました。
母グレースは元オペラ歌手・・・厳格で格式を重んじ、良家の子女に音楽を教えていました。
ヘミングウェーも、母に無理やりチェロを教えられています。
父クラレンスは医者・・・収入はあったものの、母の1/20でした。
そのために、父は母に頭が上がりません。
母親が経済力が強く、権威主義でもあったので、母親が父親を支配する構図となり、それに対してヘミングウェーは父親を被害者だと思っており、母親を憎んでいました。
父は息苦しい家庭から逃れるように、しばしば大自然の中の別荘へ・・・!!
父から釣りや狩猟の手ほどきを受けることに・・・

祖父アンソン・・・南北戦争に参加したアンソンは、戦場での武勇伝を孫に語ります。
ヘミングウェーは、祖父の語る勇敢な兵士に憧れるように・・・。
そんな祖父がヘミングウェーの12歳の誕生日に贈ったのが、狩猟用の散弾銃でした。
1913年、ヘミングウェーは地元の高校に入学します。
この頃から小説を書き始め、高校の校内雑誌に3つの短編が掲載されています。
両親は医者になることを望みました。
しかし、ジャーナリスト志望のヘミングウェーは、大学に進もうとはしませんでした。
卒業後、ヘミングウェーが選んだ仕事は新聞記者でした。
新聞社の見習いになった年、ヨーロッパは第1次世界大戦真っ最中・・・
この年、アメリカもドイツに宣戦布告し参戦します。
アメリカ第28代大統領ウィルソンは、「戦争を終わらせるための聖なる戦争」と賛美します。
大統領の呼びかけで、戦意を高揚した若者たちは戦地へ向かいました。

ヘミングウェーも参加を熱望しますが、左目の視力が弱くて兵士としては不合格・・・戦場に行けません。
しかし、何としても戦場へ行きたかったのです。

「なんとかヨーロッパに行ってやる!!
 こんな大戦争に参加しないでいるなんて、とてもできない」

ヘミングウェーが見つけた仕事は車の運転手・・・赤十字の傷病兵運搬車の運転でした。
1918年・・・18歳でイタリアの戦場へ。
最前線に配属されて2週間後・・・敵の砲弾を受け、隣にいた兵士は即死、ヘミングウェーも両足に砲弾の破片を200カ所以上受ける瀕死の重傷を負います。
この直後に家族に宛てた手紙が残っています。

「この戦争には英雄など誰もいません。
 われわれはみな、自らの体を差し出し、そこでほんのわずかな人が選ばれるのです。
 死ぬことはいとも簡単なことです。
 僕は死というものを見、死とは何なのかが本当にわかっています。」

それまでは栄光や名誉を夢見ていた戦争の真の顔・・・初めて死と恐怖を身をもって知ったのです。

ヘミングウェーは、イタリア前線で負傷して帰国した最初のアメリカ人となりました。
地元に帰ったヘミングウェーは、英雄として迎えられ、公演を依頼されます。
この時、ヘミングウェーは戦争の実体を正直に話さず、自分を誇張しました。
その理由をにおわせる台詞が短編小説の中にあります。

「人に聞いてもらうためにウソをついた
 うそはたいしたものではなく、他の兵士が見たり、聞いたりしたことを自分のことのように話しただけだった」(兵士の故郷)

戦場での経験を自ら進んで話したヘミングウェー・・・しかし、”死の恐怖”だけは語らず・・・書くこともありませんでした。

第1次世界大戦で負傷したヘミングウェーは、戦場について様々なことを語りながら、その死への恐怖だけは晒すことはありませんでした。
その後、新進気鋭の作家となっても、戦争体験を小説にできないでいました。
しかし、負傷から10年経って、自分の壁をぶち破って「武器よさらば」を発表します。
どうして書けたのでしょうか?
イタリアから帰国し、新聞記者に戻ったヘミングウェーは、1921年、22歳で8歳年上のハドリーと結婚。
新婚生活の場所に選んだのは、フランスのパリでした。
1920年代のパリには、画家のピカソ、小説家のフィッツジェラルドをはじめ多くの芸術家が集まっていました。
パリに行くのが、小説家の近道だと考えたのです。
後の作品でこう語っています。

「もし、若い時にパリに住む幸運に巡り合えば、後の人生をどこで過ごそうともパリは君と共にある
 なぜならパリは移動する祝祭だから」(移動祝祭日)

パリで執筆を始めたヘミングウェーは、1923年、24歳で初めての作品集「三つの短編と十の詩」を出版。
新聞社の記者をやめて、小説家一本でやっていくと決めたのは24歳でした。
ハドリーは親から多くの財産を相続していたので、生活には困らなかったのです。
1926年、27歳で初の長編小説「日はまた昇る」出版。
物語の舞台は、第1次世界大戦後のパリ・・・戦争によってそれまでの価値観が崩壊してしまった若者たちが主人公でした。
不安の裏返しからその日の快楽を求める日々を送っていました。
やがて一人の女性と4人の男性はパリを離れスペインへ。
闘牛を観戦する旅で、女性をめぐり関係が複雑にこじれていきます。

戦後の退廃的な世相が簡潔な文体で書かれたリアルな描写は、若者を中心に大ヒット!!
ヘミングウェーは、一躍新進気鋭の作家となりました。
この文体は、新聞記者時代に培われたもので・・・事実をそのまま書くということが、小説にとっては斬新だったのです。
ヘミングウェーが勤めていた新聞社には、文体心得があり・・・
短い文を用いよ
肯定文で書け
修飾語はなるべく使うな
など、ヘミングウェーの文体の骨格をなしています。

「作家の仕事は真実を語ることである」

自分が見たり、聞いたりしたことをそのまま書くというのが一番の特徴でした。
しかし、大きな問題が・・・
この小説は、ヘミングウェーが実際に友人たちとスペイン旅行をしたときのことがリアルに描かれていました。
登場人物のモデルが誰だか仲間うちですぐにわかってしまったのです。
女性に節操がないのが誰なのか・・・??
プライバシーを暴かれ、怒った友人たちは次々とヘミングウェーの元を去っていきました。
しかし、ヘミングウェー自身はモデルの友人たちは喜んでいるはずと思い込んでいました。



パリで友人を失い、妻と離婚したヘミングウェーは、1928年、29歳の時にフロリダ州のリゾート地キーウェストに移住します。
そこでようやく、自分の戦争体験を小説に書き始めました。
戦場で負傷したあの時から10年の月日がたっていました。

「僕は、最初の戦争があまりにも恐ろしかったので、10年間もそれについて書けなかった
 戦闘は作者に及ぼす傷は、癒すのに非常に長い年月が必要だ」

1929年、30歳の時に「武器よさらば」出版。

第1次世界大戦のさ中、イタリア戦線に参加したアメリカ軍兵士と赤十字の看護師との恋を描いた物語・・・
戦場で負傷し、死を身近に感じた主人公は、脱走して恋人と生きることを選びます。
しかし、待っていた結末は、恋人の死でした。

「人は死ぬ。
 学ぶ時間も与えられず、死とは何かが理解できないうちに。」(武器よさらば)
 
アメリカではセンセーショナルに受け止められます。
それは、戦争に実際に行って、その体験を書いた初めての小説だったからです。
”聖戦”とうたっていたが、国家間の利害を求めた結果で、戦争は欺瞞であったことに国民が気付いたのです。
それは、「武器よさらば」から見えてくるのです。
戦争に実際に行って小説を書く・・・その方法があることに、世界中の作家が気付いたのです。

「武器よさらば」は、3か月の販売部数が7万部以上の大ヒットとなりました。
ヘミングウェーは、誰もが認める人気作家の地位を築いたのでした。

ヘミングウェーが10年かけて、死への恐怖を乗り越えようやく書けた「武器よさらば」。
しかし、完成直前に思わぬ知らせが・・・
父・クラレンスが自らの銃で命を絶ったのです。
ヘミングウェーは、父の自殺は母のせいと思い、母を許しませんでした。

「父は、ただ臆病だっただけで、誰だって手に入れることのできる運が最悪だったのだ
 もし、臆病でなかったら、好き放題に威張り散らしていたあの女(ひと)に、俄然と立ち向かっていただろう
 父が別の女性と結婚していたら、自分はどんな風になっていただろうか」(誰がために鐘は鳴る)

1930年代のアメリカでは、雑誌ジャーナリズムが大流行。
「武器よさらば」が大ヒットし、時代の寵児としてもてはやされるヘミングウェー。
自らパパ・ヘミングウェーと称し、狩猟や釣りの写真と共に、野性的で男らしいイメージをアピールしました。
そのたくましい姿は、メディアを通じて世界に発信され、いつしか”強いアメリカ”の象徴としてヒーロー的な扱いを受けました。

作家がマッチョなのは初めてのタイプ・・・自分で演じていたようです。
ヘミングウェーが好んで行い、小説の題材にしたのがハンティングや闘牛観戦、カジキ釣りでした。
人間よりも大きなものとの命のやり取りに魅せられたと言います。
特に闘牛はお気に入りで、何度もスペインを訪れています。

「私は書くことを学ぼうとしていて、最も単純なことから始めた
 最も単純なことで、最も基本的なことは、激烈な死である」(午後の死)

1936年、スペインで内戦が勃発。
1937年、37歳のヘミングウェーは、従軍記者としてスペイン内戦へ。
そこで、以前とは違う感覚に襲われます。

「スペイン内戦は、死の恐怖や他の諸々の恐怖、全てを完全に拭い去ってくれました。」

皮肉なことに、かつて戦場で植え込まれた死への恐怖が戦場に立つことで消えたといいます。
ヘミングウェーは、この体験をもとに・・・1940年「誰がために鐘は鳴る」出版
反乱軍から、自らが愛する国スペインを救うために内戦に身を投じたアメリカ人の物語・・・。
ゲリラ隊と合流した主人公は、そこで出会った娘と恋に落ちます。
そして、橋の爆破という作戦を遂行します。
が・・・

「この一年、私は信じることのために闘ってきた。
 もしここで勝利することができれば、どこでも勝利するであろう。
 この世は素晴らしいし、そのために闘う価値がある。」(誰がために鐘は鳴る) 

この作品では、これまでのスタンスが微妙に変化しています。
「武器よさらば」のように戦争への懐疑的な目線は薄れ、戦争のために自己犠牲をも厭わない主人公の美談になっていました。
「誰がために鐘は鳴る」は、爆発的な売れ行きを見せ、1年後には販売部数50万部の大ヒットとなります。
ところが・・・それ以降、ヘミングウェーは、文章を書くスピードが遅くなってしまいました。
昔のように書けなくなったのです。
次の作品の完成には10年が必要でした。

「誰がために鐘は鳴る」以降、筆の進まなくなったヘミングウェー・・・
スランプに苦しみながらも、10年後に「老人と海」を発表。
ヘミングウェーは、その後ノーベル文学賞を受賞。
小説家として頂点に立ちました。
しかし、7年後・・・突然自らの銃で命を絶ちました。
どうして死を選んだのでしょうか?
1940年、41歳の時、ヘミングウェーは3番目の妻とキューバに移住。
既にヨーロッパでは第2次世界大戦がはじまっていました。
この時、従軍記者としてヘミングウェーも参加。
その体験をもとに書いた短編小説「中庭に面した部屋」は、昨年死後57年を経て発表されました。
ドイツ軍の占領下からパリが解放された直後、兵士たちがホテルで自分の体験を語り合う物語です。
内容は、私設軍隊の戦闘体験でした。
これを読めば、ヘミングウェーは、従軍記者として戦地にいただけではなく、軍人として戦闘に参加した可能性が非常に高いのです。
ヘミングウェーは、戦場で私設軍隊を率いていたのでは??と、考えられています。
その私設軍隊を率いた体験がそのまま小説に書かれているので、生前に発表されるとまずいと・・・
「死んだら発表してもいい」と、コピーを妻に渡していました。
ハンティングや闘牛で死を見つめ続けたヘミングウェー・・・遂に人としての一線を踏み越えて、人間を殺していたのかもしれない・・・。
しかし、それほどの体験をしても執筆は進まず、悶々とする日々が続きました。
そんなヘミングウェーに転機が訪れたのは1948年・・・ある女性との出会いでした。
イタリア人のアドリアーナ・・・30歳以上年下の18歳の美少女でした。
ヘミングウェーは、アドリアーナに片思いしました。
そして・・・1950年、51歳の時に「河を渡って木立の中へ」出版。
中年男性と18歳の少女との恋を描きました。
アドリアーナは、ヘミングウェーを尊敬してはいましたが、二人は恋愛関係にはならず・・・ヘミングウェーの一方的な恋心でした。
アドリアーナは、当時を振り返りこう語っています。
「私は活気にあふれ、熱意がみなぎっていました。
 だからその熱意を、彼に注ぎ込みました。
 彼はそれまでの文章を書き終えると、別の小説に。
 私に言わせれば、はるかに優れた小説に取りかかったんです。」

その小説こそ・・・「老人と海」・・・本を出すとき、ヘミングウェーが出版社に直談判して表紙にはアドリアーナのデザインが使われました。
物語は実話をもとにヘミングウェーが脚色したものです。
ある年老いた漁師が不漁続きの中、ひとり小舟に乗って沖に・・・そして三日三晩の格闘の末に、遂に巨大な真カジキを仕留める・・・ところが港に帰る途中、船に括りつけた真カジキはサメに食われ、せっかくの苦労も水の泡になってしまう・・・それでも、

「「人間は打ち負かされえるように造られてはいないのだ」
 老人は声に出していった。
 「人間は滅茶滅茶にやられるかもしれない、でも、打ち負かされることはないのだ」(老人と海)

「老人と海」は大ヒットとなり、作家・ヘミングウェー復活!!
と思われた矢先・・・ヘミングウェーを乗せた飛行機がアフリカで墜落してしまいました。
頭がい骨骨折、脊椎損傷、内臓破裂、顔・腕・頭にヤケド・・・重症でした。
これ以降ヘミングウェーは、思うような活動ができなくなってしまいました。
事故から9か月後、ノーベル文学賞を受賞しますが、とても授賞式に出られる体ではありませんでした。

受賞の感想を求められ・・・
「最初に感じたのは喜びでした。
 その喜びは日がたつにつれ次第に大きくなりました。」
その後も健康状態が悪化し、気が滅入ることが多くなっていきます。
「老人と海」以降、作品を出さなくなってしまったヘミングウェー。
しかし、文章を書いていなかったわけではなく、あまりにも長くなり物語をまとめられなかったのです。

かつて極限まで装飾を削ぎ落し、簡潔な文章で名を馳せたヘミングウェー・・・その面影は最早ありませんでした。

「書けないのだ・・・もう言葉が出てこないのだ」

そして1961年7月2日・・・61歳・・・愛用の散弾銃で自らの人生に終止符を打ちました。 


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人類が初めて月に降り立ってから丁度50年・・・当時アポロ11号が月に着陸する姿に全世界が熱狂しました。

1969年7月20日・・・
「1人の人間にとっては小さな1歩だが、人類にとっては大きな飛躍である」
人類が初めて月に降り立ちました。
帰還したアームストロングは、世界中の人々にとってヒーローとなりました。
しかし、わずか2年でNASAを退職しました。
謎に包まれたヒーローの心の中・・・そこには苦悩がありました。
人類初の偉業を成し遂げたアームストロング・・・しかし、彼が本当に追い求めたものとは何だったのでしょうか?

1930年8月5日・・・アメリカ・オハイオ州のワパコネタに生まれます。
家族は両親と弟・妹の質素な暮らしでした。
父は転勤が多く、一家はオハイオ州内で度々引っ越しをします。
友達ができてもすぐに離れ離れ・・・心を許す友人は出来ずに、遊ぶ友達は専ら弟と妹でした。
そんなアームストロングが2歳の頃から夢中になったのが・・・模型飛行機でした。
アームストロング少年は模型飛行機にのめり込み、飛行機は大きくなっていきます。

「私にとって飛行機は、飛ばすことより作る方が大切だったんだ」

模型好きが高じて、実際の飛行機を乗ろうと勉強します。
16歳でパイロットの免許を取得しました。
車の免許よりも早かったのです。

他人と深くかかわることが苦手な子供で、自分の考えが周りと合わないことがあっても議論はせず、何も言わないままその場を立ち去るような子でした。
そして、いつも空を見ているうちに、飛行機に興味を持ったのです。
自由な空には、人間関係からの逃避のような感覚もあったのです。

1947年、17歳でパデュー大学に入学し、航空工学を学ぶ中で将来については・・・

「航空機の設計と操縦、その両方を出来る方法があるかもしれない」

それが新型航空機のテストパイロットという仕事でした。
そして3年生の時・・・アームストロングは運命の女性に巡り合います。
大学に入学したばかりのジャネット・シアロンでした。
活発で楽天家だったジャネットはクラスの人気者で・・・二人の性格は正反対でした。
アームストロングは、あったその日に友人にこう言っています。

「僕はあの子と結婚するよ!」

しかし、アームストロングがデートに誘ったのは、大学を卒業してからでした。
不器用な男の愛・・・しかし、その熱い想いはジャネットに届き・・・
1956年、26歳でジャネットと結婚・・・子宝にも恵まれます。
妻のジャネットは「私がデートしたほかのどの男の子よりも大人びていた」といっていました。

1955年、25歳の時に大学を卒業して・・・後のNASA・・・高速飛行研究所のテストパイロットとなります。
飛行機を操縦するだけでなく、技術者たちと議論を交わし、新人ながら高い評価を得るようになっていきました。
7年後の1962年・・・31歳でアームストロングの運命を大きく変えることが・・・。
人類で初めて月に着陸する宇宙飛行士の募集が始まったのです。
その背景にあったのは、東西の冷戦・・・アメリカとソ連は地球上の領土だけでなく、宇宙開発競争でもしのぎを削っていました。
1961年4月12日、ソビエトのガガーリンが人類初の有人宇宙飛行に成功。
開発で先行するソビエトに焦るアメリカ・・・
そこで挽回を狙うケネディ大統領が狙うのが、有人船の月面着陸という壮大な計画でした。

「1960年代末までに、人類を月面に着陸させ無事に地球に帰還させることを国家目標とします」byケネディ

こうして始まったのがアポロ計画です。
しかし、ソビエトを追うアメリカの技術はお粗末なものでした。
打ち上げ途中で爆発事故が度々おこっていました。
しかし、月に行くとなればパイロットは国民的英雄・・・
命の危険を冒してでも参加したいと253人の候補者が応募してきました。
アームストロングもその一人でした。
他の候補者と比べても実績は十分・・・ただ一人、ロケットエンジンを積んだ飛行機の操縦経験もありました。
1962年9月、32歳の時に宇宙飛行士に選ばれます。
こうして、月を目指す9名の宇宙飛行士が誕生しました。

月面着陸という前人未到のプロジェクトに厳しい訓練をするアームストロング達・・・
そうした中、アメリカの関心は・・・月に最初に降り立つ人間・・・”ファーストマン”は誰になるのかでした。
アームストロングはどうしてファーストマンに選ばれたのでしょうか?

アポロ計画とは・・・
サターンⅤロケットを打ち上げて、地球から月へ司令船と着陸船を送り込みます。
4日後、月の周回軌道に入ったら、司令船から着陸船だけを降下させ、ミッション完了後着陸船は浮上し、司令船とドッキングして地球に帰還する・・・8日間で80万キロという壮大な計画でした。

その準備段階として様々なミッションをするのがジェミニ計画です。
1966年、35歳の時にアームストロングがジェミニ8号で初めて宇宙へ。
①無人宇宙船とドッキング
②宇宙での船外活動
を行う計画でした。
ジェミニ8号はそれまで誰も為し得なかった宇宙でのドッキングに成功。
ところがその直後・・・制御不能・・・回転が止まらなくなったのです。
即座に宇宙船を切り離したものの回転は止まらない・・・遠心力で徐々に意識が薄れていくアームストロング・・・。
しかし、失神寸前で機体を地球に向けることができました。
危機一髪でジェミニ8号は帰還・・・
冷静に判断したアームストロングを地上スタッフは褒め称えます。
本人は・・・??

「我々は任務を果たせずに帰還した
 素晴らしい船外活動を成功させる予定だったのに、全て潰してしまった」

この事故は、アームストロングの家庭に暗い影を落としました。

「彼が家に帰ってくると荷物を下ろして、キッチンで一緒にコーヒーを飲みました。
 そうね・・・その時にケンカになりました。
 ”全員が死んでいた可能性があった でもそれは、最初からわかっているリスクだ
 だからいまさら話しても仕方がない やるか、やらないかなのだ”と・・・」byジャネット

訓練を重ね、アームストロングが月に近づけば近づくほどジャネットの心は遠ざかっていきました。

「人類を月に立たせる国家目標のため、私たちの生活は捧げられていました。」byジャネット

1967年、アームストロング36歳の時、ついにアポロ1号の計画がスタートしました。
1号に乗るのは、精鋭中の精鋭!!
月面着陸に最も近いと言われていました。
その中にアームストロングの親友、エドワード・ホワイトがいました。
自宅も隣どうして家族ぐるみの付き合いでした。
しかし、ホワイトの乗ったアポロ1号が宇宙へと飛び立つことはありませんでした。
地上での練習中、司令船から突如出火・・・
船内に閉じ込められた3人は命を失ったのです。
1967年1月27日・・・アポロ1号火災事故・・・。

アームストロングは愕然としました。

「親友を飛行中に亡くす方が受け入れやすかったかもしれない
 地上のテストで彼らを失うなんて、本当に心が痛んだ
 エドは最高の宇宙飛行士のひとりだったんだ」

事故をきっかけにアポロ計画は大幅な見直しをされ、様々な安全対策が施されました。
そして、事故から2年後の1969年・・・38歳の時、人類初の月面着陸という悲願を託されたのがアポロ11号でした。
乗組員に選ばれたのは船長のアームストロング、マイケル・コリンズ、バズ・オルドリンでした。
このうち、月着陸船に乗り込むのはアームストロングとオルドリンの二人・・・どちらかがファーストマン・・・!!

オルドリンはファーストマンになるために生まれてきた男でした。
宇宙研究で博士号を取り、船外活動の実績も十分・・・
オルドリン自身も、ファーストマンになることを熱望しました。
仲間の宇宙飛行士に、自分を推薦してくれるようにと運動をしていました。
しかし、アームストロングは・・・

「私には大した問題ではなかったが、世間の人々から見れば明らかに重要な問題だった」

彼にとっての大した問題は、1年前の事故でした。
1968年5月6日・・・月着陸船の操縦訓練・・・月面への着陸訓練をしていたら・・・突如コントロールを失って・・・アームストロングはとっさの判断で脱出し、事なきを得ます。
アームストロングの友人だったアラン・ビーンは、知らせに驚いて事故のことを訪ねました。

「私が”今朝緊急脱出したのか?”と聞くと、「ああ!」の一言だけ。
 あと1.5秒脱出が遅ければ、死んでいたのに、そんなことをおくびにも出さなかった
 「ああ」の一言で片づけられたよ!」byビーン

彼の考えでは事故はあったけれど、生きているし、仕事はあるし、物事は続いていると考えたのかもしれません。
冷静な判断をしたアームストロングでしたが、事故そのものは重大な問題として原因究明をするために徹底的にこだわります。
この事故はNASAの首脳陣にとって別の意味でもありました。
彼が、どんな時も冷静で、物事を大袈裟に吹聴しない性格だということがわかったからです。
アームストロングとオルドリン・・・どちらをファーストマンに選ぶのか??
決め手になったのは、地球に帰還後ヒーローになった時の二人の態度でした。

オルドリンは必死で名誉を欲しがった
アームストロングはうぬぼれなかった
「初めて月に立つのは俺だ」という男でもなかった
だから彼しかいないと思ったんだ

こうしてアームストロングはファーストマンに選ばれます。
1969年7月5日、アポロ11号打ち上げ直前記者会見で・・・記者は勇ましく華やかなコメントを期待しました。

「任務以外の個人的なものを持って行くとしたら、何にしますか?」
「持って行けるなら少しでも多くの燃料を持って行く」



1969年7月16日、アポロ11号打ち上げ!!
100万人近い人が見守る中、アポロ11号は打ち上げられました。
アームストロング、38歳の挑戦が始まりました。

ロケット打ち上げ!!9時32分、アポロ11号上昇!!
タワーから離脱・・・アポロ11号でつきに向かう間、アームストロングは徐々に小さくなる地球を眺めていました。

「宇宙から見る地球はのどかなものだった
 勝手に引かれた国境など見当たらなかった」

打ち上げから4日後・・・7月20日、アポロ11号は、月の周回に入っていました。
アームストロングとオルドリンは着陸船イーグルへ・・・!!
準備万端!!
いよいよ月面への降下が始まりました。

イーグルは順調に月の10キロまで降下・・・
その時、突然警報が鳴りだしました。
訓練でも見たことのない警報が・・・!!
船内が緊張に包まれます。

”1202!!”

イーグルはもちろん、ヒューストンでも何が起きたか判明するまで、口から心臓が飛び出そうだった」byオルドリン

原因はコンピューターでした。
当時宇宙船に使われたものは、80年代に流行った家庭用ゲーム機にも劣るほど貧弱でした。
そのため、情報の処理が追い付かないという警告でした。
着陸には支障なしと判断されます。
ホッとしたのもつかの間、刑法に気をとられていて最悪の事態に・・・!!
予定の着陸地点を過ぎていたのです。
目の前に広がるのは巨大なクレーターのデコボコ・・・!!
このままでは着陸は不可能・・・

「せっかくここまで来たのだから、着陸したかった
 中断は考えなかった
 ただ、着陸させることに集中していた」

月面まであと150m・・・!!
アームストロングは船を手動に切り替えて、着陸地点を探します。
月面まで50m・・・燃料もあとわずか・・・チャンスは一度きり!!

「ヒューストン・・・こちら静かな基地、イーグルは舞い降りた」

7月20日午後10時56分、アームストロングは、見事月面着陸に成功!!
そして、イーグルから外に出ました。

「これより月面に足を下ろす
 1人の人間にとっては小さな1歩だが、人類にとってはい大きな飛躍である」

アームストロングは何を言うのか、前もって質問されても一切答えませんでした。
あの明言はどうして生まれたのか・・・??

月面に降り立った二人の最初のミッションは、星条旗を立てることでした。
その時、ある人物から電話が入りました。

「やあ、ニールとバズ、私はホワイトハウスの執務室からかけているんだ」
 
第37代アメリカ大統領ニクソンでした。

「すべてのアメリカ人にとって、今日は人生で最も誇れる日になるだろう
 そして世界中の人々が、この偉業を認めてくれるはずだ
 君たちのおかげで、宇宙は我々の世界の一部となったのだ」

ニクソンは、着陸成功をアメリカの偉業として称えようとしました。
しかし、アームストロングは答えました。
「ありがとうございます 大統領
 私たちは合衆国の代表ではありません
 すべての国家の平和を愛する人、好奇心を持ち未来を目指す人々、彼らを代表してこの場所に立てるの、はとても光栄なことです。」
わずか2時間ほどの滞在で、アームストロングとオルドリンはミッションを黙々と続けました。
月の石の採取、地震計、太陽風測定装置、レーザー反射装置など機器の設置、全てを終え、月を離れる直前・・・アームストロング達は小さな包みをおいてきました。
その中身は・・・宇宙飛行士を称えたメダルでした。
アポロ1号の乗組員、そして人類初の宇宙飛行に成功し、その後の事故で亡くなったソビエトのガガーリンもいました。
月面着陸から4日後・・・アームストロング達は無事に帰還。
アメリカの各都市でパレード・・・熱烈な歓迎を受けます。
さらに海外にも飛び出します。
24の国々を訪れ、1969年11月4日、最後には日本も訪れます。

しかし、この後、アームストロングは表舞台から消えてしまいます。
どうして・・・??

1970年、39歳の時にNASAワシントン本部へ移動。
現場を離れ、管理職に・・・大変な出世でした。
航空学の副長官になり、NASAの航空関連の問題をすべて指揮する立場となります。
しかし、月に降り立った最初の人間として議会やNASAから常に電話がきて、あちこち行ってはだれかと握手するばかりで実際の仕事はできませんでした。
彼のやりたいことではなかったのです。

結局NASAを退職します。
月面着陸から2年後のことでした。

1971年、41歳でシンシナティ大学の特別教授となります。
しかし、NASAをやめたところで人々の注目がおさまることはありませんでした。

家族で夕食に行っても、人々がひそひそと話して・・・
「サインをもらえませんか?」と、テーブルまでやってきました。

「一体いつになれば、私が宇宙飛行士であることが終わるのだろう」

アームストロングが人々の好機の目にさらされることを嫌い・・・表舞台から姿を消します。
ある新聞では・・・世捨て人とまで書かれました。
妻・ジャネットは、アームストロングが退職してホッとしました。

「今度こそ、二人で何か一緒にできると思いました。」

マスコミから解放されたアームストロングでしたが、時間を家族のために使うことはありませんでした。
ジャネットは何も変わらない夫に失望し、別居を選びます。
二人は後に離婚します。
この時のアームストロングの落胆はひどかったと言います。

「ジャネットはこんな生活に愛想が尽きたんだ
 彼女はもう、戻ってきそうにはない」

そんなアームストロングがある事故をきっかけに人びとの前に現れます。
1986年55歳の時・・・スペースシャトル チャレンジャー号爆発事故です。

打ち上げ途中でシャトルが爆発し、7人の宇宙飛行士全員が犠牲となりました。
事故調査委員会が立ち上がり・・・アームストロングは副委員長という重要な役を任されます。
何年もたっていたものの快く引き受けました。
事故の原因はある部品でした。
アームストロングは、公聴会の場で、部品を作った業者を厳しく追及します。

「試験の際、温度の問題は考慮していましたか?」
「あなたたちはこの問題に気が付いていたということですね?」

事故の原因を正確に突きとめなければ無意味になってしまう・・・
だから、何よりもそこにこだわった

1994年、63歳の時のアポロ11号月面着陸25周年記念式典で・・・

若き後輩たちに語り掛けます。

「ここに来ている最高の学生たちよ
 君たちに言いたい
 私たちは”始まり”をやり遂げただけだ
 多くのことが君たちに残されている
 それにチャレンジするのは君たちだ
 チャレンジは宇宙とは限らない
 それが人類の運命なのだ」

2012年8月25日、ニール・アームストロングは82歳で永遠の宇宙に飛び立っていきました。

アームストロングは常々自分のことを、こう言っていました。

「私はいつまでも野暮ったいエンジニアだ」

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