中でも群を抜いて華やかなのが・・・
①山の中で天狗と武術の稽古
②京の五条大橋で襲い掛かる大男を宙を舞ってかわした
③海の上の戦では、敵の刃をよけて船から船へと八艘飛びを見せた
④モンゴルに渡ってチンギス・ハンとなった
その人の名は、源義経です。
平安時代の末、すい星のごとく現れたヒーロー・・・
その人生は、屈辱と栄光の繰り返しでした。
京都駅から北へ15キロ・・・深い山の中にある鞍馬寺・・・
源義経は、少年の頃、この寺に預けられました。
しかし、16歳の時、寺を飛び出し、平氏打倒に動き出します。
義経といえば、紅顔の美少年というイメージがありますが・・・これは、義経記からいわれたものです。
平家物語には、背が低く、色白、前歯が出ていると書かれています。
義経の幼少期は、謎に包まれた部分が多くあります。
平時物語によれば・・・
1159年、源義経・牛若丸は、京の武士の子として誕生。
母の常盤は、たぐいまれなる美女でした。
父は、源氏を束ねる統領・源義朝でした。
12歳年上の兄が、後に鎌倉幕府を開く源頼朝です。
義経が生まれたこの年、源氏を暗黒に突き落とす事件が起きます。
平時の乱です。
平安時代の末、京では朝廷内部の権力争いが起こっていました。
平氏の棟梁・平清盛と、源氏の棟梁・源義朝は、それぞれ対立する実力者について敵味方として戦いました。
勝ったのは、清盛率いる平氏でした。
敗れた父・義朝は、さらし首にされ、家族は離散します。
この戦が初陣だった頼朝は、伊豆へ流刑。
義経の母・常盤は平氏に捕まり、清盛の側室となりました。
その後平氏は、”平氏にあらずんば人にあらず”ともいわれるほど、栄華を極めることとなります。
義経は、7歳で鞍馬寺に預けられました。
平氏の策略で、義経は自分が源氏の血をひくものと知らなかったといいます。
寺での義経は、およそ坊主とは思えない暮らしぶりでした。
鞍馬山の木の根が地上には出だした木の根道・・・
ここで義経は足腰を鍛えて飛び回ります。
天狗に武術を教わったという伝説も残っています。
そして、夜な夜な町に降りては若者たちとケンカを繰り返していたといいます。
そんな義経でしたが、11歳の時に転機が訪れます。
ある時、源氏の系図を見つけた義経・・・
そこには、牛若の名が・・・!!
自分は源氏の一族だったのだ!!
この時義経は、寺で僧侶にはならず、父の敵討ちを決心したと言われています。
そして、16歳の時・・・
義経は、寺に出入りの商人に密かに頼み、脱出。
寺を抜け出した自分を、奥州・平泉に案内してくれと頼みます。
奥州は、平氏の手が及ばない場所だったからです。
「出家をせずに元服をしたいのだが、そうなれば平氏が問題にするであろうから、東国につれて行ってほしい」by義経
首尾よく寺を抜け出し、奥州に向かう途中・・・
義経は、太刀をはき、烏帽子をつけて自ら元服します。
義経がたどり着いた奥州平泉は、中尊寺金色堂が建てられるなど、当時は京にも劣らぬ繁栄ぶりでした。
奥州を治めた藤原秀衡・・・彼の力の源は、この地で採られる金でした。
朝廷から自治を黙認されるほど、絶大な権力でした。
義経は、この地で4年ほど過ごしています。
しかし、何をしていたのか・・・詳しいことはわかっていません。
21歳の時、平家打倒のチャンスが訪れます。
兄の源頼朝が挙兵したのです。
頼朝は、伊豆に流刑となったのち、豪族・北条時政の監視下で暮らしていましたが、彼の娘・政子と結ばれ支援を受けました。
北条氏の後ろ盾を得て、頼朝は徐々に関東武士団を束ねる存在になろうとしていました。
頼朝挙兵の報せを聞いた義経は、平泉を発ち、兄のもとに・・・!!
静岡県清水町にある八幡神社・・・その境内には、対面石が残っています。
戦の為、頼朝はこの近くに陣を張っていました。
兄を訪ねた義経は、そこにある石に腰かけて、初めて対面したと言われています。
「奥州に下向して多年を送ってきました
しかし、平氏打倒のために挙兵したと聞きまして、出てきました」
「先祖が兄弟で協力して敵を倒した話とよく似ている
義経が来てくれ感動した」
こうして義経は、頼朝の軍に参加しました。
この時、22歳でした。
兄・頼朝と共に、平氏打倒を誓った義経・・・
しかし、頼朝はこの時すでに鎌倉を中心とする武士集団の棟梁・・・
朝廷に頼らない、新しい世を作ろうとしていました。
同じ平氏打倒を目指す兄弟でも、棟梁と家臣と、頼朝は考えていました。
頼朝のもとに来て3年・・・
1183年、24歳の時に義経初陣!!
しかし、相手は平氏ではありませんでした。
同じ源氏の木曽義仲でした。
義仲は、頼朝の従兄弟で無類の強者・・・戦いで負けた兵士を追いかけて上京し、ついには平氏を京から追い出しました。
しかし、京に入った義仲の軍勢は、素行が悪く、乱暴を働いたため、人々や朝廷の評判が悪かったのです。
そこで朝廷は、義仲を追い出すため関東で勢力を広げていた頼朝に助けを求めます。
命を受けた頼朝は、義経を京へと遠征・・・そこにはある思惑がありました。
義経の力量を推察することでした。
2万5000の兵を率いた義経は、この頃から戦における非情さを見せています。
京の手前の宇治川に差し掛かった時・・・
敵によって橋が壊され、兵を進めることができません。
歩いて渡ろうにも川岸が狭く、しかも渡りやすい場所には住民の家が建っており大軍は進めない・・・
そこで義経は、こう命じました。
「邪魔な民家を焼き払ってしまえ」
火をかける前に、住民に声をかけましたが、誰も外には出てこない・・・
構わず、義経は火をかけ、兵を進めたといいます。
こうして京へと進んだ義経は、木曽義仲を打ち破り、都から追い払いました。
都に入った義経の兵たちは、規律正しく紳士的だったと言われています。
それから間もなく、頼朝から新たな命令が・・・
「平氏を討伐せよ」
ついに、宿敵と相まみえる時が来ました。
当時の平氏は、棟梁の清盛が病死。
息子の宗盛が後継者となっていました。
京を追われた平氏は、福原・・・現在の神戸で、体制の立て直しを図ります。
福原は、瀬戸内海交通の要衝で、平氏は以前から中国・宋との貿易拠点としてこの港を整備していました。
さらに、清盛の孫である安徳天皇を京から福原に連れ出します。
その時、三種の神器も持ち出しました。
福原には、平氏と朝廷の意向が健在でした。
平氏が勢いを取り戻す前に打つべし・・・
1184年、25歳の時、軍を率いて京を出発。
平氏は、本拠地福原を守るため、東西に強固な防衛線を築いていました。
その為、源氏の軍は、東西に分かれます。
義経は山側から西の防衛線・・・一の谷に向かいました。
一の谷は、瀬戸内海に面し、後ろに断崖絶壁を背負った天然の要塞でした。
侵入経路が限られるため、非常に攻めづらい・・・
一の谷の合戦・・・義経は、山の上に!!
奇襲を仕掛けます・・・鵯越の逆落としです。
どうして山の上を選んだのでしょうか??
義経は、いくつかの西海合戦には必ず、現地案内人を見つけながら対応していました。
平家物語によると、義経は、鷲尾義久という地元の漁師に、崖への案内を頼んでいました。
そして、鹿が崖を下ると聞くと・・・
「馬を下らせてみよう、義経を手本とせよ!!」by義経
こう叫んだ義経を先頭に、70騎余りが崖をくだり、奇襲を仕掛けました。
平氏はこの時、源氏の攻撃は西の平地から来ると想定し、裏の守りは薄かったのです。
予期せぬ攻撃に、平氏の陣は大混乱!!
義経が混乱に乗じて火を放つと、平氏は総崩れとなりました。
こうして、一の谷の合戦に勝利した義経は、一躍その名を轟かせることになりました。
この時、26歳!!
一の谷の合戦に敗れた平氏は、西へと撤退します。
瀬戸内海の各地に拠点があったからです。
水軍を主力とする平氏にとって、海での戦は圧倒的有利でもありました。
一方、源氏の主力は騎馬隊を中心とした陸の戦力・・・海での戦いの経験も乏しかったのです。
しかし、義経は、勝利をかさね、平氏を追い詰めていきます。
一の谷の合戦に勝利し、京に凱旋した義経・・・
時の権力者・後白河上皇は、義経を大いに讃えます。
義経は、1184年8月に検非違使に任官。
しかし、このことが、頼朝を激怒させました。
義経は、頼朝に無断で、役職と官位を授かったからです。
官職と、位階は、間に朝廷が介入する余地を与えてしまいます。
頼朝は、官位につく際には、自分が値するかどうか決めて要請するとしていたのです。
義経は、平家追討の任務から外され、京に留まることとなります。
義経は、ひとりの女性と出会います。
静御前です。
静御前は、白拍子という舞の名手でした。
そのうえ、評判の美人・・・
義経は、静かと愛し合うようになります。
平氏追討から外されたことで、幸せな生活を掴んだのです。
その頃、平氏は屋島に本拠を構えていました。
頼朝は、中国地方と九州の平氏勢力を先に攻め、屋島の平氏を孤立させるという計画を描いていました。
しかし、九州方面への長い進軍の途中で兵糧が不足・・・
兵士の指揮も下がり、遠征は失敗・・・
作戦の立て直しを迫られます。
そこで、義経に白羽の矢が経ったのです。
義経は、屋島を攻略せよと命を受けましたが・・・
屋島は、難攻不落の海の要塞でした。
当時の屋島は、周囲を海に囲まれた島でした。
高い山から瀬戸内海を一望できるため、義経たちが船で近づけばすぐに見つかってしまう・・・
運よく接近で来ても、入り組んだ海岸線に隠してある平氏の船から背後を狙われやられてしまう・・・!!
屋島をどう攻略するのか??
ある男が口を開きました。
兄・頼朝の腹心で軍に帯同していた、梶原景時です。
「船に逆櫓をつけ、いざという時に後ろにも逃げられるようにすべきでしょう」by景時
義経は、この案が気に入りませんでした。
「逃げ支度をしての出陣など、縁起が悪い・・・」by義経
それを聞いた景時は、さらにこう言い放ちました。
「ただ責めるだけでは、前に進むだけの猪武者と同じではないか」by景時
「猪か鹿かは知らないが、戦はひたすら攻めに攻め、勝つことこそ重要だ」by義経
軍議にしびれを切らした義経は、わずか150騎の手勢を連れて、出陣します。
大坂湾に出た義経は、屋島のある西に行かず、屋島の春か南東・・・現在の徳島県の勝浦に上陸。
陸路を通り、平氏の警戒網にかからないようにしました。
しかし、四国へ渡るときに、運悪く天候が悪化・・・
それでも義経は、嵐の中、船を出せと命令しました。
上陸した義経は、海からの攻撃を意識していた平氏の裏をかき、陸側から一気に攻めます。
1182年2月、屋島の戦い・・・
平氏はまたも総崩れとなり、逃げる平氏を追撃した義経は、3日間で屋島を陥落させました。
屋島を失った平氏は、さらに西へと逃げていきます。
義経はこれを負い、壇ノ浦で兵士との最終決戦を迎えます。
壇ノ浦の戦いを前に、義経は頼朝から二つの指示を受けていました。
①天皇を安全に迎えるべし
②三種の神器を無事に取り返すべし
1185年3月24日、壇ノ浦の戦い・・・
源氏軍と平氏軍は、ついに激突!!
壇ノ浦は、潮の流れが速く変化が激しいことで知られていました。
平氏は、この潮の流れをよく知っていました。
午前9時・・・開戦。
平氏軍は、潮の流れに乗り、あっという間に源氏の船に近づくと矢を射かけました。
鮮やかな先制攻撃です。
源氏は思うように動けず、圧倒されました。
しかし・・・やがて形勢が逆転します。
午後になると、潮の流れが180度変わったのです。
西へ流れる潮に乗り、攻勢を仕掛ける源氏軍!!
義経はここで、ある作戦を実行します。
船を操る水夫に矢を射かけたのです。
船のコントロールを失った平氏軍は、反撃の矢が打てない・・・!!
さらに、平氏にとって最悪のことが起きます。
味方の水軍が、平氏を裏切りだしたのです。
義経が、彼らの家族を人質に取っていたからです。
もはや、勝敗は決したも同じ・・・!!
しかし、ここで義経の想定外の事件が起きます。
まだ8歳の安徳天皇が、祖母に抱えられ海の中に身を投げたのです。
そして、三種の神器のひとつ・・・草薙剣も海に沈んでしまいました。
やがて、残った平氏の武士たちも海に身を投げ、栄華を誇った平氏はついに滅亡しました。
義経・・・この時、27歳。
1185年4月、平氏を倒し京に凱旋。
義経は、名実ともに都の英雄となりました。
5月・・・戦勝報告のために、鎌倉に向かいますが・・・
手前の小田原で足止めを食らいます。
頼朝の使者が、”鎌倉に入らずその場に止まれ”と伝えたのです。
頼朝が与えた2つの指示・・・
天皇を連れ帰るべし、三種の神器を持ち帰るべし・・・これを義経が守れなかったため、頼朝が起こったからだと言われています。
加えて義経は、またもや頼朝に無断で後白河上皇から重要な役職を授かっていました。
”御厩司”・・・後白河上皇の軍馬を管理する親衛隊長ともいうべき役職です。
頼朝にとって、後白河上皇と義経の接近は、由々しき事態でした。
何故なら、頼朝はこの時、朝廷から自立した武士による新たな政権を作ろうとしていたからです。
頼朝の義経の印象をさらに悪くしたのは、義経と行動を共にしていた頼朝の腹心・梶原景時からの訴えでした。
「義経殿は、頼朝公の代理として御家人たちを与えられ、戦をしてきたにもかかわらず、しきりに自分の手柄だとばかり考えております
兵士を討ち滅ぼした後の義経公の様子といえば、これまで以上に傲慢なため、みな、危険を感じております」by景時
鎌倉の満福寺・・・
ここに、義経が頼朝にあてた手紙が残されています。
”賞されるべきところを 思わぬ讒言によって 計り知れない功績が無視されることとなり
私は罪深くして罰を受け 功績こそあっても誤りはないのに お怒りを買ってしまい
むなしく涙に暮れています”
しかし、その思いは頼朝には届かず、京に戻るようにと命が下るのでした。
1185年10月・・・兄弟の仲を決定的に引き裂く出来事が・・・
京に戻った義経は、頼朝の刺客に襲われます。
かろうじて難を逃れた義経でしたが、ついに頼朝と戦うことを決意します。
義経は、後白河上皇に訴えます。
「頼朝追討の宣旨を賜り、一矢を射たいと思います」by義経
渋る上皇でしたが、度重なる義経の催促に・・・義経の離反を恐れてとうとう・・・
10月、頼朝追討の宣旨を得ます。
これを受け、義経は、打倒頼朝の仲間を募ります。
しかし・・・朝廷の宣旨を得たにもかかわらず、義経の軍に参加するものはいませんでした。
義経に味方しても、最終的に恩賞がどういう形で自分たちの手に入るかという不安定さがあり、義経は個人プレイヤーとして力は強いけれど、その先が見えない・・・
11月、義経は、京を出て逃亡生活に入ります。
長い逃亡生活の始まりでした。
義経が今日から脱出したと聞くと、頼朝は後白河上皇に義経追討の宣旨を要請しました。
さらに頼朝は、義経討伐を理由に、上皇に守護・地頭を全国に配置することを認めさせます。
頼朝は、各地に兵を置き、そこで米を徴収することに成功。
近年ではこの1185年を鎌倉幕府の成立とする研究者も多くいます。
奈良県吉野山・・・ここは、義経の潜伏先でした。
山の中腹にある吉水神社には、義経と静が暮らした部屋が残されています。
しかし、吉野にも追手が迫り、一行はわずか5日間の滞在で去っています。
身の危険を感じた義経は、静御前と別れます。
やがて静は、吉野で捕らえられ、頼朝の厳しい尋問を受けることとなります。
この後も、義経の逃亡生活は2年も続きました。
1187年2月・・・かつて青年時代を過ごした奥州・平泉に向かいます。
義経には、もはや、若き日の自分を保護してくれた藤原秀衡を頼るしかありませんでした。
しかし、平泉での生活も長くは続きません・・・
1187年10月、藤原秀衡死去。
義経、29歳の時でした。
秀衡の死を知った頼朝は、朝廷に義経のみならず、秀衡の息子・藤原泰衡を討伐する宣旨を求めます。
1189年閏4月、藤原泰衡の裏切りで、義経は襲われます。
義経たちは必至に戦ったものの、やがて力尽きました。
1189年閏4月30日・・・源義経自害・・・享年31歳でした。
1189年9月、奥州藤原氏滅亡・・・
義経をかくまった罪で、頼朝は奥州に進軍!!
100年の栄華を極めた奥州藤原氏を滅ぼしたのです。
1192年7月、頼朝は朝廷から武士の最高職・征夷大将軍に任じられました。
義経の死から3年後のことでした。
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