日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: 城下町へ行こう

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戦国最強・武田信玄の不思議をめぐる甲府の城下町です。
人口・190,456人、面積212.47㎢、特産はブドウ・イチゴ・ワイン。
山梨県甲府市は、四方を2000m級の山に囲まれた甲府盆地にあります。
その中央に武田神社が・・・その昔、ここに信玄の本拠地があり、ここから家臣たちと共に大きく甲府の町を発展させました。
その後、豊臣秀吉によって、新たに甲府城が建てられました。
しかし、庶民にとって、甲府はやはり信玄の町です。
そんな民に愛された信玄の町にはどんな不思議があるのでしょうか?

武田通り・・・武田信玄公にあやかってつけられています。
甲府市は、信玄公・・・武田家の町です。

疾きこと風の如く
徐かなること林の如く
侵掠すること火の如く
動かざること山の如し

ご存じ信玄の代名詞、”風林火山”の旗印の内容は・・・
戦における兵たちの心得を旗に記したといわれています。

風林火山は、孫氏の兵法を引用したものです。
孫氏とは、紀元前500年頃・・・中国春秋時代の思想家・孫武の作とされる兵法書です。
信玄は、そこに書かれていた戦に対する心得を徹底的に学んだといわれています。

武田神社は、1919年に創建されています。
武田信玄が御祭神として祀られています。
戦において、連戦連勝の信玄にあやかって、勝負事のご利益があるとされています。
武田神社に隠された謎とは・・・??
ここは、武田信玄の館でした。
難攻不落の信玄屋敷です。
甲府駅から北に二キロ・・・町全体を見守るように鎮座する武田神社。
戦国時代、この時代には、信玄が本拠地として活動した武田氏館がありました。
現在も、堀や土塁、古井戸などの信玄時代の遺構がそのまま残されています。
信玄はこの地に城を建てず、生涯屋敷住まいでした。

どうして戦上手の信玄が、平屋の屋敷に住んでいたのでしょうか?
館の周りは、三方を山に囲まれ両側には左に相川、東に藤川が流れていました。
つまり、南側以外は、天然の要害で、敵が容易に侵入できないようになっていました。
武田氏館を攻めるためには、南側だけしかありません。
その南側も橋もなく、堀で囲まれて入り口は東側にありました。
正面を塞ぎ、東側へ敵を迂回させるようにしたのです。
しかもその手前には、家臣たちの屋敷があるために、容易に近づくことができません。
万一東側・追手門にたどり着いても、門の前に三日月堀と土塁があり、その内側に味方が忍び、弓や投石で狙い撃ちできるようになっていました。
この防壁は、丸馬出とよばれ武田氏考案の鉄壁の防御システムです。
安心して外へ攻めていけたのです。

信玄が残したといわれる言葉があります。

人は城
  人は石垣
     人は堀
 情けは味方
    仇は敵なり

当時、戦国大名たちは、己の権力を見せつけるために、巨大な天守や石垣を作りました。
しかし、信玄は、堅牢な城を造ることより、町の整備にお金と労力をかけたといわれています。
400年以上たった今も、その姿を残す”信玄堤”。
川の氾濫を防ぎ、広大な新田開発に大いに役立ちました。
信玄は、家臣や民との信頼関係を築くことができれば、城などなくても強固な国づくりができると考えていたのです。

戦国最強といわれた武田騎馬隊。
最大で5万人以上いたといわれる中で、最も優れた武将24人を武田二十四将といいます。
信玄の右腕ともいわれた軍師・山本勘助を始め、武勇に優れたものが集まり、彼らの手によって、武田最強伝説が作られたのです。

最近、武田の騎馬隊にある疑問が出てきました。
それは、大きな馬に乗ってかっこよかったのではないのでは??
ポニーに乗っていたようです。
颯爽と戦場を駆け抜け、百戦錬磨といわれた武田騎馬隊がポニー集団??
今でこそ馬といえばサラブレッド・・・彼らが日本に伝わったのは明治時代です。
信玄の時代にサラブレッドは存在しません。
当時の馬は、長野の木曽馬などが一般的でした。
この木曽馬、ポニーと呼ばれることもあり、サラブレッドに比べて小柄で足も短くスピードも出ません。
そして平成元年7月・・・武田氏館から一頭の馬の骨が発見されました。
馬でありながら人のように埋葬されていたことから、武田家の中でも重要人物・・・大将クラスの馬の可能性があるといわれています。
125センチとかなり小柄で、この小柄な馬が、武田騎馬隊の馬の可能性を秘めているのです。

1575年長篠の戦いでは、信長と家康の連合軍が、当時最も恐れられていた武田の騎馬隊と激突!!
3日前、家康は武田軍を警戒して家臣に命じます。

「武田の騎馬隊がまっしぐらに突入してくるので、柵など念入りに作るように。」by家康

「関東衆(武田軍)は馬の扱いがうまい。」by信長

騎馬専用の防護柵を築いて警戒したといいます。
果たしてポニーの武田騎馬隊は、信長&家康が警戒するほど強かったのでしょうか?
孫氏の兵法は、「戦わずして勝つ!!」です。
「百戦百勝は、善の善なる者に非ざるなり」・・・つまり、百戦百勝は、最善に見えるが、勝った方も被害が出るため、戦わずに敵を屈するのが最善ということなのです。

これこそ、信玄が生涯実践しようとしていた「戦わずして勝つ」なのです。
諜報活動、調略を重んじ、「武田軍団は強い、騎馬軍団も強い!!」と、イメージ戦略していたのです。
それはもちろん本当の強さがあってのこと。
信玄の生涯戦績は。72戦3敗です。
それだけの強さがありながら、戦わないようにしていたのは、戦いによる被害の大きさを知っていたからなのかもしれません。


北杜市には・・・味噌なめ地蔵があります。
全身味噌まみれです。
お地蔵さんに味噌を塗る部分は、自分の身体の悪い部分です。
武田信玄が信濃の国で初陣(海ノ口城の戦い)を飾った信玄が、帰り道に光り輝く地蔵菩薩を見つけ、持ち帰ったものです。
っしかし、正覚寺の前で、急にお地蔵さんが動かなくなり、仕方なくこの場所において行ったとされています。
背中には信玄が括りつけて持ち帰った二筋の縄の跡が残っています。
どうしてお地蔵さんに味噌を塗るようになったのか??
味噌は、塩分のきいた保存食で腐らない=悪くならない=これ以上悪くならなように塗っているのです。
その理由には諸説あり、コメの不作が関係しているといいます。
甲府は、山に囲まれた盆地で、味噌の原料となる米の栽培が難しかったといいます。
貴重な味噌を塗ってご利益を願ったのです。
信玄は400年後、この地蔵が味噌まみれになっているとは思いもよらなかったでしょう。

山梨には甲斐九筋があり、領地拡大を図り軍用道路として当時の武田軍にとって重要な道でした。
街道筋には狼煙が置かれました。
戦国時代は、馬での伝達が主でしたが、山で道が入り組んでいた甲州では、狼煙を重宝しました。
信玄ほど、狼煙をたくさん置いた人はいないといわれています。
記録によれば、4,5キロ置きに狼煙が置かれました。

狼煙は”狼の煙”と書きます。
それは、狼煙は、古来中国で連絡手段として生まれました。
狼の糞を燃やしたところから、狼煙といわれるようになりました。
情報を確実に伝達するためには、煙が風に流されないことが重要でした。
そのために、強い火力で、濃い煙を出すことが重要でした。
肉食動物である狼には、たんぱく質が豊富に含まれ、草木だけで燃やすより高温となり、蒸気機関車のように真っ直ぐな煙が上がったといわれています。
どのくらいの速さで届けられたのでしょうか??
新幹線と狼煙とどちらが早いのか??実験した過去があります。
新尾道駅から新大阪駅までの全長250km・・・新幹線と僅か10分ほどの差だったといわれています。


信玄が死ぬと跡を継いだのは勝頼です。
2年後には武田家の行く末を左右する長篠の戦いへ・・・
大量のてっぽうを用いた織田・徳川軍に武田軍は完敗!!
二十四将の多くはこの戦いで命を落とし、武田家を滅亡させた戦といわれています。
武田家にとって、歴史的な敗戦となった長篠の戦い・・・
二十四将の中で、四天王のひとりとして活躍した内藤修理亮は、勝頼を安全に逃がすために戦場に残る選択をします。
その時、勝頼に頼みごとをします。
形見の旗を家族に・・・!!
無事に甲斐国に戻った勝頼は、自ら内藤家に足を運び、内藤の旗を家族に渡し、気にかけたといいます。

山梨県内では、ほうとうを食べられる店がたくさんあり、家庭料理で花嫁修業の一つといわれています。
ほうとうのルーツは、武田信玄です。
ほうとうは、小麦粉を平たく練って作られています。
即席に造ることができるので、陣中の非常食でした。
戦場に運ぶ兵糧には限りがあり、携帯性や保存性が重視されていました。
ほうとうは、味噌と小麦粉さえあれば、どこでも作ることができるので信玄が広めたといわれています。
信玄が自ら刀で細く切ったことから「伝家の宝刀」=ほうとうとなったといわれています。
戦場でしっかりとした食事ができるかどうかは、戦いを左右する大事なことでした。

天目山栖雲寺は、信玄の先祖が眠っている寺です。
信玄の祖先にあたる武田信満が眠る栖雲寺には、信玄ゆかりの貴重な品がたくさんあります。
経に軍配を持っている武田信玄・・・川中島の戦いは伝説として受け継がれていますが、その時、謙信の刀を受けたのも軍配だったといわれています。
どうして右手に軍配なのか??
相撲で使われる軍配ですが、元々は、戦において武将が軍を采配する道具のことです。
多くの武将の中でもひときわ軍配のイメージが強い信玄。
この栖雲寺にはたくさんのお宝が眠っていますが・・・その中に、信玄が使っていたといわれる本物の軍配があります。
普通は木や紙でつくられますが、鉄製の軍配で、鍛冶屋に武器として作らせた一点物です。
信玄が本当に鉄製の軍配を使っていたなら、伝説の川中島の一騎打ちで謙信の刀を軍配で受け止めたのも頷けます。
軍配には傷が入っており・・・謙信と交えたときの刀傷かも知れません。
信玄は38歳の時に、戦国大名でありながら出家の道を歩みます。
その時、晴信から信玄に改名。
さらに、恵林寺住職の快川紹喜を招きます。
そこで、信玄の人生を変えてしまう出来事が!!
ある日信玄は和尚がどれほどの人物なのかお経を読んでいる時に刀を突き付けます。
和尚はびくともせずに、
「一国の主たる者、そうやすやすと刀を抜いてはいけません。
 刀を抜かないということが、家臣を信頼している証で、采配をしっかりしておけばそれでよいのです。」と進言を諭しました。
己をたいそう恥じた信玄は、以来刀を抜くことなく、軍配を持つようになったのです。

武田信玄と徳川家康が変えてしまった日本の伝統文化とは??
それは「門松」です。
門松を飾る習慣は、平安時代からで、家内安全や豊作をもたらす神様が訪れる目印として松を飾ったものです。
武田流門松は、竹を削ぎ切りではなく、寸胴に切ってあります。
寸胴型門松が日本のスタンダードでした。
しかし、戦を機に新しい門松が誕生しました。
1572年三方が原の戦いで、浜松城で待ち構えていた徳川家康と上洛の途上にあった信玄との戦いで、信玄が家康を手玉に取った戦いとしても知られています。
武田軍に完膚なきまでに叩かれた家康・・・家康は無様な姿を一生忘れないようにしかみ像を書かせたことで有名です。
そんな家康に勝った信玄から手紙が・・・その手紙の内容は??

松枯れて 竹類なき 明日かな

松は松平のことで、竹は武田のことです。
松平は終わって、武田の将来は類まれなく良くなる明日である。
これを怒った家康は、返歌を送ります。

松枯れで 武田首なき あしたかな

子供じみたようにもなりますが・・・家康の返歌は、ひらがなにするとすべて同じ字で書かれています。
濁点だけで全く違う意味になります。
そして、武田の首を斬ってしまえ!!ということで、削ぎ切りの門松を送ったといわれています。
これをきっかけに、江戸幕府以降、削ぎの門松が主流になりました。

甲斐・善光寺・・・長野の善光寺と深いかかわりがります。
創建664年国宝・信州善光寺。江戸時代は、伊勢神宮と並んで、庶民の観光スポットNo,1で、一生に一度は善光寺参りといわれるほどでした。
6世紀半ばごろ、百済から持ち込まれた日本最古の阿弥陀如来像が安置されています。
そんな信州善光寺と同じ名を持つ甲斐善光寺・・・甲斐善光寺は、武田信玄が長野の善光寺を移した時からあります。
お寺には川中島の陣太鼓があります。
川中島の戦いの舞台となった川中島から信州善光寺は近く、戦いによって消失してしまう可能性がありました。
消失を恐れて、こちらに移したともいわれています。
信玄は、信州善光寺の全てを持ってきたのは、親切心だけではなく・・・
信州善光寺にある日本最古の如来像・・・それを手にすることは権力を手にすることになる。
以後、信長→家康→秀吉の手から、善光寺に戻されたといいます。
手にした彼らは、大きな権力を手に入れていきます。

山梨県甲府には、人と人とのつながりを大切にする信玄の想いが息づいていました。

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九州肥前に栄えた長崎県島原の城下町です。
雲仙普賢岳・有明海・・・雄大な自然にあふれた島原市・町の中心には白亜の城・島原城があります。

島原城を治めていたのは島原藩初代藩主・松倉重政です。
重政は、もともと大和国を治めていた筒井順慶の家臣で外様大名でした。
関ケ原や大坂の陣で武功を上げ肥前島原の大名として出世しました。
築城の名手と言われた重政は、見事な高石垣と美しい天守をもつ連格式の平城を造りました。
巨大な五十の天守閣は、大坂城・熊本城にも引けを取らないと言われています。

しかし・・・4万石・・・。
4万石なのにどうしてこんな大きい城が・・・???

1637年日本史上最大の一揆が勃発します。
島原の乱です。
わずか16歳の天草四郎を総大将に3万を超える一揆勢が蜂起、11万を超す幕府軍と激戦を繰り広げたと言われています。
これは地盤を固めようとしていた徳川幕府を震撼させるものでした。
この城は・・・4万石には過ぎたる城・・・。
この城を建てるために、莫大な築城費がかかり、幕府の財政は破綻・・・。
そこで重政は、民に重税をかし・・・おまけに飢饉で困窮していた農民たちに重くのしかかります。
さらに追い詰めたのがキリシタン弾圧。。。

島原は戦国時代、キリシタン大名の有馬晴信が統治していたということもあり、たくさんのキリシタンが暮らす地でした。
しかし、キリシタン禁制の制度が出来・・・
松倉氏による弾圧が始まったのです。
その弾圧は凄惨を極め・・・
磔、火あぶり・・・
重税に宗教弾圧・・・。
この苦難が重なって・・・島原の乱の要因になったとも言われています。

最後の激戦地となったのが南島原市の原城。
ほとんどの住民・・・3万7000人の一揆勢ほぼ全員が、この地で命を落としたと言われています。
原城本丸付近から、人骨と十字架が多数出土。。。
今も献花が絶えません。

島原の乱で命を落とした人々は、昔からこの地に住んでいた普通の農民でした。
ほとんどの住民がいなくなり、南を中心に無人になったと言われています。
今の町は、キリシタンを封印し、作り直された町です。
キリシタンの繁栄と弾圧がつまった町なのです。

1792年島原大変によって、普賢岳の地震によっていたるところで水が湧き始め・・・水の都・鯉の泳ぐ町となりました。
湧水スポットがたくさんあります。

400m続く武家屋敷通りには・・・
江戸時代島原藩の下級武士が暮らしていました。
通りの中央を流れるのは湧水で・・・水奉行がおかれるほど大切にされていました。
今もそのままの姿を残しています。

屋敷の塀の上には石が乗せられていて・・・
これは、敵が攻めてきた時に石つぶてとして利用する為とも言われています。
島原の乱後も警戒心が強かったようです。
その風習が現在も残っているのです。

この地方では1年中しめ縄を飾ります。
これを飾ることで、
”うちはキリシタンではない!!”ということを主張しているのです。
同じようなことに、仏間をあえて玄関の近くに置き、通りから仏間を見えるようにしている家もあります。
そんな文化が城下町に受け継がれているのです。

六文銭と言えば・・・真田幸村をはじめとする真田一族ですが・・・
真田家の拠点は、信州・上田が有名ですが・・・
崇台寺では、島原の乱で亡くなった人すべてを弔うために・・・乱の翌年に建立されました。
どうして六文銭と関係があるのでしょう?
乱ののちの・・・徳川譜代の三代藩主・高力忠房の正室・まのの方が、真田信之の娘だったのです。
真田了憶商人が来て・・・その縁で出来たお寺が崇台寺なのです。
しかし・・・その了憶上人真田説は・・・謎ですが・・・住職さんは、幸村の弟・真田信勝だと思っているそうです。

大坂の陣で幸村は死ななかった???
秀頼を背負って九州へ落ち延びた???
そうしたら島原へ・・・???

徳川幕府を震撼させた島原の乱。。。
乱の人々を弔う・・・しかし、この六文銭には、真田を弔う意味もあるのかも知れません。

壮絶な歴史の中で、独自の文化をはぐくんできた島原・・・
世紀の動乱に天変地異・・・
何度でも立ち上がる姿がそこにはありました。




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柳川城は・・・難攻不落の要塞でした。
網の目のように張り巡らされた有明海に続く堀を決壊させ・・・
町中全てを水浸しにし、敵が城下町に入る事すらできないという・・・鉄壁の城でした。

では・・・柳川城は誰のお城???

三柱神社には・・・
柳川にゆかりのある3人の人物が祀られています。
その中にいるのは柳川に君臨した女武将。
戦乱の世にあって女性の殿様がいたのです。

ここに祀られているのは・・・
立花家初代は負けなしの立花道雪。
立花家初代柳川藩主は秀吉に九州一の名勝と謳われた立花宗茂。
最後は道雪の娘でああり宗茂の妻・誾千代。
この誾千代が薙刀使いの名手で女殿さまと呼ばれていたのです。

お家に嫡男が生まれない場合、養子をもらいお家存続が当たり前の時代・・・
道雪は、7歳の娘・誾千代に家督を譲ったのです。
道雪は北九州の覇者・大友宗麟の筆頭家臣でした。
大友家から養子をとるように再三催促があったにもかかわらず・・・
しかし、大友家はお家騒動や内紛があり巻き込まれないためにも・・・養子を受け入れずに娘に家督を譲ったのです。
まさに前代未聞のことでした。

ところが6年後・・・
女城主として大友家に仕えてきた誾千代に天気が訪れます。
大友家のライバル島津家が大友家に攻め込みます。
立花家のピンチ!!
そこを救ったのが立花宗茂です。
戦の達人と呼ばれることとなる15歳の宗茂は、誾千代の婿養子となり家督を譲り受けます。

宗茂が家督を継いでいたとはいえ・・・立花家のことには口出しせず・・・
気は優しくて戦上手の宗茂と女ボス・誾千代の戦国最強の戦う夫婦が誕生しました。
1586年立花城の戦い。。。
遂に九州制覇を目論む島津に包囲されてしまいました。
しかし、一歩も引かず籠城による徹底抗戦!!
女軍を組織し、夫の後方で戦いました。
戦国最強夫婦によって島津は撤退を余儀なくされます。
これによって宗茂は秀吉に、九州一の名将と呼ばれ。。。
大友家の一家臣から柳川城主となり、13万石を拝領することとなるのです。
夫婦で勝ち取った城でした。

歴代の柳河藩主が使用したのが”御花”と呼ばれる別邸で、代々住居としてきました。
現在でも人々に親しまれています。
”金甲”が飾ってあり・・・
それは、戦において無敗を誇った立花宗茂・・・築後の金甲軍団の印でした。

九州随一の強さを誇った立花家。。。
名勝・松濤園があります。
250本もの見事な松が見ものです。

柳川では男の子よりも女の子の誕生を喜ぶ風習が残っており、節句も華やかなのだそうです。
どうして女性がちやほやされるのでしょう???

柳川名物は・・・柳川鍋・・・ドジョウ。
柳川では開いたドジョウを使うそうです。

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日吉神社は・・・
1290年創建、誾千代宗茂夫妻の頃より代々立花家によって祀られてきました。
初節句には”さげもん”でお祝いをします。
これは柳河藩女中が始めたと言われています。
柳河藩11万石・・・城勤めとはいえ、つつましかった女中たち。。。

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お雛様を買うのは入用で・・・しかし、華やかにお祝いしたい母心から古い着物や帯などを使って毬や小物などを作ったと言われています。
今も街を挙げて盛大に柳川雛祭り「さげもんめぐり」が行われます。

他にも柳川名物は・・・?
日本一干潮と満潮の差が激しい有明海。その差は7m。深さ20m浅く、国内最大の干潟を誇っています。
この有明海のおかげでここでしか取れない珍しい魚介類がいます。

女性が元気な城下町、福岡県柳川・・・誾千代から始まったこの町は、逞しく生き生きとした女性のいる素敵な町でした。

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三重県松阪市の城下町です。

松阪と言えば・・・牛肉の産地。。。

式年遷宮を迎えた伊勢神宮の近く。。。

伊勢国に栄えた松阪商人の城下町。。。

そこは、信長イズムの継承者・蒲生氏郷の城下町でした。


松阪城は守りの城。。。

この城を築いたのは蒲生氏郷。

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豊臣秀吉時代に会津若松城主にまで上り詰めた蒲生氏郷は、会津入国の2年前・・・

1588年に松坂城を築きました。

かつては連結式山荘五階建ての城が建っていました。


金箔瓦が使用されている絢爛豪華な城でした。

蒲生氏郷は、1556年近江日野に生まれました。

13歳で天下布武を掲げる織田信長の元へ人質に・・・

小姓として目をかけてもらった氏郷は、後に家臣となるのでした。


信長の作った岐阜・安土は楽市楽座・・・

これを実践したのが松坂でした。

信長の戦手腕を見習っただけでなく、経済に特化した斬新な町づくりも見習った。。。そこが松阪でした。

近江から商人を招き、城下で楽市を開き、松阪を商業都市として発展させていきます。

2年ほどしかいなかったものの、現在でも城下町では毎年蒲生氏郷を称えて武者行列が行われています。

今もなお松阪の人々に愛されているのです。


御城番屋敷では、江戸時代の武士の組屋敷が現在も住居として使用されています。

中町には和菓子屋・柳屋奉善さんが。。。

天正3年創業のこの古い和菓子屋さんには蒲生氏郷ゆかりのお菓子が。。。

初代は近江で・・・蒲生氏郷と共に松阪にやってきました。


”老伴(おいのとも)”というお菓子は、創業以来変わらないお菓子で。。。

最中ですが・・・裏返すと赤い羊羹が。。。

後に”利休七哲”と呼ばれる氏郷が考案したお茶会用のお菓子で、信長の思想がつまったお菓子です。

初代の命じて作らせたものです。


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この時代、京都でも2,3軒しか羊羹を作っていませんでした。

出来たばかりの最先端の羊羹をわざわざ赤に染めました。

信長の好きな赤・・・


信長の赤好きは有名で、近江八幡名物・赤こんにゃく、安土城の屋根も赤・・・赤にこだわっていました。

そんな信長をもてなすために、最先端の羊羹をわざわざ赤に染めたのでしょう。

丸い赤・・・それは朝日、日の丸・・・日出づるところの・・・”日章旗”です。

戦国時代にはすでに使われていて・・・


戦国時代、武田信玄・・・織田信長・・・徳川家康・・・誰もが掲げていて・・・

「天下をしょって立つ者」であり、武家の頂点に立つ者・・・「源氏の象徴」でした。

この事から、日の丸に使われていた赤は、天下統一に繋がり・・・信長か好んでいたと言われています。

そのために羊羹も赤く染められたのです。


小津家は・・・松阪・江戸で紙問屋を開き、莫大な財を築いた豪商です。

全国の長者番付に載っており、万両箱があり・・・それぐらいのもうけはあったと言われています。

長者番付にはほかにも・・・越後屋(三井家)が・・・

彼等は松阪商人と呼ばれ、江戸時代近江商人に引けを取らないくらい名前が轟いていましたが・・・
その生みの親も蒲生氏郷だったのです。


松阪に一大商業都市を築くため、楽市を行うだけでなく・・・半日でいける伊勢神宮も。。。
参宮街道はもともと海側を通っていましたが、城下町の・・・町中を通したのです。

伊勢神宮の参拝者を城内に取り入れるようにしたのです。

これが成功し・・・街道には、各地から呼び寄せた商人たちも楽市をし・・・そこに伊勢参りの参拝者が立ち寄り。。。商人たちは潤って・・・松阪商人として繁栄を極めていくのです。


ここ松阪は、伊勢に向かう最終の宿場であり、最初の宿場となりました。

氏郷が亡くなり、お伊勢参りの一大ブームが来ます。

江戸時代の日本の人口は3000万人。。。

お伊勢参りの最盛期には・・・伊勢神宮参拝者は年間500万人だったと言われています。

松阪から伊勢神宮までは30㎞・・・氏郷が街道を整備したおかげで、買い物・宿・・・狙い通りの城下町となりました。

草鞋が飛ぶように売れ・・・数々の参拝者で賑わい、潤ったと言われています。

そこには・・・参拝犬もいました。

犬のお伊勢参りは、何度も記録にのこされています。

生まれた理由は、伊勢への参拝が・・・江戸時代には大変困難だったからだと言われています。

庶民にとっての憧れお伊勢参り。。。

体力に自信のなかった人々は、住所と伊勢参りをすることを記した紙を風呂敷に包み・・・

犬にお伊勢参りを託したのです。

帰りも頼んだそうです。


そう言えば、先日お伊勢さんにお参りに行った際に、犬のおみやげがたくさんありましたが、その為ですね。

人々も、自分たちは伊勢神宮の近くに住んでいることをありがたく思い、おもてなしをしたといいます。

このおもてなしのおかげで・・・快適なお伊勢参りでした。


伝統産業は・・・”松阪もめん”。

織物の里・松阪。。。

古より高度な技術を誇りっていました。

”神御衣祭”・・・神々の衣として伊勢神宮に奉納されていたからです。

そんな織物の里では・・・戦国時代に木綿が盛んとなり、縞模様の”松阪木綿”を生んだのでした。

これが松阪商人発展の礎と言われています。


三越・・・三井グループの祖・三井高利は、後に江戸や京都で店を出して大成功を収めるのですが。。。

この成功を支えたのが松阪木綿でした。

当時1反ずつ売っていた反物を・・・どれだけでも好きなだけ・・・という売り方で・・・おまけに現金掛け値なしで売ったのです。

この売り方ははじめてのことで・・・江戸で大ヒットさせます。


「松阪嶋」・・・縞ではなく、嶋なのは・・・

鎖国以前、東南アジアと交易をしていて・・・東南アジアのことを嶋と呼んでいました。

嶋わたりなので、”嶋”なのだそうです。


このストライプ模様・・・江戸で販売したところ、江戸庶民の心をつかみ・・・評判となり・・・

歌舞伎役者も縞模様を着ることを”松坂を着る”と言ったと言われています。


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松阪牛は・・・「和田金」が明治11年創業で元祖です。

文明開化のシンボルとなった牛鍋。

和田金はみそ味だった牛鍋を、現在の醤油味にした・・・すき焼き発祥の地と言われています。


蒲生氏郷が作った松阪の城下町、今に繋がる大商人を生み出した商人の町。。。おかげさまの精神がはぐくまれました。
今なお受け継がれるおもてなしの心で旅人を包んでくれる城下町でした。


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岐阜県岐阜市・・・難攻不落の岐阜城の城下町です。
織田信長が天下統一を掲げた城下町。。。
四方を山に囲まれて・・・長良川の流れる城下町。
天空にそびえる白亜の城です。

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美濃を代表する戦国武将は斎藤道三、そして織田信長。
岐阜城のある金華山は、戦国時代には稲葉山城と呼ばれ、斎藤道三の居城・稲葉山城がありました。
この道三によって、城下町の基礎がきずかれましたが、1567年・・・斎藤龍興の時代に・・・
難攻不落の稲葉山城は信長の手によって攻略。
この地を平定した信長は・・・井口という地名を・・・中国の故事に習って岐阜と改めました。
斎藤道三・織田信長・・・ふたりの偉大な戦国武将の地です。

標高329mの金華山山頂にそびえる岐阜城・・・
天守閣からは、眼下に濃尾平野の絶景を望むことが出来ます。
信長は、この岐阜から天下布武を掲げ・・・野望実現に向かったのです。

今は昭和31年に再建された岐阜城ですが。。。
信長の建てた岐阜城とはどんなものだったのでしょうか?

信長の屋敷跡は、今も発掘調査が行われています。
今からおよそ440年前に、信長が築いた岐阜城・・・
金華山の麓には、信長の居城があったと言われ。。。
昭和59年から、居館発掘調査が行われています。

2013年に、この居城から発掘された瓦・・・
牡丹と菊花紋は、金箔がはられていました。
従来の定説からは、金箔は安土城が最初・・・と言われていましたが、その始まりは岐阜城からだったのです。

時は戦国時代・・・防衛よりも・・・
守りに徹する武骨な城よりも、敵方にも存在を誇示するような”見せる城”で・・・。
迎賓館としての役割・・・外交の拠点もあったようです。
楽市楽座も発祥の地で・・・信長統治下の岐阜を訪れたルイス・フロイスは・・・
「まるでバビロンの町のよう。。。」
と言い、当時は京に次ぐ繁栄を極めていました。
信長が、天下統一を果たすために築いた新感覚の城下町だったのです。

長良川沿いには・・・古い町家が残っていて・・・道三の時代から水上運送による市場があり、商業が発展していました。
岐阜団扇は室町時代から生産され、その材料は、地元の竹、美濃和紙が長良川によって運ばれてき。。。
提灯や和傘づくりも盛んに行われてきました。

金鳳山正法寺には大仏があります。

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この大仏は・・・真鍮を通して・・・主に木材や和紙で作られた日本一の乾漆像です。
奈良大仏・・・14.98m
岐阜大仏・・・13.63m
鎌倉大仏・・・11.31m
と、引けを取りません。
竹や和紙で作られた岐阜大仏は、岐阜産業の集大成とも言えます。
岐阜の城下町ならではの大仏様なのです。

1300年前から行われている古の漁法・・・
夏の風物詩は、長良川の鵜飼い・・・古事記にも描かれている伝統の漁法です。
江戸時代は、尾張藩の保護によって娯楽へと発展していきます。
松尾芭蕉は・・・
「おもしろうて
 やがてかなしき
       鵜船かな」
と、詠んでいます。

この句は、当時の鵜飼の姿を伝えています。

戦国の梟雄達が自らの野望を実現する為に争った岐阜・・・
しかし、それは、長い歴史の中の一コマなのです。

人々は、いつまでも変わらない長良川と金華山に誇りを持っている・・・
そんな城下町でした。

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