日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: テレビ番組

1945年4月、ベルリン・・・ドイツ第三帝国最後の日々を、15歳にも満たない少年兵たちがアドルフ・ヒトラー総統の地下壕を守ろうとしていました。
ソビエト軍には到底太刀打ちできません。
しかし、ヒトラーのために戦うと誓った青少年たちは、最期までその約束を守り通したのです。
ヒトラーのために命を投げ出す・・・そのゆるぎない忠誠心は、どのようにして培われたのでしょうか?
青少年たちは、いかにしてナチスの闇に取り込まれたのか・・・??
ナチスの未来、宣伝材料、使い捨ての兵士の物語です。

1920年代の結成されたナチ党の青少年団・ヒトラーユーゲント・・・ヒトラーの首相就任以降は、全ての青少年がこの組織への加入を義務付けられ、軍事訓練とイデオロギー教育を受けます。
第二次大戦がはじまると、彼らの身も心も万全でした。

1943年、ヒトラーユーゲントは対空防衛に動員されます。
サーチライトと高射砲を連合軍の爆撃機へ向け、ドイツの町を守る任務です。
学校に通わなくて済むため、子供たちは大喜びでした。
青少年の気持ちは高ぶっていました。
本物の兵器を使い、総統のため、ドイツのため、兵士として、男として戦うのです。

空襲の合間に、若い兵士たちは子供らしい時間を取り戻します。
しかし、水空力で勝る連合軍に、勝利は見込みませんでした。
寝不足で疲れ切り、耳に防具をつけないため聴力が低下・・・
彼等は、使い捨ての戦力でした。
連合軍は、ドイツの激しい空襲を行いました。
降り注ぐ爆弾の下で、少年たちは生き地獄を味わいます。
彼等は、空襲の被害者を助ける民間防衛活動に加わりました。

戦況が劣勢になるほど、プロパガンダは激しくなります。
プロパガンダは功を奏し、1943年秋・・・ヒトラーユーゲントメンバーの年長者のうち1万6000人が武装親衛隊の新しい組織第12SS 装甲師団に入ります。
親衛隊の指導者ハインリヒ・ヒムラーによって創設されたこの装甲師団は、別名ヒトラーユーゲントと呼ばれるようになります。
団員は、16歳と17歳で、喫煙と飲酒は禁じられていましたが、殺人は許されていました。
政権は、若者の大胆さと恐れのなさを利用しました。

「敵は知るべきで、我が国では子供であっても最期まで戦うこと」byゲッペルス

ベルギーでの訓練を終えた、第12SS装甲師団は、ノルマンディーへ向かいます。
1944年5月の時点で、ドイツ軍はノルマンディーを戦略上の要所とは考えず、連合軍が上陸するのはカレーだとみていました。
6月6日、連合軍はノルマンディーに上陸、しかし、この攻撃は装甲師団ヒトラーユーゲントをパニックに陥れるものではありませんでした。
翌日、ヒトラーユーゲント師団は、連合軍が占領を狙ったカーンの町へ派遣されます。
連合軍は、町は24時間以内に陥落するとみていました。
10代の兵士たちは、砲撃の洗礼を受けます。
しかし、ユーゲントの果敢な反撃によって、6週間の激戦となります。
装甲師団は、町の入り口で、イギリス軍とカナダ軍の攻撃を食い止め、多くの捕虜を捕まえました。
ドイツ軍のカメラは、死を目前にした連合国軍兵士たちの姿を捕らえています。
武装親衛隊のクルトマイヤーの命令で、青少年兵たちは、捕虜を次々に処刑しました。

カーンの西の修道院では連合軍の兵士18人、シャトードーデュリューの中庭では、45人のカナダ人兵士が処刑されました。
装甲師団・ヒトラーユーゲントは、全部で150人以上の捕虜を殺害しました。
第三帝国の子供達は、戦争犯罪人となったのです。
戦争犯罪・・・大虐殺・・・暴力行為・・・長年にわたるナチスの洗脳教育の結果です。
連合軍は、第12SS装甲師団ヒトラーユーゲントをベビー師団と呼びました。
その無謀さと野蛮さで、連合軍にとって手ごわい敵となります。
戦場の若い兵士は、情け容赦ない兵器でした。
自己犠牲は厭いません。
野蛮な行為にも関わらず、ヒトラー政権は彼らを称賛します。
政権は、これまで通り、バラ色を約束しますが、現実は全く違いました。
ドイツ国防軍は、ノルマンディーの戦いに敗れ、数十万の兵士が捕虜となります。
その中には、多数の青少年が混ざっていました。
かつて片手を突き出し、「ハイル」と叫んだ彼らが、両手をあげて降伏しました。
しかし、敗北にもめげず、ユーゲント師団は一旦撤退しては違う戦線へと向かいました。

「最後の砦は自分達しかいない!!」

ヒトラーユーゲントは、総統と帝国のために結束し、従軍を志願しました。
歴史的な場所での式典で、16歳の志願兵たちが総統に披露されます。

「本日、皆に発表する
 この旗のもとで戦うために、ヒトラーユーゲントからは1928年生まれの団員の7割が志願した
 若者たちの積極的な態度は、戦場の部隊の士気を高めるであろう」

前線の兵士の士気は、高まりませんでした。
彼等は少年たちの戦闘能力を疑っていたのです。
ドイツが必ず勝利するという幻想は消えつつありました。
若い兵士たちは、連合軍の前進を止められなかったのです。

西部戦線でも、東部戦線でも、ヒトラーユーゲントは戦闘に加わりました。
降伏は禁じられ、脱走兵は射殺され、外に道はありませんでした。

「ヒトラーユーゲントの指導者アクスマンと、国を守ったユーゲントの兵士20人が招待され、鉄十字勲章が与えられました。」

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1945年3月20日、大虐殺の命令を実行した若者に祝意を伝えるアドルフ・ヒトラー・・・
ニュース映像に残る最後の姿です。
ナチス総統は言いました。

「今の諸君の戦いは、貴重な経験となる
 ドイツ国民にとって生きるか死ぬかの極めて厳しいこの試練を乗り越え、我々は勝利を手にするであろう
 その勝利は、この国の若者にかかっているからだ」

ヒトラーは、パーキンソン病を患っていたともいわれ、手の動きをコントロールできなくなっていました。
56歳にして既に老人のような姿ですが、後悔や辞世の様子はありません。
彼等は、周りを見る力を完全に失っていました。
ドイツ国民がどうなるかなど気にかけてもいなかったのです。
ヒトラーはこう言い放っています。

「ドイツ人が絶滅したら、それは国民全体の責任だ!!」と。

1945年4月、降伏の1か月前にもナチスはまだなお少年兵を戦場に送り込んでいました。
通りには、自分の町を守るように市民に呼び掛けるポスターが張られました。
下は、10歳の子供までもが招集されます。

4月16日、ソビエト軍がベルリンに向けて大規模な攻撃を始めます。
123万発を越える砲弾が、撃ち込まれました。
10万トンの鋼鉄が、住民の上に降り注いだのです。
4月25日、ソビエト軍はベルリンに入ります。
町じゅうが戦場となり、ヒトラーユーゲントの少年兵は、死をそこに意識します。
少年兵の多くが戦う意欲を失くします。
戦争が終わらないでほしいと願っていた子供たちも、戦争から逃げたいと思っていました。
ヒトラーユーゲントは、僅かな武器を手にソビエト軍の戦車と戦いました。
ソビエト兵は、少年兵を鼠のようにあぶり出し、捕らえました。
多くの若者が死んでいく中、ヒトラーは地下壕に隠れていましたが、地上では至る所で待ち伏せ攻撃、銃撃戦、接近戦が行われました。

ソビエト軍は、ヒトラーユーゲントの兵士600人が守る橋へ大砲の砲身を向けます。
大虐殺でした。
生き残った者はほとんどなく、4月30日、ソビエト軍はドイツ議事堂への攻撃を開始、この日ヒトラーは、地下壕で自殺しました。
総統の子供だと誓ったユーゲントの青少年たちは、みなしごになったのです。

1945年5月、ベルリン郊外でドイツ第三帝国は無条件降伏の文書に署名します。
権力と栄光の夢に吸い寄せられたヒトラーユーゲントの若者たち・・・与えられたのは、戦争の恐怖と敗北だけでした。 

ヨーロッパは戦争で荒れ果てました。
連合軍がドイツを分割占領する中、膨大な数の避難民は故郷に戻ろうとしていました。
ヒトラーユーゲントにとって、帝国の崩壊は自由を意味しませんでした。
彼等の多くは、連合軍によって捕虜収容所に収容されます。
連合軍は、若者たちがヒトラーを崇拝するよう洗脳され、一部は今もナチ党員であることを知っていました。
学校の教室と捕虜収容所で、若者たちへの再教育が始まります。

ドイツ人捕虜は、特別授業を受け、帰国後の役割に備えます。
”ゲシュタポやファシストはドイツ再建から排除”と教わります。
ヒトラーの子供達は、新しい言葉と出会います。
”民主主義”です。
ナチスの洗脳から解き放つための手段は、映画の上映でした。
かつてのナチス同様、今度は連合軍がナチスの犯罪を見せつけたのです。
”アウシュビッツ”・・・
最後まで信じようとしない人たちに、連合軍は死の収容所をじかにみせて納得させます。

ヒトラーユーゲントの若者たちは、自分たちの国に戻ります。
国家再建が進む新しいドイツで、多くの人がナチスに青春を奪われたことを理解しました。
しかし、長い年月を経ても、一つの疑問が彼らについて回ります。

どうして私たちは踊らされたのか・・・??

かつてヒトラーの子供と名乗り、今人生の終わりに近づいた人たち・・・
自分達が生き残ったのは、体験を次の時代の人々に伝えるためだと思っています。

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独裁者の妻たち・・・恐怖政治の中で、彼女たちはどのような役割を担っていたのでしょうか?
フィリピン・・・史上最も欲深いとされた女性・・・イメルダ婦人。
大いなる浪費家・・・独裁者の引き立て役として贅沢に走り、国を食いつぶしたファーストレディーです。
1946年、フィリピンはアメリカの植民地から独立、マルコスは1965年に大統領に選出され、再選を果たします。
しかし1972年、彼は戒厳令を布告・・・独裁を開始しました。
国民を拷問し、3257人を処刑、7万人を無差別に投獄しました。
国民の所得の20%が下落、マニラの40%がスラム化・・・
マルコス政権の20年に及んで、国の負債は90倍に膨らみました。
500億ユーロを着服!!

美人コンテストで名を馳せたマニラのミューズが、駆け出しの下院議員フェルディナンド・マルコスに見初められ、出会ってからわずか11日でスピード結婚します。
この結婚で名声をえたマルコスは、権力の階段を瞬く間に上り詰めました。
1965年、マルコスが大統領に当選します。

「ファーストレディーの役割を尋ねると、マルコスはこう答えました
 ”私は大統領として国民のために頑丈な家をつくる
  君は国の母として、家庭を築くのだ”と
  それで、文化センターを建設したのです」byイメルダ婦人

当初、ファーストレディーとして文化事業を手掛けていたイメルダでしたが、70年代にマルコスが独裁体制に入ると知事や、大臣、特命大使に任命されます。
イメルダはこうして夫と二人で、フィリピンという国を治める権力を握ったのです。

イメルダ・マルコスは、首都マニラを再建するためたくさんのホテルや病院を作りました。
そして、カンヌ映画祭の会場をもしのぐ、巨大な映画センターも建設を指示します。
しかし、工事中に建物が崩壊し、160人以上が死亡・・・
生き埋めになっている人がいるにも関わらず、工期を守るためにコンクリートが流し込まれたという噂が立ちました。
事故から2か月後、マニラ初の国際映画祭が開かれました。

「私の功績・・・??
 世界平和のために国を代表して世界を回ったのです
 冷戦の真っ最中にです」byイメルダ

マルコス夫人は意気揚々と国際政治の舞台に飛び込み、各国の首脳と1対1で渡り合います。
カリスマ性のある抜け目ないネゴシエイターとして、彼女は”鋼鉄の蝶”と呼ばれるようになりました。
イメルダ・マルコスは、冷戦終結に貢献して、歴史にその名を刻みたいと願っていました。
イメルダは、東西ブロック間の会談にも参加しました。
彼女が冷戦を終わらせたわけではありませんが、外交手腕は確かなものでした。
彼女ほど聡明な女性が、どうして誇大妄想に陥ってしまったのでしょうか?
それには70年代という時代が関係しています。

1971年、マルコス夫人は、イラン建国2500年の祭典に招待されます。
60人以上の国家元首が招かれた盛大な祭典でした。
イランのハーレビ国王は、軍人の息子として生まれました。
自らを王の中の王と名乗った彼は、豪華絢爛なこの祭典で誇大妄想を世界に伝染させていきます。

ボカサ1世国王陛下・・・中央アフリカの皇帝・・・彼もまた権力欲に取りつかれていました。
終身大統領だったボカサは、国名を中央アフリカ帝国と変えて、皇帝に就任・・・
ナポレオンを真似た豪華な戴冠式を行いました。
費用は国家予算の1/4に相当する金額だったといいます。
中央アフリカ共和国は、1960年にフランスの植民地から独立・・・
1966年、軍事クーデターによってボカサが大統領に就任・・・72年に就寝大統領となりその後皇帝を名乗ります。
ボカサは多額の公金を横領する一方で、増税し、国民は窮乏の一途をたどります。
税の取り立ては軍隊まで動員して強引に行われました。
人権団体は、70年代にボカサが多くの子供を投獄したと非難します。
ボカサには17人の妻がいました。
しかし、そのほとんどが力づくで結婚させられた未成年でした。
妻たちは軟禁状態で逃げ出す人や、自殺する人もいました。
戴冠式のために、ボカサは本妻を一人選びました。
王妃となったキャサリンは14歳の時、歩いて通学する姿をボカサに見初められました。
ボカサに身を捧げるため、勉強はあきらめざるを得ませんでした。
政治的野心などひとかけらもない女性でした。

かつての宗主国フランスは、ついにボカサに愛想をつかしてクーデターに・・・。
1979年9月、首都にフランス軍が到着。
ボカサがリビアを訪れている間に、ダビド・ダッコを大統領に据えました。
ボカサは皇帝の座を失いました。
彼が失脚した理由の一つが妻キャサリンの裏切りでした。
ボカサ失脚の数週間前、キャサリン・ボカサは、フランスのジスカール・デスタン大統領の庇護のもと、密かにフランスに向かいました。
ボカサは、フランスにある自分の銀行口座の残高がゼロになり、宝石類も無くなっていることに気付きました。
裏切りに気付いたボカサは、妻とフランス大統領との不倫を疑います。
ボカサは7年間服役し、全財産を没収されました。
1996年、彼は貧困の中で死去します。
一方、キャサリン・ボカサは、何ひとつ失いませんでした。
かつて夫から送られた別荘とスイスに自分の財産を隠していたからです。

1970年代、独裁者たちは妻たちに惜しみなく金を使わせました。
しかし、80年代になると、ファーストレディの贅沢はけた外れになり、夫たちの足をすくうまでになります。
彼女たちは現状に飽き足らず、フィリピン国民のお金を盗んでそれをスイスの口座に入れました。
スイスだけでなく、世界中のたくさんの口座に・・・
よりにもよって、国民が飢えに苦しみ、すさまじい貧困が蔓延している時に、アメリカに大きなビルの購入も決めていました。
当時の国民生活の状況と、彼女たちが私腹を肥やすためにビルを買いあさっていた事実を対比すると、犯罪としか言いようがありません。

実権を握っていた20年の間に、マルコス夫人は3000足の靴、ダイヤのネックレス、数十個のティアラを収集していました。
失脚後、フィリピンは2億ユーロ相当の宝石を回収しました。
その宝石は、彼女たちが国民から盗んだものと最高裁が認めています。
2013年、雑誌フォーブスは、マルコスの資産を50億ドルと推定しました。

「肉食のバラ」といわれたイメルダ・・・同じような女性は、遠くハイチにいました。
1980年ハイチ・・・ハイチの貴族の娘ミシェル・ベネットと自称終身大統領ジャン・クロード・デュヴァリエとの結婚式・・・
自分達の国が国際援助によってようやく生き残っているにもかかわらず、2人は数弱万ドルかけた盛大な結婚式を行いました。
ハイチはキューバの最も親しい近隣国の一つです。
医師だった父・デュヴァリエ(パパ・ドク)は、1957年大統領に当選。
1958年クーデターにあったデュヴァリエは、非常事態を宣言・・・共産主義の恐怖を巧みに利用してアメリカの支援を取り付けます。
彼等は秘密警察トントン・マクートを利用した恐怖政治で4万人を殺害・処刑・・・
支配を強めていきました。
1971年にパパ・ドクが亡くなると、翌日”ベビー・ドク”が終身大統領に・・・。
親子に国を乗っ取られ、国は貧困にあえぎました。
ミシェル・デュバリエは、パパ・ドクとベビー・ドク・・・デュヴァリエ親子が築いたシステムの一部でした。
それは単なる泥棒システムでした。
パパ・ドクの死後は、残された妻ママ・ドクが19歳だったベビー・ドクを導いていきました。
ミシェルが嫁いできたことで、嫁姑の争いが勃発・・・女王の座は一つしかありません・・・。
ミシェル・デュヴァリエは、貧しい人たちのもとに足を運び、食べ物や服を与え、学校や病院を作りました。
彼女の活動にマザー・テレサも感銘を受け、ハイチを訪れ多額の寄付を残したほどでした。
ベビー・ドク夫人は、心優しいファーストレディとしての立ち位置を確立しました。
しかし・・・小切手は現金化されると彼女の個人口座に大半が入金されていました。
ハイチの小麦粉を一手に扱っている製粉会社は、彼女の慈善活動に対して毎月2万5000アメリカドルを振り込んでいます。
セメント会社も、宝くじ会社も、電力会社も・・・
ミシェル・デュヴァリエは、雑誌ピープルでドラゴンレディと呼ばれました。
イメルダ・マルコスと同じ誇大妄想の人で、欲深く、押しの強い女性でした。
ピンクのコートを着たいからといって、大きなダンスホールで冷房を最大限にきかせたこともありました。
ミシェル・デュヴァリエは、高価なパーティーを催しては、国営テレビで生放送させました。
ファーストレディが贅沢にふける一方、町には満足に食べられずに餓死する子供までいました。
彼女は定期的にリムジンの窓から小銭をばらまきました。
スラム街の聖母のイメージを守るためでした。

デュヴァリエ夫人も、マルコス夫人も、ひたすら上辺だけ取り繕い、国民の傷を癒すふりをしていました。
1986年2月7日・・・デュヴァリエ失脚・・・
アメリカは、失脚したデュヴァリエ夫妻がフランスへ逃亡する手助けをしました。
1988年、ベビー・ドクの助言者が政権につき、デュバリエ夫妻の法的な問題を精算、同じ年、ミシェル・デュヴァリエは大金を国外に移していました。
1990年、ミシェル・デュヴァリエはそれまでの悪評を払拭するべくベビー・ドクと離婚・・・
かつての独裁者はその後貧困生活を送り、2014年失意のうちに心臓発作で亡くなります。
ミシェルは今も、パリの公住ブティックが並ぶ地区で暮らしています。

マルコス政権の独裁の色は強まるばかり・・・
1983年には反政府派のリーダーだったニノイ・アキノ上院議員が暗殺されます。
国民の暮らしは余りにも貧しく、失うものさえなくなりかけていました。

民主的な統治が難しくなると、統治者は強権的になり、問答無用の威圧的な手段を使いはじえっます。
国民の人権を侵害するようになり、権力にしがみつくためなら何でもするようになる・・・
そんなことが起きました。
1986年2月25日、マルコス失脚!!

1970年代から80年代にかけて中央アフリカのボカサ、イランのハーレビ、フィリピンのマルコス、ハイチのデュヴァリエなど独裁者が次々と失脚しました。
しかし、ザイールのモブツ・セセ・セコは、90年代になってもなお、権力に取りつかれていました。
1960年にベルギーから独立したコンゴは、鉱物資源が豊かな国です。
1965年、クーデターでモブツが大統領に・・・。
国名をザイールと変更、アメリカから支援を受けて権力を強め、60年代の終わりには反対派を処刑、学生運動を弾圧し、遺体を穴に投げ捨てました。
その後、大規模なインフラ整備に着手すると、国庫を完全に私物化、国家元首が横領した金額ではモブツはマルコスに次ぐといわれています。
1980年、モブツ大統領はボビ・ラダワと結婚、ザイールのファーストレディは世界でも独特です。
大統領は第二夫人としてボビの双子の姉妹コシアを娶ったからです。
2人のファーストレディの生活を維持する為に、国は負債を抱えることになります。
ザイールの紙幣は、主にアルゼンチンで印刷されていました。
2枚の紙幣に同じ番号が振られ、政権の隠し口座と中央銀行に入金されていたのです。

1990年代、双子のファーストレディは、アフリカのイメルダ・マルコスとして有名になります。
どんなに身近な旅でも100個のトランクが用意され、有名デザイナーの最高級のふく服や宝石が詰め込まれました。
40歳の誕生日には、盛大なパーティーが開かれました。
モブツは、自身が築いた黄金の山の上に座り続けています。
フランスやスイスなど、海外に複数の不動産を持ち、ザイールの債務とほぼ同額の資産を保有しています。
権力を独占して30年が過ぎた頃、モブツは重い病気にかかります。
アメリカに見捨てられ、軍部に裏切られ、国民から憎まれ、1997年5月、大統領はついに失脚しました。
モブツは4か月後に死亡・・・2人の妻は、フランスやベルギー、ポルトガルの自宅を行き来して暮らしています。
双子の元ファーストレディは、今もモロッコやヨーロッパに多くの資産を保有しているようです。
彼女たちは、もうカメラの前に姿を見せることはありません。
風の便りでは、宝石で身を飾って一人テーブルにつき、昔のように使用人にかしづかれているといいます。
皮肉なことに、コンゴは今も、元大統領の妻という名目で、月7000ドルの年金を払い続けています。

2000年代に入ると、人々の注目はチュニジアのファーストレディ、レイラ・ベンアリに向けられます。
当時、チュニジアにはアラファト夫人も住んでいました。
チュニジアのファーストレディ、レイラ・ベンアリとスーハ・アラファトとの間で、対抗意識の火花が散ります。
チュニジアは元フランス保護領で、1956年に独立しました。
1987年、無血クーデターによって、ベンアリが大統領に就任。
再選回数の制限を廃し、5期連続政権・・・23年にわたって大統領を務めました。
一早く女性の地位を向上させた一方、若者の失業率は60%にまで増大。
また敵対勢力のイスラム教徒に対し、刑務所内で組織ぐるみの拷問をして人権団体から非難されました。
2008年、フォーブス誌によって、世界で最もリッチな国家元首の一人に選ばれました。

1992年、ベンアリ大統領は離婚歴のある秘書レイラ・トラベルシと結婚。
1年後、女性の権利に関する憲法が改正されると、彼女は真摯に問題に取り組み、複数の団体の代表となりました。
イメルダ・マルコスや、ミシェル・デュヴァリエのような浪費家の妻とは対極にあると思えました。
彼女の一族は、立場を利用して自動車、不動産、メディア、そして観光業を牛耳っていました。
まるでマフィアのように国の経済の3割から4割を支配していたのです。
国民は、無法者の一族に苦しめられます。
不動産や企業がトラベルシ一族にいつ乗っ取られるかわからないのです。
国民の怒りの矛先がファーストレディに向けられました。
2009年10月の選挙では、レイラ・ベンアリは自らが中心となって不正を働きます。
彼女は夫の代理で積極的にスピーチを行いました。
同じころ、大統領の健康問題が取りだたされるようになります。
跡を継ごうというファーストレディの意気込みを感じ、国民はうんざりします。
ベンアリ政権があと20年続くと考えるだけで、国民は耐えられなかったのです。

2011年1月、ベンアリ夫妻は国外へ逃亡します。
23年に及ぶ、ファーストレディの不正の蓄財が明るみに出る前に逃げなければならなかったのです。
レイラ・ベンアリは、今も犯人引き渡し条約で守られています。
亡命先がサウジアラビアだからです。
悪魔のようなレイラ・ベンアリは今後も上手く立ち回るでしょう。
祖国で禁固35年を言い渡されたレイラ・ベンアリは、現在サウジアラビアの豪邸に暮らしています。


アメリカの司法制度では、イメルダ・マルコスを友罪にはできませんでした。
1991年2月・・・彼女は国外逃亡を経て祖国に戻り、フィリピンの司法制度に立ち向かう決意をします。
イメルダ・マルコスが、法の網を逃れる秘訣を明かしました。
それは、特権を手にすること・・・彼女が選挙に出続けた理由がそこにはありました。
はれて議会のメンバーとなり、議員特権を得てアンタッチャブル・・・手出しできない存在となったのです。

責められるべきは彼女一人ではありません。
大統領だったマルコス、ファーストレディだったイメルダ、そしてアメリカ大統領だったレーガン・・・
彼ら全員が、フィリピンの民主主義を侵害した張本人だったのです。

大いなる浪費家たちよ・・・
貴女方が自らの正当化を試みた時、西側諸国はその共犯者となりました。
貴女方は、決して俯かず、巧妙な戦略を用いて一切の責任を免れました。
マリー・アントワネットの継承者でありながら、夫の首以上に自分の首を守り抜いたのです。

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アメリカの物語・・・
1920年代は繁栄の時代でした。
しかし、そこには黒い影が・・・
伝説を作ったアル・カポネ、ラッキー・ルチアーノ、フランク・コステロ、マフィアが悪の帝国を築き上げ、勇気ある者が反撃に出ました。
組織犯罪に歯止めがかかりません・・・。
アメリカ社会の善と悪がぶつかり合う時代が続きました。
アメリカの暗黒街の物語です。

オハイオ州・シンシナティのレッドランドフィールド・・・
1919年10月1日、ワールドシリーズが開幕しました。
シンシナティ・レッズ対シカゴ・ホワイトソックス・・・先に5勝した方がチャンピオンです。
ホワイトソックスの監督は、自信満々、ナックルボールで最多勝を獲得したエディ・シーコットに先発を任せます。
レフトを守るシュ―レス・ジョー・ジャクソンらスター選手の揃ったホワイトソックス側が圧倒的に有利とみられていました。
賭博は違法ですが、闇のオッズは7対5でソックス有利、しかし、試合開始数時間前になって、レッズの掛け金が一気に流れ込みます。
ニューヨークのタイムズスクエアでは、特製のスコア・ボードが用意され、電報で逐一伝わるボールの動きが瞬時に表示されます。
ソックスのFanは、エースのシーコットが4回に滅多打ちにあい愕然・・・
シンシナティ・レッズは、初戦を9対1で楽々と勝利・・・番狂わせは続き、5勝3敗でレッズはシリーズ優勝を果たしました。
スポーツライターのヒュー・フラートンは、不振を抱き、新聞にホワイトソックスの選手がワールドシリーズで八百長した疑いがあると告発記事を掲載・・・大きな反響を呼びました。
シューレス・ジョー・ジャクソンら選手8人が一人5000ドルでシリーズの勝利を売ったと非難されました。
シカゴの大陪審で撮影が初めて許され、1920年9月、尋問された8人の内3人が八百長を認めました。
8人全員が、大衆をだました詐欺の罪で告発されます。
裁判では供述書が無くなるという不可解な事件も起こり、陪審は無罪の評決を下しました。
しかし、MLBコミッショナーのケネソー・マウンテン・ランディスは、大目に見ることはなく、8人全員を野球界から永久追放。
事件はアメリカの新たな犯罪組織が世界のどこにでも救うことを知らしめました。

ニューヨークのロウアー・イーストサイド・・・移民が密集して暮らしていました。
市場は一獲千金を目論む若者で溢れています。
アメリカン・ドリームを手っ取り早く手に入れる手段の一つが犯罪でした。
イタリア系移民から大物ギャングになったのは、チャールズ”ラッキー”ルチアーノ・・・そしてフランク・コステロです。
2人はニューヨークを拠点として、一般社会の裏側に暗黒街を築き上げました。
1920年代のアメリカは、犯罪史にとってチャンスに満ちた国でした。
禁酒法の裏をかいて、密造酒をあらゆる階層に供給すれば、容易く荒稼ぎできました。
お酒は、海のルートを使って運ばれました。
ウイスキーひと箱の仕入れ値は、海の上で65ドル・・・陸では400ドルで売れます。
積み荷を満載し、逃走すると沿岸警備隊が追いかけます。
船足で勝る密輸船が振り切るのです。
アメリカ本土で人々への酒への欲望が、尽きることはありません。

連邦政府は、酒類取締局を設置しましたが、問題は慢性的な人で不足です。
わずか1500人で、アメリカ全土のお酒の流れは止められません。
ニューヨーク、パークアベニューでの強制捜査が派手に宣伝されますが、人々は法の目を簡単にかいくぐれることを知っています。
捕まるのは氷山の一角で、密輸人が検問を何事もなくすり抜けていました。

1925年、違法の酒を振るまうナイトクラブが賑わいを見せていました。
法を軽視する風潮が全米に広がります。
特に顕著だったのが、ニューヨークです。
丁度、市長選の時、洒落物者の州上院議員で地元ティンパンバレー出身の音楽家ジミー・ウォーカーが市長に立候補します。
肩ひじ張らない彼のスタイルは、カリフォルニア州知事との記者対応でも本領を発揮します。
禁酒法反対を強く唱えるウォーカーは、マフィアが好むタイプの政治家でした。
1925年11月の市長選挙で圧勝・・・
しかし、市役所の堅苦しい雰囲気が合わず、夜の市長と呼ばれるようになります。
彼は公的資金を使って、セントラルパークのカジノというナイトクラブを改装、違法なシャンパンを開けぬなら、ニューヨーク市政を指揮しました。

休みの日にウォーカーがよく現れたのが52番街の21クラブです。
建物には複雑な仕掛けが施されました。
壁の奥に隠されたのは秘密のワインセラー・・・マフィアの大物アーノルド・ロススタインの資金で買い集めたお酒が保管されていました。
ウォーカー市長の時代、マフィアの事件が新聞の一面を飾るようになります。
1928年にはロススタインが賭けをめぐるもめ事で市街ののホテルで撃たれました。
ロススタインはマフィアの沈黙の掟を守り、撃った犯人の名を明かさぬまま2日後に死亡・・・
ただ一人証言したのはホテルの客室係ブリジット・ファリーでした。
他の証人が現れなかったので、容疑者は保釈されました。
この沈黙の掟がマフィアの隆盛を支えます。

1927年「暗黒街」・・・
マフィアの悪名は、ハリウッド映画に新しいジャンルを生み出しました。
ギャング映画です。
魅力的なギャングのボスとその恋人は、違法なバーに頻繁に出入りし、やがて警官隊と銃撃戦を展開します。
映画の中のギャングは、富とカッコよさとスリルで観客を魅了しました。

悪名は彼等の使った武器でさらに高まります。
トミーガン・・・機関銃です。
速射のできるマシンガンはマフィアのお気に入りとなります。
1934年までは、町の店頭でも買うことができました。
トミーガンで武装したグループは勢力を拡大し、さらにその名をとどろかせます。
1920年代にシカゴで頭角を現したアル・スカーフェイス・カポネ・・・彼は最初の三丁のトミーガンを金物店で買いました。
この銃は、シカゴの至る所で使われたため、シカゴ・タイプライターというあだ名がつきました。
カポネのグループは1929年、バレンタインデーの虐殺という抗争事件を起こし、全米にニュースが轟きます。
アメリカ社会は、一般市民の平穏な日常生活にも脅威が迫っているとみるようになります。
ニューヨークでは連邦下院議員フィオレロ・ラガーディアらが街の浄化かを掲げ、1929年の市長選でウォーカーに挑戦します。
ラガーディアは怒りを訴えます。
ウォーカーはタレント然とした態度で応じます。
投票の結果は、ウォーカー1万4849票、ラガーディア3635票・・・
ウォーカー市長の再選でした。
ウォーカーの再選は、汚職の勝利を示したかに見えました。

しかし、ギャングの隆盛にも逆風が吹き始めます。
1931年8月、5歳の少年、マイケル・ベンガリの葬列を数万人が見送り、その様子がニュースカメラに収められました。
東107番街にあるギャングのたまり場の近くで遊んでいたマイケルは、抗争事件の流れ弾に当たって死亡・・・
他にも4人の子が巻き込まれました。
容疑者は良く知られたギャングのリーダー、ヴィンセント”マッドドッグ”コール。
しかし、誰も証言しようとしません・・・
事件は暗黒街への世間の味方が変わる転換期におきました。
組織犯罪は全米に拡大し、殺人発生率は過去最悪となっていました。
ロマンと共に語られたギャング像は否定され、マフィアは世間の敵となったのです。

1931年、フロリダ州マイアミ・・・裕福なアメリカ人に人気のリゾートになっていました。
温暖なフロリダは、北部の寒い冬を逃れる理想的な場所です。
1キロ半ほど先のパーム島にある豪華な別荘では、秘密の集まりが行われていました。
オーナーはアル・カポネです。
ラッキー・ルチアーノ、ジロ・アーティョーク・キング・テラノバ、フランク・コステロ・・・
ニューヨーク出身のこの4人が、暗黒街の大物にのし上がる一方で、多くの人々は大恐慌に苦しんでいました。

1932年、大統領候補のフランクリン・ルーズベルトは、不況対策と禁酒法廃止を掲げます。
ルーズベルトは、組織犯罪や汚職への世論の反発を感じていました。
ニューヨークで州知事を務めていた1930年9月には、ニューヨーク市の汚職を調査する委員会を立ち上げていました。
ウォーカー市長は、市の発注事業で利益を得たとして非難されます。
1932年、ウォーカーは不名誉な形で辞職・・・
ショーガールの愛人と共にヨーロッパに渡り、3年間暮らしました。

連邦の捜査当局は、シカゴの取り締まりに着手します。
シカゴでは1928年に全米一498件の殺人が起きますが、ボスのカポネが罪に問われたことは皆無・・・
その年の彼の収入は、推定で1億500万ドル・・・今の値で14億ドルですが、税金は申告も納付もしていません。
当局はこれを突破口に、1931年カポネを法廷に引っ張り出します。
税務当局の捜査官フランク・ウィルソンは、巨額の現金がカポネに支払われたことを示す秘密の帳簿を発見・・・脱税の証拠を押さえます。
1932年5月、カポネは11年の実刑判決を受けアトランタとアルカトラズの刑務所に服役します。
押収されたカポネの車は一般に公開されます。
彼が逮捕を逃れた秘密の一端が明かされます。
車には警察と同じタイプのサイレンが・・・そのサイレンを逃走に利用していました。
最新鋭車は警察無線も傍受できました。
敵の攻撃にも耐えうる仕組みでした。
車両の窓は、すべて防弾ガラスです。



1932年11月、ルーズベルトは大統領選に勝利、公約通り禁酒法を廃止します。
貴重な収入源を失ったマフィアは、ギャンブル事業に一層の力を入れます。
ニューヨークのハーレム地区では、黒人ギャング団が、ナンバー賭博を広めました。
手ごろな値段で毎日売られる数当て式の宝くじは、違法でしたが、あらゆる階層に人気となります。
選ぶのは3つの数字、当選番号は新聞紙面から無作為に当てられます。
胴元が999対1で有利となるオッズでした。
ハーレムの街頭で売られるナンバー賭博の売り上げは、年間2000万ドルに達しました。
犯罪は相変らず白昼堂々行われていたのです。

フィオレロ・ラガーディアは、ニューヨーク市を浄化するのは自分しかいないと確信し、1933年の市長選に再び立候補しました。
今回は有権者もラガーディアを支持し大勝・・・政治の世界から暗黒街への反撃が始まります。
ラガーディアは早速、ニューヨークに氾濫する違法賭博の撲滅に乗り出します。
最大の標的は、フランク・コステロや、ラッキー・ルチアーノが経営するスロットマシン事業でした。

コステロは、潜り酒場や町の商店などに2万5000台ものスロットマシンをおいていて、その売り上げは1931年には2500万ドルに達しました。
スロットマシン一掃をアピールしようとラガーディアは押収した大量のマシンに自らハンマーを振り下ろしました。
壊したものはイースト川に廃棄します。
押収された大量の銃器類もイースト川へ・・・。
環境問題を当時の人々は意識していませんでした。
一斉摘発は、コステロやルチアーノの事業の大規模さを白昼のもとに暴きました。
しかし、商売道具の押収だけでは不十分です。
市長はボスたちの逮捕を目指します。

抜擢されたのは、腕利きの検察官トマス・デューイでした。
問題は、ルチアーノについて密告するメンバーが一人もいないことでした。
そこで、デューイはルチアーノが経営する売春宿の娼婦数人に、司法取引による証言を持ちかけます。
1936年、ルチアーノは、強制売春の容疑で逮捕されました。
裁判でルチアーノは2万ドル程度の微々たる所得額を主張しましたが、実際には不正な商売で1000万ドル以上稼いでいたことが明らかになりました。
禁固30年から50年の刑が宣告されます。
しかし、ラガーディアの取り締まりも、マフィアに致命的な打撃を与えるに至りませんでした。
ニューヨークでは逮捕者が相次ぎましたが、アメリカはチャンスが無限に広がる国です。
ニューヨークから遠く離れた場所で、組織犯罪が新たな黄金期を迎えていました。

1938年6月、1艘のスピードボートがカリフォルニア州サンタモニカ沖の国際水域に入ります。
乗客が乗り移ったのはかつて漁船だったレックス号です。
今はすっかり姿を変え、海に浮かぶカジノです。
運営するのは避けの密輸業から転じた”トニー・ザ・ハット”コルネロ・・・別名提督です。
20万ドルを投じ、非課税のギャンブル天国を陸地からスピードボートで12分の海の上に作りました。
船は2000人の客と、350人のスタッフを収納可能でした。
ルーレットやカードゲームの隣にスロットマシンがずらりと並びます。
カジノは24時間無休・・・金持ちが詰めかけました。

レックス号が営業を開始して1年後、州政府は法律を変更し、取り締まり可能な海域を沖合に伸ばしました。
コルネロは当局と鼬ごっこを繰り返しますが、岸から余り離れると客を失ってしまいます。
最後は沿岸警備隊の手に落ちました。ギャンブル用の設備が、太平洋に沈められていきます。
組織犯罪の資金源は、東海岸の都市に限らないことがよくわかります。
ルイジアナ州のニューオーリンズでも、マフィアが1940年代には勢力を確立していました。
その機会を提供したのが、上院議員の”キングフィッシュ”ロングでした。
大統領への野望と汚職にまみれていました。
しかし、ロングは1935年に射殺されます。
ニューオーリンズの顔役は、酒の密輸からレストラン経営に転じた”ダイヤモンド”ジム・モランでした。
あだ名の由来は簡単・・・ダイヤモンドが大好きだったのです。
25万ドルの宝石をよくつけていました。
モランは暗黒街のメンバーに煩わしい日常を逃れて羽を伸ばす機会を提供していました。
ゲストはスピードボートでミシシッピ川を登ってやってきます。
ルイジアナ州でのマフィアの休暇に欠かせないものは銃を使った魚釣り・・・そして食事・・・世間の目が届かないところで満喫します。
ニューオーリンズでは、多くの人間がマフィアブームの分け前に預りました。
しかし、こうした時代はまもなく終わりを迎えます。

シャバのパーティーには欠席続きでもチャールズ”ラッキー”ルチアーノは刑務所の中から引き続き犯罪組織を指揮していました。
ルチアーノは、1946年収監されてわずか10年で釈放されます。
第2次世界大戦中、アメリカ軍のイタリア侵攻作戦にシチリア生まれのルチアーノが協力したという噂が流れました。
釈放の条件は強制送還でした。
イタリア・ローマに到着します。
しかし、ルチアーノは犯罪の帝国を手放すつもりはありませんでした。
1947年、アメリカに戻ろうと試みますが、キューバで身柄を拘束され、再びイタリアへ送還されます。
イタリアで、ルチアーノはカメラに追われます。
アメリカでも犯罪仲間への圧力が高まっていました。
議会上院が公聴会を開き、マフィア幹部を追求する様子を全米にテレビ放送したのです。

マフィアの隠された実態が暴かれ始めました。
1950年春、ハリー・トルーマン大統領の人気は、大戦後の景気後退と歩調を合わせるように下がっていました。
2人のマフィアメンバーの遺体が、ミズーリ州の民主党の関連会社で見つかるという大統領に追い打ちをかけます。
現場の壁に掲げられていたのは、地元が生んだ英雄・トルーマンの写真・・・
政治家と犯罪組織が癒着しているという印象を社会に与えました。
非難の声を受け、議会は組織犯罪に関する初の本格的調査に乗り出します。
テネシー州選出の上院議員エステス・キーフォーヴァ―は、全米へのアピールを画策、公聴会はアメリカではじめての一大テレビイベントとなります。
1951年3月、視聴者の数は3000万人余りに達しました。
マフィアに関係すると思われる人物を、数百人規模で召喚・・・
見たこともない光景に、アメリカ国民はくぎ付けになりました。
クリーブランドの”アウル”ポリッツィは、地下人脈について質問を受けます。
公聴会の目玉は、フランク・コステロの召喚でした。
違法な賭博から合法な不動産業まで、全米で様々な事業に絡み、テレビ局2社にも出資しています。
資産総額は計り知れず・・・
コステロは、口をつぐんだまま何も語りません。
委員会は最後に自らの正当性を訴えるように促しました。

「税金を払った
 上院に対し敬意を抱いているが、これ以上質問に答える気はない」

証人席を離れて退出・・・
ギャングの高慢さの象徴として、社会に記憶されました。

次の証人はアラバマ州出身のヴァージニア”ザ・フラミンゴ”ヒル。
もとは、アル・カポネお気に入りのウェイトレスで、シカゴとメキシコを結ぶ麻薬取り締まりのブレーンにまでのし上がった女性です。
5000ドルのミンクのコートに身を包み、莫大な資産は競馬で稼いだと言い放ちます。
自分で不利になる証言はうまく免れました。
しかし、注目されることを嫌いました。
税務調査から逃れるようにヨーロッパに渡り、15年後オーストリアで亡くなりました。

フランク・エリクソンや、ジョー・アドニスといったマフィアの大物は、憲法修正15条を盾に、自分の不利な証言を拒否しました。
修正第5条に基づいてが常套句となりました。
1年間の公聴会で、600人を呼んだキーフォーヴァー議員は、憂慮すべき結論を発表します。

「犯罪組織は州を超えて、全米規模で連携しています
 我々の想像以上に大規模で悪質な活動です
 その壊滅的な悪影響は、我が国の経済や社会規範、政治や政府に及んでいます」

まもなく、コステロの天下に終わりを告げます。
公聴会での勝手な退席により侮辱罪で有罪となり、その後5年間刑務所を出たり入ったりします。
1957年5月2日には、暗殺を試みた男に頭部を撃たれますが、生き延びました。
容疑者はヴィンセント・ジガンテ・・・コステロの宿敵ヴィト・ジェノヴェーゼ配下の男でした。
コステロがマフィアの沈黙の掟を守り、証言を拒否したため、ジガンテは無罪釈放となります。
1962年1月、ラッキー・ルチアーノが心臓発作で亡くなりました。
ナポリでの葬儀は一大イベントととなり、世界各国の報道陣が集まりました。
弔問客の多くが、その筋定番の服装・・・ルチアーノは、秘密を墓場まで持って行きました。
しかし、翌1963年、沈黙の掟が破られる衝撃的な事件が起こります。
ヴィト・ジェノヴェーゼの組織の末端メンバーのジョセフ・バラキという男が服役中に殺人を起こします。
死刑を逃れるために、バラキは司法取引に応じ、終身刑への減刑の代わりに沈黙の掟を破ったのです。

犯罪組織の秘密の名前が初めて公に明かされます。

「イタリア語でコーザ・ノストラ
 ”我らのもの””我が家族”といった意味です」

組織犯罪の実体が暴露されます。

「一度入ったら抜けられず、逃げることは不可能です
 必ず捕まります」

マフィアはバラキの首に10万ドルの懸賞金をかけましたが、誰も手にできませんでした。
バラキは、1971年に獄中で自然死を遂げます。
2年後、フランク・コステロが死亡、ニューヨークのクイーンズに埋葬されました。

バラキの証言をきっかけに、マフィアに対する取り締まりは一層厳しいものとなります。
大物が次々と法廷に引きずり出されます。
20世紀が終わるころ、捜査当局はマフィアの屋台骨の解体に成功、暗黒街の黄金期は幕を閉じたのです。
 
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映画の都・ハリウッド・・・スクリーンの魔術が、アメリカでもっとも華やかなビジネスを生み出しました。
スターが誕生します。
チャールズ・チャップリン、クラーク・ゲーブル、マリリン・モンローが、世界を虜にしました。
映画制作会社の大物が業界を牛耳り、スキャンダルも飛び交います。
思想をめぐる戦いも・・・しかし、戦時にも、平時にも、ハリウッドは適応と進化を繰り返します。
アメリカの夢の工場・・・ハリウッドの物語。

アメリカの映画産業は、ニュージャージー州で産声を上げました。
1893年発明家エジソンが、アメリカ初の映画スタジオを設立、スタジオはブラック・マライアと呼ばれました。
外見が真っ黒で、警察の護送車を思わせたからです。
しかし、まだ作品をスクリーンに映し出すことは出来ず、お客はキネトスコープと呼ばれる箱にコインを入れ、のぞき窓からフィルムを眺めます。
1894年制作の「くしゃみ」という5秒間の作品が残っています。
技術の進歩と共に、映画は多くの人が楽しめる娯楽となりました。
商店を改装したミニシアターがいくつも登場します。
このような映画館は、ニッケルオデオンと呼ばれました。
ニッケル・・・5セント硬貨でチケットが買えたからです。
1903年の映画「大列車強盗」は、上映時間12分、ストーリーもありました。
1907年には、週に200万人が映画に出かけたといわれます。
映画人気が高まるにつれ、東海岸に制作会社が続々と誕生します。
そこで、エジソンの会社を中心とする大手9社は、モーション・ピクチャー・・パテント・カンパニーを設立。
撮影と上映の技術を独占し、競争相手に圧力をかけて廃業に追い込みました。

1910年、映画監督のD.W.グリフィスは、矢が色気のため、西部カリフォルニア州に赴きました。
そしてたまたまある村に立ち寄ります。
なだらかの丘と果樹園の広がる人口5000人の村です。
村からロサンゼルスまで伸びる16キロほどの通りは、まだ世に知られていない子の小さな村の名をとって、ハリウッド大通りと呼ばれるようになります。
グリフィスの作品「In Old California」は、初めてハリウッドで撮影された映画です。

様々な地形に富み、一年を通じて晴れが多いカリフォルニア・・・しかも、エジソンが独占支配する東海岸からは、4000キロ離れています。
ビジネスチャンスにひかれ、独立系の制作者たちは西を目指しました。
1912年、東海岸で映画ビジネスをしていたカール・レムリがユニバーサルを設立します。
後にハリウッドの巨大企業となるこの会社は、28万坪と言う広大な敷地に世界最大の制作スタジオを造りました。
ユニバーサルは、数多の従業員を雇います。
レムりの成功を受け、業界の人々が次々と西海岸に拠点を移します。
プロデューサーのアドルフ・ズーカー、ジェシー・ラスキー、セシル・B・デミル、サミュエル・ゴールドウィンがパラマウントの前身となる会社を設立、もう一人のパイオニア、ウィリアム・フォックスはエジソンの独占は違法だと訴え、勝利します。
自由になった映画産業は、カリフォルニアを拠点に急速に成長しました。
ハリウッドの映画制作会社は、新しいビジネスモデルを生みました。
映画を作るだけではなく、劇場チェーンも所有していました。
そのため、一定数の観客を確保することが可能でした。

1914年、イギリス人の俳優・チャップリンの二本目の出演作「ヴェニスの子供自転車競走」で、トレードマークとなるキャラクター・放浪者チャーリーに扮し、一躍スターに・・・。
チャップリンは監督も務めました。
1916年映画会社が彼に支払った年俸は70万ドル・・・社長の給料の10倍近くに当たります。
時はまだ無声映画の時代・・・台詞抜きで楽しめるコメディーが人気を集めました。

大スターの一人・・・メアリー・ピックフォード。
1916年、パラマウントと結んだ専属契約は前代未聞の100万ドル・・・ピックフォードを頻繁に起用したのが、D.W.グリフィスです。
1915年、グリフィスは、新しい技法を駆使した「国民の創生」を発表。
南北戦争を舞台としたアメリカ初の壮大な人間ドラマです。
上映時間は3時間・・・1万8000人を雇い、制作費10万ドルを投じました。
興行収入は、現在の価値で2億5000万ドルにのぼったといわれています。
しかし、議論が巻き起こりました。
白人至上主義団体クー・クラックス・クランを正義として、アフリカ系アメリカ人を敵として描いていたからです。
上映禁止を求める抗議運動が起きました。
グリフィスは謝罪しませんでした。
1930年作品の再公開に当たり、こう弁明しています。

「当時、KKKは必要でした。
 社会維持に貢献していました。」

それでも独創的な新しい手法によって、グリフィスはハリウッド一の名監督の座を手にしました。
第一次世界大戦中、プロパガンダ映画を撮影するため、特別にフランスの塹壕への立ち入りも許されました。
戦争の資金集めに奔走したのが、ハリウッドのスターたちです。
ワシントンでメアリー・ピックフォード、チャールズ・チャップリン、ダグラス・フェアバンクスが、戦時公債を宣言します。
一行は各地を回り、スターに頼まれれば、市民たちは喜んでお金を出しました。
終戦までに集まった金額は、およそ170億ドル・・スターは今や、国民の恋人でした。

しかし、権力を握っていたのは制作会社です。
ユニバーサル、パラマウント、フォックスにワーナーブラザーズとコロンビアも加わりました。
会社は報酬や芸術表現の面で、俳優を厳しく管理しました。
自由を求めて反旗を翻した者もいます。
ピックフォード、チャップリン、フェアバンクスは、グリフィス監督と共に、1919年にユナイティッドアーティストを設立。
金儲けの手段ではなく、芸術としての映画に道を開く出来事でした。
しかし、大手スタジオには太刀打ちできません。
資金集めは難航し、制作は停滞します。
旗挙から5年間は、平均で年に5本の作品しか世に送り出せませんでした。
仕事上の同志だったフェアバンクスとピックフォードは、私生活でもパートナーになりました。
夫のいたピックフォードは、離婚によってキャリアを失うのでは??と心配します。
しかし、国民はフェアバンクスとの結婚を究極のハッピーエンドとして祝福。
ハリウッド発の大物カップルの誕生でした。
夫妻はビバリーヒルズに豪華な新居を構え、撮影隊を招集します。
一帯はすでに高級住宅街として有名でした。
ご近所さんはチャップリンでした。
通称ピックフェアと呼ばれた二人の邸宅には、ハリウッドのセレブ達が集うようになりました。

1920年には、世界の映画の大半がハリウッドで制作されました。
映画はアメリカ第4の産業となり、4万2000人以上を雇用していました。
映画産業に関わりたいという夢を持って、大勢がハリウッドに押し寄せました。
ロサンゼルスの人口は、1920年代に倍増し、アメリカ第5の都市へと成長します。
住宅地が広がっていきます。
1923年、大きな資材を丘の上に運ぶ人々・・・新興住宅地を宣伝する高さ15mの巨大看板を作るためです。
費用は2万1000ドル・・・現在の30万ドル相当でした。
4000個の電球が浮かび上がらせたのは、HOLLYWOOD LANDの文字・・・
一次的な広告の予定でしたが、1949年にLANDの4文字が取り払われ、今もこの地のシンボルであり続けています。
1920年代初頭、ハリウッドほど自由奔放な町はありませんでした。
スクリーンの中にも外にも怪しげな雰囲気が漂うようになりました。

そして1921年9月・・・事件が起きます。
大人気のコメディアン、ファッティー・アーバックルが、強姦殺人の罪で逮捕されたのです。
被害者は、女優ヴァージニア・ラッペでした。
アーバックルは、サンフランシスコの高級ホテルでのパーティーの後、犯行に及んだとされます。
ハリウッド初のセックススキャンダルを受け、業界はアメリカ映画制作配給業者協会を創設。
共和党の政治家ビル・ヘイズを初代会長として招きました。

ヘイズは、プロダクションコードと呼ばれる倫理規定を導入します。
しかし、実態は掛け声にとどまり、規定に従わせる権限は、ほとんどありませんでした。
ハリウッド流のパーティーは終わりませんでした。
映画は古いモラルを打ち破るための大胆な挑戦でもありました。
ラブシーンの撮影は、監督の腕の見せ所・・・セクシーな魅力を前面に押し出す俳優も登場します。
ルドルフ・ヴァレンチノ・・・別名、ラテンの女たらしと呼ばれたスターです。
ヴァレンチノは、1926年胃潰瘍が原因で31歳と言う若さで世を去ります。
ファンは悲しみにくれました。
遺体はニューヨークで3日間安置され、何千人もがスターの死を悼みました。
1927年には、1週間にアメリカ人の半数にあたる5700万人が映画館を訪れました。
需要に応え、各地に映画館が急増します。
ロサンゼルスのハリウッド大通りには、興行師シド・グローマンが200万ドルを投じたチャイニーズ・シアターが登場。
スターが劇場前の歩道に、手形足形をつける伝統は、この時始まりました。
第1号はダグラス・フェアバンクスと、メアリー・ピックフォードでした。
同じ年、フェアバンクスとピックフォードは、ハリウッドの伝統ある組織の立ち上げにも参加。・・・画芸術アカデミーです。
1929年から始まったアカデミー賞授賞式は、最も華やかな映画イベントとなり、受賞者に与えられるオスカー像と共に、世界に知られるようになります。
映画業界は、活気に満ち溢れていました。
さらにこの時、映画を根本から変える革命が起ころうとしていました。

1927年、ニューヨークのタイムズスクエア・・・
革命の瞬間に立ち会おうと、ワーナー劇場に詰めかける人々・・・世界初の長編トーキー映画「ジャズシンガー」のプレミア上映です。
アル・ジョンソンの記念すべき第一声に、観客は大興奮しました。
トーキーの登場で、映画の作り方はがらりと変わりました。
音声を拾うため、撮影場所は屋内の特設スタジオに変わりました。
かつて活躍した大掛かりなセットは、もはや使われることも無くなり、取り壊されました。
トーキー映画の名脇役は、サイレント時代からMGMのトレードマークだったレオ・ザ・ライオンです。
何頭ものライオンが、レオ役を務めてきましたが、最も有名なのはジャッキーでした。
1927年、ジャッキーは特別仕様の飛行機で、MGMの宣伝ツアーに出ました。
ところが、サンディエゴを飛び立った5時間後、飛行機はアリゾナの山中に墜落、パイロットは救助を求めに行き、ジャッキーは4日間残されたサンドイッチを食べて生き続けました。
MGM幹部が真っ先に聞いたのは、「ライオンは無事か?」と言う言葉でした。
事故は宣伝となり、ジャッキーは幸運のライオンと言われ大いに甘やかされます。
1928年、その声が初めて劇場に轟きます。
トーキー映画の象徴でした。
トーキーの到来と共に華麗な変身を遂げたのが、元コーラスガールのルシール・フェイ・ルスールです。
テキサス出身のルシールは、南部訛りを無くすため懸命に努力します。
彼女の名前の響きが気に入らなかったMGMは、雑誌で新しい名前を公募、賞金は1000ドルでした。
新しい名前は、ジョーン・クロフォード・・・MGMは、その貧しい生い立ちを隠して、新しいプロフィールを作ります。
1929年、彼女はダグラス・フェアバンクスの息子と結婚し、ハリウッドのセレブの仲間入りをしました。

MGMの幹部ルイス・B・メイヤーは、莫大な儲けを産むスターたちを徹底的に管理します。
1930年代には、60人以上のスターと契約し、MGMはハリウッドの中心的存在となりました。
映画会社は養成学校を作り、新たなスターの発掘に努めます。
授業の様子を撮影し、プロモーションにも利用しました。
俳優の卵たちが、カメラの前でトレーニングを受けます。
女性たちは完璧なレディーを演じるように求められます。
歩き方講座もありました。
キスの練習も・・・映画会社は自分達が求める俳優を育てます。
スターの生活は優雅でした。
俳優たちがニュース映画に登場する時は、常に映画会社が万全な体制をとっていました。
1937年、アメリカ人の平均所得は1800ドルでした。
映画スターはこの額をはるかに上回り、クラーク・ゲーブルの年収は28万ドル余り・・・しかし、アメリカで最も高額な報酬を手にしていたのは、MGMのボス、ルイス・B・メイヤーで、その額は110万ドルでした。

憧れの的ハリウッドは、その煌びやかさゆえに議論の的にもなります。
メイ・ウエスト主演の「妾(わたし)は天使ぢゃない」のプレミア上映が1933年にありました。
ウエストは、悪名高き女優でした。
舞台での過激な演技でわいせつ罪で逮捕され、禁固10日の刑を受けました。
保守的な宗教団体は、ウエストの映画の性描写に拒否反応を示し、セックスと暴力を賛美する映画界の傾向を非難します。
ハリウッドはこの批判をかわそうとしました。

倫理規定の適用を最初に受けたのが1934年の「ターザンの復讐」でした。
ジョニー・ワイズミュラーとモーリン・オサリバンの代役が及ぶシーンは裸が問題となりカットされました。
検閲の時代が、この後30年続きます。
業界は方向転換をし、もっと無邪気で愛らしいスターを求めることにしました。

わずか5歳のシャーリー・テンプルです。
映画「歓呼の嵐」で歌とダンスを披露し、アメリカ人の心をつかみました。
フランクリン・ルーズベルト大統領は、この少女が大恐慌で落ち込んだ人々を元気づけるのを見てこう言いました。
「この国にシャーリー・テンプルがいる限り、私たちは大丈夫だ」
映画スターとして初めて大統領の誕生日に歌も歌いました。

1939年には、365本の映画が公開され、週に8000万枚のチケットが売れました。
そのほとんどが、映画史上空前の大ヒット、「風と共に去りぬ」のチケットでした。
プロデューサーのデイヴィッド・セルズニックは、キャスティングに2年を費やします。
ポーレット・ゴダードを含む32人がスカーレット・オハラ役の候補にあがりました。
最終的にこの大役を射止めたのは、イギリス人のビビアン・リーでした。
レット・バトラー役にはクラーク・ゲーブル、アシュレー役にはレスリー・ハワードが決まりました。
ビビアン・リーと、オリビア・デ・ハビランドがセルズニックと共にアトランタに姿を現すと市民は熱狂。
しかし、最も大きな歓声を浴びたのは、ハリウッドのKing・・・クラーク・ゲーブルでした。
ジョージア州知事は、ワールドプレミアの日を市の休日とし、100万人以上がお祭りに加わります。
スターのパレードを見ようと、30万人が通りを埋め尽くしました。
しかしこの作品も、「国民の創生」と同じく人種の問題を浮き彫りにします。
プレミア会場には、奴隷のマミー役ハティ・マクダニエルをはじめ黒人俳優の姿はありませんでした。
劇場には白人しか入ることが許されなかったのです。
人種差別は、アメリカ全土におよんでいました。
アカデミー賞授賞式では、セルズニックが頼み込み、やっとハティ・マクダニエルの出席が許されます。
しかし、彼女は何処にも写っていません。
他の候補者との同席は許されず、遠く離れた席があてがわれていたのです。

風と共に去りぬは、過去最多の8部門を受賞、ハティ・マクダニエルは助演女優賞に輝きました。
アフリカ系アメリカ人として初めてのことです。
人種差別は、この後何十年もハリウッドに残り続けます。
さらに、ハリウッド自体にアメリカへの忠誠度が問われる時代がやってきます。

第二次世界大戦さ中の1942年、ハリウッドスターは国民へ戦争への参加を呼びかけました。
ジェームズ・スチュアートもその一人です。
当初は痩せすぎのため合格ラインにたらず、スパゲティとステーキとミルクセーキで体重を増やしました。
まだ基準より数十グラム軽かったものの、軍医を説き伏せて合格。
陸軍航空軍の爆撃機パイロットになり、国民の入隊を呼びかけます。
徴兵の年齢を超えていたクラーク・ゲーブルも、妻を飛行機事故で亡くしたことをきっかけに入隊します。
名監督ジョン・フォードも、戦争を後方支援しました。
海軍への入隊が夢だった彼は、1941年、映画製作スタッフを集め独自に海軍予備隊を結成します。
政府の要請を受け、連合軍に従軍してドキュメンタリー映画や訓練用の映画を撮影しました。
1942年、ミッドウェー島のアメリカ軍基地の撮影に赴きます。
日本軍の攻撃で負傷しながらも、フォードは撮影を続行!!
海兵隊の兵士たちが祈るようにアメリカ国旗を掲げる様子を捕らえ、アカデミー賞のドキュメンタリー部門で受賞しました。

本国でもハリウッドのスターたちが一役買います。
メアリー・ピックフォードは、ピックフェアと言われた自宅を軍人に開放、町にはハリウッドキャンティーンをオープンします。
ベティ・デイビスとジョン・ガーフィールドが1942年に開いた伝説の店で、連合国の軍人なら誰でも利用できました。
軍服が入場券替わりで、店内のものはすべて無料でした。
リンダ・ダーネルなど、有名俳優を含む3000人のボランティアが食事を出し、客をもてなしました。
スターとダンスもできました。
ハリウッドで初めて成功したドイツ人俳優マレーネ・ディートリッヒの姿も・・・。
ナチスからの帰国要請を拒否して、1939年アメリカの市民権を得ていました。

このキャンティーンは、1945年までに300万人の兵士をもてなし、コーヒー900万杯とタバコ300万箱を提供しました。
しかし、まもなくハリウッドの愛国心に、疑いの目が向けられるようになります。
冷戦時代、アメリカは内部の敵に怯えていました。
1947年、アメリカ下院の非米活動委員会が国内の共産主義者の調査と摘発に乗り出しました。
ハリウッドは、赤の温床と見なされ、標的にされます。
委員会はワシントンで9日間にわたる公聴会を開き、ハリウッドの映画人40人以上に証言を求めました。
映画俳優組合の代表だったロナルド・レーガンは、ハリウッドの潔白を断言します。
委員会は、共産主義との関係が疑われる人の名を上げるように迫りましたが、一部の脚本家と映画監督は、憲法上の権利の侵害だとして協力を拒みます。

委員会に逆らった10人の映画人は、ハリウッド10と呼ばれ、大きな代償を払います。
業界のブラックリストに乗せられ、1年の禁固刑まで受けました。
ハリウッド10への冷遇に反発する俳優もいました。
ハンフリー・ボガートやローレン・バコール・・・俳優たちがワシントンに集まり抗議の声をあげました。
ハリウッドを代表するスター、チャールズ・チャップリンも憂き目を見ます。
非米活動委員会は、アメリカの市民権を取得しようとしないチャップリンの国外追放を求めたのです。
チャップリンは委員会に電報を送りました。

”私は共産主義者ではない
 平和の使徒だ”

委員会は引き下がったものの、FBIは捜査を続けました。
1952年、63歳のチャップリンは、映画「ライム・ライト」のプレミア上映のため、21年ぶりにイギリスに向かいます。
大歓迎の祖国とは対照的に、第二の祖国アメリカは、チャップリンの再入国を阻もうとします。
これに傷ついた俳優は、この後、20年間アメリカに戻ることはありませんでした。
ひとつの時代の終わりでした。

そして、ハリウッドは新しい脅威に直面します。
強力なライバルの登場です。
1948年、連邦最高裁は、パラマウントをはじめ多くの映画制作会社に映画館の所有を禁じる判決を下しました。
市場の独占が崩れました。
制作会社はこれまで頼りにしていた手堅い集客手段を失い、競争にさらされます。

新興勢力であるテレビ業界には、絶好のチャンスでした。
ベビーブーム世代が結婚し、郊外に移ると、お金と時間のかかる映画館からは足が遠のきます。
1950年代の半ばには、アメリカ人の半数がテレビを所有、逆に映画館の客入りは戦時中に比べ半減します。
映画制作会社は勝ち目のない競争よりも、流れに乗ることを選びました。
ニュースよりも娯楽番組が増えるにつれ、ハリウッド製の作品がテレビにあふれるようになります。
俳優たちもテレビに進出します。
大ヒットドラマ「アイ・ラブ・ルーシー」には、毎週4000万人がチャンネルをあわせました。

映画の復権には、新たな客層の開拓が必要でした。
お金を落とすようになったティーンエイジャーをターゲットに、ハリウッドは新世代の俳優を生み出します。
マーロン・ブランド、ジェームズ・ディーン・・・
ディーンは、スクリーンの中でも外でも異端児でした。
クリーンなイメージを保ちたいワーナーブラザーズは、安全運転を呼び掛ける公共CMに彼を出演させます。
数週間後、彼は事故に遭い24歳で亡くなります。

ハリウッドは、海の向こうにも売り込みます。
セックスシンボルとして一世を風靡したマリリン・モンローは、アメリカの象徴となり人気を博します。
1956年にはプレミア上映会のためにロンドンを訪れ、ハリウッドの女王と即位して間もないエリザメス女王が対面しました。
1962年、J.F.ケネディ大統領の誕生日を独特の歌声で祝いました。

煌びやかなスターを生み出すハリウッドの力は健在でした。
観客の争奪戦が続く中、映画にも付加価値が求められるようになります。
1952年、映画「これがシネラマだ」のプレミアム上映にスターが顔を揃えます。
ジョーン・クロフォード、ロック・ハドソン、ジョン・ウェインも最先端のワイドスクリーン・・・シネラマを体感しました。
湾曲した横長のスクリーンに、三台の映写機で映します。
観客はまるで実際にジェットコースターに乗っているような臨場感を味わいます。

一方、はじめてシネマスコープで撮影されたのが、1953年の「100万長者と結婚する方法」です。
1代の映写機で、ワイドスクリーンへの投影が可能になりました。
こうした技術を駆使して、ハリウッドはテレビに真似のできない映画ならではの作品作りを目指します。
「国民の創生」や「風と共に去りぬ」の流れをくんだ巨額の制作費をかけた壮大な作品が人気を呼びます。
「十戒」は、エジプトで撮影されました。
セットの建設に1600人が動員され、エキストラの数は1万2000人、1300万ドルという空前の制作費が投じられましたがその甲斐はありました。
興行収入は制作費の10倍にあたる1億2200万ドル以上、パラマウントの作品で最高を記録したのです。
ニューヨークでのプレミア上映には、スターが勢ぞろい・・・ハリウッドを象徴する華やかさに溢れていました。
夢の工場ハリウッドは、サイレントからトーキーへ、戦時から平時へと時代に適応して生き延びてきました。
その魔法がとけない限り、これからもアメリカ文化の中心にあり続けることでしょう。


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アメリカの情報機関は、最近2000ページに及ぶ極秘文書を公開しました。
20世紀最大の喜劇王チャールズ・チャップリンの人物ファイルです。
命じたのは、J・エドガー・フーバー・・・FBI史上最強の長官は、チャップリンを共産主義と危険視していました。
私生活も徹底調査、電話の盗聴、取り巻きの素行調査、女性関係、セックスの監視、作品の分析・・・
1922年から78年まで50年以上に及んだ容赦ない調査の記録です。

チャップリンとフーバーの対決には、長い間アメリカを分断してきたリベラルと保守の対立構造が伺えます。
なぜアメリカで人道主義者のチャップリンが批判の的になったのでしょうか?
どうして言論の自由は蔑ろにされたのでしょうか?

1910年代・・・
20代半ばだったイギリス人俳優・チャップリンは、所属する劇団の巡業でアメリカを訪れました。
その頃、ハリウッドでは、映画産業が急成長を遂げていました。
まだ小さな制作会社の集まりでしたが、その一つのキーストンスタジオがチャップリンを雇い、短編のトーキー映画に出演させます。
チャップリンは、すぐに人気をさらいます。
奇妙ないでたちでユーモアたっぷりの浮浪者の姿が、大いに受けたのです。

チャップリンはタイミングのいい男で、映画産業が花開こうとするときにハリウッドにやってきました。
放浪者は、大きすぎる服に、だぼだぼのズボン、しかし、山高帽でステッキ、フロックコートを着ています。
下半身はみすぼらしいのに、上半身は上流階級のよう・・・。
チャップリンが自ら選んだこの衣装は、後の映画での基本的なスタイルがすでにできています。
質素でありながら威厳を供えている・・・。

こうして、トレードマークの放浪者が誕生しました。
チャップリンは、自ら監督も行うようになり、もっと自由な環境で映画を作りたいと考えるようになりました。
チャップリンは、いくつもの映画会社を渡り歩き、70本以上作成します。
数年で莫大な富を築きます。
1917年には、自身のスタジオの建設に着手しました。
彼が好んで制作したのが風刺映画でした。
金持ちの紳士が、顔にパイを投げつけられたり、警察官がひどい目に合ったりします。
チャップリン演じる放浪者は、社会で虐げられている人々の代弁者になっていきます。
彼が、劇中で繰り広げる権力者への些細な抵抗が、庶民の共感を詠んだのです。
チャップリンの風刺作家としての名声は高まっていきます。

チャップリンは、放浪者を労働者や移民の一人として描きました。
生涯で様々な役を演じますが、貧しい生まれの人物という部分では共通していました。
彼は、虐げられている弱者のことをよく知っていたのです。
彼自身の貧しい生い立ちを考えれば当然のことでした。
子供の頃に感じた不公平感を・・・

1917年公開の映画{チャップリンの移民」は、アメリカの移民政策への批判が込められていました。
保守派の論客は、チャップリンの映画を反体制的だととらえるようになります。
アメリカのピューリタン的な価値観を、脅かしかねないと見たのです。

第一次世界大戦でアメリカ兵が戦地へ赴く中、チャップリンはアメリカの市民権を拒んだことで批判されます。
チャップリンは、「自分は世界市民だ。国籍は生まれた国の物だけあればいい。」と言いました。

一方、チャップリンは、戦争資金を調達するための公債の発行を支援します。
政府への支持を訴え、全米を回りました。
さらに、公債と題したプロパガンダ映画を製作します。
しかし、公開時にはすでに休戦が宣言されていました。

1920年代になると、アメリカは飛躍的に成長を遂げます。
大手映画会社は、700本を超えるサイレント映画を世界中で公開しました。
チャップリンは、作家自身による映画配給会社「ユナイティッド・アーティスト」を作ります。
作品の内容により強い権限を持つようになったチャップリンは、映画「キッド」では固辞の問題を取り上げました。
チャップリン演じる放浪者が、ニューヨークの街で孤児と出会うストーリーです。
チャップリンは、人々に夢と希望を与えてきたアメリカが、一方で貧しい孤児たちの存在を無視してきた実態を描いています。
彼は、様々な手法で批判してきたことです。
ワシントンではロシアの革命から、共産主義の思想の広がりを懸念していました。
若きフーバーの任務は、要注意人物の監視でした。
フーバーは公務員でした。
彼は大戦中から、政治犯の監視の担当をしていたのです。
フーバーは、黒人を蔑視する人種差別の塊で、同性愛も嫌悪していました。
そして何よりも反共主義者でした。
国際的な秘密組織が存在し、欧米各国を弱体化させ社会主義革命を狙っているという妄想に取り憑かれていました。
1919年、フーバーは、共産主義運動の指導者たちを国外追放します。
少しでも社会主義やリベラルな思想を持つ者は、コミュニズムの支持者だと疑われました。
マスメディアで反体制の言動をする者も標的になります。
知識人や芸術家も疑われました。
一般市民に危険な思想を植え付けていると思われたのです。

フーバーは、ハリウッドに捜査員を潜入させ、監視下におきます。
ゴシップ誌も重要な情報源でした。
フーバーは、チャップリンファイルを開設、50年で2000ページに及ぶ記録の始めは、俳優ミルドレッド・ハリスとの結婚です。
当時、ミルドレッドは16歳、スキャンダルを畏れたチャップリンは、1918年結婚します。
子供は生後すぐに亡くなり、結婚はすぐに破綻・・・
妻が離婚を申し立て、ほどなく認められました。
1921年、チャップリンは、長期のヨーロッパツアーに出かけます。
ロンドンやパリで大歓声で迎えられました。
1924年、チャップリンは、俳優のリタ・グレイと結婚し、二人の息子を設けますが、結婚はうまくいかず、リタは幼い子供を連れて家を出ました。
その後、リタはチャップリンの不貞や暴力を訴え、離婚を申し立てます。
裁判の末、チャップリンが多額の示談金を支払うことで離婚が成立します。

第1次世界大戦後のアメリカは、禁酒法が施行され、保守主義が台頭した時代でした。
しかし、チャップリンはそんな時代をあざ笑っていました。
彼の映画は、多くの良識あるアメリカ人にとって不快に映ることもありました。
一方で庶民は、チャップリンの映画を称賛しました。
権力者がコテンパンにされる姿を見て大喜びしたのです。

厳格なキリスト教徒たちは、チャップリンの映画のボイコットを呼びかけます。
道徳的な観点から映画に懸念を示す人が大勢いて、キリスト教の団体が政府に映画の検閲をするように求めていました。
そのため、多きな映画会社が、MPPDAを設立し、自主的な倫理規定を作ります。
初代会長は、郵政長官だった共和党の政治家ウィル・ヘイズです。
協会は、まず俳優たちに教会に従うという誓約書への署名を義務付けました。
しかし、自分の配給会社を持っていたチャップリンは、縛られることはありませんでした。

チャップリンは、次第にFBIからにらまれるようになります。
1922年8月、フーバーは、特別捜査官のホプキンスに調査を命じます。
ホプキンスは、チャップリンがロサンゼルスの自宅で開催したパーティーについて報告しました。
それによると、招待客の中には、共産主義に共鳴する人物や、急進主義者、労働組合の指導者も含まれていました。
ホプキンス捜査官は、チャップリンはMPPDAのヘイズ会長を批判し、我々は如何なる検閲にも反対すると明言したと言い、トイレの扉には「ようこそヘイズ」と書かれたペナントがあったと報告しています。
フーバーは、報告書をヘイズに送ります。
FBIとMPPDAは、映画に含まれるプロパガンダを取り締まるために協力関係を築き、この関係は1945年前まで続きました。

マスメディア・FBI・MPPDAの圧力を前に、チャップリンは四面楚歌の状態でした。
1927年、チャップリンの映画の内容に、外部から更なる圧力がかかり、更なる規則が追加されました。
映画に含んではいけない11の要素と扱いに注意を払うべき25の項目のリストが発表されました。
ヌードは禁止、宗教は敬意をもって扱う、犯罪や不貞行為を煽らない・・・
MPPDAには、違反者を罰する手段がありませんでした。
映画の製作者たちは、一分でもリストを守ればいいと都合よく解釈をし、良心と興行収入を守りました。

華やかな1920年代は悲劇で幕を閉じます。
1929年10月24日、株価が大暴落!!
大恐慌となります。
人口の1/4が職を失い、多くの人が路頭に迷いました。
FBIにとって、経済危機であると同時に、政治的な危機でもありました。
国内の全ての反体制分子を監視しろという命令が秘密裏に出されました。
極右のメンバーと共産主義者への調査活動が強化されました。

映画「街の灯」は、金融危機がもたらした労働者たちの過酷な日常を書いています。
チャップリンは、脚本を恐慌が始まる前から書いていました。
劇中では酒飲みの大富豪と放浪者との奇妙な関係が描かれ、庶民に対する支配階級の冷淡さが表現されています。
この映画の製作中、新たな問題に直面します。
トーキーの登場です。
映像と音声と同期したトーキーは、大手映画会社では数年前から制作されていました。
しかし、チャップリンは、一時的な流行に過ぎないと考えていました。
チャップリンは、放浪者はしゃべれない・・・しゃべった瞬間、死んでしまう・・・ジェスチャーを通して意思疎通することに面白さがあると言っていました。
サイレント映画では興行的に失敗すると言われても、チャップリンはトーキーを嫌いました。
チャップリンの「街の灯」は大ヒットし、賭けに勝ちました。
1933年になると、映画業界はカトリックの団体から圧力を受けるようになります。
これに対応する為に、MPPDAはジョセフ・グリーンを検閲の責任者に据えます。
彼は何より道徳を重んじました。
彼は最高で2万5000ドルの罰金を科す権限を与えられたので、制作者たちは規則を守らざるを得なくなります。
これが、ハリウッドの転換点となりました。
制作者たちは規則に従うか、抜け穴を見つけるか、判断を迫られます。
チャップリンにとっては受け入れがたいことでした。

同じころ、ルーズベルト大統領が、ニューディール政策を打ち出します。
経済を復興させ、失業者たちを無くす目的でした。
チャップリンは、ルーズベルトへの支持をラジオで訴えます。
公正な社会を求める彼の思いが、次の作品「モダン・タイムス」につながります。
当時、地方の人々が、大挙して大都市に移り住みましたが、生活は非常に貧しいものでした。
この窮状を目の当たりにしていたチャップリンは、大手自動車工場を訪問したのち、モダン・タイムスを制作します。
そして、効率化を求める会社の管理体制や、分業化、機械化を批判しました。
労働者を機械やロボットのように変えてしまう資本主義社会を痛烈に皮肉ったのです。

チャップリンは、ポーレット・ゴダードを起用、その後二人は10年近くプライベートでもパートナーとなります。
彼女はチャップリンの生活に多くの幸せをもたらしました。
チャップリンは、彼女に会った瞬間に、モダン・タイムスにピッタリだと思いました。
映画が封切られると、チャップリンはゴダードと一緒に世界旅行に出かけます。
1936年、二人は密かに結婚しました。
映画は大成功を収めましたが、内容は共産主義的だと非難する批評家が大勢いました。

チャップリンは抗議します。
この映画は共産主義でも資本主義でもない・・・中立だ!!
ナショナリズムの機運が高まる中、中立を貫くのは不可能だということを、チャップリンはわかっていませんでした。
それまでハリウッドの共産主義者は少数でしたが、1930年代半ばに変化が起こります。
アメリカ国内の共産主義者の数も倍増しました。
フーバーは、映画業界が反体制派に対抗するように手をまわします。
フーバーはFBIの後方映画の制作を指揮、その活動がいかに優れているのかをアピールします。
さらに、FBI捜査官が主役の映画を作るように映画会社に働きかけました。
1935年の「Gメン」は、その一例です。

フーバーは、捜査官のネットワークを使い、チャップリンの収入や資産をつぶさに監視、多額の預金があることは確認できましたが、共産主義団体に寄付した痕跡は見つかりませんでした。
失望したフーバーは言いました。
「ロックフェラーのように大金を稼いでおきながら、資本主義を批判するのは間違っている」

当時の世界情勢に触発され、チャップリンは新作「独裁者」に取りかかります。
彼は全体主義の台頭に恐れを抱きました。
チャップリンは、本質的に常にヨーロッパ人でした。
彼は独裁者の構想を練り始めます。
そして、2年という歳月をかけてヨーロッパ情勢を分析し、300ページに及ぶ作品を書きあげました。

本当にすごい偶然です。
世界で最も嫌われた男と、最も愛された男が、ほとんど生き写し・・・
誕生日は数日違い、年齢も、身長も、体つきも同じ・・・
髭の大きさは違っていましたが、しかし、ヒトラーの髭は次第に縮んでいって、チャップリンそっくりになっていきます。
ナチス・ドイツがポーランドに侵攻した1939年9月、チャップリンはハリウッドで撮影を開始します。
チャップリンは独断でこの映画を作ることを決め、自分のたくわえを投じました。
家族も制作会社も映画の制作には反対でした。
チャップリンは、殺しの脅迫まで受けていましたが、経済的なリスクを含め、あらゆる覚悟をしていました。
人々の連帯や、人権が尊重される世界を信じ、平和主義を訴えようとしました。

独裁者は、1940年秋に公開されると、たちまち人気に・・・
しかし、終盤の平和を訴えるスピーチには賛否両論がありました。
新聞は、チャップリンが共産主義を宣伝していると批判します。
映画を見たルーズベルト大統領はナチス・ドイツを支持する国々との間で緊張が高まるのではないかと心配します。
当時アメリカは、ドイツに宣戦布告しておらず、孤立主義の立場をとっていました。
市民の多くは、アメリカの参戦に反対でした。
ルーズベルトは、FBIの役割を強化します。
ナチスを支持するドイツ系アメリカ人協会の団体を、監視下に置くよう命じます。
1940年以降、FBIは、国内の諜報活動において軍を凌ぐほどの力を持つようになります。
1941年12月、日本の真珠湾攻撃をきっかけに、世論が変わります。
アメリカ人の大半が、参戦を支持するようになりました。
ソビエト連邦が、連合国側についたことで、アメリカの共産主義者への姿勢も変わります。
内なる敵からナチスと戦う戦友となったのです。
ルーズベルトは国民を一つにすることに専念しました。

大統領はハリウッドにも協力を求めます。
政府、軍、映画会社は一丸となって愛国心を鼓舞する作品を作りました。
チャップリンは、大統領の要請にこたえるだけではなく、ソビエト軍を支援すべきだと公に訴えました。
チャップリンは、ドイツが東部戦線を制したら、ヨーロッパは終わりだと思っていました。
ソビエトを支援する運動を、FBIは、共産党の隠れ蓑だと思っていました。
運動を支持したチャップリンも、共産主義者では??と疑われました。

1942年、チャップリンはロシア戦線を支援する集会でスピーチをするように当局から依頼されます。
求めに応じたチャップリンは、サンフランシスコの会場に向かいます。
そして、スピーチ冒頭「同志よ・・・!!」と、突然呼びかけ、聴衆を驚かせます。
まずいことにスピーチの内容をFBIが記録していました。
更にチャップリンは、オーソン・ウェルズらと共にニューヨークで開かれた集会に出席します。
主催したのはFBIが左翼としてマークしていた芸術団体で、開場のカーネギーホールの前では、共産主義に反対するデモが行われました。
ロシア戦線への支持を表明したことが、とどめの一撃になりました。
チャップリンは、大統領だけでなく連邦議会まで敵に回しました。

フーバーは、チャップリンを法廷に引きずり出すための証拠探しを続けていました。
1943年、俳優のジョーン・バリーが妊娠6か月で父親はチャップリンだと主張。
フーバーは、早速調査に乗り出しました。
報告書によれば、二人の出会いは1941年。
彼女はハリウッドに出てきたばかりでしたが、チャップリンにうまく取り入り、彼の映画で役をもらいました。
しかし、次第にジョーンの精神的不安定が明らかになります。
ある日彼女が泥酔状態で車の事故を起こします。
チャップリンは、ジョーンとの契約を解除し、その後しばらく彼女に会いませんでした。
報告書でフーバーが興味を示したのが、次のような一文でした。
1942年10月にチャップリンがニューヨークを訪れた際、ジョーンと一夜を過ごすために列車の切符を買い与えた。
フーバーは報告書にしるしを入れ「掘り下げるように」と記入。
マン法に違反している場合は、厳しく処罰するようにと指示しました。
マン法は、白人奴隷の売買を防ぐ目的で、1910年に施行された法律です。
州をまたいで女性を輸送し、売春などの不道徳な行為に当たらせることを禁じるものでした。
ホテルの請求書を手に入れたフーバーは、ついにチャップリンを追いつめる証拠を手に入れたと意気込みます。
フーバーは、職責を著しく逸脱してジョーンを説得し、チャップリンに対する訴訟を起こさせます。
さらに、彼女のために、自ら弁護士を雇いました。
1944年2月10日、裁判が行われ、報道陣が押しかけました。
チャップリンの弁護士は陪審員に訴えます。
「ジョーン・バリーは、いつでも被告の求めに応じたであろうに、わざわざ4500キロも一緒に旅をしたなんて、おかしいと思いませんか?」
チャップリンは無罪になりますが、これで終わりではありませんでした。
すぐに二つ目の裁判が始まります。
ジョーン・バリーが子供を認知するように訴えを起こしたのです。
しかし、血液検査で親子関係がないことが証明されます。
チャップリンは法廷で彼女とは2年間関係を持っていないと主張しました。
それでも裁判所は、チャップリンの姓を名乗ることを認め、チャップリンに養育費の支払いを命じます。

不当な判決に傷ついた彼を救ったのは、ウーナ・オニールの存在でした。
ウーナは、1943年6月、一連の騒動の渦中でチャップリンと結婚し、彼がこの世を去るまで支え続けました。
この頃チャップリンは、これまでで最もシリアスな作品を書き始めていました。
「殺人狂時代」です。
よく手入れされた口ひげを蓄え、オーダーメイドのスーツに身を包んだ紳士・ベルドゥーが、殺人を繰り返し、最後は処刑される物語です。

「一人を殺せば犯罪者だが、数百万人殺せば英雄だ」

チャップリンは、このセリフに裁判所への恨みを込めていました。
戦争が終わると状況が一変・・・アメリカとソビエトの間で冷戦が始まります。
マッカーシー上院議員が主導する赤狩りがあらゆる分野で吹き荒れ、特にハリウッドは大きな打撃を受けます。
殺人狂時代のメディア無家の試写会は惨憺たるものでした。
記者たちは映画の内容ではなく、チャップリンについて質問しました。

「あなたは共産主義者ですか?」
「私は共産主義者ではない。」
「ではなぜアメリカ市民にならないのですか?」

「チャップリンはアメリカの道徳的基盤を脅かしている
 彼の映画が若者たちの目に触れないようにしなければならない」byジョン・ランキン

ランキンは、司法長官にチャップリンの国外追放命令を出すように迫ります。
チャップリンは、下院非米活動委員会に召喚されました。
反体制的な活動を摘発するこの委員会は、1947年秋、ハリウッドの映画関係者聴聞会を開きます。
チャップリンは委員会にこう伝えます。

「喜んで出席するが、聴聞会の間中放浪者の姿でパントマイムする」

これにより、チャップリンは出席を免れることができましが、多くの映画関係者はそうはいきませんでした。
委員会は反体制的で共産党との関係が疑われる人物をハリウッド10に絞ります。
俳優のハンフリー・ボガート、ローレン・バコール夫妻などが、友人たちを助けようと立ち上がります。
映画会社はボガートにハリウッド10の支援をやめなければ俳優としてのキャリアを失うぞと警告しました。
チャップリンは、委員会に逆らい、友人らを擁護します。
アイスラ―は国外追放となり、チャップリンは共産主義者の味方をしたと責められました。
証言を拒否した映画関係者は、理解侮辱罪に問われ、禁固刑に処せられました。
大手映画会社の幹部たちは、ニューヨークで対策に追われ・・・
今後は共産主義者でないと誓ったものしか雇わないことで一致しました。
ブラックリストに載った者は、潔白を証明する為に仲間を売ることを余儀なくされました。
チャップリンは、非米活動委員会や映画業界の圧力からは逃れることができましたが、退役軍人やカトリック団体からの追及は続きました。
彼等は、ハンス・アイスラ―との関係を、さらに調査するように求めていました。

1948年、ロンドンでの撮影を計画していたチャップリンは、帰国の際に必要な再入国許可を申請しました。
すると移民局から4時間にわたって尋問を受けます。
人種的なルーツは??・・・
女性関係はどうなっているのか??
なぜアメリカの市民権をとらなかったのか?
戦時中にソビエトを支援したのはなぜか?
チャップリンは答えました。
「ソビエトを支援したのは彼らがいなければナチスが勝っていたからだ。
 私は進歩的な民主主義者であって、社会主義者ではない・・・
 人道的な愛国者で、世界市民だ
 私は常にアメリカを愛してきた」
尋問の末、チャップリンの再入国が認められますが、後日、税務当局は一変して200万ドルの保証金の支払いを命じてきました。
チャップリンは、イギリスへの渡航を中止し、次回作をハリウッドで撮影することを決めます。
チャップリンがイギリス行きを計画したのは、新作「ライムライト」の世界観が、自分が育ったロンドンの貧しい町だったからです。
チャップリンは、何回もオーディションを行い、イギリスの舞台俳優クレア・ブルームをヒロインに抜擢します。
ハリウッドで全くの無名でした。

映画が完成すると、試写会の準備のためにロンドンに向かいます。
1952年9月、チャップリンは妻と4人の子供を連れ、アメリカを離れました。
しかし、出港から2日後、悪い知らせが・・・
司法省が再入国許可を取り消し、チャップリンがアメリカに戻った場合は拘束することを通達したのです。
この措置は、フーバーの調査報告に基づき、以前から決められていたことでした。

チャップリンは唖然としつつも立ち向かう決意をします。
40年近く暮らし、情熱や愛情を注いできた国から追放される・・・到底受け入れられないことでした。

ロンドンでチャップリンは大歓迎を受けます。
ライムライトは、試写会で絶賛されます。
チャップリンはイギリス王室の面々にも謁見しました。
その後、パリやローマでも熱烈な歓迎を受けます。
もう二度とアメリカへと戻らないと決心したチャップリンは、妻にアメリカにおいてきた財産を整理するように銘じました。
アメリカ国籍を持っていたウーナはアメリカに戻り、家やスタジオを処分し、スタッフに別れを告げ、銀行から預金を引き出し、書類を持ってチャップリンの元へ戻りました。

1953年、チャップリン一家は、スイスに移り住み、レマン湖を望む場所に居を構えます。
チャップリンは疲れ切っていました。
静かな場所で安心して映画を作り続けたかったのです。
一家は幸せに暮らしました。
そしてさらに、4人の子供に恵まれました。
妻のウーナは、アメリカの市民権を放棄します。
チャップリンは自分を追放した人々を許すつもりはありませんでした。

1954年に制作が始まった「ニューヨークの王様」では、チャップリンの息子マイケルがFBIに追われる夫婦の子供を演じました。
長年の敵フーバーとチャップリンの対立のパロディでした。
赤狩りがテーマで、自分を追放したアメリカを痛烈に批判しました。
フーバーは、チャップリンがアメリカを離れた後も、しつこく追い続けます。
本当はユダヤ人ではないかと、イギリスの情報機関に問い合わせたり、スイスの情報機関から交友関係や行動について報告を受けたりしていました。
しかし、ベトナム戦争が始まると、チャップリンの帰国待望の声が高まります。
1960年代に入ると、フーバーの勢いにも陰りが・・・執拗な反共攻撃や部下へのパワハラ、政治家への脅迫、マフィアとのつながりなど、次第に明らかになり、そのキャリアを泥の中に終えたのです。
チャップリンは、フーバーとの長きにわたる戦いを終えるがごとく、20年ぶりにアメリカに帰還・・・至る所で大歓迎を受け、ニューヨークではカギを贈呈されました。

アカデミー賞授賞式で、名誉賞を授与されたチャップリンは、12分間の熱烈な拍手喝さいを浴びます。
それは、彼を追放していた映画界からの心からの謝罪でした。
1か月後、フーバーは心臓発作でこの世を去ります。
彼は、戦後アメリカの暗い秘密を墓場まで持って行きました。
1975年、チャップリンはエリザベス女王からナイトの称号を受けます。
1977年のクリスマスの日、天国に旅立ちました。
庶民の味方で誇り高き自由人の放浪者と共に・・・。

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