日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: テレビ番組

南太平洋のガダルカナル島・・・今から77年前、このジャングルで日本軍とアメリカ軍が死闘を繰り広げました。
森の至る所に戦争の爪痕が残っています。
死者2万人以上、ガダルカナルは地獄の戦場といわれ、島で戦った日本陸軍の一木支隊は、最強の精鋭部隊といわれましたが全滅・・・
その責めを負い自殺したとされる指揮官・・・陸軍・一木清直大佐・・・
無謀な突撃にこだわり大敗北を招いた張本人として非難を浴びてきました。

謎だった日本軍の無謀な戦い・・・
日本と戦った米軍の上陸部隊は1万人・・・わずか900人の一木支隊と比べると、圧倒的な大兵力の部隊でした。
一木支隊は米軍の周到な罠にはまっていきます。
そして、部隊全滅の影に、陸海軍の熾烈な対立があることがわかってきました。
海軍はアメリカの艦隊をおびき寄せて叩くために、陸軍を囮にする作戦でした。
陸海軍の対立が深まり、補給が滞る中、すさまじい飢えが兵士たちを襲います。
日本は敗戦に向かう転換点が、ガダルカナルの激戦です。

ガダルカナル島は、日本からおよそ6000キロ・・・
アメリカと日本は、6か月にわたってこの島で激戦を繰り広げました。
ここは、日米が初めて総力戦を始めた場所でした。
喉かな南の島で、血で血を洗う戦いが行われました。

日本軍が作った島で唯一の飛行場・・・ホニアラ国際空港(旧日本軍飛行場)を巡って、日米は激突しました。
日本海軍は現地の住民を使い、森を切り開き、建設を進めていました。
800mの滑走路を備えた飛行場は、重要拠点となるはずでした。

1941年12月8日、真珠湾攻撃で、連合国との全面戦争に突入した日本・・・
米軍の拠点ハワイとオーストラリアの線上にあるガダルカナル島に着目します。
ここで制空権を得れば、連合国を分断し、更に優位に立てる・・・!!と。
危機感を募らせたアメリカは、飛行場を占領し、制空権を奪おうと計画します。

米軍の飛行場占領作戦とは・・・??
残されたフィルムによると・・・。
1942年8月7日、アメリカ海兵隊がガダルカナル島上陸!!
1万人の兵力で、たちまち完成間近の飛行場を占領!!
米軍機を迎えるために、整備を進めました。
そして・・・圧倒的な火力で、飛行場奪還に現れた日本軍を撃退します。
全滅し、大地に横たわる日本兵・・・わずか900人で、10倍の兵と戦った結果でした。

この時殲滅したのは、陸軍屈指の精鋭部隊といわれていた一木支隊。
兵を率いた一木清直大佐は、敵を侮り、自信過剰、無謀な作戦、偵察をせずに突撃、致命的なミスをしたとして、轟々たる非難を浴びてきました。
一木大佐はどうして隊を全滅することとなったのでしょうか?

ガダルカナルの敗北の責めを負った一木大佐・・・しかし、部隊全滅の影には、日本軍の組織の抱える問題がありました。

1942年8月7日、大本営・・・
ガダルカナル米軍上陸の報せは、直ちに大本営にもたらされました。
陸海軍の作戦参謀が一堂に会して、飛行場奪還作戦のための緊急会議が行われました。
両軍の議論を資料を基にすると・・・

この2か月前の6月5日、ミッドウェー海戦で敗北、空母4隻を失い、報復の機会をうかがっていた海軍・・・
一方の陸軍は、中国やアジア各国で勝利し、向かうところ敵なしと自信を深めていました。
米軍を倒すべく、初の陸海軍共同作戦が行われようとしていました。
陸海軍は、それぞれ、連合艦隊(海軍部)と第17軍(陸軍部)に作戦準備を命令。
海軍は艦隊と航空艦を、陸軍は歩兵部隊を派遣し、連携して飛行場を奪還する作戦でした。
この時、白羽の矢が立ったのが、中国戦線で名を上げた陸軍・一木支隊でした。

一木支隊の故郷は北海道の旭川・・・
彼等が出征の直前、必勝祈願を護国神社で行います。
その時、境内で撮った写真が残っていました。
総勢2000名、農家出身、20代の若者が厳しい訓練を経て精鋭部隊に・・・!!
その強さは・・・日本最強であったと、今も地元で語り継がれています。
その隊員たちは、ほぼ全滅となりました。


飛行場を奪還する初の陸海共同作戦・・・海軍の側はどう動いたのでしょうか?
ガダルカナル島の沖合で、沈没船の調査が行われています。
この調査は、戦艦武蔵を発見した実績を持つ国際的なチームが行っています。
無人潜水艇で、日米の戦いの痕跡を探す・・・。
沈んだ軍艦・・・アメリカ重巡洋艦クインシー・・・
日本海軍の攻撃で、船体に大きな穴が開き、沈没したようです。
海軍の作戦は、アメリカが飛行場を占領したその日のうちに始まりました。
指揮官は、第八艦隊司令長官・三川軍一中将。
闇に紛れた奇襲を決断します。
攻撃目標は、米軍の輸送船団!!
空母や巡洋艦に護衛されていました。
夜、10時50分・・・連合艦隊はアメリカの艦隊を発見!!
しかし、すぐに攻撃を仕掛けず夜の闇に紛れて敵陣深く忍び込みました。
11時38分、攻撃開始!!
連合艦隊は重巡洋艦クインシーなど巡洋艦4隻を沈め、他、3隻に大ダメージを与えます。
ミッドウェー海戦の敗北以来、久々の大戦果を挙げた海軍!!
勝利は大々的に報じられました。
しかし、海軍はこの戦いで大きなミスを犯します。
空母や巡洋艦への攻撃を優先する・・・当初の目的だった輸送船団を見逃していたのです。
米軍は、補給が途絶える危機を脱し、武器や食料を受け取ります。
ラバウルの陸軍第17軍司令部は、この海軍の判断を非難します。
一木支隊の作戦を担当する参謀長の二見秋三郎少将の手帳には、海軍に対して痛烈な批判が書かれていました。

”ニュース、海軍大々的ニ報ズ
 ヤリ方ナマヌルキコト多ク 全クキガシレズ”

海軍のミスでアメリカの兵力は増強され、一木支隊にとって不利な状況が増していきます。

共同作戦と言いながら、優先順位が食い違う海軍と陸軍・・・大勝利の影で、亀裂が生じようとしていました。
一木支隊の上陸地点は、ガダルカナル島のタイボ岬・・・
日本軍のものとみられる船の一部が残されていました。
8月18日、一木支隊無血上陸に成功!!
一木大佐自ら隊を率いていました。
米軍が占拠する飛行場まで35キロ・・・行く手に残酷な運命が待ち受けていることに兵士たちは気付いていませんでした。
一木支隊のこれまでの行動がアメリカで新事実として発見されました。
戦場でのそれぞれの出来事を時間ごとに細かく記入されている・・・併せて1000ページを超える米軍機密文書・・・。
米軍陣地の突破を図った一木支隊が、反撃を受け殲滅されるまでが分刻みで細かく書かれています。

陸軍屈指の精鋭部隊が全滅・・・その始まりは、作戦を立案した大本営陸海軍の参謀が、米軍の兵力を見誤ったことでした。
1942年8月10日・・・
海軍の情報を元に、陸軍は推定2000人と見積もりました。
しかし、実際は1万人・・・!!
致命的なミスが生れていきます。
謎をさらに深める資料・・・日本海軍がアメリカに潜入させていたスパイの極秘情報として、
「今朝、大船団が戦車や軍隊を乗せて南太平洋方面へ向かった」
海軍は、偵察に当たった航空機の情報からも、米軍輸送船団の動きを掴んでいました。
海軍参謀・佐薙毅・・・輸送船団の数から敵兵力は1個師団(1万5000人)と、的確に見積もっていました。
それを狂わせたのが、連合艦隊が夜襲でアメリカ艦隊を撃破した戦いの勝利でした。
戦果を受け、陸海軍の参謀は、見積もりを削減。
輸送船団は、大部分の兵を乗せて撤退したと判断し、残る兵力は2000と考えたのです。
一木支隊が所属する陸軍第17軍司令部は、見積もりに疑問を持ちました。
二見参謀長は、すでに上陸を果たして空港の占領を続ける米軍は、8000人はいると考えていました。
初公開の手帳にこう書いています。

”海軍急グモ不安 一木支隊ヤレズ”

敵の数がはっきりしない中、攻撃をせかす態度に不安を抱いていました。
二見参謀長は、一木支隊の進軍に待ったをかけようとしていました。
ところが、陸軍参謀本部のナンバー2・参謀次長から電報が入ります。

”速やかに(飛行場を)兌換することを考えよ”

米軍機が配備され、戦況が不利になる前に、飛行場奪還を求めたのです。
二見参謀長は、大本営の命じるまま、一木支隊の進撃を認めるしかありませんでした。

8月19日、一木支隊は飛行場を目指し、行軍を続けていました。
兵士から慕われていた一木大佐・・・作戦を遂行する上で、敵の情報が全くないことを問題視していました。
8月19日8時30分・・・偵察部隊派遣
偵察部隊はジャングルに身をかくし、西に向かいました。
ところが、米軍はジャングルに周到な監視体制を敷いていました。
小さなマイクを無数にしかけ、日本の隠密行動を丸裸にしました。
さらに鉄条網を張り巡らせ、万全な迎撃態勢を取っていました。

偵察部隊38名は、米軍の待ち伏せ攻撃にあい全滅!!
これまで無謀な作戦を非難されてきた一木大佐・・・
作戦を続けるべきか司令部の判断を仰ごうにも連絡できない状況に置かれていました。
どうして通じない・・・??
陸軍司令部のあるラバウルは、ガダルカナルから1000キロと遠く、無線が届きません。
海軍の潜水艦が中継することとなっていました。
ところが、この共闘作戦に潜水艦は任務を放棄し、もち場を離れていました。

何が起きていたのか・・・??
連合艦隊の動きは・・・??

”空母を含む敵機動部隊を発見”

この日・・・8月20日の9時、偵察に当たっていた海軍機が米空母を発見!!
連合艦隊は、周辺にいた全艦に出撃命令を出しました。
その命令に従ったために、一木支隊は無線連絡できない状況に置かれてしまったのです。
連合艦隊参謀長の宇垣纒・・・ミッドウェー海戦で大敗し、復讐に燃えていました。

宇垣の日記には・・・アメリカ艦隊をおびき出すためにガダルカナルの陸軍部隊を利用する策が記されていました。

”陸軍を種とし 囮となす”

陸軍が米軍と戦えば、救援のためにアメリカの空母が来る・・・そこをたたこうというのです。
海軍の中では、陸上部隊は待っていろ・・・アメリカの空母の方が大事だ!!という判断でした。
それで、陸軍側が非常に混乱と迷惑を被る・・・しかし、それはアメリカの空母をたたくことに比べれば大したことはない!!ということなのです。

アメリカの空母部隊を殲滅することを最優先した海軍・・・
一木達陸軍部隊をおとりにすることも作戦の一つでした。

孤立無援となった一木部隊・・・
一木大佐は、この作戦に当たって大本営から命令を受けていました。

”速やかに奪回せよ!!”

何より重要なのは、敵が使う前に飛行場を奪還すること・・・

この時、一木支隊は先遣隊の916名のみ。
遅れていた後続部隊の1000人の到着を待たずに命令に従って攻撃を急ぎました。
しかし・・・目標の飛行場に到着する直前に恐れていた事態が起きました。

8月20日16時・・・
アメリカ軍の戦闘記録によると・・・
”飛行場に味方の戦闘機が到着した”
米軍機31機が飛行場に配備され、制空権はアメリカの手に渡りました。

状況が悪化する中、一木支隊は望みを捨てず進軍します。
決戦に臨む兵士の日記には・・・悲壮な決意が書かれていました。

8月20日夜10時30分・・・
一木支隊、闇に紛れて飛行場に接近!!
その時・・・突然照明弾が光り、待ち構えていたアメリカ軍から攻撃を受けます。
日米が激突したイル河の河口・・・一木支隊が悲劇の最期を迎えた場所です。
無謀な突撃で自滅したと言われていた一木支隊・・・
全滅までの数時間、何が起こっていたのでしょうか?

日本側から見ると、川向うは少し高くて見えにくい場所にアメリカは軍をおき・・・米軍側からは河で足止めされた日本軍を上から見下ろせます。
アメリカからは、天然の要塞のような地形でした。
日本軍は丸見えでした。
待ち構えていたアメリカ軍は、一木支隊に二方向から十字砲火を浴びせました。
圧倒的な火力で攻撃するアメリカ軍・・・銃撃を避けようと川べりのくぼ地に身を潜めた日本軍・・・
しかし、それは罠でした。
アメリカ軍は、くぼ地めがけて迫撃砲を雨あられと打ち込んだのです。

敵の罠を察知した一木大佐は、部隊に突撃中止を命じました。
その時、米軍の戦車隊が出現!!逃げ道を塞ぐように側面から背後に回りました。
日本軍を袋小路に追い込みます。
それは、日本海軍が海の戦いで見逃した輸送船団が運んだ兵器でした。
行き場を失った一木支隊は、狭い砂洲を進みます。
しかしそこはアメリカ軍の攻撃が集中する最も危険な場所でした。
絶体絶命・・・!!
その時、夜が明けて・・・

8月21日6時7分・・・日本海軍の基地からゼロ戦が緊急発進!!
向かった先は、一木支隊が戦う陸の戦場ではなく、海でした。
米軍の空母発見の報せに攻撃命令が下ったのです。
一木支隊が全滅の危機にあっても、海軍は空母攻撃を優先させました。
同じころ、島の飛行場から米軍機が離陸・・・僅かに残った一木支隊に機銃掃射を・・・!!

午前10時25分、空母を見失ったゼロ戦が、ガダルカナル島上空へ・・・!!
しかし、時すでに遅し・・・一木大佐と共に部隊は全滅・・・。
部隊の殆ど・・・777人が命を落としました。

作戦失敗の報せがラバウルの陸軍司令部に届きました。
一木支隊の派遣に不安を抱いていた二見参謀長は日記にこう綴っています。

”夜12時 一木全滅の報あり 寝られず 寝られず”

一方、海軍側の反応は全く異なるものでした。
宇垣参謀長の日記では・・・
”敵を軽視”したことが作戦失敗としていました。
海軍は、自分たちの行動が、一木支隊の全滅に関わったとは受け止めなかったのです。

陸海共同作戦とは名ばかり・・・それぞれ全く別の戦いを進めた陸軍と海軍・・・
部隊全滅の原因を見極めようとはしませんでした。
一木大佐は責任を取って自決したとして幕引きが図られたのです。
一木大佐の娘は、部隊の全滅を知らされても、秘密を守るように軍に口止めされました。

大本営は、その後もガダルカナルに小出しに部隊を送り込みます。
敗北を重ねるたびに兵力を増やし、日本人延べ3万人以上が戦いました。
一木支隊で辛くも生き延びた敗残兵は、帰国も敵わず密林で戦い続けました。
そしてそれは、更なる悪夢の始まりでした。

一木支隊が全滅した後、アメリカ軍は飛行場を拡張し、戦闘機の数を増やしていきました。
日本軍の輸送船が島に近づくたびに、襲い掛かります。
食糧の補給も途絶え、生き残った一木支隊の兵士たちは地獄を見ます。
兵士たちは次々と飢餓に斃れ、命を落としていきました。

1942年12月・・・
このまま戦いを続けるか、撤退をするのか??陸海軍が衝突していました。
日本軍がガダルカナル島から撤退したのは、一木支隊が全滅してから半年後・・・1943年2月のことでした。
この間に、1万5000人が飢えと病で命を落としました。

アメリカ軍は、次々と太平洋の島に上陸し、日本を追いつめます。
日本は、陸海軍の対立が続く中、人命を軽視した戦いが続きます。
1943年11月ギルバート島タワラ
1945年2月硫黄島
1945年4月沖縄
終戦までに犠牲者は300万人を超えました。

組織の狭間で無謀な戦いを強いられた一木支隊・・・
日米の激闘で地獄の戦況と化したガダルカナル島・・・
日本軍の組織の論理は悲劇の指揮官を生んでいました。

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炎と闇の帝国―ゲッベルスとその妻マクダ

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1944年の夏、ベルリン郊外にとある邸宅にエレガントな母親が帰宅しました。
その立ち居振る舞いはどこか芝居じみています。
この女性こそ、第三帝国のファースト・レディー「マクダ・ゲッベルス」です。
ナチスの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスの妻でアドルフ・ヒトラーとも親しいマクダ・ゲッペルス・・・。
4歳から12歳まで6人の子を愛する母親でもありました。
しかし、マクダは後の世に違う形で記憶されることとなります。

8か月後ベルリンは廃墟と化し、ソビエト軍はヒトラーの地下壕を捜索・・・
瓦礫の中なら現れたのはあまりにもむごたらしい光景でした。
白い服に身を包んだ6人の子の遺体・・・傍らには焼け焦げた二つの遺体・・・
連合国軍は、この二つの遺体をマクダ・ゲッベルスとヨーゼフ・ゲッベルスと確認しました。
ここで何が起きたのか・・・??
唯一の手掛かりは、マクダが前の夫との間にもうけた長男・ハラルトへの手紙でした。

最愛の息子へ・・・
私たちはヒトラー総統の地下壕にいます。
私たち家族が誇り高く一生を終えるにはこうするしかないのです。
総統亡き後の世界は生きるに値しないでしょう。
あなたの妹や弟たちをそんな世界によこすわけにはいきません。
夕べ総統から金色の党員指輪をいただき、光栄に思いました。
この上もなく、深い愛情をあなたに・・・。
母より。

第三帝国が崩壊した時、最高幹部の妻で自決したのはマクダだけでした。
しかし、彼女の経歴にはナチスの狂気の象徴となるようなことはありませんでした。
どうして犯罪的な政治組織に加わったのでしょうか?
何がイデオロギーの名のもと、我が子に手をかけさせたのでしょうか?
それこそ、理性を失うほど何かにのめり込むこと・・・。

1920年マクダは、ミュンヘンからベルリンに向かう列車に乗っていました。
ベルギーで育ち、ドイツの寄宿学校に通う20歳・・・裕福な建築家とその家政婦との間に私生児として生まれました。
品の良い40代の紳士が向かいに座ります。
ドイツでも指折りの実業家で大富豪・・・ギュンター・クヴァントでした。
戦後、クヴァントはこう語っています。

「目の前に、類まれな美女が座っていました。
 魅力的な青い瞳に、美しい金髪・・・私たちは演劇など若い女性が好む話をしました。」

マクダは20歳年上のクヴァントと結婚します。
息子も生まれ、ぜいたくな暮らしを続けます。
が、9年後、生活に息苦しさを感じ離婚。
それでも慰謝料によって何不自由なく暮らします。
激動の時代に、パーティーに明け暮れます。
1929年にドイツを襲った世界恐慌もどこ吹く風、30歳を前に暇を持て余していました。
美術史を学ぼうか?弁護士になろうか?託児所で働こうか?
しかし、何もかも退屈でした。

そんなマクダに退屈から逃れるきっかけが・・・
1930年、マクダ29歳・・・極右勢力が町を席巻していました。
2年前の選挙でナチ党が獲得した議席は僅か3%・・・長らくナチ党の支持者は世界からドロップアウトしたインテリで、ヨーゼフ・ゲッベルスもその一人でした。
それが様変わりしようとしています。
失業問題、汚職、共産主義の台頭・・・あらゆることが追い風となり、ナチスは上流階級に食い込んでいきました。

あるパーティーにマクダが出席しましたが・・・
マクダはナチスに入党していたホーエンツォレルン家の王子が入党を勧めます。
好奇心から翌週には、ベルリンスポーツ宮殿に足を運んでいました。
1930年9月の選挙に向け、ナチ党が大集会を行っていたのです。

その夜、聴衆の前に立ったのは、ヒトラーに次ぐアジテーター、ヨーゼフ・ゲッベルスでした。
彼の虜になったマクダ。。。
翌日、マクダは党本部に行き入党を志願します。
数か国語を話し教養もあるマクダは、すぐに秘書部門を任されます。
正式にナチ党員となったのは9月1日・・・驚くべき早さの転進でした。
政治に関心のなかった特権階級の女性がどうして短期間で活動家になったのでしょうか?
冒険、演説だけが理由でしょうか??

マクダには父親がいませんでした。
実の父親は彼女をすぐには認知せず、母親は雇い主と関係を持ったのですが、家柄のせいか、なかなか結婚してもらえませんでした。
その後、マクダはベルギーの寄宿舎に入れられます。
言葉が変わり、環境が変わり・・・ものの見方が一変します。
マクダはイデオロギーだけでなく、拠り所を見出しました。
世界を支配する優れた人種として・・・。

党本部で、マクダはナチスの思想を広める人物と出会います。
演説をしていたヨーゼフ・ゲッベルスです。
病弱で足の悪い作家崩れ・・・しかし、今やヒトラーの宣伝活動を行う大物でした。
9月の選挙でナチ党は、18%の票を獲得しました。
数か月後、二人は恋愛関係に・・・。

マクダは強くナチスとゲッベルスに惹かれていました。
ドイツ国内で大きくなるナチスの魅力・・・
そしてゲッベルスの魅力は、インテリで物分かりのいい会話の面白い、楽しい男性でした。
ゲッベルスは、やっと見つけた体裁のいい恋人に満足していました。
マクダは、上流階級の扉を開いてくれる女性でした。

「マクダとの昼食・・・彼女は戦災で心が広い。
 ”我が闘争”を彼女に送る。
 そう、これは愛だ。
 マクダは感激していた。
 午後は哲学や思想を話し合った。
 私たちは素晴らしいカップルになるだろう。」

1931年9月、ゲッベルスはマクダをナチスの指導者に紹介します。

マクダにとってヒトラーとの面会は、大きな転機でした。
ゲッベルスは周到に準備して、マクダを次の段階に引き上げました。
一人の活動家を、狂信的な信者に変えたのです。
ヒトラーは優しく親切に接することで、マクダの心を捕らえます。
相手の木をひくのが得意で、頭の中を支配しました。

ヨーゼフ・ゲッベルスの伴侶であるマクダは、ヒトラーの取り巻きの一員となります。
マクダは頻繁にヒトラーを夕食に招きました。
マクダの豪華な住まいは、ヒトラーが公務を行う本部となります。
権力を握る最終段階で会議を重ねます。
マクダも華やかなパーティーを開きました。
1932年の選挙で、ナチ党はついに議会第一党となります。
マクダのサロンには、新進の政党を見定めようと上級の人が集まりました。
ヒトラーは、上流階級を取り込もうと、何年も動いていました。
世間はナチスのことを、粗野な左翼集団ととらえていました。
そんなナチスの幹部が、上流階級の女性・・・しかも、大実業家のギュンター・クヴァントの元妻と深い関係にあるということは、大きな宣伝となりました。
ゲッベルスがマクダに惹かれたのは当然でした。
マクダの存在は、ナチスは労働者階級のチンピラというイメージを払拭するのにうってつけでした。
保守政党は、共産主義に対抗するためナチ党との連携を模索し・・・資本家と交流のあるマクダは、この二つを結びつける重要人物でした。

ヒトラーは、マクダの魅力にひかれます。
自分に忠実でありながら対等に話せる側近で唯一の女性・・・彼女に好意を持ちました。
ヒトラーは友人に、「マクダは私の男性的本能の対極にある女性かも知れない。」と語っています。
ゲッベルスは嫉妬します。
マクダは総統が相手だと下手に出る・・・それが私を苦しめる・・・。
ヒトラーはゲッベルスと話をします。
総統は、「マクダを愛しているが、私の幸せをねたみはしない。マクダは君の支えとなるだろう。」
そう言った時、総統の目はうるんでいた・・・哀れなヒトラーマクダは私の物だ・・・!!

ゲッベルスと結婚して私の傍にいなさい・・・そうヒトラーは言いました。
結婚式は黒いドレス・・・そして介添え人はヒトラー・・・!!
マクダは・・・
「夫への愛より、ヒトラー総統への愛の方が強いの。
 総統への想いに生涯を捧げたい。
 でも、総統は最早女性を愛することはなく、唯一愛するのはドイツ国家なの。」
ヒトラーは愛と結婚と国家の狭間で、女性との親密な関係を求めるも、結婚は約束出来ないという立場にありました。
自らを歴史的使命に身を捧げ、そこに女性の入る隙は無い・・・
体裁を考えて、マクダはゲッベルスと結婚した方がいいと、ヒトラーは考えたのです。

1932年11月の選挙で・・・
「私たちが負ければ共産主義が支配し、私はクヴァントからもらった財産を失うわ。
 でも、勝ったら、私はドイツで最も権力のある女性になる・・・!!」

ここに、マクダが入党した真の理由が伺えます。
ナチスへの心酔も事実ですが、限りない野心がありました。
1933年1月・・・ナチ党と連携する保守勢力は、国民から支持を集めるヒトラーを首相に・・・!!
ゲッベルスも国民啓蒙宣伝大臣に・・・!!
「マクダは名誉だと大喜びしている」
その夜・・・松明を掲げた大行進を余所に、ヒトラーはベルリンにある国立歌劇場にいました。
傍らにはその夜の同伴者・・・エレガントなマクダ・ゲッベルスがいました。

政権運営には人々の心をつかむことが必要でした。
ナチスは、シンボルとなる女性がいないという欠点をわかっていました。
相応しいのはマクダしかいません・・・弁が立ち、上流階級に身を置き、魅力にあふれていて・・・完璧でした。
マクダに白羽の矢が立ちました。
長くドイツ国民の目から隠されたヒトラーの愛人エバ・ブラウンではありません。

活躍の場を求めていたマクダは、新しい役に没頭します。
ドイツファッション協会の代表に就任、チャリティーイベント開催。
1933年ドイツ初の母の日・・・マクダはラジオで演説します。
ドイツで絶大な影響力を持ったマクダ・・・
しかし、マクダには、知られれば簡単に失脚しかねない秘密がありました。
1933年5月10日、夫ゲッベルスはユダヤ人による書物を焼き払います。
ゲッベルスは極端なまでの反ユダヤ主義で、ナチズムの中核をなすこの思想を強く推し進めていました。
彼は、ユダヤ人を排斥する法律を制定しようと躍起になっていました。
同じ日の夜・・・マクダと夫との間にある出来事が・・・
マクダの過去のこと・・・若い頃の彼女は無分別だった・・・と、ゲッベルス。
その日の朝、マクダと10年もあっていなかった男性が電話で話そうとしていました。
ベルリンを訪れていたその男性は、ユダヤ人のヴィクトル・アルロゾロフ・・・パレスチナのユダヤ人国家建設運動のリーダーです。
10年前、マクダはアルロゾロフと熱烈な恋愛をしていたのです。
当時から自己実現を求めていたマクダは、イスラエル建国運動に賛同し、一緒にパレスチナに行く覚悟をしていました。
そのためにヘブライ語まで勉強していました。
その頃マクダは、フリートレンダーというユダヤ系の姓を名乗っていました。
アルロゾロフはマクダを同胞と思ったのです。
しかし、ドイツ人だった・・・。
マクダの母親の再婚相手はユダヤ人でした。
養父フリートレンダーは愛情をもってマクダを育て、彼女もその姓を名乗りました。
アルロゾロフはマクダに会えないまま、ベルリンを去り、1か月後・・・テルアビブで暗殺されます。
おそらく、ゲッベルスの手先の仕業でしょう。
暴露されたならナチスにとって大打撃だったからです。

マクダは、養父フリートレンダーから助けを求められた際も、耳を貸しませんでした。
彼は、ある日ゲッベルスのオフィスに呼び出され、行方不明となりました。
マクダは新しい政権で、政治的な輝かしいキャリアを築きたいと考えていました。
自分にとって邪魔な人間を排除するぐらい簡単なことでした。
マクダは、育ての親が強制収容所で死ぬことを黙認しました。
狂信的だったのか・・・権力に飢えていたのか・・・
マクダの姿はナチスの幹部そのものでした。
どこまでも利己的で、ナチスの政治思想を徹底するためなら手段を選びませんでした。

ファーストレディーの地位を守ったマクダ・・・
次の望みは、第三帝国で主要な政治的役割を果たすこと・・・
しかし、女性の役割について、ナチスは凝り固まっていました。

「歴史を作るのは男性です。
 しかし、その男性の子供を産むのは女性であります。」

ドイツでは1919年に女性の参政権が認められましたが、新政権は育児や出産を推奨しました。
マクダも冷害ではなく、政治的にお飾りでした。
1934年ヒトラーはゲッベルス夫妻に事の白黒をはっきりさせます。
女性には政治をさせない・・・
マクダは帝国の母になるという役割を受け入れます。
ナチスの人口増加政策の広告塔です。
夫妻はベルリン郊外のボーゲン湖のほとりに別荘を構え、マクダは次々と身籠り、9年間で6人の子を授かりました。
夫妻は子煩悩でした。
ナチスの凶悪的なイメージとは離れ、暴力もなく、食事中の会話もできました。
1936年から44年まで、夫妻は毎年家族の記録を撮影しています。
ゲッベルスの誕生日10月29日にその映像を見るのがしきたりでした。
1937年も同様でした。
これらはホームムービーではなく、宣伝省の職員に家族の映像をとらせたものです。
ゲッベルス家の映像は、ニュース映画として放映されました。
その数は年間35回にも及びました。

この映画を通して、自分達が理想とする生活を知ることのできた人々・・・。
ナチスにおいてはイメージが全てで、ヒトラーでさえ、この家族よりも国民の目に触れることはありませんでした。
マクダの6人の子供は第三帝国の子供で、子だくさんで豊かなゲルマン民族の象徴なのです。
マクダの子供たちの笑顔は、犯罪的政策のプロパガンダに利用されます。
精神障碍者を安楽死させる政策です。
人種を純化させるために・・・!!
ファーストレディーで帝国の母であるマクダは、誰よりもヒトラーに忠実です。
マクダは家族を連れてヒトラーを訪問しましたが、そこにはカメラマンが同行していました。
ヒトラーが独身だからといって一人だけの写真ばかりを国民に見せることはできません。
ヒトラーはドイツ国民の父であるためにドイツの父だとアピールしなければなりません。
1938年頃、これらの写真は有効なプロパガンダとなりました。
ヒトラーは自分から戦争を仕掛けようともくろみながら、世間には平和を愛する男だと広めたのです。

嘘や虚構は、ナチスでは当たり前でした。
幸せなゲッベルス家も虚構でした。
マクダの身体は立て続けの出産で弱っていました。
ゲッベルスは浮気癖がひどくなり、家庭内暴力へ・・・!!
そんな中、マクダに屈辱的出来事が・・・!!
ゲッベルスが若い女優の愛人と公然と一緒にいるようになったのです。
マクダは離婚を望みます。
そして、ヒトラーの夏の別荘を訪ねました。
二人が別れることなど、ヒトラーに許されるわけがありません。
そこで彼は、夫婦関係が破たんしていても離婚しないようにと念を押します。
ヒトラーは強引に決着をつけます。
女優の愛人を追放し、ゲッベルスを呼びつけマクダの作った契約書に同意させます。
その契約書には、今後ゲッベルスは浮気をしないこと、その女優と会わないこと、さらにマクダの母親に優しく接することも書かれていました。
マクダの華やかなキャリアも、ゲッベルスの政治生命もすべてが終わるところを、ヒトラーは政治の力学に従わせたのです。
ベルリンに戻るとヒトラーは、ポーランド侵攻に着手します。
1939年9月1日、第二次世界大戦がはじまりました。
ボーゲン湖畔の別荘・・・子供たちの遊びも戦争が反映されていきます。
マクダの人生は再び軌道に乗り始めました。
彼女は強い愛国心の持ち主で、兵士の子供たちにプレゼントを贈るだけでは満足せずに、看護婦の育成も始めます。
子供達を伴って、ナチス親衛隊士官たちももてなします。
このナチス親衛隊・・・SSドクロ師団は、東部戦線で大虐殺を行いました。

マクダと前の夫との子・ハラルトも活躍が認められ勲章を受けました。
マクダはハラルトを特別扱いすることなく、前線に送っていました。
しかし、ハラルトは、1943年負傷。
マクダは心配のあまり体調を崩します。
戦争を思い知らされました。
優勢だったドイツ軍は勢いを失い、ソビエト軍が反攻に転じ、連合軍がイタリアに上陸。
1943年2月、マクダは子供達とスポーツ宮殿に行き、夫の演説を聞きます。
そこは13年前、全てが始まった場所でした。
その帰り道・・・連合国軍の爆撃で破壊されたベルリンの惨状を目の当たりにします。

戦争の英雄・・・ロンメル元帥の訪問・・・心のうちを隠してもてなします。
絶え間ない爆撃を避け、家族は別荘に籠っていました。
マクダは孤独でした。
厳しい戦況の中、夫やヒトラーとはめったに会えなくなりました。
ゲッベルスはその演説とは裏腹に、この戦争には勝てないとマクダに言っていました。

「総統は国民との約束を一つも実現できなかったのに、自分を正しいと思っている。
 忠告を受け入れず、耳当たりのいい言葉ばかり聞いて・・・
 最悪の結果に終わるでしょう。
 年を取り、疲れ果てた私に道はない。
 あるとすれば二つ・・・
 戦争に勝てば夫は更なる権力を手にし、みずぼらしい私のことを捨てるでしょう。
 もし負けても、私には死しか残されていない。」

1944年の夏・・・ゲッペルス一家の最後の映画・・・
敗戦が濃厚になり、ドイツは残虐行為を加速させました。
ゲッベルスはそれを最も推進した人間です。
この映画が撮られた夏の間に、30万人のユダヤ系ハンガリー人がガス室に送られました。
うち8万人は子供・・・

「夫の話すことがあまりにも残酷で、もう受け入れられない・・・
 私の良心は押しつぶされそうなのに、それを誰にも話せないの。
 夫は私を頼って何でもぶちまける・・・
 彼自身も限界なの。」

マクダは人生に失敗しました。
思想においても、結婚においても、そしてヒトラーへの熱狂も・・・
しかし、ナチスの幹部たちが逃亡する中、ベルリンに残ることを選びます。

「戦争に負けたらユダヤ人が戻ってくる・・・
 妻と話し合い、私たちは自決することにした。」

マクダはヨーゼフ・ゲッベルスの妻です。
夫がナチ政権の犯罪に深く関与している以上、自分も同罪だとわかっていました。
忠実なナチ党員として潔く戦い続けること・・・
ヒトラーに寄り添い、ヒトラーと共に死ぬこと・・・!!
1945年戦争はついにゲッベルス一家を追い込みます。
町にはソビエト軍の侵攻から逃れてきた人々が溢れていました。
ドイツ降伏の3か月前の2月1日、母に決心を伝えます。
ヒトラーは夫を道連れに死ぬ、夫は私と子供を道連れに死ぬ・・・全員死ぬ運命なのよ。
ゲッベルスも決意をヒトラーに伝えます。
祭祀とベルリンに留まることを決意したこと、子供たちを誰にも託さないこと・・・。
総統は、「それは感心だが正しい態度とは思わない」といいました。
ヒトラーでさえマクダの決断に反対でした。
友人たちはマクダの身を案じ、連合国側に脱出させようとします。
元夫ギュンター・クヴァントも、スイスへの亡命を提案し、せめて子供達だけでも面倒を見ると言いました。
しかし、マクダは聞く耳を持ちません。

1945年3月、マクダは親友と最後の会話をします。
「こんなにかわいい子たちを残していけないわ。
 夫はドイツ史上最悪の戦犯と見なされるでしょう。
 それが一生、あの子たちについて回り、蔑まれることになる・・・
 そんな重荷を背負わせることはできない。
 私が関わっていた政権は、言葉にできないほどの残虐なことをしてきたわ。
 世界中から報復されるでしょう。
 あの子たちを連れて行くしかないわ。
 絶対に・・・!!」

1945年4月22日、ソビエト軍が迫る中、マクダは6人の子供を連れて夫の待つ総統官邸地下壕へ向かいます。
マクダは長い間、子供たちを国民に晒し、国家のシンボルに仕立て上げてきました。
第三帝国の滅亡と共に、子供達も消えるべきだと考えたのかもしれません。

マクダは自決するしかない・・・最期まで自分を演じ切らなければと思っていました。
子供を道連れに自決することでヒトラーへの完全なる忠誠を示し、その親しい友人として名を刻もうとしたのです。
地下壕へと向かう時、マクダは子供たちに西部開拓への冒険に出かけようと出発しました。
息子は特別な服を着て、家政婦が同行しました。
長女のヘルガだけは理解していました。
他の子たちは、楽し気に相当の地下壕に行くとはしゃいでいました。
爆撃が続く中、不快な地下壕で、家族は一週間ヒトラーと忠実な部下たちと過ごします。
それまで大量殺戮に手を染めてきた男たちまでもがマクダに脱出を促しました。
4月30日、ヒトラーは自らの命を絶ちます。
その直前彼は、党の紋章入りの指輪をマクダに送ります。
翌日、マクダは眠っている子供達の口に青酸カリのカプセルを滑り込ませます。
そして、夫ヨーゼフ・ゲッベルスと共に第三帝国のファースト・レディはすべてに終止符を打ちました。

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マタ・ハリ伝: 100年目の真実

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フランスで悪女の代名詞として語られる女スパイ、マタ・ハリ。
パリ郊外にある軍事資料館に100ほど前に処刑された女の記録が残っています。
悪女の中の悪女・・・死後封印され、閲覧が禁止されてきました。
オランダ人で、本名はマルガレータ・ゼレ。

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第一次世界大戦のさ中、ドイツ軍のスパイとなり、フランス軍の機密を売り渡したとして投獄されました。
マタ・ハリのドラマチックな人生は、後にハリウッドで映画となり、大ヒット。
演じたのはスター女優グレタ・ガルボでした。
目をつけた男は逃さない・・・マタ・ハリの名は女スパイの代名詞となります。

裁判記録によれば、マタ・ハリが情報を売り渡したために、イギリス・フランス連合軍の作戦が失敗、70万人以上が犠牲になったとされています。

獄中のマタ・ハリは容疑を否認し続けましたが、銃殺刑になりました。
その10年余り前、マタ・ハリはヨーロッパに名をとどろかせる人気ダンサー、そして高級娼婦でもありました。

舞台はベル・エポック・・・美しき時代と言われたフランス・パリ。
マタ・ハリは、パリであっという間に神話となりました。
それは、ベル・エポックのパリに、お金と暇を持て余す裕福な紳士がたくさんいたからです。
彼等は毎晩のように新しい恋を探し、新しい女性を探し、パリの町を彷徨っていました。
彼等にとって、素敵な女性をエスコートすることはこの上ないステータスだったのです。

マタ・ハリを一夜にして時の人にした場所は・・・ギメ美術館です。
ヨーロッパ最大の東洋美術コレクションを誇り、ルーブル美術館東洋部の役割を担っています。
当時パリでは、東洋の文化や風俗に憧れるオリエンタリズムが大流行。
アジアの植民地から珍しいものがたくさん入ってきていました。
そんなオリエンタリズムの殿堂で1905年3月、マタ・ハリのステージが幕を開けます。
インドの聖なる踊り子という触れ込みの魅惑のショー・・・。
新聞には賛辞が並びます。

僧侶と神だけしか彼女の裸身を目にしたことがないというインドの舞姫。
背が高く、細身でしなやかに動くさまは、とぐろを巻いていない蛇が、蛇使いの笛に併せて恍惚と動めいているようだ。

このショーをプロデュースしたのは、美術館のオーナーでもある大実業家、エミール・ギメ。
上流階級のサロンで踊るマタ・ハリを見て、自らスカウトしました。
この時ギメは、彼女の本名マルガレータでは東洋趣味の観客には受けないと・・・マタ・ハリ・・・太陽の目を意味する芸名をつけたのです。

客の視線を浴びながら服を脱ぎ、最後はブラジャーのみに。。。
聖なる踊り子にして娼婦・女スパイ・・・マタ・ハリとは・・・??

牛の町・オランダ北部レーワルデン・・・ここがマタ・ハリの故郷です。

マタ・ハリことマルガレータ・ゼレは、1876年4人兄弟の長女として生まれました。
父は娘を溺愛し、6歳の誕生日には豪華なヤギの馬車をプレゼントしました。
マタ・ハリも父が大好きで、男爵だと言いふらしていました。
マタ・ハリの境遇が一変するのは13歳の時・・・大好きだった父が、石油株に手を出して巨額の損失を出してしまったのです。
下部の穴埋めに借金を重ね、気がつけば6000万円にも上っていました。
追い打ちをかけるように母が亡くなり、子供たちは散り散りになって・・・
親戚の家を転々としながら人生をもがくマタ・ハリ・・・。
目に入ったのは、新聞の花嫁募集の広告でした。
結婚相手を探していたのは、ルドルフ・マクラウド大尉。。。初めて会って100日後に結婚。
夫39歳、マタ・ハリは19歳でした。
その後、彼女は夫が赴任したインドネシアで暮らします。
しかし、マクラウドは女癖が悪い上に嫉妬深く、暴力をふるいました。
子供を授かったものの、夫婦生活は破たん・・・いさかいが絶えませんでした。

離婚を決めたマタ・ハリは、子供とも別れ、一人パリに向かいました。
1904年マタ・ハリは28歳でした。
その時、財布には200円しかありませんでした。
それなのにマタ・ハリは、オペラ座に面した超高級ホテルに宿をとります。
当時改装したグランドホテル・・・豪華なサロンが上流階級の間で話題となっていました。
マタ・ハリは、全財産をつぎ込んだ衣装に身をまとい、高級ホテルを定宿にしました。
ロビーに現れる男を物色し、金回りのいい男を選び、関係を持ち・・・パリの夜を生き抜くための虚飾の生活の始まりでした。

ダンサーとしての偽りのプロフィールは様々で・・・
パリに来たよく年、オリンピア劇場と1万フランで契約。
その年の暮れには、マドリードで2週間の公演を行い、よく年はモンテカルロの舞台に立ちました。
演目は「ラホール王」・・・まるで世界が彼女のために回っているようでした。

出会う男もグレードが違っていきます。
私生活もゴージャスに・・・。
ラ・ドレ城、メイド、料理人、庭師、馬・・・

パリでの鮮烈なデビューから6年、ヨーロッパ最高峰オペラハウス、ミラノのスカラ座で公演するまでになりました。
演じるは女神ビーナス、悲劇の王女・・・人気絶頂のマタ・ハリ・・・
しかし彼女は、自分に飽き足らないものを感じていました。
”半裸からドレスへ・・・マタ・ハリはもう裸では踊らない”
目指したのは、男たちの欲望に身を晒すだけでは終わらない一流のアーティスト・・・。
しかし、評判にはなりませんでした。
裸を売り物にしないマタ・ハリの仕事は、目に見えて減っていきました。
増えていったのは請求書の山・・・。
相変らずオートクチュールのドレスや宝石で身を飾り、代金はかつての愛人たちに無心しました。
1914年2月・・・生活に行き詰まりベルリンに・・・
急成長を遂げるドイツ帝国の都に希望を託して・・・。

1914年7月、第一次世界大戦勃発!!
マタ・ハリのベルリン公演は、実現しないまま終わりました。

「戦争が始まる
 もう、ベルリンにはいられない
 舞台にも立てない」

そしてマタ・ハリは危険に道に・・・

1917年2月13日、運命は一転・・・
フランス当局にスパイ容疑で逮捕されてしまいました。
その頃、一世を風靡した姿ではありませんでした。
判決が下るまでの5か月・・・尋問は14回にも及びました。
そのすべての記録がパリ郊外の軍事資料館に残されていました。

戦時中・・・頻繁に国境を越えていることがわかります。
そして、マタ・ハリが逮捕時に所持していた49枚の名刺。。。

裁判官ピエール・ブーシャルドン・・・戦時中はスパイの摘発に努めました。
初めて取調室に呼んだ時、物的証拠はありませんでした。
マタ・ハリを追い込みんでいきます。
特に問題となったのは、イギリスフランス連合軍が70万の兵士を失ったソンムの戦いです。
マタ・ハリがドイツ側に流した機密情報に問題があるとされたのです。
マタ・ハリは一貫して容疑を否認。
しかし、ブーシャルドンが手に入れた文書がマタ・ハリを追いつめます。
ドイツ軍の14枚の電報で、エッフェル塔の傍受班が解読したものです。
ドイツ軍はマタ・ハリを”H21”というコードネームで呼び、こう記していました。
”H21はパリで我々からの5000フランを受け取った”
動かぬ証拠に・・・遂に供述が始まりました。

1916年5月ごろ・・・ハーグの自宅にいると、オランダのドイツ領事がいらっしゃいました。
彼はこう切り出しました。
我々が関心を持つ情報を集めていただきたい。
同意していただければ2万フランお渡しいただけます。
領事はフランス紙幣で2万フラン渡していきました。
付け加えておきますが、私はパリから何一つ情報を送るつもりはありませんでした。

ドイツ側の指示でパリに入ったマタ・ハリ・・・運命はさらに複雑に動いていきます。
今度はフランス側からスパイ行為を求められたのです。
フランス軍ジョルジュ・ラドゥー大尉は、ドイツのスパイと知ったうえで、二重スパイにしようとしました。
マタ・ハリは、その危険な提案を受け入れます。

私は何か月もうろつき回って、細切れの情報を集めてくる気など全くありません。
大当たりやってのけたら、サッと退場します!!

フランスに同意した理由は・・・??

愛する人と結婚できるように、経済的に自立するため・・・。
100万フラン!!
愛する男と生きるために、二重スパイを引き受けたマタ・ハリ・・・
その男ととった写真をいつも大事に持っていました。
ロシア人将校ウラジミール・マスロフ・・・マタ・ハリは41歳、マスロフは21歳でした。

「私が苦しんでいるなんて裁判官は知らないでしょう。
 ここから出してください、もう耐えられません!!」

彼女にとっては恋に生きただけで、戦争なんて全くどうでもよかったのです。
それがマタ・ハリなのです。

裁判官に対し、ドイツのスパイをしていたことを認めたものの、機密情報は提供していないと主張し続けました。
フランスには害もない情報を・・・私は一度もフランスにスパイ行為をしたことはありませんし、試みたこともありません。

”H21にこう告げるべし
 得られた成果は満足すべきものではない”

ドイツ軍が求めた情報を提供していなかったマタ・ハリ。
どうしてフランスは死刑判決をくだしたのでしょうか?

そこには政治的背景がありました。
マタ・ハリがパリにいた1916年は、ソンムの戦いで大打撃を受けた年でした。
70万人もの死者を出していたのです。
当時フランスでは、ソンムの戦いでの責任を厳しく問う声が高まっていました。
作戦を指揮した陸軍大臣辞任、仏軍新総司令官罷免、内閣総辞職に追い込まれていました。
そこで、スパイがいたせいでたくさんの死者が出たことにしたのです。
ソンムの戦いで勝っていれば、マタ・ハリなどどうでもよく、死刑にされることもなかったでしょう。

裁判官ブーシャルドンがマタ・ハリを追いつめるために用意したものがある・・・それは、恋人・マスロフへの事情聴収です。
最愛の男はこう言いました。
「今は別の女と暮らしている
 マタ・ハリとは遊びだった」

読み終えたマタ・ハリは、申し上げることはありませんとだけ答えました。

1917年10月15日、マタ・ハリの41念の人生に幕が下りました。
処刑が行われた森は今、パリ市民の憩いの場となっています。

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皇妃エリザベートをめぐる旅 ドイツ・オーストリア・ハンガリー シシィの足跡をたずねて [ 沖島 博美 ]

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時代を超え語り継がれた女たちがいます。
悪女・・・美貌と策略、野望と執念、歴史をも動かした女たち・・・。
美への執着と浪費・・・皇妃・エリザベート。

19世紀の終わり・・・ウィーンの森・・・ここに豪華な別荘が建てられました。
オーストリア皇帝が一人の女性のために作らせたものです。
その名はエリザベート(1837~1898)。
歴代の皇帝を輩出した名門・ハプスブルク家に妃として迎えられ、宮廷一の美貌を誇りました。
しかし、1898年、エリザベートは旅先で暗殺されます。
そして彼女は悲劇のヒロインとして語り継がれていきました。

ウィーンの王宮を抜け出しては贅沢な豪華な旅をしました。
専用列車や船でイタリアやギリシャを回り、お気に入りの場所に別荘を建てました。
旅はしばしば半年を超えました。
国の威信をかけた行事にも出席せず、王宮はその対応に追われました。
多くのお供を連れての旅・・・
金に糸目をつけずにエリザベートが旅をしていた頃、オーストリア帝国は様々な問題に直面していました。
1848年ウィーン蜂起
1859年ソルフェリーノの戦い
各地で独立運動が激化・・・!!
鎮圧するための戦費が莫大に・・・!!
度重なる凶作で、多くの国民が飢餓に苦しんでいました。
エリザベートの桁外れの浪費ぶりに宮廷内部からも批判が・・・

「これほど社会全体が辛苦に耐えている時に、どうして旅行のことなどを考えられるのか?!」
「なぜ周囲はそれを許しているのか理解できない。
 旅行費用50万グルデンを分配すれば、どれほどの飢餓が癒された事か?
 涙を流したい気分だ」

そんな声を余所に、エリザベートは帝国の中枢ホーフブルク宮殿に意外なものを持ち込んでいました。
体操用具です。
エリザベートは、出産で緩んだ体を元に戻すことに執念を燃やしていました。
若さと美しさへの執着・・・

毎晩仔牛の生肉で美顔パック、しなやかな肌を保つための高価なオリーブオイル風呂・・・
ある時、オリーブオイル風呂が高温となり危うく恐ろしい死に見舞われるところでした。
宮廷の厨房では、肉絞り器・・・美容のために肉を食べなかったエリザベートは、仔牛のモモ肉から絞り出した肉汁を飲んでいました。

エリザベートの私生活の暴露本には・・・
この本は、エリザベートの死後、15年経って出版されました。
当時でも衝撃的な内容で、オーストリアでは出版されず、アメリカでしか出版されませんでした。

”あの方は、まるで気京都が偶像を拝むみたいに御自分の美しさを崇拝し、そのまえに跪いていらっしゃいました。
御自分の身体が完璧なのを眺めては、美的喜びを味わっていたのです。
人生の課題は若さを保つことだというお考えで、美しさを維持するための最良の方策を求めることに意識のすべてを傾けられていました。”

エリザベートは、身長172cm、体重50kg、ウエスト50cmを生涯キープしたと言われています。

帝国を混乱に陥れたエリザベート、悪女にしたのはゾフィー大公妃かもしれません。
ゾフィーは、皇帝フランツ・ヨーゼフの母で、エリザベートの姑でした。
二人の軋轢は、結婚する前から始まっていました。
舞台となったのは温泉保養地として知られるバート・イシュル。
皇帝フランツ・ヨーゼフの避暑地でもあります。
1853年夏、フランツはここでバイエルンの貴族の娘・ヘレネと見合いをします。
ところが、フランツが見初めたのはその妹・エリザベートでした。
一目惚れだったのです。
ヘレネを見合い相手に選んだゾフィーは顔を潰されたのです。
母に背くことのなかった息子の反抗でした。
これは、ゾフィーとエリザベートの長い戦いの始まりとなりました。

1854年4月24日、フランツとエリザベートの盛大な結婚式が行われました。
結婚を祝福してオーストリア国家にある歌詞が加わりました。
”皇帝の傍らには 考えまでもが一心同体の皇妃
 その豊かな魅力は衰えることを知らない
 我等が美しい皇妃
 誉れ高き幸運が天から彼に降り注ぐ
 フランツ・ヨーゼフ万歳 エリザベート万歳
 ハプスブルク家に恵あれ”

帝国の后とったエリザベート・・・1837年12月24日南ドイツの名門貴族ヴィッテルズバッハ家に生まれました。
貴族の権力争いに嫌気がさした父・マクシミリアンは、一家を連れて、宮殿を離れ田舎で過ごしました。
狩りや旅を楽しみ、詩を書き、楽器を演奏した父・・・エリザベートも芸術を愛し、豊かな自然の中で伸び伸びと育ちました。
しかし、后妃となった彼女を待っていたのは、大公妃ゾフィーが司る息苦しい生活でした。
ハプスブルク家の外交儀礼では、后妃への挨拶は手の甲への口づけとされていました。
誰であれ、后妃に話しかけることはできませんでした。
エリザベートは、このルールを破ってしまいます。
バイエルンの従姉たちが訪ねてきたとき、手の甲への挨拶を受けることを忘れて抱きしめてしまいました。
すると・・・叱られてしまいました。
皇帝の母として威厳を守ろうとする大公妃ゾフィー・・・
宮廷の生活は、ゾフィーの目にかなったもので飾られていました。
エリザベートが大切にしていたものは素朴なモノが好きだったのです。

ハプスブルク家の領地だったハンガリーでは、当時独立の機運が高まっていました。
エリザベートは、父親が独立運動に理解を示していたことから、子供のころからハンガリーの言葉や歴史に親しんでいました。
ここにもゾフィーとの火種がありました。
ゾフィーは、ハンガリーの独立はオーストリア帝国の解体につながる危機と考えていました。
二人の対立には国と一族の命運がかかっていました。

1854年エリザベートは初めての子を身籠ります。
心を許すことのできるものの好きない王宮で、彼女は故郷から連れてきたお気に入りのオウム・・・
ゾフィーが動物と似た子が生まれると困るからとどこかにやるように言われてしまいます。
1855年エリザベートは長女を、よく年には次女を授かります。
ゾフィーはハプスブルク家の伝統にのっとり自分の女官に育てさせます。
ゾフィーの許しなしには子供にも会うこともできません。

皇帝フランツのハンガリー訪問が計画され、フランツは独立運動を鎮静する為にハンガリーで人気のあったエリザベートを共に連れて行きます。
エリザベートは、子供を一緒に連れていきたいと望みます。
が、ゾフィーは反対!!
ハプスブルク家の維新を見せつけることに子供は必要ない!!
ゾフィーの反対を押し切って、二人の子供を連れて旅立ちます。
が、思わぬ悲劇が・・・長女が発熱と下痢を繰り返し、亡くなってしまいました。
その後生まれた長男も、ゾフィーに取り上げられてしまいました。
やがてエリザベートは、体調が悪いと部屋に閉じこもりがちに・・・
皇妃の務めもあれこれと理由をつけて断ります。
1860年10月、22歳のエリザベートは、医師の勧めでポルトガルのマデイラ島で療養することに。。。
遠ざかっていく国・・・王宮、家族・・・エリザベートの長い旅の始まりでした。

穏やかな潮風に包まれた療養生活は2年に及びました。
立ち直り始めたエリザベート・・・
その頃、ウィーンの王宮で苦しんでいる少年は・・・ゾフィーに育てられていた息子・・・皇太子ルドルフ!!
病気がちな体を強くするため、厳しい軍隊式の教育を受けていました。
寝ている耳元で空砲を撃たれたり、いきなり冷水を浴びせられたり、立っていることができなくなるまで走らされたり・・・これを知ったエリザベートは、遂に立ち上がります。
朝5時に6歳の子供を銃声で起こすような・・・軍人の教官をやめさせようとしました。
政治的にリベラルな教師を集め、近代的な教育をしようとしました。
これが受け入れられなければ宮廷には戻らないと宣言します。
その訴えのおかげで、ルドルフはゾフィーのもとを離れます。

しかしその後も、エリザベートは王宮には戻らず、各地の別荘で過ごします。
その一つが夏の避暑地・・・バート・イシュル。今でもハプスブルク家の末裔が暮らしています。

エリザベートが情熱を注いだのが・・・馬。
エリザベートは乗馬が好きでした。
たくさんの名馬を飼い、気に入った馬を絵に書かせました。
少女時代から打ち込んできた乗馬・・・それが、エリザベートとハンガリーを結びつけることに・・・。
騎馬民族を祖先に持つことを誇りに思っていたハンガリーの人々・・・馬を愛する彼らと心を通わせながら国の将来を語りあっていく・・・
その頃、独立運動は大きな転換点を迎えていました。
新しい指導者アンドラーシが、自治権を獲得するためにハプスブルク家と和解する方針を打ち出しました。
エリザベートは皇帝に手紙を書き、アントラーシとの対話を促しました。

「あなたが彼を信頼されるなら、ハンガリーのみならず帝国全体をまだ救うことができると確信しました。
 とにもかくにも御自身であの方とお話になること、それも早急にです。」

1867年6月、ハンガリーは喜びに包まれました。
皇帝フランツとエリザベートのもと、悲願の自治権が認められ、ハンガリーはオーストリアと並ぶ立場となりました。
しかしそれは、ゾフィー大公妃にとってハプスブルク家の支配が揺らぐことを意味していました。
1872年5月、帝国の将来を憂いながら、ゾフィーは67年の生涯を閉じました。
皇帝はウィーン郊外に、エリザベートの新たな別荘を作りました。
彼女が好んだギリシャ神話にちなんで”ヘルメス ヴィラ”と名付けられました。
皇帝フランツの愛が詰まった贅沢な城・・・しかし、エリザベートの旅は終わりません。
ウィーンにいるのは1年で数週間にすぎませんでした。
フランツはエリザベートにたくさんの手紙を書いています。

”今年の春以来、一緒に過ごした日は数日とないが、君が自分の健康のために必要と思うなら、私は何も言うまい。”

皇帝の執務室には、エリザベートの肖像画がいつも飾られていました。

ウィーンの南の森にマイヤーリンクという王室ゆかりの館があります。
1889年1月、ここで悲劇が起きました。
皇太子ルドルフが男爵令嬢と心中したのです。
霊廟を訪れたエリザベート・・・ルドルフ・・・ルドルフ・・・ルドルフ・・・泣き叫ぶ声の大きさが、修道僧を驚かせました。

皇帝フランツは後にマイヤーリンクを修道院としました。
ルドルフが亡くなった場所に祭壇が置かれ、天井にハプスブルク家の守護聖人が描かれました。
礼拝堂のとなり。。。懺悔の部屋にエリザベートは嘆きのマリア像を納めました。
ルドルフの死後、エリザベートは喪服しか身に付けなくなりました。
さすらうその姿は、黒いカモメのようでした。
1898年9月、エリザべートはスイス・レマン湖のほとりにいました。
とつぜん男が襲い掛かり・・・それが長い旅の終わりとなりました。

当時ヨーロッパでは、従来の秩序が揺らぐ中、王政の打倒が活発になっていました。
犯人のルイジ・ルケーニは、イタリア人のアナーキストでした。
動機を問われ、「王族なら誰でもよかった」と言いました。
スイスへの帰らぬたびに出る途中、エリザベートはバート・イシュルで過ごしました。
彼女が何より大切にしていたのが・・・一番末の娘・マリー・バレリーです。
彼女が唯一自分の手で育てることができた娘・・・成長を見届けることができた唯一の娘。
エリザベートは、娘の嫁ぎ先の母にこう言いました。

「何事であれ、二人のことに口をさしはさむのはやめましょう。」

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「いだてん」の第1回見ました!!
ドラマとして結構面白いんじゃないかな??と思います。
歴史といっても最近のお話しなので、「朝ドラ男性版」みたいな感じがします。

1話だけですが、キャラだっているし、テンポも良くってわかりやすいです。

idatenn















1話で出てきた嘉納治五郎先生・・・凄い人だとはわかっているんですが・・・
yawara




どうしても、こちらの治五郎先生が頭から離れません








前半の主人公の金栗四三さん、最後に出てきましたね。
この演出がとっても粋で、この先、面白いお話しじゃないかな??と思わせてくれました。
だって、別に絶対主人公が映っていないとダメなんておかしいものね~~!!
四三さん・・・この人の一生も、山り谷ありとっても波乱万丈な人生です。

出演の方々も重みのある方が多くて、安心して見てられます。
今年の大河ドラマは楽しく見させてもらおうかな??と思うので、このへんで!!


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