日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: テレビ番組

1945年・・・なぜ日本は焼け野原になったのか?
アメリカ軍の特別資料室でその真相が語られた貴重なテープが見つかりました。
太平洋戦争で、日本への空爆を実行したアメリカ空軍幹部の聞き取り調査の記録でした。

「我々は日本人が根絶やしになるまで爆撃し続けることが出来た
 どれだけ耐えられるものか」byエメット・オドンネル将軍

東京大空襲を実行した責任者カーチス・ルメイ将軍の肉声も見つかりました。

「過激なことをやろうとした
 日本人を皆殺しにしなければならない」

答えた空軍の幹部は216人・・・戦勝国の軍幹部が大規模に調査された極めて珍しい記録でした。

1945年、敗色濃厚な日本への無差別爆撃・・・わずかな期間で、40万人もの犠牲者を出しました。
そこに突き進んでいった彼らの思惑や野望、本音が赤裸々に語られていました。

「空軍に素晴らしいチャンスが来た」byローリス・ノースタッド将軍

「航空戦力のみで戦争に勝利できる」byエメット・オドンネル将軍

空軍は、ある航空兵器に命運を託していました。
原爆を凌ぐ開発費をかけたB-29!!
しかし、思い描いた戦略はことごとく失敗・・・
アメリカ軍内部で突き上げられ、追い込まれていきます。

「空軍大将は恥ずかしいと全員に怒っていた」byローリス・ノースタッド将軍

「B29を持つ空軍は、深刻な非難にさらされた」byヘイウッド・ハンセル将軍

「自分のクビがかかっていた」byカーチス・ルメイ将軍

アメリカ軍の中では、空軍と陸海軍との激しい対立が起きていました。
「しかも、空軍は陸軍の下部組織で、極めて弱い立場でした。
 陸海軍に空軍力を認めさせるために、戦争で成果を残さなければならなかった」
アメリカ軍に残されている機密資料を調べていると、空軍内部で恐ろしい計画が進められていたことが分かりました。
ガス攻撃の計画書です。
空から毒ガスを撒き、1400万人を無差別に攻撃することまで計画されていました。

「一番の目的は、人口の中心部を破壊することだった
 しかし、それについては決して公表しなかった」byバーニー・ガイルス将軍

どうして日本は焼き尽くされることとなったのか・・・??
日本への無差別爆撃の真相とは・・・??

アメリカ・コロラド州・・・ロッキー山脈の麓に広がる町・・・コロラドスプリングス・・・
ここに、アメリカが誇るエアパワー・・・空軍の士官学校があります。
5月・・・卒業式が行われていました。
全米から成績優秀者が集まるこの学校・・・卒業生1000人が、毎年幹部候補生として空軍に入隊していきます。
現在32万人で構成されている巨大組織・アメリカ空軍・・・
世界最強のこの空軍が設立されたのは、戦後の1947年・・・第二次世界大戦中、アメリカに独立した空軍は存在していませんでした。

この士官学校の入り口に、アメリカ空軍の独立を成し遂げ、空軍の父と呼ばれている男の銅像があります。
ヘンリー・ハップ・アーノルド・・・第二次世界大戦中、陸軍の下部組織だった陸軍航空軍司令官です。
アーノルドが命じたのは、東京大空襲・・・10万人もの人々が犠牲となりました。
さらに、戦争末期、日本の60以上の都市を焼夷弾で徹底的に爆撃し続けました。
終戦までのわずかな期間で、40万もの人々が犠牲となりました。
陸軍航空軍は、この空爆の戦果を足掛かりに独立したのです。

「この国を守るため、空軍は陸海軍の下に甘んじてはいけない
 偉大なる空軍組織が欠かせないのだ」byヘンリー・アーノルド将軍

アーノルドは、したたかな軍人だったといいます。
いつも笑顔で、政治的な駆け引きがうまく、上へ上へと昇進していきました。
若き日のアーノルド・・・1907年に陸軍の中に初めて航空部が作られたころからのパイロットです。
飛行機に憧れ、自ら航空部を志願・・・ライト兄弟から直接操縦方法を教わりました。
しかし、所属した航空部は、長い間敵の偵察や、兵器の輸送など、陸軍の支援が中心の弱小組織でした。

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アーノルドは、1938年、航空組織のTOPに・・・!!
その当時の世界各国の空軍力を航空機の数で比較すると・・・
ドイツ・・・・・・・・8000
日本・・・・・・・・・4000
イギリス・・・・・・3900
イタリア・・・・・・3000
フランス・・・・・・2000
アメリカ・・・・・・1200
と、アメリカは6位にとどまっていました。

当時、世界最強はドイツ空軍!!
メッサーシュミットなどの戦闘機をヒトラーのもとで次々と開発し、量産していました。
一方、アーノルド率いる航空隊は予算が少なく、多くは旧式の航空機のままでした。
戦争が始まる前は、郵便配達までさせられていました。
1939年、航空軍は、最新の爆撃機をどのくらい保有していたか??
たったの14機でした。
最終的には、第二次世界大戦中にアメリカは何千機も生産しますが、その時点では14機だけだったのです。
1941年12月8日、アメリカ・ハワイの真珠湾に、日本の戦闘機が突如襲来しました。

「アメリカは戦争を日本と開始する」byルーズベルト大統領

当時、アーノルドは開戦をどう受け止めていたのでしょうか?
空軍内に残された史料を探すために、コロラド州のアメリカ空軍士官学校に・・・!!
ここには、歴代の空軍幹部が残した内部文書や遺品などが保管されています。
中でも特別資料室は、歴史的な価値が高いものが集められています。
空軍幹部が何を考えていたのか??
その中に、肉声テープが残っていました。
録音された1960年代から1度も再生されていません。
テープの数は、207本・・・時間にして300時間を超えていました。
1960年代から軍内部で行われた聞き取り調査の記録・・・
協力したのは、空軍将校206人・・・アーノルドは既に死去していましたが、彼を支えた古参の空軍参謀や、日本への空爆を指揮した将軍たちが答えていました。
空軍史を作るために行われましたが、担当者が途中で死亡・・・以来、半世紀埋もれたままになっていました。
しかし、テープは著しく劣化が進み、当初聞くことが困難でした。
一本、一本修復していくことで、およそ50年ぶりに肉声を再現することが出来ました。

アーノルドの参謀だったローリス・ノースタッド将軍・・・大戦当時のアーノルドの言葉を語っています。

「アーノルドは、仲間を集めていった
 ”空軍に素晴らしいチャンスが来た”
 我々はこれまでずっと、誰か声を聞いてくれと求めてきた
 独立した空軍を夢見てきた
 君たちとその基礎を築くのだ
 この戦争で空軍には無限の可能性がある」

日本への空爆を指揮したエメット・オドンネル将軍・・・空軍の力を示すための戦争だったと明かしました。

「我々は、航空戦力だけで戦争に勝利できると考えていた
 アーノルドは、空軍独立を貪欲なまでに追い求めていた」

アーノルドは、空軍独立という野望を掲げて、戦争に臨んでいました。

第二次世界大戦に参戦すると、アメリカは軍事作戦を決定する統合参謀本部を設置します。
集められたのは、陸海軍のTOP・・・そこに、アーノルドも加えられました。
しかし、アーノルドは、年齢も階級も一番下でした。
当時55歳だったにもかかわらず、空軍の坊やと呼ばれ、海軍トップからは陸軍の下部組織と相手にされませんでした。

「アーノルドは、列席を許されたが、そこは陸海軍の物で気に入らなかった
 彼らは、空軍をハナタレの新興部門と考え、何も理解しようとしなかった
 彼らは、空軍を軽視しただけでなく、至る所でおとしめようとした」byエメット・オドンネル将軍
 
戦前、陸軍の下部組織だった航空軍の兵力は、陸軍の地上軍17万、海軍14万に対し、わずか2万・・・ 
太平洋を越えて、日本を直接爆撃できる飛行機を持っていなかった航空軍・・・
アーノルドは、直接ルーズベルト大統領に窮状を訴えることで、航空軍の状況を劇的に変えていこうとします。

ルーズベルトは、貧弱な空軍しかないことにただただ驚きます。
実際に、航空軍は世界の空軍の中で6位と伝えられ、ぞっとしました。
航空軍に、かつての100倍の予算を与えたルーズベルトは、日本への報復を強く求めました。

「一刻も早く、日本本土を爆撃せよ!!」

アーノルドは、戦力の整わない中で、賭けに打って出ます。
1942年4月・・・開戦から5か月後、空母に乗っているのは、通常陸上から発進する爆撃機・・・日本に近いところまで運び、空爆を行う奇襲作戦でした。
空母の短い滑走路からの離陸は危険がありました。
さらに、出撃後は空母には戻って来られないため、中国大陸への不時着を想定していました。

この作戦の指揮を命じられたのはジェームズ・ドゥーリトル将軍です。

「私はアーノルドから、クルー選定と訓練を命じられた
 日本を爆撃するチャンスだった
 だが、海に突っ込むかもしれなかった」byジェームズ・ドゥーリトル

しかし、アーノルドは作戦実行に踏み切ります。
16機の爆撃機は、日本本土への初めての空爆を実行!!
目標としたのは、東京の兵器工場でしたが、無関係の場所を爆撃!!
市民50人が亡くなりました。
全ての爆撃機は、中国大陸や海に不時着・・・日本の捕虜になる者や、死者も出ました。
この作戦は、アメリカの歴史に残る無謀な作戦でした。
驚くほどリスクの高い作戦だったのです。
どの飛行機も、大きく壊れ、多くの航空隊員も失いました。
しかし、アーノルドは、アメリカの国民に対して、空軍の力を示すいい機会だと考えたのです。

後に東京大空襲を決行する将軍カーチス・ルメイは、当時の想いを語っていました。

「航空軍の力は、一度も適切に使われず、空軍力を全く知らない陸海軍は航空機を道具として使おうとした
 どの飛行士も、空軍力は国家に貢献する力を持つと気づいていた
 陸海軍に空軍力を認めさせるため、戦争で頑張らなければならなかった」byカーチス・ルメイ

アーノルドは、第二次世界大戦中、猛烈なスピードで航空機の開発を進めていきます。
アーノルドは、獲得した莫大な予算で、年間10万機の航空機を製造。
世界6位から最強のエアパワーへと一気に駆け上がろうとしました。

超大型爆撃機・・・B-29!!
長距離かつ大量に爆撃できるB-29は、空軍の特別な攻撃力となるだけでなく、陸海軍の補佐するだけの立場から、我々を同じ立場へと押し上げてくれる
B-29は、それを可能にする唯一の道だ・・・アーノルド指令書より

目指したのは、太平洋を越え、日本を直接爆撃すること・・・その為、航続距離は、それまでの2倍近くに増やそうとしました。
さらに、当時の軍用機が飛ぶコード・・・5000~7000mの上・・・超高高度1万mを飛行し、敵の反撃を受けずに爆撃できることを目指しました。
どの国も不可能だと諦めた高さ1万mを飛ぶ夢の飛行機の開発・・・
アーノルドは、30億ドル・・・現在の4兆円を超える莫大な予算を投入し、完成を急がせました。

「B-29は、新しく強力な武器だった
 アーノルドは、B-29がアメリカと空軍を救うと本当に信じていた
 もし、我々が日本を叩き続ければどうか、陸軍の力はいらないと言いたいのだ」byエメット・オドンネル将軍

「アーノルドの決断の中で、最も勇気があったのはB-29の採用だ
 彼はB-29の工場を作り、まだ計画が未完成の時点で最重要だと決めた
 非常に大きな賭けだった」byヘイウッド・ハンセル将軍

アーノルドは、どのようにB-29の構想を練り、切り札になると考えていったのか・・・??

アーノルドと構想を考えていた人がいました。
1932年雑誌に寄稿された記事です。
日本との戦争の準備は出来ているか・・・
ここに、B-29の原案といえる航空兵器が書かれていました。
日本を破壊するためには、3万5000フィートの高さを飛び、5000マイルの行動範囲を持つ航空機が必要だ。
日本はそれを恐れている!!
提唱していたのは、軍の最も早い時期からのパイロット、ウィリアム・ビリー・ミッチェル・・・航空軍きっての天才将校でした。
ミッチェルは、第1次世界大戦で実験的で使われていた飛行機を見て、戦争のやり方を変え得る画期的なものと確信しました。
第1次大戦は、数百万の兵士が徹底して殺し合う戦争となりましたが、それを変えられるはずだと考えたのです。
ミッチェルの唱えた航空戦略・・・軍隊同士が衝突する前線を航空機で越える・・・兵器工場など軍を支える敵の中枢を攻撃し、戦争を早く終わらせるというものでした。
それには、陸軍の補佐ではなく、自ら指揮権を持つ空軍として独立すべきだと主張・・・

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当時の若手パイロットたちは、彼を崇拝し、ミッチェルスクールと呼ばれました。

その中で、もっともミッチェルを信奉した愛弟子が、アーノルドでした。

「アーノルドは、ミッチェルから多くの航空戦略を教えられた
 空軍が自らの使命をもっているか、攻撃の指揮をどう執れるかだ」byジェームズ・ドゥーリトル将軍

ミッチェルは、空軍力を競う時代になると、日本が敵として台頭すると予測・・・
太平洋戦争が始まる17年前には、ある予測をしていました。

1924年・・・ミッチェルの予言
ある晴れた日曜の朝7時半
日本の航空機が真珠湾の基地を攻撃する
海軍の戦艦、弾薬集積場を爆撃し、太平洋で戦争が始まる

17年後、ミッチェルの予言はそのまま現実のものとなりました。
しかし、ミッチェルは、軍で不遇の人生を送ります。
空軍独立を掲げたミッチェルの主張は、陸海軍との激しい摩擦を生んで、軍を除隊処分となりました。
そして、第2次世界大戦がはじまる3年前・・・1936年に56歳で死去・・・。

ミッチェルは、亡くなる1か月前・・・自らの想いを語った映像を残しています。

「今日の戦争で勝敗を決めるものは、敵の中枢を攻撃することだ
 空軍力が無ければ、アメリカは負ける
 陸海軍の下にある空軍など、ロウソク工場に伝統を頼むようなものだ」

空軍は独立すべきだ・・・その言葉を残したミッチェルとアーノルドは、死ぬまで深い交流を続けていました。

開戦当初、苦しい戦いが続いたアメリカ軍・・・
陸軍のダグラス・マッカーサー、海軍のチェスター・ミニッツ・・・エリアを分けて別々に戦線を展開し反撃していました。
1944年には、どちらが早く日本に迫れるか、競い合っていました。

一方、航空軍は、アーノルドが対日戦線のために開発してきたB-29が、遂に完成し、実戦配備できるようになりました。
完成まで3年以上・・・それでも、通常の開発期間の半分に急がせていました。
アーノルドは、B-29の拠点として海軍が制圧していたマリアナ諸島に目をつけていました。
マリアナ諸島のサイパンやグアムなどから、日本までは往復で4800の距離・・・
日本全土のほとんどを射程距離に入れることが出来ました。
しかし、アーノルドに大きな問題が降りかかります。
B-29は、特別プロジェクトで作られ、アメリカ軍のどの軍が指揮権を握れるのか?決まっていませんでした。

「どの司令官もB-29を欲しがったが、我々航空軍は苦々しく思っていた
 太平洋線域でのB-29の導入は、極めてデリケートな問題だった」byヘイウッド・ハンセル将軍

日本に迫っていた陸軍のマッカーサーと海軍のニミッツ・・・B-29の指揮権をどちらも強く要求しました。

「B-29をマッカーサーに渡せば、海軍の目標を先に爆撃して手柄を横取りしようとするし、ニミッツに渡せば同様の使い方をするだろう
 B-29は、日本全土の攻撃に用いるつもりで、そのためには私が指揮するしかない」byアーノルド

ワシントンにいたアーノルドは、航空軍が陸海軍の攻撃のサポートをすることを条件に、指揮権を自分に委ねるように政府や軍の要人の元を走り回りました。

「結果を出すので任せてください
 B-29が必要なときは、協力します!!」byアーノルド

統合参謀部と大統領を納得させました。

「それはアーノルドが成し遂げた素晴らしい成果だった
 だれもがB-29を欲しがっていた
 手に入れた後、どう扱っていいのか全く分かっていなかったのに、統合参謀本部でやり合い、B-29の指揮権を手に入れたのは、アーノルド最大の成果だ」byカーチス・ルメイ将軍

1944年11月・・・
陸軍航空軍は、B-29の出撃の準備を進めていました。
アーノルドは、ワシントンで統合参謀本部にとどまったまま指揮を執りました。
現地の司令官に任命したのは、ヘイウッド・ハンセル将軍・・・長くアーノルドの参謀を務めていました。

「ハンセルは、とても優秀な指揮官で、空軍一のパイロットだった
 アーノルド将軍はハンセルの事がお気に入りだった」byバーニー・ガイルス将軍

ハンセンは、精密爆撃という航空戦略を練り上げた将軍で、それは当時の航空軍でもっとも重要なことでした。
精密爆撃とは、軍需産業や発電施設など敵の中枢をピンポイントで爆撃し、戦争遂行能力を失わせる作戦でした。
カギを握っていたのは、当時軍の最高機密とされていた装置・・・ノルデン照準機・・・
風の流れや、飛行高度などをセットすると自動計算で正確な爆撃が行われる・・・最先端の技術が詰め込まれていました。
精密爆撃のテスト飛行が、繰返し行われました。
軍事目標を正確に爆撃できれば、一般市民の犠牲を最小限に避けることが出来る・・・!!

「女性や子供を含む大勢の市民が警告なしに空からの爆撃で殺された」byルーズベルト

ルーズベルトは、ドイツや日本を批判し、人道的な戦い方を訴えていました。
精密爆撃を実現することは、アーノルドにとって重要なポイントでした。

「我々航空軍の任務は、軍事目標への精密爆撃である
 優れた制度で、爆弾を投下できる装置を開発し、望ましい結果を出す能力を得た」byアーノルド

アーノルドからハンセルへの最初の指令は、日本の「航空機生産施設を叩け」でした。

「第一の仕事は設定された目標を破壊することだった
 それはまさに、精密爆撃のために、設定された目標だった
 我々はこの作戦と運命を共にしていた
 もしうまくやらなければ恥になる」byヘイウッド・ハンセル将軍
 
B-29による日本への精密爆撃・・・
それは、陸軍航空軍にとって、もう、後がないものでした。

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1943年・・・航空軍は、ヨーロッパでドイツに精密爆撃を行っていました。
B-29ではなく、高度6000メートルを飛ぶB-17にノルデン照準機を乗せた攻撃でした。
43年1月から9月までの爆撃で、目標への命中率はわずか2割・・・
理由は、爆撃の際、テストとは違いB-17は敵機から激しい攻撃を受けていたのです。

「敵機から攻撃を受けそれを交わし反撃しながら爆撃を行うのだが、それではうまくいかなかった
 まぬけな報告が多く出された」byエメット・オドンネル将軍

「アーノルドは非常に不満で、とても懸念していた
 陸軍だけでなく、誰もがアーノルドを突き上げた
 彼は言った
 ”君たちは、間違った庭にホースを向けている
  私はどうする事も出来ない
  もはや後には引けないんだ” 」byチャールズ・キャベル将軍

B-17は、ドイツの反撃で被害が大きく、出撃したうち3割近くが撃墜されることもありました。

アーノルドはドイツの爆撃で、面目を失った結果、軍の中で惨めな敗者となった」byアイラ・エーカー将軍

アーノルドは、ヨーロッパで空軍力での勝利を目指しましたが、戦果をあげることが出来ずとてもかなしみました。
日本に空軍力だけで単独勝利を勝ち取ろうと・・・我々だけで確実に降伏させると決心したのです。

1944年11月24日、アーノルドの指令を受けたハンセルが日本への精密爆撃を遂行します。
サイパン島から111機のB-29が出撃しました。
搭乗を狙った大規模な空爆作戦が、初めて実行に移されたのです。
最重要の目標は、東京武蔵野市にあった中島飛行機の巨大な工場でした。
零銭のエンジンなどを作る日本の航空産業の要でした。

「最初の攻撃の直前、アーノルドは私に手紙を送りこう書いてあった
 ”B-29は日本にたどり着けないかもしれない
  日本で撃墜されるかもしれない
  あなたに幸運があらんことを”
 この手紙は私を不安にさせた
 私も同じ不安を持っていたからだ」byヘイウッド・ハンセル将軍

出撃から7時間後・・・敵の反撃を受けにくい超高高度1万mから初めて東京を爆撃しました。
爆弾は、大きく外れました・・・この空爆で、目標を捕らえた爆弾はほとんどありませんでした。

「作戦は期待通りにはいかなかった
 しかし、何かができる可能性は示した」byヘイウッド・ハンセル将軍

3日後・・・再びB-29・81機が出撃・・・しかし、今度は雲に蔽われ、飛行機工場を発見することが出来ませんでした。
3回目の出撃は12月3日・・・発進した86機のうち60機が中島飛行機の工場上空につき爆撃しました。
しかし、爆弾の命中率はわずか2.5%・・・!!
目標を破壊するには程遠い結果でした。

ドイツで成果をあげられなかったアーノルドにとって、日本への空爆は失敗の許されな最後の機会でした。
B-29の1万mの超高高度であれば、敵の反撃を受けず、精密爆撃が実現するはずでした。
日本への空爆は、なぜうまくいかなかったのか・・・??ハンセルの部下で日本上空を飛んでいたエメット・オドンネル将軍は・・・B-29の最大の特徴である超高高度が問題だったと打ち明けています。

「日本の上空では、非常に激しい風にぶつかった
 だれも知らなかった”ジェット気流”で我々が世界で初めて確認したのだ
 しかも、1年で最も激しい時期で、我々は真っすぐ飛ぶことが出来なかった」byエメット・オドンネル将軍

B-29が飛行する日本上空の高度1万mには時速200キロを超えるジェット気流が流れています。
人類で初めて1万mを飛行した航空軍は、これを発見することとなります。
ノルデン照準機は、自動で水平を保つ画期的な機能がついていましたが、想定を超える風の影響で誤差が生じ、爆撃の精度を維持することが困難になっていました。
さらに、超高高度を実現したエンジンにも大きな問題を抱えていました。

「B-29のエンジンが発火するという問題だ
 エンジンの配線構造の問題で、高温になる場所が数カ所あった
 火災が多発し、多くの乗組員がパラシュートで飛び降りることとなった」byエメット・オドンネル将軍

エンジントラブルが相次ぎ、目的地にたどり着けないばかりか、命を落とすパイロットも出ていました。
しだいに出撃できる機体も減り、作戦の遂行に影を落とすようになりました。

「もしエンジンが頼りなければ、それでやり切るしかない
 これは非常に大きな問題だった
 すべての問題は、新兵器を慌てて実践投入した結果、生まれたものだ」byヘイウッド・ハンセル将軍

ワシントンでは、アーノルドが厳しい立場に追い込まれていました。
統合参謀本部では、指揮権を与えたにもかかわらず、B-29で結果を出せないアーノルドに厳しい批判が相次ぎました。

「B-29をもつ空軍は、深刻な非難にさらされていた
 アーノルドは、非常に大きなプレッシャーの中にあった
 陸軍参謀総長からの批判に加え、大統領もよくない結果に不満だった」byヘイウッド・ハンセル将軍

「アーノルドは、恥ずかしいと言って全員に対して怒っていた
 私やハンセル、作戦の関係者全員に激怒していた」byローリス・ノースタッド将軍

B-29で成果を残せなければ、空軍独立というアーノルドの野望は完全に断たれる・・・
しかし、状況は更に厳しくなっていきます。

「アーノルドは言った
 ”ちくしょう 私は未来を予測できない”」byバーニー・ガイルス将軍

陸海軍からの厳しい批判・・・さらに、大統領やアメリカ国民のいら立ちが航空軍にのしかかっていきます。
アーノルドは、4度の心臓発作を起こすほど、大変なプレッシャーを感じていました。
そのプレッシャーは、部下である司令官へと下っていきます。

「結果を出さないといけない
 私の首がかかっていた」byカーチス・ルメイ将軍

そして、精密爆撃とはかけ離れた、日本への非人道的な戦略に手を染めていきます。
なぜ、日本は焼き尽くされたのか・・・航空軍の戦略が倒錯していく真相とは・・・??

1943年、第2次世界大戦のさ中に、アメリカで公開された映画「空軍力の勝利」。
製作したのは、あのウォルト・ディズニーです。
ディズニーは、アメリカ陸軍航空部が推し進める空爆戦略に共鳴し、映画を作りました。
描かれていたのは、日本への徹底した空爆・・・
この日本への爆撃は、映画の公開から2年後、現実のものとなります。

日本への空爆に、空軍独立をかけていたアーノルド・・・空爆の計画の全貌とは・・・??
恐ろしい計画が・・・ガス攻撃の計画書です。
1944年4月、日本への報復のガス空爆計画!!
日本軍が、もし毒ガスを使用した場合、最大の効果を達成するため日本全国の人口密集地域に毒ガス攻撃をする・・・攻撃対象は、東京、横浜、川崎、大阪、神戸、名古屋、八幡の7都市・・・そのエリアの人口1400万人すべてに毒ガス攻撃を行う想定でした。

日本に対して毒ガス攻撃まで用意していたアーノルド・・・当時、アメリカ国民に向けて日本に空爆することを強くアピールしていました。

「我々はフィリピンへ戻り、そしてその次は東京だ
 我々の東京訪問は仕事だ
 つまり、爆撃に行くのだ
 任務は困難だが、不可能ではない
 神に誓ってやってやる」byアーノルド

アーノルドが、爆撃のために作り上げた切り札B-29。
航続距離は5000km、飛行高度1万m・・・どちらも当時最高で、未来から来た飛行機と呼ばれました。
しかし、B-29による日本への空爆は、当初成功しませんでした。
アメリカ軍の予算の中で当時最大現在の4兆円をかけたB-29・・・アーノルドは、B-29を無駄遣いしていると厳しい批判にさらされていました。

マッカーサーは、「我々ならB-29を使っていい仕事ができる、我々によこせ、航空軍の無駄な攻撃より大きな影響を与える」といいました。

B-29を奪われることは、空軍独立の野望が完全に途絶えることを意味していました。
アーノルドは、ハンセルに対して結果を出すことを強く求めていました。
日本から2400キロ離れたグアム島にあるアメリカ空軍で最大級のアンダーセン空軍基地・・・
現在の大型爆撃機B-1・・・航続距離は1万キロを超え、太平洋全域をカバーしています。
ここに、最大で2000機のB-29が配備され、日本への爆撃へと飛びたちました。
1944年12月・・・日本への空爆が始まってから、1月余り・・・爆撃の失敗が続いていたヘイウッド・ハンセル将軍は、どうすれば結果が出せるか悩み続けていました。
精密爆撃失敗の理由はわかっていました。
日本の上空は時速200キロのジェット気流に加え、冬場は分厚い雲に覆われていました。

「正確な目標を日中に目視で狙わなければならないが、何度も雲が視界を遮り、目標を目視できず当たらなかった」byリチャード・モンゴメリー中尉

目視できない標的は、開発を進めてきたレーダーで捕らえようとしました。

「爆撃用のレーダーはあったが、最適な高度は5000mだった
 だが、1万mから爆撃したので、どうしようもない結果になった」byエメット・オドンネル将軍

12月27日、追いつめられたハンセルは、B-29・72機で、再び中島飛行機の工場へ爆撃を行います。
しかし、目標に命中した爆弾は、わずか6個・・・またしても失敗に終わりました。
その1週間後・・・ハンセルは解任されました。
突然の通告でした。

「地面が崩れたのかと思うほど驚いた
 私は完全に挫折してしまった
 確かに結果は悪かったが、ドイツへの爆撃とおなじようなものだった
 そして、実際に多くの障害を克服していた
 私なら部下に責任転嫁はしない
 アーノルドは、自分で責任を負わなかった」byヘイウッド・ハンセル将軍

「私はアーノルドに(ハンセルを)解任しないよう頼んだ
 アーノルドは言った
”ちくしょう、私は未来を予測できない
 ハンセルは任務をこなさない
 司令官に留まるべきではない”」byバーニー・ガイルス将軍

アーノルドがハンセルの後任に指名したのは、カーチス・ルメイ将軍。
当時38歳、難しい戦場でも常に結果を出し、史上最年少で将軍に昇進していました。
ルメイは自ら爆撃機に乗り込み、部隊の先頭を飛ぶなど、陣頭指揮を執るリーダーでした。
部下たちの絶大な信頼を集めていました。

アーノルドは、そのルメイに最後の望みを託したのです。

「B-29は、これまでどんな軍用機もできなかった偉大な結果をもたらす
 その結果をもたらしてくれるのは、君だと信じている」byアーノルド

航空軍の運命を背負うこととなったルメイ・・・何を考え、どのような心情で日本に空爆を実行していったのか・・・??

1970年3月14日、カリフォルニア・・・
「アーノルドは、私が何とかすると期待していた
 結果を求められていた
 航空軍は、何も成果がなかった
 すぐ何かしなければならなかった
 統合参謀本部の考えはわかっていた
 B-29を奪おうとアーノルドの圧力をかけた」

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1945年1月20日・・・
マリアナ諸島の基地に着任したルメイ・・・就任してから1月ほど精密爆撃を行いました。
しかし、ハンセル同様、成果が上がらない・・・超高高度へも突撃してくる日本軍から、激しい反撃を被ることもありました。 

「ハンセルは、ほとんど成果を残せなかったため解任された
 結果を残さなければならなかったが、その方法は何なのか・・・??」byルメイ

ルメイには、一つだけ恐れているものがありました。それは失敗でした。
それは、彼の父親が、仕事の続かない出来損ないだったからです。
彼はとても貧しい家庭で少年時代から懸命に働き、いつも大変な責任を負って生きてきました。
家族や軍隊、国に対して、非情に責任感があったのです。

1945年2月・・・ルメイが結果を出せない中、アーノルドのもとに驚くべき情報が入ります。
ペリリュー島を制圧し、硫黄島の攻略に向かっていた海軍が、日本への空爆に成功したのです。
しかも、海軍が爆撃したのは、B-29が最大目標として失敗した東京の中島飛行機武蔵野工場だったのです。
爆撃を行ったのは、飛行速度の遅い海軍の小型機でした。
低空で敵の反撃をかいくぐりながら、爆撃を成功させたのです。
新聞は、東京への決定的な空爆だと海軍大将のニミッツを称賛しました。

海軍の戦果を見せつけられ、アーノルドはいよいよ後がなくなっていました。

「海軍のニミッツは、
 ”B-29の指揮権をよこせ
  1度に300機を送り込んでやろう”
 そう言って、指揮権を要求してくるだろう」byアーノルド

統合参謀本部では、結果を残せない航空軍への風当たりが一層強くなっていました。
中でも厳しかったのが、ルーズベルト大統領でした。
軍の最高司令官の大統領が、アーノルドに圧力をかける・・・

「B-29に費やされたお金は最終的にその価値があったと示せ
 ”アメリカ国民のため戦争を終わらせるのに役立った”と」byルーズベルト

アーノルドは、4回の心臓発作を次々と起こしたほど、大変なプレッシャーを感じていました。

この頃、日本軍の徹底抗戦で、アメリカ兵の犠牲が多く出ていました。
戦地の兵士を早く帰国させてほしいというアメリカ国内での声が、日増しに高まっていました。

”戦争を可能な限り早く終わらせろ”というアメリカ国民からの圧力が生まれ、それが大統領から下へ指揮系統をずっと下っていく・・・
海軍の空爆が成功した2日後・・・アーノルドは、ルメイにある指令を出していたことが分かりました。
都市への焼夷弾攻撃を試せ
ルメイは肉声テープでこの時の思いを語っています。

「この件は、誰も責任を取ろうとしなかった
 こんな状況ならそうだろう
 とても孤独な仕事だった
 自分一人で決めるしかなかった
 戦争とは破壊することである
 B-29で結果を出し、陸海軍に見せつけなければ、私は過激なことをするつもりだった」byカーチス・ルメイ将軍

アーノルドは、焼夷弾を使った空爆を、いつからアラバマ州にあるマックスウェル空軍基地・・・軍事作戦に関する機密資料が保管されています。
その中に、焼夷弾の計画書がありました。

1943年10月「日本焼夷弾攻撃データ」

狙ったのは、日本の20都市・・・それぞれの都市の人口や建物の密集度合いに応じて、必要な焼夷弾の量を分析していました。
どこに攻撃を行うのか??地図に示されていました。
東京で最も効果が高い地域とされたのは、下町の人口密集地でした。
当時、アメリカではその下町の住宅街を実際に再現して、焼夷弾攻撃の実権を繰り返していました。
実験結果をもとに立てた計画では、1200万人の住宅を消失できると記されていました。

「一番の目的は、人口の中心の破壊
 決して公表しなかった
 抵抗する者に対する爆撃だ
 人口密集地を破壊する」byバーニー・ガイルス将軍

航空軍は、関東大震災を調べていて日本が焼夷弾攻撃にぜい弱だと知っていました。
アーノルドは、戦争に勝つためならどんな方法でも追及する人間でした。
精密爆撃を掲げる裏で、焼夷弾による無差別爆撃を準備していたアーノルド・・・
当時、どう考えていたのでしょうか?

「これは野蛮な戦争であり、敵国人に自らの政府に戦争中止を要求させるべく、甚大な被害と死をもたらすことである
 市民の一部が死ぬかもしれないという理由だけで、手心を加えるわけにはいかない」byアーノルド

統合参謀本部で突き上げられ、一刻も早く成果をあげたかったアーノルド・・・
日本を爆撃するB-29の拠点のサイパン島を訪れ、鼓舞する映像が残っています。

「今、君たちは日本に最も近い基地にいる
 世界一の爆撃機B-29がある
 よりたくさんの爆弾を運べるのだ
 北海道から九州に至る軍事拠点をすべて爆撃できる
 爆撃の時に日本人にメッセージがある
 伝えてくれるか

 日本の兵士たちめ、パールハーバーは忘れない
 B-29は、お前たちに思い知らせてくれる
 何度も、何度もな」byアーノルド

アーノルドから焼夷弾攻撃の指示が下ってから1週間余り・・・ルメイは日本上空からの偵察写真を眺めながら、あることに気付きました。
ドイツには数多くあった低空の航空機に向けた対空火器が少なかったのです。

「低空の対空火器がないことに気付いたとき、自分の中で”これだ”と確信した
 レーダーは、使い物にならないから、気圧を調整してB-29を限りなく低く飛ばせるようにした」byルメイ

低空を飛べば、B-29を苦しめていたジェット気流や雲の影響を避けられる・・・
B-29の大部隊を編制し、作戦を決行することになりました。
狙うは・・・東京!!

アーノルドが43年から計画してきた焼夷弾計画が、遂に実行される・・・精密に目標を狙うのではなく、ターゲットの区域に焼夷弾をくまなくばらまく作戦でした。

「アーノルドに話をせずに実行するつもりだった
 先に話をして失敗したら、彼の失敗になってしまう
 一人で失敗すれば、”バカな部下が暴挙に出たから首にした”と、誰か代わりの部下をつけてB-29の作戦は続
けられる
 かかっていたのは、アーノルドの首でなく、私の首だったので実行を決めた」byカーチス・ルメイ将軍

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1945年3月10日、B-29が出撃準備をしていました。
その数325機・・・焼夷弾を多く積むため、機関銃などは取り外していました。
B-29は、あわせて1600トンを超える焼夷弾を積んで、東京に向かいました。
空軍独立の野望と、戦果を求める声・・・そして、現場への圧力・・・無差別爆撃が遂に実行されました。
大量の焼夷弾が投下されました。
燃え広がる地域に、爆撃は2時間半にわたって続けられました。
焼夷弾の数25万発・・・東京の下町に暮らす130万人が逃げ場のない日の海に包まれました。

「大量の爆弾を投下し、不幸にも少しでも想像力があれば崩れ落ちそうになる瓦礫の下で、ママ、ママ、と泣いている3歳の女の子の恐ろしいイメージが脳裏に浮かぶものである
 だが、正気でいたいと思うなら、また、祖国の期待する任務を遂行していこうと思うならば、そうした想像から意識を飛ばさねばならない」byルメイ

一夜にして住民のほとんどが被災・・・死者は、10万人を超えるとみられています。
爆撃の報告を受けたアーノルドは、ルメイにこう伝えました。

「おめでとう、この作戦で、あなたたちはあらゆるものに立ち向かう勇気があると示した」byアーノルド

アメリカ国内にも、東京を火の海にしたことが大々的に伝えられました。
東京は、焼夷弾で荒廃しました。
ルメイは、東京の被害を記録した写真を見た時の思いを書き残しています。

「東京は跡形もなかった
 かつてない激しい攻撃だったらしい
 私は居心地の悪さを感じていたが、アーノルドは非常に満足していた。」byカーチス・ルメイ

その後もルメイは、B-29による焼夷弾攻撃で次々と大都市を焼き払っていきます。
3月12日から19日、名古屋、大阪、神戸・・・43年から攻撃が計画されていた都市でした。
この焼夷弾攻撃で、さらに1万人以上が犠牲となりました。

「とにかく可能な限り早く爆撃した
 日本軍が対策を考えて反撃してくる前に、徹底的にやりたかったのだ
 だが、中止した
 なぜかわかるか?
 焼夷弾が切れたからだ」byカーチス・ルメイ

ルメイは、わずか10日間で焼夷弾を1万トン・・・150万発使い切りました。
焼夷弾が補充されたのは、およそ1か月後・・・ルメイは再び大都市への爆撃を繰り返します。
焼夷弾での空爆をやめられない理由がありました。

アーノルドからルメイに届いた「おめでとう」という言葉は、実は、言葉そのものを意味する祝福ではありませんでした。
”他の都市を攻撃し続けろ”という青信号で、”そのまま続けろ大丈夫だ”という意味だったのです。
一般市民を狙った非人道的な無差別爆撃に突き進んだ陸軍航空軍・・・その原点ともいえる思想がありました。
第2次世界大戦がはじまる20年前の資料の中に、将来の無差別爆撃を引き起こす思想がありました。

市民に恐怖を与えることで、戦争をやめさせることが出来る
ガスを使ってその土地で生きられなくし、焼夷弾で炎上させる!!

このレポートを書いていたのは、ウィリアム・ビリー・ミッチェルです。
アーノルドが師を仰いでいた航空軍の戦略の原点を築いた男でした。
ミッチェルは、敵の中枢で戦争を支える一般市民を攻撃対象とし、戦争への意思を失わせることが勝利への近道だと考えていました。
ミッチェルは、一般市民の戦意はもろく、それを打ち砕くのに多くの爆弾は必要ない、すぐに市民は平和を求め、政府は要求に応じると考えていました。
そこから、市民を攻撃目標とする戦略が生まれたのです。

1945年6月17日、これまで軍事施設の多い大都市を狙ってきたB-29が、突如鹿児島の上空に現れました。
鹿児島への空爆でも、大量の焼夷弾が落とされました。
2000人以上が亡くなりました。
なぜ、大都市だけでなく、地方都市までもが攻撃対象になったのでしょうか?
鹿児島空襲の5日前、グアムのルメイのもとを、ワシントンにいたアーノルドが訪ねてきたことが肉声テープで明かされています。

「我々は、アーノルドのために、どう作戦が遂行され、どんな目標が達成できるか説明した
 するとアーノルドが聞いたんだ
(その作戦だと)いつ戦争が終わる?
 われわれは、正確な日時について考えたこともなかった」byカーチス・ルメイ将軍

この頃、日本本土への上陸を目指していた陸軍と海軍が、共に沖縄での戦闘を終えようとしていました。
これを受け統合郷参謀本部では、終戦に向けた動きが加速!!
日本本土への上陸作戦が、11月1日に決行予定となっていました。
この決定を受け、アーノルドは航空軍の力をどのように示すことが出来るか、ルメイと話に来ていたのです。

「陸軍が上陸する前に、空軍だけで戦争を終わらせる
 そう決意したのは、アーノルドと話した時だった
 9月中旬までに、空爆の標的とすべき都市はなくなるから、10月1日までに確実に戦争は終わらせられる」byカーチス・ルメイ将軍

会議の後、アーノルドに提出させた焼夷弾攻撃の計画が残されていました。
そこにあげられた都市は180!!
人口の多い順に並べられ、標的はほとんど軍事工場のない地方の小さな都市にまで拡大していました。
ルメイは10月までに、日本の戦争能力をすべて破壊し終えるといいました。
アーノルドは、この大規模な破壊によって、ルメイ一人で勝利できると確信しました。

ルメイは、激しい爆撃を地方へと広げていきます。
一晩で、3都市、4都市と焼夷弾で焼き払い続けました。
日本が降伏するまで爆撃は続きました。

航空軍の日本に対して行っていた無差別爆撃・・・その被害の実態が、アメリカ国内に次第に伝わり次第に物議をかもしていきます。
5月30日、東京の惨状を伝えたニューヨーク・タイムス・・・
ルメイは、東京は消えたといった
12キロ四方にわたって焼き尽くされ、100万人が火の海で死んだ
この記事を見て、衝撃を受けた人物がいます。
陸軍長官のヘンリー・スティムソンです。
アーノルドの上司で、文民出身のTOPでした。
スティムソンは、アーノルドの部下から日本に対しては精密爆撃のみを行うと約束されていたといいます。
「私は精密爆撃は可能であるし、適切であると聞いた
 ヒトラーがしたような、残虐行為をアメリカにしてほしくない」
6月・・・スティムソンは、アーノルドを呼び出し詰め寄ります。

「アーノルドは、
 ”分散する日本の工業都市を市民を殺傷せずに攻撃するのは不可能だ
  できる限り市民の殺傷の抑制を試みている”
 と語った」byスティムソン

焼夷弾で悲惨な被害を出し続け、人道的な精密爆撃ができないなら、原爆を使う選択肢もあるのではないか??
スティムソンは、原爆投下によって、焼夷弾爆撃は止められたと書き残しています。
彼が原爆の使用に賛成した理由の一つは、焼夷弾を止めるためだったといいます。
焼夷弾空爆の乗組員は、燃えた人肉の匂いが染みつくため、飛行機を丁寧に洗ったし、ガスマスクをつけるほどでした。
当時、日本への空爆で、越えてはいけない道徳上の一線は、焼夷弾の使用であり、原爆ではなかったのです。

1945年8月・・・戦争は終わりました。
航空軍は、その圧倒的な力を見せつけました。
終戦から2年後、日本を焼き尽くしたアメリカ陸軍航空軍は、太平洋戦争での戦果が認められ、悲願だった空軍独立を果たします。
第2次世界大戦中、航空軍を率いたヘンリー・アーノルドは、唯一の空軍元帥に昇進、終戦から5年後、63歳で死にました。

アーノルドは、戦後何を思っていたのでしょうか?
アーノルドは、週戦後まもなく退役し、戦争を振り返ることはあまりありませんでした。
空軍力で戦争を終わらせることは、ミッチェルのアイデアで、空軍全員が描いた夢でした。
しかし、その結果は想像を超えていました。
あの戦争で、想定以上の兵器を手にして、産んだ結果は恐ろしいものだったのです。
アーノルドのもとで日本を焼き尽くしたカーチス・ルメイ・・・終戦から15年後に空軍TOP参謀総長の座につきました。
ルメイが空軍TOPだった時に起きていたベトナム戦争・・・ナパーム弾などを使った爆撃を行いました。
空軍力は、再び多くの民間人の犠牲者を出すことになりました。

アーノルドからルメイへと受け継がれた航空戦略の提唱者ウィリアム・ビリー・ミッチェル・・・
戦後、再評価がなされ、故郷ミルウォーキーに名前を冠した空港が作られました。
終戦から1年後、位階勲等を受賞し、失っていた軍籍も取り戻しました。
航空戦略の創始者と呼ばれています。

100年余り前に、小さな組織からなったアメリカ空軍・・・
いまや並ぶべき存在のないスーパーパワーとなりました。
第2次世界大戦では達成できなかった精密爆撃を、技術が進化する中で今も追い求めています。
しかし、技術がどんなに進歩しようと、もたらす結果に代わりはありません。

現代の空軍力は頼正確で、洗練されているという話があります。
しかし、それは第2次世界大戦前に空軍が
「我々なら第1次世界大戦で起きた虐殺を回避し、より早く人道的に戦争を終えられる」
と言ってだましたのと同じことです。
私たちはそれを信じて第2次世界大戦のような虐殺が2度と怒らないと考えてはいけません。

日本は、徹底的な無差別爆撃で焼き尽くされました。
もたらされた凄惨な被害は、アメリカ空軍の想定をも超えていました。
しかし、戦争に勝利した後、検証し、反省をすることはありませんでした。
悲劇を引き起こした戦略は、連綿と受け継がれているのです。

戦争は何をもたらすのか・・・?今も突き付けられています。

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国際社会から孤立した国・北朝鮮・・・謎に包まれた独裁国家です。
労働党機関紙は、英雄たる最高指導者を連日称えます。
まるで、時が止まったかのよう・・・
兵士の数は、世界第4位ともいわれ、三世代にわたるキム一族の冷酷な支配が続いています。
国連が厳しい制裁を行う中、どうして体制を維持できているのか・・・??

オランダ・ライデン大学のレムコ・ブロイカー教授によると・・・
北朝鮮の見た目と実態は異なります。
最高指導層の行動原理が象徴的です。
体制にとって最大の目標はキム一族のために金を稼ぐことです。
私の関心ごとは、金の調達方法です。
集めた金は、どこへ行くのか、どれだけ稼ぐのか・・・
北朝鮮は、私に対する告訴状をオランダ政府宛に送りつけました。
「最高指導者の威厳を傷つけた罪」・・・北朝鮮では死罪です。

核開発により、国際的孤立を深めた北朝鮮・・・
合法的な収入源を絶たれた政権は、違法な資金調達に打って出ました。
国連は、2006年以降、10回にわたって、北朝鮮に制裁決議を採択、専門家8人が監視します。
その活動内容は、メンバーの身の安全を確保する為に秘密です。
取材対応が許されたのはひとり・・・国連専門家パネルコーディネーターのヒュー・グリフィス

制裁は一面では大きな打撃を与えています。
石炭も、鉄鉱石も、亜鉛も、合法的に輸出できません。
経済を外国に閉じた国でも、外貨獲得は重要です。
北朝鮮の指導者にとっての問題は、次のどちらを優先するか・・・
核ミサイル開発か、国の経済発展か・・・!!

政権は、爆弾を選択・・・
2005年、核兵器の保有を公式に宣言!!
他国からの攻撃の抑止を名目に、国内の支配体制強化も図ります。

選ばれた者たちの街・・・ピョンヤン・・・
ゴミひとつない道路沿いに、真新しい高層マンションが立ち並びます。
都市に住めるのは、体制に忠誠が認められた一部の上流階級のみです。
地方からは、許可証がないと入れません。

ピョンヤンにある経済研究所のソン・ギュンチュル
外国メディアからの取材に応えることが許されています。

「完全な制裁など不可能
 我が国は、今も貿易で外貨を獲得しています
 制裁したければすればいい
 我々は、前進するのみ
 国の競争力を剣に変え、犠牲を厭わず、勇敢に突き進みます。」

北朝鮮への制裁は、かつてなく厳しいものです。
これほど広範囲に制裁を科された国はないでしょう
でも、効果はありません

北朝鮮から亡命した高官の多くは、政権中枢の隠し資産を預かる秘密機関の存在を指摘しています。
金日成と、その息子・正日が70年代に設置し、幅広い権力を与えた組織です。
キム一族の権力基盤を固め、核開発と、指導者の贅沢な生活を支えるのが任務です。
”39号室”と呼ばれています。

ピョンヤンの南・・・韓国のソウル・・・北朝鮮の元外交官だったコ・ヨンファンは、1991年に脱北。
その後、韓国国家安保戦略研究院の副院長を務めました。

「キム・ジョンイルが、朝鮮労働党の財務部門を「39号室」に改名したと言われています
 3階の9号室にあったからという説・・・設置を命じた日が、3月9日だったからという説もあります
 以来、39号室はキム一族の秘密資金を調達し、管理しています」byコ・ヨンファン

国連は、北朝鮮に対する制裁の履行状況も監視しています。
39号室ほどの組織なら、真っ先に制裁対象になってしかるべきですが・・・
39号室の名前を口にするのは、脱北者だけです。
国連が調査するのは、北朝鮮の銀行やダミー会社で、国外で活動し、稼いだ外貨を本国に送金する組織です。

39号室は、国外では存在しない名で、職員も特定できません。
そんな組織や要員は、制裁対象に特定できません。

アフリカ中央部にあるコンゴ民主共和国・キンシャサ・・・
1980年代から北朝鮮はここで外貨を獲得してきました。
米ドル紙幣を偽造するための印刷機を所有していたのです。
1ドル紙幣の1の文字を消し、100の文字を印刷します。
資金洗浄のからくりは簡単で、まずドルで現地通貨を買います。
これには、地元の闇両替商を使います。
1万ドル相当の札束を渡す際に、偽札を数枚しのばせてあります。
交換して得た現地通貨は、地元の銀行に入金するのです。
正規のドルで引き出せば、資金洗浄は完了です。
そのあと、ピョンヤンに運び、39号室につきます。

秘密裏に活動する39号室の資金集めは、世界各地に広がっています。
カンボジアにある世界遺産アンコールワット・・・毎年、250万人を超す観光客が、1億ドルの外貨を落としていきます。
遺跡の入り口である博物館が出来ました。
3Dでクメール王朝の歴史を紹介するパノラマ絵画が展示の柱です。
全て北朝鮮の画家の絵です。
63人の画家が、1年4か月をかけて完成させました。
博物館も、北朝鮮の人が建設しました。
国連制裁を迂回した北朝鮮は、建設の資金も賄いました。
その見返りに、最初の10年間の収益はすべて北朝鮮に入る・・・その後は、カンボジアと分け合います。
北朝鮮から来た運営会社のTOPは、カメラ取材を断りましたが、入館料だけで年に700万ドルになると話しました。
収益はすぐに倍増する見込みです。
北朝鮮とカンボジアは、数十年前から友好関係を維持してきました。
金日成とシアヌーク国王が親交を結び、経済協力の基盤を築きました。
国連の制裁決議を横目に、今日のビジネスに繋がっています。

博物館が閉まり、夜になると別の扉が開きます。
北朝鮮レストランは、撮影禁止・・・
店内は、常に予約でいっぱいです。
メニューには、レーメンやナマコなどの北朝鮮料理が並びます。
コース料理は、高いもので50ドル・・・カンボジアではかなりの高額です。
客は主に、韓国や中国からの観光客・・・
働く女性の多くは、ピョンヤンで芸術を専攻する学生です。
レストランの上の階で寝泊まりし、数年間敷地を出ることは許されません。
毎晩同じ時間に衣装に着替えショーの出番を待ちます。
北朝鮮レストランは、世界各国に130店・・・そのうち3店がカンボジアにあります。
収益は、年間数百万ドルにのぼると言われていますが、ウェイトレスに報酬はありません。
ドルは、ピョンヤンの秘密の金庫に直行します。

北朝鮮労働者は、世界中に派遣され、EU内・・・例えばポーランドでも働いています。
建築現場では、北朝鮮から来た出稼ぎ部隊がいました。
12時間のシフトを終えた労働者は、夕方バスで宿舎に戻ります。
彼等の行動は、24時間国家保衛省によって監視されています。
それでも、労働者の一人が実態を話してくれました。

「稼ぎに来たのにどんなに働いても全然だめです
 労働環境は悲惨で、自由もない・・・
 狭い部屋に、大勢詰め込まれて暮らしています
 賃金の殆どが国に吸い上げられ、手元に残るのはわずか・・・
 30代だし、故郷に妻子もいる・・・
 収入はないに等しいのに、妻と子を思うと続けざるを得ない
 ほかに選択肢はない」

熟練工をポーランドの造船所や建設現場に派遣して、外貨を稼ぐ北朝鮮・・・
奴隷となる労働者の家族は、人質として本国に残されたままです。
労働者の月収は、1万円ほど・・・
残りはすべてキム一族に吸い上げられます。
北朝鮮は、国際社会の目をかいくぐり、各国に労働者を派遣してきました。
その数、最大で15万人!!
およそ4万人がロシア、そして10万人が中国、さらにクウェート、マレーシア、カンボジア、モンゴル、オマーン、カタール、アラブ首長国連邦、そしてアフリカ諸国・・・
国連の制裁で、本国に送還されるはずでしたが、派遣は今も続いています。
専門家は、北朝鮮が年間10億ドルに達する外貨を、こうして得ているといいます。

そこでどう稼いだ金であろうと、すべて39号室につきます。
39号室は絶対的権限で、金の流れを管理します。

39号室は、どこにあり、どれだけの大金が流れ込んでいるのでしょうか??

韓国・ソウル・・・39号室で働いていたという男性に話を聞いてみると・・・
彼は、中国を拠点に外貨を密輸していましたが、その後亡命・・・重要な任務に就いていたため、北朝鮮から殺害予告を受けています。

「北朝鮮はもう、社会主義計画経済ではありません
 社会主義は、国家が食料と必需品を全国市民に供給するのが決まりです
 しかし、その役割は、既に放棄されています」

39号室と、ピョンヤンの資本主義的な体質を理解するには、歴史を振り返る必要があります。
1991年12月、ソビエト連邦崩壊・・・北朝鮮は、最も重要な貿易相手国を失います。
そして、金正日が指導者の地位についた1994年、飢饉が発生します。
90年代の大飢餓で、多くの北朝鮮国民が餓死しました。
配給システムは崩壊、死者数は100~300万人!!
以来、農村部の住民は、自給自足で凌がざるを得ず、各地に闇市が出現・・・ジャンマダンと呼ばれました。
現在も、多くの闇市が並び、そのうち認可された400の市場は税金も支払っています。
売り買いされるのは、主に中国から来た食品や商品です。

「中国と北朝鮮の国境線は、1000キロ以上にもなるのに、8割近くは有刺鉄線もない
 国境付近の住民は、国の漢詩を逃れ、中国相手に活発に商売している
 この商売が、北朝鮮の闇市の基盤となっています」

北朝鮮政権は、闇市場を取り締まれません。
配給できないのに取り締まれば餓死者が続出します。
こうして経済が崩壊した社会主義国は、資本主義国家へと変質したのです。
2つの経済体制が混在した国へと!!



闇市場で暴利を得ているのが、ピョンヤンの政府高官です。
キム体制も、忠誠心を繋ぎ留め、その利益に預ろうと地下経済を許容しました。
幹部連中は、数年で裕福になりました。
贅沢品を売り、原材料を密輸し、不動産に投資・・・ドンジュ・・・金主と呼ばれています。

「僕にとっては、イデオロギーより金や社会的地位が大事でした
 39号室で働いたのも、それが目的です
 僕ら世代が、経済関連の仕事を好むのは当然です
 上の世代に比べて、富や地位にこだわるのです

 39号室の任務は、党のための資金集めです
 国家保衛省でさえ手出しできません
 外貨獲得という名目のもと、違法行為も即座に許可されました
 
 組織内での僕の肩書は、ある会社の”従業員”ということになっていました
 担当は、輸出業務でした」by元39号室輸出担当

ドイツ・ハンブルク・・・数年前まで、北朝鮮国営の保険会社・KNICがごく普通のアパートに支店を置いていました。
6人の職員が、ヨーロッパの大手保険会社と取引していました。
39号室には外貨保険を担当する部署があります。
その仕事は保険金詐欺です。
例えば、ロシア製の軍用Mi-8ヘリコプターを使った手口です。
老朽化したヘリを選んで再保険をかけます。
英国のロイズのような大手と保険契約を結びます。
最初につきの保険料を・・・例えば5000ドル支払う・・・
その後、ヘリコプターは爆破されるか、火災に見舞われます。
こうして保険金をだまし取るのです。
EUは、2015年、北朝鮮の保険会社を制裁リストに加えました。

「ポンコツの軍用ヘリを大金に変え、多くが勲章をもらいました」

こうした大金を、ピョンヤンに届ける手段とは・・・答えは簡単、外交官特権を使うのです。
39号室の職員の多くは、大使館や領事館で働いています。
北朝鮮の製品を外国に売り、外国製品を本国に送るのが彼らの仕事です。
外交旅券を使えば、札束を詰め込んだスーツケースでもノーチェック!!
金の流れが滞ることはありません。
北朝鮮大使館にとって外交は、二の次でしかありません。
本当の役割は違法に資金を調達することです。
武器や麻薬の密輸だろうと外交旅券には手を出してきません。

ベルリン・・・市の中心部にある北朝鮮大使館は、建物の一部をホステルとして貸出、月に500万近くの家賃収入を得ています。
大使館の敷地を商業目的で使うことは、外交のしきたりはもとより、国連とEUの制裁にも違反しています。
ドイツ当局は、閉鎖を求めていますが、営業は何年も続いています。
制裁の対象には、大使館による営業活動も含まれるでしょう。
軍事訓練や軍需品の提供が、北朝鮮大使館を通じて行われています。
特に、アフリカと中東で活発です。
中でもシリアは北朝鮮と違法な結びつきを強化しています。
北朝鮮軍との協力関係です。
シリアに独裁体制を敷いた先代のハーフェザー・アサド大統領と金日成は、1960年代から友好関係を結んできました。
中東戦争でイスラエルと戦っていたシリアに、北朝鮮は武器や弾薬を供与・・・今も重要な収入源です。
39号室は、かつての海賊さながら、偽の国旗と名前を付けた船を使います。
2012年から17年の間に、北朝鮮の船40隻がスエズ運河を通りました。
国連は、こうした船舶の一隻を2018年に取り押さえました。
積み荷は、特殊タイルとバルブ、化学兵器開発に使われるものでした。
タイルは耐酸性、弾道ミサイル計画にも用いられます。
船荷証券にはシリアの住所が書かれていました。
シリア科学研究調査センターSSRCのダミー会社の住所です。
弾道ミサイルと化学兵器の開発で、シリアの中核となる機関です。
そうして造られた化学兵器を、アサド政権は自国民に向けて使用してきました。
北朝鮮の科学者や技術者の協力が、シリアの化学兵器製作を支えていたのです。
アメリカ軍がシリアの化学兵器施設を爆撃した時、北朝鮮の要員も巻き込まれました。
その存在を、アメリカ軍が知っていたかは不明です。
シリアにおける北朝鮮の影響力は、過少評価されています。
シリアが北朝鮮から武器やミサイルを買えず、化学兵器の援助もなかったら、アサドは内戦に勝てなかったでしょう。

全土で街が破壊されたシリア・・・
悲劇とみるか、ビジネスチャンスと見るか・・・アサド政権は国際社会に対して多額の復興支援を要求しました。
労働力を提供するのは、北朝鮮です。
2019年6月・・・黒い契約が結ばれました。
その手の金が、ベンツなどの購入に充てられます。
何処からか、北朝鮮に流入し、制裁を潜り抜けています。
外貨はもっと重要な分野にも使われています。
優秀なハッカーの育成です。
1980年代に金正日が始めたプログラムで、数学やプログラミングに秀でた子供をハッカーに英才教育するのです。
資金の稼ぎ手としても、彼らは優秀です。
”ワナクライ”などのウィルスは、北朝鮮製だといいます。
史上最大のサイバー攻撃です。
無数のコンピューターが、150か国で使用不可能に・・・アメリカ政府は”ワナクライ”による犯行を、金正恩のサイバー部隊によるものと断定。

「北朝鮮ハッカーの動きをこの10年追ってきました
 以前は韓国の国防省や政府機関が主な標的でしたが、2015年以降、攻撃対象を世界の金融機関に移しています」byサイモン・チョイ

北朝鮮のインターネットアクセスは限られていて、使えるIPアドレスは、1000個ほどしかありません。
北朝鮮ハッカーは、それらを駆使して他国へ攻撃を仕掛けます。
ハッカーの数は、600人から1300人程度とみられています。
金融機関を襲うと自認するのは、北朝鮮の”ラザルス”と背後にロシアがいるとされる”カーバナック”だけです。
被害の8割は、北朝鮮の犯行で、ロシアは2割程度でしょう。

北朝鮮は、中上流階級を対象にした効率的な教育法を生み出しました。
ピョンヤンの中学校では、コンピューター技術者、科学者、エンジニアの卵たちが国の未来を背負って学んでいます。
コンピューターも学びますが、アクセスできるのは、北朝鮮版インターネットのみ・・・検閲されていない世界への接続は、厳禁です。
そうした中、北朝鮮史上初ともいえるデータ漏洩が起きました。

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ピョンヤンの200万件の住所と住民のデータが流出したのです。
コピーを入手した教授は、内容の分析を始めています。

「社会の現実を伝える情報は、今まで手に入らなかった
 ピョンヤンの経済活動を分析し、地図を書くことも可能になりました。
 以前は脱北者の記憶に頼って、建物の位置などを推定していました。
 今は、だれがどのビルで働き、どの企業のどんな部署がどこにあるのかまで分かる・・・」

データによれば、39号室の本部は、ピョンヤンの権力の中枢にあることが分かりました。
朝鮮労働党本部の目と鼻の先です。
6つの部局からなり、ピョンヤンだけでも数千人の職員がいます。
専用の自動車、幼稚園、ゴルフコース、ダチョウ牧場、専用の銀行までありました。
6つの部局はこれまでに、国内にある数百の企業を取り仕切っています。
鉄鉱石、ダイヤモンド鉱山、宝石工場、繊維工場などを運用し、輸出を管理しています。
外貨を稼ぐ企業は他にもあり、強制労働や武器の密輸、保険金詐欺を生業としています。
ルールはひとつ・・・39号室の名前を国外では決して口にしないこと・・・
見えない組織である限り、国連の監視の目は届きません。

あらゆるものを取り扱い、管理職だけで数千人いました。
従業員をあわせれば、数十万人です。
なんにでも手を染めました。
指示はただひとつ・・・”Make Dollars”ドルを稼げ・・・

北朝鮮は、変化を続けています。
貧しい社会主義国は、高度に発達した地下経済を持つ国家へと変貌を遂げました。
貧富の差は、開き続けています。
ピョンヤン市民が繁栄を続ける一方、農業人口の4割は、栄養失調に苦しんでいます。

データが証明したのは、39号室の存在だけではありません。
どの部署の配下のどの企業が外貨を稼ぐかまで証明しました。
キム・ジョンスク製糸工場・・・キム・ジョンウンの祖母の名を冠した工場です。
1600人の従業員の殆どが女性です。
国内産の蚕を使って、年間およそ200トンの絹糸を生産しています。
人手はかかりますが、高級品として高く売れます。
製品はすべて輸出に回りますが、輸出先はどの国なのか、責任者は口を割りません。
制裁は、39号室の収入に大きな影響を与えないでしょう。
製造ラインは365日、止まることはありません。
私が担当する工場では、国家の年間計画に基づき、年間数十万から数百万ドルを政府に納めていました。
そうした傘下の企業が、800~1000社と計算すれば、39号室が得る総収入は、容易に想像がつくでしょう。
繊維製品は、石炭に次いで2番目に重要な輸出製品です。
合弁事業ですることが多く、パートナー国は中国や東南アジアの会社です。

中国・丹東市・・・北朝鮮と国内を結ぶ玄関口は、国連制裁のむなしさを強調する場所でもあります。
国境の検問所には、毎日トラックの長い列ができます。
北朝鮮の輸出の9割は、中国を通過すると専門家は指摘します。
中国側では、繊維工場が立ち並び、北朝鮮からの労働者が数多く働いています。
中国企業は、北朝鮮の労働力を雇うのは、中国人より賃金が安いからです。
法制を担当する女性たちは、昼も夜も働き、敷地内で寝泊まりします。
家族から離れ、何年も監禁される人生です。

ブロイカー教授は、労働問題に詳しい弁護士や、貿易の専門家、データ分析官らと調査団を結成!!
ヨーロッパの服飾ブランドが、北朝鮮労働者を雇う中国企業と取引していないか、調べています。
検査結果には、驚きました。
北の労働者の中国での奴隷労働はもちろん、中国側が、北朝鮮の工場に外注し、製造まで請け負わせていたのです。
世界に名だたる有名ブランドのサプライチェーンに、北朝鮮の奴隷労働ががっちり組み込まれているのです。
製品の9割が、中国以外の場所で生産されているケースもありました。
欧米が、労働環境が適正か監視する工場では製造されていないのです。
正当な製造現場は、1割のみ・・・残りの9割は、北朝鮮で作られています。

ブロイカーのチームは、中国のある衣料品メーカーを詳細に洗いました。
”ヴァンデスト”です。
会社のサイトでは、低コストと豊富な労働力を歌い、国際的ファッションブランドが顧客に名を連ねています。
中国が服を作るための材料を、北朝鮮に送ります。
1か月後、完成した服が、同じコンテナで返送されます。
その衣服が、オランダ、ドイツ、アメリカなどに出荷されます。

2013年~16年にヴァンデスト社は北朝鮮に1000万ドル相当の生地や原材料を送りました。
同じ期間に、ヴァンデスト社は、2500万ドルの完成品を北朝鮮から受け取りました。
輸出先のひとつがアルマーニでした。
ヨーロッパでは、219ユーロで売られています。
これが、北朝鮮製だとは言い切れませんが、可能性は残されています。
アルマーニ社に見解を求めました。

「何年もの間、北朝鮮からの亡命者に証言を聞いてきました。
 強制収容所で輸出用の衣料品を作らされていたと・・・
 欧米の有名ブランド向けです。
 今回初めてデータから官僚機構の関与を立証できました。
 ピョンヤン郊外の州要所で行われる繊維の製造を管理しています。
 欧米の店舗で私たちが買う衣料は、強制収容所で作られたものかも・・・??
 死ぬまで収容所に閉じ込められた人々を働かせて作った・・・
 その恐ろしい現実に、私たちは加担しているんです。」

独裁体制を支える名も知れぬ幾多の労働者たち・・・
彼等の未来を犠牲にして作っているのが、指導部の贅沢な暮らしと、
西側の繁栄です。
金正恩は、常軌を逸した独裁者ではなく、国家を企業のように運営する冷徹なビジネスマンです。
そのビジネスを担うのが、北朝鮮39号室・・・私たちも、無縁ではないのです。

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1945年4月、ベルリン・・・ドイツ第三帝国最後の日々を、15歳にも満たない少年兵たちがアドルフ・ヒトラー総統の地下壕を守ろうとしていました。
ソビエト軍には到底太刀打ちできません。
しかし、ヒトラーのために戦うと誓った青少年たちは、最期までその約束を守り通したのです。
ヒトラーのために命を投げ出す・・・そのゆるぎない忠誠心は、どのようにして培われたのでしょうか?
青少年たちは、いかにしてナチスの闇に取り込まれたのか・・・??
ナチスの未来、宣伝材料、使い捨ての兵士の物語です。

1920年代の結成されたナチ党の青少年団・ヒトラーユーゲント・・・ヒトラーの首相就任以降は、全ての青少年がこの組織への加入を義務付けられ、軍事訓練とイデオロギー教育を受けます。
第二次大戦がはじまると、彼らの身も心も万全でした。

1943年、ヒトラーユーゲントは対空防衛に動員されます。
サーチライトと高射砲を連合軍の爆撃機へ向け、ドイツの町を守る任務です。
学校に通わなくて済むため、子供たちは大喜びでした。
青少年の気持ちは高ぶっていました。
本物の兵器を使い、総統のため、ドイツのため、兵士として、男として戦うのです。

空襲の合間に、若い兵士たちは子供らしい時間を取り戻します。
しかし、水空力で勝る連合軍に、勝利は見込みませんでした。
寝不足で疲れ切り、耳に防具をつけないため聴力が低下・・・
彼等は、使い捨ての戦力でした。
連合軍は、ドイツの激しい空襲を行いました。
降り注ぐ爆弾の下で、少年たちは生き地獄を味わいます。
彼等は、空襲の被害者を助ける民間防衛活動に加わりました。

戦況が劣勢になるほど、プロパガンダは激しくなります。
プロパガンダは功を奏し、1943年秋・・・ヒトラーユーゲントメンバーの年長者のうち1万6000人が武装親衛隊の新しい組織第12SS 装甲師団に入ります。
親衛隊の指導者ハインリヒ・ヒムラーによって創設されたこの装甲師団は、別名ヒトラーユーゲントと呼ばれるようになります。
団員は、16歳と17歳で、喫煙と飲酒は禁じられていましたが、殺人は許されていました。
政権は、若者の大胆さと恐れのなさを利用しました。

「敵は知るべきで、我が国では子供であっても最期まで戦うこと」byゲッペルス

ベルギーでの訓練を終えた、第12SS装甲師団は、ノルマンディーへ向かいます。
1944年5月の時点で、ドイツ軍はノルマンディーを戦略上の要所とは考えず、連合軍が上陸するのはカレーだとみていました。
6月6日、連合軍はノルマンディーに上陸、しかし、この攻撃は装甲師団ヒトラーユーゲントをパニックに陥れるものではありませんでした。
翌日、ヒトラーユーゲント師団は、連合軍が占領を狙ったカーンの町へ派遣されます。
連合軍は、町は24時間以内に陥落するとみていました。
10代の兵士たちは、砲撃の洗礼を受けます。
しかし、ユーゲントの果敢な反撃によって、6週間の激戦となります。
装甲師団は、町の入り口で、イギリス軍とカナダ軍の攻撃を食い止め、多くの捕虜を捕まえました。
ドイツ軍のカメラは、死を目前にした連合国軍兵士たちの姿を捕らえています。
武装親衛隊のクルトマイヤーの命令で、青少年兵たちは、捕虜を次々に処刑しました。

カーンの西の修道院では連合軍の兵士18人、シャトードーデュリューの中庭では、45人のカナダ人兵士が処刑されました。
装甲師団・ヒトラーユーゲントは、全部で150人以上の捕虜を殺害しました。
第三帝国の子供達は、戦争犯罪人となったのです。
戦争犯罪・・・大虐殺・・・暴力行為・・・長年にわたるナチスの洗脳教育の結果です。
連合軍は、第12SS装甲師団ヒトラーユーゲントをベビー師団と呼びました。
その無謀さと野蛮さで、連合軍にとって手ごわい敵となります。
戦場の若い兵士は、情け容赦ない兵器でした。
自己犠牲は厭いません。
野蛮な行為にも関わらず、ヒトラー政権は彼らを称賛します。
政権は、これまで通り、バラ色を約束しますが、現実は全く違いました。
ドイツ国防軍は、ノルマンディーの戦いに敗れ、数十万の兵士が捕虜となります。
その中には、多数の青少年が混ざっていました。
かつて片手を突き出し、「ハイル」と叫んだ彼らが、両手をあげて降伏しました。
しかし、敗北にもめげず、ユーゲント師団は一旦撤退しては違う戦線へと向かいました。

「最後の砦は自分達しかいない!!」

ヒトラーユーゲントは、総統と帝国のために結束し、従軍を志願しました。
歴史的な場所での式典で、16歳の志願兵たちが総統に披露されます。

「本日、皆に発表する
 この旗のもとで戦うために、ヒトラーユーゲントからは1928年生まれの団員の7割が志願した
 若者たちの積極的な態度は、戦場の部隊の士気を高めるであろう」

前線の兵士の士気は、高まりませんでした。
彼等は少年たちの戦闘能力を疑っていたのです。
ドイツが必ず勝利するという幻想は消えつつありました。
若い兵士たちは、連合軍の前進を止められなかったのです。

西部戦線でも、東部戦線でも、ヒトラーユーゲントは戦闘に加わりました。
降伏は禁じられ、脱走兵は射殺され、外に道はありませんでした。

「ヒトラーユーゲントの指導者アクスマンと、国を守ったユーゲントの兵士20人が招待され、鉄十字勲章が与えられました。」

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1945年3月20日、大虐殺の命令を実行した若者に祝意を伝えるアドルフ・ヒトラー・・・
ニュース映像に残る最後の姿です。
ナチス総統は言いました。

「今の諸君の戦いは、貴重な経験となる
 ドイツ国民にとって生きるか死ぬかの極めて厳しいこの試練を乗り越え、我々は勝利を手にするであろう
 その勝利は、この国の若者にかかっているからだ」

ヒトラーは、パーキンソン病を患っていたともいわれ、手の動きをコントロールできなくなっていました。
56歳にして既に老人のような姿ですが、後悔や辞世の様子はありません。
彼等は、周りを見る力を完全に失っていました。
ドイツ国民がどうなるかなど気にかけてもいなかったのです。
ヒトラーはこう言い放っています。

「ドイツ人が絶滅したら、それは国民全体の責任だ!!」と。

1945年4月、降伏の1か月前にもナチスはまだなお少年兵を戦場に送り込んでいました。
通りには、自分の町を守るように市民に呼び掛けるポスターが張られました。
下は、10歳の子供までもが招集されます。

4月16日、ソビエト軍がベルリンに向けて大規模な攻撃を始めます。
123万発を越える砲弾が、撃ち込まれました。
10万トンの鋼鉄が、住民の上に降り注いだのです。
4月25日、ソビエト軍はベルリンに入ります。
町じゅうが戦場となり、ヒトラーユーゲントの少年兵は、死をそこに意識します。
少年兵の多くが戦う意欲を失くします。
戦争が終わらないでほしいと願っていた子供たちも、戦争から逃げたいと思っていました。
ヒトラーユーゲントは、僅かな武器を手にソビエト軍の戦車と戦いました。
ソビエト兵は、少年兵を鼠のようにあぶり出し、捕らえました。
多くの若者が死んでいく中、ヒトラーは地下壕に隠れていましたが、地上では至る所で待ち伏せ攻撃、銃撃戦、接近戦が行われました。

ソビエト軍は、ヒトラーユーゲントの兵士600人が守る橋へ大砲の砲身を向けます。
大虐殺でした。
生き残った者はほとんどなく、4月30日、ソビエト軍はドイツ議事堂への攻撃を開始、この日ヒトラーは、地下壕で自殺しました。
総統の子供だと誓ったユーゲントの青少年たちは、みなしごになったのです。

1945年5月、ベルリン郊外でドイツ第三帝国は無条件降伏の文書に署名します。
権力と栄光の夢に吸い寄せられたヒトラーユーゲントの若者たち・・・与えられたのは、戦争の恐怖と敗北だけでした。 

ヨーロッパは戦争で荒れ果てました。
連合軍がドイツを分割占領する中、膨大な数の避難民は故郷に戻ろうとしていました。
ヒトラーユーゲントにとって、帝国の崩壊は自由を意味しませんでした。
彼等の多くは、連合軍によって捕虜収容所に収容されます。
連合軍は、若者たちがヒトラーを崇拝するよう洗脳され、一部は今もナチ党員であることを知っていました。
学校の教室と捕虜収容所で、若者たちへの再教育が始まります。

ドイツ人捕虜は、特別授業を受け、帰国後の役割に備えます。
”ゲシュタポやファシストはドイツ再建から排除”と教わります。
ヒトラーの子供達は、新しい言葉と出会います。
”民主主義”です。
ナチスの洗脳から解き放つための手段は、映画の上映でした。
かつてのナチス同様、今度は連合軍がナチスの犯罪を見せつけたのです。
”アウシュビッツ”・・・
最後まで信じようとしない人たちに、連合軍は死の収容所をじかにみせて納得させます。

ヒトラーユーゲントの若者たちは、自分たちの国に戻ります。
国家再建が進む新しいドイツで、多くの人がナチスに青春を奪われたことを理解しました。
しかし、長い年月を経ても、一つの疑問が彼らについて回ります。

どうして私たちは踊らされたのか・・・??

かつてヒトラーの子供と名乗り、今人生の終わりに近づいた人たち・・・
自分達が生き残ったのは、体験を次の時代の人々に伝えるためだと思っています。

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独裁者の妻たち・・・恐怖政治の中で、彼女たちはどのような役割を担っていたのでしょうか?
フィリピン・・・史上最も欲深いとされた女性・・・イメルダ婦人。
大いなる浪費家・・・独裁者の引き立て役として贅沢に走り、国を食いつぶしたファーストレディーです。
1946年、フィリピンはアメリカの植民地から独立、マルコスは1965年に大統領に選出され、再選を果たします。
しかし1972年、彼は戒厳令を布告・・・独裁を開始しました。
国民を拷問し、3257人を処刑、7万人を無差別に投獄しました。
国民の所得の20%が下落、マニラの40%がスラム化・・・
マルコス政権の20年に及んで、国の負債は90倍に膨らみました。
500億ユーロを着服!!

美人コンテストで名を馳せたマニラのミューズが、駆け出しの下院議員フェルディナンド・マルコスに見初められ、出会ってからわずか11日でスピード結婚します。
この結婚で名声をえたマルコスは、権力の階段を瞬く間に上り詰めました。
1965年、マルコスが大統領に当選します。

「ファーストレディーの役割を尋ねると、マルコスはこう答えました
 ”私は大統領として国民のために頑丈な家をつくる
  君は国の母として、家庭を築くのだ”と
  それで、文化センターを建設したのです」byイメルダ婦人

当初、ファーストレディーとして文化事業を手掛けていたイメルダでしたが、70年代にマルコスが独裁体制に入ると知事や、大臣、特命大使に任命されます。
イメルダはこうして夫と二人で、フィリピンという国を治める権力を握ったのです。

イメルダ・マルコスは、首都マニラを再建するためたくさんのホテルや病院を作りました。
そして、カンヌ映画祭の会場をもしのぐ、巨大な映画センターも建設を指示します。
しかし、工事中に建物が崩壊し、160人以上が死亡・・・
生き埋めになっている人がいるにも関わらず、工期を守るためにコンクリートが流し込まれたという噂が立ちました。
事故から2か月後、マニラ初の国際映画祭が開かれました。

「私の功績・・・??
 世界平和のために国を代表して世界を回ったのです
 冷戦の真っ最中にです」byイメルダ

マルコス夫人は意気揚々と国際政治の舞台に飛び込み、各国の首脳と1対1で渡り合います。
カリスマ性のある抜け目ないネゴシエイターとして、彼女は”鋼鉄の蝶”と呼ばれるようになりました。
イメルダ・マルコスは、冷戦終結に貢献して、歴史にその名を刻みたいと願っていました。
イメルダは、東西ブロック間の会談にも参加しました。
彼女が冷戦を終わらせたわけではありませんが、外交手腕は確かなものでした。
彼女ほど聡明な女性が、どうして誇大妄想に陥ってしまったのでしょうか?
それには70年代という時代が関係しています。

1971年、マルコス夫人は、イラン建国2500年の祭典に招待されます。
60人以上の国家元首が招かれた盛大な祭典でした。
イランのハーレビ国王は、軍人の息子として生まれました。
自らを王の中の王と名乗った彼は、豪華絢爛なこの祭典で誇大妄想を世界に伝染させていきます。

ボカサ1世国王陛下・・・中央アフリカの皇帝・・・彼もまた権力欲に取りつかれていました。
終身大統領だったボカサは、国名を中央アフリカ帝国と変えて、皇帝に就任・・・
ナポレオンを真似た豪華な戴冠式を行いました。
費用は国家予算の1/4に相当する金額だったといいます。
中央アフリカ共和国は、1960年にフランスの植民地から独立・・・
1966年、軍事クーデターによってボカサが大統領に就任・・・72年に就寝大統領となりその後皇帝を名乗ります。
ボカサは多額の公金を横領する一方で、増税し、国民は窮乏の一途をたどります。
税の取り立ては軍隊まで動員して強引に行われました。
人権団体は、70年代にボカサが多くの子供を投獄したと非難します。
ボカサには17人の妻がいました。
しかし、そのほとんどが力づくで結婚させられた未成年でした。
妻たちは軟禁状態で逃げ出す人や、自殺する人もいました。
戴冠式のために、ボカサは本妻を一人選びました。
王妃となったキャサリンは14歳の時、歩いて通学する姿をボカサに見初められました。
ボカサに身を捧げるため、勉強はあきらめざるを得ませんでした。
政治的野心などひとかけらもない女性でした。

かつての宗主国フランスは、ついにボカサに愛想をつかしてクーデターに・・・。
1979年9月、首都にフランス軍が到着。
ボカサがリビアを訪れている間に、ダビド・ダッコを大統領に据えました。
ボカサは皇帝の座を失いました。
彼が失脚した理由の一つが妻キャサリンの裏切りでした。
ボカサ失脚の数週間前、キャサリン・ボカサは、フランスのジスカール・デスタン大統領の庇護のもと、密かにフランスに向かいました。
ボカサは、フランスにある自分の銀行口座の残高がゼロになり、宝石類も無くなっていることに気付きました。
裏切りに気付いたボカサは、妻とフランス大統領との不倫を疑います。
ボカサは7年間服役し、全財産を没収されました。
1996年、彼は貧困の中で死去します。
一方、キャサリン・ボカサは、何ひとつ失いませんでした。
かつて夫から送られた別荘とスイスに自分の財産を隠していたからです。

1970年代、独裁者たちは妻たちに惜しみなく金を使わせました。
しかし、80年代になると、ファーストレディの贅沢はけた外れになり、夫たちの足をすくうまでになります。
彼女たちは現状に飽き足らず、フィリピン国民のお金を盗んでそれをスイスの口座に入れました。
スイスだけでなく、世界中のたくさんの口座に・・・
よりにもよって、国民が飢えに苦しみ、すさまじい貧困が蔓延している時に、アメリカに大きなビルの購入も決めていました。
当時の国民生活の状況と、彼女たちが私腹を肥やすためにビルを買いあさっていた事実を対比すると、犯罪としか言いようがありません。

実権を握っていた20年の間に、マルコス夫人は3000足の靴、ダイヤのネックレス、数十個のティアラを収集していました。
失脚後、フィリピンは2億ユーロ相当の宝石を回収しました。
その宝石は、彼女たちが国民から盗んだものと最高裁が認めています。
2013年、雑誌フォーブスは、マルコスの資産を50億ドルと推定しました。

「肉食のバラ」といわれたイメルダ・・・同じような女性は、遠くハイチにいました。
1980年ハイチ・・・ハイチの貴族の娘ミシェル・ベネットと自称終身大統領ジャン・クロード・デュヴァリエとの結婚式・・・
自分達の国が国際援助によってようやく生き残っているにもかかわらず、2人は数弱万ドルかけた盛大な結婚式を行いました。
ハイチはキューバの最も親しい近隣国の一つです。
医師だった父・デュヴァリエ(パパ・ドク)は、1957年大統領に当選。
1958年クーデターにあったデュヴァリエは、非常事態を宣言・・・共産主義の恐怖を巧みに利用してアメリカの支援を取り付けます。
彼等は秘密警察トントン・マクートを利用した恐怖政治で4万人を殺害・処刑・・・
支配を強めていきました。
1971年にパパ・ドクが亡くなると、翌日”ベビー・ドク”が終身大統領に・・・。
親子に国を乗っ取られ、国は貧困にあえぎました。
ミシェル・デュバリエは、パパ・ドクとベビー・ドク・・・デュヴァリエ親子が築いたシステムの一部でした。
それは単なる泥棒システムでした。
パパ・ドクの死後は、残された妻ママ・ドクが19歳だったベビー・ドクを導いていきました。
ミシェルが嫁いできたことで、嫁姑の争いが勃発・・・女王の座は一つしかありません・・・。
ミシェル・デュヴァリエは、貧しい人たちのもとに足を運び、食べ物や服を与え、学校や病院を作りました。
彼女の活動にマザー・テレサも感銘を受け、ハイチを訪れ多額の寄付を残したほどでした。
ベビー・ドク夫人は、心優しいファーストレディとしての立ち位置を確立しました。
しかし・・・小切手は現金化されると彼女の個人口座に大半が入金されていました。
ハイチの小麦粉を一手に扱っている製粉会社は、彼女の慈善活動に対して毎月2万5000アメリカドルを振り込んでいます。
セメント会社も、宝くじ会社も、電力会社も・・・
ミシェル・デュヴァリエは、雑誌ピープルでドラゴンレディと呼ばれました。
イメルダ・マルコスと同じ誇大妄想の人で、欲深く、押しの強い女性でした。
ピンクのコートを着たいからといって、大きなダンスホールで冷房を最大限にきかせたこともありました。
ミシェル・デュヴァリエは、高価なパーティーを催しては、国営テレビで生放送させました。
ファーストレディが贅沢にふける一方、町には満足に食べられずに餓死する子供までいました。
彼女は定期的にリムジンの窓から小銭をばらまきました。
スラム街の聖母のイメージを守るためでした。

デュヴァリエ夫人も、マルコス夫人も、ひたすら上辺だけ取り繕い、国民の傷を癒すふりをしていました。
1986年2月7日・・・デュヴァリエ失脚・・・
アメリカは、失脚したデュヴァリエ夫妻がフランスへ逃亡する手助けをしました。
1988年、ベビー・ドクの助言者が政権につき、デュバリエ夫妻の法的な問題を精算、同じ年、ミシェル・デュヴァリエは大金を国外に移していました。
1990年、ミシェル・デュヴァリエはそれまでの悪評を払拭するべくベビー・ドクと離婚・・・
かつての独裁者はその後貧困生活を送り、2014年失意のうちに心臓発作で亡くなります。
ミシェルは今も、パリの公住ブティックが並ぶ地区で暮らしています。

マルコス政権の独裁の色は強まるばかり・・・
1983年には反政府派のリーダーだったニノイ・アキノ上院議員が暗殺されます。
国民の暮らしは余りにも貧しく、失うものさえなくなりかけていました。

民主的な統治が難しくなると、統治者は強権的になり、問答無用の威圧的な手段を使いはじえっます。
国民の人権を侵害するようになり、権力にしがみつくためなら何でもするようになる・・・
そんなことが起きました。
1986年2月25日、マルコス失脚!!

1970年代から80年代にかけて中央アフリカのボカサ、イランのハーレビ、フィリピンのマルコス、ハイチのデュヴァリエなど独裁者が次々と失脚しました。
しかし、ザイールのモブツ・セセ・セコは、90年代になってもなお、権力に取りつかれていました。
1960年にベルギーから独立したコンゴは、鉱物資源が豊かな国です。
1965年、クーデターでモブツが大統領に・・・。
国名をザイールと変更、アメリカから支援を受けて権力を強め、60年代の終わりには反対派を処刑、学生運動を弾圧し、遺体を穴に投げ捨てました。
その後、大規模なインフラ整備に着手すると、国庫を完全に私物化、国家元首が横領した金額ではモブツはマルコスに次ぐといわれています。
1980年、モブツ大統領はボビ・ラダワと結婚、ザイールのファーストレディは世界でも独特です。
大統領は第二夫人としてボビの双子の姉妹コシアを娶ったからです。
2人のファーストレディの生活を維持する為に、国は負債を抱えることになります。
ザイールの紙幣は、主にアルゼンチンで印刷されていました。
2枚の紙幣に同じ番号が振られ、政権の隠し口座と中央銀行に入金されていたのです。

1990年代、双子のファーストレディは、アフリカのイメルダ・マルコスとして有名になります。
どんなに身近な旅でも100個のトランクが用意され、有名デザイナーの最高級のふく服や宝石が詰め込まれました。
40歳の誕生日には、盛大なパーティーが開かれました。
モブツは、自身が築いた黄金の山の上に座り続けています。
フランスやスイスなど、海外に複数の不動産を持ち、ザイールの債務とほぼ同額の資産を保有しています。
権力を独占して30年が過ぎた頃、モブツは重い病気にかかります。
アメリカに見捨てられ、軍部に裏切られ、国民から憎まれ、1997年5月、大統領はついに失脚しました。
モブツは4か月後に死亡・・・2人の妻は、フランスやベルギー、ポルトガルの自宅を行き来して暮らしています。
双子の元ファーストレディは、今もモロッコやヨーロッパに多くの資産を保有しているようです。
彼女たちは、もうカメラの前に姿を見せることはありません。
風の便りでは、宝石で身を飾って一人テーブルにつき、昔のように使用人にかしづかれているといいます。
皮肉なことに、コンゴは今も、元大統領の妻という名目で、月7000ドルの年金を払い続けています。

2000年代に入ると、人々の注目はチュニジアのファーストレディ、レイラ・ベンアリに向けられます。
当時、チュニジアにはアラファト夫人も住んでいました。
チュニジアのファーストレディ、レイラ・ベンアリとスーハ・アラファトとの間で、対抗意識の火花が散ります。
チュニジアは元フランス保護領で、1956年に独立しました。
1987年、無血クーデターによって、ベンアリが大統領に就任。
再選回数の制限を廃し、5期連続政権・・・23年にわたって大統領を務めました。
一早く女性の地位を向上させた一方、若者の失業率は60%にまで増大。
また敵対勢力のイスラム教徒に対し、刑務所内で組織ぐるみの拷問をして人権団体から非難されました。
2008年、フォーブス誌によって、世界で最もリッチな国家元首の一人に選ばれました。

1992年、ベンアリ大統領は離婚歴のある秘書レイラ・トラベルシと結婚。
1年後、女性の権利に関する憲法が改正されると、彼女は真摯に問題に取り組み、複数の団体の代表となりました。
イメルダ・マルコスや、ミシェル・デュヴァリエのような浪費家の妻とは対極にあると思えました。
彼女の一族は、立場を利用して自動車、不動産、メディア、そして観光業を牛耳っていました。
まるでマフィアのように国の経済の3割から4割を支配していたのです。
国民は、無法者の一族に苦しめられます。
不動産や企業がトラベルシ一族にいつ乗っ取られるかわからないのです。
国民の怒りの矛先がファーストレディに向けられました。
2009年10月の選挙では、レイラ・ベンアリは自らが中心となって不正を働きます。
彼女は夫の代理で積極的にスピーチを行いました。
同じころ、大統領の健康問題が取りだたされるようになります。
跡を継ごうというファーストレディの意気込みを感じ、国民はうんざりします。
ベンアリ政権があと20年続くと考えるだけで、国民は耐えられなかったのです。

2011年1月、ベンアリ夫妻は国外へ逃亡します。
23年に及ぶ、ファーストレディの不正の蓄財が明るみに出る前に逃げなければならなかったのです。
レイラ・ベンアリは、今も犯人引き渡し条約で守られています。
亡命先がサウジアラビアだからです。
悪魔のようなレイラ・ベンアリは今後も上手く立ち回るでしょう。
祖国で禁固35年を言い渡されたレイラ・ベンアリは、現在サウジアラビアの豪邸に暮らしています。


アメリカの司法制度では、イメルダ・マルコスを友罪にはできませんでした。
1991年2月・・・彼女は国外逃亡を経て祖国に戻り、フィリピンの司法制度に立ち向かう決意をします。
イメルダ・マルコスが、法の網を逃れる秘訣を明かしました。
それは、特権を手にすること・・・彼女が選挙に出続けた理由がそこにはありました。
はれて議会のメンバーとなり、議員特権を得てアンタッチャブル・・・手出しできない存在となったのです。

責められるべきは彼女一人ではありません。
大統領だったマルコス、ファーストレディだったイメルダ、そしてアメリカ大統領だったレーガン・・・
彼ら全員が、フィリピンの民主主義を侵害した張本人だったのです。

大いなる浪費家たちよ・・・
貴女方が自らの正当化を試みた時、西側諸国はその共犯者となりました。
貴女方は、決して俯かず、巧妙な戦略を用いて一切の責任を免れました。
マリー・アントワネットの継承者でありながら、夫の首以上に自分の首を守り抜いたのです。

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アメリカの物語・・・
1920年代は繁栄の時代でした。
しかし、そこには黒い影が・・・
伝説を作ったアル・カポネ、ラッキー・ルチアーノ、フランク・コステロ、マフィアが悪の帝国を築き上げ、勇気ある者が反撃に出ました。
組織犯罪に歯止めがかかりません・・・。
アメリカ社会の善と悪がぶつかり合う時代が続きました。
アメリカの暗黒街の物語です。

オハイオ州・シンシナティのレッドランドフィールド・・・
1919年10月1日、ワールドシリーズが開幕しました。
シンシナティ・レッズ対シカゴ・ホワイトソックス・・・先に5勝した方がチャンピオンです。
ホワイトソックスの監督は、自信満々、ナックルボールで最多勝を獲得したエディ・シーコットに先発を任せます。
レフトを守るシュ―レス・ジョー・ジャクソンらスター選手の揃ったホワイトソックス側が圧倒的に有利とみられていました。
賭博は違法ですが、闇のオッズは7対5でソックス有利、しかし、試合開始数時間前になって、レッズの掛け金が一気に流れ込みます。
ニューヨークのタイムズスクエアでは、特製のスコア・ボードが用意され、電報で逐一伝わるボールの動きが瞬時に表示されます。
ソックスのFanは、エースのシーコットが4回に滅多打ちにあい愕然・・・
シンシナティ・レッズは、初戦を9対1で楽々と勝利・・・番狂わせは続き、5勝3敗でレッズはシリーズ優勝を果たしました。
スポーツライターのヒュー・フラートンは、不振を抱き、新聞にホワイトソックスの選手がワールドシリーズで八百長した疑いがあると告発記事を掲載・・・大きな反響を呼びました。
シューレス・ジョー・ジャクソンら選手8人が一人5000ドルでシリーズの勝利を売ったと非難されました。
シカゴの大陪審で撮影が初めて許され、1920年9月、尋問された8人の内3人が八百長を認めました。
8人全員が、大衆をだました詐欺の罪で告発されます。
裁判では供述書が無くなるという不可解な事件も起こり、陪審は無罪の評決を下しました。
しかし、MLBコミッショナーのケネソー・マウンテン・ランディスは、大目に見ることはなく、8人全員を野球界から永久追放。
事件はアメリカの新たな犯罪組織が世界のどこにでも救うことを知らしめました。

ニューヨークのロウアー・イーストサイド・・・移民が密集して暮らしていました。
市場は一獲千金を目論む若者で溢れています。
アメリカン・ドリームを手っ取り早く手に入れる手段の一つが犯罪でした。
イタリア系移民から大物ギャングになったのは、チャールズ”ラッキー”ルチアーノ・・・そしてフランク・コステロです。
2人はニューヨークを拠点として、一般社会の裏側に暗黒街を築き上げました。
1920年代のアメリカは、犯罪史にとってチャンスに満ちた国でした。
禁酒法の裏をかいて、密造酒をあらゆる階層に供給すれば、容易く荒稼ぎできました。
お酒は、海のルートを使って運ばれました。
ウイスキーひと箱の仕入れ値は、海の上で65ドル・・・陸では400ドルで売れます。
積み荷を満載し、逃走すると沿岸警備隊が追いかけます。
船足で勝る密輸船が振り切るのです。
アメリカ本土で人々への酒への欲望が、尽きることはありません。

連邦政府は、酒類取締局を設置しましたが、問題は慢性的な人で不足です。
わずか1500人で、アメリカ全土のお酒の流れは止められません。
ニューヨーク、パークアベニューでの強制捜査が派手に宣伝されますが、人々は法の目を簡単にかいくぐれることを知っています。
捕まるのは氷山の一角で、密輸人が検問を何事もなくすり抜けていました。

1925年、違法の酒を振るまうナイトクラブが賑わいを見せていました。
法を軽視する風潮が全米に広がります。
特に顕著だったのが、ニューヨークです。
丁度、市長選の時、洒落物者の州上院議員で地元ティンパンバレー出身の音楽家ジミー・ウォーカーが市長に立候補します。
肩ひじ張らない彼のスタイルは、カリフォルニア州知事との記者対応でも本領を発揮します。
禁酒法反対を強く唱えるウォーカーは、マフィアが好むタイプの政治家でした。
1925年11月の市長選挙で圧勝・・・
しかし、市役所の堅苦しい雰囲気が合わず、夜の市長と呼ばれるようになります。
彼は公的資金を使って、セントラルパークのカジノというナイトクラブを改装、違法なシャンパンを開けぬなら、ニューヨーク市政を指揮しました。

休みの日にウォーカーがよく現れたのが52番街の21クラブです。
建物には複雑な仕掛けが施されました。
壁の奥に隠されたのは秘密のワインセラー・・・マフィアの大物アーノルド・ロススタインの資金で買い集めたお酒が保管されていました。
ウォーカー市長の時代、マフィアの事件が新聞の一面を飾るようになります。
1928年にはロススタインが賭けをめぐるもめ事で市街ののホテルで撃たれました。
ロススタインはマフィアの沈黙の掟を守り、撃った犯人の名を明かさぬまま2日後に死亡・・・
ただ一人証言したのはホテルの客室係ブリジット・ファリーでした。
他の証人が現れなかったので、容疑者は保釈されました。
この沈黙の掟がマフィアの隆盛を支えます。

1927年「暗黒街」・・・
マフィアの悪名は、ハリウッド映画に新しいジャンルを生み出しました。
ギャング映画です。
魅力的なギャングのボスとその恋人は、違法なバーに頻繁に出入りし、やがて警官隊と銃撃戦を展開します。
映画の中のギャングは、富とカッコよさとスリルで観客を魅了しました。

悪名は彼等の使った武器でさらに高まります。
トミーガン・・・機関銃です。
速射のできるマシンガンはマフィアのお気に入りとなります。
1934年までは、町の店頭でも買うことができました。
トミーガンで武装したグループは勢力を拡大し、さらにその名をとどろかせます。
1920年代にシカゴで頭角を現したアル・スカーフェイス・カポネ・・・彼は最初の三丁のトミーガンを金物店で買いました。
この銃は、シカゴの至る所で使われたため、シカゴ・タイプライターというあだ名がつきました。
カポネのグループは1929年、バレンタインデーの虐殺という抗争事件を起こし、全米にニュースが轟きます。
アメリカ社会は、一般市民の平穏な日常生活にも脅威が迫っているとみるようになります。
ニューヨークでは連邦下院議員フィオレロ・ラガーディアらが街の浄化かを掲げ、1929年の市長選でウォーカーに挑戦します。
ラガーディアは怒りを訴えます。
ウォーカーはタレント然とした態度で応じます。
投票の結果は、ウォーカー1万4849票、ラガーディア3635票・・・
ウォーカー市長の再選でした。
ウォーカーの再選は、汚職の勝利を示したかに見えました。

しかし、ギャングの隆盛にも逆風が吹き始めます。
1931年8月、5歳の少年、マイケル・ベンガリの葬列を数万人が見送り、その様子がニュースカメラに収められました。
東107番街にあるギャングのたまり場の近くで遊んでいたマイケルは、抗争事件の流れ弾に当たって死亡・・・
他にも4人の子が巻き込まれました。
容疑者は良く知られたギャングのリーダー、ヴィンセント”マッドドッグ”コール。
しかし、誰も証言しようとしません・・・
事件は暗黒街への世間の味方が変わる転換期におきました。
組織犯罪は全米に拡大し、殺人発生率は過去最悪となっていました。
ロマンと共に語られたギャング像は否定され、マフィアは世間の敵となったのです。

1931年、フロリダ州マイアミ・・・裕福なアメリカ人に人気のリゾートになっていました。
温暖なフロリダは、北部の寒い冬を逃れる理想的な場所です。
1キロ半ほど先のパーム島にある豪華な別荘では、秘密の集まりが行われていました。
オーナーはアル・カポネです。
ラッキー・ルチアーノ、ジロ・アーティョーク・キング・テラノバ、フランク・コステロ・・・
ニューヨーク出身のこの4人が、暗黒街の大物にのし上がる一方で、多くの人々は大恐慌に苦しんでいました。

1932年、大統領候補のフランクリン・ルーズベルトは、不況対策と禁酒法廃止を掲げます。
ルーズベルトは、組織犯罪や汚職への世論の反発を感じていました。
ニューヨークで州知事を務めていた1930年9月には、ニューヨーク市の汚職を調査する委員会を立ち上げていました。
ウォーカー市長は、市の発注事業で利益を得たとして非難されます。
1932年、ウォーカーは不名誉な形で辞職・・・
ショーガールの愛人と共にヨーロッパに渡り、3年間暮らしました。

連邦の捜査当局は、シカゴの取り締まりに着手します。
シカゴでは1928年に全米一498件の殺人が起きますが、ボスのカポネが罪に問われたことは皆無・・・
その年の彼の収入は、推定で1億500万ドル・・・今の値で14億ドルですが、税金は申告も納付もしていません。
当局はこれを突破口に、1931年カポネを法廷に引っ張り出します。
税務当局の捜査官フランク・ウィルソンは、巨額の現金がカポネに支払われたことを示す秘密の帳簿を発見・・・脱税の証拠を押さえます。
1932年5月、カポネは11年の実刑判決を受けアトランタとアルカトラズの刑務所に服役します。
押収されたカポネの車は一般に公開されます。
彼が逮捕を逃れた秘密の一端が明かされます。
車には警察と同じタイプのサイレンが・・・そのサイレンを逃走に利用していました。
最新鋭車は警察無線も傍受できました。
敵の攻撃にも耐えうる仕組みでした。
車両の窓は、すべて防弾ガラスです。



1932年11月、ルーズベルトは大統領選に勝利、公約通り禁酒法を廃止します。
貴重な収入源を失ったマフィアは、ギャンブル事業に一層の力を入れます。
ニューヨークのハーレム地区では、黒人ギャング団が、ナンバー賭博を広めました。
手ごろな値段で毎日売られる数当て式の宝くじは、違法でしたが、あらゆる階層に人気となります。
選ぶのは3つの数字、当選番号は新聞紙面から無作為に当てられます。
胴元が999対1で有利となるオッズでした。
ハーレムの街頭で売られるナンバー賭博の売り上げは、年間2000万ドルに達しました。
犯罪は相変らず白昼堂々行われていたのです。

フィオレロ・ラガーディアは、ニューヨーク市を浄化するのは自分しかいないと確信し、1933年の市長選に再び立候補しました。
今回は有権者もラガーディアを支持し大勝・・・政治の世界から暗黒街への反撃が始まります。
ラガーディアは早速、ニューヨークに氾濫する違法賭博の撲滅に乗り出します。
最大の標的は、フランク・コステロや、ラッキー・ルチアーノが経営するスロットマシン事業でした。

コステロは、潜り酒場や町の商店などに2万5000台ものスロットマシンをおいていて、その売り上げは1931年には2500万ドルに達しました。
スロットマシン一掃をアピールしようとラガーディアは押収した大量のマシンに自らハンマーを振り下ろしました。
壊したものはイースト川に廃棄します。
押収された大量の銃器類もイースト川へ・・・。
環境問題を当時の人々は意識していませんでした。
一斉摘発は、コステロやルチアーノの事業の大規模さを白昼のもとに暴きました。
しかし、商売道具の押収だけでは不十分です。
市長はボスたちの逮捕を目指します。

抜擢されたのは、腕利きの検察官トマス・デューイでした。
問題は、ルチアーノについて密告するメンバーが一人もいないことでした。
そこで、デューイはルチアーノが経営する売春宿の娼婦数人に、司法取引による証言を持ちかけます。
1936年、ルチアーノは、強制売春の容疑で逮捕されました。
裁判でルチアーノは2万ドル程度の微々たる所得額を主張しましたが、実際には不正な商売で1000万ドル以上稼いでいたことが明らかになりました。
禁固30年から50年の刑が宣告されます。
しかし、ラガーディアの取り締まりも、マフィアに致命的な打撃を与えるに至りませんでした。
ニューヨークでは逮捕者が相次ぎましたが、アメリカはチャンスが無限に広がる国です。
ニューヨークから遠く離れた場所で、組織犯罪が新たな黄金期を迎えていました。

1938年6月、1艘のスピードボートがカリフォルニア州サンタモニカ沖の国際水域に入ります。
乗客が乗り移ったのはかつて漁船だったレックス号です。
今はすっかり姿を変え、海に浮かぶカジノです。
運営するのは避けの密輸業から転じた”トニー・ザ・ハット”コルネロ・・・別名提督です。
20万ドルを投じ、非課税のギャンブル天国を陸地からスピードボートで12分の海の上に作りました。
船は2000人の客と、350人のスタッフを収納可能でした。
ルーレットやカードゲームの隣にスロットマシンがずらりと並びます。
カジノは24時間無休・・・金持ちが詰めかけました。

レックス号が営業を開始して1年後、州政府は法律を変更し、取り締まり可能な海域を沖合に伸ばしました。
コルネロは当局と鼬ごっこを繰り返しますが、岸から余り離れると客を失ってしまいます。
最後は沿岸警備隊の手に落ちました。ギャンブル用の設備が、太平洋に沈められていきます。
組織犯罪の資金源は、東海岸の都市に限らないことがよくわかります。
ルイジアナ州のニューオーリンズでも、マフィアが1940年代には勢力を確立していました。
その機会を提供したのが、上院議員の”キングフィッシュ”ロングでした。
大統領への野望と汚職にまみれていました。
しかし、ロングは1935年に射殺されます。
ニューオーリンズの顔役は、酒の密輸からレストラン経営に転じた”ダイヤモンド”ジム・モランでした。
あだ名の由来は簡単・・・ダイヤモンドが大好きだったのです。
25万ドルの宝石をよくつけていました。
モランは暗黒街のメンバーに煩わしい日常を逃れて羽を伸ばす機会を提供していました。
ゲストはスピードボートでミシシッピ川を登ってやってきます。
ルイジアナ州でのマフィアの休暇に欠かせないものは銃を使った魚釣り・・・そして食事・・・世間の目が届かないところで満喫します。
ニューオーリンズでは、多くの人間がマフィアブームの分け前に預りました。
しかし、こうした時代はまもなく終わりを迎えます。

シャバのパーティーには欠席続きでもチャールズ”ラッキー”ルチアーノは刑務所の中から引き続き犯罪組織を指揮していました。
ルチアーノは、1946年収監されてわずか10年で釈放されます。
第2次世界大戦中、アメリカ軍のイタリア侵攻作戦にシチリア生まれのルチアーノが協力したという噂が流れました。
釈放の条件は強制送還でした。
イタリア・ローマに到着します。
しかし、ルチアーノは犯罪の帝国を手放すつもりはありませんでした。
1947年、アメリカに戻ろうと試みますが、キューバで身柄を拘束され、再びイタリアへ送還されます。
イタリアで、ルチアーノはカメラに追われます。
アメリカでも犯罪仲間への圧力が高まっていました。
議会上院が公聴会を開き、マフィア幹部を追求する様子を全米にテレビ放送したのです。

マフィアの隠された実態が暴かれ始めました。
1950年春、ハリー・トルーマン大統領の人気は、大戦後の景気後退と歩調を合わせるように下がっていました。
2人のマフィアメンバーの遺体が、ミズーリ州の民主党の関連会社で見つかるという大統領に追い打ちをかけます。
現場の壁に掲げられていたのは、地元が生んだ英雄・トルーマンの写真・・・
政治家と犯罪組織が癒着しているという印象を社会に与えました。
非難の声を受け、議会は組織犯罪に関する初の本格的調査に乗り出します。
テネシー州選出の上院議員エステス・キーフォーヴァ―は、全米へのアピールを画策、公聴会はアメリカではじめての一大テレビイベントとなります。
1951年3月、視聴者の数は3000万人余りに達しました。
マフィアに関係すると思われる人物を、数百人規模で召喚・・・
見たこともない光景に、アメリカ国民はくぎ付けになりました。
クリーブランドの”アウル”ポリッツィは、地下人脈について質問を受けます。
公聴会の目玉は、フランク・コステロの召喚でした。
違法な賭博から合法な不動産業まで、全米で様々な事業に絡み、テレビ局2社にも出資しています。
資産総額は計り知れず・・・
コステロは、口をつぐんだまま何も語りません。
委員会は最後に自らの正当性を訴えるように促しました。

「税金を払った
 上院に対し敬意を抱いているが、これ以上質問に答える気はない」

証人席を離れて退出・・・
ギャングの高慢さの象徴として、社会に記憶されました。

次の証人はアラバマ州出身のヴァージニア”ザ・フラミンゴ”ヒル。
もとは、アル・カポネお気に入りのウェイトレスで、シカゴとメキシコを結ぶ麻薬取り締まりのブレーンにまでのし上がった女性です。
5000ドルのミンクのコートに身を包み、莫大な資産は競馬で稼いだと言い放ちます。
自分で不利になる証言はうまく免れました。
しかし、注目されることを嫌いました。
税務調査から逃れるようにヨーロッパに渡り、15年後オーストリアで亡くなりました。

フランク・エリクソンや、ジョー・アドニスといったマフィアの大物は、憲法修正15条を盾に、自分の不利な証言を拒否しました。
修正第5条に基づいてが常套句となりました。
1年間の公聴会で、600人を呼んだキーフォーヴァー議員は、憂慮すべき結論を発表します。

「犯罪組織は州を超えて、全米規模で連携しています
 我々の想像以上に大規模で悪質な活動です
 その壊滅的な悪影響は、我が国の経済や社会規範、政治や政府に及んでいます」

まもなく、コステロの天下に終わりを告げます。
公聴会での勝手な退席により侮辱罪で有罪となり、その後5年間刑務所を出たり入ったりします。
1957年5月2日には、暗殺を試みた男に頭部を撃たれますが、生き延びました。
容疑者はヴィンセント・ジガンテ・・・コステロの宿敵ヴィト・ジェノヴェーゼ配下の男でした。
コステロがマフィアの沈黙の掟を守り、証言を拒否したため、ジガンテは無罪釈放となります。
1962年1月、ラッキー・ルチアーノが心臓発作で亡くなりました。
ナポリでの葬儀は一大イベントととなり、世界各国の報道陣が集まりました。
弔問客の多くが、その筋定番の服装・・・ルチアーノは、秘密を墓場まで持って行きました。
しかし、翌1963年、沈黙の掟が破られる衝撃的な事件が起こります。
ヴィト・ジェノヴェーゼの組織の末端メンバーのジョセフ・バラキという男が服役中に殺人を起こします。
死刑を逃れるために、バラキは司法取引に応じ、終身刑への減刑の代わりに沈黙の掟を破ったのです。

犯罪組織の秘密の名前が初めて公に明かされます。

「イタリア語でコーザ・ノストラ
 ”我らのもの””我が家族”といった意味です」

組織犯罪の実体が暴露されます。

「一度入ったら抜けられず、逃げることは不可能です
 必ず捕まります」

マフィアはバラキの首に10万ドルの懸賞金をかけましたが、誰も手にできませんでした。
バラキは、1971年に獄中で自然死を遂げます。
2年後、フランク・コステロが死亡、ニューヨークのクイーンズに埋葬されました。

バラキの証言をきっかけに、マフィアに対する取り締まりは一層厳しいものとなります。
大物が次々と法廷に引きずり出されます。
20世紀が終わるころ、捜査当局はマフィアの屋台骨の解体に成功、暗黒街の黄金期は幕を閉じたのです。
 
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