日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: テレビ番組

アメリカの物語・・・
1920年代は繁栄の時代でした。
しかし、そこには黒い影が・・・
伝説を作ったアル・カポネ、ラッキー・ルチアーノ、フランク・コステロ、マフィアが悪の帝国を築き上げ、勇気ある者が反撃に出ました。
組織犯罪に歯止めがかかりません・・・。
アメリカ社会の善と悪がぶつかり合う時代が続きました。
アメリカの暗黒街の物語です。

オハイオ州・シンシナティのレッドランドフィールド・・・
1919年10月1日、ワールドシリーズが開幕しました。
シンシナティ・レッズ対シカゴ・ホワイトソックス・・・先に5勝した方がチャンピオンです。
ホワイトソックスの監督は、自信満々、ナックルボールで最多勝を獲得したエディ・シーコットに先発を任せます。
レフトを守るシュ―レス・ジョー・ジャクソンらスター選手の揃ったホワイトソックス側が圧倒的に有利とみられていました。
賭博は違法ですが、闇のオッズは7対5でソックス有利、しかし、試合開始数時間前になって、レッズの掛け金が一気に流れ込みます。
ニューヨークのタイムズスクエアでは、特製のスコア・ボードが用意され、電報で逐一伝わるボールの動きが瞬時に表示されます。
ソックスのFanは、エースのシーコットが4回に滅多打ちにあい愕然・・・
シンシナティ・レッズは、初戦を9対1で楽々と勝利・・・番狂わせは続き、5勝3敗でレッズはシリーズ優勝を果たしました。
スポーツライターのヒュー・フラートンは、不振を抱き、新聞にホワイトソックスの選手がワールドシリーズで八百長した疑いがあると告発記事を掲載・・・大きな反響を呼びました。
シューレス・ジョー・ジャクソンら選手8人が一人5000ドルでシリーズの勝利を売ったと非難されました。
シカゴの大陪審で撮影が初めて許され、1920年9月、尋問された8人の内3人が八百長を認めました。
8人全員が、大衆をだました詐欺の罪で告発されます。
裁判では供述書が無くなるという不可解な事件も起こり、陪審は無罪の評決を下しました。
しかし、MLBコミッショナーのケネソー・マウンテン・ランディスは、大目に見ることはなく、8人全員を野球界から永久追放。
事件はアメリカの新たな犯罪組織が世界のどこにでも救うことを知らしめました。

ニューヨークのロウアー・イーストサイド・・・移民が密集して暮らしていました。
市場は一獲千金を目論む若者で溢れています。
アメリカン・ドリームを手っ取り早く手に入れる手段の一つが犯罪でした。
イタリア系移民から大物ギャングになったのは、チャールズ”ラッキー”ルチアーノ・・・そしてフランク・コステロです。
2人はニューヨークを拠点として、一般社会の裏側に暗黒街を築き上げました。
1920年代のアメリカは、犯罪史にとってチャンスに満ちた国でした。
禁酒法の裏をかいて、密造酒をあらゆる階層に供給すれば、容易く荒稼ぎできました。
お酒は、海のルートを使って運ばれました。
ウイスキーひと箱の仕入れ値は、海の上で65ドル・・・陸では400ドルで売れます。
積み荷を満載し、逃走すると沿岸警備隊が追いかけます。
船足で勝る密輸船が振り切るのです。
アメリカ本土で人々への酒への欲望が、尽きることはありません。

連邦政府は、酒類取締局を設置しましたが、問題は慢性的な人で不足です。
わずか1500人で、アメリカ全土のお酒の流れは止められません。
ニューヨーク、パークアベニューでの強制捜査が派手に宣伝されますが、人々は法の目を簡単にかいくぐれることを知っています。
捕まるのは氷山の一角で、密輸人が検問を何事もなくすり抜けていました。

1925年、違法の酒を振るまうナイトクラブが賑わいを見せていました。
法を軽視する風潮が全米に広がります。
特に顕著だったのが、ニューヨークです。
丁度、市長選の時、洒落物者の州上院議員で地元ティンパンバレー出身の音楽家ジミー・ウォーカーが市長に立候補します。
肩ひじ張らない彼のスタイルは、カリフォルニア州知事との記者対応でも本領を発揮します。
禁酒法反対を強く唱えるウォーカーは、マフィアが好むタイプの政治家でした。
1925年11月の市長選挙で圧勝・・・
しかし、市役所の堅苦しい雰囲気が合わず、夜の市長と呼ばれるようになります。
彼は公的資金を使って、セントラルパークのカジノというナイトクラブを改装、違法なシャンパンを開けぬなら、ニューヨーク市政を指揮しました。

休みの日にウォーカーがよく現れたのが52番街の21クラブです。
建物には複雑な仕掛けが施されました。
壁の奥に隠されたのは秘密のワインセラー・・・マフィアの大物アーノルド・ロススタインの資金で買い集めたお酒が保管されていました。
ウォーカー市長の時代、マフィアの事件が新聞の一面を飾るようになります。
1928年にはロススタインが賭けをめぐるもめ事で市街ののホテルで撃たれました。
ロススタインはマフィアの沈黙の掟を守り、撃った犯人の名を明かさぬまま2日後に死亡・・・
ただ一人証言したのはホテルの客室係ブリジット・ファリーでした。
他の証人が現れなかったので、容疑者は保釈されました。
この沈黙の掟がマフィアの隆盛を支えます。

1927年「暗黒街」・・・
マフィアの悪名は、ハリウッド映画に新しいジャンルを生み出しました。
ギャング映画です。
魅力的なギャングのボスとその恋人は、違法なバーに頻繁に出入りし、やがて警官隊と銃撃戦を展開します。
映画の中のギャングは、富とカッコよさとスリルで観客を魅了しました。

悪名は彼等の使った武器でさらに高まります。
トミーガン・・・機関銃です。
速射のできるマシンガンはマフィアのお気に入りとなります。
1934年までは、町の店頭でも買うことができました。
トミーガンで武装したグループは勢力を拡大し、さらにその名をとどろかせます。
1920年代にシカゴで頭角を現したアル・スカーフェイス・カポネ・・・彼は最初の三丁のトミーガンを金物店で買いました。
この銃は、シカゴの至る所で使われたため、シカゴ・タイプライターというあだ名がつきました。
カポネのグループは1929年、バレンタインデーの虐殺という抗争事件を起こし、全米にニュースが轟きます。
アメリカ社会は、一般市民の平穏な日常生活にも脅威が迫っているとみるようになります。
ニューヨークでは連邦下院議員フィオレロ・ラガーディアらが街の浄化かを掲げ、1929年の市長選でウォーカーに挑戦します。
ラガーディアは怒りを訴えます。
ウォーカーはタレント然とした態度で応じます。
投票の結果は、ウォーカー1万4849票、ラガーディア3635票・・・
ウォーカー市長の再選でした。
ウォーカーの再選は、汚職の勝利を示したかに見えました。

しかし、ギャングの隆盛にも逆風が吹き始めます。
1931年8月、5歳の少年、マイケル・ベンガリの葬列を数万人が見送り、その様子がニュースカメラに収められました。
東107番街にあるギャングのたまり場の近くで遊んでいたマイケルは、抗争事件の流れ弾に当たって死亡・・・
他にも4人の子が巻き込まれました。
容疑者は良く知られたギャングのリーダー、ヴィンセント”マッドドッグ”コール。
しかし、誰も証言しようとしません・・・
事件は暗黒街への世間の味方が変わる転換期におきました。
組織犯罪は全米に拡大し、殺人発生率は過去最悪となっていました。
ロマンと共に語られたギャング像は否定され、マフィアは世間の敵となったのです。

1931年、フロリダ州マイアミ・・・裕福なアメリカ人に人気のリゾートになっていました。
温暖なフロリダは、北部の寒い冬を逃れる理想的な場所です。
1キロ半ほど先のパーム島にある豪華な別荘では、秘密の集まりが行われていました。
オーナーはアル・カポネです。
ラッキー・ルチアーノ、ジロ・アーティョーク・キング・テラノバ、フランク・コステロ・・・
ニューヨーク出身のこの4人が、暗黒街の大物にのし上がる一方で、多くの人々は大恐慌に苦しんでいました。

1932年、大統領候補のフランクリン・ルーズベルトは、不況対策と禁酒法廃止を掲げます。
ルーズベルトは、組織犯罪や汚職への世論の反発を感じていました。
ニューヨークで州知事を務めていた1930年9月には、ニューヨーク市の汚職を調査する委員会を立ち上げていました。
ウォーカー市長は、市の発注事業で利益を得たとして非難されます。
1932年、ウォーカーは不名誉な形で辞職・・・
ショーガールの愛人と共にヨーロッパに渡り、3年間暮らしました。

連邦の捜査当局は、シカゴの取り締まりに着手します。
シカゴでは1928年に全米一498件の殺人が起きますが、ボスのカポネが罪に問われたことは皆無・・・
その年の彼の収入は、推定で1億500万ドル・・・今の値で14億ドルですが、税金は申告も納付もしていません。
当局はこれを突破口に、1931年カポネを法廷に引っ張り出します。
税務当局の捜査官フランク・ウィルソンは、巨額の現金がカポネに支払われたことを示す秘密の帳簿を発見・・・脱税の証拠を押さえます。
1932年5月、カポネは11年の実刑判決を受けアトランタとアルカトラズの刑務所に服役します。
押収されたカポネの車は一般に公開されます。
彼が逮捕を逃れた秘密の一端が明かされます。
車には警察と同じタイプのサイレンが・・・そのサイレンを逃走に利用していました。
最新鋭車は警察無線も傍受できました。
敵の攻撃にも耐えうる仕組みでした。
車両の窓は、すべて防弾ガラスです。



1932年11月、ルーズベルトは大統領選に勝利、公約通り禁酒法を廃止します。
貴重な収入源を失ったマフィアは、ギャンブル事業に一層の力を入れます。
ニューヨークのハーレム地区では、黒人ギャング団が、ナンバー賭博を広めました。
手ごろな値段で毎日売られる数当て式の宝くじは、違法でしたが、あらゆる階層に人気となります。
選ぶのは3つの数字、当選番号は新聞紙面から無作為に当てられます。
胴元が999対1で有利となるオッズでした。
ハーレムの街頭で売られるナンバー賭博の売り上げは、年間2000万ドルに達しました。
犯罪は相変らず白昼堂々行われていたのです。

フィオレロ・ラガーディアは、ニューヨーク市を浄化するのは自分しかいないと確信し、1933年の市長選に再び立候補しました。
今回は有権者もラガーディアを支持し大勝・・・政治の世界から暗黒街への反撃が始まります。
ラガーディアは早速、ニューヨークに氾濫する違法賭博の撲滅に乗り出します。
最大の標的は、フランク・コステロや、ラッキー・ルチアーノが経営するスロットマシン事業でした。

コステロは、潜り酒場や町の商店などに2万5000台ものスロットマシンをおいていて、その売り上げは1931年には2500万ドルに達しました。
スロットマシン一掃をアピールしようとラガーディアは押収した大量のマシンに自らハンマーを振り下ろしました。
壊したものはイースト川に廃棄します。
押収された大量の銃器類もイースト川へ・・・。
環境問題を当時の人々は意識していませんでした。
一斉摘発は、コステロやルチアーノの事業の大規模さを白昼のもとに暴きました。
しかし、商売道具の押収だけでは不十分です。
市長はボスたちの逮捕を目指します。

抜擢されたのは、腕利きの検察官トマス・デューイでした。
問題は、ルチアーノについて密告するメンバーが一人もいないことでした。
そこで、デューイはルチアーノが経営する売春宿の娼婦数人に、司法取引による証言を持ちかけます。
1936年、ルチアーノは、強制売春の容疑で逮捕されました。
裁判でルチアーノは2万ドル程度の微々たる所得額を主張しましたが、実際には不正な商売で1000万ドル以上稼いでいたことが明らかになりました。
禁固30年から50年の刑が宣告されます。
しかし、ラガーディアの取り締まりも、マフィアに致命的な打撃を与えるに至りませんでした。
ニューヨークでは逮捕者が相次ぎましたが、アメリカはチャンスが無限に広がる国です。
ニューヨークから遠く離れた場所で、組織犯罪が新たな黄金期を迎えていました。

1938年6月、1艘のスピードボートがカリフォルニア州サンタモニカ沖の国際水域に入ります。
乗客が乗り移ったのはかつて漁船だったレックス号です。
今はすっかり姿を変え、海に浮かぶカジノです。
運営するのは避けの密輸業から転じた”トニー・ザ・ハット”コルネロ・・・別名提督です。
20万ドルを投じ、非課税のギャンブル天国を陸地からスピードボートで12分の海の上に作りました。
船は2000人の客と、350人のスタッフを収納可能でした。
ルーレットやカードゲームの隣にスロットマシンがずらりと並びます。
カジノは24時間無休・・・金持ちが詰めかけました。

レックス号が営業を開始して1年後、州政府は法律を変更し、取り締まり可能な海域を沖合に伸ばしました。
コルネロは当局と鼬ごっこを繰り返しますが、岸から余り離れると客を失ってしまいます。
最後は沿岸警備隊の手に落ちました。ギャンブル用の設備が、太平洋に沈められていきます。
組織犯罪の資金源は、東海岸の都市に限らないことがよくわかります。
ルイジアナ州のニューオーリンズでも、マフィアが1940年代には勢力を確立していました。
その機会を提供したのが、上院議員の”キングフィッシュ”ロングでした。
大統領への野望と汚職にまみれていました。
しかし、ロングは1935年に射殺されます。
ニューオーリンズの顔役は、酒の密輸からレストラン経営に転じた”ダイヤモンド”ジム・モランでした。
あだ名の由来は簡単・・・ダイヤモンドが大好きだったのです。
25万ドルの宝石をよくつけていました。
モランは暗黒街のメンバーに煩わしい日常を逃れて羽を伸ばす機会を提供していました。
ゲストはスピードボートでミシシッピ川を登ってやってきます。
ルイジアナ州でのマフィアの休暇に欠かせないものは銃を使った魚釣り・・・そして食事・・・世間の目が届かないところで満喫します。
ニューオーリンズでは、多くの人間がマフィアブームの分け前に預りました。
しかし、こうした時代はまもなく終わりを迎えます。

シャバのパーティーには欠席続きでもチャールズ”ラッキー”ルチアーノは刑務所の中から引き続き犯罪組織を指揮していました。
ルチアーノは、1946年収監されてわずか10年で釈放されます。
第2次世界大戦中、アメリカ軍のイタリア侵攻作戦にシチリア生まれのルチアーノが協力したという噂が流れました。
釈放の条件は強制送還でした。
イタリア・ローマに到着します。
しかし、ルチアーノは犯罪の帝国を手放すつもりはありませんでした。
1947年、アメリカに戻ろうと試みますが、キューバで身柄を拘束され、再びイタリアへ送還されます。
イタリアで、ルチアーノはカメラに追われます。
アメリカでも犯罪仲間への圧力が高まっていました。
議会上院が公聴会を開き、マフィア幹部を追求する様子を全米にテレビ放送したのです。

マフィアの隠された実態が暴かれ始めました。
1950年春、ハリー・トルーマン大統領の人気は、大戦後の景気後退と歩調を合わせるように下がっていました。
2人のマフィアメンバーの遺体が、ミズーリ州の民主党の関連会社で見つかるという大統領に追い打ちをかけます。
現場の壁に掲げられていたのは、地元が生んだ英雄・トルーマンの写真・・・
政治家と犯罪組織が癒着しているという印象を社会に与えました。
非難の声を受け、議会は組織犯罪に関する初の本格的調査に乗り出します。
テネシー州選出の上院議員エステス・キーフォーヴァ―は、全米へのアピールを画策、公聴会はアメリカではじめての一大テレビイベントとなります。
1951年3月、視聴者の数は3000万人余りに達しました。
マフィアに関係すると思われる人物を、数百人規模で召喚・・・
見たこともない光景に、アメリカ国民はくぎ付けになりました。
クリーブランドの”アウル”ポリッツィは、地下人脈について質問を受けます。
公聴会の目玉は、フランク・コステロの召喚でした。
違法な賭博から合法な不動産業まで、全米で様々な事業に絡み、テレビ局2社にも出資しています。
資産総額は計り知れず・・・
コステロは、口をつぐんだまま何も語りません。
委員会は最後に自らの正当性を訴えるように促しました。

「税金を払った
 上院に対し敬意を抱いているが、これ以上質問に答える気はない」

証人席を離れて退出・・・
ギャングの高慢さの象徴として、社会に記憶されました。

次の証人はアラバマ州出身のヴァージニア”ザ・フラミンゴ”ヒル。
もとは、アル・カポネお気に入りのウェイトレスで、シカゴとメキシコを結ぶ麻薬取り締まりのブレーンにまでのし上がった女性です。
5000ドルのミンクのコートに身を包み、莫大な資産は競馬で稼いだと言い放ちます。
自分で不利になる証言はうまく免れました。
しかし、注目されることを嫌いました。
税務調査から逃れるようにヨーロッパに渡り、15年後オーストリアで亡くなりました。

フランク・エリクソンや、ジョー・アドニスといったマフィアの大物は、憲法修正15条を盾に、自分の不利な証言を拒否しました。
修正第5条に基づいてが常套句となりました。
1年間の公聴会で、600人を呼んだキーフォーヴァー議員は、憂慮すべき結論を発表します。

「犯罪組織は州を超えて、全米規模で連携しています
 我々の想像以上に大規模で悪質な活動です
 その壊滅的な悪影響は、我が国の経済や社会規範、政治や政府に及んでいます」

まもなく、コステロの天下に終わりを告げます。
公聴会での勝手な退席により侮辱罪で有罪となり、その後5年間刑務所を出たり入ったりします。
1957年5月2日には、暗殺を試みた男に頭部を撃たれますが、生き延びました。
容疑者はヴィンセント・ジガンテ・・・コステロの宿敵ヴィト・ジェノヴェーゼ配下の男でした。
コステロがマフィアの沈黙の掟を守り、証言を拒否したため、ジガンテは無罪釈放となります。
1962年1月、ラッキー・ルチアーノが心臓発作で亡くなりました。
ナポリでの葬儀は一大イベントととなり、世界各国の報道陣が集まりました。
弔問客の多くが、その筋定番の服装・・・ルチアーノは、秘密を墓場まで持って行きました。
しかし、翌1963年、沈黙の掟が破られる衝撃的な事件が起こります。
ヴィト・ジェノヴェーゼの組織の末端メンバーのジョセフ・バラキという男が服役中に殺人を起こします。
死刑を逃れるために、バラキは司法取引に応じ、終身刑への減刑の代わりに沈黙の掟を破ったのです。

犯罪組織の秘密の名前が初めて公に明かされます。

「イタリア語でコーザ・ノストラ
 ”我らのもの””我が家族”といった意味です」

組織犯罪の実体が暴露されます。

「一度入ったら抜けられず、逃げることは不可能です
 必ず捕まります」

マフィアはバラキの首に10万ドルの懸賞金をかけましたが、誰も手にできませんでした。
バラキは、1971年に獄中で自然死を遂げます。
2年後、フランク・コステロが死亡、ニューヨークのクイーンズに埋葬されました。

バラキの証言をきっかけに、マフィアに対する取り締まりは一層厳しいものとなります。
大物が次々と法廷に引きずり出されます。
20世紀が終わるころ、捜査当局はマフィアの屋台骨の解体に成功、暗黒街の黄金期は幕を閉じたのです。
 
↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング 

映画の都・ハリウッド・・・スクリーンの魔術が、アメリカでもっとも華やかなビジネスを生み出しました。
スターが誕生します。
チャールズ・チャップリン、クラーク・ゲーブル、マリリン・モンローが、世界を虜にしました。
映画制作会社の大物が業界を牛耳り、スキャンダルも飛び交います。
思想をめぐる戦いも・・・しかし、戦時にも、平時にも、ハリウッドは適応と進化を繰り返します。
アメリカの夢の工場・・・ハリウッドの物語。

アメリカの映画産業は、ニュージャージー州で産声を上げました。
1893年発明家エジソンが、アメリカ初の映画スタジオを設立、スタジオはブラック・マライアと呼ばれました。
外見が真っ黒で、警察の護送車を思わせたからです。
しかし、まだ作品をスクリーンに映し出すことは出来ず、お客はキネトスコープと呼ばれる箱にコインを入れ、のぞき窓からフィルムを眺めます。
1894年制作の「くしゃみ」という5秒間の作品が残っています。
技術の進歩と共に、映画は多くの人が楽しめる娯楽となりました。
商店を改装したミニシアターがいくつも登場します。
このような映画館は、ニッケルオデオンと呼ばれました。
ニッケル・・・5セント硬貨でチケットが買えたからです。
1903年の映画「大列車強盗」は、上映時間12分、ストーリーもありました。
1907年には、週に200万人が映画に出かけたといわれます。
映画人気が高まるにつれ、東海岸に制作会社が続々と誕生します。
そこで、エジソンの会社を中心とする大手9社は、モーション・ピクチャー・・パテント・カンパニーを設立。
撮影と上映の技術を独占し、競争相手に圧力をかけて廃業に追い込みました。

1910年、映画監督のD.W.グリフィスは、矢が色気のため、西部カリフォルニア州に赴きました。
そしてたまたまある村に立ち寄ります。
なだらかの丘と果樹園の広がる人口5000人の村です。
村からロサンゼルスまで伸びる16キロほどの通りは、まだ世に知られていない子の小さな村の名をとって、ハリウッド大通りと呼ばれるようになります。
グリフィスの作品「In Old California」は、初めてハリウッドで撮影された映画です。

様々な地形に富み、一年を通じて晴れが多いカリフォルニア・・・しかも、エジソンが独占支配する東海岸からは、4000キロ離れています。
ビジネスチャンスにひかれ、独立系の制作者たちは西を目指しました。
1912年、東海岸で映画ビジネスをしていたカール・レムリがユニバーサルを設立します。
後にハリウッドの巨大企業となるこの会社は、28万坪と言う広大な敷地に世界最大の制作スタジオを造りました。
ユニバーサルは、数多の従業員を雇います。
レムりの成功を受け、業界の人々が次々と西海岸に拠点を移します。
プロデューサーのアドルフ・ズーカー、ジェシー・ラスキー、セシル・B・デミル、サミュエル・ゴールドウィンがパラマウントの前身となる会社を設立、もう一人のパイオニア、ウィリアム・フォックスはエジソンの独占は違法だと訴え、勝利します。
自由になった映画産業は、カリフォルニアを拠点に急速に成長しました。
ハリウッドの映画制作会社は、新しいビジネスモデルを生みました。
映画を作るだけではなく、劇場チェーンも所有していました。
そのため、一定数の観客を確保することが可能でした。

1914年、イギリス人の俳優・チャップリンの二本目の出演作「ヴェニスの子供自転車競走」で、トレードマークとなるキャラクター・放浪者チャーリーに扮し、一躍スターに・・・。
チャップリンは監督も務めました。
1916年映画会社が彼に支払った年俸は70万ドル・・・社長の給料の10倍近くに当たります。
時はまだ無声映画の時代・・・台詞抜きで楽しめるコメディーが人気を集めました。

大スターの一人・・・メアリー・ピックフォード。
1916年、パラマウントと結んだ専属契約は前代未聞の100万ドル・・・ピックフォードを頻繁に起用したのが、D.W.グリフィスです。
1915年、グリフィスは、新しい技法を駆使した「国民の創生」を発表。
南北戦争を舞台としたアメリカ初の壮大な人間ドラマです。
上映時間は3時間・・・1万8000人を雇い、制作費10万ドルを投じました。
興行収入は、現在の価値で2億5000万ドルにのぼったといわれています。
しかし、議論が巻き起こりました。
白人至上主義団体クー・クラックス・クランを正義として、アフリカ系アメリカ人を敵として描いていたからです。
上映禁止を求める抗議運動が起きました。
グリフィスは謝罪しませんでした。
1930年作品の再公開に当たり、こう弁明しています。

「当時、KKKは必要でした。
 社会維持に貢献していました。」

それでも独創的な新しい手法によって、グリフィスはハリウッド一の名監督の座を手にしました。
第一次世界大戦中、プロパガンダ映画を撮影するため、特別にフランスの塹壕への立ち入りも許されました。
戦争の資金集めに奔走したのが、ハリウッドのスターたちです。
ワシントンでメアリー・ピックフォード、チャールズ・チャップリン、ダグラス・フェアバンクスが、戦時公債を宣言します。
一行は各地を回り、スターに頼まれれば、市民たちは喜んでお金を出しました。
終戦までに集まった金額は、およそ170億ドル・・スターは今や、国民の恋人でした。

しかし、権力を握っていたのは制作会社です。
ユニバーサル、パラマウント、フォックスにワーナーブラザーズとコロンビアも加わりました。
会社は報酬や芸術表現の面で、俳優を厳しく管理しました。
自由を求めて反旗を翻した者もいます。
ピックフォード、チャップリン、フェアバンクスは、グリフィス監督と共に、1919年にユナイティッドアーティストを設立。
金儲けの手段ではなく、芸術としての映画に道を開く出来事でした。
しかし、大手スタジオには太刀打ちできません。
資金集めは難航し、制作は停滞します。
旗挙から5年間は、平均で年に5本の作品しか世に送り出せませんでした。
仕事上の同志だったフェアバンクスとピックフォードは、私生活でもパートナーになりました。
夫のいたピックフォードは、離婚によってキャリアを失うのでは??と心配します。
しかし、国民はフェアバンクスとの結婚を究極のハッピーエンドとして祝福。
ハリウッド発の大物カップルの誕生でした。
夫妻はビバリーヒルズに豪華な新居を構え、撮影隊を招集します。
一帯はすでに高級住宅街として有名でした。
ご近所さんはチャップリンでした。
通称ピックフェアと呼ばれた二人の邸宅には、ハリウッドのセレブ達が集うようになりました。

1920年には、世界の映画の大半がハリウッドで制作されました。
映画はアメリカ第4の産業となり、4万2000人以上を雇用していました。
映画産業に関わりたいという夢を持って、大勢がハリウッドに押し寄せました。
ロサンゼルスの人口は、1920年代に倍増し、アメリカ第5の都市へと成長します。
住宅地が広がっていきます。
1923年、大きな資材を丘の上に運ぶ人々・・・新興住宅地を宣伝する高さ15mの巨大看板を作るためです。
費用は2万1000ドル・・・現在の30万ドル相当でした。
4000個の電球が浮かび上がらせたのは、HOLLYWOOD LANDの文字・・・
一次的な広告の予定でしたが、1949年にLANDの4文字が取り払われ、今もこの地のシンボルであり続けています。
1920年代初頭、ハリウッドほど自由奔放な町はありませんでした。
スクリーンの中にも外にも怪しげな雰囲気が漂うようになりました。

そして1921年9月・・・事件が起きます。
大人気のコメディアン、ファッティー・アーバックルが、強姦殺人の罪で逮捕されたのです。
被害者は、女優ヴァージニア・ラッペでした。
アーバックルは、サンフランシスコの高級ホテルでのパーティーの後、犯行に及んだとされます。
ハリウッド初のセックススキャンダルを受け、業界はアメリカ映画制作配給業者協会を創設。
共和党の政治家ビル・ヘイズを初代会長として招きました。

ヘイズは、プロダクションコードと呼ばれる倫理規定を導入します。
しかし、実態は掛け声にとどまり、規定に従わせる権限は、ほとんどありませんでした。
ハリウッド流のパーティーは終わりませんでした。
映画は古いモラルを打ち破るための大胆な挑戦でもありました。
ラブシーンの撮影は、監督の腕の見せ所・・・セクシーな魅力を前面に押し出す俳優も登場します。
ルドルフ・ヴァレンチノ・・・別名、ラテンの女たらしと呼ばれたスターです。
ヴァレンチノは、1926年胃潰瘍が原因で31歳と言う若さで世を去ります。
ファンは悲しみにくれました。
遺体はニューヨークで3日間安置され、何千人もがスターの死を悼みました。
1927年には、1週間にアメリカ人の半数にあたる5700万人が映画館を訪れました。
需要に応え、各地に映画館が急増します。
ロサンゼルスのハリウッド大通りには、興行師シド・グローマンが200万ドルを投じたチャイニーズ・シアターが登場。
スターが劇場前の歩道に、手形足形をつける伝統は、この時始まりました。
第1号はダグラス・フェアバンクスと、メアリー・ピックフォードでした。
同じ年、フェアバンクスとピックフォードは、ハリウッドの伝統ある組織の立ち上げにも参加。・・・画芸術アカデミーです。
1929年から始まったアカデミー賞授賞式は、最も華やかな映画イベントとなり、受賞者に与えられるオスカー像と共に、世界に知られるようになります。
映画業界は、活気に満ち溢れていました。
さらにこの時、映画を根本から変える革命が起ころうとしていました。

1927年、ニューヨークのタイムズスクエア・・・
革命の瞬間に立ち会おうと、ワーナー劇場に詰めかける人々・・・世界初の長編トーキー映画「ジャズシンガー」のプレミア上映です。
アル・ジョンソンの記念すべき第一声に、観客は大興奮しました。
トーキーの登場で、映画の作り方はがらりと変わりました。
音声を拾うため、撮影場所は屋内の特設スタジオに変わりました。
かつて活躍した大掛かりなセットは、もはや使われることも無くなり、取り壊されました。
トーキー映画の名脇役は、サイレント時代からMGMのトレードマークだったレオ・ザ・ライオンです。
何頭ものライオンが、レオ役を務めてきましたが、最も有名なのはジャッキーでした。
1927年、ジャッキーは特別仕様の飛行機で、MGMの宣伝ツアーに出ました。
ところが、サンディエゴを飛び立った5時間後、飛行機はアリゾナの山中に墜落、パイロットは救助を求めに行き、ジャッキーは4日間残されたサンドイッチを食べて生き続けました。
MGM幹部が真っ先に聞いたのは、「ライオンは無事か?」と言う言葉でした。
事故は宣伝となり、ジャッキーは幸運のライオンと言われ大いに甘やかされます。
1928年、その声が初めて劇場に轟きます。
トーキー映画の象徴でした。
トーキーの到来と共に華麗な変身を遂げたのが、元コーラスガールのルシール・フェイ・ルスールです。
テキサス出身のルシールは、南部訛りを無くすため懸命に努力します。
彼女の名前の響きが気に入らなかったMGMは、雑誌で新しい名前を公募、賞金は1000ドルでした。
新しい名前は、ジョーン・クロフォード・・・MGMは、その貧しい生い立ちを隠して、新しいプロフィールを作ります。
1929年、彼女はダグラス・フェアバンクスの息子と結婚し、ハリウッドのセレブの仲間入りをしました。

MGMの幹部ルイス・B・メイヤーは、莫大な儲けを産むスターたちを徹底的に管理します。
1930年代には、60人以上のスターと契約し、MGMはハリウッドの中心的存在となりました。
映画会社は養成学校を作り、新たなスターの発掘に努めます。
授業の様子を撮影し、プロモーションにも利用しました。
俳優の卵たちが、カメラの前でトレーニングを受けます。
女性たちは完璧なレディーを演じるように求められます。
歩き方講座もありました。
キスの練習も・・・映画会社は自分達が求める俳優を育てます。
スターの生活は優雅でした。
俳優たちがニュース映画に登場する時は、常に映画会社が万全な体制をとっていました。
1937年、アメリカ人の平均所得は1800ドルでした。
映画スターはこの額をはるかに上回り、クラーク・ゲーブルの年収は28万ドル余り・・・しかし、アメリカで最も高額な報酬を手にしていたのは、MGMのボス、ルイス・B・メイヤーで、その額は110万ドルでした。

憧れの的ハリウッドは、その煌びやかさゆえに議論の的にもなります。
メイ・ウエスト主演の「妾(わたし)は天使ぢゃない」のプレミア上映が1933年にありました。
ウエストは、悪名高き女優でした。
舞台での過激な演技でわいせつ罪で逮捕され、禁固10日の刑を受けました。
保守的な宗教団体は、ウエストの映画の性描写に拒否反応を示し、セックスと暴力を賛美する映画界の傾向を非難します。
ハリウッドはこの批判をかわそうとしました。

倫理規定の適用を最初に受けたのが1934年の「ターザンの復讐」でした。
ジョニー・ワイズミュラーとモーリン・オサリバンの代役が及ぶシーンは裸が問題となりカットされました。
検閲の時代が、この後30年続きます。
業界は方向転換をし、もっと無邪気で愛らしいスターを求めることにしました。

わずか5歳のシャーリー・テンプルです。
映画「歓呼の嵐」で歌とダンスを披露し、アメリカ人の心をつかみました。
フランクリン・ルーズベルト大統領は、この少女が大恐慌で落ち込んだ人々を元気づけるのを見てこう言いました。
「この国にシャーリー・テンプルがいる限り、私たちは大丈夫だ」
映画スターとして初めて大統領の誕生日に歌も歌いました。

1939年には、365本の映画が公開され、週に8000万枚のチケットが売れました。
そのほとんどが、映画史上空前の大ヒット、「風と共に去りぬ」のチケットでした。
プロデューサーのデイヴィッド・セルズニックは、キャスティングに2年を費やします。
ポーレット・ゴダードを含む32人がスカーレット・オハラ役の候補にあがりました。
最終的にこの大役を射止めたのは、イギリス人のビビアン・リーでした。
レット・バトラー役にはクラーク・ゲーブル、アシュレー役にはレスリー・ハワードが決まりました。
ビビアン・リーと、オリビア・デ・ハビランドがセルズニックと共にアトランタに姿を現すと市民は熱狂。
しかし、最も大きな歓声を浴びたのは、ハリウッドのKing・・・クラーク・ゲーブルでした。
ジョージア州知事は、ワールドプレミアの日を市の休日とし、100万人以上がお祭りに加わります。
スターのパレードを見ようと、30万人が通りを埋め尽くしました。
しかしこの作品も、「国民の創生」と同じく人種の問題を浮き彫りにします。
プレミア会場には、奴隷のマミー役ハティ・マクダニエルをはじめ黒人俳優の姿はありませんでした。
劇場には白人しか入ることが許されなかったのです。
人種差別は、アメリカ全土におよんでいました。
アカデミー賞授賞式では、セルズニックが頼み込み、やっとハティ・マクダニエルの出席が許されます。
しかし、彼女は何処にも写っていません。
他の候補者との同席は許されず、遠く離れた席があてがわれていたのです。

風と共に去りぬは、過去最多の8部門を受賞、ハティ・マクダニエルは助演女優賞に輝きました。
アフリカ系アメリカ人として初めてのことです。
人種差別は、この後何十年もハリウッドに残り続けます。
さらに、ハリウッド自体にアメリカへの忠誠度が問われる時代がやってきます。

第二次世界大戦さ中の1942年、ハリウッドスターは国民へ戦争への参加を呼びかけました。
ジェームズ・スチュアートもその一人です。
当初は痩せすぎのため合格ラインにたらず、スパゲティとステーキとミルクセーキで体重を増やしました。
まだ基準より数十グラム軽かったものの、軍医を説き伏せて合格。
陸軍航空軍の爆撃機パイロットになり、国民の入隊を呼びかけます。
徴兵の年齢を超えていたクラーク・ゲーブルも、妻を飛行機事故で亡くしたことをきっかけに入隊します。
名監督ジョン・フォードも、戦争を後方支援しました。
海軍への入隊が夢だった彼は、1941年、映画製作スタッフを集め独自に海軍予備隊を結成します。
政府の要請を受け、連合軍に従軍してドキュメンタリー映画や訓練用の映画を撮影しました。
1942年、ミッドウェー島のアメリカ軍基地の撮影に赴きます。
日本軍の攻撃で負傷しながらも、フォードは撮影を続行!!
海兵隊の兵士たちが祈るようにアメリカ国旗を掲げる様子を捕らえ、アカデミー賞のドキュメンタリー部門で受賞しました。

本国でもハリウッドのスターたちが一役買います。
メアリー・ピックフォードは、ピックフェアと言われた自宅を軍人に開放、町にはハリウッドキャンティーンをオープンします。
ベティ・デイビスとジョン・ガーフィールドが1942年に開いた伝説の店で、連合国の軍人なら誰でも利用できました。
軍服が入場券替わりで、店内のものはすべて無料でした。
リンダ・ダーネルなど、有名俳優を含む3000人のボランティアが食事を出し、客をもてなしました。
スターとダンスもできました。
ハリウッドで初めて成功したドイツ人俳優マレーネ・ディートリッヒの姿も・・・。
ナチスからの帰国要請を拒否して、1939年アメリカの市民権を得ていました。

このキャンティーンは、1945年までに300万人の兵士をもてなし、コーヒー900万杯とタバコ300万箱を提供しました。
しかし、まもなくハリウッドの愛国心に、疑いの目が向けられるようになります。
冷戦時代、アメリカは内部の敵に怯えていました。
1947年、アメリカ下院の非米活動委員会が国内の共産主義者の調査と摘発に乗り出しました。
ハリウッドは、赤の温床と見なされ、標的にされます。
委員会はワシントンで9日間にわたる公聴会を開き、ハリウッドの映画人40人以上に証言を求めました。
映画俳優組合の代表だったロナルド・レーガンは、ハリウッドの潔白を断言します。
委員会は、共産主義との関係が疑われる人の名を上げるように迫りましたが、一部の脚本家と映画監督は、憲法上の権利の侵害だとして協力を拒みます。

委員会に逆らった10人の映画人は、ハリウッド10と呼ばれ、大きな代償を払います。
業界のブラックリストに乗せられ、1年の禁固刑まで受けました。
ハリウッド10への冷遇に反発する俳優もいました。
ハンフリー・ボガートやローレン・バコール・・・俳優たちがワシントンに集まり抗議の声をあげました。
ハリウッドを代表するスター、チャールズ・チャップリンも憂き目を見ます。
非米活動委員会は、アメリカの市民権を取得しようとしないチャップリンの国外追放を求めたのです。
チャップリンは委員会に電報を送りました。

”私は共産主義者ではない
 平和の使徒だ”

委員会は引き下がったものの、FBIは捜査を続けました。
1952年、63歳のチャップリンは、映画「ライム・ライト」のプレミア上映のため、21年ぶりにイギリスに向かいます。
大歓迎の祖国とは対照的に、第二の祖国アメリカは、チャップリンの再入国を阻もうとします。
これに傷ついた俳優は、この後、20年間アメリカに戻ることはありませんでした。
ひとつの時代の終わりでした。

そして、ハリウッドは新しい脅威に直面します。
強力なライバルの登場です。
1948年、連邦最高裁は、パラマウントをはじめ多くの映画制作会社に映画館の所有を禁じる判決を下しました。
市場の独占が崩れました。
制作会社はこれまで頼りにしていた手堅い集客手段を失い、競争にさらされます。

新興勢力であるテレビ業界には、絶好のチャンスでした。
ベビーブーム世代が結婚し、郊外に移ると、お金と時間のかかる映画館からは足が遠のきます。
1950年代の半ばには、アメリカ人の半数がテレビを所有、逆に映画館の客入りは戦時中に比べ半減します。
映画制作会社は勝ち目のない競争よりも、流れに乗ることを選びました。
ニュースよりも娯楽番組が増えるにつれ、ハリウッド製の作品がテレビにあふれるようになります。
俳優たちもテレビに進出します。
大ヒットドラマ「アイ・ラブ・ルーシー」には、毎週4000万人がチャンネルをあわせました。

映画の復権には、新たな客層の開拓が必要でした。
お金を落とすようになったティーンエイジャーをターゲットに、ハリウッドは新世代の俳優を生み出します。
マーロン・ブランド、ジェームズ・ディーン・・・
ディーンは、スクリーンの中でも外でも異端児でした。
クリーンなイメージを保ちたいワーナーブラザーズは、安全運転を呼び掛ける公共CMに彼を出演させます。
数週間後、彼は事故に遭い24歳で亡くなります。

ハリウッドは、海の向こうにも売り込みます。
セックスシンボルとして一世を風靡したマリリン・モンローは、アメリカの象徴となり人気を博します。
1956年にはプレミア上映会のためにロンドンを訪れ、ハリウッドの女王と即位して間もないエリザメス女王が対面しました。
1962年、J.F.ケネディ大統領の誕生日を独特の歌声で祝いました。

煌びやかなスターを生み出すハリウッドの力は健在でした。
観客の争奪戦が続く中、映画にも付加価値が求められるようになります。
1952年、映画「これがシネラマだ」のプレミアム上映にスターが顔を揃えます。
ジョーン・クロフォード、ロック・ハドソン、ジョン・ウェインも最先端のワイドスクリーン・・・シネラマを体感しました。
湾曲した横長のスクリーンに、三台の映写機で映します。
観客はまるで実際にジェットコースターに乗っているような臨場感を味わいます。

一方、はじめてシネマスコープで撮影されたのが、1953年の「100万長者と結婚する方法」です。
1代の映写機で、ワイドスクリーンへの投影が可能になりました。
こうした技術を駆使して、ハリウッドはテレビに真似のできない映画ならではの作品作りを目指します。
「国民の創生」や「風と共に去りぬ」の流れをくんだ巨額の制作費をかけた壮大な作品が人気を呼びます。
「十戒」は、エジプトで撮影されました。
セットの建設に1600人が動員され、エキストラの数は1万2000人、1300万ドルという空前の制作費が投じられましたがその甲斐はありました。
興行収入は制作費の10倍にあたる1億2200万ドル以上、パラマウントの作品で最高を記録したのです。
ニューヨークでのプレミア上映には、スターが勢ぞろい・・・ハリウッドを象徴する華やかさに溢れていました。
夢の工場ハリウッドは、サイレントからトーキーへ、戦時から平時へと時代に適応して生き延びてきました。
その魔法がとけない限り、これからもアメリカ文化の中心にあり続けることでしょう。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

『カサブランカ』はなぜ名画なのか 1940年代ハリウッド全盛期のアメリカ映画案内 [ 福井次郎 ]

価格:2,200円
(2020/3/10 07:45時点)
感想(0件)

ハリウッド100年史講義 夢の工場から夢の王国へ (平凡社新書) [ 北野圭介 ]

価格:836円
(2020/3/10 07:46時点)
感想(0件)

アメリカの情報機関は、最近2000ページに及ぶ極秘文書を公開しました。
20世紀最大の喜劇王チャールズ・チャップリンの人物ファイルです。
命じたのは、J・エドガー・フーバー・・・FBI史上最強の長官は、チャップリンを共産主義と危険視していました。
私生活も徹底調査、電話の盗聴、取り巻きの素行調査、女性関係、セックスの監視、作品の分析・・・
1922年から78年まで50年以上に及んだ容赦ない調査の記録です。

チャップリンとフーバーの対決には、長い間アメリカを分断してきたリベラルと保守の対立構造が伺えます。
なぜアメリカで人道主義者のチャップリンが批判の的になったのでしょうか?
どうして言論の自由は蔑ろにされたのでしょうか?

1910年代・・・
20代半ばだったイギリス人俳優・チャップリンは、所属する劇団の巡業でアメリカを訪れました。
その頃、ハリウッドでは、映画産業が急成長を遂げていました。
まだ小さな制作会社の集まりでしたが、その一つのキーストンスタジオがチャップリンを雇い、短編のトーキー映画に出演させます。
チャップリンは、すぐに人気をさらいます。
奇妙ないでたちでユーモアたっぷりの浮浪者の姿が、大いに受けたのです。

チャップリンはタイミングのいい男で、映画産業が花開こうとするときにハリウッドにやってきました。
放浪者は、大きすぎる服に、だぼだぼのズボン、しかし、山高帽でステッキ、フロックコートを着ています。
下半身はみすぼらしいのに、上半身は上流階級のよう・・・。
チャップリンが自ら選んだこの衣装は、後の映画での基本的なスタイルがすでにできています。
質素でありながら威厳を供えている・・・。

こうして、トレードマークの放浪者が誕生しました。
チャップリンは、自ら監督も行うようになり、もっと自由な環境で映画を作りたいと考えるようになりました。
チャップリンは、いくつもの映画会社を渡り歩き、70本以上作成します。
数年で莫大な富を築きます。
1917年には、自身のスタジオの建設に着手しました。
彼が好んで制作したのが風刺映画でした。
金持ちの紳士が、顔にパイを投げつけられたり、警察官がひどい目に合ったりします。
チャップリン演じる放浪者は、社会で虐げられている人々の代弁者になっていきます。
彼が、劇中で繰り広げる権力者への些細な抵抗が、庶民の共感を詠んだのです。
チャップリンの風刺作家としての名声は高まっていきます。

チャップリンは、放浪者を労働者や移民の一人として描きました。
生涯で様々な役を演じますが、貧しい生まれの人物という部分では共通していました。
彼は、虐げられている弱者のことをよく知っていたのです。
彼自身の貧しい生い立ちを考えれば当然のことでした。
子供の頃に感じた不公平感を・・・

1917年公開の映画{チャップリンの移民」は、アメリカの移民政策への批判が込められていました。
保守派の論客は、チャップリンの映画を反体制的だととらえるようになります。
アメリカのピューリタン的な価値観を、脅かしかねないと見たのです。

第一次世界大戦でアメリカ兵が戦地へ赴く中、チャップリンはアメリカの市民権を拒んだことで批判されます。
チャップリンは、「自分は世界市民だ。国籍は生まれた国の物だけあればいい。」と言いました。

一方、チャップリンは、戦争資金を調達するための公債の発行を支援します。
政府への支持を訴え、全米を回りました。
さらに、公債と題したプロパガンダ映画を製作します。
しかし、公開時にはすでに休戦が宣言されていました。

1920年代になると、アメリカは飛躍的に成長を遂げます。
大手映画会社は、700本を超えるサイレント映画を世界中で公開しました。
チャップリンは、作家自身による映画配給会社「ユナイティッド・アーティスト」を作ります。
作品の内容により強い権限を持つようになったチャップリンは、映画「キッド」では固辞の問題を取り上げました。
チャップリン演じる放浪者が、ニューヨークの街で孤児と出会うストーリーです。
チャップリンは、人々に夢と希望を与えてきたアメリカが、一方で貧しい孤児たちの存在を無視してきた実態を描いています。
彼は、様々な手法で批判してきたことです。
ワシントンではロシアの革命から、共産主義の思想の広がりを懸念していました。
若きフーバーの任務は、要注意人物の監視でした。
フーバーは公務員でした。
彼は大戦中から、政治犯の監視の担当をしていたのです。
フーバーは、黒人を蔑視する人種差別の塊で、同性愛も嫌悪していました。
そして何よりも反共主義者でした。
国際的な秘密組織が存在し、欧米各国を弱体化させ社会主義革命を狙っているという妄想に取り憑かれていました。
1919年、フーバーは、共産主義運動の指導者たちを国外追放します。
少しでも社会主義やリベラルな思想を持つ者は、コミュニズムの支持者だと疑われました。
マスメディアで反体制の言動をする者も標的になります。
知識人や芸術家も疑われました。
一般市民に危険な思想を植え付けていると思われたのです。

フーバーは、ハリウッドに捜査員を潜入させ、監視下におきます。
ゴシップ誌も重要な情報源でした。
フーバーは、チャップリンファイルを開設、50年で2000ページに及ぶ記録の始めは、俳優ミルドレッド・ハリスとの結婚です。
当時、ミルドレッドは16歳、スキャンダルを畏れたチャップリンは、1918年結婚します。
子供は生後すぐに亡くなり、結婚はすぐに破綻・・・
妻が離婚を申し立て、ほどなく認められました。
1921年、チャップリンは、長期のヨーロッパツアーに出かけます。
ロンドンやパリで大歓声で迎えられました。
1924年、チャップリンは、俳優のリタ・グレイと結婚し、二人の息子を設けますが、結婚はうまくいかず、リタは幼い子供を連れて家を出ました。
その後、リタはチャップリンの不貞や暴力を訴え、離婚を申し立てます。
裁判の末、チャップリンが多額の示談金を支払うことで離婚が成立します。

第1次世界大戦後のアメリカは、禁酒法が施行され、保守主義が台頭した時代でした。
しかし、チャップリンはそんな時代をあざ笑っていました。
彼の映画は、多くの良識あるアメリカ人にとって不快に映ることもありました。
一方で庶民は、チャップリンの映画を称賛しました。
権力者がコテンパンにされる姿を見て大喜びしたのです。

厳格なキリスト教徒たちは、チャップリンの映画のボイコットを呼びかけます。
道徳的な観点から映画に懸念を示す人が大勢いて、キリスト教の団体が政府に映画の検閲をするように求めていました。
そのため、多きな映画会社が、MPPDAを設立し、自主的な倫理規定を作ります。
初代会長は、郵政長官だった共和党の政治家ウィル・ヘイズです。
協会は、まず俳優たちに教会に従うという誓約書への署名を義務付けました。
しかし、自分の配給会社を持っていたチャップリンは、縛られることはありませんでした。

チャップリンは、次第にFBIからにらまれるようになります。
1922年8月、フーバーは、特別捜査官のホプキンスに調査を命じます。
ホプキンスは、チャップリンがロサンゼルスの自宅で開催したパーティーについて報告しました。
それによると、招待客の中には、共産主義に共鳴する人物や、急進主義者、労働組合の指導者も含まれていました。
ホプキンス捜査官は、チャップリンはMPPDAのヘイズ会長を批判し、我々は如何なる検閲にも反対すると明言したと言い、トイレの扉には「ようこそヘイズ」と書かれたペナントがあったと報告しています。
フーバーは、報告書をヘイズに送ります。
FBIとMPPDAは、映画に含まれるプロパガンダを取り締まるために協力関係を築き、この関係は1945年前まで続きました。

マスメディア・FBI・MPPDAの圧力を前に、チャップリンは四面楚歌の状態でした。
1927年、チャップリンの映画の内容に、外部から更なる圧力がかかり、更なる規則が追加されました。
映画に含んではいけない11の要素と扱いに注意を払うべき25の項目のリストが発表されました。
ヌードは禁止、宗教は敬意をもって扱う、犯罪や不貞行為を煽らない・・・
MPPDAには、違反者を罰する手段がありませんでした。
映画の製作者たちは、一分でもリストを守ればいいと都合よく解釈をし、良心と興行収入を守りました。

華やかな1920年代は悲劇で幕を閉じます。
1929年10月24日、株価が大暴落!!
大恐慌となります。
人口の1/4が職を失い、多くの人が路頭に迷いました。
FBIにとって、経済危機であると同時に、政治的な危機でもありました。
国内の全ての反体制分子を監視しろという命令が秘密裏に出されました。
極右のメンバーと共産主義者への調査活動が強化されました。

映画「街の灯」は、金融危機がもたらした労働者たちの過酷な日常を書いています。
チャップリンは、脚本を恐慌が始まる前から書いていました。
劇中では酒飲みの大富豪と放浪者との奇妙な関係が描かれ、庶民に対する支配階級の冷淡さが表現されています。
この映画の製作中、新たな問題に直面します。
トーキーの登場です。
映像と音声と同期したトーキーは、大手映画会社では数年前から制作されていました。
しかし、チャップリンは、一時的な流行に過ぎないと考えていました。
チャップリンは、放浪者はしゃべれない・・・しゃべった瞬間、死んでしまう・・・ジェスチャーを通して意思疎通することに面白さがあると言っていました。
サイレント映画では興行的に失敗すると言われても、チャップリンはトーキーを嫌いました。
チャップリンの「街の灯」は大ヒットし、賭けに勝ちました。
1933年になると、映画業界はカトリックの団体から圧力を受けるようになります。
これに対応する為に、MPPDAはジョセフ・グリーンを検閲の責任者に据えます。
彼は何より道徳を重んじました。
彼は最高で2万5000ドルの罰金を科す権限を与えられたので、制作者たちは規則を守らざるを得なくなります。
これが、ハリウッドの転換点となりました。
制作者たちは規則に従うか、抜け穴を見つけるか、判断を迫られます。
チャップリンにとっては受け入れがたいことでした。

同じころ、ルーズベルト大統領が、ニューディール政策を打ち出します。
経済を復興させ、失業者たちを無くす目的でした。
チャップリンは、ルーズベルトへの支持をラジオで訴えます。
公正な社会を求める彼の思いが、次の作品「モダン・タイムス」につながります。
当時、地方の人々が、大挙して大都市に移り住みましたが、生活は非常に貧しいものでした。
この窮状を目の当たりにしていたチャップリンは、大手自動車工場を訪問したのち、モダン・タイムスを制作します。
そして、効率化を求める会社の管理体制や、分業化、機械化を批判しました。
労働者を機械やロボットのように変えてしまう資本主義社会を痛烈に皮肉ったのです。

チャップリンは、ポーレット・ゴダードを起用、その後二人は10年近くプライベートでもパートナーとなります。
彼女はチャップリンの生活に多くの幸せをもたらしました。
チャップリンは、彼女に会った瞬間に、モダン・タイムスにピッタリだと思いました。
映画が封切られると、チャップリンはゴダードと一緒に世界旅行に出かけます。
1936年、二人は密かに結婚しました。
映画は大成功を収めましたが、内容は共産主義的だと非難する批評家が大勢いました。

チャップリンは抗議します。
この映画は共産主義でも資本主義でもない・・・中立だ!!
ナショナリズムの機運が高まる中、中立を貫くのは不可能だということを、チャップリンはわかっていませんでした。
それまでハリウッドの共産主義者は少数でしたが、1930年代半ばに変化が起こります。
アメリカ国内の共産主義者の数も倍増しました。
フーバーは、映画業界が反体制派に対抗するように手をまわします。
フーバーはFBIの後方映画の制作を指揮、その活動がいかに優れているのかをアピールします。
さらに、FBI捜査官が主役の映画を作るように映画会社に働きかけました。
1935年の「Gメン」は、その一例です。

フーバーは、捜査官のネットワークを使い、チャップリンの収入や資産をつぶさに監視、多額の預金があることは確認できましたが、共産主義団体に寄付した痕跡は見つかりませんでした。
失望したフーバーは言いました。
「ロックフェラーのように大金を稼いでおきながら、資本主義を批判するのは間違っている」

当時の世界情勢に触発され、チャップリンは新作「独裁者」に取りかかります。
彼は全体主義の台頭に恐れを抱きました。
チャップリンは、本質的に常にヨーロッパ人でした。
彼は独裁者の構想を練り始めます。
そして、2年という歳月をかけてヨーロッパ情勢を分析し、300ページに及ぶ作品を書きあげました。

本当にすごい偶然です。
世界で最も嫌われた男と、最も愛された男が、ほとんど生き写し・・・
誕生日は数日違い、年齢も、身長も、体つきも同じ・・・
髭の大きさは違っていましたが、しかし、ヒトラーの髭は次第に縮んでいって、チャップリンそっくりになっていきます。
ナチス・ドイツがポーランドに侵攻した1939年9月、チャップリンはハリウッドで撮影を開始します。
チャップリンは独断でこの映画を作ることを決め、自分のたくわえを投じました。
家族も制作会社も映画の制作には反対でした。
チャップリンは、殺しの脅迫まで受けていましたが、経済的なリスクを含め、あらゆる覚悟をしていました。
人々の連帯や、人権が尊重される世界を信じ、平和主義を訴えようとしました。

独裁者は、1940年秋に公開されると、たちまち人気に・・・
しかし、終盤の平和を訴えるスピーチには賛否両論がありました。
新聞は、チャップリンが共産主義を宣伝していると批判します。
映画を見たルーズベルト大統領はナチス・ドイツを支持する国々との間で緊張が高まるのではないかと心配します。
当時アメリカは、ドイツに宣戦布告しておらず、孤立主義の立場をとっていました。
市民の多くは、アメリカの参戦に反対でした。
ルーズベルトは、FBIの役割を強化します。
ナチスを支持するドイツ系アメリカ人協会の団体を、監視下に置くよう命じます。
1940年以降、FBIは、国内の諜報活動において軍を凌ぐほどの力を持つようになります。
1941年12月、日本の真珠湾攻撃をきっかけに、世論が変わります。
アメリカ人の大半が、参戦を支持するようになりました。
ソビエト連邦が、連合国側についたことで、アメリカの共産主義者への姿勢も変わります。
内なる敵からナチスと戦う戦友となったのです。
ルーズベルトは国民を一つにすることに専念しました。

大統領はハリウッドにも協力を求めます。
政府、軍、映画会社は一丸となって愛国心を鼓舞する作品を作りました。
チャップリンは、大統領の要請にこたえるだけではなく、ソビエト軍を支援すべきだと公に訴えました。
チャップリンは、ドイツが東部戦線を制したら、ヨーロッパは終わりだと思っていました。
ソビエトを支援する運動を、FBIは、共産党の隠れ蓑だと思っていました。
運動を支持したチャップリンも、共産主義者では??と疑われました。

1942年、チャップリンはロシア戦線を支援する集会でスピーチをするように当局から依頼されます。
求めに応じたチャップリンは、サンフランシスコの会場に向かいます。
そして、スピーチ冒頭「同志よ・・・!!」と、突然呼びかけ、聴衆を驚かせます。
まずいことにスピーチの内容をFBIが記録していました。
更にチャップリンは、オーソン・ウェルズらと共にニューヨークで開かれた集会に出席します。
主催したのはFBIが左翼としてマークしていた芸術団体で、開場のカーネギーホールの前では、共産主義に反対するデモが行われました。
ロシア戦線への支持を表明したことが、とどめの一撃になりました。
チャップリンは、大統領だけでなく連邦議会まで敵に回しました。

フーバーは、チャップリンを法廷に引きずり出すための証拠探しを続けていました。
1943年、俳優のジョーン・バリーが妊娠6か月で父親はチャップリンだと主張。
フーバーは、早速調査に乗り出しました。
報告書によれば、二人の出会いは1941年。
彼女はハリウッドに出てきたばかりでしたが、チャップリンにうまく取り入り、彼の映画で役をもらいました。
しかし、次第にジョーンの精神的不安定が明らかになります。
ある日彼女が泥酔状態で車の事故を起こします。
チャップリンは、ジョーンとの契約を解除し、その後しばらく彼女に会いませんでした。
報告書でフーバーが興味を示したのが、次のような一文でした。
1942年10月にチャップリンがニューヨークを訪れた際、ジョーンと一夜を過ごすために列車の切符を買い与えた。
フーバーは報告書にしるしを入れ「掘り下げるように」と記入。
マン法に違反している場合は、厳しく処罰するようにと指示しました。
マン法は、白人奴隷の売買を防ぐ目的で、1910年に施行された法律です。
州をまたいで女性を輸送し、売春などの不道徳な行為に当たらせることを禁じるものでした。
ホテルの請求書を手に入れたフーバーは、ついにチャップリンを追いつめる証拠を手に入れたと意気込みます。
フーバーは、職責を著しく逸脱してジョーンを説得し、チャップリンに対する訴訟を起こさせます。
さらに、彼女のために、自ら弁護士を雇いました。
1944年2月10日、裁判が行われ、報道陣が押しかけました。
チャップリンの弁護士は陪審員に訴えます。
「ジョーン・バリーは、いつでも被告の求めに応じたであろうに、わざわざ4500キロも一緒に旅をしたなんて、おかしいと思いませんか?」
チャップリンは無罪になりますが、これで終わりではありませんでした。
すぐに二つ目の裁判が始まります。
ジョーン・バリーが子供を認知するように訴えを起こしたのです。
しかし、血液検査で親子関係がないことが証明されます。
チャップリンは法廷で彼女とは2年間関係を持っていないと主張しました。
それでも裁判所は、チャップリンの姓を名乗ることを認め、チャップリンに養育費の支払いを命じます。

不当な判決に傷ついた彼を救ったのは、ウーナ・オニールの存在でした。
ウーナは、1943年6月、一連の騒動の渦中でチャップリンと結婚し、彼がこの世を去るまで支え続けました。
この頃チャップリンは、これまでで最もシリアスな作品を書き始めていました。
「殺人狂時代」です。
よく手入れされた口ひげを蓄え、オーダーメイドのスーツに身を包んだ紳士・ベルドゥーが、殺人を繰り返し、最後は処刑される物語です。

「一人を殺せば犯罪者だが、数百万人殺せば英雄だ」

チャップリンは、このセリフに裁判所への恨みを込めていました。
戦争が終わると状況が一変・・・アメリカとソビエトの間で冷戦が始まります。
マッカーシー上院議員が主導する赤狩りがあらゆる分野で吹き荒れ、特にハリウッドは大きな打撃を受けます。
殺人狂時代のメディア無家の試写会は惨憺たるものでした。
記者たちは映画の内容ではなく、チャップリンについて質問しました。

「あなたは共産主義者ですか?」
「私は共産主義者ではない。」
「ではなぜアメリカ市民にならないのですか?」

「チャップリンはアメリカの道徳的基盤を脅かしている
 彼の映画が若者たちの目に触れないようにしなければならない」byジョン・ランキン

ランキンは、司法長官にチャップリンの国外追放命令を出すように迫ります。
チャップリンは、下院非米活動委員会に召喚されました。
反体制的な活動を摘発するこの委員会は、1947年秋、ハリウッドの映画関係者聴聞会を開きます。
チャップリンは委員会にこう伝えます。

「喜んで出席するが、聴聞会の間中放浪者の姿でパントマイムする」

これにより、チャップリンは出席を免れることができましが、多くの映画関係者はそうはいきませんでした。
委員会は反体制的で共産党との関係が疑われる人物をハリウッド10に絞ります。
俳優のハンフリー・ボガート、ローレン・バコール夫妻などが、友人たちを助けようと立ち上がります。
映画会社はボガートにハリウッド10の支援をやめなければ俳優としてのキャリアを失うぞと警告しました。
チャップリンは、委員会に逆らい、友人らを擁護します。
アイスラ―は国外追放となり、チャップリンは共産主義者の味方をしたと責められました。
証言を拒否した映画関係者は、理解侮辱罪に問われ、禁固刑に処せられました。
大手映画会社の幹部たちは、ニューヨークで対策に追われ・・・
今後は共産主義者でないと誓ったものしか雇わないことで一致しました。
ブラックリストに載った者は、潔白を証明する為に仲間を売ることを余儀なくされました。
チャップリンは、非米活動委員会や映画業界の圧力からは逃れることができましたが、退役軍人やカトリック団体からの追及は続きました。
彼等は、ハンス・アイスラ―との関係を、さらに調査するように求めていました。

1948年、ロンドンでの撮影を計画していたチャップリンは、帰国の際に必要な再入国許可を申請しました。
すると移民局から4時間にわたって尋問を受けます。
人種的なルーツは??・・・
女性関係はどうなっているのか??
なぜアメリカの市民権をとらなかったのか?
戦時中にソビエトを支援したのはなぜか?
チャップリンは答えました。
「ソビエトを支援したのは彼らがいなければナチスが勝っていたからだ。
 私は進歩的な民主主義者であって、社会主義者ではない・・・
 人道的な愛国者で、世界市民だ
 私は常にアメリカを愛してきた」
尋問の末、チャップリンの再入国が認められますが、後日、税務当局は一変して200万ドルの保証金の支払いを命じてきました。
チャップリンは、イギリスへの渡航を中止し、次回作をハリウッドで撮影することを決めます。
チャップリンがイギリス行きを計画したのは、新作「ライムライト」の世界観が、自分が育ったロンドンの貧しい町だったからです。
チャップリンは、何回もオーディションを行い、イギリスの舞台俳優クレア・ブルームをヒロインに抜擢します。
ハリウッドで全くの無名でした。

映画が完成すると、試写会の準備のためにロンドンに向かいます。
1952年9月、チャップリンは妻と4人の子供を連れ、アメリカを離れました。
しかし、出港から2日後、悪い知らせが・・・
司法省が再入国許可を取り消し、チャップリンがアメリカに戻った場合は拘束することを通達したのです。
この措置は、フーバーの調査報告に基づき、以前から決められていたことでした。

チャップリンは唖然としつつも立ち向かう決意をします。
40年近く暮らし、情熱や愛情を注いできた国から追放される・・・到底受け入れられないことでした。

ロンドンでチャップリンは大歓迎を受けます。
ライムライトは、試写会で絶賛されます。
チャップリンはイギリス王室の面々にも謁見しました。
その後、パリやローマでも熱烈な歓迎を受けます。
もう二度とアメリカへと戻らないと決心したチャップリンは、妻にアメリカにおいてきた財産を整理するように銘じました。
アメリカ国籍を持っていたウーナはアメリカに戻り、家やスタジオを処分し、スタッフに別れを告げ、銀行から預金を引き出し、書類を持ってチャップリンの元へ戻りました。

1953年、チャップリン一家は、スイスに移り住み、レマン湖を望む場所に居を構えます。
チャップリンは疲れ切っていました。
静かな場所で安心して映画を作り続けたかったのです。
一家は幸せに暮らしました。
そしてさらに、4人の子供に恵まれました。
妻のウーナは、アメリカの市民権を放棄します。
チャップリンは自分を追放した人々を許すつもりはありませんでした。

1954年に制作が始まった「ニューヨークの王様」では、チャップリンの息子マイケルがFBIに追われる夫婦の子供を演じました。
長年の敵フーバーとチャップリンの対立のパロディでした。
赤狩りがテーマで、自分を追放したアメリカを痛烈に批判しました。
フーバーは、チャップリンがアメリカを離れた後も、しつこく追い続けます。
本当はユダヤ人ではないかと、イギリスの情報機関に問い合わせたり、スイスの情報機関から交友関係や行動について報告を受けたりしていました。
しかし、ベトナム戦争が始まると、チャップリンの帰国待望の声が高まります。
1960年代に入ると、フーバーの勢いにも陰りが・・・執拗な反共攻撃や部下へのパワハラ、政治家への脅迫、マフィアとのつながりなど、次第に明らかになり、そのキャリアを泥の中に終えたのです。
チャップリンは、フーバーとの長きにわたる戦いを終えるがごとく、20年ぶりにアメリカに帰還・・・至る所で大歓迎を受け、ニューヨークではカギを贈呈されました。

アカデミー賞授賞式で、名誉賞を授与されたチャップリンは、12分間の熱烈な拍手喝さいを浴びます。
それは、彼を追放していた映画界からの心からの謝罪でした。
1か月後、フーバーは心臓発作でこの世を去ります。
彼は、戦後アメリカの暗い秘密を墓場まで持って行きました。
1975年、チャップリンはエリザベス女王からナイトの称号を受けます。
1977年のクリスマスの日、天国に旅立ちました。
庶民の味方で誇り高き自由人の放浪者と共に・・・。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

チャップリン Blu-ray BOX

新品価格
¥33,114から
(2020/1/16 20:37時点)

チャップリン自伝: 栄光と波瀾の日々 (新潮文庫)

新品価格
¥1,089から
(2020/1/16 20:38時点)

明治時代・・・
公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵・・・旧大名や公家と共に、維新に功績のあった人たちも華族に加わり、5つの爵位が授けられました。
莫大な資産、国を動かす権力、高貴な家柄・・・新しい上流階級が誕生します。
明治時代、日本がヨーロッパ先進国並みの近代国家に変貌する為に、なくてはならないものとして家族は存在しました。
しかし、大正・昭和と、存亡の苦悩に見舞われます。
その繁栄と流転は・・・??

新春に皇居で行われる歌会始は、天皇・皇后両陛下をはじめ、皇族、一般からの応募で募った歌を詠みあげる儀式です。
その進行を担うのは・・・宮内庁式部職から委託された人たちです。
どんな基準で選ばれているのでしょうか?
共通点は?名前は坊城・園池・櫛笥・近衛・久邇・醍醐・水野・・・やんごとなきお名前です。
遡れば、元伯爵家、子爵家、子爵家、公爵家、侯爵家、子爵家・・・かつての華族でした。
華族とは、明治時代に作られた特権的上流階級・・・
きらびやかなドレス、浮世離れした生活、莫大な資産、黄金の日々・・・
華族は庶民の憧れの的でした。
そして、その遺産は、今も引き継がれています。
しかし、大正から昭和にかけて、没落が始まります。
オークションで家宝を売り始めました。
一体何が起こったのでしょうか??
そしてさらに過酷な運命が待っているのでした。

明治時代に華族の婦人がまとっていた舞踏会用のドレス・・・
今から130年前の彼女が向かったのはかの鹿鳴館でした。
上流階級の男女が集い、夜な夜な饗宴が催されました。
明治16年、政府によって建てられた鹿鳴館は、外国からのお客を接待するための社交場でした。
当時の日本は、欧米の国々と対等に渡り合える近代国家になろうと躍起になっていました。
一刻も早く風俗や習慣を西洋風に・・・
その使命を背負って鹿鳴館で踊っていたのが、華族の紳士淑女でした。
優雅なダンスと美貌で、鹿鳴館の花とうたわれた女たちがいました。
大山捨松・・・侯爵・大山巌夫人・鹿鳴館で結婚式を挙げる
戸田極子・・・伯爵戸田氏共婦人・公家岩倉具視の三女
陸奥亮子・・・伯爵・陸奥宗光婦人・ワシントン社交界の華


nabe2

洗練されたマナーと振る舞いで鹿鳴館を彩った貴婦人たち・・・
その中で、ひときわ見事なダンスを披露し、華族に評判となったのが
・鍋島栄子侯爵夫人・・・イタリア全権公使を務めた鍋島直大侯爵夫人です。













nabe

栄子のダンスに色を添えたのが、華麗なバッスルドレスでした。

バッスルドレスは当時、欧米で流行しており、スカートに大きなふくらみがあります。

生地はボタン・菊の花びら・・・伝統的な小袖に用いる生地が使用されています。

和洋折衷、和魂洋才・・・明治の機運を表すような作りになっています。
国内では類を見ない貴重な遺品です。
江戸時代後期の武家の女性が好んだ小袖地に、華やかな色合いで刺繍された花々が咲き乱れています。

栄子は公家の娘で宮中に仕え、明治14年、25歳で嫁入りしました。
夫の鍋島直大は、36万石の大名だった旧佐賀藩主。
明治新政府のもとで、イタリア特命大使に任じられました。
二人が結婚したのは赴任先のローマ・・・
栄子は、公使夫人として2年余りをローマで過ごします。

イタリアに渡る前に・・・
・毎日1時間フランス語を学ぶ
・算術をすること
・習字・・・アルファベットの習得
・西洋服の習得

イタリア公使夫人となった栄子は、ヨーロッパの社交界にデビューします。
2年間のイタリア生活を終えて、明治15年に帰国、翌年鹿鳴館が開館します。
西洋仕込みのダンスと特別にあつらえたダンス・・・栄子は瞬く間に鹿鳴館の華となりました。
しかし、華族と言っても栄子のように脚光を浴びるのはごく一部の人でした。

roku


フランスの風刺画家ジョルジュ・ビゴーの描いた鹿鳴館の日本人は・・・

洋装に身を包んだ日本人が、鏡の中ではサルに描かれています。

鍋島直大・栄子夫妻は、外国人教師を招いて、ダンスの練習会を開き、社交界の担い手を育てようとします。

しかし、鹿鳴館時代は5年で幕を閉じます。




どうして華族は誕生したのでしょうか?
東京目黒にある邸宅・・・現在国の重要文化財に指定されている旧前田侯爵邸です。
maeda















イギリスチューダー様式の邸宅は、地上3階地下1階、柱にはイタリアから取り寄せた大理石がふんだんに使われています。
外交官や皇族を招いて、度々晩さん会が開かれました。
前田邸は華族たちの社交場となったのです。
華族には生まれながらの特権がありました。
選挙を経ず貴族院議員となり、法律によって世襲財産は代々守られました。
江戸時代、加賀100万石だった前田家も、特権を享受しました。

華族はどのように誕生したのでしょうか?
それは、明治2年に出された一つの通達によるものでした。

”行政官達542号 公卿諸侯之称廃せられ 改めて華族と称すべし”

公卿とは公家、諸侯とは大名・・・江戸時代までの公家と大名をあわせて作られたのが華族でした。
この時、427の家が華族となりました。
どうして華族という階級が必要だったのでしょうか?
幕末までは、公家、諸侯でした。
徳川の代わりに新しい時代を作る時、天皇を持ってきました。
天皇の下に公家・・・しかし、その下に武家を持ってくるというのは出来ない・・・??
公家と武家が平等になるシステムを作らなくては・・・ということで、華族ができたのです。
同一身分にして、天皇中心の新しい華族を作るという考え方です。
明治17年7月7日、華族令が出され、五段階の爵位が作られました。
公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵です。
華族制度を作った中心人物は、伊藤博文です。
伊藤は日本が近代国家に生まれ変わるためには、天皇を中心とした国の秩序が必要だと考えたのです。
頂点にいる天皇と、それを下で支える国民・・・
華族は両者をつなぐことを期待されました。
華族は天皇の”上流階級性”を実質化する為に必要だったのです。
頑張れば庶民でも天皇に近づける・・・??
伊藤博文は・・・
明治17年 伯爵
明治28年 侯爵
明治40年 公爵
となっています。

華族の爵位は天皇の名で授けられました。
鍋島直大に与えられたのは、24しかない侯爵家の一つとなりました。
直大・栄子夫妻の生活とは・・・??
nabesima
東京永田町にあった鍋島邸・・・三階建ての豪華な洋館でした。
大きなサロンや舞踏場もある大邸宅です。

落成記念の日、鍋島家にとって特別な人がやってきました。
菊の御門の馬車で現れたのは・・・明治天皇です。

nabesima2

















天皇行幸の図は、華族の役割を考えるうえで極めて興味深いものです。
向かって左側に天皇をお迎えする鍋島一族、新政府の要職を務める直大と公家出身の栄子・・・
共に天皇の信望が厚かったために、この行幸が実現しました。
目を引くのは、親戚たちの顔ぶれです。
宇和島藩主・伊達宗城伯爵、将軍家・徳川家達公爵、熊本藩主・細川護久侯爵、加賀藩主・前田利嗣侯爵・・・
錚々たる面々です。
華族は、家同士が姻戚関係のように網の目のように結びつき、閨閥を作っていました。

この時の行幸・・・
席次表・・・上座の中心には明治天皇が・・・随行の大臣、華族たちが脇を固めます。
向かいの席には直大たち・・・
華族には、爵位や特権と引き換えに義務がありました。
皇室の藩屏として皇室を守ることです。
この晩さん会は、明治天皇を華族が支えるという、まさに縮図でした。

・梨本宮伊都子妃殿下(鍋島伊都子)
伊都子は明治15年、鍋島直大侯爵・栄子の次女としてイタリア・ローマで誕生しました。
イタリアにちなんで、”伊太利亜の都の子”で伊都子となりました。
侯爵令嬢として何不自由なく育った伊都子が梨本宮殿下に嫁いだのは、数えで19の時でした。
当時、皇族の結婚には決まりがありました。

旧皇室典範(明治22年2月11日)第39条
皇族の結婚は同族 または 勅旨に由り 特に認許せられたる華族に限る

ituko
















皇族の結婚は、同じ皇族か特別な家族に限るとされていました。
戦後に皇室典範が改正されるまで続きます。
戦前の皇室制度は、華族の女たちに支えられ維持されてきたのです。
伊都子は二茅の娘をもうけました。
長女・方子は、大韓帝国の皇太子である李垠の后となります。
その結婚は、明治43年韓国併合をした日本は、朝鮮と一体化を進めるためでした。
波乱の人生を歩んだ方子は、戦後韓国に帰化しました。
鍋島家の栄子、伊都子、方子・・・三代の女性たちの生涯は、日本の近代歴史の写し鑑でした。

華族の流転・・・

・徳川義親侯爵
名古屋にある徳川美術館・・・
御三家筆頭尾張徳川家、第19代当主徳川義親侯爵が作った美術館です。
ここには、尾張徳川家伝来の品々が展示されています。
貯蔵品は、9つの国宝、59の重要文化財を含む1万点以上・・・
なかでも名品と名高いのは、国宝「源氏物語絵巻」です。
日本四大絵巻の一つで、平安時代末期に当時の宮廷で製作されたと伝えられています。
どうして義親は膨大な量の美術品を今に伝えることができたのでしょうか?
yositika
徳川義親は、明治19年、越前松平家の側室の子として生まれました。
江戸時代のしきたりや生活が色濃く残る時代でした。
21歳で尾張徳川家に養子として入ると、直後に当主が死去。
義親は19代目の当主となり、若き侯爵となりました。

東京に義親が暮らした家が残されています。
現在は、美術館の運営管理などを行う財団法人徳川黎明会の事務所となっています。

義親は、北海道で熊狩りをした映像が残っています。
それは道楽ではなく、旧藩士たちの生活を守るためでした。
明治の代になり、職を失った旧藩士たちは、北海道西部に入植・・・開拓に苦心していました。
徳川家はその藩士たちの支援を続けていたのです。

開拓は成功し、村は八雲村と名付けられました。
現在の北海道八雲町です。

義親は変わった支援も行っています。
北海道土産の熊の木彫り・・・このルーツを作ったのが義親でした。
最初、熊の木彫りは、スイスのベルンで買ってきました。
北海道八雲・・・雪深い冬に、家でも出来る仕事を・・・という手段として木彫りの熊を作ってみては??と、見本を買ってきたのです。
木彫りの熊は、出来の如何にかかわらずすべて買い取りました。
義親は華族という特権に甘んじることなく、最後の殿様としての義務を果たしていたのです。
しかし、やがて家族に逆風が・・・。
第1次世界大戦後に起こった恐慌と関東大震災によって、長い不況のトンネルに・・・。

銀行が破たんし、株価は大暴落・・・それまで資産の運用だけで悠々自適に生活していた華族は、苦境に追い込まれます。
数百年にわたり、公家や大名家で守られてきた銘品の流転が始まりました。
華族は自立した仕事を持っていないものが多く、資産の運用では生活できなくなり・・・当時の成金が買っていきます。
次々に売られていく華族のお宝・・・。
大正時代の初めまで、華族の当主の6割が無職・・・資産を頼りに暮らしていました。
特権に胡坐をかいていたつけが回ってきたのです。
生きる道を探してもがく華族たち・・・
徳川義親も危機感を感じていました。
美術品の売り立て会場をたずねた義親・・・

”いずれにせよ、大名華族の没落の兆候がはっきりと出ていた
 ぼくの家でもそうならないという保証はない
 現在よくても時代が変われば持ちこたえられないこともあるはずだ
 時代の変化にともなう大名家の長楽は仕方がないとしても、
 大名家の歴史までが散逸し、消滅することは、淋しいことであった”

義親は行動を起こします。
お宝を手放しました。
売りに出したのではなく、財団法人を設立し、そこに寄付するという決断でした。
個人の財産から切り離すことで、お宝を守り抜く・・・そこには子孫たちへのメッセージがありました。

昭和10年、義親は徳川美術館を作り、伝来の品々を納めました。
さらに、義親の日記を見ると、他の華族の家宝も落札していることがわかります。

かけがえのない文化遺産を散逸させることなく後世に伝えようとした徳川義親侯爵・・・
しかし、その後の時代の流れは、華族に幸いするものとはなりませんでした。

女優・入江たか子・・・本名は、東坊城英子・・・子爵家の娘です。
父が亡くなり、関東大震災で家が半壊し、家計を助けるための女優デビューでした。
華族出身の入江のデビューは、世間を騒然とさせました。
様変わりしていく華族・・・消滅の時が近づいていました。

華族の消滅・・・

華族という身分のない現代では、子孫は皆が仕事を持っています。
宮中の文化を支えてきた近衛家・・・昭和に入り、違った思い務めを追うことになります。
30代当主近衛文麿・・・それは、日本が戦争に突き進む時代でした。
国を挙げて戦争に向かう日本・・・華族には大元帥である天皇に、軍人として尽くし、国民の規範となることが求められました。
しかし、進んで軍人となる華族は決して多くはありませんでした。
その中で、国民から軍部に至るまで幅広い支持を得ていたのが首相の座に就いた近衛文麿です。

・近衛文麿公爵
文麿は、父の死後12歳で近衛家の当主となり公爵となりました。
25歳で貴族院議員・・・若き公爵は政界のPrinceと呼ばれました。
humimaro
















昭和8年、42歳で貴族院議長に就任。
翌年、アメリカ訪問の際には英語で演説。
日米友好を訴えながら、その姿勢は大国相手も物おじせず、堂々としたものでした。
政局が混迷を深める中、首相就任を待望する声が巻き起こります。
五摂家筆頭、天皇とも姻戚関係にある公爵に庶民は大きな期待を寄せます。

マスコミは連日、文麿を追います。
昭和12年、45歳の若さで首相に就任・・・
その1月後、北京郊外で日中戦争がはじまりました。
戦局は泥沼化し、アメリカは日本を痛烈に非難します。
近衛政権の下で、日米関係は悪化の一途をたどります。
昭和16年10月、第三次近衛内閣は突如総辞職・・・政権を投げだしたと批判を浴びます。
文麿に代わって首相の座に就いたのは、陸軍大臣だった東条英機でした。
その2か月後、日本は太平戦争に突入します。
首相を降りた文麿は、戦争早期終結に奔走するものの実を結びませんでした。
期待を一身に集めた華族政治家は、失意のうちに終戦を迎えます。
昭和20年12月16日、永久戦犯の容疑を受けた近衛文麿は、自ら命を絶ちます。
天皇に一番近い華族であった文麿は、敗戦後の天皇の行く末を案じていました。
しかし、それを見届けることなく55年の生涯を閉じました。

文麿が立てた用明文庫には、近衛家伝来の1000年以上にわたる家宝が納められています。
古文書や古美術品など、その数およそ20万点・・・!!
文麿は首相在任中の昭和13年、これらの永久保存を図るために、用明文庫を財団法人として設立しました。
徳川義親と同じ方法を選択したのです。
現在、国宝8点、重要文化財60点が含まれています。
近衛家の家宝が現代に伝えてくれる当時の日本の文化や暮らし・・・文麿が残したのは日本の歴史そのものでした。

文麿が亡くなったのは、用明文庫を設立して7年後・・・華族の終焉の時が近づいていました。
終戦から2年後の昭和22年・・・新憲法が施行されました。

日本国憲法第14条
華族その他の貴族の制度は、これを認めない

法の下の平等と共に、華族制度を認めないと明記され、明治から78年、華族という特権階級は、日本から姿を消しました。
貧富の差をなくすために財産税をかけ、個人の財産に対して最高税率90%が課税されました。
徳川義親の言葉・・・

「敗戦は華族階級を見事に没落させた。
 当然である。
 華族が皇室のためにも、国民のためにも、何の役に立っただろうか。
 旧大名と公卿の残骸が、ほそぼそと生きてきただけである。
 華族はいま、惨憺たるありさまである。」

戦後、市井の人となった華族の人々はどうやって生きたのでしょうか?
福岡県柳川に戦後をたくましく生きた元伯爵霊教がいます。
町の中心部に立つ洋館・・・立花伯爵家の邸宅です。

tatibana













立花家14代当主寛治が明治43年に建設した建物で、迎賓館として使われました。
木と漆喰を使った丁寧な作りで、居心地の良い邸宅です。
橘家は戦国大名として活躍した初代藩主立花宗茂以来、400年続く名家・・・明治17年の華族令で伯爵となりました。
戦前まで伯爵の一かが暮らしていた家もあります。
戦後、違う使われ方をします。
自宅であったものを料亭旅館となりました。

・立花文子伯爵令嬢
立花文子は、明治43年ねんに生れました。
伯爵令嬢として何不自由なく、しかし厳しい躾のもとに育ちました。
昭和10年、24歳で結婚。夫の和雄は婿養子として立花家に入りました。
媒酌人は大叔父の徳川家達公爵夫妻でした。
郷里柳川での披露宴・・・駅から立花家まで8キロの道程が柳川中のお祝いの人々で埋め尽くされました。
文子は柳川の人々のヒロインでした。
結婚後は林野局に勤めていた夫と共に全国を回ります。
お手伝いも置かず、料理、洗濯、掃除・・・すべてをこなしました。

終戦後、一家は柳川に帰郷・・・夫は林野局を退職し、立花家16代当主として家督を継ぎました。
華族制度が廃止になり、立花家は莫大な財産税に苦しめられます。
東京にあった不動産を整理しても借金が残ります。
6人の子を抱え、苦境に立たされた立花家・・・
思いついたのが、大きなお庭の御屋敷の使い道・・・
こうして昭和25年、料亭旅館「御花」がスタートしました。
女将となった文子は座敷にも出ます。
伯爵令嬢から180度の転換です。
文子の口癖は「何とかなるわよ」
明るく戦後を生き抜いたのでした。

奮闘したおかげで残った築106年の家・・・
二階には仏間があります。
立花家代々の先祖と、戦乱の世で命を落とした藩士たちの位牌が置かれています。

戦後、市井の人となった立花伯爵家・・・
その歴史と伝統は、華族の時代を経て脈々と受け継がれています。
華族の子孫の皆さんには、長い長い歴史が繋がっています。
そんな中で華族の歴史はほんの一瞬かもしれません。
しかしその間に、この国はずいぶんと形を変えました。
華族が誕生して150年・・・受け継がれてきたもの、消え去ったもの、その流れの先にある現代・・・そして未来・・・。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

ほんとうの礼儀作法 徳川家当主に学ぶ [ 徳川義親 ]

価格:1,944円
(2019/9/29 21:47時点)
感想(0件)

なんとかなるわよ お姫さま、そして女将へ [ 立花文子 ]

価格:2,160円
(2019/9/29 21:49時点)
感想(0件)

史上最も壮大にして複雑な軍事作戦・・・
1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦開始!!
第二次世界大戦で、連合軍に勝利の道をもたらしました。
しかし、一歩間違えば、大惨事となる危険な賭け・・・万全の準備が必要でした。
ノルマンディー上陸を成功に導いたのは、ある大掛かりな嘘でした。
連合国は、欺瞞作戦フォーティテュード作戦を展開し、決行の時期と上陸の地点について偽の情報を流し、ヒトラーを出し抜いたのです。

イギリスの諜報機関が架空の部隊を作り上げ、その情報をスパイたちがドイツに流しました。
この作戦で活躍したのが、スペイン人の二重スパイ・・・コードネームはガルボです。
ガルボの活躍なしには、成功はありませんでした。
連合軍は、どうしてドイツの諜報機関を欺くことができたのでしょうか?
見事にヒトラーの裏をかいた謀略の立役者は、いかなる人物だったのでしょうか?

1944年6月・・・連合軍のフランス上陸は、失敗の許されない危険な賭けでした。
フランスをナチスドイツから解放すべく、イギリス・アメリカ・カナダ軍の将兵13万人以上が、ノルマンディーに殺到しました。
この作戦を成功に導いたのは何だったのでしょうか?
連合軍は、少なくとも数の上でははるかに劣る兵力で、4年にわたって敵の配下にあった地域に乗り込んでいきました。
イギリスからの距離・・・わずか160キロとはいえ、ノルマンディー地方の上陸には様々な困難が予想されました。
イギリス海峡は波が荒いことで有名・・・完璧な兵力で、船酔いもなく到着することが必須条件でした。
1942年8月19日、連合軍はディエップの戦いで、上陸作戦に失敗・・・負傷兵1800人を失っていました。
敗因は、ドイツ軍による港の防御が予想以上に堅かったことでした。
この失敗を踏まえて、今度は港から離れた場所に狙いを定めます。
ドイツ軍は、連合軍は次も港を狙ってくると思っていました。
連合軍は、港を避けます。
アメリカの参戦以来、連合軍はフランス上陸への新たな機会をうかがっていました。
1943年連合国首脳は相次いで会談し、年末のテヘラン会談では、アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソビエトのスターリンが顔をあわせます。
この時、ノルマンディー地域への上陸を目指すオーバーロール作戦が、具体化しました。
しかし、フランスへの上陸を見越して準備を進めていたのは、連合国側だけではありませんでした。

ヒトラーは、1940年にイギリスとの航空戦に敗れ、ソ連との戦いにもてこずっていました。
連合軍のフランス上陸は、もはや避けられないと感じていました。
問題は連合軍が、どこを、いつ、攻めて来るのか??でした。
ドイツははるかに戦闘経験豊かな部隊が、連合軍を待ち構えていました。
ヒトラーは、連合軍は必ず主要な港を攻めてくると考えていました。
中でも、自分がかつてイギリス侵攻への足掛かりにしようとしたパ・ド・カレーは最も近く、その距離は、50キロ足らずでした。
空軍が、燃料を保ちながら最大限に闘うためには、近い距離が必須でした。
もちろん、連合軍もパ・ド・カレーが一番でした。
しかし、連合軍は、最短距離のパ・ド・カレーではなく、ノルマンディーに・・・。
敵の不意を突き、時間を稼ごうとしたのです。
上陸作戦は、往々にして最初の数時間が勝敗を決します。

初日の課題は、最初の陣地となる橋頭堡を築くことでした。
しかし、橋頭堡は格好の標的になります。
連合軍は、巨大な港の建築を試みました。
この港から、兵士や物資を海岸に送ることができるのです。
しかし、連合軍の行く手には、大西洋の壁という強大な障壁がありました。
1941年、ヒトラーは、第三帝国の威信をかけた難攻不落の砦を作っていたのです。
ノルウェー北部からフランススペイン国境まで、およそ4300キロにわたり、8000を超える防御陣地、鉄条網、機関銃座や火炎放射台、対戦車砲、通信傍受施設を供えます。
しかし、防御施設の大半は作りかけで、人員、物資・・・不足していました。

1943年末、ヒトラーは、ロンメル元帥を大西洋の壁の補強に当たらせます。
進んでいない補強・・・ロンメルは全力でその強化に努め、改善します。
ロンメルは、フランスとオランダの海岸に、12の要塞を築きました。
中でも力を入れたのが、パ・ド・カレーの防御です。
ドイツ軍は、連合軍がパ・ド・カレーを狙ってくるとわかっていました。
人員や物資をこの地域に集中させ、防御を固めようとします。
そのことが災いして、それ以外は手薄なままでした。

1944年初頭、フランスにはドイツ軍150万人が駐留し、連合軍の侵攻への備えをはじめていました。
作戦の成功は、ドイツ軍の不意を突けるか??というところにかかっていました。
ヒトラーは、戦線が西になることは確信していたものの、パ・ド・カレーと思い込んでいました。
イギリスは、その思い込みを長引かせて、ノルマンディーから頭を外させなければなりません。
イギリスは、偽の情報を流して欺瞞作戦に力を入れます。
1942年には、北アフリカ戦線で効果をあげています。
イギリスの首相・チャーチルは、上陸作戦をドイツに悟られないために、軍の幹部たちに情報戦を指示します。

ロンドンでは、欺瞞作戦に特化した”ロンドン諜報司令部”が設置されました。
チャーチル自らがトップを選びます。
頭脳明晰で入隊まで金融機関で活躍していたイギリス陸軍ジョン・べヴァン中佐です。
作戦全体の管理を行いました。
彼は、欺瞞作戦の全貌を把握していました。
チャーチルはこの助言を頼りにし、そのオフィスを内閣戦時執務室の近くに置きました。
べヴァンは、国内での諜報活動が専門のMI6と、国土安全保障を担当するMI5の統括も任されます。
こうして、コードネーム・フォーティテュード(不屈の精神)作戦が始動・・・
作戦に関わる全ての人々にとって、膨大な挑戦の始まりでした。
フォーティテュード作戦は、二段構えの大掛かりなものでした。
ひとつは、フォーティテュード・ノース・・・
スカンジナビア侵攻をほのめかし、そこにいるドイツ軍をくぎ付けにし、西部戦線に加わるのを防ぎます。
そしてフォーティテュード・サウス・・・
連合軍がいつどこに上陸するのかを悟られないように、敵をかく乱します。
イギリス南東部に連合軍の部隊が集結していると情報を流すと、ヒトラーはパ・ド・カレーを目指していると思うはず・・・
この情報のために、本物の部隊を投入するわけにもいかないので、連合軍はアメリカ軍第一軍集団という架空の部隊を作り上げます。
当時の地図のケント州一帯には、架空の師団の配備位置が記されています。
どうやって信憑性を持たせたのでしょうか?
ヒトラーの注意をひくような、実在の人物を司令官にします。
連合軍総司令官アイゼンハワーが指名したのは、アメリカ陸軍のパットン将軍でした。
パットンなら申し分ありませんでした。
パットンの名前を聞いたドイツ軍は、「あのパットンが率いるのだから、連合軍の精鋭部隊に違いない!!」と考えたのです。

パットンは、かつてダンケルクからの撤退作戦で拠点となったドーバー城の地下に司令部を置きました。
ドーバー城に司令部を置くことで、連合軍の目標はパ・ド・カレーだと思わせます。
実際の司令部は、ポーツマスにありました。
上陸作戦の実行を決めてから、連合国は並行してフォーティテュード作戦を具体化させてきました。
1943年11月の極秘文書から、当時すでに作戦の詳細が検討されていたことがわかります。
第一段階は、架空の軍隊の装備を整えることでした。
ロンドン諜報司令部は、相当な費用を投じ、航空機や船舶などの木製のダミーを作らせます。
何百という艀や上陸用舟艇が作られました。
航空機が偽物の滑走路に・・・
しかし、問題が・・・戦時中、木材は高価だったので、費用が膨大なものに・・・!!
おまけに木製のダミーは重く、移動する部隊としては不向きでした。
低コスト、軽量で敵を威圧するためには・・・??
アメリカ軍の士官が、秀逸なアイデアにたどり着きました。
ニューヨークの感謝祭パレードののバルーンを思い出したのです。
ゴムなら軽くて丈夫、様々な形に作ることができます。
1944年の3月以降、アメリカのタイヤメーカーが中心となって、ダミーの戦車づくりを始めました。
空気で膨らませるゴム製の戦車が何百と作られ、イギリスに送り込まれたのです。
イギリス南東部の沿岸部に255台のゴム製の戦車が置かれました。
こうしてダミーの航空機や戦車が設置されていきました。
あとは、ドイツ軍の偵察飛行を待つだけでした。

その効果は抜群でした!!

ロンドンの映画スタッフも参加します。
ドーバー近郊に、燃料貯蔵庫を造れ!!
手に入るものを・・・ガラクタをかき集めて・・・ダミーを作ります。
タンカー、石油ポンプ・・・連合軍は、設備に至るまで細かく作り上げました。
国王ジョージ6世も現地を視察します。
連合国は、総力を挙げて一芝居を撃ちます。
あらゆる産業が協力します。
当時、イギリス南東部には数千人の兵しかいませんでしたが、それを100万人規模に見せる必要があったのです。
ドーバーには多くの人や車が行き交うようになりました。
アメリカ軍第一軍集団司令部の標識が立ち、地元の人々もそれを信じていました。
しかも、ドイツの諜報員が見ることを見越して、新聞社を巻き込んだプロパガンダが展開されます。
新聞には架空の記事が・・・!!

無線通信は傍受される可能性がありましたが、それを逆手に取ります。
ドーバーの無線室から、軍の動向を知らせるメッセージを大量に送ります。
ここに大規模な部隊がいるとドイツ軍に思わせるために・・・!!
こうして、実在しない部隊に命が吹き込まれていきました。
架空の師団に割り当てる徽章まで・・・!!

しかし、ドイツ側が気付かなければ意味がない・・・
どれだけ把握していたのでしょうか?
ドイツには、架空の師団の配置を正確に伝わっていました。
1944年当時、ドイツ軍によるイギリス本土の偵察飛行はほぼ不可能でした。
当時、イギリス上空を飛ぶドイツ軍機は、連合軍にことごとく撃ち落されていて、写真を持ち帰ることができませんでした。
そこで、あえてドイツ軍機を誘い込み、イギリス南部に集中させている様子をわざと撮影させます。
ドイツ軍は1944年1月~3月まで、一度もイギリスの偵察飛行を行いませんでした。
4月~5月にかけては成功しています。
そこには、ハッキリとダミーの上陸用舟艇が映っています。

架空の部隊、架空の無線通信、偵察機の誘導・・・しかし、数回の偵察飛行をしただけで、ドイツ軍が詳しく情報を入手することができたのか・・・??

そこにはスパイの存在が・・・
イギリスには2つの諜報機関MI5と、MI6があります。
国土安全保障を目的とするMI5の戦時中の方針は明確でした。
敵国のスパイは、協力させたうえで本土に帰らせ、それを拒むものは処刑しました。
潜入したドイツのスパイは、たちまちあぶり出され・・・ドイツ国防軍の諜報機関アプヴェーアは、イギリスで確かな情報源を一人も確保することができませんでした。

二重スパイ・・・ウソにウソを重ね・・・イギリスは、目標を達成するためには大掛かりに展開します。
しかし、ドイツにはそんな発想はありませんでした。
二重スパイを使って、偽の情報を流します。
ドイツが其れに騙されていることをどうやって確認したのか・・・??
イギリスは、1941年以降・・・ドイツの暗号エニグマの解読に成功していたのです。
暗号解読によって手に入れた情報は、最高機密とされました。
エニグマの解読・・・それによって、ドイツ軍司令部の通信内容を把握することができました。
暗号解読の拠点だったブレッジリーパーク・・・1944年には、難解の暗号も、8時間程度で解読可能でした。
相手の反応をリアルタイムで把握し、敵のスパイも把握していたのです。

一方、ドイツ国防軍諜報機関アプヴェーアは、自分たちのスパイ網に自信を持っていました。
イギリス各地にスパイを配置させ、通信傍受で得た情報の裏付けをとっていました。
ところが、ネットワークを統括していた人物こそが・・・二重スパイ、フアン・プジョルです。
フォーティテュード作戦に欠かせない人物でした。
ドイツの分析結果を裏付けるような情報を提供するのが彼の役目でした。
しかし、どうしてスペイン人のプジョルがイギリスの作戦に加わることになったのでしょうか?

バルセロナ出身のプジョルは、スペイン内戦を経験し、独裁者フランコやファシストを憎悪していました。
第二次世界大戦が激化する中、連合軍のスパイになることを決意します。
ヨーロッパの文明が、ヒトラーによって破壊されてしまう・・・!!
しかし、イギリスは門前払いします。
敵の諜報機関の回し者かもしれない・・・!!
プジョルは大胆なプランを考えます。
イギリスの関心をひくために、ドイツのスパイとして働くことにしました。
ドイツ側の信頼を得ることで、イギリスの興味をひきたかったのです。
1941年、プジョルはマドリードでドイツ軍のスパイにスカウトされます。
こうして中立国スペインで、ドイツのスパイとして活動し、連絡係のキューレンタールとも信頼を得ていきます。
プジョルは、ドイツにイギリスの入国許可証を持っていると嘘をつきます。
当時、ドイツはイギリスにスパイを潜入させるのに大変苦労していました。
この機会に飛びつき、プジョルに秘密の連絡手段を教えます。
報酬も与えます。
41年の夏・・・プジョルはロンドンに渡ったと思わせながら、実際にはポルトガルのリスボンに到着。
スパイの多かったこの町で、活動を始めました。
彼はイギリスに行ったこともありませんでした。
リスボンの図書館で時刻表を見て到着・・・あたかもイギリスにいるようにしてやり取りを始めます。
ドイツ側にはアラリックというコードネームで呼ばれたプジョルは、巧妙にウソをつきました。
そもそも、ドイツに有利な情報を渡すつもりはなかったため、様々な話をでっち上げ、永遠と描写させたのです。

プジョルは自分の身を護るために、イギリス国内に大勢の情報源を確保したように装います。
数か月のうちにプジョルのネットワークはイギリス全土に広がります。
情報が偽物だとバレてもその情報源のせいにして、難を逃れることができます。
イギリスMI5も動き始めます。
彼等はアラリック・・・プジョルの暗号の内容をすべて解読していました。
情報はマドリードのキューレンタール少佐を通じて、ベルリンに送られていました。
アラリックとは何者なのか・・・??どうして本土にスパイ網を巡らすことができたのか??
奇妙だったのは、彼の情報の殆どが全くデタラメだったこと・・・。
イギリスの諜報機関は、リバプールにいたスパイが送った情報を入手しました。
輸送船団がマルタ島を目指して出発したという情報・・・そんな事実はありませんでした。
その情報を受けたドイツは、迎え討とうと空軍と海軍から数多くの航空機を動員したのです。
ベルリンにこれほどまでの影響力を持つスパイ網を持つ人間がMI5の目を逃れて展開している・・・それを取り仕切っているのはアラリック・・・

アラリックとフアン・プジョルが重なり出しました。
1942年4月・・・MI5の諜報員が、プジョルに接触・・・
プジョルはドイツのスパイとして1年間活動していたと証言。
それは、イギリス側に認めてもらうためだったと告白します。
ついにプジョルは二重スパイとしてイギリスに採用され、コードネームはガルボ!!
1942年、プジョルはイギリスにわたりました。
偽の情報を流し続けてきたことを当局に認めます。
各地にいるはずのスパイは、全部架空の人物だと明かしたのです。
つまり、プジョルのイギリスでの組織自体も存在しませんでした。
偽のスパイ網は拡大し、1944年には27人にもなっていました。
ドイツが偽の情報を信じなければ、フォーティテュード作戦は失敗する・・・!!
全てはプジョルと架空のスパイたちにかかっていました。
プジョルは報告をロンドンから諜報機関アプヴェーアのマドリード支部に送ります。
支部長のキューレンタールは、そのままベルリンに転送します。

イギリスはエニグマの解読に成功していたので、プジョルが送った全ての情報がベルリンに転送されていることも解っていました。
ドイツ側がプジョルを高く評価していることも解っていました。
ヒトラーは、イギリスが南部に兵力を集中させていると確信するようになります。
1942年4月~44年8月まで、プジョルは毎日のように大量の情報をドイツ側に送っています。
中継係のキューレンタールは、プジョルを少しも疑わなかったのでしょうか??
彼を採用した自分に傷をつける・・・時間がたつにつれて、プジョルを切り捨てることができなくなってきていました。

ドイツ国防軍のアプヴェーアは、完全にヒトラーに従っていたわけではなく、北アフリカや南イタリアへの連合軍上陸を予想できなかったアプヴェーアに、ヒトラーは不信感を募らせ、強硬手段に出ます。
1944年2月、アプヴェーアのヴィルヘルム・カナリス長官を、故意に情報を改ざんしたとして更迭しました。
1920年代初頭に創設されたアプヴェーアは、ナチス傘下ではなく、国防軍の諜報機関です。
カナリス長官は愛国者でしたがナチスには反発していました。
レジスタンスに肩入れし、強く批判していたのです。
カナリスが更迭されたあとも、任務は続行されます。
キューレンタールはユダヤ系であり、ヒトラーが政権を握ると同時に、ベルリンを離れていました。
彼は、プジョルの情報を嘘だとしても見逃していたのでしょうか?
連合軍は、敵の諜報機関から思いがけない恩恵を受けていたのでしょうか?

プジョルは、架空のスパイ網を駆使し、ドイツ側に偽の情報を流し続けます。
上陸作戦を控えた5月・・・なぜかヒトラーはノルマンディーを強く警戒します。
しかし、ロンメルは不可能だと・・・ほとんどの部隊をパ・ド・カレーに集中させていたのです。

上陸作戦決行前夜・・・イギリスはまたもや名案を思い付きます。
上陸直前にドイツに本物の情報を伝えたのです。
朝の4時ごろ・・・プジョルは暗号化した情報をマドリードに送り、ベルリンに転送されます。
連合軍がノルマンディーに上陸・・・という情報です。
まだ海岸に部隊は到着していませんでしたが・・・

ドイツ軍のプジョルに対する信頼は劇的に高まります。
プジョルが見事に連合国の動向を読んだことを称賛し、情報が遅れたのは技術的な問題のせいだと思ったのです。
ついに6月6日・・・遂に連合軍はノルマンディーに上陸!!
しかし、プジョルの任務はまだ終わっていません。
パ・ド・カレーの装甲師団が、ノルマンディーに行くことを防がなければなりませんでした。
ここからがフォーティテュード作戦の山場・最大の快挙でした。
彼等は、ノルマンディー攻撃は陽動作戦にすぎず、本当の狙いはパ・ド・カレーだとヒトラーに思い込ませたのです。
ドイツをだまし続けます。
桟橋を組み立て、陣地を守るための物資を降ろすために時間稼ぎが必要でした。
プジョルの本当の任務はここからでした。
ドイツに情報を送ります。
イギリス南部で部隊の動きが活発化している・・・
第二の上陸作戦の目標はパ・ド・カレーだ!!

ドイツはまたもや偽の情報に惑わされ・・・連合軍は時間を稼ぐことができました。
ノルマンディーへの上陸が成功し、足がかりができ、大規模な追撃が可能となりました。
これが戦争の流れを変え、退局を余儀なくされたドイツ軍はこの後勝機を見出すことができませんでした。
偽の情報を掴まされたドイツは、プジョルを問いただします。

「パ・ド・カレーへの攻撃などなかったではないか?」
「ノルマンディーの攻撃が予想以上の成果をあげたので、連合軍はパ・ド・カレーへの攻撃を取りやめたのだ」

ドイツ軍は納得します。
壮大な謀略作戦は成功をおさめました。
皮肉にも、ヒトラーは1944年7月、プジョルの功績をたたえ、鉄十字章を授与しました。
4か月後、イギリスからも大英帝国勲章を授かったプジョルは、敵対する2つの国から勲章を授与されたことになります。
第二次世界大戦が終わり、冷戦の時代になると、イギリスの諜報機関はフォーティテュード作戦を覆い隠してしまいます。
この作戦について多くが語られなかった背景には、人道的な理由もあります。
連合軍はパ・ド・カレーへの上陸に信憑性を持たせるために、一帯を爆撃・・・
何百というフランス市民が命を失いました。

非人道的な行為もやむ終えないと考えていました。
どんな犠牲を払っても目的を果たさなければ・・・!!
フランスのレジスタンス組織も犠牲になりました。
ドイツの諜報員が潜入していることを知ったイギリスが事前に通告しませんでした。
レジスタンスメンバーも騙され・・・フォーティテュード作戦の全体図を知っていたのは、イギリスとアメリカの諜報機関のみでした。
イギリスとアメリカが保管されている文書が全て公開されるためにはあと10年・・・もしくはあと35年必要です。
作戦の真相はまだ闇の中です。
第二次世界大戦が終わって70年以上たった今も、秘密は秘密のままなのです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

史上最大の決断 「ノルマンディー上陸作戦」を成功に導いた賢慮のリー [ 野中郁次郎 ]

価格:2,376円
(2019/9/27 20:32時点)
感想(0件)

2019 フランス ノルマンディー上陸作戦75周年 金貨(フェアマインド) 1/4オンス プルーフ 箱とクリアケース付き 新品未使用

価格:174,050円
(2019/9/27 20:33時点)
感想(0件)

このページのトップヘ