日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: テレビ番組

明治時代・・・
公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵・・・旧大名や公家と共に、維新に功績のあった人たちも華族に加わり、5つの爵位が授けられました。
莫大な資産、国を動かす権力、高貴な家柄・・・新しい上流階級が誕生します。
明治時代、日本がヨーロッパ先進国並みの近代国家に変貌する為に、なくてはならないものとして家族は存在しました。
しかし、大正・昭和と、存亡の苦悩に見舞われます。
その繁栄と流転は・・・??

新春に皇居で行われる歌会始は、天皇・皇后両陛下をはじめ、皇族、一般からの応募で募った歌を詠みあげる儀式です。
その進行を担うのは・・・宮内庁式部職から委託された人たちです。
どんな基準で選ばれているのでしょうか?
共通点は?名前は坊城・園池・櫛笥・近衛・久邇・醍醐・水野・・・やんごとなきお名前です。
遡れば、元伯爵家、子爵家、子爵家、公爵家、侯爵家、子爵家・・・かつての華族でした。
華族とは、明治時代に作られた特権的上流階級・・・
きらびやかなドレス、浮世離れした生活、莫大な資産、黄金の日々・・・
華族は庶民の憧れの的でした。
そして、その遺産は、今も引き継がれています。
しかし、大正から昭和にかけて、没落が始まります。
オークションで家宝を売り始めました。
一体何が起こったのでしょうか??
そしてさらに過酷な運命が待っているのでした。

明治時代に華族の婦人がまとっていた舞踏会用のドレス・・・
今から130年前の彼女が向かったのはかの鹿鳴館でした。
上流階級の男女が集い、夜な夜な饗宴が催されました。
明治16年、政府によって建てられた鹿鳴館は、外国からのお客を接待するための社交場でした。
当時の日本は、欧米の国々と対等に渡り合える近代国家になろうと躍起になっていました。
一刻も早く風俗や習慣を西洋風に・・・
その使命を背負って鹿鳴館で踊っていたのが、華族の紳士淑女でした。
優雅なダンスと美貌で、鹿鳴館の花とうたわれた女たちがいました。
大山捨松・・・侯爵・大山巌夫人・鹿鳴館で結婚式を挙げる
戸田極子・・・伯爵戸田氏共婦人・公家岩倉具視の三女
陸奥亮子・・・伯爵・陸奥宗光婦人・ワシントン社交界の華


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洗練されたマナーと振る舞いで鹿鳴館を彩った貴婦人たち・・・
その中で、ひときわ見事なダンスを披露し、華族に評判となったのが
・鍋島栄子侯爵夫人・・・イタリア全権公使を務めた鍋島直大侯爵夫人です。













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栄子のダンスに色を添えたのが、華麗なバッスルドレスでした。

バッスルドレスは当時、欧米で流行しており、スカートに大きなふくらみがあります。

生地はボタン・菊の花びら・・・伝統的な小袖に用いる生地が使用されています。

和洋折衷、和魂洋才・・・明治の機運を表すような作りになっています。
国内では類を見ない貴重な遺品です。
江戸時代後期の武家の女性が好んだ小袖地に、華やかな色合いで刺繍された花々が咲き乱れています。

栄子は公家の娘で宮中に仕え、明治14年、25歳で嫁入りしました。
夫の鍋島直大は、36万石の大名だった旧佐賀藩主。
明治新政府のもとで、イタリア特命大使に任じられました。
二人が結婚したのは赴任先のローマ・・・
栄子は、公使夫人として2年余りをローマで過ごします。

イタリアに渡る前に・・・
・毎日1時間フランス語を学ぶ
・算術をすること
・習字・・・アルファベットの習得
・西洋服の習得

イタリア公使夫人となった栄子は、ヨーロッパの社交界にデビューします。
2年間のイタリア生活を終えて、明治15年に帰国、翌年鹿鳴館が開館します。
西洋仕込みのダンスと特別にあつらえたダンス・・・栄子は瞬く間に鹿鳴館の華となりました。
しかし、華族と言っても栄子のように脚光を浴びるのはごく一部の人でした。

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フランスの風刺画家ジョルジュ・ビゴーの描いた鹿鳴館の日本人は・・・

洋装に身を包んだ日本人が、鏡の中ではサルに描かれています。

鍋島直大・栄子夫妻は、外国人教師を招いて、ダンスの練習会を開き、社交界の担い手を育てようとします。

しかし、鹿鳴館時代は5年で幕を閉じます。




どうして華族は誕生したのでしょうか?
東京目黒にある邸宅・・・現在国の重要文化財に指定されている旧前田侯爵邸です。
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イギリスチューダー様式の邸宅は、地上3階地下1階、柱にはイタリアから取り寄せた大理石がふんだんに使われています。
外交官や皇族を招いて、度々晩さん会が開かれました。
前田邸は華族たちの社交場となったのです。
華族には生まれながらの特権がありました。
選挙を経ず貴族院議員となり、法律によって世襲財産は代々守られました。
江戸時代、加賀100万石だった前田家も、特権を享受しました。

華族はどのように誕生したのでしょうか?
それは、明治2年に出された一つの通達によるものでした。

”行政官達542号 公卿諸侯之称廃せられ 改めて華族と称すべし”

公卿とは公家、諸侯とは大名・・・江戸時代までの公家と大名をあわせて作られたのが華族でした。
この時、427の家が華族となりました。
どうして華族という階級が必要だったのでしょうか?
幕末までは、公家、諸侯でした。
徳川の代わりに新しい時代を作る時、天皇を持ってきました。
天皇の下に公家・・・しかし、その下に武家を持ってくるというのは出来ない・・・??
公家と武家が平等になるシステムを作らなくては・・・ということで、華族ができたのです。
同一身分にして、天皇中心の新しい華族を作るという考え方です。
明治17年7月7日、華族令が出され、五段階の爵位が作られました。
公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵です。
華族制度を作った中心人物は、伊藤博文です。
伊藤は日本が近代国家に生まれ変わるためには、天皇を中心とした国の秩序が必要だと考えたのです。
頂点にいる天皇と、それを下で支える国民・・・
華族は両者をつなぐことを期待されました。
華族は天皇の”上流階級性”を実質化する為に必要だったのです。
頑張れば庶民でも天皇に近づける・・・??
伊藤博文は・・・
明治17年 伯爵
明治28年 侯爵
明治40年 公爵
となっています。

華族の爵位は天皇の名で授けられました。
鍋島直大に与えられたのは、24しかない侯爵家の一つとなりました。
直大・栄子夫妻の生活とは・・・??
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東京永田町にあった鍋島邸・・・三階建ての豪華な洋館でした。
大きなサロンや舞踏場もある大邸宅です。

落成記念の日、鍋島家にとって特別な人がやってきました。
菊の御門の馬車で現れたのは・・・明治天皇です。

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天皇行幸の図は、華族の役割を考えるうえで極めて興味深いものです。
向かって左側に天皇をお迎えする鍋島一族、新政府の要職を務める直大と公家出身の栄子・・・
共に天皇の信望が厚かったために、この行幸が実現しました。
目を引くのは、親戚たちの顔ぶれです。
宇和島藩主・伊達宗城伯爵、将軍家・徳川家達公爵、熊本藩主・細川護久侯爵、加賀藩主・前田利嗣侯爵・・・
錚々たる面々です。
華族は、家同士が姻戚関係のように網の目のように結びつき、閨閥を作っていました。

この時の行幸・・・
席次表・・・上座の中心には明治天皇が・・・随行の大臣、華族たちが脇を固めます。
向かいの席には直大たち・・・
華族には、爵位や特権と引き換えに義務がありました。
皇室の藩屏として皇室を守ることです。
この晩さん会は、明治天皇を華族が支えるという、まさに縮図でした。

・梨本宮伊都子妃殿下(鍋島伊都子)
伊都子は明治15年、鍋島直大侯爵・栄子の次女としてイタリア・ローマで誕生しました。
イタリアにちなんで、”伊太利亜の都の子”で伊都子となりました。
侯爵令嬢として何不自由なく育った伊都子が梨本宮殿下に嫁いだのは、数えで19の時でした。
当時、皇族の結婚には決まりがありました。

旧皇室典範(明治22年2月11日)第39条
皇族の結婚は同族 または 勅旨に由り 特に認許せられたる華族に限る

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皇族の結婚は、同じ皇族か特別な家族に限るとされていました。
戦後に皇室典範が改正されるまで続きます。
戦前の皇室制度は、華族の女たちに支えられ維持されてきたのです。
伊都子は二茅の娘をもうけました。
長女・方子は、大韓帝国の皇太子である李垠の后となります。
その結婚は、明治43年韓国併合をした日本は、朝鮮と一体化を進めるためでした。
波乱の人生を歩んだ方子は、戦後韓国に帰化しました。
鍋島家の栄子、伊都子、方子・・・三代の女性たちの生涯は、日本の近代歴史の写し鑑でした。

華族の流転・・・

・徳川義親侯爵
名古屋にある徳川美術館・・・
御三家筆頭尾張徳川家、第19代当主徳川義親侯爵が作った美術館です。
ここには、尾張徳川家伝来の品々が展示されています。
貯蔵品は、9つの国宝、59の重要文化財を含む1万点以上・・・
なかでも名品と名高いのは、国宝「源氏物語絵巻」です。
日本四大絵巻の一つで、平安時代末期に当時の宮廷で製作されたと伝えられています。
どうして義親は膨大な量の美術品を今に伝えることができたのでしょうか?
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徳川義親は、明治19年、越前松平家の側室の子として生まれました。
江戸時代のしきたりや生活が色濃く残る時代でした。
21歳で尾張徳川家に養子として入ると、直後に当主が死去。
義親は19代目の当主となり、若き侯爵となりました。

東京に義親が暮らした家が残されています。
現在は、美術館の運営管理などを行う財団法人徳川黎明会の事務所となっています。

義親は、北海道で熊狩りをした映像が残っています。
それは道楽ではなく、旧藩士たちの生活を守るためでした。
明治の代になり、職を失った旧藩士たちは、北海道西部に入植・・・開拓に苦心していました。
徳川家はその藩士たちの支援を続けていたのです。

開拓は成功し、村は八雲村と名付けられました。
現在の北海道八雲町です。

義親は変わった支援も行っています。
北海道土産の熊の木彫り・・・このルーツを作ったのが義親でした。
最初、熊の木彫りは、スイスのベルンで買ってきました。
北海道八雲・・・雪深い冬に、家でも出来る仕事を・・・という手段として木彫りの熊を作ってみては??と、見本を買ってきたのです。
木彫りの熊は、出来の如何にかかわらずすべて買い取りました。
義親は華族という特権に甘んじることなく、最後の殿様としての義務を果たしていたのです。
しかし、やがて家族に逆風が・・・。
第1次世界大戦後に起こった恐慌と関東大震災によって、長い不況のトンネルに・・・。

銀行が破たんし、株価は大暴落・・・それまで資産の運用だけで悠々自適に生活していた華族は、苦境に追い込まれます。
数百年にわたり、公家や大名家で守られてきた銘品の流転が始まりました。
華族は自立した仕事を持っていないものが多く、資産の運用では生活できなくなり・・・当時の成金が買っていきます。
次々に売られていく華族のお宝・・・。
大正時代の初めまで、華族の当主の6割が無職・・・資産を頼りに暮らしていました。
特権に胡坐をかいていたつけが回ってきたのです。
生きる道を探してもがく華族たち・・・
徳川義親も危機感を感じていました。
美術品の売り立て会場をたずねた義親・・・

”いずれにせよ、大名華族の没落の兆候がはっきりと出ていた
 ぼくの家でもそうならないという保証はない
 現在よくても時代が変われば持ちこたえられないこともあるはずだ
 時代の変化にともなう大名家の長楽は仕方がないとしても、
 大名家の歴史までが散逸し、消滅することは、淋しいことであった”

義親は行動を起こします。
お宝を手放しました。
売りに出したのではなく、財団法人を設立し、そこに寄付するという決断でした。
個人の財産から切り離すことで、お宝を守り抜く・・・そこには子孫たちへのメッセージがありました。

昭和10年、義親は徳川美術館を作り、伝来の品々を納めました。
さらに、義親の日記を見ると、他の華族の家宝も落札していることがわかります。

かけがえのない文化遺産を散逸させることなく後世に伝えようとした徳川義親侯爵・・・
しかし、その後の時代の流れは、華族に幸いするものとはなりませんでした。

女優・入江たか子・・・本名は、東坊城英子・・・子爵家の娘です。
父が亡くなり、関東大震災で家が半壊し、家計を助けるための女優デビューでした。
華族出身の入江のデビューは、世間を騒然とさせました。
様変わりしていく華族・・・消滅の時が近づいていました。

華族の消滅・・・

華族という身分のない現代では、子孫は皆が仕事を持っています。
宮中の文化を支えてきた近衛家・・・昭和に入り、違った思い務めを追うことになります。
30代当主近衛文麿・・・それは、日本が戦争に突き進む時代でした。
国を挙げて戦争に向かう日本・・・華族には大元帥である天皇に、軍人として尽くし、国民の規範となることが求められました。
しかし、進んで軍人となる華族は決して多くはありませんでした。
その中で、国民から軍部に至るまで幅広い支持を得ていたのが首相の座に就いた近衛文麿です。

・近衛文麿公爵
文麿は、父の死後12歳で近衛家の当主となり公爵となりました。
25歳で貴族院議員・・・若き公爵は政界のPrinceと呼ばれました。
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昭和8年、42歳で貴族院議長に就任。
翌年、アメリカ訪問の際には英語で演説。
日米友好を訴えながら、その姿勢は大国相手も物おじせず、堂々としたものでした。
政局が混迷を深める中、首相就任を待望する声が巻き起こります。
五摂家筆頭、天皇とも姻戚関係にある公爵に庶民は大きな期待を寄せます。

マスコミは連日、文麿を追います。
昭和12年、45歳の若さで首相に就任・・・
その1月後、北京郊外で日中戦争がはじまりました。
戦局は泥沼化し、アメリカは日本を痛烈に非難します。
近衛政権の下で、日米関係は悪化の一途をたどります。
昭和16年10月、第三次近衛内閣は突如総辞職・・・政権を投げだしたと批判を浴びます。
文麿に代わって首相の座に就いたのは、陸軍大臣だった東条英機でした。
その2か月後、日本は太平戦争に突入します。
首相を降りた文麿は、戦争早期終結に奔走するものの実を結びませんでした。
期待を一身に集めた華族政治家は、失意のうちに終戦を迎えます。
昭和20年12月16日、永久戦犯の容疑を受けた近衛文麿は、自ら命を絶ちます。
天皇に一番近い華族であった文麿は、敗戦後の天皇の行く末を案じていました。
しかし、それを見届けることなく55年の生涯を閉じました。

文麿が立てた用明文庫には、近衛家伝来の1000年以上にわたる家宝が納められています。
古文書や古美術品など、その数およそ20万点・・・!!
文麿は首相在任中の昭和13年、これらの永久保存を図るために、用明文庫を財団法人として設立しました。
徳川義親と同じ方法を選択したのです。
現在、国宝8点、重要文化財60点が含まれています。
近衛家の家宝が現代に伝えてくれる当時の日本の文化や暮らし・・・文麿が残したのは日本の歴史そのものでした。

文麿が亡くなったのは、用明文庫を設立して7年後・・・華族の終焉の時が近づいていました。
終戦から2年後の昭和22年・・・新憲法が施行されました。

日本国憲法第14条
華族その他の貴族の制度は、これを認めない

法の下の平等と共に、華族制度を認めないと明記され、明治から78年、華族という特権階級は、日本から姿を消しました。
貧富の差をなくすために財産税をかけ、個人の財産に対して最高税率90%が課税されました。
徳川義親の言葉・・・

「敗戦は華族階級を見事に没落させた。
 当然である。
 華族が皇室のためにも、国民のためにも、何の役に立っただろうか。
 旧大名と公卿の残骸が、ほそぼそと生きてきただけである。
 華族はいま、惨憺たるありさまである。」

戦後、市井の人となった華族の人々はどうやって生きたのでしょうか?
福岡県柳川に戦後をたくましく生きた元伯爵霊教がいます。
町の中心部に立つ洋館・・・立花伯爵家の邸宅です。

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立花家14代当主寛治が明治43年に建設した建物で、迎賓館として使われました。
木と漆喰を使った丁寧な作りで、居心地の良い邸宅です。
橘家は戦国大名として活躍した初代藩主立花宗茂以来、400年続く名家・・・明治17年の華族令で伯爵となりました。
戦前まで伯爵の一かが暮らしていた家もあります。
戦後、違う使われ方をします。
自宅であったものを料亭旅館となりました。

・立花文子伯爵令嬢
立花文子は、明治43年ねんに生れました。
伯爵令嬢として何不自由なく、しかし厳しい躾のもとに育ちました。
昭和10年、24歳で結婚。夫の和雄は婿養子として立花家に入りました。
媒酌人は大叔父の徳川家達公爵夫妻でした。
郷里柳川での披露宴・・・駅から立花家まで8キロの道程が柳川中のお祝いの人々で埋め尽くされました。
文子は柳川の人々のヒロインでした。
結婚後は林野局に勤めていた夫と共に全国を回ります。
お手伝いも置かず、料理、洗濯、掃除・・・すべてをこなしました。

終戦後、一家は柳川に帰郷・・・夫は林野局を退職し、立花家16代当主として家督を継ぎました。
華族制度が廃止になり、立花家は莫大な財産税に苦しめられます。
東京にあった不動産を整理しても借金が残ります。
6人の子を抱え、苦境に立たされた立花家・・・
思いついたのが、大きなお庭の御屋敷の使い道・・・
こうして昭和25年、料亭旅館「御花」がスタートしました。
女将となった文子は座敷にも出ます。
伯爵令嬢から180度の転換です。
文子の口癖は「何とかなるわよ」
明るく戦後を生き抜いたのでした。

奮闘したおかげで残った築106年の家・・・
二階には仏間があります。
立花家代々の先祖と、戦乱の世で命を落とした藩士たちの位牌が置かれています。

戦後、市井の人となった立花伯爵家・・・
その歴史と伝統は、華族の時代を経て脈々と受け継がれています。
華族の子孫の皆さんには、長い長い歴史が繋がっています。
そんな中で華族の歴史はほんの一瞬かもしれません。
しかしその間に、この国はずいぶんと形を変えました。
華族が誕生して150年・・・受け継がれてきたもの、消え去ったもの、その流れの先にある現代・・・そして未来・・・。

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史上最も壮大にして複雑な軍事作戦・・・
1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦開始!!
第二次世界大戦で、連合軍に勝利の道をもたらしました。
しかし、一歩間違えば、大惨事となる危険な賭け・・・万全の準備が必要でした。
ノルマンディー上陸を成功に導いたのは、ある大掛かりな嘘でした。
連合国は、欺瞞作戦フォーティテュード作戦を展開し、決行の時期と上陸の地点について偽の情報を流し、ヒトラーを出し抜いたのです。

イギリスの諜報機関が架空の部隊を作り上げ、その情報をスパイたちがドイツに流しました。
この作戦で活躍したのが、スペイン人の二重スパイ・・・コードネームはガルボです。
ガルボの活躍なしには、成功はありませんでした。
連合軍は、どうしてドイツの諜報機関を欺くことができたのでしょうか?
見事にヒトラーの裏をかいた謀略の立役者は、いかなる人物だったのでしょうか?

1944年6月・・・連合軍のフランス上陸は、失敗の許されない危険な賭けでした。
フランスをナチスドイツから解放すべく、イギリス・アメリカ・カナダ軍の将兵13万人以上が、ノルマンディーに殺到しました。
この作戦を成功に導いたのは何だったのでしょうか?
連合軍は、少なくとも数の上でははるかに劣る兵力で、4年にわたって敵の配下にあった地域に乗り込んでいきました。
イギリスからの距離・・・わずか160キロとはいえ、ノルマンディー地方の上陸には様々な困難が予想されました。
イギリス海峡は波が荒いことで有名・・・完璧な兵力で、船酔いもなく到着することが必須条件でした。
1942年8月19日、連合軍はディエップの戦いで、上陸作戦に失敗・・・負傷兵1800人を失っていました。
敗因は、ドイツ軍による港の防御が予想以上に堅かったことでした。
この失敗を踏まえて、今度は港から離れた場所に狙いを定めます。
ドイツ軍は、連合軍は次も港を狙ってくると思っていました。
連合軍は、港を避けます。
アメリカの参戦以来、連合軍はフランス上陸への新たな機会をうかがっていました。
1943年連合国首脳は相次いで会談し、年末のテヘラン会談では、アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソビエトのスターリンが顔をあわせます。
この時、ノルマンディー地域への上陸を目指すオーバーロール作戦が、具体化しました。
しかし、フランスへの上陸を見越して準備を進めていたのは、連合国側だけではありませんでした。

ヒトラーは、1940年にイギリスとの航空戦に敗れ、ソ連との戦いにもてこずっていました。
連合軍のフランス上陸は、もはや避けられないと感じていました。
問題は連合軍が、どこを、いつ、攻めて来るのか??でした。
ドイツははるかに戦闘経験豊かな部隊が、連合軍を待ち構えていました。
ヒトラーは、連合軍は必ず主要な港を攻めてくると考えていました。
中でも、自分がかつてイギリス侵攻への足掛かりにしようとしたパ・ド・カレーは最も近く、その距離は、50キロ足らずでした。
空軍が、燃料を保ちながら最大限に闘うためには、近い距離が必須でした。
もちろん、連合軍もパ・ド・カレーが一番でした。
しかし、連合軍は、最短距離のパ・ド・カレーではなく、ノルマンディーに・・・。
敵の不意を突き、時間を稼ごうとしたのです。
上陸作戦は、往々にして最初の数時間が勝敗を決します。

初日の課題は、最初の陣地となる橋頭堡を築くことでした。
しかし、橋頭堡は格好の標的になります。
連合軍は、巨大な港の建築を試みました。
この港から、兵士や物資を海岸に送ることができるのです。
しかし、連合軍の行く手には、大西洋の壁という強大な障壁がありました。
1941年、ヒトラーは、第三帝国の威信をかけた難攻不落の砦を作っていたのです。
ノルウェー北部からフランススペイン国境まで、およそ4300キロにわたり、8000を超える防御陣地、鉄条網、機関銃座や火炎放射台、対戦車砲、通信傍受施設を供えます。
しかし、防御施設の大半は作りかけで、人員、物資・・・不足していました。

1943年末、ヒトラーは、ロンメル元帥を大西洋の壁の補強に当たらせます。
進んでいない補強・・・ロンメルは全力でその強化に努め、改善します。
ロンメルは、フランスとオランダの海岸に、12の要塞を築きました。
中でも力を入れたのが、パ・ド・カレーの防御です。
ドイツ軍は、連合軍がパ・ド・カレーを狙ってくるとわかっていました。
人員や物資をこの地域に集中させ、防御を固めようとします。
そのことが災いして、それ以外は手薄なままでした。

1944年初頭、フランスにはドイツ軍150万人が駐留し、連合軍の侵攻への備えをはじめていました。
作戦の成功は、ドイツ軍の不意を突けるか??というところにかかっていました。
ヒトラーは、戦線が西になることは確信していたものの、パ・ド・カレーと思い込んでいました。
イギリスは、その思い込みを長引かせて、ノルマンディーから頭を外させなければなりません。
イギリスは、偽の情報を流して欺瞞作戦に力を入れます。
1942年には、北アフリカ戦線で効果をあげています。
イギリスの首相・チャーチルは、上陸作戦をドイツに悟られないために、軍の幹部たちに情報戦を指示します。

ロンドンでは、欺瞞作戦に特化した”ロンドン諜報司令部”が設置されました。
チャーチル自らがトップを選びます。
頭脳明晰で入隊まで金融機関で活躍していたイギリス陸軍ジョン・べヴァン中佐です。
作戦全体の管理を行いました。
彼は、欺瞞作戦の全貌を把握していました。
チャーチルはこの助言を頼りにし、そのオフィスを内閣戦時執務室の近くに置きました。
べヴァンは、国内での諜報活動が専門のMI6と、国土安全保障を担当するMI5の統括も任されます。
こうして、コードネーム・フォーティテュード(不屈の精神)作戦が始動・・・
作戦に関わる全ての人々にとって、膨大な挑戦の始まりでした。
フォーティテュード作戦は、二段構えの大掛かりなものでした。
ひとつは、フォーティテュード・ノース・・・
スカンジナビア侵攻をほのめかし、そこにいるドイツ軍をくぎ付けにし、西部戦線に加わるのを防ぎます。
そしてフォーティテュード・サウス・・・
連合軍がいつどこに上陸するのかを悟られないように、敵をかく乱します。
イギリス南東部に連合軍の部隊が集結していると情報を流すと、ヒトラーはパ・ド・カレーを目指していると思うはず・・・
この情報のために、本物の部隊を投入するわけにもいかないので、連合軍はアメリカ軍第一軍集団という架空の部隊を作り上げます。
当時の地図のケント州一帯には、架空の師団の配備位置が記されています。
どうやって信憑性を持たせたのでしょうか?
ヒトラーの注意をひくような、実在の人物を司令官にします。
連合軍総司令官アイゼンハワーが指名したのは、アメリカ陸軍のパットン将軍でした。
パットンなら申し分ありませんでした。
パットンの名前を聞いたドイツ軍は、「あのパットンが率いるのだから、連合軍の精鋭部隊に違いない!!」と考えたのです。

パットンは、かつてダンケルクからの撤退作戦で拠点となったドーバー城の地下に司令部を置きました。
ドーバー城に司令部を置くことで、連合軍の目標はパ・ド・カレーだと思わせます。
実際の司令部は、ポーツマスにありました。
上陸作戦の実行を決めてから、連合国は並行してフォーティテュード作戦を具体化させてきました。
1943年11月の極秘文書から、当時すでに作戦の詳細が検討されていたことがわかります。
第一段階は、架空の軍隊の装備を整えることでした。
ロンドン諜報司令部は、相当な費用を投じ、航空機や船舶などの木製のダミーを作らせます。
何百という艀や上陸用舟艇が作られました。
航空機が偽物の滑走路に・・・
しかし、問題が・・・戦時中、木材は高価だったので、費用が膨大なものに・・・!!
おまけに木製のダミーは重く、移動する部隊としては不向きでした。
低コスト、軽量で敵を威圧するためには・・・??
アメリカ軍の士官が、秀逸なアイデアにたどり着きました。
ニューヨークの感謝祭パレードののバルーンを思い出したのです。
ゴムなら軽くて丈夫、様々な形に作ることができます。
1944年の3月以降、アメリカのタイヤメーカーが中心となって、ダミーの戦車づくりを始めました。
空気で膨らませるゴム製の戦車が何百と作られ、イギリスに送り込まれたのです。
イギリス南東部の沿岸部に255台のゴム製の戦車が置かれました。
こうしてダミーの航空機や戦車が設置されていきました。
あとは、ドイツ軍の偵察飛行を待つだけでした。

その効果は抜群でした!!

ロンドンの映画スタッフも参加します。
ドーバー近郊に、燃料貯蔵庫を造れ!!
手に入るものを・・・ガラクタをかき集めて・・・ダミーを作ります。
タンカー、石油ポンプ・・・連合軍は、設備に至るまで細かく作り上げました。
国王ジョージ6世も現地を視察します。
連合国は、総力を挙げて一芝居を撃ちます。
あらゆる産業が協力します。
当時、イギリス南東部には数千人の兵しかいませんでしたが、それを100万人規模に見せる必要があったのです。
ドーバーには多くの人や車が行き交うようになりました。
アメリカ軍第一軍集団司令部の標識が立ち、地元の人々もそれを信じていました。
しかも、ドイツの諜報員が見ることを見越して、新聞社を巻き込んだプロパガンダが展開されます。
新聞には架空の記事が・・・!!

無線通信は傍受される可能性がありましたが、それを逆手に取ります。
ドーバーの無線室から、軍の動向を知らせるメッセージを大量に送ります。
ここに大規模な部隊がいるとドイツ軍に思わせるために・・・!!
こうして、実在しない部隊に命が吹き込まれていきました。
架空の師団に割り当てる徽章まで・・・!!

しかし、ドイツ側が気付かなければ意味がない・・・
どれだけ把握していたのでしょうか?
ドイツには、架空の師団の配置を正確に伝わっていました。
1944年当時、ドイツ軍によるイギリス本土の偵察飛行はほぼ不可能でした。
当時、イギリス上空を飛ぶドイツ軍機は、連合軍にことごとく撃ち落されていて、写真を持ち帰ることができませんでした。
そこで、あえてドイツ軍機を誘い込み、イギリス南部に集中させている様子をわざと撮影させます。
ドイツ軍は1944年1月~3月まで、一度もイギリスの偵察飛行を行いませんでした。
4月~5月にかけては成功しています。
そこには、ハッキリとダミーの上陸用舟艇が映っています。

架空の部隊、架空の無線通信、偵察機の誘導・・・しかし、数回の偵察飛行をしただけで、ドイツ軍が詳しく情報を入手することができたのか・・・??

そこにはスパイの存在が・・・
イギリスには2つの諜報機関MI5と、MI6があります。
国土安全保障を目的とするMI5の戦時中の方針は明確でした。
敵国のスパイは、協力させたうえで本土に帰らせ、それを拒むものは処刑しました。
潜入したドイツのスパイは、たちまちあぶり出され・・・ドイツ国防軍の諜報機関アプヴェーアは、イギリスで確かな情報源を一人も確保することができませんでした。

二重スパイ・・・ウソにウソを重ね・・・イギリスは、目標を達成するためには大掛かりに展開します。
しかし、ドイツにはそんな発想はありませんでした。
二重スパイを使って、偽の情報を流します。
ドイツが其れに騙されていることをどうやって確認したのか・・・??
イギリスは、1941年以降・・・ドイツの暗号エニグマの解読に成功していたのです。
暗号解読によって手に入れた情報は、最高機密とされました。
エニグマの解読・・・それによって、ドイツ軍司令部の通信内容を把握することができました。
暗号解読の拠点だったブレッジリーパーク・・・1944年には、難解の暗号も、8時間程度で解読可能でした。
相手の反応をリアルタイムで把握し、敵のスパイも把握していたのです。

一方、ドイツ国防軍諜報機関アプヴェーアは、自分たちのスパイ網に自信を持っていました。
イギリス各地にスパイを配置させ、通信傍受で得た情報の裏付けをとっていました。
ところが、ネットワークを統括していた人物こそが・・・二重スパイ、フアン・プジョルです。
フォーティテュード作戦に欠かせない人物でした。
ドイツの分析結果を裏付けるような情報を提供するのが彼の役目でした。
しかし、どうしてスペイン人のプジョルがイギリスの作戦に加わることになったのでしょうか?

バルセロナ出身のプジョルは、スペイン内戦を経験し、独裁者フランコやファシストを憎悪していました。
第二次世界大戦が激化する中、連合軍のスパイになることを決意します。
ヨーロッパの文明が、ヒトラーによって破壊されてしまう・・・!!
しかし、イギリスは門前払いします。
敵の諜報機関の回し者かもしれない・・・!!
プジョルは大胆なプランを考えます。
イギリスの関心をひくために、ドイツのスパイとして働くことにしました。
ドイツ側の信頼を得ることで、イギリスの興味をひきたかったのです。
1941年、プジョルはマドリードでドイツ軍のスパイにスカウトされます。
こうして中立国スペインで、ドイツのスパイとして活動し、連絡係のキューレンタールとも信頼を得ていきます。
プジョルは、ドイツにイギリスの入国許可証を持っていると嘘をつきます。
当時、ドイツはイギリスにスパイを潜入させるのに大変苦労していました。
この機会に飛びつき、プジョルに秘密の連絡手段を教えます。
報酬も与えます。
41年の夏・・・プジョルはロンドンに渡ったと思わせながら、実際にはポルトガルのリスボンに到着。
スパイの多かったこの町で、活動を始めました。
彼はイギリスに行ったこともありませんでした。
リスボンの図書館で時刻表を見て到着・・・あたかもイギリスにいるようにしてやり取りを始めます。
ドイツ側にはアラリックというコードネームで呼ばれたプジョルは、巧妙にウソをつきました。
そもそも、ドイツに有利な情報を渡すつもりはなかったため、様々な話をでっち上げ、永遠と描写させたのです。

プジョルは自分の身を護るために、イギリス国内に大勢の情報源を確保したように装います。
数か月のうちにプジョルのネットワークはイギリス全土に広がります。
情報が偽物だとバレてもその情報源のせいにして、難を逃れることができます。
イギリスMI5も動き始めます。
彼等はアラリック・・・プジョルの暗号の内容をすべて解読していました。
情報はマドリードのキューレンタール少佐を通じて、ベルリンに送られていました。
アラリックとは何者なのか・・・??どうして本土にスパイ網を巡らすことができたのか??
奇妙だったのは、彼の情報の殆どが全くデタラメだったこと・・・。
イギリスの諜報機関は、リバプールにいたスパイが送った情報を入手しました。
輸送船団がマルタ島を目指して出発したという情報・・・そんな事実はありませんでした。
その情報を受けたドイツは、迎え討とうと空軍と海軍から数多くの航空機を動員したのです。
ベルリンにこれほどまでの影響力を持つスパイ網を持つ人間がMI5の目を逃れて展開している・・・それを取り仕切っているのはアラリック・・・

アラリックとフアン・プジョルが重なり出しました。
1942年4月・・・MI5の諜報員が、プジョルに接触・・・
プジョルはドイツのスパイとして1年間活動していたと証言。
それは、イギリス側に認めてもらうためだったと告白します。
ついにプジョルは二重スパイとしてイギリスに採用され、コードネームはガルボ!!
1942年、プジョルはイギリスにわたりました。
偽の情報を流し続けてきたことを当局に認めます。
各地にいるはずのスパイは、全部架空の人物だと明かしたのです。
つまり、プジョルのイギリスでの組織自体も存在しませんでした。
偽のスパイ網は拡大し、1944年には27人にもなっていました。
ドイツが偽の情報を信じなければ、フォーティテュード作戦は失敗する・・・!!
全てはプジョルと架空のスパイたちにかかっていました。
プジョルは報告をロンドンから諜報機関アプヴェーアのマドリード支部に送ります。
支部長のキューレンタールは、そのままベルリンに転送します。

イギリスはエニグマの解読に成功していたので、プジョルが送った全ての情報がベルリンに転送されていることも解っていました。
ドイツ側がプジョルを高く評価していることも解っていました。
ヒトラーは、イギリスが南部に兵力を集中させていると確信するようになります。
1942年4月~44年8月まで、プジョルは毎日のように大量の情報をドイツ側に送っています。
中継係のキューレンタールは、プジョルを少しも疑わなかったのでしょうか??
彼を採用した自分に傷をつける・・・時間がたつにつれて、プジョルを切り捨てることができなくなってきていました。

ドイツ国防軍のアプヴェーアは、完全にヒトラーに従っていたわけではなく、北アフリカや南イタリアへの連合軍上陸を予想できなかったアプヴェーアに、ヒトラーは不信感を募らせ、強硬手段に出ます。
1944年2月、アプヴェーアのヴィルヘルム・カナリス長官を、故意に情報を改ざんしたとして更迭しました。
1920年代初頭に創設されたアプヴェーアは、ナチス傘下ではなく、国防軍の諜報機関です。
カナリス長官は愛国者でしたがナチスには反発していました。
レジスタンスに肩入れし、強く批判していたのです。
カナリスが更迭されたあとも、任務は続行されます。
キューレンタールはユダヤ系であり、ヒトラーが政権を握ると同時に、ベルリンを離れていました。
彼は、プジョルの情報を嘘だとしても見逃していたのでしょうか?
連合軍は、敵の諜報機関から思いがけない恩恵を受けていたのでしょうか?

プジョルは、架空のスパイ網を駆使し、ドイツ側に偽の情報を流し続けます。
上陸作戦を控えた5月・・・なぜかヒトラーはノルマンディーを強く警戒します。
しかし、ロンメルは不可能だと・・・ほとんどの部隊をパ・ド・カレーに集中させていたのです。

上陸作戦決行前夜・・・イギリスはまたもや名案を思い付きます。
上陸直前にドイツに本物の情報を伝えたのです。
朝の4時ごろ・・・プジョルは暗号化した情報をマドリードに送り、ベルリンに転送されます。
連合軍がノルマンディーに上陸・・・という情報です。
まだ海岸に部隊は到着していませんでしたが・・・

ドイツ軍のプジョルに対する信頼は劇的に高まります。
プジョルが見事に連合国の動向を読んだことを称賛し、情報が遅れたのは技術的な問題のせいだと思ったのです。
ついに6月6日・・・遂に連合軍はノルマンディーに上陸!!
しかし、プジョルの任務はまだ終わっていません。
パ・ド・カレーの装甲師団が、ノルマンディーに行くことを防がなければなりませんでした。
ここからがフォーティテュード作戦の山場・最大の快挙でした。
彼等は、ノルマンディー攻撃は陽動作戦にすぎず、本当の狙いはパ・ド・カレーだとヒトラーに思い込ませたのです。
ドイツをだまし続けます。
桟橋を組み立て、陣地を守るための物資を降ろすために時間稼ぎが必要でした。
プジョルの本当の任務はここからでした。
ドイツに情報を送ります。
イギリス南部で部隊の動きが活発化している・・・
第二の上陸作戦の目標はパ・ド・カレーだ!!

ドイツはまたもや偽の情報に惑わされ・・・連合軍は時間を稼ぐことができました。
ノルマンディーへの上陸が成功し、足がかりができ、大規模な追撃が可能となりました。
これが戦争の流れを変え、退局を余儀なくされたドイツ軍はこの後勝機を見出すことができませんでした。
偽の情報を掴まされたドイツは、プジョルを問いただします。

「パ・ド・カレーへの攻撃などなかったではないか?」
「ノルマンディーの攻撃が予想以上の成果をあげたので、連合軍はパ・ド・カレーへの攻撃を取りやめたのだ」

ドイツ軍は納得します。
壮大な謀略作戦は成功をおさめました。
皮肉にも、ヒトラーは1944年7月、プジョルの功績をたたえ、鉄十字章を授与しました。
4か月後、イギリスからも大英帝国勲章を授かったプジョルは、敵対する2つの国から勲章を授与されたことになります。
第二次世界大戦が終わり、冷戦の時代になると、イギリスの諜報機関はフォーティテュード作戦を覆い隠してしまいます。
この作戦について多くが語られなかった背景には、人道的な理由もあります。
連合軍はパ・ド・カレーへの上陸に信憑性を持たせるために、一帯を爆撃・・・
何百というフランス市民が命を失いました。

非人道的な行為もやむ終えないと考えていました。
どんな犠牲を払っても目的を果たさなければ・・・!!
フランスのレジスタンス組織も犠牲になりました。
ドイツの諜報員が潜入していることを知ったイギリスが事前に通告しませんでした。
レジスタンスメンバーも騙され・・・フォーティテュード作戦の全体図を知っていたのは、イギリスとアメリカの諜報機関のみでした。
イギリスとアメリカが保管されている文書が全て公開されるためにはあと10年・・・もしくはあと35年必要です。
作戦の真相はまだ闇の中です。
第二次世界大戦が終わって70年以上たった今も、秘密は秘密のままなのです。

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終戦翌年から、各地に巡幸を始めた昭和天皇・・・人間宣言を行い、新しい憲法で国民統合の象徴とされました。
巡幸する昭和天皇の後ろに常に付き従うものがいました。
初代宮内庁長官・田島道治です。
占領の時代、象徴となった天皇を支え続けました。
その田島道治が残した記録が見つかりました。
”拝謁記”・・・5年近く、600回を超えた昭和天皇への拝謁の記録です。
そこに書かれていたのは、敗戦の道義上の責任を感じていた昭和天皇の告白でした。

「私は反省といふのは私にも沢山あるといへばある」

手帳6冊、ノーと12冊に及ぶ拝謁記。。。
憲法ができて、大変な変わり目・・・
敗戦の責任を感じていた昭和天皇は、戦争について国民の前で話したいと強く希望していました。
日本の独立回復を祝う式典でのお言葉では・・・戦争責任について・・・。

「私の責任のことだが、従来のようにカモフラージュでゆくか、ちゃんと実状を話すかの問題があると思う」by昭和天皇
田島に問いかけます。
「その点今日から多く研究致します。」by田島
多くの犠牲者を出した太平洋戦争・・・天皇は反省にこだわり続けました。
「私はどうしても反省という字を、どうしても入れねばと思う」by昭和天皇
ところが、総理大臣の吉田茂は、戦争に言及した文言の削除を要求してきました。
「総理の考えといたしましては、戦争とか、敗戦とか言うことは、生々しいことは避けたいという意味であります。」by田島
「しかし・・・戦争のことは言わないで、反省のことがどうして繋ぐか」by昭和天皇


戦後象徴となった天皇のその出発点とは・・・??
田島道治の遺族のもとで、極秘に保管されてきた”拝謁記”
奇跡的に残されたいきさつは・・・??
田島道治が晩年、入院を繰り返していたおt機に、身辺整理という形で拝謁記を焼こうとしました。
しかし、決して悪いようには取り扱わないから、焼かないで取り残してほしいという家族の要望で残されました。
時代が昭和・・・平成・・・令和と移り、この資料を公開しようと思ったのだとか・・・。

田島道治が宮内庁の前身・・・宮内府の長官になったのは、1948年6月5日・・・終戦から3年・・・占領下で宮中の改革が求められていました。
時の総理大臣・芦田均が白羽の矢を立てたのが田島でした。
初めての民間からの登用でした。
田島は当初62歳・・・戦前の金融恐慌後の銀行の立て直しに尽力、その手腕を買われてのことでした。
当初、外部からの長官登用に難色を示したと言われる昭和天皇・・・
しかし、拝謁記には皇室と国民の関係を良くしようと理解を示していることが書かれています。

「皇室と国民の関係というものを、時勢に合うようにしてもっとよくしていかなければと思う
 私も微力ながらやるつもりだ
 長官も私のことで気付いたら、いってくれ」by昭和天皇

「勿体ない仰せで恐れ入ります」by田島

田島は新憲法の理念に沿うように、側近らの意識改革を図り、宮中の合理化を推し進めていきます。
当時、田島が直面したのが、昭和天皇の戦争責任の問題でした。
大日本帝国憲法では、天皇は軍を統帥し、統治権のすべてを握っていました。
日本政府は天皇は無答責・・・国内法上は法的責任はなかったとしました。
しかし、敗戦の道義的責任を問い、退位を求める声がありました。
東大総長・南原繁は次のように述べました。
「陛下に道義的責任あり」。。。法律的な責任はないが、道徳的な責任はある・・・と。

日本の戦争指導者を裁く東京裁判・・・
判決が近づくと、退位を主張する論説がメディアの中で広まっていきます。
昭和天皇の退位を押しとどめたのが、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーです。
占領統治に天皇の存在が欠かせないとし、天皇に伝えます。
これを受けた昭和天皇の返答は・・・??
1948年11月12日、田島道治が天皇に代わってマッカーサーに送った書簡によると・・・

「いまやわたくしは、日本の国家再建のため、国民と力を合わせ最善を尽くす所存です。」

事実上、退位しないとの意思を示したこの書簡・・・これで昭和天皇の退位問題には決着がついたと考えられてきました。
しかし、今回発見された拝謁記によると・・・翌年の退位の可能性も語っていました。

「講和が締結されたときに、また退位などの論が出て、いろいろの情勢が許せば退位とか譲位とか言うこともかんがえられる
 そのためには、東宮ちゃんが、早く洋行するのがよいのではないか」by昭和天皇

東宮・・・皇太子は、この時まだ15歳でした。
早めに外国訪問させたいと、自らの退位を見据えて、昭和天皇は考えていました。
1949年の時点での、この退位発言をどうとらえたらいいのか・・・??
君主としての責任感があって・・・一つは国民に対する君主としての責任、そしてもう一つは皇祖皇宗・・・歴代の天皇と天皇家の祖先に対する責任・・・今まで営々と続いてきた国体を危機に陥れてしまったと、敗戦という事態を迎えた・・・そのことに対する道義的な責任・・・。
皇祖皇宗と国民に対する責任のあることがわかりました。

昭和天皇の意向を受けて、田島が相談したのは総理大臣の吉田茂でした。
吉田の意見は・・・??
「余の利口ぶるものが、そんな事をいうのもあるが、人心の安定上、そんな事は考えられぬ」

1951年11月、昭和天皇は、地方巡幸に向かいました。
特別列車の中で、天皇と田島は退位問題について話し合います。

「私の退位云々の問題についてだが、帝王の暗いというものは不自由な犠牲的の地位である
 その位を去るのは、むしろ個人としてはありがたい事ともいえる
 現にマッカーサー元帥が、生物学がやりたいのかといった事もある
 地位に止まるのは易きに就くのでなく、難きにつき困難に直面する意味である」by昭和天皇

「恐れ多くございますが、陛下は法律的には御責任なきも、道義的責任がありと思召され、此責任を御果しになるのに二つあり
 一つは位を退かれるという消極的のやり方であり、今一つは進んで日本再建のために困難な道に敢て当らうと遊ばす事と存じます
 そして陛下は、困難なる第二の責任をとる事の御気持ちであることを拝しまするし、田島の如きはいろいろ考えまして、その方が日本国の為であり、結構な結論と存じます」by田島

昭和天皇と田島は、退位せず、日本の再建にあたる道を選択しました。
退位をめぐるこの判断にどのような背景があったのでしょうか?

昭和天皇は、個人的には止めた方が気が楽になるというのが偽らざる本心だと思われます。
退位した方がいい・・・しかし、それを留意する・・・
皇室が国民に認められていくことにプラスになるか、すごく気になっていました。
国民の意思が、決定的に重要だという認識があるからこそ、気にしていた結果なのです。
国民に自らの立場をどのように伝えていくのか・・・昭和天皇にとって、大きな課題が敗戦の道義的責任でした。

1951年9月・・・サンフランシスコ平和条約調印・・・
翌年の発行で、7年近くに及んだ占領が終わり、日本が独立を回復することとなります。
独立に当たり、国民にどのようなお言葉を表明するのか・・・??

「講和となれば、私が演説というか、放送というか、何かしなければならぬかと思う
 ここで私の責任のことだが、従来のようにカモフラージュでゆくか、ちゃんと実状を話すかの問題があると思う」by昭和天皇

「その点、今日からよく研究いたします」by田島

お言葉の検討は、田島に託されました。
これ以降、一年近く、試行錯誤されます。
田島が起草した「おことば」案が八つ残されています。
一番古いものは、1952年1月15日案・・・5月3日のおことば表明に向けて、何度も書き直しが続きます。
昭和天皇がおことば案に強く求めた文言が・・・

「私はどうしても反省という字を、どうしても入れねばと思う」by昭和天皇

昭和天皇は、田島に戦争への反省を語り、その回想は、日中戦争から始まりました。

「私は反省というのは、私にも沢山あるといへばある
 志那事変で、南京で、ひどいことが行われているという事を、ひくいその筋でないものから、うすうす聞いてはいたが、別に表立って誰も言わず、従って私は此事を注意もしなかったが、市ヶ谷裁判で公になった事を見れば実にひどい」by昭和天皇

日中戦争のさ中に起きた南京事件・・・日本軍が南京を陥落、略奪・暴行を行い、一般住民や捕虜を殺害しました。
事件は戦後、東京裁判で問題となりました。

「私の届かぬ事であるが、軍も政府も国民もすべて、下剋上とか軍部の専横を見逃すとか、皆反省すれば悪いことがあるから、それらを皆反省して、繰返したくないものだという意味も、今度のいう事の内にうまく書いて欲しいと思う」by昭和天皇

「その点は、目下一生懸命作文を練っております。」by田島

天皇の求めに応じて、田島は反省の文言を付け加えました。

”過去の推移を三省し、誓って過ちを再びせざるよう、戒心せねばならない”

反省した過去の推移とは・・・??
拝謁記の中で、昭和天皇は太平洋戦争に至る道を、何度も田島に語っていました。
それは、張作霖爆殺事件にさかのぼります。
1928年、旧満州の軍閥・張作霖を関東軍が列車ごと爆殺した・・・
事件をあいまいに処理しようとした総理大臣・田中義一を、昭和天皇は叱責したが、停職になっただけで真相は明らかにされませんでした。
その3年後の1931年、関東軍は独断で満州事変を引き起こし、政府もそれを追認します。
昭和天皇は、軍の下克上ともいえる状態を憂いていました。

「考えれば、下剋上を早く根絶しなかったからだ
 田中内閣の時に、張作霖爆死を厳罰にすればよかったのだ」by昭和天皇

陸軍の青年将校たちが起こしたクーデター・二・二六事件・・・
天皇は厳罰を指示し、反乱は鎮圧されましたが、軍部の台頭は強まっていきました。

「青年将校は、私を担ぐけれど、私の真意を少しも尊重しない
 軍部のやることは、あの時分は真に無茶で、迚もあの自分の軍部の勢いは誰でも止め得られなかったと思う」by昭和天皇

その後、日本は泥沼の日中戦争へと突き進んでいきます。
1941年東條英機内閣は、アメリカ・イギリスに宣戦布告!!
太平洋戦争が始まりました。

「東條内閣の時は、既に病が進んで、最早どうする事も出来ぬという事になってた
 終戦で戦争をやめるぐらいなら、宣戦前かあるいはもっと早く止めることができなかったかというような疑を退位論者でなくとも疑問を持つと思うし、また、首相をかえる事は大権で出来ること故、なぜしなかったかと疑う向きもあると思う」by昭和天皇

「それはもちろんあると思います。」by田島

「いや・・・そうだろうと思うが、事の実際としては下剋上でとても出来るものではなかった」by昭和天皇

深い後悔の念を、誰かに話さずにはいられない・・・
残念だった・・・後悔、反省が多く、戦後でも、戦前、戦中に生きているといってもいいような暮らしぶりでした。
憲法上、あるいは世間の常識からみれば、統治権の総攬者 天皇は、主権者だったので、あの大事な場面は天皇が何とかすべきだったと思っている人が多いだろうと昭和天皇は考えていて、どうしてそれができなかったのか?自分で納得できる答えを探していたのです。

昭和天皇の深い後悔の言葉を受け止めた田島は、2月26日、おことばの下書きを天皇に説明します。

「琉球を失ったことは書いてあったか?」by昭和天皇
「残念とは直接ありませぬが、「国土を失い」とあります」by田島
「そうか、それはよろしいが、戦争犠牲者に対する厚生を書いてあるか」by昭和天皇
「「犠牲を重ねて」とはあります
 その厚生のことは、ある時の案にはありましたが、削りました
 と、申しますのは、万一政治に結び付けられるとわるいと思いましたからですが、これは大切の事故、またよく考えます」by田島
「儀税者に対し同情には堪えないという感情を述べることは当然であり、それが政治問題になることはないと思うが」by昭和天皇

日本人だけで300万人が犠牲となった戦争・・・
中でも沖縄では県民の4人に1人が亡くなりました。
日本が独立を回復したのちも、アメリカの統治下におかれることになります。

3月4日、田島は天皇の意向を受けてまとめたおことば案を朗読します。

「ちょっと読んでみますから、訂正を要するところを仰せいただきたいと存じます
 
 事志と違い 時流の激するとこと 兵を列強を交えて 遂に悲惨なる敗戦を招き 国土を失い 犠牲を重ね 曽て無き不安と困苦の道を 歩むに至ったことは 遺憾の極みであり 日夜之を思って 悲痛限りなく 寝食安からぬものがある
無数の戦争犠牲者に対し 深厚なる哀悼と 同情の意を表すると同時に 過去の推移を三省し 誓って過ちを再びせざるよう 戒慎せねばならない  」by田島

「内外に対する感謝、戦争犠牲者に対する同情、及反省の点はよろしい
 内閣へ相談してあまり変えられたくないね」by昭和天皇

田島は部下の宮内庁幹部に意見を求めました。
その結果、修正を求める声が上がりました。

3月10日、これを受けて、田島は天皇に説明します。

「主な二三の反対を強く致しましたが、その第一は「事志と違い」というのを削除するという事でありました
 何か、感じが良くないとのことであります」by田島

「どうして感じがよくないだろう
 私は「豈朕が志ならんや」ということを、特に入れてもらったのだし、それをいってどこが悪いのだろう」by昭和天皇

この「事志違い」という文言・・・
太平洋戦争は天皇の志と違って始まったという事を意味していました。
昭和天皇は、開戦の詔書で表明しています。
”今や不幸にして米英両国と釁端を開くに至る
 豈朕が志ならんや”

「私はあの時、東條にハッキリ米英両国と袂を分かつということは、実に忍びないといったのだから」by昭和天皇

「陛下が「豈朕が志ならんや」と仰せになりましても、結局陛下の御名御璽の詔書で仰せ出しになりましたこと故、表面的には陛下によって戦が仰せられたのでありますから、志でなければ戦を宣されなければ、よいではないかという理屈になります」by田島

田島はたとえ平和を念じていても、実際には天皇の名で開戦を裁可したのだから、こと志と違うとういうのは弁解に聞こえると論じました。

田島は、大学時代、国際親善と平和を唱えた新渡戸稲造に学びました。
戦争中から軍部に批判的だったといいます。
田島は民間人で、民間の組織の責任のあり方をわかっていました。
しかし、昭和天皇の偽らざる・・・信頼できる人だけに言える本音でした。

3月17日案・・・結局田島は、「事志と違い」を削除し、「勢いの赴くところ」としました。
 
戦争への反省を巡って対話を進める中、昭和天皇が何度も口にしたのは・・・

軍閥の弊 
軍閥の政府に終始御不満 
軍閥が悪いのだ

陸軍を中心に政治を左右した軍閥への不満・批判です。

「私は再軍備によって旧軍閥式の再台頭は絶対に嫌だ」by昭和天皇

1950年、朝鮮戦争が勃発、これをきっかけに再軍備に向けた動きが始まりました。
警察予備隊が発足、旧軍と同じ捧げ銃をしているのを見た天皇は・・・

「ともすると、昔の軍にかえるような気持ちを持つとも思えるから、私は例の声明メッセージには、反省するという文句は入れたたほうが良いと思う」by昭和天皇

当時アメリカは、日本に再軍備を強く求めていました。
しかし、吉田茂はアメリカの特使・ダレスに消極的な姿勢を示しました。経済的な発展を優先したからです。
ダレスの要求に応じない吉田・・・
これに対し、公職追放を解除された保守政治家たちは再軍備を主張していきます。
こうした情勢の中、昭和天皇は田島にどう伝えていたのでしょうか?

昭和天皇は、旧軍閥の復活に反対しながらも、朝鮮戦争のさ中、共産勢力の進出によるご心配をされていました。

「軍備といっても国として独立する以上必要である
 軍備の点だけ、公明正大に堂々と改正してやった方がいいように思う」by昭和天皇

昭和天皇は、再軍備について何度も田島に相談しています。

「吉田には再軍備のことは、憲法を改正すべきだという事を、質問するようにでも言わんほうがいいだろうね」

再軍備を巡って異なる意見を持つ天皇と吉田茂・・・。

日本の安全保障に対する昭和天皇のこだわり・・・
憲法第9条を改正して再軍備をするというのは、主権国家として当然ではないのか?しかし、旧軍閥の復活は駄目だ!!
吉田は独自の再軍備の構想を持っていて、日本の経済力が足らないうちは、それまで待ってもらいたいという意味を込めて再軍備反対でした。

質問という形で、度々吉田茂に意見を伝えようとする天皇・・・

「そういうことは政治向きの事故 陛下がご意見をお出しになりませぬ方がよろしいと存じます
 たとえ吉田首相にでもお触れにならぬ方がよろしいと存じます」by田島

明治憲法では、天皇は「神聖にして侵すべからず」として大権を持った君主でした。
新憲法で象徴となり、昭和天皇は総理大臣に内奏を求め、政治や外交についての意見を伝えようとしていました。
明治憲法の時代の意見が、必ずしも払拭されていないところがあり、元首としての自意識があり、いろんな問題について自分の意思を表示しようとしました。
しかし、田島は日本国憲法のもとで象徴天皇制を位置付けていく・・・という問題意識を持っていました。
政治に関わるような問題を、天皇が言うのは絶対ダメという意思は、ハッキリしていました。
象徴天皇制の枠の中に、天皇を押しとどめようとし、厳しいことも、諫めることも繰り返し言っています。
日本国憲法のもとでの天皇制・・・天皇なんだということがあり、それは田島の一貫した責任感でした。

田島は総理大臣・吉田のもとを訪ね、おことば案を説明します。
吉田は・・・
「だいたい結構であるが、今少し積極的に新日本の理想というものを力強く表して頂きたい」by吉田茂
吉田の求めに応じ、言葉が追加されます。

”新憲法の精神を発揮し、新日本建設の使命を達成することは、期して待つべきであります”

憲法尊重の文言が加わります。

3月30日、おことばの最終案が出来上がりました。
田島は大磯にいる吉田のもとを訪ね、おことば案を吟味する吉田・・・。
4月18日、田島のもとへ、吉田から思わぬ手紙が届きました。

「一昨日夕方、手紙を送ってまいりました。
 ところが一節全体を削除願いたいという申し出でありました
 それは此節であります

 「勢いの赴くところ 兵を列国と交えて敗れ 人命を失い 国土を縮め 遂にかつて無き 不安と困苦とを招くに至ったことは 遺憾の極みであり 国史の成跡に顧みて 悔恨悲痛 寝食為めに安からぬものがあります」」by田島

そこは、天皇が戦争への悔恨を現した重要な一節でした。
吉田が削除をしようと考えた背景には、当時再燃し始めていた天皇退位論がありました。
国会で中曽根康弘議員が質問します。
「もし天皇が、御みずからの御意思で御退位あそばされるなら、平和条約発効の日が最も適当であると思われるのであります」by中曽根康弘
「これを希望するがごとき者は、私は非国民と思うのであります」by吉田茂

田島はこの吉田の懸念を天皇に伝えます。
「要するに、せっかく今、声をひそめている御退位説を、また呼び覚ますのではないかとの不安があるということでありまして、今日は最早戦争とか敗戦とか言うことは、言っていただきたくない気がする
 領土の問題、困苦になったということは、今日もうしては天皇責任論に引っかかりが出来る気がするとの話でありました
 その次の、勢いの赴くところ以下は、とにかく戦争をお始めになった責任があるといわれる危険があると申すのでございます。
 田島と申しましては、昨年来陛下が国民に真情を告げたいという思召しの出発点が消えてしまっては困りますというようなことで、一応分かれてまいりましたが、御思召御感じの程は、如何でございましょうか」by田島

「私はそこで、反省を皆がしなければならないとならぬと思う
 やはり戦争が石に判して行われ、その結果がこんなになったという事を、前に書いてあるからわかるが、それなしではいかぬ」by昭和天皇

吉田の一節削除は何を反省するのかがあいまいになる変更です。
3日後・・・天皇は、戦争への反省にこだわりました。

「あれからずっと考えたのだが、総理が困るといえば不満だけれども仕方ないとしても、私の沿岸という事からつづけて遺憾な結果になったという事にして、反省のところへ続けるという事は出来ぬものか」by昭和天皇

田島は、普段と異なる天皇の様子を記しています。
”今日ははっきり不満を仰せになる”

「総理の考えといたしましては、終戦までのことは、終戦の時の御詔勅で一先づすみといたしまして、むしろ今後の明るい方面の方のことを主として言っていただきたいという方の考えであります。
 この際、戦争とか敗戦とかいうことは、生々しいことは避けたいという意味であります」by田島

「しかし、戦争のことを言わないで、反省の事がどうしてつなぐか」by昭和天皇

「戦争のことに関して明示ない以上、ぼんやり致しますが、反省すべきことが何だという事はわかると思います」by田島

”別に何とも仰せなく 曇った御表情に拝す”

吉田の削除に不満を隠さない昭和天皇・・・この時、式典は12日後に迫っていました。
詳細なメモを用意して備える田島・・・。
天皇の最後の説得に臨みます。

・国政の重大事 政府の意思尊重の要
・祝典の祝辞に 余り過去の暗い面は避けたし
・遺憾の意表明 即ち退位論に直結するの恐れ

「おことばにつきまして、田島が職責上一人の責任を持ちまして、やはり総理申し出の通り、あの一節を削除願った方がよろしいという結論に達しました。
 国政の責任者である首相の意見は重んぜられなければならぬと思います」by田島

「長官がいろいろそうやって考えた末だから、それでよろしい」by昭和天皇

「思し召しを一年近く承りながら、今頃こんな不手際に御心配おかけし、御不満かもしれませぬものを、お許し願い、誠に申し訳ございませぬ」by田島

「いや・・・大局から見て、私はこの方がよいと思う」by昭和天皇

田島は新しい憲法のもとで象徴となった天皇は、内閣総理大臣の意見を尊重するべきだと伝えました。
象徴天皇制の枠の中で、天皇がどこまで政治的な発言ができるのか?
初めての具体的な事案でした。
結局、なるべく具体的なことは言わない方がいいだろうと落ち着いていった過程がこの資料で見ることができます。

1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効され、日本は独立を回復しました。
5月3日・・・皇居前広場に、4万人が詰めかけます。
昭和天皇は国民の前でおことばを述べました。

「さきに万世のために 太平を開かんと決意し 四国競争宣言を受諾して以来 年をけみすること七歳 米国をはじめ連合国の好意と国民不屈の努力とによって ついにこの喜びの日を迎うることを得ました
 ここに内外の協力と誠意とに対し 衷心感謝するとともに 戦争による無数の犠牲者に対しては あらためて深甚なる哀悼と同情の意を表します
 また 特にこの際 既往の推移を深く省み 相共に戒慎し 過ちをふたたびせざることを 堅く心に銘すべきであると信じます
 新憲法の精神を発揮し、新日本建設の使命を達成し得ること 期して待つべきであります
 この時に当たり 身寡薄なれども 過去を顧み 世論に察し 沈思熟慮 あえて自らを励まして 負荷の重きにたえんことを期し 日夜ただおよばざることを恐れるのみであります」by昭和天皇

新聞は退位説に終止符を打ち、決意を新たに祝うと報じました。
このおことばは、その後の日本にどのような影響を与えたのでしょうか?

道義的な責任を認めて詫びる・・・
このニュアンスは消えてしまい、重い責任をあえて背負う形で、引き続き天皇としての責任を果たすという議論になってしまっています。
天皇の責任の所在を天皇自身が明らかにする「おことば」があれば、戦争に協力した国民の責任も含めて議論が始まります。
もし出されていれば、全ての責任を昭和天皇だけに押し付けるわけにはいかない・・・
戦前戦後生きてきた政治家や戦争に協力した国民の責任をどう考えるのか??
そういう問題にも発展していく可能性のある問題でした。

あいまいな形で処理されてしまったのは悔やまれる・・・
うやむやになってしまったのは、昭和天皇にとって心苦しいことで・・・
お詫びの言葉を入れたかった昭和天皇・・・入れたくなかった吉田茂・・・
朝鮮戦争の特需で景気が回復し、経済成長路線に踏み出していく未来が見えてきていました。
国民の大多数がどん底から脱出し、経済成長路線に・・・みんな前の方に希望を託す・・・!!

1953年12月田島道退官し、その後ソニーの会長に。。。
1960年御成婚直後の皇太子夫妻がソニーの工場に・・・。
迎える田島道治・・・初めての民間出身の皇太子妃誕生の選定にも貢献がありました。
戦後、象徴として国民と歩みを共にしてきた天皇・・・
1989年・・・87歳で生涯を閉じました。

昭和・・・平成・・・令和・・・と、受け継がれてきた象徴天皇。
その出発点を記録した拝謁記・・・

田島は記しています。

「新しい皇室と国民の関係を、理想的にざ漸次致したいと存じます」

昭和天皇と田島道治の5年間の対話・・・
それは、象徴天皇とは何か?改めて私たちに問いかけています。

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昭和天皇は、晩年、生涯忘れることがなかった出来事を二つ挙げています。
ひとつは、太平洋戦争を終わらせたときの自らの決断、そしてもうひとつは・・・
二・二六事件です。
昭和11年二月二十六日・・・陸軍の青年交渉が部隊1500人を動かし、重要閣僚ら9人を殺害。
天皇中心の軍事政権を目指し、日本の中枢を4日間にわたり占拠しました。
近代日本最大の軍事クーデターです。
83年経った今年、事件を克明に記した最高機密文書が発見されました。
この極秘文書には、事件の第一報から収束までこれまで知られなかった事実が分刻みで記されていました。

陸軍上層部が事件の裏で進めていた策略・・・海軍と陸軍が臨戦態勢を取り、内戦直前だったという新しい事実・・・。
公にされてこなかった天皇の行動・・・。
日本を揺るがし、今なお多くの謎を残す二・二六事件・・・この事件をきっかけに、日本は軍部の力が拡大し、太平洋戦争に突き進んでいきました。
壊滅的な敗戦に至った日本・・・歴史の転換点となったこの4日間に、一体何があったのでしょうか?

昭和20年9月2日・・・太平洋戦争に敗れた日本が降伏文書に調印・・・
その時、日本の代表団の中に一人の海軍の幹部がいました。
富岡定俊海軍少将です。
終戦の時、海軍軍令部の部長だった富岡・・・かれこそ、二・二六事件の文書を持っていた人物でした。
富岡は、海軍の最高機密文書を密かに保管・・・これまで公になることはありませんでした。
これまでは、事件後の陸軍軍法会議の資料が主な公文書とされてきました。
今回発見されたのは、海軍が事件の最中に記録した文書・・・六冊です。
海軍は、極秘の文書には赤い色を使っていました。
作成したのは、海軍のすべての作戦を統括する軍令部でした。
そのトップら海軍の上層部が確認した事実も残されています。
陸軍ではなく、海軍からの資料が残っていたのはとても重要なことです。

2月26日・・・一日目 知られざる事実

降り積もった大雪が、東京の中心部に10センチ以上残っていました。
午前7時・・・海軍軍令部に1本の電話がかかってきました。
警視庁・占領、内大臣官邸・死、総理官邸・死・・・連絡を最初に受けた第一報です。
夜明け前、陸軍青年将校が部隊およそ1500人を率いて決起!!
重要閣僚らを襲い、クーデターを起こしたのです。

後に明らかになる事件の内容を、海軍は発生当初の時点でかなり正確につかんでいました。
首相・岡田啓介は、間違って別の男性が殺害されました。
天皇の側近・斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣は、銃や刀で残虐に殺されました。
警備中の警察官も含むと9人を殺害、負傷者は8人に上りました。
決起部隊を率いたのは、20代、30代の青年将校たちでした。
陸軍の中の皇道派を支持していました。
政治不信などを理由に国家改造の必要性を主張し、天皇を中心とした軍事政権の樹立を目的として閣僚たちを殺したのです。

しかし天皇は、勝手に軍隊を動かし、側近たちを殺害した決起部隊に厳しい姿勢で臨もうとしていました。
事件を起こしたのは、赤坂と六本木に駐屯していた陸軍の部隊の一部でした。
国会議事堂や首相官邸や国の中枢を武装占拠・・・これに対し、陸軍上層部は急遽設置された戒厳司令部で対応に当たりました。
ここに全ての情報を集めて統制していたのです。

ところが・・・極秘文書から、陸軍以外に海軍が独自の情報網を築いていたことがわかりました。
海軍は情報を取るために、一般市民に扮した私服の要員を送り込んでいました。
戒厳司令部にも要員を派遣・・・陸軍上層部に集まる情報を入手していました。
さらに・・・現場周辺に見張り所を多く設置。
決起部隊の動きを監視し、分単位で記録・報告していました。
海軍がネットワークを張り巡らせ、膨大な情報を得ていたのです。
海軍は事件発生直後からどうしてこのような体制を組めたのか・・・??

海軍は事件発生前から陸軍の一部に不穏な動きがあるという情報を掴んでいたのです。
陸軍の青年将校が率いた決起部隊・・・
天皇を中心とする国家を確立しようとクーデターを企てました。
決起部隊に行動を否定した天皇・・・。
双方の動きをめぐる陸軍上層部と海軍との攻防が始まろうとしていました。

極秘文書には、事件初日にその後の行方を左右する密約が交わされていたことが記されていました。
二つの密約・・・
事件発生直後、場所は陸軍大臣官邸・・・
事態の収拾にあたる川島義之陸軍大臣に、決起部隊がクーデターの主旨を伝えます。
陸軍大臣の回答とは・・・??
川島大臣は、決起部隊に軟弱だと詰め寄られ、彼らの目的を支持すると約束させられていたのです。
決起直後に大臣が、決起部隊の幹部に対して「昭和維新の断行を約す」と、約束しているのです。
これを聞けば、決起部隊は大臣の承認を得たと思うのは当然です。
それ以降の決起部隊の力となってしまいました。
この直後、川島大臣はある人物と接触します。
皇道派の幹部・真崎甚三郎陸軍大将です。
決起部隊が、軍事政権のTOPに担ごうとしていました。
クーデターに乗じて、陸軍上層部の中に軍事政権の樹立を画策する動きが出ていたのです。
一方、別の場所でもう一つの密約が交わされていました。

軍を統帥する昭和天皇・・・事件発生当初から断固鎮圧を貫いたとされてきました。
しかし、極秘文書には、事件に直面し揺れ動く天皇が書かれていました。
事件発生直後、海軍軍令部総長・伏見宮に宮中で会っていました。
伏見宮は、天皇より26歳年上・・・長年海軍の中枢に位置し、影響力のある皇族でした。
その伏見宮にこう問いかけていました。

「艦隊の青年士官の合流することなきや」

海軍の青年将校たちは、陸軍の青年将校たちに加わることはないのか?と。

天皇の問いに伏見宮は・・・「無き用」言上しています。
その心配はないと語りました。

海軍は決起部隊に加わることはないのか・・・不安を抱く天皇の言葉が初めて明らかになっています。
当時まだ34歳だった天皇・・・軍部の中には批判的な声もありました。
陸軍少佐だった弟の秩父宮などが代わりに天皇に担がれるという情報まで流れていました。
軍隊に人気がある秩父宮と高松宮を軍隊が天皇にしてしまう可能性があるのでは・・・という危機感を持っていたのです。
軍隊の中で天皇の威信が確立できていないというのが昭和初期という時代でした。
事件の対処次第では、天皇としての立場も危ないという状況でした。
決起部隊に加わることはないと明言した海軍に対し、畳みかけるように命令をしていきます。

「陸戦隊につき 指揮官は 部下を十分 握り得る人物を選任せよ」

陸戦隊とは、海軍の陸上戦闘部隊です。
艦艇の乗組員を主に形成されます。
万が一、決起部隊に同調する動きが出てこないか・・・天皇は疑心暗鬼になっていました。
天皇は、陸戦隊の指揮官の人選にまで注文します。
この後、海軍の存在が、天皇の鎮圧方針を支えていきます。

決起部隊の目的を支持すると約束した陸軍上層部・・・
天皇に決起部隊に加わらないと約束した海軍・・・
事件の裏で、相反する密約が交わされる中、天皇は鎮圧に一歩踏み出していきます。
天皇は海軍に鎮圧を準備するよう命じる大海令を出します。
天皇が立て続けに三本の大海令を出すのは異例のことでした。

2月27日・・・二日目 海軍の表と裏

極秘文書には戦艦を主とする第一艦隊、第二艦隊の動きが詳細に記録されています。
天皇の命令で大海令を受け、全国に部隊を展開する極めて大規模な作戦でした。
大分の沖合で演習中だった第一艦隊は直ちに動き始めます。
長門など戦艦4隻をはじめ、巡洋艦や駆逐艦、9隻の潜水艦、戦闘機、爆撃機の飛行機隊・・・第一艦隊全体が、東京を目指しました。
鹿児島沖で訓練をしていた第二艦隊は、大阪に急行します。
全国に決起部隊に続くことを海軍は警戒していたのです。

午前8時・・・横須賀から出動した陸戦隊の4つの大隊が東京・芝浦埠頭に到着していました。
これまで陸軍の事件として語られてきた二・二六事件・・・実は海軍が全面的にかかわる市街戦まで想定されていたのです。

この時、陸軍の不穏な動きは広がりを見せていました。
東京を中心とする陸軍の第一師団・・・決起部隊の大半が、この部隊の所属でした。
第一師団の参謀長が・・・
「決起部隊もまた日本人 天皇陛下の赤子なり
 彼らの言い分にも理あり
 決起部隊を暴徒としては取扱い居らず」
と漏らしています。

クーデターに理解を示すかのような陸軍幹部の発言・・・
もし・・・陸軍第一師団が決起部隊に合流したらどうなるのか・・・??
海軍は、陸軍と全面対決になることを警戒していました。

午後2時・・・海軍軍令部の電話が鳴りました。
電話の相手はなんとクーデターを起こした決起部隊でした。
この事実は、極秘文書によって初めて明らかになりました。
決起部隊はどうして海軍に接触してきたのでしょうか?
それは、海軍の内部にも、決起部隊に同調する人物がいたからです。

当時取調べを受けた人物の一覧も残っていました。
宮中顧問官退役(海)中将・小笠原長生・・・天皇を中心とする国家を確立すべきだと常々主張し、皇室とも近い関係にありました。
事件発生直後、伏見宮をたずね、決起部隊の主張を実現するように進言していたのです。
小笠原は、有力な海軍大将らと接触し、働きかけを続けていたことが記録されています。

海軍にまで接触を試みてきた接触部隊は要求してきます。

「よく物のわかる将校一名 来部せられたし」

決起部隊は、モノの分かる将校一人で来るように言ってきます。
これに対し、岡田為次参謀が、課長の命により同部に・・・
決起部隊の司令部でこう語ります。
「君たちは初志の大部分は貫徹したとして打ち切られてはいかがか・・・」
決起の主旨を否定せず、相手の出方を伺います。
この時、すでに天皇の名を受け、鎮圧の準備を進めていた海軍・・・
その事実を伏せたまま、この部隊から情報を集めていきます。

天皇の鎮圧方針に従う裏で、決起部隊ともつながっていたのです。
一方この日、陸軍軍上層部も新たな動きを見せます。
天皇が事態の収束が進まないことにいら立ち、陸軍に事態の鎮圧を急ぐように求めていたのです。

午後9時・・・戒厳司令部に派遣されていた海軍軍令部員から重要な情報が飛び込んできました。
真崎甚三郎大将が、ある陸軍幹部と会い極秘工作に乗り出したという情報でした。
相手は石原莞爾大佐・・・満州事変を首謀した人物です。

二人が話し合ったのが、青年将校の親友を送り、決起部隊を説得させるという計画でした。
この説得によって事態が収束するという楽観的な考えを持っていました。
真崎・・・約70%成功スルモノト観察
石原・・・成功ハ殆ド確實
一方、従わない場合は、容赦なく切り捨てることを内々に決めていました。

海軍は、情勢をより厳しく見ていました。
決起部隊の考えを密かに探っていた海軍の岡田中佐・・・午後10時30分の報告

”真崎ら郡司参事官ノ説得ニ封シテ一部ノモノハ強硬
 尚解決シ居ラズ”

海軍は、決起部隊が説得に応じず深刻な事態に陥る可能性が高いと見ていました。

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2月28日・・・三日目 内戦の危機
朝からみぞれが降っていました。
午前5時・・・天皇が出したある命令を巡って、事態は大きく動きます。
決起部隊の行動は、天皇の意思に背いていると断定する奉勅命令です。
直ちに元の部隊に戻らせるよう命じるものでした。
事件発生当初は不安を抱く言葉を発していた天皇・・・
奉勅命令によって、自らの意思を強く示したのです。
しかし、海軍はこの天皇の意思に反する動きを掴んでいました。

11時5分・・・小藤大佐ガ戒厳司令部ヨリカケタル電話ノ傍聴

海軍が傍聴したのは、奉勅命令を決起部隊に伝える役目を担っていた小藤恵陸軍大佐の電話です。
奉勅命令を伝えるために決起部隊と面会してきた小藤・・・この結果を電話で報告している時、海軍軍令部員は傍で聞いていました。
そして、小藤が天皇の重大な命令を決起部隊に伝えなかったという事実を知ったのです。

”奉勅命令ハ師団司令部ニテ握リツブシ居レリ”

決起部隊との衝突を恐れ、奉勅命令を伝えられずにあいまいな態度を取り続けていたのです。
しかし、小藤とのやり取りや態度などから、部隊は奉勅命令を出し自分達を反乱軍と位置付けたことを知ります。
天皇が自分たちの行動を認めていないこと・・・そして陸軍上層部がもはや味方ではないことを確信したのです。
奉勅命令をきっかけに、事態は一気に緊迫していきます。
同じころ、決起部隊と面会を続けていた海軍の岡田中佐は、交渉が決裂したと報告します。

”決起部隊と海軍の関係、交渉の結果は合致することを得ず
 決起部隊首脳部より、海軍を敵とみなす
 海軍としては、直ちに芝浦に待機中の約三ケ大隊を海軍省の警備につかしめたり”

天皇に背いたとみなされ、陸軍上層部からも見放された決起部隊・・・
期待を寄せていた海軍とも交渉が決裂し、敵対関係になり、絶望的な状態に陥ります。
鎮圧に傾く陸軍、そして海軍陸戦隊・・・。
決起部隊との戦いが現実のものになろうとしていました。

全軍にガスマスクを・・・
市街戦で催涙ガスが使われる可能性があるとして、ガスマスクが陸戦隊に配られました。

攻撃準備を進める陸軍に、決起部隊から思わぬ連絡が入ります。
決起部隊の首謀者のひとり磯部浅一が、ある人物との面会を求めてきました。
海軍はこの極秘情報を入手!!

”決起部隊の磯部主計、面会したき申し込み 山下大尉”

陸軍近衛師団の山下誠一大尉でした。
磯部の二期先輩で、親しい間柄でした。
山下がいる近衛師団は、天皇を警護する陸軍の部隊です。
追いつめられた決起部隊の磯部は、天皇の本心を知りたいと、山下に手掛かりを求めてきたのです。
二人が面会したのは文部大臣官邸でした。
天皇のために決起した自分達を、なぜ、鎮圧するのか?
磯部は問いました。
「命令により出動した」by山下
一方山下は、決起部隊から攻撃することになった場合、磯部はどうするのかと問いかけます。
「空中に向けて射撃するつもりだ」by磯部
天皇を警護する近衛師団に向かって発砲することはできないと言った磯部・・・
しかし、鎮圧するというなら反撃せざるを得ないと考えていました。
「我々が攻撃した場合は貴官はどうするのか?」by山下
「断じて反撃する決心だ」by磯部
山下は説得を続けますが、二人の溝は次第に深まっていきます。

「我々からの撤退命令に対し、なぜこのような状態を続けているのか}by山下
「本計画は、十年来熟考してきたもので、何と言われようとも昭和維新を確立するまでは断じて撤退せず」by磯部
もはやこれまでと悟った山下は、
「皇族の邸宅を傷つけないように気をつけろ」
とだけ磯部に告げました。
極秘文書に記録された二人の会話はここで終わっています。

共に天皇を重んじていた二人・・・再び会うことはありませんでした。
説得工作が失敗すれば総攻撃するという陸軍情報部の計画が、現実味を帯びていきます。
天皇に訴える道筋が、次々と絶たれていった決起部隊・・・
自分達は天皇に背いたわけではないと、市民に向け主張し始めます。
極秘文書には、現場の緊迫した状況が書かれています。

決起部隊の拠点・・・料亭・幸楽。
集まった群衆に対し、自分たちは間違っていないと主張していました。

”一日モ早ク悪イモノヲ殺ス
 国民ノ腹ノ底ニアル考ヘヲ 我々カ寛行シタノタ
 上御一人ヲシテ御安神遊サル様
 国家皆様モ安心シテ生活スルコトカ出来ル様ニ 出動シタモノテアル”

天皇と国民のために、クーデターを起こしたと訴える決起部隊・・・
事件の詳細を知らされていない人々の発言も残されていました。

「是レカラ尚国賊ヲヤッテ仕舞ヘ」
「腰ヲ折ルナ」
「妥協スルナ」
「諸君ノ今回ノ働キハ 国民ハ感謝シテ居ル」

2月29日・・・四日目 最後の賭け
午前2時40分・・・安藤・新井両部隊は、秩父宮電荷を奉戴し、行動す・・・。
決起部隊が皇族に接触しようとしているという情報が飛び交い、鎮圧側は大混乱に陥ります。

「安藤大尉の一行が、「トラック」にて東久邇宮邸に向かうとの情報あり
 霊南坂方面にトラック20台・・・
 突破せられざるよう、極力阻止要す」

決起部隊のトラックが包囲網を破ったという情報も入ってきました。
鎮圧部隊は皇族の邸宅周辺に鉄条網を設置、戦車も配備して守りを固めます。

午前6時10分・・・
決起部隊が現れたのは、天皇を直接補佐する皇族の邸宅でした。
陸軍参謀総長・閑院宮です。

氷点下まで冷え込んだ中、決起部隊は閑院宮を待ち続けていました。
閑院宮をを通じ、天皇に決起の想いを伝えることに一縷の望みを託していたのです。
しかし、閑院宮は現れませんでした。
決起部隊は、昭和天皇に決起の本当の意図を理解してもらいたいということで、天皇に近い皇族に接触をしようとしていました。

早朝・・・陸軍はついに鎮圧の動きを本格化させます。
海軍司令部は、周辺住民に避難を指示!!
住民1万5000は、着の身着のまま避難所へ・・・。
武力行使に備え、劇場や学校など頑丈な建物に身を寄せます。
一触即発となった鎮圧部隊・・・そして決起部隊・・・
東京が戦場になろうとしていました。

兵士の多くは、事前に詳細を知らされないまま上官の命令に従っていました。
国会議事堂に迫りくる戦車の音・・・決起部隊は自分達が鎮圧の対象となっていることに気付きます。
引き金をひけば玉が出る・・・どうして撃ち合わなければいけないんだろう・・・。
同じ日本人同士なのに・・・!!

陸軍の鎮圧部隊も、戦地とおなじような感情を抱いていました。
もし撃ち合いになったら・・・??

海軍陸戦隊は、攻撃準備を完了していました。
実行直前だった陸戦隊の作戦内容が極秘文書にありました。

「攻撃目標 内務省 外務省間の道路上の敵
 進撃命令はラッパ符「進め」
 本大隊(陸戦隊)の全部を率い、直ちに出撃し、敵を撃滅す」

この時、第一艦隊は、東京芝浦沖に集結していました。
極秘文書に記された第一艦隊の配置・・・一線に並んだ戦艦・・・世界最大級の主砲を供えた戦艦長門など、第一艦隊は命令を待っていました。
もし、決起部隊との戦闘が始まったら・・・海軍軍令部は、状況次第ではある作戦の実行を想定していました。

「艦隊から国会議事堂を砲撃」

当時、対処に当たっていた軍令部員の名前が残っていました。
矢牧章中佐・・・艦隊が攻撃することになった場合の重大さを証言しています。

「芝浦沖から国会議事堂まで4万メートル飛ぶ・・・
 陸軍(決起部隊)がもし考え違いして「やろうじゃないか」なら・・・千代田区は無くなってしまう・・・」

天皇は、時々刻々と入る情報を聞き取り続けていました。
事件発生から4日間・・・鎮圧方針を打ち出して来た天皇・・・最終版・・・陸海軍の大元帥としての存在感が高まっていました。
午前8時10分・・・戒厳司令部情報・・
ついに、陸軍鎮圧部隊による攻撃開始時刻が決定します。
8時避難完了・・・8時30分攻撃開始・・・!!
攻撃開始に当たり、戒厳司令部がラジオで流したニュースの内容が極秘文書に残されていました。

「戒厳司令部発表
 南部麹町付近に銃声聞こえるやもしれず
 市民は落ち着いて低いところに居てください
 建物などの援護物を利用し、銃声の反対に居るが安全なり」

いつ攻撃が始まるかもわからない中、海軍は最前線で様子を探っていました。
その時、追いつめられていた決起部隊の変化に気付きます。

「10時5分頃、陸軍省入り口に於いて、決起部隊の約一ヶ小隊重機銃二門 弾丸を抜き整列せり
 三十名の決起部隊降伏せり
 
 11時45分、首相官邸屋上の「尊皇義軍」の旗を降せり
 12時20分、首相官邸内に万歳の声聞ゆ」


最後まで抵抗を続けていた決起部隊に海軍は注目していました。
12時40分・・・残るは山王ホテルの250名
指揮官安藤・・・安藤輝三大尉の部隊・・・鎮圧部隊は攻撃を決めました。
最後の指揮官の安藤の一挙手一投足が書かれています。

安藤大尉は部下に対し、君達はどうか舞台に復帰してほしい
最後に懐かしい我が六中隊の歌を合唱しようと自らピストルでコンダクトしつつ中隊歌を合唱
雪降る中に第一節を歌い終わり、第二節に移ろうとする刹那、大尉は指揮棒代わりのピストルを首に・・・
合唱隊の円陣の中に倒れた

14時25分、戒厳司令官より軍令総長あてに、午後1時平定・・・

日本を揺るがした戦慄の4日間・・・
陸軍上層部は、天皇と決起部隊の間で迷走を続けました。
事件の責任は、決起部隊の青年将校や、それにつながる思想家にあると断定・・・
弁護人なし、非公開、一審のみ、の暗黒裁判ともよばれた軍法会議にかけました。
事件の実態を明らかにしないまま、首謀者とされた19人を処刑したのです。
陸軍は、組織の不安は取り除かれたと強調、一方で、事件への恐怖心を利用し、政治への関与を強めていきます。

現に目の前で、何人も斬り殺され、銃で殺される事件を見て・・・
政治家も財界人も、陸軍の言うことに対し、本格的に抵抗する気力を失っていきます。
これが二・二六事件の一番のその後の大きな影響力の最たるものです。

34歳で事件に直面した天皇・・・
軍部に軽視されることもあった中、陸海軍を動かし、自らの立場を守り通しました。
クーデター鎮圧の成功は、結果的に天皇の権威を高めることにつながります。
二・二六事件を通して、軍事君主としての天皇の役割がすごく強くなってしまって、天皇の権威、神格化が進んでいったのです。
二・二六事件後、日本は戦争への道を突き進んでいきます。

高まった天皇の権威を軍部は最大限に利用。
天皇を頂点とする軍国主義を進めていきます。
軍部は国民に対して命を捧げることを望んでいきます。
昭和16年真珠湾攻撃・・・日本は太平洋戦争に突き進んでいきます。
天皇の名のもと、日本人だけで310万人の命が奪われました。
壊滅的な敗戦・・・二・二六事件から、わずか9年後のことでした。

戦後、天皇は忘れられない出来事を二つ挙げています。
終戦時の自らの決断・・・そして・・・二・二六事件。

戦後天皇が、もしこの事件をおもいを持っていたとすれば、これは後の戦争に突き進んでいく一つの契機になった事件・・・自分が起こした強い行動は、戦争に突き進んでしまった要因の一つではないか?と、戦後色々な思いを持っていたのかもしれません。

晩年、天皇は2月26日を慎みの日とし、静かに過ごしたといいます。
二・二六事件を記録し続けた海軍・・・その史実を一切公表することはありませんでした。
どうして海軍は、事実を明らかにしなかったのでしょうか?

極秘情報・・・
海軍が事件前に入手した情報です。
その内容は詳細を極めていました。
2月19日・・・事件発生の7日前・・・東京憲兵隊長が海軍大臣直属の次官に機密情報をもたらしていました。

「陸軍、皇道派将校らは、重臣暗殺を決行する
 この機に乗じて、国家の改造を断行せんと計画」

襲撃される重臣の名前が明記されていました。
襲撃の木城となり得るのは、岡田首相、斎藤内府、高橋蔵相、鈴木侍従長等なりと・・・
そして次のページには首謀者の名前も書かれていました。

香田清定・栗原安秀・安藤輝三

事件の1週間前に、犯人の実名までも海軍は知っていたのです。
海軍は、二・二六事件の計画を事前に知っていた・・・
しかし、その事実は闇に葬られていました。
その後、起きてしまった事件を記録した極秘文書・・・
そこに残されていたのは、不都合な事実を隠し、自らを守ろうとした組織の姿でした。

事実とは何か・・・??
私たちは、事実を知らないまま再び誤った道に歩んではいないか・・・??
時を超えてよみがえった最高機密文書・・・
向き合うべき事実から目を背け、戦争に突き進んでいった日本の姿を今、私たちに伝えています。

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南太平洋のガダルカナル島・・・今から77年前、このジャングルで日本軍とアメリカ軍が死闘を繰り広げました。
森の至る所に戦争の爪痕が残っています。
死者2万人以上、ガダルカナルは地獄の戦場といわれ、島で戦った日本陸軍の一木支隊は、最強の精鋭部隊といわれましたが全滅・・・
その責めを負い自殺したとされる指揮官・・・陸軍・一木清直大佐・・・
無謀な突撃にこだわり大敗北を招いた張本人として非難を浴びてきました。

謎だった日本軍の無謀な戦い・・・
日本と戦った米軍の上陸部隊は1万人・・・わずか900人の一木支隊と比べると、圧倒的な大兵力の部隊でした。
一木支隊は米軍の周到な罠にはまっていきます。
そして、部隊全滅の影に、陸海軍の熾烈な対立があることがわかってきました。
海軍はアメリカの艦隊をおびき寄せて叩くために、陸軍を囮にする作戦でした。
陸海軍の対立が深まり、補給が滞る中、すさまじい飢えが兵士たちを襲います。
日本は敗戦に向かう転換点が、ガダルカナルの激戦です。

ガダルカナル島は、日本からおよそ6000キロ・・・
アメリカと日本は、6か月にわたってこの島で激戦を繰り広げました。
ここは、日米が初めて総力戦を始めた場所でした。
喉かな南の島で、血で血を洗う戦いが行われました。

日本軍が作った島で唯一の飛行場・・・ホニアラ国際空港(旧日本軍飛行場)を巡って、日米は激突しました。
日本海軍は現地の住民を使い、森を切り開き、建設を進めていました。
800mの滑走路を備えた飛行場は、重要拠点となるはずでした。

1941年12月8日、真珠湾攻撃で、連合国との全面戦争に突入した日本・・・
米軍の拠点ハワイとオーストラリアの線上にあるガダルカナル島に着目します。
ここで制空権を得れば、連合国を分断し、更に優位に立てる・・・!!と。
危機感を募らせたアメリカは、飛行場を占領し、制空権を奪おうと計画します。

米軍の飛行場占領作戦とは・・・??
残されたフィルムによると・・・。
1942年8月7日、アメリカ海兵隊がガダルカナル島上陸!!
1万人の兵力で、たちまち完成間近の飛行場を占領!!
米軍機を迎えるために、整備を進めました。
そして・・・圧倒的な火力で、飛行場奪還に現れた日本軍を撃退します。
全滅し、大地に横たわる日本兵・・・わずか900人で、10倍の兵と戦った結果でした。

この時殲滅したのは、陸軍屈指の精鋭部隊といわれていた一木支隊。
兵を率いた一木清直大佐は、敵を侮り、自信過剰、無謀な作戦、偵察をせずに突撃、致命的なミスをしたとして、轟々たる非難を浴びてきました。
一木大佐はどうして隊を全滅することとなったのでしょうか?

ガダルカナルの敗北の責めを負った一木大佐・・・しかし、部隊全滅の影には、日本軍の組織の抱える問題がありました。

1942年8月7日、大本営・・・
ガダルカナル米軍上陸の報せは、直ちに大本営にもたらされました。
陸海軍の作戦参謀が一堂に会して、飛行場奪還作戦のための緊急会議が行われました。
両軍の議論を資料を基にすると・・・

この2か月前の6月5日、ミッドウェー海戦で敗北、空母4隻を失い、報復の機会をうかがっていた海軍・・・
一方の陸軍は、中国やアジア各国で勝利し、向かうところ敵なしと自信を深めていました。
米軍を倒すべく、初の陸海軍共同作戦が行われようとしていました。
陸海軍は、それぞれ、連合艦隊(海軍部)と第17軍(陸軍部)に作戦準備を命令。
海軍は艦隊と航空艦を、陸軍は歩兵部隊を派遣し、連携して飛行場を奪還する作戦でした。
この時、白羽の矢が立ったのが、中国戦線で名を上げた陸軍・一木支隊でした。

一木支隊の故郷は北海道の旭川・・・
彼等が出征の直前、必勝祈願を護国神社で行います。
その時、境内で撮った写真が残っていました。
総勢2000名、農家出身、20代の若者が厳しい訓練を経て精鋭部隊に・・・!!
その強さは・・・日本最強であったと、今も地元で語り継がれています。
その隊員たちは、ほぼ全滅となりました。


飛行場を奪還する初の陸海共同作戦・・・海軍の側はどう動いたのでしょうか?
ガダルカナル島の沖合で、沈没船の調査が行われています。
この調査は、戦艦武蔵を発見した実績を持つ国際的なチームが行っています。
無人潜水艇で、日米の戦いの痕跡を探す・・・。
沈んだ軍艦・・・アメリカ重巡洋艦クインシー・・・
日本海軍の攻撃で、船体に大きな穴が開き、沈没したようです。
海軍の作戦は、アメリカが飛行場を占領したその日のうちに始まりました。
指揮官は、第八艦隊司令長官・三川軍一中将。
闇に紛れた奇襲を決断します。
攻撃目標は、米軍の輸送船団!!
空母や巡洋艦に護衛されていました。
夜、10時50分・・・連合艦隊はアメリカの艦隊を発見!!
しかし、すぐに攻撃を仕掛けず夜の闇に紛れて敵陣深く忍び込みました。
11時38分、攻撃開始!!
連合艦隊は重巡洋艦クインシーなど巡洋艦4隻を沈め、他、3隻に大ダメージを与えます。
ミッドウェー海戦の敗北以来、久々の大戦果を挙げた海軍!!
勝利は大々的に報じられました。
しかし、海軍はこの戦いで大きなミスを犯します。
空母や巡洋艦への攻撃を優先する・・・当初の目的だった輸送船団を見逃していたのです。
米軍は、補給が途絶える危機を脱し、武器や食料を受け取ります。
ラバウルの陸軍第17軍司令部は、この海軍の判断を非難します。
一木支隊の作戦を担当する参謀長の二見秋三郎少将の手帳には、海軍に対して痛烈な批判が書かれていました。

”ニュース、海軍大々的ニ報ズ
 ヤリ方ナマヌルキコト多ク 全クキガシレズ”

海軍のミスでアメリカの兵力は増強され、一木支隊にとって不利な状況が増していきます。

共同作戦と言いながら、優先順位が食い違う海軍と陸軍・・・大勝利の影で、亀裂が生じようとしていました。
一木支隊の上陸地点は、ガダルカナル島のタイボ岬・・・
日本軍のものとみられる船の一部が残されていました。
8月18日、一木支隊無血上陸に成功!!
一木大佐自ら隊を率いていました。
米軍が占拠する飛行場まで35キロ・・・行く手に残酷な運命が待ち受けていることに兵士たちは気付いていませんでした。
一木支隊のこれまでの行動がアメリカで新事実として発見されました。
戦場でのそれぞれの出来事を時間ごとに細かく記入されている・・・併せて1000ページを超える米軍機密文書・・・。
米軍陣地の突破を図った一木支隊が、反撃を受け殲滅されるまでが分刻みで細かく書かれています。

陸軍屈指の精鋭部隊が全滅・・・その始まりは、作戦を立案した大本営陸海軍の参謀が、米軍の兵力を見誤ったことでした。
1942年8月10日・・・
海軍の情報を元に、陸軍は推定2000人と見積もりました。
しかし、実際は1万人・・・!!
致命的なミスが生れていきます。
謎をさらに深める資料・・・日本海軍がアメリカに潜入させていたスパイの極秘情報として、
「今朝、大船団が戦車や軍隊を乗せて南太平洋方面へ向かった」
海軍は、偵察に当たった航空機の情報からも、米軍輸送船団の動きを掴んでいました。
海軍参謀・佐薙毅・・・輸送船団の数から敵兵力は1個師団(1万5000人)と、的確に見積もっていました。
それを狂わせたのが、連合艦隊が夜襲でアメリカ艦隊を撃破した戦いの勝利でした。
戦果を受け、陸海軍の参謀は、見積もりを削減。
輸送船団は、大部分の兵を乗せて撤退したと判断し、残る兵力は2000と考えたのです。
一木支隊が所属する陸軍第17軍司令部は、見積もりに疑問を持ちました。
二見参謀長は、すでに上陸を果たして空港の占領を続ける米軍は、8000人はいると考えていました。
初公開の手帳にこう書いています。

”海軍急グモ不安 一木支隊ヤレズ”

敵の数がはっきりしない中、攻撃をせかす態度に不安を抱いていました。
二見参謀長は、一木支隊の進軍に待ったをかけようとしていました。
ところが、陸軍参謀本部のナンバー2・参謀次長から電報が入ります。

”速やかに(飛行場を)兌換することを考えよ”

米軍機が配備され、戦況が不利になる前に、飛行場奪還を求めたのです。
二見参謀長は、大本営の命じるまま、一木支隊の進撃を認めるしかありませんでした。

8月19日、一木支隊は飛行場を目指し、行軍を続けていました。
兵士から慕われていた一木大佐・・・作戦を遂行する上で、敵の情報が全くないことを問題視していました。
8月19日8時30分・・・偵察部隊派遣
偵察部隊はジャングルに身をかくし、西に向かいました。
ところが、米軍はジャングルに周到な監視体制を敷いていました。
小さなマイクを無数にしかけ、日本の隠密行動を丸裸にしました。
さらに鉄条網を張り巡らせ、万全な迎撃態勢を取っていました。

偵察部隊38名は、米軍の待ち伏せ攻撃にあい全滅!!
これまで無謀な作戦を非難されてきた一木大佐・・・
作戦を続けるべきか司令部の判断を仰ごうにも連絡できない状況に置かれていました。
どうして通じない・・・??
陸軍司令部のあるラバウルは、ガダルカナルから1000キロと遠く、無線が届きません。
海軍の潜水艦が中継することとなっていました。
ところが、この共闘作戦に潜水艦は任務を放棄し、もち場を離れていました。

何が起きていたのか・・・??
連合艦隊の動きは・・・??

”空母を含む敵機動部隊を発見”

この日・・・8月20日の9時、偵察に当たっていた海軍機が米空母を発見!!
連合艦隊は、周辺にいた全艦に出撃命令を出しました。
その命令に従ったために、一木支隊は無線連絡できない状況に置かれてしまったのです。
連合艦隊参謀長の宇垣纒・・・ミッドウェー海戦で大敗し、復讐に燃えていました。

宇垣の日記には・・・アメリカ艦隊をおびき出すためにガダルカナルの陸軍部隊を利用する策が記されていました。

”陸軍を種とし 囮となす”

陸軍が米軍と戦えば、救援のためにアメリカの空母が来る・・・そこをたたこうというのです。
海軍の中では、陸上部隊は待っていろ・・・アメリカの空母の方が大事だ!!という判断でした。
それで、陸軍側が非常に混乱と迷惑を被る・・・しかし、それはアメリカの空母をたたくことに比べれば大したことはない!!ということなのです。

アメリカの空母部隊を殲滅することを最優先した海軍・・・
一木達陸軍部隊をおとりにすることも作戦の一つでした。

孤立無援となった一木部隊・・・
一木大佐は、この作戦に当たって大本営から命令を受けていました。

”速やかに奪回せよ!!”

何より重要なのは、敵が使う前に飛行場を奪還すること・・・

この時、一木支隊は先遣隊の916名のみ。
遅れていた後続部隊の1000人の到着を待たずに命令に従って攻撃を急ぎました。
しかし・・・目標の飛行場に到着する直前に恐れていた事態が起きました。

8月20日16時・・・
アメリカ軍の戦闘記録によると・・・
”飛行場に味方の戦闘機が到着した”
米軍機31機が飛行場に配備され、制空権はアメリカの手に渡りました。

状況が悪化する中、一木支隊は望みを捨てず進軍します。
決戦に臨む兵士の日記には・・・悲壮な決意が書かれていました。

8月20日夜10時30分・・・
一木支隊、闇に紛れて飛行場に接近!!
その時・・・突然照明弾が光り、待ち構えていたアメリカ軍から攻撃を受けます。
日米が激突したイル河の河口・・・一木支隊が悲劇の最期を迎えた場所です。
無謀な突撃で自滅したと言われていた一木支隊・・・
全滅までの数時間、何が起こっていたのでしょうか?

日本側から見ると、川向うは少し高くて見えにくい場所にアメリカは軍をおき・・・米軍側からは河で足止めされた日本軍を上から見下ろせます。
アメリカからは、天然の要塞のような地形でした。
日本軍は丸見えでした。
待ち構えていたアメリカ軍は、一木支隊に二方向から十字砲火を浴びせました。
圧倒的な火力で攻撃するアメリカ軍・・・銃撃を避けようと川べりのくぼ地に身を潜めた日本軍・・・
しかし、それは罠でした。
アメリカ軍は、くぼ地めがけて迫撃砲を雨あられと打ち込んだのです。

敵の罠を察知した一木大佐は、部隊に突撃中止を命じました。
その時、米軍の戦車隊が出現!!逃げ道を塞ぐように側面から背後に回りました。
日本軍を袋小路に追い込みます。
それは、日本海軍が海の戦いで見逃した輸送船団が運んだ兵器でした。
行き場を失った一木支隊は、狭い砂洲を進みます。
しかしそこはアメリカ軍の攻撃が集中する最も危険な場所でした。
絶体絶命・・・!!
その時、夜が明けて・・・

8月21日6時7分・・・日本海軍の基地からゼロ戦が緊急発進!!
向かった先は、一木支隊が戦う陸の戦場ではなく、海でした。
米軍の空母発見の報せに攻撃命令が下ったのです。
一木支隊が全滅の危機にあっても、海軍は空母攻撃を優先させました。
同じころ、島の飛行場から米軍機が離陸・・・僅かに残った一木支隊に機銃掃射を・・・!!

午前10時25分、空母を見失ったゼロ戦が、ガダルカナル島上空へ・・・!!
しかし、時すでに遅し・・・一木大佐と共に部隊は全滅・・・。
部隊の殆ど・・・777人が命を落としました。

作戦失敗の報せがラバウルの陸軍司令部に届きました。
一木支隊の派遣に不安を抱いていた二見参謀長は日記にこう綴っています。

”夜12時 一木全滅の報あり 寝られず 寝られず”

一方、海軍側の反応は全く異なるものでした。
宇垣参謀長の日記では・・・
”敵を軽視”したことが作戦失敗としていました。
海軍は、自分たちの行動が、一木支隊の全滅に関わったとは受け止めなかったのです。

陸海共同作戦とは名ばかり・・・それぞれ全く別の戦いを進めた陸軍と海軍・・・
部隊全滅の原因を見極めようとはしませんでした。
一木大佐は責任を取って自決したとして幕引きが図られたのです。
一木大佐の娘は、部隊の全滅を知らされても、秘密を守るように軍に口止めされました。

大本営は、その後もガダルカナルに小出しに部隊を送り込みます。
敗北を重ねるたびに兵力を増やし、日本人延べ3万人以上が戦いました。
一木支隊で辛くも生き延びた敗残兵は、帰国も敵わず密林で戦い続けました。
そしてそれは、更なる悪夢の始まりでした。

一木支隊が全滅した後、アメリカ軍は飛行場を拡張し、戦闘機の数を増やしていきました。
日本軍の輸送船が島に近づくたびに、襲い掛かります。
食糧の補給も途絶え、生き残った一木支隊の兵士たちは地獄を見ます。
兵士たちは次々と飢餓に斃れ、命を落としていきました。

1942年12月・・・
このまま戦いを続けるか、撤退をするのか??陸海軍が衝突していました。
日本軍がガダルカナル島から撤退したのは、一木支隊が全滅してから半年後・・・1943年2月のことでした。
この間に、1万5000人が飢えと病で命を落としました。

アメリカ軍は、次々と太平洋の島に上陸し、日本を追いつめます。
日本は、陸海軍の対立が続く中、人命を軽視した戦いが続きます。
1943年11月ギルバート島タワラ
1945年2月硫黄島
1945年4月沖縄
終戦までに犠牲者は300万人を超えました。

組織の狭間で無謀な戦いを強いられた一木支隊・・・
日米の激闘で地獄の戦況と化したガダルカナル島・・・
日本軍の組織の論理は悲劇の指揮官を生んでいました。

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