日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: テレビ番組

炎と闇の帝国―ゲッベルスとその妻マクダ

中古価格
¥1,644から
(2019/1/29 22:30時点)



1944年の夏、ベルリン郊外にとある邸宅にエレガントな母親が帰宅しました。
その立ち居振る舞いはどこか芝居じみています。
この女性こそ、第三帝国のファースト・レディー「マクダ・ゲッベルス」です。
ナチスの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスの妻でアドルフ・ヒトラーとも親しいマクダ・ゲッペルス・・・。
4歳から12歳まで6人の子を愛する母親でもありました。
しかし、マクダは後の世に違う形で記憶されることとなります。

8か月後ベルリンは廃墟と化し、ソビエト軍はヒトラーの地下壕を捜索・・・
瓦礫の中なら現れたのはあまりにもむごたらしい光景でした。
白い服に身を包んだ6人の子の遺体・・・傍らには焼け焦げた二つの遺体・・・
連合国軍は、この二つの遺体をマクダ・ゲッベルスとヨーゼフ・ゲッベルスと確認しました。
ここで何が起きたのか・・・??
唯一の手掛かりは、マクダが前の夫との間にもうけた長男・ハラルトへの手紙でした。

最愛の息子へ・・・
私たちはヒトラー総統の地下壕にいます。
私たち家族が誇り高く一生を終えるにはこうするしかないのです。
総統亡き後の世界は生きるに値しないでしょう。
あなたの妹や弟たちをそんな世界によこすわけにはいきません。
夕べ総統から金色の党員指輪をいただき、光栄に思いました。
この上もなく、深い愛情をあなたに・・・。
母より。

第三帝国が崩壊した時、最高幹部の妻で自決したのはマクダだけでした。
しかし、彼女の経歴にはナチスの狂気の象徴となるようなことはありませんでした。
どうして犯罪的な政治組織に加わったのでしょうか?
何がイデオロギーの名のもと、我が子に手をかけさせたのでしょうか?
それこそ、理性を失うほど何かにのめり込むこと・・・。

1920年マクダは、ミュンヘンからベルリンに向かう列車に乗っていました。
ベルギーで育ち、ドイツの寄宿学校に通う20歳・・・裕福な建築家とその家政婦との間に私生児として生まれました。
品の良い40代の紳士が向かいに座ります。
ドイツでも指折りの実業家で大富豪・・・ギュンター・クヴァントでした。
戦後、クヴァントはこう語っています。

「目の前に、類まれな美女が座っていました。
 魅力的な青い瞳に、美しい金髪・・・私たちは演劇など若い女性が好む話をしました。」

マクダは20歳年上のクヴァントと結婚します。
息子も生まれ、ぜいたくな暮らしを続けます。
が、9年後、生活に息苦しさを感じ離婚。
それでも慰謝料によって何不自由なく暮らします。
激動の時代に、パーティーに明け暮れます。
1929年にドイツを襲った世界恐慌もどこ吹く風、30歳を前に暇を持て余していました。
美術史を学ぼうか?弁護士になろうか?託児所で働こうか?
しかし、何もかも退屈でした。

そんなマクダに退屈から逃れるきっかけが・・・
1930年、マクダ29歳・・・極右勢力が町を席巻していました。
2年前の選挙でナチ党が獲得した議席は僅か3%・・・長らくナチ党の支持者は世界からドロップアウトしたインテリで、ヨーゼフ・ゲッベルスもその一人でした。
それが様変わりしようとしています。
失業問題、汚職、共産主義の台頭・・・あらゆることが追い風となり、ナチスは上流階級に食い込んでいきました。

あるパーティーにマクダが出席しましたが・・・
マクダはナチスに入党していたホーエンツォレルン家の王子が入党を勧めます。
好奇心から翌週には、ベルリンスポーツ宮殿に足を運んでいました。
1930年9月の選挙に向け、ナチ党が大集会を行っていたのです。

その夜、聴衆の前に立ったのは、ヒトラーに次ぐアジテーター、ヨーゼフ・ゲッベルスでした。
彼の虜になったマクダ。。。
翌日、マクダは党本部に行き入党を志願します。
数か国語を話し教養もあるマクダは、すぐに秘書部門を任されます。
正式にナチ党員となったのは9月1日・・・驚くべき早さの転進でした。
政治に関心のなかった特権階級の女性がどうして短期間で活動家になったのでしょうか?
冒険、演説だけが理由でしょうか??

マクダには父親がいませんでした。
実の父親は彼女をすぐには認知せず、母親は雇い主と関係を持ったのですが、家柄のせいか、なかなか結婚してもらえませんでした。
その後、マクダはベルギーの寄宿舎に入れられます。
言葉が変わり、環境が変わり・・・ものの見方が一変します。
マクダはイデオロギーだけでなく、拠り所を見出しました。
世界を支配する優れた人種として・・・。

党本部で、マクダはナチスの思想を広める人物と出会います。
演説をしていたヨーゼフ・ゲッベルスです。
病弱で足の悪い作家崩れ・・・しかし、今やヒトラーの宣伝活動を行う大物でした。
9月の選挙でナチ党は、18%の票を獲得しました。
数か月後、二人は恋愛関係に・・・。

マクダは強くナチスとゲッベルスに惹かれていました。
ドイツ国内で大きくなるナチスの魅力・・・
そしてゲッベルスの魅力は、インテリで物分かりのいい会話の面白い、楽しい男性でした。
ゲッベルスは、やっと見つけた体裁のいい恋人に満足していました。
マクダは、上流階級の扉を開いてくれる女性でした。

「マクダとの昼食・・・彼女は戦災で心が広い。
 ”我が闘争”を彼女に送る。
 そう、これは愛だ。
 マクダは感激していた。
 午後は哲学や思想を話し合った。
 私たちは素晴らしいカップルになるだろう。」

1931年9月、ゲッベルスはマクダをナチスの指導者に紹介します。

マクダにとってヒトラーとの面会は、大きな転機でした。
ゲッベルスは周到に準備して、マクダを次の段階に引き上げました。
一人の活動家を、狂信的な信者に変えたのです。
ヒトラーは優しく親切に接することで、マクダの心を捕らえます。
相手の木をひくのが得意で、頭の中を支配しました。

ヨーゼフ・ゲッベルスの伴侶であるマクダは、ヒトラーの取り巻きの一員となります。
マクダは頻繁にヒトラーを夕食に招きました。
マクダの豪華な住まいは、ヒトラーが公務を行う本部となります。
権力を握る最終段階で会議を重ねます。
マクダも華やかなパーティーを開きました。
1932年の選挙で、ナチ党はついに議会第一党となります。
マクダのサロンには、新進の政党を見定めようと上級の人が集まりました。
ヒトラーは、上流階級を取り込もうと、何年も動いていました。
世間はナチスのことを、粗野な左翼集団ととらえていました。
そんなナチスの幹部が、上流階級の女性・・・しかも、大実業家のギュンター・クヴァントの元妻と深い関係にあるということは、大きな宣伝となりました。
ゲッベルスがマクダに惹かれたのは当然でした。
マクダの存在は、ナチスは労働者階級のチンピラというイメージを払拭するのにうってつけでした。
保守政党は、共産主義に対抗するためナチ党との連携を模索し・・・資本家と交流のあるマクダは、この二つを結びつける重要人物でした。

ヒトラーは、マクダの魅力にひかれます。
自分に忠実でありながら対等に話せる側近で唯一の女性・・・彼女に好意を持ちました。
ヒトラーは友人に、「マクダは私の男性的本能の対極にある女性かも知れない。」と語っています。
ゲッベルスは嫉妬します。
マクダは総統が相手だと下手に出る・・・それが私を苦しめる・・・。
ヒトラーはゲッベルスと話をします。
総統は、「マクダを愛しているが、私の幸せをねたみはしない。マクダは君の支えとなるだろう。」
そう言った時、総統の目はうるんでいた・・・哀れなヒトラーマクダは私の物だ・・・!!

ゲッベルスと結婚して私の傍にいなさい・・・そうヒトラーは言いました。
結婚式は黒いドレス・・・そして介添え人はヒトラー・・・!!
マクダは・・・
「夫への愛より、ヒトラー総統への愛の方が強いの。
 総統への想いに生涯を捧げたい。
 でも、総統は最早女性を愛することはなく、唯一愛するのはドイツ国家なの。」
ヒトラーは愛と結婚と国家の狭間で、女性との親密な関係を求めるも、結婚は約束出来ないという立場にありました。
自らを歴史的使命に身を捧げ、そこに女性の入る隙は無い・・・
体裁を考えて、マクダはゲッベルスと結婚した方がいいと、ヒトラーは考えたのです。

1932年11月の選挙で・・・
「私たちが負ければ共産主義が支配し、私はクヴァントからもらった財産を失うわ。
 でも、勝ったら、私はドイツで最も権力のある女性になる・・・!!」

ここに、マクダが入党した真の理由が伺えます。
ナチスへの心酔も事実ですが、限りない野心がありました。
1933年1月・・・ナチ党と連携する保守勢力は、国民から支持を集めるヒトラーを首相に・・・!!
ゲッベルスも国民啓蒙宣伝大臣に・・・!!
「マクダは名誉だと大喜びしている」
その夜・・・松明を掲げた大行進を余所に、ヒトラーはベルリンにある国立歌劇場にいました。
傍らにはその夜の同伴者・・・エレガントなマクダ・ゲッベルスがいました。

政権運営には人々の心をつかむことが必要でした。
ナチスは、シンボルとなる女性がいないという欠点をわかっていました。
相応しいのはマクダしかいません・・・弁が立ち、上流階級に身を置き、魅力にあふれていて・・・完璧でした。
マクダに白羽の矢が立ちました。
長くドイツ国民の目から隠されたヒトラーの愛人エバ・ブラウンではありません。

活躍の場を求めていたマクダは、新しい役に没頭します。
ドイツファッション協会の代表に就任、チャリティーイベント開催。
1933年ドイツ初の母の日・・・マクダはラジオで演説します。
ドイツで絶大な影響力を持ったマクダ・・・
しかし、マクダには、知られれば簡単に失脚しかねない秘密がありました。
1933年5月10日、夫ゲッベルスはユダヤ人による書物を焼き払います。
ゲッベルスは極端なまでの反ユダヤ主義で、ナチズムの中核をなすこの思想を強く推し進めていました。
彼は、ユダヤ人を排斥する法律を制定しようと躍起になっていました。
同じ日の夜・・・マクダと夫との間にある出来事が・・・
マクダの過去のこと・・・若い頃の彼女は無分別だった・・・と、ゲッベルス。
その日の朝、マクダと10年もあっていなかった男性が電話で話そうとしていました。
ベルリンを訪れていたその男性は、ユダヤ人のヴィクトル・アルロゾロフ・・・パレスチナのユダヤ人国家建設運動のリーダーです。
10年前、マクダはアルロゾロフと熱烈な恋愛をしていたのです。
当時から自己実現を求めていたマクダは、イスラエル建国運動に賛同し、一緒にパレスチナに行く覚悟をしていました。
そのためにヘブライ語まで勉強していました。
その頃マクダは、フリートレンダーというユダヤ系の姓を名乗っていました。
アルロゾロフはマクダを同胞と思ったのです。
しかし、ドイツ人だった・・・。
マクダの母親の再婚相手はユダヤ人でした。
養父フリートレンダーは愛情をもってマクダを育て、彼女もその姓を名乗りました。
アルロゾロフはマクダに会えないまま、ベルリンを去り、1か月後・・・テルアビブで暗殺されます。
おそらく、ゲッベルスの手先の仕業でしょう。
暴露されたならナチスにとって大打撃だったからです。

マクダは、養父フリートレンダーから助けを求められた際も、耳を貸しませんでした。
彼は、ある日ゲッベルスのオフィスに呼び出され、行方不明となりました。
マクダは新しい政権で、政治的な輝かしいキャリアを築きたいと考えていました。
自分にとって邪魔な人間を排除するぐらい簡単なことでした。
マクダは、育ての親が強制収容所で死ぬことを黙認しました。
狂信的だったのか・・・権力に飢えていたのか・・・
マクダの姿はナチスの幹部そのものでした。
どこまでも利己的で、ナチスの政治思想を徹底するためなら手段を選びませんでした。

ファーストレディーの地位を守ったマクダ・・・
次の望みは、第三帝国で主要な政治的役割を果たすこと・・・
しかし、女性の役割について、ナチスは凝り固まっていました。

「歴史を作るのは男性です。
 しかし、その男性の子供を産むのは女性であります。」

ドイツでは1919年に女性の参政権が認められましたが、新政権は育児や出産を推奨しました。
マクダも冷害ではなく、政治的にお飾りでした。
1934年ヒトラーはゲッベルス夫妻に事の白黒をはっきりさせます。
女性には政治をさせない・・・
マクダは帝国の母になるという役割を受け入れます。
ナチスの人口増加政策の広告塔です。
夫妻はベルリン郊外のボーゲン湖のほとりに別荘を構え、マクダは次々と身籠り、9年間で6人の子を授かりました。
夫妻は子煩悩でした。
ナチスの凶悪的なイメージとは離れ、暴力もなく、食事中の会話もできました。
1936年から44年まで、夫妻は毎年家族の記録を撮影しています。
ゲッベルスの誕生日10月29日にその映像を見るのがしきたりでした。
1937年も同様でした。
これらはホームムービーではなく、宣伝省の職員に家族の映像をとらせたものです。
ゲッベルス家の映像は、ニュース映画として放映されました。
その数は年間35回にも及びました。

この映画を通して、自分達が理想とする生活を知ることのできた人々・・・。
ナチスにおいてはイメージが全てで、ヒトラーでさえ、この家族よりも国民の目に触れることはありませんでした。
マクダの6人の子供は第三帝国の子供で、子だくさんで豊かなゲルマン民族の象徴なのです。
マクダの子供たちの笑顔は、犯罪的政策のプロパガンダに利用されます。
精神障碍者を安楽死させる政策です。
人種を純化させるために・・・!!
ファーストレディーで帝国の母であるマクダは、誰よりもヒトラーに忠実です。
マクダは家族を連れてヒトラーを訪問しましたが、そこにはカメラマンが同行していました。
ヒトラーが独身だからといって一人だけの写真ばかりを国民に見せることはできません。
ヒトラーはドイツ国民の父であるためにドイツの父だとアピールしなければなりません。
1938年頃、これらの写真は有効なプロパガンダとなりました。
ヒトラーは自分から戦争を仕掛けようともくろみながら、世間には平和を愛する男だと広めたのです。

嘘や虚構は、ナチスでは当たり前でした。
幸せなゲッベルス家も虚構でした。
マクダの身体は立て続けの出産で弱っていました。
ゲッベルスは浮気癖がひどくなり、家庭内暴力へ・・・!!
そんな中、マクダに屈辱的出来事が・・・!!
ゲッベルスが若い女優の愛人と公然と一緒にいるようになったのです。
マクダは離婚を望みます。
そして、ヒトラーの夏の別荘を訪ねました。
二人が別れることなど、ヒトラーに許されるわけがありません。
そこで彼は、夫婦関係が破たんしていても離婚しないようにと念を押します。
ヒトラーは強引に決着をつけます。
女優の愛人を追放し、ゲッベルスを呼びつけマクダの作った契約書に同意させます。
その契約書には、今後ゲッベルスは浮気をしないこと、その女優と会わないこと、さらにマクダの母親に優しく接することも書かれていました。
マクダの華やかなキャリアも、ゲッベルスの政治生命もすべてが終わるところを、ヒトラーは政治の力学に従わせたのです。
ベルリンに戻るとヒトラーは、ポーランド侵攻に着手します。
1939年9月1日、第二次世界大戦がはじまりました。
ボーゲン湖畔の別荘・・・子供たちの遊びも戦争が反映されていきます。
マクダの人生は再び軌道に乗り始めました。
彼女は強い愛国心の持ち主で、兵士の子供たちにプレゼントを贈るだけでは満足せずに、看護婦の育成も始めます。
子供達を伴って、ナチス親衛隊士官たちももてなします。
このナチス親衛隊・・・SSドクロ師団は、東部戦線で大虐殺を行いました。

マクダと前の夫との子・ハラルトも活躍が認められ勲章を受けました。
マクダはハラルトを特別扱いすることなく、前線に送っていました。
しかし、ハラルトは、1943年負傷。
マクダは心配のあまり体調を崩します。
戦争を思い知らされました。
優勢だったドイツ軍は勢いを失い、ソビエト軍が反攻に転じ、連合軍がイタリアに上陸。
1943年2月、マクダは子供達とスポーツ宮殿に行き、夫の演説を聞きます。
そこは13年前、全てが始まった場所でした。
その帰り道・・・連合国軍の爆撃で破壊されたベルリンの惨状を目の当たりにします。

戦争の英雄・・・ロンメル元帥の訪問・・・心のうちを隠してもてなします。
絶え間ない爆撃を避け、家族は別荘に籠っていました。
マクダは孤独でした。
厳しい戦況の中、夫やヒトラーとはめったに会えなくなりました。
ゲッベルスはその演説とは裏腹に、この戦争には勝てないとマクダに言っていました。

「総統は国民との約束を一つも実現できなかったのに、自分を正しいと思っている。
 忠告を受け入れず、耳当たりのいい言葉ばかり聞いて・・・
 最悪の結果に終わるでしょう。
 年を取り、疲れ果てた私に道はない。
 あるとすれば二つ・・・
 戦争に勝てば夫は更なる権力を手にし、みずぼらしい私のことを捨てるでしょう。
 もし負けても、私には死しか残されていない。」

1944年の夏・・・ゲッペルス一家の最後の映画・・・
敗戦が濃厚になり、ドイツは残虐行為を加速させました。
ゲッベルスはそれを最も推進した人間です。
この映画が撮られた夏の間に、30万人のユダヤ系ハンガリー人がガス室に送られました。
うち8万人は子供・・・

「夫の話すことがあまりにも残酷で、もう受け入れられない・・・
 私の良心は押しつぶされそうなのに、それを誰にも話せないの。
 夫は私を頼って何でもぶちまける・・・
 彼自身も限界なの。」

マクダは人生に失敗しました。
思想においても、結婚においても、そしてヒトラーへの熱狂も・・・
しかし、ナチスの幹部たちが逃亡する中、ベルリンに残ることを選びます。

「戦争に負けたらユダヤ人が戻ってくる・・・
 妻と話し合い、私たちは自決することにした。」

マクダはヨーゼフ・ゲッベルスの妻です。
夫がナチ政権の犯罪に深く関与している以上、自分も同罪だとわかっていました。
忠実なナチ党員として潔く戦い続けること・・・
ヒトラーに寄り添い、ヒトラーと共に死ぬこと・・・!!
1945年戦争はついにゲッベルス一家を追い込みます。
町にはソビエト軍の侵攻から逃れてきた人々が溢れていました。
ドイツ降伏の3か月前の2月1日、母に決心を伝えます。
ヒトラーは夫を道連れに死ぬ、夫は私と子供を道連れに死ぬ・・・全員死ぬ運命なのよ。
ゲッベルスも決意をヒトラーに伝えます。
祭祀とベルリンに留まることを決意したこと、子供たちを誰にも託さないこと・・・。
総統は、「それは感心だが正しい態度とは思わない」といいました。
ヒトラーでさえマクダの決断に反対でした。
友人たちはマクダの身を案じ、連合国側に脱出させようとします。
元夫ギュンター・クヴァントも、スイスへの亡命を提案し、せめて子供達だけでも面倒を見ると言いました。
しかし、マクダは聞く耳を持ちません。

1945年3月、マクダは親友と最後の会話をします。
「こんなにかわいい子たちを残していけないわ。
 夫はドイツ史上最悪の戦犯と見なされるでしょう。
 それが一生、あの子たちについて回り、蔑まれることになる・・・
 そんな重荷を背負わせることはできない。
 私が関わっていた政権は、言葉にできないほどの残虐なことをしてきたわ。
 世界中から報復されるでしょう。
 あの子たちを連れて行くしかないわ。
 絶対に・・・!!」

1945年4月22日、ソビエト軍が迫る中、マクダは6人の子供を連れて夫の待つ総統官邸地下壕へ向かいます。
マクダは長い間、子供たちを国民に晒し、国家のシンボルに仕立て上げてきました。
第三帝国の滅亡と共に、子供達も消えるべきだと考えたのかもしれません。

マクダは自決するしかない・・・最期まで自分を演じ切らなければと思っていました。
子供を道連れに自決することでヒトラーへの完全なる忠誠を示し、その親しい友人として名を刻もうとしたのです。
地下壕へと向かう時、マクダは子供たちに西部開拓への冒険に出かけようと出発しました。
息子は特別な服を着て、家政婦が同行しました。
長女のヘルガだけは理解していました。
他の子たちは、楽し気に相当の地下壕に行くとはしゃいでいました。
爆撃が続く中、不快な地下壕で、家族は一週間ヒトラーと忠実な部下たちと過ごします。
それまで大量殺戮に手を染めてきた男たちまでもがマクダに脱出を促しました。
4月30日、ヒトラーは自らの命を絶ちます。
その直前彼は、党の紋章入りの指輪をマクダに送ります。
翌日、マクダは眠っている子供達の口に青酸カリのカプセルを滑り込ませます。
そして、夫ヨーゼフ・ゲッベルスと共に第三帝国のファースト・レディはすべてに終止符を打ちました。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

写真・ポスターに見るナチス宣伝術: ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ

中古価格
¥1,081から
(2019/1/29 22:31時点)

宣伝的人間の研究 ヒットラー (絶対の宣伝 ナチス・プロパガンダ2)

中古価格
¥5,000から
(2019/1/29 22:32時点)

マタ・ハリ伝: 100年目の真実

新品価格
¥3,240から
(2019/1/26 06:38時点)


フランスで悪女の代名詞として語られる女スパイ、マタ・ハリ。
パリ郊外にある軍事資料館に100ほど前に処刑された女の記録が残っています。
悪女の中の悪女・・・死後封印され、閲覧が禁止されてきました。
オランダ人で、本名はマルガレータ・ゼレ。

matahari2
第一次世界大戦のさ中、ドイツ軍のスパイとなり、フランス軍の機密を売り渡したとして投獄されました。
マタ・ハリのドラマチックな人生は、後にハリウッドで映画となり、大ヒット。
演じたのはスター女優グレタ・ガルボでした。
目をつけた男は逃さない・・・マタ・ハリの名は女スパイの代名詞となります。

裁判記録によれば、マタ・ハリが情報を売り渡したために、イギリス・フランス連合軍の作戦が失敗、70万人以上が犠牲になったとされています。

獄中のマタ・ハリは容疑を否認し続けましたが、銃殺刑になりました。
その10年余り前、マタ・ハリはヨーロッパに名をとどろかせる人気ダンサー、そして高級娼婦でもありました。

舞台はベル・エポック・・・美しき時代と言われたフランス・パリ。
マタ・ハリは、パリであっという間に神話となりました。
それは、ベル・エポックのパリに、お金と暇を持て余す裕福な紳士がたくさんいたからです。
彼等は毎晩のように新しい恋を探し、新しい女性を探し、パリの町を彷徨っていました。
彼等にとって、素敵な女性をエスコートすることはこの上ないステータスだったのです。

マタ・ハリを一夜にして時の人にした場所は・・・ギメ美術館です。
ヨーロッパ最大の東洋美術コレクションを誇り、ルーブル美術館東洋部の役割を担っています。
当時パリでは、東洋の文化や風俗に憧れるオリエンタリズムが大流行。
アジアの植民地から珍しいものがたくさん入ってきていました。
そんなオリエンタリズムの殿堂で1905年3月、マタ・ハリのステージが幕を開けます。
インドの聖なる踊り子という触れ込みの魅惑のショー・・・。
新聞には賛辞が並びます。

僧侶と神だけしか彼女の裸身を目にしたことがないというインドの舞姫。
背が高く、細身でしなやかに動くさまは、とぐろを巻いていない蛇が、蛇使いの笛に併せて恍惚と動めいているようだ。

このショーをプロデュースしたのは、美術館のオーナーでもある大実業家、エミール・ギメ。
上流階級のサロンで踊るマタ・ハリを見て、自らスカウトしました。
この時ギメは、彼女の本名マルガレータでは東洋趣味の観客には受けないと・・・マタ・ハリ・・・太陽の目を意味する芸名をつけたのです。

客の視線を浴びながら服を脱ぎ、最後はブラジャーのみに。。。
聖なる踊り子にして娼婦・女スパイ・・・マタ・ハリとは・・・??

牛の町・オランダ北部レーワルデン・・・ここがマタ・ハリの故郷です。

マタ・ハリことマルガレータ・ゼレは、1876年4人兄弟の長女として生まれました。
父は娘を溺愛し、6歳の誕生日には豪華なヤギの馬車をプレゼントしました。
マタ・ハリも父が大好きで、男爵だと言いふらしていました。
マタ・ハリの境遇が一変するのは13歳の時・・・大好きだった父が、石油株に手を出して巨額の損失を出してしまったのです。
下部の穴埋めに借金を重ね、気がつけば6000万円にも上っていました。
追い打ちをかけるように母が亡くなり、子供たちは散り散りになって・・・
親戚の家を転々としながら人生をもがくマタ・ハリ・・・。
目に入ったのは、新聞の花嫁募集の広告でした。
結婚相手を探していたのは、ルドルフ・マクラウド大尉。。。初めて会って100日後に結婚。
夫39歳、マタ・ハリは19歳でした。
その後、彼女は夫が赴任したインドネシアで暮らします。
しかし、マクラウドは女癖が悪い上に嫉妬深く、暴力をふるいました。
子供を授かったものの、夫婦生活は破たん・・・いさかいが絶えませんでした。

離婚を決めたマタ・ハリは、子供とも別れ、一人パリに向かいました。
1904年マタ・ハリは28歳でした。
その時、財布には200円しかありませんでした。
それなのにマタ・ハリは、オペラ座に面した超高級ホテルに宿をとります。
当時改装したグランドホテル・・・豪華なサロンが上流階級の間で話題となっていました。
マタ・ハリは、全財産をつぎ込んだ衣装に身をまとい、高級ホテルを定宿にしました。
ロビーに現れる男を物色し、金回りのいい男を選び、関係を持ち・・・パリの夜を生き抜くための虚飾の生活の始まりでした。

ダンサーとしての偽りのプロフィールは様々で・・・
パリに来たよく年、オリンピア劇場と1万フランで契約。
その年の暮れには、マドリードで2週間の公演を行い、よく年はモンテカルロの舞台に立ちました。
演目は「ラホール王」・・・まるで世界が彼女のために回っているようでした。

出会う男もグレードが違っていきます。
私生活もゴージャスに・・・。
ラ・ドレ城、メイド、料理人、庭師、馬・・・

パリでの鮮烈なデビューから6年、ヨーロッパ最高峰オペラハウス、ミラノのスカラ座で公演するまでになりました。
演じるは女神ビーナス、悲劇の王女・・・人気絶頂のマタ・ハリ・・・
しかし彼女は、自分に飽き足らないものを感じていました。
”半裸からドレスへ・・・マタ・ハリはもう裸では踊らない”
目指したのは、男たちの欲望に身を晒すだけでは終わらない一流のアーティスト・・・。
しかし、評判にはなりませんでした。
裸を売り物にしないマタ・ハリの仕事は、目に見えて減っていきました。
増えていったのは請求書の山・・・。
相変らずオートクチュールのドレスや宝石で身を飾り、代金はかつての愛人たちに無心しました。
1914年2月・・・生活に行き詰まりベルリンに・・・
急成長を遂げるドイツ帝国の都に希望を託して・・・。

1914年7月、第一次世界大戦勃発!!
マタ・ハリのベルリン公演は、実現しないまま終わりました。

「戦争が始まる
 もう、ベルリンにはいられない
 舞台にも立てない」

そしてマタ・ハリは危険に道に・・・

1917年2月13日、運命は一転・・・
フランス当局にスパイ容疑で逮捕されてしまいました。
その頃、一世を風靡した姿ではありませんでした。
判決が下るまでの5か月・・・尋問は14回にも及びました。
そのすべての記録がパリ郊外の軍事資料館に残されていました。

戦時中・・・頻繁に国境を越えていることがわかります。
そして、マタ・ハリが逮捕時に所持していた49枚の名刺。。。

裁判官ピエール・ブーシャルドン・・・戦時中はスパイの摘発に努めました。
初めて取調室に呼んだ時、物的証拠はありませんでした。
マタ・ハリを追い込みんでいきます。
特に問題となったのは、イギリスフランス連合軍が70万の兵士を失ったソンムの戦いです。
マタ・ハリがドイツ側に流した機密情報に問題があるとされたのです。
マタ・ハリは一貫して容疑を否認。
しかし、ブーシャルドンが手に入れた文書がマタ・ハリを追いつめます。
ドイツ軍の14枚の電報で、エッフェル塔の傍受班が解読したものです。
ドイツ軍はマタ・ハリを”H21”というコードネームで呼び、こう記していました。
”H21はパリで我々からの5000フランを受け取った”
動かぬ証拠に・・・遂に供述が始まりました。

1916年5月ごろ・・・ハーグの自宅にいると、オランダのドイツ領事がいらっしゃいました。
彼はこう切り出しました。
我々が関心を持つ情報を集めていただきたい。
同意していただければ2万フランお渡しいただけます。
領事はフランス紙幣で2万フラン渡していきました。
付け加えておきますが、私はパリから何一つ情報を送るつもりはありませんでした。

ドイツ側の指示でパリに入ったマタ・ハリ・・・運命はさらに複雑に動いていきます。
今度はフランス側からスパイ行為を求められたのです。
フランス軍ジョルジュ・ラドゥー大尉は、ドイツのスパイと知ったうえで、二重スパイにしようとしました。
マタ・ハリは、その危険な提案を受け入れます。

私は何か月もうろつき回って、細切れの情報を集めてくる気など全くありません。
大当たりやってのけたら、サッと退場します!!

フランスに同意した理由は・・・??

愛する人と結婚できるように、経済的に自立するため・・・。
100万フラン!!
愛する男と生きるために、二重スパイを引き受けたマタ・ハリ・・・
その男ととった写真をいつも大事に持っていました。
ロシア人将校ウラジミール・マスロフ・・・マタ・ハリは41歳、マスロフは21歳でした。

「私が苦しんでいるなんて裁判官は知らないでしょう。
 ここから出してください、もう耐えられません!!」

彼女にとっては恋に生きただけで、戦争なんて全くどうでもよかったのです。
それがマタ・ハリなのです。

裁判官に対し、ドイツのスパイをしていたことを認めたものの、機密情報は提供していないと主張し続けました。
フランスには害もない情報を・・・私は一度もフランスにスパイ行為をしたことはありませんし、試みたこともありません。

”H21にこう告げるべし
 得られた成果は満足すべきものではない”

ドイツ軍が求めた情報を提供していなかったマタ・ハリ。
どうしてフランスは死刑判決をくだしたのでしょうか?

そこには政治的背景がありました。
マタ・ハリがパリにいた1916年は、ソンムの戦いで大打撃を受けた年でした。
70万人もの死者を出していたのです。
当時フランスでは、ソンムの戦いでの責任を厳しく問う声が高まっていました。
作戦を指揮した陸軍大臣辞任、仏軍新総司令官罷免、内閣総辞職に追い込まれていました。
そこで、スパイがいたせいでたくさんの死者が出たことにしたのです。
ソンムの戦いで勝っていれば、マタ・ハリなどどうでもよく、死刑にされることもなかったでしょう。

裁判官ブーシャルドンがマタ・ハリを追いつめるために用意したものがある・・・それは、恋人・マスロフへの事情聴収です。
最愛の男はこう言いました。
「今は別の女と暮らしている
 マタ・ハリとは遊びだった」

読み終えたマタ・ハリは、申し上げることはありませんとだけ答えました。

1917年10月15日、マタ・ハリの41念の人生に幕が下りました。
処刑が行われた森は今、パリ市民の憩いの場となっています。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

ザ・スパイ (角川文庫)

新品価格
¥864から
(2019/1/26 06:39時点)

マタ・ハリ [DVD]

新品価格
¥500から
(2019/1/26 06:39時点)

皇妃エリザベートをめぐる旅 ドイツ・オーストリア・ハンガリー シシィの足跡をたずねて [ 沖島 博美 ]

価格:1,728円
(2019/1/23 21:39時点)
感想(0件)

時代を超え語り継がれた女たちがいます。
悪女・・・美貌と策略、野望と執念、歴史をも動かした女たち・・・。
美への執着と浪費・・・皇妃・エリザベート。

19世紀の終わり・・・ウィーンの森・・・ここに豪華な別荘が建てられました。
オーストリア皇帝が一人の女性のために作らせたものです。
その名はエリザベート(1837~1898)。
歴代の皇帝を輩出した名門・ハプスブルク家に妃として迎えられ、宮廷一の美貌を誇りました。
しかし、1898年、エリザベートは旅先で暗殺されます。
そして彼女は悲劇のヒロインとして語り継がれていきました。

ウィーンの王宮を抜け出しては贅沢な豪華な旅をしました。
専用列車や船でイタリアやギリシャを回り、お気に入りの場所に別荘を建てました。
旅はしばしば半年を超えました。
国の威信をかけた行事にも出席せず、王宮はその対応に追われました。
多くのお供を連れての旅・・・
金に糸目をつけずにエリザベートが旅をしていた頃、オーストリア帝国は様々な問題に直面していました。
1848年ウィーン蜂起
1859年ソルフェリーノの戦い
各地で独立運動が激化・・・!!
鎮圧するための戦費が莫大に・・・!!
度重なる凶作で、多くの国民が飢餓に苦しんでいました。
エリザベートの桁外れの浪費ぶりに宮廷内部からも批判が・・・

「これほど社会全体が辛苦に耐えている時に、どうして旅行のことなどを考えられるのか?!」
「なぜ周囲はそれを許しているのか理解できない。
 旅行費用50万グルデンを分配すれば、どれほどの飢餓が癒された事か?
 涙を流したい気分だ」

そんな声を余所に、エリザベートは帝国の中枢ホーフブルク宮殿に意外なものを持ち込んでいました。
体操用具です。
エリザベートは、出産で緩んだ体を元に戻すことに執念を燃やしていました。
若さと美しさへの執着・・・

毎晩仔牛の生肉で美顔パック、しなやかな肌を保つための高価なオリーブオイル風呂・・・
ある時、オリーブオイル風呂が高温となり危うく恐ろしい死に見舞われるところでした。
宮廷の厨房では、肉絞り器・・・美容のために肉を食べなかったエリザベートは、仔牛のモモ肉から絞り出した肉汁を飲んでいました。

エリザベートの私生活の暴露本には・・・
この本は、エリザベートの死後、15年経って出版されました。
当時でも衝撃的な内容で、オーストリアでは出版されず、アメリカでしか出版されませんでした。

”あの方は、まるで気京都が偶像を拝むみたいに御自分の美しさを崇拝し、そのまえに跪いていらっしゃいました。
御自分の身体が完璧なのを眺めては、美的喜びを味わっていたのです。
人生の課題は若さを保つことだというお考えで、美しさを維持するための最良の方策を求めることに意識のすべてを傾けられていました。”

エリザベートは、身長172cm、体重50kg、ウエスト50cmを生涯キープしたと言われています。

帝国を混乱に陥れたエリザベート、悪女にしたのはゾフィー大公妃かもしれません。
ゾフィーは、皇帝フランツ・ヨーゼフの母で、エリザベートの姑でした。
二人の軋轢は、結婚する前から始まっていました。
舞台となったのは温泉保養地として知られるバート・イシュル。
皇帝フランツ・ヨーゼフの避暑地でもあります。
1853年夏、フランツはここでバイエルンの貴族の娘・ヘレネと見合いをします。
ところが、フランツが見初めたのはその妹・エリザベートでした。
一目惚れだったのです。
ヘレネを見合い相手に選んだゾフィーは顔を潰されたのです。
母に背くことのなかった息子の反抗でした。
これは、ゾフィーとエリザベートの長い戦いの始まりとなりました。

1854年4月24日、フランツとエリザベートの盛大な結婚式が行われました。
結婚を祝福してオーストリア国家にある歌詞が加わりました。
”皇帝の傍らには 考えまでもが一心同体の皇妃
 その豊かな魅力は衰えることを知らない
 我等が美しい皇妃
 誉れ高き幸運が天から彼に降り注ぐ
 フランツ・ヨーゼフ万歳 エリザベート万歳
 ハプスブルク家に恵あれ”

帝国の后とったエリザベート・・・1837年12月24日南ドイツの名門貴族ヴィッテルズバッハ家に生まれました。
貴族の権力争いに嫌気がさした父・マクシミリアンは、一家を連れて、宮殿を離れ田舎で過ごしました。
狩りや旅を楽しみ、詩を書き、楽器を演奏した父・・・エリザベートも芸術を愛し、豊かな自然の中で伸び伸びと育ちました。
しかし、后妃となった彼女を待っていたのは、大公妃ゾフィーが司る息苦しい生活でした。
ハプスブルク家の外交儀礼では、后妃への挨拶は手の甲への口づけとされていました。
誰であれ、后妃に話しかけることはできませんでした。
エリザベートは、このルールを破ってしまいます。
バイエルンの従姉たちが訪ねてきたとき、手の甲への挨拶を受けることを忘れて抱きしめてしまいました。
すると・・・叱られてしまいました。
皇帝の母として威厳を守ろうとする大公妃ゾフィー・・・
宮廷の生活は、ゾフィーの目にかなったもので飾られていました。
エリザベートが大切にしていたものは素朴なモノが好きだったのです。

ハプスブルク家の領地だったハンガリーでは、当時独立の機運が高まっていました。
エリザベートは、父親が独立運動に理解を示していたことから、子供のころからハンガリーの言葉や歴史に親しんでいました。
ここにもゾフィーとの火種がありました。
ゾフィーは、ハンガリーの独立はオーストリア帝国の解体につながる危機と考えていました。
二人の対立には国と一族の命運がかかっていました。

1854年エリザベートは初めての子を身籠ります。
心を許すことのできるものの好きない王宮で、彼女は故郷から連れてきたお気に入りのオウム・・・
ゾフィーが動物と似た子が生まれると困るからとどこかにやるように言われてしまいます。
1855年エリザベートは長女を、よく年には次女を授かります。
ゾフィーはハプスブルク家の伝統にのっとり自分の女官に育てさせます。
ゾフィーの許しなしには子供にも会うこともできません。

皇帝フランツのハンガリー訪問が計画され、フランツは独立運動を鎮静する為にハンガリーで人気のあったエリザベートを共に連れて行きます。
エリザベートは、子供を一緒に連れていきたいと望みます。
が、ゾフィーは反対!!
ハプスブルク家の維新を見せつけることに子供は必要ない!!
ゾフィーの反対を押し切って、二人の子供を連れて旅立ちます。
が、思わぬ悲劇が・・・長女が発熱と下痢を繰り返し、亡くなってしまいました。
その後生まれた長男も、ゾフィーに取り上げられてしまいました。
やがてエリザベートは、体調が悪いと部屋に閉じこもりがちに・・・
皇妃の務めもあれこれと理由をつけて断ります。
1860年10月、22歳のエリザベートは、医師の勧めでポルトガルのマデイラ島で療養することに。。。
遠ざかっていく国・・・王宮、家族・・・エリザベートの長い旅の始まりでした。

穏やかな潮風に包まれた療養生活は2年に及びました。
立ち直り始めたエリザベート・・・
その頃、ウィーンの王宮で苦しんでいる少年は・・・ゾフィーに育てられていた息子・・・皇太子ルドルフ!!
病気がちな体を強くするため、厳しい軍隊式の教育を受けていました。
寝ている耳元で空砲を撃たれたり、いきなり冷水を浴びせられたり、立っていることができなくなるまで走らされたり・・・これを知ったエリザベートは、遂に立ち上がります。
朝5時に6歳の子供を銃声で起こすような・・・軍人の教官をやめさせようとしました。
政治的にリベラルな教師を集め、近代的な教育をしようとしました。
これが受け入れられなければ宮廷には戻らないと宣言します。
その訴えのおかげで、ルドルフはゾフィーのもとを離れます。

しかしその後も、エリザベートは王宮には戻らず、各地の別荘で過ごします。
その一つが夏の避暑地・・・バート・イシュル。今でもハプスブルク家の末裔が暮らしています。

エリザベートが情熱を注いだのが・・・馬。
エリザベートは乗馬が好きでした。
たくさんの名馬を飼い、気に入った馬を絵に書かせました。
少女時代から打ち込んできた乗馬・・・それが、エリザベートとハンガリーを結びつけることに・・・。
騎馬民族を祖先に持つことを誇りに思っていたハンガリーの人々・・・馬を愛する彼らと心を通わせながら国の将来を語りあっていく・・・
その頃、独立運動は大きな転換点を迎えていました。
新しい指導者アンドラーシが、自治権を獲得するためにハプスブルク家と和解する方針を打ち出しました。
エリザベートは皇帝に手紙を書き、アントラーシとの対話を促しました。

「あなたが彼を信頼されるなら、ハンガリーのみならず帝国全体をまだ救うことができると確信しました。
 とにもかくにも御自身であの方とお話になること、それも早急にです。」

1867年6月、ハンガリーは喜びに包まれました。
皇帝フランツとエリザベートのもと、悲願の自治権が認められ、ハンガリーはオーストリアと並ぶ立場となりました。
しかしそれは、ゾフィー大公妃にとってハプスブルク家の支配が揺らぐことを意味していました。
1872年5月、帝国の将来を憂いながら、ゾフィーは67年の生涯を閉じました。
皇帝はウィーン郊外に、エリザベートの新たな別荘を作りました。
彼女が好んだギリシャ神話にちなんで”ヘルメス ヴィラ”と名付けられました。
皇帝フランツの愛が詰まった贅沢な城・・・しかし、エリザベートの旅は終わりません。
ウィーンにいるのは1年で数週間にすぎませんでした。
フランツはエリザベートにたくさんの手紙を書いています。

”今年の春以来、一緒に過ごした日は数日とないが、君が自分の健康のために必要と思うなら、私は何も言うまい。”

皇帝の執務室には、エリザベートの肖像画がいつも飾られていました。

ウィーンの南の森にマイヤーリンクという王室ゆかりの館があります。
1889年1月、ここで悲劇が起きました。
皇太子ルドルフが男爵令嬢と心中したのです。
霊廟を訪れたエリザベート・・・ルドルフ・・・ルドルフ・・・ルドルフ・・・泣き叫ぶ声の大きさが、修道僧を驚かせました。

皇帝フランツは後にマイヤーリンクを修道院としました。
ルドルフが亡くなった場所に祭壇が置かれ、天井にハプスブルク家の守護聖人が描かれました。
礼拝堂のとなり。。。懺悔の部屋にエリザベートは嘆きのマリア像を納めました。
ルドルフの死後、エリザベートは喪服しか身に付けなくなりました。
さすらうその姿は、黒いカモメのようでした。
1898年9月、エリザべートはスイス・レマン湖のほとりにいました。
とつぜん男が襲い掛かり・・・それが長い旅の終わりとなりました。

当時ヨーロッパでは、従来の秩序が揺らぐ中、王政の打倒が活発になっていました。
犯人のルイジ・ルケーニは、イタリア人のアナーキストでした。
動機を問われ、「王族なら誰でもよかった」と言いました。
スイスへの帰らぬたびに出る途中、エリザベートはバート・イシュルで過ごしました。
彼女が何より大切にしていたのが・・・一番末の娘・マリー・バレリーです。
彼女が唯一自分の手で育てることができた娘・・・成長を見届けることができた唯一の娘。
エリザベートは、娘の嫁ぎ先の母にこう言いました。

「何事であれ、二人のことに口をさしはさむのはやめましょう。」

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

ハプスブルク帝国1809~1918―オーストリア帝国とオーストリア=ハンガリーの歴史

中古価格
¥586から
(2019/1/23 21:44時点)

フランツ・ヨーゼフ (河出文庫)

いだてん 前編 NHK大河ドラマ・ガイド

価格:1,188円
(2019/1/7 11:43時点)
感想(2件)



「いだてん」の第1回見ました!!
ドラマとして結構面白いんじゃないかな??と思います。
歴史といっても最近のお話しなので、「朝ドラ男性版」みたいな感じがします。

1話だけですが、キャラだっているし、テンポも良くってわかりやすいです。

idatenn















1話で出てきた嘉納治五郎先生・・・凄い人だとはわかっているんですが・・・
yawara




どうしても、こちらの治五郎先生が頭から離れません








前半の主人公の金栗四三さん、最後に出てきましたね。
この演出がとっても粋で、この先、面白いお話しじゃないかな??と思わせてくれました。
だって、別に絶対主人公が映っていないとダメなんておかしいものね~~!!
四三さん・・・この人の一生も、山り谷ありとっても波乱万丈な人生です。

出演の方々も重みのある方が多くて、安心して見てられます。
今年の大河ドラマは楽しく見させてもらおうかな??と思うので、このへんで!!


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

伝説のオリンピックランナー“いだてん”金栗四三/近藤隆夫【1000円以上送料無料】

価格:1,620円
(2019/1/7 11:43時点)
感想(0件)

現代スポーツは嘉納治五郎から何を学ぶのか オリンピック・体育・柔道の新たなビジョン [ 菊幸一 ]

価格:3,024円
(2019/1/7 11:44時点)
感想(0件)

習近平と永楽帝 中華帝国皇帝の野望 (新潮新書) [ 山本 秀也 ]

価格:820円
(2018/11/30 08:36時点)
感想(0件)



広大な国土におびただしい人が住む中国。
紫禁城は歴代の皇帝たちが、この国を治めるための決断をしてきた場所です。
ひとつの玉座をめぐる壮大な理想と欲望のドラマ・・・!!
世界の文明を見渡しても、皇帝一人が強大な権力をすう千年にわたって力を持っていたのは中国のみ・・・。
うごめく野望、秘められた苦悩・・・知られざる皇帝たちの素顔がよみがえります。

始皇帝以来、200人にもおよぶ中国の皇帝たち・・・
その中で極めて残酷と言われているのが、明王朝・第三代皇帝永楽帝(1360~1424)です。
今から650年前に起こった漢民族の王朝・明。
永楽帝は、甥の建文帝から皇帝の座を簒奪しました。
即位後も、敵対する人々を1万人以上殺害しました。

皮を剥ぎ わらに包んで 門にくくりつけ 見せしめとした

永楽帝の時代の皇帝の権力とは・・・??

黄崖関長城・・・現在知られる長城の殆どは、永楽帝が建設を始めたものです。
紫禁城も、天壇も、永楽帝が建設しました。

そのカギとなるのが鄭和です。
永楽帝の命を受けた鄭和は大船団を率いて世界をめぐります。
永楽帝の汚名払拭の一手とは・・・??

安徽省・鳳陽・・・1352年、この小さな農村から反乱の火の手が上がりました。
農民出身の朱元璋が、当時中国を支配していたモンゴル王朝・元に対して反旗を翻したのです。
戦火は瞬く間に全土に広まり、朱元璋の軍が勝利!!
新しい王朝・明が誕生しました。
朱元璋は初代皇帝に即位し、洪武帝を名乗ります。
王朝の新たな体制作りに力を尽くした洪武帝・・・あとをついだのは、病死した皇太子の子・・・皇太孫の建文帝でした。
これと激しく対立したのが、洪武帝の4男・・・後に永楽帝となる燕王・39歳です。
長江沿岸に広がる江蘇省・南京・・・建文帝はここに都をおいていました。
燕王は、屈強な軍隊を率いて南京を攻めます。
燕王は、武勇に優れ、モンゴルとの戦いでも功績をあげていました。
激しい戦いを続け、3年がかりで南京を攻略!!
遂に戦いに勝利した燕王は、建文帝から皇帝の座を簒奪しました。
1402年、第三代永楽帝として即位します。
しかし、戦いが終わってもその即位に激しく抵抗する人たちがいました。
明王朝を建国以来支えてきた官僚たちです。
厳しい科挙の試験を突破して、政治の実務を担ってきた官僚たち・・・彼らは、儒教の教えを心に刻み、主君への忠義や、上下関係の道理を大切にしていました。
方孝孺・・・初代・洪武帝の時代から明王朝に仕えてきた官僚です。
当時最も高名な儒学者でもありました。
即位に当たって永楽帝は、方孝孺に、自ら皇帝となったことを世に知らしめる詔勅を書くように命じます。
ところが、方孝孺はこれを拒否!!
”燕賊簒位”とだけ送り返してきました。
逆賊の燕王が力づくで行為を奪い取った・・・!!
永楽帝には正当性がなく、皇帝として認められないとしたのです。
激怒した永楽帝は、一族もろとも方孝孺を処刑しました。
直後に自らの即位に反発する官僚たちの粛正が始まります。
政府の要職にあった官僚たち・・・1万人以上・・・永楽帝は残虐という悪評が定まりました。

永楽帝は即位後、都を北京に移しました。
そして新しい宮殿を築きます。紫禁城です。
ここで永楽帝は皇帝としての新しい歩みを始めます。
紫禁城は、古くからの伝統に基づいて作られました。
が、永楽帝の玉座の上には奇妙なものが・・・天の使いの龍が玉を加えています。
もし、玉座に座るものが相応しくないなら、この玉を落とし、命を奪うという・・・軒轅鑑です。
道に背いて皇位を奪い、その残虐さが世に轟いていた永楽帝・・・玉座から見上げるたびに、自らの過去を思い出さずにはいられなかったかもしれません。
天に認められるようになる皇帝になるために、永楽帝はどんなことを行ったのでしょうか?

福建省・長楽・・・海の神をまつる長楽顕応宮・・・
1992年、この建物の地下から明時代の粘土の像が発見されました。
服には大蛇の文様が書かれています。
この文様は、位の高いものにしか身に付けられないものです。
民の高官??鄭和でないのか??
この鄭和こそが、永楽帝の汚名返上の鍵となる人物なのです。

永楽帝即位の3年後、1405年鄭和は大航海に乗り出します。
長さ100m超える巨大船で60隻以上、総勢200隻以上の大船団・・・!!
乗組員は、2万7800!!だいたいが兵士でした。
馬や資材を運ぶ馬船、大砲を乗せた戦船・・・鄭和はまさに海軍のような船団で世界を巡ったのです。

アフリカのケニア・・・明の時代には、イスラムの商人たちがここを拠点に盛んに貿易を行っていました。
永楽帝時代の銅銭が発見されています。
鄭和の航海が遠くケニアにまで及んでいたのです。
鄭和が訪れたのは30か国以上!!
大航海の目的とは・・・??
イラン・アルダビル廟にその答えがありました。
明に使節を送ること・・・??
朝貢・・・??
鄭和の大航海によって、はるか遠くの国々も永楽帝のもとに使節を送り、臣下の礼をとるようになりました。
それは、結果的には征服したのと同じことでした。

朝貢は国内の統治にも大きな影響を与えます。
外国の使節を見た官僚たちは、永楽帝の成果の前にひれ伏したのです。
鄭和の大航海は、汚名を背負った永楽帝の権威を高めることとなるのです。
江西省・景徳鎮・・・永楽帝は全国から名工を強制的に集め、ここで青花を作らせました。
永楽帝によって青花の品質は飛躍的にあがりました。
そして、永楽帝は、長江に訪れた異国のデザインをわざわざ取り入れて、国内に広めようとします。
諸外国の上に君臨する「優れた皇帝」というイメージを人々に見せることで、自らの正当性を確かなものにしようとしました。

永楽帝が日々の政務を行っていたのは紫禁城。
周囲の官僚は、皇位継承の正当性を重んじるエリートでした。
永楽帝は毎日が緊張の連続でした。
その中で永楽帝に忠誠を誓っていた鄭和。
紫禁城・乾清宮・・・永楽帝が寝起きしていた場所・・・それまでの皇帝とは違い、ここで政治的な決定をすることがよくありました。
ここで命令を受けたのは、官僚ではなく、永楽帝が信頼を置く特別な部下たちでした。
鄭和もその一人でした。

永楽帝の信頼の応え、はるかアフリカまで航海した鄭和。
鄭和とはどんな人物だったのでしょうか?
雲南省・昆陽・・・鄭和はこの地で裕福な家の次男として生まれました。
鄭和の祖先は、中央アジアから雲南に移住したと言われています。
鄭和も敬虔なイスラム教徒として育ちました。
その人生が大きく変わったのが12歳の時、明軍が雲南に侵攻したのです。
明軍はこの地を制圧し、数千人の少年が捕虜となり連れ去られ・・・鄭和もその一人でした。
鄭和は宦官として仕えました。
宦官は皇帝の私的な使用人でした。
皇帝の寵愛を受けても子孫がいないため、将来その一族が力を持つことがありません。
権力者にとっては、使い勝手のいい存在でした。

鄭和も少年の頃に宦官となり、永楽帝の身近に仕えました。
永楽帝は、若い頃から宦官である鄭和をいつも戦いに伴っていました。
皇位を奪い取るために建文帝との戦いでも、鄭和は大きな功績をあげました。
だから、鄭和に高い地位を与えたのです。
宦官が力を持つようになったのは、永楽帝の時代からです。
中国には、宦官は古くからいましたが、本来の役割は皇帝の身の回りの世話をすることでした。
しかし、永楽帝の時代になると、軍事、外交など、国の重要な部分も担うようになります。
紫禁城の東・・・ここに、かつて永楽帝が作った宦官の組織がありました。
東厰・・・東証の役割は、皇帝に反逆を企てる者や人々を惑わす者を監視し、逮捕することでした。
皇帝直属の秘密警察でした。
宦官の役割を、大きく変えた永楽帝・・・永楽帝を突き動かしていたのは、即位以来の官僚たちへの不信感でした。
永楽帝の権力を支えた鄭和・・・どんな気持ちで忠誠を誓っていたのでしょうか?
鄭和の記録はほどんど残っていません。
が・・・明後期の宦官の墓は立派なものです。
そこには、皇帝から勅命を受けたという文字が刻まれていました。
皇帝との絆こそがこの世に生きた証だった宦官たち・・・鄭和もまた、永楽帝に終生忠誠を誓いました。
永楽帝の命に従った航海は7度に及び、後半生の半分以上を航海で過ごしました。
いつどこで命を落としたのか??確かなことはわかっていません。

王朝の中で宦官の役割は・・・忠義という面においては、宦官の方が信頼できました。
官僚は、早くても20歳をすぎないと自分の家来にはならない・・・
しかし、宦官は自分が物心ついたときからいる面々で、家族的な側面を持っていたのかもしれません。
自分に危険を及ぼさない・・・自分の王権に反逆しない者として・・・!!

永楽帝の父・洪武帝の記録・・・起居注が残っています。
この記録は、皇帝の言行録なので、事実だけが書かれています。
洪武帝が誰を後継者にしようとしていたのか・・・??
聡明な第四子の燕王をぜひ皇太子に立てたいと望んでいたようです。
洪武帝の言葉に対し、重臣たちが激しく反発しました。
「陛下のご意見は一理ございます。
 しかし、燕王を立てれば、二人の兄の立場がございません。
 長男の家系を優先すべきです。」
家臣の言葉に洪武帝は、
「王位に哭し、思考してやむ」と、燕王に継がせることを諦めます。
このことは、燕王に伝わっていたと考えられます。
父からも皇帝に相応しいと認められていた燕王・・・
彼が道ならぬことと知りながら、皇帝の座を奪い取ろうとしたのはその7年後でした。
「逆取順守」・・・道理に背いた方法で天下をとったとしても、天下を取ってからは道理に従って守る・・・
皇帝になる方法が、たとえクーデターであれ、その後、良い政治をすれば取り返せると考えたのです。
ただ皇太子だから即位した人に比べて、政治への意気込みは永楽帝は人一倍強かったのです。

即位後の永楽帝は精力的に動きます。
ベトナムは、積極的に明との国境を侵していました。
即位して間もなく、80万の大軍を派遣!!
1406年ベトナム王朝を倒して、直轄地とします。
1410年モンゴルを50万の兵で遠征!!
大打撃を与えて西方に追いやります。
外敵の不安は無くなり、国は安定します。
国内では運河の改修に取り掛かります。
京杭大運河は北京から広州まで2500キロを結んでいました。
永楽帝は30万人を導入して運河を掘削し、南北を結ぶ大動脈が完成し、大量の物資の運搬が可能になります。
そして晩年・・・最後の大事業に取り掛かります。
天壇の建設です。
天壇は東京ドーム60個分の巨大建築です。
天壇の中心にある建物・祈年殿・・・かつて、皇帝しか入れない場所でした。
内側の金の装飾がある4本の柱は、四季をあらわしています。
更にその外側にある12本の赤い柱は、12か月・・・1年を表しています。
この空間は、天そのものを表しています。
天とは、中国特有の考え方で、万物を司る存在です。
永楽帝は家臣たちが居並ぶ中、一人で入って天に祈りを捧げました。
自らが天子であることを知らしめようとしたのです。
皇帝としての正当性を確かなものにしようとした永楽帝・・・。
永楽帝が最後に頼ったのが天だったのです。

物資が大量にある平和な時代が続き、鄭和が訪れた国々からは、朝貢の使節がやってきて、象やライオンなどが献上されます。
永楽帝に朝貢する国々は60に及び、人々は明の国の強大さを実感します。
永楽帝は、明の最盛期を実現したのです。
しかし、相次ぐ大事業は、永楽帝の心と体の負担となっていました。
60歳を超えた永楽帝は、虚脱感に襲われ何日も寝込むようになります。
理由もなく怒ることもあったとか・・・。
さらに、宮廷で思わぬ出来事が起こります。
宮廷の掟を犯した宮女を取り調べていたところ、その宮女が告白しました。
皇帝の暗殺まで企てていたのです。
その真偽はわからないものの、永楽帝は、関係者の多くを処刑します。
完成されたはずの支配体制のほころびでした。

永楽帝が62歳を迎えた初夏の夜・・・玉座に座る年月は19年を超えていました。
紫禁城の上空がにわかにかき曇り、大雨が降り始めました。
荒れ狂う空に閃光が走ります。
激しい轟音と共に雷が紫禁城を直撃しました。
一面は火の海となり、明け方まで燃え続けたといいます。
跡形もなく灰となりました。

永楽帝は、「自分の至らぬ点について意見を求めた」
これを機に、官僚たちが次々と上奏を行い、大事業が人々を苦しめたと批判しました。
官僚たちの不満を知った永楽帝は、翌年、思わぬ行動に出ます。
モンゴルへの親征・・・自ら50万の兵を率いての出陣でした。
ところが、この遠征は全く成果を得ることなく終わります。
モンゴル軍に遭遇することすらできず、2か月・・・砂漠を放浪するだけでした。
その後も、2度にわたってモンゴルに出陣しましたが、結果は同じでした。
永楽帝は、遠征の途中・・・モンゴルの平原で65歳の生涯を閉じるのです。
皇帝に相応しくあることに費やされた生涯でした。

永楽帝が、生涯にわたって力を注いだ建造物があります。
外敵を防ぐために北に作られた万里の長城です。
始皇帝が築いたことで知られる万里の長城ですが、明の時代には荒れ果てていました。
その再建を本格的に始めたのが永楽帝でした。
今知られる万里の長城の殆どは、明の時代に作られたものです。
永楽帝の目的は、北方に総延長6000キロに及ぶ防衛線を作ることでした。
そして、そこに兵を常駐させることでした。
中国では、皇帝の歴史的評価は、次の時代に書かれる正史で決まります。
明史では、永楽帝はこう評価されています。

”永楽帝の威光は、遠い国々まで及んだ
 四方の国は服属、その武力は光り輝いている
 しかし、甥を倒して皇位を奪ったことなど、背徳の行為は決して隠すことはできない”

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

海魂:從鄭和的大航海時代到東瀛崛起【電子書籍】[ 李峰 ]

価格:710円
(2018/11/30 08:37時点)
感想(0件)

中国ドラマ/洪武大案 -全35話- (DVD-BOX) 台湾盤 Judgement of Hong Wu

価格:4,500円
(2018/11/30 08:38時点)
感想(0件)

このページのトップヘ