日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: Let's Go 熊野古道

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筆捨松と硯石。

わくわくハイクなので、歩きますよ!!

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お~、急な坂です。
でも、みんなガンバるわよ

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まさに”蟻の熊野詣”ですよ。


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この筆捨松、そのいわれは・・・
平安初期の仁和(885)のころ、絵師巨勢金岡は熊野への途中、藤白坂で童子と出会い競画をすることになりました。
金岡は松にウグイスを、童子は松にカラスの絵を描いたのですが。。。

金岡は童子の絵のカラスを、童子は金岡の絵のウグイスを、手を打って追うと、両方とも飛んでいってしまいました。
童子がカラスを呼ぶと、どこからか飛んできて絵の中に収まったのですが、しかし、金岡のウグイスはついに帰りませんでした。

金岡は「無念!」と筆を投げ捨てたといいます。
その筆は、「投げ松」のところへ落ち、以来、筆捨松と呼ばれてきました。

その童子は熊野権現・・・おもいあがった巨勢金岡を、熊野の神様がいましめたというお話です。

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17世紀になって・・・その故事にちなんで初代紀州藩主徳川頼宣公が筆捨松のそばに造らせたのがこちら。

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硯石です。


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こんなに大きな石、どこから持ってきたんだか・・・
修業なんだろうか、罰ゲームなんだろうか??
細くて急な山道をどうすんねん!!って感じですが、昔の人は本当にすごいですね。

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久々の熊野古道です。
色んなことに迫られて・・・更新遅れていました。

今回は、私の30年以上もの片思いの相手、有間皇子のお墓です。
やっぱり万葉で外せないのは、大津皇子と有間皇子でしょう。
女の子の大好きな、悲劇の皇子のお話です。

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ちなみにこちらが熊野古道にあるお墓。
海南の藤白坂にあります。
お墓自体は、明治時代になってから建立されました。
この場所で・・・高貴な方の棺が発見されたからだそうで・・・たぶん有間皇子では??
そう、有間野皇子は、この藤白坂で・・・縊られ・・・19歳の若さで亡くなっているのです。

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こちらでも、ボランティアのおじさんが、お話を聞かせてくれました。
それも、歴史オタクな私よりもかなり詳しく。
とっても面白かった。

そんな有間皇子は・・・
悲劇は大化の改新から始まりました。

第34代舒明天皇の後、皇后が・・・皇極天皇として皇位につきました。
そう、女帝です。
645年中大兄皇子・・・後の天智天皇と中臣鎌足らによって、時の権力者蘇我入鹿が殺害されます。
これが、大化の改新・・・っていうか、今では乙巳の変です。

皇極天皇は、2日後弟・軽皇子に皇位を譲ります。
これが孝徳天皇です。
皇后は・・・中大兄皇子の妹・間人皇女がなりました。
鎌足は内臣となり、中大兄皇子との・・・ふたりの天下となっていきます。

この孝徳天皇と小足媛との間にできたのが、有間皇子です。
が・・・孝徳天皇と中大兄皇子の確執から・・・亡くなってしまい・・・
重祚という形で、皇極が斉明天皇となりました。
この時、有間6歳・・・。
中大兄皇子はまだ皇太子。
これが悲劇への幕開けとなるのです。

ま、当時の皇位継承は、血だけではなく、それ以外にも、聡明であること、それなりのお年であること、実績があること・・・なんかが必要とされていました。
そう、今みたいに、皇位継承がきっちりと決まっていなかったのです。


中大兄皇子はその後も・・・
古人大兄皇子を死罪に、蘇我倉山田石川麻呂も自殺に・・・
有間皇子にその手が伸びるのは、時間の問題でした。

利口であったのに、気がふれたように振る舞ったとも言われている有間皇子。
牟婁の温湯(和歌山県の白浜温泉)に出かけ療養して元気になったので、子供をなくして傷心だった天皇にもその湯を薦め・・・

その留守に、事件は起こりました。
11月3日、蘇我馬子の孫・留守官の蘇我赤兄が有間皇子邸を訪れ、天皇の3つの失策をあげて謀反をそそのかします。
「大きな倉庫(くら)を建てて、人民の財物を集積することがその一」
「延々と水路を掘って、公の食料を消費することがその二」
「舟に石を乗せて運び、それを丘のように積み上げることがその三」です。

5日には、赤兄の家に赴き、謀議を巡らせます。
その際・・・皇子の脇息が折れたので、不吉だと挙兵を断念したとも言われています。


その夜半・・・
皇子の館を取り囲むものあり・・・!!
なんと、赤兄の兵でした。
そして、皇子は共謀者と共に、牟婁の温湯に護送されてしまうのでした。

つまり、赤兄は謀反をそそのかしたというか・・・
そそのかすように・・・そんな感じに申し開きのできないようにはめるように・・・
中大兄皇子や鎌足に言われていたのかもしれません。
そう、これが悲劇・・・!!

護送の途中で詠んだ歌・・・最も優れているとされているのは・・・

磐代(いはしろ)の 浜松が枝(え)を 引き結び 
           真幸(まさき)くあらばまた還(かへ)り見む(万・巻2-141)

家(いへ)にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 
              旅にしあれば 椎(しひ)の葉に盛る(万・巻2-142)

です。

11月9日・・・牟婁の温湯に到着した有間皇子は、中大兄皇子の厳しい尋問にあいます。

「どうして謀反を企てたのか???」と問われた有間皇子は・・・

ただ一言・・・
「天と赤兄と知らむ 吾(われ)全(もは)ら知らず」(天と赤兄に聞いてくれ 私は何も知らない)
と答えました。


11月11日には再び都へ送還され、その途中・・・自ら結んだ松の枝は目にしたものの、藤白の坂で絞首。

19歳でした。

時代は過ぎて43年後・・・
持統・文武両天皇は、牟婁の温湯行幸に出かけます。
その時に着き従った大宮人の歌が残っています。

藤白の み坂を越ゆと 白妙(しろたへ)の わが衣手(ころもで)は 濡(ぬ)れにけるかも(万・巻9)


19歳で悲劇の死を遂げた有間皇子を悼んで詠まれたものです。

「100年経てば歴史となる」と言われていますが、当時は50年もすれば歴史となっていたのかもしれません。

熊野への入り口に・・・
この非業の死を遂げた有間皇子のお墓があるということも、なんだか感慨深いというか・・・
旅人達は、困難な熊野詣を・・・無事に旅を遂げられるように祈ったのかもしれませんね。

あ・・・でも、忘れてはいけません。。。この石碑ができたのは、明治時代。
きっと、人々が豊かになり、おおっぴらに弔うことができるようになったからなのかもしれません。

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藤白神社に来ましたよ~~

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こんな立札がありました。

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みんなでちょっとづつ土を運びます。
体力に自信のない私は、パパに持ってもらいました。


藤白神社は、万葉の時代、斎明天皇が、紀の湯(白浜町)に行幸の際、この地を訪れ創建されたと伝えられています。

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熊野三山霊域の入口にある神社で、熊野九十九 王子の中でも特に格式の高い「藤代王子」の旧址です。

神社には境内を覆う5本の大クスが聳えて います。
境内社である「子守楠神社」の御神体とされる3本と、その南方に1本あります。

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kumagusu

子が生まれるとこの神社に詣で、子供の名前に、楠、藤、熊の一字を入れて名を受け ることが多かったのですが・・・。
紀州が生んだ偉人で、博物学者として世界に名を知られる南方熊楠がこの神社で名を 受けたのは有名です。

そして・・・次は有間皇子のお墓へ。。。




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10月19日、「熊野古道わくわくハイク」が開催されました。
集合場所はJR海南駅。
熊野古道の王子跡や寺社仏閣を訪ねて、最終、海南市民交流センターをゴールとするハイキングイベントで、今年で19回目を迎えます。

ちょっと前にも通った道ですが、レポも重なりますが・・・今回はどうなる事やら??

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受付は、8時から順次だったのですが、すごい人です。
先着1000名の応募、オーバーするほどの盛況ぶりです。
駅をちょっと南へ行くと・・・

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          紀の海の 名高の浦に 寄する波
                  音高きかも 逢はぬ子ゆゑに

詠み人知らず歌碑が立っていました。

揮毫者は 海南市民病院の医師で郷土史家でもあり万葉歌解説もされている、佐々木政一先生です。 

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こちらは鈴木屋敷です。



藤白神社の近くにあります。
”鈴木屋敷??”そう、全国に200万人いるであろう鈴木姓の発祥の地です。

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鈴木屋敷では、その由来・いわれ・・・を、ボランティアのオジサンが丁寧に教えてくれました。
歴史が大好きなパパと私にはです。

全国鈴木氏の総本家ともいうべき鈴木屋敷。。。
平安時代末期に熊野から移ってきた鈴木氏が建てたもので、過去上皇・法皇がご宿泊所に供されたといわれています。
鎌倉時代には、源義経が幼名・牛若丸といった頃、ここを訪れて山野を駆け巡って遊んだとも伝えられています。

そして、藤白神社へ・・・。

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いよいよ坂に挑戦です。

有間皇子のお墓の近くには・・・

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お地蔵さんがありました。

ここから藤白坂を登っていきます。

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はじめは平坦な道ですが・・・

PB222384.JPG

ああ、階段が!!
峠に突入です。黒ハート


動くのが苦手な私ですが、道には1丁ごとにお地蔵さんが立っています。

この地蔵は元禄年間(1688~1704)に海南の高僧全長上人が、安全祈願と坂の長さを計るために1丁ごとに建てたものです。

全部で18体あるそうです。

私も、あと〇丁・・・と、勘定しながら登りました。黒ハート
けっこう励みとなりました。

ずんずん進んでいくと、竹藪もあります。

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笠をかぶった平安美女が、赤い衣装で出てきそうです。

そんな趣も感じながら、

十四丁まで行くと、筆捨松と硯石がありました。
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この筆捨松、そのいわれは・・・
平安初期の仁和(885)のころ、絵師巨勢金岡は熊野への途中、藤白坂で童子と出会い競画をすることになりました。
金岡は松にウグイスを、童子は松にカラスの絵を描いたのですが。。。

金岡は童子の絵のカラスを、童子は金岡の絵のウグイスを、手を打って追うと、両方とも飛んでいってしまいました。
童子がカラスを呼ぶと、どこからか飛んできて絵の中に収まったのですが、しかし、金岡のウグイスはついに帰りませんでした。

金岡は「無念!」と筆を投げ捨てたといいます。
その筆は、「投げ松」のところへ落ち、以来、筆捨松と呼ばれてきました。

その童子は熊野権現・・・おもいあがった巨勢金岡を、熊野の神様がいましめたというお話です。

その故事にちなんで初代紀州藩主徳川頼宣公が筆捨松のそばに造らせたのがこちら。
PB222415.JPG

硯石です。

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ピンとはった空気の中、今も昔も変わらない・・・そんな空間を楽しみながら

たどり着いたのは

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峠のおじぞうさん、地蔵峰寺です。

この中には、大事にお地蔵さんが祀られています。
この裏にある丘は御所の芝といい和歌浦から淡路島まで見渡せる景勝の地です。

PB222427.JPG

この日は朝から雨だったので、ちょっと靄がかかっていますが、片男波がとても綺麗でした。

熊野への行幸は、宇多天皇が最初だと言われています。

熊野三山への参詣が頻繁に行われるようになったきっかけは、1090年の白河上皇の熊野行幸からと言われています。
白河上皇はその後あわせて9回の熊野行幸を行いました。
これにより京都の貴族の間に熊野詣が行われるようになり、その後、後白河上皇も34回の熊野行幸を行っています。
ちなみに回数は、有名どころで・・・
宇多法皇(1)・白河上皇(9)・鳥羽上皇(21)・崇徳上皇(1)・後白河上皇(34)・後鳥羽上皇(28)・・・と、いろいろな天皇や貴族に愛されていました。

でも。。。
ホントに、天皇行幸ってなったら、輿はいるは荷物も多いは・・・よくこんな道を歩けたものだ・・・と思います。
決死の覚悟だたのでしょうね。
だからこそ、景色にも、温泉にも、大自然の神秘にも、心の底から感動したのでしょうね黒ハート


ああ、ほんとに、視聴率低迷の”平清盛”ですが、もっと熊野古道もタイアップしてれば良かったのに・・・!
出てきた天皇、みんな熊野詣してるじゃん!!


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