藤白神社を後にして、地蔵峰寺を目指して歩き出しました。
で・・・有間皇子のお墓でまたもや脱線です。
有間皇子は孝徳天皇の子で有力な皇位継承者の一人です。
640年、軽皇子(後の孝徳天皇)が小足媛(おたらしひめ)とともに有馬温泉に滞在中に生まれたので、待望の皇子に「有間」と名付けました。
孝徳天皇は中大兄皇子の母・斉明天皇の弟で、中大兄皇子と有間皇子は従兄弟関係に当たります。
654年難波の都で孝徳天皇は病になり、10月10日、寂しくこの世を去りました。
有間皇子はこのとき15歳。
孝徳天皇が亡くなり、中大兄皇子の母が再び斉明天皇として即位しましたが、中大兄皇子は皇太子として政治の実権を握ります。
父・孝徳天皇がいなくなり、有間皇子は次の天皇の候補者となりました。
しかし、中大兄皇子の存在は脅威的。
日本書紀によると657年18歳の有間皇子は狂人のふりをしたといいます。
有間皇子は身の危険を感じて、657年に心の病と称して牟婁の湯(和歌山県白浜町)に隠れました。
しかしその後都に帰って斉明天皇に病の完治を伝えたときに、その地の風光明媚なことを話したところ、たいそう喜んで・・・斉明天皇は牟婁の湯に行幸することになりました。
斉明天皇一行は牟婁の湯に行幸し、有間皇子は飛鳥に留まりましたが、このとき留守居役だった蘇我赤兄が有間皇子宅を訪れ・・・天皇の失政を語ったことに心を許して、謀反の計画を二人でめぐらせてしまいました。これが、有間皇子の変と言われているものです。
しかし、赤兄は、謀反を密告した上で有間皇子を捕らえて、牟婁の湯に送ってしまったのです。
その後、中大兄皇子と面会して尋問されたときに、有間皇子は・・・
「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」
と答えたと伝えられています。
有間皇子は、この後都に送り返されたものの、その二日後、この藤白坂で絞首刑に処せられました。
「家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」
これは、万葉集に残されている有間皇子の詠んだとされる歌です。
どんな気持ちでこの歌を詠んだのでしょうか???
実際に、孝徳天皇・有間皇子政策VS斉明天皇・中大兄皇子政策という戦いだったのか、ただ単に中大兄皇子と蘇我赤兄が有間皇子を陥れるための悲劇の死だったのか・・・日本書紀に数十行書いているものの、真実はわかりません。
でも・・・今でもこの花は、絶えることはありません。
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孝徳天皇は中大兄皇子の母・斉明天皇の弟で、中大兄皇子と有間皇子は従兄弟関係に当たります。
654年難波の都で孝徳天皇は病になり、10月10日、寂しくこの世を去りました。
有間皇子はこのとき15歳。
孝徳天皇が亡くなり、中大兄皇子の母が再び斉明天皇として即位しましたが、中大兄皇子は皇太子として政治の実権を握ります。
父・孝徳天皇がいなくなり、有間皇子は次の天皇の候補者となりました。
しかし、中大兄皇子の存在は脅威的。
日本書紀によると657年18歳の有間皇子は狂人のふりをしたといいます。
有間皇子は身の危険を感じて、657年に心の病と称して牟婁の湯(和歌山県白浜町)に隠れました。
しかしその後都に帰って斉明天皇に病の完治を伝えたときに、その地の風光明媚なことを話したところ、たいそう喜んで・・・斉明天皇は牟婁の湯に行幸することになりました。
斉明天皇一行は牟婁の湯に行幸し、有間皇子は飛鳥に留まりましたが、このとき留守居役だった蘇我赤兄が有間皇子宅を訪れ・・・天皇の失政を語ったことに心を許して、謀反の計画を二人でめぐらせてしまいました。これが、有間皇子の変と言われているものです。
しかし、赤兄は、謀反を密告した上で有間皇子を捕らえて、牟婁の湯に送ってしまったのです。
その後、中大兄皇子と面会して尋問されたときに、有間皇子は・・・
「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」
と答えたと伝えられています。
有間皇子は、この後都に送り返されたものの、その二日後、この藤白坂で絞首刑に処せられました。
「家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」
これは、万葉集に残されている有間皇子の詠んだとされる歌です。
どんな気持ちでこの歌を詠んだのでしょうか???
実際に、孝徳天皇・有間皇子政策VS斉明天皇・中大兄皇子政策という戦いだったのか、ただ単に中大兄皇子と蘇我赤兄が有間皇子を陥れるための悲劇の死だったのか・・・日本書紀に数十行書いているものの、真実はわかりません。
でも・・・今でもこの花は、絶えることはありません。
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