日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: THE ナンバー2

THEナンバー2
久しぶりに見ました。(*≧m≦*)

夏休みの疲れも、映画でリフレッシュ!やっと、普通の生活になれそうです。

今回は、~戦国最強の僧侶~太原雪斎です。

この人は、実はよく知りませんでした。戦国ゲームの中では、知る人ぞ知る、とっても有名な人だそうですね。彼は、臨済宗の僧侶で、今川義元の名参謀でした。

雪斎は、今川義元の父から、義元の教育係を任されます。

というのも、この義元も、もともと家督を継ぐ立場ではなく、1536年氏輝が死去、その弟も不審死、当時は仏門に入っていた義元が、18歳で家督を継ぐことになったのです。

そうして、跡目争いに勝利し、この義元を当主にするため、お家安泰を望み、立ち上がるのです。

僧侶といえば、今では平和主義的なお坊さんというイメージですが、江戸時代前の僧侶は、織田信長で有名な比叡山焼き討ちなど、結構戦闘的な僧侶が多かったのは事実です。

僧侶は、経文だけでなく、孫子や六韜三略など、軍略書にも明るかった上に、使僧として、全国を回れたという強みがあったのです。この使僧とは、俗世間から切れているという「無縁の原理」によって、国をまたいだ旅が出来たというものです。これが、雪斎の強みでした。

今川の内乱を抑えるため、武田信虎から支援してもらうことを確約させます。これは、最大の敵を味方につけることによって、戦いの先手を取ったのです。義元を当主にした後、武田家との関係を強化するため、武田晴信に京都三条家娘を娶らせ、信虎の娘を義元に娶らせます。いわゆる婚姻外交を進めるのです。

そうした中、1541年、武田晴信が、自分の父である信虎を追放します。この信虎の身元引受人になったのが雪斎で、武田側と話をまとめます。
諸説ありますが、この追放劇は、晴信と雪斎の密約があって、二人の策略かともいわれています。

そして、上洛するため、武田・北条と三国同盟を結びます。これは、武田は上杉と、北条も北と、今川は西と、背を見方にする必要があったからです。

1546年、三河へと侵攻を始めます。軍の総指揮は雪斎。松平とは、竹千代(家康)を人質にとることで同盟を約束したにもかかわらず・・・。田原城主が織田側に買収されていて、「駿河には海で行くほうが・・・。」と、船に乗せられてしまい、船はあれよあれよと織田側へといってしまうのです。織田が、竹千代強奪に成功します。

そんな中、松平の家臣をまとめたのも雪斎でした。小豆坂で織田信秀の長男・信広と対決し、信広を生け捕ります。そうして、竹千代と交換するのです。

そうして、雪斎は竹千代の教育係になるのです。

1554年、北条、武田、今川の間で三国同盟(不可侵条約)が成立しようとしていましたが、雪斎は今までの無理がたたり59歳で亡くなるのです。

後に家康が語っています。

「雪斎亡き後は今川の国政ととのわざりき」と。

雪斎の死から5年、義元は桶狭間の戦い(本当は田楽狭間の合戦らしい)で討ち死にすることになるのです。

今川義元の失敗は、雪斎に代わる人材を作っておかなかったことでしたが、はじめの通り、雪斎はと義元は師弟関係にあり、雪斎を尊敬していた義元には、考えられなかったのかも知れません。

しかし、聡明な愛弟子、家康には数々のことを、自らの兵法の極意を伝授していました。それは、家康の中に類稀な才能を見出していたのかも知れません。そして自分がナンバー2として大きな存在になりすぎたことを憂慮して、家康にはあまり公言しないように、また、家康も公言しなかったといいます。

こんなに有名になる要素がたくさんあるのに、何で知らなかったんだろう?ε~( ̄、 ̄;)ゞフー安国寺恵けいとかぐらいです・・・。

まだまだ修行が足りませんね。(TmT)


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“三本の矢”で有名な毛利元就、その長男・毛利隆元、次男・吉川元春、三男・小早川隆景・・・この逸話は有名な三本の矢の教え。

しかし、三本の矢の教えは作り話・・・
長男の隆元は、元就より先に死んでいるので、元就の死の床に三人の息子が・・・というくだりはありえないのです。
もともと三本の矢とは。。。シルクロードから来たお話のようで。

それが毛利家に当てはめられたのは・・・三人に一致団結せよ!!と、元就が言っていたからです。
毛利家を守るために、養子に出された隆景・・・
養子と言っても、戦国時代。相手の家をのっとって、毛利の為に!!!

その話に出てくる小早川隆景とは???
3人兄弟の中でも非凡な才能をもって生まれてきたようです。
小早川家の菩提寺米山寺は、広島県三原市にあります。
小早川隆景の命日には、法要が行われています。
毎年奉納されているのは“やっさ踊り”。
小早川隆景の築城時のお祝いに踊り出し、400年にわたって続いています。

隆景は、子供のころに元春と雪合戦をした際・・・
一回戦・・・勇猛な兄に家来と立ち向かいますが、全くかないません。
二回戦・・・半分で元春にかかります。今度も歯が立たず、追いかけてきた兄・元春を、待ち伏せていた残りの半分に左右から挟まれ・・・隆景の勝利となりました。

勇猛で正面から戦った兄・元春、幼いながらも兵法で勝利した弟・隆景、その戦いぶりを見た父は、後にこの二人の性格を見据えた戦略を立てることとなります。
この時、長男・隆元は、周防の国に人質にされていました。
当時、中国の2大勢力は、大内氏と尼子氏。元就は、二つの勢力に挟まれた安芸・郡山城・4000石の小さな土豪で、尼子氏の庇護を受けていました。

ところが・・・大内氏への寝返りを・・・その証が、毛利隆元の人質でした。
それに怒った尼子氏は、3万の兵を率いて郡山城に押し寄せました。
守る毛利軍は3000・・・元就の戦法は、かつて雪合戦で隆景が行ったもの・・・敵をおびき寄せての殲滅でした。

この作戦は見事にはまり、尼子軍を苦しめます。
そして、陶隆房率いる大内軍1万が援軍に来ると、尼子軍を安芸から追い出すことに成功します。
元就の勝利が広まると・・・瀬戸内に面した木村城・小早川氏から元就の次男・元春を養子に欲しいという話が持ち込まれます。
元就にとって、戦うことなく瀬戸内に出ることが出来る!!こんなおいしい話はありませんが・・・熟慮の末、元春ではなく隆景を養子にしました。
その理由は・・・海賊行為をする者が多い手練れをまとめられるのは、まっすぐな元春よりも、策をめぐらす隆景の方が良いと思ったからです。
そして元就は、尼子氏と国境を接する小倉山城の吉川に元春を養子に出すことにしました。

隆景と元春・・・どちらも養子に行くとき、元就が念を押したのは、三本の矢の教えを忘れてはならぬというものでした。
これが後に毛利の両川と呼ばれることになります。

そして、さらに息子たちを使って勢力を広めていきます。
1551年毛利元就安芸国統一。
翌年・・・陶隆房が謀反を起こし、主君・大内義隆を自害させてしまいました。
陶につくか、大内につくか・・・

陶軍2万人、毛利3000人・・・

悪人・陶隆房を討つ!!

そして元就は、広島湾に浮かぶ宮島・・・厳島神社があります。。。そこを占領させ、要害山に城を築き守らせました。
対岸に陣を構えた元就は・・・3人の息子と作戦会議を始めました。
そこで・・・元就の作戦を非難し始めた隆景!!

「父上の作戦、全く理解できません。
 負けが決まったようなこの戦に、小早川の兵士を参加させることは出来ません!!
落とされるような城を築くとは・・・!!
毛利家だけのことを考えることは出来ん!!」

ところが評定のもようは、内通者によって陶側にもたらされます。
そして、厳島に上陸した陶軍2万は、後方の山間に陣を構えて攻撃をかけようとします。

しかしそれは、元就と隆景の芝居でした。
兵力の劣る毛利軍が勝つためには、小さいところに固めて動きを取りにくくすること・・・そこに勝機を懸ける以外になかったのです。
そして、隆景もう一つの仕事は・・・村上水軍を味方につけること。
当時300隻の船をもち、瀬戸内海の制海権をもっていたのですが、陶隆房も味方につけようとしていました。
普通ならば勝つ見込みのある陶軍につくのですが・・・
隆景は使者に・・・
「軍船300隻、1日だけお貸しいただきたい。
 それも、厳島へ着いたらすぐにお返しする。」
村上武吉
「1日だけとはどういうことだ!!」
「島につけば、勝てば島に残るし、負ければ討ち死にする覚悟、帰りの船はいらん!!」

この言葉を意気に感じ、村上水軍は毛利側に。
1555年10月1日厳島の戦い
東側からは、毛利元就、毛利輝元、吉川元春、西側からは、小早川隆景が上陸、挟み込むように陶軍に奇襲をかけて壊滅させました。

厳島の戦いに勝利し、大内氏の所領と瀬戸内海の制海権を得た元就は、吉川元春を主力に、尼子に対峙します。
そのさなか、毛利に不幸が・・・
1563年8月4日毛利隆元が亡くなります。享年41歳の若さでした。

あとは、隆元の息子・輝元が継ぎます。
隆景と元春を後見人・・・No,2としたのでした。
そして、初陣は・・・月山戸田城への総攻撃でした。
尼子氏をその軍門に下し、新しい当主・輝元の名を世に知らしめました。
この時、中国地方10か国を治める大大名となったのです。

病床に伏した元就・・・枕元に元春らを呼び・・・自分が死んだあとはこの中国10か国を守り、天下を争う戦いに参加してはならない・・・と言ったのです。
1571年6月14日没・享年75歳でした。

元就の遺言を守ろうとしていたのに・・・それを許さなかったのは、織田信長でした。
信長は、足利義昭を奉じて上洛すると、天下統一に向けて動き始めます。
姉川の戦いで浅井・朝倉を破り、長篠の合戦で武田勝頼に勝利、その勢力は中国地方へ・・・

司令官としてやってきたのは豊臣秀吉。
別所長春の守る三木城をおとし、播磨国を平定すると、備前・岡山城・宇喜多を籠絡、備中・高松城に侵攻を開始します。

高松城を落とされれば、織田に寝返る大名が続出し、中国地方においての覇権を失ってしまう!!そう思った隆景は、輝元・元春と共に、備中・高松城の救援に・・・
それは、父・元就の遺言を破ることになる・・・その最初の一歩でした。

秀吉の侵攻に対して、毛利は7つの城を造りました。

mo-ri.png

その最大が備中高松城・城主は清水宗治。
高松城は、沼地に囲まれ・・・城への入り口は一つ・・・守るにたやすく攻めるに難しい城として知られていました。

宗治は最後まで毛利に殉じる・・・と、3000の兵と立て籠もります。
秀吉の兵は3万。味方の兵を失わないために・・・秀吉は、近くを流れる川を使って城ごと水没させることにしました。水攻めです。
高さ7mの3kmに及ぶ堤をわずか12日間で完成させます。
雨が降り・・・堤の中に水が溜まり・・・湖が出来上がりました。
沼地であったために・・・

mo-ri2.png

2万の軍勢で応援にやってきた隆景は、この光景を前になすすべがありませんでした。
元春も・・・戦うことをせず、溺死させようとする秀吉を卑怯者と罵りますが・・・後のまつり・・・

さらに悪い知らせが・・・信長が、毛利と雌雄を決するために安土城を出発!!京都へ向かったというものでした。

三本の矢が集まって、軍議が開かれます。
隆景は・・・
「もはや・・・領地の半分を差し出して、宗治と兵を助けましょう」
しかし、輝元と宗治は反対しますが・・・説得され、和睦を申し入れますが・・・
秀吉は、ほとんど手中に入れているので、和睦の必要もなく・・・興味を示さなかったのですが・・・

しかし、突然秀吉は、清水宗治の切腹を条件に、和睦を申し入れてきました。
隆景は違和感を覚えながらも条件を飲み、宗治も自分の命と引き換えに兵が助かるならばと承服します。
小舟を浮かべ、毛利軍と秀吉軍の見守る中・・・
1582年6月4日清水宗治自刃。

隆景たちがその死を悼む中・・・織田信長が明智光秀に殺されたことに驚きます。
秀吉に騙されたことを知った元春は激怒、明智光秀と戦うために引き返す秀吉軍に追っ手をかけると言い出します。
この時、元春をいさめたのは隆景。

秀吉に、幟だけを届けます。
秀吉は、隆景の意図を理解します。
隆景は自分の勝利にかけている!!と。

父の遺言を破った瞬間でした。
その後、山崎の合戦で光秀を討った秀吉は天下人へと上り詰めていきます。
そして、後々まで隆景に感謝をし、毛利家の安泰を認めたのでした。

秀吉に認められた隆景は、朝鮮の役でも大きな手柄を立て、帰国後は、毛利輝元と共に五大老のひとりになりました。
そして、1597年6月12日65歳で亡くなります。
隆景の死から3年後、関ヶ原の戦いがおきます。

隆景の養子・小早川秀秋は、西軍から東軍へ寝返り徳川家康が勝利に貢献したとして、岡山藩55万石をもらいましたが・・・その2年後に病死。

秀秋は、秀吉の甥・・・養子先を探していた秀吉は毛利に目をつけます。しかし、それは困る・・・と思い、我が家に・・・と小早川家に招いていたのです。
そして・・・天下の戦に関わった小早川家は滅んだのでした。


三本の矢のもう一つ、吉川家・・・元春は病死、その息子・広家は、毛利輝元が西軍の総大将となることに反対します。
そして関ヶ原の際に、東軍につきます。その為家臣からは裏切り者と呼ばれます。
しかし、広家は裏切ったのではなく、家康が勝った時に毛利家が潰されないように着いたのです。
その証拠に、戦後の交渉で、家康が毛利家の改易を考えていると知ると、自分に与えられることになっていた周防・長門の2か国37万石を毛利家に譲り、自らは岩国3万石の領主となりました。

三本の矢の教えは、息子にも伝わっていたのでした。


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「敵は本能寺にあり!!」

しかし、この数年前まで、光秀は信長にとって最も信頼できる家臣でした。
明智光秀は、信長の家臣の中で一番最初に城持ち大名となりました。
その働きは凄まじく、軍事から朝廷まで、あらゆることに働き・・・
信長は三成のことを「粉骨の度々の功名比類なし」と言ったほどです。

家臣の筆頭格としてありました。

織田軍団にあって、スーパーエリートだった明智光秀、何故本能寺の変を起こしたのでしょうか?
そこには信長と光秀の・・・長きにわたる因縁の関係がありました。

それは・・・天下人・信長を生み出した明智光秀・・・光秀は足利義昭の家臣でもあったのです。

本能寺の変の時・・・信長49歳・秀吉45歳・光秀は54~55歳だったと言われています。
もっと年上だったかもしれません。
もともとは朝倉家や将軍家・・・いろいろと浪人時代も長い苦労人です。

明智光秀は、武将として優秀なのはもちろん、将軍家との交渉や朝廷との交渉・・・外交能力にも長けていました。
そして、領地を治める才能も・・・すべてを持っている武将でした。

光秀は、美濃の守護・土岐氏の一族の出身と言われています。
斉藤義龍によって国を滅ぼされ、諸国を放浪しながらさまざまな知識を習得しました。6年にも及ぶ流浪の末、朝倉家に仕えたものの、義景は凡人で、光秀の才能に気付くことなく官職にあえいでいました。
40歳頃だった光秀、人生はこんなもんかと思っていた時、思わぬチャンスが・・・
足利13代将軍・義輝が、松永久秀と三好一族に殺されるという事件がおきました。
弟・嘉昭は京を逃れ・・・朝倉家に助けを求めてやってきました。

放浪中に、足利家の側近と親しくなっていた光秀は、動き出します。

足利義昭は、朝倉義景に京に上洛し、自分を将軍につけてくれるようにと頼みます。
が・・・実力も野心もなかった義景・・・

イラつく義昭側近の細川藤孝に近づいた光秀は、進言します。
「朝倉に頼んでも・・・
 今の朝倉には、武力も知略もかけております・・・

 尾張・織田信長!!
 義昭様が後ろ盾として頼るべきは、この者をおいて他にはございませぬ!!」

当時、終わりを平定し、勢いに乗る信長・・・なぜ信長だったのか???
光秀は、信長の正室・濃といとこの関係にありました。
自分が交渉役に・・・という計算があったのかもしれません。

そして、信長は実力主義者・・・
それまでは、家とは同族会社のようなもので、縁故なものしか入ることが出来ませんでした。しかし、信長は、実力のあるものを採用します。
傭兵のような形になったのは、信長からなのです。

足利幕府再興の為に・・・

足利義昭は、自らの使者として光秀を信長のもとへ・・・
天下を狙う信長にとっては、渡りに船のことでした。
同時に信長は、光秀の才能を見抜き、自らの家臣となるように勧めたのです。
1568年明智光秀を介して信長は、足利義昭に会うことになります。
そして、その2か月後には上洛、3か月後には義昭を15代将軍に押し上げました。

わずかの間に現実となった天下統一・・・信長の全国デビューの仕掛け人は、明智光秀だったのです。

そして、足利義昭の側近と共に信長の家臣という、異例の処遇を受けます。
信長からは、京都奉行を任され、朝廷や公家たちの接待を任されます。
新参の家臣としては、異例の抜擢です。

学識があり、和歌も読める。京都で通用するのは光秀。。。

しかし、やがて2君に仕えたことが、光秀の苦悩となっていきます。

義昭と信長・・・その橋渡しをすることで立場を守ってきた光秀・・・
しかし、2人の間に対立が出来てきます。

将軍になったからには自らがTOPとなれると思っていた義昭。
そんな義昭を、天下取りの道具としか思っていなかった信長。

光秀は二人のはざまで・・・

義昭は将軍として、各地の武将たちに書状を出し始めます。
これを苦々しく思った信長は・・・
「諸国へ御内書を以て
 仰せ出さるる子細あらば
 信長に仰せ聞せられ
 書状を添え申すべき事」
と、厳しく制限します。

この五箇条の条書には、光秀も承認役として・・・義昭を説得します。
義昭の為に信長を推薦した光秀が、義昭を説得する・・・
その心中は複雑だったでしょう・・・

それに反発した義昭は、武田・朝倉・浅井・比叡山・石山本願寺などに信長討伐を!!と、考え始めました。

将軍の統制のもとに世を治めるのがわが理想・・・
しかし、今の将軍家には、名こそあれ力はない・・・
力を持っているのは信長様・・・
私の出世は・・・
名を取るか、実を取るか・・・
結局光秀は、信長の家臣であることを選びました。

比叡山攻めを高く評価してもらった光秀は、信長から滋賀県大津にある坂本城を与えられます。光秀は、信長の家臣の中で、一番最初に一国一城の主となったのです。
信長の最も近いところに守っている光秀は、信長の近衛軍団でもありました。
最も信頼しているからなればこそでしょう。

坂本は、比叡山の門前町として栄えていました。
信長は、町中にも火を放ち・・・山へと追いやったのですが・・・
今でも光秀の評判はいいようです。
西教寺を再興し、ここを菩提寺にしました。
自ら滅ぼした寺を、自らの手で復活させたのです。
この地の人は、今、光秀の名誉復活の活動をしています。

光秀は西教寺以外にも、町を復興しています。
比叡山攻めは、彼の本心だったのでしょうか???

この頃は、信長の家臣であったものの、義昭からのラブコールもまだありました。
そんな中、1572年武田信玄が上洛に動きます。

信長に最大の危機が!!

この時、足利義昭から光秀に・・・
「将軍家に尽くさば 美濃の守護に任じる」
という書状が届いたと言います。

光秀は・・・
天下の主導権は信長にあると解っていました。
だからこそ義昭に、和睦を薦めます。

結局義昭は・・・
1573年信長に京を追放されてしまいます。
理想を棄てて、実利を取った光秀でしたが・・・

信長の家臣として粉骨砕身頑張る光秀。
1579年4年がかりで丹波の国を平定、その間も、近畿方面の様々な戦いに援軍として参加(越前・伊丹・石山本願寺・雑賀)、京都での朝廷との交渉もしていました。
まさに、“粉骨のたびたびの功名比類なし”です。

が・・・信長はリストラもどんどんしていきます。
古参の佐久間信盛は・・・
「光秀の功名は聞こえど、おぬしの功名は一度も聞いたことがない。
いっそのこと討ち死にするか、剃髪して高野山にでも行け」
と、追放してしまったのです。

古参に対しても容赦のない信長・・・
存分に働けるうちはいいが、働けなくなったら・・・???
自分もいつ切り捨てられるか・・・

事実、丹波平定の後、3年間は戦働きの任を与えられませんでした。
1582年信長は武田氏を滅ぼします。が、光秀に参戦の機会なし。
そうした焦りからか・・・戦勝祝いの席で・・・
「これでわれわれも骨を折ったかいがあった・・・」
これを聞いた信長は・・・
「お前に何の骨折りがあった!!」
と、激怒!!幾度も光秀の頭を欄干に打ち当てたとか・・・!!!

本当でしょうか???
これは後世の作り話だとか・・・???
かなりの屈辱です。
1582年3月・・・本能寺の変の3か月前のことでした。

急速に狂い始めた歯車・・・
1582年5月、信長は、長宗我部元親の討伐を決意します。
実は、光秀は、長宗我部と長年友好関係にありました。
しかも、討伐軍は、光秀ではなく三男の信孝でした。
光秀から息子たちへ・・・世代交代を始めていたのでしょうか?

5月12日誕生日に、信長は、「神格化宣言」を配布します。
同時に、信長の非情さも激しくなっていきます。
殺戮に対しての躊躇が無くなっていきます。

5月15日光秀は、安土城にやってきた徳川家康の饗応接待役を務めます。
しかし、6日後・・・5月21日には秀吉の援軍を命じられるのです。
その際・・・光秀の領地だった丹波を召し上げ、毛利領である出雲・石見を与えると告げたのです。
この国替えは、光秀にとっては左遷人事に思えたでしょう。

運命の6月1日、丹波亀山から1万の兵を従えた光秀は、中国地方に向かわずに京の本能寺へ・・・
どうして光秀が・・・
主君を討つには相当の覚悟がいったことでしょう。
しかし、足利義昭に引き合わせたのは自分・・・
そのことで、尾張の一地方から天下の織田信長としたのは自分だった・・・
そんな後悔の念があったのかもしれません。
その後悔の念が、光秀を本能寺に向かわせたのかもしれません。

討ち取った後、友人への手紙には・・・
「信長親子の悪虐は天下の妨げ討ち果たし候」
と送っています。


信長を討った光秀は、中国から取って返した秀吉によって三日天下で終わります。
しかし・・・京都には、光秀の首塚が残されています。
そして・・・
明智光秀は、理想主義と現実主義を兼ね備えた武将でした。
文武両道で引き出しも多く、やるとなったらあらゆる仕事をパーフェクトにこなす、主君にとっては理想的なNo,2だったと言えるでしょう。

しかし、そんなスーパーエリートこそが、キレやすく壊れやすい・・・
理想と現実をバランスよく保っていられるほど、人は強くないのです。


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私にとってはいわくつきのTHEナンバー2岩倉具視です。
前回、あまりにも難しすぎて、レポートに失敗というか、断念してしまいました。

今回はどうなることやら???
そう・・・今思えばご意見番は加治将一さんでしたあせあせ(飛び散る汗)

岩倉具視 (幕末維新の個性)

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時代が江戸から明治へと大きく動いていた京都洛北で・・・
密談する男たちがいました。
薩摩藩士・大久保一蔵(利通)・長州藩士・品川弥二郎・・・そこにいたのは、粗末な着物に粗末な家・・・ふてぶてしい顔を持った男・岩倉具視でした。

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階級制度の厳しい公家の世界にあって、下級公家だった岩倉具視・・・
彼は、自らの裁量で道を切り開き天皇の侍従に・・・、皇女和宮の御成婚まで成し遂げます。
しかし、権力闘争に敗れ、岩倉村で幽閉・蟄居していたのです。
が・・・その間も意見書を書きまくり、倒幕、王政復古の策をめぐらせていました。
彼が夢見た新しい世界とはどんな世界だったのでしょうか???
彼は、明治維新の立役者でしょうか?
それともとてつもない野望を抱いた策謀家なのでしょうか???


彼が歴史の表舞台に現れたのは・・・
黒船から5年たった1858年・・・
京都御所が物々しい雰囲気になっていました。
幕府の老中・堀田正睦が通商条約締結の勅許をえるために宮中に参内・・・関白の九条尚忠が条約の議案を提出したところ88人もの公家が集まり、撤回を求めたという・・・
いわゆる“廷臣八十八卿列参事件”です。
公家が許可もなく宮中に参内することは前代未聞のことでした。

事件のせいで、関白・九条尚忠の求心力は低下、九条に取り入ろうと・・・通商条約のお墨付きをもらおうとしていた堀田正睦の目論みはご破算となりました。

その・・・首謀者こそ、岩倉具視でした。
下級武士の岩倉がどうして・・・???
実は、これは用意周到に計画されていたものでした。
宮中において関白は、殿下と呼ばれ、公家社会最大の権力者で・・・天皇でさえその意見に反対することは困難でした。

老中・堀田も九条に対し“手入れ”として・・・およそ3万5000両も用意したと言います。
しかし・・・それを快く思わなかったのが、先の関白・・・“鷹司正道”。
自分にあいさつもなく、堀田が九条にすり寄っている・・・
蔑にされたことを恨んでいました。

頭が回り、弁も立つ・・・しかし下級武士の岩倉は・・・
40歳を目前に冷や飯ぐらいでした。
そこで・・・鷹司に・・・“歌道の弟子”となることで近づきます。

そんな岩倉にとって千載一遇のチャンスが!!!
水面下で鷹司の命を受けた岩倉・・・
密かに走り回り・・・88人の公家列参をやり遂げます。
そして、上司・鷹司の敵・九条を引きずり下ろすことに成功しました。
華々しい政界デビューでした。

岩倉が行った“廷臣八十八卿列参事件”によって、堀田正睦が失脚・・・
堀田を立てて息子・慶喜を将軍に・・・と企んでいた徳川斉昭の力が低下・・・
それに乗じて反対派の井伊直弼が大老として躍り出ます。

井伊は、天皇の勅許を待たずにアメリカとの条約に調印・・・
斉昭は天皇の命で井伊を失脚させる“戊午の密勅”で反撃しようとするも・・・井伊に握りつぶされてしまいます。
そして、井伊の勢いは止まらずに・・・安政の大獄へ・・・。
しかし、その井伊も 桜田門外の変で暗殺されてしまいます。

安政の大獄の余波は、宮中にもおよび・・・
鷹司も・・・
しかし・・・この時、岩倉は・・・
すでに岩倉の妹・堀川紀子が孝明天皇の側近となり、寵愛を受けて。。。
紀子が天皇との間に女児を設け・・・その口利きで天皇の近習となっていました。

当時、天皇には大きな悩みがありました。
幕府と朝廷を・・・公武合体しようとする考えのもと・・・和宮との婚姻を進めようとする幕府・・・しかし、これは有史始まって以来の朝廷の危機でした。
心を許せるのは・・・紀子の兄・・・岩倉具視のみ・・・。


天皇「そちはどう思う?」
岩倉「ご心配なさいますな。
   和宮の御降嫁をお進め下さい・・・。」

岩倉は、水面下で幕府側・・・所司代・酒井忠義と接触し、幕府の力の衰えと、朝廷に力をすがろうとしていることを掴んでいました。
こうして、意見書にもまとめられ、和宮の降嫁が決まりました。
そして岩倉は、下級公家であるにもかかわらず、天皇の勅使を受け、幕府側との交渉に臨むことになるのです。
皇女・和宮降嫁でスポットライトを浴びる岩倉具視。。。
和宮を降嫁させるときに内親王にして降嫁させます。
内親王とは、天皇の皇女およびその姉妹ということで・・・将軍よりも位が上となります。
つまり、家康以来、幕府との関係が反転することになったのです。

宮中で幕府に最も顔が利く男となった岩倉・・・
その存在は大きくなっていきました。
そこに目をつけたのが・・・薩摩。
ライバル長州が長井雅樂を使って公武一和を進言・・・
島津久光の命により大久保利通が岩倉に近づきます。

1862年4月16日・・・
会合の後、寺田屋騒動がおきます。
さらに九か条の献策を持って江戸へ・・・
維新に向け薩摩の構成を裏で操っていたのは岩倉でした。

しかし・・・奈落の底へ。。。
三条実美・綾小路公知らの33人の連署によって突然蟄居が言い渡されます。
理由は、幕府・酒井忠義に内通し、公家側の秘事を漏らしたから・・・というものでした。
妹・紀子も隠居させられていました。
近衛忠煕が関白に返り咲くと、九条尚忠への意趣返しが始まったのです。
そして目障りとなったのが岩倉だったのです。
此処には孝明天皇が自ら三条に傾く条件もありました。
三条実美らは絶対の攘夷派・岩倉は、幕府に近いのでどちらかというと開国派だったのです。

京のはずれに逃げ込んだ岩倉・・・
しかし、虎視眈々と時期を狙っていました。
その間5年・・・
その間に・・・時代は刻々と変わります。
長州、薩摩・・・そして、三条らの七卿落ち・・・
西郷・大久保・桂・坂本・中岡・・・

寒村に押し込められていた三条は、意見書を書きます。
ここで、薩長連合を説いています。

う~ん・・・ここら辺から頭がこんがらがってきました。
だいたい岩倉具視ひとりでそんなことができるのか???
よく考えるととっても不思議・・・
失恋

岩倉具視・大逆転を狙う乾坤一擲の策は・・・???相手は将軍・慶喜。

そう、相手は慶喜・・・って、どこまで黒幕なんだ・・

1867年12月8日・・・日本が変わる48時間が始まりました。
この日、京都御所では・・・大名や公家たちの官位普及や赦免を行うことになっていました。出席者は有力公家たちと薩摩などの大名・・・
しかし、慶喜は病気を理由に会議の席には着きませんでした。
孝明天皇崩御の恩赦により蟄居の解かれた岩倉は・・・
次の間に控え・・・会議は朝方終了。
はれて宮中入りを認められた岩倉は・・・上奏文を読み上げます。
政治革新についての文書です。
そこには、幕府だけではなく・・・摂関政治をも廃止にするというものでした。
時を移さず会議が・・・
将軍のいないままに話が進んでいきます。

慶喜と、二条摂政がいない欠席の場で、“幕府廃止”と“摂政廃止”が決まってしまいました。
岩倉が練り上げた秘策の秘・・・それは、王政復古だったのです。

260年続いた徳川を倒すのではない・・・平安より続いた朝廷の摂関政治をも終わらせるのだ!!
それは、才覚さえあれば、下級公家の岩倉も、下級武士の大久保も政治の中枢に登ることが出来る!!そうなった瞬間でした。


加治将一さん・・・「天下の西郷」「天下の岩倉」とか言ってましたが・・・後から見たら天下の・・・ですが、この時“天下の・・・”だったんだろうか???

岩倉具視最大の疑惑・・・それは・・・
明治新政府のNo,2となった岩倉が・・・1871年岩倉使節団としてアメリカ・ヨーロッパを訪問、不平等条約改正の予備交渉と、西洋文明の調査を行いました。
そのメンバーは・・・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文・・・明治の世を切り開いた人たちでした。
ここに、龍馬がいたならば・・・


出た~!!龍馬暗殺説!!
またまた加治さんならではです



しかし、中岡慎太郎と、岩倉具視の画策・・・幕府を倒すためには・・・幕府を生かそうとする龍馬は邪魔者になっていたのです。
近江屋で暗殺された竜馬・・・
もし、中岡が龍馬暗殺に関わっていたとしたら???

岩倉具視が関与していた???

と、何でもかんでも岩倉具視さんが黒幕で終わってしまいました。失恋

龍馬暗殺説に関しては、京都見廻組が有力です。
どうして高らかに発表しなかったのか??
それは、龍馬と一緒に関係のない中岡慎太郎が殺されたから・・・
という説まであります。
ま・・・中岡慎太郎の何が関係ないの???っても思えますが・・・
そこをあーだこうだというのが面白いのですが黒ハート

そうだ・・・だから、頭がこんがらがるんだ・・・失恋
たくさんの草莽がいて、その時代のうねりに逆らうことは誰もできなかったと・・・
私はそう思うのです。
例えそれがみんなの好きな坂本龍馬でも、私の大好きな土方歳三でも・・・あせあせ(飛び散る汗)

一人の人の頭で仕上がるなんて・・・あんまり考えられないなあ・・・失恋


って、中立にレポートできませんでした。
ごめんなさい・・・たらーっ(汗)


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1586年(天正14年)10月27日、この日、豊臣秀吉と徳川家康とが大阪城で対面します。

この時、家康は秀吉の前で頭を垂れ、恭順の意を示しました。
天下はなった・・・秀吉は、家康の為の新しい屋敷の図面を差し出します。

家康がその図面を見ると、公家の館のように優美な施しがなされ、秀吉の家康に対する心配りがされていました。が・・・絵図面にはないものが作られていました。

その真意を問うために、その男を呼び出した家康・・・
「設計図にない堀や門を、貴殿の一存で作ったと聞いたが、
 どのような理由で作ったのか?」

それに対し男は・・・
「京洛は、近頃平穏とはいえ何時不測の事態が起こらないとも限りません。
 徳川殿のお屋敷が、公家の如きものであっては不用心と思い
 私の一存で掘りと門を加えさせてもらいました。」

と、答えました。
絵図面を見たときから不用心だと思っていた家康・・・
秀吉の意見を聞かずに堀と門を加えたことに感心しました。
その男こそ、藤堂高虎でした。
幾度となく戦場を潜り抜けてきた強者でした。

「藤堂殿、心遣いかたじけない
 貴殿の名前、家康覚えておきますぞ」

この言葉から14年後・・・関ヶ原、天下統一へと進んでいく家康。。。
その裏には、家康のNo,2藤堂高虎がいました。 

そもそも近江の国の人です。
侍としてはなかなか主君が決まらずに浪人もし、苦労しました。
当時は、自分の国の人しか採用しなかったようで、よその国の人を採用した最初の人物は織田信長でした。

徳川家康が生まれた岡崎と伊勢湾をはさんで対岸にある三重県津市。かつて伊勢津藩32万石の初代領主が藤堂高虎でした。
居城だった津城・・・高虎は、築城の名人として有名でした。
彼が創った建造物は、城だけでも20以上あります。
江戸城・今治城・宇和島城・津城・伊賀上野城・和歌山城・膳所城・大洲城・伏見城・篠山城・大阪城・・・etc.
今でもあるお城もたくさんあります。

tora2.png

津城も、関ヶ原で焼けてしまった城を高虎が大改築しました。
この城、1580年~1600年の間、織田信包や冨田氏の城でした。
しかし、藤堂高虎が城を拡張します。石垣の石積みが見てわかる程違うのです。それくらいきれいに改築しています。

津城に入って3年後、25m城壁を延長・・・その後、大坂の陣が始まっています。
当時の変わった手法を使っています。
布積は格子状に並べることで、見た目の美しさと強度を強くすることが出来ます。
谷積は、V字型の谷を作るように積み上げています。
城壁の隅には、算木積。長方形の石で交互に角を作ることで、石垣の一番重要な角を強くします。

高虎は、この方法を安土城の建設現場で学んだと言います。
安土城は、当時の最新式のお城。
穴太積みと呼ばれる自然石をそのまま積み上げた技法で、穴太衆が手掛けた積み方でした。
そこで働き、自分の腕を磨いたのです。


もともと浅井に仕えていた高虎。15歳で初陣・姉川の戦いで兜首を取ります。長政に脇差をもらう活躍をしますが、結局は負け戦。

その後、各地を放浪し・・・21歳で城づくりを学ぶために安土城の建設現場へ・・・。
高虎は、その現場で人生を変える男・羽柴秀長、秀吉の弟に出会います。
秀長は、内政から軍事外交まで秀吉を支え、秀吉のNo,2だった男です。

藤堂高虎が秀吉ではなく、No,2だった秀長に仕えたこと・・・それが、彼の人生に大きな影響を与えました。
当時、織田信長の家臣でしかなかった秀吉が、秀長のサポートを受けながら天下統一へと邁進していきます。

どの合戦でも先頭に立って働く高虎は、秀長の厚い信頼を得ていきます。
そして、四国平定が終わったとき・・・高虎は押しも押されぬ1万石の大名になっていました。
その後も、秀吉の天下統一を支え続ける秀長を横に見ている高虎・・・次第に大きな夢が膨らんできました。
自分もNo,2となり、主君を支える大きな仕事がしたい!!と。

そして、自分の望みをかなえてくれる器量を持っている大名を探し始めました。
そこに現れたのが、徳川家康。
1584年小牧・長久手の戦いでおよそ10倍の兵力の秀吉軍に対し、一歩も引かず、それどころか秀次軍を敗走させました。

家康の非凡な才能を見つけた高虎。

1591年1月22日豊臣秀長が亡くなります。
藤堂高虎を高く買っていた秀吉は、四国・伊予宇和島に7万石を与えて直参大名にします。
そして・・・1597年高虎渡朝。。。伊予水軍を率いての朝鮮出兵です。

高虎は、参加した戦いに勝利し1万石の加増となりましたが・・・
それは、苦労の割には少ないものでした。

ところが、その戦いに勝利したことが後に幸運をもたらしました。
もたらしたのは家康。時は秀吉が亡くなってからでした。

朝鮮から兵を引いてくるのに誰を遣わすのか???
これだけの大仕事をやるのには・・・
石田三成や前田利家が頭を悩ます中、家康の頭の中には高虎が。。。

「勇気があり 知恵があり 
 朝鮮の地理を知る藤堂殿こそ適任である」

家康の推挙を受け朝鮮へと渡った高虎は、福島正則・黒田長政などを無事に帰国させることに成功します。
このことが、二人を深く結びつけ、歴史を動かす布石となりました。

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高虎の兜は、“唐冠形兜”と呼ばれ、秀吉の物を高虎に下げ渡され、高虎の従兄弟にあげた物。左右に張り出しているのは“纓”と呼ばれるもので、ウサギの耳を表しています。
その長さ、片方だけで83㎝もあります。

秀吉から兜を与えられるまでになっていた高虎・・・しかし、その秀吉の死が高虎の転機となります。
1600年、ついに徳川家康が動き出します。
対立していた五大老のひとり上杉景勝を討つために討伐参加を呼び掛けます。
その檄文は、高虎の元へも・・・
かねてから、天下人になり得る主君を求めていた高虎は、その檄文で自分に必要な人は誰なのか・・・それがはっきりしました。

高虎は家康の信頼を得なければなりません。
東へ向かう家康の元へ、石田三成が挙兵したとの知らせが入ります。
翌日、今後の方針を決める小山評定が開かれます。
この会議で家康が恐れていたのは、福島正則など・・・秀吉恩顧の大名の動向でした。
未だ家康は豊臣家の五大老のひとりでしかない。。。
もし、誰かが秀吉への恩義を口にしたら???
三成に参加すると口にしたら???
その時・・・真っ先に発言したのは、高虎でした。

「家康殿のもとを離れ、三成に味方するのであれば、 
 なぜこの地まで参りましょう。
 我々の中に二心を持つようなものはこざらん。」

この高虎の言葉に、福島正則、黒田長政らも賛同し、一気に三成打倒に傾きました。
この時、関ヶ原の勝者が決まったのかもしれません。

1600年9月15日関ヶ原の戦い
西軍8万2000、東軍7万4000が激突しました。
西軍有利かと思われたこの戦い、小早川秀秋、脇坂安治らの寝返りによって家康が勝利。

この時、高虎は、家康勝利の決定的な働きをしていました。
あらかじめ・・・滋賀県出身の大名や、小早川秀秋の説得交渉をしていたのです。
まさしく参謀としての働きでした。

関ヶ原に勝利した家康は、四国・伊予20万3000石を高虎に与えます。
高虎は得意の建築術を使い、今治城を完成させ、藩政に力を注ごうとします。

が・・・突然家康に、伊賀上野への国替えを命じられました。
無謀かと思われるこの考え・・・しかしそれは、家康が高虎をNo,2として認めていた証拠だったのです。

そして高虎に、関ヶ原の戦いで焼けてしまった伊賀上野城の再建を命じます。
これには、家康の深い考えがありました。
伊賀上野に流れる服部川・・・この川を下っていくと・・・家康が最も気になっている大坂へと続いていたのです。

関ヶ原で天下を手中に入れた家康・・・しかし、気がかりなことがありました。
大阪城にいる秀頼と豊臣恩顧の大名たちです。
彼らを取り除かなければ・・・それが、伊賀上野城の再建だったのです。
伊賀上野城の特徴は、深い堀と高い石垣です。
これは、家康の命令によって高虎が造ったものです。

家康は。。。
「大坂方との戦いに敗れた時、
 私は伊賀上野城に籠り再起を期すつもりだ。
 お主は得意の築城術を駆使して、堅牢無比の城を造ってくれ。」

と言ったといいます。

この命を受けた高虎は、高さ30m・全長368mもある城を、わずか1年で築城しました。

大坂の陣は、伊賀上野城に籠城することもなく・・・
1616年豊臣家滅亡という形で終わりを告げます。

そして戦ののち・・・家康は秀忠に、藤堂家を末代まで伊賀上野城から国替えをしてはならぬと命じました。
関ヶ原の戦いから豊臣家が完全に滅ぶまで、16年もかかっています。
西国に睨みを利かせるために・・・第2次関ヶ原の為に・・・
彦根には井伊家を、伊賀上野には藤堂家を・・・この二人の信頼しておいたのです。


では・・・どうして家康は高虎を重用したのでしょうか?
それは、天下人になるためには子飼いではない新しい力が必要だったのです。

家康は天下統一のもと・・・江戸城の普請から町の整備まですることになります。
そして、江戸城築城にも高虎は関わることになるのです。

藤堂高虎は、家康から屋敷を建てるためにもらった土地に名前を付けます。
それが・・・“上野”です。
異論もありますが・・・ここには、車坂・不忍池など、伊賀上野にちなんだ名前があります。

No,2としてのエピソード・・・
晩年高虎は、秀忠に二条城の改築を依頼されます。
高虎は精魂込めて図面を書きあげます。
そしてもう一枚・・・
二枚とも秀忠に渡します。その理由は?

「一枚しか提出しなければ上様は私が書いたものを承認することになる。
 しかし、二枚から選ぶのであれば、上様が考えたことになる。
 大切なのは、いかなる時も家臣の分をわきまえ主人を立てることだ。」

この気遣いこそが、外様でありながら家康の厚い信頼を得ることになったのです。

高虎は家康亡き後も・・・秀忠・家光も、度々城に呼び出し話を聞きます。
晩年高虎が目を悪くし、廊下を曲がるのに苦労していたと聞き、家光は廊下をまっすぐに改築させたと言います。

徳川家三代に仕えた高虎は、10月5日波乱の生涯を閉じました。
享年75歳、それは奇しくも主人と仰いだ家康と同じ年でした。

高虎が秀忠に残した国を治める教訓が残っています。
一つ、国を治めるには人を知ることが肝要である
   人の長所・短所を見極め適材適所に配置せよ
一つ、信用できると思ったらとことん信じよ
   上が下を疑えば下は上を疑う
   お互いが疑えば国の題字も人々は協力せず君主は孤立する
一つ、讒言により国が亡ぶ側は古来より多々ある
   上に立つものは讒言には耳を貸すな。

でした。


なんと、No,2というにふさわしい男でしたね。黒ハート

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